人文学戦時期史
畑になった公園——戦時下の緑地・防空空地・戦後の再開
要旨
本稿の目的は、1930年代後半から1945年の敗戦を経て1956年の都市公園法制定に至るおよそ20年間に、日本の公園と緑地が制度のうえでどのように位置づけ直され、土地と設備のうえで何を経験したかを、制度史・都市計画史の事実にもとづいて整理することである。方法は法令・閣議決定・都市計画史および公園史の基本文献の整理による文献研究であり、戦争そのものの評価や被害の記述は本稿の対象としない。
本稿は、公園に起きたことを二つの層に分けて読む。第一は制度の層、すなわち法令や計画の上で公園・緑地がどの位置にあるかであり、第二は使用の層、すなわちその土地と設備が現実に何に使われたかである。この二層で見ると、戦時期の公園は単純に消えたのではないことがわかる。1939年に決定された東京緑地計画の環状の緑地帯は、その後の防空法制のもとで建物のない土地としての価値を認められ、緑地の確保はむしろ進んだ側面がある。一方で使用の層では、広場や花壇は食糧増産の耕作地となり、鉄製の遊具や柵は金属類回収令のもとで供出され、園内には壕が掘られた。制度としては残り、機能としては停止するという分離が起きたのである。
さらに1943年の都市疎開実施要綱にもとづく建物疎開は、延焼を防ぐために建物を取り壊して帯状の空地をつくる施策であり、空地を守る発想から空地をつくる発想への反転であった。敗戦後は、戦災復興計画基本方針(1945年)と特別都市計画法(1946年)が公園緑地の確保を掲げる一方、住宅難のもとで公園や公園予定地が住まいや畑に使われ、1949年の復興計画の再検討で計画の規模は縮小された。公園を設置し管理するための独立した法律がなかったこの時期の経験が、1956年の都市公園法へつながる。
以上をふまえ、本稿は公園の脆さと強さを、設備は失われやすいが土地は残りやすいという性質として一般化し、最後に磐田市の都市公園100園を、いつ・どの理由でその土地が確保されたのかという問いのもとで読み直す視点を示す。磐田市の戦時期については当サイトは史料を持たず、踏査もこれからであるため、本稿は答えではなく確かめるべき項目を提示するにとどめる。
キーワード防空空地東京緑地計画疎開空地食糧増産戦災復興都市公園法磐田市
1. はじめに——問題の所在
都市に公園があることは、今日ではほとんど自明のこととして受け取られている。しかし公園は、都市を構成する施設のなかでは比較的新しく、そして比較的弱い立場に置かれてきた。道路が失われれば人と物は動けず、水道が止まれば暮らしは成り立たない。これに対して、公園が使えなくなっても、都市の機能は当面のあいだ止まらない。この非対称性は平時には見えにくいが、資源と土地の配分が切り詰められる局面ではきわめてはっきりと表れる。本稿が扱うのは、まさにその局面である。
対象とする時期は、1930年代後半から1945年の敗戦を経て、1956年に都市公園法が制定されるまでのおよそ20年間である。この時期、日本の都市計画のなかで公園と緑地は、いったん遊びや休息の場所としての性格を薄め、建物のない土地としての性格を強く帯びた。そして敗戦後の数年間は、公園がまだ公園に戻りきらない空白の期間となった。日本の公園史を通史として語るとき、この20年はしばしば駆け足で通り過ぎられる。制度と現実のずれが大きく、記録も散らばっているためである。
1.1 本稿の問い
本稿は次の三つの問いを立てる。いずれも、公園という制度の性質を測るための問いである。
- 第一に、戦時期の法令と計画のうえで、公園と緑地はどのように位置づけ直されたのか。それは公園を守る方向に働いたのか、公園を別のものに読み替える方向に働いたのか。
- 第二に、公園の土地・樹木・設備という具体的な実体には、何が起きたのか。そこから公園という施設のどの部分が失われやすく、どの部分が残りやすいと言えるのか。
- 第三に、敗戦後の住宅難と焼跡整理のなかで、公園はどのようにして再び公園になったのか。1956年の都市公園法は、この経験のどこに応えたものだったのか。
この三つの問いは、過去を懐かしむためではなく、公園という施設が制度上どのような弱さと強さを併せ持つのかを取り出すために設けている。第8節で述べるとおり、ここで見いだされる構造は戦時期だけのものではない。
1.2 方法と、書かないと決めたこと
方法は文献研究である。具体的には、公園と緑地に関わる法令および閣議決定の条文・要綱と、都市計画史・公園史の基本文献の記述を突き合わせ、制度の側の意図と、現場で起きたこととして記録されている事柄とを並べて整理する。新たな史料の発掘は行っておらず、本稿は既知の事実の再構成である。
同時に、本稿があらかじめ書かないと決めたことがある。第一に、戦争の是非や当時の政策の政治的評価には立ち入らない。本稿は制度史・都市計画史の記述に徹する。第二に、被害の規模や犠牲の数を扱わない。それは本稿の方法では扱いきれない主題であり、専門の研究と記録に委ねるべきものである。第三に、存在に確信を持てない法令名・年月・数値は書かない。年代は、法令の制定年や閣議決定の年など、確実に確認できるものに限って記す。
第四に、磐田市の戦時期について断定的な記述をしない。当サイトが持つ磐田市の公園の情報は、市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドの記載を突き合わせた現在の姿であり、個々の園がいつ、どのような経緯で公園になったのかを示す史料は手元にない。したがって第9節では、磐田市について何が言えるかではなく、何を確かめるべきかを示す形をとる。
1.3 用語の約束と本稿の構成
本稿では「公園」を、公衆の利用に供することを目的として設けられ、そのための施設をそなえた土地の意味で用いる。これに対し「緑地」は、建物を建てずに草木や地面のまま置かれる土地の状態を指す語として用いる。両者は重なるが同じではない。公園は緑地でありうるが、緑地はかならずしも公園ではない。この差は、戦時期の制度を読むうえで決定的な意味を持つ。なぜなら、公園を遊び場としてではなく空地として評価する視線が、この時期に前面へ出てくるからである。
また「空地」は、建物のない土地という、いわば引き算で定義される語である。空地には目的が書き込まれていない。だからこそ、時代の要請に応じて何にでも読み替えられる。緑地計画のなかで確保された土地が、防空の文脈では延焼を防ぐ帯として、食糧の文脈では耕せる面積として、住宅難の文脈では建てられる土地として現れる。本稿はこの読み替えの連鎖を追う。
