人文学欧米公園史

王の狩場から市民の公園へ——欧米における公園の誕生と、慈善・衛生・秩序という三つの動機

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:欧米公園史 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,735字 読了目安 40分

要旨

本稿の目的は、無料で誰にでも開かれた公共の緑地としての「公園」が、いつ、どのような動機のもとに欧米で成立したのかを、確実な年号と広く知られた資料にもとづいて整理することである。方法は公園史・都市計画史の基本文献と、当時の公的報告・設計案の整理による文献研究であり、対象は18世紀の王室庭園の開放から、20世紀初頭の遊び場運動と田園都市論に至るおよそ150年間の、主としてイギリスとアメリカ、比較対象としてのフランスとドイツである。日本の公園制度史は本サイトの別稿に譲り、本稿は欧米に議論の中心を置く。

本稿は欧米の公園の誕生を四つの段階として叙述する。第一に、ロンドンのハイド・パークやセント・ジェームズ・パークのように、王室の狩場・庭園が支配者の恩恵として段階的に開放された段階であり、ここでの公開は権利ではなく許しであった。第二に、産業都市の煤煙と過密が社会問題となり、1833年のイギリス下院「公共の散歩道」特別委員会報告やチャドウィックの1842年の衛生報告を経て、公費で土地を買い市民に開くという発想が現れた段階である。第三に、1847年に開園したバーケンヘッド公園が、地方の公的資金で用地を取得し周辺宅地の分譲で費用を賄うという型を示し、これを見たオルムステッドがアメリカに持ち帰った段階である。第四に、オルムステッドとヴォーによる1858年のセントラルパーク設計案と、ボストンで構想されたエメラルド・ネックレスに代表される、公園を単体ではなく系として計画する段階である。

この経緯から本稿が引き出す結論は、公園が慈善・衛生・秩序という三つの動機の束から生まれたものであり、その三つが今日の公園の形——見通しのよい配置、園路と芝生と樹林の組合せ、入口に掲げられた規則、寄付者や記念の銘——にそれぞれ痕跡を残している、ということである。同時に本稿は、公園の造成が既にそこに住んでいた人々の立ち退きを伴った事実や、公園が労働者の行動を望ましい方向へ導く装置としても構想された事実を、批判的な研究の蓄積にそくして確認する。最後に、磐田市の都市公園100園を、この四段階のどの型に近いかという観点から読み直し、当サイトの今後の踏査で確かめるべき点を示す。

キーワード欧米公園史バーケンヘッド公園オルムステッドセントラルパーク公衆衛生運動パークシステム磐田市

1. はじめに——問題の所在

住宅地の角に、塀のない小さな緑地がある。門はあっても閉められることはなく、料金を求められることもない。ブランコと滑り台があり、ベンチがあり、入口に利用上の注意が掲げてある。磐田市には都市公園が100園あり、そのうち51園が街区公園という、身近な生活圏のための最も小さな種別に属する。この光景は、日本の市街地であればどこでも見られる。あまりに当たり前であるために、それが歴史のある時点で発明された制度であることは、ふだん意識されない。

しかし、公費で土地を確保し、誰からも入園料を取らず、身分や職業を問わずに開いておく緑地という形式は、人類の歴史の大半の時期には存在しなかった。庭園は古代からあったが、それは王侯や神殿や富裕な市民のものであった。広場は古代からあったが、それは市場や集会や儀礼の場であって、木立と芝生のある休息の場ではなかった。今日われわれが公園と呼ぶ形式は、19世紀の欧米、とりわけ産業化がもっとも早く進んだイギリスの都市で成立し、そこからアメリカ、ヨーロッパ大陸、そして日本へと伝わったものである。

1.1 本稿の問い

本稿が立てる問いは単純である。すなわち、なぜ19世紀の欧米で、公費によって支えられ誰にでも開かれた公園という形式が生まれたのか。そして、その誕生の動機は、公園の設計にどのような痕跡を残したのか。この問いを立てるのは、公園の形が中立ではないからである。園路がどこを通り、樹木がどこに植えられ、広場がどの向きに開き、どこにベンチが置かれるかは、公園を誰のために何のためにつくるのかという判断の結果である。その判断の系譜をたどることは、目の前の公園を読む力になる。

1.2 方法と対象

方法は文献研究である。公園史・都市計画史の基本文献と、当時の公的報告書・設計案・著作のうち、広く知られ存在の確実なものだけを名指しで用いる。年号や制度名は確実なものに限り、規模や人数の細かな数値は、確認できない限り述べない。対象は、18世紀における王室庭園の段階的な開放から、19世紀イギリスの公衆衛生運動、バーケンヘッド公園、アメリカのセントラルパークとパークシステム、そして20世紀初頭の遊び場運動と田園都市論までである。比較のためにフランスとドイツの事例に触れる。

問い文献研究欧米
図1本稿の構え。欧米で公園という形式が生まれた動機を、確実な年号と広く知られた文献にもとづいて整理し、設計に残った痕跡を読む。

日本の公園制度史——1873年の太政官布達に始まり、都市公園法(1956年)を経て今日の街区公園に至る歩み——については、当サイトの歴史学の稿が扱っている。本稿はそれと重ならないよう、議論の中心を欧米に置く。日本に触れるのは、欧米で成立した形式が明治の日本にどう受け取られたかという接点と、最終節で磐田市の公園に照らす場面に限る。

1.3 三つの動機という見取り図

本稿は、公園を生んだ動機を三つに束ねて見る。第一は慈善である。産業で財をなした人々が、土地や造成費を寄付して市民に緑地を与えた。第二は衛生である。煤煙と過密のなかで、新鮮な空気と運動が病を防ぐと考えられ、緑地は都市の健康のための施設とみなされた。第三は秩序である。労働者が酒場や粗野な見世物に流れることを憂えた人々が、家族連れで訪れられる健全な娯楽の場を用意しようとした。

この三つは互いに対立するものではなく、しばしば同じ人物のなかで束になって働いた。ある工場主が公園に土地を寄付するとき、それは慈善であり、労働者の健康への投資であり、同時に酒場から人を引き離す方策でもあった。だからこそ公園は、多くの利害を一つにまとめる装置として、短期間に各地へ広がることができた。逆に言えば、公園の設計に見られる特徴——見通しのよさ、園路の巡り方、掲示された規則、寄付者の名を刻んだ銘板——は、この三つの動機のいずれかに由来している。

1.4 本稿の構成

第2節で先行研究と概念を整理し、公園史を読むための枠組みを用意する。第3節で王室の狩場と有料の遊園という前史を扱い、公開という語の三つの意味を区別する。第4節で1830〜40年代のイギリスにおける公衆衛生運動と公園の制度化を、第5節でバーケンヘッド公園を、第6節でオルムステッドとセントラルパークを扱う。第7節でパリ・ドイツ・アメリカの遊び場運動を比較し、第8節で三つの動機が設計に残した痕跡と、それに対する批判的な検討を行う。第9節で磐田市の公園への示唆を述べ、第10節で結論と課題を示す。

