人文学子ども史
子どもはいつから遊び場を必要としたか——子ども史と都市の変化
要旨
本稿の目的は、「子どもには専用の遊び場が必要である」という今日ではほとんど自明に見える考え方が、いつ、どのような事情のもとで成立したのかを、子ども史(history of childhood)の視点から整理することである。出発点はフィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(1960)に始まる議論、すなわち子ども期という区分そのものが時代と社会のなかで形づくられてきたとみる見方であり、そこに向けられた実証的な批判も含めて、子ども観の歴史性という前提を確認する。
方法は文献の整理と概念の検討であり、新しい調査データを示すものではない。第3節では産業化と工場立法、学校教育の普及によって子どもが労働から切り離され、一日のうちに「学校ではない時間」が生まれた過程を辿る。第4節では街路が交通の空間へと再定義され、子どもがそこから退去させられていった過程を、都市史と移動の研究に沿って確認する。第5節では19世紀末から20世紀初頭に登場した遊び場運動を、第6節ではその背後にあった衛生・安全・非行防止・国民形成という大人の動機を分解する。第7節では、子どものために場所を用意することが同時に子どもを他の場所から排除することでもあったという両義性を論じ、冒険遊び場と遊ぶ権利という抵抗の系譜を対置する。第8節では日本における名称の変遷——児童遊園、児童公園、街区公園——が何を意味したのかを検討する。
結論として本稿は、遊び場の歴史は子どもの自由が拡大した歴史ではなく、失われた場所の代償として限定された場所が与えられた歴史として読むほうが正確であり、したがって現在の公園を評価する基準は「子ども向けの設備があるか」ではなく「子どもが行ける範囲と、そこで許されている行為の幅がどれだけ確保されているか」に置かれるべきだと主張する。そのうえで、磐田市の都市公園100園(街区公園51園・近隣公園14園、遊具有64園)の構成を、本稿が辿った歴史の層に照らして読み、当サイトが今後の踏査で確かめるべき課題を示す。
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1. はじめに——問題の所在
公園に遊具があり、そこで子どもが遊んでいる。この光景は、あまりにも見慣れているために、人間の生活にとって当たり前の風景のように思われている。しかし、子どものために区切られた土地を用意し、そこに遊ぶための道具を据え、行政がそれを維持するという仕組みは、歴史のなかではきわめて新しい。世界の多くの都市でこの仕組みが広がり始めたのは19世紀の末であり、日本の市町村が生活圏の単位で小さな公園を数多く抱えるようになったのは、さらに後のことである。
本稿が立てる問いは単純である。子どもはいつから遊び場を必要としたのか。より正確に言えば、いつから、誰が、どのような事情のもとで、子どもには専用の遊び場が必要だと考えるようになったのか。この問いは、遊び場の設計や運営の巧拙を問うものではない。遊び場という発想そのものが、どのような社会の変化の産物なのかを問うものである。
1.1 なぜ歴史学から問うのか
遊び場をめぐる議論は、しばしば現在の条件だけを見て行われる。遊具が古い、砂場が使われていない、ボール遊びが禁じられている、子どもの声が苦情になる。いずれも切実な論点だが、それらを現在の問題としてのみ扱うと、なぜこの場所がこの形をしているのかという最も基本的な問いが抜け落ちる。公園の柵、遊具の対象年齢表示、禁止行為の看板は、どれも誰かがある時点で必要だと判断して設けたものであり、その判断には理由の歴史がある。
子ども史(history of childhood)は、この理由の歴史を扱う分野である。その中心にあるのは、子ども期(childhood)という区分が生物としての未成熟さと同じものではない、という認識である。人間の子が身体的に未熟な期間を持つことは歴史を通じて変わらない。しかし、その期間をどのように区切り、何を許し、何を禁じ、どこに置くかは、時代と社会によって大きく異なってきた。遊び場はまさにその「どこに置くか」の答えの一つとして現れた。
1.2 二重の問いとして立てる
したがって本稿の問いは二重になる。第一に、子ども期そのものの変化である。子どもが家の労働力から、学校に通い保護される存在へと位置づけを変える過程が、まず前提として必要だった。第二に、場所の変化である。子どもが遊んでいた街路や空き地や川辺が、別の用途に明け渡されていく過程がなければ、代わりの場所を用意するという発想は生まれない。この二つが交差した地点に、遊び場という制度が立ち上がる。
本稿が最も重く見るのは、この制度が持つ両義性である。子どものために場所を用意することは、同時に、その場所以外で子どもが遊ぶことの正当性を弱める。専用の場所ができれば、そこ以外は専用ではなくなるからである。遊び場の歴史を、子どもの自由が拡大した歴史として読むことはできない。むしろ、失われた場所の代償として、限定された場所が与えられた歴史として読むほうが、実態に近い。
1.3 方法と構成
方法は文献の整理と概念の検討である。年代や制度名は、広く共有され確認できるものに限り、確信の持てない細部は書かない。第2節でアリエス以降の子ども史の枠組みを整理し、第3節で労働からの分離と学校の普及を、第4節で街路からの退去を辿る。第5節で遊び場運動の成立を、第6節でその動機を分解し、第7節で両義性と抵抗の系譜を論じる。第8節で予想される反論に応答し、第9節では日本における名称の変遷を検討する。第10節で磐田市の公園100園への示唆を述べ、第11節で結論と今後の課題を示す。
註:本稿は欧米と日本の一般的な流れを扱う。磐田市の個々の公園がいつどのような経緯で設けられたかについては、当サイトが手元に持つ公開情報の範囲では確認できていない。園ごとの成立の経緯は、今後の踏査と資料の確認にゆだねる。
2. 先行研究と概念の整理——アリエス論争と子ども期の歴史性
子ども史という分野の出発点として広く参照されるのは、フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(1960、邦訳1980)である。アリエスは、中世ヨーロッパの絵画や日記、衣服、遊戯の記録などを手がかりに、当時の社会には子ども期を大人の生活から明確に区切る観念が乏しかったと論じた。子どもは離乳して身のまわりのことができるようになると、大人の集団のなかに混じって働き、遊び、同じ場所で暮らした。子ども期を独立した段階として扱い、そのための場所と時間と規律を用意する感覚は、近代の学校や家族のあり方とともに強まっていったというのが、その骨子である。
