生命・健康・心理・教育防災教育
いつもの場所で備える——防災教育と公園という学びの場
要旨
本稿の目的は、防災教育という営みの基本的な考え方を整理し、日常の遊び場である公園を防災教育の教材として読むための枠組みを示すことである。方法は文献整理と概念分析であり、自助・共助・公助という三つの助け合いの区分、率先避難者たれという行動原則、まち歩き型学習と防災マップづくりという体験学習の手法、そしてジョン・デューイの経験学習論を軸に検討する。
検討の結果、次の点が示される。第一に、防災教育は災害の仕組みを教える防災学とは異なり、住民が自ら考え行動できるようになることを目指す教育学的な営みであること。第二に、率先避難者たれという原則やまち歩き型学習は、知識の暗記ではなく体験と対話を通じて判断力を育てようとする点で共通していること。第三に、公園が遊び場であると同時に避難場所でもあるという二重性は、恐怖によってではなく日常の親しみを土台にして防災を学ぶ好機として捉え直せること。
最後に、磐田市の都市公園100園を防災教育の教材という観点から読み、街区公園51園を身近なまち歩きの目的地、地区公園4園や総合公園3園を広い集合の場の候補として位置づける。ただし当サイトのデータには避難場所としての指定の有無は含まれておらず、現地の踏査もこれからである。個々の公園が避難場所に指定されているか、どのような危険があるかは、市のハザードマップや「災害リスクを知る」で確かめる必要があり、本稿はそのための見方を提供するにとどまる。
キーワード防災教育自助・共助・公助率先避難者まち歩き型学習防災マップ避難場所磐田市
1. はじめに——問題の所在
都市公園は、子どもが遊び、大人が体を動かし、樹木や花壇が四季を伝える場所である。同時に、多くの市町村の地域防災計画では、公園は避難場所や避難路の一部として位置づけられており、看板や地図に「避難場所」の文字が記されていることがある。ふだんの遊び場という顔と、非常時に人の命を支える場所という顔を、住民、とりわけ子どもはどのように受け止め、どのように備えればよいのか。この問いに答えようとする営みが、本稿の主題である防災教育である。
防災教育は、地震や水害の仕組みを解き明かす防災学とは目的が異なる。防災学が「災害とは何か、どのような対策が有効か」を明らかにする学問であるのに対し、防災教育は「人がその知識をもとに実際に考え、動けるようになるにはどうすればよいか」を課題とする、教育学・心理学に近い営みである。同じ避難場所の看板を前にしても、それを暗記すべき情報として受け取る人と、いざというとき自分の判断で使える知恵として身につけている人がいる。両者を分けるものが防災教育の対象であり、本稿はその考え方の骨格を整理する。
防災教育の骨格としてしばしば語られるのが、自助・共助・公助という三つの助け合いの区分である。自分の身を自分で守る自助、近隣や家族どうしが助け合う共助、行政や消防が担う公助——この三つは対立するものではなく、災害の直後ほど自助と共助の比重が大きくなるという時間的な役割分担として理解されている。さらに、東日本大震災の津波避難をめぐって語られてきた「率先避難者たれ」という行動原則や、まち歩きをしながら地域の危険と資源を確かめる体験学習の手法も、防災教育の重要な柱である。本稿はこれらの考え方を順に整理したうえで、遊び場でもある公園にどのような教育的な意味を見いだせるかを検討する。
問いは三つに整理できる。第一に、防災教育はどのような基本原理によって組み立てられているのか。第二に、率先避難者たれという行動原則やまち歩き型学習は、なぜ知識の暗記ではなく体験や対話を重んじるのか。第三に、公園が日常の遊び場であると同時に避難場所でもあるという二重性は、防災教育にとって都合の悪い矛盾なのか、それとも活かすべき条件なのか。この三つの問いに答えることで、身近な公園を「学びの場」として見直すための視点を提供したい。
これらの問いを考えるにあたり、本稿はあえて公園そのものの防災上の性能——たとえば延焼を遮るか、どれだけの人数を収容できるかといった論点——には深く立ち入らない。それらは既刊の別稿が防災学の視点から論じている主題であり、本稿の役割は、性能を評価することではなく、その性能をどう学び、どう使えるようにするかという教育の側面を扱うことにある。防災学が公園を「機能する装置」として見るのに対し、防災教育は公園を「人が育つ場」として見る。この視点の違いを明確にしておくことが、以下の議論を読み進めるうえでの助けになるはずである。
方法は文献整理と概念分析である。用いる資料は、防災教育に関する公的な指針、教育学の古典、そして広く知られた実践者の著作に限る。存在に確信のない研究や、具体的な確率・件数・金額といった数値は挙げない。医学や安全に関わる判断は本稿では行わず、実際の避難行動や健康上の判断は自治体や医療機関など関係機関の情報に従うべきことをあらかじめ明記しておく。恐怖をあおる表現によって行動を促すことも本稿の立場ではない。防災教育において恐怖は長続きする動機にならないというのが、後述する先行研究のひとつの含意でもある。
防災教育という言葉が日本で広く使われるようになった背景には、1995年の阪神・淡路大震災と2011年の東日本大震災という二つの大きな災害の経験がある。阪神・淡路大震災は、近隣どうしの助け合いという共助の重要性をあらためて浮かび上がらせ、東日本大震災の津波避難は、日頃からの訓練と一人ひとりの主体的な判断が命を分けることを示したとされる。本稿で扱う自助・共助・公助の区分や率先避難者たれという原則は、いずれもこうした災害の経験を踏まえて整理されてきた考え方である。防災教育を歴史から切り離された抽象的な理論としてではなく、具体的な災害の経験の蓄積として理解しておくことは、本稿全体を読むうえでの前提になる。
本稿が想定する読者は、磐田市周辺で子育てをしている世代、行政の担当者、地域の防災活動に関わる人々、そして防災教育や公園について学ぶ学生である。専門家に向けた精緻な議論よりも、身近な公園を歩くときにどのような視点を持てばよいかという、実践に近い問いを優先する。したがって専門用語は初出のところで説明を加え、制度の細部よりも考え方の筋道をたどることを重視する。
