人文学美術史

公園に置かれた彫刻——記念像・野外彫刻展・作品と場所の関係

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:美術史 公開・更新 2026-08-17 本文 約23,025字 読了目安 42分

要旨

本稿の目的は、公園に置かれた彫刻を、作品の芸術的な良し悪しによってではなく、それが公園という場所に置かれるにいたった歴史と、置かれたあとに人と結ぶ関係の構造によって記述することである。台座の上に立つ人物像、芝生の一角に据えられた抽象的な塊、名も作者も読み取れなくなった銘板。それらは美術館の作品と違い、見に来た人ではなく通りかかった人に出会われる。本稿はこの出会い方の条件を、近代日本の銅像建立、1960年代以降の野外彫刻展と自治体の設置事業、そして欧米のパブリックアート論という三つの系譜から整理する。

方法は文献整理と概念分析である。アロイス・リーグルの記念碑論(1903)、ローベルト・ムージルの短い記念碑論(1936)、ドナルド・ジャッドからロザリンド・クラウスにいたる彫刻概念の拡張、ミウォン・クウォンによる場所固有性(サイト・スペシフィシティ)の類型を主な参照点とする。あわせて、日本の都市公園法施行令が彫像を修景施設に含めていること、著作権法が屋外に恒常設置された美術の著作物に特別の扱いを与えていることを、制度の側から確認する。個別の作品の芸術的評価は行わず、置かれ方の構造だけを扱う。

検討の結果、公園の彫刻には三つの構造が重なって働いていることが示される。第一に、記念像として成立した人物・台座・碑文という型が、抽象彫刻の時代になっても場所との関係を規定し続けていること。第二に、公園の彫刻は見に行かれる対象ではなく通りすがりに受容されるため、背景に沈み、同時に子どもにとっては登れるものとして別の意味で発見されること。第三に、制度上は景観をつくる設備でありながら、作品としての人格的な権利を伴うため、移設・修復・撤去が単純な管理判断では済まないこと。最後に、磐田市の都市公園100園について、当サイトが今後の踏査で何を記録すべきかを述べる。ただし現地踏査は始まっておらず、市内の個別の彫刻については本稿では扱わない。

キーワード野外彫刻記念像パブリックアート場所固有性修景施設著作者人格権磐田市

1. はじめに——問題の所在

公園を歩いていると、遊具でも樹木でもベンチでもないものに出会うことがある。台座の上に立つ人物の像、芝生の一角に据えられた抽象的な塊、動物をかたどった石やコンクリートの造形。それらは公園の施設一覧に載っているとは限らず、案内板に名前が記されていないことも珍しくない。そして多くの場合、利用者はそれを見に来たのではなく、通りかかっただけである。本稿が主題とするのは、この「見に来られたのではない彫刻」という状況そのものである。

美術史は通常、作品を作者・様式・制作年の系列のなかに置いて論じる。しかし公園の彫刻については、その方法だけでは届かない領域が大きい。第一に、現地では作者名も制作年も読み取れないことが多い。第二に、その造形物がなぜそこに置かれたのか——誰が、どのような制度と予算で、何を記念し、あるいは何を飾ろうとしたのか——という設置の経緯が、作品の意味を強く規定している。第三に、鑑賞の条件が美術館とまったく異なる。照明も動線も解説文も、鑑賞のために設計されてはいない。雨が当たり、日が当たり、子どもが走り抜ける横に、それは立っている。

1.1 作品の評価ではなく、置かれ方の構造を問う

そこで本稿は、個々の作品の芸術的な良し悪しをいっさい評価しない。ある像がすぐれているか、ある抽象彫刻がその街に似合っているかという問いは、本稿の対象外である。かわりに問うのは、公園に彫刻が置かれるという事態を成り立たせている構造である。ここでいう構造とは、歴史的な型(どのような形式の像が、どのような動機で建てられてきたか)、制度(法令上どう位置づけられ、誰が管理し、誰の権利が及ぶか)、受容(人がそれをどう見て、どう見ないで、どう触れるか)という三つの層をさす。

この三層を分けて考えることには実益がある。ある彫刻が汚れて傷んでいるとき、それは美的な失敗ではなく、設備の維持管理予算の配分の問題であるかもしれない。ある彫刻が子どもによじ登られているとき、それは行儀の問題ではなく、形が登ることを誘っているという知覚の問題であるかもしれない。ある彫刻を動かせないとき、それは管理者の裁量の問題ではなく、著作者の人格的な権利の問題であるかもしれない。層を取り違えたまま議論すると、対策も評価もかみ合わない。公園の彫刻について語られる言葉が、しばしば「良い」「いらない」の二つに縮んでしまうのは、この取り違えのためである。

記念の像見られ方登る子ども三つの層
図1本稿の見取り図。公園の彫刻を、歴史的な型・制度・受容という三つの層に分けて読む。個々の作品の良し悪しは評価の対象としない。

1.2 三つの問い

以上の枠組みのもとで、本稿は次の三つを問う。いずれも、公園という場所の側から美術史に投げ返される問いである。

  • 公園に彫刻を置くという習慣は、いつ、どのような動機で成立したのか。人物を記念する像の時代と、記念を目的としない野外彫刻の時代とで、置かれ方はどう変わり、何が変わらなかったのか。
  • 作品と場所の関係は、美術の側でどう論じられてきたのか。とりわけ、彫刻が台座を離れ、置かれた場所そのものを作品の一部とみなす議論——場所固有性(サイト・スペシフィシティ)——は、公園に置かれる彫刻に何を要求するのか。
  • 置かれたあとに何が起きるのか。見られないまま風景になること、遊具ではないものが登られること、劣化と修復、移設と撤去。これらは偶発的な出来事ではなく、構造から予測できる事柄ではないか。

1.3 方法と、本稿がしないこと

方法は文献整理と概念分析である。参照するのは、広く知られた古典的な論考と、日本の法令および公的な指針に限る。構成は次のとおりである。第2節で記念碑論・彫刻概念の拡張・パブリックアート論という三つの系譜を整理し、第3節で近代日本の銅像建立、第4節で台座からの離脱とミニマリズム以後の彫刻、第5節で1960年代以降の野外彫刻展と自治体の設置事業、第6節で場所固有性をめぐる論争を扱う。第7節と第8節では受容の側に移り、見られないこと、登られることを論じる。第9節で制度と管理、第10節で磐田市の公園への示唆、第11節で結論と課題を述べる。

本稿がしないことも先に明示しておく。第一に、実在を確かめられない作品名・作者名・設置年は書かない。日本の地方都市に置かれた野外彫刻については、体系的に整理された資料が乏しく、個別の情報を断片的に並べることは誤りを増やすだけである。第二に、磐田市内の個別の彫刻については、当サイトの現地踏査がまだ始まっていないため扱わない。第10節で述べるのは、今後の踏査で何を記録すべきかという設計の話である。第三に、特定の作品の撤去や存置を主張しない。本稿が示すのは、そうした判断が誰の、どの層の問題として立ち上がるのかという整理である。

註:本稿でいう「彫刻」は、公園に恒常的に設置された立体の造形物を広くさす。人物像・胸像・記念碑・抽象彫刻のほか、作者や制作年が不明のまま残る造形物も含める。遊具として設計・設置されたものは、原則として含めない。ただし第8節で見るように、この境界そのものが実際には曖昧である。

