社会科学社会学
公園は「第三の場所」か——オルデンバーグの第三の場所論を街区公園に照らして
要旨
本稿の目的は、社会学者レイ・オルデンバーグが『The Great Good Place』(1989)で提示した「第三の場所(サードプレイス)」の概念を、都市公園、とりわけ国の標準で0.25ha・誘致距離250mとされる街区公園に照らし、公園が第三の場所と呼びうるのか、呼びうるとすればどのような条件のもとでか、を明らかにすることである。方法は文献整理と概念分析であり、オルデンバーグの8条件(中立性・平等性・会話・アクセスと受容・常連・低い敷居・遊び心・もう一つの我が家)を一つずつ街区公園の実態に当てはめて検討する。
検討の結果、街区公園は中立性・平等性・アクセス・低い敷居・遊び心という5条件を比較的よく満たす一方、会話・常連・もう一つの我が家という3条件は「子ども連れの保護者」という限られた利用者層においてのみ、しかも季節と時間帯を限って満たされる、という見通しが得られた。すなわち街区公園は「条件つきの第三の場所」であり、そこに集まるのが誰かによって性格が大きく変わる場所である。公園利用が子ども連れに偏ることは、公園を第三の場所として弱める要因であると同時に、子育て期という孤立しやすい時期の保護者にとっては数少ない徒歩圏の第三の場所を成り立たせる要因でもある、と本稿は解釈する。
最後に、磐田市の都市公園100園のうち51園を占める街区公園を「徒歩圏の第三の場所の供給」として読み直し、面積・設備・地区ごとの偏りが第三の場所としての機能にどう関わるかを示す。ただし当サイトの現地踏査は始まっていないため、ベンチ・木陰・利用の実態にかかわる論点はすべて今後の踏査課題として残す。
キーワード第三の場所街区公園社会関係資本常連弱い紐帯公園デビュー磐田市
1. はじめに——問題の所在
「第三の場所(サードプレイス)」という言葉は、いまでは喫茶店チェーンの広告や図書館の基本計画にまで使われるほど広まった。もとはアメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが1989年の著書『The Great Good Place』で提示した概念であり、家庭(第一の場所)でも職場(第二の場所)でもない、人が自発的に集まってくつろぎ、会話を楽しむ場所を指す。彼が念頭に置いたのは、イギリスのパブ、フランスのカフェ、ドイツ系移民のビアガーデン、アメリカの田舎町のメインストリートといった、屋根のある、飲み物のある、店主のいる場所であった。
では、公園はどうか。公園には屋根も店主も飲み物もない。しかし、家でも職場でもない場所であることは確かで、誰でも無料で入れ、顔見知りができ、立ち話が生まれる。日本では1990年代に「公園デビュー」という言葉が広まったとされるが、この言葉は、公園が単なる遊具置き場ではなく、保護者にとっての社会的な場——時に緊張を伴う場——であることを言い当てている。公園が第三の場所であるかどうかは、直感的には「そうでもあり、そうでもない」としか答えられない問いである。
本稿の問いは次の三つである。第一に、オルデンバーグの第三の場所の条件を、都市公園、とりわけ国の標準で0.25ha・誘致距離250mとされる街区公園に当てはめたとき、どの条件が満たされ、どの条件が満たされないのか。第二に、公園利用が「子ども連れ」に偏るという広く観察される事実は、第三の場所論から見て何を意味するのか。第三に、磐田市の都市公園100園のうち51園を占める街区公園を、徒歩圏における第三の場所の「供給」として読み直すと何が見えるのか。
なぜ社会学からこの問いを立てるのか。公園を論じる学問は多い。造園学は空間の設計を、公衆衛生学は身体活動を、発達心理学は遊びの効果を扱う。社会学が固有に扱うのは、その場所で人と人の間に何が生まれるか——見知らぬ人が顔見知りになり、顔見知りが支え合いになる過程——である。「第三の場所」という言葉が広まった一方で、それが何を条件とし、公園のような屋外の公共施設にどこまで当てはまるのかは、言葉の流行ほどには検討されていない。流行語をそのまま公園に貼りつけるのではなく、いったん条件に分解して当てはめ直すことが、社会学がこの主題に果たしうる役割である。
1.1 方法と立場
方法は文献整理と概念分析である。オルデンバーグの原典に加え、ジェイン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』(1961)、ウィリアム・ホワイトの小規模都市空間の観察(1980)、ロバート・パットナムの社会関係資本論(2000)、リン・ロフランドの公共領域論(1998)など、都市社会学と公共空間論の古典を参照し、それらの概念を街区公園という対象に当てはめる。本稿は独自の実地調査に基づくものではない。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園のデータベースであるが、現地踏査はこれから始まる段階であり、本稿で述べる公園の姿は文献と一般的観察にもとづく「見通し」である。踏査で確かめるべき論点は、その都度明示する。
なお、本稿が「街区公園」を主対象とするのには理由がある。オルデンバーグが第三の場所の条件として重視するのは「歩いて行ける近さ」であり、車で出かける大公園よりも、家から数分の小さな公園こそが、日常的に立ち寄る第三の場所の候補になりうるからである。磐田市では100園のうち街区公園が51園と最も多く、この種別を検討することは、市の公園の半分を検討することにほかならない。
1.2 本稿の構成
第2節で第三の場所論とその周辺概念を整理し、8条件を表にまとめる。第3節と第4節で8条件を街区公園に一つずつ照らす。第5節で「子ども連れに偏る」利用の意味を検討し、第6節で「公園は第三の場所ではない」という反論に応答する。第7節で喫茶店・図書館・子育て支援拠点などの他の候補と公園を比較し、第8節で「歩ける近さ」という論点を取り出して車社会における街区公園の位置を論じる。第9節で磐田市の街区公園51園への示唆を述べ、第10節で結論と今後の課題を示す。読者としては、磐田市周辺の子育て世代、行政や地域活動の関係者、公園や地域社会に関心をもつ学生を想定し、専門用語は初出のたびに説明する。
2. 先行研究と概念の整理
2.1 オルデンバーグの第三の場所と8条件
オルデンバーグは、第二次世界大戦後のアメリカ郊外が住宅と職場と商業施設を切り離し、その間を車で移動する暮らしをつくった結果、人が「ふらりと立ち寄って知り合いに会う」場所を失った、と論じた。彼の危機感は、個人の孤独にとどまらず、地域社会(コミュニティ)の基盤が崩れることに向けられていた。第三の場所は、その基盤を日常のレベルで支える「非公式の公共生活」の中核として位置づけられる。