2. 先行研究と概念の整理

欧米の公園史には厚い研究の蓄積がある。本節では、本稿が依拠する主要な研究と、そこから借りる概念を整理する。あわせて、公開・公共・公園という語がそれぞれ何を意味するのかを区別しておく。用語の区別を先に済ませておかないと、王が狩場を開いたことと、市が税で土地を買って開いたことが同じ「公開」の語で語られてしまい、19世紀に何が新しかったのかが見えなくなるからである。

2.1 主要な研究

イギリスのヴィクトリア時代の公園については、ジョージ・F・チャドウィックの『The Park and the Town』(1966)が長く基本文献とされてきた。19世紀の公園設計を都市の成長と結びつけて論じた研究である。より近年では、ヘイゼル・コンウェイ『People's Parks』(1991)が、イギリス各地の公共公園の成立過程を、資金の出所・設計者・利用規則という具体的な水準で跡づけている。これらの研究に共通するのは、公園を美的な作品としてではなく、財政と法と社会運動の産物として見る視点である。

アメリカについては、ゲイレン・クランツ『The Politics of Park Design』(1982)が、アメリカ都市公園の歴史を四つの型の連続として整理した。また、ロイ・ローゼンツヴァイクとエリザベス・ブラックマーによる『The Park and the People』(1992)は、ニューヨークのセントラルパークを、設計者の理想の実現としてではなく、用地に住んでいた人々、造成に従事した労働者、利用をめぐって争った市民たちの側から書き直した研究として知られる。公園史は英雄的な設計者の物語から、複数の当事者の交渉の記録へと重心を移してきた。

四つの型移り変わり比較
図2先行研究から借りる枠組み。公園を一つの理想の実現ではなく、時代ごとに目的が入れ替わる型の連続として見る視点を用いる。

2.2 クランツの四類型

クランツは、アメリカの都市公園を「プレジャー・グラウンド(遊楽の庭)」「リフォーム・パーク(改良公園)」「レクリエーション施設」「オープンスペース・システム」という四つの型でとらえた。第一の型は19世紀半ばの大公園で、目的は都市住民に田園の風景を与えることにあり、芝生・樹林・池・曲がりくねった園路で構成される。第二の型は19世紀末から20世紀初頭の、密集市街地につくられた小さな公園で、遊び場・体育館・集会室を備え、移民の子どもを教育し社会に組み入れることを目的とした。

第三の型は20世紀半ばの、運動施設としての公園である。芝の広場や野球場やテニスコートが並び、設計は風景よりも機能で決まる。第四の型は20世紀後半以降の、公園を単体ではなく都市全体の緑のつながりとしてとらえる考え方である。四つの型は前の型を消して置き換わるのではなく、地層のように重なる。実際、今日の一つの公園のなかに、風景として整えられた樹林と、遊具の広場と、運動のできる原っぱが同居していることは珍しくない。

本稿はこの四類型のうち、主として第一の型が成立する過程を扱う。ただし第7節では第二の型の起点となる遊び場運動にも触れ、公園の目的が風景から活動へ移る転換点を確認する。

2.3 公開・公共・公園——三つの語を区別する

本稿では、以下のように語を区別して用いる。第一に「公開」とは、所有者が自分の土地に他人の立ち入りを許すことをいう。所有者が許しを撤回すれば、立ち入りは終わる。第二に「公共」とは、土地の所有と管理が公の主体にあり、利用が権利として保障されている状態をいう。第三に「公園」とは、その公共の土地のうち、休息・散策・遊び・運動を目的として整えられた緑地をいう。

段階土地の所有入る資格費用の出どころ代表的な例
王室庭園の開放王室支配者の許し(服装や身分による制限あり)王室の会計ロンドンのハイド・パーク、セント・ジェームズ・パーク
有料の遊園民間の事業者入場料を払える者入場料と飲食の売上18世紀ロンドンの遊園(プレジャー・ガーデン)
公共公園自治体など公の主体誰でも(規則の範囲で)公費・寄付・周辺開発の利益1847年開園のバーケンヘッド公園

この区別を置くと、19世紀に何が新しかったのかがはっきりする。新しかったのは緑地そのものではなく、「公の主体が費用を負担し、誰にでも開き、それを恒久的に続ける」という仕組みである。裏を返せば、公園の歴史とは、緑地の歴史であるよりも、その費用を誰がどう負担するかをめぐる財政と法の歴史でもある。第4節以降で見るように、公園が急速に広がったのは、この費用負担の問題に実務的な答えが与えられた時であった。

註:本稿では、存在と年号が広く確認されている事項のみを固有名詞と年で示し、面積・利用者数・費用などの具体的な数値は、確実に確認できるものを除いて記さない。設計や意図についての評価は「〜とされる」「〜と論じられてきた」と述べ、断定を避ける。

3. 王の狩場と有料の遊園——「公開」の前史

英語のパーク(park)という語は、もともと公共の緑地を指す語ではない。それは囲い込まれた狩猟用の土地を意味した。中世のイングランドでは、王や貴族が鹿を養うために森林や原野を柵で囲い、そこで狩りを行った。囲いは獣を逃がさないためのものであると同時に、他人を入れないためのものでもあった。つまりパークとは、出発点においては排除の装置だったのである。今日の公園が誰にでも開かれているという性格は、この語の本来の意味とはむしろ正反対にある。

3.1 ロンドンの王室庭園——恩恵としての開放

ロンドン中心部の広い緑地——ハイド・パーク、セント・ジェームズ・パーク、グリーン・パーク、ケンジントン・ガーデンズ、リージェンツ・パーク——は、いずれも王室に由来する。ハイド・パークは16世紀にヘンリー8世が修道院から取得して狩猟地としたものであり、17世紀に入って一般の人々の立ち入りが認められるようになったとされる。セント・ジェームズ・パークは、王宮に隣接する庭園がチャールズ2世の時代に整えられ、市民の散策が許された。ケンジントン・ガーデンズは王宮の庭園として整えられ、当初は特定の曜日に、しかも相応の身なりの者に限って開かれたと伝えられている。

ここで重要なのは、これらの開放が権利ではなく恩恵であったという点である。土地の所有は王室にあり、開くかどうか、誰を入れるかは所有者が決めた。身なりによる選別が行われたという伝承は、この性格をよく示している。19世紀の人々が公共公園を求めたとき、彼らが求めたのは緑地そのものであると同時に、この「許されて入る」関係を「当然に入れる」関係へ組み替えることであった。

囲い地許された門散策
図3パークの原義は囲い込まれた狩場である。王室庭園の開放は所有者の恩恵であり、入れる者は身分や身なりで選ばれることがあったとされる。

3.2 有料の遊園——市場が用意した公共性

18世紀のロンドンには、民間の事業として運営される遊園(プレジャー・ガーデン)があった。ヴォクソールやラネラーといった遊園では、入場料を払えば庭園を歩き、音楽を聴き、灯りに照らされた夜の散策や飲食を楽しむことができた。ここでは、入る資格は身分ではなく支払い能力によって決まった。その意味で遊園は、王室庭園よりも開かれていたとも言えるし、料金を払えない者を確実に締め出すという意味で閉じていたとも言える。

