計画・工学都市計画学
パークシステムの思想——オルムステッドのエメラルド・ネックレスから緑の基本計画へ
要旨
本稿の目的は、都市計画学の立場から、公園を一つひとつの「点」としてではなく、都市全体に配置された「系(システム)」として捉える思想の系譜を整理し、日本の都市公園の階層配置——街区公園・近隣公園・地区公園・総合公園という入れ子の体系——がどのような考え方の上に成り立っているのかを明らかにすることである。方法は文献整理と法令・公的資料の整理であり、独自の実地調査には基づかない。
本論ではまず、19世紀後半のアメリカでフレデリック・ロー・オルムステッドが構想した「パークシステム」、とりわけボストンのエメラルド・ネックレスを取り上げ、公園を園路(パークウェイ)と水系でつなぎ、治水や衛生などの都市基盤の役割を兼ねさせた思想を検討する。次にエベネザー・ハワードの田園都市論(1898年)が都市全体を農業地帯と公園で「包む」構想であったこと、クラレンス・ペリーの近隣住区論(1929年)が公園を小学校とともに住区という「単位」に組み込んだことを整理する。そのうえで、明治6年(1873年)の太政官布達から都市公園法(1956年)、緑の基本計画(1994年)、都市公園法改正(2017年)に至る日本の公園緑地行政の通史をたどり、施行令と国の標準が示す誘致距離と標準面積の階層が、これらの思想をどのように受け継ぎ、どこで独自の形をとったのかを論じる。
検討の結果、日本の階層配置は、ペリー流の「単位」の思想を法令上の標準に翻訳したものであり、オルムステッド流の「つなぐ」思想は緑道・都市緑地・河川敷の公園、そして緑の基本計画のネットワークの発想として、階層の外側に置かれてきた、という見通しを得た。階層モデルには円形の誘致圏の限界、車社会と人口減少への不適合などの批判があるが、最低限の供給を担保する装置としては今も有効であり、ネットワークの思想と補完関係にあると本稿は解釈する。
最後に、磐田市の都市公園100園の種別別園数(街区公園51・近隣公園14・地区公園4・総合公園3ほか)と面積・地区分布をこの階層で読み、階層のピラミッドがどのように現れているか、標準面積に照らして何が言えるかを示す。ただし当サイト(ATAWI PARK)の現地踏査は始まっていないため、誘致圏の実際の充足や園内の使われ方はすべて今後の課題として残す。
キーワードパークシステムエメラルド・ネックレス田園都市近隣住区誘致距離緑の基本計画磐田市
1. はじめに——問題の所在
家の近くの公園を思い浮かべるとき、私たちはたいてい一つの公園を思い浮かべる。滑り台のある公園、桜のきれいな公園、野球場のある大きな公園。しかし都市計画学は、公園をそのように一つずつ見ることをしない。都市計画学が見るのは、ある都市に公園がどのように配置されているか——小さな公園が住宅地に散らばり、やや大きな公園が数百メートルおきにあり、市全体で一つか二つの大公園がある、という全体の姿である。この全体を、都市計画学は古くから「パークシステム(公園系統)」と呼んできた。
パークシステムという言葉を最初に実務として形にしたのは、19世紀後半のアメリカの造園家フレデリック・ロー・オルムステッドである。彼がボストンで手がけた一連の公園群は、のちに「エメラルド・ネックレス(翡翠の首飾り)」と呼ばれるようになった。首飾りという比喩が示すとおり、そこでは公園は宝石のように一粒ずつ置かれるのではなく、鎖でつながれた一本の連なりとして構想された。日本の都市公園法施行令と国土交通省の標準が示す「街区公園・近隣公園・地区公園・総合公園」という種別の階層も、公園を一つずつではなく体系として配置する思想の、日本における一つの到達点である。
本稿の問いは三つある。第一に、公園を系として配置する思想はどこから来て、何を目指したのか。オルムステッドのパークシステム、エベネザー・ハワードの田園都市、クラレンス・ペリーの近隣住区という三つの古典的な構想は、それぞれ公園を都市のどこに置こうとしたのか。第二に、日本の都市計画における公園緑地の位置づけ——旧都市計画法(1919年)から都市公園法(1956年)、緑の基本計画(1994年)に至る流れ——は、これらの思想をどのように受け継ぎ、どこで独自の形をとったのか。第三に、磐田市の都市公園100園を種別別に数えたとき、その数字は階層配置の思想の何を映しているのか。
1.1 なぜ都市計画学から公園を論じるのか
公園を論じる学問は多い。造園学は園内の設計を、公衆衛生学は身体活動を、社会学は人のつながりを扱う。都市計画学が固有に扱うのは、公園と公園のあいだである。ある公園がどれだけよく設計されていても、そこまで歩いて行けない住民にとっては存在しないのと同じである。逆に小さな公園でも、250メートルおきに置かれていれば、市街地のほぼ全域が徒歩数分で公園に届く。公園の価値の半分は園内にあり、残りの半分は配置にある——これが都市計画学の前提である。
この前提は、行政の実務ではあまりに当然とされていて、その由来が問い直されることは少ない。「街区公園は0.25ヘクタール、誘致距離250メートル」という数字は、なぜその値なのか。近隣公園の500メートル、地区公園の1キロメートルという入れ子は、誰の、どのような都市像から来たのか。本稿はこれらの数字の背後にある思想を、原典にさかのぼって確かめようとする。
1.2 方法と構成
方法は文献整理と法令・公的資料の整理である。オルムステッドの講演「公共公園と都市の拡大」(1870年)、ハワードの『明日の田園都市』(1898年初版・1902年改題版)、ペリーの『近隣住区論』(1929年)といった原典と、ルイス・マンフォード、ピーター・ホールらによる都市計画史の通史、日本については都市公園法・同施行令・都市計画法・都市緑地法の条文と国土交通省の運用指針、石川幹子・越澤明らの研究を参照する。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園のデータベースであるが、現地踏査はこれから始まる段階であり、本稿で磐田市について述べるのは、市のオープンデータと施設ガイドから読み取れる種別・面積・地区の数字にとどまる。
構成は次のとおりである。第2節で主要な概念と用語を整理し、四つの思想を一つの表にまとめる。第3節から第5節で、オルムステッド、ハワード、ペリーの構想を順に検討する。第6節で日本の公園緑地行政の通史を年表とともにたどり、第7節で階層配置の標準そのものを分析する。第8節で階層モデルへの批判と、それに対する応答を述べる。第9節で磐田市の100園を階層で読み、第10節で結論と今後の課題を示す。読者としては、磐田市周辺の子育て世代、行政や地域活動の関係者、都市や公園に関心をもつ学生を想定し、専門用語は初出のたびに説明する。
