人文学神話学

遊びと祭りの起源——ホイジンガ・カイヨワ・儀礼としての鬼ごっこ

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:神話学 公開・更新 2026-08-17 本文 約23,201字 読了目安 42分

要旨

本稿の目的は、遊びと祭り(儀礼)と神話が共有する形式を神話学の視点から取り出し、公園という場所で日々くり返されている遊びを、その形式の現れとして読み直すことである。手がかりとするのは、遊びを文化に先立つものとして論じたヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(1938)、遊びを競争・偶然・模擬・眩暈の四つに分けたロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(1958)、そして同じカイヨワが祭りを論じた『人間と聖なるもの』(1939)である。さらに儀礼の側から、アルノルト・ファン・ヘネップ『通過儀礼』(1909)の分離・過渡・統合という三段階、ヴィクター・ターナー『儀礼の過程』(1969)のリミナリティとコムニタス、クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(1962)に見える遊びと儀礼の対比を用いる。

方法は文献整理と形式分析であり、実地の民俗調査ではない。本稿は、遊びが歴史的に儀礼から派生したと実証するものではない点をあらかじめ断る。ここで「起源」と呼ぶのは時間的な先後ではなく、遊び・儀礼・神話が共有する形式の原型である。分析の単位は「遊びの一回分」とし、開始の宣言・役の配分・境界の設定・進行・終了の合図という手続きの列として遊びを記述する。第3節で境界の設営、第4節で鬼という役、第5節でかくれんぼと通過儀礼の三段階、第6節でじゃんけんと偶然に決めさせる技術、第7節で祭りの時間と遊びの時間、第8節で起源論そのものへの反論を扱う。

結論として本稿は、遊びと儀礼と神話に共通するのは「別の世界を設営し、そこで役を配り、期限を切って畳む」という形式であり、その差は世界の畳み方にあると主張する。儀礼は畳んだあと参加者を新しい身分に固定するが、遊びは畳んだあと全員を元の身分に戻す。レヴィ=ストロースが述べたように、儀礼が差異を消して結合へ向かうのに対し、遊びは差異を生んで分離へ向かう。この違いを踏まえれば、公園の遊びを「古い儀礼の名残」として説明する誘惑は退けられ、むしろ遊びが毎回ゼロから世界を設営し直す装置であることが見えてくる。

最後に磐田市の都市公園100園(街区公園51園・遊具有64園・砂場有43園)について、境界・役・偶然という三つの観点から何が見取れるかを整理し、当サイトの今後の踏査で確かめるべき課題を示す。踏査はこれからであり、本稿の示唆はすべて仮説の段階にとどまる。

キーワードホモ・ルーデンス遊びの四分類通過儀礼リミナリティ魔法円鬼ごっこ磐田市

1. はじめに——問題の所在

公園で遊びが始まる直前、子どもたちはたいてい同じことをする。地面に靴の先で線を引く。ベンチと桜の木を指さして「ここからここまで」と言う。段差の上を「陸」、その下を「海」と呼び変える。遊具の使い方や広さの話より先に、まず世界が区切られる。区切られた内側では、日常とは別の規則がはたらき、別の役があり、別の速度で時間が流れる。そして「もう帰る」の一声とともに、その世界は跡形もなく畳まれ、地面の線はただの線に戻る。本稿が出発点に置くのは、この平凡きわまりない手つきである。

同じ手つきは、祭りの場にも、神話の語り口にもある。祭りの場は縄や竹や柱で囲われ、そこに入る者は身を清め、ふだんとは違う衣と役を負う。神話は「昔々」「その頃、まだ世界が定まらなかった頃」といった定型句で始まり、聞き手を日常の時間の外へ連れ出す。遊びと祭りと神話は、いずれも「別の世界を設営すること」から始まり、「その世界を畳むこと」で終わる。この一致は偶然の相似にすぎないのか、それとも同じ形式の別々の現れなのか。神話学の側からこの問いに答えを試みるのが本稿である。

1.1 三つの問い

本稿の問いは三つである。第一に、遊びと儀礼はどの水準で形式を共有し、どの水準で決定的に異なるのか。似ているという指摘だけでは分析にならない。似ている部分と似ていない部分を、同じ物差しで測り分ける必要がある。第二に、鬼ごっこ・かくれんぼ・じゃんけんという、日本の公園でとりわけありふれた三つの遊びの内部に、儀礼のどのような構造が読み取れるのか。第三に、その読みは、公園という施設の設計と運営、そして子どもを見守る大人の身の置き方にとって何を意味するのか。

第一の問いは概念の問題、第二の問いは具体の問題、第三の問いは実践の問題である。三つは順に依存しており、概念の整理を飛ばして「鬼ごっこは儀礼の名残だ」とだけ言うのは、本稿がもっとも避けたい種類の議論である。

1.2 方法と、「起源」という語の扱い

方法は文献整理と形式分析である。実地の民俗調査ではなく、既存の古典的研究が用意した概念を、公園という具体的な場所に当てて、どこまで届き、どこで届かなくなるかを確かめる作業だと考えてよい。用いる概念は、遊びの側からホイジンガとカイヨワ、儀礼の側からファン・ヘネップとターナー、両者の関係についてレヴィ=ストロース、そして時間の観念についてエリアーデである。いずれも刊行年と著者が明確な古典に限る。

ここで、表題にも含まれる「起源」という語について、あらかじめ強い留保を置く。本稿は、遊びが歴史的に儀礼から派生したと実証しようとするものではない。子どもの遊びを古い信仰や儀礼の残存物とみなす説明は、19世紀の人類学が好んだ型であり、後の第8節で見るとおり重大な難点を抱えている。本稿が「起源」と呼ぶのは、時間的な先後関係ではなく、遊び・儀礼・神話がともに立ち返る形式の原型である。どちらが先かではなく、どちらも同じ骨格を使っている、という言い方をする。

三つの問い見取り図古典
図1本稿の設計。似ているという印象から出発し、概念で測り分け、公園という具体の場所に戻す。起源は歴史ではなく形式の原型として扱う。

1.3 分析の単位——「遊びの一回分」

遊びを分析するとき、何を一つの単位として取り出すかで見え方が変わる。本稿は「遊びの一回分」を単位とする。すなわち、誰かが遊びを言い出してから、役が決まり、境界が定まり、進行し、終わりの合図が出て解散するまでの一続きである。これは儀礼研究が長らく用いてきた記述の型をそのまま借りたものだ。儀礼はふつう、始まりの所作・中心の所作・終わりの所作という手続きの列として記述される。同じ枠で遊びを記述すれば、比較が可能になる。

この単位の取り方には利点と欠点がある。利点は、遊具の種類や年齢層といった外側の条件に引きずられず、遊びの内部の手続きを取り出せることである。欠点は、手続きの列に整理できない遊び——砂をただ握っては落とす、草の匂いを嗅ぐ、水たまりを覗き込む——が視界から落ちやすいことである。この欠落は本稿の限界として第10節で改めて引き受ける。

1.4 なぜ神話学からか——隣接する論考との分担

遊びを論じうる学問は多い。当サイトには文化人類学の立場から公園の遊びを扱った論考があり、そこでは遊びの民族誌的な記述の仕方、伝承がどの回路で子どもから子どもへ渡るか、大人の介入が遊びの自律性とどう折り合うかといった主題が扱われている。本稿はそれと重ならないよう、対象を絞る。すなわち遊びの形式論と、儀礼論・神話論との接点だけを扱い、「遊びをどう記述するか」ではなく「遊びの形式は儀礼・神話の形式と何を共有し、何において分かれるか」を問う。