2.1 アリエスへの批判と、それでも残ったもの
この主張は大きな影響を与えると同時に、実証面から強い批判も受けた。リンダ・ポロックは『Forgotten Children』(1983)で、日記や自伝といった私的な記録を体系的に読み直し、近代以前の親も子の死を深く悲しみ、健康や成長に細やかな関心を寄せていたことを示した。すなわち、子どもへの情愛が近代の発明であるという読み方は行き過ぎだという批判である。ロイド・ドゥモース編『The History of Childhood』(1974)のように、過去から現在に向けて子どもの扱いが一貫して改善してきたと描く立場もあったが、こちらもまた単純な進歩史観として疑問視されてきた。
現在の子ども史は、これらの論争を経て、より慎重な立場に落ち着いている。ヒュー・カニンガム『Children and Childhood in Western Society since 1500』(1995)に代表されるように、親の愛情の有無を時代で切り分けるのではなく、子ども期をめぐる制度・言説・実践がどう変化したかを問う。愛情は昔からあった。変わったのは、子どもをどこに置き、何をさせ、誰が責任を持つかという社会の側の取り決めである。本稿が引き継ぐのはこの後者の問いである。
2.2 三つの立場の対比
本稿が用いる概念を明確にするため、子ども期をめぐる代表的な見方を対比しておく。重要なのは、どれが正しいかを決めることではなく、それぞれがどの問いに答える道具なのかを区別することである。遊び場の成立を論じるうえで有効なのは、三番目の立場、すなわち制度と場所の配置に注目する読み方である。
| 立場 | 主な関心 | 遊び場を論じるときの使いどころ |
|---|---|---|
| 子ども期の発明(アリエス) | 子ども期という区分がいつ、どのように意識されたか | 専用の場所という発想が近代に属することを示す |
| 情愛の連続性(ポロックら) | 親子関係の実態が時代を超えてどれだけ連続していたか | 遊び場の登場を親の愛情の芽生えと取り違えないための歯止め |
| 制度と場所の配置(近年の子ども史) | 学校・法律・都市計画が子どもをどこに置いてきたか | 遊び場を、労働・学校・街路の再編と一体の現象として読む |
2.3 本稿が用いる三つの用語
以下では三つの用語を次の意味で用いる。第一に「子ども期の分離」とは、子どもが大人の労働と生活の場から切り離され、学校と家庭という専用の領域に配置されるようになる過程を指す。第二に「遊び場の制度化」とは、遊びが行われる場所が、たまたまそこにあった空間ではなく、目的を持って設計・管理・維持される施設になることを指す。第三に「代償としての空間」とは、ある場所を失った結果として別の場所が与えられるという関係を指す。
この三つは連動している。子ども期が分離されるほど、子どもの居場所を大人が用意する必要が生まれる。街路や空き地が別の用途に転じるほど、その必要は切迫する。そして用意された場所は、失われたものと同じ広がりや自由度を持たないため、常に代償という性格を帯びる。ヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』(1938)で述べたように、遊びは本来、それ自体のために行われ、日常の秩序からいったん離れた場を必要とする。制度化された遊び場は、その離脱を許すために作られながら、同時に管理の対象でもあるという緊張を最初から抱えている。
註:アリエスの主張は史料の解釈をめぐって議論が続いており、本稿はその当否を判定しない。本稿が用いるのは、子ども期の扱いが歴史的に変化しうるという前提のみである。
3. 働く子どもから学ぶ子どもへ——産業化・工場立法・学校
遊び場が必要とされるためには、その前提として、子どもに遊ぶための時間がまとまった形で存在しなければならない。ところが、子どもが労働の担い手であった社会では、そのような時間はまとまりを持たない。前近代の子どもは、年齢によってではなく、できる仕事によって位置づけられていた。水を汲む、鳥を追う、弟妹を背負う、糸を繰る、店の使いに出る。これらは手伝いであると同時に、家の生産の一部だった。遊びは労働の合間、道の途中、仕事の場そのものに紛れて成立していた。
柳田國男が『こども風土記』(1942)で書き留めた遊びの数々も、多くは特別な場所を必要としない。手や声や身近な自然物を使い、道端や庭先や社寺の境内で成り立つ遊びである。遊具のある区画が要るという発想は、そこにはない。裏返せば、遊び場という施設が求められるようになるとき、社会の側で何かが決定的に変わっているということである。
3.1 工場が子どもの労働を外に出した
産業化は、子どもの労働を家の中から工場という外部の場へ移した。家の手伝いであれば労働の量と質は家族の裁量に委ねられていたが、賃金労働となれば、雇用者の都合で長時間の就労が起こりうる。ここで初めて、子どもの労働が社会問題として可視化される。イギリスで1833年に成立した工場法は、繊維工場における年少者の就労に年齢と時間の制限を課し、その履行を監督する仕組みを設けた点で、しばしば近代的な児童保護立法の画期として語られる。
日本でも同様の経路をたどった。工場法は明治44年(1911年)に公布され、大正5年(1916年)に施行された。年少者と女性の就労時間などを制限するものであり、その適用範囲や実効性については当時から議論があったが、子どもの労働を国家が規律の対象とみなしたという点で、位置づけの転換を示している。労働からの分離は一度に起きたのではなく、法と経済と家計の事情がせめぎ合いながら、数十年をかけて進んだ。
3.2 学校が一日を区切った
労働から切り離された子どもを受け止めたのは学校である。イギリスでは1870年の初等教育法が公立学校の整備を進め、日本では明治5年(1872年)の学制が全国的な就学の枠組みを示した。就学が実際に広がるまでには時間を要したが、明治の後期を通じて就学率は高い水準に達したとされる。学校の普及がもたらしたのは、読み書きの能力だけではない。決まった時刻に決まった場所に集まり、鐘の合図で活動を切り替えるという時間の規律である。
E・P・トムスンは、産業社会において時計によって計られる時間が労働の規律を形づくった過程を論じた(1967)。学校はこの時間規律を子どもに教える装置でもあった。そして、一日を時間割で区切るということは、区切られなかった時間をも同時に生み出すことを意味する。放課後、休日、長期休業。それまで労働と遊びが溶け合っていた子どもの一日に、「学校ではない時間」という空白がまとまった塊として現れたのである。
