人文学考古学
史跡と公園——遺跡保存と公園化の関係を遠江国分寺史跡公園から考える
要旨
本稿の目的は、遺跡(考古学的な過去の痕跡)が「公園」として整備されるという、日本の都市でごく普通に見られる現象を、考古学と文化財保護の視点から読み解くことである。遺跡は掘れば失われる一回性の資料であり、守ること(保存)が第一の要請となる。一方で、守られた遺跡は市民に見せ、使ってもらってこそ意味をもつ(活用)。この二つの要請は補い合うと同時に、しばしば互いを削り合う。史跡公園とは、まさにこの緊張が地面の上に形をとったものである。
方法は文献整理・概念分析・事例参照である。まず考古学における遺跡・遺構・遺物の基本概念と、「発掘は破壊である」という考古学の自己認識を確認し、次に文化財保護法(1950年)による史跡指定と現状変更許可の仕組み、都市公園法(1956年)による特殊公園(歴史公園)という種別を対比する。そのうえで、史跡整備の実務で用いられる遺構表示(平面表示・立体表示)、復元建物、覆屋、盛土と芝生による保護といった手法を、保存と活用の座標軸のどこに位置するかという観点から分類する。ヴェニス憲章(1964年)と奈良ドキュメント(1994年)が示す「真正性」の考え方を参照し、復元をめぐる論争を整理する。
事例として、磐田市中泉地区の遠江国分寺史跡公園(歴史公園、21,600㎡)を取り上げる。ただし本稿は発掘成果の詳細な数値には立ち入らず、当サイトの資料に記載された種別・面積・地区・施設ガイドの記載の範囲でのみ扱い、遺跡そのものの解説は姉妹サイト磐田物語と市の公表資料に譲る。あわせて、園内施設に「一ノ谷遺跡」「京見塚古墳」と記される一ノ谷公園・京見塚公園、園名に遺跡を含む御殿遺跡公園など、磐田市の都市公園100園のなかで遺跡と重なる園を挙げ、遊具のない「何もない公園」に見える史跡公園を子育て世代がどう使えるかを考える。
結論として、史跡公園は「遺跡を守るために公園という器を借りた場所」であり、芝生の広がりそのものが保存装置であること、そして復元や表示の少なさは整備の不足ではなく保存を優先した選択でありうることを示す。今後の課題として、当サイトの踏査(現地調査)による表示物・案内板・地表の状態の確認と、遺跡と遊びを両立させる利用ルールの整理を挙げる。
キーワード史跡公園歴史公園遺跡保存遺構表示復元文化財保護法国分寺
1. はじめに——問題の所在
公園と遺跡は、ふつう別のものとして語られる。公園は遊具とベンチと芝生の場所であり、遺跡は考古学者が発掘し博物館に展示する過去の痕跡である。ところが日本の都市を歩くと、この二つは驚くほど頻繁に重なっている。古墳の上に滑り台がある公園、寺院の跡地が芝生広場になった公園、貝塚の名前を冠した公園。磐田市の都市公園100園を収めた当サイトのデータにも、種別が「歴史公園」である園が1園あり、市の施設ガイドの園内施設欄に「一ノ谷遺跡」「京見塚古墳」と記された園があり、園名そのものに「遺跡」を含む園がある。遺跡と公園の重なりは、例外ではなく日本の公園のひとつの型なのである。
考古学の立場から見ると、この重なりは単なる偶然ではない。遺跡は掘り起こせば二度と元に戻らない一回性の資料であり、考古学は自らの方法である発掘を「破壊」と自覚してきた学問である。したがって遺跡をめぐる第一の要請は「守ること」、すなわち保存である。ところが守られた遺跡は、地面の下に眠ったままでは誰の目にも触れない。市民に見せ、意味を伝え、暮らしのなかで使ってもらってはじめて、遺跡は守るに値するものとして社会に承認される。これが第二の要請「活用」である。保存と活用は互いを支え合うが、同時に互いを削り合う。復元建物を建てれば分かりやすくなるが、地下の遺構に手を加えることになる。人が歩けば親しまれるが、地表は踏み固められる。史跡公園とは、この保存と活用の緊張が地面の上に形をとった場所にほかならない。
考古学から公園を論じることには、もう一つの実際的な理由がある。公園は地面の「上」の施設であるが、考古学は地面の「下」を扱う。そして公園を造ることは、それ自体が土を動かす行為である。遺跡があると知られている土地(周知の埋蔵文化財包蔵地)で園路や便所や遊具の基礎を造る工事は、文化財保護法上の届出の対象となり、必要に応じて事前の発掘調査が行われる。つまり日本の公園の少なからぬ数は、造られる前に一度は考古学者の手が入った土地であり、公園の下には調査の記録に残された過去がある。史跡公園はその関係が最も濃い形で表に出た場所にすぎない。公園を考古学の目で見るとは、芝生と遊具の下に、記録され、埋め戻され、あるいはまだ調べられていない地層の重なりを想像することである。
本稿の問いは三つある。第一に、史跡公園は文化財保護法の論理と都市公園法の論理のどちらで動いているのか、あるいは両者はどう重なっているのか。第二に、史跡整備で用いられる遺構表示・復元・覆屋・盛土と芝生といった手法は、保存と活用の座標軸のどこに位置づけられるのか。第三に、遊具の記載がなく一見「何もない公園」に見える史跡公園を、磐田市周辺の子育て世代や地域の人びとはどう理解し、どう使えばよいのか。三つ目の問いは実践的であるが、前二つの問いに答えることで初めて筋の通った答えが出せる、と本稿は考える。
方法は文献整理・概念分析・事例参照である。参照する文献は、文化財保護法や都市公園法といった法令、文化庁が史跡整備の実務者向けにまとめた『史跡等整備のてびき』(2005年)、ヴェニス憲章(1964年)や奈良ドキュメント(1994年)といった国際的な保存原則、そして濱田耕作『通論考古学』(1922年)など考古学の古典に限る。存在に確信のない研究や統計値は挙げない。事例としては磐田市中泉地区の遠江国分寺史跡公園(歴史公園、21,600㎡)を取り上げるが、本稿は考古学の論考でありながら、あえてこの遺跡の発掘成果の詳細な数値には立ち入らない。当サイトが扱えるのは市のオープンデータと施設ガイドに記載された種別・面積・地区・園内施設の範囲であり、遺跡そのものの解説は姉妹サイト磐田物語と市の公表資料に譲るのが誠実だからである。当サイトの踏査(現地調査)はまだ始まっておらず、「見てきた」ことは一つも書かない。