2. 先行研究と概念の整理——記念碑・彫刻・パブリックアート

公園の彫刻を論じる言葉は、一つの学説史から出てくるのではない。少なくとも三つの、出自の異なる議論の系譜が交差している。記念碑をめぐる議論、彫刻という概念そのものの拡張をめぐる議論、そして公共空間に置かれる美術をめぐる議論である。本節はこの三つを整理し、以後の各節で用いる語をあらかじめ定義しておく。

2.1 記念碑論——記念は持続しない、という発見

第一の系譜は、記念碑(モニュメント)をめぐる議論である。オーストリアの美術史家アロイス・リーグルは1903年の論考で、記念物を、はじめから記念のために作られた意図的なものと、時を経て記念物とみなされるようになった非意図的なものに分け、そこに働く価値を年代価値・歴史的価値・使用価値などに整理した。年代価値とは、古びていること、風化していることそれ自体が呼び起こす感情の価値である。この整理は、保存修復の実務に大きな影響を与えた。古びた姿を残すことと、作られた当初の姿に戻すこととは、しばしば両立しないからである。

記念碑の受容について、しばしば引かれる指摘がある。オーストリアの作家ローベルト・ムージルは1936年の短い文章で、記念碑ほど目につかないものはない、という趣旨を書いた。目立つように作られ、目立つ場所に置かれた記念碑が、まさにそのために視界から滑り落ちていく。この逆説は、後の章で扱う「見られない彫刻」の議論の出発点になる。さらに1990年代には、記念することの困難そのものを形にしようとする実践が現れ、ジェイムズ・E・ヤングは1993年の研究で、記念碑の役割を鑑賞者に差し戻す作品群を反記念碑(カウンター・モニュメント)と呼んで論じた。

三つの系譜中心の問い場所作品群
図2本稿が用いる三つの議論の系譜。記念碑論・彫刻概念の拡張・パブリックアート論は出自が異なり、公園の彫刻ではそれらが同時に働く。

2.2 彫刻概念の拡張——鑑賞者の身体が条件になる

第二の系譜は、1960年代の美術内部の議論である。ドナルド・ジャッドは1965年の文章で、絵画でも彫刻でもない三次元の物体という言い方をした。素材が何かを表象するのではなく、そこにある物体として立つ。ロバート・モリスは1966年からの連作で、作品の意味は物体そのものに閉じておらず、鑑賞者の位置・移動・視点、そして作品が置かれた空間との関係のなかで成立すると論じた。彫刻が台座の上で完結した小宇宙であることをやめ、鑑賞者が立つ床と同じ地面の上に降りてきたのである。

これに正面から反対したのがマイケル・フリードの1967年の論考である。フリードは、作品が鑑賞者の存在と、鑑賞にかかる時間を前提にしてしまうことを演劇性と呼び、美術の自律性を損なうものとして批判した。批判ではあったが、記述としては正確であった。すなわち、この種の作品においては、鑑賞者がどこに立ち、どれだけの時間そこにいるかが、作品の成立条件に組み込まれている。ロザリンド・クラウスは1979年の論考で、この事態を彫刻概念の拡張として定式化した。クラウスは、近代の彫刻が風景でもなく建築でもないものという否定によって定義されていたことを指摘し、以後の実践がその否定の外側へ展開していく図式を描いた。

2.3 パブリックアート論——誰の場所に、誰が置くのか

第三の系譜は、公共空間に置かれる美術をめぐる議論である。ここでの中心的な問いは、作品の質ではなく、正統性である。誰が発注し、誰が選び、誰が費用を負担し、誰がその場所を日々使っているのか。第6節で扱う1980年代のニューヨークの論争は、この問いを制度的な争点として可視化した。ミウォン・クウォンは2002年の研究で、場所固有性という語が指してきた場所の内容を三つに整理した。実際に身体で経験される物理的な場所、美術館や行政や資金といった社会的・制度的な場所、そしてテーマや言説として立ち上がる場所である。この整理により、場所固有性は動かせない一点への固着から、移動しうる関係のあり方へと読み替えられた。

系譜中心的な問い主な参照点公園の彫刻に効く点
記念碑論記念は持続するかリーグル(1903)、ムージル(1936)、ヤング(1993)記念の内容は薄れ、古びていること自体が別の価値になる
彫刻概念の拡張彫刻はどこまで彫刻かジャッド(1965)、モリス(1966)、フリード(1967)、クラウス(1979)鑑賞者の身体と周囲の空間が、作品の成立条件に組み込まれる
パブリックアート論誰の場所に、誰が置くのか1980年代の公共広場をめぐる論争、クウォン(2002)設置の正統性と、場所の意味づけのされ方が問われる

この三つは、美術の内部では別々の文脈で発展した。しかし公園の彫刻という対象においては、三つが同時に働く。人物像は記念碑論の対象であり、その像は鑑賞者が歩いて近づく物体でもあり、公費で置かれた公共の設備でもある。以下の各節では、この重なりをほどきながら順に見ていく。

3. 近代日本の銅像——人物・台座・碑文という型の成立

日本で、屋外の公共の場に立体の造形物を恒常的に置くという習慣は、近代に始まる。それ以前にも仏像・狛犬・石灯籠・道祖神といった立体は屋外にあったが、それらは信仰と結びついた場所の設えであり、特定の個人を顕彰するために公衆の前に置かれるものではなかった。西洋式の屋外銅像が現れるのは明治期であり、1893年に靖国神社に建てられた大村益次郎の像は、その最初期の例の一つとして知られている。以後、公園や神社境内、官庁の前庭に人物像が建てられていく。

3.1 上野の西郷像と、公園という舞台

公園に置かれた像として広く知られるのは、1898年に上野公園で除幕された西郷隆盛の像である。彫刻は高村光雲が手がけ、連れている犬は別の作者による。上野公園は、1873年の太政官布達によって公園に指定された最初期の場所の一つであり、寛永寺の境内地を引き継いだ土地であった。1877年以降は内国勧業博覧会の会場となり、博物館や動物園が開かれた。つまり西郷像は、江戸以来の名所であり、かつ近代の展示装置が集積した場所に置かれたのである。1900年には皇居外苑に楠木正成の像が据えられた。人が多く集まる場所に、その場所を代表する意味を担った像を立てるという型が、こうして定着した。

重要なのは、これらの像が行政の景観政策として置かれたのではなく、多くの場合、発起人会をつくり寄付を募る建立運動によって実現したという点である。誰を顕彰するかを決めるのは、その運動を担った人々であった。したがって銅像は、置かれた場所の意味を表すと同時に、それを建てた集団が何を公共的な価値とみなしたかを表す。第6節で見る現代の論争が、作品の質ではなく決定の正統性をめぐって起きたことを考えると、この出発点の性格は示唆的である。

記念する碑文台座建立の運動
図3記念像の型。誰を記念するかを決める建立運動があり、台座が像を日常の高さから切り離し、碑文が意味を固定する。三つが揃って一つの装置になる。

