社会科学民俗学
広場・境内・辻——近代公園以前の「集まる場所」の系譜と現代の公園
要旨
本稿の目的は、日本の村落や町場において人が集まった場所——神社や寺の境内、辻、河原、広小路、鎮守の森——を民俗学の視点から整理し、明治6年の太政官布達に始まる近代の「公園」がそれらの場所から何を引き継ぎ、何を断ち切ったのかを明らかにすることである。方法は文献整理と概念分析であり、柳田國男の「ハレとケ」および「祭から祭礼へ」、折口信夫の「まれびと」、宮本常一の「寄り合い」、網野善彦の「無縁」といった概念を、集まる場所の分析に用いる。あわせて公園制度史の研究群を参照し、境内型の公園から設計型の公園への移行をたどる。
検討の結果、近代以前の集まる場所は、①氏神を核とする境内、②境界を示す辻、③俗権の及びにくい河原、④都市の空地としての広小路、という四つの型に大別でき、いずれも年中行事の暦と、氏子・若者組・子ども組といった集団に結びついて初めて「場所」として立ち上がるものであった、という見通しが得られた。明治の公園はこれらの場所そのもの、とりわけ境内と名所を引き継いだが、所有と管理を社寺から官へ移し、暦から場所を切り離し、氏子という主体を不特定の遊覧客に置き換えた。その後の設計型公園、震災復興小公園、都市公園法へと続く過程で、公園は「いつでも誰でも使える」場となる一方、行事と集団に支えられた場所の性格を薄めていった、というのが本稿の解釈である。
最後に、磐田市の都市公園100園の名前に含まれる塚・遺跡・水神・渡し・権現・農村・広場などの語を手がかりに、現代の公園がこの系譜のどこに位置づくかを検討する。ただし当サイトの現地踏査はこれからであり、園内に祠や石碑があるか、盆踊りや祭礼に使われているかといった論点はすべて今後の踏査と聞き取りの課題として残す。
キーワード境内辻鎮守の森ハレとケ祭礼盆踊り太政官布達
1. はじめに——問題の所在
「公園」という言葉は、いまでは誰もが当たり前に使う。しかし日本語としての「公園」は明治に入ってから制度とともに広まった語であり、明治6年(1873年)の太政官布達によって、東京の上野や浅草など、社寺の境内や名所がまとめて「公園」と定められたのがその出発点であるとされる。つまり公園は、まず新しい場所として造られたのではなく、すでに人が集まっていた場所に新しい名前を与えることから始まった。では、その「すでに人が集まっていた場所」とはどのような場所だったのか。神社や寺の境内、村境の辻、川沿いの河原、江戸の広小路、そして鎮守の森。これらは近代以前の日本において、人が寄り合い、祭り、踊り、遊び、売り買いし、時に争いを避けて逃げ込む場所であった。
本稿はこれらの場所を、民俗学の視点から整理する。民俗学とは、文字に残りにくい暮らしの慣行——年中行事、祭礼、子どもの遊び、言い伝え、地名——を手がかりに、名もない人々(柳田國男の言葉でいえば「常民」)の生活とその変化を明らかにしようとする学問である。公園を論じる学問には、法制度を扱う行政法学、空間の設計を扱う造園学、利用者の行動を扱う社会学などがあるが、民俗学が固有に問えるのは、公園という制度ができる前から、人はどこにどのように集まっていたのか、そしてその集まり方の何が公園に引き継がれ、何が失われたのか、という「系譜」の問いである。
本稿の問いは三つある。第一に、近代以前の村落や町場において人が集まった場所にはどのような型があり、それぞれがどのような時間(晴れの日か日常か)と、どのような集団(氏子、若者組、子ども組、旅人)に結びついていたか。第二に、明治6年の太政官布達に始まり都市公園法(1956年)に至る近代の公園制度は、それらの場所を「どう引き継ぎ、どう断ち切った」のか。第三に、磐田市の都市公園100園の名前に含まれる塚・遺跡・水神・渡し・権現・農村・広場といった語は、この系譜のどこに位置づけられるのか。
この問いは、学問上の関心にとどまらない。子どもを連れて公園に通う保護者は、しばしば「この公園はなぜここにあるのか」「なぜこの名前なのか」「なぜ人が集まる公園と集まらない公園があるのか」と感じる。行政の担当者は、公園を地域の行事や見守りにどう結びつけるかを考える。これらの実務的な疑問に対して、民俗学は「人はもともとどこに、なぜ集まっていたか」という長い時間軸からの答えを用意できる。公園を制度としてだけでなく、集落の歴史の一部として読むことが、本稿の狙いである。
方法は文献整理と概念分析である。用いる主な概念は、柳田國男の「ハレとケ」および『日本の祭』(1942年)における「祭から祭礼へ」の議論、折口信夫の「まれびと」、宮本常一が『忘れられた日本人』(1960年)で描いた「寄り合い」、そして歴史学者・網野善彦が『無縁・公界・楽』(1978年)で示した「無縁」の場の概念である。網野は民俗学者ではないが、境内・市・河原・橋といった場所を俗権の及びにくい空間として論じた点で、民俗学の場所論と深く接続する。公園制度の側については、太政官布達の文言と、都市公園法および同施行令、ならびに公園史の研究群(丸山宏、白幡洋三郎、小野良平ら)を参照する。
磐田市に関する事実は、当サイト(ATAWI PARK)が磐田市オープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドから整理した100園分のデータの範囲でのみ扱う。当サイトの現地踏査はこれからであり、園内に祠や石碑や御神木があるか、地元でどう呼ばれているか、盆踊りや祭礼に使われているかといった、民俗学がもっとも知りたい事柄は、本稿では確かめられていない。したがって第8節は「名前から読める範囲の仮説」にとどめ、確認は今後の踏査と聞き取りに委ねる。
本稿の構成は次のとおりである。第2節で先行研究と概念を整理する。第3節で近代以前の集まる場所を境内・辻・河原・広小路の四つの型に分けて記述する。第4節で祭礼と盆踊りというハレの日の集まりを、第5節で子どもの遊び場としての境内と辻を論じる。第6節で明治の公園制度が境内をどのように公園化したかを年表とともにたどり、第7節で「公園は境内の代替か」をめぐる反論に応答する。第8節で磐田市の公園名を手がかりに系譜を読み、第9節で結論と課題を述べる。
あらかじめ断っておくべきことが二つある。一つは、民俗学の知見は地域差が大きく、ここで述べる「型」はあくまで多くの地域に共通して見られる傾向であって、磐田市の個々の集落にそのまま当てはまるとは限らないことである。もう一つは、近代以前の集まる場所を美化しないことである。境内や辻は誰にでも開かれていたわけではなく、女性や旅人やよそ者が排除される場面も多かった。公園がもたらした「誰でも入れる」という性格は、近代が新たに獲得したものとして正当に評価する必要がある。この二点は第7節で改めて論じる。