構成は次のとおりである。第2節で先行研究と概念を整理し、本稿の分析枠組みである二層モデルを示す。第3節で1930年代の緑地計画の成立を、第4節で防空法制のもとでの空地への読み替えを扱う。第5節は公園の実体に起きたこと、第6節は建物疎開による空地の造成、第7節は敗戦後の空白と都市公園法への道筋である。第8節で想定される反論に応答して知見を一般化し、第9節で磐田市の公園への示唆、第10節で結論と課題を述べる。
2. 先行研究と概念の整理
日本の公園史については、まとまった通史がいくつも書かれてきた。佐藤昌『日本公園緑地発達史』(1977)は制度と事業の経過を大部にわたって記録した基礎文献であり、田中正大『日本の公園』(1974)は個々の公園の形と思想を読み解いた。丸山宏『近代日本公園史の研究』(1994)と小野良平『公園の誕生』(2003)は、公園という概念がどのように受け入れられ、変形したかを問うている。都市計画史の側では、石田頼房『日本近代都市計画の百年』(1987)が法制度の展開を通してとらえ、越沢明『東京都市計画物語』(1991)が計画の立案と挫折の過程を描いた。本稿はこれらの記述を土台とする。
2.1 戦時期が空白になりやすい理由
これらの文献を並べて読むと、明治から大正、そして関東大震災後の復興公園までの記述は厚いのに対し、1930年代後半から敗戦直後にかけての記述は相対的に薄いという傾向に気づく。理由はいくつか考えられる。第一に、この時期は新しい公園の開園が少なく、公園史を開園の連なりとして書く方法では扱う対象が乏しい。第二に、公園に起きたことの多くは公園制度の外側、すなわち防空や食糧や住宅の政策の側で決まっており、公園の記録には残りにくい。第三に、敗戦前後で行政組織と文書の連続性が切れ、地方の小さな公園ほど記録が失われやすい。
しかしこの空白は、公園という制度を理解するうえではむしろ重要な情報を含んでいる。開園という出来事がないのは、公園に何も起きなかったからではなく、公園が別の目的のために使われていたからである。何も建たなかった土地の歴史をどう書くかという問題は、公園史に固有の難しさでもある。
2.2 公園・緑地・空地——似た語の使い分け
戦時期の制度を読むうえで避けて通れないのが、公園・緑地・空地という似た語の使い分けである。日常語ではほぼ同じものを指しているように見えるが、制度のうえでは目的も、確保の方法も、求められる質も異なる。以下の表に、本稿で用いる意味を整理する。
| 語 | 指すもの | 主な目的 | 求められる質 |
|---|---|---|---|
| 公園 | 公衆の利用に供する施設をそなえた土地 | 休息・遊び・運動・交流 | 遊具・広場・樹木・便益施設など |
| 緑地 | 建物を建てず草木や地面のまま置く土地 | 保健・景観・延焼の抑制 | 樹木や地被があること |
| 空地 | 建物のない土地一般 | 目的は外から与えられる | 問われない(建物がなければよい) |
| 防空空地 | 防空のために建物のない状態を保つ土地 | 延焼の遮断・消防・避難 | 帯や面としての連続性 |
| 疎開空地 | 建物を取り壊してつくる帯状の空地 | 延焼の遮断 | 幅と連続性 |
この表から読み取れることは二つある。ひとつは、上から下へ行くほど土地に求められる質が下がり、必要とされるのは建物がないという条件だけになっていく点である。もうひとつは、それにもかかわらず、これらはしばしば同じ土地を指しうるという点である。ある街区公園は、公園であると同時に緑地であり、空地であり、条件が整えば防空空地でもありうる。戦時期の制度は、この重なりを利用した。
2.3 分析枠組み——制度の層と使用の層
そこで本稿は、公園に起きたことを二つの層に分けて記述する。制度の層とは、法令・都市計画・台帳のうえでその土地がどう位置づけられているかである。使用の層とは、その土地と設備が現実に何に使われ、誰がどう出入りしているかである。平時にはこの二層はおおむね一致しており、公園と決められた土地では人が遊び、休んでいる。だからこそ普段は二層を区別する必要がない。
ところが非常時には、この二層が分離する。制度の層では公園のままなのに、使用の層では耕作地になる。逆に、制度の層では公園ではないのに、使用の層では人が集まる広場として機能することもある。戦時期から戦後にかけての公園の経験は、この分離の連続として整理できる。分離を見落とすと、緑地は守られたという記述と、公園は失われたという記述が矛盾して見えてしまう。実際には、前者は制度の層の話であり、後者は使用の層の話である。
この枠組みには、もうひとつの利点がある。どちらの層が回復しやすいかを問えることである。使用の層は、人の判断ひとつで明日から変わりうる。制度の層は、決定や告示や登記をともなうため、変わるのに時間がかかる。裏返せば、制度の層でいったん確保された土地は、使用の層が変わっても残りやすい。本稿が後の節で土地の慣性と呼ぶのは、この非対称性のことである。
註:本稿は「緑地」を制度上の地域区分の名称としても、土地の状態を表す一般語としても用いる。文脈で区別しにくい箇所では、地域区分を指す場合に限り「緑地地域」と明記する。
3. 緑地という概念の成立——東京緑地計画(1939年)まで
戦時期の公園を理解するには、その手前で「緑地」という概念が都市計画のなかに用意されていたことを押さえておく必要がある。公園が緑地として語られるようになったこと自体は、戦争とは独立に進んだ都市計画上の展開であった。しかし結果として、この語の成立が、公園を空地として読み替える回路をあらかじめ開くことになった。本節ではその経過をたどる。
3.1 都市計画施設としての公園から、面としての緑地へ
大正8年(1919年)の都市計画法(現行法と区別して旧都市計画法と呼ぶ)は、道路・広場・河川・公園などを都市計画施設として決定し、事業として整備する仕組みを整えた。ここで公園は、一つひとつが位置と規模を決められる個別の施設であった。公園Aと公園Bはそれぞれ独立した点であり、両者を結ぶ発想はまだ弱い。
この点の集まりを面としてとらえ直す発想が、1920年代から1930年代にかけて強まっていく。背景には、都市の急激な外延的拡大がある。鉄道の延伸とともに市街地は郊外へ広がり、田畑がつぎつぎに宅地へ変わっていった。市街地が無制限に広がれば、都市の内側にいる人が緑や空を得るまでの距離はどこまでも遠くなる。個々の公園をいくつつくっても、都市全体の環境は改善しない。そこで、市街地の広がりそのものを緑の帯で区切り、外側の農地や樹林を計画のうちに取り込むという構想が現れる。
