生命・健康・心理・教育教育学

野外教育と公園——「自然欠乏」論・森のようちえん・幼児教育の環境構成

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:教育学 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,084字 読了目安 38分

要旨

本稿の目的は、都市公園を「子どもの教育の環境」として位置づけ直すために、教育学の側から三つの論点——リチャード・ルーブ『あなたの子どもには自然が足りない』(2005)が投げかけた「自然欠乏」論、北欧に始まる森のようちえんの実践、日本の幼稚園教育要領・保育所保育指針が掲げる「環境を通して行う教育」——を整理し、それらの視点から公園という場所を読み直すことである。方法は文献整理と概念分析であり、フレーベル、デューイ、倉橋惣三ら教育思想の古典と、告示・省令などの公的資料を参照する。

検討の結果、第一に、ルーブの「自然欠乏障害」は医学的診断名ではなく社会への問題提起の言葉であって、その意義は「子どもと自然の接点が制度的に細っている」という事実に注意を向けさせた点にあり、公園はその接点を日常の徒歩圏で回復しうる数少ない場所であること、第二に、森のようちえんが示したのは「園舎のない保育」の可能性ではなく「環境そのものが教育内容を担う」という原理であり、その原理は日本の要領・指針の環境構成論と接続すること、第三に、公園は園庭の代替地として法制度上すでに保育の環境に組み込まれており、2017年の都市公園法改正による保育所設置の特例はその延長にあること、が明らかになった。

最後に、磐田市の都市公園100園を、街区公園51園・近隣公園14園などの種別と、砂場や遊具の有無、地区ごとの分布から「教育の環境」として読み、園庭に代わる場所・自然体験の場・園外保育の目的地という三つの役割に分けて示唆を述べる。ただし当サイトの現地踏査はこれからであり、地面の状態、植生、教育的な「余地」の有無といった論点は今後の踏査課題として残す。

キーワード野外教育自然欠乏森のようちえん環境を通して行う教育幼稚園教育要領園外保育磐田市

1. はじめに——問題の所在

公園は誰のものか、という問いには多くの答えがある。造園学は空間の設計を、公衆衛生学は身体活動を、社会学は人と人の出会いを論じる。教育学が固有に問うのは、公園が子どもの育ちの環境としてどのような働きをもつか、である。ここでいう「教育」は、教室で教科を教えることに限らない。幼児教育の言葉でいえば、大人が用意した環境に子どもがみずから関わり、そこで経験を積み重ねる過程のすべてを含む。この意味での教育の環境として公園を見ると、遊具の有無や面積とは別の尺度——木の実が落ちているか、地面に起伏があるか、子どもが自分で発見できる「余地」があるか——が浮かび上がってくる。

この問いを立てる背景には、二つの流れがある。一つは、アメリカのジャーナリスト、リチャード・ルーブが2005年の著書『あなたの子どもには自然が足りない』(原題 Last Child in the Woods)で提示した「自然欠乏障害(Nature-Deficit Disorder)」という言葉の広がりである。これは医学用語ではなく、子どもと自然の接点が細ってきたことへの社会的な警鐘として造られた言葉であるが、教育・保育の現場に「自然体験」の重要性を再認識させる契機となった。もう一つは、北欧に始まりドイツで制度化され、2000年代以降日本にも広がった「森のようちえん」の実践である。園舎をもたず、森や野原そのものを保育の場とするこの実践は、「環境そのものが教育内容を担う」という考え方を極端な形で示した。

そして日本には、これらの流れよりも前から、公的な教育課程の基準として「環境を通して行う教育」という原理がある。幼稚園教育要領は1989年(平成元年)の改訂で「幼稚園教育は……環境を通して行うものであることを基本とする」と明記し、この文言は現行の平成29年告示にも引き継がれている。保育所保育指針、幼保連携型認定こども園教育・保育要領も同じ考え方に立つ。つまり日本の幼児教育は、制度上、「環境をどう構成するか」を保育者の専門性の中心に据えている。その環境の中に、園庭とならんで公園がどのように位置づくのか。これが本稿の中心の問いである。

自然欠乏論森のようちえん教育要領公園
図1本稿の三つの視点。ルーブの自然欠乏論、北欧の森のようちえん、日本の「環境を通して行う教育」を、公園という場所に重ねて読み直す。

あらかじめ本稿の範囲を限っておく。教育学の対象は乳幼児から成人までに及ぶが、本稿が中心に扱うのは幼児期——おおむね小学校就学前——である。この時期は、教科書も試験もなく、生活と遊びのすべてが学びの入口になる時期であり、公園という環境の意味が最も濃く現れる時期だからである。学童期の放課後や、中高生・大人にとっての公園は、それぞれ別の検討に値する主題として、本稿では必要な範囲で触れるにとどめる。また本稿は、特定の保育方法や園の形態を推奨するものではない。森のようちえんを取り上げるのは、それが優れているからというより、公園を考えるための原理を最も鮮明に示しているからである。

1.1 問いと方法

本稿の問いは次の三つである。第一に、「自然欠乏」論は教育学の観点から見て何を言い当て、何を言いすぎているのか。第二に、森のようちえんの実践は、園舎も遊具も備えた日本の一般的な園の保育や、都市公園の使い方に何を示唆するのか。第三に、幼稚園教育要領・保育所保育指針が掲げる「環境を通して行う教育」の原理に照らしたとき、公園はどのような教育の環境として位置づけられ、法制度はそれをどこまで後押ししているのか。とりわけ、保育所の園庭に代わる場所として公園が古くから制度上認められてきたこと、2017年の都市公園法改正で都市公園内に保育所などを設置できる特例が設けられたことは、公園と保育の関係を考えるうえで見落とせない。

方法は文献整理と概念分析である。教育思想の古典としてルソー『エミール』(1762)、フレーベル『人間の教育』(1826)、デューイ『学校と社会』(1899)・『経験と教育』(1938)、倉橋惣三『幼稚園真諦』(1934)を参照し、公的資料として幼稚園教育要領・保育所保育指針・幼保連携型認定こども園教育・保育要領(いずれも平成29年告示)、幼稚園設置基準、児童福祉施設の設備及び運営に関する基準、都市公園法とその2017年改正を用いる。本稿は独自の実地調査に基づくものではない。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園のデータベースであるが、現地踏査はこれからであり、公園の植生や地面の状態など「教育の環境」の質にかかわる論点は、今後の踏査で確かめるべき課題として明示する。