彼が挙げる第三の場所の特徴は、整理すると8つになる。①中立性——誰の家でもなく、誰もが招かれざる客にならずに来て去れること。②平等性(レベラー)——職業や地位が持ち込まれず、人が肩書きなしで向き合えること。③会話が主な活動であること。④アクセスと受容——開いている時間が長く、一人で行っても居場所があること。⑤常連がいて、場所の雰囲気をつくり、新顔を迎え入れること。⑥低い敷居(ロー・プロファイル)——飾らない、気取らない、日常的な外観であること。⑦遊び心のある雰囲気。⑧もう一つの我が家——帰属感と安らぎ、そして「自分がいなければ気づかれる」ほどの結びつき。
| 条件 | 内容(オルデンバーグ1989の要約) | 本稿での検討節 |
|---|---|---|
| ① 中立性 | 誰の所有でもなく、誰もが気兼ねなく出入りできる | 第3節 |
| ② 平等性 | 地位や職業が持ち込まれず、人が対等に向き合う | 第3節 |
| ③ 会話 | 会話が主な活動であり、それが楽しみの中心である | 第4節 |
| ④ アクセスと受容 | 開いている時間が長く、一人で行っても居場所がある | 第3節 |
| ⑤ 常連 | 常連が雰囲気をつくり、新顔を受け入れる | 第4節 |
| ⑥ 低い敷居 | 飾らない外観、日常的で気取らない | 第3節 |
| ⑦ 遊び心 | 笑いや冗談が許される、くつろいだ雰囲気 | 第4節 |
| ⑧ もう一つの我が家 | 帰属感、根づき、安らぎ、他者に気づかれる存在であること | 第4節 |
2.2 周辺概念——社会関係資本・弱い紐帯・公共領域
第三の場所論は、いくつかの隣接概念と結びつけて読むと理解しやすい。第一に社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)である。パットナムは『孤独なボウリング』(2000)で、人と人の信頼・互酬性・ネットワークが地域社会の働きを支える資本であると論じ、身内で固まる「結束型」と、異なる集団をつなぐ「橋渡し型」を区別した。第三の場所は、日常のなかで橋渡し型の社会関係資本を生む装置として位置づけられる。
第二に弱い紐帯である。グラノヴェッターの1973年の論文は、家族や親友のような強いつながりよりも、顔見知り程度の弱いつながりのほうが、新しい情報や機会をもたらしやすいと論じた。第三の場所で生まれる関係の多くはまさにこの弱い紐帯であり、公園の「立ち話をする程度の顔見知り」も、同じ範疇に属する。
第三に公共領域の議論である。ロフランドは都市の社会空間を、家族や親密な関係の「私的領域」、近隣や仲間内の「パロキアル(地縁的)領域」、見知らぬ人どうしが出会う「公共領域」の三つに分け、都市生活の特徴は見知らぬ人と共存する公共領域にあると論じた。ゴッフマンが『集まりの構造』(1963)で描いた「儀礼的無関心」——見知らぬ人に対して、見ているが見ていないふりをして互いの領分を守る振る舞い——は、公共領域の基本的な作法である。第三の場所は、この見知らぬ人の世界(公共領域)と、顔見知りの世界(パロキアル領域)の境目に立ち、前者を後者に変える働きをもつ場所として理解できる。
第四に、より古い層として、テンニースのゲマインシャフトとゲゼルシャフトの区別(1887)がある。血縁・地縁・友情による本質的な結びつき(ゲマインシャフト)と、目的と契約による選択的な結合(ゲゼルシャフト)という対比は、都市化とともに前者が後者に置き換わっていくという見通しを含んでいた。第三の場所論は、この見通しに対する一つの応答として読める。すなわち都市というゲゼルシャフト的な世界のただなかに、選択によらず顔を合わせるゲマインシャフト的な小さな関係を再生させる場所、という位置づけである。この読み方は、第8節で「歩ける近さ」を論じる際に再び用いる。
2.3 公園はどこに位置づけられてきたか
オルデンバーグ自身の主要な事例は屋内の商業的な場所であり、公園は中心的には扱われていない。一方、公園を社会的な場として論じた古典としては、ジェイコブズが『アメリカ大都市の死と生』の一章を近隣公園に割き、公園は自動的に地域を良くするわけではなく、周辺の多様な用途が一日を通じて多様な利用者を送り込むときにのみ生き生きする、と論じたことが重要である。ホワイトは1980年の小規模都市空間の観察で、人が座れる場所の量、日なたと日陰、飲食物の売り子、そして「人は人のいるところに集まる」という原則を示した。これらは、公園を第三の場所論で読むときの手がかりとなる。日本の都市公園は都市公園法(1956年)のもとで整備されてきたが、法は公園を「施設」として定義しており、そこにどのような社会関係が生まれるかは、法の外側の問いとして残されている。
オルデンバーグの著書は日本では2013年に邦訳が刊行され、その前後から「サードプレイス」という語は商業施設や公共施設の計画で広く使われるようになった。しかし語の普及と概念の検討は別のことである。本稿が8条件という形で概念を分解するのは、「公園はサードプレイスだ」という標語に賛成するためでも反対するためでもなく、どの条件がどの程度、誰にとって満たされているかを一つずつ言えるようにするためである。以下の第3節・第4節はその作業にあてる。
3. 8条件を街区公園に照らす(1)——中立性・平等性・アクセス・低い敷居
本節では8条件のうち、場所の「器」にかかわる4条件——中立性・平等性・アクセスと受容・低い敷居——を街区公園に照らす。結論を先に言えば、この4条件は街区公園が第三の場所の候補として最も強みをもつ部分である。ただし、それぞれに公園固有の但し書きがつく。
3.1 中立性——誰の家でもない場所
オルデンバーグの言う中立性とは、そこにいる誰もが主人でも客でもなく、来たいときに来て、帰りたいときに帰れる、という性質である。友人宅への訪問は招く側と招かれる側の非対称を生み、職場は上下関係を持ち込む。それに対して公園は、公の施設であって誰の所有でもない。都市公園法上の都市公園は地方公共団体が設置し管理するが、利用者から見れば「市のもの」というより「みんなのもの」に近い。この点で公園は、商業的な第三の場所よりもむしろ純度の高い中立地であるとさえ言える。喫茶店では注文をしなければ長居しにくいが、公園にはその負い目がない。
但し書きは二つある。第一に、中立性は「規範の空白」ではない。公園には利用のルール(ボール遊びの制限、犬の扱い、火気など)があり、また常連の暗黙の縄張り——いつもこのベンチはあの人が座る、この時間帯はこのグループが使う——が生じうる。第二に、日本の街区公園では、周辺住民が清掃や見守りを担っていることが多く、その意味で公園は「地域のもの」という性格を帯びる。転入者にとって、これは中立性を弱める方向にも、受け入れられれば帰属を強める方向にも働く。