この構想は日本で独自に生まれたものではない。エベネザー・ハワードの田園都市の考え方や、欧米の大都市で試みられた緑地帯の計画が参照されていた。もっとも、参照されただけでそのまま移されたわけではない。日本の都市は社寺の境内地、河川敷、丘陵の樹林など、建物が建っていない土地を市街地の内外に数多く抱えており、緑地計画はそれらをどう位置づけるかという問題として具体化した。
3.2 関東大震災の経験——空地が人を守るという理解
緑地への関心を後押ししたもうひとつの要因が、大正12年(1923年)の関東大震災の経験である。震災の後、都市の内部にある建物のない土地が、延焼を止め、人が身を寄せる場所として働いたことが広く認識された。震災復興では、大小の公園が計画的に配置され、とりわけ小学校に隣接して設けられた小公園は、その後の生活圏の公園の原型となった。
ここで重要なのは、公園に対する評価軸がひとつ増えたことである。それまで公園は、衛生・休息・景観・都市の体面といった観点から語られてきた。震災以後は、そこに防災という観点が加わる。そして防災の観点から見た公園の価値は、遊具や花壇の質ではなく、建物がないという条件そのものに宿る。つまり、空地としての公園の価値が、公的に承認されたのである。この承認は、公園の存在理由を強くした一方で、公園を空地一般と入れ替え可能なものとして扱う道も開いた。
3.3 東京緑地計画(1939年)——確保された面としての緑
1930年代に入ると、内務省のもとに東京緑地計画協議会が設けられ、東京とその周辺を対象とする広域の緑地計画の検討が進められた。その成果として昭和14年(1939年)に決定されたのが東京緑地計画である。この計画は、市街地の外周に環状の緑地帯を想定し、あわせて相当の規模を持つ大緑地を配置するという構成をとっていた。都心の公園だけでなく、郊外の農地・樹林・河川敷までを含む広い範囲を、緑地という一つの概念のもとに束ねた点に特徴がある。
東京緑地計画が公園に与えた意味は大きい。第一に、公園と、公園ではない緑の土地とが、同じ計画の対象として並べられた。第二に、緑地の価値が保健・レクリエーション・景観・防災といった複数の目的の束として説明され、単一の目的に還元されない形で正当化された。第三に、計画の実現手段として、土地を買い上げて確保するという方法が具体的に想定された。計画に描くだけでなく、公有地として押さえるという発想である。
本稿の枠組みでいえば、東京緑地計画は制度の層における大きな前進であった。使用の層では、多くの土地はまだ農地や樹林のままであり、市民が遊ぶ公園に変わったわけではない。しかし、建物を建てさせない土地としての位置づけが計画上与えられた。この状態、すなわち制度の層では確保され、使用の層では未定という状態こそが、次節で述べる読み替えを容易にする条件であった。目的の欄が半ば空いている土地は、時代の要請に応じて書き込みを受け入れやすいのである。
緑地という語が広まったことには、もうひとつの効果があった。公園という語が持っていた、遊びや休息といった人の活動を含む意味あいが、緑地という語では薄れる点である。緑地は、そこで何が行われるかではなく、そこに何がないかによって定義される。この意味の抜け落ちは、当時は問題として意識されにくかったはずである。緑地の目的の束のなかにレクリエーションが含まれていたからである。しかし目的の束は、状況によってどれか一つに絞られうる。絞られたとき、抜け落ちていた意味は戻ってこない。次節が扱うのは、その絞り込みが起きる局面である。
なお、この時期に緑地計画の検討が行われたのは東京だけではない。他の大都市でも同様に、都市の周辺に緑地を確保しようとする計画が立てられている。地域ごとの具体的な内容は本稿の扱う範囲を超えるが、緑地という枠組みが全国的な広がりを持ちはじめていたことは押さえておきたい。
4. 防空法制と防空空地——公園が空地として読み替えられる
昭和12年(1937年)に防空法が制定された。防空法は、空襲に備えて灯火の管制、消防、避難と誘導、通信、監視などについて国と地方の責任と住民の義務を定めた法律であり、その後の改正によって内容は段階的に強化されていった。本節では、この法制のもとで公園と緑地がどのような位置を与えられたかを、制度の層に即して整理する。
4.1 防空空地という考え方
防空の観点から都市を見るとき、最も重視されたのは延焼の連鎖を断つことであった。木造の建物が密に並ぶ市街地では、いったん火が出れば街区から街区へ燃え広がる。これを止めるには、燃えるものがない帯を市街地のなかに用意しておけばよい。この考え方から出てくるのが防空空地であり、建物のない状態を保つべき土地として定められるものである。同種の土地が線状・帯状に連なる場合、それは防空空地帯として構想された。
ここで注目すべきは、防空空地に求められる条件が、きわめて単純だという点である。必要なのは、燃えるものがないこと、そして人や消防が入れることであり、それ以上の質は問われない。芝生であるか裸地であるか、ブランコがあるかないかは、防空の観点からは重要ではない。したがって、既存の公園・緑地・広場・河川敷・道路・耕地は、いずれも条件さえ満たせば同じ枠に入りうる。公園は、公園としてではなく、燃えない面積として数え上げられる対象になったのである。
この読み替えは、公園にとって両義的な意味を持った。一方では、公園と緑地に新しい存在理由が与えられ、宅地への転用に対する歯止めが働いた。緑地は不要不急の贅沢ではなく、都市の防護に必要な設備であるという説明が可能になったからである。他方では、公園を公園たらしめている要素、すなわち遊び、休息、集いといった使用の側面は、説明の外に置かれた。守られたのは土地であって、公園の中身ではなかった。
4.2 緑地計画と防空計画の接続
1939年に決定された東京緑地計画の環状の緑地帯は、防空の観点から見れば、まさに市街地を取り巻く帯状の空地であった。すでに計画として決定されており、確保の手続も想定されている土地が、新たな目的にそのまま適合したのである。緑地の買収や確保は、防空という目的を得ることで、平時よりも強い正当化を伴って進みうる状況が生まれた。緑地計画が防空計画に吸収されたというより、二つの計画が同じ土地の上で重なったと言うほうが正確であろう。
本稿の二層モデルで整理すると、この局面では制度の層が厚くなっている。ひとつの土地に、都市計画上の緑地という位置づけと、防空上の空地という位置づけが同時に与えられる。位置づけが重なるほど、その土地を別の用途に転じることは難しくなる。皮肉なことに、公園の使用が最も制限された時期に、公園の土地としての安定性はむしろ増した面がある。
4.3 年表——読み替えの連鎖
