人文学歴史学

日本の公園史——1873年太政官布達から都市公園法(1956年)、そして児童公園の時代へ

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:歴史学 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,091字 読了目安 38分

要旨

本稿の目的は、日本における「公園」という制度と場所が、いつ、どのような考えのもとに生まれ、どのように姿を変えて今日の街区公園に至ったのかを、確実な年号と制度名にもとづいて通史として叙述することである。方法は法令・公文書と、公園史研究の基本文献の整理による文献研究であり、対象は明治6年(1873年)の太政官布達第16号から、平成29年(2017年)の都市公園法改正までのおよそ150年間である。

本稿は日本の公園史を五つの画期で区切る。第一に、社寺の境内地などを「群集遊観ノ場所」として指定した1873年の太政官布達であり、ここでは公園は既存の名所を引き継ぐ場所であった。第二に、東京市区改正条例(1888年)を経て開園した日比谷公園(1903年)と旧都市計画法(1919年)であり、公園は都市計画によって新たにつくる施設となった。第三に、関東大震災(1923年)後の復興小公園であり、小学校に隣接する小さな公園という、その後の児童公園につながる生活圏の公園の原型が現れた。第四に、戦後の都市公園法(1956年)であり、公園を守るための法律が公園の種別と標準を定め、児童公園という制度上の名称が生まれた。第五に、高度成長期の量的整備を経た1993年の街区公園への改称と、2017年改正に至る「量から質へ」「つくることから使うことへ」の転換である。

この通史から本稿が引き出す結論は、今日の街区公園が「子どものための小さな公園」として当たり前に存在しているのは自然の成り行きではなく、震災復興・戦後立法・高度成長という三つの時代の判断が積み重なった結果である、ということである。最後に、磐田市の都市公園100園のうち51園を占める街区公園、歴史公園である遠江国分寺史跡公園、古墳や遺跡を含む園などを、この通史のどの層に属するかという観点から読み直し、当サイトの今後の踏査課題を示す。

キーワード太政官布達第16号日比谷公園復興小公園都市公園法児童公園街区公園磐田市

1. はじめに——問題の所在

住宅地の角に、ブランコと滑り台と砂場のある小さな公園がある。多くの人にとってそれは生まれたときから「そこにあるもの」であり、誰がいつ何のためにつくったのかを問う機会はほとんどない。しかし公園は自然物ではない。土地を確保し、法律で守り、予算をつけて整備し、名前をつけて管理する、という一連の人間の判断の産物である。そしてその判断は時代ごとに大きく異なっていた。本稿は歴史学の立場から、日本の公園がどのような判断の積み重ねによって今日の姿になったのかを、確実な年号と制度名にもとづいて通史として叙述することを目的とする。

歴史学から公園を論じる意味は二つある。第一に、現在の公園の形——たとえば街区公園が0.25haを標準とし、誘致距離250mで配置され、遊具と広場と便所を備えるという形——は、ある時点で誰かが選んだ設計であって、別の選択もありえた、という当たり前の事実を思い出させることである。第二に、公園をめぐる今日の議論、たとえば「使われない公園」「禁止事項の多い公園」「少子化と公園の再編」といった論点の多くが、実は過去のどこかで一度は論じられ、あるいは過去の判断の帰結として生じているものであることを示すことである。歴史は答えを与えないが、問いの立て方を整える。

1.1 本稿の問い

本稿の中心的な問いは次の三つである。第一に、日本で「公園」という制度はいつ、何を目的として始まったのか。第二に、公園はどの時点で「名所を引き継ぐ場所」から「都市計画でつくる施設」へ、さらに「住宅地の生活圏に配置する小さな公園」へと性格を変えたのか。第三に、今日「児童公園」ないし「街区公園」と呼ばれる小公園の量的な整備は、どのような制度と時代背景によって進んだのか。これらの問いに答えることで、本稿は「街区公園はなぜ今の形をしているのか」という素朴な疑問に、歴史学の側から一つの見通しを与えたい。

1.2 方法と資料

方法は文献研究である。第一次資料としては、太政官布達第16号(1873年)、東京市区改正条例(1888年)、旧都市計画法(1919年)、都市公園法(1956年)とその施行令、都市公園等整備緊急措置法(1972年)などの法令・公文書を用いる。第二次資料としては、田中正大『日本の公園』(1974)、佐藤昌『日本公園緑地発達史』(1977)、丸山宏『近代日本公園史の研究』(1994)、白幡洋三郎『近代都市公園史の研究』(1995)、小野良平『公園の誕生』(2003)といった公園史の基本文献、および越沢明・石田頼房らの都市計画史の研究を参照する。年号・制度名は法令に照らして確実なものに限り、研究者の間で見解の分かれる評価については断定を避ける。

文献研究150年名所から小公園へ
図1本稿の方法と射程。1873年から2017年までのおよそ150年を、法令と公園史の基本文献にもとづいて、名所の継承から生活圏の小公園までの変化として叙述する。

1.3 用語について

本稿では、法令上の名称と一般的な呼び方を区別して使う。「都市公園」は都市公園法にもとづき地方公共団体または国が設置する公園の法律上の名称であり、その種別として街区公園・近隣公園・地区公園・総合公園・運動公園などがある。「児童公園」は1956年の都市公園法施行令で定められ、1993年に「街区公園」へ改称された種別名である。一方、「児童遊園」は児童福祉法(1947年)にもとづく児童厚生施設であり、都市公園とは別の制度に属する。「小公園」は法令用語ではなく、震災復興期の「復興小公園」など、規模の小さな公園を指す歴史的・一般的な呼び方として用いる。読者が日常で使う「近所の公園」は、制度的にはこれらのいずれかに属するが、外見からは区別しにくいことが多い。

1.4 本稿の構成

第2節では先行研究を整理し、公園史を読む三つの視点——名所の継承、都市計画施設としての公園、生活圏の小公園——を提示する。第3節は1873年の太政官布達、第4節は市区改正から日比谷公園(1903年)と旧都市計画法(1919年)まで、第5節は関東大震災(1923年)後の復興小公園から戦時・戦災復興期まで、第6節は都市公園法(1956年)による制度の確立と児童公園の誕生、第7節は高度成長期の量的整備から1993年の街区公園への改称、2017年改正までを扱う。第8節では磐田市の公園100園をこの通史に照らして読み直し、第9節で結論と今後の課題を述べる。なお当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園のデータベースであり、現地踏査はこれからである。本稿で磐田市の個々の公園について述べる事実は、市のオープンデータと施設ガイドの記載にもとづくものに限る。