3.2 平等性——肩書きを持ち込まない
第三の場所では、社会的地位や職業が持ち込まれず、人は「そこにいる一人」として向き合う。公園はこの点でもかなり有利である。入園料はなく、服装の要件もなく、消費が求められないため、経済力による選別が働きにくい。喫茶店に毎日通える人と通えない人の差は、公園にはない。子ども連れどうしの間では、大人の職業や収入よりも「子どもが同じくらいの年齢か」という軸が前面に出るため、地位の平準化がむしろ強く働く。
しかし、平等性には別の非対称が潜む。公園に集まるのが子ども連れに偏ると、子ども連れでない大人——単身者、高齢者、子どもが手を離れた世代——は「場違い」を感じやすくなる。オルデンバーグの平等性は「誰もが対等」であることを意味したが、街区公園では「子ども連れの間では対等、それ以外は周縁」という構造になりやすい。この点は第5節で改めて論じる。
3.3 アクセスと受容——開いていること、一人でいられること
オルデンバーグは、第三の場所は開いている時間が長く、思い立ったときに行けなければならない、と述べる。多くの都市公園には門も閉園時間もなく(施設によっては例外がある)、この条件は形式的には最もよく満たされる。街区公園の誘致距離250mという国の標準は、そのまま「歩いて数分」というアクセスの目安である。オルデンバーグが第三の場所の要件として「徒歩圏」を強調したことを思い出せば、街区公園はまさにこの条件のために設計された施設だと言ってよい。
ただし「受容」の側面、つまり一人で行っても居場所があるかどうかは、屋外施設ゆえの制約を受ける。第一に季節と天候である。真夏の日中や冬の夕方には、公園は開いていても「行ける場所」ではなくなる。第二に、座る場所の有無である。ホワイトが繰り返し指摘したように、人が滞在するにはまず座れる場所が要る。ベンチのない公園、木陰のない公園は、通り抜けはできても居場所にはなりにくい。当サイトのデータには街区公園のベンチや木陰の有無は含まれておらず、この点は今後の踏査で確かめるべき最初の項目の一つである。
受容にはもう一つ、「一人で来た人がそこにいてよいと感じられるか」という側面がある。オルデンバーグは、第三の場所では一人で来ても誰かがいて、話したければ話せ、話したくなければ黙っていられる、と述べた。公園で一人で座る大人——本を読む人、昼食をとる人、休む高齢者——は、この意味での受容を試している。子ども連れの多い時間帯に一人でベンチに座ることに居心地の悪さを感じる人がいるとすれば、それは公園の受容が特定の利用者層に偏っている兆候である。逆に、一人で座る人と子ども連れが同じ公園に違和感なく共存しているなら、その公園は受容の条件をよく満たしていると言える。この共存の有無は、踏査で観察しうる数少ない「第三の場所らしさ」の指標である。
3.4 低い敷居——飾らない外観
オルデンバーグは、第三の場所は概して地味で、飾らず、時に古びていて、それゆえに気取らずにいられる、と述べた。新しくて洒落た店は、かえって人を身構えさせる。街区公園はこの条件をほとんど自動的に満たす。ブランコと滑り台と砂場、少しの植栽とベンチという標準的な構成は、誰にとっても見慣れた風景であり、「入っていいのだろうか」という躊躇を生まない。この地味さは、公園の魅力を語るときには欠点として語られがちだが、第三の場所論の観点からは長所である。逆に、大規模で目玉遊具のある公園は「出かける先」であって「立ち寄る先」ではなく、その意味で第三の場所からは遠ざかる。
4. 8条件を街区公園に照らす(2)——会話・常連・遊び心・もう一つの我が家
前節の4条件が場所の「器」にかかわるものだったのに対し、本節で扱う4条件——会話・常連・遊び心・もう一つの我が家——は、そこに集まる人びとの関係の「中身」にかかわる。器がいくら整っていても、中身が生まれなければ第三の場所ではない。オルデンバーグ自身、建物や設備ではなく、そこに通う人びとが第三の場所をつくると強調していた。街区公園にとって、この4条件こそが本当の試金石である。
4.1 会話——主な活動なのか、副産物なのか
オルデンバーグは、第三の場所では会話こそが主な活動であり、それ自体が楽しみである、と述べた。パブで人は飲むために来るのではなく、話すために来る。この基準を公園に当てると、明らかなずれが見える。公園に来る主な目的は、子どもを遊ばせること、散歩すること、体を動かすことであって、会話は目的ではない。会話は「子どもが遊んでいる間の待ち時間」に生まれる副産物である。
しかし、この副産物としての会話には独自の強みがある。ホワイトが指摘した「三角測量(トライアンギュレーション)」——第三の何か(大道芸、彫刻、面白い出来事)があると、見知らぬ人どうしが自然に話し始める——という現象は、公園ではつねに起きている。子どもが第三のものになるからである。「何歳ですか」「うちも同じくらいです」という会話は、子どもという共通の対象があるからこそ、見知らぬ大人の間でも儀礼的無関心を破って始められる。オルデンバーグの言う「会話が主な活動」ではないが、「会話が始まりやすい仕掛けが備わっている」とは言える。会話が主目的でないことは、むしろ会話を強制しないという点で、人づきあいの苦手な人にとって公園を利用しやすくもしている。
4.2 常連——いるのか、誰なのか
常連は第三の場所の心臓部である。オルデンバーグによれば、常連は場所の雰囲気を決め、新顔を品定めし、そして迎え入れる。公園に常連はいるだろうか。いる。ただしその姿は喫茶店の常連とは異なる。街区公園の常連は、時間帯によって入れ替わる複数の集団である。朝の高齢者、午前中の乳幼児連れ、放課後の小学生、夕方の仕事帰りの人。それぞれの集団の内部には確かに「いつも会う人」がいるが、集団どうしはほとんど交わらない。喫茶店の常連が朝から夕方まで同じカウンターに座る一枚岩の集団であるのに対し、公園の常連は時間で層をなす。
この「時間で層をなす常連」は、ジェイコブズが近隣公園について述べたことと呼応する。彼女は、公園が生き生きするのは、周辺の用途が多様で、一日の異なる時間に異なる人びとを送り込むときだ、と論じた。逆に言えば、単一の集団だけが単一の時間帯に使う公園は、その集団がいない時間には空になり、いる時間には他者を寄せつけにくくなる。街区公園の常連が「子ども連れの保護者」だけになるとき、公園は第三の場所というより「特定集団の準私的な庭」に近づく。
4.3 遊び心——場所そのものが遊びの装置である
