社会科学文化人類学

遊びの民族誌——ホイジンガ・カイヨワから公園の遊びを読み直す

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:文化人類学 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,090字 読了目安 38分

要旨

本稿の目的は、文化人類学の視点から公園の遊びを読み直すことである。手がかりとするのは、遊びを人間文化の根源に置いた歴史家ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938)と、それを継承しつつ遊びを四つの型に分けた社会学者ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(1958)である。ホイジンガは遊びを、自由な行為であること、日常生活の外にあること、時間と空間が限られていること、独自の規則をもつことによって特徴づけた。カイヨワは遊びを、競争(アゴン)・偶然(アレア)・模擬(ミミクリ)・眩暈(イリンクス)の四つに分類し、さらに即興的な「パイディア」から規則の整った「ルドゥス」へ至る軸を加えた。

方法は文献整理と概念分析である。第3節ではホイジンガの四つの特徴を、公園という場所と、そこで営まれる砂場・遊具・原っぱの遊びに一つずつ照らす。第4節ではカイヨワの四分類を、かけっこや鬼ごっこ、じゃんけん、ごっこ遊び、ブランコや回転遊具のもたらす目まいに当てはめ、公園の遊具がどの型の遊びを支えているかを分類表として示す。第5節では鬼ごっこやじゃんけんのような伝承遊びが子どもから子どもへ受け継がれる仕組みと、その地域差を、柳田國男やオーピー夫妻の仕事を手がかりに検討する。第6節では、遊具の設計や見守りといった大人の介入が遊びの自律性とどう折り合うかを論じ、ホイジンガ批判にも応答する。第7節では、公園の遊びを記録する民族誌的観察の方法と、子どもを対象とする観察の倫理を整理する。

結論として、公園は、ホイジンガの言う「魔法円」——日常から区切られた遊びの場——を都市の中に制度として用意したものであり、そこで観察される遊びの多くはカイヨワの四分類で読み解けるが、子どもの遊びは型と型のあいだを絶えず行き来する点にこそ特徴がある、と本稿は主張する。最後に、磐田市の都市公園100園(街区公園51園・遊具有64園・砂場有43園)について、種別や設備からどの型の遊びが起こりやすいかを見通し、当サイトの今後の踏査で確かめるべき観察課題を示す。

キーワードホモ・ルーデンス遊びの四分類伝承遊び魔法円参与観察遊びの自律性磐田市

1. はじめに——問題の所在

公園で子どもが何をしているかと問われれば、たいていの人は「遊んでいる」と答える。しかし「遊ぶ」とは何をすることなのか、と重ねて問われると、答えは急にむずかしくなる。ブランコを漕ぐことも、鬼ごっこで走ることも、砂場で山を作ることも、じゃんけんで順番を決めることも、みな「遊び」と呼ばれる。これらは互いにずいぶん違う活動であるのに、私たちはためらいなく同じ一語でくくっている。文化人類学は、こうした「当たり前すぎて問われない営み」を、別の社会の営みと並べ、あるいは古典の概念に照らして、あらためて見えるようにする学問である。本稿は、その視点から公園の遊びを読み直す試みである。

手がかりは二冊の古典である。一冊はオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938)で、遊びを文化の産物ではなく文化に先立つものとみなし、法・戦争・詩・哲学といった人間の営みが遊びの形式から生まれたと論じた書物である。もう一冊はフランスの社会学者・批評家ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(1958)で、ホイジンガの遊び論を受け継ぎつつ、遊びを競争・偶然・模擬・眩暈の四つの型に分類し、遊びの社会学的な比較研究への道を開いた。この二冊は、公園そのものを論じた本ではない。しかし、公園がまさに「遊ぶための場所」として都市に設けられた施設である以上、遊びとは何かを問うた古典を公園に持ち込むことには十分な理由がある。

1.1 問い

本稿の問いは三つある。第一に、ホイジンガが挙げた遊びの特徴——自由であること、日常の外にあること、時間と空間が区切られていること、固有の規則をもつこと——は、公園という場所と、そこで営まれる遊びにどこまで当てはまるのか。第二に、カイヨワの四分類は、公園で見られる遊びをどのように腑分けするのか、そして公園の遊具や地形は、どの型の遊びを促しているのか。第三に、遊びが「自由な行為」であるならば、遊具の設計・安全のための管理・保護者の見守りといった大人の介入は、遊びの自律性とどのように折り合うのか。これらは公園を「遊び場」として設計し、管理し、利用するすべての人にかかわる問いである。

走るじゃんけん砂場のごっこ目まい
図1公園で「遊び」と呼ばれる活動はきわめて多様である。本稿はこの多様さを、ホイジンガとカイヨワの概念で腑分けする。

1.2 方法と構成

方法は文献整理と概念分析である。本稿は新しい調査データを提示するものではない。むしろ、遊びについて確実に知られている古典的な議論を整理し、それを公園という具体的な場所に照らすことで、これから公園の遊びを観察しようとする人のための「見方の枠組み」を用意することを目指す。文化人類学の本来の方法である民族誌——現地に身を置き、人びとの営みを記述する仕事——については、第7節で方法論として整理し、当サイトの今後の踏査の設計に接続する。

構成は次のとおりである。第2節で先行研究と主要概念を整理する。第3節でホイジンガの四つの特徴を公園に当てはめ、第4節でカイヨワの四分類を公園の遊びに適用する。第5節では鬼ごっこやじゃんけんのような伝承遊びが子どもから子どもへ受け継がれる仕組みと、その文化差・地域差を検討する。第6節では大人の介入と遊びの自律性の緊張を論じ、あわせてホイジンガへの批判に応答する。第7節では民族誌的観察の方法と倫理を扱う。第8節で磐田市の公園100園への示唆を述べ、第9節で結論と今後の課題をまとめる。なお本稿が扱う磐田市の事実は、市のオープンデータと市の施設ガイドに記載のあるものに限る。当サイトの現地踏査はこれからであり、遊びの実際の観察は今後の課題である。

1.3 なぜ文化人類学か

遊びの研究には発達心理学や教育学の蓄積があり、それらは遊びを「子どもの発達に何をもたらすか」という観点から扱う。文化人類学の関心はそれとは少し違う。人類学は、遊びが社会によってどれほど違う形をとるか、遊びの中にその社会の価値観や人間関係がどう映っているか、そして遊びが「遊びとして」成り立つ条件は何かを問う。公園の遊びを人類学的に見るとは、私たちが自然だと思っている公園の風景——遊具の前の順番待ち、保護者の付き添い、砂場のごっこ——を、一つの文化が選んだ形として、いったん距離を置いて眺めることである。この距離が、公園の設計や管理や利用について、当たり前を疑う自由を与えてくれる。

註:本稿では「遊び」を、当面はホイジンガの用法に従い、子どもの活動に限らず人間の営み一般に見いだされる形式として用いる。ただし公園の利用者としては子どもとその保護者を主に念頭に置く。大人の遊び(散歩・健康器具・スポーツ)については第4節で触れる。