2. 先行研究と概念の整理——公園史を読む三つの視点

「公園」という言葉は、英語のパブリック・パーク(public park)の訳語として明治初期に定着した。ただし、訳語の成立と制度の成立は同じではない。本節ではまず、日本が受け入れた西欧の公園がどのようなものであったかを簡単に確認し、次に日本の公園史研究がこの受容と展開をどう描いてきたかを整理して、本稿が用いる三つの視点を導く。

2.1 西欧のパブリック・パーク——都市問題への応答として

西欧の近代公園は、19世紀の産業都市の問題への応答として生まれた。イギリスでは1833年に議会の「公共散歩道に関する特別委員会」が設けられ、過密な工業都市に住む人々に戸外の散策の場を与える必要が論じられた。1847年に開園したバーケンヘッド公園(設計ジョゼフ・パクストン)は、公費で土地を取得し、初めから市民のために設計された公園の早い例とされる。アメリカでは、ニューヨークのセントラル・パークが1858年の設計競技でフレデリック・ロー・オルムステッドとカルヴァート・ヴォークスの案(グリーンズワード案)を採用し、都市の中に大規模な風景式の公園を置くという型を確立した。これらに共通するのは、公園が衛生・保健・道徳の改善という都市政策の目的をもち、行政が計画的につくる施設であった、という点である。

一方、遊び場としての小公園は、これとはやや別の系譜をもつ。アメリカでは1880年代のボストンで子どものための砂場(サンド・ガーデン)が置かれ、1906年には遊び場運動の全国組織が結成された。子どもの遊び場を都市に計画的に配置するという考えは、20世紀に入ってから世界的に広まったものであり、日本の児童公園もこの流れと無関係ではない。ただし本稿の主題は日本の制度史であるため、西欧については以上の輪郭にとどめる。

2.2 日本の公園史研究——名所からの連続と断絶

日本の公園史を体系的に叙述した早い業績として、田中正大『日本の公園』(1974)と佐藤昌『日本公園緑地発達史』(1977)がある。前者は建築・造園の側から公園の形態と思想の変遷を追い、後者は行政資料を丹念に集めて制度と事業の歩みを年代順に記録した通史であり、以後の研究の土台となった。1990年代には丸山宏『近代日本公園史の研究』(1994)と白幡洋三郎『近代都市公園史の研究——欧化の系譜』(1995)が相次いで刊行され、明治期の公園がどの程度まで西欧の模倣であり、どの程度まで江戸以来の名所・行楽地の延長であったかという問いが掘り下げられた。白幡は日比谷公園を「欧化」の到達点として位置づけつつ、その受容が単純な模倣ではなかったことを示している。

2000年代には小野良平『公園の誕生』(2003)が、太政官布達によって「公園」とされた場所の多くが江戸時代からの名所や社寺境内であったことに注目し、公園という新しい制度が既存の場所の使われ方の上に重ねられていった過程を描いた。都市計画史の側からは、越沢明『東京都市計画物語』(1991)が帝都復興事業における公園の位置づけを、石田頼房『日本近代都市計画の百年』(1987)が都市計画法制の中での公園の扱いを、それぞれ明らかにしている。これらの研究に共通する見取り図は、日本の公園が「名所の継承」「都市計画施設」「生活圏の小公園」という三つの性格を、時代を追って重ねてきた、というものである。

名所の継承都市計画施設生活圏の小公園
図2公園史を読む三つの視点。日本の公園は、名所を引き継ぐ場所、都市計画でつくる施設、住宅地に配置する小さな公園という三つの性格を、時代を追って重ねてきた。

2.3 本稿の三つの視点

本稿はこの見取り図を受け、以下の三つの視点を通史の軸として用いる。第一の視点は名所の継承である。公園は明治初期、既にあった名所・境内地・行楽地に「公園」という名を与えることから始まった。ここでの公園は、新たにつくるものではなく、失われないよう指定して守るものであった。第二の視点は都市計画施設としての公園である。市区改正条例と旧都市計画法によって、公園は道路や上下水道と並ぶ都市の基盤施設となり、更地に新しく設計してつくるものになった。第三の視点は生活圏の小公園である。関東大震災後の復興小公園に原型が現れ、戦後の都市公園法で「児童公園」として制度化され、高度成長期に量的に整備された、住宅地の中の小さな公園である。

視点主な時期公園のとらえ方代表例・制度
名所の継承1873年〜明治中期既存の名所・境内地を指定して守る太政官布達第16号、上野・芝・浅草・深川・飛鳥山
都市計画施設1888年〜大正期都市計画によって新たに設計しつくる東京市区改正条例、日比谷公園、旧都市計画法
生活圏の小公園1923年〜現在住宅地・学校の近くに小さく配置する復興小公園、都市公園法の児童公園、街区公園

この三つは時代順に現れるが、前の性格が後の時代に消えるわけではない。今日の都市公園にも、社寺や史跡と一体の風致公園・歴史公園(名所の継承)、都市計画で位置づけられた総合公園・運動公園(都市計画施設)、住宅地の街区公園(生活圏の小公園)が並存している。通史を三つの層として読むことで、目の前の一つの公園がどの層に属するかを見分ける手がかりが得られる。第8節で磐田市の公園を検討する際にも、この三層の見取り図を用いる。

3. 太政官布達第16号(1873年)——「群集遊観ノ場所」としての公園

日本の公園制度の出発点は、明治6年(1873年)1月15日に太政官が府県に宛てて発した布達第16号である。太政官とは明治初期の中央政府の最高機関であり、布達とはその命令・通達をいう。この布達は、人が多く集まる土地にある古来の景勝地や名所旧跡で、これまで「群集遊観ノ場所」——大勢の人が集まって遊び眺める場所——となってきたところを、永く「万人偕楽ノ地」として「公園」と定めるよう、府県に候補地を選んで伺い出させたものである。ここで「公園」という語が、制度上の名称として初めて用いられた。

3.1 布達の背景——社寺領の上知と名所の行方

布達を理解するには、その直前の土地政策を知る必要がある。明治政府は明治4年(1871年)に社寺領上知令を出し、寺社が江戸時代から保有していた広い土地のうち、境内地以外を国に収めさせた。この結果、江戸の人々が花見や参詣で親しんできた社寺の周辺地は、所有と管理があいまいなまま放置され、荒廃したり払い下げられて宅地になったりする恐れが生じた。太政官布達は、こうした土地のうち人々が集まる名所を「公園」として指定し、払い下げや転用から守る仕組みとして機能した。つまり日本最初の公園は、新たにつくるものではなく、失われかけた名所を制度によって守るものであった、というのが公園史研究の一致した理解である。