ここまでの経過と、以下の節で扱う出来事を、確実に確認できる制度上の節目に限って年表にまとめておく。個々の都市で実際にいつ何が行われたかは地域ごとに異なり、本稿はそこには立ち入らない。
| 年 | 制度上の出来事 | 公園・緑地にとっての意味 |
|---|---|---|
| 1919年 | 旧都市計画法 | 公園が都市計画施設として位置づけられる |
| 1923年 | 関東大震災 | 空地の防災上の価値が広く認識される |
| 1937年 | 防空法の制定 | 都市を防護の対象として組み立て直す枠組み |
| 1939年 | 東京緑地計画の決定 | 環状の緑地帯と大緑地を面として確保する計画 |
| 1941年 | 金属類回収令 | 鉄製の設備が供出の対象となる |
| 1943年 | 都市疎開実施要綱(閣議決定) | 建物を取り壊して空地をつくる段階へ |
| 1945年 | 戦災復興計画基本方針(閣議決定) | 復興計画で公園緑地の確保が掲げられる |
| 1946年 | 特別都市計画法 | 区画整理と緑地地域の仕組み |
| 1949年 | 戦災復興都市計画の再検討 | 財政の制約により計画が縮小へ |
| 1956年 | 都市公園法 | 公園の設置・管理と廃止の制限を定める |
| 1968年 | 都市計画法(新法) | 戦後復興期の地域制が組み替えられる |
この年表を、公園の側から一続きの物語として読むと、次のようになる。まず公園は計画の対象になり(1919年)、次に空地としての価値を認められ(1923年)、その価値が防護の文脈に接続され(1937年・1939年)、やがて公園の中身が資源として取り出され(1941年)、ついには空地そのものを新たにつくる段階に至る(1943年)。敗戦後は、確保の方針が掲げられながら現実が追いつかず(1945年・1946年)、財政の制約で計画が縮み(1949年)、最後に公園を公園として守るための法律が生まれる(1956年)。読み替えの連鎖と、その果てに置かれた歯止めである。
5. 畑になった公園——食糧増産・金属供出・掘られた地面
前節までは制度の層の話であった。本節では使用の層に降り、公園という施設を構成する具体的な要素、すなわち平らな地面、鉄でできた設備、樹木、そして人の時間に何が起きたのかを整理する。ここで見えてくるのは、公園がいくつもの取り出し可能な資源の集まりでもあるという事実である。
5.1 平らな地面——耕作地への転用
戦争の長期化にともない、食糧の確保は都市の切実な課題となった。都市には田畑がほとんどないが、建物のない平らな土地はある。広場、芝生、花壇、運動場、そして空地である。これらを耕して作物をつくるという発想は、限られた条件のもとでは自然に出てくるものであり、各地の公園史や都市の記録には、公園の広場や花壇が耕作に供された旨の記述が残されている。日本に限らず、同時期の他国の都市でも、公園や空地の耕作は広く行われたことが知られている。
公園を耕作地に転用することの制度上の意味は、実は小さい。土地の位置づけは公園のままであり、都市計画の決定が変更されるわけでもない。変わるのは使用の層だけである。だからこそ、この転用は速く、そして広く進みやすい。決定を要する変更ではなく、現場の判断で始められる変更だからである。二層モデルの言葉でいえば、使用の層は摩擦が小さく、外からの要請をただちに受け止めてしまう。
ただし、耕作に向くのは公園のすべてではない。樹林や斜面、遊具の下の砂地は耕しにくい。転用が進みやすいのは、平らで日当たりがよく、まとまった面積を持つ部分、つまり広場と芝生である。皮肉なことに、それは子どもが最も自由に走り回れる部分でもあった。公園から最初に失われたのは、目的が決められていない開けた場所だったということになる。
5.2 鉄でできたもの——金属類回収令と設備の供出
昭和16年(1941年)の金属類回収令のもとで、各種の金属製品が回収の対象となった。公園は、この観点から見ると金属の在庫でもあった。ブランコの支柱と鎖、鉄棒、すべり台の骨組み、ジャングルジム、園地を囲む鉄柵、門扉、記念の銅像、水飲みの金具。当時の遊具は鉄と木でできており、鉄の割合は小さくない。公園の設備が供出の対象とされたことは、各地の記録に見られる。
ここで注意したいのは、失われ方の違いである。耕作への転用は可逆的である。作物を作らなくなれば、地面はふたたび広場に戻る。これに対して、金属の供出は不可逆である。持ち去られた鉄は戻らず、再び遊具を据えるには新しく材料を調達して据え直さなければならない。同じ「公園が失われる」という現象のなかにも、元に戻せるものと戻せないものがある。戦後に公園がすぐ公園らしくならなかった理由のひとつは、この不可逆性にある。
5.3 掘られた地面と、伐られた木
第三に、公園の地面は掘られた。空襲に備えるための壕が、住宅の敷地だけでなく、公園や空地、学校の運動場にも設けられたことは広く知られている。掘るという行為は、地面という資源の別の使い方である。地上の平面を空地として空けておく一方で、その下に人が身を寄せる空間をつくるという二重の利用が行われた。
樹木もまた資源であった。燃料や資材の不足のなかで、公園や街路の樹木が伐られたことは、各地の記録に残されている。ただし樹木の失われ方は、鉄とも土とも異なる時間の性質を持つ。伐った木はすぐに使えるが、同じ大きさの木を得るには数十年を要する。公園の要素のなかで、回復に最も長い時間がかかるのが樹木である。戦後の公園に大きな木が乏しかったとすれば、それは戦時期の伐採だけでなく、木が育つ時間の長さによっても説明される。
5.4 取り出せるものと、残るもの
以上の三つを並べると、公園という施設の構造がはっきりする。公園は、土地・設備・樹木・そして人の使用という層でできている。このうち設備は取り外して運べるため最も早く失われ、樹木は伐れば失われて回復に長い時間を要し、使用は人の判断ひとつで止まる。しかし土地そのものは動かせない。売られたり建物が建てられたりしない限り、土地は残る。そして前節で見たとおり、この時期の制度は、まさにその土地に建物を建てさせない方向に働いていた。
公園は平時の贅沢とみなされ、最初に失われた——この言い方は、公園の中身については当たっている。しかし公園の土地については当たらない。むしろ土地は、空地としての価値を認められることで残った。この非対称こそが、戦後に公園が公園として再開できた条件であり、同時に、再開までに時間がかかった理由でもある。器は残り、中身は空になっていたからである。