2. 先行研究と概念の整理
本節では、本稿で用いる主要な用語を定義し、公園を系として配置する四つの思想を一つの表に並べて見取り図を示す。まずパークシステム(park system)とは、複数の公園を園路や並木道、河川などでつなぎ、都市全体で一つの体系として計画・整備する考え方である。19世紀後半のアメリカで生まれ、オルムステッドと後継者たちが各都市で実践した。個々の公園を結ぶ緑の道はパークウェイ(parkway)と呼ばれ、公園でありながら道路でもある中間的な施設として構想された。
田園都市(garden city)は、イギリスの速記者エベネザー・ハワードが1898年の著書で提唱した都市像で、農業地帯に囲まれた人口数万人の自足的な都市を、大都市の外側に新しくつくるという構想である。都市の中心と周縁に公園を置き、都市全体を農地の帯で包む点で、公園と緑地を都市の骨格に据えた。近隣住区(neighborhood unit)は、アメリカの社会事業家クラレンス・ペリーが1929年に定式化した住宅地計画の単位で、小学校一校を中心に、通過交通の入らない住区をつくり、その中に小公園を配するという考え方である。
日本の法制度に目を移すと、誘致距離とは、その公園が主として受け持つ利用者が住む範囲を半径で表した距離であり、街区公園250メートル、近隣公園500メートル、地区公園1キロメートルという値が国の標準として示されている。標準面積はそれぞれ0.25ヘクタール、2ヘクタール、4ヘクタールである。緑の基本計画は、市町村が公園だけでなく緑地の保全と緑化を含めて緑の将来像を描く計画で、1994年の都市緑地保全法(現・都市緑地法)改正で制度化された。
| 思想 | 提唱者・年 | 公園をどこに置くか | 空間の形 | 計画の単位 |
|---|---|---|---|---|
| パークシステム | オルムステッド(1870年講演・1878年〜ボストン) | 既存の名所・水系・湿地をつなぐ位置 | 線状の連なり(首飾り) | 都市全体・のちに都市圏 |
| 田園都市 | ハワード(1898年) | 都市の中心と周縁、そして都市を包む農業地帯 | 同心円と放射 | 人口数万人の一都市 |
| 近隣住区 | ペリー(1929年) | 小学校を中心とする住区の内側 | 幹線道路で囲まれた区画 | 小学校一校分の住区 |
| 階層配置標準 | 都市公園法施行令(1956年)・国の標準 | 誘致距離の円が市街地を覆う位置 | 半径の異なる円の入れ子 | 街区・近隣・地区・都市 |
2.1 通史研究の位置
これら四つの思想を一つの流れとして描いた通史研究として、ルイス・マンフォード『歴史の都市 明日の都市』(1961年)と、ピーター・ホール『Cities of Tomorrow』(1988年)が広く読まれてきた。マンフォードは田園都市を高く評価し、20世紀の都市計画をハワードの理念の実現と裏切りの歴史として描いた。ホールは、パークシステム、田園都市、近隣住区、そしてル・コルビュジエの機能主義的都市に至る諸潮流を、それぞれの社会背景とともに整理し、理念が実務に翻訳される過程で何が失われたかを論じている。日本については、越澤明が『東京の都市計画』(1991年)などで帝都復興と戦前の緑地計画を、石川幹子が『都市と緑地』(2001年)で欧米と日本の公園緑地計画の系譜を扱っている。
本稿の位置づけは、これらの通史を新しい史料で書き換えることではない。むしろ、通史の中では脇役として扱われがちな「公園の配置」という論点だけを取り出し、四つの思想が公園をどこに置こうとしたかを比較することにある。田園都市論は都市の規模と土地所有の議論として、近隣住区論は住宅地と道路の議論として読まれることが多いが、どちらも公園の位置について明確な提案を含んでいる。それを取り出して並べると、日本の階層配置標準がどの系譜に属するかが見えてくる。
2.2 「系」と「階層」の区別
本稿では「系(システム)」と「階層(ヒエラルキー)」を区別して用いる。系とは、公園同士が空間的につながり、一つの公園から次の公園へ歩いて移動できる状態を指す。オルムステッドのパークシステムはこの意味での系である。階層とは、公園が規模と受け持ち範囲によって段階づけられ、小さい公園の受け持ち範囲が大きい公園の受け持ち範囲に含まれる入れ子の状態を指す。日本の街区・近隣・地区・総合という種別はこの意味での階層である。系はつながりを、階層は覆いを問題にする。両者は両立しうるが、同じものではない。この区別が本稿の分析の軸となる。
3. オルムステッドのパークシステム——公園を「つなぐ」思想
フレデリック・ロー・オルムステッド(1822〜1903年)は、農場経営や紀行文の執筆を経て、1858年にカルヴァート・ヴォークスとともにニューヨークのセントラルパークの設計競技に当選し、造園家としての生涯を始めた。セントラルパークは一つの大公園であるが、彼の関心はすぐに、公園を一つつくることから、都市全体に公園をどう配置するかへと移っていく。1868年に着手したバッファローの公園計画では、三つの公園を幅の広い並木道で結び、都市全体で一体の系をつくった。これがアメリカで最初のパークシステムとされる。同じころブルックリンのプロスペクトパークでは、公園から放射状に伸びるパークウェイを提案し、公園と道路の中間にある新しい施設の型を示した。
1870年、オルムステッドはボストンで「公共公園と都市の拡大」と題する講演を行った。この講演で彼は、産業化した都市に人口が集中し続けることを前提としたうえで、公園は都市の外に逃げ出すためのものではなく、都市の内側で健康と落ち着きを回復するための装置であると論じ、公園を市民の日常の動線の中に置くべきだと主張した。ここには、公園を都市の「例外」ではなく都市の「一部」として計画するという、以後の都市計画学の基本姿勢がすでに表れている。
3.1 エメラルド・ネックレス
1878年ごろからオルムステッドがボストンで手がけた一連の仕事が、のちに「エメラルド・ネックレス」と呼ばれる公園群である。出発点は美観ではなく衛生であった。ボストンの西側に広がるバックベイ・フェンズと呼ばれる潮汐湿地は、埋め立てと下水の流入によって悪臭と洪水の源となっており、市はその改良を求めていた。オルムステッドの解答は、湿地を埋めて宅地にすることでも、単に排水路をつくることでもなく、湿地を貯水池を兼ねた公園として整備し、その水系に沿って上流へ公園を連ねていくことであった。