1.2 本稿の構成

第2節で、野外教育と幼児教育の環境構成にかかわる古典と概念を整理する。第3節で「自然欠乏」論を検討し、その意義と限界を切り分ける。第4節で森のようちえんの系譜と原理を扱う。第5節で幼稚園教育要領・保育所保育指針の「環境を通して行う教育」を読み、公園がその環境の一部になりうる条件を考える。第6節で、園庭の代替地としての公園、園外保育の目的地としての公園、2017年都市公園法改正による公園内保育所という三つの制度的な接点を整理する。第7節で「公園は教育の場ではない」「安全が優先される」といった反論に応答し、園庭・冒険遊び場・森との比較を行う。第8節で磐田市の公園100園への示唆を述べ、第9節で結論と今後の課題を示す。読者としては、磐田市周辺の子育て世代、保育・教育の関係者、行政や地域活動に携わる人、そして教育や公園に関心をもつ学生を想定し、専門用語は初出のたびに説明する。

2. 先行研究と概念の整理

野外教育(outdoor education)とは、屋外の環境、とくに自然環境を場として、あるいは題材として行われる教育活動の総称である。登山やキャンプのような組織的活動から、園庭の片隅で虫を探すような日常的な経験まで幅は広い。文部省が1996年に「青少年の野外教育の充実について」と題する報告をまとめたとされるように、日本でも1990年代には政策用語として定着した。一方、幼児教育の「環境構成」とは、保育者が子どもの発達や興味を見通して、物・空間・時間・人間関係を意図的に用意することをいう。この二つの概念の交点に、公園がある。公園は保育者が設計したものではないが、保育者が選び、そこへ子どもを連れていくことによって、環境構成の一部となる。

2.1 教育思想における「自然」と「環境」

子どもを自然の中で育てるという発想は新しいものではない。ルソーは『エミール』(1762)で、書物よりも事物から、教師の言葉よりも自然の中での経験から学ぶ教育を描いた。フレーベルは『人間の教育』(1826)で、子どもの内にある成長の力を庭師のように見守り育てる教育を説き、1840年に「子どもの庭」を意味する Kindergarten を創設した。幼稚園の語源が「庭」であることは、幼児教育が最初から屋外の環境を前提にしていたことを示している。デューイは『学校と社会』(1899)で、子どもの生活経験と学校の学びを切り離してはならないと述べ、『経験と教育』(1938)では、経験が教育的であるためには経験の連続性と、環境との相互作用が必要だと論じた。「環境を通して行う教育」という日本の要領の言葉は、系譜としてこれらの思想につながる。

日本の幼児教育に固有の言葉としては、倉橋惣三の「誘導保育」がある。倉橋は『幼稚園真諦』(1934)で「生活を生活で生活へ」と述べ、子どもの自然な生活の流れを大切にしながら、保育者が環境や題材によってさりげなく子どもの活動を導いていく保育を説いた。教え込むのでもなく放任するのでもない、環境による間接的な導きという発想は、現行の要領・指針が「環境を通して行う教育」として引き継いでいるものである。

フレーベルルソーデューイ倉橋
図2「子どもの庭」から「環境を通して行う教育」へ。ルソー・フレーベル・デューイ・倉橋惣三に共通するのは、環境と経験を教育の中心に置く見方である。

2.2 自然体験・遊び環境をめぐる概念

20世紀後半には、自然体験の価値を語る言葉がいくつか生まれた。生物学者レイチェル・カーソンが遺した『センス・オブ・ワンダー』(1965)は、子どもが自然の美しさや不思議さに驚く感性を、知識よりも先に育てるべきものとして描いた。この本は森のようちえんや自然保育の関係者にしばしば引かれる。造園・建築の側からは、サイモン・ニコルソンが1971年の論文で「ルース・パーツ(loose parts)」の理論を提唱した。子どもが自由に動かし、組み合わせ、変えられる素材——砂、水、木の枝、石、板——が多い環境ほど、発見と創造の可能性が高いという考え方である。完成された遊具よりも、いじれる素材のある場所を評価するこの視点は、公園を教育の環境として見るときの重要な尺度になる。

遊び場の設計史の側では、デンマークの造園家カール・テオドア・ソーレンセンが1943年にコペンハーゲン郊外エムドルップで始めた「廃材遊び場」と、それを英国に紹介したアレン・オブ・ハートウッド夫人による「冒険遊び場(adventure playground)」の運動がある。日本では1979年に東京都世田谷区の羽根木プレーパークが常設の冒険遊び場として始まったとされる。冒険遊び場は「自分の責任で自由に遊ぶ」を掲げ、子どもが環境に手を加えることを認める点で、森のようちえんと発想を共有している。これらの実践は公園そのものではないが、公園を「完成された施設」から「子どもが働きかけられる環境」へと読み替える手がかりを与える。

出来事・著作本稿との関係
1762ルソー『エミール』事物と自然の中での経験から学ぶ教育
1826/1840フレーベル『人間の教育』/Kindergarten 創設「子どもの庭」——幼児教育と屋外環境の結びつき
1899/1938デューイ『学校と社会』/『経験と教育』経験の連続性と環境との相互作用
1934倉橋惣三『幼稚園真諦』誘導保育——環境による間接的な導き
1943ソーレンセン、エムドルップの廃材遊び場冒険遊び場の起点
1965カーソン『センス・オブ・ワンダー』自然への驚きの感性を先に育てる
1971ニコルソン「ルース・パーツの理論」動かせる素材の多さが遊びの質を決める
1989幼稚園教育要領改訂「環境を通して行う教育」の明記
2005ルーブ『あなたの子どもには自然が足りない』「自然欠乏」論の提起
2017幼稚園教育要領・保育所保育指針の同時改訂/都市公園法改正「育ってほしい姿」の共通化/公園内保育所の特例

以上を踏まえ、本稿では「野外教育」を組織的活動に限らず、屋外環境での日常的経験を含む広い意味で用いる。また「環境構成」を、保育者が園内に環境を用意することに限らず、園外の場所を選び、そこへの行き方や過ごし方を設計することまで含めて用いる。この二つの拡張によって、公園は初めて教育学の主題として姿を現す。次節以降では、ルーブの問題提起、森のようちえん、要領・指針の順に検討を進める。

3. 「自然欠乏」論の検討——何を言い当て、何を言いすぎているか

リチャード・ルーブの『あなたの子どもには自然が足りない』(2005)は、アメリカの子どもたちが屋外の自然で過ごす時間が世代を追って減っているという観察から出発し、その状態を「自然欠乏障害(Nature-Deficit Disorder)」と名づけた。まず確認すべきは、ルーブ自身がこの言葉を医学的な診断名ではないと断っていることである。これは病名の形を借りた比喩であり、個人の病気ではなく社会の状態——子どもと自然のあいだの距離が制度的・文化的に開いてしまったこと——を指す言葉である。したがって「自然欠乏障害を治す」といった読み方は誤りであり、教育学がこの言葉から受け取るべきは、診断ではなく問題提起である。