構成は次のとおりである。第2節で考古学・文化財保護・都市公園にまたがる基本概念と制度の年表を整理する。第3節で国分寺という奈良時代の国家事業の一般論を確認し、なぜ国分寺跡が全国で史跡や公園になっているのかを述べる。第4節で「発掘は破壊である」という考古学の自己認識から保存と活用の緊張関係を論じる。第5節で文化財保護法の史跡と都市公園法の歴史公園という二つの制度の重なりを検討する。第6節で遺構表示・復元・覆屋・芝生保護の方法論を分類する。第7節で「何もない公園は退屈ではないか」「遊びと遺跡は両立するか」といった反論に応答する。第8節で古墳・城跡・集落遺跡・寺院跡という史跡公園の四つの型を比較し、国分寺跡の位置を定める。第9節で磐田市の公園への示唆を述べ、第10節で結論と課題を記す。
2. 先行研究と概念の整理——遺跡・史跡・歴史公園
議論の土台として、まず考古学の基本語を確認する。考古学は、文字史料ではなく物質的な痕跡から人類の過去を研究する学問である。日本の近代考古学の礎を築いた濱田耕作は『通論考古学』(1922年)で、考古学を過去の人類が残した物質的な資料によってその過去を研究する学と位置づけ、資料の扱い方と発掘の方法を体系的に述べた。ここで資料は大きく三つに分けられる。遺物は土器・石器・瓦など持ち運べるもの、遺構は建物の柱穴・基壇・溝・墓のように土地と一体で動かせないもの、そして遺跡は遺構と遺物が残されている場所そのものである。公園と重なるのは、このうち場所としての遺跡と、動かせない遺構である。
行政の用語では、土地に埋もれた遺跡は埋蔵文化財と呼ばれ、それが存在すると知られている土地は「周知の埋蔵文化財包蔵地」と呼ばれる。文化財保護法は、包蔵地で土木工事を行う場合に事前の届出を求め(第93条)、工事中に遺跡を発見した場合の届出を定め(第96条)、国や地方公共団体が行う工事については通知の手続きを設けている(第94条)。この仕組みによって、開発に先立つ発掘調査(記録保存のための調査)が全国で日常的に行われている。一方、とりわけ重要な遺跡は史跡として指定され、なかでも学術上の価値がとくに高いものは特別史跡とされる。指定された史跡の現状を変えるには文化庁長官の許可が必要であり(第125条)、ここに「守る」ための法的な歯止めがある。
史跡という制度は文化財保護法より古い。1919年(大正8年)の史蹟名勝天然紀念物保存法が、史蹟・名勝・天然紀念物を国が指定して保存する枠組みを初めて作った。開発が進む近代化のなかで、古墳や城跡や社寺の跡が失われていくことへの危機感が背景にある。戦後、1949年の法隆寺金堂の火災を直接のきっかけとして1950年に文化財保護法が制定され、有形文化財・無形文化財・民俗文化財・記念物(史跡・名勝・天然記念物)などを一つの法律のもとに束ねた。史跡は記念物の一種として引き継がれた。この法律は2018年に改正され(2019年施行)、市町村が「文化財保存活用地域計画」を作れるようになるなど、保存に加えて活用を正面から掲げる方向へ舵を切っている。
| 年 | 出来事 | 本稿との関わり |
|---|---|---|
| 1919年 | 史蹟名勝天然紀念物保存法 | 国が史蹟を指定して守る制度の始まり |
| 1922年 | 濱田耕作『通論考古学』 | 遺物・遺構・遺跡の整理、発掘方法の体系化 |
| 1950年 | 文化財保護法制定 | 史跡・特別史跡、現状変更許可、埋蔵文化財の届出 |
| 1954年 | ウィーラー『Archaeology from the Earth』 | 発掘は破壊であるという自覚 |
| 1956年 | 都市公園法制定 | 特殊公園(風致公園・歴史公園・墓園など)の種別 |
| 1964年 | ヴェニス憲章(ICOMOS) | 復元を原則として認めない保存の国際原則 |
| 1972年 | 世界遺産条約/McGimsey『Public Archeology』 | 遺産の普遍的価値/市民に開かれた考古学 |
| 1994年 | 奈良ドキュメント | 文化的文脈に応じた真正性の理解 |
| 2005年 | 文化庁『史跡等整備のてびき』 | 遺構表示・復元・保護の実務手法 |
| 2018年 | 文化財保護法改正(2019年施行) | 保存から保存と活用へ |
他方、公園の側の制度は都市公園法(1956年)である。同法と施行令は都市公園を、住区基幹公園(街区公園・近隣公園・地区公園)、都市基幹公園(総合公園・運動公園)、大規模公園、緩衝緑地・都市緑地・緑道、そして特殊公園などに分類する。特殊公園には風致公園・動植物公園・歴史公園・墓園などが含まれ、街区公園の0.25ha・誘致距離250mのような標準規模の定めがない。歴史公園は、この特殊公園の一つとして、史跡などの歴史的資源を保存し活用するために設けられる公園である。史跡公園という言い方は法律用語ではなく、史跡を主な内容とする歴史公園を指す通称として使われている。磐田市のオープンデータで種別が歴史公園である園は1園、風致公園は3園、墓園は1園であり、この5園が特殊公園にあたる。
国際的な保存原則についても触れておく。1964年にICOMOS(国際記念物遺跡会議)が採択したヴェニス憲章は、記念建造物と遺跡の保存修復の国際的な基準となった文書で、遺跡については維持と保護を原則とし、復元は原則として排し、崩れた部材を元の位置に戻すアナスタイローシス(原位置復旧)のみを認めるという厳格な立場をとった。これに対して1994年に奈良で採択された奈良ドキュメントは、木造建築を主とする文化圏では材料の同一性だけが真正性(オーセンティシティ)の基準ではなく、形式・技術・用途・精神といった側面も含めて、それぞれの文化的文脈で判断すべきだと述べた。日本の史跡整備における復元建物の扱いを考えるうえで、この二つの文書は避けて通れない座標軸である。
最後に、考古学の側の変化として「パブリック・アーケオロジー(公共考古学)」を挙げる。McGimseyが1972年に『Public Archeology』で用いたこの語は、遺跡が公共の財産であり、考古学の成果は専門家の内側にとどまらず市民に開かれ、市民の支持によって守られるべきだという考えを表す。日本でも発掘現場の現地説明会や史跡の整備公開が長く行われてきたが、これらは考古学が社会に対して負う説明責任の実践と見ることができる。史跡公園は、パブリック・アーケオロジーが恒常的な形をとった場所の一つである。以上の概念を手に、次節では国分寺という対象そのものに目を向ける。
3. 国分寺という国家事業——なぜ全国の国分寺跡が史跡になり公園になるのか