遊園は、後の公共公園に二つのものを残した。第一に、屋外で不特定の人々が集まって時間を過ごすという習慣そのものである。第二に、音楽堂・照明・売店・飲食といった、緑地に付随する施設の型である。19世紀の公共公園に音楽堂や売店が置かれ、行事が開かれるようになるとき、その先例は遊園にあった。ただし公共公園は、入場料という選別の仕組みを引き継がなかった。ここに、市場が用意する公共性と、公費が用意する公共性の分かれ目がある。

3.3 風景式庭園という美意識

もう一つの前史は、設計の様式である。18世紀のイギリスでは、左右対称に刈り込まれた大陸風の整形庭園に代わって、うねる芝生、点在する樹叢、蛇行する水面、曲がる園路によって自然の風景を再現する風景式庭園が発達した。この様式は貴族の広大な邸宅地で洗練され、絵画のような眺めを歩きながら次々と展開させる技法として完成した。19世紀の公共公園の設計者たちは、この技法をそのまま都市の公園に持ち込んだ。

したがって、初期の公共公園が田園の風景を模した外観をもつのは偶然ではない。手元にあった最も洗練された設計言語が、貴族の邸宅地のためのものだったからである。同時にそれは、産業都市の住民に対して、失われた田園を都市のなかで代替的に与えるという意図にも合致していた。第6節で見るオルムステッドの設計思想は、この延長線上にある。

3.4 過渡期の二つの例——リージェンツ・パークと英国庭園

王室の庭園から公共公園へ至る途中には、性格の混ざった例がある。ロンドンのリージェンツ・パークは、19世紀初頭に建築家ジョン・ナッシュの計画のもとで整えられたもので、公園の周囲に高級住宅の街区を配し、その価値によって全体の事業を成り立たせる構想を含んでいた。緑地が周辺の土地の価値を高め、その価値が緑地の費用を支えるというこの発想は、第5節で見るバーケンヘッド公園の資金計画に直結する。

もう一つは、1789年にミュンヘンで造成が始まった英国庭園(エングリッシャー・ガルテン)である。これは君主の庭園ではなく、市民のための緑地として構想されたと伝えられ、公共の目的で開かれた大規模な緑地の早い例として公園史でしばしば言及される。もっとも、その成立は啓蒙的な君主と側近の判断によるものであり、市民が自ら費用を出して要求した公園とは性格を異にする。公共公園の成立には、都市の側に緑地を求める強い理由と、費用を負担する仕組みの双方が必要であった。次節で見るように、その理由を用意したのは産業都市の衛生問題であった。

4. 産業都市と公衆衛生運動——1830〜40年代のイギリス

公共公園という形式が最初に必要とされたのは、産業革命によって急激に膨張したイギリスの都市であった。マンチェスター、リーズ、バーミンガム、リヴァプールといった都市は、短期間に人口を数倍に増やした。工場と住居が入り混じり、背中合わせに建てられた狭い住宅が並び、上下水道は追いつかず、石炭を燃やす煙が空を覆った。この状況のなかで、緑地は美観の問題ではなく、生存にかかわる問題として論じられるようになる。当時しばしば用いられた「都市の肺」という比喩は、この認識をよく表している。

4.1 失われた共有地

問題を深刻にしたのは、都市の成長そのものだけではなかった。18世紀から19世紀にかけて進んだ囲い込みによって、住民が自由に立ち入って牧草を刈り、家畜を放し、祭りや競技を行ってきた共有地(コモン)が、次々と私有地に転換されていた。都市の周りに広がっていた入会いの原っぱが消え、市街地が拡大して残った原っぱも宅地に変わった。人々は、緑地を失いながら同時に労働時間に縛られるという二重の圧迫を受けた。公共公園を求める運動は、失われた共有地の代わりを公の費用で用意せよという要求という側面をもっていた。

4.2 1833年の「公共の散歩道」報告

この問題を国の水準で最初に公式に取り上げたのが、1833年にイギリス下院がまとめた「公共の散歩道に関する特別委員会報告」である。委員会は、急成長した都市に住民が歩き休息できる開かれた土地が乏しいこと、囲い込みによって従来の場が失われていること、そのために住民の健康と行儀の双方に悪い影響が生じていることを指摘し、公共の散歩道と開かれた場を用意すべきだと述べた。この報告は、公園を私人の善意ではなく公の責任として論じた点で画期的であった。

報告に見られる論理は、本稿が第1節で示した三つの動機のうち、衛生と秩序が結びついた形をとっている。すなわち、新鮮な空気と運動が健康を保つという衛生の論理と、家族連れで訪れられる場があれば粗暴な娯楽や飲酒から人々を遠ざけられるという秩序の論理である。緑地は、身体を治すと同時に振る舞いを整えるものとして構想された。この二重性は、その後の公園の規則や配置に長く残ることになる。

煤煙過密な住居開かれた土地
図4産業都市の煤煙と過密、そして囲い込みによる共有地の消失が、公費で開かれた土地を用意せよという要求を生んだ。

4.3 衛生報告と公衆衛生法

1842年、エドウィン・チャドウィックは『大英帝国における労働者階級の衛生状態に関する報告』を公にした。この報告は、貧しい地区の死亡率が高いこと、その原因が住居の過密・排水の不備・不潔な環境にあることを膨大な記述で示し、衛生の改善を行政の課題として提示した。当時支配的であった考え方では、病気は悪い空気(瘴気)によって広がるとされていたため、対策の中心は換気・排水・清掃、そして新鮮な空気を得られる開かれた土地の確保に置かれた。緑地が公共政策の対象となる論拠は、この医学上の理解に支えられていた。

ほぼ同じ時期の1845年、フリードリヒ・エンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の状態』を著し、マンチェスターの労働者地区の実情を記述した。立場も目的も異なる二つの著作が、産業都市の生活環境という同じ問題を照らし出したことは、この問題が当時いかに広く共有されていたかを示している。そして1848年、イギリスは公衆衛生法を制定し、中央と地方に衛生行政の仕組みを置いた。公園それ自体を直接につくる法ではなかったが、都市の環境を公の責任で改善するという枠組みは、この時期に定着したのである。

4.4 寄付から公費へ——1840年代の実例

実際の公園は、この年月のあいだに各地で生まれ始める。1840年に開かれたイングランド中部の樹木園(アーボリータム)は、産業で財をなした人物が土地を市に寄贈し、園芸家が設計した緑地として知られる。当初は無料で入れる日と入場料を要する日が設けられていたと伝えられており、慈善による寄付と、費用をどう賄うかという実務との折り合いが、まだ完全にはついていなかったことがうかがえる。同じ1840年代には、ロンドン東部にも大きな公園が開かれ、また北部の工業都市では市民の募金によって複数の公園が用意された。