ルーブが挙げた背景は多岐にわたる。屋外で自由に遊べる空き地や野原の減少、交通事故や犯罪への不安から子どもを屋内に留めようとする大人の心理、習いごとや宿題による時間の構造化、そして室内の画面(テレビ・ゲーム・パソコン)の魅力である。これらは2005年のアメリカについての観察だが、日本の状況にも重なる部分が多いとされる。日本でも、子どもの外遊びの時間・空間・仲間が減ったという指摘は「三間(さんま)の喪失」という言葉で1980年代から語られてきた。ルーブの本の意義は、こうした個別の指摘を「子どもと自然の関係の喪失」という一つの物語にまとめ、広い読者に届けた点にある。

3.1 「自然欠乏」論の意義

教育学から見たとき、ルーブの議論には三つの意義がある。第一に、自然体験を「あれば望ましい追加物」ではなく「育ちに欠かせない基盤」として語り直したことである。自然の中での遊びが子どもの感覚・運動・情緒・探究心の発達に寄与するという考え方は、ルソー以来の教育思想が繰り返し述べてきたことだが、ルーブはそれを現代の生活環境の変化と結びつけて再提示した。第二に、責任を子どもや親の個人に帰さず、都市計画・学校制度・メディア環境といった社会の側の構造に求めたことである。「外で遊ばない子ども」を叱るのではなく、「外で遊べない環境」を問うという転換は、公園という公共施設の意味を考えるうえで決定的に重要である。第三に、対策として特別な荒野ではなく身近な自然——庭、街路樹、そして近所の公園——を挙げたことである。

「欠乏」という言葉の選び方にも注意を払っておきたい。欠乏(deficit)という枠組みは、足りないものを数え上げる見方であり、問題を可視化する力をもつ一方、子どもや家庭に「欠けている」というレッテルを貼る方向に滑りやすい。教育学では、子どもの現状を欠如として記述するのではなく、環境の側の可能性として記述し直す見方が重ねて提案されてきた。本稿もこの立場を採る。すなわち「この子には自然が足りない」ではなく「この地域には、子どもが歩いて行ける自然の窓口がどれだけあるか」と問い直す。欠乏の語を個人への診断としてではなく、環境への問いとして受け取ること——それが、この言葉の生産的な使い方である。

子ども身近な自然徒歩圏近所の公園
図3自然欠乏論の処方は遠くの荒野ではなく身近な自然である。徒歩圏の公園は、子どもと自然の接点を日常の中で回復しうる場所として位置づく。

3.2 「自然欠乏」論の限界

一方で、この議論には言いすぎの危険もある。第一に、病名の形を借りたことで、あたかも医学的に確立した疾患であるかのように流通しやすい。自然体験と子どもの心身の関係については、注意の回復や気分の改善などを報告する研究群があるとされるが、因果の強さや条件はなお検討の途上であり、断定は慎むべきである。健康にかかわる個別の判断は医療機関に委ねられるべきであり、本稿も「自然に触れれば発達の問題が解決する」といった主張はとらない。第二に、「昔の子どもは自然の中で豊かに育った」という郷愁が混ざりやすい。過去の子ども時代には危険や労働もあり、単純な美化は歴史の見方として粗い。第三に、「自然」の範囲が曖昧である。手つかずの森だけを自然と呼ぶなら都市の子どもに出番はないが、ルーブ自身は空き地や庭を含めており、この広い自然観を採るなら、公園の植栽や砂場も立派な入口になる。

さらに、公平性の観点も付け加えるべきである。自然体験を家庭の努力に委ねるなら、車で遠出できる家庭、休日に時間の余裕がある家庭、自然体験プログラムの参加費を負担できる家庭の子どもほど機会が多くなる。つまり自然体験は、放っておけば家庭環境の差がそのまま経験の差になりやすい領域である。誰でも無料で入れ、住まいの近くに公費で配置される公園は、この差をならす数少ない装置であり、教育の機会均等という古くからの理念を、屋外の経験について支える基盤といえる。公園の教育的意義を論じることは、一部の熱心な家庭のための議論ではなく、むしろ遠出のしにくい家庭の子どもの経験を保障する議論である。

第四に、自然体験を強調するあまり、それを新たな「習いごと」にしてしまう逆説がある。自然体験プログラムに申し込み、車で送迎し、大人が用意した活動をこなす——それは時間の構造化という、ルーブが問題にした当のものを再生産しかねない。教育学の言葉でいえば、自然体験の価値の核心は、子どもが自分で見つけ、自分で試す自発性にある。だとすれば、大人の設計が薄く、子どもの発見の余地が大きい場所こそが望ましい。ここに、日常の徒歩圏にあって、入場も予約も要らず、決まったプログラムのない公園の固有の強みがある。

まとめれば、「自然欠乏」論から公園論が受け取るべきは、次の再定義である。公園は「遊具のある広場」である前に、「子どもが日常的に土・植物・虫・水・天気に出会える、住まいの近くの窓口」である。この再定義は、公園の価値を遊具の数で測る見方を相対化し、木陰・地面・植栽・水といった、これまで背景と見なされてきた要素を前景に引き出す。第8節で見るように、この尺度の転換は磐田市の公園を評価する視点にも直接かかわる。

4. 森のようちえん——「環境が教育内容を担う」という原理

森のようちえん(デンマーク語で skovbørnehave、ドイツ語で Waldkindergarten)は、園舎での保育を基本とせず、森や野原などの屋外環境そのものを日々の保育の場とする幼児教育の形態である。その起源としては、1950年代のデンマークで、エラ・フラタウという母親が自分の子どもと近所の子どもを連れて毎日森へ出かけたことが始まりの一つとして語られる。デンマークで広がったこの実践は、1990年代にドイツで制度的な認可を受けた園が生まれたことで急速に拡大したとされ、日本には2000年代以降、視察や書籍を通じて紹介され、各地で実践が始まった。2008年には実践者たちの全国的なネットワークとして「森のようちえん全国ネットワーク」が結成されたとされる。日本では、園舎を持たない専業型だけでなく、通常の園が週や月の単位で森での保育日を設ける融合型、保護者グループによる自主保育型など、多様な形で展開している。

