人文学宗教学

神社境内と公園——聖なる場所の世俗化と共存の宗教学

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:宗教学 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,734字 読了目安 40分

要旨

本稿の目的は、日本の都市公園がもつ「境内らしさ」を宗教学の概念で読み解くことにある。木立に囲まれ、誰でも無料で入れ、子どもが遊び、老人がベンチに座り、年に一度は祭礼でにぎわう——この描写は神社の境内にも公園にも当てはまる。両者がなぜ似ているのか、似ているにもかかわらず何が違うのか、そして違いをはらんだまま一つの場所に同居できるのはなぜかを、本稿は問う。方法は文献整理と概念分析であり、エミール・デュルケムの「聖と俗」の二分法と聖なるものの社会的機能、ミルチャ・エリアーデの聖なる空間論(ヒエロファニー・中心・敷居)、柳田國男の祭礼論、および日本の宗教意識をめぐる「自然宗教」の議論を主な道具として用いる。

本論ではまず、明治6年(1873)の太政官布達第16号によって始まった日本の公園制度が、上野・芝・浅草・深川など、多くの場合すでに「群集遊観の場所」であった社寺境内地を公園に指定したという歴史的経緯を整理し、日本の公園が制度の出発点において境内の世俗化として生まれたことを確認する。次に、江戸期の境内がすでに聖と俗の入れ子構造をもっていたこと、鎮守の森と公園緑地が土地制度を異にしながら同じ緑の機能を担ってきたこと、祭礼が公園を一時的に聖なる時間の場へ変えること、そして世俗化した現代人が石碑や祠の前で「なんとなく手を合わせる」慣習にエリアーデのいう「潜在的な宗教性」が残ることを、順に検討する。

結論として本稿は、境内から公園への転用を「聖なるものの消滅」ではなく「聖なるものの再配置」として捉え、公園を、聖と俗が時間と場所を分けあいながら共存する空間として理解することを提案する。最後に磐田市の都市公園100園を、歴史公園・墓園・風致公園という種別、権現・水神・経塚・国分寺といった園名に残る宗教的な語、古墳や遺跡を含む園という三つの手がかりから読み直し、姉妹サイトの社寺データと重ねる作業の見取り図を示す。ただし当サイトの現地踏査は始まっていないため、園内の祠・石碑・御神木の有無や祭礼利用の実態は、すべて今後の踏査課題として残す。

キーワード聖と俗神社境内太政官布達鎮守の森祭礼世俗化磐田市

1. はじめに——問題の所在

木立に囲まれた広場がある。門も入場料もなく、朝は散歩の人が通り、昼は子どもが駆けまわり、夕方は老人がベンチに座る。年に一度か二度、提灯が下がり、屋台が並び、太鼓の音が響く。——この描写を読んで、読者は公園を思い浮かべるだろうか、それとも神社の境内を思い浮かべるだろうか。おそらく、どちらとも決めかねるはずである。日本の町に暮らす人にとって、境内と公園は驚くほど似た場所であり、実際に隣り合っていたり、垣根なしにつながっていたり、同じ一つの敷地の別の呼び名であったりする。

本稿はこの「似ている」という素朴な直感を出発点に、公園を宗教学の側から論じる。宗教学とは、特定の信仰の内側に立って教義を説く神学とは異なり、宗教という現象を外側から観察し、比較し、その働きを記述しようとする学問である。宗教学が公園を扱う理由は三つある。第一に、日本の公園制度は歴史的に社寺境内から生まれた。明治6年(1873)の太政官布達第16号は、それまで人々が集まり遊んでいた場所——その多くは寺社の境内地であった——を「公園」と定めた。日本の公園は、制度の出発点において境内の世俗化として始まっている。第二に、公園と境内は現在も、緑・広場・祭礼という三つの機能を分けあっている。第三に、公園を訪れる人の振る舞い——石碑の前で立ち止まる、桜の下で宴を開く、正月に集まる——のなかに、宗教学が「聖なるもの」と呼んできた経験の痕跡が残っている。

1.1 問い

本稿の問いは次の三つである。(1)神社境内と公園はなぜ似ているのか。両者の類似は偶然の一致ではなく、歴史的な転用と機能の共有によって説明できるのか。(2)境内が公園に転用されたとき、そこにあった「聖なるもの」は消えたのか、それとも形を変えて残ったのか。宗教学でいう「世俗化」——宗教が社会生活のなかで占める位置を縮めていく過程——は、公園という空間ではどのように進み、どこで止まるのか。(3)祭礼のような聖なる時間と、日常の遊びや休息という俗なる時間は、同じ一つの場所でどのように共存しているのか。共存を可能にしている作法や制度は何か。

これらの問いは、子育て世代の読者にとっては「公園にある祠や石碑をどう扱えばよいか」「祭りの日の公園はいつもと何が違うのか」という実践的な問いにつながり、行政や地域の関係者にとっては「公園の管理と宗教的な行事の関係をどう整理するか」という制度の問いにつながる。学生にとっては、身近な公園が宗教学の古典的概念を試す格好の教材になる、という学習上の意味をもつ。

1.2 方法と用語

方法は文献整理と概念分析である。用いる主な概念は、エミール・デュルケムが『宗教生活の原初形態』(1912)で提示した聖と俗の二分法と、聖なるものが社会を結びつけるという「社会的機能」の理論、ミルチャ・エリアーデが『聖と俗』(1957)で展開した聖なる空間の理論(聖なるものの顕現=ヒエロファニー、世界の中心、敷居)、柳田國男が『日本の祭』(1942)で論じた「祭から祭礼へ」の変化、そして日本人の宗教意識を「自然宗教」として捉える議論である。いずれも初出の箇所で説明する。歴史的な事実については、明治期の公園制度史に関する白幡洋三郎・小野良平らの研究、および法令の条文に依拠する。

本稿で「境内」というときは、主に神社の境内を念頭に置くが、明治初期の公園指定は寺院の境内地を多く含んでいたため、必要に応じて「社寺境内」と表記する。また本稿は特定の信仰の正しさを論じるものではなく、公園と境内を訪れる人がどのような信仰をもつか、もたないかについて何も前提しない。宗教学の言葉で「聖なるもの」というとき、それは「神が実在する」という主張ではなく、「人がある場所や時間を他と区別して特別に扱う、その扱い方」を指す記述的な用語である。

境内木立遊ぶ子どもなぜ似ている
図1境内と公園はなぜ似ているのか。木立・広場・遊ぶ子ども・年に一度の祭礼という共通の風景を手がかりに、宗教学の概念で両者の関係を読み解く。

1.3 構成

第2節で宗教学の基本概念を整理する。第3節では明治6年の公園制度と社寺境内地の関係を歴史的に確認し、日本の公園の「出自」を押さえる。第4節では、公園になる以前の境内がすでに「群集遊観の場所」であったこと、すなわち聖なる場所が俗なるにぎわいを内側に抱えていたことを論じる。第5節では鎮守の森と公園緑地の重なりを、南方熊楠の神社合祀反対運動を手がかりに検討する。第6節では祭礼と日常利用の共存を、時間の区切りと制度の両面から論じ、第7節では世俗化のあとに残る「なんとなく手を合わせる」慣習を扱う。第8節で磐田市の公園100園に照らして示唆を述べ、第9節で結論と今後の課題をまとめる。なお、当サイト ATAWI PARK は磐田市の公園100園のデータベースであり、姉妹サイトとして社寺を扱う ATAWI SHRINE・ATAWI TEMPLE、地域史を扱う磐田物語がある。本稿はそれらのデータを重ねる将来の作業の理論的な下敷きを提供することも意図している。