遠江国分寺史跡公園を考える前提として、国分寺とは何かを一般論として確認しておく。国分寺は、奈良時代の741年(天平13年)に聖武天皇が発した詔(国分寺建立の詔)にもとづき、律令国家が全国の国ごとに建てさせた官立の寺院である。『続日本紀』に載るこの詔は、各国に僧寺と尼寺を一つずつ置き、僧寺には七重塔を建てて金光明最勝王経を安置することを命じた。僧寺は金光明四天王護国之寺、尼寺は法華滅罪之寺という正式名をもち、都の東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺の位置にあった。国分寺は仏の力で国を守るという鎮護国家の思想の、いわば全国展開である。
この詔が出された背景には、天平年間の疫病の流行、飢饉や地震、そして740年の藤原広嗣の乱といった内外の不安があったとされる。国分寺の建立は、仏教を国家の宗教として位置づけると同時に、都の政策を地方の隅々まで行き渡らせる律令国家の統治力を可視化する事業でもあった。国分寺は多くの場合、その国の政庁である国府の近くに置かれ、国府・国分寺・国分尼寺がまとまって一つの地方行政の中心を形づくった。遠江国は現在の静岡県西部にあたり、その国府は現在の磐田市域に置かれたと考えられている。当サイトのデータで遠江国分寺史跡公園が中泉地区に属するという事実は、この地が古代の遠江の中心であったことと切り離せない。
国分寺の伽藍(建物の配置)は、金堂・講堂・塔・中門・回廊などからなり、都の大寺の様式を各国に写す形で計画された。建物は礎石の上に柱を立てる礎石建ちで、屋根には瓦を葺いた。ここに考古学にとっての重要な事実がある。木造の建物そのものは失われても、基壇(建物の土台となる盛り上がった壇)、礎石、瓦、そして瓦を焼いた窯の跡は地中に残る。多くの国分寺は平安時代以降に衰え、建物は失われたが、礎石が地表に顔を出したまま田畑や集落の中に残り、地名や小字名に「国分」「国分寺」の名をとどめる例が全国にある。国分寺は文字史料でその存在が確実であるうえに、跡が地表に痕跡を残しやすいという二重の意味で、考古学の対象として恵まれた遺跡である。
国分寺のその後についても一般論を添えておく。律令国家の財政と統治力が弱まるにつれ、多くの国分寺は平安時代中期以降に官寺としての維持が難しくなり、建物は火災や風水害で失われ、再建されないまま礎石だけが残る例が多くなった。一方で、寺の法灯を継ぐ後継の寺院が同じ場所や近くで「国分寺」の名を名乗って存続した例も各地にあり、現在も国分寺を称する寺院が全国に点在する。したがって「国分寺跡」という言葉は、奈良時代の伽藍の跡地を指す考古学上の名称であって、必ずしもその地に寺院がまったく無くなったことを意味しない。遺跡としての国分寺跡と、信仰の場としての現在の寺院とが隣り合っている土地は珍しくなく、史跡公園の景観にはしばしば両方が含まれる。
なぜ全国の国分寺跡が史跡になり、そして公園になるのか。第一の理由は、その価値が早くから認められていたことである。史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年)の時代から国分寺跡は史蹟指定の有力な候補であり、文化財保護法のもとでも各地の国分寺跡が史跡に、そのうち学術上とくに価値の高いものが特別史跡に指定されてきた。遠江国分寺跡もまた国の特別史跡として知られる。第二の理由は、遺跡が広く平坦であることである。伽藍は一定の広さをもつ平地に整然と配置されたので、跡地もまた一団の平坦な土地として残る。第三の理由は、史跡指定を受けた土地は現状変更が制限され、開発による収益が期待できないため、国や自治体が補助金を用いて公有地化することが多いことである。公有地化された広い平坦地を、地下の遺構を傷めずに維持し、市民に開く方法として最も自然な形が「公園」なのである。
ここで注意したいのは、国分寺跡が公園になるのは「公園にふさわしいから」ではなく、「遺跡を守り続ける最も現実的な方法が公園という器だったから」だという順序である。遺構の上に建物を建てれば、その基礎工事が遺構を壊す。駐車場や道路にすれば地表が固められ地下の環境が変わる。田畑のままにしておけば耕作で遺構面が削られる。これらと比べたとき、芝生や樹木の広場として維持し、必要に応じて遺構の位置を表示することは、遺構への負荷が最も小さく、しかも市民が日常的に訪れることのできる選択肢である。史跡公園の「何もなさ」は、この選択の帰結として理解する必要がある。
本稿は遠江国分寺跡の発掘の経緯や伽藍配置、出土品の数量といった詳細には立ち入らない。それらは磐田市の公表資料と姉妹サイト磐田物語の中泉地区の記述に譲る。ここで確認できる範囲の事実は、当サイトの資料に記載された、園名が遠江国分寺史跡公園であること、都市公園法上の種別が歴史公園であること、面積が21,600㎡であること、中泉地区に属すること、市の施設ガイドに駐車場・園内施設の記載がないこと、である。この最後の点、すなわち遊具やトイレのような設備の記載がないことは、次節以降で論じる保存と活用の緊張を、施設一覧の空白という形で示しているように思われる。
4. 保存と活用の緊張——「発掘は破壊である」から公開活用へ
考古学には、自らの方法を厳しく戒める古い言葉がある。「発掘は破壊である」。イギリスの考古学者モーティマー・ウィーラーが『Archaeology from the Earth』(1954年)で強調したこの認識は、発掘とは地層を上から順に取り除いて記録する作業であり、いったん掘った土層は二度と元に戻せない、ということを意味する。実験のように条件を変えて繰り返すことができない点で、発掘は他の多くの学問の方法と決定的に異なる。だからこそ考古学は、記録の精度に異常なほどこだわり、掘る範囲を最小限にとどめ、将来の技術のために遺跡の一部を掘らずに残すという原則を育ててきた。遺跡の第一の要請が「保存」であるのは、この自己認識に由来する。
日本の埋蔵文化財行政では、保存に二つの意味がある。一つは記録保存で、開発によってどうしても遺跡が失われる場合に、事前に発掘して図面・写真・出土品という記録の形で残すことである。もう一つは現状保存(現地保存)で、遺跡そのものを地中に残すことである。史跡指定は後者を法的に担保する仕組みであり、史跡公園は現状保存された遺跡の上に成り立つ。ここで重要なのは、史跡の発掘調査の多くが「保存のための調査」であることだ。遺構の広がりや性格を確かめる範囲で掘り、記録したのちに埋め戻し、その上に土を盛って保護する。史跡公園の地表の下には、こうして埋め戻された遺構が眠っている。芝生の下に何もないのではなく、見せないことで守っているのである。
