人文学倫理学

子どものリスクと自由——パターナリズム・リスキープレイ・親の責任の倫理学

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:倫理学 公開・更新 2026-08-17 本文 約22,795字 読了目安 41分

要旨

本稿の目的は、「子どもを危険から守ること」と「子どもが自分で試し、失敗し、育つ自由を守ること」という、公園をめぐって日常的に衝突する二つの要請を、倫理学の概念で整理し、両者の折り合いをどこに見いだせるかを示すことである。方法は文献整理と概念分析であり、J・S・ミル『自由論』(1859)の危害原理とパターナリズム論、ジョエル・ファインバーグの「開かれた未来への権利」、ノルウェーの研究者エレン・サンドセターが2007年以降に展開したリスキープレイ(危険を含む遊び)研究、そして国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」が採用する「リスク」と「ハザード」の区別を、それぞれ公園という具体的な場に当てはめて検討する。

検討の結果、次の三点が導かれる。第一に、危害原理は判断能力の成熟した大人を対象とするため子どもにはそのまま適用できないが、だからといって子どもへのパターナリズムが無制限に正当化されるわけではなく、「その子が将来自分で選べるようになるための介入か」という基準によって限界づけられる。第二に、リスクとハザードの区別は、単なる技術的な分類ではなく、「子どもが引き受けてよい危険」と「大人が取り除くべき危険」を分ける倫理的な線引きであり、この区別を欠いた安全対策は、遊びの価値そのものを削ってしまう。第三に、遊具の撤去や親の見守りは、それ自体が「何もしない」選択ではなく、一つの価値判断であって、その責任は設置者・保護者・地域社会の間で分け持たれるべきものである。

最後に、磐田市の都市公園100園を対象とするデータベースの立場から、街区公園51園・近隣公園14園という構成、木製アスレチック遊具やターザンロープを備える園の存在、幼児用遊具やインクルーシブ遊具の記載を手がかりに、上記の枠組みが磐田市でどのように具体化されうるかを述べる。ただし当サイトの現地踏査は始まっていないため、遊具の状態や見守りの実態にかかわる論点はすべて今後の課題として残す。医学的な判断は医療機関へ、遊具の安全判断は管理者と関係機関へ返す。

キーワード危害原理パターナリズムリスキープレイリスクとハザード親の見守り遊具の安全磐田市

1. はじめに——問題の所在

公園で子どもが高いところに登ろうとしたとき、保護者は一瞬ためらう。「危ないから降りなさい」と言うべきか、「気をつけてね」と見守るべきか。この一瞬のためらいには、倫理学が長く扱ってきた問題が凝縮されている。すなわち、他人(ここでは子ども)の行為に、その人自身の利益を理由に介入してよいのはどのようなときか、という問題である。介入すれば子どもの安全は高まるかもしれないが、子どもが自分で試し、失敗し、限界を知る機会は減る。介入しなければ子どもの自由は守られるが、けがをするかもしれない。どちらを選んでも何かを失う。この選択が「正しい」といえる条件を考えることが、本稿の出発点である。

この問題は個人の心構えにとどまらない。公園の設置者である自治体は、事故があれば遊具を撤去するか、使用禁止のテープを巻くかを判断しなければならない。国は遊具の安全確保に関する指針を定め、そこで「リスク」と「ハザード」を区別している。学校や保育の現場では、子どもに冒険的な遊びをどこまで許すかが議論される。保護者は「見守りが足りない」とも「過保護だ」とも言われうる立場に置かれる。つまり公園をめぐるリスクの問題は、保護者・設置者・地域社会という複数の主体が、それぞれ別の責任を負いながら関わる、分配の問題でもある。

本稿の問いは次の三つである。第一に、大人の自由を論じるために作られた倫理学の道具立て——J・S・ミルの危害原理パターナリズムの議論——は、判断能力の途上にある子どもにどこまで適用でき、どこで修正を要するのか。第二に、遊びの研究者エレン・サンドセターが提示したリスキープレイ(危険を含む遊び)の概念と、国の遊具安全指針が採用するリスクとハザードの区別は、倫理学の目で見ると何を意味しているのか。第三に、これらを踏まえたとき、遊具を撤去することの是非、親の見守りの責任、社会が引き受けるべきリスクの範囲は、どのように整理できるのか。

登る子ども見守る大人止めるか否か
図1子どもが高いところへ登ろうとする一瞬に、大人は「止める」か「見守る」かを選ぶ。この選択の正しさの条件を問うのが本稿の出発点である。

1.1 なぜ倫理学から公園を論じるのか

公園の安全を扱う学問は多い。工学は遊具の強度と寸法を、疫学はけがの頻度と型を、発達心理学は遊びが育てる力を扱う。しかしこれらの学問は「どうすれば事故が減るか」「遊びは何を育てるか」には答えても、「事故を減らすために遊びの価値をどこまで削ってよいか」という価値の比較には、それ自体としては答えない。安全と自由はどちらも善いものであり、両方を最大にすることはできない。どちらをどれだけ優先するかは、事実の問題ではなく規範の問題であって、これを扱うのが倫理学である。倫理学は正解を一つに決める学問ではないが、対立する主張の前提を明るみに出し、どの前提を受け入れればどの結論に至るかを見通せるようにする。本稿はその整理を試みる。

もう一つの理由は、公園のリスクをめぐる議論が、しばしば感情と経験則だけで進みがちなことである。「昔はもっと自由に遊んだ」という懐古も、「一件でも事故があってはならない」という潔癖も、それぞれ一面の真実を含むが、そのままでは対話が成り立たない。両者を同じ言葉で語れるようにするには、「危険」という一語をほどいて、誰が、何を、どこまで引き受けるのかを分けて考える必要がある。倫理学の概念は、そのための共通の言葉を提供する。

1.2 方法と立場・本稿の構成

方法は文献整理と概念分析である。参照するのは、ミル『自由論』(1859)、ジェラルド・ドゥオーキンとジョエル・ファインバーグのパターナリズム論、ファインバーグの「開かれた未来への権利」(1980)、サンドセターのリスキープレイ研究(2007年以降)、ティム・ギル『No Fear』(2007)、ウルリヒ・ベックの危険社会論(1986)、ハンス・ヨナスの責任原理(1979)、アリストテレス『ニコマコス倫理学』、児童の権利に関する条約、そして国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」である。存在が確実な古典と公的資料に限って参照し、統計値や医学的な断定は避ける。けがや発達にかかわる判断は医療機関と専門家へ、遊具の安全判断は管理者と関係機関へ返す。

本稿の立場も明らかにしておく。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園のデータベースであり、運営は富士ヶ丘サービス株式会社が行っているが、現地踏査はこれからである。したがって本稿は磐田市の遊具の実態を報告するものではなく、文献にもとづく枠組みの提示であり、磐田市への言及は市のオープンデータと施設ガイドの記載の範囲にとどめる。構成は次のとおりである。第2節で先行研究と概念を整理し、第3節で危害原理とパターナリズムを子どもに適用する際の修正を検討する。第4節でリスキープレイの倫理を、第5節でリスクとハザードの区別を扱う。第6節で遊具撤去の倫理、第7節で親の見守り責任、第8節で社会が引き受けるリスクの範囲を論じ、第9節で磐田市の公園への示唆を述べ、第10節で結論と今後の課題を示す。