これらの例に共通するのは、公園が誰か一人の理想ではなく、寄付する側・要求する側・行政の側の交渉の産物だったことである。誰が土地を出すか、誰が造成費を出すか、誰が毎年の維持費を出すか。この三つの問いに現実的な答えが与えられなければ、公園は続かない。次節で扱うバーケンヘッド公園が公園史上決定的な意味をもつのは、美しい設計のためだけではなく、この三つの問いに一つの型を示したからである。

5. バーケンヘッド公園(1847年)——公費でつくる公園の型

1847年、イングランド北西部のバーケンヘッドで一つの公園が開かれた。バーケンヘッドはマージー川をはさんでリヴァプールの対岸に位置し、当時、造船と港湾によって急速に人口を増やしていた新興の町である。この公園は、公の主体が議会の法にもとづいて用地を取得し、公の資金で造成し、入場料を取らずに恒久的に開いた公園として、公園史上しばしば最初期の例に位置づけられる。設計を担当したのは、貴族の邸宅地の庭園を管理していた園芸家ジョゼフ・パクストンであった。

5.1 何が新しかったのか——資金の仕組み

バーケンヘッド公園の新しさは、まず資金の仕組みにあった。町の改良委員会は議会の法によって土地を取得する権限を得て、湿地を含む一帯を購入した。造成後、公園に面した外周部分を住宅用地として区画し、希望者に分譲した。公園に隣接する土地は眺望と環境の価値によって高い値がつく。その譲渡による収入が用地取得と造成の費用を支える。つまり、緑地がつくり出す価値を緑地自身の費用に還流させる仕組みである。第3節で触れたロンドンのリージェンツ・パークの構想が、ここでは公共公園のために応用された。

この仕組みは、公共公園が抱える根本の難問——誰が費用を払うのか——に対する一つの実務的な答えであった。慈善による寄付は、寄付者の意思と資力に左右され、毎年の維持費までは保証しない。入場料は、最も緑地を必要とする人々を締め出す。これに対して、周辺の土地の価値の上昇を財源に組み込む方法は、公園を町の成長そのものに結びつけた。今日の言葉で言えば、公園の外部効果を開発の枠組みのなかで回収する発想であり、現代の公園整備にも形を変えて受け継がれている。

公費で取得周回の道樹叢と水面周辺の宅地
図5バーケンヘッド公園の型。公費で用地を取得して造成し、周囲に宅地を配してその価値で費用を賄い、入場料を取らずに開いた。

5.2 設計の特徴——歩く人と乗り物を分ける

設計にも、その後の公共公園に受け継がれる工夫が含まれていた。第一に、外周に馬車の通る道を回し、園内には歩行者のための園路を別に巡らせて、通行と散策の動線を分けたことである。第二に、湿地を掘って蛇行する水面をつくり、掘り出した土で起伏をつくったことである。平坦な土地に変化を与え、水面越しに対岸の樹叢を見せることで、限られた面積のなかに次々と異なる眺めを展開させる技法である。

第三に、樹叢で囲われた広い芝の原を確保し、競技や集まりに使えるようにしたことである。風景として眺められる場所と、身体を動かせる場所の両方を一つの公園に収める構成は、以後の公共公園の基本形となった。第四に、いくつかの出入口に門番の小屋を置き、園内の管理者が常駐する体制をとったことである。これは第8節で扱う秩序の動機が、設計として現れた例と読める。

5.3 オルムステッドの訪問と『イングランド見聞録』

この公園の意味を決定的にしたのは、1850年にイングランドを旅した一人のアメリカ人であった。当時まだ農場を営んでいたフレデリック・ロー・オルムステッドは、旅の途中でバーケンヘッドに立ち寄り、この公園を見た。1852年に刊行された『あるアメリカ人農夫のイングランド見聞録』のなかで、彼はこの公園に強い感銘を受けたことを記している。彼を驚かせたのは、公園の造形の美しさだけではなかった。それが町の人々の共有物であり、身分や貧富にかかわりなく誰もが同じ資格でそこを歩けるという事実であった。

この記述は、公園史においてしばしば引かれる。イギリスで実務的な必要から生まれた仕組みが、アメリカにおいては民主的な制度の象徴として受け取られたからである。産業都市の衛生対策として始まったものが、大西洋を渡るときに、平等な市民が同じ場所を共有するという理念の器へと読み替えられた。オルムステッドがのちにセントラルパークの設計に携わるとき、この読み替えは設計の思想そのものになる。

なお、バーケンヘッド公園を設計したパクストンは、1851年にロンドンのハイド・パークで開かれた万国博覧会の会場となった巨大な鉄とガラスの建築、クリスタル・パレスの設計者としても知られる。王室の狩場であったハイド・パークが万国博覧会の舞台となり、そこで新しい時代の建築を設計した人物が、同じ時期に労働者の町のための公園を設計していた。この符合は、19世紀半ばの公園が、産業・技術・都市の変化と分かちがたく結びついていたことを示している。

6. セントラルパークとオルムステッド——風景をつくる技術

19世紀半ばのニューヨークは、移民の流入によって人口を急増させていた。マンハッタン島は19世紀初頭に定められた計画によって碁盤の目に区画されており、この計画は道路の効率を優先して大きな空地をほとんど残していなかった。市街地は北へ伸び続け、都市の内部に大きな緑地を確保する最後の機会が失われつつあるという危機感が、有力な市民や新聞のあいだに広がった。大公園の必要を早くから説いた人物のひとりが、造園家であり園芸雑誌の編集者でもあったアンドリュー・ジャクソン・ダウニングである。

6.1 用地の取得と、そこにいた人々

1850年代、市はマンハッタン島の中央部に細長い用地を取得した。当時そこは市街地の北のはずれにあたり、岩が露出し、湿地を含む、宅地としては条件の悪い土地であった。しかし、無人の空地ではなかった。この一帯には、黒人の土地所有者を中心に、アイルランドやドイツからの移民も含む共同体が形成されており、教会や学校をもつ集落として暮らしが営まれていた。セネカ・ヴィレッジと呼ばれたこの集落は、公用収用によって解体され、住民は立ち退いた。

この事実は、20世紀後半以降の研究によって改めて掘り起こされ、公園史の理解を大きく変えた。公園は空白の土地に恵みとして与えられたのではなく、誰かの生活の場を公の目的のために置き換えることで成立した。公共のためという理由が、そこに現に住む少数の人々の暮らしを退ける根拠になりうるという問題は、公園に限らず公共事業一般に共通する。第8節で述べるように、公園史を読むうえでこの視点は欠かせない。

6.2 グリーンズワード案(1858年)