現状保存にはもう一つ、将来への留保という意味がある。史跡の発掘調査では、遺跡の全体を掘り尽くさず、一部を未調査のまま残すことが原則とされる。分析技術は年々進歩しており、地中レーダーなどで掘らずに地下の構造を探る非破壊の探査や、微細な試料から年代や環境を読み取る方法が発達している。今日の技術で掘ってしまえば、将来の技術で得られたはずの情報は永久に失われる。地中に残された部分は、次の世代の考古学者に託された「未読の資料」である。史跡公園の芝生の下に手つかずの部分が残っていることは、その公園が現在の利用者だけでなく、まだ生まれていない研究者と市民のためにも保たれていることを意味する。
しかし保存だけでは遺跡は社会のなかで生きられない。地中に埋め戻された遺構は、専門家の報告書の中にしか存在しないものになってしまう。市民が遺跡の存在を知り、その意味を理解し、自分たちの地域の誇りとして受けとめてこそ、遺跡を守るための予算や土地の確保、日々の管理が正当化される。ここに活用の要請がある。文化財保護法が2018年改正で活用を正面に掲げたのは、少子高齢化と財政の制約のなかで、守るだけでは守り続けられないという認識の表れでもある。パブリック・アーケオロジーの考えに立てば、活用は保存の対極ではなく、保存を社会的に支える土台である。
ところが活用は、具体的な形をとった瞬間に保存と衝突しはじめる。衝突の場面はおおむね三つに整理できる。第一は表示・復元による衝突である。遺構の位置を地表に示し、さらに建物を復元すれば理解は格段に深まるが、表示物や復元建物の基礎は地下の遺構面に近づき、施工の過程で遺構を傷める危険がある。第二は利用による衝突である。人が集まれば地表は踏み固められ、雨水の流れが変わり、イベントのテントや車両の乗り入れは地下に荷重をかける。第三は植栽による衝突で、木陰をつくる樹木の根は年月とともに深く広く伸び、基壇や礎石を動かしうる。景観として好ましい大木が、遺構にとっては最大の脅威になることがある。
この三つの衝突は、いずれも「良かれと思ってしたこと」が保存を損なうという構造をもつ。だから史跡整備の実務は、活用を否定するのではなく、活用の形を遺構への負荷が小さい方へと丁寧に選び直す作業になる。復元建物の代わりに平面表示にとどめる、樹木を植える位置を遺構の外側に限る、園路を遺構の上から外す、盛土の厚さを確保して芝生を張る、といった判断である。文化庁『史跡等整備のてびき』(2005年)が「保存と活用のために」という副題を掲げているのは、保存と活用のどちらかを選ぶのではなく、両者を同時に成り立たせる技術と手順を示すためである。
史跡公園を訪れる人にとって、この節の含意は次のようにまとめられる。史跡公園に復元建物が少ないこと、遊具やベンチが少ないこと、広い芝生が「使われていない」ように見えることは、多くの場合、整備の怠りではなく保存を優先した選択の結果である。逆に、案内板や平面表示があるなら、それは活用のために遺構への負荷を最小にする工夫の産物である。次節では、この保存と活用の緊張が、二つの法律の重なりとしてどのように制度化されているかを検討する。
5. 史跡公園という種別——文化財保護法と都市公園法の重なり
史跡公園は、二つの法律が同じ土地の上で重なる場所である。一つは文化財保護法で、遺跡を史跡として指定し、その現状変更を許可制にし、必要に応じて公有化を補助し、管理団体を定める。もう一つは都市公園法で、地方公共団体が設置する公園を都市公園として位置づけ、種別を分け、公園施設の設置や占用、行為の制限を定める。前者の所管は文化庁(および都道府県・市町村の文化財担当)、後者の所管は国土交通省(および自治体の公園担当)である。磐田市の場合、当サイトの資料によれば都市公園の管理課は都市整備課であるが、史跡としての手続きは別の系統で動くことになる。一つの公園に二つの論理と二つの窓口があるというのが、史跡公園の制度上の特徴である。
| 観点 | 文化財保護法(史跡) | 都市公園法(歴史公園) |
|---|---|---|
| 法律の目的 | 文化財の保存と活用、国民の文化的向上 | 都市公園の健全な発達、公共の福祉 |
| 対象の呼び名 | 史跡・特別史跡(記念物) | 特殊公園のうち歴史公園 |
| 守り方 | 指定・現状変更の許可制・公有化の補助 | 設置・管理、公園施設の基準、行為の制限 |
| 規模の考え方 | 遺跡の範囲によって決まる | 特殊公園には標準規模の定めがない |
| 主な担い手 | 文化庁・自治体の文化財担当 | 国土交通省・自治体の公園担当 |
| 利用者から見た姿 | 案内板・遺構表示・復元・見学 | 芝生・園路・ベンチ・散歩・遊び |
この重なりは、実務ではどのように働くのか。史跡公園に園路をつける、便所や東屋を建てる、木を植える、看板を立てるといった行為は、都市公園法の側から見れば通常の公園施設の設置であるが、文化財保護法の側から見れば史跡の現状変更にあたりうる。したがって史跡公園の整備は、公園の設計と同時に文化財の現状変更許可の手続きを踏むことになり、設計の自由度は通常の公園より小さい。掘削の深さ、基礎の位置、盛土の厚さ、植栽の種類と位置は、遺構への影響を検討したうえで決められる。史跡公園に大型の複合遊具や広い駐車場が少ないのは、この手続きが働いている結果でもある。
この手続きの帰結として、史跡公園では便所・駐車場・休憩所といった公園施設が、遺構の広がる中心部を避けて敷地の縁や隣接地に置かれる傾向がある。利用者から見れば「園内に施設が無い」ように映るが、実際には「遺構の上に置けないので外側にある」場合が少なくない。したがって史跡公園の施設の有無を判断するには、公園の区域だけでなく周辺を含めて見る必要があり、当サイトの踏査でもこの点は園の境界にとらわれずに記録することが求められる。
利用者の側にも、この重なりは静かに及んでいる。都市公園法にもとづく条例は、公園での火気の使用や車両の乗り入れ、竹木の損傷などを一般に制限するが、史跡公園ではそれに加えて、地面を掘ること、杭を打つこと、重い物を置くことが遺構保護の観点から避けるべき行為になる。通常の公園なら砂場や土の広場で穴を掘る遊びは歓迎されるが、史跡公園では地表を掘り返さないことが基本的な作法である。もっとも、これは禁止の看板を増やす話ではなく、「ここの地面の下には千年以上前の建物の跡がある」という事実を利用者が知っているかどうかの問題である。制度の重なりを利用者に伝えるのは案内板と、当サイトのような媒体の役目である。