2. 先行研究と概念の整理

本節では、本稿が用いる主要な概念を四つの系譜に分けて整理する。第一は自由主義の政治哲学に由来する危害原理とパターナリズム論、第二は子どもの権利論、第三は遊びの研究に由来するリスキープレイ概念、第四は遊具の安全確保にかかわる公的指針の考え方である。これらは出自の異なる議論であるが、いずれも「子どもが引き受けてよい危険」と「大人が取り除くべき危険」の線引きにかかわっている。

2.1 危害原理とパターナリズム

J・S・ミルは『自由論』(1859)で、文明社会において個人の自由に権力が干渉してよい唯一の目的は、他人への危害を防ぐことである、と述べた。これが危害原理である。ミルによれば、本人自身の利益——身体的であれ道徳的であれ——は、干渉の十分な理由にならない。ここで重要なのは、ミル自身がこの原理の適用範囲を限定していることである。彼はこの原理が「能力の成熟した人間」にのみ当てはまり、子どもや、他人の世話を必要とする年齢の者には当てはまらないと明言している。つまり危害原理は、最初から子どもを例外としている。だからといって子どもへの介入が何でも許されるとミルが考えたわけではない。彼の関心は、子どもを将来の自由な成人として育てることにあった。

本人の利益を理由に本人の自由に介入することをパターナリズム(父権的干渉)と呼ぶ。この語を分析的に整理したのがジェラルド・ドゥオーキンの論文「Paternalism」(1972)であり、その後ジョエル・ファインバーグが『Harm to Self』(1986)で、本人の選択が十分に自発的である場合に介入するハード・パターナリズムと、選択が自発的でない(無知・強制・未成熟などによる)場合に介入するソフト・パターナリズムを区別した。ファインバーグによれば、ソフト・パターナリズムは実は本人の自律への介入ではなく、本人の「本当の意思」を守るものであり、自由主義と両立する。子どもへの介入の多くはこのソフト・パターナリズムとして理解される。しかし、子どもがどこまで「自発的に」選べているかは年齢や場面によって変わり、線引きは容易でない。

2.2 子どもの権利と「開かれた未来」

ファインバーグはさらに、論文「子どもの開かれた未来への権利」(1980)で、子どもには、成人したときに自分で選べる選択肢を、いま大人が閉ざさないよう求める権利がある、と論じた。この考えは、子どもへの介入の限界を示す基準として使える。すなわち、介入が正当化されるのは、それがその子の将来の選択の幅を守るためである場合であり、大人の都合や恐れのために将来の選択肢を狭める介入は正当化されにくい。児童の権利に関する条約(1989)は、第3条で子どもの最善の利益を、第5条で「発達しつつある能力」に応じた指導を、第31条で休息・余暇・遊びの権利を定めており、保護と自律を同時に要請している点で、この議論と響き合う。

危害原理保護と自律子ども開かれた未来
図2ミルの危害原理は子どもを例外とするが、ファインバーグの「開かれた未来への権利」は、子どもへの介入にも限界があることを示す。保護と自律の天秤が本稿の基本図式である。

2.3 リスキープレイ研究

ノルウェーの研究者エレン・ベアーテ・ハンセン・サンドセターは、2007年の論文で、子どもの遊びのうち不確実さと身体的なけがの可能性を含む「わくわくする」遊びをリスキープレイと名づけ、これを六つの型に分類した。高いところで遊ぶ、速いスピードで遊ぶ、危険な道具を使う、危険な要素(水辺・火など)の近くで遊ぶ、取っ組み合いの遊び、そして大人の目から離れて(迷子になりうるほど)遊ぶ、である。さらにサンドセターとケナーは2011年の論文で、リスキープレイには恐怖を段階的に克服する「抗恐怖症的」な効果があるという進化的な見方を提示した。この研究群の意義は、危険を含む遊びを「なくすべき問題」ではなく「子どもが求める価値をもつ活動」として記述したことにある。ただし本稿は、それを医学的・発達的な効果の断定として扱うのではなく、遊びの価値をめぐる規範的議論の材料として用いる。

2.4 リスクとハザードの区別

国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」は、遊具の安全を考える基本として、遊びの価値の一つであり子どもが予測し判断できる危険を「リスク」、遊びの価値とは関係のないところで発生し子どもが予測できない危険を「ハザード」と呼び分け、リスクは遊びに必要なものとして残しつつ、ハザードは除去すべきものと位置づけている。この区別は、ティム・ギルが『No Fear』(2007)でイギリスの状況を論じた際の枠組みとも重なり、遊びの安全に関する国際的な考え方の共通項をなしている。倫理学の目から見れば、これは単なる技術用語ではなく、「誰が引き受けてよい危険か」を分ける規範的な線引きである。第5節で詳しく扱う。

概念出典問い本稿での役割
危害原理ミル『自由論』1859他人への危害がなければ介入できないのか大人の自由の基準。子どもは例外とされる
ソフト/ハード・パターナリズムファインバーグ1986本人の選択が自発的かどうかで介入の許否が変わるか子どもへの介入をソフト型として位置づける
開かれた未来への権利ファインバーグ1980将来の選択肢を大人が閉ざしてよいか介入の限界を示す基準
リスキープレイサンドセター2007以降危険を含む遊びに価値はあるか遊びの側から見た危険の意味
リスクとハザード国土交通省指針どの危険を残し、どの危険を除くか設置者・保護者の責任の線引き

以上の四つの系譜は、それぞれ別の学問と実務から生まれたが、本稿ではこれらを一つの問い——子どものリスクを誰がどこまで引き受けるか——に向けて組み合わせる。危害原理とパターナリズム論は「介入してよいか」を、開かれた未来への権利は「介入の限界はどこか」を、リスキープレイ研究は「なぜ危険を残す価値があるか」を、リスクとハザードの区別は「どの危険を残すか」を、それぞれ担当する。次節以降でこれを順に展開する。

3. 危害原理は子どもに使えるか——パターナリズムの正当化条件

前節で見たとおり、ミルは危害原理の適用対象を判断能力の成熟した大人に限った。したがって「子どもが登りたがっているのだから、他人に危害がない限り止めてはならない」という主張は、ミル自身の議論からは出てこない。しかしこの結論は、ともすれば「子どもには自由の原理が及ばないのだから、大人は子どもの安全のために何をしてもよい」という逆の極論に滑りやすい。本節では、この両極のあいだで、子どもへの介入が正当化される条件を三つの層に分けて考える。

3.1 第一の層——判断能力の有無ではなく「発達しつつある能力」

ミルの枠組みは判断能力を「ある/ない」の二値で扱っているように読めるが、実際の子どもは、能力を少しずつ獲得していく途上にある。児童の権利に関する条約第5条が「発達しつつある能力」という表現を用いているのはこのためである。二歳の子どもと十歳の子どもでは、高さや速さについて予測できる範囲がまったく違う。したがって「子どもだから介入してよい」という一般論は粗すぎる。問うべきは、その場面でその子が、当該の危険を予測し、対処できる能力をどの程度もっているかである。能力があるところでは介入の理由は弱まり、能力がないところでは強まる。パターナリズムの許否は、年齢という属性ではなく、場面ごとの能力との関係で決まる。