構成は次のとおりである。第2節で防災教育の先行研究と基本概念を整理し、第3節で率先避難者たれという行動原則を検討する。第4節ではまち歩き型学習と防災マップづくりという体験学習の手法を取り上げ、第5節で公園が遊び場と避難場所という二つの顔を持つことの教育的な意味を論じる。第6節では恐怖をあおらない防災教育のあり方をめぐる反論に応答し、第7節で学校・家庭・地域という三つの場における防災教育を比較する。第8節では磐田市の公園100園をこの枠組みで読み、第9節で結論と今後の課題を述べる。
本稿の題名を「いつもの場所で備える」としたのには理由がある。防災という言葉は、特別な訓練や非常持ち出し袋の準備といった、日常から切り離された行為を連想させやすい。しかし本稿が整理しようとする防災教育の考え方の多くは、特別な日にだけ行う行為ではなく、いつも通っている道やいつも遊んでいる公園のなかに、少しずつ組み込んでいくことのできる小さな習慣として語られている。公園という「いつもの場所」を手がかりにすることで、防災教育を非日常の行事から日常の延長へと引き戻せるのではないか、というのが本稿を貫く仮説である。
なお、当サイトATAWI PARKは磐田市の都市公園100園のデータベースであり、現地の踏査はこれからである。したがって本稿は、どの公園が避難場所に指定されているか、どのような危険があるかを断定するものではない。それらは市が公表するハザードマップや「災害リスクを知る」といった資料で確かめるべき事項であり、本稿はその確認作業に先立って必要となる「見方」を提供するにとどまる。
2. 先行研究と概念の整理
防災教育を論じるうえで欠かせない先行研究の系譜は、大きく二つに分けられる。ひとつは、災害対策の制度や計画のなかで語られてきた自助・共助・公助という区分であり、もうひとつは、教育学における経験学習の理論である。本節ではこの二つを順に整理し、第3節以降で扱う率先避難者たれという原則やまち歩き型学習の土台とする。
2.1 自助・共助・公助という区分
自助とは、自分や家族の身を自分の判断と備えで守ることを指す。共助とは、隣近所や職場、学校といった身近な集団のなかで助け合うことを指す。公助とは、市町村や消防、警察、自衛隊といった公的な機関が行う救助や支援を指す。中央防災会議の防災基本計画をはじめとする国の防災に関する考え方では、この三つが災害対応の基本的な役割分担として位置づけられている。
重要なのは、三者に優劣があるのではなく、時間の経過とともに比重が移り変わるという点である。地震の直後、公的な機関がただちに一人ひとりの安全を確保することは物理的に難しい。したがって発災直後は自助と共助が命を左右し、時間が経つにつれて公助の役割が大きくなっていくと理解されている。防災教育がまず自助と共助に重点を置くのは、この時間的な役割分担を踏まえてのことである。
| 区分 | 主体 | 防災教育での位置づけ |
|---|---|---|
| 自助 | 本人・家族 | 自分の判断で身を守る力を育てる出発点 |
| 共助 | 近隣・学校・職場などの集団 | 声をかけ合い助け合う関係を日頃から築く |
| 公助 | 市町村・消防・警察など公的機関 | 自助・共助を支える制度と情報の提供元 |
2.2 経験学習という考え方
防災教育のもう一つの土台は、教育学における経験学習の考え方である。アメリカの哲学者・教育学者ジョン・デューイは、著書『経験と教育』のなかで、教育とは知識を一方的に伝達することではなく、学習者自身の経験を通じて考える力を育てることだと論じた。この考え方は、災害を「教科書で読む出来事」としてではなく「自分の体を動かして確かめる出来事」として学ぶ防災教育の方法論と深く結びついている。
日本の防災教育の分野でも、講義形式で知識を伝えるだけでなく、地図を使った図上訓練や、実際に地域を歩く体験、避難行動を身体で覚える訓練など、経験を重視した手法が発展してきた。これらは総称して体験型・参加型の防災教育と呼ばれることがある。第4節で扱うまち歩き型学習や防災マップづくりも、この経験学習の系譜に位置づけられる。
経験学習が重視される理由は、デューイの議論に即して言えば、経験そのものが自動的に学びになるわけではないという点にある。デューイは、ただ何かを体験するだけでなく、その体験を振り返り、次の行動に結びつけて考える過程があってはじめて教育的な経験になると論じた。まち歩きをして終わりにするのではなく、歩いた後に気づいたことを話し合い、地図に書き込み、次に同じ道を歩くときの行動につなげる——この振り返りの過程こそが、防災教育における経験学習を単なる外出と分ける決定的な要素である。
文部科学省が示す学校防災に関する参考資料でも、防災教育の目標は知識の習得にとどまらず、状況を判断し主体的に行動する態度を育てることに置かれている。あわせて、内閣府は防災教育チャレンジプランという取り組みを通じて、学校や地域が工夫した防災教育の実践を広く共有してきた。これらの公的な取り組みに共通しているのは、防災教育を一回限りの講話ではなく、繰り返し体験しながら定着させていく継続的な営みとして捉えている点である。
2.3 態度の育成という目標
自助・共助・公助という区分と経験学習という方法論をあわせて考えると、防災教育が最終的に育てようとしているのは、個別の知識そのものというより、災害に直面したときの態度であることが見えてくる。ここでいう態度とは、慌てて思考を止めてしまうのではなく、限られた情報のなかでも自分にできることを考え、周囲と声をかけ合いながら動こうとする構えのことである。知識は態度を支える材料ではあるが、知識だけでは態度は育たないというのが、経験学習を重んじる立場の基本的な理解である。
この態度の育成という目標は、年齢によって内容が大きく変わる。幼い子どもにとっての態度とは、大人の声かけに素直に応じて動けることであり、小学生にとっての態度とは、決められた集合場所や合言葉を覚えて実行できることであり、より年長の子どもや大人にとっての態度とは、状況を自分なりに判断し、必要であれば率先して動くことである。次節以降で扱う率先避難者たれという原則やまち歩き型学習は、いずれもこの態度を年齢に応じた形で育てるための具体的な方法として位置づけることができる。