国レベルの例を挙げれば、平城宮跡・飛鳥・吉野ヶ里の各歴史公園は国土交通省が設置する国営公園であると同時に、その土地の遺跡は文化庁の所管する史跡(平城宮跡は特別史跡)である。国営公園という都市公園の枠組みで園路や広場や休憩施設を整え、史跡という枠組みで遺構の保護と表示・復元の可否を判断する。この二重構造は自治体の史跡公園でも同じで、規模が小さくなるだけである。逆にいえば、すべての史跡が都市公園になるわけではない。史跡指定を受けた土地が公有化され、公開されていても、都市公園として設置されていなければ、それは「見学できる史跡地」であって都市公園法上の歴史公園ではない。磐田市のオープンデータで歴史公園が1園であるという数字は、都市公園として位置づけられた史跡公園の数であって、市内の史跡の数ではない。
以上を踏まえると、史跡公園を理解する鍵は「どちらの法律が優先するか」ではなく、「保存の判断は文化財の側が、日常の管理と利用の器は公園の側が担う」という役割分担にある。遺構を守る判断は考古学の知見にもとづいて文化財担当が行い、そこで許された範囲の中で、公園担当が芝生を刈り、園路を直し、利用者を迎える。史跡公園の姿は、この二つの担い手の対話の結果である。次節では、その対話の中で選ばれる具体的な手法——遺構表示・復元・覆屋・盛土と芝生——を方法論として分類する。
6. 遺構表示・復元・芝生保護の方法論——保存と活用の座標軸に手法を置く
史跡整備の実務には、遺構を守りながら見せるための手法の蓄積がある。本節ではそれらを、遺構への負荷(保存の軸)と理解のしやすさ(活用の軸)という二つの座標で分類する。手法は大きく、見せない手法(埋め戻し・盛土保存)、輪郭を見せる手法(平面表示)、かたちを見せる手法(立体表示)、実物を見せる手法(露出展示・覆屋)、姿を再現する手法(復元建物)、そして知識で補う手法(案内板・模型・映像)に分けられる。どれか一つが正解なのではなく、遺構の状態、資料の確かさ、予算、利用のされ方に応じて組み合わせられる。
6.1 見せない手法——埋め戻しと盛土、そして芝生
史跡整備の出発点は、発掘で確認した遺構を埋め戻し、その上に保護のための土を盛ることである。盛土は雨水や凍結、踏圧、根の侵入から遺構面を隔てる緩衝層であり、厚いほど守りは強いが、地表が元の地形から離れて理解しにくくなる。この盛土の表面を安定させる最も一般的な仕上げが芝生である。芝は根が浅く土をよく押さえ、雨で土が流れるのを防ぎ、人が歩く圧力を面で分散させる。しかも刈り込めば見通しがよく、遺跡の広がりを一目で感じさせる。史跡公園の広い芝生は、景観のためだけにあるのではなく、それ自体が保存の装置である。逆に、根が深く広がる高木は遺構の直上を避けて配置されるのが原則で、木陰の少なさもまた保存の帰結として説明できる。
6.2 輪郭とかたちを見せる手法——平面表示と立体表示
平面表示は、埋め戻した遺構の真上の地表に、建物の柱の位置や基壇の輪郭を、舗装材や色の違う砂利、低い植栽などで示す手法である。地面を深く掘らずに施工できるため遺構への負荷が小さく、上空から見れば伽藍の配置が読み取れる。ただし地表に立つ人には、模様が何を意味するのか案内板なしでは分かりにくい。立体表示は、基壇の高さを盛土で再現し、その上に礎石の模造品を据えたり、柱の一部を短く立ち上げたりして、建物の規模を体で感じられるようにする手法である。復元建物ほど断定的でなく、平面表示より分かりやすい中間の選択肢として、多くの寺院跡・官衙跡で採用されている。いずれも実物の礎石は地下に保護し、地表に見えるのは表示物であるという点が肝要である。
| 手法 | 遺構への負荷 | 理解しやすさ | 備考 |
|---|---|---|---|
| 埋め戻し・盛土+芝生 | 最小 | 低い(見えない) | すべての基本。芝生は保存装置 |
| 平面表示 | 小さい | 中(上から見れば分かる) | 案内板とセットで機能 |
| 立体表示(基壇・礎石模造) | 中 | やや高い | 規模を体感できる |
| 露出展示・覆屋 | 露出は大・覆屋で緩和 | 高い(実物) | 石垣・貝層など劣化しにくい遺構向き |
| 復元建物 | 大きい(基礎・荷重) | 最も高い | 学術的根拠と真正性の議論が伴う |
| 案内板・模型・映像 | なし | 手法次第 | 他の手法を補い、想像力を助ける |
6.3 実物を見せる手法と姿を再現する手法——露出展示・覆屋・復元建物
遺構そのものを見せる露出展示は理解の力が最も強いが、風雨と温度変化にさらされた遺構は確実に劣化する。そこで遺構の上に建物をかぶせて保護する覆屋という手法が用いられる。覆屋は発掘したままの姿を見せられる反面、それ自体が景観を変え、建設費と維持費がかかる。石垣や貝塚の断面のように比較的劣化しにくい遺構、あるいは特に重要な部分に限って採用されることが多い。復元建物は、失われた建物を実物大で建て直す最も強い活用の手法である。平城宮跡の朱雀門(1998年)や第一次大極殿(2010年)、登呂遺跡の竪穴住居、五色塚古墳の葺石と埴輪の復元整備などが知られる。復元は来訪者に過去の姿をありありと伝える一方で、基礎の施工が遺構に及ぼす影響、そして「本当にその姿だったのか」という真正性の問題を伴う。ヴェニス憲章が復元を原則として認めなかったのはこの点を重く見たからであり、奈良ドキュメントは木造文化圏における形式や技術の継承をも真正性に含めることで、根拠ある復元に道を開いた。文化庁は史跡等における歴史的建造物の復元について、学術的な根拠と遺構への影響の小ささを求める考え方を示している。
この分類から二つのことが言える。第一に、史跡公園で目に見える整備の量は、遺跡の重要度を表す尺度ではない。むしろ重要な遺跡ほど負荷の小さい手法が選ばれ、地表は静かになる傾向がある。第二に、案内板・模型・映像といった知識で補う手法は、遺構への負荷がゼロでありながら理解を大きく助ける。近年は現地で端末をかざすと復元の姿が重なって見えるデジタルの手法も各地で試みられており、地面を一切傷めずに活用を進める道が広がりつつある。史跡公園に立つとき、目の前の芝生と、足元の見えない遺構と、案内板の図の三つを重ねて読むこと——それが史跡公園の正しい「見方」である。
7. 反論への応答と比較——「何もない公園」は退屈か、遊びと遺跡は両立するか
ここまでの議論に対しては、いくつかのもっともな反論が予想される。本節ではそれらに順に応答し、あわせて史跡公園の型を比較して、遠江国分寺史跡公園のような寺院跡型の史跡公園の位置を明らかにする。
7.1 「遊具もない、建物もない。何もない公園は退屈ではないか」