4.1 森のようちえんの教育原理

森のようちえんの核心は、「園舎がない」という外形ではなく、その背後にある教育観にある。第一に、環境が教材である。市販の玩具や設計された遊具の代わりに、木の枝、落ち葉、水たまり、斜面、虫、天気の変化そのものが遊びと学びの素材になる。これはニコルソンのルース・パーツ理論の言う「動かせる素材」が最も豊富な環境であり、同じ場所でも季節と天気によって毎日違う環境になる。第二に、大人は教えるより見守る。保育者の役割は活動を指示することではなく、子どもの発見に共感し、安全の枠組みを保ち、必要なときにだけ手を貸すことに置かれる。第三に、リスクを奪わない。転ぶ、濡れる、寒い、木に登って怖いと感じる——そうした小さな困難の経験が、身体の使い方と判断力を育てると考える。ただしこれは危険の放置ではなく、保育者が下見と観察によって重大な危険(ハザード)を取り除いたうえで、子どもが挑戦できる範囲の冒険(リスク)を残すという専門的な仕事である。

森が教材虫も教材天気も教材大人は見守る
図4森のようちえんの原理。環境そのものが教材であり、保育者は指示する人ではなく、危険を下見で除いたうえで子どもの発見を見守る人である。

第四の特徴として、天気を選ばないことを挙げてよい。森のようちえんの実践では、雨の日も雪の日も、服装を整えて屋外で過ごすことが基本とされ、実践者のあいだでは「悪い天気というものはなく、ふさわしくない服装があるだけだ」という北欧由来の言い回しが知られているとされる。雨の日の水たまり、風の日の落ち葉の舞い方、寒い朝の霜柱は、晴れの日には存在しない教材である。天気を「外遊びを中止する理由」ではなく「環境が毎日入れ替わる仕組み」と見るこの発想は、公園の使い方にもそのまま持ち込める。雨上がりの公園は、晴れた日とは別の場所なのである。ただし雷や強風、暑さなどの気象リスクへの備えは別の問題であり、注意報や暑さ指数などの公的情報に基づく判断が前提になる。

この教育観は、突飛な思いつきではなく、第2節で見た教育思想の系譜の上にある。フレーベルの「子どもの庭」は文字どおり植物を育てる庭を含んでいたし、倉橋惣三の誘導保育は、環境による間接的な導きという点で森のようちえんの保育者の役割と重なる。カーソンの『センス・オブ・ワンダー』が説いた「知ることより感じること」は、森のようちえんの実践者がしばしば引く言葉である。つまり森のようちえんは、幼児教育がもともと持っていた原理を、園舎という前提を外すことで純粋な形で取り出した実践だと理解できる。

4.2 日本での展開と「自然保育」の制度化

日本での展開において注目すべきは、自治体による認証制度の登場である。長野県が2015年度に「信州型自然保育認定制度(信州やまほいく)」を始めたとされ、鳥取県にも「とっとり森・里山等自然保育認証制度」があるとされる。これらは、森のようちえんのような園舎外中心の保育だけでなく、通常の園が自然体験を重視する保育を行う場合も認証の対象に含めており、「自然保育」という より広い枠組みを作った。認証制度の意義は、屋外中心の保育を制度の外の例外としてではなく、質の保証された選択肢の一つとして位置づけた点にある。

では、森のようちえんは「森」がなければ成り立たないのか。実践の広がりを見ると、活動場所は必ずしも深い森ではなく、里山、河原、海岸、そして都市公園が使われることも多いとされる。とくに都市部の自主保育グループや融合型の園にとって、毎日通える徒歩圏の公園は現実的な活動場所である。ここで重要なのは、森のようちえんの原理——環境が教材、大人は見守る、リスクを奪わない——は場所の名前ではなく環境の質に依存する、ということである。木立と地形の変化と動かせる素材のある公園は、小さな森として機能しうる。逆に、平坦で舗装され、触れられる素材のない公園は、たとえ緑地と呼ばれていても、この原理から見れば乏しい環境である。

森のようちえんが公園論に与える示唆は、したがって次の二点にまとめられる。第一に、公園の教育的価値を測る尺度は、遊具の充実度だけでなく、環境の多様性——地形、植生、水、生きもの、季節の変化——にあること。第二に、その価値を引き出すのは環境だけでなく、大人の関わり方——指示せず見守る、危険の下見をする、発見に共感する——であること。環境と関わり方の両方がそろって初めて、公園は「小さな森のようちえん」の舞台になる。この視点は、次節で見る幼稚園教育要領・保育所保育指針の環境構成論と、正確に接続する。

5. 「環境を通して行う教育」——要領・指針から公園を読む

日本の幼児教育・保育の公的な基準は、幼稚園には文部科学省告示の「幼稚園教育要領」、保育所には厚生労働省告示の「保育所保育指針」、幼保連携型認定こども園には内閣府・文部科学省・厚生労働省告示の「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」がある。三つの文書は平成29年(2017年)3月に同時に改訂・告示され、3歳以上の教育内容について足並みをそろえた。共通する基本原理が「環境を通して行う教育(保育)」である。幼稚園教育要領は第1章総則の冒頭で、幼児期の教育は「環境を通して行うものであることを基本とする」と定める。これは、小学校以降のように教科書で教えるのではなく、幼児が主体的に環境に関わり、環境との相互作用の中で発達に必要な経験を積むことを教育の方法とする、という宣言である。

5.1 環境構成という専門性

「環境を通して」といっても、子どもを環境に放り込めばよいわけではない。要領・指針が保育者に求めるのは、子どもの発達と興味を見通して環境を計画的に構成することである。ここでいう環境は、遊具や素材などの物的環境、保育者や友達などの人的環境、そして自然や社会の事象を含む。保育者は、いま子どもたちが何に夢中で、次にどんな経験が育ちにつながるかを読み、素材を置き、場を整え、自らも環境の一部として関わる。この計画性こそが、放任と環境構成を分ける専門性である。そしてこの枠組みでは、環境は園の敷地内に限定されない。園外の自然、地域の施設、そして公園も、保育者が選び・下見し・活動を見通すことによって、構成された環境の一部になる。

要領・指針の内容面を見ると、5領域(健康・人間関係・環境・言葉・表現)のうち領域「環境」は、「周囲の様々な環境に好奇心や探究心をもって関わり、それらを生活に取り入れていこうとする力を養う」ことをねらいとし、自然に触れること、動植物に親しむこと、季節により自然や人間の生活に変化のあることに気づくこと、身近な物や遊具に興味をもって関わり考えたり試したりすることなどを内容に挙げている。また平成29年改訂で導入された「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」の10項目には、「自然との関わり・生命尊重」や「健康な心と体」「思考力の芽生え」が含まれる。これらの文言は、砂・水・虫・草花・木の実といった、公園にありふれた要素が、そのまま教育課程上の内容に対応することを示している。