1857年に設計競技が行われ、翌1858年、公園の現場監督を務めていたフレデリック・ロー・オルムステッドと、建築家カルヴァート・ヴォーの共同案「グリーンズワード案」が当選した。グリーンズワードとは芝の広がりを意味する語であり、その名のとおり、案の中心には田園の牧草地を思わせる開けた芝の原と、それを縁取る樹叢、蛇行する水面が置かれていた。都市の住民に、都市のなかで田園の風景を体験させること。これが設計の主題であった。

設計案道の分離芝の原水面
図61858年のグリーンズワード案の骨格。横断交通を沈めて園内の動線と交差させず、芝の原と樹叢と水面で田園の風景を都市の中につくった。

この案が設計史上高く評価されるのは、風景の美しさだけによるのではない。細長い公園を東西に横切る都市の交通をどう処理するかという実務上の難題に対し、横断道路を掘り下げて公園の地表面より低く通し、園内の園路や馬車道とは平面で交差させないという解決を示したからである。公園を歩く人には横断交通が見えず、風景の連続が途切れない。同時に、都市の交通は妨げられない。設計とは対立する要求を両立させる技術であるという考え方が、ここに明快に現れている。

動線の分離はさらに徹底された。馬車の道、乗馬の道、歩行者の園路がそれぞれ別に設けられ、交差する箇所には橋やアーチが置かれた。速度と目的の異なる利用が互いを損なわないようにするという原則である。この原則は、今日の公園設計にも受け継がれている。走る子どもとベンチで休む高齢者、ボール遊びと乳児連れの散歩をどう共存させるかという現代の課題も、突き詰めれば同じ問いに属する。

6.3 規則と管理——秩序の動機の現れ

セントラルパークは、開園後、管理の面でも一つの型を示した。園内には管理の職員が置かれ、利用の規則が定められた。芝を傷めない、花を摘まない、指定された場所以外で騒がないといった規則であり、違反には注意が与えられた。オルムステッドは、公園が身分や貧富の異なる人々が同じ場所を穏やかに共有する経験を与えるものであるべきだと考えており、そのためには一定の作法が必要だと論じた。

この考え方は、公園を教育の場と見る発想でもあった。都市の住民は公園で、他人と場所を分け合う振る舞いを身につける。ここに、第1節で挙げた秩序の動機がはっきり現れている。ただし、この動機には両義性がある。作法の共有は共存を助けるが、同時に、どの振る舞いを望ましいとするかを決める側の価値観を人々に課すことにもなる。労働者や移民の集団的な娯楽が公園にふさわしくないとされた例は、当時から論争の的であった。

6.4 単体の公園から系へ——パークシステムとエメラルド・ネックレス

オルムステッドとヴォーは、その後ブルックリンの公園を手がけ、さらに都市の複数の公園を並木道や緑の帯でつなぐ構想へ進んだ。ボストンで手がけられた一連の緑地は、湿地の排水と洪水対策を兼ねた低地の整備に始まり、川沿いの緑地、池、樹木園を経て大きな公園へと連なる緑の連鎖として構想され、エメラルド・ネックレスと呼ばれる。ここでは公園はもはや単体の作品ではなく、都市の骨格をなす系(システム)である。

この転換は、公園の意味を二重に広げた。第一に、緑地が排水・治水という都市の基盤機能を担いうることを示した。第二に、公園を点ではなく線と面のつながりとして計画するという方法を確立した。オルムステッドは、自らの職能を landscape architect(ランドスケープ・アーキテクト、造園設計者)と称した。庭をつくる職人でも建築家でもなく、土地の風景そのものを設計する専門職という自己定義であり、この職能の名は今日まで用いられている。

7. パリ・ドイツ・遊び場運動——比較のなかの公園

公園はイギリスとアメリカだけの現象ではなかった。同じ19世紀に、フランスとドイツでも都市の緑地が整えられていく。ただし、その担い手と論理は国ごとに異なっていた。比較を行う意味は、公園という形式が一つの必然として広まったのではなく、それぞれの国の政治と行政の型に合わせて姿を変えながら受け取られたことを確かめる点にある。

7.1 パリ——国家事業としての緑地

19世紀後半のパリでは、大規模な都市改造が進められた。皇帝ナポレオン3世は亡命先のロンドンで王室庭園を見ており、パリにも同様の緑地を与えることを望んだと伝えられる。県知事オスマンのもとで直線の大通りが市街を貫き、上下水道が整備され、それと一体のものとして緑地が配置された。技術面を統括した技師アドルフ・アルファンは、この事業の成果を『パリの散歩道』としてまとめており、公園・広場・並木道・墓地までを含む都市緑地の体系的な記録として知られている。

パリの緑地整備には二つの特徴がある。第一に、市の西と東にあった王室の狩猟林が、市民のための大規模な森林公園へ改められたことである。狩場から公園へという転換が、ここでは国家の事業として一挙に行われた。第二に、大公園だけでなく、街区の規模の小さな緑地が市内各所に配置されたことである。大きな公園に加えて身近な小緑地を分散させるという考え方は、後の公園配置の基本となる。

パリの例が示すのは、公園が民主的な要求の産物であるとは限らないということである。イギリスでは地方の議会・委員会・募金という下からの経路が中心だったのに対し、パリでは中央権力が上から与えた。にもかかわらず、できあがったものは同じく無料で開かれた緑地であった。公園という形式は、担い手の性格を問わず成立しうる。第8節の議論に関わる論点である。

噴水と水花壇砂場運動
図7国ごとの重点の違い。装飾的な水と花壇を備えたパリの緑地に対し、20世紀初頭には使える芝生・砂場・運動場を重んじる考え方が現れた。

7.2 ドイツ——見る公園から使う公園へ

ドイツ語圏では、19世紀を通じて風景式の公園が各地に整えられた一方、19世紀末から20世紀初頭にかけて、公園のあり方を問い直す議論が起こる。眺めるための風景よりも、市民が実際に体を動かし、腰を下ろし、集まることのできる場所を重視すべきだという主張であり、そうした考え方にもとづく公園はフォルクスパルク(民衆公園)と呼ばれた。立ち入り禁止の芝ではなく寝転がれる芝、装飾の花壇ではなく運動場と遊び場、という転換である。

同じ時期のドイツ語圏には、都市の住民に小さな菜園の区画を貸し出す市民農園の運動もあり、その初期には子どもの遊び場を伴っていたと伝えられる。緑地を鑑賞の対象ではなく生活の道具として使うというこの発想は、後の日本の公園にも影響を与えた。使う公園という考え方が、装飾から機能へという20世紀の大きな流れの一部であったことは、覚えておいてよい。

7.3 アメリカの遊び場運動——子どものための場所の誕生

第2節で触れたクランツの四類型の第二の型、すなわち改良公園を生んだのが、19世紀末アメリカの遊び場運動である。移民が密集して暮らす都市の裏通りで子どもが遊んでいる状況に対し、安全に遊べる場所を用意すべきだという運動が起こった。ボストンで砂場(サンド・ガーデン)が設けられたのがその早い例として語られ、指導者を置いて遊びを組織するという方法がとられた。写真と記述によって貧しい地区の生活を伝えたジェイコブ・リースの著作(1890年)も、この運動を後押ししたとされる。