この反論は、公園の価値を設備の量で測る見方に立っている。しかし史跡公園の芝生は、第6節で述べたとおり保存装置であると同時に、見通しのよい広い平面という、街区公園にはめったにない資源である。子どもは走り回れ、保護者は離れた場所からでも子どもの姿を見失いにくい。都市公園法の街区公園の標準規模が0.25haであるのに対し、遠江国分寺史跡公園の面積21,600㎡は近隣公園の標準2haを超える広さであり、この広さの平坦な芝生が中泉地区の住宅地の中にあることの意味は小さくない。さらに考古学の視点からは、史跡公園は「見えないものを見る」練習の場である。芝生の下に千年以上前の建物の礎石が眠っていると知ったうえで立つとき、地面は退屈な平面ではなく、想像力を要求する面に変わる。退屈かどうかは、遺跡について知っているかどうかに大きく左右される。案内板を読むこと、事前に姉妹サイトなどで背景を知ることが、史跡公園の楽しみ方の前提である。
7.2 「遊びは遺跡を傷める。子どもは入れないほうがよいのではないか」
この反論は保存を最優先する立場からのもので、傾聴に値する。しかし第4節で見たように、活用は保存を社会的に支える土台であり、子どもが遊びに来ない史跡公園は、次の世代にとって守る理由のない場所になってしまう。問題は遊びそのものではなく、遊びの種類である。芝生の上を走ること、座ってお弁当を食べること、球を転がすことは、盛土と芝生が受け止めるよう設計された負荷の範囲にある。他方、地面を掘ること、杭やペグを深く打つこと、火を使うこと、車両を乗り入れることは、遺構に直接及びうる。つまり「子どもは入れない」ではなく「掘らない・打ち込まない・燃やさない」という数少ない作法を共有すれば、遊びと保存はおおむね両立する。古墳のある公園で墳丘に登ってよいかどうかは、園ごとに表示に従うのが原則であり、当サイトはそれを踏査で確かめる。
7.3 「復元建物を建てて分かりやすくすべきだ」「遺跡は博物館へ移せばよい」
復元を求める声は、活用の側からの正当な要求である。しかし復元には学術的な根拠の確かさ、基礎工事の遺構への影響、建設と維持の費用、そして真正性をめぐる議論が伴う。国分寺の場合、七重塔や金堂の姿は文献と各地の類例から一定程度推定できるとされるが、細部まで確定できるわけではない。平面表示や立体表示、模型や映像による復元は、この不確かさを正直に残したまま理解を助ける手法であり、復元建物のない史跡公園を「未完成」と見なす必要はない。「博物館へ移せばよい」という提案については、遺構は定義上動かせないものであるという第2節の整理を思い出せば足りる。出土した遺物は博物館へ移せるが、基壇や礎石の並びは、その場所にあってこそ意味をもつ。史跡公園は、動かせないものを動かさずに見せるための唯一の形式である。
7.4 「地方の史跡公園には人が来ない。整備しても無駄ではないか」
この反論は財政の観点から出されることが多く、無視できない。しかし本稿の立場からは二つの応答がある。一つは、史跡公園の第一の役割は集客ではなく保存であり、来訪者が少なくても遺構が守られていれば整備の目的の大半は達成されている、ということである。観光地としての成功と保存としての成功は別の尺度で測られねばならない。もう一つは、史跡公園を支えるのは遠くから来る観光客ではなく、日々散歩し、子どもを遊ばせ、季節の変化を眺める近隣の住民だという点である。毎日誰かの目が届いている場所では、地表の異変や不適切な利用に早く気づくことができる。史跡公園の日常的な利用は、それ自体が保存のための見守りである。地方の史跡公園にとって重要なのは来訪者数ではなく、近隣の住民がその場所の意味を知り、自分たちの公園として使い続けているかどうかである。
以上四つの反論への応答をまとめれば、史跡公園の「何もなさ」は知識によって意味を得るものであり、遊びと保存は作法の共有によって両立し、復元の少なさは不確かさへの誠実さの表れであり、来訪者の少なさは保存の失敗を意味しない、ということになる。次節では、この一般論をより具体的にするために、史跡公園の型を比較し、国分寺跡のような寺院跡型の史跡公園がどのような位置にあるかを見る。
8. 史跡公園の型の比較——古墳・城跡・集落遺跡・寺院跡
史跡公園と一口に言っても、遺跡の種類によって公園としての姿はまったく異なる。本節では日本の史跡公園を四つの型に分け、それぞれの景観の核、保存上の課題、活用の手法、そして子ども連れにとっての性格を比較する。この比較の目的は、国分寺跡のような寺院跡型の史跡公園が、他の型と比べてどのような位置にあるかを明らかにし、その「静けさ」を相対化して理解することにある。
8.1 古墳型——墳丘という立体
古墳型の史跡公園は、墳丘という目に見える立体をもつ点で他の型と決定的に異なる。墳丘は遠くからでも認識でき、公園の景観の核となる。前方後円墳や円墳の形は、上に登れば地形として体感でき、周囲を巡れば規模がわかる。神戸市の五色塚古墳のように葺石と埴輪を復元して築造当時の姿を再現した例もあれば、墳丘を樹木に覆われたまま保存する例もある。保存上の課題は、墳丘の斜面の崩れ、雨水による浸食、根の侵入、そして過去の盗掘による穴の保護である。人が登れば斜面は削れるため、登れるかどうかは園ごとに判断が分かれ、表示に従うのが原則となる。子ども連れにとっては、小山に登る楽しみと、周りを回る散歩の楽しみがある一方、斜面での転倒には通常の注意が要る。磐田市では京見塚公園の園内施設欄に「京見塚古墳」と記されており、この型の身近な例として、遊具と古墳がどのように共存しているかを踏査で確かめたい。
8.2 城跡型——石垣・堀・桜と復元論争
城跡型は、日本の公園史のなかで最も古くから公園として親しまれてきた型である。1873年の太政官布達で公園制度が始まった際、社寺境内地とともに各地の城跡が公園に指定され、明治以降に植えられた桜によって花見の名所となった例が多い。石垣・堀・土塁・曲輪といった土木遺構が地表に残るため、景観の骨格がはっきりしており、地形の高低差そのものが見どころになる。保存上の課題は石垣の孕みや崩落、堀の水質、樹木の根による石垣の変形などで、活用の面では天守や櫓の復元をめぐる真正性の議論がとくに盛んである。史料や古写真にもとづく復元と、根拠の乏しい模擬天守とは区別して論じられる。子ども連れにとっては、高低差のある地形を歩く楽しみと広い曲輪の広場があるが、石垣の縁や堀の水際には見守りが要る。
8.3 集落遺跡型——復元による体感