こうしてバックベイ・フェンズから、マディ川に沿うリバーウェイ、ジャマイカ池、ハーバード大学の樹木園であるアーノルド樹木園、そして郊外の丘陵に広がるフランクリンパークまでが、園路と水系でつながれた。さらにその都心側では、17世紀に遡るボストン・コモンと19世紀前半のパブリック・ガーデン、コモンウェルス街の並木道が、既存の資源として首飾りの端に組み込まれた。全長はおよそ11キロメートルとされる。ここで重要なのは、この首飾りが最初から一つの図面として構想されたのではなく、湿地の改良、川の治水、既存の名所の活用といった個別の課題を、一本の連なりとして解いていった結果であるという点である。
3.2 パークシステムの三つの原理
オルムステッドの実践から、都市計画学は三つの原理を読み取ってきた。第一は連結の原理である。公園は孤立した点ではなく、パークウェイや水辺の園路でつながれてこそ、市民が日常の移動の中で緑に触れる機会をつくる。第二は複合の原理である。公園は治水・排水・衛生といった都市基盤の役割を兼ねることができ、そうすることで公園の整備費用は基盤整備の費用として正当化される。バックベイ・フェンズはその典型であり、この発想は今日「グリーンインフラ」と呼ばれる考え方の遠い祖先とみなされる。第三は先行の原理である。公園と園路は市街地が広がる前に確保され、その後の市街地の形を導く骨格となる。
この三原理は、オルムステッドの弟子や同時代の造園家によって各都市に広められた。ミネアポリスでは湖沼をつなぐ環状の園路系統が、カンザスシティではジョージ・ケスラーによる公園と大通りの系統が計画された。ボストンでは、オルムステッドの事務所で学んだチャールズ・エリオットが1893年の都市圏公園委員会の設立に関わり、市域を越えた都市圏の規模で森林や海岸を保全区として確保する構想へと系の範囲を広げた。パークシステムは、一都市の公園群から都市圏の緑地系統へと成長していったのである。
ただし、この思想には限界もあった。パークシステムは水系や地形という与件に沿って線状に伸びるため、その線から離れた住宅地には公園が届かない。エメラルド・ネックレスは首飾りとしては美しいが、首飾りの外側にある住民に等しく公園を届ける仕組みではない。都市の全域を公園の受け持ち範囲で「覆う」という発想は、次に見るハワードとペリーを経て、20世紀の配置標準へと引き継がれることになる。
4. ハワードの田園都市——都市を緑で「包む」思想
エベネザー・ハワード(1850〜1928年)は、造園家でも建築家でもなく、議会の速記者であった。彼が1898年に自費出版した『明日——真の改革に至る平和な道』は、1902年に『明日の田園都市』と改題されて版を重ね、20世紀の都市計画に最も大きな影響を与えた一冊とされる。ハワードの出発点は、19世紀末ロンドンの過密と、農村の衰退という二つの問題を同時に解くことであった。有名な「三つの磁石」の図は、都市の磁石(雇用と娯楽はあるが家賃が高く空気が悪い)、農村の磁石(自然はあるが仕事がない)に対して、両者の長所を併せもつ第三の磁石「都市=農村」を掲げる。それを具体化した都市像が田園都市である。
ハワードの図式では、田園都市は約6,000エーカーの土地に人口約32,000人を収容し、そのうち都市部は約1,000エーカーで、残りは農業地帯として恒久的に保たれる。都市部は同心円状に描かれ、中心には庭園と公共建築(市庁舎、図書館、博物館、病院)が置かれ、それを取り巻いて中央公園が広がる。中央公園の外周にはガラス張りのアーケード「水晶宮」があり、その外側に住宅地が広がる。住宅地の中ほどには幅約420フィートの環状の緑地帯「グランド・アベニュー」が通り、そこに学校と教会が配される。最外周には工場と倉庫が環状鉄道に沿って並び、その外に農業地帯が広がる。
この図式で公園がどこに置かれているかを見ると、田園都市の思想の特徴が分かる。公園は三重に置かれている。中心の中央公園、住宅地の中ほどを走る環状のグランド・アベニュー、そして都市全体を包む農業地帯である。オルムステッドが既存の水系に沿って公園を線状に連ねたのに対し、ハワードは白紙の上に、都市のどの住宅からも一定の距離で緑に届くよう、同心円で公園を配した。しかも農業地帯は、都市の膨張を止める境界でもある。田園都市が人口の上限に達したら、農業地帯を越えた先に次の田園都市を建設し、複数の田園都市を鉄道で結んで「社会都市」の群をつくる。ここには、都市の規模を緑で制御し、緑を都市の骨格に据えるという発想が明確に表れている。
4.1 図式から実践へ——レッチワースとその後
ハワードは自らの構想を、著書の中で「図式であって設計図ではない」と繰り返し断っている。実際の田園都市は敷地の地形に応じて形を変えるべきだとされ、1903年に着手されたレッチワースの計画は、建築家バリー・パーカーとレイモンド・アンウィンによって、同心円ではなく地形に沿った形で描かれた。アンウィンはのちに「過密によって得られるものは何もない」(1912年)と題する小冊子で低密度の住宅地を提唱し、田園都市の思想を住宅地計画の技法として広めた。1920年には第二の田園都市ウェルウィンが着手される。ただし、田園都市の思想が世界に広まる過程で最も多く模倣されたのは、農業地帯に囲まれた自足的な都市という本体ではなく、緑の多い低密度の住宅地という外見であった。都市の外縁に緑を多く残した住宅地は「田園郊外」と呼ばれ、田園都市とは区別される。
日本にも田園都市の思想は早く伝わった。1907年には内務省地方局の有志が『田園都市』と題する紹介書を刊行し、1918年に設立された田園都市株式会社は東京郊外に住宅地を開発した。現在の田園調布である。しかしこれは、ハワードの本体である自足的都市ではなく、大都市に通勤する人のための田園郊外であった。田園都市の思想のうち、日本の公園緑地行政に最も長く影響を残したのは、都市を緑の帯で包み、その膨張を止めるという環状緑地帯の発想である。1939年に決定された東京緑地計画には環状の緑地帯が描かれ、戦後の首都圏整備計画にも近郊地帯として引き継がれたが、市街地の拡大の圧力の前に十分には実現しなかったとされる。
4.2 田園都市が公園配置に残したもの
都市計画学の観点から田園都市論が公園配置に残した最大のものは、「都市のどの住まいからも一定の距離で緑に届く」という原則を、図式として明示したことである。オルムステッドの首飾りは水系に沿って伸びるため、その線から離れた住民には届かない。ハワードの同心円は、住宅地の中ほどを環状の緑地が走ることで、どの住宅からもほぼ等距離で緑に達する。この「距離の均等」という発想が、やがて誘致距離という指標に結晶していく。もう一つは、緑地が都市の規模と形を定めるという発想である。公園は都市ができたあとに余った土地に置くものではなく、都市の形を先に決める骨格である。この点でハワードはオルムステッドの「先行」の原理を継ぎ、より徹底させたと言える。
5. ペリーの近隣住区——公園を「単位」に組み込む思想