砂と水草花領域「環境」
図5公園にありふれた砂・草花・虫は、要領・指針の領域「環境」の内容——自然に触れ、季節に気づき、試し考えること——に直接対応する。

領域「環境」だけではない。公園での経験は5領域の他の領域にもまたがる。領域「健康」の観点では、広い場所を思いきり走る、起伏を上り下りする、遊具にぶら下がるといった多様な身体の使い方が挙げられる。領域「言葉」の観点では、「つるつる」「ざらざら」「ひんやり」といった感触の言葉、虫や草花の名前、発見を伝え合う会話が、実物とともに獲得される。領域「表現」の観点では、拾った葉や実がそのまま製作の素材になり、地面は棒で描ける画用紙になる。領域「人間関係」では、順番を待つ、場所を譲る、他の利用者に配慮するという公共の場ならではの経験がある。幼児期の学びは領域に分けて起こるのではなく、一つの遊びが複数の領域にまたがるのが常態であり、公園はその「まるごとの経験」が起こりやすい環境である。

5.2 公園は「構成できない環境」か

ここで一つの理論的な問題が生じる。環境構成とは保育者が環境を意図的に用意することだが、公園は公共施設であり、保育者が作り替えることはできない。花壇に種をまくことも、遊具を動かすこともできない。では公園は「構成できない環境」として、環境構成論の外に置かれるのか。本稿の答えは否である。第一に、環境構成には選択という契機がある。どの公園に行くか、どの季節・時間に行くか、何を持っていくか(バケツ、虫かご、図鑑、シート)は保育者が構成できる。同じ公園でも、どんぐりの季節に袋を持って行くのと、手ぶらで行くのとでは、環境としての意味が変わる。第二に、意味づけという契機がある。保育者が水たまりを「汚いから避けるもの」と扱うか「のぞき込むもの」と扱うかで、同じ物理的環境が別の教育的環境になる。第三に、作り替えられないことは欠点であるだけでなく、園庭にはない偶然性——設計されていない出会い——の源でもある。

むしろ、公園の「構成できなさ」は、平成29年改訂が強調した「主体的・対話的で深い学び」の観点から積極的に読める。園庭の環境は保育者の意図が行き届くぶん、子どもの経験も見通しの範囲に収まりやすい。公園では、猫が横切る、落ち葉が積もっている、知らない親子が遊んでいる、水道が凍っている——保育者も予期しない事象が起こり、それが子どもの問いを生む。デューイの言葉でいえば、経験の連続性を園庭が保証し、環境との新しい相互作用を公園が供給する、という分業である。環境構成論は、園内の構成と園外の選択・意味づけを併せて一つの設計と見なすことで、公園を正面から扱うことができる。

以上から、要領・指針の枠組みにおいて公園は、(1)領域「環境」をはじめとする教育内容の素材を供給する場、(2)園庭では得がたい偶然性と広がりを供給する場、(3)保育者の選択と意味づけによって構成される園外の環境、として位置づけられる。ただしこれは、どの公園でも同じように機能するという意味ではない。素材の乏しい公園もあれば、移動の危険が大きい公園もある。公園を教育の環境として使えるかどうかは、制度の後押しにも左右される。次節では、その制度的な接点を見る。

6. 制度から見た公園と保育——代替地・園外保育・公園内保育所

公園と保育・教育の関係は、理念だけでなく法制度の上にも刻まれている。本節では三つの接点——園庭の代替地としての公園、園外保育の目的地としての公園、そして公園の中に保育所を置くという2017年都市公園法改正の特例——を整理する。この三つは、公園が保育の環境に組み込まれる度合いが順に深くなっていく段階として読むことができる。

6.1 園庭の代替地としての公園

幼稚園については、幼稚園設置基準(昭和31年文部省令第32号)が運動場の設置を求めている。一方、保育所については、児童福祉施設の設備及び運営に関する基準(昭和23年厚生省令第63号)が、2歳以上の幼児を入所させる保育所に屋外遊技場(園庭)を求めつつ、保育所の付近にある屋外遊技場に代わるべき場所をこれに含めることを認めている。この「代替地」の運用において、近隣の公園はその代表例とされてきた。すなわち、園庭を確保しにくい都市部で保育所を整備するとき、近くの公園が制度上の園庭として数えられうる、ということである。待機児童対策で都市部の保育所整備が急がれた2010年代には、この仕組みによって公園を園庭代わりに使う保育所が増えたとされる。

この運用は、公園に新しい性格を与える。代替地とされた公園は、その保育所の子どもたちにとって「毎日通う庭」であり、地域の他の利用者にとっては従来どおりの公園である。一つの空間が、制度上は園庭であり、同時に公共の場でもある。この二重性は、混雑や利用調整といった実務的課題を生む一方で、園児が地域の中で育つ、地域の目が園児に届く、という教育的な利点としても語られてきた。園庭という閉じた環境と、公園という開いた環境の違いは、第7節で改めて論じる。

6.2 園外保育の目的地としての公園

代替地の指定を受けていなくても、多くの園は日常的に「園外保育」——散歩や遠足として園の外へ出る活動——を行っている。要領・指針の観点からは、園外保育は第5節で述べた環境の選択そのものであり、地域の自然や人々に触れる機会として位置づけられる。目的地として最も身近なのが公園である。園外保育には移動の安全という固有の課題が伴い、2019年に滋賀県大津市で散歩中の園児の列が交通事故に巻き込まれた事故を受けて、通園路・散歩経路の安全点検が全国的に行われ、「キッズゾーン」の設定が進められたとされる。ここから、公園の教育的価値は公園の中だけでは完結せず、そこまでの道の安全と一体で評価されるべきだという論点が得られる。

列で歩く横断の安全公園に到着広い環境
図6園外保育では公園までの道のりも保育の一部である。公園の教育的価値は、園からの距離と経路の安全と切り離せない。

園外保育で公園を使う際には、管理者との関係という実務の層もある。通常の範囲の利用であれば公園は誰でも自由に使えるが、行事などで場所をまとまって使う場合や、物を設置する場合には、管理者への相談や許可が必要になることがある。教育の側から見れば、公園管理者は「場所を貸してくれる相手」ではなく、環境の質と安全を維持する専門職であり、遊具の点検情報や工事の予定など、園外保育の計画に直結する情報を持つ存在である。園と公園管理者が日常的に連絡を取り合う関係は、目立たないが、公園を教育の環境として使うための足場といえる。磐田市では都市公園の管理を都市整備課が担っており、利用にかかわる相談の窓口が明確であることは、この足場の一部である。