3.3 「値段のつけられない子ども」
ヴィヴィアナ・ゼライザーは『Pricing the Priceless Child』(1985)で、19世紀末から20世紀初頭のアメリカにおいて、子どもの社会的な価値が転換したと論じた。かつて子どもは家計を助ける労働力として経済的な価値を持っていたが、労働から切り離されるにつれて経済的には無用な存在となり、代わりに情緒的にかけがえのない存在として位置づけられていった。子どもの事故死に対する社会の受け止め方や、養子縁組で望まれる子どもの年齢の変化などに、その転換は表れる。
この転換は、遊び場の歴史にとって決定的である。子どもが経済的な担い手であるかぎり、その安全は家の事情の一部だった。しかし子どもが情緒的にかけがえのない存在になると、子どもが危険にさらされること自体が社会全体にとって耐えがたい事態となる。街路で子どもが車にはねられるという出来事の意味も、この転換の前後で変わる。次節で見るように、そこから、子どもを街路から遠ざけ、安全な区画に集めるという発想が現実の政策として動き出す。
整理すれば、産業化と学校は、遊び場が必要とされるための二つの条件を用意した。第一に、遊ぶための時間がまとまった塊として存在すること。第二に、子どもが守られるべき存在として社会的に位置づけられること。しかしこの二つだけでは、まだ遊び場は生まれない。子どもがそれまで遊んでいた場所が使えなくなるという、第三の条件が必要だった。
4. 街路からの退去——自動車化と遊び場所の縮小
遊び場の歴史を考えるうえで最も見落とされやすいのは、遊び場が作られる前、子どもたちはすでに十分な広さの遊び場所を持っていたという事実である。それは街路であり、路地であり、空き地であり、川辺であり、社寺の境内であった。これらは遊びのために設計された場所ではない。だからこそ、そこで何をするかを決めるのは、その場に居合わせた子どもたちだった。
4.1 街路は遊び場だった
アイオナとピーター・オピー夫妻は『Children's Games in Street and Playground』(1969)で、イギリス各地の子どもたちが街路と校庭で行っていた遊びを大量に採集した。鬼ごっこ、縄跳び、まりつき、数え歌、陣取り。それらの多くは、道具をほとんど必要とせず、その場の地形や段差や壁を利用して成立していた。オピー夫妻の記録が示すのは、遊びの豊かさが施設の有無ではなく、その場所を子どもが自由に読み替えられるかどうかに依存していたということである。
ジェーン・ジェイコブズは『アメリカ大都市の死と生』(1961)で、都市の歩道こそが子どもにとって適した場所であり、計画された遊び場に子どもを集めることは必ずしも安全にも豊かさにもつながらないと論じた。歩道には人通りがあり、店があり、大人の視線が自然に働く。ジェイコブズの議論は都市計画への批判として読まれることが多いが、子ども史の視点から読めば、街路の喪失がまだ完了していなかった時代の証言としても読める。
4.2 街路の用途をめぐる争い
その街路が子どもの手を離れる過程を丹念に描いたのが、ピーター・D・ノートンの『Fighting Traffic』(2008)である。ノートンは、自動車が普及し始めた時期のアメリカ都市において、街路が誰のものかをめぐる争いが起きていたことを示した。当初、街路は歩行者や露天商や遊ぶ子どもたちが当然のように使う共有の空間であり、そこを速度をもって走る自動車のほうが侵入者とみなされていた。事故が起きれば非難されるのは運転者の側だった。
この関係が反転する過程で大きな役割を果たしたのが、街路の正しい使い方をめぐる言葉と規範の再定義である。定められた場所以外で車道を横切る歩行者を指す言葉が広められ、街路を歩き回ることのほうが逸脱とされていった。ノートンの分析が示すのは、自動車化が単に技術の普及ではなく、空間の意味づけをめぐる社会的な闘争だったということである。そして子どもは、この闘争において最も弱い当事者であり、最も早く退去を求められた側だった。
4.3 日本における同じ過程
日本でも高度経済成長期に自動車が急速に普及し、生活道路が通行の空間へと変わっていった。1960年代には交通事故の増加を指して交通戦争という言葉が用いられ、子どもの安全が社会的な関心事となった。舗装され、側溝が整えられ、車がすれ違えるようになった道は、便利さと引き換えに、そこに座り込み、線を引き、走り回るという使い方を許さなくなる。仙田満は『子どもとあそび』(1992)で、日本の都市において子どもの遊び空間が量的にも質的にも縮小してきた過程を、環境設計の側から記述している。
失われたのは道だけではない。水辺もまた、子どもの遊び場所としての性格を薄めていった。河川の改修や護岸の整備は水害への備えとして必要な事業であり、その意義は疑えないが、結果として川に降りられる場所は限られていった。水難への懸念から立ち入りが制限される区間も増える。道と水辺という、子どもが最も日常的に使ってきた二つの場所が、それぞれ別の理由で、ほぼ同じ時期に遠のいたのである。
4.4 縮んだのは場所だけではない
失われたのは面積だけではない。子どもが一人で、あるいは子どもだけで行ける範囲もまた縮んだ。メイヤー・ヒルマンらの『One False Move』(1990)は、イギリスにおいて子どもが大人の付き添いなしに移動する自由が世代のあいだに縮小したことを示した研究として知られる。付き添いと送迎が標準になれば、子どもが行ける場所は大人の都合が許す範囲に限られる。ロジャー・ハート『Children's Experience of Place』(1979)やケヴィン・リンチ編『Growing Up in Cities』(1977)が示したように、子どもにとっての場所の価値は、そこにある設備よりも、そこへ自分の足で到達できることに強く結びついている。
こうして第三の条件がそろう。子どもには時間があり、守られるべき存在とされ、しかし従来の場所を失った。ここに至って初めて、代わりの場所を大人が用意するという発想が、慈善家や自治体や運動団体にとって現実的な課題となる。次節で見る遊び場運動は、この空白に対する応答として登場した。
5. 遊び場運動——19世紀末から20世紀初頭の制度化
遊び場(playground)が施設として都市に現れるのは、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけてである。それは自然発生的な広がりではなく、慈善団体、宗教団体、医師、教育者、都市改良の運動家といった人びとが、明確な目的を掲げて進めた社会運動の成果だった。この運動は一般に遊び場運動(playground movement)と呼ばれ、公園の歴史のなかでも子どもに直接かかわる部分の起点をなしている。