クラレンス・アーサー・ペリー(1872〜1944年)は、ラッセル・セージ財団の社会事業家であり、ニューヨーク郊外の住宅地フォレスト・ヒルズ・ガーデンズに暮らした経験から、住宅地を計画する単位についての考えを練った。それが1929年に『ニューヨークとその周辺の地域調査』第7巻の一編として発表された「近隣住区」である。ペリーの問題意識は、自動車の普及によって住宅地が幹線道路で切り裂かれ、子どもが小学校まで安全に歩けなくなっていることにあった。彼の解答は、小学校一校を中心とし、幹線道路に囲まれ、内部に通過交通を入れない住区を、住宅地計画の基本単位とすることであった。
ペリーは近隣住区の原則を六つにまとめた。第一に規模——住区の人口は小学校一校を支えるだけの規模とし、面積は住宅密度で決まる。第二に境界——住区は四周を幹線道路で囲み、通過交通はその外側を回す。第三にオープンスペース——住区の内部に小公園と遊び場を、住民の需要に応じて配置する。第四に公共施設の位置——小学校と集会所などは住区の中心にまとめる。第五に商店——日用品の店は住区の周縁、幹線道路の交差点付近に置く。第六に内部の街路——街路は内部の交通量に見合った幅とし、通過交通を寄せつけない形にする。ペリーが示した模式では、住区の半径は小学生が歩ける約4分の1マイル(約400メートル)、面積はおよそ160エーカー(約64ヘクタール)、公園と遊び場は面積のおよそ一割とされる。
5.1 公園はどこに置かれたか
近隣住区論において公園は、都市全体をつなぐ系(オルムステッド)でも、都市を包む帯(ハワード)でもなく、住区という単位の内側の備品として位置づけられた。これは公園配置の思想にとって決定的な転回である。第一に、公園の位置は都市の地形や水系ではなく、住区の中心にある小学校からの距離によって決まる。第二に、公園の規模は住区の人口、すなわち小学校一校分の子どもの数によって決まる。第三に、公園は住区ごとに繰り返し配置される。都市が住区の集合であるなら、公園は住区の数だけ、ほぼ同じ規模で、ほぼ等間隔に置かれることになる。この「同じものを一定の半径で繰り返す」という考え方が、日本の誘致距離と標準面積の直接の祖先である。
同じ1929年、ニュージャージー州のラドバーンでは、クラレンス・スタインとヘンリー・ライトが、ペリーの原則を実際の住宅地に適用した。街区を大きく取り、袋小路の住宅道路と歩行者専用路を分離し、住区の内側に細長い緑地を通して家々の裏庭から公園へ車に会わずに歩けるようにした。この「ラドバーン方式」は歩車分離の代名詞となり、公園を住区の内側に置くことの意味を空間として示した。公園は道路の向こうにあるのではなく、家の裏から続く緑の中にある。
5.2 日本への継承と、それに先立つもの
日本では戦後のニュータウン計画——1960年代の千里ニュータウンなど——が近隣住区論を計画単位として採用し、小学校区ごとに近隣公園を、さらにその内側に児童公園を配するという二段の入れ子が実務の型となった。しかし興味深いのは、この型に似た配置が、ペリーの論文より前に日本で実現していたことである。1923年の関東大震災後の帝都復興事業では、東京の被災地に隅田・浜町・錦糸の三大公園とともに52の小公園が整備され、その小公園の多くが復興小学校に隣接して置かれた。小学校と小公園を一体に配し、平時は子どもの遊び場、災害時は避難と防火の空地とするというこの発想は、ペリーの近隣住区が定式化される数年前に、実務の必要から生まれていた。近隣住区論は日本にとって、外来の理論であると同時に、すでに手にしていた経験を体系化してくれた理論でもあった。
近隣住区論には早くから批判もある。1948年にレジナルド・アイザックスは、近隣住区の理論が実際の住民の生活圏や社会関係と一致しないことを指摘し、1961年にジェイン・ジェイコブズは、都市の活力は住区の内側に閉じることからではなく、街路を介した多様な人の交わりから生まれると論じた。1965年にクリストファー・アレグザンダーは「都市はツリーではない」で、住区を入れ子にした階層構造は都市の実態である重なり合いを切り捨てると批判した。これらの批判は、公園配置においては「円で覆う」ことの限界として現れる。この点は第8節で改めて検討する。
6. 日本の都市計画における公園緑地の位置づけ——通史
日本の公園制度の出発点は、明治6年(1873年)の太政官布達第16号である。これは府県に対し、人々が集まる名所旧跡や社寺の境内などを公園として選定して届け出るよう求めたもので、東京では上野・芝・浅草・深川・飛鳥山が最初の公園となった。ここでの公園は新しくつくるものではなく、すでに人が集まる場所に「公園」という名を与えるものであり、オルムステッドが既存のボストン・コモンを首飾りの端に組み込んだのと同じく、既存資源の指定から始まっている。1888年の東京市区改正条例と翌年の設計には新設の公園が盛り込まれ、1903年に開園した日比谷公園は、日本で最初の本格的な洋風の都市公園とされる。
1919年の(旧)都市計画法は、公園を道路や河川と並ぶ都市計画施設として位置づけ、同時に風致地区の制度を設けた。公園が「施設」として都市計画に位置づけられたことは、公園を都市の骨格の一部として計画するというオルムステッド以来の考え方が、日本の法制度に入った瞬間である。そしてこの法律の下で、1923年の関東大震災後の帝都復興事業が行われた。前節で触れたとおり、隅田・浜町・錦糸の三大公園と52の小公園がつくられ、小公園は小学校に隣接して配された。公園が住区の単位の内側に、防災と教育の機能を兼ねて置かれるという型が、ここで実務として確立した。
| 年 | 出来事 | 公園配置の思想にとっての意味 |
|---|---|---|
| 1873年 | 太政官布達第16号(公園の設置) | 既存の名所・社寺境内を公園に指定 |
| 1888年 | 東京市区改正条例 | 都市改造の中に新設公園を計画 |
| 1919年 | (旧)都市計画法・風致地区 | 公園を都市計画施設として位置づけ |
| 1923年〜 | 帝都復興事業(三大公園と52小公園) | 小学校に隣接する小公園=住区単位の型 |
| 1939年 | 東京緑地計画 | 環状緑地帯=都市を包む発想 |
| 1956年 | 都市公園法・同施行令 | 種別と配置標準(児童・近隣・地区・総合) |
| 1968年 | (新)都市計画法 | 公園を都市施設に明記・開発許可で公園を確保 |
| 1972年 | 都市公園等整備緊急措置法 | 五箇年計画による量の拡大 |
| 1993年 | 施行令改正(児童公園→街区公園) | 子どもから全住民への利用者像の転換 |
| 1994年 | 都市緑地保全法改正(緑の基本計画) | 市町村が緑地全体をネットワークとして計画 |