もうひとつ、記録に残りにくい形で失われたものがある。使い方の蓄積である。どの時間に誰が来て、どこで何をして、誰が誰を見ているか。公園の使い方は、利用者のあいだで暗黙のうちに受け継がれていく。利用が数年にわたって途切れれば、この受け継ぎも途切れる。設備は買い直せるが、使い方は買い直せない。戦後、公園がふたたび開かれたとき、そこに集まる人びとは、使い方を最初から組み立て直さなければならなかったはずである。制度史の方法ではこの過程を追えないが、失われたものの一覧に加えておくべき項目である。
註:本節で述べた耕作・供出・掘削の具体的な範囲は、都市ごと、公園ごとに大きく異なる。本稿は一般的な傾向として整理したものであり、特定の公園について同じことが起きたと主張するものではない。
6. 疎開空地——空地をつくるという段階
昭和18年(1943年)12月、都市疎開実施要綱が閣議決定された。この要綱にもとづいて進められた疎開は、大きく人員の疎開と建物の疎開に分けられる。本節が扱うのは後者、すなわち建物疎開である。建物疎開とは、延焼を防ぐために既存の建物を取り壊し、帯状の空地をつくる施策であり、生じた土地は疎開空地・疎開空地帯と呼ばれた。
6.1 守る空地から、つくる空地へ
第4節で見た防空空地は、すでに建物がない土地を建物のない状態のまま保つという発想であった。公園、緑地、河川敷、耕地といった既存の空地を数え上げ、これを空けておくというやり方である。これに対して建物疎開は、建物がある土地から建物を除くことで空地を新たに生み出す。空地を守る発想から、空地をつくる発想への反転である。
都市計画の歴史から見ると、この反転には見過ごせない意味がある。市街地のなかに帯状の空間を確保するという操作は、それ自体としては都市計画の常道であり、道路の拡幅や区画整理でも行われてきた。しかし平時には、土地の取得、権利の調整、代替地の用意といった手続に長い時間がかかる。建物疎開は、防空という緊急の目的のもとで、この手続の時間を極端に圧縮した。都市の形を短期間に大きく変える操作が、計画の論理ではなく防護の論理で行われたのである。
ここでも、空地に求められた質は最小限であった。必要なのは幅と連続性であり、そこに何を植えるか、誰がどう使うかは問題にされない。緑地計画が持っていた保健・レクリエーション・景観といった目的の束は、この段階ではほとんど残っていない。空地は目的の書かれていない土地であるという第2節の整理が、最も純粋な形で現れた局面だと言える。
6.2 疎開空地と公園の関係
建物疎開と公園の関係は、二つの方向から整理できる。第一に、公園はしばしば疎開空地帯の骨格の一部として想定された。すでに建物がなく、公有地であり、まとまった面積を持つ公園は、帯を連続させるうえで有利な条件をそなえていたからである。この意味で、公園は疎開空地の計画に組み込まれる側にあった。
第二に、疎開によって生じた土地が、のちに公園や道路として使われる方向がある。敗戦後の復興計画のなかで、疎開によって空いた帯が広い道路や緑地として位置づけられた例があるとされる。土地は取り壊しの理由が消えても消えず、次の目的を待つ。第2節で述べた土地の慣性が、ここでも働いている。
6.3 制度が土地に残す痕跡
この二方向を合わせて考えると、都市の空間には、目的が変わっても形が残るという性質があることがわかる。ある時期に防護のために空けられた帯は、次の時期には交通のための道路として、さらに次の時期には緑の軸として説明され直す。説明は入れ替わるが、線の位置はおおむね動かない。都市計画史の記述がしばしば土地の来歴を追うのは、この痕跡が現在の都市の形を規定しているからである。
公園について言えば、ある公園がなぜそこにあるのかという問いに対する答えは、公園の目的だけからは出てこないことが多い。もともと城の跡だから、社寺の境内地だったから、河川の管理用地だったから、区画整理で生まれた残地だったから、疎開で空いた土地だったから。公園は、他の理由で建物が建たなかった土地を引き受ける施設でもある。この性質は、公園が弱い施設であることの裏返しでもあり、同時に、公園が思いがけず長く残ることの理由でもある。
本稿の枠組みでまとめれば、建物疎開の段階では、制度の層が使用の層を直接に作り替えた。通常であれば、制度の層は使用の層をゆるやかに枠づけるにすぎない。決定されても実現しない計画は珍しくない。ところがこの段階では、決定が短い時間で土地の姿を変えた。制度と使用の距離が消えたこの局面は、都市計画の歴史のなかでも例外的である。そして、この例外を経た土地の上に、戦後の都市計画は組み立てられることになる。
なお、本節の記述は施策の枠組みに限られる。実際にどの都市のどの区域で建物疎開が行われ、どれだけの範囲に及んだかは、都市ごとに大きく異なる。本稿はその具体を扱う立場になく、また扱うだけの史料も持たない。この点は第9節で磐田市について述べる際にも、同じ制約として繰り返し確認する。
7. 戦後の空白——住宅難と公園予定地、そして都市公園法(1956年)へ
1945年の敗戦とともに、公園をめぐる状況は再び反転する。防空の目的が消え、空地を空けておく理由は失われた。一方で、焼けた市街地の再建と、住まいを必要とする多くの人びとという現実が残った。本節では、敗戦から都市公園法制定(1956年)までの約10年間を、制度の層と使用の層の乖離が最も大きかった時期として整理する。
7.1 復興計画は緑地を掲げた
制度の層では、復興は早い段階から計画として構想された。1945年12月に閣議決定された戦災復興計画基本方針は、戦災を受けた都市の復興の考え方を示し、広い幅員の道路や公園緑地の確保を復興計画の柱に位置づけた。翌1946年には特別都市計画法が定められ、戦災都市の土地区画整理を進める仕組みと、市街地の膨張を抑えるための緑地地域という地域区分が用意された。
これらの方針は、戦前の緑地計画の思想を引き継いでいる。焼けて更地になった市街地は、計画からすれば書き直しの機会でもあった。道路を広げ、公園を配置し、緑地を確保する。復興計画に描かれた公園緑地の量は、それ以前の市街地が持っていたものより大きかったとされる。制度の層だけを見れば、この時期は公園にとって前進の時期である。
7.2 現実は住まいを必要としていた
しかし使用の層では、まったく別のことが起きていた。焼失した住宅、外地からの引揚げと復員による人口の移動、資材の不足。住まいの不足は深刻であり、人びとは使える土地を使った。公園、公園予定地、河川敷、駅前の空地。制度の上では公園であっても、そこに小屋が建ち、畑が耕され、露天の商いが並ぶという事態が生じた。行政の側も、住むところのない人を空地から排除することは容易ではなく、緊急の措置として黙認や一時使用の許可が行われる場面があった。