この見方は、ファインバーグのソフト・パターナリズムとつながる。ソフト・パターナリズムは、本人の選択が十分に自発的でないときに限って介入を認める。子どもの場合、危険を理解せずに登っているなら、その選択は十分に自発的とはいえず、止めることは本人の「本当の意思」——けがをしたくない、遊び続けたい——を守ることになる。逆に、危険を理解したうえで挑んでいるなら、その選択にはある程度の自発性があり、介入の根拠は弱くなる。ここで大人に求められるのは、止める前に「この子はこの危険を分かっているか」を見ることである。それは能力を試す機会でもある。

3.2 第二の層——介入の目的は「将来の自由」であること

介入の目的が問われる。ミルが子どもを例外にした理由は、子どもを将来の自由な主体として育てるためであった。ファインバーグの「開かれた未来への権利」は、これをより明確な基準にする。介入は、その子が将来自分で選べるようになるためのものでなければならず、将来の選択肢を狭める介入は、たとえ目下の安全を高めるとしても正当化されにくい。たとえば「けがをしないように」あらゆる高さから遠ざけ続ける介入は、その子が高さを判断する能力を身につける機会を奪い、将来にわたって選択の幅を狭めるかもしれない。この基準は、介入の量ではなく方向を問う。同じ「止める」でも、「今日はここまでにして、次はもう一段上に挑もう」という止め方は将来の自由に開かれているし、「危ないから二度と登るな」という止め方は閉じている。

段階を踏む将来に開く介入将来を閉じる介入
図3介入は量ではなく方向で評価される。段階を踏んで次に進める止め方は将来の自由に開かれ、二度と挑ませない止め方は閉じている。

3.3 第三の層——介入する側の利益と恐れを分ける

第三に、パターナリズムの名で行われる介入のうち、実際には介入する側の利益や恐れによるものを見分ける必要がある。「けがをさせたら周りに何と言われるか」「管理者として責任を問われたくない」という動機は、子ども本人の利益ではない。これらは自己保身の動機であって、パターナリズムではない。もちろん、保護者や管理者が自分の立場を守ろうとすることは、それ自体としては非難されることではない。しかし、それを「子どものため」と言い換えて正当化するのは、議論をゆがめる。倫理学の役割の一つは、この言い換えを見抜き、動機を正直に名指すことである。動機が自己保身であれば、それは第8節で扱う「社会がリスクをどう分配するか」の問題として、別に議論すべきである。

以上の三層をまとめると、子どもへの介入が正当化されるのは、(1)その場面でその子が当該の危険を予測・対処する能力を欠いており、(2)介入がその子の将来の選択の幅を守る方向であり、(3)介入の動機が子ども本人の利益である、という条件が重なるときである。三つがそろえば介入は正当であり、一つでも欠ければ再考を要する。この条件は「介入するな」でも「介入せよ」でもなく、「介入の前に三つを確かめよ」という手続きを示している。次節では、この手続きの前提となる、なぜ危険を含む遊びに価値があるのかを、リスキープレイ研究の側から検討する。

註:本節の議論は保護者と管理者の判断の枠組みを示すものであり、個々の子どもの能力や体調にかかわる判断は、必要に応じて医療機関や保育・教育の専門家に相談すべきである。倫理学は「どう考えるか」を整理するが、「この子は登ってよいか」を代わりに決めることはできない。

4. リスキープレイの倫理——なぜ危険を含む遊びに価値があるのか

前節の三条件は、介入の手続きを示したにすぎない。介入をためらう理由がそもそもあるのか——つまり、危険を含む遊びには守るに値する価値があるのか——を示さなければ、「念のため止める」が常に正解になってしまう。本節では、サンドセターのリスキープレイ研究を手がかりに、危険を含む遊びの価値を、快楽・能力・性格という三つの観点から倫理学的に位置づける。

4.1 サンドセターの六つの型と「わくわく」の価値

サンドセター(2007)は、幼児の遊びを観察し、子どもが自ら求める危険を含む遊びを、高所・高速・危険な道具・危険な要素・取っ組み合い・大人から離れる、という六つの型に分けた。彼女の記述で注目すべきは、子どもがこれらの遊びを、恐れと楽しさが混ざった「わくわく」する経験として求める、という点である。つまり危険は遊びの副産物ではなく、遊びの魅力の一部をなしている。滑り台の高さや、ブランコの速さや、木製アスレチックの不安定さは、取り除けば取り除くほど「安全な遊具」に近づくが、同時に「遊びたい遊具」から遠ざかる。安全対策がしばしば「誰も遊ばない遊具」を生むのは、この構造による。

倫理学の言葉でいえば、これは遊びの内在的価値の問題である。遊びは何かの手段としてではなく、それ自体として楽しいから価値がある。児童の権利に関する条約第31条が「遊び」を余暇や文化的生活と並べて権利として掲げているのは、遊びを将来への投資としてだけでなく、いまの子どもの生活の質として認めているからである。危険を含む遊びの価値を論じるとき、「けがのリスクを上回る発達上の利益があるか」という費用便益の問いだけに還元すると、この内在的価値が抜け落ちる。子どもが「いま楽しい」ことは、それ自体が考慮に入れるべき善である。

4.2 能力の獲得——恐れを段階的に扱う

サンドセターとケナー(2011)は、リスキープレイが恐怖を段階的に克服する働きをもつという進化的な仮説を示した。この仮説の妥当性は心理学と医学の領域で検討されるべきものであり、本稿はそれを断定しない。しかし倫理学にとって重要なのは、仮にこの働きが一部でも認められるなら、危険を子どもから遠ざけ続けることは、危険に対処する能力を身につける機会を奪うことになる、という点である。前節で見た「開かれた未来への権利」に照らせば、高さ・速さ・不安定さを判断する能力は、将来の選択肢を広げる能力の一部であり、これを育てる機会を閉ざすことは、それ自体が一つの介入——しかも将来を閉じる方向の介入——である。「何もしないこと」が中立ではない、という論点は第6節でも繰り返し現れる。

高さ速さ不安定さわくわく
図4高さ・速さ・不安定さは遊びの魅力の一部であり、取り除くほど「安全だが遊ばれない遊具」に近づく。危険を含む遊びの内在的価値がここにある。

4.3 性格の形成——アリストテレスの勇気論から

第三の観点は、徳倫理学に由来する。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、徳を過剰と不足のあいだの中庸として説明し、勇気を無謀(過剰)と臆病(不足)のあいだに置いた。勇気ある人とは、恐れるべきものを恐れ、恐れなくてよいものを恐れず、しかるべき仕方で行動する人である。重要なのは、アリストテレスがこの徳を「習慣づけ」によって身につくものとした点である。勇気は生まれつきの性質ではなく、恐れを伴う場面で適切に振る舞う経験を重ねることで形成される。この見方に立てば、子どもが公園で「少し怖いが、やってみる」を繰り返す経験は、勇気という徳の練習である。逆に、恐れを伴う場面をすべて取り除かれた子どもは、勇気を練習する場を失う。無謀を避けるために臆病を育てる、という逆説がここに生じる。