| 2004年 | 都市緑地法(景観緑三法) | 緑地の保全・緑化と景観の一体化 |
| 2017年 | 都市公園法改正(公募設置管理制度など) | 量から質・使い方へ |
6.1 緑地計画から都市公園法へ
1930年代には、東京緑地計画協議会が設けられ、1939年に東京緑地計画が決定された。この計画には、市街地を取り囲む環状緑地帯と、その中の大公園、郊外の景勝地が描かれ、ハワードの田園都市に由来する「都市を包む」発想が日本の首都に持ち込まれた。戦時中には防空の目的で緑地が位置づけられ、戦後1945年末の戦災地復興計画基本方針では、公園緑地の割合についての目標が掲げられた。しかしこれらの計画は、戦後の急速な市街地拡大の中で十分には実現しなかったとされる。
1956年の都市公園法は、公園の設置と管理の基準を定め、公園が他の用途に転用されることを防ぐための法律であった。その施行令に、公園の種別ごとの配置と規模の考え方が置かれた。主として街区内の居住者のための公園(当時は児童公園)、近隣の居住者のための近隣公園、徒歩圏内の居住者のための地区公園、市町村全域の居住者のための総合公園、運動のための運動公園という区分であり、街区公園0.25ヘクタール・誘致距離250メートル、近隣公園2ヘクタール・500メートル、地区公園4ヘクタール・1キロメートルという値が標準として示された。この体系は次節で詳しく分析するが、ここでは、それが帝都復興の小公園とニュータウンの近隣住区の経験を法令の言葉に翻訳したものである、という点だけを押さえておく。
6.2 量の時代から質の時代へ
1968年の新都市計画法は、都市施設の一つとして「公園、緑地、広場、墓園その他の公共空地」を明記し、あわせて開発許可の制度を設けた。一定規模以上の宅地開発に対して、開発区域の一定割合の公園・緑地・広場を設けることを求める技術基準は、新しい住宅地に街区公園を確実に生み出す仕組みとなった。1972年の都市公園等整備緊急措置法に基づく五箇年計画は、公園面積の量的な拡大を国の目標として進めた。この時代の合言葉は「一人当たり公園面積」であり、施行令は住民一人当たりの都市公園面積の標準を定めた(現在は市町村の区域全体で10平方メートル以上、市街地で5平方メートル以上)。
1993年の施行令改正で児童公園が街区公園に改称されたことは、小さな公園の利用者像が「子ども」から「街区の全住民」へ広げられたことを意味する。1994年に制度化された緑の基本計画は、公園だけでなく、社寺林や河川、農地などの緑地を含めた市町村全体の緑の将来像を、保全と創出のネットワークとして描く計画であり、ここに至って日本の公園緑地行政は、階層配置の思想と、オルムステッド以来の「つなぐ」思想とを、一つの計画の中で扱う枠組みを得た。2017年の都市公園法改正は、民間事業者による公園施設の設置管理(公募設置管理制度)や公園ごとの協議会の設置を可能にし、公園行政の課題が量の確保から質と使い方へ移ったことを示している。
7. 階層配置の思想——街区・近隣・地区・総合という入れ子
本節では、日本の都市公園の階層配置そのものを分析する。都市公園法施行令は、地方公共団体が設置する都市公園を、主として誰の利用に供するかによって区分している。街区内に居住する者のための公園、近隣に居住する者のための公園、徒歩圏域内に居住する者のための公園、一の市町村の区域内に居住する者の休息・観賞・散歩・遊戯・運動などの総合的な利用のための公園、主として運動の用に供する公園である。これらが順に街区公園・近隣公園・地区公園・総合公園・運動公園と呼ばれる。国土交通省の標準は、この区分に標準面積と誘致距離を与える。以下の表に、磐田市の種別別園数を並べて示す。
| 種別 | 主な利用者(施行令の考え方) | 標準面積 | 誘致距離 | 磐田市の園数 |
|---|---|---|---|---|
| 街区公園 | 街区内の居住者 | 0.25ha | 250m | 51園 |
| 近隣公園 | 近隣の居住者 | 2ha | 500m | 14園 |
| 地区公園 | 徒歩圏域内の居住者 | 4ha | 1km | 4園 |
| 総合公園 | 市町村全域の居住者(総合的利用) | 10〜50ha | 定めなし | 3園 |
| 運動公園 | 市町村全域の居住者(運動) | 15〜75ha | 定めなし | 3園 |
| 特殊公園(風致・歴史・墓園) | 特定の目的 | 規模の定めなし | 定めなし | 風致3・歴史1・墓園1 |
| 都市緑地・緑道・広場公園 | 緑の保全・連絡・都心の休息 | 都市緑地0.1ha〜 | 定めなし | 緑地10・緑道2・広場2 |
7.1 誘致距離という指標
誘致距離とは、その公園が主として受け持つ利用者の住む範囲を、公園を中心とする円の半径で表したものである。街区公園の250メートルは、幼い子どもや高齢者がゆっくり歩いて数分の距離、近隣公園の500メートルは大人が歩いて7〜8分、地区公園の1キロメートルは歩いて15分前後にあたる。ペリーの近隣住区の半径が小学生の徒歩距離である約400メートルであったことを思い出せば、近隣公園の500メートルはほぼ小学校区の半径に、街区公園の250メートルはその半分に対応している。誘致距離は、ペリーが小学校について考えた「歩ける半径」を、公園の規模ごとに段階づけたものと理解できる。
この入れ子を幾何学的に見ると、興味深い比例が現れる。半径250メートルの円の面積はおよそ20ヘクタール、半径500メートルの円はおよそ79ヘクタール、半径1キロメートルの円はおよそ314ヘクタールで、受け持ち範囲は1対4対16の比で広がる。一方、標準面積は0.25、2、4ヘクタールで、1対8対16である。つまり街区公園から近隣公園へ上がる段階で、受け持ち範囲は4倍になるのに面積は8倍になり、公園面積の受け持ち範囲に対する割合は倍になる。理想どおりに配置されれば、一つの地区公園の受け持ち範囲には近隣公園が4園、街区公園が16園含まれ、三層を合わせた公園面積は受け持ち範囲のおよそ二十分の一になる計算である。これは、開発許可の技術基準が一定規模以上の開発区域に求める公園・緑地の割合(開発区域面積の3パーセント以上)や、ペリーが住区面積の約一割を公園と遊び場にあてたこととも、大きくは離れていない。
7.2 階層の外側にあるもの
表を見れば分かるとおり、階層配置の標準が面積と誘致距離の両方を与えているのは、街区・近隣・地区の三層だけである。総合公園と運動公園は市町村全域を受け持つ「都市基幹公園」であり、誘致距離という考え方はなじまない。市民は車や公共交通でそこへ出かける。風致公園・歴史公園・墓園といった特殊公園は、景勝地や史跡や墓地という与件のある場所に置かれるものであり、規模の定めもない。そして都市緑地・緑道・広場公園は、そもそも「受け持ち範囲を覆う」ための施設ではない。都市緑地は樹林や斜面などの緑を保全するため、緑道は公園や施設のあいだを歩行者や自転車がつなぐため、広場公園は商業地の中で休息の場を提供するために置かれる。