2. 先行研究と概念の整理

遊びの研究は、心理学・教育学・社会学・人類学にまたがる。本節ではその全体を追うのではなく、本稿が使う概念の出所を確かめることに絞る。中心に置くのはホイジンガとカイヨワであるが、両者の議論がその後どのように受け止められ、また批判されたかを知っておくことは、概念を公園に持ち込む際の注意点を教えてくれる。

2.1 ホイジンガ——文化に先立つ遊び

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』の主張は、書名——「遊ぶ人」——に凝縮されている。人間は「知る人(ホモ・サピエンス)」「作る人(ホモ・ファーベル)」であるだけでなく「遊ぶ人」であり、しかも遊びは文化の一部分ではなく、文化がそこから生まれる母胎だ、というのである。この主張を支えるためにホイジンガは、遊びの形式的な特徴を取り出した。それは、遊びが強いられてではなく自由に行われること、遊びが「本当の生活」ではなく日常の外へ一時的に出ていくことであること、遊びが時間と空間の中で区切られて完結すること、そして遊びがそれ自身の規則によって秩序づけられていること、である。ホイジンガはこの区切られた遊びの空間を、競技場・碁盤・舞台・法廷などと並べて「魔法円(マジック・サークル)」と呼んだ。この語は後に遊び研究のあらゆる分野で使われる基本語彙となった。

もう一つ、ホイジンガが遊びの本質として強調したのは緊張と不確実性、そして遊びに没入する真剣さである。遊びは「ふざけ」の反対ではない。遊びの規則は絶対的で、規則を破る者——彼が「遊びの破壊者」と呼ぶ者——は遊びの世界そのものを壊す。興味深いことに、彼はいかさま師よりも遊びの破壊者のほうが共同体から厳しく排除されると述べる。いかさま師は少なくとも遊びの世界の存在を認めているからである。この観察は、第6節で子どもの遊びにおける「ずるい」という非難を考えるときに立ち戻る。

2.2 カイヨワ——四分類とパイディア/ルドゥス

カイヨワ『遊びと人間』は、ホイジンガへの敬意と批判から出発する。カイヨワは、ホイジンガの遊びの定義が競争や賭けのように「勝つ」ことをめぐる遊びに偏り、賭博や仮装、あるいは目まいを求める遊びを十分に扱っていないと見た。そこで彼は遊びを次の四つに分けた。アゴン(競争。かけっこ・チェス・スポーツ)、アレア(偶然。さいころ・くじ・じゃんけん)、ミミクリ(模擬。ごっこ遊び・演劇・仮装)、イリンクス(眩暈。回転・落下・高速による感覚の混乱)である。さらに彼は、この四つの型を貫く一本の軸を置いた。一方の極は「パイディア」で、規則のない即興的でにぎやかな遊び、他方の極は「ルドゥス」で、恣意的な規則と技巧を積み重ねる遊びである。子どもがくるくる回って倒れるのはイリンクスのパイディア側、体操競技はイリンクスのルドゥス側、というように、遊びは型と軸の二次元で位置づけられる。

カイヨワはまた、遊びの六つの特徴として、自由な活動・隔離された活動・未確定の活動・非生産的活動・規則のある活動・虚構の活動を挙げた。ホイジンガの整理を引き継ぎつつ「未確定」——結果があらかじめ決まっていないこと——と「非生産的」——財を生まないこと——を明示した点が特徴である。彼はさらに、遊びが日常に漏れ出して「腐敗」する形——競争が暴力に、偶然が迷信に、模擬が人格の混乱に、眩暈が薬物依存に——を論じ、遊びを社会の診断に使う道を開いた。

アゴン=競争アレア=偶然ミミクリ=模擬イリンクス=眩暈
図2カイヨワの四分類。ホイジンガが「規則ある競争」に偏ったと見て、偶然・模擬・眩暈の遊びを同等に位置づけた。

2.3 人類学と隣接領域の遊び研究

文化人類学の側では、グレゴリー・ベイトソンの「遊びと空想の理論」(1955)が重要である。ベイトソンは動物園で子ザルが噛みつき合って遊ぶのを観察し、噛みつく身振りが「これは遊びである」というメタメッセージ——メッセージについてのメッセージ——を伴っていると論じた。噛みつきは噛みつきを意味するが、噛みつきが意味するもの(攻撃)を意味しない。この二重の枠づけこそが遊びの条件だ、というのである。この議論は、ごっこ遊びの「〜のつもり」や、鬼ごっこの「タッチ」が本気の暴力ではないことを説明する。ヘレン・シュワルツマン『Transformations』(1978)は、人類学における子どもの遊び研究を総覧し、遊びが文化の中でどのように意味づけられてきたかを整理した。ブライアン・サットン=スミス『The Ambiguity of Play』(1997)は、遊びが「進歩」「運命」「権力」「アイデンティティ」「想像力」「自己」「軽薄さ」といった異なるレトリック(語り方)で語られてきたことを示し、遊びの定義そのものが論争的であることを明らかにした。

日本では、柳田國男『こども風土記』(1942)が、全国の子どもの遊びを民俗として拾い上げ、遊びの中に古い信仰や社会の形が残っていることを示した。加古里子『伝承遊び考』(2006〜2008)は、絵本作家として知られる著者が長年集めた伝承遊びを、種類ごとに図と共に集成した労作である。英国ではアイオナ・オーピーとピーター・オーピーが『Children's Games in Street and Playground』(1969)で、街路と遊び場における子どもの遊びを大規模に集め、遊びが大人の教えによらず子どもから子どもへ伝わることを実証した。発達心理学のピアジェやヴィゴツキーの遊び論も、本稿の第6節でごっこ遊びの規則性を考える際に参照する。以下では、これらの道具立てを携えて公園へ向かう。

3. ホイジンガの四つの特徴を公園に照らす——公園は「魔法円」か

本節ではホイジンガが挙げた遊びの特徴——自由・非日常・時空の限定・規則——を、公園という場所と公園での遊びに一つずつ当てはめる。先に見通しを述べれば、公園は「時空の限定」と「非日常」を都市の制度として用意した施設であり、その意味で近代都市が作った魔法円である。一方で「自由」と「規則」については、公園の側が用意するものと子どもが持ち込むものが食い違い、そこに公園の遊びの面白さと難しさが集中している。