ただし、この議論は「危険であるほどよい」を意味しない。アリストテレスの中庸は、無謀を戒めることでもある。恐れなくてよいものを恐れないのが勇気なら、恐れるべきものを恐れるのもまた勇気である。子どもが自分の能力を超えた高さに挑もうとするとき、それを止めることは臆病を教えることではなく、「恐れるべきもの」を教えることである。したがって徳倫理学から導かれるのは、危険をゼロにすることでも最大にすることでもなく、その子にとって「少し怖いが手が届く」水準の危険を、段階的に経験できるようにすることである。これは、前節の三条件の第一(能力の見極め)と第二(将来に開かれた介入)を、性格形成の観点から裏づける。

以上、快楽(内在的価値)・能力(開かれた未来)・性格(勇気の中庸)という三つの観点から、危険を含む遊びには守るに値する価値があることを確認した。この価値があるからこそ、介入は「念のため」ではなく、前節の三条件を満たしたときに限って正当化される。しかし、価値のある危険と、価値のない危険とは区別されなければならない。木製アスレチックの不安定さは価値をもつが、腐った丸太の折れやすさは価値をもたない。この区別を扱うのが、次節のリスクとハザードの議論である。

5. リスクとハザードの区別——技術用語の倫理学的読み直し

国土交通省の遊具安全指針は、遊具の安全確保にあたって「リスク」と「ハザード」を区別する。指針の考え方によれば、リスクとは遊びの価値の一つであり、子どもが予測でき、挑戦するかどうかを自分で判断できる危険である。これに対してハザードとは、遊びの価値とは関係のないところで発生し、子どもが予測できず、判断のしようのない危険である。指針は、リスクは遊びに不可欠なものとして適切に残し、ハザードは除去すべきものと位置づける。一般社団法人日本公園施設業協会の「遊具の安全に関する規準」も、この考え方を遊具の設計・製造・点検の基準として具体化している。本節では、この区別が倫理学の目からどう見えるかを検討する。

5.1 区別の中身——「予測できるか」と「遊びの価値と関係があるか」

この区別には二つの軸がある。第一の軸は、子どもがその危険を予測できるかである。滑り台の高さは見れば分かる。登れば落ちるかもしれないことは、幼い子どもでも身体で感じ取る。これに対して、金具の緩みや、板の裏側の腐りや、服のひもが引っかかる隙間は、見ても分からない。第二の軸は、その危険が遊びの価値と関係があるかである。高さは遊びの魅力そのものであるが、金具の緩みは遊びを何ら楽しくしない。この二つの軸で見ると、リスクは「予測でき、かつ遊びの価値と結びついた危険」、ハザードは「予測できず、かつ遊びの価値と無関係な危険」となる。前節で述べた「木製アスレチックの不安定さ」と「腐った丸太の折れやすさ」の違いは、まさにこの二軸で説明できる。

観点リスクハザード
子どもは予測できるかできる(見て、触って分かる)できない(隠れている)
遊びの価値との関係価値の一部(高さ・速さ・不安定さ)無関係(腐食・緩み・突起・隙間)
誰が引き受けるか子ども自身が判断して引き受ける設置者・管理者が除去する義務を負う
取り除いた場合遊びの魅力も減る遊びの魅力は減らない
倫理学上の位置介入するならパターナリズム(正当化を要する)介入は危害防止であり正当化は容易
典型的な対処対象年齢の表示・段階的な設計・見守り点検・修繕・撤去

5.2 倫理学から見た区別の意味——「同意できる危険」と「同意できない危険」

倫理学の言葉に置き換えると、この区別は同意の可能性にかかわる。ミルの危害原理が本人の自由を尊重するのは、本人が自分の行為の結果を理解し、引き受けることに同意しているからである。子どもは大人ほど十分な同意はできないが、見て分かる高さについては、幼いなりに「登る/登らない」を選んでいる。これは不完全ながら一種の同意である。ハザードについては、そもそも見えないのだから、同意のしようがない。同意できない危険を子どもに負わせることは、子どもの選択を尊重することにはならず、単に危害を放置することである。したがって、ハザードの除去は子どもの自由への介入ではまったくなく、正当化に苦労する必要もない。逆に、リスクを取り除くことは、子どもが選びうる選択肢を減らすことであり、これは正真正銘のパターナリズムであって、第3節の三条件による正当化を要する。

この整理から重要な帰結が導かれる。「安全対策」という一語のもとで行われることの中には、倫理的な性格のまったく異なる二種類の行為が混在している。ハザードの除去(点検・修繕)は、誰も反対しない危害防止であり、設置者の義務である。リスクの除去(高い遊具の撤去、走ってはいけないという規則)は、遊びの価値を削る介入であり、正当化を要する。この二つを分けずに「安全のため」と一括りにすると、義務であるハザード除去が怠られる一方で、正当化を要するリスク除去が無批判に進む、という最悪の組み合わせが起こりうる。指針が両者を区別することを求めているのは、技術上の便宜のためだけでなく、この混同を避けるためであると読める。

見える危険見えない危険の点検3-6対象年齢の表示残してよい危険
図5見える危険(リスク)は残し、見えない危険(ハザード)は点検で除く。対象年齢の表示は、どの子にとってリスクでどの子にとってハザードかを伝える橋渡しである。

5.3 区別の限界——同じ危険が子どもによって変わる

ただし、この区別には限界がある。「予測できるか」は子どもの発達段階によって変わる。十歳の子どもにとって予測できる高さは、二歳の子どもにとっては予測できない。同じ遊具の同じ高さが、ある子にはリスクであり、別の子にはハザードになる。指針が遊具に対象年齢の表示を求め、幼児用の遊具と児童用の遊具を分けて考えるのは、この限界を補うためである。倫理学的にいえば、対象年齢の表示は、「この危険は何歳程度の子どもなら同意できるものとして設計されている」という設置者から保護者へのメッセージであり、リスクとハザードの線を子どもごとに引き直す手がかりを保護者に渡すものである。表示があっても、最終的にその子にとってリスクかハザードかを見極めるのは、その場にいる大人である。ここに第7節で扱う見守りの責任が接続する。

もう一つの限界は、区別が「行為の時点」の判断であることである。設置時にリスクであった高さも、遊具が老朽化して手すりが緩めば、その高さはハザードに転じる。区別は一度きりの分類ではなく、点検のたびに更新されるものである。指針が定期点検を求めるのは、この更新のためでもある。ここから、リスクとハザードの区別が、設置者の継続的な責任を含意することが分かる。次節では、この責任のもとで行われる「撤去」という選択の倫理を検討する。

6. 遊具を撤去することの倫理——「何もしない」は中立か

事故があった、あるいは老朽化が進んだとき、設置者の前には「撤去する」という選択肢が現れる。撤去は、修繕や更新に比べて費用が少なく、将来の事故の可能性を確実にゼロにするように見える。しかも撤去は、何かを「する」というより、危ないものを「なくす」ことであり、責任の少ない選択に感じられる。本節ではこの直感を検討し、撤去が中立な選択ではなく、一つの価値判断であることを示したうえで、撤去が正当化される条件を整理する。