オルデンバーグは、第三の場所には笑いと冗談があり、深刻さより遊び心が支配する、と述べた。公園はこの条件を、比喩ではなく文字通りに満たす。公園は遊びのために設計された場所であり、子どもは遊び、大人はそれを見て笑う。ただし、ここでも主語のずれがある。オルデンバーグの遊び心は「大人どうしの会話の遊び心」であり、公園の遊び心は「子どもの遊びを介した遊び心」である。大人が自ら遊ぶ場面——ボール遊びに加わる、鉄棒にぶら下がる——は、街区公園ではあまり多くないとされる。大人にとっての公園の遊び心は、見ること、付き合うこと、時に手伝うことのなかにある。
4.4 もう一つの我が家——根づきと「気づかれる」こと
8条件の最後、もう一つの我が家という条件は、最も満たしにくく、また最も測りにくい。オルデンバーグはこれを、根づいている感覚、所有している感覚(自分の場所だと思える感覚)、精神的な再生、くつろぎ、そして温かさという五つの要素で説明した。街区公園にこの感覚をもつ人は確かにいる。毎日通う保護者にとって「いつもの公園」は文字通り生活の一部になり、引っ越しの際に真っ先に惜しむ場所になる。一方で、その感覚は子どもの成長とともに失われる。子どもが公園を卒業すれば、大人もまた公園を卒業する。喫茶店の常連が何十年も通うのに対し、公園の「我が家」は数年で期限が来る。もう一つの我が家という条件を、公園は「一時的に、特定の生活段階の人にとって」満たす。それは条件を満たしていないのではなく、期限つきで満たしていると理解するのが正確である。
以上、第3節と第4節の検討をまとめると、街区公園は8条件のうち器にかかわる4条件を比較的よく満たし、中身にかかわる4条件を「子ども連れの保護者にとって、季節と時間帯を限って、数年の期限つきで」満たす。これが本稿の中間的な結論であり、次節ではこの「子ども連れへの偏り」そのものの意味を問う。
5. 「子ども連れに偏る」ことの意味——付き添い型利用と保護者の第三の場所
前節までの検討で繰り返し現れたのは、街区公園の利用が子ども連れに偏る、という事実である。本節ではこの偏りを、第三の場所論の欠陥としてではなく、公園という第三の場所の固有の性格として読み直す。鍵になるのは、公園の大人の多くが「自分のために来た」のではなく「子どもに付き添って来た」という点である。本稿はこれを付き添い型利用と呼ぶ。
5.1 付き添い型利用という特殊性
オルデンバーグの第三の場所では、人は自分の意志で、自分の楽しみのために来る。パブに来る人は誰かに付き添っているわけではない。ところが街区公園の大人の多くは、子どもに連れられて来る。来る時間も帰る時間も、話す相手も、子どもの都合と行動によって決まる。この「自分で選んでいない」という性格は、一見すると第三の場所の自発性の条件に反する。
しかし逆説的に、この非自発性が公園の第三の場所としての強みを生む。第一に、付き添いという口実があるおかげで、大人は「人に会いに来た」と思われることなく、人のいる場所に身を置ける。人づきあいを求めていると見られたくない人にとって、公園は面目を保ったまま社会的な場に出られる稀な場所である。第二に、付き添いは反復を生む。子どもは毎日でも同じ公園に行きたがるため、大人は望まなくとも同じ時間に同じ場所に通うことになり、その反復が顔見知りを、やがて常連を生む。オルデンバーグが常連の成立に不可欠と考えた「習慣的な反復」が、公園では子どもによって強制的に供給される。
5.2 子育て期の孤立と、徒歩圏の第三の場所
付き添い型利用の意味を理解するには、乳幼児を育てる時期がどのような時期かを考える必要がある。この時期の保護者、とりわけ日中に子どもと二人で過ごす保護者は、職場という第二の場所から一時的に切り離され、行動範囲は徒歩圏に縮む。友人と会うにも、子どもを連れて行ける場所は限られる。すなわち、人生のなかで第三の場所を最も必要とし、しかも最も得にくい時期の一つである。この時期に、家から数分の場所に、無料で、予約なしに、子どもを連れて行ける社会的な場があるということは、他の生活段階にとっての意味とはまったく重みが違う。
「公園デビュー」という言葉が示すのは、この場が単なる遊び場ではなく、保護者が地域の社会関係に「入っていく」入口として機能してきた、ということである。同時にこの言葉には緊張——受け入れられるだろうか、既存の輪に入れるだろうか——が含まれており、それは公園に常連が存在し、常連が新顔を品定めするという、まさにオルデンバーグが第三の場所の常連について述べた力学が公園にも働いていることを示唆する。公園デビューをめぐる不安は、公園が第三の場所でないことの証拠ではなく、第三の場所であることの証拠である。
5.3 結束型と橋渡し型——公園の関係はどちらか
パットナムの区別に照らすと、公園で生まれる保護者どうしの関係は、どちらの型にもなりうる。子どもの年齢が近い、住まいが近い、生活時間が近いという同質性は、結束型の社会関係資本を生みやすい。いわゆる「ママ友」と呼ばれる関係はその典型で、支え合いにもなれば、閉鎖的な仲間内にもなる。一方で、公園には職業や出身地の異なる人が地理的近接だけを理由に集まるため、橋渡し型の関係、すなわち普段なら出会わない人との弱い紐帯が生まれる余地も大きい。どちらに傾くかは、公園の物理的な条件(一つのベンチしかないか、複数の居場所があるか)と、時間帯ごとの利用者の多様さに左右されると考えられる。
5.4 子どもにとっての公園——最も純粋な第三の場所
ここまで大人の側から論じてきたが、視点を子どもに移すと、公園は8条件を最もよく満たす場所として現れる。子どもにとって第一の場所は家庭、第二の場所は保育園・幼稚園・学校である。公園はそのどちらでもなく、誰の家でもなく(中立性)、学年や家庭環境が持ち込まれにくく(平等性)、遊びと会話が主な活動で(会話・遊び心)、放課後や休日に開いていて(アクセス)、近所の子という常連がいて(常連)、飾らず(低い敷居)、「いつもの公園」への愛着がある(もう一つの我が家)。付き添う大人にとっては条件つきの第三の場所であるものが、子どもにとってはほとんど条件なしの第三の場所である。この非対称——同じ場所が、世代によって第三の場所としての純度を変える——は、公園という場所の最も興味深い社会学的性格であり、大人の第三の場所論だけで公園を測ることの限界を示している。
6. 反論への応答——「公園は第三の場所ではない」という立場
ここまでの議論に対しては、公園を第三の場所と呼ぶこと自体への反論がありうる。本節では代表的な四つの反論を取り上げ、それぞれに応答する。反論を検討することは、公園が第三の場所と「呼べるか」だけでなく、呼ぶことで何が見え、何が見えなくなるかを明らかにするためである。
6.1 反論1——屋外であり、季節と天候に左右される