布達は公園の整備費用を国が負担するものではなかった。指定された公園は府県が管理し、園内の茶店や貸席などからの地代収入で維持費を賄うことが多かったとされる。この点で、明治初期の公園は「行政が予算を投じてつくる施設」ではなく、「行政が名前を与えて守る場所」であった。西欧のパブリック・パークが公費で土地を買い、設計者を雇い、市民のために新たに造成されたのとは、出発点の性格が大きく異なる。

3.2 東京府の五公園——上野・芝・浅草・深川・飛鳥山

布達を受けて東京府が指定した最初の公園は、上野(寛永寺境内)、芝(増上寺境内)、浅草(浅草寺境内)、深川(富岡八幡宮境内)、飛鳥山の五か所である。上野・芝・浅草・深川はいずれも大寺社の境内地であり、飛鳥山は江戸時代に八代将軍徳川吉宗が桜を植えさせて以来の花見の名所である。五つとも江戸の人々が既に「遊観」してきた場所であり、布達の文言どおり、名所がそのまま公園になった。上野については、寛永寺の跡地に病院や医学校を建てる計画があったところ、オランダ人医師ボードワンが緑地として残すよう進言したという逸話が広く知られているが、逸話の細部については研究者の間で検討が続いている。

境内地花見の名所群集遊観公園と指定
図31873年の太政官布達の仕組み。社寺の境内地や花見の名所など、人々が既に集まっていた場所に「公園」という名を与え、払い下げや転用から守った。

指定後の五公園のうち、上野公園はその後の歩みがとりわけ象徴的である。1877年(明治10年)には第1回内国勧業博覧会の会場となり、1881年、1890年の博覧会もここで開かれた。1882年には博物館と動物園が開かれ、公園は花見の名所であると同時に、博覧会・博物館・動物園といった近代の文化施設を受け入れる場所となった。名所として指定された土地に、新しい時代の施設が次々と重ねられていったのである。この「既存の名所に近代の機能を重ねる」というあり方は、太政官布達型の公園の典型であり、公園を一から設計してつくる次の時代とは対照的である。

同じ仕組みは全国の府県に及び、各地で城跡・社寺境内・景勝地が公園に指定されていった。城跡の公園化はその後の日本の公園の大きな特徴の一つであり、廃城となった城郭の跡地が「城址公園」として今日まで残っている例は多い。これらもまた、新たにつくられたのではなく、既にあった場所に公園という名が与えられたものである。したがって明治初期の公園は、場所ごとに個性が強く、桜の名所、参詣の場、眺望の地、城跡というように、公園になる前の性格をそのまま持ち込んでいた。

3.3 名所型の公園が残したもの

太政官布達型の公園には、二つの遺産がある。第一に、公園を「守る制度」として始めたことである。日本の公園制度は、つくる制度である前に守る制度として出発したのであり、この性格は後の都市公園法(1956年)における「都市公園の保存」の規定にも引き継がれている。第二に、公園に既存の名所や史跡が含まれるという事実である。今日の風致公園・歴史公園という種別、あるいは街区公園でありながら古墳や遺跡を園内に含む例は、公園が名所・史跡を引き継ぐものであった出発点を思い出させる。第8節で見るように、磐田市の公園にも遺跡や古墳を園内にもつ園があり、それらは制度上は近代以降の都市公園でありながら、性格としては名所型の公園の系譜に連なると読むことができる。

一方で、名所型の公園には限界もあった。指定は既存の名所に依存するため、名所のない新しい市街地には公園が生まれない。人口が急増し、市街地が拡大する時代には、名所を待つのではなく、公園を計画的につくる仕組みが必要になる。この必要に応えたのが、次節で扱う市区改正と都市計画の時代である。

4. 市区改正から日比谷公園(1903年)へ——都市計画施設としての公園の成立

名所を指定する時代の次に来たのは、公園を都市の設計図の中に書き込む時代である。その転換点は、明治21年(1888年)の東京市区改正条例と、それにもとづく市区改正設計、そして明治36年(1903年)に開園した日比谷公園である。本節では、公園が「守るもの」から「計画してつくるもの」へと性格を変えた過程を追う。

4.1 東京市区改正条例(1888年)——道路・河川・公園を一体で計画する

東京市区改正条例は、江戸の町並みをそのまま引き継いでいた東京を、近代国家の首都にふさわしい市街地に改造するために定められた勅令である。「市区改正」とは今日の言葉でいえば都市計画にあたり、道路の拡幅、河川・橋梁の整備、上水道の敷設などとともに、公園の配置がその内容に含まれた。翌1889年に告示された市区改正設計では、市内に大小の公園を配置する計画が示され、公園は道路や水道と同じく、都市の基盤として計画的に確保すべき施設として位置づけられた。これは太政官布達の「名所を守る」発想からの明確な転換である。もっとも、市区改正事業は財政の制約から道路・水道が優先され、公園の整備は遅れがちであったとされる。

市区改正のもとで公園を「新たにつくる」ことの意味は大きい。名所型の公園では、公園になる前からその土地に人が集まる理由があった。これに対し、更地に公園を設計する場合、設計者は「人はなぜここに来るのか」「来た人は何をするのか」を最初から構想しなければならない。この問いに正面から答えたのが日比谷公園であった。

4.2 日比谷公園(1903年)——設計された最初の洋風公園

日比谷公園は、江戸時代の大名屋敷地が明治になって陸軍の練兵場となり、市区改正設計で公園と定められた土地に、明治36年(1903年)6月に開園した。設計には林学者の本多静六が中心的に関わり、ドイツの公園を参考にした幾何学的な花壇、芝生広場、洋風の音楽堂と休憩所、池と樹林などを組み合わせた構成がとられた。日比谷公園は、日本で初めて公園として一から設計され造成された本格的な洋風公園とされ、以後の日本の公園設計に大きな影響を与えた。白幡洋三郎(1995)はこれを近代日本の公園における「欧化」の一つの到達点として位置づけている。

日比谷公園がもたらしたものは、形態だけではない。第一に、「公園は設計するものだ」という職能の成立である。造園や林学の専門家が公園を設計するという考えが、ここで公に認められた。第二に、公園が政治的・社会的な集会の場としても使われるようになったことである。開園後の日比谷公園は、明治末から大正にかけて大規模な集会や演説会の舞台となり、公園が都市の公共空間として機能する場面を示した。第三に、洋風の花壇や芝生、噴水といった要素が「公園らしさ」の型として全国に広まったことである。今日の公園に見られる花壇や芝生広場のイメージは、日比谷公園を一つの源流としている。