6.1 撤去は不作為ではない

倫理学には、積極的に何かをすること(作為)と、何もしないこと(不作為)を区別し、作為のほうが重い責任を負う、という考え方がある。撤去は一見、遊具という「作為」をやめて元の状態に戻す不作為のように見える。しかしこれは誤りである。公園に遊具があることは、地域の子どもにとってすでに前提となった環境であり、それを取り去ることは、子どもの遊ぶ場所を能動的に減らす行為である。前節までの議論に照らせば、遊具の高さや速さがリスク(遊びの価値をもつ危険)であるなら、その遊具を撤去することはリスクの除去であり、正真正銘のパターナリズム的介入である。介入である以上、第3節の三条件——能力の見極め・将来に開かれた方向・動機の正直さ——による正当化を要する。撤去は「安全側に倒しただけ」の中立な選択ではない。

さらに、撤去の効果は撤去された遊具の上で終わらない。ティム・ギルが『No Fear』(2007)で論じたように、公園から挑戦的な遊具が消えると、挑戦を求める子どもは、設計も点検もされていない場所——工事現場、川辺、屋根の上——に向かうかもしれない。設計され点検された遊具の上のリスクを除去した結果、設計も点検もない場所のハザードにさらされる、という置き換えが起こりうる。この可能性は実証されるべき問いであり本稿は断定しないが、撤去の判断において「撤去した後、子どもはどこで遊ぶのか」を問わないことは、判断の視野を狭くする。

6.2 予防原則の誤用と「組織された無責任」

撤去を正当化する際にしばしば持ち出されるのが予防原則である。予防原則は、環境問題の文脈で、深刻または回復不可能な被害のおそれがある場合には、科学的な確実性がなくても対策を先送りしてはならない、という考え方として広まった(1992年のリオ宣言第15原則がよく知られる)。ハンス・ヨナスが『責任という原理』(1979)で示した「恐れの発見術」——最悪の事態を想像し、それを避けるように行動せよ——も、同じ系譜に置かれることが多い。しかしヨナスが念頭に置いたのは、科学技術が人類の存続そのものを脅かす、取り返しのつかない事態であった。遊具の高さから落ちるという、古くから知られ、程度も予測でき、多くの場合は回復可能なリスクに、この原理をそのまま当てはめるのは飛躍である。むしろヨナスの原理を子どもに向けて読み替えるなら、取り返しがつかないのは、子どもの時期に挑戦の場を持てなかったことのほうかもしれない。

ウルリヒ・ベックは『危険社会』(1986)で、現代社会では危険が社会的に作り出され、その責任の所在が制度のあいだで分散して、結局誰も責任を負わない「組織された無責任」が生じる、と論じた。遊具の撤去にもこの構図が現れうる。事故が起きたとき、設置者は責任を問われることを恐れる。だから撤去する。撤去すれば、その遊具で事故が起きることはなくなり、設置者の責任は消える。しかし、遊ぶ場所を失った子どもの不利益は、誰の責任にも数えられない。損失は確かに生じているのに、それを引き受ける主体がいない。これが「組織された無責任」の公園版である。第3節の第三条件(動機の正直さ)は、ここで効いてくる。撤去の動機が「子どものため」なのか「責任を問われないため」なのかを、設置者は自らに問う必要がある。

使用禁止遊具撤去か修繕か遊び場を失う子
図6撤去は「何もしない」ことではなく、子どもの遊び場を能動的に減らす行為である。撤去の後に子どもがどこで遊ぶかを問わない判断は視野が狭い。

6.3 撤去が正当化される条件と、その前に検討すべき選択肢

以上は撤去を一律に否定するものではない。撤去が正当化される場合は明らかにある。第一に、遊具の危険がハザード——予測できず遊びの価値と無関係な危険——であって、修繕や部品交換で除去できない場合。この場合、撤去はパターナリズムではなく危害防止であり、設置者の義務ですらある。第二に、遊具の危険がリスクであっても、その公園の利用者層(たとえば幼児が中心の街区公園)にとっては予測できない水準にあり、対象年齢の表示や設計の変更で調整できない場合。第三に、修繕・更新の費用が現実に負担できず、他に代替の遊び場が徒歩圏に確保されている場合。いずれの場合も、撤去は「最後の手段」であり、その前に修繕・部品交換・対象年齢の表示・一部の使用制限・段階的な更新といった選択肢が検討されるべきである。使用禁止のテープは、点検と判断のあいだの一時的な措置としては正当であるが、恒久的な状態になれば、撤去と同じ効果を持ちながら判断を先送りしているにすぎない。

撤去の判断手続きをまとめれば、(1)その危険はリスクかハザードか、(2)ハザードなら修繕で除去できるか、(3)リスクなら誰が何のために除去を求めているか、(4)撤去した後、子どもはどこで遊ぶのか、の四点を順に問うことである。この手続きは、設置者の負担を増やすように見えるが、実は設置者を守るものでもある。撤去の理由を「安全のため」としか説明できない設置者は、住民から「なぜ撤去したのか」と問われたときに答えに窮する。四点を検討したうえでの撤去は、その理由を住民に説明でき、説明できる判断は、責任を分け持つ第一歩になる。責任の分け持ちについては、第8節で改めて扱う。

7. 親の見守り責任——監視でも放任でもなく

遊具の設置者の責任と並んで、公園でのリスクを引き受けるもう一人の主体が保護者である。法律の上では、民法は未成年者のうち責任能力を欠く者について、監督義務を負う者が原則として損害賠償の責任を負うと定めている(民法第714条)。しかし本節が扱うのは、この法的責任の内容ではなく、その手前にある倫理的な問い——保護者は公園で子どもの何を、どこまで、どのように見守るべきか——である。「見守り」という言葉は日常語として広く使われるが、その中身は驚くほど曖昧である。本節では、これを監視・見守り・放任という三つの態度に分けて整理し、それぞれが前節までの枠組みのどこに位置するかを示す。

7.1 三つの態度——監視・見守り・放任

監視とは、子どもの行動を常に把握し、危険の兆しがあれば先回りして止める態度である。これは第3節の三条件のうち第一(能力の見極め)を省いて介入する態度であり、その子が予測できるリスクまで取り除いてしまう。第4節で見た遊びの内在的価値・能力の獲得・勇気の練習の機会は、監視のもとでは細る。放任とは、子どもの行動を把握せず、介入の用意もない態度である。これは、その子が予測できない危険(その子にとってのハザード)にさらされているときにも介入が行われないことを意味し、ソフト・パターナリズムが正当化される場面で介入を怠ることになる。見守りは、この両者のあいだにある。子どもの行動を把握しつつ、その子が予測でき対処できるリスクには手を出さず、予測できない危険や、能力を明らかに超えた挑戦には介入する用意をもつ態度である。見守りとは、三条件を場面ごとに適用し続ける態度にほかならない。

態度子どもの行動の把握介入の基準枠組み上の問題
監視常に把握し先回りする危険の兆しがあれば止める予測できるリスクまで除去し、遊びの価値を削る
見守り把握しつつ距離を保つ能力を超えた危険・予測できない危険に限って介入三条件を場面ごとに適用する(本稿の推奨)
放任把握していない介入の用意がないその子にとってのハザードを放置する