神話学からこれを問う理由は二つある。一つは、神話が「世界の始まりの物語」であり、始まりを語ることと場を設営することが古くから対になってきたためである。もう一つは、神話研究が20世紀を通じて、物語の内容ではなく物語の骨格を取り出す方法——構造の分析——を発達させてきたためである。骨格を取り出す道具立ては、そのまま遊びの手続きにも当てられる。

1.5 構成

以下の構成をとる。第2節で遊びの形式論と儀礼論の主要概念を整理し、対比表を示す。第3節は境界の設営、第4節は鬼という役、第5節はかくれんぼと通過儀礼の三段階、第6節はじゃんけんと偶然に委ねる技術、第7節は祭りの時間と遊びの時間を扱う。第8節では起源論そのものへの反論に応答し、第9節で磐田市の公園に即した示唆を述べ、第10節で結論と課題を示す。

  • 第2節:ホイジンガ・カイヨワの形式論と、ファン・ヘネップ・ターナー・レヴィ=ストロースの儀礼論
  • 第3節〜第7節:境界・役・三段階・偶然・時間という五つの論点による本論
  • 第8節:残存物説と機能主義的説明への批判、本稿の位置
  • 第9節:磐田市の都市公園100園への示唆(踏査はこれから)
  • 第10節:結論と今後の課題

2. 先行研究と概念の整理——遊びの形式論と儀礼論

本節では、以下の議論で使う概念をあらかじめ定義しておく。扱うのは、遊びの側から二人(ホイジンガ、カイヨワ)、儀礼の側から二人(ファン・ヘネップ、ターナー)、両者の関係について一人(レヴィ=ストロース)、そして神話と儀礼の関係についての古典的な論争である。いずれも刊行年と著者が明確で、広く参照されてきた仕事に限る。

2.1 ホイジンガ——遊びの形式的特徴と「聖なる遊び」

オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938)は、遊びを文化の一部門としてではなく、文化に先立つものとして論じた書物である。ホイジンガは遊びを、命令されて行うものではない自由な行為であること、日常生活の外にある「本気ではない」ふるまいであること、それでいて遊ぶ者を完全に夢中にさせること、一定の時間と場所の内側で完結すること、そして独自の規則をもつことによって特徴づけた。さらに、遊ぶ集団が仲間としてのまとまりをつくり、しばしば秘密や変装を伴うことを付け加えている。

神話学にとって重要なのは、ホイジンガがこの特徴づけをそのまま祭祀に適用した点である。彼は、聖なる行為が行われる場——競技場、カード台、魔法円、神殿、舞台、法廷——を並べ、これらはすべて形式と機能からいえば遊び場であると述べた。日常の地面から切り離され、規則が支配する囲われた土地。この列挙は、遊びと儀礼を同じ形式のもとで見る視点を、一行で提示している。本稿が繰り返し立ち返るのはこの一行である。

2.2 カイヨワ——四分類と、ホイジンガへの批判

フランスの社会学者ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(1958)は、ホイジンガを引き継ぎつつ二点で修正を加えた。第一に、遊びの条件を、自由・分離(時空の限定)・未確定(結果があらかじめ決まっていない)・非生産的・規則がある・虚構であるという形で整理し直した。第二に、遊びを競争(アゴン)・偶然(アレア)・模擬(ミミクリ)・眩暈(イリンクス)の四つに分類し、これに、即興と騒がしさに近い極(パイディア)から、規則と工夫に近い極(ルドゥス)へ至る軸を交差させた。

カイヨワのホイジンガ批判は二つある。ホイジンガが賭けや籤といった偶然の遊びを軽んじたこと、そして遊びの秘密性・神秘性を強調しすぎたことである。カイヨワによれば、秘密や仮装が支配するのは遊びが遊びでなくなる方向、すなわち聖なるものの側であって、遊びはむしろ公然と行われる。この批判は、遊びと儀礼を安易に重ねようとする議論への牽制として、本稿でも有効に働く。

古典対比四分類
図2遊びの形式論と儀礼論を同じ物差しに載せる。ホイジンガが並べた形式的特徴に、カイヨワの四分類と儀礼論の三段階を突き合わせる。

2.3 カイヨワの祭り論——中断される日常

同じカイヨワには、遊びを論じる前に書かれた『人間と聖なるもの』(1939)がある。ここで彼は祭りを、日常の秩序が一時的に中断され、蓄えが惜しみなく費やされ、ふだんの禁止が緩む時期として描いた。祭りは日常の延長にある楽しみではなく、日常を成り立たせている規範をいったん止める働きをもつ。祭りが終われば、規範は前より確かなものとして戻ってくる。「中断によって強められる」というこの逆説は、遊びの時間を考えるうえでも要になる。

2.4 ファン・ヘネップとターナー——三段階とリミナリティ

儀礼の側の基本文献は、アルノルト・ファン・ヘネップ『通過儀礼』(1909)である。彼は、誕生・成人・結婚・葬送など、人の身分が変わるときに行われる儀礼が、どの文化でも三つの段階をとることを指摘した。もとの身分から切り離される段階(分離)、どちらでもない宙づりの段階(過渡)、新しい身分として迎え入れられる段階(統合)である。ここで注目すべきは、この三段階が空間の移動——敷居をまたぐ、門をくぐる、林の外へ出る——として表現されることが多い点である。

ヴィクター・ターナー『儀礼の過程』(1969)は、この中間の段階に「リミナリティ」(境界性)という名を与え、掘り下げた。リミナリティにある者は、ふだんの地位や序列を剥がされ、名前や衣服さえ変えられることがある。そこでは参加者のあいだに、序列のない対等な結びつき——ターナーの言う「コムニタス」——が生じやすい。祭りで身分の上下がひっくり返る、いわゆる逆転の演出も、この段階の性格として説明される。

2.5 レヴィ=ストロース——遊びは分離的、儀礼は結合的

本稿の骨格をなす対比は、クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(1962)に見える。彼は、遊びと儀礼を鏡像の関係として描いた。遊びは、参加者が対等な条件から始まり、勝者と敗者という差をつくって終わる。すなわち分離的である。儀礼は逆に、生者と死者、大人と子ども、氏族と氏族といった、あらかじめ隔たった者たちから始まり、その隔たりを埋めて一つにして終わる。すなわち結合的である。同じ形式を使いながら、向きが正反対だという指摘である。

2.6 神話と儀礼——どちらが先かという古い論争

神話学には、神話と儀礼のどちらが先かをめぐる長い論争がある。20世紀初頭のケンブリッジの古典学者たち、とりわけジェーン・エレン・ハリソンの『テミス』(1912)は、神話を「儀礼において語られる部分」、儀礼を「演じられる部分」とみなし、神話は儀礼の言葉の面だと論じた。この見方は強い影響力をもったが、後に、対応する儀礼をもたない神話が数多くあること、逆に語りを伴わない儀礼も多いことが指摘され、一般法則としては退けられている。