5.1 砂場という最初の装置
運動の始まりとしてしばしば語られるのが砂場である。ドイツの都市の公園に置かれた砂の山が、アメリカの都市改良にかかわる人びとに紹介され、1880年代のボストンに置かれた砂の庭が、アメリカにおける遊び場運動の起点として語り継がれてきた。砂場が選ばれた理由は示唆に富む。砂は安価で、置くだけで機能し、小さな子どもが座って長時間過ごせる。そして何より、監督する大人が一人いれば多数の子どもを一箇所にとどめておくことができる。
つまり最初の遊び場は、遊びの内容を豊かにするためというより、子どもを路上から引き上げ、目の届く範囲に集める装置として構想された。この性格は、その後の遊び場の設計思想に長く影を落とす。囲いがあり、出入口が限られ、内部が見通せるという構成は、遊びの必要から導かれたものというよりは、監督の必要から導かれたものである。
5.2 運動が組織になるとき
散発的な試みは、やがて組織化される。アメリカでは1906年に遊び場運動の全国組織が設立され、遊び場の設計基準、遊具の種類、指導者の養成、活動の計画といった知識が標準化されていった。都市のスラムで移民や労働者の生活支援にあたったセツルメント——ジェーン・アダムズらのハル・ハウス(1889年設立)はその代表として知られる——も、敷地の一部を子どもの遊び場として開放し、この運動の実践的な担い手となった。
ドミニク・カヴァロは『Muscles and Morals』(1981)で、1880年から1920年にかけてのアメリカの組織化された遊び場が、単なる余暇の提供ではなく、都市改良と社会統合の計画の一部であったことを論じている。遊び場には指導者が置かれ、チームで行う競技や集団遊戯が推奨された。そこで期待されていたのは、体力の向上だけでなく、規則を守ること、順番を待つこと、集団のなかで役割を果たすことといった、市民としての振る舞いの習得だった。
5.3 日本への移入と接続
日本にもこの流れは、時期をずらしながら移入された。明治の後期から大正期にかけて、都市の一角に児童のための遊び場を設ける試みが現れ、関東大震災(1923年)後の復興事業では、小学校と小公園を組み合わせて配置する考え方が採られた。学校と隣り合う小さな公園という形式は、学校を子どもの生活の中心とみなす発想を空間に翻訳したものであり、遊び場と教育制度の結びつきを端的に示している。
戦後になると、この結びつきは二つの法律に分かれて制度化される。児童福祉法(昭和22年=1947年法律第164号)は児童遊園を児童厚生施設の一つとして位置づけ、福祉の側から子どもの遊び場を規定した。都市公園法(昭和31年=1956年法律第79号)は、都市計画の側から公園を法的な施設として位置づけ、そのなかに児童公園という種別を置いた。福祉と都市計画という二つの系統が、それぞれの目的から子どもの遊び場を定義したのである。
註:日本の公園制度の通史——明治6年(1873年)の太政官布達から都市公園法、街区公園への改称までの流れ——は本シリーズの別稿で詳しく扱う。本稿はそれを前提として、子ども史の側から意味づけを行う。
ここで確認しておきたいのは、遊び場が最初から二重の性格を持って生まれたということである。それは子どもに場所を保障する制度であると同時に、子どもをその場所に集めておくための制度でもあった。この二重性は運動の関係者にとっては矛盾ではなかった。むしろ、集めることこそが保障の手段だと考えられていた。次節では、その考え方を支えた大人の側の動機を分解する。
6. 大人の動機を分解する——衛生・安全・非行防止・国民形成
遊び場運動を推し進めた人びとは、子どもの遊びそのものを目的としていたわけではない。彼らが掲げた理由は複数あり、しかも互いに独立していた。それらを分けて見ることには実益がある。今日の公園に残る仕組みのうち、どれがどの動機の遺産なのかを見分けられるようになるからである。本節では四つの動機に分けて検討する。
6.1 衛生——空気・日光・過密
第一の動機は衛生である。産業都市の住環境は過密で、日照も通風も乏しく、感染症への懸念が常にあった。子どもを屋外に出し、日光と外気に触れさせることが健康に資するという考えは、当時の医学と公衆衛生の言葉で強く支持されていた。遊び場に求められたのは、まず開けた空と土と空気であり、遊具はその二次的な要素にすぎない。芝生広場や樹木の日陰が公園の基本要素として今も重視されるのは、この系譜に連なる。
6.2 安全——街路からの隔離
第二の動機は安全である。前節までに見たとおり、街路の自動車化は子どもにとって直接の危険をもたらした。囲いのある区画に子どもを移すことは、この危険への最も分かりやすい対処だった。柵、限られた出入口、車道からの距離といった要素は、この動機の直接の産物である。今日の公園づくりで道路への飛び出しが最重要の論点であり続けているのも、遊び場が街路からの隔離として出発したことの帰結である。
6.3 非行防止——見えるところに置く
第三の動機は非行の防止である。都市の街路にたむろする子どもや若者は、しばしば秩序への脅威として語られた。彼らを一定の区画に集め、指導者の監督のもとで組織された活動に従事させれば、逸脱は減るはずだという理屈である。遊び場が見通しのよい平面として設計され、内部の様子が外から把握できるように作られたのは、遊びの安全の観点だけでなく、この観点からも要請されていた。
ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』(1975)で論じた、近代の諸制度に共通する見ることによる規律という主題は、遊び場を読むときにも一定の説明力を持つ。ただし、遊び場を監獄と同列に論じるのは行き過ぎである。遊び場は強制収容の施設ではなく、子どもは出入りできた。ここで指摘したいのは、見通しのよさという設計上の徳目が、安全と監督という二つの異なる要請に同時に応えていたという点にとどまる。
6.4 国民形成——身体をつくる
第四の動機は、国民や市民の形成である。19世紀後半以降、多くの国で子どもの身体は国家の関心事となった。体操や集団遊戯を通じて健康で規律ある身体を育てることは、教育政策の課題であり、移民を多く抱える社会では、共通の作法を身につけさせる同化の手段でもあった。遊び場に置かれた鉄棒や登り棒といった器具が体操の系譜を引いていることは、この動機の痕跡である。
| 動機 | 当時の理由づけ | 今日の公園に残るもの |
|---|---|---|
| 衛生 | 日光と外気が子どもの健康に資する | 芝生広場、樹木と日陰、開けた空 |