3.1 時空の限定——柵と門と閉園時間

ホイジンガは、遊びが日常の中に区切られた「場」と「時」をもつことを強調した。碁盤の外に碁石はなく、試合終了の笛のあとにゴールはない。公園はこの区切りを物理的に備えている。柵や植栽で周囲の道路や住宅から区切られ、出入口があり、多くの場合は利用時間や照明の有無によって時の区切りももつ。都市公園法(1956)は都市公園を、地方公共団体が設置する公園または緑地として定め、その区域を告示することを求める。つまり公園は、法によって線を引かれた区域である。子どもにとってこの線は「ここからは走っていい」「ここからは道路だから止まる」という遊びの境界と重なる。魔法円は本来、遊ぶ者が自ら引く線であるが、公園ではその線があらかじめ引かれている。これは子どもが線を引く手間を省くと同時に、線を引くという遊びの一部を奪ってもいる。原っぱや空き地で「ここが陣地」と決めるところから始まる遊びは、公園ではすでに陣地の外周が決まっているのである。

3.2 非日常——家でも学校でもない場所

遊びは「本当の生活」からの一時的な離脱である、とホイジンガは言う。子どもの一日は家庭と学校(または園)という二つの日常に大きく占められている。公園はそのどちらでもない。家庭のように家族の役割を求められず、学校のように課題と評価がない。この「どちらでもなさ」が、公園を非日常の場所にする。ただし、非日常は場所の性質だけで生まれるのではない。毎日同じ時刻に同じ公園へ通う子どもにとって、公園は生活の一部であり日常である。それでもそこで営まれる遊びが非日常であるのは、遊びに入るたびに子どもが「これは遊びだ」という枠を立て直しているからである。ベイトソンのメタメッセージはここで働く。公園という器は非日常への入口を用意するが、実際に非日常を立ち上げるのは、遊ぶ者自身の枠づけである。

ホイジンガはさらに、遊びが好んで秘密をまとい、仮装によって「われわれは他の人びととは違う」という感覚を作り出すことを指摘した。公園でこの特徴が最も鮮明に現れるのは、遊具の下や植え込みの陰に作られる「秘密基地」である。そこは大人から見れば単なる隙間だが、子どもにとっては仲間だけが知る場所であり、入るための合言葉や役割が生まれる。公園という開かれた場所の中に、子どもは閉じた小さな非日常を作る。魔法円の内側にもう一つの魔法円が引かれるのである。

区切られた場区切られた時家でない学校でない
図3公園は、遊びの「時空の限定」と「非日常」を都市の制度として備える。ホイジンガの魔法円をあらかじめ引かれた線として持つ。

3.3 自由——誰が遊びを始めるのか

ホイジンガにとって、命じられた遊びは遊びではない。遊びは「したいからする」行為である。公園に来ること自体は、幼い子どもの場合、保護者の判断による。しかし公園に着いてからどの遊具へ向かうか、砂場で何を作るか、誰と鬼ごっこをするかは、多くの場合子どもの側に委ねられる。ここに公園の自由がある。一方で、遊具はそれぞれ「こう遊ぶもの」という用途を形として示している。滑り台は上から滑るもの、ブランコは座って漕ぐものである。子どもが滑り台を下から駆け上がり、ブランコに立って漕ぎ、ブランコを鬼ごっこの「安全地帯」に使うとき、彼らは遊具の用途から自由になっている。この自由は、国土交通省の遊具安全指針が想定する「遊具の本来の使い方」からの逸脱でもあり、安全との緊張をはらむ。第6節でこの点を論じるが、ここでは、公園における遊びの自由が「何をするか」の自由であると同時に「与えられた用途をどう読み替えるか」の自由でもあることを確認しておく。

3.4 規則——書かれた規則と遊びの規則

公園には二種類の規則がある。一つは看板に書かれた利用規則——ボール遊びの制限、犬の扱い、火気の禁止など——で、これは管理者が定めるものである。もう一つは、鬼ごっこの「タッチされたら鬼」「バリア(安全地帯)はここ」といった遊びの規則で、これは遊ぶ者が定め、その場で合意し、しばしば途中で変更するものである。ホイジンガが遊びの規則と呼んだのは後者である。前者は遊びの規則ではなく、遊びを可能にする場の条件、あるいは遊びを外から制限する枠である。子どもがこの二つを区別していることは、「ボール禁止の公園でボール遊びをする」ことと「鬼ごっこでタッチを認めない」ことに対する非難の質の違いに表れる。前者は「怒られる」ことであり、後者は「ずるい」ことである。ホイジンガの言う遊びの破壊者は後者にのみ現れる。

ホイジンガの特徴公園が用意するもの遊ぶ者が持ち込むもの
時空の限定柵・出入口・区域の告示・利用時間陣地・バリア・「ここまで」の線
非日常家でも学校でもない場所「これは遊びだ」という枠づけ
自由来園後の選択の幅・複数の遊具遊具の用途の読み替え・即興
規則看板の利用規則(外からの枠)その場で合意される遊びの規則

この対比から見えるのは、公園がホイジンガの魔法円を「半分」用意しているということである。器としての区切りは制度が与えるが、遊びを遊びにする枠づけと規則は、依然として遊ぶ者の側から生まれる。公園を観察するとは、この二つの層——与えられた枠と、その中で立ち上げられる枠——の重なりとずれを見ることである。

4. カイヨワの四分類で公園の遊びを腑分けする

本節ではカイヨワの四つの型——アゴン(競争)・アレア(偶然)・ミミクリ(模擬)・イリンクス(眩暈)——を、公園で見られる遊びに当てはめる。あわせて、公園の遊具や地形がどの型の遊びを支えているかを整理する。結論を先に言えば、公園の遊具はイリンクスに強く傾いており、アゴンは広場と地形が、ミミクリは砂場と遊具の「隙間」が、アレアは子どもが持ち込む身体の技法(じゃんけん)が担っている。

4.1 アゴン——かけっこ・鬼ごっこ・ボール

アゴンは、対等な条件のもとで力や技を競う遊びである。公園でのかけっこ、鬼ごっこ、ボール遊び、砂場の山の高さ比べ、鉄棒の技くらべがこれにあたる。アゴンが成り立つには、競う者が同じ出発点に立てること、そして勝敗が明確であることが必要である。かけっこの「よーい、どん」は出発点の平等を作る儀礼であり、「タッチ」は勝敗の明示である。カイヨワが指摘するように、アゴンは競う者に努力と練習を求め、それゆえルドゥス(規則・技巧)の極へ引かれやすい。鬼ごっこは「こおり鬼」「高鬼」「色鬼」のように規則を加えるほど精緻になる。公園でアゴンを支えるのは、遊具ではなく空間——多目的広場・芝生広場・原っぱ——であり、また築山や段差といった地形である。ボール遊びが制限される公園では、アゴンは走ることに集中する。

4.2 アレア——じゃんけんと「順番」

アレアは、遊ぶ者の意思や技量が結果に関与しない、偶然にゆだねる遊びである。カイヨワはさいころや賭けを典型に挙げたが、公園でのアレアの主役はじゃんけんである。じゃんけんは、それ自体が遊びであるより、遊びの中の決定手続き——鬼を決める、順番を決める、チームを分ける——として使われることが多い。ここに重要な点がある。子どもは、アゴン(鬼ごっこ)を始めるために、まずアレア(じゃんけん)で不平等な役割を公平に配分するのである。じゃんけんは、誰の力にもよらないからこそ、結果を全員が受け入れられる。ブランコや滑り台の順番待ちにおける「順番」も、早い者勝ちという弱いアゴンと、譲り合いという規範のあいだで、しばしばじゃんけんによって決着がつけられる。公園の遊具は「一度に一人(あるいは少数)しか使えない」ものが多く、それゆえ公園はアレアの手続きが頻繁に呼び出される場所となる。