本稿はこの論争に決着をつけようとはしない。むしろ、どちらが先かを決めずに済む立場——神話も儀礼も遊びも、「別の世界を設営する」という同じ形式を、それぞれの目的のために使っている——を採る。以下の表は、その形式を六つの項目で比較したものである。

項目遊び儀礼・祭り神話
境界の設け方線を引く・宣言する縄・門・清め定型句(昔々)
参加者の身分役は仮のもの役は身分の変更を伴う登場人物は語りの中に固定
時間区切られ、くり返せる暦に結びつき周期的始まりの時として語られる
規則の由来その場の合意で変えられる先例に従い変えにくい物語の筋として与えられる
終わったあと全員が元の身分に戻る参加者は新しい身分になる聞き手は日常に戻るが解釈が残る
失敗したときやり直す・作り替えるやり直しに手続きが要る異伝として並存する

註:表は本稿の議論のための整理であり、各分野の定説を要約したものではない。とりわけ「失敗したとき」の欄は、儀礼のやり直しに関する研究の一般的傾向を簡略化して述べたものである。

3. 「別の世界」の設営——魔法円・聖域・「昔々」

遊びは、道具からではなく境界から始まる。ボールがあってもコートがなければ試合は始まらず、鬼を決めても逃げてよい範囲が定まらなければ鬼ごっこは成立しない。ホイジンガはこの囲われた土地を「魔法円」と呼んだ。円の内側では、外とは違う規則が一時的に完全な効力をもつ。本節は、この設営という手続きを、儀礼の聖域設定と神話の語り出しに並べて検討する。

3.1 線は引かれるのではなく宣言される

まず確認しておきたいのは、遊びの境界が物理的な設備を必要としない、という事実である。子どもが引く線は、靴の先の浅い溝であったり、指さしであったり、口頭の合意であったりする。ベンチと水飲み場を結ぶ架空の直線が、その日の午後だけ「ここから先はアウト」の線として全員に共有される。物としては何もないのに、規範としては強い。境界は、引かれることによってではなく、宣言され、参加者に受け取られることによって成立する。

儀礼の聖域も同じ性質をもつ。縄や柱や竹は、それ自体が壁として何かを遮るわけではない。それらは「ここから内は別の場所である」という宣言の可視化であり、宣言を受け取る共同体があってはじめて機能する。エリアーデが『聖と俗』(1957)で述べた、聖なる空間は均質な空間のなかに区切りを入れることで生まれる、という指摘は、この点で遊びの線引きと重なる。

3.2 二重の境界——制度の線と、遊びの線

公園という場所が特異なのは、境界がすでに物として与えられている点である。都市公園は法に基づいて区域が定められた土地であり、多くの場合、柵や生垣や縁石によって周囲の道路や宅地から区切られている。つまり近代都市は、恒久的な魔法円をあらかじめ設営し、常時開いた状態で市民に手渡した。これは歴史的に見ればきわめて新しい事態である。

ところが、常設の円が用意されても、子どもはその内側にさらに小さな円を引く。滑り台の下は基地になり、砂場の縁は国境になり、ベンチの上だけが安全地帯になる。制度が引いた線と、遊びが引く線は入れ子になっており、後者は前者を無視することもある。園路をまたいで陣地が設けられ、園外の電柱がゴールに指定されることもある。制度の境界と遊びの境界は別の論理で引かれている、と考えたほうが観察しやすい。

囲い出入口期限
図3設営の三点。囲うこと、出入りの口を決めること、終わりの時刻を切ること。遊びも祭りもこの三つを備え、いずれかを欠くと世界は保てない。

3.3 出入りの作法——「入れて」「いいよ」

囲われた場所には、出入りの手続きが伴う。儀礼では、身を清める、履物を脱ぐ、門で一礼するといった所作がそれにあたる。遊びでは、参入を求める側と受け入れる側の短い言葉のやりとりがその役を果たす。「入れて」に対して「いいよ」が返る。この二語で、後から来た者は円の内側の住人になる。抜けるときも同様に、一声かけて出るのと、黙って消えるのとでは、残された側の受け取り方がまったく違う。

グレゴリー・ベイトソンは「遊びと空想の理論」(1955)で、遊びが成立するには「これは遊びである」という、内容についてではなく枠についてのメッセージが交わされていなければならないと論じた。噛みつく動作が本当の攻撃を意味しないことを、参加者が同時に了解している状態である。「入れて」「いいよ」の交換は、この枠のメッセージを更新し、新しい参加者にも共有させる手続きだと読める。

3.4 「昔々」と、遊びの開始定型句

神話や昔話が定型句で始まることは広く知られている。日本語であれば「昔々あるところに」、多くの言語に同種の言い回しがある。この定型句は、以後に語られる内容の真偽を問わない構えを聞き手に取らせる。語られる出来事が起きた時と場所は、聞き手の暦と地図の上には位置づけられない。定型句は、時間と場所を日常から切り離す装置である。

遊びにも同じ働きをもつ言い回しがある。鬼決めの数え歌、「最初はグー」の掛け声、「もういいかい」の問い、かけっこの「よーいドン」。いずれも内容は乏しいが、発せられた瞬間に、その場の会話は遊びの内部の発話に切り替わる。定型句が短く、変更されにくく、地域差をもって伝わる点も、神話の語り出しと似ている。異なるのは、遊びの定型句が毎日何度でも唱えられ、そのつど世界を立ち上げ直すことである。

3.5 円が破れるとき——ぶち壊す者

ホイジンガが鋭いのは、遊びを脅かす者を二種類に分けたところである。規則を破ってこっそり得をする者(いかさま師)と、規則そのものの効力を認めない者(遊びをぶち壊す者)である。前者は規則の存在を前提にしているから、円の内側にとどまっている。円を壊すのは後者だ。「そんなのやってない」「今のはナシ」と、枠の合意そのものを引き上げてしまう者の前では、世界は一瞬で消える。

儀礼にも同型の危機がある。手順の取り違えは修復できるが、参加者の一人が「これに意味などない」と宣言することは、儀礼の外側からの否認であり、修復の手続きが用意されていない。遊びと儀礼はいずれも、内部の違反には強く、枠の否認には弱い。公園で見守る大人が「もう終わりにしなさい」と言うとき、それは意図せずして、この枠の否認の位置に立っていることがある。

4. 鬼という役——来訪する他者と、感染する役

日本の公園でもっともよく見られる遊びの一つが鬼ごっこである。道具がいらず、人数も広さも問わず、年齢の違う子が同時に参加できる。しかしその単純さの内側には、儀礼と共通する構造がいくつも畳み込まれている。本節は鬼ごっこを、役の配分という観点から分解する。

4.1 一対多の非対称と、接触による役の移動

鬼ごっこの骨格は四つの要素からなる。第一に、参加者が一人と多数に分けられる非対称な配置。第二に、その一人が他の全員を追うという方向づけ。第三に、身体の接触によって役が移動するという規則。第四に、その移動が何度でも起こりうるという反復性である。この四つが揃えば、名称や細部が違っても同じ遊びとして機能する。

とくに第三の要素は注目に値する。役は言葉ではなく接触によって移る。触れられた瞬間に、追う者と逃げる者が入れ替わる。この移り方は、伝染や憑依の説明図式と形式が同じである。何かが触れることで人に移り、移った者はふるまいを変え、次に触れた者へまた移っていく。役が人格ではなく、人から人へ渡っていく一種の負荷として扱われている点が、鬼ごっこの構造上の要である。