2. 先行研究と概念の整理

2.1 デュルケム——聖と俗の二分法と聖なるものの社会的機能

宗教学と宗教社会学の出発点に置かれるのが、フランスの社会学者エミール・デュルケムの『宗教生活の原初形態』(1912)である。デュルケムは、あらゆる宗教に共通する最小限の特徴を、神や霊の観念にではなく、世界を聖なるもの俗なるものの二つに分ける分類の仕方に求めた。聖なるものとは、禁止によって隔てられ、守られ、特別に扱われるものであり、俗なるものとはそれ以外の日常の世界である。両者は程度の差ではなく種類の違いであり、聖なるものに触れるには清めや作法が要る。この定義の重要な点は、聖なるものの内容(何が聖か)ではなく、区別の形式(分けて扱うこと)に宗教の核を見たことである。したがって石でも木でも広場でも、共同体がそれを分けて扱うなら聖なるものになりうる。

デュルケムはさらに、聖なるものの正体は社会そのものだと論じた。人々が集まり、ともに歌い踊るとき、個人を超えた力に触れているという高揚——彼はこれを集合的沸騰と呼んだ——が生じ、その力の源が聖なる象徴に投影される。祭りとは、日常のなかで薄れていく共同体の一体感を、周期的に集まることによって作り直す装置である。この見方は、宗教の真偽を問わずに宗教の働きを説明できる点で、公園のような世俗の場所を論じるときにも使える。集まること自体が場所を特別にする、という洞察は本稿全体の土台になる。

2.2 オットーとエリアーデ——聖なるものの経験と聖なる空間

デュルケムが聖なるものを社会の側から説明したのに対し、ドイツの神学者ルドルフ・オットーは『聖なるもの』(1917)で、それを個人の経験の側から記述した。オットーは、畏れとおののきを起こさせながら同時に人を引きつける、言葉にならない感情の対象をヌミノーゼと名づけた。大木の下で息をひそめる感じ、暗い森の奥に何かがいるように思う感じは、この概念で言い表される。

ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデは『聖と俗』(1957)で、聖なるものが世界のなかに現れる出来事をヒエロファニー(聖なるものの顕現)と呼び、それによって空間が均質でなくなることを論じた。宗教的な人間にとって空間は一様ではなく、聖なる場所は「世界の中心」であり、そこから世界に秩序が与えられる。聖なる場所と俗なる場所のあいだには敷居があり、敷居をまたぐことは一つの世界から別の世界へ移ることである。エリアーデはまた、現代の非宗教的な人間も、宗教的な行動の名残を無自覚に保ち続けていると指摘し、これを「潜在的な宗教性」と呼んだ。鳥居・参道・社殿という神社の空間構成、そして公園の門・園路・記念碑という構成を比べるとき、この概念群は有効な道具になる。

概念提唱者(年)内容本稿での適用
聖と俗デュルケム(1912)世界を分けて扱う分類の形式。禁止によって隔てられるのが聖境内と公園の区別と重なり(第3・4節)
集合的沸騰デュルケム(1912)集まりが生む高揚が聖なるものの源になる祭礼が公園を変える(第6節)
ヌミノーゼオットー(1917)畏れと魅力を同時に起こす経験の対象鎮守の森・大木(第5節)
ヒエロファニー・敷居エリアーデ(1957)聖なるものの顕現。空間は均質でなく中心と敷居をもつ鳥居と門・園路(第4節)
潜在的な宗教性エリアーデ(1957)非宗教的な人間にも残る宗教的行動の名残手を合わせる慣習(第7節)
祭から祭礼へ柳田國男(1942)信仰の行事に見物人が加わり、見せる行事へ変わる祭礼と日常の共存(第6節)
自然宗教阿満利麿(1996)教祖も教典もなく暮らしに溶けた宗教性「無宗教」と手を合わせる(第7節)

2.3 日本の文脈——柳田の祭礼論と「自然宗教」

日本の宗教現象を扱うには、西洋で生まれた概念に加えて、日本の民俗学・宗教学の蓄積が要る。柳田國男は『日本の祭』(1942)で、本来「祭」とは神を迎えて共同体の成員が物忌みして参加する行事であったが、都市化とともに信仰に関わらない見物人が現れ、見せるための「祭礼」へと変わっていったと論じた。この「祭から祭礼へ」という図式は、聖なる行事が俗なる観客を抱え込む過程の記述であり、境内が公園化する過程と平行している。

また、日本人の多くが「無宗教」と自称しながら初詣や墓参りを欠かさないという現象については、宗教学者の阿満利麿が『日本人はなぜ無宗教なのか』(1996)で、教祖・教典・教団をもつ創唱宗教と、それらをもたず暮らしのなかに溶け込んだ自然宗教とを区別し、日本人の「無宗教」は後者の宗教性を自覚しない状態だと論じた。公園の石碑の前で「なんとなく手を合わせる」という振る舞いは、この自然宗教の水準で理解できる。

最後に、鎮守の森については、博物学者の南方熊楠が明治末の神社合祀政策に反対して書いた「神社合祀に関する意見」(1912)が古典である。熊楠は、村の神社を統廃合すれば森が伐られ、生物の生息地と人々の集まる場所と地域の記憶が同時に失われると論じた。信仰・生態・共同体を一つの森のなかで結びつけたこの議論は、公園緑地を考える上でも示唆に富む。以上の概念と文献を道具箱として、次節から歴史と現在の検討に入る。

聖なるもの集まり古典
図2本稿の道具箱。聖なるものの区別(デュルケム)、集まりが生む高揚、森への畏れ(オットー・熊楠)、そして柳田・エリアーデらの古典を組み合わせて公園を読む。

3. 明治六年の公園制度と社寺境内地——公園の出自

日本語の「公園」という言葉と制度は、明治6年(1873)1月15日の太政官布達第16号に始まる。この布達は、東京・京都・大阪の三府をはじめ人が多く集まる土地で、古くからの景勝地や旧跡など「これまで群集遊観の場所」であったところのうち、江戸期に年貢を免除されていた社寺の境内などの土地を、「万人偕楽の地」すなわち誰もがともに楽しむ場所として公園に定めるよう、府県に命じたものである。ここで注目すべきは、布達が新しく公園を「つくる」ことを命じたのではなく、すでに人々が集まって遊んでいる場所を「公園と呼ぶ」ことを命じた点である。日本の公園は、白紙に設計されたのではなく、既存のにぎわいの場所に新しい名前を与えることで始まった。