以上を踏まえると、防災教育の基本的な設計思想は次のようにまとめられる。第一に、自助・共助・公助という役割分担を理解し、まず自分にできることから考える。第二に、知識を一方的に受け取るのではなく、体験と対話を通じて判断力を育てる。第三に、これらの学びを一度きりの行事ではなく、日常のなかで繰り返せる形にする。第3節以降では、この三つの設計思想がそれぞれどのような具体的な方法として展開されているかをたどっていく。
3. 率先避難者たれという行動原則
防災教育の具体的な行動原則としてよく語られるのが「率先避難者たれ」という言葉である。これは、津波などの災害が迫ったとき、周囲の様子をうかがって行動をためらうのではなく、まず自分が真っ先に避難を始めよ、という考え方である。防災教育の実践者として知られる片田敏孝は、著書『人が死なない防災』のなかで、避難の遅れが「周りが逃げていないから自分も大丈夫だろう」という思い込みから生まれやすいことを指摘し、率先して逃げる人の存在が周囲の避難を促す力を持つと論じている。
この考え方の背景には、人が非常時にとりがちな心の働きについての知見がある。目の前の異変を「たいしたことはないだろう」と過小に見積もってしまう傾向は正常性バイアスと呼ばれ、周囲の人が動いていないことを安全のしるしと受け取ってしまう傾向は集団同調性バイアスと呼ばれる。どちらも、平常時には心を落ち着かせるために役立つ働きであるが、災害の場面ではかえって避難の判断を遅らせる方向に働くことがあるとされる。率先避難者たれという原則は、この二つの心の働きに対する具体的な処方箇所として理解できる。
三陸地方に伝わってきたとされる「津波てんでんこ」という言葉も、同じ発想を別の角度から表している。てんでんことは「各自がばらばらに」という意味であり、津波のときは家族の安否を確かめ合う前に、めいめいが一刻も早く高台へ逃げよ、逃げれば互いに助かったと信じよ、という教えとして語り継がれてきたとされる。これは家族の絆を軽んじる考え方ではなく、むしろ全員が真っ先に逃げるという行動を徹底することで、結果として家族全員が助かる可能性を高めようとする知恵として理解されている。
率先避難者たれという原則がとりわけ重視するのは、避難のタイミングである。防災教育の実践では、危険が去ってから逃げるのでは遅く、危険がまだ迫りきっていない段階で、まだ大丈夫だろうという油断を退けて動き始めることが繰り返し語られる。これは、災害そのものの規模や速さを正確に予測できるという前提に立つものではない。むしろ、正確な予測ができないからこそ、危険の兆しを感じた時点で早めに動くという安全側の判断を、原則としてあらかじめ決めておくべきだという考え方である。判断に迷う時間そのものが、避難の遅れにつながりうるという点に、この原則の実践的な意味がある。
率先避難者たれという原則を子どもに伝えるとき、恐怖によって行動を強いることは望ましくないとされる。恐怖で頭がいっぱいになると、かえって考える力や体を動かす力が働きにくくなるためである。防災教育の実践では、災害の恐ろしさを強調するのではなく、「まず動く」という単純な行動を、遊びや練習のなかで繰り返し体に覚えさせることが重視される。避難場所まで実際に歩いてみる、目印になる建物や標識を確認しておくといった、具体的で小さな準備の積み重ねが、率先して動く力の土台になると考えられている。
この原則を大人が実践するうえで大切なのは、率先避難者たれという言葉を「一人だけ逃げてよい」という自己中心的な教えとして誤解しないことである。実際に語られてきた趣旨は、自分が真っ先に動くことで周囲にも避難を促し、結果として多くの人が助かる可能性を高めるという、個人の行動が集団の安全につながるという発想である。家族であらかじめ集合場所を決めておくことは、この原則と矛盾しない。むしろ、いつどこで会うかを事前に決めておくからこそ、その場にいる一人ひとりが安心して真っ先に動くことができるのである。
率先避難者たれという原則は、集団のなかで最初に動く一人がいることの意味を示す考え方でもある。人が大勢いる場所で誰も動かないとき、一人が動き出すと、それにつられて周囲も動き始めるという現象は、災害時の避難行動に限らず、人が集団のなかでどう振る舞うかについて広く語られてきた性質である。公園のように多くの人が同時に居合わせる開かれた場所では、この「最初の一人」の存在が特に大きな意味を持ちうる。防災教育が率先避難者たれという言葉を通じて伝えようとしているのは、自分がその最初の一人になってもよいのだという、小さいが確かな心構えである。
率先避難者たれという原則は、もともとは津波からの避難をめぐって語られてきた考え方であるが、その骨格である「様子見をせず、自分の判断でまず動く」という姿勢は、地震の揺れがおさまった直後に安全な場所へ移動する場面や、大雨のときに増水する前に高い場所へ移動する場面など、他の災害の初動にも通じる部分があると考えられる。ただし、災害の種類によって適切な初動や避難のタイミングは異なり、それぞれの災害についての具体的な判断は、気象情報や自治体の避難情報など、そのときどきの公的な情報に従う必要がある。率先避難者たれという原則は、あらゆる場面に機械的に当てはめてよい万能の指示ではなく、「様子見に頼りすぎない」という心構えの部分に限って一般化できるものとして理解するのが妥当である。
- 家族で集合場所をあらかじめ決めておく
- 集合場所までの道を実際に歩いて確かめておく
- 短い合言葉を決めて、いざというとき迷わず動けるようにしておく
- 公園などの避難場所の看板を、遊びに行くたびに親子で確認しておく
- 様子見をせず、自分の判断でまず動いてよいのだと日頃から伝えておく
以上から、率先避難者たれという行動原則は、正常性バイアスや集団同調性バイアスといった人の心の働きへの理解と、家族があらかじめ集合場所を決めておくという備えの両輪によって支えられていることが分かる。次節では、この行動原則を実際に身につけるための体験学習の手法として、まち歩き型学習と防災マップづくりを取り上げる。
4. まち歩き型学習と防災マップづくり
第2節で述べた経験学習の考え方を、防災教育のなかで具体的な手法にしたものが、まち歩きをしながら地域の危険と資源を確かめる体験型の学習と、その成果を地図の形にまとめる防災マップづくりである。地震や水害の仕組みを教室で学ぶだけでなく、実際に自分の足で歩き、自分の目で確かめることを通じて、知識を「自分の地域のこと」として身につけ直すことがねらいとされる。