日比谷公園で確立した「設計する」という職能は、その後、より大きな造園事業に展開した。本多静六は本郷高徳・上原敬二らとともに、大正9年(1920年)に創建された明治神宮の内苑の森の計画に携わり、人の手で植えた樹林が長い年月をかけて自然の森に近づいていくよう樹種の構成を段階的に設計したことで知られる。公園ではなく神社の境内であるが、林学・造園学の知識にもとづいて長期の変化を見越した設計を行うという方法は、日比谷公園で始まった専門職としての造園の延長線上にある。明治末から大正にかけて、こうした専門家が各地の公園計画に関わるようになり、公園は「設計図をもつ施設」として全国に広まっていった。

設計図花壇噴水芝生広場
図4日比谷公園がもたらした「設計された公園」の型。市区改正の設計図に位置づけられ、花壇・噴水・芝生広場を備えた洋風の構成が、以後の公園らしさの源流となった。

4.3 旧都市計画法(1919年)——公園が全国の都市計画施設になる

市区改正条例は東京だけを対象とする法令であった。これを全国の都市に広げたのが、大正8年(1919年)に制定された都市計画法(現行法と区別して旧都市計画法と呼ぶ)である。同法は市街地建築物法とともに制定され、道路・広場・河川・港湾・公園などを「都市計画施設」として決定し、事業として整備する仕組みを整えた。当初は東京・大阪・京都・名古屋・横浜・神戸の六大都市に適用され、その後段階的に全国の都市に拡大された。これにより、公園は法律上、都市計画によって位置と規模を決定し、土地を確保して整備する施設となった。石田頼房(1987)が示すように、この法制は戦後の新都市計画法(1968年)まで半世紀にわたって日本の都市づくりの枠組みであり続けた。

旧都市計画法の時代には、大都市を中心に「小公園」という考え方も芽生えていた。大公園だけでなく、市街地の中に小さな公園を多数配置し、日常の休息や子どもの遊びに供するという構想であり、東京市などでは大正期に小規模な公園や児童向けの遊び場の整備が試みられたとされる。しかしそれらが本格的な政策として一挙に実現するには、大きな災厄を待たねばならなかった。次節で扱う関東大震災である。

5. 関東大震災と復興小公園(1923年〜)——生活圏の小公園の原型

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災は、東京・横浜の市街地の大部分を火災で失わせた。この災厄からの復興事業の中で、日本の公園史における第三の性格——住宅地の生活圏に小さな公園を配置するという考え——が、初めて政策として大規模に実現した。本節では帝都復興事業の公園、とりわけ復興小公園に注目し、それが後の児童公園につながる原型であったことを示す。

5.1 帝都復興事業と三大公園

震災直後、政府は帝都復興院を設け(総裁は内務大臣を兼ねた後藤新平)、焼失区域の全面的な土地区画整理と、幹線道路・橋梁・公園などの整備を柱とする復興計画を立てた。公園については、国が整備する大公園として隅田公園・浜町公園・錦糸公園の三つが計画され、いずれも河川や運河に面した土地に置かれた。震災では、広い空地に逃れた人々が助かり、空地のない密集地で多くの人が亡くなったことが痛切に認識されており、公園は火災の延焼を止め、人々が避難する場所として、防災上の施設という位置づけを明確にもつことになった。この経験は、後の都市公園法や、今日の防災公園の考え方にまで引き継がれている。

5.2 復興小公園——小学校に隣接する52の公園

帝都復興事業の公園で、通史的に最も重要なのは、東京市が整備した52か所の復興小公園である。これらは、同じく復興事業で鉄筋コンクリート造に建て替えられた小学校(復興小学校)に隣接して配置され、平常時には学校の運動場や地域の遊び場として、災害時には避難の場として使われることを想定していた。一つ一つは小さいが、焼失区域の全体にほぼ均等に散らばるよう計画された点が新しかった。名所を指定するのでも、都心に一つの大公園をつくるのでもなく、住宅地の中に「近所の小さな公園」を面的に配置する——この発想が、日本で初めてまとまった形で実行されたのである。

復興小公園の設計には、東京市公園課の井下清らが関わったとされる。園内には広場、樹木、砂場や滑り台などの遊具、便所、時計や水飲み場が置かれ、小学校の校庭と一体に使えるよう工夫された例が多かった。ここで注目すべきは、「小公園に何を置くか」という標準的な構成が、この時期に事実上できあがったことである。広場、植栽、遊具、便所という組み合わせは、後に都市公園法施行令が児童公園の施設として定める内容とよく重なる。復興小公園は、規模・配置・施設のいずれの面でも、戦後の児童公園の直接の原型と評価できる。

復興事業の公園は東京だけのものではなかった。同じく震災で壊滅した横浜では、震災の瓦礫を海岸に埋め立てて造成した山下公園が1930年に開園し、海に面した臨海公園という新しい型を生んだ。東京の三大公園が河川に面していたのと同様、横浜の山下公園も水辺の公園であり、復興期の公園には、水辺の景観と、火災時の避難・延焼防止という防災上の要請とが重なっていた。復興小公園と大公園、そして水辺の公園という復興期の公園群は、災害を契機に公園の意味が「遊観」から「日常の生活と非常時の安全」へと広がったことを示している。

小学校に隣接遊具砂場避難の場
図5復興小公園の型。小学校に隣接して住宅地に面的に配置され、平常時は遊び場、災害時は避難の場となる小さな公園が、戦後の児童公園の原型となった。

5.3 東京緑地計画と戦時の緑地

昭和に入ると、公園の考え方はさらに広がり、市街地の外側に大規模な緑地を確保して都市の無秩序な拡大を抑える「緑地計画」の思想が導入された。1932年に設けられた東京緑地計画協議会は、1939年に東京緑地計画を決定し、市街地を取り巻く環状の緑地帯や大規模な行楽地の構想を示した。この計画に連なるものとして、1940年の紀元二千六百年記念事業では東京の郊外に複数の大緑地が計画・整備され、現在の砧公園・小金井公園・神代植物公園などはその系譜にあるとされる。公園は個々の敷地の問題から、都市全体の骨格の問題へと視野を広げたのである。

しかし戦時体制の深まりとともに、公園と緑地は本来の目的から離れていく。防空法のもとで公園・緑地は防空空地として位置づけられ、空襲時の避難や延焼防止のための空地として扱われた。食糧不足の中では園内が畑に転用され、戦争末期には防空壕が掘られた。公園がもつ「空地である」という性質だけが切り取られ、遊び・休息・景観という中身は失われていった。