原っぱ=競争砂場=模擬滑り台=眩暈シーソー=両方
図4公園の空間と遊具はそれぞれ異なる型の遊びを支える。広場は競争を、砂場は模擬を、滑り台や回転遊具は眩暈を呼び込む。

4.3 ミミクリ——ごっこ遊びと「〜のつもり」

ミミクリは、自分ではない何者かになる、あるいは今ここではない状況を演じる遊びである。ごっこ遊び(おうちごっこ、お店やさんごっこ、ヒーローごっこ)がその典型で、公園ではとりわけ砂場と、遊具の下や中の「隙間」——滑り台の下の空間、複合遊具のデッキ、東屋——で営まれる。砂はケーキにも料理にも宝物にもなり、遊具の下は家にも基地にも牢屋にもなる。ここで働くのは、ベイトソンの言うメタメッセージ「これは遊びだ」であり、また第6節で扱うヴィゴツキーの指摘——ごっこ遊びは一見自由に見えて、実は「お母さん役はこう振る舞う」という規則に強く縛られている——である。ミミクリの遊びは、遊具そのものより、遊具が作る「囲われた小さな場所」を必要とする。設計者がイリンクスのために作った滑り台の下が、子どもによってミミクリの舞台に読み替えられるのは、公園観察の常である。

4.4 イリンクス——ブランコ・滑り台・回転遊具

イリンクスは、知覚の安定を一時的に壊し、意識に一種の混乱と恍惚をもたらす遊びである。カイヨワはくるくる回る子ども、そりやブランコ、遊園地の乗り物を例に挙げた。公園の遊具の大半——ブランコ、滑り台、ローラー滑り台、シーソー、回転ジム、ターザンロープ、スプリング遊具、ネットクライム——は、落下・揺れ・回転・高さという形でイリンクスを提供する装置である。これは重要な観察である。近代の遊び場は、遊具という形で、四つの型のうちイリンクスを最も手厚く用意してきた。それはイリンクスが、他の型と違って「道具なしには得にくい」快楽だからであろう。走ることも、じゃんけんも、ごっこも、体一つでできる。しかし高いところから安全に滑り落ちる感覚、大きく揺れる感覚は、装置があって初めて日常的に得られる。遊具の設計は、イリンクスの強さ(高さ・速さ・揺れ幅)と安全のあいだの調整の歴史でもある。

公園での遊びの例支える空間・遊具パイディア側→ルドゥス側
アゴン(競争)かけっこ・鬼ごっこ・ボール広場・芝生・築山・鉄棒追いかけっこ→ルールのある鬼ごっこ・球技
アレア(偶然)じゃんけん・くじ・順番決め遊具の順番待ちの列適当に決める→掛け声と手順の整ったじゃんけん
ミミクリ(模擬)ごっこ遊び・見立て砂場・遊具の下・東屋見立て→役割と筋書きのあるごっこ
イリンクス(眩暈)ブランコ・滑り台・回転ブランコ・滑り台・回転遊具・ロープ回って倒れる→技を競うブランコ・鉄棒

4.5 型を横切る遊びと、大人の遊び

カイヨワ自身が注意したように、四つの型は純粋には現れない。鬼ごっこは走る競争(アゴン)であると同時に、鬼という役を演じる模擬(ミミクリ)であり、じゃんけん(アレア)で始まる。ブランコで高さを競えば眩暈(イリンクス)は競争(アゴン)に変わる。子どもの遊びの特徴は、この型と型のあいだを絶えず移動する点にある。大人の公園利用——散歩、健康器具、グラウンドゴルフ、テニス——は、多くがアゴンのルドゥス側か、あるいは遊びというより休息・運動に位置づけられる。健康器具はイリンクスをほとんど含まない。公園を世代別に見れば、子どもの区域はイリンクスとミミクリに、大人の区域はアゴンと休息に配分されている、という見取り図が得られる。

5. 伝承遊びと文化差——鬼ごっこ・じゃんけんは誰が教えるのか

公園で鬼ごっこをしている子どもたちに「誰に教わったのか」と尋ねても、はっきりした答えは返ってこないだろう。鬼ごっこも、かくれんぼも、じゃんけんも、「気がついたら知っていた」遊びである。文化人類学と民俗学は、こうした遊びを「伝承遊び」と呼び、それがどのように受け継がれ、なぜ土地ごとに違うのかを問うてきた。本節では、伝承遊びの伝わり方と文化差を、公園という場所と結びつけて考える。

5.1 子どもから子どもへ——オーピー夫妻の発見

英国のアイオナ・オーピーとピーター・オーピーは、『The Lore and Language of Schoolchildren』(1959)と『Children's Games in Street and Playground』(1969)で、数千人の子どもから遊び・唱え言葉・決まり文句を集めた。彼らの発見の核心は、子どもの遊びの多くが、大人が教えたのではなく、少し年上の子どもから少し年下の子どもへ、口伝えと身振りで受け継がれているということであった。子どもの世界には、大人の文化とは別の、独自の伝承の回路がある。この回路は、遊びの内容を驚くほど長く保存する一方で、伝わる過程で少しずつ変形させる。オーピー夫妻の書名が「街路と遊び場」であることは象徴的である。伝承の回路が動くには、年齢の異なる子どもが混ざり合って遊べる場所——路地・空き地・遊び場——が必要だからである。

日本でも、柳田國男は『こども風土記』(1942)で全国から寄せられた子どもの遊びを記述し、遊びの中に古い年中行事や信仰の形が姿を変えて残っていることを指摘した。加古里子の『伝承遊び考』は、絵描き歌・石けり・鬼遊び・じゃんけんといった遊びを種類ごとに集成し、それぞれの遊びに数多くの変種があることを図とともに示している。これらの仕事が共通して示すのは、伝承遊びが「一つの正しい形」をもたず、地域ごと・集団ごとの変種の束として存在するということである。

5.2 掛け声と呼び名の地域差

伝承遊びの文化差は、まず言葉に現れる。じゃんけんの掛け声、鬼ごっこの各種の呼び名、かくれんぼの見つけたときの決まり文句は、地域や世代によって異なることが知られている。同じ遊びが、隣の町では別の名で呼ばれ、同じ名の遊びが隣の町では別の規則で行われる。これは、伝承の回路が子どもの生活圏——学校区や町内——の中で閉じており、回路と回路のあいだの接触が限られていたことの反映である。転校や引っ越しをした子どもが最初に直面するのが「じゃんけんの掛け声が違う」という経験であることは、多くの人が身に覚えのあるところであろう。