6.3 公園の中の保育所——2017年都市公園法改正

第三の接点が、公園の中に保育所そのものを置くという段階である。都市公園法(昭和31年法律第79号)は、都市公園に設けられる施設(公園施設)の種類を限定しており、保育所はもともとその中に含まれていなかった。2015年に国家戦略特別区域法の改正により、特区に限って都市公園内での保育所等の設置が可能になったとされ、その後、平成29年(2017年)の都市緑地法等の一部を改正する法律による都市公園法改正で、特区に限らず、保育所その他の社会福祉施設を占用の対象として都市公園に設置できる特例が全国で認められた。都市公園の再生・活性化を掲げたこの改正は、Park-PFI(公募設置管理制度)の創設と並んで、公園を「保全する施設」から「使いこなす資源」へと位置づけ直す流れの中にある。

教育学の観点から見れば、公園内保育所の特例は、これまで述べてきた公園と保育の関係の到達点として読める。代替地の運用では公園は園庭の「代わり」であり、園外保育では「目的地」であった。公園内保育所では、公園が保育の日常環境そのものになる。園庭と公園の境界が薄れ、毎日の保育が公園の緑と地形の中で営まれる可能性が開かれた。一方で、公共の場である公園の一部を特定の施設が占用することへの合意形成、待機児童対策という当面の必要が過ぎた後の位置づけなど、公共性をめぐる論点も残る。これは公園の教育的活用一般に通じる問いである——公園を教育の環境として使うことは、公園の公共性を豊かにするのか、それとも特定の利用による占有に傾くのか。この問いには第7節で反論への応答として立ち返る。

三つの接点を通して見えるのは、公園と保育・教育の関係が、理念の話ではなく、省令・告示・法律という制度の層で着実に深まってきたという事実である。教育の側は公園を必要とし、公園の側の制度もそれに応えて開かれてきた。残る問題は、個々の公園がその期待に応えられる環境の質を持っているか、そして大人がそれを引き出す使い方をできるか、である。

7. 反論への応答と比較——園庭・冒険遊び場・森と公園

ここまでの議論に対しては、いくつかの反論が予想される。本節では代表的な三つの反論に順に応答し、あわせて園庭・冒険遊び場・森という近接する環境と公園を比較することで、教育の環境としての公園の輪郭をはっきりさせる。

7.1 反論一——「公園は遊び場であって教育の場ではない」

第一の反論は、公園は余暇の施設であり、教育という言葉を持ち込むのは大げさだ、というものである。この反論は「教育」を教科の授業のような意図的な教え込みと同一視している。しかし幼児期について要領・指針が定める教育は、第5節で見たとおり環境を通して行うものであり、遊びを通しての指導を中心とするものである。遊びと学びは幼児期において対立概念ではなく、ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』(1938)で論じたように、遊びは文化に先立つ人間の根源的な活動である。公園を教育の場と呼ぶことは、公園に授業を持ち込むことではなく、そこで起きている遊びの中の学びを見えるようにすることである。むしろ警戒すべきは逆方向の事態、すなわち教育の名の下に公園の遊びをプログラム化し、大人の設計で埋め尽くすことである。第3節で述べたとおり、公園の教育的価値の核心は子どもの自発性にあり、それを損なう「教育化」は自己否定になる。

7.2 反論二——「安全が最優先であり、リスクを残す発想は危うい」

第二の反論は、第4節で述べた「リスクを奪わない」という原理への懸念である。子どもの安全は何よりも重い。この点で参照すべきは、国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」(改訂第3版・令和6年6月)が採るリスクとハザードの区別である。指針は、遊びの価値の一部として子どもが挑戦する冒険(リスク)と、子どもが予測できず遊びの価値と関係のない危険(ハザード)を分け、後者を除去し前者を残すことを安全確保の考え方として示している。つまり「危険をすべて除く」ことではなく「取り除くべき危険を見分ける」ことが、国の指針の水準ですでに公園管理の原則になっている。森のようちえんの保育者が下見でハザードを除きリスクを残すのと、公園管理者が指針に基づいて遊具を点検するのは、同じ思想の両側である。なお、個別の事故や怪我への対応・判断は医療機関・関係機関に委ねられるべきであり、本稿が論じるのは環境の考え方までである。

リスクハザード残す除く・点検
図7国の指針はリスク(挑戦の価値ある冒険)とハザード(予測できない危険)を区別する。教育の側と公園管理の側は同じ原則を共有している。

7.3 反論三——「教育利用は公園の占有につながる」

第三の反論は、保育所の代替地利用や園外保育の団体利用が、他の利用者の公園を狭めるという懸念である。これは正当な論点であり、公園が公共の場である以上、教育利用は他の利用と共存しなければならない。ただし、占有と共存の分かれ目は利用の絶対量ではなく、時間と場所の調整、そして相互の見えやすさにある。平日午前の公園は利用が少ない時間帯であり、園児の利用は空白を埋める形になることが多いとされる。また、園児が地域の公園で遊ぶ姿は、地域住民にとって子どもの存在を日常的に感じる機会でもある。教育利用を公園の公共性の侵食と見るか、公共性の担い手の交代と見るかは、地域ごとの合意形成の問題であり、一律に決められない。教育の側に求められるのは、公園を「借りている」自覚と、他の利用者への配慮を子どもと共有すること——それ自体が領域「人間関係」の教育内容である——だろう。

7.4 反論四——「自然体験の差は家庭の事情であり、公園では埋まらない」

第四の反論は、子どもがどれだけ自然に触れるかは保護者の関心・時間・移動手段に左右されるのであって、公園を整えても差は埋まらない、というものである。この指摘は半分正しい。休日に山や海へ出かけられるかどうかは家庭の条件に強く依存し、その差を公園がすべて吸収することはできない。しかし残りの半分において、この反論は公園の性格を取り違えている。遠方の自然地や有料の施設が「行こうと決めた家庭だけが到達できる」環境であるのに対し、徒歩圏の公園は「特に決めないまま通りかかる」環境である。

教育学が体験の格差を論じるとき実際に効いてくるのは、意図して用意された体験の濃さよりも、意図しないまま積み重なる日常の経験の量であり、後者を左右するのは家庭の熱意よりも住まいの周囲の環境である。デューイが『経験と教育』(1938)で、あらゆる経験が等しく教育的なのではなく、次の経験へつながっていく経験こそが教育的なのだと述べたことを踏まえれば、公園に期待されるのは一回の濃い体験ではなく、次につながる小さな経験が反復される条件を、家庭の条件によらず地域の側に置いておくことである。したがってこの反論は、公園整備を無力とする根拠ではなく、公園を体験の下限を地域が支える装置として位置づけ直す根拠になる。