この布達によって東京で最初に指定された五つの公園——上野・芝・浅草・深川・飛鳥山——のうち、上野は寛永寺、芝は増上寺、浅草は浅草寺、深川は富岡八幡宮とその別当寺の境内地であり、飛鳥山も江戸期に幕府が桜を植えて庶民に開放した行楽地で、王子の社寺と結びついていた。すなわち最初の公園の大半は社寺境内地であった。京都の円山公園、奈良の奈良公園、大阪の住吉公園なども、社寺の境内やその周辺地を含んで公園とされた例として知られる。都市公園史を研究した白幡洋三郎(1995)や小野良平(2003)は、この時期の公園を、欧米の「パーク」の理念の輸入という側面と、江戸以来の社寺境内の行楽地という実態との重なりとして描いている。

3.1 上知令と境内地の縮小

境内地が公園に転用される前提として、明治政府による社寺領の整理があった。明治4年(1871)の社寺領上知令は、江戸幕府や大名から与えられていた社寺の朱印地・除地を、境内を除いて政府が収公するものであった。さらに明治8年(1875)の社寺境内外区画取調規則によって、社寺が保持できる「境内」は祭典や法要に必要な範囲に限られ、それ以外は「境外」として上知の対象とされた。境内が縮小され、残った広い土地の使い道が問われたとき、その一つの答えが公園であった。公園制度は、宗教政策の副産物という側面をもっていたのである。

この過程を宗教学の言葉で言い直せば、デュルケムのいう「聖なるもの」を囲っていた境界線が、行政の手で内側に引き直された、ということになる。社殿とそのごく周辺だけが「聖」として社寺の手に残り、参道・馬場・林・広場といった周辺部は「俗」として公有地になった。しかし境界線を引き直しても、参道の桜も、木立も、茶屋のにぎわいも、そこにいた人々もすぐには変わらない。制度上の聖俗の線引きと、人々の経験のうえでの聖俗の感覚とのあいだにずれが生じ、そのずれが日本の公園の独特の性格を生んだ、というのが本稿の見立てである。

3.2 神仏分離から都市公園法までの年表

境内と公園の関係は、明治初期の一度きりの出来事ではなく、その後も宗教政策と都市政策の交差点で何度も定義し直されてきた。主な出来事を年表にまとめる。年表の後半、戦後の政教分離体制と都市公園法の成立によって、境内地は宗教法人の所有する土地、公園は地方公共団体が設置・管理する都市公園として制度上はっきり分かれる。しかし物理的な隣接や利用の連続は残り、それが第6節で扱う祭礼利用の問題を生む。

出来事境内と公園への意味
1868(明治元)神仏判然令(神仏分離)神社と寺院の分離。各地で廃仏毀釈が起こり境内の姿が変わる
1871(明治4)社寺領上知令境内を除く社寺領を政府が収公。境内の範囲が問題になる
1873(明治6)太政官布達第16号(公園の設置)「群集遊観の場所」を公園に。上野・芝・浅草・深川・飛鳥山など
1875(明治8)社寺境内外区画取調規則境内を祭典法要に必要な範囲に限定。境外は上知
1906(明治39)神社合祀の推進一町村一社の方針。鎮守の森の伐採。南方熊楠らの反対運動
1919(大正8)旧都市計画法公園が都市計画施設として位置づけられる
1923(大正12)関東大震災と復興小公園東京に小学校と隣接する52の復興小公園。設計された公園の時代へ
1945(昭和20)神道指令国家と神社の分離。神社は民間の宗教団体へ
1947(昭和22)日本国憲法施行政教分離(第20条・第89条)。国有境内地の社寺への譲与も同年の法律で進む
1951(昭和26)宗教法人法神社・寺院は宗教法人として境内地を所有
1956(昭和31)都市公園法都市公園の設置・管理の基準。街区公園・近隣公園などの種別
社寺境内明治6年境内の縮小公園の門
図3日本の公園の出自。明治6年の布達は、すでに人が集まっていた社寺境内地を公園と呼び直した。上知令で境内が縮小され、残った広い土地が公園になった。

3.3 「出自」が意味すること

公園の出自が境内であることは、単なる歴史的な豆知識ではない。第一に、それは日本の公園に「聖なるものの記憶」を刻んでいる。上野の山にも芝の丘にも、いまも社殿と公園が並び、参拝者と散歩者が同じ道を歩く。第二に、それは公園の利用の作法に影響を与えている。境内では走り回ってよい場所と静かにすべき場所が暗黙のうちに分かれていたが、公園にも同じような「なんとなく静かにする一角」が残ることがある。第三に、明治期の公園指定は都市部の大規模な社寺に集中したため、地方の小さな鎮守と地方の小さな公園の関係は、これとは別の道筋——たとえば戦後の宅地開発に伴う街区公園の整備——をたどった。したがって磐田市のような地方都市の公園を論じるには、明治期の転用モデルをそのまま当てはめるのではなく、鎮守の森と新設の公園が並び立つという第5節以降の視点が要る。

4. 境内の「公園性」——群集遊観の場としての社寺

前節で見たように、明治の公園は「群集遊観の場所」を指定した。ということは、公園になる前の境内が、すでに人々の集まり遊ぶ場所であったということである。本節では視点を逆にして、公園が境内から何を受け継いだのかではなく、境内がもともとどれほど「公園的」であったのかを検討する。ここでの論点は、聖なる場所が俗なるにぎわいを排除するのではなく、むしろ内側に抱え込んでいた、という構造である。

4.1 江戸の境内——開帳・縁日・桜

江戸期の大きな社寺の境内は、都市の娯楽の中心であった。秘仏を期間限定で公開する開帳には遠方からも人が集まり、境内には茶屋や見世物小屋が立った。縁日には市が立ち、参道には露店が並んだ。勧進相撲や富くじといった興行も社寺の境内で行われた。上野の山や飛鳥山は桜の名所として花見客でにぎわい、そこでの飲食や歌舞は、参拝と切り離せない行楽であった。「遊観」という言葉が示すとおり、境内は遊ぶ場所であり、見物する場所であった。柳田國男が『日本の祭』で描いた「見物人」の登場は、まさにこの都市の境内で起きたことである。

この事実は、宗教学の教科書的な「聖なる場所は俗から隔離される」という図式を、単純には当てはめられないことを示している。デュルケムは聖と俗を種類の違うものとし、両者の混同を禁じる規則が宗教の核にあると論じた。しかし江戸の境内では、社殿という聖の核のまわりに、参道・門前・茶屋という俗の層が同心円状に重なり、両者は「隔離」ではなく「入れ子」の関係にあった。オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』(1938)で指摘したように、遊びの場と祭祀の場は、どちらも日常から区切られた特別な空間である点で形式上同じであり、遊びと儀礼は根で通じている。境内の遊びは、聖なるものを汚すのではなく、その周囲を取り巻く緩衝帯として機能していた。

この入れ子構造は、境内の外側にもう一層続いていた。大きな社寺の門前には参拝客を相手にする店や宿が集まって門前町を形づくり、聖の核から俗の町へと、途切れなく人と物が流れていた。参拝と買い物と遊びが一続きの経験であったこの構造は、公園と商店街と住宅地が用途ごとに切り離される近代の都市計画とは対照的である。明治の公園指定が社寺境内地を選んだとき、公園に受け継がれたのは境内の緑と広場だけではなく、この「聖と俗が一続きになっている」感覚でもあった。門前の店が公園の売店や周辺の商店になり、参道のにぎわいが園路の人通りになる。日本の古い公園の多くが周囲の町と垣根なしにつながっているように感じられるのは、この出自による。