2. 先行研究と概念の整理
2.1 柳田國男——常民・ハレとケ・「祭から祭礼へ」
日本民俗学の礎を築いた柳田國男(1875〜1962年)は、『明治大正史 世相篇』(1931年)において、新聞記事を素材に明治・大正の暮らしの変化を読み解いた。そこで彼が用いた対概念が「ハレ(晴)」と「ケ(褻)」である。ハレは晴れ着・晴れの日・祭りといった非日常を、ケは日常を指し、柳田は着物や食物の区別からこの対を取り出した。集まる場所を考えるうえでこの区別が重要なのは、境内や辻が「場所」として立ち上がるのは主としてハレの日であり、日常のそれらは通り道や子どもの遊び場にすぎなかった、という点を見えやすくするからである。場所は空間だけでは成り立たず、時間(暦)と結びついて初めて機能した。
同じ柳田の『日本の祭』(1942年)には「祭から祭礼へ」という章がある。もともと祭りは氏子が神とともに飲食し、身を慎み、共同で執り行うものであったが、やがて「見物人」という第三者が現れ、祭りは見せる行事、すなわち祭礼へと変わっていった、というのが柳田の見立てである。この転換は都市化と結びついており、境内や参道が「参加する場」から「見る・見られる場」へ変質する過程を含む。本稿はこの議論を、公園における催しや遊覧の「見る・見られる」性格の先駆けとして読む。
また柳田の初期の著作『石神問答』(1910年)は、村境や辻に祀られる道祖神・塞の神(さえのかみ)といった石神をめぐる書簡体の論考であり、「境」に神を置くという発想がいかに広く見られるかを示した。辻が単なる道の交点ではなく、内と外を分ける宗教的な境界であったことを理解するうえで、この書は出発点になる。さらに『こども風土記』(1942年)は子どもの遊びを民俗として記録した書で、第5節で用いる。
なお、柳田のいう「常民」とは、特別な身分や職能を持たず、代々の暮らしを受け継いできた普通の人々を指す語である。歴史書に名を残す為政者や知識人ではなく、祭りを担い、田畑を耕し、子どもを育て、辻で立ち話をしてきた人々の側から歴史を見る、というのが民俗学の基本姿勢であり、本稿が公園を「集まる人々の側」から見るのも、この姿勢に倣っている。
2.2 折口信夫・宮本常一・網野善彦
折口信夫(1887〜1953年)は『古代研究』(1929〜30年)において「まれびと」の概念を示した。まれびととは、季節を定めて外から村を訪れ、祝福をもたらす神ないし来訪者であり、折口は祭りや芸能の起源をこの来訪者を迎える所作に求めた。本稿にとって重要なのは、集まる場所とは「外から来るものを迎える場所」でもあった、という視点である。境内も辻も、内側の人間が集まるだけでなく、旅人・行商・芸能者・神を迎え入れる場であった。
宮本常一(1907〜81年)は『忘れられた日本人』(1960年)の冒頭「対馬にて」で、村の寄り合いを描いている。そこでは村人が何日でも話し合いを続け、全員が納得するまで結論を急がない。寄り合いの場は神社の境内やお堂であることが多く、集まる場所は祭りや遊びの場であると同時に、村の意思を決める場でもあった。公園が「決める場」としての性格をほとんど持たないことと対照的である。
歴史学者・網野善彦(1928〜2004年)は『無縁・公界・楽』(1978年)で、中世日本の寺社境内・市・河原・橋・道などを、世俗の権力や主従の縁が及びにくい「無縁」の場として描いた。そこでは借金取りも追っ手も手を出しにくく、駆け込んだ人が保護される(アジール)。この議論には批判もあるが、境内や河原が「誰のものでもない」性格を帯びていたことを示した点で、民俗学の場所論と接続する。公園が公有地としてすべての人に開かれる、という近代の理念は、無縁の場の系譜と重なる部分と、決定的に異なる部分(管理者が明確に存在する)の両方を持つ。
| 概念 | 提唱者(主な著作) | 内容 | 集まる場所・公園に照らすと |
|---|---|---|---|
| ハレとケ | 柳田國男『明治大正史 世相篇』1931 | 非日常(晴)と日常(褻)の区別 | 境内・辻はハレの日に「場所」になる。公園は暦から切り離される |
| 祭から祭礼へ | 柳田國男『日本の祭』1942 | 見物人の登場で祭りが見せる行事に | 参加の場から見る・見られる場へ。公園の催しの先駆け |
| まれびと | 折口信夫『古代研究』1929〜30 | 外から来て祝福する神・来訪者 | 集まる場所は外のものを迎える場でもある |
| 寄り合い | 宮本常一『忘れられた日本人』1960 | 納得するまで続く村の話し合い | 境内は決める場でもあった。公園にはこの機能が薄い |
| 無縁 | 網野善彦『無縁・公界・楽』1978 | 俗権が及びにくい境内・市・河原・橋 | 誰のものでもない場。公園の公共性と重なり、かつ異なる |
2.3 公園史の研究群と本稿の位置
近代日本の公園制度については、造園学・都市計画史の側から研究の蓄積がある。丸山宏『近代日本公園史の研究』(1994年)、白幡洋三郎『近代都市公園史の研究——欧化の系譜』(1995年)、小野良平『公園の誕生』(2003年)などは、太政官布達から都市計画法・都市公園法に至る制度の変遷と、西洋の公園思想の受容、設計の展開を明らかにしてきた。これらの研究は、明治の公園が社寺境内や名所を母体としたことを共通して指摘している。
本稿がこれらに付け加えようとするのは、制度の側からではなく、集まる人々の側から見た「その手前の歴史」である。すなわち、公園に指定される前の境内や辻がどのような時間と集団と結びついて機能していたかを民俗学の概念で整理し、それとの対比で公園の性格を測る。この視点は、地域の公園を単なる設備の集合ではなく、集落の歴史のうえに置かれた場所として読み直すための足場になる。
3. 近代以前の「集まる場所」の四つの型
近代以前の日本において人が集まった場所は多様であるが、民俗学の記述と歴史学の場所論を重ねると、①神社境内と鎮守の森、②辻と村境、③河原と川端、④広小路などの都市の空地、という四つの型に大別できる。これに寺の境内・門前、お堂、井戸端、渡し場・橋詰などを加えれば、およその全体像になる。以下では型ごとに、誰が・いつ・何のために集まったか、そして誰がその場所を管理していたかを整理する。