4.1 まち歩き型学習という手法
まち歩き型学習では、参加者は小さな班に分かれ、あらかじめ決めたコースを歩きながら、危険になりうる場所と、非常時に役立ちうる場所の両方を観察して記録する。危険になりうる場所とは、ブロック塀や自動販売機、狭い路地、増水しやすい水路などであり、役立ちうる場所とは、公園や広場、消火栓、コンビニエンスストア、防災に関わる掲示板などである。両方を同時に観察するのは、危険を避けるだけでなく、非常時に頼れる資源を平時から知っておくことが防災教育の目的だからである。
図上訓練と呼ばれる、地図を囲んで危険と資源を書き込んでいく室内での訓練も、まち歩き型学習と組み合わせて行われることが多い。実際に歩いて確かめた気づきを地図の上に落とし込む作業を通じて、参加者どうしが気づきを共有し、対話をしながら地域の姿を立体的に理解していくことができるとされる。年齢の異なる参加者が一緒に歩くと、子どもが大人の気づかない視点——たとえば自分の背丈から見える景色や、しゃがんだときの見通し——を持ち込むことも珍しくないとされる。
4.2 防災マップづくりという成果物
まち歩きで得られた気づきを整理し、危険な場所と役立つ場所、避難場所までの経路を一枚の地図にまとめたものが防災マップである。防災マップづくりの意義は、完成した地図そのものよりも、それを作る過程で参加者が地域を歩き、考え、話し合うという体験の側にあるとされる。行政があらかじめ作成したハザードマップを配布して終わるのではなく、住民自身が手を動かして地図を作ることで、情報が「自分ごと」として定着しやすくなると考えられている。
| 観察の視点 | 確かめる内容 | 具体例 |
|---|---|---|
| 危険を探す視点 | 災害時に危険になりうる場所や物 | ブロック塀、狭い路地、増水しやすい水路 |
| 資源を探す視点 | 非常時に役立ちうる場所や設備 | 公園、広場、消火栓、掲示板 |
| 経路を確かめる視点 | 自宅や学校から避難場所までの道のり | 避難場所までの距離、道幅、目印 |
4.3 学校規模の実践と家庭規模の実践
まち歩き型学習や防災マップづくりは、学校やまち全体の単位で行われる大規模な取り組みとして語られることが多いが、同じ考え方を家庭という小さな単位で実践することもできる。たとえば休日に公園まで歩く道すがら、家族で「ここは車が多いね」「この水路は雨のとき増えそうだね」と声に出して確かめるだけでも、危険を探す視点と資源を探す視点をあわせ持つという、まち歩き型学習の核心を日常のなかで再現していることになる。大がかりな行事として構えなくても、日々の外出のなかに小さく組み込める点が、この手法の柔軟なところである。
家庭規模の実践には、学校や地域が主催する取り組みと比べて、専門的な指導者がいないという弱点がある。しかしその一方で、頻度を自由に調整できるという強みもある。年に一度の大きな行事として気合を入れて行うよりも、公園への行き帰りという既に習慣になっている機会を使って、短い時間でも繰り返し確かめるほうが、記憶として定着しやすいと考えられている。学校規模の取り組みと家庭規模の取り組みは対立するものではなく、学校で学んだ視点を家庭での日々の外出に持ち帰り、繰り返し使うことで定着させるという、補い合う関係として捉えるのが妥当である。
季節による違いも、まち歩き型学習を実践するうえで考慮しておきたい点である。日が長く暖かい時期には、夕方に少し足を延ばして遠くの避難場所まで確かめることもしやすいが、日が短く寒い時期や、日差しの強い時期には、無理のない範囲で近くの公園から少しずつ確かめていくといった調整が現実的である。まち歩き型学習は一度で完成させる作業ではなく、季節や子どもの成長にあわせて、同じ道を繰り返し歩きながら少しずつ確かめの範囲を広げていく、息の長い営みとして捉えるのがふさわしい。
こうした手法を子どもと一緒に行う場合、目的は完璧な地図を作ることではなく、歩きながら「ここは危ないかもしれない」「ここなら集まれそうだ」と声に出して話し合う経験そのものにあるとされる。公園はこの体験のなかで、しばしば「役立つ場所」の代表として登場する。広い空間があり、目印になりやすく、ふだんから親しんでいる場所だからである。次節では、この公園という場所そのものが持つ、遊び場と避難場所という二つの顔について検討する。
5. 公園という場の二重性——遊び場と避難場所
第4節で触れたように、まち歩き型学習において公園はしばしば「役立つ場所」として位置づけられる。ここで本稿が論じたいのは、公園が避難場所としてどれほど有効かという防災学的な性能の話ではなく、公園が遊び場であると同時に避難場所でもあるという二重性そのものが、防災教育にとってどのような意味を持つかという教育学的な問いである。
多くの防災に関する施設や訓練は、非常時にしか使われない。備蓄倉庫は普段は鍵がかかっており、避難訓練は年に一度か二度しか行われない。これに対して公園は、多くの子どもにとって週に何度も訪れる、日常のなかにすでにある場所である。滑り台やブランコで遊んだ経験、ベンチで一休みした経験、友だちと待ち合わせた経験——こうした日常の記憶の積み重ねの上に、公園という場所への親しみが育つ。この親しみこそが、防災教育にとって活用しうる資源であるというのが本節の主張である。
教育学の分野では、まったく知らない場所についての知識よりも、身体で覚えた慣れ親しんだ場所についての知識のほうが、いざというときに思い出しやすく、行動に結びつきやすいという考え方がある。避難場所の名前を紙の上で暗記するよりも、ふだん遊んでいる公園が避難場所でもあると知り、そこまでの道を実際に歩いた経験を持つほうが、非常時に体が自然と動く可能性は高いと考えられる。公園の二重性は、この「知っている場所を防災の学びに転用する」という発想の具体的な入り口になる。
この親しみを土台にした学びという発想は、恐怖を土台にした学びとしばしば対比される。恐怖を土台にした学びでは、災害の悲惨さを強く印象づけることで行動を促そうとするが、第6節で詳しく述べるように、その効果は長続きしにくいとされる。これに対して親しみを土台にした学びでは、すでに好きで通っている場所についての知識を少しずつ積み重ねていくため、学ぶこと自体への抵抗が生まれにくい。公園の二重性がもたらす最大の利点は、この「学ぶことへの抵抗の少なさ」にあると言ってよい。