第一の反論は最も素朴で、しかも強い。オルデンバーグの第三の場所は屋根があり、雨の日も冬の夜も開いている。公園は形式的には開いていても、真夏の日中、雨の日、冬の夕暮れには「行ける場所」ではなくなる。第三の場所の要件である「いつでも行ける」を、公園は年間の相当部分で満たさない。
この反論は正しい。しかし、それは公園が第三の場所でないことを示すのではなく、公園が季節性をもつ第三の場所であることを示している。オルデンバーグの事例にも、ビアガーデンのように季節性の強いものが含まれていた。重要なのは、季節性があるからこそ、公園は屋内の第三の場所——子育て支援拠点、図書館、商業施設の休憩スペース——と補完関係に立つ、という点である。公園を単独で評価するのではなく、徒歩圏における第三の場所の「組み合わせ」の一部として評価するのが適切であり、この視点は第7節で展開する。
6.2 反論2——場を保つ「店主」がいない
第二の反論は、第三の場所論の核心に触れる。パブには亭主が、カフェには店主がいて、彼らが常連を知り、新顔に声をかけ、揉め事を収め、場の雰囲気を保つ。公園にはそのような人物がいない。管理者は市の担当課であって現場には常駐せず、公園の秩序は誰も責任をもたずに放置されている、という反論である。
これに対しては二つの応答ができる。第一に、日本の街区公園では、周辺住民による清掃活動や愛護活動、通学時間帯の見守りなど、店主に相当する役割を部分的に担う人びとが存在することが多い。彼らは店主ではないが、公園を「見ている人」であり、ジェイコブズが街路について述べた「通りの目」の公園版として機能しうる。第二に、店主の不在は中立性を強めるという利点をもつ。店主がいる場所では、店主に気に入られるかどうかが居心地を左右するが、公園にはその審級がない。店主の不在は、秩序を保つ力の弱さと引き換えに、誰にも媚びなくてよい自由を与える。ただし、この自由は「誰も迎えてくれない」という寂しさと表裏一体であり、公園デビューの緊張の一因でもある。
6.3 反論3——それは第三の場所ではなく、ただの公共空間である
第三の反論は概念的である。第三の場所という言葉はあまりに拡張され、いまや「家と職場以外の心地よい場所」なら何でも第三の場所と呼ばれる。公園は単に公共空間(パブリック・スペース)であり、それをわざわざ第三の場所と呼ぶのは概念を薄めるだけだ、という批判である。
この批判にはロフランドの三領域論で応えるのがよい。公園は確かに、見知らぬ人が共存する公共領域である。しかし第三の場所とは、公共領域のなかに、常連という顔見知りの関係——ロフランドの言うパロキアル領域——が育つ場所のことである。公園が第三の場所であるかどうかは、それが公園であるかどうかによってではなく、そこに顔見知りの層が育っているかどうかによって決まる。すなわち「公園は第三の場所か」という問いは、個々の公園ごとに、しかも時間帯ごとに答えの異なる経験的な問いである。本稿が「条件つき」と繰り返すのはこのためであり、概念を薄めているのではなく、概念を測定可能な条件に分解しているのである。
6.4 反論4——公園は監視の場であり、くつろげない
第四の反論は、公園、とりわけ子ども連れの多い公園は、常に誰かに見られている場所であり、オルデンバーグの言う「くつろぎ」とは程遠い、というものである。保護者は子どもの安全を見守り、同時に他の保護者から自分の子育てを見られていると感じる。ゴッフマンの儀礼的無関心が成り立たず、公園はむしろ緊張の場である。
この反論にも一理ある。しかしオルデンバーグの第三の場所も、実は「見られている」場所であった。常連は新顔を観察し、品定めし、それをくぐり抜けた者だけが常連になる。第三の場所のくつろぎは、無関心の産物ではなく、観察を経て受け入れられたあとに生まれるものである。公園の視線も同じ構造をもつ。子どもを見守る視線は、同時に「この人はどういう人か」を測る視線であり、それが「いつもの人」に変わるとき、視線は緊張から安心へと質を変える。見守りが監視に感じられるか、安心に感じられるかは、その公園に自分の居場所ができているかどうかの指標であり、それ自体が第三の場所の成熟度を測る手がかりになる。
7. 比較——喫茶店・図書館・子育て支援拠点・境内と公園
第6節で述べたように、公園は単独で第三の場所であるかを問うよりも、徒歩圏に存在する第三の場所の候補群のなかで、どのような位置を占めるかを問うほうが生産的である。本節では、日本の住宅地で第三の場所の候補となりうる場所を公園と並べ、オルデンバーグの条件に照らして比較する。取り上げるのは、喫茶店・カフェ、公立図書館、地域子育て支援拠点、神社の境内、そして商業施設の休憩スペースである。
| 場所 | 費用 | 屋内/屋外 | 場を保つ人 | 子連れの居やすさ | 常連の生まれやすさ | 徒歩圏での密度 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 街区公園 | 無料 | 屋外 | 常駐者なし(住民の見守り) | 高い(子どもが主役) | 時間帯ごとに生まれる | 高い(250mの標準) |
| 喫茶店・カフェ | 有料 | 屋内 | 店主・店員 | 店による | 高い | 地域差が大きい |
| 公立図書館 | 無料 | 屋内 | 職員 | 児童コーナー次第 | 低い(会話が抑えられる) | 低い(市に数館) |
| 地域子育て支援拠点 | 無料が多い | 屋内 | スタッフ | 非常に高い(対象限定) | 高い | 低い(市に数か所) |
| 神社の境内 | 無料 | 屋外 | 常駐者は少ない | 祭礼時は高い | 行事に依存 | 高い(集落ごと) |
| 商業施設の休憩スペース | 無料(買い物前提) | 屋内 | 施設側 | 施設による | 低い | 車圏 |
7.1 喫茶店・カフェ——オルデンバーグの原型
喫茶店はオルデンバーグの原型そのものであり、店主がいて、常連がいて、会話が主活動である。日本の住宅地においても、長く営まれる喫茶店が高齢者の第三の場所として機能してきたことは広く観察される。しかし乳幼児連れにとって、喫茶店の敷居は低くない。長居への負い目、子どもが泣いたときの気まずさ、費用の積み重ね。この点で公園は、喫茶店から排除されがちな層に対する「もう一つの選択肢」として機能する。喫茶店と公園は競合するのではなく、利用者層を分け合っている。
7.2 図書館と子育て支援拠点——屋内で無料の候補
図書館は無料で屋内で開放時間が長く、雨の日の避難先として公園を補完する。しかし図書館の規範は静けさであり、会話が主活動である第三の場所とは根本的に相性が悪い。児童コーナーやおはなし会は例外的に会話を許す空間として機能するが、それは図書館の一部にすぎない。