ここに、本稿の第2節で区別した「階層」と「系」の関係が現れる。日本の都市公園の体系は、住区の単位で繰り返す三層の階層(ペリーの系譜)を骨格とし、その外側に、地形や史跡という与件に応じた特殊公園と、公園同士をつなぐ緑道・都市緑地(オルムステッドの系譜)を配している。階層は市街地を「覆う」ことを、緑道と緑地は「つなぐ」ことを受け持つ。1994年の緑の基本計画は、この二つを一枚の図面の上に描く制度である。市町村の緑の基本計画には、公園の配置方針とともに、河川や社寺林や農地を含めた緑のネットワークの方針が描かれることが多く、そこでは階層と系が併存する。
もう一点、1993年の児童公園から街区公園への改称の意味を確認しておく。児童公園という名は、その公園が子どものための施設であることを示していた。街区公園への改称は、利用者像を街区に住むすべての人に広げた。これは単なる名称の変更ではなく、階層の最下層の公園が受け持つ機能の再定義である。高齢者のための健康器具、大人の休息のためのベンチ、災害時の一時的な集合場所といった役割が、街区公園に期待されるようになった。ペリーが小学校を中心に描いた住区の単位は、少子高齢化の中で、小学校ではなく街区そのものを中心とする単位へと読み替えられつつある。
8. 反論と限界——階層モデルは今も有効か
前節までに整理した階層配置の思想には、いくつかの有力な批判がある。本節ではそれらを四つに整理し、それぞれに応答する。批判を先に述べるのは、階層モデルを擁護するためではなく、それが何を保証し、何を保証しないかを明確にするためである。
8.1 円は都市の形を写していない
第一の批判は、誘致距離が公園を中心とする円で受け持ち範囲を表すことに向けられる。現実の住民は円の半径に沿ってではなく、道路網に沿って歩く。川や鉄道や幹線道路が間にあれば、直線距離250メートルの公園でも実際の道のりは倍になり、横断歩道のない幹線道路が間にあれば、幼い子どもにとってその公園は事実上存在しない。ペリー自身が幹線道路を住区の境界としたのは、まさにこの障壁の効果を知っていたからであるが、誘致距離という指標はその境界の効果を写していない。今日では地理情報システムを用いて道路網に沿った到達圏を描くことが可能であり、直線距離の円ではなく道のりで公園の受け持ち範囲を評価する研究群がある。
この批判は正しい。ただし、それは誘致距離という指標を捨てる理由ではなく、指標を道のりで補正する理由である。円は「理想の配置」を描くための道具であり、実際の充足を測る道具ではない。計画の段階では円で配置の目標を立て、評価の段階では道のりで充足を測る、という使い分けが必要である。アレグザンダーが「都市はツリーではない」で指摘したように、住区の入れ子は住民の生活圏の重なり合いを切り捨てる。しかし公園の場合、一人の住民が複数の街区公園の円に含まれることは、切り捨てではなく選択肢の豊かさである。円の重なりは、階層モデルにとって欠陥ではない。
8.2 車社会と、階層の上下の逆転
第二の批判は、階層モデルが徒歩を前提としていることに向けられる。地方都市では、多くの家庭が車で移動し、駐車場のある大きな公園へ出かける。近隣公園の500メートルや地区公園の1キロメートルは、車で行くならほとんど意味をもたない距離である。その結果、実際の利用は総合公園や大きな地区公園に集中し、家の近くの街区公園は通り過ぎられる。階層モデルが最も手厚く配置した最下層の公園が、最も使われない公園になる、という逆転が起こりうる。
この批判にも一理ある。しかし、車で公園へ行けるのは車を運転できる大人が同行できる時間帯に限られる。放課後の子ども、車を手放した高齢者、免許のない住民にとって、徒歩圏の公園は依然として唯一の公園である。階層モデルの最下層は、車で出かけられる人のためではなく、出かけられない人のために置かれている。車社会であればあるほど、街区公園は「使われない公園」ではなく「特定の人にとってしか使えないが、その人にとっては欠かせない公園」として位置づけ直されるべきである。
8.3 人口減少と、量から質へ
第三の批判は、階層モデルが人口増加と市街地拡大の時代の産物であることに向けられる。誘致距離と標準面積は、新しい市街地に公園を「足りるだけ配る」ための指標であり、人口が減り、子どもが減り、公園の維持管理費が自治体の重荷になる時代には、公園を減らす、統合する、使い方を変える、という判断の指針にはならない。国土交通省の検討会は2016年に、公園政策を量の確保から質の向上と活用へと移す「新たなステージ」を打ち出し、2017年の都市公園法改正はその具体化であった。
この批判は、階層モデルの守備範囲を正しく限定するものとして受け止めるべきである。階層モデルは最低限の供給を担保する装置であって、それ以上のことは語らない。どの公園にどんな遊具を置くか、どの公園を地域が管理し、どの公園に民間の施設を入れるかは、階層モデルとは別の判断である。ただし、公園を統合するにせよ、使い方を変えるにせよ、「その街区から徒歩圏の公園がなくなるかどうか」を測る物差しは必要であり、その物差しはやはり誘致距離である。量の時代の指標は、減らす時代にも、減らしてはならない下限を示すために使える。
8.4 階層と系は対立しない
第四に、より根本的な批判として、階層モデルはオルムステッド以来の「つなぐ」思想を後景に退けた、という指摘がある。公園を円で覆うことに集中するあまり、公園と公園を結ぶ緑の道、水系に沿う緑地、雨水を受け止める窪地といった、線と面の緑が計画から抜け落ちた、というのである。1969年のイアン・マクハーグ『デザイン・ウィズ・ネーチャー』以来、地形・水系・植生に沿って緑地を計画する生態学的な計画論が広がり、今日のグリーンインフラの考え方は、バックベイ・フェンズが果たした治水と公園の複合を、都市全体の設計原理として取り戻そうとしている。
本稿の立場は、階層と系は対立するものではなく補完し合うものだ、というものである。階層は住まいからの距離を保証し、系は緑のつながりを保証する。前者だけでは公園は孤島になり、後者だけでは首飾りの外側に住む人に公園が届かない。1994年に制度化された緑の基本計画は、まさにこの二つを一つの計画に収める枠組みであり、その意味で日本の公園緑地行政は、ペリーの系譜とオルムステッドの系譜の両方を受け継いでいる。問題は、二つの系譜を一枚の図面に描くことが制度上可能になっていることと、実際の市街地でそれが実現していることとは別だ、ということである。この点は、次節で磐田市の数字を読むときの視点となる。