3.2 型の三要素——人物・台座・碑文

近代日本の記念像は、三つの要素が組み合わさった装置として読める。第一に人物である。像は誰かに似せて作られ、その誰かの生涯が意味の源になる。第二に台座である。台座は像を地面から持ち上げ、見上げる姿勢を強制し、触れられない高さに置く。同時に、像が立っている土地との連続性を切断する。像は地面の上に立っているのではなく、台座の上に立っているのであり、台座が動けば像も動く。第三に碑文である。碑文は、この像が誰であり、なぜここにあるのかを言葉で固定する。造形だけでは意味は伝わらないという前提が、そこにはある。

この三要素は互いを支えている。台座がなければ碑文を刻む面がなく、碑文がなければ人物の同定ができず、人物がいなければ台座は意味を失う。逆にいえば、どれか一つが失われると、装置は急速に機能を落とす。碑文が風化して読めなくなった像は、誰の像かわからないまま立ち続ける。第7節で扱う背景化は、この機能の低下として記述できる。

3.3 供出と、戦後の主題の転換

1940年代前半、戦時下の金属回収によって、全国の多くの銅像が供出された。屋外の銅像が、記念の装置であると同時に金属という資源でもあるという事実が、このとき露わになった。美術史的にはしばしば損失として語られる出来事だが、本稿の関心からいえば、公共の場の彫刻が政策によって一斉に扱いを変えられうるという構造の露出である。台座だけが残された例もあり、台座は像を支える部材であると同時に、像の不在を示す標識にもなった。

戦後、屋外の記念像の主題は大きく変わる。個人の顕彰に代わり、平和や祈りといった抽象的な主題を担う像が公園に置かれるようになった。1955年に長崎平和公園に据えられた平和祈念像(北村西望)はその代表であり、1958年には広島平和記念公園に子どもの姿をとる像が建てられている。これらは特定の個人を顕彰するのではなく、出来事を記憶し、価値を宣言する。人物の像という形式は保ちながら、意味の源が個人の生涯から集合的な記憶へ移った。

こうして成立した型は、その後の抽象彫刻の時代になっても、公園における彫刻の受け取られ方を規定し続ける。人物でも記念でもない造形物が公園に置かれたとき、多くの利用者はまず「これは何を記念しているのか」「誰が作ったのか」を探す。銘板を探す身振りは、記念像の型が残した習慣である。第4節では、美術の側でこの型がどのように解体されていったのかを見る。

註:学校の校庭に置かれた二宮金次郎の像も、人物・台座・碑文の型に連なる。校庭は公園ではないが、屋外に人物像を置いて価値を示すという習慣が、公園以外の公共施設にも広がっていたことを示す例である。

4. 台座からの離脱——ミニマリズム以後の彫刻と鑑賞者

第3節で見た記念像の型は、台座を要としていた。台座は像を持ち上げ、正面を決め、触れられない高さに置き、地面から切り離す。20世紀の彫刻史は、この台座をどう扱うかをめぐる歴史として読むことができる。台座を取り去るのか、作品に取り込むのか、あるいは作品そのものを地面と地続きにするのか。本節では、台座からの離脱が何をもたらしたかを整理し、それが公園に置かれる彫刻にどう関わるかを述べる。

4.1 台座は何をしているのか

台座の働きは三つに整理できる。第一に切断である。台座があることで、作品の空間と、鑑賞者が立っている日常の空間とが別のものになる。第二に上昇である。見上げる角度は敬意や威厳と結びつき、同時に細部を見えにくくする。第三に固定である。台座は基礎に据えられ、像の向きと位置を確定する。これらは記念像にとって長所であった。切断は像を日常の摩耗から守り、上昇は権威を与え、固定は場所との結びつきを保証する。

しかし同じ働きは、別の目的から見れば短所になる。切断は作品を人の生活から遠ざけ、上昇は近づいて触れる経験を奪い、固定は作品を場所の飾りに変える。19世紀末以降の彫刻家たちが台座に強い関心を寄せたのはこのためである。オーギュスト・ロダンが《カレーの市民》を高い台座に載せず、地面に近い高さに置くことを望んだと伝えられる逸話は、この関心の早い例としてしばしば引かれる。像が人と同じ床の上に立つとき、鑑賞者は像を見上げるのではなく、像の間を歩くことになる。

台座を降りる歩いて見る視点の移動場のひろがり
図4台座からの離脱がもたらす変化。作品が鑑賞者と同じ地面に降りると、見上げる一つの正面から、歩きながら変化する多数の視点へと経験が移る。

4.2 物体としての彫刻と、鑑賞者の時間

1960年代のアメリカで、彫刻は表象であることをやめ、物体であることを引き受けようとした。ドナルド・ジャッドが1965年に用いた三次元の物体という言い方は、素材が別の何かを表すのではなく、そこにある大きさと重さと表面として立つことを指している。ロバート・モリスは、単純な形の大きな物体が、鑑賞者の身体の大きさや移動と関係して初めて経験になることを論じた。正面から一望できる作品ではなく、回り込み、近づき、離れることでしか把握できない作品である。

マイケル・フリードが1967年にこれを演劇性として批判したのは、鑑賞に時間がかかること、鑑賞者がその場に居合わせることが作品の条件になってしまうことを、美術の自律性の喪失と見たからである。しかし公園の彫刻を考える本稿にとって、この批判は逆向きに有用である。公園では、そもそも作品を一望する条件が成立しない。人は動線に沿って歩き、視界の端で形をとらえ、季節ごとに違う光の下で同じものを見る。鑑賞者の時間が作品の条件になるという事態は、公園ではむしろ既定の状況である。

4.3 拡張された場と、場所の格上げ

ロザリンド・クラウスが1979年に示した図式は、この流れを一段引いた位置から整理した。近代の彫刻は、風景でもなく建築でもないものという二重の否定によって定義されており、その定義が力を失うと、実践は否定の外側——風景に近いもの、建築に近いもの、その両方でないもの——へ広がっていく。ここで決定的なのは、場所が作品の背景から作品の構成要素へと格上げされたことである。地面の傾き、周囲の樹木、風の抜け方、遠くの建物。それらは作品を置く条件ではなく、作品の一部になりうる。

この転換は、公園の彫刻に二つの帰結をもたらす。第一に、原理的には、その公園でなければならない彫刻が可能になる。地形や動線や周辺の景観を読み込んだ作品は、別の場所に移せば別のものになる。第二に、しかし現実の設置事業の多くは、そのような制作過程を経ていない。展覧会で発表された作品を後から購入して据える、あるいは既存の作品を空いている場所に配置するという手順が広く行われた。第5節と第6節では、この理念と実務の落差が何を生んだかを追う。

なお、台座からの離脱は台座の消滅を意味しない。地面に直接置かれた作品も、実際には基礎工事の上に据えられ、周囲に縁石や砂利の帯を伴うことが多い。見えない台座が地下にあり、地表には作品と地面の境界を示す縁が残る。この境界の設え方は、触れてよいのか、入ってよいのか、という利用者への合図として働く。第8節で扱う登られる彫刻の問題は、この合図の弱さと深く関わっている。

5. 野外彫刻展と「彫刻のある街づくり」——1960年代以降

記念像ではない彫刻が、記念でも信仰でもない理由で公園に置かれるようになるのは、戦後、それも1960年代以降である。この転換をつくったのは二つの仕組みであった。一つは、公園を会場として作品を屋外に展示する野外彫刻展であり、もう一つは、公共建築や再開発の事業費の一部を美術作品に充てるという財源の制度化である。本節はこの二つを整理し、そこから生じた問題を検討する。