公園はこの点で興味深い位置にある。街区公園は、国の標準で誘致距離250mとされる小さな公園であり、利用者はほぼ近所の子どもに限られる。そこでは一つの回路の中で遊びが伝承される。一方、近隣公園や地区公園、総合公園のように広い範囲から人が集まる公園では、異なる回路の子どもが出会う。そこで起こるのは、掛け声の食い違いをその場で調整する交渉である。「うちではこう言う」「じゃあ今日はこれで」という短いやりとりは、文化接触の最小単位であり、遊びの規則が交渉によって作られるというホイジンガの洞察の生きた例でもある。

子から子へ掛け声の違い土地ごとの変種世代を超える
図5伝承遊びは大人が教えるのではなく子どもの回路で受け継がれ、土地と世代で変種を生む。公園はその回路が出会う場所でもある。

5.3 遊びの文化差——人類学の比較から

遊びが文化によって異なるのは、言葉や呼び名の水準にとどまらない。シュワルツマンは、各地の民族誌に記録された子どもの遊びを比較し、遊びの内容が、その社会で大人が何を仕事とし、子どもに何を期待しているかを反映していることを示した。狩猟や牧畜や漁労の社会では、子どもの遊びにその模倣(ミミクリ)が色濃く現れる。また、大人が子どもの遊びにどれほど関わるかも社会によって大きく異なり、大人が遊び相手になることを当然とする社会は必ずしも多数派ではない、という指摘が人類学にはある。ギアツが「ディープ・プレイ」(1972)で論じたバリ島の闘鶏は、大人の遊びが社会の地位や緊張を演じ直す舞台であることを示した例であり、遊びを見ればその社会が見える、という人類学の基本姿勢を代表している。

この比較の視点を日本の公園に向ければ、公園で見られる遊びもまた、この社会の子ども観と生活の形を映していることになる。遊具の充実、保護者の付き添い、順番を守ることの重視、ボール遊びの制限——これらは普遍的なものではなく、特定の社会が選んだ形である。第6節で扱う「大人の介入」の問題は、この文化的な選択の一部として理解される必要がある。

5.4 伝承の回路は切れていないか

藤田省三は「或る喪失の経験——隠れん坊の精神史」(1981)で、かくれんぼが子どもの遊びから姿を消しつつあることを、隠れる・探す・見つかるという経験の喪失として論じた。この論考は統計を示すものではないが、伝承の回路が弱まる可能性への感度を私たちに与える。回路が動くには、異年齢の子どもが同じ場所に居合わせ、年上が年下に遊びを見せることが必要である。少子化と、子どもの時間が習い事や屋内に配分される傾向は、この条件を弱めるとされる。近年、保育や教育の場で伝承遊びが意図的に教えられることがあるが、大人が教える伝承遊びは、オーピー夫妻の意味での伝承ではもはやない。ただしそれを嘆くだけでは足りない。公園は、制度が用意した数少ない「異年齢が偶然に居合わせる場所」であり、回路が再びつながる可能性をもつ場所である。当サイトの踏査で確かめるべきことの一つは、磐田市の公園で、実際に異年齢の子どもが同じ時間帯に居合わせているかどうか、という単純だが重要な問いである。

6. 大人の介入と遊びの自律性——設計・管理・見守り

遊びが自由な行為であるなら、公園はそれを最も強く制約する場所の一つでもある。遊具は用途を形として指定し、看板は禁止事項を掲げ、保護者は「危ないよ」「順番だよ」と声をかける。本節では、こうした大人の介入を「設計」「管理」「見守り」の三つに分け、それぞれが遊びの自律性とどう関係するかを考える。あわせて、ホイジンガの遊び論が子どもの遊びを論じるのに適さないという批判に応答する。

6.1 設計——遊具は指示であり素材である

遊具の設計者は、遊びをあらかじめ想像して形を作る。滑り台は「登って、座って、滑る」という一連の動作を、階段と手すりと斜面の形で指示している。この意味で遊具は、遊びの規則を物質化したものである。しかし第3節で見たように、子どもは遊具を指示どおりに使うとは限らない。滑り台の斜面を駆け上がり、下の空間を家にする。この読み替えは、遊具を「指示」ではなく「素材」として扱う態度である。20世紀半ばのデンマークで造園家C・Th・ソーレンセンが構想し、英国でアレン・オブ・ハートウッド夫人が広めた冒険遊び場(アドベンチャー・プレイグラウンド)は、完成した遊具ではなく廃材や土や道具を子どもに渡し、遊びの形を子ども自身に作らせようとした試みであった。日本でもこの流れを汲む冒険遊び場が各地で運営されている。冒険遊び場の思想は、設計者の想像力を子どもの想像力の下に置くという点で、ホイジンガの言う遊びの自由を最も徹底させたものと言える。ただし冒険遊び場はプレイリーダーと呼ばれる大人の常駐を前提とする場合が多く、大人の介入をなくすのではなく、介入の質を変える試みである。

6.2 管理——リスクとハザードの区別

国土交通省の「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」は、遊びの中の危険を二つに分ける。子どもが自分で予測し、対処することができる危険——高いところに登れば落ちるかもしれない、といった、遊びの挑戦の一部となる危険——を「リスク」と呼び、子どもが予測できず、遊びの価値と関係のない危険——遊具の構造の欠陥や、衣服が引っかかる隙間など——を「ハザード」と呼ぶ。指針は、ハザードは除去し、リスクは遊びの価値として残す、という立場を明示している。これは遊びの自律性を管理の側から認めた重要な区別である。ホイジンガが遊びの本質とした「緊張と不確実性」は、結果がどうなるかわからないという条件を必要とする。すべての不確実さを取り除けば、遊びは遊びでなくなる。指針の区別は、この洞察を安全管理の言葉に翻訳したものと読める。

他方で、看板による禁止事項——ボール遊びの制限など——は、遊びの価値と安全ではなく、近隣との調整や施設の維持のためのものが多い。子どもにとってこれは遊びの規則ではなく、遊びの外から来る枠である。管理者がこの二種類の制約を区別して伝えることは、子どもが「なぜだめなのか」を理解するうえで意味がある。

看板の規則点検と指針見守りの声遊びの規則
図6大人の介入は設計・管理・見守りの三層で遊びを囲む。遊びの自律性は、その内側で子どもが立てる規則にある。

6.3 見守り——枠の外にいるか、中に入るか

保護者の見守りは、最も日常的で最も微妙な介入である。ベイトソンの枠組みで言えば、遊びは「これは遊びだ」というメタメッセージによって囲われた枠の中で進む。保護者の声かけには二種類ある。一つは枠の外から枠に働きかける声——「危ない」「順番」「もう帰るよ」——で、これは遊びを中断し、ときに終わらせる。ホイジンガの言う遊びの破壊者は、遊びの内側で規則を認めない者を指したが、外側から遊びを止める大人もまた、子どもの目には遊びの破壊者に映ることがある。もう一つは枠の中に入る声——鬼の役を引き受ける、砂のケーキの客になる——で、これは大人を遊びの参加者にする。どちらが良いという話ではない。安全のために枠を破らねばならない場面はある。重要なのは、大人が今、枠の外にいるのか中にいるのかを自覚することである。文化人類学の参与観察という方法は、まさに「外にいながら中に入る」という二重の姿勢を鍛えるものであり、この点は第7節で改めて論じる。