9. 磐田市の公園への示唆——100園を階層で読む
本節では、前節までに整理した階層配置と系の思想を物差しにして、磐田市の公園を読む。用いる数字は、磐田市オープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドに基づく当サイトの収録100園(オープンデータ94行と、施設ガイドのみに掲載の6園)の種別・面積・地区であり、現地踏査は始まっていない。したがって以下は、数字から読み取れる範囲の見通しであって、実際の使われ方や誘致圏の充足を確かめたものではない。
9.1 種別別園数——ピラミッドの形
磐田市の100園を種別で数えると、街区公園51、近隣公園14、地区公園4、総合公園3、運動公園3、風致公園3、都市緑地10、広場公園2、緑道2、墓園1、歴史公園1、都市公園法の対象外が6園である。階層配置の三層——街区・近隣・地区——だけを取り出すと51対14対4となり、これは第7節で示した理想の入れ子(一つの地区公園の受け持ち範囲に近隣公園4、街区公園16)の比である16対4対1に、大まかには沿った形をしている。街区公園が半数を占め、近隣公園がその四分の一強、地区公園がさらにその三分の一弱というピラミッドである。この形は、磐田市の公園が、都市公園法施行令の階層の思想に沿って積み上げられてきたことを示唆する。
一方、階層の外側にある公園も少なくない。総合公園3・運動公園3は市全域を受け持つ都市基幹公園であり、風致公園3・歴史公園1・墓園1は与件のある場所に置かれた特殊公園である。都市緑地10・緑道2・広場公園2は「つなぐ」「保全する」「休息する」ための施設であり、覆うための階層には属さない。100園のうちおよそ四分の一が階層の外側にあることは、磐田市の公園体系が階層一色ではないことを示している。
9.2 面積を標準に照らす
オープンデータの面積を国の標準面積に照らすと、次のことが読み取れる。総合公園の標準は10〜50ヘクタールで、竜洋海洋公園(221,722平方メートル・約22ヘクタール)とかぶと塚公園(106,982平方メートル・約10.7ヘクタール)はこの範囲に入るが、福田公園(49,620平方メートル・約5ヘクタール)は下回る。地区公園の標準は4ヘクタールで、兎山公園(56,193平方メートル)と中央公園(41,642平方メートル)は超え、竜洋西堀河川敷公園(34,490平方メートル)と安久路公園(32,001平方メートル)は下回る。近隣公園の標準は2ヘクタールであるが、14園のうちこれに達するのは竜洋スポーツ公園(21,306平方メートル)だけで、他の13園は6,300平方メートル(塔之壇公園)から16,030平方メートル(豊田ラブリバー公園)の範囲にある。街区公園の標準は0.25ヘクタール(2,500平方メートル)で、51園のうち24園がこれ以上、27園がこれ未満である。最大は京見塚公園の10,231平方メートル、最小は見付本通広場公園の372平方メートルである。
これをどう読むか。第一に、標準は「基準」ではなく「標準」であり、下回ることは欠陥ではない。第7節で見たとおり、階層配置は面積と誘致距離の組で成り立っており、面積を小さくして数を多くする配置と、面積を大きくして数を少なくする配置とは、どちらも同じ思想の実現でありうる。磐田市の近隣公園14園の多くが標準の半分程度の面積であることは、市街地の中で用地の確保が難しかった歴史を映しているのかもしれないし、小さくても数を確保する方針の結果かもしれない。数字だけからは判断できない。第二に、街区公園の面積の幅が372平方メートルから10,231平方メートルまで30倍近くにわたることは、同じ「街区公園」という種別の中に、休息のための小さな広場から近隣公園並みの規模の公園までが含まれていることを意味する。種別は受け持ち範囲の階層を示すが、園内で何ができるかは面積と設備で決まる。当サイトの園別ページが面積と設備を並記しているのは、この二つを分けて読むためである。
9.3 地区で読む——階層の地区と系の地区
9地区別の園数は、豊田28、見付21、中泉14、御厨13、竜洋13、福田4、豊岡3、南部2、向陽2である。種別と組み合わせると、地区ごとの体系の性格が見えてくる。豊田は街区公園15・近隣公園6・都市緑地5・広場公園2で、街区と近隣の二層を中心に、小さな緑地とポケットパークが散る「階層型」の地区である。見付は街区公園12・近隣公園3に加え、かぶと塚公園(総合)、城山球場・東大久保運動公園(運動)、つつじ公園(風致)、緑ヶ丘霊園(墓園)を含み、階層と都市基幹公園と特殊公園がそろう。中泉は街区公園10と中央公園(地区)、遠江国分寺史跡公園(歴史)、御厨は街区公園8と兎山公園・安久路公園(地区)である。
これに対して竜洋は、街区公園3、近隣公園4、地区公園1、総合公園1(竜洋海洋公園)、風致公園2、緑道2という構成で、街区公園が少なく、代わりに規模の大きな公園と、市内の緑道2園(竜洋南部緑地公園・竜洋西堀緑地公園)の両方がここにある。河川敷の地区公園である竜洋西堀河川敷公園も含めれば、竜洋は「覆う」階層よりも、水辺に沿って大きな緑を「つなぐ」系の性格が強い地区と読める。南部の2園と豊岡の3園はいずれも都市公園法の対象外の公園で、階層に数えられる都市公園がない。福田は総合公園(福田公園)と街区公園2、向陽は運動公園と街区公園1である。もっとも、地区別の園数は地区の広さや人口を反映していないので、園数の多寡をそのまま公園の充足と読むことはできない。
9.4 「つなぐ」要素と「既存資源」の要素
オルムステッドの系譜、すなわち水系に沿ってつなぐ公園として読める要素も、磐田市にはある。緑道2園のほか、天竜川と支流に沿う公園——竜洋西堀河川敷公園(地区)、豊田天竜川わんぱく広場・豊田ラブリバー公園(近隣)、天竜川ラブリバー公園(法対象外)——は、河川敷という与件の上に置かれた線状の公園である。また、1873年の太政官布達が名所旧跡を公園としたように、遠江国分寺史跡公園(歴史公園)、京見塚古墳を含む京見塚公園、一ノ谷遺跡のある一ノ谷公園、御殿遺跡公園など、史跡という既存資源を組み込んだ公園も複数ある。これらが緑道や河川でつながっているのか、それとも点として孤立しているのかは、緑の基本計画のような市の計画資料と、今後の踏査によって確かめるべき論点である。
最後に、本節で述べなかったことを明記しておく。街区公園の誘致距離250メートルの円が市街地をどれだけ覆っているか、道のりで測った到達圏に空白がどこにあるかは、本稿では計算していない。当サイトはこの計算を今後の課題とし、あわせて各園を歩いて、面積と設備の数字が示す姿と実際の使われ方とを突き合わせていく。市の管理課は都市整備課であり、個々の公園の管理に関する事柄は市に確かめるのが確実である。