5.1 展覧会が公園にやってくる

日本では、1961年に山口県宇部市で野外彫刻の公募展が始まり、名称を変えながら現在まで続いている。公園を会場に作品を並べ、公募と審査を行い、受賞作を市が取得して街に残す。この仕組みには、美術館の展示とは異なる特徴がある。第一に、会期が終わっても作品が残る。第二に、残った作品の管理は美術館ではなく公園や道路の管理部局が担うことになる。第三に、鑑賞者は展覧会を見に来た人だけではなく、その公園を日常的に使う人になる。展示から設備への性格変化が、会期の終了とともに一度に起こるのである。

屋外での常設展示という形式も並行して確立した。1969年には箱根に、屋外の展示空間を主とする美術館が開館している。ここでは作品は入場料を払って見に来る対象であり、公園の彫刻とは受容の条件が異なる。しかし、屋外に彫刻を長期間置くという実務——基礎、排水、日照、清掃、腐食への対処——の知見はこの種の施設で蓄積された。屋外彫刻の保存修復に関する技術的な議論の多くは、こうした常設展示の経験から出ている。

年表街へ置く作品群設置場所
図5野外彫刻が公園に定着する過程。展覧会で発表された作品が街に残り、管理の担い手が美術の側から公園の側へ移っていく。

5.2 財源の制度化——建設費の一部を美術に

もう一つの仕組みは財源である。フランスでは1951年に、公共建築の事業費の一部を美術作品に充てる仕組みが定められた。アメリカでは1950年代末以降、建設費の一定割合を美術に充てる条例を設ける自治体が現れ、1959年のフィラデルフィア市の条例が最初期の例として知られる。1960年代後半には連邦の芸術助成機関が公共の場の美術への助成を始め、庁舎の建設に伴って作品を発注する事業も行われるようになった。作品を置く理由が、誰かを記念するためでも、寄付者の意向でもなく、公共事業の付随項目として制度に埋め込まれたのである。

日本では、これに正確に対応する法定の制度は一般化しなかった。かわりに1970年代から1980年代にかけて、自治体が独自に彫刻の設置事業を進めた。彫刻のある街づくりという言い方が広まり、駅前広場、遊歩道、公園、庁舎前などに作品が置かれた。1994年には東京・立川の再開発街区で、街区全体に多数の作品を配置する事業が行われている。財源が制度化されると、置くこと自体が事業の目的になりやすい。何のために置くのかという問いは、予算執行の手続きの中では答えにくい問いである。

できごと公園の彫刻にとっての意味
1873太政官布達により名所や社寺境内が公園に指定される彫刻以前に、人が集まる場所が公園と名づけられた
1890年代西洋式の屋外銅像が公園や境内に建てられ始める人物・台座・碑文という型が公共の場に定着する
1940年代前半戦時の金属回収により多くの銅像が供出される屋外彫刻が資源としても扱われうることが露わになる
1951フランスで公共建築費の一部を美術作品に充てる仕組みが定められる設置の財源が制度に埋め込まれる
1956都市公園法が制定される彫像が公園の施設として法令上に位置づけられる
1959アメリカの自治体で建設費の一部を美術に充てる条例が現れる行政が継続的な発注者になる
1961山口県宇部市で野外彫刻の公募展が始まる公園を会場とし、作品が街に残る仕組みが生まれる
1969箱根に屋外展示を主とする美術館が開館する屋外常設の技術的な知見が蓄積される
1970〜80年代日本各地で自治体の彫刻設置事業が行われる置くこと自体が事業の目的になりやすくなる
1981〜1989ニューヨークの連邦広場の作品をめぐる論争と撤去設置の正統性と場所固有性が争点になる
1994東京・立川の再開発街区に多数の作品が設置される街区全体を対象とする配置の例が示される

5.3 置いたあとに残る問題

設置事業が広がるにつれ、批判も現れた。批判の中身は作品の良し悪しではなく、多くが手続きと持続に関わるものであった。第一に、選定の過程が住民に見えにくいこと。第二に、その場所である必然性が説明されないまま作品が配置されること。第三に、設置の予算はあっても、その後の清掃・補修・記録のための予算が続かないこと。第四に、作品の情報——作者、制作年、素材、寄贈者——が現地にも台帳にも残らず、数年のうちに由来がたどれなくなること。

これらはいずれも、第4節で見た理念の側からは扱いにくい問題である。場所と作品の関係をどれほど精密に論じても、管理部局に維持費の項目がなければ作品は汚れていく。逆に、管理の合理性だけで考えれば、傷んだ作品は撤去するのが早い。この二つの論理が衝突する典型例が、次節で扱う論争である。

6. 場所固有性をめぐる論争——作品の完全性と場所の使いやすさ

公共空間の彫刻をめぐる議論を決定的に変えたのは、1980年代のニューヨークで起きた一つの事例である。連邦政府の庁舎に囲まれた広場に、1981年、リチャード・セラの《傾いた弧》が設置された。庁舎の建設に伴って美術作品を発注する連邦の事業によるものである。作品は大きな鋼板の弧であり、広場を横切るように据えられていた。錆びた鋼の面が広場を二つに分け、そこを通る人は弧を回り込んで歩くことになる。

6.1 何が争われたのか

設置後、周辺の庁舎で働く人々から不満が寄せられた。広場を横切れなくなったこと、視界がさえぎられること、圧迫を感じること、広場が使いにくくなったこと。1985年には公開の聴聞会が開かれ、撤去を求める意見と存置を求める意見が対立した。存置を求めたのは主に美術の側であり、撤去を求めたのは主にその広場を日常的に使う人々であった。最終的に作品は1989年に撤去され、解体された。

この過程で作者が繰り返し述べたのは、作品はその場所のために作られたのであり、動かすことは作品を破壊することに等しい、という趣旨の主張であった。これは詭弁ではなく、第4節で見た彫刻概念の拡張から論理的に導かれる立場である。場所が作品の構成要素であるなら、場所から切り離された作品はもはや同じ作品ではない。しかし同じ論理は、反対の側からも使える。場所が作品の一部であるということは、その場所を日々使っている人々の生活もまた作品の一部だということである。だとすれば、その生活を無視して成立する場所固有性とは何なのか。

通り抜け聴聞会撤去場所固有性
図6論争の構図。作品の完全性を守る論理と、場所の使いやすさを求める論理が正面から衝突し、決定の正統性そのものが争点になった。

6.2 サイトという語がさしていたもの

ミウォン・クウォンは2002年の研究で、場所固有性という語が実際には三つの異なるものを指してきたと整理した。第一は現象学的・経験的なサイトである。地面の傾き、光、周囲の建物、そこを歩く身体。作品はこの物理的条件と不可分に結びつく。第二は社会的・制度的なサイトである。美術館、行政、助成制度、発注の枠組み。作品がどの制度の中で成立しているのかという次元である。第三は言説的なサイトである。ある主題、ある問題、ある共同体をめぐる議論の場としてのサイトであり、これは物理的には移動しうる。

この整理が重要なのは、場所固有性を主張することが必ずしも動かせないことを意味しないと示した点にある。物理的な場所に固着した作品もあれば、制度への批評として成立する作品もあり、議論の場をつくることを目的とする作品もある。したがって、ある作品を移設できるかどうかは、その作品がどの意味でのサイトに依拠しているかによって変わる。公園の彫刻について移設や撤去が議論されるとき、まず問うべきはこの点である。