1900年代には全米規模の団体が結成され、遊び場は公園行政の一部として制度化されていく。ここで公園の主たる利用者として子どもが名指しされた意味は大きい。第一に、公園の設計対象が風景から遊具・砂場・運動場という設備へ移った。第二に、公園が保育・教育・福祉の政策と結びついた。今日、街区公園がまず子どものための場所として理解されているのは、この転換の帰結である。

7.4 田園都市論——公園を都市の構造にする

19世紀の到達点として、エベネザー・ハワードの田園都市論を挙げておく。1898年に刊行され、1902年に『明日の田園都市』として改題された著作で、ハワードは、農地の帯に囲まれた適正規模の都市を新たに建設し、土地の値上がり益を共同体に帰属させることで、都市の便益と田園の健康を両立させる構想を示した。ここでは緑地は都市に付け加える施設ではなく、都市の構造そのものである。1903年からイングランドで実際の建設が始まり、この構想は各国の都市計画に影響を与えた。

出来事地域
1789ミュンヘンで市民のための英国庭園の造成が始まるドイツ
1833下院「公共の散歩道に関する特別委員会報告」イギリス
1840篤志家の寄付による樹木園が開かれるイギリス
1842チャドウィックの衛生報告イギリス
1847バーケンヘッド公園が開園イギリス
1848公衆衛生法の制定イギリス
1850オルムステッドがバーケンヘッドを訪れる(見聞録は1852年刊)イギリス/アメリカ
1858セントラルパークのグリーンズワード案が当選アメリカ
1867パリで採石場跡を用いた公園が開かれるフランス
1873太政官布達第16号(日本の公園制度の始まり)日本
1890リース『向こう半分の人々の暮らし』刊行アメリカ
1898ハワード『明日』刊行(1902年に『明日の田園都市』)イギリス
1903田園都市の建設が始まるイギリス

この年表を通してみると、公園の誕生が半世紀ほどの短い期間に集中していることがわかる。1830年代に問題が公に認識され、1840年代に最初の型がつくられ、1850年代に大西洋を渡り、1860年代以降に各国へ広がった。日本が公園制度を導入した1873年は、この流れのなかでは決して遅くない。欧米で型が定まってから二十数年で、日本は制度としての公園を受け取ったことになる。

8. 三つの動機が設計に残した痕跡と、それへの批判

ここまでの叙述をもとに、本節では第1節で示した見取り図に戻る。公園を生んだ慈善・衛生・秩序という三つの動機は、それぞれ設計と運営に具体的な痕跡を残した。その痕跡は今日の公園にも読み取ることができる。あわせて、これらの動機に向けられてきた批判を検討し、公園史をどう受け取るべきかを考える。

8.1 慈善の痕跡——名と記念

慈善の動機がもっともわかりやすく残るのは、名と記念である。寄付者の名を冠した公園、寄贈された門や噴水や時計台、記念の銘板、記念植樹。これらは公園が誰かの善意によって成り立ったことを可視化する装置であり、同時に、次の寄付を促す仕組みでもあった。日本の公園にも記念碑や寄贈の銘のある例は多く、これは公園という形式に最初から埋め込まれていた性格である。

ただし慈善には弱点がある。寄付は用地と造成の費用は用意できても、毎年の維持費までは保証しない。19世紀の公園の多くが開園から時を経て荒れたのは、この構造による。公園の費用は、つくるときに一度かかるのではなく、続くかぎり毎年かかる。バーケンヘッド公園が示した周辺開発の利益を財源に組み込む方法も、造成期の費用には効いても、恒久的な維持費の答えにはなりにくい。維持費を誰がどう負担するかという問題が、公園史を通じて繰り返し現れるのは偶然ではない。

8.2 衛生の痕跡——空気と身体

衛生の動機は、公園の平面と植栽に残っている。風の通る開けた芝の原、日射をさえぎる樹冠、水面、そして歩き続けられる長さの園路。これらは新鮮な空気と適度な運動が健康を保つという理解にもとづいて配置された。当時の医学的な理解は今日のものとは異なるが、緑地が都市の暑さを和らげ、身体活動の機会を与えるという効果については、現在も研究が続けられている領域である。

衛生の動機はまた、公園の配置の考え方にも残った。緑地は一か所に大きくあればよいのではなく、住まいから歩いて行ける距離に分散していなければ、もっとも必要とする人々に届かない。この考え方は、後の各国の公園配置基準に受け継がれた。日本では都市公園法施行令などにより、街区公園の標準面積を0.25ヘクタール、誘致距離を250メートル、近隣公園を2ヘクタール・500メートル、地区公園を4ヘクタール・1キロメートルとする目安が示されている。19世紀の衛生の論理が、数値の目安という形で制度に残っているのである。

慈善衛生秩序
図8公園を生んだ三つの動機。寄付と記念、空気と身体、作法と見通し。それぞれが今日の公園の形に痕跡を残している。

8.3 秩序の痕跡——見通しと規則

秩序の動機は、見通しと規則に残っている。園路を外周に巡らせて内側を見通せるようにする配置、出入口に置かれた管理の拠点、そして入口に掲示された利用上の注意。これらは、公園が誰の目にも開かれていることによって望ましくない行いを抑えるという発想にもとづく。20世紀後半に体系化された防犯環境設計の考え方——見通しの確保、領域の明示、利用の活性化——は、この系譜の延長にあると読むことができる。

動機主な担い手掲げられた論拠設計・運営に現れる形今日まで続く課題
慈善産業で財をなした個人・募金する市民恵まれない人々に緑を与える寄付者の名・記念碑・寄贈された門や噴水維持費の財源が続かない
衛生衛生行政・医師・改革者新鮮な空気と運動が病を防ぐ開けた芝・樹冠・水面・歩ける園路・分散した配置暑さ対策、身体活動の機会の確保
秩序自治体・管理者・道徳改良の運動健全な娯楽が粗野な行いに代わる見通しのよい配置・管理の拠点・掲示された規則どの利用を望ましいとするかの線引き

8.4 三つの批判

第一の批判は、公園の成立が伴った犠牲についてである。第6節で見たセネカ・ヴィレッジの例のように、公園の用地は無人の空地ではなく、そこに住む人々を退けて確保された場合がある。公共のためという理由が、少数者の生活を退ける根拠になりうるという問題は、今日の公共事業にも通じる。公園史をつくり手の理想の物語としてのみ語ることは、この事実を見えなくする。

第二の批判は、秩序の動機に含まれる価値の押しつけについてである。どのような振る舞いを望ましいとするかは、公園を運営する側の価値観によって決まる。19世紀の公園では、労働者や移民の集団的な娯楽が公園にふさわしくないとされ、規制の対象となったことが指摘されてきた。ボール遊びや音を伴う遊び、集まって語らうことをどこまで認めるかという現代の論争も、構造としては同じ問題である。規則は共存を助けるが、誰の共存かを問わなければ排除に転じうる。