7.5 園庭・冒険遊び場・森との比較

環境設計の度合い自然の素材大人の役割公共性
園庭高い(保育者が構成)園による差が大きい計画的に構成し関わる園児に閉じる
公園中間(管理者が設計・保育者は選択)植栽・砂・虫など園による差選択と意味づけ・見守り誰にでも開く
冒険遊び場低い(子どもが作り替える)廃材・土・火・水など多いプレーリーダーが見守る開くが拠点は限られる
森・里山最も低い(設計されない)最も多い下見と見守りの専門性が要る所有・管理の形は様々

この比較から、公園の位置が見えてくる。公園は、設計の度合い・自然の素材・アクセスのすべてで中間にある。森ほど豊かではないが毎日通え、園庭ほど管理されていないが安全の枠組みがあり、冒険遊び場ほど自由ではないがどの地域にもある。教育の環境としての公園の強みは、突出した質ではなく、日常の中にあるという到達可能性である。だからこそ、公園という中間的な環境の質——素材の多様性と、そこまでの道の安全——を上げることは、特別な施設を一つ作ることよりも、多くの子どもの日常に効く。この認識を持って、次節では磐田市の公園を具体的に見る。

8. 磐田市の公園への示唆——教育の環境として100園を読む

本節では、ここまでの枠組みを磐田市に当てはめる。当サイト(ATAWI PARK)が収録する磐田市の公園は100園(磐田市オープンデータ「都市公園一覧」94行と、市施設ガイドのみに掲載の6園)である。種別では街区公園が51園と半数を占め、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園などが続く。地区別では豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。オープンデータのフラグ集計では、砂場有が43園、遊具有が64園、トイレ有が69園とされる。これらの数字を、第3節から第7節で得た三つの役割——園庭に代わる場所、自然体験の窓口、園外保育の目的地——に沿って読み直してみる。

8.1 徒歩圏の窓口としての街区公園51園

「自然欠乏」論の処方が身近な自然であるなら、磐田市でその第一線に立つのは、誘致距離250m・標準面積0.25haという国の目安で配置される街区公園51園である。家から歩いて行ける距離に、砂・土・植栽・虫のいる場所があるかどうかが、日常の自然体験の量を決める。オープンデータで見るかぎり、街区公園には一番町公園(ブランコ、滑り台、ジャングルジム、鉄棒、雲梯、砂場、トイレ)のように遊具と砂場を備える園が多い一方、御殿遺跡公園のように施設の記載がない園、二之宮東第2緑地(17㎡)のようなごく小さな都市緑地もある。教育の環境という尺度では、遊具の数よりも、砂場の有無、植栽の種類、地面の状態が重要になるが、植栽や地面の質はオープンデータからは読めない。どの公園に「動かせる素材」——どんぐり、落ち葉、砂、水——があるかは、今後の踏査で確かめるべき最重要の項目である。

どんぐり砂場43園落ち葉踏査で確認
図8教育の環境の尺度は動かせる素材の多さである。砂場の有無はデータにあるが、どんぐりや落ち葉の豊かさは現地踏査でしか分からない。

8.2 自然体験の厚い園——風致公園・大規模公園

森のようちえんの原理に照らして環境の多様性を求めるなら、候補になるのは大規模な園である。竜洋昆虫自然観察公園(風致公園・竜洋・29,119㎡)は、名称からして昆虫と自然観察を主題とする園であり、教育の環境としての性格が最も明確である。つつじ公園(風致公園・見付・61,937㎡)は複合遊具やブランコに加えて展示休憩室を備えるとされる。竜洋海洋公園(総合公園・221,722㎡)、かぶと塚公園(総合公園・106,982㎡)、兎山公園(地区公園・御厨・56,193㎡)といった大規模園は、地形や植生の変化を期待できる規模をもつ。また、遠江国分寺史跡公園(歴史公園・中泉)や一ノ谷公園(園内に一ノ谷遺跡)、京見塚公園(園内に京見塚古墳)のように史跡と一体の園は、自然体験に加えて地域の歴史に触れる園外保育の目的地となりうる。ただし、これらの園の植生や観察のしやすさを当サイトはまだ確かめていない。市の施設ガイドの記載を手がかりに、踏査で「季節の変化が見える場所」「虫や鳥に出会える場所」を記録していくことが課題である。

8.3 園外保育の目的地という視点

第6節で見たとおり、公園の教育的価値はそこまでの道と一体である。園外保育の目的地としての適性は、面積や遊具だけでなく、園からの距離、経路の横断の多さ、トイレの有無(100園中トイレ有69園)、車いす対応トイレの有無(34園)、駐車場の有無(33園)に左右される。安久路公園(地区公園・御厨・32,001㎡)は複合遊具にインクルーシブエリアがあるとされ、障害のある子どもを含む集団の園外保育の目的地として注目される。今之浦公園(近隣公園・見付)は3歳未満児遊具や芝生広場を備えるとされ、低年齢児の活動に向く可能性がある。これらの適性判断に必要な「経路の安全」「園内の見通し」は、地図とデータだけでは決められない。当サイトの踏査では、保育者や保護者が下見で見るのと同じ観点——出入口の位置、園路の分かれ方、水辺の柵——を記録していきたい。

8.4 教育の環境という尺度を踏査項目に翻訳する

教育の環境という尺度は、抽象的に唱えるだけでは現地で使えない。第3節から第7節で取り出した論点を、歩いて見て記録できる形に落とし込むと、おおむね次の四つの束になる。当サイトの踏査はまだ始まっていないため、これは実施前の設計案であり、実際に歩く中で改めていく前提のものである。

  • 素材——砂場に砂が入っているか、落ち葉やどんぐりの落ちる樹種があるか、水道や流れなど水に触れられる箇所があるか。ニコルソン(1971)のいう動かせる部分の量を、遊具の数とは別立てで数える。
  • 変化——日なたと日かげ、起伏や段差、季節ごとに姿を変える植栽があるか。同じ場所が時期によって違う顔を見せるかどうかは、繰り返し通う価値を左右する。
  • 見守りやすさ——出入口の数と位置、園路の分かれ方、道路や水路との境界に柵があるか。大人が一箇所から子どもの活動範囲を見渡せるかどうかは、リスクを残すという判断の前提になる。
  • 到達——通園・通学の経路から寄れるか、横断する車道は何本か、トイレや休める日かげがあるか。教育の環境としての価値は、園内の質と道の条件の積で決まる。