もっとも、公園が避難場所として指定されているかどうかは、公園ごとに異なり、指定の有無や避難場所としての種別は市町村の地域防災計画によって定められている。すべての公園が避難場所であるわけではない。したがって防災教育としてまず子どもに伝えるべきことは、「公園は避難場所である」という一般論ではなく、「自分がよく行く公園は避難場所に指定されているのか、家族の集合場所としてふさわしいのか」を、大人と一緒に確かめるという姿勢そのものである。この確認作業自体が、第4節で述べたまち歩き型学習の小さな実践になる。
また、公園に設けられている案内板や掲示、あるいは避難場所を示す標識を、子どもと一緒に見ておくことも防災教育の一部である。ふだん遊びに行くたびに、標識の存在に気づき、それが何を意味するのかを親子で確かめておけば、その公園はただの遊び場ではなく「見慣れた避難の目印がある場所」として記憶に残る。特別な訓練の日を待たずに、日々の外遊びの延長として防災の知識を積み重ねられることこそ、公園という場所が持つ教育上の利点だといえる。
公園の二重性は、大人にとっても意味を持つ。子どもを遊ばせているあいだ、保護者どうしが顔を合わせ、言葉を交わす機会が生まれることは、公園のよく知られた効用のひとつである。この顔の見える関係は、第2節で述べた共助の土台にもなりうる。ふだんから顔を合わせている保護者どうしであれば、非常時に互いの子どもの様子を気にかけたり、情報を伝え合ったりすることが、まったく面識のない人どうしよりも容易になると考えられる。公園での何気ない立ち話の積み重ねが、共助という防災教育の柱を静かに支えているという見方もできる。
さらに、公園の二重性は世代を超えた学びの機会にもなりうる。高齢の利用者のなかには、過去の水害や地震を実際に経験した人が含まれることがある。子どもがそうした高齢者と公園で言葉を交わす機会があれば、教科書には書かれていない、その土地に固有の記憶や教訓に触れることができるかもしれない。もっとも、こうした世代を超えた対話が自然に生まれるかどうかは公園ごとの利用状況によって異なり、当サイトが現時点で確かめられる事柄ではない。ここではあくまで、公園の二重性が持ちうる可能性のひとつとして述べるにとどめる。
公園の二重性を教育的資源として活かすには、遊具や広場だけでなく、公園にたどり着くまでの道のりそのものにも目を向ける必要がある。自宅から公園までの道は、多くの子どもにとって最も繰り返し歩く経路のひとつであり、その道沿いにどのような危険や資源があるかを知ることは、公園そのものについての知識と同じくらい重要である。公園を防災教育の教材として捉えるということは、公園という点だけでなく、そこに至る線としての道のりまでを含めて考えるということでもある。
以上のように、公園の二重性は防災教育にとって都合の悪い矛盾ではなく、むしろ日常の親しみを土台にして非常時の備えを学ぶための好条件である。ただし、この好条件を活かすためには、遊びに来た子どもや大人が不安になるような形で防災を強調することは避けるべきである。次節では、この「恐怖をあおらない」という防災教育の作法について、想定される反論とあわせて検討する。
6. 反論への応答——恐怖をあおらない防災教育の作法
ここまで述べてきた防災教育の考え方に対しては、いくつかの反論が想定される。第一の反論は、子どもに災害の危険を伝えること自体が、遊びの場である公園を不安な場所に変えてしまうのではないか、というものである。第二の反論は、年齢の低い子どもにとって率先避難者たれといった行動原則は難しすぎるのではないか、というものである。第三の反論は、まち歩きや防災マップづくりのような時間のかかる学習は、日々の生活のなかで実践しにくいのではないか、というものである。本節ではこれらに順に応答する。
第一の反論について、防災教育の実践では、恐怖によって行動を促すことは長続きする効果を持ちにくいとされる。恐怖は一時的に人を動かす力を持つが、恐怖の記憶が薄れれば行動も薄れやすく、また恐怖が強すぎると、かえって考えることをやめてしまう場合もあるとされる。したがって防災教育の作法としては、「怖いから備える」のではなく、「知っているから落ち着いて動ける」という形に組み立てることが望ましいと考えられている。公園の案内板を確認する、避難場所までの道を歩いてみるといった具体的で小さな行動は、恐怖に頼らずに備えを積み重ねる方法の一例である。
第二の反論について、率先避難者たれという行動原則を幼い子どもにそのまま伝えることは確かに難しい。しかし、この原則の核心は「大人の指示を待たずに考えて動く」という高度な判断力ではなく、「危ないと感じたら、まず動く」という単純な行動の習慣にある。年齢に応じて求める行動の複雑さを変えることは、防災教育に限らずあらゆる教育に共通する配慮である。幼い子どもには「大人の手を握って一緒に歩く」という形で、年齢が上がるにつれて「自分で判断して動く」という形へと、段階を踏んで育てていく発想が現実的である。
第三の反論について、まち歩きや防災マップづくりを大がかりな行事として毎回行う必要はない。公園への行き帰りに、家族で「ここが避難場所だったね」「この道は水がたまりやすいかもしれないね」と短く話すだけでも、まち歩き型学習の考え方を日常に取り入れたことになる。防災教育は特別な一日に集中させるものではなく、遊びや買い物、通学といった日々の移動のなかに小さく織り込んでいくものだという理解が広がりつつある。
第四の反論として、公園を防災教育の教材として特別に扱うことが、かえって「公園にさえ行けば安全だ」という誤った安心感を生むのではないか、という懸念も想定できる。この懸念はもっともであり、本稿はその危険性を否定しない。第5節で述べたとおり、すべての公園が避難場所に指定されているわけではなく、公園の広さや設備だけで安全性が決まるわけでもない。したがって防災教育としてまず伝えるべきは「公園は安全だ」という結論ではなく、「自分の身近な公園が避難場所としてどう位置づけられているかを、大人と一緒に確かめる」という手続きそのものである。公園はあくまで確認作業の出発点であり、確認を省略してよい理由にはならない。