5.4 戦災復興と公園の危機

1945年の敗戦後、政府は同年12月に戦災復興計画基本方針を定め、翌1946年には特別都市計画法を制定して、全国の戦災都市で土地区画整理と街路・公園・緑地の整備を進めようとした。計画は当初、広い緑地地域や大公園を含む意欲的なものであったが、財政難と占領下の政策転換の中で大幅に縮小され、多くの都市で公園の計画は実現しないか、面積を減らして実現した。同時に、既存の公園では、焼け出された人々の仮住まい、引揚者住宅、闇市、官公庁の仮庁舎などが園内に建てられ、公園が公園として使えない状態が各地で生じた。公園を「守る」法律がないという問題が、ここで表面化する。太政官布達以来、公園は個別の指定や都市計画決定によって存在してきたが、公園を公園として維持する義務を管理者に課し、勝手に廃止したり転用したりすることを禁じる一般法は存在しなかった。この空白を埋めるために制定されたのが、次節で扱う都市公園法である。

6. 都市公園法(1956年)——公園を守る法律と「児童公園」の誕生

昭和31年(1956年)4月、都市公園法(法律第79号)が制定された。太政官布達から83年、日本の公園はここで初めて、その設置と管理の基準を定める一般法をもった。本節では、この法律が何を目的とし、何を定め、その施行令によって「児童公園」という種別がどのように生まれたかを整理する。今日の街区公園の形は、この法律とその施行令によってほぼ決まったと言ってよい。

6.1 立法の目的——「守る」ための法律

都市公園法第1条は、都市公園の設置および管理に関する基準等を定めて都市公園の健全な発達を図り、公共の福祉の増進に資することを目的として掲げる。しかし前節で見た戦後の状況を踏まえれば、この法律の実質的な出発点は「公園を公園でなくさせない」ことにあった。同法は都市公園の管理者(地方公共団体または国)を定め、公園の敷地に建てられる建築物の面積を厳しく制限し、公園施設以外の工作物などを置く「占用」を許可制にし、そして都市公園の保存の規定によって、法定の場合を除いて都市公園を廃止してはならないと定めた。太政官布達が名所を払い下げ・転用から守る仕組みであったことを思い出せば、都市公園法は「守る制度」としての日本の公園の性格を、近代法の形で確立したものと位置づけられる。

同法はまた、公園管理者に都市公園台帳の作成を義務づけた。どこに、どれだけの面積の、どの種別の公園があるかを記録し公開する仕組みは、ここに始まる。今日、磐田市を含む各自治体が公表する都市公園の一覧やオープンデータは、この台帳制度の延長線上にある。当サイトが磐田市の公園100園を整理できるのも、遠くは1956年の立法に負っている。

6.2 施行令の種別と標準——児童公園0.25ha・誘致距離250m

都市公園法の本体は、公園の種類ごとの規模や配置を細かく定めてはいない。それを定めたのが都市公園法施行令である。施行令は、都市公園を利用目的と規模によって種別に分け、それぞれの標準面積と誘致距離(その公園を利用する住民が住むと想定する範囲の半径)を示した。住区を基礎とする種別としては、主として児童の利用に供する児童公園(標準面積0.25ha・誘致距離250m)、主として近隣に居住する者の利用に供する近隣公園(2ha・500m)、主として徒歩圏域内に居住する者の利用に供する地区公園(4ha・1km)が置かれ、都市全体を対象とする総合公園・運動公園、特殊公園(風致公園・動植物公園・歴史公園・墓園)などが続く。ここでいう「住区」とは、小学校区程度の広がりをもつ生活の単位のことである。

この体系は、住宅地に小さな公園を細かく配置し、その外側に中規模、さらに大規模の公園を階層的に置くという考えにもとづく。復興小公園が示した「近所の小さな公園を面的に配置する」発想が、ここで全国共通の標準となった。児童公園の標準面積0.25haは、およそ50m四方の広さであり、誘致距離250mは大人の足で数分の距離である。この数値は1993年の名称変更後も街区公園に引き継がれ、今日に至るまで変わっていない。第8節で見るように、磐田市の街区公園の多くもこの規模の周辺にある。

0.25ha誘致距離250m階層的な種別児童の利用
図6都市公園法施行令が定めた児童公園の標準。0.25haの面積と250mの誘致距離、児童の利用という目的が、住区を基礎とする階層的な種別体系の最小単位として置かれた。

6.3 児童公園に何を置くか——施設の標準

1956年当時の施行令には、児童公園に設けるべき施設として、児童の遊戯に適した広場と植栽のほか、ぶらんこ・すべり台・砂場、ベンチ、便所が列挙されていたとされる。ブランコ・滑り台・砂場は後に「三種の神器」と俗に呼ばれるようになるが、その組み合わせは施行令の標準に由来する。この規定は、全国の児童公園の姿を驚くほど均一にした。どの町のどの児童公園に行っても同じ遊具があるという状況は、行政の怠慢というより、施設の標準を法令で定めた結果である。標準があることで、専門家のいない小さな自治体でも一定水準の公園を整備できた一方、地域ごとの個性は生まれにくくなった。この規定は1993年の施行令改正で削除され、以後は自治体の裁量に委ねられている。

6.4 児童遊園との二元性

ここで注意すべきは、戦後日本には子どもの遊び場をめぐって二つの制度が並立したことである。一つは都市公園法(建設省、現在の国土交通省)にもとづく児童公園、もう一つは児童福祉法(1947年、厚生省、現在のこども家庭庁・厚生労働省)にもとづく児童厚生施設としての児童遊園である。児童遊園は児童の健康増進と情操を豊かにすることを目的とし、遊具と広場を備えた小規模な施設として、都市公園とは別に設置された。外見上は似ていても、根拠法・所管・台帳が異なる。今日、住宅地に見られる小さな遊び場の中には、都市公園である街区公園と、児童福祉法上の児童遊園と、さらにどちらでもない自治会や開発事業者の管理する広場が混在している。歴史的に見れば、この混在は戦後の省庁ごとの制度設計の帰結である。当サイトが磐田市の公園100園を「都市公園法の種別」と「法対象外」に分けて示しているのも、この二元性を反映したものである。

7. 児童公園の時代から街区公園へ——量的整備(1972年〜)、改称(1993年)、そして2017年改正

都市公園法が制度の枠組みを整えたのち、日本の公園史は「つくる」時代に入る。高度経済成長のもとで市街地が急速に広がり、住宅地に児童公園が大量に整備された。本節では、その量的整備を支えた仕組み、児童公園の時代が残した課題、1993年の街区公園への改称、そして「量から質へ」「つくることから使うことへ」と流れが変わる2017年改正までを追う。