ここで生じていたのは、第2節で述べた二層の分離の、最も大きな形である。制度の層では、その土地は公園として計画され、あるいはすでに公園として供用されていた。使用の層では、そこは住まいであり畑であり市場であった。しかも、この分離を正すことは、当時の状況では正しい選択とも言い切れない。人が住む場所を失うことと、公園が公園に戻ることを比べれば、優先順位は明らかだったからである。
7.3 計画の縮小——1949年の再検討
さらに、制度の層の側でも後退が起きる。1949年、戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針が閣議決定された。財政の引き締めのもとで、当初の復興計画は規模が大きすぎるとされ、事業の対象区域や道路の幅員、公園緑地の量が見直された。多くの都市で、計画に描かれていた公園のいくつかは実現しないまま計画から落ちた。
この経過は、公園という施設の位置をよく示している。財政が切り詰められるとき、削られる順は施設の性格によって決まる。道路や上下水道のように、なければ他の活動が成り立たない施設は残り、公園のように、なくても当面は困らない施設は後回しになる。第1節で述べた非対称性が、戦時期とは別の形で、平時に戻りつつある局面でも繰り返されたのである。
7.4 公園を守る法律がなかったという問題
この10年間を通して明らかになったのは、制度上の空白であった。旧都市計画法は、公園を都市計画施設として決定する法律であって、できあがった公園をどう設置し、どう管理し、どのような場合に廃止できるかを定める法律ではなかった。つまり、公園をつくる根拠はあっても、公園を公園として保つ根拠が弱かったのである。占用や一時使用の扱いも、統一した基準を欠いていた。
昭和31年(1956年)に制定された都市公園法は、この空白に応えるものである。同法は、都市公園の設置と管理に関する基準を定め、公園に設けることのできる施設の範囲を整理し、占用の要件を明確にした。そして重要な点として、いったん設けた都市公園をみだりに廃止することを制限した。公園をつくるための法律ではなく、公園を守るための法律という性格が、ここに現れている。
同法とその施行令は、公園の種別と規模の標準も定めた。街区公園は標準面積0.25ヘクタール・誘致距離250メートル、近隣公園は2ヘクタール・500メートル、地区公園は4ヘクタール・1キロメートルという目安であり、制定当初は街区公園にあたる区分が児童公園と呼ばれ、1993年の改正で街区公園に改称された。目安が示されたことで、公園は各都市が場当たりに設けるものから、人口と市街地の広がりに応じて配置すべきものへと性格を変えた。
もっとも、法律ができたからといって、公園がただちに戦前の姿を取り戻したわけではない。第5節で述べたとおり、失われたもののうち設備は買い直さなければならず、樹木は育つのを待たなければならない。財政の制約も続いていた。都市公園法が用意したのは、公園を公園として保つための枠であって、中身を満たす資源ではない。中身が本格的に整えられていくのは、その後の経済成長のなかで公園の整備が量的に進む時期を待つことになる。
本稿の枠組みでいえば、都市公園法の意義は、制度の層と使用の層を再び結びつけたことにある。制度の層で公園と決められた土地が、使用の層でも公園として使われ続けるように、廃止と占用に歯止めをかけた。戦時期から戦後にかけての約20年間に起きた分離の経験が、この立法の背景にある。
8. 検討——公園は本当に「最初に失われた」のか
ここまでの記述に対しては、いくつかの反論が想定される。本節ではそれらに応答しながら、戦時期の経験から取り出せる一般的な知見を整理する。反論に答えることは、主張を強めるためではなく、主張の届く範囲を確かめるための手続である。
8.1 反論1——戦時期にはむしろ緑地が増えたのではないか
第一の反論はこうである。防空の観点から緑地の確保が正当化され、計画上の緑地が土地として押さえられたのだから、戦時期は公園緑地にとって失われた時代ではなく、むしろ確保が進んだ時代ではないか。この指摘は、制度の層に関するかぎり正しい。第4節で述べたとおり、緑地に複数の位置づけが重なることで、その土地を他の用途に転じることは難しくなった。
しかしこれは、公園が守られたことを意味しない。守られたのは、建物が建たない土地という条件だけである。使用の層では、広場は耕され、設備は取り外され、人が集まって遊ぶ機能は止まっていた。したがって、増えたのか減ったのかという問い自体が、二層を分けずに立てられている点で不正確である。答えは、土地としては確保され、施設としては停止した、となる。以下の表に、二つの層の動きを整理する。
| 時期 | 制度の層(法令・計画のうえで) | 使用の層(現実に何に使われたか) |
|---|---|---|
| 1930年代後半 | 緑地計画により面として位置づけ | 多くは農地・樹林のまま、公園は通常の利用 |
| 1940年前後 | 防空空地として位置づけが重なる | 利用は制限され、広場は耕作へ |
| 1943年以降 | 疎開空地として空地を造成 | 設備は供出、地面は掘られる |
| 1945〜1949年 | 復興計画で公園緑地を大きく確保 | 住まい・畑・商いに使われる |
| 1949〜1955年 | 財政の制約で計画が縮小 | 回復は部分的、設備の復旧は遅れる |
| 1956年以降 | 都市公園法が管理と廃止制限を定める | 二つの層が再び結びついていく |
8.2 反論2——戦後の転用は行政の怠慢ではないのか
第二の反論は、敗戦後に公園が住まいや畑に使われたことを、管理の失敗として評価すべきだというものである。本稿はこの評価をとらない。理由は二つある。ひとつは、住まいを必要とする人が現に存在し、使える土地が限られていた状況では、公園の回復を最優先に置くことが正しかったとは言えないためである。もうひとつは、当時は公園の管理と占用について統一した基準を定める法律がなく、判断の枠組み自体が存在しなかったためである。基準がない状態での判断を、後の基準で裁くことはできない。
本稿が指摘したいのは、個々の判断の当否ではなく、そこに繰り返し現れる構造である。切迫した必要が生じたとき、都市のなかで最初に差し出される土地は、目的が特定の設備に強く結びついていない広い土地である。公園はその条件をよく満たす。したがって公園が先に使われるのは、誰かの怠慢というより、公園という施設の性質から導かれる帰結である。だからこそ、性質を打ち消すための制度——1956年の都市公園法のような歯止め——が必要になったと理解できる。
8.3 反論3——戦時期は例外であり、現在には関係がないのではないか