第一の反論と第四の反論には、共通する一つの緊張関係が横たわっている。危険を伝えれば不安を生みかねず、逆に安心を伝えれば油断を生みかねないという緊張である。防災教育の作法は、この緊張を消し去ろうとするのではなく、両極端を避けた真ん中の道を探ることにあると考えられる。すなわち「絶対に危険だ」でも「絶対に安全だ」でもなく、「こういう備えをしておけば、落ち着いて動ける可能性が高まる」という、条件つきで具体的な言い方を選ぶことである。この言い方の選び方自体が、防災教育における一つの技術だといえる。
以上四つの反論への応答に共通しているのは、防災教育を「一度で完成する知識」としてではなく、「年齢や状況に応じて繰り返し確かめ続ける手続き」として捉える立場である。この立場に立つと、恐怖をあおらないことと、備えを怠らないことは、矛盾せずに両立しうる。恐怖ではなく手続きによって備えるという発想は、次節で扱う学校・家庭・地域それぞれの防災教育のあり方にも共通して当てはまる考え方である。
以上の応答をまとめると、恐怖をあおらない防災教育の作法とは、危険を隠すことでも大げさに語ることでもなく、年齢に応じた具体的な行動として日常のなかに落とし込むことである。医学的な健康上の配慮や、実際の災害時にどう避難すべきかという個別の判断については、本稿はこれ以上踏み込まない。それらは学校や医療機関、市町村の防災担当部署といった関係機関の情報と指示に従うべき事柄である。本稿が扱えるのは、あくまで防災教育という営みの考え方の筋道までである。
7. 比較の視点——学校・家庭・地域における防災教育
防災教育は、学校、家庭、地域という三つの場でそれぞれ異なる形をとって行われている。この三つを比較することで、公園という場所がどの位置に立っているかが見えてくる。学校は組織的・計画的な防災教育を担い、家庭は日々の暮らしのなかでの備えを担い、地域は世代を超えた助け合いの関係を担う。公園は、この三つのいずれにも属さない、あるいはいずれとも重なりうる、やや特殊な位置にある場所である。
7.1 学校防災教育との比較
学校における防災教育は、文部科学省の参考資料に示されているように、年間を通じた計画のもとで避難訓練や防災に関する授業を組み込む形で行われる。教員という専門的な指導者がいること、同学年の子どもが一斉に学べることが強みである一方、学校という場所自体はふだんの遊び場ではないため、学んだ知識を日常の行動に結びつける橋渡しが別途必要になる。学校で学んだ避難場所の考え方や率先避難者たれという原則を、実際に自分の生活圏で確かめる作業が、学校の外で求められることになる。
7.2 家庭・地域防災教育との比較
家庭における防災教育は、家族の集合場所を決める、非常持ち出し品を確認するといった、個別の暮らしに即した具体性を持つ。地域における防災教育は、自主防災組織や自治会が主催する訓練を通じて、世代を超えた顔の見える関係を築くことに強みがある。しかし家庭は専門的な知識の面で不安が残ることがあり、地域の訓練は参加できる時間や機会が限られる場合がある。三者はそれぞれに強みと限界を持ち、互いを補い合う関係にあると理解するのが妥当である。
三つの場を比べるとき見落とされがちなのが、それぞれの場で防災教育に触れる頻度の違いである。学校の避難訓練は年に数回、地域の訓練はさらに少ない頻度で行われることが多いのに対し、家庭での声かけは理屈のうえでは毎日でも可能である。もっとも、頻度が高いことがそのまま質の高さを意味するわけではなく、家庭での声かけが漫然と繰り返されるだけでは定着しにくいという弱点もある。学校や地域で得た体系的な視点と、家庭での高い頻度の実践を組み合わせることで、互いの弱点を補い合えると考えられる。
| 場 | 強み | 限界 |
|---|---|---|
| 学校 | 組織的・計画的な指導、同学年での一斉学習 | 日常の生活圏との橋渡しが別途必要 |
| 家庭 | 個別の暮らしに即した具体的な備え | 専門的な知識の面で不安が残ることがある |
| 地域 | 世代を超えた顔の見える関係づくり | 参加できる時間や機会が限られる |
公園は、この三者のどれとも異なる第四の場として位置づけることができる。学校のように専門的な指導者が常駐しているわけではなく、家庭のように私的な空間でもなく、地域の訓練のように特定の日時に人を集める場でもない。公園は、誰でも自由に出入りでき、日常的に繰り返し訪れることのできる、開かれた公共の空間である。この開かれた性質のために、公園は学校で学んだ知識を確かめる場にも、家庭での話し合いのきっかけになる場にも、地域の顔の見える関係が自然に生まれる場にもなりうる。
この橋渡しの役割は、世代の異なる家族が公園を訪れる場面でとりわけ具体的な形をとる。祖父母世代の家族が孫を連れて公園に行くとき、祖父母は自分が経験してきた過去の災害についての記憶を持っていることがあり、孫は学校で学んだ最新の避難場所の考え方や率先避難者たれといった原則を持っていることがある。両者が同じ公園で言葉を交わせば、地域に固有の記憶と、学校で整理された知識とが、家庭という場のなかで自然に重なり合う機会になりうる。もちろん、こうした対話が実際に生まれるかどうかは各家庭の事情により、本稿がその発生を保証するものではないが、公園という共有の場がその可能性を開いていることは指摘できる。
この橋渡しの機能を考えるとき、公園が誰にでも無料で開かれている場所であることも見落とせない条件である。学校での防災教育は在籍する子どもに限られ、地域の訓練は参加を申し込んだ人に限られがちであるのに対し、公園は転入してきたばかりの家庭や、地域の訓練にまだ参加したことのない家庭でも、特別な手続きなしに訪れることができる。この参加のしやすさは、防災教育がともすれば一部の熱心な家庭だけに届きがちであるという課題に対して、公園という場が持つ小さいが確かな利点だといえる。
こうした比較から導かれる実践上の示唆は、防災教育を学校か家庭か地域かという択一の問題として捉えないことである。学校で学んだことを家庭で確かめ、家庭での気づきを地域の訓練で共有し、地域で得た知識を再び公園でのふだんの遊びに持ち帰る——この循環をどこか一つの場所で完結させようとせず、複数の場を行き来しながら少しずつ厚みを増していくものとして捉えるほうが、実情に即していると考えられる。公園は、この循環がしばしば経由する結節点のひとつである。