7.2 見守りの距離は年齢とともに変わる

見守りの中身は、子どもの「発達しつつある能力」に応じて変わる。歩き始めたばかりの子どもは、段差の一つひとつが予測できない危険であり、手の届く距離での見守りが求められる。就学前の子どもは、見て分かる高さや速さについては自分で判断し始めており、視界に入る距離での見守りが適切になる。学齢期の子どもは、大人の目から離れて遊ぶこと自体を求めるようになる。サンドセターが六つの型の一つに「大人から離れて遊ぶ」を挙げたのは、大人の目から離れることが、子どもにとってそれ自体価値をもつリスキープレイだからである。つまり見守りには、「見守らないこと」を段階的に増やしていくことが含まれる。見守りの距離が年齢とともに広がらない場合、それは監視に近づく。逆に、能力が育つ前に距離を広げれば、放任に近づく。この調整を場面ごとに行うことが、保護者の責任の中心である。

手の届く距離視界の中距離を広げる離れて遊ぶ
図7見守りの距離は年齢とともに広がる。手の届く距離から視界の中へ、そして大人の目から離れて遊ぶことへ。距離を広げないことは監視に近づく。

7.3 保護者の責任の範囲——リスクは保護者、ハザードは設置者

保護者の見守り責任には、限界がある。第5節で見たとおり、ハザードは「見ても分からない」危険である。金具の緩みや構造の腐りは、保護者がどれほど注意深く見守っていても見つけられない。したがって、ハザードによる事故を「見守りが足りなかった」と保護者に帰するのは、責任の割り当てとして誤っている。ハザードの除去は設置者の責任であり、保護者の責任は、その子にとってのリスク——見て分かる高さや速さが、その子の能力に見合っているか——を見極めることに限られる。この分担は、保護者を責めないためだけでなく、設置者が「保護者が見ていなかったから」と責任を転嫁することを防ぐためにも必要である。同時に、保護者が「設置者がちゃんと点検すべきだ」といって、その子の能力を超えた挑戦を見過ごすことも、責任の転嫁である。それぞれが自分の担当する危険を引き受けることで、はじめて分担が成り立つ。

もう一つ、危害原理が直接に働く場面がある。子どもが他の子どもに危害を加えかねないとき——高いところから物を投げる、小さな子のいる場所で走り回る——である。この場合、介入はパターナリズムではなく、他人への危害の防止であり、ミルの原理からしても正当化に何の困難もない。「うちの子の自由だ」という主張は、他の子の安全の前では通らない。見守りの責任には、自分の子どもの安全だけでなく、自分の子どもが他の子どもの安全を脅かさないようにする責任が含まれる。公園が共有の場である以上、これは保護者が最も明確に負う責任である。

7.4 他人の目——見守りは公共の場で行われる

最後に、見守りが公園という公共の場で行われることの意味を考えたい。家庭内であれば、保護者がどこまで子どもに挑戦させるかは、その家の判断である。しかし公園では、その判断が他の保護者の目にさらされる。「あの家は放任だ」「あの家は過保護だ」という評価が生じ、保護者は、自分の判断ではなく他人の評価を基準に見守りの距離を決めてしまうことがある。この現象は、第3節の第三条件(動機の正直さ)に照らせば、「子どものため」ではなく「他人にどう見られるか」を動機とする介入であり、正当化の弱い介入である。他方で、他人の目は、放任を防ぐ働きももつ。倫理学がここで言えるのは、見守りの距離について家庭ごとの判断に幅があることを、互いに認め合う必要がある、ということである。他の家庭の見守りが自分の基準と違うことは、直ちにその家庭が誤っていることを意味しない。ただし、他の子どもへの危害が生じる場面では、この寛容は当てはまらず、その場にいる大人が誰であれ介入する理由がある。

8. 社会が引き受けるリスクの範囲——反論への応答を含めて

前二節では、ハザードを設置者が、リスクを保護者と子どもが引き受けるという分担を示した。しかしこの分担だけでは、まだ一つの主体が抜けている。地域社会、あるいは公園を公共施設として設ける社会そのものである。子どもがどれほど適切に判断し、保護者がどれほど適切に見守り、設置者がどれほど適切に点検しても、けがの可能性はゼロにならない。この残りの危険——残余リスク——を、誰が引き受けるのか。本節では、社会が引き受けるリスクの範囲を検討し、そのうえで本稿の立場に対して予想される反論に応答する。

8.1 法は「ゼロ」を求めていない

まず確認しておくべきは、法制度そのものが公園にゼロリスクを求めていない、ということである。都市公園法(1956)は都市公園を公共施設として設け、地方公共団体にその管理を委ねている。公の施設の設置・管理の欠陥による損害については国家賠償法の定めがあるが、そこで問われる「瑕疵」は、その施設が通常有すべき安全性を欠いていることと解されており、あらゆる事故を防ぐ完全な安全性ではない。国土交通省の遊具安全指針が、リスクを遊びに必要なものとして残すことを明記していることも、公的な考え方として重い。つまり「一件でも事故があれば設置者の責任」という理解は、法の建前からしても正確でなく、社会は制度の上ですでに、ある範囲のリスクを引き受けることを選んでいる。問題は、その範囲がどこまでかを、社会が意識的に議論しているかどうかである。

8.2 リスクの分配と公平

社会が引き受けるリスクの範囲を考えるとき、見落とされがちなのが分配の観点である。公園のリスクを減らすことは、公園でしか遊べない子どもに最も強く影響する。庭のある家の子ども、習いごとに通える子ども、車で大きな公園に連れて行ってもらえる子どもは、近所の街区公園の遊具が撤去されても他に選択肢がある。しかし、徒歩圏の街区公園が唯一の遊び場である子どもにとって、撤去は遊び場そのものの喪失である。したがって、公共の公園からリスクを一律に取り除く政策は、中立に見えて、実は最も選択肢の少ない子どもに最も重い負担を課している。社会が引き受けるリスクの範囲を狭めることは、その負担を弱い立場の子どもに移すことと表裏をなす。公平の観点からは、公共の公園こそが、設計され点検された「引き受けてよいリスク」を提供する場であるべきだ、という結論が導かれる。

残余リスクを社会で分け持つ仕組みも重要である。保険や共済は、けがが起きたときの経済的な負担を個人から社会に移す制度であり、その存在は「けがは起こりうるが、その負担は一人に負わせない」という社会の意思の表れである。また、リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンが「リバタリアン・パターナリズム」と呼んだ考え方——選択を禁じるのではなく、選択の環境を整えることで望ましい方向へ人を導く——は、公園にも応用できる。対象年齢の表示、幼児用遊具と児童用遊具の分離、段階的に難しくなる配置は、いずれも「登るな」と禁じるのではなく、その子に合った選択を選びやすくする設計であり、自由を残しながら安全を高める中間の道である。社会が引き受けるリスクの範囲は、こうした設計と制度によって、禁止に頼らずに調整できる。