地域子育て支援拠点は、児童福祉法にもとづく事業として市町村が設ける、乳幼児と保護者が集い交流する屋内の場である。スタッフがいて、対象が明確で、常連が生まれやすく、雨の日も真夏も開いている。保護者の第三の場所として見れば、公園より多くの条件を満たすと言ってよい。ただし二つの制約がある。第一に、対象が「乳幼児と保護者」に限定されるため、平等性の条件のうち「多様な人が交わる」という側面は弱い。第二に、市内に数か所しかなく、徒歩圏にあるとは限らない。公園が51園、支援拠点が数か所という密度の差は、日常的な立ち寄りやすさにおいて決定的である。支援拠点は「出かける先」であり、公園は「立ち寄る先」である。
7.3 境内と商業施設——古い候補と新しい候補
神社の境内は、公園制度ができる以前から、日本の集落における屋外の集まりの場であった。無料で屋外で常駐者が少ないという点で公園に最も近く、実際に境内が街区公園として指定されている例も全国には見られる。境内は祭礼という周期的な行事によって常連(氏子)の関係を更新する仕組みをもち、この点で、行事をもたない公園より「もう一つの我が家」の条件に近い面がある。一方で境内は宗教的な帰属と結びつくため、中立性の条件では公園に劣る。この対比は本シリーズの宗教学・民俗学の論考でも扱われる。
商業施設の休憩スペースやフードコートは、近年の郊外において事実上の第三の場所として機能しているとしばしば指摘される。屋内で冷暖房があり、無料で座れ、子連れも多い。しかしオルデンバーグ自身が郊外のショッピングモールを第三の場所の反対物として批判したことは記憶されてよい。車で行く場所であり、常連が生まれにくく、消費が前提であり、施設側の都合で座席が減らされる。それは「開かれた」場所ではなく「許された」場所である。
この対比は、公園を評価する際の一つの物差しを与える。公園も行政の管理下にあり、利用のルールをもつ点では「許された」場所である。しかし公園の許可は、消費や営業時間や施設側の採算に依存しない。座席が売上に貢献しないからといって撤去されることはなく、長居しても誰にも迷惑をかけない。第三の場所として見たとき、商業施設の休憩スペースと公園の差は、快適さの差ではなく、その場所にいる権利の根拠の差である。冷暖房のある屋内の休憩スペースは季節性の点で公園に勝るが、権利の安定性の点では公園に及ばない。
7.4 比較から見える公園の位置
比較の結果、街区公園の位置は次のように要約できる。条件の充足度では支援拠点や喫茶店に劣る面があるが、無料・屋外・徒歩圏という三点において、他のどの候補も代わりになれない位置を占める。とりわけ「徒歩圏での密度」の高さは、街区公園という制度の設計思想(誘致距離250m)そのものに由来し、他の候補が構造的にもちえない性質である。徒歩圏の第三の場所という観点から見れば、公園は最も条件を満たす場所ではなく、最も「そこにある」場所である。そして第三の場所論において「そこにある」ことは、決して小さな条件ではなかった。
8. 第三の場所と「歩ける近さ」——車社会のなかの街区公園
オルデンバーグの第三の場所論は、しばしば「居心地のよい場所」の理論として読まれるが、その原著は同時に、車で移動する郊外への批判の書でもあった。住宅と職場と店を用途ごとに切り離し、その間を車でつないだ戦後アメリカの郊外は、人が「ついでに立ち寄る」ことを構造的に不可能にした、というのが彼の診断である。第三の場所の条件のなかで、彼が建物や店主と同じくらい重視したのは、そこへ歩いて行けるという事実であった。本節ではこの「歩ける近さ」という論点を取り出し、街区公園という制度がそれとどう関係するかを検討する。
8.1 誘致距離250mの社会学的意味
都市公園法施行令と国土交通省の標準は、街区公園の誘致距離を250mとしている。誘致距離とは、その距離の範囲に住む人の利用を想定して公園を配置する、という計画上の目安である。この数字を社会学的に読み替えると、それは「予定を立てずに、思い立ったときに行ける距離」の制度化である。歩いて数分の場所は、出かける支度をせず、時間を確保せず、子どもが「行きたい」と言った瞬間に行ける。オルデンバーグが第三の場所に求めた「思い立ったときに行けること」は、街区公園においては施設の性格ではなく、配置の標準として先に埋め込まれている。
この点で街区公園は、日本の都市計画のなかで、第三の場所の要件をたまたま満たすように設計された数少ない施設である。もちろん立案者が第三の場所を意図したわけではない。しかし「小さくてよいから近くに」という配置の思想は、「立派だが遠い」を退ける点でオルデンバーグと同じ方向を向いている。近隣公園の500m、地区公園の1kmという段階的な誘致距離は、日常の立ち寄りから週末の外出までを距離で使い分ける体系であり、第三の場所論の言葉で言えば、「立ち寄る先」と「出かける先」を制度的に区別している。
8.2 車で行く公園は第三の場所になりにくい
車で公園へ行くという行為は、それ自体が「出かける」という決断を含む。行き先を決め、支度をし、駐車し、まとまった時間を過ごして帰る。この一連の流れは、オルデンバーグの言う第三の場所の「気軽さ」とは対照的である。車で行く公園は、目的地であって通り道ではなく、そこで出会う人は、行き先を選んだ結果としてたまたま居合わせた人であって、毎日顔を合わせる近所の人ではない。常連が生まれる条件——反復と近接——のうち、近接が欠けるのである。
ここでテンニースの古典的な区別が参考になる。テンニースは『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(1887)で、血縁・地縁・心の結びつきによる共同体(ゲマインシャフト)と、目的と契約による結合(ゲゼルシャフト)を対比した。第三の場所は、都市というゲゼルシャフト的な世界のなかに、選択によらないゲマインシャフト的な関係——近所の人だから顔を合わせる、という関係——を小さく再生させる場所であると読める。車で行く公園では、人は行き先を選び、結果として会う人を選ぶ。歩いて行く街区公園では、人は行き先を選ばず、したがって会う人も選ばない。この「選ばなかった人と繰り返し会う」という性質こそが、橋渡し型の弱い紐帯を生む土壌であり、車社会において失われつつあるものである。
8.3 地方都市の車社会と公園の使われ方
磐田市を含む地方都市の多くは、日常の移動を車に依存している。この条件のもとでは、街区公園が徒歩圏にあっても、保護者が「せっかく行くなら」と車で大きな公園へ向かう選択が生じやすい。当サイトの収録データでは、駐車場の記載または当サイトの判定で駐車場があるとされる園は100園中33園であり、街区公園の多くは駐車場の記載がない。これは街区公園が制度上、車で来る利用を前提としていないことを示す。逆に言えば、街区公園に人が来るかどうかは、徒歩圏に住む人がそこを「立ち寄る先」として選ぶかどうかにかかっており、大きな公園との競合にさらされている。