7.1 量的整備の仕組み——五箇年計画と開発許可

児童公園の量的整備を支えた制度は二つある。第一は、昭和47年(1972年)の都市公園等整備緊急措置法と、これにもとづく都市公園等整備五箇年計画である。この法律は、道路や下水道と同様に、公園についても国が五か年ごとの整備目標を定め、補助金によって地方公共団体の公園整備を計画的に進める仕組みを導入した。五箇年計画は以後複数次にわたって続けられ、2003年に社会資本整備重点計画法のもとに統合されるまで、公園整備の予算の骨格であり続けた。同じ時期の1973年には都市緑地保全法(2004年に都市緑地法と改称)が制定され、公園とともに市街地の緑地を保全する枠組みも整えられた。

第二は、昭和43年(1968年)の新都市計画法による開発許可制度である。同法の施行令は、一定規模以上の宅地開発を行う事業者に対し、開発区域の面積の3%以上の公園・緑地・広場を設けることを許可の基準として定めた。これにより、住宅団地やニュータウンの開発と同時に、その中に小さな公園が事業者の負担でつくられ、完成後に自治体へ引き継がれて都市公園となる、という流れが定着した。今日、住宅地の一角にある小さな街区公園の相当数は、この開発許可に伴って生まれたものである。「なぜこの公園はここにあるのか」という問いの答えの多くは、公園そのものの計画ではなく、周囲の宅地開発の歴史の中にある。

7.2 児童公園の時代が残したもの

1960年代から80年代にかけて、児童公園は日本中の住宅地に広がった。ブランコ・滑り台・砂場という標準的な遊具、フェンスと便所、小さな広場という構成は、前節で見た施行令の標準の忠実な実現である。この時代の公園は、子どもの数が多く、地域の遊び場が失われつつあった都市化の局面で、確かに大きな役割を果たした。一方で、量的整備の速さは、画一性という代償を伴った。どこも同じ遊具、同じ配置、そして事故や苦情への対応として増えていく禁止事項の看板は、児童公園の時代の負の遺産としてしばしば語られる。1979年に東京都世田谷区で常設のプレーパーク(冒険遊び場)が始まったのは、こうした画一的な公園への批判が市民の側から形になった早い例である。

ブランコ滑り台砂場全国に均一
図7児童公園の時代の標準的な構成。ブランコ・滑り台・砂場という施行令由来の組み合わせが、五箇年計画と開発許可の仕組みによって全国の住宅地に均一に広がった。

7.3 1993年——児童公園から街区公園へ

平成5年(1993年)6月、都市公園法施行令が改正され、種別名「児童公園」は「街区公園」に改められた。改正後の施行令は、街区公園を「主として街区に居住する者の利用に供することを目的とする都市公園」と位置づけ、標準面積0.25ha・誘致距離250mは変えなかった。すなわち、変わったのは規模ではなく誰のための公園かという定義である。児童公園という名称は「子どものための公園」であることを前面に出していたが、高齢化が進み、公園の利用者が子どもに限られなくなる中で、地域に住むすべての人のための公園として位置づけ直されたのである。同時に、児童公園に置くべき施設を列挙していた規定は削除され、施設の内容は自治体の判断に委ねられた。あわせて施行令は、住民一人当たりの都市公園面積の標準を10㎡(市街地では5㎡)以上と定めた。

この改称は、地味だが重要な転換点である。歴史的に見れば、復興小公園から児童公園に至る「小学校の近くの、子どもの遊び場としての小公園」という約70年の系譜が、ここで「街区に住む人みんなの公園」へと読み替えられた。ただし名称と定義が変わっても、既にある公園の遊具や配置は一夜にして変わらない。今日の街区公園に、児童公園時代の遊具と、その後に置かれた健康器具やベンチが同居しているのは、この読み替えが現在も進行中であることを示している。

7.4 1990年代後半から2017年へ——質・安全・使い方

1993年以降の公園制度は、量の目標から質と使い方へと重心を移していく。1994年には都市緑地保全法の改正で市町村が「緑の基本計画」を定められるようになり、公園と緑地を一体で考える計画の枠組みが整った。2002年には国土交通省が「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」を策定し(2008年、2014年、2024年に改訂)、遊具の安全を、遊びの価値を損なわずに確保するための考え方を示した。2003年の地方自治法改正による指定管理者制度は、公園の管理運営を民間の団体に委ねる道を開いた。2004年の都市公園法改正では立体都市公園制度が創設され、2006年のバリアフリー法によって都市公園の園路や便所などにも移動円滑化の基準が及ぶことになった。

そして平成29年(2017年)の都市公園法改正である。この改正は、少子高齢化と自治体財政の制約の中で、公園を「つくって守る」だけでなく「使いこなす」ための仕組みを整えた。具体的には、民間事業者が飲食店などを設置しその収益で公園の整備を行う公募設置管理制度(いわゆるPark-PFI)の創設、公園の管理運営について住民や関係者が協議する協議会制度、保育所などの社会福祉施設を公園内に占用許可の対象として設置できるようにする規定などが盛り込まれた。1873年に「守る」ことから始まり、1956年に守る法律を得て、1972年以降に大量に「つくった」日本の公園は、2017年に至って、あるものをどう「使う」かを正面から問う段階に入ったのである。

出来事本稿の三つの視点での位置づけ
1873年(明治6)太政官布達第16号。上野・芝・浅草・深川・飛鳥山などを公園に指定名所の継承
1888年(明治21)東京市区改正条例。公園が市区改正設計に位置づけられる都市計画施設
1903年(明治36)日比谷公園開園。設計された洋風公園の成立都市計画施設
1919年(大正8)旧都市計画法。公園が全国の都市計画施設となる都市計画施設
1923年〜(大正12〜)関東大震災。帝都復興事業で三大公園と52の復興小公園生活圏の小公園の原型
1956年(昭和31)都市公園法。施行令で児童公園(0.25ha・250m)を規定生活圏の小公園の制度化
1972年(昭和47)都市公園等整備緊急措置法・五箇年計画。量的整備の時代生活圏の小公園の普及
1993年(平成5)施行令改正。児童公園を街区公園に改称誰のための公園かの読み替え
2017年(平成29)都市公園法改正。Park-PFI・協議会・保育所占用使い方の時代へ
量から質へつくる・守る協議会使いこなす
図81993年から2017年への流れ。児童公園から街区公園への改称は「誰のための公園か」の読み替えであり、2017年改正は「つくって守る」から「使いこなす」への転換であった。