3.1 神社境内と鎮守の森
村の神社は氏神(うじがみ)と呼ばれ、その氏神を祀る村人が氏子(うじこ)である。境内は氏子の共有空間であり、日常は静かで、子どもが遊び、老人が休み、道具を干す場所にすぎない。しかし祭礼の日には氏子が総出で集まり、神輿が出て、屋台が並び、村中がそこに向かう。境内の背後や周囲には木々が残され、これが鎮守の森(ちんじゅのもり)である。森は神の依り代(よりしろ)であると同時に、村の内と外を分ける目印であり、木を切ることは長く忌まれてきたとされる。管理の主体は氏子集団であり、掃除・修繕・祭礼の費用は氏子が分担した。
3.2 寺の境内と門前
寺の境内は神社境内と似た機能を持つが、より「開かれた」性格が強かった。縁日(えんにち)には市が立ち、開帳(かいちょう)には遠方からも参詣者が集まり、江戸期には境内で勧進(かんじん)と称する芝居や見世物の興行が許されることもあった。浅草寺の境内やその周辺が江戸随一の盛り場となったことはよく知られる。門前には茶屋や土産物屋が並び、参詣と遊興が一体となった。第6節で見るように、明治6年の太政官布達が公園に指定したのは、まさにこうした寺社境内であった。
3.3 辻と村境——道祖神の場所
辻(つじ)とは道が交わる場所である。しかし民俗学が注目するのは、辻が村の内と外、この世とあの世の境界と考えられてきた点である。柳田の『石神問答』が扱ったように、村境や辻には道祖神(どうそじん)や塞の神が祀られ、外から入ってくる災いを防ぐとされた。正月の火祭り(左義長・どんど焼きなど地域によって呼び名が異なる)は辻や村境で行われることが多く、子どもや若者が主役を務める地域も多いとされる。また辻は情報の場でもあった。高札が立ち、辻説法が行われ、辻占(つじうら)といって夕暮れの辻で通行人の言葉を聞いて吉凶を占う習俗も伝えられている。辻は誰の所有でもなく、村全体の管理下にあった。
3.4 河原と川端
河原は網野善彦のいう「無縁」の場の代表である。誰の田畑でもなく、洪水のたびに姿を変える河原には、市が立ち、芝居小屋が掛かり、花火が上がり、また葬送や処刑の場ともなった。生と死、遊びと罰が同じ場所に重なるのは、河原が日常の秩序の外にあったからである。一方で川端は日常の場でもあった。洗い物、水浴び、魚とり、子どもの水遊び。渡し場や橋詰には人が待ち、茶屋が出て、情報が交わされた。河原は「誰のものでもない」ゆえに集まりやすく、しかしそれゆえに危険とも隣り合わせであった。
3.5 広小路——都市の空地が盛り場になる
江戸の広小路(ひろこうじ)は、明暦の大火(1657年)以後、延焼を防ぐ火除地(ひよけち)として道幅を広げ、建物を建てないよう定められた空地から生まれたとされる。上野広小路や両国広小路がその代表で、常設の建物が禁じられたため、仮設の見世物小屋や屋台が集まり、結果として盛り場になった。ここには「集まるために造られたのではない空地に、人が集まってしまう」という型が見られる。都市の空地は、意図とは別に、人の集まる場所へと転じるのである。この型は、防災空地としての性格を持つ現代の公園を考えるうえでも示唆的である。
3.6 辻堂・井戸端・渡し場——日常(ケ)の小さな集まり
四つの型に収まりきらない、より小さな集まる場所も挙げておく。辻堂(つじどう)は辻や村はずれに建てられた小さなお堂で、地蔵や観音を祀り、旅人の休み場、村人の寄り合いの場、子どもの遊び場を兼ねた。井戸端は水を汲む女性たちが日々顔を合わせる場であり、「井戸端会議」という言葉が今も残るように、日常の情報交換の中心であった。渡し場や橋詰では川を渡る人が舟や順番を待ち、待つ時間が自然と会話を生んだ。これらはハレの日の大きな集まりではなく、日常(ケ)の中で繰り返される小さな集まりである。現代の公園でベンチや水飲み場のまわりに生まれる立ち話は、この「待つ・汲む・休む」ついでの集まりの系譜に近い。
| 型 | 主な集まり | 時間 | 主な集団 | 管理の主体 |
|---|---|---|---|---|
| 神社境内・鎮守の森 | 祭礼・寄り合い・子どもの遊び | 祭礼日はハレ、平日はケ | 氏子・若者組・子ども組 | 氏子集団 |
| 寺の境内・門前 | 縁日・開帳・興行・市 | 縁日など定期 | 参詣者・商人・芸能者 | 寺と門前町 |
| 辻・村境 | 火祭り・道祖神祭・情報交換 | 正月など年中行事 | 子ども・若者・通行人 | 村全体 |
| 河原・川端・渡し場 | 市・芝居・水遊び・葬送 | 不定期・季節 | 旅人・芸能者・子ども | 明確な所有者なし |
| 広小路・火除地 | 見世物・屋台・遊興 | 常時(仮設) | 町人・遊覧客 | 幕府(建物を禁止) |
この表から読み取れるのは、集まる場所には常に「時間」と「集団」と「管理者」の三つが付随していた、ということである。場所は空間だけで人を集めたのではなく、暦がその日を指定し、集団がそこに責任を持ち、管理者が(時に不在という形で)その性格を決めた。第6節で公園の性格を測るとき、この三つの軸を使う。
4. 祭礼と盆踊り——ハレの日の広場
前節で述べたとおり、集まる場所は暦と結びついて初めて「場所」になった。本節では、その典型である祭礼と盆踊りを取り上げ、ハレの日に境内・辻・広場がどのように使われ、それが近代の公園にどう受け継がれ、あるいは受け継がれなかったかを検討する。
4.1 祭礼——境内から辻へ、点から線へ
祭礼の日、集まる場所は境内一か所にとどまらない。神輿(みこし)や山車(だし)が境内を出て町や村を巡り、辻で止まり、御旅所(おたびしょ)で休み、再び境内へ帰る。すなわち祭礼は、境内という「点」を出発点として、辻や道という「線」をつなぎ、集落全体を一時的にひとつの祭場へと変える。人はその線に沿って集まり、辻ごとに小さな広場が生まれる。この点から線への広がりは、公園がもっぱら「点」として計画され、周囲の道と切り離されがちであるのと対照的である。
柳田が『日本の祭』で論じた「祭から祭礼へ」の転換は、この線上に見物人が現れることで進んだ。氏子は参加者であるが、町場に増えた通りすがりの人々は見物人である。祭りが見せるものになると、見物のための場所——見やすい辻、桟敷、広場——が求められ、境内よりも通りや広小路が祭礼の主舞台になっていく。柳田はこの変化に、信仰の共同から見物の群衆への移行を見た。近代の公園で行われる催しやイベントは、この「見せる祭礼」の延長線上にあると本稿は考える。