| 安全 | 街路の交通から子どもを隔離する | 柵、限られた出入口、車道からの距離 |
| 非行防止 | 監督下に置けば逸脱が減る | 見通しのよい平面、死角の少ない配置 |
| 国民形成 | 規律ある身体と共通の作法を育てる | 体操器具の系譜を引く遊具、広場での集団活動 |
6.5 反論への応答——善意と成果を否定しない
以上のように動機を分解すると、遊び場運動を管理と統制の企てとして描くことになりかねない。しかしそれは一面的である。当時の都市において、子どもが置かれていた条件は実際に厳しく、労働からの保護も、衛生環境の改善も、交通からの隔離も、現実の必要に応えるものだった。運動にかかわった人びとの多くは、目の前の子どもの状況を改善しようとしていた。その努力の成果を否定する理由はない。
本稿が主張したいのは別のことである。遊び場は複数の動機の合成物であり、そのうちのどれが強く働くかによって、同じ施設が違う性格を帯びるということである。衛生の動機が強ければ、公園は開けた空と緑を確保しようとする。安全の動機が強ければ、囲いと分離が徹底される。監督の動機が強ければ、見通しと規則が優先される。現在の公園の運用を評価するときも、この四つのどれが働いているのかを問うことで、議論はずっと具体的になる。
7. 両義性——場所を与えることは、場所を限ることでもある
本稿の中心的な論点はここにある。子どものために専用の場所を用意するという行為は、その場所を子どもに保障すると同時に、それ以外の場所における子どもの存在の正当性を弱める。専用の場所ができるまでは、子どもがどこで遊んでいても、それは特に説明を要しないことだった。専用の場所ができた後には、そこ以外で遊ぶことに説明が求められるようになる。「公園で遊びなさい」という一言が成立するのは、公園ができた後の世界である。
7.1 専用化がもたらす二つの効果
この構造は、二つの方向に働く。第一に、遊びの場所を集約することで、そこに資源を投じやすくなる。遊具の点検、清掃、樹木の管理、トイレの維持といった手当ては、対象が定まっているからこそ可能である。国土交通省の遊具の安全確保に関する指針が示す点検の考え方も、管理すべき場所と施設が特定されていることを前提としている。集約は保障の条件でもある。
第二に、集約は排除の根拠にもなる。専用の場所があるという事実は、他の場所で子どもが遊ぶことを断る理由として使うことができる。道路で、駐車場で、店の前で、団地の広場で、子どもの遊びが咎められるとき、しばしば持ち出されるのは公園という代替の存在である。しかも、その公園までの経路が遠かったり、大人の付き添いを必要としたりする場合、代替として実際に機能しているかどうかは別問題である。
7.2 内部でも起きる分割
同じ論理は、公園の内側でも働く。乳幼児向けの区画、児童向けの遊具、球技のできる広場といった分割は、それぞれの年齢と活動に適した条件を用意する工夫であり、事故の防止という点でも根拠がある。遊具の対象年齢の表示は、身体の大きさと動作の発達に合わない使い方を避けるための情報として意味を持つ。しかし分割は同時に、その区画で想定されていない遊びを行いにくくする。
球技の扱いはその典型である。安全上の理由と近隣への配慮から、球技が制限される公園は少なくない。制限そのものが不当だと言いたいのではない。指摘したいのは、制限が積み重なる過程が、公園の外に選択肢が乏しいという事情と組み合わさったとき、子どもにとって行為の幅が実質的に閉じていくということである。かつては、公園で駄目なら別の場所があった。その別の場所が先に失われているというのが、本稿がここまで辿ってきた経緯である。
7.3 抵抗の系譜——冒険遊び場
この両義性に早くから気づき、別の形を試みた系譜もある。デンマークの造園家C・T・ソーレンセンは、整備された遊び場よりも工事現場や資材置場のほうが子どもを引きつけることに着目し、1943年にコペンハーゲン近郊のエムドルップで、廃材と道具を置いて子どもが自分で作ることのできる遊び場を実現した。この試みはイギリスに紹介され、レディ・アレン・オブ・ハートウッドらの尽力を通じて、冒険遊び場(adventure playground)として広まっていった。
冒険遊び場の要点は、遊具を用意しないことにある。用意されるのは素材と道具と、子どもの活動を支える大人であり、何を作り何をするかは子どもが決める。日本では1979年に東京都世田谷区の羽根木プレーパークが常設の場として開かれ、その後、各地に同様の試みが広がった。これらは、専用化が行き着いた先で失われたもの——場所を自分たちで読み替える余地——を、意識的に取り戻そうとする実践だと位置づけられる。
7.4 権利としての遊び
もう一つの系譜は、遊びを権利として位置づける流れである。児童の権利に関する条約(1989年国連総会採択、日本は1994年批准)の第31条は、休息と余暇、その年齢に適した遊びとレクリエーションの活動に参加する権利を定めている。国連子どもの権利委員会は2013年に、この第31条を主題とする一般的意見第17号を公表し、遊びの権利が実現されるための条件について詳しく述べている。
権利として遊びを捉えることの含意は、設備の設置だけでは足りないという点にある。遊ぶ権利が満たされているかを問うには、そこへ行けるか、そこで何が許されているか、子ども自身がその場所について発言できるかを併せて見る必要がある。コリン・ウォードが『The Child in the City』(1978)で述べたように、都市は子どもから路上を奪い、その代わりに囲われた区画を差し出した。その交換が公正だったかどうかは、区画の広さではなく、行ける範囲と許された行為の幅で測られるべきである。
8. 反論への応答——懐古・安全規制・視角の偏り
ここまでの議論には、いくつかの当然の反論が予想される。それらに答えておくことは、本稿の主張の射程を明確にするうえで必要である。以下では三つの反論を取り上げ、それぞれに応答する。
8.1 「失われた過去を美化しているだけではないか」
第一の反論は、街路や空き地で自由に遊んでいた時代を理想化しているのではないか、というものである。この批判は正当な警戒である。街路が子どもの遊び場であった時代は、同時に、子どもが労働に組み込まれ、事故や病気で命を落としやすく、地域や家の事情によって遊べる範囲が大きく異なった時代でもあった。年少の子の世話を任された年上の子、とりわけ女児にとって、遊びは自由な時間というより仕事と背中合わせのものであった。