6.4 反論への応答——ホイジンガは子どもの遊びを論じられるか

ホイジンガの遊び論に対しては、いくつかの批判がある。第一に、ホイジンガの関心は法・戦争・詩といった大人の文化にあり、子どもの遊びは周辺的にしか扱われていない、という指摘である。第二に、サットン=スミスが『The Ambiguity of Play』で示したように、遊びについての語りは複数のレトリックに分かれており、ホイジンガの遊び論はそのうちの一つ——遊びを文化の源とみなす語り——にすぎない。子どもの遊びは、むしろ「発達の役に立つ」という進歩のレトリックで語られることが圧倒的に多く、そこではホイジンガの「非生産的で自己目的的な遊び」という定義は居場所を失う。

本稿の応答は次のとおりである。確かにホイジンガは子どもの遊びを主題にしなかった。しかし彼が取り出した形式的特徴——自由・非日常・時空の限定・規則——は、子どもの遊びにも当てはまり、むしろ子どもの遊びにおいてこそ最も鮮明に観察できる。発達心理学の側からも、ヴィゴツキーは、ごっこ遊びが自由に見えて実は役割の規則に厳格に従うものであり、子どもは遊びの中で目先の衝動を抑えて規則に従うことを学ぶ、と論じた。「遊びの中で子どもは自分より頭一つ分大きい」という彼の言葉は有名である。ピアジェもまた、遊びを練習遊び・象徴遊び・規則遊びの順で発達すると整理し、規則遊びを子どもの社会性の到達点に置いた。これらの発達論は、遊びの規則性というホイジンガの中心概念を、子どもの側から裏づけている。「役に立つ」から遊ばせるという語りと、「役に立たないからこそ遊びである」という語りは矛盾するように見えるが、遊ぶ子ども自身は前者を知らない。子どもは自己目的的に遊び、その結果として発達する。観察者は両方の語りを手にしたうえで、子どもの遊びを前者に還元しない節度を保つ必要がある。

7. 公園の遊びを記述する——民族誌的観察の方法と倫理

ここまでの節は、公園の遊びを見るための概念を用意してきた。しかし概念は、実際の観察の中で使われて初めて意味をもつ。文化人類学の固有の方法は民族誌——現地に身を置き、人びとの営みを内側から理解しようとする記述——である。本節では、公園の遊びを民族誌的に観察するとはどういうことか、その方法と倫理を整理する。これは当サイトの今後の踏査を、設備の確認にとどめず、遊びの観察へと広げるための準備でもある。

7.1 参与観察と「現地の人の視点」

民族誌の方法を確立したのはブロニスワフ・マリノフスキーである。『西太平洋の遠洋航海者』(1922)で彼は、トロブリアンド諸島に長期間滞在し、人びとの日常に加わりながら観察する「参与観察」を実践し、民族誌の目標を「現地の人の視点」から世界を捉えることに置いた。公園の遊びに対してこの方法を取るとは、遊具の数や種類を外から数えるのではなく、遊んでいる子どもにとって公園がどう見えているか——どこが陣地で、どこが安全地帯で、どの遊具が「今日の遊び」の中心なのか——を、そこに居合わせながら理解しようとすることである。子どもを対象とする参与観察には特有の困難がある。大人は体格も権威も子どもと違い、子どもの遊びの中に自然に混ざることができない。大人がどのような姿勢で子どもの世界に入るか——子どもから招かれるのを待つ、指示や評価をしない、「一番できない参加者」として振る舞う——を論じた研究群が、子どもの社会学・人類学にはある。共通するのは、大人が「保護者」や「先生」の役割を一時的に降りることの重要性である。

7.2 厚い記述——「走っている」の意味を書く

クリフォード・ギアツは『文化の解釈学』(1973)で、民族誌の目標を「厚い記述」と呼んだ。目のまばたきと、合図としてのウィンクは、筋肉の動きとしては同じだが意味が違う。民族誌は動きではなく意味を記述しなければならない、というのである。公園に当てはめれば、「子どもが走っている」という記述は薄い。それが鬼ごっこの逃走なのか、ヒーローごっこの飛行なのか、ただ走るのが気持ちいいのか(イリンクスに近い)、保護者に呼ばれて戻るところなのかで、意味はまったく異なる。厚い記述は、走りに先立つ「よーい、どん」や、走りながらの叫び声、走り終わったあとの「タッチ」を含めて初めて可能になる。すなわち観察者は、行為の前後の枠づけ——ベイトソンのメタメッセージ——を記録しなければならない。第4節の四分類は、この厚い記述のための語彙として使うことができる。「滑り台でイリンクスの遊びが行われていた」ではなく、「滑り台の斜面が鬼ごっこ(アゴン)の逃走路として使われ、下の空間はごっこ(ミミクリ)の家であった」と書けたとき、記述は厚くなる。

厚い記述は、数えることと対立するのではなく、それを補う。ある時間帯にどの遊具に何人いたかを数え、行動を園の地図に落とす方法は、公園の使われ方を知るうえで有効であり、当サイトの踏査もまず設備と利用の確認から始まる。しかし数は「何が起きているか」を教えても「それが遊ぶ者にとって何であるか」を教えない。滑り台に五人いた、という記録と、その五人が滑り台を舞台に一つの鬼ごっこをしていた、という記録は、公園の設計や管理に対して異なる示唆をもつ。前者は遊具の需要を、後者は遊具のまわりの空間の意味を語る。

居合わせて見る枠づけを書く時間帯季節
図7民族誌的観察の要点。行為の前後の枠づけを含めて記述し、時間帯と季節を必ず記録する。設備の確認とは別の作業である。

7.3 記録の項目——公園観察の手順

公園での観察を、設備の確認から遊びの記述へ広げるために、記録すべき項目を整理しておく。これは調査票というより、フィールドノートに何を書き留めるかの覚え書きである。

  • 日時・天候・季節・滞在時間。遊びは時間帯(放課後か休日午前か)と季節(暑さ・日没)で大きく変わる。
  • 居合わせた人の構成。子どもの年齢帯のおおよそ、異年齢が混ざっているか、付き添いの大人の有無と位置(ベンチか、遊具のそばか)。
  • どの場所・遊具で、どの型の遊びが起こっているか(アゴン・アレア・ミミクリ・イリンクス)。設計者の意図と異なる使い方があればその内容。
  • 遊びの始まりと終わり。誰が言い出したか、じゃんけんなどの手続きが使われたか、大人の声で終わったか。
  • 規則をめぐるやりとり。「それはなし」「バリアはここ」といった交渉、掛け声や呼び名の食い違い。
  • 大人の声かけ。枠の外からの声(危ない・順番・帰るよ)と、枠の中に入る声(役を引き受ける)の区別。