祭礼を実際に運営したのは、多くの地域で若者組(若者仲間・若連中など呼び名は地域による)と呼ばれる青年男性の集団であったとされる。神輿を担ぎ、山車を曳き、境内や辻の設営と片づけを担い、時に祭礼中の秩序維持も引き受けた。集まる場所は、集まる人がいるだけでは成り立たず、それを準備し、片づけ、次の年へ引き継ぐ集団があって初めて毎年立ち上がる。この「場所を立ち上げる集団」の存在は、公園を考えるうえで見落とされがちな点である。公園の設営と維持は行政の仕事とされているが、公園で行事が行われるとき、そこには必ず準備と片づけを担う人々がいる。町内会・自治会・子ども会がその役を担う姿は、若者組の系譜の現代版として読むことができる。
4.2 盆踊り——夜の境内と広場
盆踊りは、盂蘭盆(お盆)に帰ってくる先祖の霊を迎え送る行事として、寺の境内、神社の境内、辻、村の広場で行われてきた。夜に行われること、輪になって踊ること、若い男女の出会いの場でもあったことが、その民俗的性格としてしばしば挙げられる。盆踊りは集まる場所を「夜の場所」に変える点で特異である。日中の境内が子どもや老人の場所であるとすれば、盆の夜の境内は若者の場所であり、同じ空間が時間帯によってまったく別の顔を持った。
明治初期には、風俗を乱すという理由で盆踊りを禁じる府県が相次いだとされ、地域によっては長く途絶えたものもある。その後、盆踊りは各地で復活し、あるいは新たに振り付けられ、いまでは町内会や自治会が主催する夏の行事として、しばしば公園や学校の校庭で行われる。ここに、境内の機能が公園へ移転した一つの実例がある。境内が狭くなったり、神社との関係が薄れたりした地域では、公園が「盆の夜の場所」を引き受けているのである。
4.3 場所の時間性——暦から切り離された公園
祭礼と盆踊りの検討から浮かび上がるのは、近代以前の集まる場所が「一年の暦」に深く埋め込まれていた、ということである。正月の火祭りは辻で、春の祭礼は境内から町へ、盆は夜の広場で、秋の収穫祭は再び境内で。場所は一年を通じて役割を変え、村人はその暦を共有していた。集まる場所は空間の名前であると同時に、時間の名前でもあった。
これに対し近代の公園は、原則として「いつでも」開かれている。開園時間の定めがあっても、それは季節や行事ではなく、朝と夜の区別にすぎない。この「暦からの切り離し」は、公園がもたらした大きな利点である。祭りの日を待たずに、誰でも、平日の午前中でも、そこで休み、遊ぶことができる。子育て中の家庭にとって、公園が「いつでも行ける場所」であることの価値は大きい。
しかし同時に失われたものもある。暦に結びついた場所には「その日にそこへ行く理由」があり、人が同時に集まる仕掛けがあった。公園はいつでも行けるがゆえに、行く理由を個人に委ね、人が同時に集まる仕掛けを持たない。公園に人が集まらないと言われるとき、その一因は設備の不足ではなく、暦の不在にあるのかもしれない。町内会が公園で夏祭りや盆踊りや餅つきを行うことは、この暦を公園に再び持ち込む試みとして読める。第8節・第9節でこの点を磐田市の公園に引きつけて考える。
註:盆踊りや祭礼の起源・意味づけには地域差と諸説があり、ここでは民俗学で一般に語られる型を述べるにとどめる。個々の地域の行事の由来については、その地域の郷土資料や聞き取りに拠るべきである。
5. 子どもの遊び場としての境内と辻
現代の公園はしばしば「子どもの遊び場」と同義に語られる。しかし近代以前には、子どものために設けられた専用の遊び場はほとんど存在しなかった。子どもは大人の空間の余白——境内、辻、道、河原、田畑の畦、家の裏——で遊んだ。本節では、民俗学が記録した子どもの遊びと遊び場を整理し、専用の遊び場としての公園がもたらした変化を検討する。
5.1 『こども風土記』——伝承される遊び
柳田國男の『こども風土記』(1942年)は、子どもの遊びを民俗として記録した書である。そこでは、鬼ごっこや子とろ子とろ、手毬歌、石けりといった遊びが、地域ごとの呼び名の違いとともに描かれ、遊びが年上の子どもから年下の子どもへ伝えられる「文化」であることが示されている。柳田の関心は、遊びの中に古い信仰や行事の名残が保存されている点にあり、子どもの遊びを大人の民俗の縮小版として読む姿勢が一貫している。ここで重要なのは、遊びが伝承されるためには、年齢の異なる子どもが同じ場所に居合わせる必要がある、ということである。境内や辻は、まさにその条件を満たす場所であった。
多くの地域には「子ども組」と呼ばれる年齢集団があったとされ、正月の火祭りや小正月の行事、地蔵盆などで子どもが一定の役割を担った。子ども組の活動の場は辻や境内であり、遊びと行事は連続していた。子どもは遊びながら行事を覚え、行事を通じて集まる場所の使い方を学んだ。遊び場と祭場が同じ場所であったことは、子どもを地域の暦の中に位置づける仕組みでもあった。
5.2 遊び場は「余白」であった
境内が子どもの遊び場に向いていたのには理由がある。平らな地面、木陰、石段、鳥居、狛犬、社殿の縁の下——登る、隠れる、跳ぶ、座る、といった行為を引き出す要素が揃っており、しかも日常は人が少ない。辻や道は鬼ごっこや石けりの場であり、河原は水遊びと魚とりの場であった。ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』(1938年)で述べたように、遊びは日常から区切られた場所——競技場、舞台、神殿——の中で成り立つ。境内という区切られた空間は、宗教的な区切りであると同時に、遊びの区切りとしても機能したと考えられる。
遊び場が余白であったことは、遊びの内容にも影響した。専用の道具はなく、あるものを使う。石、木の枝、水、砂、縄、そして場所そのものの高低差や物陰。遊びは場所に合わせて工夫され、同じ鬼ごっこでも境内と辻とでは違うルールが生まれた。この「場所に合わせて遊びを作る」性格は、遊具という「遊びの用途が決まった道具」を置く公園とは対照的である。ただし、これはどちらが優れているという話ではなく、遊びと場所の関係が変わったということである。
子どもの遊びと行事が連続していた例として、地蔵盆を挙げることができる。主に近畿地方で盛んとされる地蔵盆は、旧暦七月二十四日前後に辻や町角の地蔵の前で行われ、子どもが主役となって菓子を受け取り、数珠回しなどの行事に加わる。辻の地蔵は日常には子どもの遊び場の目印であり、地蔵盆の日にはその同じ場所が子どものための祭場になる。遊び場と祭場が同一の場所で、しかも子どもを中心に立ち上がるという点で、地蔵盆は「暦によって立ち上がる子どもの広場」の典型である。