集落遺跡型は、静岡市の登呂遺跡や佐賀県の吉野ヶ里のように、竪穴住居・高床倉庫・物見櫓などを実物大で復元し、当時の暮らしを体で感じさせることに重点を置く型である。四つの型のなかで最も活用の色が濃く、体験学習の場としての性格が強い。復元住居の中に入れること、道具の使い方を体験できることは、文字や図では得られない理解をもたらす。他方で、復元建物は木や茅でできているため定期的な葺き替えや建て替えが必要で、維持の負担が大きい。また復元の姿はあくまで研究にもとづく推定であり、新しい知見によって見直されることがある。子ども連れにとっては最も分かりやすく楽しい型であるが、それは大きな維持費と、真正性についての絶えざる検討に支えられている。
8.4 寺院跡・官衙跡型——静かな平面
寺院跡・官衙跡型は、国分寺跡・国分尼寺跡・国府跡・郡衙跡など、古代の官立の寺院や役所の跡地からなる型である。建物は礎石建ちの瓦葺きで、失われた後には基壇と礎石の並びが平坦地に残る。墳丘のような立体も、石垣のような高低差もなく、復元住居のような分かりやすい建物も通常はない。整備は埋め戻しと盛土と芝生を基本に、基壇の輪郭や柱位置の平面表示、部分的な立体表示、そして案内板によって行われる。四つの型のなかで地表が最も静かで、一見すると「ただの広場」に見える。しかしこの静けさは、第6節で述べたとおり、遺構の保存状態のよさと整備の抑制の表れである。子ども連れにとっては、遊具はないが広く見通しのよい平坦地があり、幼い子どもを走らせやすい。遠江国分寺史跡公園はこの型に属し、その面積21,600㎡は寺院跡型の史跡公園として、伽藍の広がりをそのまま公園にした規模といえる。
四つの型を比べると、活用の分かりやすさは集落遺跡型が最も高く、城跡型・古墳型がこれに続き、寺院跡型が最も低い。逆に、遺構への日常的な負荷の小ささでは寺院跡型が最も優れている。つまり寺院跡型の史跡公園は、保存と活用の座標軸のうえで最も保存寄りに位置する型であり、その分、案内板や周辺の情報媒体による知識の補いが、他の型以上に重要になる。史跡公園の型を知ることは、その公園に何を期待し、何を期待すべきでないかを知ることである。寺院跡型に集落遺跡型のような分かりやすさを求めるのは筋違いであり、その代わりに寺院跡型には、広い芝生と、足元の見えない歴史を想像する静けさという固有の価値がある。
9. 磐田市の公園への示唆——歴史公園1園と、遺跡と重なる公園たち
ここまでの一般論を、当サイトが収める磐田市の都市公園100園に当てはめる。使う事実は、市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドに記載されたものに限る。種別ごとの園数を見ると、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、法対象外6園である。都市公園法の特殊公園にあたるのは風致公園(つつじ公園・竜洋昆虫自然観察公園・いわたエコパーク)、墓園(緑ヶ丘霊園)、そして歴史公園の合計5園であり、歴史公園はただ一つ、中泉地区の遠江国分寺史跡公園である。
9.1 遠江国分寺史跡公園——施設一覧の空白をどう読むか
遠江国分寺史跡公園について当サイトの資料が伝える事実は、種別が歴史公園、面積が21,600㎡、地区が中泉、そして市の施設ガイドに駐車場・園内施設の記載がなく、オープンデータのトイレ・砂場・遊具のフラグも立っていない、ということである。100園のうち64園に遊具、69園にトイレのフラグがある中で、この空白は際立つ。第3節から第6節の議論に照らせば、この空白は「整備されていない公園」ではなく「保存を優先した史跡公園」の姿として読むのが自然である。もっとも、資料に記載がないことと現地に無いことは同じではない。案内板や遺構表示があるのか、地表がどのような状態か、ベンチや日陰があるのか、便所が近くにあるのかは、当サイトの今後の踏査で確かめる事項であり、本稿はその結果を先取りしない。
子育て世代への実践的な示唆は次のとおりである。第一に、この園は遊具で遊ぶ公園ではなく、広い芝生を走り、座り、遺跡の広がりを感じる公園として理解するとよい。近隣公園の標準規模2haを超える平坦地は、幼い子どもの見守りがしやすい環境でもある。第二に、施設ガイドに記載がない以上、トイレや水分は近くの施設や中泉地区の他の公園(同地区には中央公園や京見塚公園などトイレ・駐車場の記載のある園がある)を含めて事前に計画するのが現実的である。第三に、地面を掘らない、杭を打たない、火を使わないという史跡公園の作法を子どもと共有し、案内板や表示があればそれに従う。第四に、遺跡についての基本的な知識は姉妹サイト磐田物語の中泉地区の記述と市の公表資料で得られる。知って行くかどうかで、この公園の「何もなさ」の意味はまったく変わる。
9.2 遺跡を園内にもつ街区公園——一ノ谷公園・京見塚公園・御殿遺跡公園
磐田市には、歴史公園ではない通常の公園でありながら、遺跡と重なる園がある。市の施設ガイドの園内施設欄に「一ノ谷遺跡、滑り台、砂場、トイレ」と記される見付地区の一ノ谷公園(街区公園、2,458㎡、駐車場有り)、「京見塚古墳、ブランコ、鉄棒、砂場、トイレ」と記される中泉地区の京見塚公園(街区公園、10,231㎡、駐車場あり)、そして園名に遺跡を含む中泉地区の御殿遺跡公園(街区公園、827㎡、施設記載なし)である。前二者は、遺跡や古墳と遊具が同じ施設一覧に並ぶという点で、本稿が論じてきた保存と活用の共存を、最も身近なスケールで示している。街区公園として日々子どもが遊ぶことと、園内の遺跡・古墳を守ることが、一つの園で同時に成り立っているのである。御殿遺跡公園は面積827㎡と小さく施設の記載がないが、園名が遺跡の存在を告げている。これらの園でどのような表示や保護の工夫がなされているかは、踏査の重要な確認事項である。
さらに、園名に「塚」を含む園として、かぶと塚公園(見付・総合公園)、経塚公園(見付・街区公園)、二子塚公園(御厨・近隣公園)、西貝塚公園(御厨・街区公園)が挙げられ、塔之壇公園(見付・近隣公園)のように古い建造物を思わせる園名もある。ただし当サイトは、京見塚公園を除き、これらの園名が遺跡に由来するのか、園内に遺構が残るのかを確認していない。園名は手がかりであって証拠ではない。地名と遺跡の関係は言語学(地名学)と考古学の交わる領域であり、当サイトの他の論考と磐田物語の地区ページに委ね、本稿では園名の事実を挙げるにとどめる。
9.3 行政と地域への示唆——二つの窓口、案内板、そしてデータの項目