7.4 子どもを観察することの倫理

子どもを対象とする観察には、大人を対象とする以上の配慮が要る。第一に、観察が遊びを妨げてはならない。見られていることを意識した遊びは、すでに別の遊びである。第二に、撮影は最も慎重を要する。公園は公共の場所であるが、子どもの顔や特定できる姿を記録し公開することは、本人と保護者の同意なしには行うべきでない。当サイトの読みものでも撮影の配慮を扱っているとおり、遊びの記述に写真は必須ではない。フィールドノートの言葉で足りる。第三に、観察者は遊びの中で起きる安全上の問題——けが、迷子、遊具の異常——に対して、観察者である前に一人の大人として振る舞う。観察の継続よりも子どもの安全が優先されるのは当然であり、遊具の異常に気づけば市の管理課へ、けがの判断は医療機関へつなぐ。第四に、記述の公開にあたっては、園名と時間帯だけで特定の子どもや家庭が推測されないよう、記述の粒度を調整する。民族誌の伝統では、記述の対象となる人びとに対する敬意と守秘が方法の一部である。公園の遊びの民族誌もその例外ではない。当サイトの踏査は設備の確認から始まるが、遊びの観察へ進む段階では、この倫理を手順として明文化する必要がある。

8. 磐田市の公園への示唆——どの園でどの型の遊びが起こりやすいか

本節では、ここまでの枠組みを磐田市の公園に向ける。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園——市のオープンデータ「都市公園一覧」94行と、市の施設ガイドのみに掲載の6園——を収録するデータベースであり、現地踏査はこれからである。したがって本節で述べられるのは、種別・面積・設備の記載から「どの型の遊びが起こりやすいか」を見通すことまでであり、実際に何が起きているかは今後の観察に委ねる。

8.1 種別と設備から見た見通し

100園の内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、法対象外6園である。オープンデータ94行の中で遊具有は64園、砂場有は43園である。第4節の整理に従えば、遊具はイリンクス(眩暈)を、砂場はミミクリ(模擬)を、広場や芝生はアゴン(競争)を支える。したがって、遊具有64園の多くではイリンクスの遊びが、砂場有43園ではミミクリの遊びが起こりやすい、という見通しがまず立つ。一方、遊具の記載がなくトイレのみ、あるいは記載なしの園——施設ガイドに「トイレ」だけが記されている中原公園(御厨・街区公園)や谷口公園(御厨・街区公園)、塔之壇公園(見付・近隣公園)など——は、装置に頼らない遊び、すなわち走る・追う・見立てるといったパイディア側の遊びが主役になる可能性がある。遊具のない公園は「何もない公園」ではなく、原っぱ型の遊びの場として読める。ただしそれが実際にそう使われているかは、踏査で確かめるべき事柄である。

8.2 園ごとの読み——施設ガイドの記載から

市の施設ガイドの記載を、四分類の語彙で読み直してみる。御厨地区の兎山公園(地区公園・56,193㎡)には、市の施設ガイドに「ブランコ、滑り台、ローラー滑り台、幼児用滑り台、ジャングルジム、回転ジム、ターザンロープ、ザイルクライム、スプリング遊具」とあり、揺れ・落下・回転・高さというイリンクスの装置が集中している。竜洋地区の竜洋十束公園(近隣公園・12,936㎡)には「複合遊具(大波ワイドスライダー、ネットわたり、リングトンネル、ウェーブスライダー、ワイドネットクライム)」と「多目的広場、バスケットゴール、サッカーゴール」とあり、イリンクスの装置とアゴンの広場が並ぶ。見付地区の今之浦公園(近隣公園・13,675㎡)は、施設ガイドによれば「遊びと賑わいのゾーン」に「複合遊具、ふわふわ遊具、噴水広場、芝生広場、3歳未満児遊具」、「憩いとふれあいゾーン」に「健康遊具、じゃぶじゃぶスポット、流れ、芝生広場」を置く。第4節末で述べた「子どもの区域はイリンクスとミミクリに、大人の区域はアゴンと休息に」という配分が、ゾーンの名称と設備の形で読み取れる例である。

遊具=眩暈広場=競争古墳・築山水遊び
図8磐田市の公園を四分類で読むと、遊具の集中する園、広場をもつ園、古墳や築山という地形をもつ園、水辺をもつ園に分かれる。

地形に注目すると、中泉地区の京見塚公園(街区公園・10,231㎡)には「京見塚古墳、ブランコ、鉄棒、砂場」とあり、見付地区の一ノ谷公園(街区公園)には「一ノ谷遺跡、滑り台、砂場、トイレ」とある。古墳や遺跡の高まりは、設計された遊具ではないが、登る・隠れる・見下ろすという行為を誘う地形であり、かくれんぼや高鬼のような遊びを支える可能性がある。竜洋川袋公園(街区公園)と福田ふるさと公園(街区公園)には「築山」の記載があり、これは人工の丘として同じ働きをもつ。ホイジンガの魔法円が「あらかじめ引かれた線」であるとすれば、古墳や築山は、子どもが自分の線を引き直すための起伏を公園の中に残しているものと言える。

園(地区・種別)市の施設ガイドの記載(抜粋)起こりやすい型(見通し)
兎山公園(御厨・地区公園)ローラー滑り台・回転ジム・ターザンロープ・ザイルクライムイリンクスの集中
竜洋十束公園(竜洋・近隣公園)大波ワイドスライダー等の複合遊具・多目的広場・ゴールイリンクス+アゴン
今之浦公園(見付・近隣公園)遊びと賑わいのゾーン/憩いとふれあいゾーン世代による型の配分
京見塚公園(中泉・街区公園)京見塚古墳・ブランコ・鉄棒・砂場地形によるアゴン・ミミクリ
中原公園(御厨・街区公園)トイレ装置に頼らないパイディア

8.3 街区公園と伝承の回路

磐田市の公園の半数を占める街区公園51園は、国の標準で0.25ha・誘致距離250mとされる、近所の子どものための公園である。第5節で述べたように、街区公園は伝承遊びの「一つの回路」の中にあり、近隣公園や地区公園は「回路が出会う場所」である。地区別に見ると、豊田地区に28園、見付地区に21園、中泉地区に14園、御厨地区と竜洋地区に各13園、福田地区に4園、豊岡地区に3園、南部地区と向陽地区に各2園が収録されている。園の数が多い地区では回路が細かく分かれ、少ない地区では一つの園に広い範囲から子どもが集まる、という違いが予想される。只来下公園(見付・街区公園・458㎡)やめがねばし公園(見付・街区公園・690㎡)のような小さな街区公園と、地区公園や総合公園とでは、居合わせる子どもの範囲が違い、したがって掛け声や規則の交渉が起こる頻度も違うはずである。この見通しは、踏査で「同じ時間帯に異年齢の子どもが居合わせているか」「初対面の子ども同士のやりとりがあるか」を記録することで確かめられる。