本稿は、その時代への復帰を主張しているのではない。主張しているのは評価の基準である。すなわち、子どもの遊び場所を測るときに、設備の量ではなく、到達できる範囲と許されている行為の幅で測るべきだということである。この基準自体は、過去にしか実現できないものではない。歩いて行ける距離に居場所があること、そこでできることの幅が広いことは、現在の条件のもとでも設計しうる目標である。むしろ、かつては偶然の産物だったものを、意図して作り出せるかが問われている。
8.2 「遊具が減ったのは安全基準のせいではないか」
第二の反論は、遊びの幅が狭まった原因を歴史に求めるのは迂遠であり、実際には安全基準の厳格化が遊具の撤去を招いたのだ、というものである。この見方には一定の実感の裏づけがあるが、指針の内容に照らすと単純化がある。国土交通省の遊具の安全確保に関する指針は、リスクとハザードを区別する考え方を示している。リスクとは遊びの楽しさに内在し、子ども自身が判断して挑む対象となる危険であり、ハザードとは子どもには予見できず遊びの価値にも寄与しない危険を指す。指針の枠組みにおいて取り除くべきものはハザードであって、危険の全廃が目的とされているわけではない。
それでも撤去が選ばれやすいのは、事故が起きたときに責任を問われるのが管理者であり、判断のつかない灰色の領域を安全側に倒す圧力が働くからである。これは基準の問題というより、責任のあり方と、判断の理由を残す仕組みの問題である。そして歴史的な視点から見れば、遊具が何台減ったかよりも、遊び場所そのものが公園に集約されてしまったことのほうが効いている。集約されていなければ、一つの遊具の撤去が行き場の喪失に直結することはなかった。
8.3 「子ども史の枠組みは欧米中心ではないか」
第三の反論は、アリエス以降の子ども史が西欧の史料に基づいて組み立てられており、日本の経験にそのまま当てはめることはできない、というものである。これはそのとおりである。日本の地域社会には、子ども組や若者組と呼ばれる年齢集団が存在したことが民俗学の研究で知られており、寺社の行事や年中行事のなかで子どもが担う役割もあった。子どもが大人と混じって暮らしていたという点は共通しても、その混じり方の作法は同じではない。
本稿が西欧起源の枠組みから借りているのは、最小限の前提だけである。すなわち、子ども期の扱いは時代と社会によって変わりうるという前提である。この前提を置いたうえで、日本については日本の制度——学制、工場法、児童福祉法、都市公園法——の並びに即して論じてきた。遊び場運動という具体的な運動の内容についても、日本への移入が時期をずらして起きたこと、そして福祉と都市計画という二つの系統に分かれて制度化されたことを、日本固有の経路として扱った。
8.4 「来歴を知って何になるのか」
最後に、実務の側から出るであろう問いにも触れておく。過去の経緯を知ったところで、目の前の公園の管理が楽になるわけではない、という問いである。これに対する本稿の答えは、来歴を知ることは線を見分ける手続きだ、というものである。公園にはいくつもの線が引かれている。柵の位置、区画の分け方、対象年齢の表示、禁止行為の看板。それぞれが、衛生・安全・監督・世代間の調整という異なる理由から引かれてきた。
由来を区別できれば、どの線が今も必要で、どの線が理由を確かめないまま引き継がれてきたのかを問えるようになる。逆に、すべての線を等しく現在の安全対策として扱ってしまうと、動かせるはずの線まで動かせなくなる。歴史を辿ることの実務的な効用は、この見分けを可能にする点にある。
9. 名前の変遷が語るもの——児童遊園・児童公園・街区公園
制度の性格は、しばしば名称に表れる。日本において子どもの遊び場を指す制度上の呼び名は、数十年のあいだに複数回変わってきた。名称の変化は単なる言い換えではなく、その場所を誰のためのものとみなすかという前提の変化を映している。本節では、この変遷を子ども史の側から読む。
| 年 | できごと | 子ども史から見た意味 |
|---|---|---|
| 1872年(明治5年) | 学制 | 学校が子どもの一日を区切り、学校ではない時間が生まれる |
| 1911年公布・1916年施行 | 工場法 | 子どもの労働が国家の規律の対象となる |
| 1923年(大正12年)以降 | 関東大震災後の復興事業で小学校と小公園を組み合わせて配置 | 学校と遊び場を対にする発想が空間に翻訳される |
| 1947年(昭和22年) | 児童福祉法——児童遊園を児童厚生施設として位置づけ | 福祉の側から子どもの遊び場が定義される |
| 1956年(昭和31年) | 都市公園法——種別としての児童公園 | 都市計画の側から子ども専用の公園種別が置かれる |
| 1989年採択・1994年日本批准 | 児童の権利に関する条約第31条 | 遊びが保護の対象から権利の主題へ |
| 1993年(平成5年) | 児童公園から街区公園への改称 | 子ども専用という前提を制度が降ろす |
9.1 児童遊園と児童公園——二つの系統
戦後の日本では、子どもの遊び場が二つの系統から制度化された。一つは児童福祉法(1947年)に基づく児童遊園であり、これは児童館とならぶ児童厚生施設として、福祉の観点から子どもの健全な育成を目的に置かれた。もう一つは都市公園法(1956年)に基づく児童公園であり、こちらは都市計画の施設として、市街地に一定の割合で緑とオープンスペースを確保するという文脈のなかに置かれた。
同じ子どもの遊び場でありながら、根拠となる法律も所管も目的の書きぶりも異なる。この二重性は、日本の子どもの遊び場が、育成の対象としての子どもと、都市の構成要素としての公園という、二つの異なる関心の交点に置かれてきたことを示している。今日、身近な公園に関する話題が福祉と都市整備の双方にまたがりやすいのも、この出自に由来する。
9.2 改称が意味したこと
1993年、都市公園法施行令の改正によって児童公園という種別は街区公園へと改称された。この改称は、身近な公園の利用者を子どもに限定しないという方針の表明として理解されている。高齢化が進み、単身世帯が増え、子どもの数が減っていくなかで、生活圏の小さな公園を子ども専用の施設として維持し続けることは、現実にも制度にも合わなくなっていた。
子ども史の側から見ると、この改称には両義的な意味がある。一方で、これは専用化の緩和である。子どもだけの場所ではなくなることで、公園は世代の混じる場所へ開かれた。乳幼児を連れた保護者、散歩する高齢者、休憩する働き手が同じ場所を使うことは、街路が失われた後の都市において貴重な機会である。健康遊具の設置が広がったのは、その方向の具体的な表れである。