言い換えれば、公園は学校・家庭・地域という三つの場をゆるやかに橋渡しする役割を担いうる場所である。学校で学んだ避難場所の考え方を、家庭で公園に行くたびに確かめ、地域の大人や高齢者と顔を合わせる機会にもする——このように三つの場の学びを一つの場所に集約できる点に、公園を防災教育の教材として捉えることの独自の意義がある。次節では、この視点を磐田市の公園100園に具体的に当てはめて考える。
8. 磐田市の公園への示唆
ここまで整理してきた防災教育の考え方——自助・共助・公助、率先避難者たれ、まち歩き型学習と防災マップづくり、公園の二重性、恐怖をあおらない作法、学校・家庭・地域の連携——を、磐田市の公園に当てはめて考えてみたい。当サイトATAWI PARKが収録する磐田市の都市公園は100園であり、内訳は磐田市オープンデータ「都市公園一覧」による94行と、市の施設ガイドのみに掲載のある6園からなる。この100園という数のなかに、まち歩き型学習の教材となりうる身近な公園が数多く含まれている。
都市公園法にもとづく種別で見ると、街区公園が51園ともっとも多く、近隣公園が14園、都市緑地が10園、地区公園が4園、総合公園と運動公園と風致公園がそれぞれ3園、広場公園と緑道がそれぞれ2園、墓園と歴史公園がそれぞれ1園、法対象外の公園が6園という構成である。国の目安では、街区公園はおよそ0.25ヘクタール・誘致距離250メートル、近隣公園はおよそ2ヘクタール・誘致距離500メートル、地区公園はおよそ4ヘクタール・誘致距離1キロメートルとされる。この誘致距離という考え方は、まち歩き型学習の範囲を考えるうえでも参考になる。徒歩250メートルという街区公園の誘致距離は、多くの家庭にとって子どもが歩いて確かめられる範囲にほぼ重なるからである。
| 公園の種別 | 国の目安(面積・誘致距離) | 磐田市内の園数 | まち歩き学習での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 街区公園 | 約0.25ha・徒歩250m | 51園 | 徒歩で確かめられる身近な集合場所の候補 |
| 近隣公園 | 約2ha・徒歩500m | 14園 | 複数の街区を結ぶやや広い集合場所の候補 |
| 地区公園・総合公園 | 約4ha以上・徒歩1km以上 | 4園・3園 | 広い一時的な集合空間の候補 |
磐田市は見付・中泉・御厨・豊田・南部・向陽・竜洋・福田・豊岡という9地区に分かれており、それぞれの地区に公園が分布している。豊田地区の28園、見付地区の21園を筆頭に、中泉地区14園、御厨地区13園、竜洋地区13園と続き、福田地区4園、豊岡地区3園、南部地区と向陽地区がそれぞれ2園という構成である。地区ごとに公園の数にはばらつきがあるため、まち歩き型学習を行う際には、自分の住む地区にどれだけの公園があり、そのなかでどこが集合場所として現実的かを、実際に歩いて確かめる作業が欠かせない。
まち歩き型学習では、避難場所そのものだけでなく、そこで一定時間を過ごすために必要な設備を確かめることも欠かせない視点である。磐田市のオープンデータでは、トイレのある公園が69園、車いす対応トイレのある公園が34園、砂場のある公園が43園、遊具のある公園が64園と集計されている。これらはいずれも遊び場としての設備の集計であるが、トイレの有無や車いす対応の有無は、非常時に人が一定時間とどまる場所を考えるうえでも見過ごせない要素である。家族でまち歩きをする際には、避難場所の看板の有無だけでなく、こうした設備の有無もあわせて確かめておくとよいだろう。
駐車場についても、市の施設ガイドに「有り」といった記載がある、または当サイトが有ると判定した公園が33園ある。自動車での移動が日常的な地域では、徒歩でのまち歩きに加えて、駐車場の有無を確かめておくことも実際的な備えの一部になりうる。もっとも、災害時に自動車での移動が適切かどうかは道路状況や災害の種類によって大きく異なり、本稿がその判断を示すものではない。駐車場の有無は、あくまで平常時の下見の際に確認しておくべき情報のひとつとして位置づけておきたい。
一方で、磐田市の公園には都市緑地に分類される小さな公園も10園含まれており、なかには数十平方メートルから数百平方メートル程度の、ポケットパークと呼ばれる小規模な緑地もある。こうした小さな公園は、大勢が集まる避難場所としての役割を期待しにくいが、まち歩き型学習における「目印」や「小さな休憩地点」としての役割は十分に果たしうる。大きな公園だけでなく、こうした小さな緑地の存在にも目を向けることは、まち歩きの経路を具体的に思い描くうえで役立つ視点である。
面積の大きな公園としては、竜洋海洋公園(総合公園・竜洋地区)、かぶと塚公園(総合公園・見付地区)、福田公園(総合公園・福田地区)、中央公園(地区公園・中泉地区)、安久路公園(地区公園・御厨地区)などが挙げられ、いずれも広い空間を備えている。こうした比較的広い公園は、多くの人が一時的に集まる場所として想像しやすい一方で、実際にどのような避難場所としての指定を受けているか、どのような防災上の役割を担うかは、当サイトの収録データには含まれていない。この点は磐田市が公表するハザードマップや「災害リスクを知る」といった資料で確認する必要がある。
ここで正直に述べておかなければならないのは、当サイトの現地踏査が2026年8月時点でまだ始まっていないという事実である。園内にどのような案内板や避難場所の標識があるか、まち歩き型学習にどの程度適した見通しや道幅があるかといった情報は、今後の踏査によって初めて確かめられる。したがって本節で示せるのは、種別と面積、地区ごとの分布という統計的な見取り図までであり、個々の公園を実際に歩いて確かめる作業は、読者である家庭や地域、そして当サイト自身に残された課題である。公園に関する問い合わせは、磐田市都市整備課(電話0538-37-4806)が窓口となっている。
9. 結論と今後の課題