4.2 エリアーデの敷居と、境内の段階性

エリアーデは、聖なる空間には敷居があり、そこをまたぐことで人は俗の世界から聖の世界へ移る、と論じた。神社の空間構成はこの理論のよい例である。鳥居が第一の敷居であり、参道が中心へ向かう道であり、手水舎で身を清め、拝殿の前で立ち止まり、その奥に本殿がある。奥へ進むほど聖の度合いが高まり、立ち入りの制限も強くなる。エリアーデの言葉でいえば、境内は均質な空間ではなく、中心に向かって濃くなる「勾配」をもった空間である。

この段階性が、境内に「公園性」を許す構造でもあった。奥が守られているからこそ、入口付近は開かれていてよい。鳥居の外側や参道の脇は、走り回っても屋台が出ても差し支えない場所として、共同体の暗黙の了解のもとで俗に開放されていた。聖と俗の共存は、両者を空間的に混ぜることによってではなく、勾配のなかで場所を分けることによって成り立っていた。この「勾配による共存」は、第6節で公園と祭礼の関係を論じるときに、時間の側にも見いだされる。

鳥居=敷居参道花見にぎわい
図4境内の勾配。鳥居という敷居から参道を経て奥へ進むほど聖の度合いが高まり、入口付近は花見やにぎわいに開かれていた。聖と俗は隔離ではなく入れ子として共存した。

4.3 公園はどこが違うのか——中心のない空間

では、境内から生まれた公園は、境内と何が違うのか。最大の違いは、公園には制度上の「中心」がないことである。都市公園法(1956)は都市公園を、地方公共団体が公衆の利用のために設置する施設として定め、そこに立ち入りの段階や清めの作法を設けない。公園の門は敷居ではなく単なる出入口であり、園路は中心へ導く参道ではなく回遊のための通路である。エリアーデの用語でいえば、公園は理念上、均質な空間として設計されている。誰がどこに立ってもよく、どこも同じ資格で使える。これは近代の公共空間の理念——平等な開放——の空間的な表現であり、境内の勾配とは原理を異にする。

しかし実際の公園は、理念どおりに均質ではない。多くの公園には記念碑や慰霊碑があり、旧境内地の公園には祠や石灯籠が残り、大木が一本だけ立つ一角がある。人はそうした場所を、無意識に他と区別して扱う。碑の前で走るのをためらい、大木の下で声を落とす。均質に設計された空間のなかに、利用者の振る舞いが「小さな中心」を再び作り出しているのである。ここに、制度上の世俗化と経験上の聖性の残存とのずれが現れる。第7節はこの論点を正面から扱うが、その前に、境内と公園を最も強く結びつけている要素——森——を次節で検討する。

5. 鎮守の森と公園の重なり——緑の連続性

境内と公園を最も強く結びつけているのは、森である。神社の背後や周囲に広がる林は鎮守の森(社叢)と呼ばれ、村や町の景観の核であった。一方、都市公園法は都市公園の種別として都市緑地や風致公園を設け、樹林そのものを公園として保全する道を開いている。本節では、鎮守の森と公園緑地が、土地の制度を異にしながら同じ緑の機能を担ってきたことを、宗教学と歴史の両面から論じる。

5.1 森はなぜ聖なのか——神籬・磐座・御神木

日本の神社は、社殿という建物よりも古く、木や岩や森そのものを神の宿る場所としてきたと考えられている。臨時に神を迎える常緑樹の依り代を神籬(ひもろぎ)、神が降りる岩を磐座(いわくら)と呼び、社殿のない神社や、山そのものを神体とする神社がいまも残る。エリアーデの言葉でいえば、木や岩は聖なるものが顕現する場所——ヒエロファニー——であり、そこを中心に空間が秩序づけられる。御神木に注連縄を張るのは、デュルケムのいう「禁止によって聖なるものを隔てる」行為そのものであり、縄一本で一本の木が他の木と種類の違うものになる。

オットーのヌミノーゼの概念も、森について語られることが多い。昼でも薄暗い樹林に入ったときの、少し怖いのに引きつけられる感じ、大木の幹に触れたときの静まる感じは、教義とは無関係に、多くの人が経験する。鎮守の森は、この経験を村のなかに恒常的に用意する装置であった。公園の大木の下で人が自然と声を落とすのは、同じ経験の薄まった形であると解釈できる。

5.2 南方熊楠と神社合祀——森を失うことの意味

明治39年(1906)以降、政府は一つの町村に一つの神社を原則とする神社合祀を進め、統合された神社の森は多くが伐採された。これに激しく反対したのが博物学者の南方熊楠であり、彼が明治45年(1912)に書いた「神社合祀に関する意見」は、鎮守の森を論じる古典となっている。熊楠の論点は多岐にわたるが、本稿にとって重要なのは、彼が森の喪失を三つの側面から一体のものとして捉えたことである。第一に、生き物のすみかとしての森が失われる(彼は当時まだ新しかった生態学という言葉をこの文脈で用いた)。第二に、人々が集まり憩う場所が失われ、共同体の結びつきが弱まる。第三に、土地の記憶と史跡が失われる。

この三点は、そのまま今日の公園緑地が期待されている機能——生態系の保全、地域の集まりの場、歴史の継承——と重なる。熊楠は宗教の教義を擁護したのではなく、森が担っていた複合的な働きを擁護した。デュルケムの言葉に置き換えれば、彼は「聖なるもの」の内容ではなく機能を守ろうとしたのである。鎮守の森と公園緑地は、この機能の水準で連続している。信仰をもたない人にとっても鎮守の森が「残ってほしい場所」であるのは、そこが公園としての働きを担っているからであり、逆に、公園の樹林が「なんとなく大切な場所」に感じられるのは、そこが鎮守の森の働きを引き継いでいるからである。

御神木木陰生き物森の記憶
図5鎮守の森と公園緑地の重なり。御神木は縄一本で聖になる。森は生き物のすみか・集まりの場・土地の記憶を一体で担い、その働きは公園の樹林に引き継がれている。

5.3 明治神宮の森と造園学——設計された聖なる森

鎮守の森と公園の重なりを象徴する事例が、大正9年(1920)に鎮座した明治神宮の森である。この森は自然林ではなく、林学者の本多静六・本郷高徳・上原敬二らが、百年後に常緑広葉樹の安定した林になることを見越して設計・植栽した人工の森である。本多静六は同時に、明治36年(1903)に開園した日比谷公園の設計にも関わった人物であり、日本の近代造園学は、公園の設計と神社林の設計を同じ人物が担うところから始まっている。設計された森が百年を経て「聖なる森」として経験されているという事実は、聖性が土地の起源にではなく、時間の蓄積と人々の扱い方によって生まれることを示す好例である。

5.4 制度の分離と機能の連続

戦後の制度のもとでは、鎮守の森は宗教法人が所有する境内地であり、公園緑地は地方公共団体が設置する都市公園である。土地の法的な性格は明確に異なる。しかし都市計画の側は、両者を「緑」として連続的に扱う仕組みをもってきた。都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律(1962)は所有者を問わず樹木を保存樹に指定でき、都市緑地保全法(1973。のちの都市緑地法)は民有地の樹林を含めて緑地の保全を図る。したがって一つの町の緑を地図に描けば、境内林と公園緑地と屋敷林は制度の色分けなしに一つの緑の網としてつながる。宗教学の視点からは、この網のところどころに「聖」の結び目——注連縄の張られた木、祠のある小丘——があり、それが緑全体に「大切に扱うべきもの」という性格を与えている、と読める。第8節で磐田市の都市緑地10園と風致公園3園に触れるのは、この読み方を具体化するためである。