4.2 登場人物ではなく機能——プロップの読み方を借りる

ウラジーミル・プロップは『昔話の形態学』(1928)で、魔法昔話の登場人物を、性格や名前ではなく、物語のなかで果たす働き——機能——として捉える方法を示した。誰が主人公かではなく、送り出す者・妨げる者・助ける者といった機能の並びが物語の骨格をつくる、という見方である。この読み方は遊びにも当てられる。

鬼ごっこの参加者を機能で書き直せば、追う者・逃げる者・避難所(安全地帯)・裁定者(触れたかどうかを判定する声)となる。裁定者は特定の一人ではなく、その場の全員が交代で担う。誰がどの機能を担うかは毎回変わってよく、変わっても遊びは同一性を失わない。逆にいえば、機能の並びが崩れたとき——たとえば安全地帯が広がりすぎて全員が入れるようになったとき——遊びは終わる。

逃げる触れる安全地帯
図4鬼ごっこの骨格。追う一人と逃げる多数、接触による役の移動、そして触れられない場所。三つのどれが欠けても成立しない。

4.3 「鬼」という語をめぐる慎重な扱い

日本語では、この役に「鬼」の語が当てられる。ここで急ぎたくなる説明は、鬼ごっこの鬼を、節分で追い払われる鬼や、仮面をつけて家々を訪れる来訪神の系譜に直結させるものである。仮面や蓑をまとった者が年の変わり目に家を訪れ、子どもを戒め、祝いの言葉を残して去るという行事が各地に伝えられていることは、広く知られている。折口信夫が「まれびと」と呼んで論じたのも、外から訪れる異人が幸をもたらすという観念であった。

しかし、これらと子どもの鬼ごっことを因果でつなぐ確かな根拠は、本稿の知る限り示されていない。語が同じであることは、由来が同じであることを意味しない。本稿がここで主張するのは、系譜ではなく形式の一致にとどまる。すなわち、共同体の内側に一人だけ異なる者を置き、その者が他の全員に働きかけ、役目を終えれば元に戻るという配置が、来訪神の行事にも鬼ごっこにも見られる、ということである。

4.4 一人が全員のために担う——当番という形式

一人が集団を代表して負担を引き受ける形式は、儀礼にも広く見られる。祭りの準備や神事の進行を、家を単位に持ち回りで担当する当番の仕組みは、日本各地の民俗行事について報告されてきた。当番は名誉であると同時に負担であり、期間が終われば次の家へ渡る。誰が担うかは順番や籤で決まり、個人の資質は問われない。

鬼の役もこれに似る。鬼になることは罰ではないが、負担ではある。走らねばならず、追いつかねばならず、その間ずっと全員の視線を集める。そして必ず次の誰かに渡る。「ずっと鬼のままの子が出ないようにする」という配慮が、子ども自身の手で——わざと近づいて触られる、鬼を交代させる特別規則を追加する——なされることがあるとすれば、それは当番の仕組みが備えている公平の感覚と同じものが働いている、と読める。

4.5 安全地帯——触れられない場所という発明

鬼ごっこには、たいてい触れられない場所がある。地域や集団によって呼び名は異なるが、そこに入っている間、逃げる者は捕まらない。多くの場合、この特権には時間の制限や人数の制限がつく。無制限の避難所は遊びを止めてしまうからである。

追跡を免れる場所という観念は、遊びの外にも見られる。歴史学には、寺社の境内や特定の場所が、外の力の及ばない領域として機能したとする議論があり、網野善彦の仕事はその代表的なものである。断っておけば、これも遊びの安全地帯の由来を説明するものではない。ただし、追う力が及ばない例外の場所をあらかじめ設けておくと、追跡の関係そのものが安定して長続きする、という構造上の効き目は共通している。安全地帯は逃げ場ではなく、遊びを持続させるための装置なのである。

5. かくれんぼ——分離・過渡・統合という小さな通過儀礼

鬼ごっこが役の移動の遊びだとすれば、かくれんぼは姿の消失と再出現の遊びである。そして手続きの列を書き出すと、ファン・ヘネップが通過儀礼に見出した三段階と、ほとんど一対一で対応する。本節はその対応を確かめ、対応から何が言えて何が言えないかを見極める。

5.1 手続きの列を書き出す

かくれんぼは、およそ次の順で進む。鬼が決まる。鬼は目を覆い、決められた数まで声に出して数える。他の者はその間に姿を隠す。数え終えると鬼は問いを発し、隠れた側から応答が返る。準備が整った合図があってはじめて、鬼は探し始める。見つけられた者は名を呼ばれ、隠れる資格を失って鬼の側に立つ。全員が見つかるか、最後の一人が自ら現れるかして、一回分が終わる。

この列のうち、遊びの本体はどこか。走って探している時間だと思われがちだが、構造上の中心はむしろ、隠れてから見つかるまでの、誰の目にも触れていない時間である。その間、隠れている者は集団の一員でありながら、集団から見えない。いてもいなくてもよい位置に置かれている。

5.2 三段階との対応

ファン・ヘネップの分離・過渡・統合を当てると、隠れる行為が分離、見つからずにいる時間が過渡、名を呼ばれることが統合にあたる。ターナーの言うリミナリティ——ふだんの地位を剥がされ、どちらでもない状態に置かれること——は、この過渡の時間の性格をよく言い当てる。隠れている子は名前で呼ばれない。呼ばれた瞬間に、その状態は終わる。

興味深いのは、統合の合図が「名指し」であることだ。多くの場合、鬼は見つけた相手の名を呼ぶ。姿を見つけただけでは足りず、名を口にしてはじめて確定する集団が多いとされる。名を呼ぶことで人を元の位置に戻すという手続きは、儀礼における命名や名乗りの機能と形式が重なる。かくれんぼは、名前を一度預けて、また受け取る遊びだと言い換えてもよい。

数える宙づり呼び戻す
図5かくれんぼの三段階。目を覆う時間、誰にも見えない時間、名を呼ばれて戻る時間。中心にあるのは探す場面ではなく、見えないでいる時間である。

5.3 統合されずに終わること

三段階の枠組みで見ると、かくれんぼの失敗形がはっきりする。すなわち、隠れた者が見つからないまま遊びが解散されることである。過渡の段階に置かれた者が、統合の手続きを受け取らずに取り残される。多くの集団が、終了時に全員で「出ておいで」と声をかける習慣をもつのは、この失敗を避けるための、参加者自身が編み出した手続きだと読める。

実際の安全上の配慮としても、遊びの終わりに人数を確かめる習慣には意味がある。ただし本稿は安全対策を論じる立場にはなく、見守りの具体的な判断は各家庭と、公園を管理する部署や関係機関に委ねられる。ここで述べているのは、遊びの形式それ自体が、取り残しを防ぐ手続きを内蔵しているという構造上の指摘である。

5.4 昔話の筋との一致——プロップとキャンベル

分離・過渡・統合という並びは、物語の骨格としても知られている。プロップは『魔法昔話の起源』(1946)で、主人公が家を出て森へ入り、そこで試練を受け、力を得て戻るという筋の型を、加入儀礼の記憶に結びつけて論じた。ジョゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』(1949)も、多くの神話に共通する筋として、旅立ち・試練・帰還という三つの局面を取り出している。