8. 磐田市の公園への示唆——100園を通史の三つの層で読む

本節では、前節までの通史を磐田市の公園に当てはめる。当サイトが収録する磐田市の公園は100園であり、内訳は市のオープンデータ「都市公園一覧」の94行と、市の施設ガイドのみに掲載された6園である。以下の記述は、市のオープンデータと施設ガイドの記載にもとづくものに限り、当サイトの現地踏査は始まっていないため、個々の公園の成立年や整備の経緯には立ち入らない。ここで示すのは、通史の三つの層——名所の継承、都市計画施設、生活圏の小公園——が磐田市の公園にどのように現れているか、という読み方である。

8.1 種別の内訳が語る歴史の層

オープンデータによる磐田市の都市公園の種別は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園であり、これに都市公園法の対象外・その他の6園が加わる。この内訳をそのまま通史に重ねると、次のように読める。第一に、100園の半数を占める街区公園51園は、都市公園法施行令が定めた児童公園(1993年以降は街区公園)の層であり、高度成長期以降の量的整備の時代の産物と考えるのが自然である。第二に、総合公園・運動公園・地区公園・近隣公園は、都市計画によって位置と規模を決めてつくる「都市計画施設としての公園」の層に属する。第三に、歴史公園・風致公園、そして街区公園でありながら遺跡や古墳を園内にもつ園は、名所・史跡を引き継ぐ層に連なる。

もちろん、種別と成立の経緯は一対一で対応するわけではない。街区公園の中にも古い名所を含む園があり、総合公園の中にも近年整備された園がある。種別は「今どう位置づけられているか」を示すものであって「いつどのように生まれたか」を示すものではない。しかし、通史の三層を手がかりに種別を眺めると、磐田市の公園が明治以来の日本の公園史の全体を縮図のように含んでいることが見えてくる。

8.2 名所の継承の層——史跡・古墳と一体の公園

磐田市で唯一の歴史公園は、中泉地区の遠江国分寺史跡公園(21,600㎡)である。国分寺は奈良時代に全国に置かれた官寺であり、その跡地が公園として保存・公開されていることは、第3節で見た「既にある史跡を公園として守る」という日本の公園制度の出発点の性格を、そのまま今日に伝えている。街区公園の中では、中泉地区の京見塚公園(10,231㎡)が市の施設ガイドに「京見塚古墳」を園内施設として挙げ、見付地区の一ノ谷公園(2,458㎡)は「一ノ谷遺跡」を挙げている。中泉地区には御殿遺跡公園(827㎡)という名の街区公園もある。見付地区の総合公園であるかぶと塚公園(106,982㎡)は、名称に古墳を思わせる語を含む。これらは制度上は都市公園法にもとづく近代以降の公園でありながら、性格としては名所型の公園の系譜に連なるものと読める。ただし、それぞれの遺跡・古墳と公園の関係の詳細は、当サイトの今後の踏査と関連文献の確認を待つ。

古墳史跡三つの層磐田市
図9磐田市の公園に見える名所の継承の層。遠江国分寺史跡公園や、古墳・遺跡を園内にもつ街区公園は、史跡を守る公園という日本の公園制度の出発点の性格を今日に伝えている。

8.3 都市計画施設の層——大規模公園と地区公園

竜洋地区の竜洋海洋公園(総合公園、221,722㎡)は市内で最も広く、市の施設ガイドには体育館・艇庫・プール・野球場・テニスコート・レストハウスなどが挙げられている。福田地区の福田公園(総合公園、49,620㎡)、見付地区のかぶと塚公園、向陽地区の磐田スポーツ交流の里ゆめりあ(運動公園、57,500㎡)、御厨地区の兎山公園(地区公園、56,193㎡)と安久路公園(地区公園、32,001㎡)、中泉地区の中央公園(地区公園、41,642㎡)などは、いずれも都市計画によって位置と規模を定めて整備する種別に属する。第4節で見た「公園は設計してつくる施設である」という日比谷公園以来の考え方、そして第6節で見た施行令の階層的な種別体系が、磐田市の大規模公園にも反映されている。なお安久路公園の施設ガイドには複合遊具に「インクルーシブエリアあり」との記載があり、2006年のバリアフリー法以降の、誰もが使える公園への流れをうかがわせる。

8.4 生活圏の小公園の層——街区公園51園

磐田市の街区公園51園は、面積で見ると幅が広い。見付地区の只来下公園(458㎡)や中泉地区の久保公園(556㎡)のように小さな園から、見付地区の富士見北公園(5,016㎡)や中泉地区の上野公園(6,986㎡)、京見塚公園(10,231㎡)のように、施行令の標準0.25ha(2,500㎡)を大きく上回る園まである。施設ガイドの記載を見ると、見付地区の一番町公園(2,550㎡)に「ブランコ、滑り台、ジャングルジム、鉄棒、雲梯、砂場、トイレ」、御厨地区の城之崎公園(3,438㎡)に「ブランコ、滑り台、鉄棒、砂場、トイレ」とあるように、ブランコ・滑り台・砂場・便所という第6節で見た児童公園の標準的な構成をそのまま備える園が多い。これは、施行令の施設標準が1993年に削除された後も、児童公園の時代につくられた公園の姿が今日まで残っていることを示す。

一方で、1993年の「街区に住む人みんなの公園」への読み替えを思わせる記載もある。中泉地区の北川瀬公園(4,068㎡)と中泉グリーンパーク(4,519㎡)、豊田地区の磐田ららシティ公園(4,097㎡)、御厨地区の二子塚公園(近隣公園、10,000㎡)などには「健康遊具」の記載があり、子どもの遊具と大人向けの器具が同居している。また豊田地区には「農村公園」「ポケットパーク」の名をもつ園が複数あり、これらは種別上は街区公園・近隣公園・都市緑地などとして登録されている。名称は成立の背景の違いを示唆するが、その経緯は今後の確認課題である。

さらに小さな空地の公園化にも注目したい。磐田市の都市緑地10園と広場公園2園には、中泉地区の二之宮東第2緑地(17㎡)や豊田地区の豊田上新屋ポケットパーク(156㎡)、豊田第1緑地(254㎡)、磐田ららシティ西ポケットパーク(広場公園、362㎡)のように、街区公園の標準を大きく下回る園が含まれる。見付地区の見付本通広場公園(372㎡)は街区公園に分類されている。これらは、住宅地や商店街の中の小さな余地を緑地や広場として位置づけるもので、大量整備の時代の街区公園とは異なり、都市緑地保全法(1973年)から都市緑地法(2004年)へと続く緑地の枠組みと、既成市街地の中で小さな空地を生かすという近年の考え方に連なる層と読める。ただし個々の園の由来は市の資料での確認が必要である。