この競合において街区公園が勝てる条件は、遊具の豪華さではなく、「毎日でも行ける」という反復可能性にある。目玉遊具のある大きな公園は、月に一度の楽しみにはなっても、毎日の立ち寄り先にはならない。逆に、何もない小さな公園でも、毎日同じ時間に行けば同じ人に会える。オルデンバーグは、第三の場所の魅力は施設ではなく人にあると繰り返したが、これは街区公園にとって、設備投資の多寡とは別のところに勝負どころがあることを意味する。
8.4 子どもの行動半径と第三の場所への「入口」
歩ける近さは、子どもにとって別の意味をもつ。子どもは成長とともに、大人の付き添いなしで行ける範囲を広げていくが、その最初の目的地になりやすいのが近所の公園である。250mという距離は、家の窓から見えるかもしれず、通学路の途中にあるかもしれない距離であり、子どもが「一人で行ってよい」と初めて許される範囲と重なりやすい。街区公園は、子どもにとって、大人の第三の場所への付き添いから、自分自身の第三の場所へと移行する入口の役割を担う。この移行がどの年齢で、どのような条件で起きるかは家庭と地域によって大きく異なり、安全にかかわる判断は各家庭と関係機関に委ねられるべきものであるが、その舞台が徒歩圏の小さな公園であることは、車社会においていっそう重要になる。第三の場所への入口が車でしか行けない場所にあれば、子どもは大人の運転に依存し続け、自分の場所を自分の足で持つ経験は遅れるからである。
9. 磐田市の公園への示唆——街区公園51園を徒歩圏の第三の場所の供給として読む
本節では、ここまでの概念的検討を磐田市に当てはめる。用いる事実は、磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドにもとづく当サイトの収録データ(100園)に限る。当サイトの現地踏査は始まっておらず、ベンチ・木陰・実際の利用者層といった第三の場所の核心にかかわる項目は、すべて今後の踏査課題である。ここで示すのは、踏査の前に「データから何が言え、何が言えないか」を整理する作業である。
9.1 51園という数字の意味
磐田市の都市公園100園のうち、街区公園は51園で最も多く、次いで近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園・運動公園・風致公園が各3園、広場公園・緑道が各2園、墓園・歴史公園が各1園、法対象外が6園である。第三の場所論の観点からこの内訳を読み直すと、「立ち寄る先」になりうる徒歩圏の候補は主として街区公園51園と近隣公園14園であり、地区・総合・運動公園は「出かける先」として別の性格をもつ。街区公園の国の標準は誘致距離250mであるから、51園はそれぞれ半径250m——面積にしておよそ0.2平方キロメートル——の徒歩圏に第三の場所の候補を一つずつ供給している、と読める。ただし公園の分布は均等ではなく、この読み方は「候補がある」ことを示すだけで、その候補が第三の場所として機能しているかどうかは別の問いである。
| 地区 | 収録公園数(全種別) | うち街区公園 |
|---|---|---|
| 豊田 | 28園 | 15園 |
| 見付 | 21園 | 12園 |
| 中泉 | 14園 | 10園 |
| 御厨 | 13園 | 8園 |
| 竜洋 | 13園 | 3園 |
| 福田 | 4園 | 2園 |
| 向陽 | 2園 | 1園 |
| 南部 | 2園 | 0園 |
| 豊岡 | 3園 | 0園 |
地区別に見ると、街区公園は豊田・見付・中泉・御厨の4地区に集中し、この4地区で45園を占める。竜洋には13園の公園があるが街区公園は3園で、近隣公園や大規模公園が中心である。南部・豊岡には街区公園がなく、法対象外の公園や大規模公園が地域の公園として機能している。この偏りは、都市計画上の市街化の経緯を反映していると考えられるが、第三の場所論から見れば「徒歩で立ち寄れる小さな公園」の供給が地区によって大きく異なることを意味する。街区公園のない地区では、境内や集会所の広場、農村公園など、制度上は都市公園でない場所が第三の場所の候補を担っている可能性があり、これは当サイトの収録範囲の外にある課題である。
9.2 「街区公園」の中の多様性——面積と設備
51園は同じ種別に属するが、その姿は一様ではない。オープンデータの面積で見ると、最も小さい見付本通広場公園は372㎡、只来下公園は458㎡である一方、京見塚公園は10,231㎡、上野公園は6,986㎡あり、同じ街区公園の中に約27倍の開きがある。第三の場所論にとってこの差は重要である。ホワイトの観察に従えば、複数の集団が同時に居場所をもてるかどうかは面積と座る場所の量に左右され、狭い公園では一つの集団が場を占めると他の集団が入りにくくなる。数百㎡の街区公園は「一集団の場」に、数千㎡の街区公園は「複数集団の場」になりやすいと予想されるが、これは踏査で確かめるべき仮説である。
設備の差も、滞在時間——すなわち会話と常連が生まれる時間——を左右する。当サイトのデータでは、街区公園51園のうち只来下公園・久保公園・めがねばし公園・西貝塚公園・南御厨西公園・南御厨東公園・豊田中野戸農村公園などにはトイレの記載がなく、乳幼児連れの滞在は短くなりやすい。一方、中泉グリーンパーク・磐田ららシティ公園・北川瀬公園・豊田原新田公園・豊田東原梅ノ木公園には市の施設ガイドに「健康遊具」の記載があり、子ども連れ以外の利用者——第4節で述べた「朝の常連」——を想定した設計が読み取れる。また中原公園・谷口公園のように、施設ガイドの園内施設欄に「トイレ」のみが記され遊具の記載がない街区公園もあり、これらは子ども連れに偏らない広場型の利用に開かれている可能性がある。
9.3 三角測量の対象——史跡・水・複数ゾーン
第4節で述べた「三角測量」——第三の何かがあると見知らぬ人が話し始める——という観点からは、公園に何があるかも重要になる。京見塚公園には市の施設ガイドに「京見塚古墳」、一ノ谷公園には「一ノ谷遺跡」の記載があり、遊具以外に人の注意を引き、会話のきっかけになりうる対象をもつ。近隣公園ではあるが、今之浦公園について市の施設ガイドは「遊びと賑わいのゾーン」と「憩いとふれあいゾーン」を分け、後者に「健康遊具、じゃぶじゃぶスポット、流れ、芝生広場」を挙げている。これは、時間帯と世代の異なる複数の常連集団が同じ公園に共存する——ジェイコブズの言う多様な利用——を設計段階で意図した例として読むことができる。当サイトはこうした園を、踏査において「複数の常連層が共存しているか」を観察する対象として位置づけている。