ただし、これらの説を無条件に受け取ることはできない。プロップの起源論は歴史的な推定であって検証が難しく、キャンベルの図式は、共通点を強調するあまり文化ごとの差異を平板にするという批判を受けてきた。本稿がここから取り出すのは、起源についての主張ではなく、次の一点である。人が「一度いなくなって戻ってくる」筋立てを、儀礼でも物語でも遊びでも繰り返し用いてきたこと。そして公園のかくれんぼが、その筋立てをもっとも短く、もっとも安上がりに実演する形式であること。

5.5 鬼の側の宙づり——目を覆う時間

見落とされやすいが、かくれんぼでは鬼の側も一時的に宙づりに置かれる。目を覆い、数を唱えているあいだ、鬼は場の情報から切り離される。視覚を自ら手放すことによって、他の者に隠れる時間が与えられる。数え上げの声が全員に聞こえていることが、この取り決めの履行を保証する。目を覆う、背を向ける、数を唱えるといった制約は、鬼に課された一種の禁忌であり、破れば遊びは無効になる。

同じ制約は他の遊びにも現れる。鬼が背を向けて唱えているあいだだけ動いてよく、振り向いた瞬間に静止しなければならない遊びは、日本各地で親しまれている。ここでも、視覚の遮断と唱え言葉が対になっている。唱え言葉が終わることが視覚の回復を告げ、そのタイミングは全員に共有される。

5.6 隠れ場所という設計問題

最後に、公園の設計に直接かかわる論点を挙げておく。かくれんぼが成立するには隠れ場所が要る。しかし現代の公園設計では、見通しを確保して死角を減らすことが安全上の一般的な考え方とされ、植え込みは低く保たれ、遊具の裏側は見えるように配置されがちである。遊びが求めるものと、見守りが求めるものは、ここで正面から食い違う。

この食い違いは、どちらかを選べば済む種類のものではない。低木の高さ一つ、築山の向き一つが、隠れ場所の量と見通しの両方を同時に左右する。設計上の解が一つに定まらないからこそ、この論点は、公園ごとの条件に照らして個別に考えるべき課題として残る。本稿は、遊びの側の要求を言語化することでその検討に材料を加えたい。

6. じゃんけんと鬼決め——偶然に決めさせるという技術

遊びを始めようとすると、必ず最初に決定の問題が生じる。誰が鬼になるのか、どちらが先か、どう組み分けるか。話し合いで決めようとすれば、力の強い子や声の大きい子の意向が通りやすく、遊びが始まる前に不満が生まれる。この問題を、日本の子どもは驚くほど手際よく処理する。偶然に決めさせるのである。本節は、この手続きを儀礼の側から読む。

6.1 アレアとしてのじゃんけん

カイヨワの四分類でいえば、じゃんけんは偶然(アレア)の遊びに属する。カイヨワはアレアの本質を、遊ぶ者が自分の意志と技量を放棄し、決定を外に委ねる点に見た。競争(アゴン)が「私は相手より優れている」と主張する形式であるのに対し、アレアは「私は何も主張しない」形式である。じゃんけんに勝った者は、自分が偉いとは思わない。だからこそ、負けた側も従える。

厳密にいえば、じゃんけんは物理的な偶然ではない。手は自分で選んでいるし、相手の癖を読む余地もある。それでも参加者はこれを偶然として扱う。重要なのは、実際にどの程度偶然であるかではなく、参加者が偶然として合意していることである。儀礼における占いも同様で、手続きが公然と行われ、細工の余地がないと共有されていることが、結果の受容を支える。

6.2 三すくみという対称性

じゃんけんの構造上の要は、三つの手が循環する関係にあることだ。どの手にも、勝てる相手と負ける相手がそれぞれ一つずつある。絶対的に強い手が存在しない。この対称性が、「どれを出しても同じ条件だ」という納得を生む。二者択一の表裏では、選ぶ余地がなく偶然が外から与えられるだけだが、三すくみでは、自分で選んだのに結果は偶然になるという、参加感と偶然性の両立が起こる。

なお、じゃんけんの由来については複数の説が語られており、確定した定説を本稿は知らない。ここで論じているのは由来ではなく、三すくみという形式が公平の感覚をどう作り出すかである。

三すくみ順番公平
図6偶然に委ねる技術。絶対的に強い手がないという対称性が、決定の責任を誰にも負わせずに順番をつくり出す。

6.3 籤と抽選——決定を人の外に置く形式

決定を人の意志の外に委ねる形式は、遊びの外にも広く見られる。古代アテナイの民主政では、多くの公職が選挙ではなく抽選によって割り当てられたことが知られている。抽選は、有力者の影響を遮断し、誰にも順番が回りうるという条件を制度として保証する仕組みであった。日本の民俗行事についても、当番や役を籤で定める例が各地で報告されてきた。

こうした籤は、単なる便宜ではない。決定の責任を人から取り上げることに意味がある。籤で決まった役に不満を言う相手は、原理的に存在しない。恨みが人に向かわず、集団の関係が損なわれない。じゃんけんが子どもの集団で果たしている役割も、これと同じである。鬼になった子が「なんで自分が」と言い出さないのは、決めたのが誰でもないからだ。

6.4 数え歌——意味を失った言葉が担うもの

鬼を決める方法はじゃんけんだけではない。人差し指を順に指しながら唱える数え歌も、日本各地で用いられてきた。歌詞はしばしば意味の判然としない音の連なりであり、地域や世代によって語が入れ替わる。意味が薄れても伝わり続ける点、音節の数が結果を左右する点で、これは唱え言葉としての性格を強くもつ。

儀礼の唱え言葉にも同じ性質がある。文字どおりの意味を問われることは少なく、正しい順で正しい回数唱えられることが重視される。柳田國男が『こども風土記』(1942)で子どもの遊びの呼び名や唱え言葉の地域差に注意を向けたのも、この、意味ではなく形が伝わるという性質に着目してのことであった。数え歌は、意味を失ってなお機能する言葉の、身近な標本である。

6.5 一回分の遊びに現れる二つの向き

ここで第2節のレヴィ=ストロースの対比に戻りたい。遊びは差をつくって終わる分離的なもの、儀礼は差を消して一つにする結合的なものであった。だが、じゃんけんや鬼決めの局面を見ると、遊びの内部にも結合的な手続きが組み込まれていることがわかる。じゃんけんは、体格も年齢も足の速さも違う参加者を、いったん完全に対等な条件へそろえる。差を消してから、あらためて差をつくり始めるのである。

したがって、遊びの一回分には二つの向きが交互に現れる。開始と役決めの局面では結合的にそろえ、進行の局面では分離的に差をつくり、終了の局面では再び全員を元に戻す。儀礼と遊びは、どちらか一方の向きしか持たないのではなく、比重が違うのだと言い直したほうが正確である。この修正は、本稿が第2節の対比に加える小さな補正である。

観点鬼ごっこかくれんぼじゃんけん
カイヨワの型競争と眩暈に近い競争と模擬に近い偶然
中心の局面接触による役の移動見えないでいる時間同時に手を出す瞬間
境界の働き逃げてよい範囲と安全地帯隠れてよい範囲円になって向き合う
儀礼論での対応役の交替・当番分離・過渡・統合籤・抽選
終わり方時間切れか合意で終了全員が見つかって終了一回で確定する