6.3 論争のあとに来たもの

1990年代以降、公共空間の美術は、完成した物体を場所に置くという形式から離れる方向へ動いた。制作の過程に地域の人々が関わること、作品より関係や出来事を重視すること、期間を限って設置することなどである。ものを置かないパブリックアートという言い方も生まれた。これは論争の教訓を受けた変化だが、批判もある。関与の過程を重んじる形式は、美術を地域政策の道具にしやすく、また関与の質を評価する基準が確立しにくい。クウォンの研究は、この新しい形式についても、誰の場所に誰が入るのかという問いは消えていないと論じている。

日本の公園に置かれた彫刻の多くは、そもそもこの論争の外側にある。第5節で見たとおり、展覧会で発表された作品を後から取得して据える、あるいは事業の付随項目として配置するという手順が広く行われたため、作品は物理的なサイトのために作られてはいない。したがって、原理的には移設が可能である。しかしここに逆説がある。その場所のために作られていない作品でも、数十年そこにあり続ければ、地域の側に場所との結びつきが生じる。待ち合わせの目印になり、写真の背景になり、記憶の座標になる。後から発生したこの結びつきは、作者が意図した場所固有性ではないが、撤去や移設のときに現実に効いてくる。

註:後から発生する場所との結びつきは、リーグルのいう非意図的な記念物の価値に近い。作品としてではなく、そこに長くあったものとして意味を持ち始める。第7節で扱う背景化は、この価値が育つ条件でもある。

7. 見られない彫刻——背景化という受容の形式

ここから受容の側に移る。公園の彫刻について、最も広く観察されながら最も論じられてこなかった事実は、それが見られていないということである。多くの利用者は、公園にある彫刻の前を毎日のように通りながら、それが何をかたどっているか、いつからそこにあるかを言えない。本節はこの背景化を、注意力の欠如や教養の不足としてではなく、屋外の造形物に固有の受容の形式として記述する。

7.1 目立つように作られたものが目立たなくなる

ローベルト・ムージルが1936年の短い文章で述べたのは、記念碑ほど目につかないものはない、という逆説であった。記念碑は注意を引くために作られ、注意を引く場所に置かれる。それにもかかわらず、あるいはそれゆえに、日常のなかで見過ごされていく。ムージルの観察は、記念碑が失敗しているという批判ではなく、記念という企てに内在する構造の指摘として読むべきである。ある対象が動かず、変化せず、いつもそこにあるとき、知覚はそれを新しい情報として処理することをやめる。

ヴァルター・ベンヤミンは1936年の論考で、建築が気散じのうちに、つまり注意を集中しない状態で、視覚だけでなく身体の慣れを通して受容されると述べた。人は建築を見に行くのではなく、建築の中を通り、使う。公園の彫刻の受容は、絵画の受容よりも建築の受容に近い。人はそれを見に行くのではなく、その横を通る。したがって、彫刻が背景に沈むことは知覚の失敗ではなく、屋外の恒常設置物に対する正常な処理である。

見られない風化通り過ぎる経過した時間
図7背景化の仕組み。動かず変化しないものは新しい情報として処理されなくなり、記念の内容が薄れる一方で、古びていること自体が別の価値を帯びていく。

7.2 動線が見るものを決める

ミシェル・ド・セルトーは1980年の著作で、歩行者は都市という書かれたものを読むのではなく、歩くことによって書いていると論じた。都市計画が上から描く図と、地上を歩く人がたどる経路とは一致しない。公園でも同じことが起こる。設計図の上では中心軸の正面に据えられた彫刻が、実際の利用では、駐車場から遊具へ向かう最短経路の外側に外れていることがある。人は目的地に向かって歩き、彫刻はその視野の周辺に入るだけである。

この観点からすると、彫刻が見られるかどうかを左右するのは、作品の造形的な力ではなく、配置と動線と、そこに留まる理由の有無である。近くにベンチがあるか、日陰があるか、子どもを見守る保護者が立ち止まる位置にあるか。留まる理由がある場所に置かれた彫刻は繰り返し眺められ、通過するだけの場所にある彫刻は、どれほど大きくても背景になる。第10節で述べる踏査の記録項目に、彫刻そのものだけでなく周囲の座る場所と動線を含めるべき理由がここにある。

7.3 情報の摩耗と、意味の入れ替わり

背景化を加速するのが、情報の摩耗である。第3節で見たとおり、記念像は碑文によって意味を固定していた。銘板の文字が風化し、金属の板が失われ、あるいは最初から銘板が設けられていなければ、造形物は何を意味するのかを示す手がかりを失う。作者名も制作年もわからない造形物は、美術作品としてではなく、昔からある何かとして受け取られるようになる。

ここで、アロイス・リーグルの整理が効いてくる。意図的に記念のために作られたものが、時間の経過とともに意図された内容を失い、かわりに古びていること自体が価値を持ち始める。これは価値の消滅ではなく、価値の入れ替わりである。誰の像かわからなくなった像が、それでもその公園の目印として大切にされることがあるのは、記念の価値が失われたあとに年代の価値が残るからである。背景化は、記念の装置としては失敗だが、場所の一部になるという別の成功でもある。

この二重性は、対応の設計を難しくする。解説板を新設して情報を補えば記念の内容は回復するが、それによって人が立ち止まるようになるとは限らない。注意は情報量では買えないからである。逆に、何もしなければ由来は完全に失われ、将来の判断——修復するのか、移すのか、残すのか——の根拠まで失われる。したがって現実的な対応は、現地で人に読ませることと、記録として残すこととを分けて考えることである。前者は配置と動線の設計の問題であり、後者は台帳と記録の問題である。第9節で扱う管理の議論は、この後者に関わる。

なお、見られないことには実務上の利点もある。目立たない彫刻は論争を起こさず、苦情も来ない。第6節で見た論争は、作品が強く視界に入り、動線を変えたからこそ起きた。しかし裏返せば、見られないものは管理の対象からも落ちやすい。点検の巡回で確認されず、破損が発見されず、記録も更新されない。背景に沈むことは、日常の平穏と引き換えに、その造形物を制度の視界からも消してしまう。

8. 登られる彫刻——形が誘う行為と、制度の隙間

前節で見た背景化には例外がある。子どもである。大人が視界の端で処理してしまう造形物を、子どもはしばしば正面から発見する。ただしその発見の仕方は、美術の側が想定するものとは違う。子どもは彫刻を、何を表しているかによってではなく、何ができる形かによって受け取る。またがれるか、よじ登れるか、くぐれるか、隠れられるか。本節はこの受容を、誤った鑑賞としてではなく、別の正当な受容として記述し、そこから生じる制度上の問題を検討する。

8.1 形が行為を差し出す

ジェームズ・J・ギブソンが1979年に定式化したアフォーダンスという概念は、環境が動物にとっての行為の可能性を差し出しているという考え方である。人の膝ほどの高さの水平な面は座ることを差し出し、手がかりのある傾いた面は登ることを差し出す。重要なのは、この可能性が観察者の頭の中にあるのでも、物体の物理的性質だけにあるのでもなく、その両者の関係にあるという点である。同じ台座が、大人にとっては視線を上げる装置であり、身長の低い子どもにとっては段差の連なりになる。