本稿は、防災教育という営みの基本的な考え方を整理し、日常の遊び場である公園を防災教育の教材として読み直すための枠組みを示すことを目的とした。第2節では自助・共助・公助という役割分担と、ジョン・デューイに代表される経験学習の考え方を整理し、第3節では率先避難者たれという行動原則を、正常性バイアスや集団同調性バイアスといった心の働きへの理解とあわせて検討した。第4節ではまち歩き型学習と防災マップづくりという体験学習の手法を取り上げ、危険を探す視点と資源を探す視点の両方を持つことの意義を確認した。
第5節では、公園が遊び場であると同時に避難場所でもあるという二重性が、防災教育にとって都合の悪い矛盾ではなく、日常の親しみを土台に非常時の備えを学べる好条件であることを論じた。第6節では、恐怖をあおらずに、年齢に応じた具体的な行動として防災を日常に織り込むという作法を、想定される反論への応答という形で示した。第7節では学校・家庭・地域という三つの場を比較し、公園がそれらを緩やかに橋渡しする第四の場になりうることを論じた。
第2節から第4節までを貫いていたのは、防災教育を知識の伝達としてではなく、経験と対話を通じた態度の育成として捉える立場であった。自助・共助・公助という区分は、誰が何を担うかを整理する見取り図であり、率先避難者たれという原則は、その見取り図のなかで自分がまず何をすべきかを示す具体的な行動指針であり、まち歩き型学習と防災マップづくりは、その行動指針を体で覚えるための方法であった。この三つは、それぞれ独立した知識ではなく、見取り図・指針・方法という一続きの筋道として理解するべきものである。
第6節では、子どもを不安にさせるのではないか、幼い子どもには難しすぎるのではないか、時間のかかる学習は実践しにくいのではないか、公園を特別扱いすることが誤った安心感を生むのではないかという四つの反論を検討し、防災教育を一度で完成する知識としてではなく、年齢や状況に応じて繰り返し確かめ続ける手続きとして捉えることで、恐怖をあおらないことと備えを怠らないことが両立しうることを示した。この立場は、本稿全体を貫く基本的な姿勢でもある。
第8節では、磐田市の都市公園100園を種別と地区ごとの分布から見取り、街区公園51園を中心とする身近な公園が、まち歩き型学習の教材として活用できる可能性を示した。ただし、当サイトの現地踏査はこれからであり、個々の公園がどのような避難場所としての指定を受け、どのような案内板や設備を備えているかは、市のハザードマップや施設ガイドを確かめ、あわせて今後の踏査を待つ必要がある。この限界を隠さずに示すことも、恐怖をあおらず誠実に語るという本稿の立場の一部である。
今後の課題は四つある。第一に、当サイトの踏査が進んだ段階で、個々の公園に設置されている案内板や避難場所の標識、防災に関わる設備の有無を確認し、まち歩き型学習の具体的な教材として使える情報に整えていくことである。第二に、年齢の異なる子どもに率先避難者たれという原則やまち歩き型学習をどのように段階的に伝えるかについて、発達段階を踏まえたより具体的な手順を検討することである。この点は発達心理学の知見と重ねて論じる必要があり、別稿の課題としたい。第三に、学校・家庭・地域・公園という複数の場での防災教育をどのように連携させ、一過性の行事に終わらせない仕組みにしていくかを、磐田市における実践の蓄積とともに考え続けることである。第四に、公園を特別扱いすることが誤った安心感につながらないよう、公園はあくまで確認作業の出発点であるという位置づけを、具体的な教材や伝え方のなかでどう維持していくかを、実践を重ねながら検証していくことである。
本稿の限界も述べておく。本稿は文献整理と概念分析にとどまり、磐田市の家庭や学校で実際にどのような防災教育が行われているかについての調査は行っていない。したがって、本稿が示した枠組みが磐田市の実情にどこまで当てはまるかは、今後の踏査や、学校・地域での実践の聞き取りを通じて確かめる必要がある。防災教育は理論だけで完結する営みではなく、具体的な地域と具体的な家族のなかで繰り返し試され、鍛えられていくものである。本稿はその出発点となる考え方の整理を示したにすぎない。
公園は、特別な訓練の日だけでなく、ふだんの遊びのなかにすでに存在している。その日常性こそが、防災教育にとって最も活用しうる資源である。恐怖によってではなく、いつもの場所への親しみによって備えるという道筋を、本稿は「いつもの場所で備える」という題名に込めた。実際の避難の判断や個別の安全に関する事柄は、最終的には自治体や関係機関の情報と指示に従うべきであることを、あらためて確認して本稿を閉じる。
最後にもう一度、本稿の姿勢を確認しておきたい。防災教育は、恐怖によって人を動かす営みではなく、知っていることによって人を落ち着かせる営みである。自助・共助・公助という見取り図を知り、率先避難者たれという指針を知り、まち歩きという方法を知ること——これらはいずれも、いつもの公園を歩くという、特別でも大げさでもない行為のなかに埋め込むことができる。読者が次に公園を訪れるとき、遊具や砂場だけでなく、案内板の隅にある小さな標識にも目を向けてもらえるとすれば、本稿の目的はひとまず果たされたことになる。
註:本稿における「防災教育」は、災害そのものの仕組みを扱う防災学とは区別される、住民が主体的に考え行動できるようになることを目指す教育学的な営みを指す。具体的な避難行動や安全に関する判断は、必ず自治体・学校・医療機関など関係機関の最新の情報と指示に従うべきであり、本稿の記述はその代わりとなるものではない。
参考文献
- 中央防災会議「防災基本計画」(自助・共助・公助の考え方を含む、逐次修正)
- 片田敏孝(2012)『人が死なない防災』(集英社新書)
- 河田惠昭(2010)『津波災害——減災社会を築く』(岩波新書)
- ジョン・デューイ(1938)『経験と教育』(市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)
- 文部科学省「『生きる力』を育む防災教育の展開」(改訂2版、平成25年3月)
- 内閣府(防災担当)「防災教育チャレンジプラン」
- 災害対策基本法(昭和36年法律第223号)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- 磐田市「災害リスクを知る」
- 磐田市ハザードマップ
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。