第三の反論は、戦時期という極限の状況から現在に通じる教訓を引き出すのは無理があるというものである。たしかに、当時と現在では制度も社会も大きく異なる。現在は都市公園法のもとで公園の廃止と占用に手続が定められており、災害時の利用についても防災の法制と計画のなかで位置づけがある。戦時期の経験がそのまま繰り返されると考える理由はない。
ただし、公園が持つ性質そのものは変わっていない。公園は、他の施設に比べて目的が緩やかで、代替の用途が多く、失われても短期的には誰も困らない。この三つが揃っているかぎり、資源や土地が不足する局面で公園が先に検討の対象になる構造は残る。財政が厳しくなれば維持管理の水準が下がり、用地が必要になれば公園が候補に挙がる。戦時期は、この構造が最も鮮明に見えた事例として読める。例外ではなく、拡大された標本である。
8.4 一般化——公園の弱さと強さ
以上をまとめると、公園の弱さは三つの性質から説明できる。第一に、用途が特定の設備に依存しない広い土地であること。第二に、緊急時に代替できる用途が多いこと。第三に、主な利用者である子どもや高齢者が、制度上の意思決定に加わりにくいことである。第三の点は、公園が削られるときに反対の声が上がりにくい理由でもある。
一方で、公園には三つの強さもある。第一に、土地は動かないこと。設備が失われても土地は残り、条件が整えば再び公園になる。第二に、公有地として台帳と図面に記録が残ること。記録は、いつか誰かが元に戻すための手がかりになる。第三に、名前が残ること。地名や園名は、その土地に前の姿があったことを伝え続ける。戦後に多くの公園が再開できたのは、この三つが働いたからである。公園は失われやすいが、消えにくい。この二つは矛盾しない。
9. 磐田市の公園への示唆
本節では、ここまでの整理を磐田市の公園に引き寄せる。ただし最初に断っておかなければならないことがある。当サイトは磐田市の都市公園100園のデータベースを持つが、その内容は市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドの記載を突き合わせた現在の姿であり、個々の園の来歴を示す史料は含まれていない。磐田市の戦時期に公園や緑地に何が起きたかについて、当サイトは資料を持たない。したがって本節は、磐田市がこうだったと述べるものではなく、この論考の視点で磐田市の公園を見るとどこに問いが立つかを示すものである。現地の踏査もこれから始まる段階にある。
9.1 手元にある事実——100園の構成
当サイトが収録する磐田市の公園は100園である。内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、そして法の対象外にあたる園が6園である。地区別では、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園となっている。管理は磐田市都市整備課(電話 0538-37-4806)が担っている。
この構成をそのまま読めば、第7節で述べた都市公園法の種別が、そのまま磐田市の公園の並びに現れていることがわかる。街区公園が過半を占める形は、標準面積0.25ヘクタール・誘致距離250メートルという街区公園の目安が、市街地の広がりに合わせて積み重ねられた結果として理解できる。制度が土地の姿に残した痕跡という第6節の論点は、遠い都市の話ではなく、身近な園名の一覧の上にも読み取れる。
9.2 問いの立て方1——まとまった土地はいつ確保されたのか
本稿の関心からまず気になるのは、規模の大きな園である。磐田市では、竜洋海洋公園が221,722平方メートル、かぶと塚公園が106,982平方メートル、つつじ公園が61,937平方メートル、磐田スポーツ交流の里ゆめりあが57,500平方メートル、兎山公園が56,193平方メートル、福田公園が49,620平方メートル、中央公園が41,642平方メートルと記録されている。市街地のなかにこれだけまとまった土地が公園として存在するという事実は、それ自体が問いを含んでいる。その土地は、なぜ建物で埋まらなかったのか。
第6節で述べたとおり、公園は他の理由で建物が建たなかった土地を引き受けることが多い。河川や海に近い土地、丘陵地、公有地、工場や施設の跡地、区画整理で生まれた土地。どの理由が当てはまるかは園ごとに異なり、史料にあたらなければ判定できない。当サイトが今後の踏査と資料調査で確かめるべき第一の項目は、大規模な園について、その土地がいつ、どの制度のもとで確保されたのかである。
9.3 問いの立て方2——別の理由で守られた土地
磐田市には、公園としての目的とは別の理由で建物が建たなかったと考えられる園がある。歴史公園に区分される遠江国分寺史跡公園は21,600平方メートル、京見塚公園には市の施設ガイドに京見塚古墳の記載があり、一ノ谷公園には一ノ谷遺跡の記載がある。中泉の御殿遺跡公園も、園名に遺跡の語を含む。これらは、遺跡や古墳という理由で土地が保存され、その保存された土地が公園という形をとっている例と読める。
第3節から第6節で追ったのは、防護という別の目的が緑地を残したという経路であった。史跡の保存もまた、公園以外の理由が土地を残す経路のひとつである。理由は異なるが、構造は同じである。公園は、単独では守りにくく、他の目的と重なることで守られやすい。この観察は、現在の公園の維持を考えるうえでも意味を持つ。避難場所としての位置づけ、雨水を受け止める土地としての役割、地域の記憶を留める場所としての価値——目的が重なるほど、その土地は動かしにくくなる。
9.4 問いの立て方3——名前に残る制度の層
第三に、園名そのものが手がかりになる。磐田市には、豊田海老塚農村公園、豊田富里農村公園、豊田中野戸農村公園、豊田森本農村公園、南部の浜部農村公園のように、名称に農村公園を含む園がある。また、豊田上新屋ポケットパーク、豊田森下ポケットパーク、磐田ららシティ西ポケットパークのようにポケットパークを名乗る園や、二之宮東第1緑地・第2緑地、県営磐田団地第1緑地・第2緑地のように緑地を名乗る園もある。二之宮東第2緑地は17平方メートルであり、公園として台帳に載る土地の最小の姿を示している。
これらの名称は、その園が生まれた時期の制度や事業の呼び名を留めている可能性が高い。名称の由来を確かめることは、その土地がどの制度の層に属して確保されたのかを知る手がかりになる。ただし、名称から来歴を推定して断定してはならない。当サイトの方針として、由来は市の資料や地域の記録で確かめられるまで書かない。
9.5 当サイトが踏査で確かめる項目
以上をふまえ、今後の踏査と資料調査で確かめるべき項目を整理しておく。踏査済みの園はまだ0園であり、以下はこれからの作業の設計図である。