他方で、これは子どものために確保されていた分の後退でもありうる。専用でなくなるということは、利用の調整が必要になるということであり、調整の場面では、声の大きい側や苦情として表明されやすい側の要求が通りやすい。球技の制限や、音に関する配慮の要請は、この調整の帰結として現れる。どちらの側面が強く出るかは、個々の公園の運用のしかたに委ねられている。
9.3 いま問われていること
こうして見ると、現在の議論は歴史の続きに位置している。子どもの居場所をめぐる問いは、19世紀末に遊び場運動が立てた問いと形式のうえでは同じである。すなわち、子どもは都市のどこにいてよいのか、という問いである。違うのは、当時は街路から公園へという移動が答えであったのに対し、今日は公園の内側でさえ利用の調整が必要になっているという点である。答えを場所の指定だけに求めるかぎり、この問いは反復されるほかない。
本稿がここまでの検討から引き出す方針は次のとおりである。第一に、子どもが自分の足で到達できる範囲に居場所があるかを問うこと。第二に、その場所で許されている行為の幅を、禁止の一覧としてではなく、理由の説明として提示すること。第三に、子ども専用でない場所を、世代のあいだで時間や区画を分け合う工夫によって使えるようにすること。いずれも新しい発想ではないが、歴史を辿ることで、なぜそれが要点なのかが見えやすくなる。
10. 磐田市の公園への示唆——100園を歴史の層として読む
当サイトが収録する磐田市の公園は100園である。内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、法対象外その他6園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園となっている。この一覧を、本稿が辿ってきた歴史の層に照らして読むと、いくつかの読み筋が浮かぶ。ただし各園の開設年は、当サイトが手元に持つ公開情報には含まれておらず、層の対応づけは推測にとどまることを先に断っておく。
10.1 子どものために作られたのではない園
第一の層は、子どもの遊び場として構想されたのではない出自を持つ園である。一ノ谷公園には園内施設として一ノ谷遺跡が挙げられ、京見塚公園には京見塚古墳がある。遠江国分寺史跡公園は歴史公園として、御殿遺跡公園は街区公園として一覧に載る。これらは遺跡や史跡の保全が先にあり、公園という形式が後から与えられた場所だと考えられる。遊び場運動の系譜とは異なる理由でそこに空地があるという点で、公園の起源が一様でないことを示している。
名称に農村公園を含む園が複数あることも興味深い。豊田海老塚農村公園、豊田富里農村公園、豊田中野戸農村公園、豊田森本農村公園、浜部農村公園である。都市の過密と街路の喪失に応答して生まれた遊び場運動とは異なる文脈で、集落の生活の場として設けられた可能性がある。名称の由来と設置の経緯について、当サイトはまだ資料を確認できていない。
10.2 街区公園51園という厚み
第二の層は、種別として最も多い街区公園51園である。街区公園は、かつて児童公園と呼ばれていた種別にあたる。国の標準では街区公園は標準面積0.25ヘクタール・誘致距離250メートル、近隣公園は2ヘクタール・500メートルとされている。誘致距離という考え方は、本稿が第4節と第7節で重視した論点——子どもが自分の足で到達できるかどうか——を、計画の言葉で表現したものと読める。設備の充実よりも、まず届く距離にあるかどうかが問われているのである。
地区別に見ると、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園に対して、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園と、園数の分布には大きな差がある。ただし地区の面積や居住人口は当サイトの手元のデータには含まれておらず、この数字だけで充足の度合いを論じることはできない。園数の差が何を意味するかは、地区の広がりと住まいの分布を併せて見なければならない。
10.3 専用でなくなった段階の痕跡
第三の層は、児童公園から街区公園への転換以後の姿である。市の施設ガイドの記載を見ると、健康遊具のある園として北川瀬公園、中泉グリーンパーク、二子塚公園、豊田原新田公園、豊田東原梅ノ木公園、磐田ららシティ公園などが挙がる。今之浦公園には、遊びと賑わいのゾーンと憩いとふれあいゾーンという区分があり、後者に健康遊具が置かれている。子ども専用ではない身近な公園という第9節の論点が、設備の構成として現れている例である。
年齢による分節と、その先の展開も見てとれる。今之浦公園には3歳未満児遊具の記載があり、安久路公園には複合遊具のインクルーシブエリアとブランコのインクルーシブアイテムの記載がある。年齢で区切るという発想と、区切りによって排除される子どもをなくそうという発想が、同じ一覧のなかに並んでいる。フラグの集計では、遊具有64園、砂場有43園、トイレ有69園、車いす対応トイレ有34園、駐車場33園である。
10.4 当サイトが確かめるべきこと
現時点で踏査を終えた園は0園である。本稿の視点から今後の踏査で確かめたい事柄は三つある。第一に、園までの経路が子ども自身の足で通れるか——歩道の有無、車道の横断、見通し。第二に、園内でどのような行為が禁じられ、その理由がどう示されているか。第三に、名称や園内の構造から、その園がどの層に属するのかを推測できる手がかり——史跡、集落の広場、住宅地の整備に伴う小公園——が残っているか。竜洋すみれ遊園地のように遊園地という語を残す名称や、豊田天竜川わんぱく広場、さわやか広場といった名称は、その手がかりになりうる。
註:本節の磐田市に関する記述は、市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドの記載に基づく。園の歴史や設置の経緯にかかわる部分は推測であり、確認は今後の課題である。公園の管理は磐田市 都市整備課(電話 0538-37-4806)が所管している。
11. 結論と今後の課題
本稿は、子どもはいつから遊び場を必要としたのかという問いを立て、子ども史の視点から三つの答えを示した。第一に、遊び場が必要とされるためには、子どもが労働から切り離され、学校によって一日が区切られ、遊ぶための時間がまとまった塊として現れる必要があった。第二に、子どもが情緒的にかけがえのない存在として位置づけ直されることで、その安全が社会全体の関心事となる必要があった。第三に、そして最も重要なことに、子どもがそれまで使っていた街路や空き地が別の用途に明け渡される必要があった。
11.1 三つの結論