註:表の「カイヨワの型」欄は、遊びが単一の型に収まることを示すものではない。実際の遊びは複数の型を横断し、進行の途中で比重が移る。

7. 祭りの時間と遊びの時間——反復・逆転・終わり方

第3節で扱ったのは空間の設営であった。本節では時間を扱う。祭りも遊びも神話も、日常とは違う時間を用意する点で共通するが、その時間の刻み方は三者三様である。この差を丁寧に見ておくことは、遊びを儀礼に還元してしまう議論を避けるうえで欠かせない。

7.1 暦に結ばれた時間——反復による更新

祭りの時間の第一の特徴は、暦に結ばれていることである。年の変わり目、種まきの前、収穫の後というように、祭りは決まった時期に巡ってくる。ミルチャ・エリアーデは『永遠回帰の神話』(1949)で、こうした周期的な儀礼が、世界が始まったときの出来事を再演し、摩耗した時間を新しくする働きをもつと論じた。日常の時間は使うほどに擦り減り、祭りによって元に戻される、という時間観である。

この見方に立てば、祭りは日常の中断であると同時に、日常を可能にする条件でもある。カイヨワが『人間と聖なるもの』(1939)で描いた、規範の緩みと蕩尽を伴う祭りが、終わったあとにかえって秩序を強める、という逆説も同じ地点を指している。中断は逸脱ではなく、更新の手続きなのである。

7.2 遊びの時間は暦から自由か

遊びの時間は、暦に縛られない。思い立てば始められ、一日に何度でも繰り返せる。ここが祭りとの大きな違いである。しかし、公園の遊びを観察の対象として考えると、まったく自由というわけでもないことが見えてくる。遊びは、学校が終わる時刻、夕方の呼び戻しの合図、日没、気温、雨といった外側の周期に強く縛られている。

とりわけ日照と気温は決定的である。夏の日中は屋外の遊びが難しくなり、環境省と厚生労働省が示す暑さ指数(WBGT)の目安に沿って運動の可否が判断される場面もある。冬は日暮れが早く、遊びの一回分そのものが短くなる。つまり公園の遊びは、暦に対しては自由だが、太陽に対しては従属している。祭りが人のつくった暦に従うのに対し、遊びは自然の周期に従う、と整理できる。

暦の周期ハレの時終わりの合図
図7祭りは人のつくった暦に、遊びは日照と気温という自然の周期に従う。どちらも終わりの合図をもち、合図によって日常へ戻る。

7.3 逆転——序列がひっくり返る時間

祭りの時間には、ふだんの序列が反転する演出がしばしば伴う。ミハイル・バフチンは中世・ルネサンスの祝祭を論じ、笑いと身体性によって上下が逆さまになる時間の意味を強調した。エミール・デュルケムが『宗教生活の原初形態』(1912)で述べた、集まった人々のあいだに生じる高揚——集合的沸騰——も、日常の役割意識が薄れる局面の記述として読める。

遊びにも同じ反転が起こる。体の大きい子が鬼になれば、小さい子が全員でそれを逃げ回る。ふだん教える側の大人が、ルールを知らないまま参加して真っ先に負ける。年齢や体格の序列が、遊びの規則によって一時的に無効化される。ターナーが言うコムニタス——序列のない対等な結びつき——が生じやすいのも、この局面である。ただし遊びの反転は祭りほど徹底しない。強い子はやはり有利であり、反転は規則が許す範囲にとどまる。

7.4 終わり方の非対称

三者の差がもっともはっきり出るのは、終わり方である。祭りには終わりの所作が用意されている。供えたものを下げ、参加者が飲食を共にし、迎えた神を送る。手続きを踏んで日常へ戻る道筋が、あらかじめ定められている。神話は、語り終えることで終わる。結末は先に決まっており、語り手はそこへ向かう。

これに対して遊びには、内側から終わる手続きが乏しい。勝負がつく遊びなら勝敗が終点になるが、鬼ごっこもごっこ遊びも、放っておけばいつまでも続きうる。だから遊びの終わりは、たいてい外から与えられる。保護者の呼び声、夕方の合図、空腹、日暮れ。ホイジンガの言う魔法円は、内側から畳むのが難しく、外側から破られることで消えるのである。

この非対称は、見守る側にとって実務的な含みをもつ。終わりの合図が外から来ざるをえない以上、その合図をどう出すかが、遊びの質に直接影響する。第3節で述べたとおり、枠そのものを否認する形の終わらせ方——今のは遊びだったのだから意味がない、という扱い——は、参加していた子にとって世界の消滅として経験されうる。あと何回、あと何分という形で内側の時間に接続した合図のほうが、円を壊さずに畳める。

7.5 「またあした」——再設営の予約

最後に、遊び特有の終わり方を一つ挙げておきたい。「またあした」である。この一言は、いま畳んだ世界が明日また立ち上がることを予約する。祭りが次の巡りを暦に託し、神話が再び語られることを前提とするように、遊びは口約束によって次回を確保する。基地の位置も、追加した特別規則も、翌日には引き継がれることがある。

つまり遊びの世界は、一回ごとに完全に消えるのでも、常設で維持されるのでもない。畳まれ、記憶に残り、翌日に呼び出される。神話が語られるたびに少しずつ形を変えながら伝わるように、遊びの規則も、参加者の顔ぶれが変わるたびに書き換えられていく。反復と変形の両立という点で、遊びは神話の伝承ともっとも近い場所にある。

8. 反論への応答——「遊びは儀礼の残存物」という説明の危うさ

ここまでの議論は、遊びと儀礼と神話に共通する形式を取り出す作業だった。この種の議論はしばしば、一歩進んで「だから遊びは儀礼が衰えたものである」という説明へ滑り込む。本節はその一歩を踏まないための歯止めを、正面から論じる。本稿でもっとも重要な節である。

8.1 残存物説とは何か

エドワード・B・タイラーは『原始文化』(1871)で、ある社会に、もとの意味を失ったまま形だけ残っている習慣を「残存」と呼んだ。この概念は強力で、後の民俗研究に広く用いられた。子どもの遊びを、かつて大人が真剣に行っていた儀礼の化石とみなす説明も、この系譜に属する。ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』(1890〜1915)が集めた膨大な比較事例も、しばしばこの枠組みで読まれた。

この説明は魅力的である。目の前の他愛ない遊びが、はるかな過去とつながっているように見える。しかし魅力があることと、正しいことは別である。

8.2 三つの難点

第一に、検証が難しい。ある遊びが儀礼に由来すると言うためには、その儀礼が行われていた時期から現在までの、途切れない伝達の跡をたどる必要がある。しかし子どもの遊びは文字に残りにくく、記録が現れるのはたいてい近代以降である。名称や所作が似ていることは、系譜の証拠にはならない。似た形式は、由来を共有しなくても、条件が似ていれば独立に生まれうる。

第二に、説明の向きが逆立ちしている。遊びを「衰えた儀礼」と呼ぶことは、遊びを不完全なもの、本来の意味を失った抜け殻として扱うことである。この構えは、いま目の前で遊んでいる子どもたちが、その遊びによって何をしているのかを見えなくする。彼らは失われた意味を演じているのではなく、いまここで役を配り、境界を引き、勝敗を分け合っている。