第三の批判は、公園それ自体の効果を過大に見積もることへの警告である。ジェイン・ジェイコブズは『アメリカ大都市の死と生』(1961年)で、公園が自動的に近隣をよくするわけではなく、むしろ周囲の街の使われ方によって公園の生死が決まると論じた。緑地をつくれば地域がよくなるという単純な因果を、彼女は退けた。この指摘は、公園を計画する側にとって重要である。設計や設置だけでなく、周囲の生活が公園にどう向き合うかが、公園の質を決めるからである。

8.5 それでも公園が残った理由

これらの批判をふまえてなお、公共公園という形式が150年以上にわたって存続してきたことは注目に値する。理由は、この形式が三つの動機のいずれか一つに依存していないことにあると考えられる。慈善の熱意が冷めても衛生の論拠が残り、衛生の理解が変わっても子どもの遊び場としての必要が残り、遊びの流行が変わっても、無料で誰でも入れる屋外の場所という核が残る。多目的であることは焦点の甘さと引き換えの強さであり、公園はその強さによって時代を越えてきた。

9. 磐田市の公園への示唆

本節では、ここまでたどってきた欧米公園史の枠組みを、磐田市の公園に当てて読み直す。磐田市には都市公園が100園ある。内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、および法の対象外として扱われる6園である。これらはいずれも20世紀以降の日本の制度のもとで整えられた公園であり、19世紀の欧米の公園を直接に模したものではない。それでも、形式の由来をたどると、本稿で見た三つの動機の痕跡は確かに読み取れる。

9.1 分散配置という衛生の遺産

磐田市の公園でもっとも数が多いのは街区公園の51園であり、全体のほぼ半数を占める。街区公園は、都市公園法施行令などが示す目安では標準面積0.25ヘクタール、誘致距離250メートルとされる、住まいのすぐそばの公園である。大きな公園を一つ置くのではなく、小さな公園を市街地に散らすというこの考え方こそ、第4節と第8節で見た衛生の動機——緑地は歩いて行ける距離になければ必要とする人に届かない——の直接の遺産である。

分散は地区によって一様ではない。9地区の内訳は、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。市街化の経緯と人口の分布が異なる以上、園数の差そのものが直ちに不足を意味するわけではない。しかし、園数の多寡と、住まいから公園までの実際の距離、そして道路の渡りやすさは別の問題である。誘致距離の目安は直線距離の考え方であり、大きな道路や水路によって回り道を強いられる場合、地図の上の近さは歩く近さと一致しない。ここは当サイトが今後の踏査で確かめるべき点である。

100園面積の幅9地区
図9磐田市の公園100園。街区公園が51園を占め、面積は総合公園から17平方メートルの緑地まで大きな幅がある。

9.2 大公園と小緑地——スケールの幅

磐田市の公園は規模の幅が大きい。もっとも広いのは竜洋地区の竜洋海洋公園で221,722平方メートル、次いで見付地区のかぶと塚公園が106,982平方メートル、つつじ公園が61,937平方メートル、御厨地区の兎山公園が56,193平方メートル、中泉地区の中央公園が41,642平方メートルである。他方で、中泉地区の二之宮東第2緑地は17平方メートル、見付地区の見付本通広場公園は372平方メートルにとどまる。

この幅は、第7節で見たパリの緑地整備の考え方——大公園と小緑地を役割の異なるものとして併置する——と同じ構造をもつ。大きな公園は運動施設や広い芝生を収め、遠くから車や自転車で訪れる場となる。小さな緑地は、通りがかりに腰を下ろす、待ち合わせる、少しだけ体を動かすといった短い滞在を受け止める。両者は代替できない。園数や面積の合計だけを見て緑地の充足を判断すると、この役割の違いが見えなくなる。

9.3 「使う公園」への転換の現れ

第7節で見た、見る公園から使う公園への転換は、磐田市の比較的新しい公園の記載にも現れている。市の施設ガイドによれば、見付地区の今之浦公園は今ノ浦川をはさんで二つのゾーンに分かれ、東側には屋根付広場、複合遊具、ふわふわ遊具、噴水広場、芝生広場、3歳未満児遊具が、西側には健康遊具、じゃぶじゃぶスポット、流れ、芝生広場があるとされる。年齢や活動によって場所を分け、水と日陰と広場を組み合わせるこの構成は、風景を眺めるための公園ではなく、多様な使い方を同時に受け止めるための公園である。

御厨地区の安久路公園については、施設ガイドに複合遊具(インクルーシブエリアあり)、ブランコ(インクルーシブアイテムあり)という記載がある。誰もが同じ場所を共有するという19世紀の理念が、20世紀を通じて健常な子どもを暗黙の前提としてきたことへの反省をふまえ、遊具の水準で具体化されつつあることを示す記載といえる。豊田地区の豊田香りの公園にはカスケード(滝)が5月から10月の日中に稼働するとの記載があり、水と季節を設計に組み込んだ例である。

9.4 名所型と計画型の重なり

欧米の公共公園の多くは、農地や湿地や採石場跡といった土地を買い取り、そこに新しい風景をつくるという方法で成立した。これに対し、磐田市の公園には、既にそこにあった史跡や地形をそのまま園内に含む例がある。中泉地区の遠江国分寺史跡公園は種別そのものが歴史公園であり、同じ中泉地区の京見塚公園には京見塚古墳が、見付地区の一ノ谷公園には一ノ谷遺跡が園内にあると市の施設ガイドは記している。

これは日本の公園制度が、名所や旧跡を公園として指定するところから始まった経緯と無関係ではない。欧米では白紙の土地に風景を設計する型が主流であったのに対し、日本では既にある場所に公園という枠を与える型が重なっている。二つの型が併存していることは、磐田市の公園を読むうえで重要な視点である。史跡を含む公園では、遊びの場としての使い勝手と、遺構を保存する要請とをどう両立させるかという固有の課題が生じるからである。

9.5 踏査で確かめるべきこと

当サイトは磐田市の公園100園を扱うデータベースであり、運営は富士ヶ丘サービス株式会社である。現時点で現地の踏査は始まったばかりで、踏査を終えた園はまだない。したがって本節の記述は、市のオープンデータと施設ガイドの記載にもとづくものであり、園内の実際の様子を確かめたものではない。本稿の枠組みからは、今後の踏査で次の点を記録すべきだと考えられる。

  • 見通し(秩序の痕跡):園の外から園内のどこまでが見えるか。植栽や工作物で見えなくなる範囲はどこか。
  • 日陰と風(衛生の痕跡):樹冠の下に腰を下ろせる場所があるか。夏の日中に滞在できる場所はどこか。
  • 記念と由来(慈善の痕跡):記念碑・銘板・記念植樹の有無と、そこに記された由来。
  • 分けられ方(使う公園):年齢や活動によって場所が分かれているか。分かれていない園ではどう共存しているか。
  • たどり着きやすさ:誘致距離の目安に対して、実際に歩いた場合の距離と、渡る必要のある道路や水路。