第一の結論は、遊び場の歴史は子どもの自由が拡大した歴史ではないということである。19世紀末から20世紀初頭にかけて広がった遊び場運動は、子どもに新しい場所を与えたのではなく、失われた場所の代償として限定された場所を用意した。囲いがあり、出入口が限られ、内部が見通せるという初期の遊び場の構成は、遊びの必要からではなく、監督の必要から導かれていた。この出自は、現在の公園の設計にも運用にも影を落としている。
第二の結論は、遊び場が複数の動機の合成物だということである。衛生、安全、非行防止、国民形成という四つの動機は、当時それぞれに現実の根拠を持っており、その努力の成果を否定する理由はない。しかし、どの動機が強く働くかによって、同じ施設が違う性格を帯びる。今日の公園について議論するときも、いま働いているのがどの動機なのかを問えば、賛否の応酬は具体的な検討に変わる。
第三の結論は、専用の場所を用意することの両義性である。専用化は資源を集中させて保障を可能にすると同時に、そこ以外で遊ぶことを断る根拠にもなる。したがって公園を評価する基準は、そこに何が置かれているかではなく、子どもがそこへ自分の足で到達できるか、そこで許されている行為の幅がどれだけあるか、そしてその線引きの理由が説明されているかに置かれるべきである。冒険遊び場の系譜と、遊びを権利として捉える系譜は、いずれもこの基準を別の言い方で示している。
11.2 本稿の限界
本稿には明確な限界がある。第一に、文献の整理と概念の検討に依拠しており、新しい史料の発掘や実地の調査を行っていない。第二に、欧米と日本の一般的な流れを扱ったため、地域ごとの差異——農村と都市、大都市と地方都市——を十分に捉えていない。第三に、磐田市の個々の公園の成立年代と経緯を確認できておらず、第10節で示した層の対応づけはあくまで読み筋の提示にとどまる。
また、本稿は子どもの側の経験を直接には扱っていない。遊び場が制度としてどう作られたかは制度の記録から辿れるが、そこで実際に何が起き、子どもたちがその場所をどう使いこなし、あるいは使わずに済ませてきたかは、別の史料と方法を必要とする。回想、写真、地域の記録、聞き取り。これらを通じて初めて、制度の歴史は経験の歴史と接続する。
11.3 今後の課題
今後の課題を三つ挙げる。第一に、磐田市の公園の成立年代を、公開されている資料の範囲でどこまで辿れるかを確かめること。第二に、園までの経路と園内の禁止表示を踏査で記録し、到達可能性と行為の幅という本稿の基準を実際の園に当てはめてみること。第三に、名称に残る語——遊園地、わんぱく広場、農村公園、ポケットパーク——を手がかりに、それぞれの園がどの時代の発想を引き継いでいるかを整理することである。
当サイトは磐田市の公園100園のデータベースであり、踏査はこれから始まる段階にある。運営は不動産と介護の事業を行う地域の会社であり、公園の専門機関ではない。それでも、身近な公園の来歴を問うことには意味がある。いま引かれている線のうち、どれが本当に必要な線で、どれが理由を確かめないまま引き継がれてきた線なのか。それを見分ける手続きとして、歴史は使うことができる。子どもが遊び場を必要としたのではない。社会が、子どもに遊び場を必要としたのである。この事実を出発点に置くことが、次の場所を考えるための最初の一歩になる。
参考文献
- フィリップ・アリエス(1960)『〈子供〉の誕生——アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』(杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980)
- リンダ・A・ポロック(1983)『Forgotten Children: Parent-Child Relations from 1500 to 1900』(Cambridge University Press)
- ロイド・ドゥモース編(1974)『The History of Childhood』
- ヒュー・カニンガム(1995)『Children and Childhood in Western Society since 1500』
- ヴィヴィアナ・A・ゼライザー(1985)『Pricing the Priceless Child: The Changing Social Value of Children』(Basic Books)
- E・P・トムスン(1967)「Time, Work-Discipline, and Industrial Capitalism」(Past & Present 誌)
- ピーター・D・ノートン(2008)『Fighting Traffic: The Dawn of the Motor Age in the American City』(MIT Press)
- ドミニク・カヴァロ(1981)『Muscles and Morals: Organized Playgrounds and Urban Reform, 1880-1920』
- ジェーン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
- アイオナ・オピー、ピーター・オピー(1969)『Children's Games in Street and Playground』(Oxford University Press)
- コリン・ウォード(1978)『The Child in the City』(Architectural Press)
- ケヴィン・リンチ編(1977)『Growing Up in Cities』(MIT Press)
- ロジャー・ハート(1979)『Children's Experience of Place』(Irvington)
- メイヤー・ヒルマンほか(1990)『One False Move: A Study of Children's Independent Mobility』(Policy Studies Institute)
- ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中央公論社、1973)
- ミシェル・フーコー(1975)『監獄の誕生——監視と処罰』(田村俶訳、新潮社、1977)
- 柳田國男(1942)『こども風土記』
- 仙田満(1992)『子どもとあそび——環境建築家の眼』(岩波新書)
- 児童の権利に関する条約(1989年国連総会採択、1994年日本批准。第31条)および国連子どもの権利委員会 一般的意見第17号(2013年)
- 児童福祉法(昭和22年法律第164号。児童厚生施設としての児童遊園)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。