第三に、時間の先後がそもそも確定しない。ホイジンガは、遊びが文化に先立つと主張した。彼に従うなら、儀礼のほうが遊びの形式を借りたことになる。残存物説とは正反対の向きである。どちらの向きも決定的な証拠を欠く以上、慎重な立場は、向きを決めずに形式の一致だけを述べることである。

注意検証困難形式の層
図8似ていることは、由来が同じであることを意味しない。本稿が主張するのは系譜ではなく、形式の一致という限定された事柄である。

8.3 機能主義的な説明の循環

もう一つ、避けたい説明の型がある。「遊びは、子どもに社会の規則を教えるために存在する」という言い方である。たしかに遊びを通じて順番や譲り合いが身につくという指摘には説得力がある。しかし、観察された結果をそのまま目的として言い直せば、どんな慣習も「それがあるのは役に立つからだ」と説明できてしまう。役に立たない遊びが消えずに続く例、役に立たない部分こそが面白がられる例を、この説明は扱えない。

本稿は、遊びの効用を否定しない。ただ、効用によって遊びの存在を説明することはしない。遊びは、何かの手段としてではなく、それ自体として行われている。カイヨワが遊びの条件に「非生産的であること」を挙げたのは、この点を制度的に確認するためであった。

8.4 では、形式の一致から何が言えるのか

系譜も効用も主張できないとすれば、残るものは何か。本稿の答えはこうである。人が集団で何かを共同で行うとき、使える段取りのレパートリーはそれほど多くない。境界を宣言する、役を配る、合図で始める、合図で終える、終わったら元に戻る。この骨組みは、祭りにも、裁判にも、競技にも、そして子どもの遊びにも現れる。共通するのは由来ではなく、共同で何かを立ち上げるときの制約である。

この見方には利点がある。遊びを過去の残り物としてではなく、いまも新しい世界を設営し続けている現役の技術として扱えることだ。子どもは毎日、名前も残らない小さな世界を公園に設営し、日暮れとともに畳んでいる。それは失われた何かの反復ではなく、設営という技術そのものの実演である。

8.5 逆向きの危険——なんでもゲームと呼ぶこと

遊びを儀礼に還元する危険の裏返しとして、儀礼や社会制度を「要するにゲームだ」と言い換える構えにも注意が要る。カイヨワが指摘したとおり、遊びと聖なるものは形式が似ていても、賭けられているものが違う。遊びは、失敗しても参加者の身分や生活が損なわれないことによって遊びである。儀礼や制度では、失敗が実害をもたらす。この差を無視した比喩は、議論を軽くするだけである。

8.6 意味づけを遊びの内側へ持ち込まないこと

最後に実践的な含意を述べる。本稿の分析は、遊びを外から記述するためのものであって、遊んでいる子どもに渡すためのものではない。「かくれんぼは通過儀礼なのだから、最後の一人を必ず見つけてあげなさい」と大人が言い出せば、その瞬間、遊びは大人の物語の上演になる。第3節で述べた枠の否認と同じことが起こる。

分析の言葉は、設計や運営の判断を支えるためにある。隠れ場所の量をどう考えるか、終わりの合図をどう出すか、待つ場所と入る場所をどう分けるか。そうした場面で使うのが、本稿の言葉の正しい使い道である。遊びの内部では、子どもの側の規則が優先される。

9. 磐田市の公園への示唆——境界・役・偶然を園で読む

本節では、これまでの概念を磐田市の公園に当てる。あらかじめ断っておくと、当サイトが収録する100園のうち、現地踏査を終えた園は2026年8月時点で一つもない。以下に述べるのはすべて、オープンデータと市の施設ガイドの記載から立てた仮説であり、踏査によって確かめられるべき見通しである。ここで示す価値があるのは、確かめるべき項目をあらかじめ言語化できる点にある。

9.1 園の大きさと「一回分の遊び」の関係

磐田市の都市公園は、種別で見ると街区公園51園がもっとも多く、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、歴史公園1園、墓園1園、そして法の対象外とされる園が6園である。国の標準では、街区公園はおおむね0.25ヘクタール・誘致距離250メートル、近隣公園は2ヘクタール・500メートル、地区公園は4ヘクタール・1キロメートルを目安とする。

第3節で述べた境界の観点からすると、この規模の差は決定的である。面積が小さい園——たとえば二之宮東第2緑地は17平方メートル、豊田上新屋ポケットパークは156平方メートル、見付本通広場公園は372平方メートル——では、園そのものが一つの円になる。線を引き直す余地はなく、園の縁がそのまま遊びの境界となる。逆に竜洋海洋公園の221,722平方メートル、かぶと塚公園の106,982平方メートルのような規模では、園の内部にいくつもの円が同時に立ち、互いに干渉せずに並存できる。

したがって、鬼ごっこやかくれんぼが成立しやすい広さには、下限と上限の両方があると予想される。狭すぎれば逃げる余地がなく、広すぎれば追いつけず、探しきれない。この上下限が実際にどのあたりにあるのかは、園ごとの形状や見通しにも左右されるため、机上では決められない。踏査で確かめるべき第一の課題である。

9.2 遊具のある園と、何もない広さ

オープンデータの集計では、遊具の記載がある園は64園、砂場は43園、トイレは69園、車いす対応のトイレは34園である。遊具は、第4節でいう役の配分を助けることがある。滑り台の順番待ちの列は順番という秩序を可視化し、複合遊具の高い場所は自然に安全地帯として使われる。

他方で、本稿の観点からは、遊具のない広さにも独自の価値がある。鬼ごっこもかくれんぼも、必要なのは道具ではなく、走れる面と、境界にできる目印である。都市緑地10園や、施設ガイドに園内施設の記載がない園——たとえば御殿遺跡公園や遠江国分寺史跡公園——が、そうした遊びにどう使われているかは、設備の一覧からは読み取れない。設備表に現れない使われ方こそ、踏査が拾うべきものだと考えている。

場所古い記憶100園
図9磐田市の100園を境界・役・偶然という三つの観点で読み直す。踏査はこれからであり、ここに示すのは確かめるべき仮説の一覧である。

9.3 隠れ場所をつくる地形

第5節で論じた隠れ場所の問題は、植栽だけでなく地形にも左右される。磐田市の施設ガイドには、築山の記載がある園がいくつかある。竜洋川袋公園には築山とジャンボ滑り台、複合遊具の記載があり、福田ふるさと公園には築山とトイレの記載がある。築山は、登る遊具であると同時に、その裏側に視線の届かない面をつくる地形でもある。

見通しを確保する考え方と、隠れ場所を残す遊びの要求は、第5節で述べたとおり正面から食い違う。どちらを優先すべきかは本稿の判断できることではなく、園ごとの条件と、管理する部署——磐田市では都市整備課——の方針に委ねられる。本稿にできるのは、この食い違いが存在すること、そして築山や低木の一つひとつがその調整点になっていることを、記述として残すことである。

9.4 園名に残る古い場所の記憶

神話学の視点から見て目を引くのは、磐田市の公園名に、古い場所の記憶を帯びた語がしばしば含まれることである。遠江国分寺史跡公園は歴史公園として21,600平方メートルを占め、京見塚公園には京見塚古墳の記載がある。一ノ谷公園には一ノ谷遺跡の記載があり、御殿遺跡公園、二子塚公園、かぶと塚公園にも塚や遺跡に由来する語が見える。都市緑地には権現緑地という名の園があり、豊田熊野記念公園には熊野の長藤の記載がある。