第4節で述べたとおり、20世紀の彫刻は台座を降り、人と同じ地面に立つようになった。これは大人の鑑賞にとっては、回り込んで見るという経験の獲得であった。しかし子どもにとっては、触れられる高さに大きな造形物が現れたということである。低く据えられた滑らかな曲面、地面から立ち上がる斜めの板、抱えられる太さの柱。それらは、遊具としては設計されていないにもかかわらず、遊具と同じ行為を差し出す。

登れる形子どもの発見すり傷囲うか否か
図8形が行為を差し出す。遊具として設計されていない造形物が登ることを誘うとき、遊具の安全設計も点検の枠組みも及ばないという隙間が生じる。

8.2 遊具ではないが、遊ばれる

ここに制度の隙間がある。国土交通省の「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」は、公園に設置される遊具を対象として、設計・設置・点検・維持管理の考え方を示している。落下高さや安全領域といった概念、部位ごとの点検、日常的な巡視と定期的な点検の組み合わせは、遊具であることを前提に組み立てられている。彫刻はこの意味での遊具ではない。設計の段階で登られることが想定されておらず、遊具としての点検の対象にも入らないことがある。

つまり、彫刻は遊ばれるが、遊具としては管理されないという位置に置かれやすい。これは作品の側の問題でも、子どもの側の問題でもなく、分類の問題である。公園の中の物は、遊具か、修景施設か、便益施設か、といった区分で管理されており、彫刻は第9節で見るとおり修景施設に分類される。分類が決まると、点検の様式も予算の費目も決まる。実際の使われ方が分類とずれているとき、そのずれを埋める仕組みは自動的には働かない。

8.3 三つの対応と、それぞれが含意するもの

登られる彫刻への対応は、大きく三つに整理できる。それぞれに一貫した論理があり、同時に代償がある。

  • 触れさせない——柵や植栽で囲い、注意の表示を設ける。作品の表面は守られ、管理の責任範囲も明確になる。ただし彫刻は再び台座の上に戻り、日常から切り離される。第4節で見た台座からの離脱は、事実上取り消される。
  • 触れられることを織り込む——設置の段階で、周囲の地面の仕上げ、高さ、角、突起、隙間などを、人が触れ、登ることを前提に検討する。作品と利用が両立しうるが、設計の自由度は下がり、作者との協議が必要になる。
  • 何もしない——現状のまま置き、使われ方を成り行きに任せる。手間はかからないが、破損や表面の摩耗が進んでも把握されず、問題が起きてから初めて検討することになる。第7節で述べた、制度の視界から消える状態である。

どの対応が適切かは、造形物の形状、素材、周囲の状況、その公園の利用者層によって変わる。本稿は文献整理を方法とする論考であり、個別の安全上の判断を示す立場にない。実際の判断は、公園の管理者と、遊具や構造物の点検に関わる専門の機関に委ねられるべきである。ここで述べられるのは、この判断が美術の問題としてではなく、分類と管理の問題として立ち上がるという構造の指摘までである。

8.4 触られる彫刻の、もう一つの意味

最後に、触覚的な受容の積極的な面にも触れておきたい。第7節で見たとおり、見るだけの受容は背景化しやすい。これに対し、触れた記憶、登った記憶、またがった記憶は身体に残る。子どもの頃に登った公園の像を、大人になっても覚えているという経験は珍しくない。年月を経て場所との結びつきが生じるという第6節の論点は、触覚的な受容によっていっそう強く働く。つまり、登られる彫刻は、見られない彫刻よりも記憶される可能性が高い。

ただし、これは保存の観点とは正面から衝突する。触れられ続けた表面は摩耗し、塗装は剥がれ、金属は磨かれて色が変わる。ここでも、リーグルが整理した年代価値と、当初の姿を保つ価値との対立が現れる。摩耗を作品の損傷と見るか、その造形物がその場所で果たしてきた役割の痕跡と見るか。この判断は技術の問題ではなく、何を保存するのかという価値の選択である。次節では、この選択が日本の法制度のなかでどのように枠づけられているかを見る。

9. 制度と管理——修景施設としての彫像、権利、保存

公園の彫刻は、美術の制度と公園の制度という、二つの制度に同時に属している。この二重の帰属が、清掃から撤去にいたるまでの実務を難しくする。本節は日本の法令に即して、彫刻がどう位置づけられているかを確認し、そこから生じる管理上の論点を整理する。なお、以下は制度の枠組みの説明であり、個別の事案についての法的な判断ではない。実務上の判断は、公園の管理者と、必要に応じて法律・保存修復の専門家に委ねられる。

9.1 法令上、彫像は「景色をつくる設備」である

都市公園法は、公園に設けることのできる施設をいくつかの種類に分けている。その一つが修景施設であり、施行令は修景施設として、植栽、花壇、噴水、水流、池、滝、彫像、灯籠、石組、飛石などを挙げている。つまり法令上、彫像は美術作品としてではなく、公園の景色を整えるための設備として位置づけられている。花壇や灯籠と同じ列に置かれているのである。

この位置づけの帰結は小さくない。第一に、予算の費目が施設の維持管理になる。作品の保存修復ではなく、施設の補修として扱われる。第二に、点検の様式が施設の点検になる。第8節で見たとおり、遊具の点検体系にも入らないため、目視による巡視の対象にとどまることがある。第三に、記録の様式が施設台帳になる。作者・素材・制作年・来歴といった、美術作品にとって不可欠な情報が、台帳の項目に含まれていなければ残らない。第7節で述べた情報の摩耗は、現地の銘板だけでなく、制度の記録の側でも進む。

修景施設記録点検権利の層
図9彫像は法令上、花壇や灯籠と並ぶ修景施設に位置づけられる。設備として管理されながら、作品としての権利も伴うため、扱いが二重になる。

9.2 屋外の美術作品に与えられた特別の扱い

他方、著作権法の側では、屋外に置かれた美術作品には特別の規定が置かれている。著作権法第46条は、美術の著作物でその原作品が屋外の場所に恒常的に設置されているものについて、原則として方法を問わず利用できると定める。ただし例外があり、彫刻を彫刻として増製すること、その増製物を公衆に譲渡すること、そして専ら複製物の販売を目的として複製し販売することなどは除かれる。この規定があるため、公園に恒常的に置かれた彫刻を撮影し、その写真を紹介の記事に用いることは、広く認められている。

しかし、自由に利用できることと、自由に扱えることは別である。著作者には著作者人格権があり、公表権、氏名表示権、同一性保持権が定められている。氏名表示権があるため、銘板から作者名を外すことは問題になりうる。同一性保持権があるため、著作者の意に反して作品を改変することは原則としてできない。塗り直し、部材の交換、欠損部の補作、彩色の変更は、修復であると同時に改変でもある。法にはやむを得ないと認められる改変を許す規定もあるが、その範囲は個別の事情による。また、著作者が存しなくなった後にも、人格的な利益を保護する規定が置かれている。