6. 祭礼と日常利用の共存——聖なる時間と俗なる時間

境内が公園になっても、あるいは境内の隣に公園ができても、祭礼はなくならない。神輿が休む場所、盆踊りのやぐらを立てる場所、屋台の並ぶ場所、正月の飾りを焼く場所として、公園は現在も祭礼の一部を引き受けている。ふだんは子どもがブランコに乗っている広場が、その日だけ提灯に照らされる。本節では、この「同じ場所が日によって性格を変える」現象を、宗教学の時間論と、公園管理の制度の両面から検討する。前節までが聖と俗の「場所による分けあい」を論じたのに対し、本節の主題は「時間による分けあい」である。

6.1 聖なる時間——デュルケム・エリアーデ・柳田

デュルケムは、社会生活が「集まる時期」と「散らばる時期」の交替でできており、集まる時期に集合的沸騰が起こって聖なるものが更新される、と論じた。祭りは周期的でなければならない。なぜなら、集まりが生む一体感は日常のなかで必ず薄れ、定期的に作り直す必要があるからである。エリアーデは別の角度から、祭りとは世界の始まりの時間を現在によみがえらせる行為であり、祭りのあいだ人は日常の直線的な時間から抜け出して「起源の時間」に戻る、と論じた。柳田國男の民俗学は、この対比をハレ(非日常・晴れ)と(日常・褻)という日本語で言い表す。ハレの日には食べ物も服も言葉も日常と変わり、場所もまた変わる。

この三者に共通するのは、聖なるものが場所だけでなく時間によっても区切られる、という洞察である。とすれば、聖と俗の共存は、空間を分割しなくても、時間を分割することで可能になる。同じ広場が、364日は俗の場所であり、1日だけ聖の場所になる。これは第4節で見た境内の「勾配による共存」の、時間版である。公園はこの意味で、聖なる時間を受け入れる「器」として使われている。器そのものは俗であってよく、むしろ俗であるからこそ、誰の所有でもない中立の場所として、地域全体の祭礼を受け入れることができる。

6.2 移り変わりの作法——通過儀礼としての祭りの準備と片付け

フランスの民族学者アルノルト・ファン・ヘネップは『通過儀礼』(1909)で、ある状態から別の状態へ移る儀礼が、分離・過渡・統合の三段階をもつと論じた。この図式は、公園が祭礼の場になり、また日常に戻る過程にもきれいに当てはまる。前日にやぐらを組み、提灯を張り、縄を渡すのは、公園を日常から「分離」する作業である。祭礼の当日は、公園がふだんとは違う規則——大声で歌ってよい、夜に集まってよい、火を扱ってよい——のもとに置かれる「過渡」の状態にある。翌朝、やぐらを解き、ごみを拾い、地面をならすのは、公園を日常へ「統合」し直す作業である。

この過程で重要なのは、片付けが単なる清掃ではなく、場所を俗に戻す儀礼としての意味をもつことである。祭りのあとの公園がいつもより静かに感じられ、翌日ふつうに遊ぶ子どもたちがどこか神妙に見えるのは、そこがつい昨日まで別の時間のなかにあったからである。ここに、公園の日常利用と祭礼利用の関係の要点がある。両者は競合するのではなく、片方が他方の意味を深めている。祭りがあるからこそ、ふだんの公園が「ケの場所」として落ち着き、ふだんの遊びがあるからこそ、祭りの日の公園が「ハレの場所」として輝く。

年に一度祭りの夜集まり準備・当日・片付け
図6時間による聖と俗の分けあい。公園は364日は俗の器であり、祭礼の日だけ聖なる時間の場になる。準備・当日・片付けは分離・過渡・統合という通過儀礼の三段階に対応する。

6.3 制度の側——公園管理と政教分離

祭礼が公園を使うことは、制度の側でも整理が要る。都市公園法と各市の条例のもとで、公園内で物を設置したり集会や興行を行ったりするには、公園管理者の許可が必要とされる。これは宗教行事に限らず、フリーマーケットや運動会にも当てはまる一般的な仕組みであり、祭礼もその枠組みのなかで、一時的な利用として扱われる。一方、日本国憲法は第20条で国とその機関の宗教的活動を禁じ、第89条で宗教上の組織のための公金・公の財産の支出や利用を禁じている(政教分離)。したがって公有地である公園と宗教団体の関係は、この原則との整合が問われる。

この点で参照されるのが、二つの最高裁判決である。津地鎮祭訴訟の判決(1977)は、市が主催した工事の地鎮祭を、目的が世俗的で効果が宗教への援助にあたらない習俗的な行事と評価し、憲法に反しないとした。他方、空知太神社訴訟の判決(2010)は、市が神社の敷地として市有地を無償で提供し続けていたことを、社会通念に照らして総合的に判断し、憲法の政教分離原則に反するとした。二つの判決を並べると、法の関心は「一時的で誰にでも開かれた利用か、それとも特定の宗教施設への恒常的な便宜か」という区別にあることが読み取れる。祭礼のために公園を一日借りることと、公園のなかに祠を常設することとは、法的には別の問題である。ただし個別の判断は事案ごとに異なるため、具体的な扱いは各市の担当部署の判断に委ねられる。

宗教学の側からこの制度を見ると、興味深いことに、法が引いている「習俗か宗教か」「一時的か恒常的か」という線は、デュルケムの「聖と俗」の線とも、柳田の「祭と祭礼」の線とも一致しない。盆踊りは仏教に由来するが多くの人にとって習俗であり、どんど焼きは神事に由来するが地域行事として行われる。法は宗教性の有無を問うのに対し、人々の経験は宗教性を「なんとなく」保ったまま行事に参加している。この「なんとなく」の水準こそ、次節の主題である。

6.4 年中行事の器としての公園——花見・盆踊り・どんど焼き

祭礼という語で神社の例大祭だけを思い浮かべると、公園と聖なる時間の関係を狭く捉えすぎることになる。日本の暮らしには、神社や寺院が主催しなくても、季節ごとに繰り返される年中行事があり、その多くが公園を会場にしている。春の花見は、民俗学では田の神を迎える春の予祝行事に起源をもつという説が語られてきたが、現在では宗教性を意識せずに行われる最も一般的な公園の集まりである。夏の盆踊りは先祖の霊を迎え送る盂蘭盆に由来しながら、地域の親睦行事として公園の広場で行われる。正月飾りを焼くどんど焼き(左義長)は神事に由来し、火を扱うため河川敷や広い公園が会場になる。地蔵盆は寺院や町内の地蔵の前で子どものために行われ、地蔵が公園の一角にある場合は公園が会場になる。