5.3 見守りと危険——「神のうち」という考え方
境内で遊ぶ子どもは、誰が見守っていたのか。多くの場合、それは特定の保護者ではなく、境内の近くで働く大人や、通りかかる村人の目であった。加えて、「七つ前は神のうち」という言い習わしが各地に伝えられてきたとされる。幼い子どもはまだ完全にこの世の者ではなく神に近い存在であり、その生死は神に委ねられている、という考え方である。これは幼い子どもが亡くなることの多かった時代の観念であり、そのまま現代に持ち込むことはできない。しかし、境内で遊ぶ子どもが「氏神に預けられている」という感覚は、見守りの責任を個々の親だけに負わせない仕組みとして働いていた可能性がある。
同時に、余白としての遊び場は危険とも隣り合わせであった。河原の水、木登り、道を通る車馬。近代の公園が遊具の安全指針や点検制度を整えてきたのは、こうした危険を減らすためであり、その意義は大きい。本稿は近代以前の遊び場を理想化しない。ただ、遊びの場が「安全に設計された専用空間」へ移ったことで、子どもが地域の大人の目や地域の暦から切り離されやすくなった、という副作用があることは指摘しておきたい。安全に関する個別の判断は、国の指針や関係機関に委ねるべき事柄である。
5.4 専用の遊び場の登場
子どものための専用の遊び場が制度として現れるのは、近代に入ってからである。第6節で述べる関東大震災後の復興小公園は小学校に隣接して整備され、子どもの利用を強く意識していたとされる。戦後は児童福祉法(1947年)が児童厚生施設として児童遊園を位置づけ、都市公園法(1956年)のもとでは小規模の公園が「児童公園」と呼ばれ、遊具が標準的に置かれた。1993年(平成5年)の施行令改正で児童公園は「街区公園」に改称され、子どもだけでなく住民全般の利用が想定されるようになった。この改称は、公園が「子どもの遊び場」から再び「みんなの集まる場所」へ戻ろうとする動きとして読める。
以上を整理すると、子どもの遊び場は「大人の空間の余白」から「専用に設計された空間」へ移り、遊びは「場所に合わせて作る」ものから「遊具に合わせて選ぶ」ものへと重心を移した。得られたのは安全と確実性であり、薄れたのは異年齢の混在と地域の暦との接続である。現代の公園において、異年齢の子どもが自然に居合わせ、地域の大人の目が届き、時に行事の場になる——そのような条件を意識的に整えることが、境内の遊び場から学べる示唆であろう。
6. 明治の公園——太政官布達と境内の公園化
本節では、近代の公園制度が集まる場所をどのように引き継ぎ、どのように断ち切ったかを、制度の節目に沿ってたどる。焦点は明治6年の太政官布達である。この布達は、新しい空間を造る命令ではなく、すでに人が集まっていた場所に「公園」という名を与える命令であった。
6.1 太政官布達第16号——「群集遊観ノ場所」を公園に
明治4年(1871年)、新政府は社寺領上知令によって社寺の領地の多くを官有地とした。境内地の扱いが宙に浮くなか、明治6年(1873年)1月に出された太政官布達第16号は、三府(東京・京都・大阪)をはじめ人の集まる土地において、古くからの景勝地や旧跡など「これまで群集遊観の場所」であったところを、末永く万人がともに楽しむ地として公園に定めるよう府県に求めた、とされる。東京では上野(寛永寺)、芝(増上寺)、浅草(浅草寺)、深川(富岡八幡宮)、飛鳥山が公園とされ、これらはいずれも寺社境内か、桜の名所として庶民が集まっていた場所であった。
この布達の文言は、公園の出発点を考えるうえで示唆に富む。「群集遊観の場所」という言い方は、人が群れ集まって遊び眺める場所、すなわち第3節で述べた境内・門前・広小路型の場所を指している。政府は新しい場所を発明したのではなく、民俗的に成立していた集まる場所を追認し、その所有と管理を官の側に置き直したのである。公園史の研究群(丸山宏、白幡洋三郎、小野良平ら)が共通して指摘するように、明治初期の公園は「境内型」であった。
6.2 引き継いだもの
境内型の公園が引き継いだものは、まず場所そのものである。参道、石段、桜並木、茶屋、眺望。人々は「公園」という名がついた後も、以前と同じように花見をし、参詣し、休んだ。集まる習慣もそのまま引き継がれた。縁日、開帳、見世物、そして「見物」という振る舞い。柳田が「祭礼」に見た見物人の群れは、公園の遊覧客としてそのまま連続している。つまり公園は、集まる場所の空間と、そこでの振る舞いの型を受け取った。
6.3 断ち切ったもの——所有・暦・主体
一方で公園制度は三つのものを断ち切った。第一に所有と管理である。境内は氏子や寺の管理下にあったが、公園は官有地となり、府県が管理者になった。掃除や修繕は氏子の分担から行政の事業へ移り、集まる人々は場所の「持ち主」から「利用者」へと立場を変えた。第二に暦である。境内は祭礼日に「場所」になったが、公園はいつでも公園である。第4節で述べたように、これは利点であると同時に、人が同時に集まる仕掛けの喪失でもあった。第三に主体である。境内は氏子のもの、辻は村のものであったが、公園は「万人」のものである。特定の集団が責任を持つ場所から、不特定の個人が使う場所へ。この移行は近代の公共性の獲得であり、同時に集団と場所の結びつきの解消であった。
境内型と並んで、明治初期の地方に多く見られたのが「城跡型」の公園である。明治6年(1873年)の廃城令によって全国の多くの城が廃されて建物が取り壊され、残された城跡の高台や堀の跡は、桜が植えられて公園になった例が多いとされる。城跡は近世には集まる場所ではなく、むしろ庶民が入れない場所であったが、権力の空間が公園という「万人の場所」へ転じたという点で、境内型とは逆向きの系譜を持つ。城跡型公園は眺望と桜という名所の性格を備え、地方都市では中心的な公園として長く親しまれてきた。磐田市の園名にも「城」の語を持つ園があり(第8節)、その由来は今後の確認課題である。
6.4 設計型の公園へ——年表
境内型の公園に続いて、西洋の公園思想を取り入れた「設計型」の公園が登場する。明治21年(1888年)の東京市区改正条例は都市の計画に公園を位置づけ、明治36年(1903年)に開園した日比谷公園は、洋式の花壇や芝生を持つ設計された公園の代表とされる。大正8年(1919年)の都市計画法は公園を都市計画施設とし、大正12年(1923年)の関東大震災後には、復興事業として小学校に隣接する復興小公園が東京市内に52か所整備されたとされる。戦後、昭和31年(1956年)の都市公園法が現在の制度の骨格をつくり、街区公園・近隣公園・地区公園といった種別と、誘致距離・標準面積の目安(街区公園0.25ha・250m、近隣公園2ha・500m、地区公園4ha・1km)が定められていく。