最後に、当サイトの踏査に対する示唆を三つにまとめる。第一に、踏査の記録項目に、設備の有無だけでなく「遊具の設計と異なる使い方」の欄を設けること。第二に、遊具のない園を「設備なし」で終わらせず、広場・地形・木立といったパイディアの条件を記録すること。第三に、第7節の倫理を踏査手順に明文化し、子どもの姿の撮影を伴わない記述の方法を標準とすること。遊具の異常や安全上の疑問に気づいた場合は、市の都市整備課(電話 0538-37-4806)へ伝えるのが筋道である。

9. 結論と今後の課題

本稿は、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』とカイヨワ『遊びと人間』を手がかりに、公園の遊びを文化人類学の視点から読み直した。得られた結論を三点にまとめる。

第一に、公園はホイジンガの言う「魔法円」——日常から区切られた遊びの場——を、近代都市が制度として用意したものである。柵・出入口・区域の告示・利用時間という形で、遊びの「時空の限定」と「非日常」はあらかじめ与えられている。しかし遊びを遊びにする枠づけ——「これは遊びだ」というメタメッセージ——と、その場で合意される遊びの規則は、依然として遊ぶ者の側から生まれる。公園は魔法円を半分だけ用意しているのであり、残りの半分を子どもがどう立ち上げるかを見ることが、公園の遊びの観察の核心である。

第二に、カイヨワの四分類は公園の遊びを腑分けする有効な語彙である。公園の遊具はイリンクス(眩暈)に強く傾き、広場と地形がアゴン(競争)を、砂場と遊具の隙間がミミクリ(模擬)を、じゃんけんという身体の技法がアレア(偶然)を担う。ただし子どもの遊びの特徴は、型と型のあいだを絶えず移動する点にある。鬼ごっこは競争であり模擬であり、偶然の手続きで始まる。四分類は遊びを箱に入れるためではなく、遊びの移動を記述するために使われるべきである。

第三に、伝承遊びは大人が教えるのではなく子どもの回路で受け継がれ、土地と世代で変種を生む。公園はこの回路が動く場所であり、また異なる回路が出会って掛け声や規則を交渉する場所である。大人の介入——設計・管理・見守り——は遊びを三層で囲むが、国の遊具安全指針が「リスク」を遊びの価値として残す立場を取っているように、介入は遊びの自律性を否定するものではなく、その質を問われるものである。

二つの古典四つの型残る問い次は観察
図9結論の要約。古典の枠組みで公園の遊びは読み解けるが、実際に何が起きているかは踏査と記述によってしか答えられない。

9.1 本稿の限界

本稿は文献整理と概念分析にとどまり、公園での観察データを含まない。第8節の磐田市に関する記述は、市のオープンデータと施設ガイドの記載から見通しを立てたものであり、実際にどの園でどの型の遊びが起きているかは確かめられていない。また、ホイジンガとカイヨワという二つの古典に依拠したため、遊びをめぐる他の語り——サットン=スミスの言う進歩・想像力・自己などのレトリック——は部分的にしか扱えなかった。文化差についても、人類学の比較研究の存在を示すにとどまり、個別の民族誌の内容には立ち入っていない。

9.2 実践への含意

概念的な結論から、公園にかかわる人びとへの含意を短く引き出しておく。保護者にとっては、自分の声かけが遊びの枠の外からのものか、中に入るものかを意識するだけで、見守りの質が変わりうる。枠を破らねばならない場面はあるが、破っていることを自覚して破るのと、気づかずに破るのとでは違う。公園を設計・管理する立場にとっては、遊具の用途どおりでない使い方を一律に逸脱とみなすのではなく、指針の言うリスクとハザードの区別に立ち返り、どこまでが遊びの価値でどこからが除くべき危険かを分けて考えることが求められる。また、遊具のない園や広場・地形を、遊びの資源として評価し直す視点は、公園の整備の優先順位を考えるうえでも意味をもつ。地域の関係者にとっては、公園が伝承遊びの回路の結び目でありうるという見方が、公園を清掃や見守りの対象としてだけでなく、子どもの文化が受け継がれる場所として捉え直す手がかりになる。

9.3 今後の課題

今後の課題は、まず観察である。第7節で示した記録項目に従い、磐田市の公園で、時間帯と季節を変えて遊びを記述すること。とりわけ、遊具の設計と異なる使い方、遊びの始まりと終わりの手続き、規則をめぐる交渉、大人の声かけの二種類を、厚い記述として残すことが求められる。次に、伝承の回路の確認である。異年齢の子どもが同じ時間帯に居合わせているか、初対面の子ども同士で掛け声や規則の食い違いが調整される場面があるかを、街区公園と地区公園・総合公園とで比べること。さらに、遊具のない公園がパイディア側の遊びの場として実際に使われているかを確かめること。これらは当サイトの踏査が設備の確認から遊びの記述へ進む段階で取り組む課題であり、その際には子どもを対象とする観察の倫理を手順として明文化する。公園で子どもが「遊んでいる」という平凡な光景の中に、文化の始まりを見たホイジンガの問いは、まだ答えられていない。答えは、公園に居合わせて、書き留めることからしか始まらない。

参考文献

  1. ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中公文庫、1973)
  2. ロジェ・カイヨワ(1958)『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社学術文庫、1990)
  3. グレゴリー・ベイトソン(1955)「遊びと空想の理論」『精神の生態学』所収(佐藤良明訳、新思索社、2000)
  4. クリフォード・ギアツ(1973)『文化の解釈学』(吉田禎吾ほか訳、岩波書店、1987)
  5. ブロニスワフ・マリノフスキー(1922)『西太平洋の遠洋航海者』(増田義郎訳、講談社学術文庫、2010)
  6. アイオナ・オーピー、ピーター・オーピー(1969)『Children's Games in Street and Playground』(Oxford University Press)
  7. ブライアン・サットン=スミス(1997)『The Ambiguity of Play』(Harvard University Press)
  8. ヘレン・B・シュワルツマン(1978)『Transformations: The Anthropology of Children's Play』(Plenum Press)
  9. 柳田國男(1942)『こども風土記』(朝日新聞社。のち岩波文庫)
  10. 加古里子(2006〜2008)『伝承遊び考』全4巻(小峰書店)
  11. レフ・ヴィゴツキー(1933年講義/1966年公刊)「子どもの心理発達における遊びとその役割」
  12. 藤田省三(1981)「或る喪失の経験——隠れん坊の精神史」『精神史的考察』所収(平凡社、1982)
  13. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  14. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  15. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  16. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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