保護者地域社会段階的な設計分配の公平
図8残余リスクは保護者だけでなく地域社会が引き受ける。段階的な設計と制度は、禁止に頼らずに、選択肢の少ない子どもにも公平に「引き受けてよいリスク」を届ける。

8.3 反論への応答

第一の反論は、「一件でも重大な事故があってはならない。自由を語るのは、事故に遭っていない者の余裕である」というものである。この反論には真剣に向き合わねばならない。実際に子どもがけがをした家族の前で、リスクの価値を語ることは、当事者の痛みを軽んじる響きをもちうる。本稿の応答は次のとおりである。本稿はけがが重要でないと言っているのではない。むしろ、けがが起きたときにその原因がハザードであったなら、それは設置者の義務の不履行であり、厳しく問われるべきだと述べている。本稿が反対しているのは、ハザードによる事故を防げなかったことへの反省が、リスクを含む遊びの全面的な除去へと転化することである。二つを分けることは、事故を軽んじることではなく、事故から正しい教訓を引き出すことである。個々の事故の医学的な評価は医療機関に、原因の究明は関係機関に委ねられるべきである。

第二の反論は、「リスキープレイの議論は北欧の文化に根ざしたものであり、日本にそのまま持ち込めない」というものである。この指摘には一理ある。何を「引き受けてよい危険」とみなすかの水準は、社会によって異なりうる。しかし本稿が提示したのは、水準そのものではなく、水準を決めるための手続き——リスクとハザードを区別し、介入の三条件を確かめ、撤去の前に四点を問い、責任を分担する——である。手続きは文化を超えて共有でき、その手続きのもとでどこに線を引くかは、それぞれの地域が決めればよい。むしろ、国の指針がすでにリスクとハザードの区別を採用している以上、日本の公園行政はこの手続きの前提を共有している。

第三の反論は、「保護者に見守りを求めるのは、多忙な家庭に負担を押しつけるものだ」というものである。これも正当な懸念である。本稿の応答は、第7節で述べたとおり、保護者の責任をリスクの見極めに限定し、ハザードを設置者に、残余リスクを社会に割り当てることで、保護者の負担を軽くする方向を示した点にある。見守りをすべて保護者に負わせる社会は、保護者を監視へと追い込み、結果として子どもの自由を削る。責任を分け持つことは、子どもの自由を守るためだけでなく、保護者の余裕を守るためにも必要である。地域の大人が公園にいる子どもを緩やかに気にかける、という古くからの慣行も、この分担の一形態として位置づけ直すことができる。

9. 磐田市の公園への示唆

本節では、前節までの枠組みを磐田市の公園に当てはめ、何が言え、何がまだ言えないかを整理する。用いる事実は、磐田市オープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドの記載に限る。当サイト(ATAWI PARK)は市内100園(オープンデータ94行と施設ガイドのみに掲載の6園)のデータベースであるが、現地踏査は始まっていない。したがって遊具の状態・対象年齢表示の有無・見守りの実態については、いずれも「今後の踏査で確かめる」と述べるにとどめる。

9.1 街区公園51園——「引き受けてよいリスク」を徒歩圏に届ける器

磐田市の100園のうち、街区公園は51園と過半を占める。国の標準では街区公園は0.25ha・誘致距離250mであり、徒歩圏の遊び場として設けられる種別である。第8節で述べた分配の公平の観点からいえば、この51園こそが、他に選択肢の少ない子どもにとって「設計され点検されたリスク」を届ける器である。オープンデータでは遊具ありの園が64園(94行中)、砂場ありが43園とされ、街区公園の多くにブランコ・滑り台・鉄棒・砂場といった基本的な遊具が記載されている。これらの遊具がもつ高さや速さは、第5節の意味でのリスク——見て分かり、遊びの価値と結びついた危険——であり、その存在自体は倫理的な問題ではなく、むしろ徒歩圏の子どもの機会である。問題になるのは、これらがハザード(見えない危険)を抱えていないか、という点であり、それは踏査と管理者の点検によって確かめられるべきことがらである。

9.2 市内に存在する「危険の段階」

施設ガイドの記載を読むと、市内の公園の遊具には、リスクの水準に段階があることが分かる。一方には、幼児用滑り台や幼児用遊具の記載がある園が複数ある。中泉グリーンパーク(幼児用滑り台・スプリング遊具・健康遊具)、二子塚公園(滑り台・幼児用滑り台・スプリング遊具・健康遊具)、豊田高見丘北公園(幼児用滑り台)、今之浦公園(3歳未満児遊具の記載)などである。他方には、より挑戦的な遊具の記載がある園がある。兎山公園(ローラー滑り台・回転ジム・ターザンロープ・ザイルクライム)、豊田原新田公園(ローラー滑り台・木製アスレチック遊具・ターザンロープ・雲梯)、竜洋十束公園(大波ワイドスライダー・ワイドネットクライム)、竜洋川袋公園(築山・ジャンボ滑り台)、また法対象外の獅子ヶ鼻公園(木製アスレチック遊具の丸太くぐり・壁のぼり、ターザンロープ)などである。第4節の徳倫理学の議論に照らせば、この段階の存在は、子どもが「少し怖いが手が届く」水準を年齢に応じて選べる条件であり、市全体として見れば、リスキープレイの機会が段階的に用意されているといえる。

また安久路公園には、複合遊具にインクルーシブエリアがあり、ブランコにインクルーシブアイテムがあると記載されている。インクルーシブ遊具とは、障害の有無にかかわらず遊べるよう設計された遊具を指す。第8節の分配の公平からいえば、これは「引き受けてよいリスク」を、これまで遊具から遠ざけられがちであった子どもにも届けようとする設計であり、リスクの分配における一つの前進として位置づけられる。ただし、こうした遊具の対象年齢の表示がどのように行われているか、実際の遊具の状態がどうかは、施設ガイドの記載からは分からず、踏査の課題である。

幼児用遊具ローラー滑り台木製アスレチック市内に段階
図9磐田市の施設ガイドには、幼児用遊具から木製アスレチックやターザンロープまで、水準の異なる遊具の記載がある。市全体として危険の段階が用意されている。

9.3 ハザードの担い手——管理者と点検

第5節・第6節で述べたとおり、ハザードの除去は設置者・管理者の責任である。磐田市の公園の管理課は都市整備課(電話 0538-37-4806)であり、遊具の不具合に気づいた市民が連絡すべき先はここになる。倫理学の枠組みからいえば、市民が不具合を管理者に伝えることは、ハザードの発見を管理者だけに負わせず、地域社会が分け持つ行為である。当サイトは今後の踏査において、遊具の目に見える損傷や使用禁止の措置の有無を、恐怖をあおらない形で記録することを予定しているが、それは管理者の点検に代わるものではなく、点検を補うものである。使用禁止のテープが恒久化していないか、撤去された遊具の後に何が置かれたかは、第6節の「撤去の四点」を市の公園に当てはめる際の観察項目となる。これらはいずれも現時点では踏査待ちである。