行政と地域の関係者への示唆は三つある。第一に、史跡公園と遺跡を園内にもつ公園では、公園の管理(当サイトの資料では都市整備課)と文化財の保護が別の系統で動く。園路の補修や樹木の剪定のような日常の作業でも、遺構への影響という観点が共有されていることが望ましく、両者の情報共有の仕組みが史跡公園の質を決める。第二に、利用者にとって遺跡の存在は案内板を通じてしか分からない。第7節で述べたように、退屈かどうかも、掘らないという作法が守られるかどうかも、知っているかどうかにかかっている。案内板の有無と読みやすさは、遺構への負荷ゼロで活用を進める最も費用対効果の高い投資である。第三に、市のオープンデータの項目には遺跡の有無がない。施設ガイドの園内施設欄に「一ノ谷遺跡」「京見塚古墳」と記されているのは貴重であるが、当サイトは踏査において「遺跡・史跡の表示があるか」「掘削を控える旨の掲示があるか」を親目線の項目として記録し、データの空白を埋めていきたい。
最後に当サイトの立場を明記する。当サイトは磐田市の公園100園のデータベースであり、運営は富士ヶ丘サービス株式会社(不動産・介護事業)である。踏査はこれからであり、本節で述べたことはすべて公開資料と一般論からの推論である。遠江国分寺史跡公園の遺跡としての内容は、当サイトではなく姉妹サイト磐田物語と市の公表資料が担う。当サイトが担うのは、その公園を「子どもと過ごす場所」としてどう理解し、どう作法を守って使うかを、公園データの側から示すことである。
10. 結論と今後の課題
本稿は、遺跡が公園として整備されるという現象を、考古学と文化財保護の視点から読み解いてきた。第1節で立てた三つの問いに答える形で結論を述べる。第一の問い、史跡公園はどちらの法律の論理で動くのかについては、「保存の判断は文化財保護法の側(史跡の指定と現状変更許可)が担い、日常の管理と利用の器は都市公園法の側(特殊公園としての歴史公園)が担う」という役割分担が答えである。史跡公園は一つの地面に二つの制度が重なる場所であり、その姿は二つの担い手の対話の結果として形づくられる。
第二の問い、遺構表示・復元・覆屋・盛土と芝生はどこに位置づけられるのかについては、遺構への負荷と理解のしやすさという二つの座標軸で手法を分類することで答えた。埋め戻しと盛土と芝生はすべての基本であり、芝生は景観ではなく保存装置である。平面表示・立体表示は負荷の小さい活用の手法であり、復元建物は最も強い活用の手法であると同時に、ヴェニス憲章と奈良ドキュメントが示すように真正性の議論を伴う。目に見える整備の量は遺跡の重要度の尺度ではなく、重要な遺跡ほど地表は静かになりうる。国分寺跡のような寺院跡型の史跡公園は、この静けさが最もよく表れる型である。
第三の問い、遊具の記載がない史跡公園を子育て世代はどう使えるかについては、次のように答えられる。史跡公園は遊具で遊ぶ場所ではなく、広く見通しのよい芝生を走り、座り、足元の見えない遺構を想像する場所である。掘らない・打ち込まない・燃やさないという少数の作法を共有し、表示に従えば、遊びと保存はおおむね両立する。そして退屈かどうかは、遺跡について知っているかどうかで決まる。磐田市においては、中泉地区の遠江国分寺史跡公園(歴史公園、21,600㎡)がこの型にあたり、一ノ谷公園・京見塚公園のように遺跡・古墳と遊具が同じ施設一覧に並ぶ街区公園が、保存と活用の共存を身近なスケールで示している。
今後の課題は四つある。第一に、踏査による確認である。遠江国分寺史跡公園と、遺跡を園内にもつ一ノ谷公園・京見塚公園・御殿遺跡公園について、遺構表示や案内板の有無、地表の状態、日陰やベンチ、掘削を控える旨の掲示があるかを、当サイトの親目線項目として記録することが最初の仕事である。第二に、遊びと遺跡を両立させる利用の作法を、禁止の列挙ではなく「なぜそうするのか」の説明を伴う形で整理し、読みものとして提供することである。第三に、園名に「塚」を含む園などについて、園名と遺跡の関係を地名学と考古学の側から確かめることであり、これは姉妹サイト磐田物語との連携課題である。第四に、他の自治体の国分寺跡公園との比較である。全国の国分寺跡は同じ詔にもとづく同じ性格の遺跡であるがゆえに、整備の手法と利用のされ方の違いがよく見える比較対象となる。
本稿の限界も記しておく。本稿は文献と公開資料にもとづく概念的な整理であり、遠江国分寺史跡公園の遺跡としての内容や整備の実際には踏み込んでいない。史跡整備の手法や制度の説明は一般論であり、個々の史跡公園でどの手法が選ばれ、どのように管理されているかは、それぞれの整備計画と管理者の判断による。また、遊びと遺跡の両立についての作法は本稿の提案であって、各園で定められた利用のきまりがあればそちらが優先する。読者には、本稿を史跡公園の「読み方の枠組み」として受け取り、個別の事実は市の公表資料・案内板・姉妹サイト磐田物語で確かめていただきたい。
史跡公園は「遺跡を守るために公園という器を借りた場所」である。器としての公園は、遺跡に負荷をかけずに人を迎え、人は遺跡の存在を知ることで守り手になる。この循環が成り立つとき、保存と活用は緊張しながらも互いを支える。磐田市に一つだけある歴史公園と、遺跡と重なるいくつかの公園は、その循環を地域のスケールで確かめる場である。本稿がその確認の出発点になれば幸いである。
参考文献
- 文化財保護法(昭和25年法律第214号)
- 史蹟名勝天然紀念物保存法(大正8年法律第44号)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令
- 国土交通省 都市局公園緑地・景観課「都市公園」ページ
- 文化庁文化財部記念物課監修(2005)『史跡等整備のてびき——保存と活用のために』同成社
- ICOMOS(1964)「記念建造物および遺跡の保全と修復のための国際憲章(ヴェニス憲章)」
- 「オーセンティシティに関する奈良ドキュメント」(1994)
- 『続日本紀』天平13年(741)国分寺建立の詔
- 濱田耕作(1922)『通論考古学』大鐙閣
- R. E. M. ウィーラー(1954)『Archaeology from the Earth』Oxford University Press
- Charles R. McGimsey III(1972)『Public Archeology』Seminar Press
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
- 磐田物語(姉妹サイト)中泉地区ページ
- 磐田物語(姉妹サイト)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。