| 年 | 出来事 | 集まる場所との関係 |
|---|---|---|
| 1871(明治4) | 社寺領上知令 | 境内地の多くが官有地に |
| 1873(明治6) | 太政官布達第16号 | 「群集遊観の場所」=境内・名所を公園に指定(境内型) |
| 1888(明治21) | 東京市区改正条例 | 都市計画の中に公園を位置づけ |
| 1903(明治36) | 日比谷公園 開園 | 洋式の設計型公園の登場 |
| 1919(大正8) | 都市計画法 | 公園が都市計画施設に |
| 1923〜(大正12〜) | 関東大震災と復興小公園 | 小学校隣接の小公園。子どもの遊び場としての公園 |
| 1947(昭和22) | 児童福祉法 | 児童遊園が児童厚生施設に |
| 1956(昭和31) | 都市公園法 | 種別・誘致距離・標準面積の体系 |
| 1993(平成5) | 施行令改正 | 児童公園を街区公園に改称 |
この年表を第3節の三つの軸——時間・集団・管理者——で読み直すと、公園の歴史は「暦から常時へ」「特定の集団から不特定の個人へ」「共同体の管理から行政の管理へ」という一方向の移行として要約できる。境内型の公園には集まる場所の記憶が濃く残っていたが、設計型・計画型の公園が増えるにつれ、公園は集落の歴史から独立した「制度上の空間」となっていった。磐田市の街区公園51園の多くも、この計画型の系譜に属すると考えられる。ただし、後述するように、名前の中に古い場所の記憶を残す園も少なくない。
7. 公園は境内の代替か——反論への応答
ここまでの議論は、近代の公園が境内・辻・河原・広小路といった集まる場所の系譜を引き継ぎつつ、所有・暦・主体を断ち切った、という見立てに立っている。しかしこの見立てにはいくつかの反論がありうる。本節では五つの反論を取り上げ、それぞれに応答することで、本稿の主張を鍛える。
7.1 反論1——公園は境内の代替になっていない
第一の反論は、公園は境内の代替になどなっていない、というものである。境内には神がおり、氏子集団があり、祭礼の暦がある。公園にはそのいずれもない。だから両者を系譜でつなぐこと自体が誤りだ、と。この反論は半ば正しい。公園は神格も氏子も暦も持たず、その意味で境内の代替ではない。しかし本稿が主張しているのは代替ではなく「系譜」であり、引き継がれたものと断ち切られたものの両方を見ることである。しかも、公園に持ち込まれる盆踊りや夏祭り、餅つき、どんど焼き、あるいは地域の清掃活動といった営みは、境内の機能の一部が公園に流れ込んでいることを示している。代替ではないが、無関係でもない。系譜という言葉はこの中間を指す。
7.2 反論2——境内も規則に縛られていた
第二の反論は、公園の禁止看板を「無縁の場の終わり」と嘆くのは一面的で、境内や辻にも厳しい規範があった、というものである。これは正しい。若者組の制裁、村八分、氏子でない者の排除、女人禁制。近代以前の集まる場所は決して自由な場ではなかった。違いは規範の有無ではなく、規範の出所にある。境内の規範は共同体の内側から生まれ、共同体が執行した。公園の規則は行政が定め、看板と管理者が執行する。前者は集まる人々自身が場所の秩序に責任を持つ仕組みであり、後者は責任を行政に委ねる仕組みである。どちらが良いかは一概に言えないが、公園の秩序を「自分たちのもの」と感じにくい構造がここに由来することは指摘できる。
7.3 反論3——近代以前を美化していないか
第三の反論は、本稿が近代以前の集まる場所を美化している、というものである。この批判は真剣に受け止める必要がある。境内や辻は、女性、子ども、旅人、被差別の人々、そして村の決定に従わない者に対して、しばしば閉ざされていた。寄り合いは全員が納得するまで続いたが、その「全員」に誰が含まれていたかは問われねばならない。公園が持つ「誰でも入れる」という性格は、近代が新しく獲得したものであり、境内の系譜からは出てこない。本稿はこの点を認めたうえで、しかし「誰でも入れる」ことと「誰かが責任を持つ」ことが両立しにくくなった、という近代の課題を指摘している。美化ではなく、得失の両方を見ることが目的である。
7.4 反論4——鎮守の森は公園と関係がない
第四の反論は、鎮守の森の減少と公園の増加は無関係だ、というものである。しかし時期の重なりは注目に値する。明治末、明治39年(1906年)ごろから進められた神社合祀政策によって、小さな神社が近隣の神社に統合され、多くの鎮守の森が失われたとされる。南方熊楠はこれに強く反対し、「神社合祀に関する意見」(1912年)で、合祀が地域の信仰と自然と人の集まりを同時に壊すことを訴えた。柳田國男もこの意見の流布に関わったとされる。鎮守の森という集まる場所が減っていく時期と、公園が制度として整えられていく時期は重なっており、直接の因果を証明することはできないが、集まる場所の「受け皿」が森から公園へ移っていく大きな流れの一部として理解することは可能である。
7.5 反論5——「日本に広場はなかった」
第五の反論は、日本の都市には西洋のような広場はなかった、という広く語られてきた見方に関わる。西洋の広場(プラザ、ピアッツァ)が市庁舎や教会に面した恒常的な空地であるのに対し、日本の町にはそれに相当する空間がなく、公園はその欠落を埋めるために輸入された、というのがこの見方である。しかし本稿の整理からは別の答えが導かれる。日本に広場がなかったのではなく、広場は境内・辻・河原・広小路という「別の形」をとっていたのである。恒常的な空地ではなく、暦によって立ち上がる一時的な広場。西洋型の恒常的な広場を基準にすればそれは広場に見えないが、人が集まるという機能に着目すれば、日本には日本の広場があった。公園を考えるとき、この「暦によって立ち上がる広場」の型を、恒常的な空地としての公園にどう重ねるかが問われる。
五つの反論への応答をまとめると、本稿の主張は次のように整理される。公園は境内の代替ではないが系譜上にある。公園の規則は境内の規範と出所が異なる。近代以前の場所は閉鎖的でもあり、公園の開放性は近代の獲得である。鎮守の森の減少と公園の増加は同時代の現象である。そして日本には暦によって立ち上がる広場の型があった。これらを踏まえて、次節では磐田市の公園に目を向ける。