この四つは、保育者が園外保育の下見で確かめる観点とほぼ重なる。言い換えれば、教育学の枠組みは公園を評価する新しい物差しを発明するのではなく、現場ですでに使われている暗黙の物差しに名前を与え、記録できる形にするものである。磐田市の100園のうち、市施設ガイドに個別ページのある77園については園内施設の記載を出発点にできるが、記載のない園は現地で一から書き起こすことになる。記載のある園についても、施設ガイドが挙げるのは遊具とトイレが中心であり、上の四つの束のうちデータで代替できるのは素材の一部にすぎない。踏査の意義は、まさにこの空白を埋める点にある。

最後に、地区ごとの偏りに触れる。豊田28園・見付21園に対し、南部2園・向陽2園・豊岡3園・福田4園と、園数には地区差がある。園数の少ない地区では、一つの公園が担う役割——園庭の代替、日常の自然体験、園外保育の目的地——が重なりやすく、その園の環境の質が地域の子どもの経験を大きく左右する。教育の環境という視点は、公園整備の優先順位を考える際に、利用者数や面積だけでない尺度——子どもの徒歩圏に素材のある環境が届いているか——を付け加える。なお、市内の公園の管理は磐田市都市整備課(電話0538-37-4806)が担っており、環境の現状や利用の相談はまず管理者に確認すべきことも申し添えたい。

9. 結論と今後の課題

本稿は、教育学の観点から公園を「子どもの育ちの環境」として読み直すために、「自然欠乏」論、森のようちえん、幼稚園教育要領・保育所保育指針の環境構成論という三つの視点を整理し、制度的な接点と反論への応答を経て、磐田市の公園100園への示唆を述べた。得られた結論は次の四点にまとめられる。

  • 第一に、ルーブの「自然欠乏障害」は医学的診断名ではなく社会への問題提起であり、その処方は遠くの荒野ではなく身近な自然である。徒歩圏に配置される街区公園は、子どもと自然の接点を日常の中で回復しうる第一線の場所として読み直せる。
  • 第二に、森のようちえんの核心は園舎の有無ではなく、環境そのものが教材であり、大人はハザードを除いたうえで見守るという原理である。この原理は場所の名前でなく環境の質に依存するため、素材と変化に富む公園は小さな森として機能しうる。
  • 第三に、日本の幼児教育は「環境を通して行う教育」を公的な基準としており、公園は保育者の選択と意味づけによって構成される園外の環境として、この枠組みに正面から位置づけられる。園庭の代替地の運用、園外保育、2017年都市公園法改正による公園内保育所の特例と、制度上の接点も段階的に深まってきた。
  • 第四に、教育の環境としての公園の強みは突出した質ではなく日常の中の到達可能性にあり、その価値は遊具の数よりも、動かせる素材の多様性と、公園までの道の安全によって測られるべきである。

この結論は、公園を見る目を少し変えることを求める。遊具が古いか新しいかだけでなく、どんぐりの落ちる木があるか。広さの数字だけでなく、地面に起伏や日なたと日かげの変化があるか。そうした尺度は、保育者が園外保育の下見で見ているものであり、保護者が子どもと過ごす場所を選ぶときに暗黙に感じ取っているものでもある。本稿の枠組みは、その暗黙の目利きに言葉を与える試みだといってもよい。

歩いて行ける素材がある大人が見守る育ちにつながる
図9結論の要約。歩いて行ける距離に素材のある環境が届き、大人が見守り方を心得ているとき、公園は日常の教育の環境になる。

9.1 今後の課題

本稿の限界は明確である。第一に、文献整理と概念分析にとどまり、磐田市の個々の公園の環境の質——植生、地形、素材、見通し、経路——を実地に確かめていない。当サイトの踏査はこれからであり、本稿で示した「動かせる素材」「季節の変化」「経路の安全」という観点を踏査項目に組み込み、100園を順に確かめていくことが最優先の課題である。第二に、本稿は幼児期を中心に論じたが、学童期の放課後の遊び、部活動でも塾でもない時間の過ごし方における公園の役割は、別の検討を要する。第三に、保育者・保護者が実際に公園をどう選び、どう使っているかという利用の実態は、文献からは分からない。地域の園や子育て世代の声を聞き取る方法の設計も、今後の課題である。

第四に、教育学の側の概念と公園管理の側の言葉をつなぐ作業が残る。要領・指針が用いる「環境の構成」「興味や関心」という語と、公園管理が用いる「施設」「点検」「利用者」という語は、同じ場所を別々の語彙で記述している。両者を突き合わせる対応表を作ることは、地域の園と管理者が具体的な相談をするときの足場になるだろう。たとえば「動かせる素材が乏しい」という教育側の観察は、管理側の語彙では植栽の選定や落ち葉の扱いの話に翻訳される。本稿はその翻訳作業の入口を示したにすぎない。

最後に、本稿の議論が読者に手渡せるものがあるとすれば、それは「近所の公園は、思っているより多くのものを持っているかもしれない」という見方である。砂場の砂、植え込みのだんごむし、水道の水、季節ごとに違う落ち葉——それらは要領・指針の言葉でいえば教育の内容であり、ルーブの言葉でいえば欠乏を埋める資源であり、森のようちえんの言葉でいえば教材である。公園がその可能性を発揮するかどうかは、環境の質と同じだけ、そこに立つ大人の見方にかかっている。当サイトはデータベースと今後の踏査を通じて、その見方を支える情報を積み上げていきたい。

参考文献

  1. リチャード・ルーブ(2005)『あなたの子どもには自然が足りない』(春日井晶子訳、早川書房、2006)
  2. フリードリヒ・フレーベル(1826)『人間の教育』(荒井武訳、岩波文庫、1964)
  3. ジャン=ジャック・ルソー(1762)『エミール』(今野一雄訳、岩波文庫、1962)
  4. ジョン・デューイ(1899)『学校と社会』(宮原誠一訳、岩波文庫、1957)
  5. ジョン・デューイ(1938)『経験と教育』(市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)
  6. 倉橋惣三(1934)『幼稚園真諦』(フレーベル館)
  7. レイチェル・カーソン(1965)『センス・オブ・ワンダー』(上遠恵子訳、新潮社、1996)
  8. サイモン・ニコルソン(1971)「How NOT to Cheat Children: The Theory of Loose Parts」Landscape Architecture, 62(1)
  9. 文部科学省「幼稚園教育要領」(平成29年3月告示)
  10. 厚生労働省「保育所保育指針」(平成29年3月告示)
  11. 内閣府・文部科学省・厚生労働省「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」(平成29年3月告示)
  12. 幼稚園設置基準(昭和31年文部省令第32号)
  13. 児童福祉施設の設備及び運営に関する基準(昭和23年厚生省令第63号)
  14. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市緑地法等の一部を改正する法律(平成29年法律第26号)(国土交通省 都市公園のページ)
  15. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  16. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  17. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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