9.3 所有していることと、権利を持つこと

ここで混同されやすいのが、所有権と著作権の関係である。日本の判例は、所有権が有体物を客体とする権利であって、無体物である著作物そのものを支配する権利ではないことを示している。最高裁が1984年に示した判断は、この区別を明確にしたものとして広く参照される。自治体がある彫刻を所有していることは、その彫刻を作品として自由に扱えることを意味しない。像を撤去して倉庫に入れることは所有物の管理として行いうるとしても、形を変えて設置し直すことは別の問題を生じさせる。

観点修景施設(設備)として扱う場合美術の著作物(作品)として扱う場合
主な根拠都市公園法施行令の修景施設著作権法の美術の著作物に関する規定
主な担い手公園の管理部局著作者およびその人格的利益
日常の扱い清掃・塗り直し・部材の補修現状の記録と、素材に応じた保存の検討
改変管理上の必要から判断されやすい同一性保持権に照らした慎重な検討を要する
移設・撤去施設の再編として判断される作品の成立条件に関わる問題になりうる
記録施設台帳の一項目作者・制作年・素材・来歴・当初の設置状況

9.4 何を保存するのか

屋外の彫刻は、屋内の作品に比べて劣化が速い。金属は腐食し、石は風化し、塗装は退色し、樹脂は劣化する。鳥の営巣、植栽の生長による接触、地盤の沈下も起こる。ここで問われるのが、第7節と第8節で繰り返し現れた問いである。何を保存するのか。当初の姿か、その造形物がその場所で経てきた時間の痕跡か。リーグルが年代価値と呼んだものを重視すれば、風化はむしろ残すべき情報になる。当初の姿を重視すれば、風化は除去すべき損傷になる。

この対立に一般的な正解はない。ただし、どちらを選ぶにせよ、選択の前提として現状の記録が必要であるという点は共通する。写真、寸法、素材、周囲の状況、銘板の文言。記録がなければ、修復の適否を後から検証することも、失われたあとに何があったかを伝えることもできない。第10節で述べるとおり、公園のデータベースが彫刻について果たしうる役割は、まずこの記録の側にある。

註:著作権法第46条によって利用が広く認められるのは、屋外の場所に恒常的に設置されている原作品の場合である。同じ彫刻でも、屋内に置かれたものや、期間を限って設置されたものは前提が異なる。撮影と公開にあたっては、作品の権利とは別に、写り込む人への配慮という論点も残る。

10. 磐田市の公園への示唆

ここまでの整理を、当サイトが対象とする磐田市の公園に当てはめる。あらかじめ断っておくが、当サイトの現地踏査はまだ始まっておらず、踏査済の園は0園である。したがって本節は、市内のどの公園にどのような彫刻があるかを述べるものではない。述べられるのは、公開されているデータの構造から何が読み取れるか、そして今後の踏査で何を記録すべきか、という二点である。

10.1 データベースの上で、彫刻は見えない

当サイトが収録する磐田市の公園は100園である。内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、法対象外6園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園となっている。このうち市の施設ガイドに個別ページがある園は77園である。オープンデータで各園について公開されているのは、名称・地区・種別・面積のほか、トイレ、車いす対応トイレ、砂場、遊具の有無という四つのフラグである。

この四項目の中に、彫像や記念碑にあたる項目はない。また、市の施設ガイドの園内施設欄に並ぶのは、遊具の種類、トイレ、広場、グラウンド、噴水、駐車場といった記載であり、当サイトが把握している範囲では、彫像や記念像を名指しした記載は見当たらない。これは市内の公園に彫刻が存在しないことを意味するのではない。記録の枠組みに、それを書き込む欄がないということである。第9節で見たとおり、彫像は法令上は修景施設に分類されるが、施設情報として公開される項目には修景施設の内訳が含まれていない。第7節で述べた情報の摩耗が、現地の銘板だけでなくデータの側でも起きている、というのが本稿の読み方である。

9地区公開データ撮影と記録踏査項目
図10磐田市の公園データには彫刻を書き込む欄がない。存在しないのではなく、記録の枠組みに項目がない。踏査の設計はここから始まる。

10.2 種別と規模から予測できること

第3節から第5節で見た歴史を踏まえると、種別ごとに置かれ方の傾向を予測することはできる。街区公園は国の標準で0.25ha程度、誘致距離250m程度とされる小さな公園であり、磐田市では51園と最も多い。この規模の公園に造形物が置かれるとすれば、記念像というより、点景としての小さな造形か、地域の記念を担う碑の類になりやすい。これに対し、総合公園3園、地区公園4園、運動公園3園といった規模の大きな園は、式典や集会の舞台になりうるため、記念性の高い設置が起こりやすい条件を備えている。面積で見ると、竜洋海洋公園の221,722㎡から二之宮東第2緑地の17㎡まで、四桁の開きがある。

第3節で述べた名所型の系譜に連なる園も存在する。歴史公園に分類される遠江国分寺史跡公園、風致公園3園、そして市の施設ガイドが園内施設として一ノ谷遺跡を挙げる一ノ谷公園、京見塚古墳を挙げる京見塚公園である。これらは、公園になる前から意味を持っていた場所が公園という枠に収まった例であり、太政官布達以来の名所型の性格を引き継いでいる。こうした園では、造形物が置かれる場合にも、場所の側にすでにある意味との関係が問題になる。

修景施設という区分で見ると、市の施設ガイドの記載から読み取れるものがある。今之浦公園の噴水広場と流れ、安久路公園の流れ、豊田香りの公園のカスケード、竜洋川袋公園と福田ふるさと公園の築山、豊田熊野記念公園の熊野の長藤。これらはいずれも、遊具でも便益施設でもなく、景色をつくるための設えである。第9節で確認したとおり、彫像はこれらと同じ区分に属する。磐田市の公園において修景がどう扱われてきたかを読むには、まずこの系列に注目することになる。

10.3 踏査で何を記録するか

以上を踏まえ、今後の踏査で造形物に出会ったときに記録すべき項目を、本稿の議論から導いて提案する。作品の良し悪しを評価するのではなく、置かれ方の構造を記録するための項目である。

  • 現物の基本——位置(園内のどこか)、おおよその大きさ、素材の見え方、台座の有無と高さ、基礎や縁石など地面との境界の作られ方。
  • 銘板と文字——銘板があるか、何が書かれているか、読めるか。作者名・制作年・寄贈者・碑文の全文。読めない場合は読めないことを記録する。
  • 受容の痕跡——手や足が触れた跡、塗装の剥がれ方、登られていることをうかがわせる摩耗、周囲の踏み跡。
  • 見られる条件——最寄りの動線からの距離、周囲にベンチや日陰があるか、正面と考えられる向きがどこを向いているか。
  • 状態——腐食、欠損、傾き、植栽との接触、周囲の排水。ただし安全上の判断は行わず、気づいた事実の記録にとどめる。
  • 撮影——全体、銘板、地面との接続部の三点を基本とする。屋外に恒常的に設置された美術の著作物については、著作権法に利用を広く認める規定があるが、写り込む人への配慮は別に必要である。

これらは、いずれも一度の訪問で記録できる項目である。逆にいえば、記録しなければ数年後には確かめられなくなる項目でもある。第9節で述べたとおり、修復するか、移すか、残すかという将来の判断は、現状の記録があって初めて検証可能になる。公園のデータベースが彫刻について果たしうる役割は、評価を下すことではなく、この記録を積むことにある。市内の公園の管理は都市整備課(電話 0538-37-4806)が担っており、記録が問い合わせの手がかりになる場合もある。