8. 磐田市の公園への示唆——園名に残る集まる場所の記憶
本節では、これまでの議論を磐田市の公園に引きつける。当サイトが整理した磐田市の都市公園は100園(磐田市オープンデータ「都市公園一覧」94行に、市の施設ガイドのみに掲載の6園を加えたもの)で、種別では街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、法対象外6園である。地区別では見付21園、中泉14園、御厨13園、豊田28園、南部2園、向陽2園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園となる。民俗学がまず手がかりにするのは地名と場所の名前であるから、ここでは園名に含まれる語を、第3節の四つの型に対応させて読んでいく。なお、以下はすべて名前から読める範囲の仮説であり、由来の確定は史料に基づく研究に、園内の実態は今後の踏査に委ねる。
8.1 塚と遺跡——祀られた場所の上の公園
磐田市の園名には「塚」が目立つ。かぶと塚公園(総合公園・見付・106,982㎡)、京見塚公園(街区公園・中泉・10,231㎡。市の施設ガイドの園内施設欄には「京見塚古墳」とある)、二子塚公園(近隣公園・御厨・10,000㎡)、経塚公園(街区公園・見付・3,155㎡)である。塚は民俗学において、古墳や経塚のように何かが埋められた場所であると同時に、境界や祀りの対象であり、みだりに触れると祟るといった言い伝えを伴う型が各地に見られる。塚を壊さず、その周囲を公園にするという選択は、明治の境内型公園が名所や旧跡を「保存しつつ集まる場」としたのと同じ系譜に属する。
遺跡・史跡の名を持つ園も多い。一ノ谷公園(街区公園・見付・2,458㎡。園内施設欄に「一ノ谷遺跡」)、御殿遺跡公園(街区公園・中泉・827㎡)、そして市内唯一の歴史公園である遠江国分寺史跡公園(中泉・21,600㎡)である。国分寺は奈良時代に国ごとに置かれた官寺であり、寺の境内が集まる場所であったという第3節の議論を思い起こせば、その跡地が現代に「公園」の名で人の集まる場所になっていることは、千年を超える系譜として興味深い。塔之壇公園(近隣公園・見付・6,300㎡)の「塔」も、寺院や仏塔との関わりを想像させる名であるが、由来は確認していない。
8.2 水神・渡し・泉・堀——水辺の集まる場所
第3節の「河原・川端・渡し場」の型に対応するのが、水にまつわる名を持つ園である。豊田森下水神公園(街区公園・豊田・2,218㎡)の「水神」は、井戸や川や用水を守る神の名であり、水神を祀る小祠は各地の集落に見られる。公園の名に水神が残るのは、その場所または近くに水神が祀られていた記憶を示唆する。豊田池田の渡し公園(近隣公園・豊田・7,738㎡)の「渡し」は、川を渡る渡し場のことで、第3節で述べたように渡し場は人が待ち、茶屋が出て、情報が交わされる集まる場所であった。泉公園(街区公園・中泉・1,538㎡)、水堀公園(近隣公園・見付・11,174㎡)、水堀東公園、めがねばし公園(街区公園・見付・690㎡)の「泉」「堀」「橋」も水辺の記憶を伝える名である。
河原そのものを公園にした例として、竜洋西堀河川敷公園(地区公園・竜洋・34,490㎡)、豊田天竜川わんぱく広場(近隣公園・豊田・14,914㎡)、豊田ラブリバー公園(近隣公園・豊田・16,030㎡)、天竜川ラブリバー公園(豊岡・法対象外)などがある。河川敷は網野のいう「無縁」の河原の現代版であり、誰の田畑でもない空地が集まる場所になるという型を、そのまま引き継いでいる。ただし河川敷は増水時の危険と隣り合わせであり、利用の判断は市や河川管理者の案内に従うべきである。
8.3 権現・熊野・城——信仰と名所
権現緑地(都市緑地・見付・3,264㎡)の「権現」は、神仏習合の考え方において仏が仮の姿で神として現れたとする神号であり、権現の名を持つ社が各地にある。緑地という種別と権現という名の組合せは、鎮守の森の系譜を想像させるが、当サイトはまだ確かめていない。豊田熊野記念公園(街区公園・豊田・1,898㎡)は、市の施設ガイドの園内施設欄に「熊野の長藤」とあり、藤の木そのものが人を集める名所であることを示している。桜や藤の花のもとに人が集まるという振る舞いは、飛鳥山や上野の花見が公園の出発点であったことを思い出させる。城之崎公園(街区公園・御厨・3,438㎡)や城山球場(運動公園・見付・41,081㎡)の「城」も、かつての集まる場所の記憶を留める名であろう。
8.4 農村公園と広場——寄り合いの場の系譜
豊田地区には「農村公園」の名を持つ園が集中する。豊田海老塚農村公園(街区公園・3,887㎡)、豊田富里農村公園(近隣公園・13,382㎡)、豊田中野戸農村公園(街区公園・1,492㎡)、豊田森本農村公園(街区公園・2,914㎡)、そして南部地区の浜部農村公園(法対象外)である。「農村公園」という名は、都市公園法の種別ではなく、集落の中に置かれた公園であることを示す呼び名であり、宮本常一が描いた寄り合いの場——集落の人々が集まり、話し、行事を行う場——の系譜に連なる可能性がある。これらの園が現在も地域の行事に使われているかどうかは、踏査と聞き取りで確かめたい点である。
「広場」の名も注目に値する。見付本通広場公園(街区公園・見付・372㎡)は、市内でも面積の小さい園の一つで、「本通」という語が街道沿いの町場を示す。町場の通りに面した小さな空地は、第3節の広小路の型に近く、暦によって立ち上がる一時的な広場の場としての可能性を持つ。さわやか広場(街区公園・中泉・1,576㎡)、豊田天竜川わんぱく広場、そして竜洋すみれ遊園地(街区公園・竜洋・913㎡)といった、「公園」以外の語を名に持つ園も、それぞれ場所の性格を名前に残している。また竜洋川袋公園と福田ふるさと公園には施設ガイドに「築山」の記載があり、人工の山を築いて眺めや遊びの場とする庭園の技法が公園に持ち込まれていることがわかる。
8.5 地区名と今後の踏査で見るべきこと
地区名にも古い場所の記憶がある。御厨(みくりや)は一般に、神社に神饌(しんせん)を供するための所領を指した語であり、中泉の「泉」、見付の「見付」も、それぞれ土地の来歴を示す語である。ただし個々の地区名の由来は本稿の範囲を超えるため、姉妹サイト「磐田物語」の地区ページや歴史学の研究に委ねる。