8.5 地区ごとの分布と今後の踏査課題

地区別の園数は、見付21園、中泉14園、御厨13園、豊田28園、南部2園、向陽2園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園である。市街地の広がりと住宅地の開発の歴史が地区ごとに異なる以上、公園の分布にも歴史の層の違いが現れているはずであるが、その検討には各公園の成立年の確認が必要であり、本稿の範囲を超える。当サイトが今後の踏査で確かめたいのは、第一に、各公園の遊具や施設の構成が児童公園の標準にどの程度対応しているか、第二に、健康器具やベンチなど1993年以降の読み替えに対応する施設がどの程度加わっているか、第三に、遺跡・古墳と一体の公園において史跡と遊び場がどのように共存しているか、の三点である。市の施設ガイドの記載と現地の姿を照らし合わせる作業は、この論文の続きとして位置づけたい。

9. 結論と今後の課題

本稿は、日本の公園史を1873年の太政官布達第16号から2017年の都市公園法改正までの通史として叙述し、それを名所の継承・都市計画施設・生活圏の小公園という三つの層として読む見取り図を示した。ここで冒頭の三つの問いに答える。第一に、日本の公園制度は1873年、既にあった名所・境内地を「群集遊観ノ場所」として指定し、払い下げや転用から守ることから始まった。公園は新たにつくるものである前に、守るものであった。第二に、公園が都市計画でつくる施設となったのは1888年の東京市区改正条例と1903年の日比谷公園、1919年の旧都市計画法を通じてであり、住宅地の生活圏に小さな公園を面的に配置する考えは1923年の関東大震災後の復興小公園に原型が現れ、1956年の都市公園法とその施行令によって「児童公園」として制度化された。第三に、児童公園の量的整備は1968年の開発許可制度と1972年の五箇年計画の仕組みによって高度成長期に進み、1993年に街区公園へと読み替えられ、2017年改正で「使いこなす」段階に入った。

9.1 通史から見えること

この通史が示す最も重要な点は、今日の街区公園の姿——0.25ha前後の敷地に、ブランコ・滑り台・砂場と便所と小さな広場——が、自然の成り行きではなく、震災復興、戦後立法、高度成長という三つの時代の判断の積み重ねであるということである。復興小公園は小学校のそばの避難できる遊び場を、都市公園法は公園を守るための基準と標準を、五箇年計画と開発許可は数をそろえる仕組みを、それぞれ提供した。その結果として、全国どこでも似た姿の小公園が住宅地に行き渡った。この均一さは、しばしば批判の対象になるが、歴史的に見れば、専門家のいない小さな自治体でも一定水準の公園を確保できたという意味で、一つの達成でもあった。

同時に、通史は公園の性格が固定的でないことも教える。「誰のための公園か」は、1873年には遊観する群集、1903年には都市の市民、1923年には小学校の子どもと避難者、1956年には児童、1993年には街区に住むすべての人へと変わってきた。今日、少子高齢化のもとで街区公園のあり方が問われているのは、この問いが再び開かれているということであり、答えは制度と地域の双方から探られるべきものである。歴史学は、この問いが新しいものではなく、また一度出た答えが永続するものでもないことを示すことで、議論に見通しを与える。

もう一つ、通史から見えるのは「守る」と「つくる」と「使う」の順序である。日本の公園は1873年に守ることから始まり、都市計画の時代につくることを覚え、戦後の都市公園法で守る仕組みを法律にし、高度成長期に大量につくり、2017年に使い方を問う段階に至った。この順序は、公園をめぐる今日の議論の多くが「守る」「つくる」「使う」のどの局面の話をしているのかを見分ける助けになる。たとえば遊具の撤去や禁止事項の議論は「守る」と「使う」の間の緊張であり、Park-PFIや協議会は「使う」局面の制度であり、開発に伴う小公園の提供は「つくる」局面の仕組みである。局面を区別することで、異なる時代に由来する論点を一つの公園の上で整理して考えることができる。

150年三つの時代の判断みんなの公園誰のための公園か
図10結論。街区公園の姿は震災復興・戦後立法・高度成長という判断の積み重ねであり、「誰のための公園か」という問いは時代ごとに答えを変えながら、今も開かれている。

9.2 本稿の限界と今後の課題

本稿には三つの限界がある。第一に、本稿は法令と基本文献にもとづく通史であり、個々の都市・地域の公園史には立ち入っていない。日本の公園史は東京を中心に描かれがちであるが、地方都市では名所の公園化や戦災復興、宅地開発の展開が東京とは異なる時期・形で進んだはずである。磐田市についても、各公園の成立年と整備の経緯を市の資料や地域史から確認する作業が必要であり、これは当サイトの今後の課題である。第二に、本稿は制度史に重心を置き、公園を実際に使ってきた人々——花見の群集、演説会の聴衆、遊ぶ子どもと見守る大人——の側の歴史を十分に扱えていない。利用の歴史は史料が乏しく、民俗学や社会学の方法との協働が求められる。第三に、本稿では確実な年号と制度名に記述を限ったため、研究者の間で評価の分かれる論点、たとえば明治期の公園がどの程度「欧化」であったかといった問いには踏み込まなかった。関心のある読者は参考文献に挙げた研究に直接当たられたい。

最後に、本稿の実践的な含意を一言で述べる。近所の公園を見るとき、そこにある遊具・広場・便所の組み合わせ、敷地の広さ、周囲の住宅地との関係、園内の史跡の有無は、いずれもこの150年のどこかの判断の痕跡である。それを読み取ることは、公園を「与えられたもの」から「選ばれてきたもの」へと見方を変えることであり、これからの公園のあり方を地域で考える出発点になる。当サイトは、磐田市の公園100園の踏査を通じて、この通史の続きを一園ずつ具体化していきたい。

参考文献

  1. 太政官布達第16号(明治6年1月15日)「府県ニ於テ公園ヲ設ケシム」
  2. 東京市区改正条例(明治21年勅令第62号)・旧都市計画法(大正8年法律第36号)
  3. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  4. 都市公園等整備緊急措置法(昭和47年法律第68号)
  5. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  6. 田中正大(1974)『日本の公園』(SD選書、鹿島出版会)
  7. 佐藤昌(1977)『日本公園緑地発達史』上・下(都市計画研究所)
  8. 白幡洋三郎(1995)『近代都市公園史の研究——欧化の系譜』(思文閣出版)
  9. 丸山宏(1994)『近代日本公園史の研究』(思文閣出版)
  10. 小野良平(2003)『公園の誕生』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館)
  11. 越沢明(1991)『東京都市計画物語』(日本経済評論社。のちちくま学芸文庫、2001)
  12. 石田頼房(1987)『日本近代都市計画の百年』(自治体研究社)
  13. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  14. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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