註:本節で挙げた園名・園数・種別・面積・地区の数値は、磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」および市の施設ガイドの記載に基づく。園内の造形物については、当サイトはまだ現地で確かめていない。踏査が進んだ段階で、本節の記述は具体的な記録に置き換えられるべきものである。

11. 結論と今後の課題

本稿は、公園に置かれた彫刻を、作品の芸術的な評価によってではなく、置かれ方の構造によって記述することを試みた。歴史的な型、制度、受容という三つの層に分けて検討した結果、次の三点が示された。

11.1 三つの結論

第一に、近代日本で成立した記念像の型——人物・台座・碑文——は、抽象彫刻の時代になっても、公園における彫刻の受け取られ方を規定し続けている。人物でも記念でもない造形物の前で、利用者がまず銘板を探し、何を意味するのかを問うのは、この型が残した習慣である。1960年代以降の彫刻が台座を降り、鑑賞者の身体と場所を作品の条件に組み込んだこと(第4節)と、公園の利用者が依然として記念像の読み方を持ち込むこととの間には、ずれがある。このずれは、作品が説明不足だからでも、利用者の理解が足りないからでもなく、二つの異なる歴史が同じ場所に重なっているために生じる。

第二に、公園の彫刻は見に行かれる対象ではなく通りすがりに受容されるため、背景に沈む。これは知覚の失敗ではなく、屋外の恒常設置物に対する正常な処理である(第7節)。背景化は記念の装置としては機能の低下だが、同時に、その造形物が場所の一部になっていく過程でもある。そして子どもにとっては、同じ造形物が登れる形として発見される(第8節)。見られないことと登られることは、一見正反対だが、どちらも作品として鑑賞されないという同じ条件から生じている。

第三に、制度上、彫像は公園の景色をつくる修景施設に位置づけられる一方、著作権法上は美術の著作物としての扱いを受ける(第9節)。この二重の帰属のために、清掃や塗り直しといった日常の管理から、移設・撤去といった大きな判断にいたるまで、設備の論理だけでは決められない。所有していることと権利を持つことは別であり、記録がなければ判断の検証もできない。

記録が先文献の整理踏査の記録今後の課題
図11本稿の到達点。評価を急がず、置かれ方を記録することを先に置く。記録は将来の判断を検証可能にするための土台である。

11.2 実践的な含意——評価より先に記録を

以上から導かれる実践的な含意は単純である。公園の彫刻について、良い悪い、残す残さないを議論する前に、何がどこにどういう状態であるのかを記録することである。第6節で見た論争が示したのは、決定の正統性が問われる場面では、作品の質をめぐる議論が必ずしも役に立たないということであった。役に立つのは、誰が、いつ、どのような経緯で置き、その後どう使われてきたかという事実である。これらは記録がなければ失われる。

この含意は、当サイトのような公園のデータベースにとって直接的な指針になる。第10節で挙げた記録項目は、専門的な知識を必要としない。位置、大きさ、素材の見え方、台座の有無、銘板の文言、触れられた痕跡、周囲の動線と座る場所。これらを踏査のたびに積み重ねることが、将来の判断の材料になる。評価は、記録が十分に集まったあとに、必要になったときに行えばよい。

11.3 本稿の限界

本稿には三つの限界がある。第一に、方法が文献整理と概念分析に限られ、現地の観察に基づいていない。磐田市の公園については踏査済0園であり、第10節の記述は公開データの構造分析にとどまる。第二に、日本の地方都市における彫刻設置事業について、体系的に整理された資料が乏しく、全国的な傾向を数量的に述べることができなかった。本稿が個別の作品名・作者名・設置年をほとんど挙げていないのは、この制約を誤った具体性で埋めないためである。第三に、屋外彫刻の保存修復については技術的な蓄積があるが、本稿はその内容に立ち入っていない。

11.4 今後の課題

今後の課題として、次の四点を挙げる。第一に、踏査による記録の蓄積である。100園を順に歩き、第10節の項目に沿って記録することで、磐田市の公園における造形物の分布と状態が初めて記述可能になる。第二に、地区ごとの比較である。当サイトの9地区区分では、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園と園数の偏りがあり、市街地の成り立ちや開発の時期が異なる。造形物の置かれ方にも差が現れる可能性がある。

第三に、設置の経緯に関する資料の調査である。寄贈によるものか、事業によるものか、記念のためか、景観のためか。この情報は現地の銘板と行政の記録の双方に散在しており、両者を突き合わせて初めて確定する。第四に、他の分野との接続である。第8節で扱った登られる彫刻の問題は生態心理学のアフォーダンス論と、第7節で扱った背景化は環境心理学や都市の景観論と、第9節で扱った制度の問題は行政法や公園管理の実務と接続している。公園という一つの場所を、複数の学問領域から重ねて記述することが、当サイトの論文シリーズ全体の課題である。

最後に、本稿があえて行わなかったことを再度述べておく。本稿は、いかなる作品についても、すぐれているとも不要とも述べていない。公園にある造形物は、置かれた瞬間に、置いた人の意図から離れて場所の一部になる。そのあとに起こることを引き受けるのは、作者でも発注者でもなく、その公園を使う人々と、その公園を管理する人々である。彫刻をどう扱うかという問いは、したがって、その公園をどういう場所にしたいのかという問いと切り離せない。この問いに答えを出すのは本稿の役割ではなく、記録を積み、判断の材料を整えることが、当面の役割である。

参考文献

  1. アロイス・リーグル(1903)『Der moderne Denkmalkultus(記念碑の現代的崇拝——その特質と起源)』(Wien)
  2. ローベルト・ムージル(1936)『生前の遺稿』(Nachlass zu Lebzeiten)所収「記念碑」
  3. ヴァルター・ベンヤミン(1936)『複製技術時代の芸術作品』(野村修訳ほか、岩波現代文庫 ほか)
  4. ドナルド・ジャッド(1965)「Specific Objects」(Arts Yearbook 8)
  5. ロバート・モリス(1966)「Notes on Sculpture」(Artforum)
  6. マイケル・フリード(1967)「Art and Objecthood」(Artforum)
  7. ロザリンド・クラウス(1979)「Sculpture in the Expanded Field」(October 誌/邦訳『オリジナリティと反復』所収、リブロポート、1994)
  8. ミウォン・クウォン(2002)『One Place After Another: Site-Specific Art and Locational Identity』(MIT Press)
  9. ジェイムズ・E・ヤング(1993)『The Texture of Memory: Holocaust Memorials and Meaning』(Yale University Press)
  10. ジェームズ・J・ギブソン(1979)『生態学的視覚論』(古崎敬ほか訳、サイエンス社、1985)
  11. ミシェル・ド・セルトー(1980)『日常的実践のポイエティーク』(山田登世子訳、国文社、1987)
  12. ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中公文庫、1973)
  13. 著作権法(昭和45年法律第48号)第18条〜第20条・第46条・第60条
  14. 最高裁判所判決 昭和59年1月20日(顔真卿自書建中告身帖事件。所有権と著作権の区別を示した判例)
  15. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(修景施設に彫像を含む。国土交通省 都市公園のページ)
  16. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  17. 一般社団法人日本公園緑地協会
  18. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  19. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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