オープンデータの集計では、トイレのある園は69園、車いす対応のトイレがある園は34園、砂場のある園は43園、遊具のある園は64園である。これらは設備の有無を示す情報にとどまり、使いやすさや状態を示すものではない。設備の有無から一歩進んで、その設備が実際に誰にとって使えるものになっているかを記録することが、本稿の枠組みから導かれる踏査の課題である。

10. 結論と今後の課題

本稿は、無料で誰にでも開かれた公共の緑地としての公園が、19世紀の欧米でどのように成立したのかを整理し、その誕生の動機が設計に残した痕跡を検討してきた。最後に、得られた結論を四点にまとめ、残された課題を示す。

10.1 四つの結論

第一に、公園の新しさは緑地そのものではなく、費用の負担と開放の仕組みにあった。王室の狩場も、有料の遊園も、緑と散策を提供していた点では同じである。19世紀に新しかったのは、公の主体が費用を負担し、入る資格を問わず、それを恒久的に続けるという仕組みであった。したがって公園史は、造園の様式史であると同時に、財政と法の歴史でもある。バーケンヘッド公園が公園史の画期とされるのは、この仕組みに一つの実務的な型を与えたからである。

第二に、公園は慈善・衛生・秩序という三つの動機の束から生まれた。この三つは互いに補い合い、それぞれ異なる利害の持ち主を同じ事業に結びつけた。多目的であることは、目的の曖昧さと引き換えに強い持続力を公園に与えた。今日の公園が、子どもの遊び場であり、高齢者の運動の場であり、避難の場でもあるという重層性は、この出自に由来する。

第三に、これらの動機は設計に痕跡を残した。開けた芝と樹冠と園路の組合せは衛生の論理から、外周からの見通しと掲示された規則は秩序の論理から、記念碑と寄贈の銘は慈善の論理から来ている。公園を読むとは、こうした痕跡を見分けることであり、それは目の前の公園がどのような判断の積み重ねでできているかを理解することにほかならない。

記録踏査これから
図10本稿の結論と課題。動機の痕跡を読む視点を持ったうえで、今後の踏査で磐田市の公園を一園ずつ記録していく。

第四に、公園の歴史は美談としてのみ語ることができない。用地の取得は既にそこに住む人々の立ち退きを伴った場合があり、望ましい振る舞いを定める規則は、誰の作法を基準とするかという問題を含んでいた。緑地をつくれば地域がよくなるという単純な因果も、20世紀後半の都市論によって退けられている。公園を計画し運営する側にとって、これらの批判は過去の反省であると同時に、現在も有効な問いである。

10.2 本稿の限界

本稿には明確な限界がある。第一に、依拠したのは広く知られた文献と公的資料であり、一次史料にあたった研究ではない。人物や事業の細部、面積や費用の具体的な数値については、本稿はあえて踏み込まなかった。第二に、扱ったのは主としてイギリスとアメリカであり、フランスとドイツには比較のために触れたにとどまる。第三に、20世紀以降の展開——戦後の公園計画、環境運動、近年の公園を核とした地域運営の試みなど——は本稿の範囲外である。

第四に、磐田市の公園への適用は、市のオープンデータと施設ガイドの記載にもとづく机上の読解である。当サイトの現地踏査はまだ始まったばかりであり、園内の実際の見通し、日陰の広がり、記念碑の有無、設備の使い勝手については、確かめられていない。本稿の第9節は、踏査の際に何を見るかという視点を用意したものであって、磐田市の公園の評価ではない。

10.3 今後の課題

今後の課題を三つ挙げる。第一に、日本の公園制度が欧米から何をどう受け取り、何を受け取らなかったかを、本稿の三つの動機の枠組みで整理し直すことである。明治初期の使節団の記録には欧米の公園についての観察が残されており、当時の日本人が公園の何に注目したかを読み取ることができる。制度の輸入は選択を伴う。何が選ばれなかったのかを見ることは、日本の公園の性格を理解する助けになる。

第二に、維持費の問題である。第8節で述べたとおり、公園は続くかぎり毎年費用がかかる。19世紀に慈善と開発利益で解かれたこの問題は、人口が減り施設が老いる時代には別の形で立ち現れる。公園の数と面積を維持することと、一園ごとの質を保つことのどちらを優先するかという判断は、財政の問題であると同時に、地域が公園に何を期待するかという価値の問題でもある。

第三に、踏査による記録の蓄積である。歴史の枠組みは、目の前の公園を見るときの問いを与えてくれるが、答えを与えてはくれない。ある公園の見通しがよいのか、日陰が足りているのか、遊具が誰にとって使えるのかは、その場所に立って記録するほかない。当サイトが今後、磐田市の100園を一園ずつ記録していくとき、本稿が示した三つの動機と、それに向けられた批判は、何を見るかを決める手がかりになるはずである。公園の形には理由がある。その理由を知ったうえで見ることが、地域の公園を語る言葉を豊かにする。

参考文献

  1. イギリス下院「公共の散歩道に関する特別委員会報告」(Report from the Select Committee on Public Walks、1833年)
  2. エドウィン・チャドウィック(1842)『大英帝国における労働者階級の衛生状態に関する報告』
  3. フリードリヒ・エンゲルス(1845)『イギリスにおける労働者階級の状態』
  4. 公衆衛生法(Public Health Act 1848、イギリス)
  5. フレデリック・ロー・オルムステッド(1852)『あるアメリカ人農夫のイングランド見聞録』(Walks and Talks of an American Farmer in England)
  6. フレデリック・ロー・オルムステッド/カルヴァート・ヴォー(1858)「グリーンズワード案」(セントラルパーク設計競技当選案)
  7. アドルフ・アルファン(1867〜73)『パリの散歩道』(Les Promenades de Paris)
  8. ジェイコブ・リース(1890)『向こう半分の人々の暮らし』(How the Other Half Lives)
  9. エベネザー・ハワード(1898)『明日——真の改革にいたる平和な道』(1902年に『明日の田園都市』として改題)
  10. ジョージ・F・チャドウィック(1966)『The Park and the Town』
  11. ゲイレン・クランツ(1982)『The Politics of Park Design: A History of Urban Parks in America』(MIT Press)
  12. ヘイゼル・コンウェイ(1991)『People's Parks: The Design and Development of Victorian Parks in Britain』(Cambridge University Press)
  13. ロイ・ローゼンツヴァイク/エリザベス・ブラックマー(1992)『The Park and the People: A History of Central Park』(Cornell University Press)
  14. ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
  15. 白幡洋三郎(1995)『近代都市公園史の研究——欧化の系譜』(思文閣出版)
  16. 久米邦武編(1878)『特命全権大使 米欧回覧実記』
  17. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  18. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  19. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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