これらの行事は、デュルケムの言葉でいえば「集まる時期」の周期であり、柳田の言葉でいえばハレの日の暦である。公園は、宗教施設の所有物ではなく誰の場所でもないがゆえに、由来の異なるこれらの行事を一年のなかで順に受け入れることができる。同じ広場が春には桜の宴の場になり、夏にはやぐらの立つ場になり、冬には火を囲む場になる。この暦を知っている人にとって、公園は「いつ行っても同じ空地」ではなく、季節ごとに顔を変える場所である。子育て世代にとって年中行事は、子どもが地域の時間の流れを身体で覚える機会であり、公園がその会場になることは、遊び場としての公園と地域の場としての公園を、無理なくつなぐ働きをもつ。

7. 世俗化と「なんとなく手を合わせる」慣習

公園のなかの小さな祠、園路の脇の地蔵、広場の隅の慰霊碑や記念碑。多くの人はそれらを毎日素通りするが、ふとした拍子に立ち止まり、軽く頭を下げ、あるいは手を合わせる。信仰を尋ねられれば「無宗教です」と答える人が、である。本節ではこの「なんとなく手を合わせる」振る舞いを、宗教学の世俗化論と、日本の宗教意識をめぐる議論に照らして検討する。論点は、境内が公園になったとき聖なるものは消えたのか、それとも形を変えて残ったのか、という第1節の第二の問いである。

7.1 世俗化論——脱魔術化から「聖なる天蓋」へ

世俗化とは、宗教が社会の制度や人々の意識のなかで占める位置を縮めていく過程を指す。社会学者マックス・ヴェーバーは、近代化とともに世界から神秘や魔術が取り除かれ、すべてが計算可能なものとして扱われるようになる過程を「脱魔術化」と呼んだ。ピーター・バーガーは『聖なる天蓋』(1967)で、かつて社会全体を覆っていた宗教という「天蓋」が近代においては断片化し、宗教は個人の私的な選択の問題になっていく、と論じた(バーガー自身はのちにこの見通しを部分的に修正し、世界の多くの地域で宗教が力を保っていることを認めている)。

境内から公園への転用は、この世俗化論の教科書的な事例に見える。神の場所が市民の場所になり、参拝が散歩になり、祭礼が地域イベントになる。しかし世俗化論の古典自体が、聖なるものは消えるのではなく別の形をとる、と示唆していた。デュルケムは、宗教の伝統的な形が衰えても、社会が自らを象徴するもの——旗や記念日や英雄——に聖なる性格を与え続けると論じた。エリアーデは、非宗教的な現代人が新居に引っ越すときや新年を迎えるときの振る舞いに、起源の時間や世界の中心をめぐる古い宗教的行動の名残を見いだし、これを「潜在的な宗教性」と呼んだ。この観点に立てば、公園の碑の前で足を止める人は、世俗化の例外ではなく、世俗化のあとに残る宗教性の典型である。

7.2 「無宗教」と自然宗教

日本の文脈では、この現象は「無宗教」という自己認識と結びついている。阿満利麿は、日本人が「無宗教」と言うとき、それは特定の教祖・教典・教団をもつ創唱宗教に属していないという意味であり、初詣・墓参り・地鎮祭・手を合わせる仕草といった暮らしのなかの宗教性——自然宗教——は否定されていない、と論じた。「なんとなく手を合わせる」は、まさに自然宗教の水準の行動である。それは教義に基づく祈りではなく、その場所を「粗末に扱わない」という態度の表明であり、デュルケムの言葉でいえば、聖なるものを他と区別して扱う分類の形式が、内容抜きで残っている状態である。

公園でこの態度が向けられる対象は、およそ三種類に分けられる。第一に、旧境内地や旧墓地に残る宗教的な工作物——祠・地蔵・石灯籠・墓石。第二に、慰霊碑・忠魂碑・記念碑のような、死者や出来事の記憶に関わる工作物。第三に、大木・古墳・湧水のような、それ自体は宗教施設ではないが「昔からそこにあるもの」。三者は由来を異にするが、利用者の振る舞いにおいてはほとんど区別されない。どれも、走らない・登らない・ごみを置かない、という消極的な作法の対象になり、ときに手を合わせる対象になる。宗教学的に興味深いのはこの無差別さである。人々は対象の宗教的な由来を確認して態度を決めているのではなく、「昔からある」「誰かの思いがこもっている」という感覚に反応している。これは、聖なるものの内容ではなく形式に反応する、デュルケム的な宗教性の姿である。

手を合わせる塚・碑ふだんの公園粗末にしない
図7世俗化のあとに残るもの。ふだんの公園のなかの塚や碑の前で、人は由来を確かめないまま足を止め、手を合わせる。聖なるものの内容ではなく「分けて扱う」形式が残っている。

7.3 反論への応答——読み込みすぎではないか

ここで予想される反論に答えておきたい。第一の反論は、「公園はただの空地であり、そこに宗教性を読み込むのは学者の癖にすぎない」というものである。この反論には一理ある。本稿は、公園を利用するすべての人が宗教的な経験をしていると主張しているのではない。主張はより控えめで、公園のなかに人々が「他と区別して扱う場所」が実際にあり、その扱い方が宗教学の記述する形式と一致する、ということである。この主張は、たとえば公園内の古い祠や碑を撤去する計画が持ち上がったときに、由来を知らない住民からも反対や不安の声が出やすい、という一般に語られる現象によって間接的に支えられる。もっとも、こうした反応の頻度や強さを示す統計を本稿は持たないので、これは今後の観察課題である。

第二の反論は、「世俗化はよいことであり、公園から宗教性を切り離すことこそ政教分離にかなう」というものである。本稿はこの価値判断に賛成も反対もしない。本稿の関心は、世俗化を進めるべきか止めるべきかではなく、世俗化が実際にどのように進み、どこで止まるかの記述にある。そして記述の結果として言えるのは、制度上の世俗化——土地の所有と管理の分離——は明治以来ほぼ完了しているが、経験上の世俗化——人々の振る舞いの変化——は完了しておらず、おそらく完了しない、ということである。第三の反論は、「手を合わせる慣習は世代とともに消える」というものである。これは検証可能な予測であり、本稿は否定しない。ただしエリアーデの潜在的宗教性論は、宗教的行動の形式が内容を失ってもなお長く残ることを示唆しており、公園の碑の前で足を止める振る舞いも、その形式の一つとして予想以上に粘り強いかもしれない。

7.4 子育て世代への含意

以上を、公園で子どもと過ごす読者の視点に引き寄せておく。公園のなかの祠や碑について子どもに「これ、なに?」と聞かれたとき、由来を正確に説明できる保護者は多くない。しかし宗教学の観点からは、由来の説明よりも「ここは走らないでおこうね」「昔からある大事なものだよ」という扱い方の伝達のほうが、実は宗教性の核心を伝えている。聖なるものは、教義によってではなく、扱い方によって次の世代に伝わる。どの程度の敬意を払うか、手を合わせるかどうかは、各家庭の考え方に委ねられるべき事柄であり、本稿はその判断に立ち入らない。ただ、公園のなかにそうした「少し違う扱いをする場所」があること自体は、遊びと敬意の両方を子どもが一つの場所で学ぶ機会として、積極的に評価できると考える。