これらの由来を詮索することは本稿の範囲を超えるし、園名の語源を断定的に述べることは避けなければならない。ここで指摘したいのは一点だけである。かつて特別な意味を負わされていた場所の名が、いま子どもが走り回る公園の名として日常的に呼ばれている。第3節でいう聖域の設営と、第9節でいう遊び場の設営が、同じ土地の上で時代を隔てて重なっている可能性がある。この重なりについては、当サイトの民俗学および宗教学の論考が別の角度から扱っている。

9.5 地区による園数の差

9つの地区ごとの園数は、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。この差は、単に公園が多いか少ないかという話ではない。遊びの一回分に必要な条件——広さ、隠れ場所、集まりやすさ——は園ごとに違うから、選べる園が多い地区では、遊びの種類に応じて場所を選び分けられる。園が2園しかない地区では、その園が持っている条件が、そこで成立しうる遊びの範囲をそのまま決める。

9.6 踏査で確かめたい項目

以上を踏まえ、当サイトが今後の踏査で記録すべき項目を、本稿の観点から整理しておく。いずれもオープンデータや施設ガイドの記載からは分からないものである。

  • 境界:柵・生垣・縁石が連続しているか、途切れているか。出入口はいくつあり、どこに向いているか
  • 隠れ場所:低木の高さ、築山の向き、遊具の背面に視線の通らない面ができているか
  • 集合の起点:ベンチ、屋根のある場所、門など、遊びの前後に人が集まる地点はどこか
  • 走れる面:転ばずに走り続けられる連続した面の広さと、その形(細長いか、まとまっているか)
  • 終わりの合図:時刻を知らせる音や、日没時の暗さの変化が、園のどこまで届くか

これらは踏査済0園という現状からの出発点であり、記録が積み上がれば、第9節の仮説は修正されるはずである。当サイトを運営するのは不動産と介護の事業を営む地域の会社であり、専門の研究機関ではない。だからこそ、確かめられていないことを確かめられていないと書き、仮説と観察を分けて記録することを方針としている。

10. 結論と今後の課題

本稿は、遊びと祭りと神話が共有する形式を取り出し、公園の遊びをその形式の現れとして読み直す試みであった。最後に、第1節で立てた三つの問いに答え、限界と課題を述べる。

10.1 三つの問いへの答え

第一の問い——遊びと儀礼はどの水準で形式を共有し、どこで異なるのか。共有するのは、境界を宣言し、役を配り、合図で始め、合図で終えるという段取りである。異なるのは、その世界の畳み方である。儀礼は畳んだあと参加者を新しい身分に固定し、遊びは畳んだあと全員を元の身分に戻す。レヴィ=ストロースの言い方を借りれば、儀礼は結合的、遊びは分離的である。ただし第6節で見たように、遊びの内部にも、参加者を対等にそろえる結合的な局面が組み込まれている。向きの違いは絶対的ではなく、比重の違いとして理解するのが正確である。

第二の問い——三つの遊びに何が読み取れるか。鬼ごっこには、一人と多数という非対称な配置と、接触によって役が移動する仕組み、そして追う力の及ばない例外の場所があった。かくれんぼには、分離・過渡・統合という三段階と、名を呼ぶことによる再統合があった。じゃんけんには、決定を人の意志の外に置くことで恨みを人に向けさせない、偶然の技術があった。いずれも、儀礼研究が扱ってきた形式と重なる。

第三の問い——公園の設計と運営にとって何を意味するか。三点ある。第一に、遊びは境界を必要とするが、その境界は設備として与えられる必要はなく、目印になるものがあれば足りる。第二に、隠れ場所と見通しは正面から対立する要求であり、園ごとの調整点として扱うほかない。第三に、遊びは内側から終われないため、終わりの合図は外から来る。その合図が枠そのものを否定する形をとると、子どもにとっては世界の消滅として経験されうる。

項目記録踏査
図10結論は仮説の一覧でもある。境界・隠れ場所・集合の起点・走れる面・終わりの合図を、今後の踏査で一園ずつ確かめていく。

10.2 本稿の限界

限界は四つある。第一に、第1節で断ったとおり、本稿は遊びを「手続きの列」として扱った。この単位の取り方は、砂を握っては落とす、水たまりを覗き込む、草の匂いを嗅ぐといった、始まりも終わりもない遊びを視界から落とす。カイヨワの言うパイディア——即興的で騒がしい極——に属する遊びの多くが、この取りこぼしに含まれる。

第二に、本稿は文献整理に依拠しており、遊びの実際の観察に基づいていない。第9節の記述はすべて仮説であり、踏査済0園という現状の上に立つ。第三に、参照した古典の多くがヨーロッパの研究者によるものであり、比較の枠組み自体に偏りがある。第四に、遊びの名称や唱え言葉の地域差については、本稿は一般的な指摘にとどめ、磐田市周辺の具体的な事例には踏み込んでいない。確かな資料を欠くまま地域の事例を書くことはできないためである。

10.3 実践への含意——遊びの内側には持ち込まない

第8節で述べたとおり、本稿の分析は外からの記述であり、遊んでいる子どもに渡すものではない。かくれんぼを通過儀礼と呼び、鬼ごっこを役の交替と呼ぶのは、設計や運営を考えるための言葉である。遊びの内部では、子どもの側の規則が優先される。大人が意味づけを持ち込んだ瞬間に、遊びは大人の物語の上演に変わる。

そのうえで、大人にできることが二つある。一つは、境界の目印になるもの——縁石、ベンチ、樹木、地面の色の変わり目——を安易に消さないこと。もう一つは、終わりの合図を、遊びの内側の時間に接続した形で出すことである。あと何回、あと何分という言い方は、円を壊さずに畳むための、ささやかだが確かな技術である。

10.4 今後の課題

課題は三つある。第一に、第9節に挙げた踏査項目を実際の記録様式に落とし込み、100園に適用していくこと。境界の連続性や隠れ場所の量は、写真と簡単な記述で記録しうる。第二に、隣接する分野の論考との接続である。境内や辻といった近代以前の集まる場所を扱う民俗学の視点、聖なる場所の世俗化を扱う宗教学の視点、公共空間の成り立ちを問う哲学の視点は、本稿が第9節で触れた園名の問題と直結する。

第三に、遊びの語彙の記録である。鬼の呼び名、安全地帯の呼び名、鬼決めの唱え言葉は、世代と地域によって異なり、記録されないまま入れ替わっていく。第6節で述べたとおり、これらは意味ではなく形として伝わる言葉であり、失われれば復元が難しい。当サイトが公園ごとの記録を積むなかで、こうした言葉に出会う機会があれば、慎重に、出所を明示した形で書き留めていきたい。

結びとして一つだけ述べる。公園で毎日行われているのは、名前も記録も残らない世界の設営である。線が引かれ、役が配られ、合図とともに始まり、日暮れとともに畳まれる。その手つきは、祭りの場を囲う手つきや、神話を語り出す手つきと、驚くほどよく似ている。似ている理由を過去に求める必要はない。人が集まって何かを一緒に立ち上げるとき、使える段取りはそう多くないというだけのことである。そして公園は、その段取りを毎日ためすことのできる、都市の中の数少ない場所なのである。

参考文献

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  21. 柳田國男(1942)『こども風土記』(のち岩波文庫)
  22. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  23. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  24. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  25. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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