以上を踏まえ、今後の踏査で民俗学の観点から見るべき点を挙げておく。第一に、園内やその隣に祠・石碑・御神木・道祖神があるか。第二に、隣接して神社や寺があり、境内と公園が連続しているか。第三に、盆踊り・夏祭り・どんど焼き・清掃活動など、地域の行事に使われているか(園内の掲示や自治会の案内から読み取れることがある)。第四に、地元での呼び名が正式名称と異なるか。これらは市のオープンデータにも施設ガイドにも載らない情報であり、当サイトの踏査と聞き取りによって初めて明らかになる。100園のうち踏査済みはまだ0園である。
9. 結論と今後の課題
本稿は、近代公園以前の「集まる場所」を民俗学の視点から整理し、明治以降の公園制度がそれらをどう引き継ぎ、どう断ち切ったかを検討した。冒頭で立てた三つの問いに答える形で結論を述べる。
第一の問い——近代以前の集まる場所にはどのような型があり、どのような時間と集団に結びついていたか。本稿は、氏神を核とする境内と鎮守の森、境界としての辻、無縁の場としての河原、都市の空地としての広小路、という四つの型を示した。いずれも年中行事の暦によって「場所」として立ち上がり、氏子・若者組・子ども組といった集団がそこに責任を持ち、管理者の性格(氏子集団、村全体、所有者なし、幕府)がその場所の自由さと閉鎖性を決めていた。集まる場所は空間の名前であると同時に、時間と集団の名前でもあった。
第二の問い——公園制度は何を引き継ぎ、何を断ち切ったか。明治6年の太政官布達は、境内や名所という「群集遊観の場所」に公園の名を与えることから始まり、場所そのものと、花見・見物・参詣といった振る舞いの型を引き継いだ。一方で、所有と管理を氏子から官へ、時間を暦から常時へ、主体を特定の集団から不特定の個人へと置き換えた。設計型・計画型の公園が増えるにつれ、この断絶は深まり、公園は集落の歴史から独立した制度上の空間となった。公園の開放性は近代の獲得であるが、「誰かが責任を持つ」仕組みと「その日にそこへ行く理由」は薄れた。
第三の問い——磐田市の公園名はこの系譜のどこに位置づくか。塚・遺跡・史跡の名(かぶと塚、京見塚、二子塚、経塚、一ノ谷、御殿遺跡、遠江国分寺史跡)は祀られた場所の系譜を、水神・渡し・泉・堀・河川敷の名は水辺の集まる場所の系譜を、権現・熊野の名は信仰と名所の系譜を、農村公園・広場・本通の名は寄り合いと町場の空地の系譜を、それぞれ示唆している。磐田市の公園は制度上は都市公園法の種別に分類されるが、名前を通して見れば、集まる場所の長い系譜の上に置かれている。
9.1 現代の公園への示唆
本稿の議論から、現代の公園に対して三つの示唆を引き出すことができる。第一に、公園を「暦」の中に置き直すことである。町内会や自治会が公園で盆踊り・夏祭り・餅つき・どんど焼き・清掃活動を行うことは、単なる利用ではなく、公園に「その日にそこへ行く理由」を与え、人が同時に集まる仕掛けを取り戻す営みである。第二に、隣接する神社や寺と公園を切り離さず、境内と公園を連続した集まる場所として捉えることである。第三に、園名に含まれる塚・水神・渡し・農村といった語の意味を、案内板や当サイトのような媒体で伝えることである。名前の意味を知ることは、公園を制度上の空間から集落の歴史の一部へと引き戻す最も手軽な方法である。
これらの示唆は、公園の設備を増やすことを求めるものではない。第3節で示した三つの軸——時間・集団・管理者——のうち、公園制度が担っているのは管理者の軸だけであり、時間(暦)と集団は制度の外側にある。だからこそ、暦と集団を公園に持ち込む主体は行政ではなく地域の側であり、行政にできるのはそれを妨げないこと、場所と情報を開くことである。当サイトのような公園のデータベースが、設備の一覧に加えて、園名の由来や地域の行事の記録を載せていくことも、その一助になりうると考える。
9.2 今後の課題
本稿の限界は明確である。第一に、本稿は文献整理と概念分析にとどまり、磐田市の個々の公園について現地で確かめたことは何一つない。園内の祠・石碑・御神木、隣接する社寺、行事の実態、地元の呼び名は、すべて今後の踏査と聞き取りの課題である。第二に、園名の由来は名前から推測したにすぎず、史料に基づく確認が必要である。市史や郷土資料、姉妹サイト「磐田物語」の地区ページとの突合を進めたい。第三に、民俗学の知見は地域差が大きく、本稿が示した型が磐田市の各集落にどこまで当てはまるかは、聞き取りによって検証されねばならない。
それでもなお、公園を「集まる場所の系譜」の上に置いて見ることには意味があると本稿は考える。公園は明治に始まった制度であるが、人が集まるという営みは、境内・辻・河原・広小路を通じて、はるかに長く続いてきた。磐田市の100園を、設備の一覧としてだけでなく、この長い系譜の現在の姿として読むこと。それが、民俗学から公園を論じることの意義であり、当サイトがこれから始める踏査の視点でもある。
参考文献
- 柳田國男(1910)『石神問答』(聚精堂。ちくま文庫『柳田國男全集』所収)
- 柳田國男(1931)『明治大正史 世相篇』(朝日新聞社。講談社学術文庫、1993)
- 柳田國男(1942)『日本の祭』(弘文堂。角川ソフィア文庫)
- 柳田國男(1942)『こども風土記』(朝日新聞社。角川ソフィア文庫『こども風土記・母の手毬歌』所収)
- 折口信夫(1929–1930)『古代研究』(大岡山書店。中公クラシックス/角川ソフィア文庫)
- 宮本常一(1960)『忘れられた日本人』(未来社。岩波文庫、1984)
- 網野善彦(1978)『無縁・公界・楽——日本中世の自由と平和』(平凡社。平凡社ライブラリー増補版、1996)
- 南方熊楠(1912)「神社合祀に関する意見」(『南方熊楠全集』所収。ちくま学芸文庫『南方熊楠コレクション』にも収録)
- ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中公文庫、1973)
- 丸山宏(1994)『近代日本公園史の研究』(思文閣出版)
- 白幡洋三郎(1995)『近代都市公園史の研究——欧化の系譜』(思文閣出版)
- 小野良平(2003)『公園の誕生』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)
- 太政官布達第16号(明治6年1月15日。公園の設置に関する布達)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
- 磐田物語(地区ページ・地域史)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。