8. 磐田市の公園への示唆

以上の議論を、当サイト ATAWI PARK が収録する磐田市の都市公園100園(磐田市オープンデータ「都市公園一覧」94行と、市の施設ガイドのみに掲載の6園)に照らして具体化する。ただし最初に断っておくべきことがある。当サイトの現地踏査は始まっておらず、園内に祠・石碑・御神木・地蔵があるか、祭礼にどのように使われているかは、オープンデータにも市の施設ガイドの「園内施設」欄(遊具・トイレなどが中心)にも記載がない。したがって本節でできるのは、机上の資料——種別・園名・面積・地区——から「境内らしさ」の手がかりを拾い出し、今後の踏査の見取り図を描くことまでである。

8.1 種別からの手がかり——歴史公園・墓園・風致公園

都市公園法施行令は、風致公園・歴史公園・墓園などを「特殊公園」として区分している。磐田市の100園のうち、この区分に属するのは風致公園3園、歴史公園1園、墓園1園である。歴史公園の1園は遠江国分寺史跡公園(中泉・21,600㎡)であり、その名のとおり古代の国分寺跡に設けられた公園である。国分寺は8世紀に国ごとに建てられた国家の寺院であり、この公園は本稿の枠組みでいえば、仏教の聖なる場所が千年以上の時間を経て史跡となり、公園になった事例である。オープンデータでは遊具・砂場・トイレのフラグがなく、施設ガイドの園内施設欄も記載なしであることから、遊び場というより史跡の保存と見学を主とした公園であることがうかがえるが、実際の使われ方は踏査で確かめる。

墓園の1園は緑ヶ丘霊園(見付・17,802㎡)である。オープンデータではトイレ・車いす対応トイレに加えて遊具のフラグが「有」となっており、死者の場所と子どもの遊び場が同じ都市公園の区分のなかに同居している。本稿の言葉でいえば、これは聖と俗の「場所による分けあい」の一例であり、園内で墓域と遊具のある一角がどう配置され、どのような作法で使い分けられているかは、宗教学的に最も興味深い踏査対象の一つである。風致公園3園——つつじ公園(見付・61,937㎡)、竜洋昆虫自然観察公園(竜洋・29,119㎡)、いわたエコパーク(竜洋・23,973㎡)——は、樹林や自然の風致そのものを公園とする区分であり、第5節で論じた鎮守の森と公園緑地の連続性を、地区の緑地図のなかで確かめる出発点になる。都市緑地10園も同じ関心から見直す価値がある。

8.2 園名からの手がかり——権現・水神・経塚・国分寺・熊野

園名は、その土地がかつて何であったかを示す最も手軽な手がかりである。100園の名称を通覧すると、宗教に由来する語を含む園がいくつかある。権現緑地(見付・都市緑地・3,264㎡)の「権現」は、仏や菩薩が仮に神の姿をとって現れるという神仏習合の考え方に基づく神号であり、明治の神仏分離で公式には廃された語が地名として残った例と考えられる。豊田森下水神公園(豊田・街区公園・2,218㎡)の「水神」は水をつかさどる神を指し、天竜川に近い豊田地区の暮らしと信仰を思わせる。経塚公園(見付・街区公園・3,155㎡)の「経塚」は経典を土中に埋納した塚を指す語であり、塔之壇公園(見付・近隣公園・6,300㎡)の「塔」もまた仏教的な語である。豊田熊野記念公園(豊田・街区公園・1,898㎡)は「ゆや」と読み、施設ガイドは園内施設として「熊野の長藤」を挙げる。

ただし、園名にこれらの語があることと、園内あるいは隣接地に現在も神社・寺院・祠が存在することとは別である。地名が語だけ残して由来を失っている場合も多い。当サイトが姉妹サイト ATAWI SHRINE・ATAWI TEMPLE の社寺データ、および磐田物語の地域史記事と、これらの園を同じ9地区の分類のうえで重ねる作業は、その確認のための第一歩であり、園名の由来そのものは史料と踏査で確かめる。

手がかり該当する園(地区・種別・面積)宗教学的な論点踏査で確かめること
種別:歴史公園遠江国分寺史跡公園(中泉・21,600㎡)仏教の聖地が史跡を経て公園に見学と遊びの使い分け・作法
種別:墓園緑ヶ丘霊園(見付・17,802㎡・遊具フラグ有)死者の場所と遊び場の同居墓域と遊具の配置・振る舞い
種別:風致公園・都市緑地つつじ公園・竜洋昆虫自然観察公園・いわたエコパーク、都市緑地10園鎮守の森と公園緑地の連続隣接する社叢との緑のつながり
園名:神仏習合・水神・仏教語権現緑地・豊田森下水神公園・経塚公園・塔之壇公園・豊田熊野記念公園地名に残る聖なるものの記憶祠・石碑・社寺の有無、由来
古墳・遺跡京見塚公園・かぶと塚公園・二子塚公園・一ノ谷公園・御殿遺跡公園「昔からあるもの」への扱い方塚の周りでの利用の作法・案内表示
9地区の地図社寺データ古墳・塚踏査で確認
図8磐田市の100園を「境内らしさ」から読む見取り図。種別・園名・古墳の三つの手がかりで候補を拾い、姉妹サイトの社寺データと同じ9地区の地図に重ね、現地は今後の踏査で確かめる。

8.3 古墳と遺跡——「昔からあるもの」のある公園

第7節で、人々が宗教的な由来を確かめずに「昔からあるもの」に対して同じ態度をとる、と述べた。磐田市の公園には、この論点にあてはまる園が複数ある。京見塚公園(中泉・街区公園・10,231㎡)は施設ガイドが園内施設として「京見塚古墳」を挙げ、ブランコ・鉄棒・砂場と並んで古墳が記載されている。かぶと塚公園(見付・総合公園・106,982㎡)、二子塚公園(御厨・近隣公園・10,000㎡)は名称に塚を含み、一ノ谷公園(見付・街区公園・2,458㎡)は施設ガイドが「一ノ谷遺跡」を園内施設に挙げ、御殿遺跡公園(中泉・街区公園・827㎡)は名称に遺跡を含む。古墳は死者を葬った場所であり、遺跡は過去の暮らしの痕跡である。子どもがその上や周りで遊ぶとき、保護者や地域がどのような線引き——登ってよいか、案内板はあるか——をしているかは、聖なるものの扱い方が世代を越えて伝わる場面として、踏査で観察したい。

8.4 地区の分布と、行政・地域への含意

地区別に見ると、上で挙げた手がかりのある園は見付(21園)と中泉(14園)に多い。遠江国分寺史跡公園が中泉にあることは、この地区が古代の国府にかかわる土地であったことを示し、見付の権現緑地・経塚公園・塔之壇公園・緑ヶ丘霊園・かぶと塚公園・一ノ谷公園という並びは、旧市街の公園が歴史の層を多く抱えていることを示唆する。一方、豊田(28園)には水神・熊野の名をもつ園があり、街区公園の多い地区にも信仰に由来する地名が残っている。もっとも園数の多寡は宅地開発の時期にも左右されるため、この分布から結論を急ぐことはできない。