10. 結論と今後の課題
本稿は、公園を一つずつの点ではなく都市全体の系として配置する思想の来歴をたどり、日本の都市公園の階層配置がどの系譜に属するかを検討した。結論は次の三点にまとめられる。
第一に、公園を系として配置する思想には、少なくとも三つの異なる系譜がある。オルムステッドのパークシステムは、水系と地形という与件に沿って公園を線状につなぐ思想であり、治水や衛生といった都市基盤の役割を公園に兼ねさせた。ハワードの田園都市は、白紙の上に同心円を描いて都市全体を緑で包み、住まいから緑までの距離を均等にし、緑によって都市の規模を制御しようとした。ペリーの近隣住区は、小学校を中心とする住区という単位の内側に公園を組み込み、同じ規模の公園を一定の半径で繰り返し配置する型を与えた。三者は公園をどこに置くかについて、異なる答えを出している。
第二に、日本の都市公園法施行令と国の標準が示す街区・近隣・地区・総合という階層は、この三つのうち、ペリーの系譜——住区の単位で繰り返す配置——を法令の言葉に翻訳したものである。ただしそれは単なる輸入ではなく、1923年の帝都復興事業で小学校に隣接して置かれた52の小公園という、日本自身の経験の体系化でもあった。誘致距離250メートル・500メートル・1キロメートルの入れ子と、標準面積0.25・2・4ヘクタールの組は、「歩ける半径」を規模ごとに段階づけたものであり、幾何学的にはほぼ整合した体系をなしている。一方、オルムステッドの「つなぐ」系譜は、緑道・都市緑地・河川敷の公園という階層の外側の施設と、1994年に制度化された緑の基本計画のネットワークの発想として、階層と並存している。
第三に、階層モデルには、円形の誘致圏が都市の形を写していないこと、車社会と人口減少という前提の変化に合わないことなど、正当な批判がある。しかし階層モデルは最低限の供給——徒歩でしか公園に行けない人にとっての公園——を担保する装置であり、その役割は前提が変わっても失われない。階層と系は対立するのではなく、前者が距離を、後者がつながりを保証する補完関係にある。緑の基本計画はその二つを一枚の図面に収める枠組みである。
10.1 磐田市について言えたこと
磐田市の100園は、街区公園51・近隣公園14・地区公園4・総合公園3というピラミッドをなし、理想の入れ子である16対4対1の比に大まかには沿っている。面積を標準に照らすと、近隣公園14園のうち標準の2ヘクタールに達するのは1園、街区公園51園のうち標準の0.25ヘクタール以上は24園であり、多くの園が標準より小さい。しかし標準は基準ではなく、小さく多く置く配置も階層の思想の一つの実現である。地区別に見ると、豊田・見付・中泉・御厨は階層型の性格が強く、竜洋は緑道2園と大規模な公園、河川敷の公園を擁する「つなぐ」型の性格が強い。南部・豊岡の公園はいずれも都市公園法の対象外であり、階層に数えられる都市公園がない。これらは数字から読み取れる見通しであり、実態は今後の踏査に委ねられる。
10.2 今後の課題
残された課題は四つある。第一に、街区公園の誘致距離250メートルの円、あるいは道のりで測った到達圏が、磐田市の市街地をどれだけ覆い、どこに空白があるかの計算である。これは階層モデルの「覆う」機能を実際に測る作業であり、当サイトの次の課題である。第二に、緑道・河川敷の公園・史跡の公園といった「つなぐ」要素が、実際に線として連なっているのか、点として孤立しているのかを、市の緑の基本計画などの計画資料と、現地の踏査によって確かめることである。第三に、階層の最下層である街区公園が、1993年の改称が意図したとおり子どもだけでなく街区の全住民に使われているのか、それとも通り過ぎられているのかを、園ごとに観察することである。第四に、本稿が扱わなかった論点——公園の維持管理の財政、住民参加による管理、公園の統廃合の是非——を、財政学・行政学・政治学の各論文と接続することである。
都市計画学から見れば、公園の価値の半分は園内にあり、残りの半分は配置にある。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園のデータベースとして、園内の設備を一つひとつ確かめる踏査をこれから始めるが、その作業は同時に、100園がどのような系と階層をなしているかを確かめる作業でもある。一つの公園を歩くたびに、その公園がどの円の中心であり、どの首飾りの一粒であるかを意識すること——それが、オルムステッドからペリーへ、そして施行令の数字へと受け継がれた思想を、地方都市の日常の中で読み直す最も具体的な方法である。
参考文献
- フレデリック・ロー・オルムステッド(1870)「Public Parks and the Enlargement of Towns」(American Social Science Association 講演)
- エベネザー・ハワード(1898/1902)『明日の田園都市』(長素連訳、鹿島出版会、1968)
- クラレンス・A・ペリー(1929)『近隣住区論——新しいコミュニティ計画のために』(倉田和四生訳、鹿島出版会、1975)
- ルイス・マンフォード(1961)『歴史の都市 明日の都市』(生田勉訳、新潮社、1969)
- ピーター・ホール(1988)『Cities of Tomorrow: An Intellectual History of Urban Planning and Design in the Twentieth Century』(Blackwell)
- ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
- クリストファー・アレグザンダー(1965)「都市はツリーではない(A City is Not a Tree)」Architectural Forum
- イアン・L・マクハーグ(1969)『デザイン・ウィズ・ネーチャー』(下河辺淳・川瀬篤美監訳、集文社、1994)
- 石川幹子(2001)『都市と緑地——新しい都市環境の創造に向けて』(岩波書店)
- 越澤明(1991)『東京の都市計画』(岩波新書)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令・国土交通省 都市公園のページ
- 国土交通省「都市計画運用指針」(都市公園の種別ごとの標準面積・誘致距離)
- 都市計画法(昭和43年法律第100号)・都市緑地法(昭和48年法律第72号。緑の基本計画)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。