9.4 保護者への示唆——市の公園の使い分け

第7節の見守りの議論を磐田市に当てはめると、幼児用滑り台や3歳未満児遊具の記載がある園は、手の届く距離での見守りが自然に成り立つ場であり、兎山公園や豊田原新田公園のような挑戦的な遊具のある園は、子どもの能力が育つにつれて見守りの距離を広げていく場になりうる。地区別に見ると、豊田28園・見付21園・中泉14園・御厨13園・竜洋13園と、多くの地区に複数の園があり、南部・向陽の2園、豊岡3園、福田4園と少ない地区もある。同じ地区に水準の異なる園があれば、保護者は子どもの成長に応じて園を使い分けることで、「少し怖いが手が届く」水準を選びやすくなる。ただし、どの園がどの年齢に向くかは、施設ガイドの記載だけでは判断できず、当サイトの踏査と、なにより保護者自身がその場で子どもを見て判断することにかかっている。

最後に、本節が言えないことを明示しておく。市内の遊具の状態、対象年齢表示の有無、点検の頻度、事故の有無、見守りの実態については、本稿はいかなる主張もしていない。これらは踏査と、管理者・関係機関の情報によってのみ語られるべきことである。本節が述べたのは、磐田市の公園の構成と施設ガイドの記載が、本稿の枠組み——リスクとハザードの区別・段階的な危険・責任の分担——を適用するのに十分な多様性をもっている、という一点である。

10. 結論と今後の課題

本稿は、公園における子どものリスクと自由の緊張を、倫理学の概念で整理することを試みた。得られた結論を三点にまとめる。第一に、ミルの危害原理は子どもを例外とするが、それは子どもへの介入が無制限に許されることを意味しない。介入は、その場面での子どもの能力の見極め、将来の選択の幅を守る方向、そして動機が子ども本人の利益であること、という三条件のもとで正当化される。ファインバーグの「開かれた未来への権利」は、この限界を示す基準である。第二に、リスクとハザードの区別は、技術上の分類であるとともに、「同意できる危険」と「同意できない危険」を分ける倫理的な線引きである。ハザードの除去は正当化を要しない危害防止であり設置者の義務であるが、リスクの除去はパターナリズムであって正当化を要する。第三に、遊具の撤去も親の見守りも「何もしない」中立の選択ではなく、それぞれ価値判断であり、その責任は子ども・保護者・設置者・地域社会のあいだで分け持たれるべきものである。

10.1 本稿の枠組みが実務に示すもの

この枠組みは、公園にかかわる各主体に、それぞれ異なる問いを手渡す。設置者・管理者には、「安全対策」の一語で括られる行為を、ハザードの除去(義務)とリスクの除去(要正当化)に分け、撤去の前に四点——リスクかハザードか、修繕できるか、誰が何のために求めているか、撤去後に子どもはどこで遊ぶか——を問うことを求める。保護者には、監視でも放任でもない見守り、すなわち三条件を場面ごとに適用し、年齢とともに距離を広げていく態度を示し、同時に、見えないハザードまで見守りの責任に含めなくてよいことを伝える。地域社会には、残余リスクを引き受ける範囲を意識的に議論すること、そして公共の公園こそが選択肢の少ない子どもに「引き受けてよいリスク」を届ける場であることを確認するよう促す。いずれも「正解」ではなく「手続き」であり、どこに線を引くかは、それぞれの場面と地域が決めることである。

子ども:リスク保護者:見守り設置者:ハザード社会:残余リスク
図10リスクは子どもと保護者が、ハザードは設置者が、残余リスクは地域社会が引き受ける。責任を分け持つことが、子どもの自由と保護者の余裕をともに守る。

10.2 本稿の限界

本稿には明確な限界がある。第一に、本稿は文献にもとづく概念分析であり、実地の観察や事故データにもとづくものではない。リスキープレイの発達上の効果、けがの頻度と型、撤去が子どもの行動に与える影響といった経験的な問いについて、本稿は判断を下しておらず、それらは心理学・疫学・教育学の研究と、医療機関・関係機関の知見に委ねられる。第二に、本稿の枠組みは、危険の水準をどこに置くかを決めない。それは意図的なことであるが、実務の場では「では具体的にどこまでか」が最も切実な問いであり、その問いに答えるには、倫理学の手続きと、専門家の技術的判断と、地域の合意とが組み合わされなければならない。第三に、本稿は主として遊具のリスクを扱い、暑さ・水辺・交通といった公園の他の危険には立ち入らなかった。これらにも同じ枠組みが適用できると考えるが、それぞれ固有の検討を要する。

10.3 今後の課題——磐田市の踏査に向けて

当サイトの今後の踏査にとって、本稿の枠組みは観察項目を与える。第一に、遊具ごとに、その危険が見て分かるリスクであるか、見えないハザードの兆し(損傷・緩み・腐食)があるかを、断定を避けつつ記録すること。ただしハザードの判断は管理者と専門家に属し、当サイトは気づきを伝える立場にとどまる。第二に、対象年齢の表示の有無と内容を記録し、市内の園にどのような「危険の段階」が実際に用意されているかを可視化すること。第三に、使用禁止の措置や撤去の痕跡を、恐怖をあおらず、事実として記録し、撤去の後に何があるかを見ること。第四に、園ごとに、見守りの距離がどのように成り立つ空間か——見通し、遊具からベンチまでの距離、出入口の位置——を記述すること。これらは倫理学が直接に答えを出す事柄ではないが、倫理学の枠組みなしには、何を見るべきかが定まらない事柄でもある。

最後に、本稿の議論を一文に縮めるなら、次のようになる。子どもを危険から守ることと、子どもが危険を通して育つ自由を守ることは、対立する二つの目標ではなく、「どの危険を、誰が、どこまで引き受けるか」を分けて考えることによって、同時に追求できる一つの目標である。この分け方を共有の言葉にすることが、公園をめぐる保護者・設置者・地域社会の対話を成り立たせる。磐田市の100園がその対話の場となりうるかどうかは、これからの踏査と、なによりその場に集う大人と子どもの日々の判断にかかっている。

参考文献

  1. J・S・ミル(1859)『自由論』(関口正司訳、岩波文庫、2020)
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  5. エレン・ベアーテ・ハンセン・サンドセター(2007)「Categorising risky play—how can we identify risk-taking in children's play?」European Early Childhood Education Research Journal, 15(2)
  6. エレン・ベアーテ・ハンセン・サンドセター、レイフ・E・O・ケナー(2011)「Children's Risky Play from an Evolutionary Perspective: The Anti-Phobic Effects of Thrilling Experiences」Evolutionary Psychology, 9(2)
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  8. ウルリヒ・ベック(1986)『危険社会——新しい近代への道』(東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局、1998)
  9. ハンス・ヨナス(1979)『責任という原理——科学技術文明のための倫理学の試み』(加藤尚武監訳、東信堂、2000)
  10. アリストテレス『ニコマコス倫理学』(高田三郎訳、岩波文庫、1971)
  11. リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン(2008)『実践 行動経済学——健康、富、幸福への聡明な選択』(遠藤真美訳、日経BP、2009)
  12. 児童の権利に関する条約(1989年国連総会採択、日本は1994年批准)第3条・第5条・第31条
  13. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  14. 一般社団法人日本公園施設業協会「遊具の安全に関する規準」
  15. 消費者庁「子どもの事故防止」
  16. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  17. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  18. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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