行政と地域の関係者への含意は二つある。第一に、園内の祠・碑・古墳といった「少し違う扱いをする場所」は、公園の施設一覧には現れないが、利用者の振る舞いと地域の記憶を支えている。改修や再整備の際にそれらをどう扱うかは、第6節で見た政教分離の枠組みと、第7節で見た住民の感覚の両方に配慮を要する事柄であり、市の公園の管理課である都市整備課(電話 0538-37-4806)をはじめ関係部署の判断に委ねられる。第二に、祭礼や地域行事による公園の一時利用は、公園を地域の「器」として生かす機会であり、日常利用と行事利用の両立の作法——準備と片付け、騒音への配慮、遊具まわりの安全——を地域と共有することが、共存の鍵になる。子育て世代の読者にとっては、ふだん遊ぶ公園が年に一度違う顔を見せる日を知っておくことが、公園を「地域の場所」として理解する近道になるだろう。当サイトは今後の踏査で、これらの点を園ごとに確かめていく。

9. 結論と今後の課題

本稿は、神社境内と公園がなぜ似ているのか、境内が公園になったとき聖なるものはどうなったのか、聖なる時間と俗なる時間は同じ場所でどのように共存しているのか、という三つの問いを立て、宗教学の古典的な概念を用いて検討してきた。得られた答えを整理する。

9.1 三つの問いへの答え

第一の問い——なぜ似ているのか——に対する答えは、歴史と機能の両面にある。歴史的には、明治6年(1873)の太政官布達第16号が「群集遊観の場所」であった社寺境内地を公園と呼び直したことによって、日本の公園は境内の世俗化として生まれた。上知令によって境内が縮小され、残った参道・林・広場が公園になった。機能的には、境内は公園になる以前からすでに、開帳・縁日・花見といった俗のにぎわいを聖の核のまわりに入れ子として抱えており、両者は「隔離」ではなく「勾配による共存」の関係にあった。公園は境内の外側の層を、制度として独立させたものだと言える。

第二の問い——聖なるものは消えたのか——に対する答えは、「消えたのではなく再配置された」である。土地の所有と管理という制度の水準では、政教分離のもとで境内地と都市公園は明確に分かれた。しかし人々の経験の水準では、鎮守の森と公園緑地は同じ緑の網としてつながり、公園のなかの祠・碑・古墳・大木は「他と区別して扱う場所」として残っている。「なんとなく手を合わせる」振る舞いは、デュルケムのいう聖なるものの形式が内容抜きで残った姿であり、エリアーデのいう潜在的な宗教性、阿満のいう自然宗教の水準で理解できる。

第三の問い——共存はどのように成り立つのか——に対する答えは、「場所による分けあい」と「時間による分けあい」の二つである。境内では奥へ向かう勾配が、公園では碑や大木のある一角が、場所による分けあいを担う。祭礼は、364日俗の器である公園を1日だけ聖なる時間の場に変え、準備と片付けという通過儀礼を通じて日常に戻す。制度の側では、公園管理者の許可という一般的な枠組みと、政教分離をめぐる判例が示す「一時的で開かれた利用か、恒常的な便宜か」という区別が、この共存を支えている。

9.2 本稿の限界

本稿には三つの限界がある。第一に、本稿は文献整理と概念分析にとどまり、公園利用者が実際にどのように碑や祠を扱っているかについての観察や聞き取りを含んでいない。「なんとなく手を合わせる」慣習の広がりや世代差は、本稿では一般に語られる現象として述べるにとどめた。第二に、明治期の公園制度史については、都市部の大規模な社寺境内の転用を中心に扱い、地方の小さな鎮守と戦後に整備された街区公園との関係については、並び立つという見立てを示すにとどまった。第三に、磐田市の公園については、当サイトの現地踏査が始まっていないため、種別・園名・面積という机上の手がかりから候補を拾い出す段階にとどまる。

9.3 今後の課題

  • 踏査による確認:磐田市の100園について、園内および隣接地の祠・石碑・地蔵・御神木・古墳の有無と配置、案内板の内容を記録し、種別・園名から拾い出した候補(遠江国分寺史跡公園・緑ヶ丘霊園・権現緑地・豊田森下水神公園・経塚公園・塔之壇公園・豊田熊野記念公園・京見塚公園ほか)を実地に確かめる。
  • 祭礼利用の把握:どの園がどの時期に地域の祭礼や行事に使われているかを、地域の関係者への聞き取りと市の情報から整理し、日常利用との使い分けの作法を記述する。
  • 姉妹サイトとの重ね合わせ:ATAWI SHRINE・ATAWI TEMPLE の社寺データと磐田物語の地域史記事を、共通の9地区分類のうえで公園データと重ね、境内と公園の隣接関係を地区ごとに地図化する。
  • 振る舞いの観察:古墳や碑のある園で、子どもと保護者がそれらをどう扱うか——登るか、避けるか、説明するか——を観察し、聖なるものの扱い方が世代を越えて伝わる場面を記述する。
  • 隣接分野との接続:歴史学・考古学・民俗学・法学(行政法)の各論考と論点を突き合わせ、とくに政教分離と公園管理の関係については法学の側の整理に委ねる。
候補の絞り込み踏査聞き取り文献との照合
図9今後の課題の流れ。机上の手がかりで候補を絞り、踏査と聞き取りで確かめ、宗教学・歴史学・法学の文献と照らして記述を更新する。当サイトの踏査はこれからである。

最後に一言添える。境内と公園の関係を論じることは、宗教を公園に持ち込むことでも、公園から宗教を追い出すことでもない。木立に囲まれた広場で子どもが遊び、老人が座り、年に一度提灯が下がるという風景が、なぜこの国でこれほどありふれているのかを理解することである。その理解は、公園を「遊具のある空地」以上のもの——地域の記憶と集まりを受け入れる器——として見る目を養う。当サイトはその目をもって、磐田市の公園を一園ずつ歩いていく予定である。

参考文献

  1. エミール・デュルケム(1912)『宗教生活の原初形態』(古野清人訳、岩波文庫、上下、1975)
  2. ミルチャ・エリアーデ(1957)『聖と俗——宗教的なるものの本質について』(風間敏夫訳、法政大学出版局、1969)
  3. ルドルフ・オットー(1917)『聖なるもの』(久松英二訳、岩波文庫、2010)
  4. 柳田國男(1942)『日本の祭』(弘文堂。角川ソフィア文庫版あり)
  5. 南方熊楠(1912)「神社合祀に関する意見」(『南方熊楠全集』第7巻、平凡社、1971 所収)
  6. アルノルト・ファン・ヘネップ(1909)『通過儀礼』(綾部恒雄・綾部裕子訳、弘文堂、1977)
  7. ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中公文庫、1973)
  8. マックス・ヴェーバー(1919)『職業としての学問』(尾高邦雄訳、岩波文庫、1936)
  9. ピーター・L・バーガー(1967)『聖なる天蓋——神聖世界の社会学』(薗田稔訳、新曜社、1979)
  10. 阿満利麿(1996)『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)
  11. 白幡洋三郎(1995)『近代都市公園史の研究——欧化の系譜』(思文閣出版)
  12. 小野良平(2003)『公園の誕生』(吉川弘文館)
  13. 太政官布達第16号(明治6年1月15日)「公園設置ニ関スル件」
  14. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  15. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  16. 磐田市 施設ガイド(公園)
  17. 磐田物語(姉妹サイト・9地区の地域史)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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