- その土地がいつから公園として位置づけられているか。市の資料で確認できる範囲の開設時期。
- 公園になる前、その土地は何であったか。史跡、河川の管理用地、公有地、区画整理による土地など、確認できる範囲の来歴。
- 園名の由来。地名に由来するのか、制度や事業の名称に由来するのか。
- 園内に残る古い構造物、記念碑、樹木の大きさなど、時間の層を示す手がかりの有無。
- 地域の記録や市の刊行物に、その園に関する記述があるかどうか。
これらは、遊具や便益施設の記録とは別に、園ごとの時間の層を記す欄として設けるべき項目である。公園のデータベースは、現在の設備の一覧であると同時に、その土地がどれだけの時間をくぐってきたかの記録でもありうる。第8節で公園の強さとして挙げた三点のうち、記録が残ることと名前が残ることは、当サイトの作業が直接に関わる部分でもある。
10. 結論と今後の課題
本稿は、1930年代後半から1956年の都市公園法制定までの約20年間に、日本の公園と緑地が制度と現実の両面で何を経験したかを、制度史・都市計画史の事実にもとづいて整理してきた。最後に、第1節で立てた三つの問いに答え、残された課題を示す。
10.1 三つの問いへの答え
第一の問い、戦時期の法令と計画のうえで公園と緑地はどう位置づけ直されたか。答えは、空地として読み替えられた、である。1930年代に成立した緑地という概念は、公園と、公園ではない緑の土地とを同じ計画の枠に収めた。1939年の東京緑地計画が確保しようとした面としての緑は、防空法制のもとで、燃えるものがない土地としての価値を認められた。土地に複数の位置づけが重なることで、宅地への転用は抑えられた。制度の層では、公園の土地は失われるどころか安定した。
第二の問い、公園の実体に何が起きたか。答えは、取り出せるものから順に失われた、である。平らな地面は耕作地になり、鉄でできた遊具と柵は金属類回収令のもとで供出され、地面は掘られ、樹木は伐られた。このうち耕作は可逆的だが、供出と伐採は不可逆である。そして土地だけは動かず、残った。公園が平時の贅沢とみなされ最初に失われたという言い方は、公園の中身については当たり、公園の土地については当たらない。
第三の問い、公園はどのようにして再び公園になったか。答えは、二つの層を結び直す法律を必要とした、である。敗戦後、復興計画は公園緑地の確保を掲げたが、住宅難のもとで公園と公園予定地は住まいや畑として使われ、1949年の再検討で計画の規模は縮んだ。制度の層で公園と決められた土地が、使用の層でも公園であり続けるための根拠は、当時の法制には十分に用意されていなかった。1956年の都市公園法が設置と管理の基準を定め、廃止を制限したことは、この経験への応答として理解できる。
10.2 本稿の限界
本稿には明確な限界がある。第一に、扱った制度と事例は大都市に偏っている。緑地計画も建物疎開も、記録が豊富に残るのは大都市であり、地方の中小都市で公園と緑地がどのように扱われたかは、本稿の方法では十分に扱えなかった。地方都市の戦時期の公園史は、公園史全体のなかでもとりわけ記述の薄い領域である。
第二に、本稿は使用の層について、一般的な傾向を述べるにとどまった。どの公園でどれだけの範囲が耕作に供され、どの設備が供出されたかという具体は、個々の公園の記録にあたらなければわからない。本稿が第5節と第6節で繰り返し留保を置いたのは、そのためである。
第三に、公園を使っていた側、とりわけ子どもの経験については、本稿はほとんど何も言えていない。制度史の方法では、遊べなくなった時間をどう過ごしたのかという問いに答えられない。これは、聞き書きや日記など別の史料と方法を要する主題である。
10.3 今後の課題
以上をふまえ、今後の課題を三つ挙げる。第一に、地方都市における戦時期の公園と緑地の扱いを、市町村の資料や地域の記録から積み上げること。第二に、磐田市の100園について、園ごとの土地の来歴を確かめ、当サイトの記録に時間の層を示す欄を設けること。第三に、本稿が取り出した公園の弱さと強さという構造を、現在の課題に接続して検討することである。
第三の点について、ひとつだけ付け加えておきたい。公園に複数の役割を重ねることは、その土地を守る力になる一方で、公園を公園たらしめている使用の側面を薄める危険も持つ。戦時期に起きたのは、まさにその極端な形であった。避難の場所として、雨水を受け止める土地として、地域の集まる場所として公園を位置づけることには意味がある。しかし同時に、そこで人が遊び、休み、何もせずに過ごすという用途そのものを、独立した価値として言葉にし続ける必要がある。二つの層のうち、使用の層を語る言葉が失われたとき、公園は土地としてだけ残ることになるからである。
当サイトは磐田市の公園100園のデータベースであり、踏査はこれから始まる。本稿が示したのは、園を訪ねるときに設備の有無だけでなく、その土地がどのような時間をくぐってきたのかを問うという視点である。畑になった公園という本稿の題は、失われたものを数え上げるためではなく、それでも土地が残り、公園に戻ったという事実を記録として残すために選んだ。歩いて確かめる作業は、これからである。
参考文献
- 旧都市計画法(大正8年法律第36号)
- 防空法(昭和12年〈1937年〉法律第47号)およびその後の改正
- 東京緑地計画(昭和14年〈1939年〉・内務省 東京緑地計画協議会)
- 金属類回収令(昭和16年〈1941年〉)
- 都市疎開実施要綱(昭和18年〈1943年〉12月・閣議決定)
- 戦災復興計画基本方針(昭和20年〈1945年〉12月・閣議決定)
- 特別都市計画法(昭和21年〈1946年〉)
- 戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針(昭和24年〈1949年〉・閣議決定)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 都市計画法(昭和43年〈1968年〉法律第100号)
- 佐藤昌(1977)『日本公園緑地発達史』上・下(都市計画研究所)
- 田中正大(1974)『日本の公園』(SD選書、鹿島出版会)
- 石田頼房(1987)『日本近代都市計画の百年』(自治体研究社)
- 越沢明(1991)『東京都市計画物語』(日本経済評論社。のちちくま学芸文庫、2001)
- 丸山宏(1994)『近代日本公園史の研究』(思文閣出版)
- 小野良平(2003)『公園の誕生』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。