9.4 行政と地域への示唆
以上から、磐田市の公園を第三の場所として育てるうえで検討に値する論点を三つ挙げる。第一に、街区公園の評価軸に「滞在」の指標——座れる場所の数、木陰、トイレ——を加えること。遊具の充実度だけで公園を測ると、第三の場所としての機能は見えない。第二に、時間帯ごとの利用者層を把握すること。朝・午前・放課後・夕方に誰がいるかを知ることは、公園が一集団の場か複数集団の場かを判定する最も簡単な方法である。第三に、街区公園のない地区や、街区公園が数百㎡しかない地区において、境内・集会所・農村公園など制度外の場所が第三の場所を担っている現状を、公園行政の外側の資源として認識すること。当サイトはこれらを、今後の踏査で確かめる項目として記録していく。
10. 結論と今後の課題
10.1 結論
本稿の問いは「公園は第三の場所か」であった。オルデンバーグの8条件を街区公園に一つずつ照らした結果、答えは次のように整理できる。街区公園は、中立性・平等性・アクセス・低い敷居・遊び心という、場所の器にかかわる条件を、屋内の商業的な第三の場所よりもむしろ強く満たす。一方、会話・常連・もう一つの我が家という、関係の中身にかかわる条件は、子ども連れの保護者という限られた利用者層において、季節と時間帯を限って、そして子どもの成長という数年の期限つきで満たされる。したがって街区公園は条件つきの第三の場所であり、その条件とは「誰が、いつ、どのくらい滞在するか」に尽きる。
公園利用が子ども連れに偏ることについては、二重の評価を示した。それは公園を「特定集団の準私的な庭」に近づけ、他の世代を周縁化する要因である。しかし同時に、子育て期という第三の場所を最も必要とし最も得にくい時期にある人びとにとって、付き添いという口実と反復によって、面目を保ったまま社会的な場に出ることを可能にする、稀有な仕組みでもある。そして視点を子どもに移せば、公園はほとんど条件なしの第三の場所として現れる。同じ場所が世代によって第三の場所としての純度を変えるという非対称は、公園という場所の固有の社会学的性格である。
磐田市については、街区公園51園を徒歩圏の第三の場所の候補の供給として読み直し、地区による偏り、面積の約27倍の開き、トイレや健康遊具の有無といった内部の多様性が、第三の場所としての機能を左右すると予想されることを示した。ただしこれらはすべてデータからの見通しであり、踏査による確認を待つ。
本稿の議論から導かれる実践的な含意を一つだけ挙げるなら、それは「公園を第三の場所として評価する軸は、遊具の数ではなく滞在の条件である」ということである。座れる場所、木陰、トイレ、そして歩いて行ける近さ。これらは公園の魅力を語るときには地味な項目であるが、そこに常連が育ち、会話が生まれ、誰かにとっての「いつもの公園」になるかどうかを左右するのは、まさにこれらの地味な条件である。オルデンバーグが第三の場所の外観を「低い敷居」と呼んで肯定したように、街区公園の地味さは欠点ではなく、第三の場所であるための前提である。
10.2 本稿の限界
本稿には三つの限界がある。第一に、実地調査を伴わない概念分析であり、街区公園の利用について述べたことの多くは一般的な観察と文献に依拠している。磐田市の個々の公園にそれが当てはまるかは未確認である。第二に、オルデンバーグの理論はアメリカの郊外化への批判として書かれたものであり、日本の住宅地——町内会や自治会、通学路の見守りなど、独自の地縁的組織をもつ地域——にそのまま当てはめることには慎重であるべきである。日本の街区公園における常連や見守りのあり方は、オルデンバーグの想定した「店主のいる屋内」とは別の系譜——境内や辻、井戸端といった屋外の集まりの場——に連なる可能性があり、この点は民俗学の論考に委ねたい。第三に、本稿は保護者を中心に論じ、高齢者・単身者・障害のある人など、公園を利用しにくいと感じている可能性のある人びとの視点を十分に扱えていない。
10.3 今後の課題——踏査で確かめること
当サイトの今後の踏査において、本稿の議論から導かれる観察項目は次のとおりである。座れる場所の数と配置(一か所に固まっているか、分散しているか)。木陰と屋根の有無。トイレの有無と状態。時間帯ごとの利用者層(朝・午前・放課後・夕方の四区分で、誰がいるか)。複数の集団が同時に滞在しているか、一集団が場を占めているか。遊具以外に人の注意を引く対象(史跡・水・花・眺め)があるか。周辺住民による清掃や見守りの痕跡があるか。これらは第三の場所としての公園を測る指標であると同時に、子育て世代が「いつもの公園」を選ぶときの実用的な手がかりでもある。公園が第三の場所であるかどうかは、最終的には、その公園に通う人が「ここは自分の場所だ」と感じるかどうかで決まる。本稿はその問いを、文献の側から可能な限り整理したにすぎない。
参考文献
- レイ・オルデンバーグ(1989)『サードプレイス——コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』(忠平美幸訳、みすず書房、2013)
- ロバート・D・パットナム(2000)『孤独なボウリング——米国コミュニティの崩壊と再生』(柴内康文訳、柏書房、2006)
- ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
- ウィリアム・H・ホワイト(1980)『The Social Life of Small Urban Spaces』(The Conservation Foundation)
- マーク・グラノヴェッター(1973)「弱い紐帯の強さ(The Strength of Weak Ties)」American Journal of Sociology, 78(6)
- アーヴィング・ゴッフマン(1963)『集まりの構造——新しい日常行動論を求めて』(丸木恵祐・本名信行訳、誠信書房、1980)
- リン・H・ロフランド(1998)『The Public Realm: Exploring the City's Quintessential Social Territory』(Aldine de Gruyter)
- フェルディナント・テンニース(1887)『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(杉之原寿一訳、岩波文庫、1957)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。