計画・工学造園学
日本の造園と公園設計——庭園の伝統・本多静六・戦後造園学の展開
要旨
本稿の目的は、日本の造園(ランドスケープ・アーキテクチャ)の伝統と近代以降の公園設計の系譜を通史的に整理し、造園学が扱う領域——植栽・地形・水・園路・施設——という五つの要素を手がかりに、現代の都市公園、とりわけ子どもの遊び場としての公園がどのような設計思想の積み重ねの上に立っているかを明らかにすることである。方法は文献整理と概念分析であり、平安時代後期の作庭書『作庭記』、江戸時代の大名庭園に見られる回遊式と借景、明治6年の太政官布達に始まる公園制度、林学者本多静六が関わった日比谷公園(1903年開園)と明治神宮の森(1920年鎮座)、そして昭和31年の都市公園法以後の戦後造園学(都市公園の植栽設計・芝生広場・樹種選定)を順に検討する。
検討の結果、日本の公園設計には少なくとも三つの層が重なっていることが示される。第一に、地形をつくり、水を引き、石と木を配し、歩く道筋によって景を展開させるという庭園の伝統の層。第二に、群衆が集まり歩き憩うための「公衆の場」を洋風の花壇・園路・広場・樹林として組み立てた明治以降の近代公園の層。第三に、都市公園法の種別体系のもとで、面積と誘致距離の標準にもとづき、芝生広場と樹林と遊具の組合せとして量的に整備された戦後の層である。子どもの遊び場設計はこの第三の層に属するが、建築家仙田満の遊環構造論が示すように、回遊・変化・見晴らしといった庭園の伝統に通じる原理を含んでいる。
最後に、磐田市の都市公園100園(街区公園51園・近隣公園14園・都市緑地10園ほか)を造園学の五要素から読み直し、風致公園・歴史公園・築山・流れ・芝生広場といった市の施設ガイドに記載のある要素を、伝統と近代と戦後の三つの層に位置づける。ただし当サイトの現地踏査は始まっていないため、植栽の実態・園路の構成・木陰の分布にかかわる論点はすべて今後の踏査課題として残す。
キーワード造園学作庭記回遊式庭園本多静六日比谷公園明治神宮の森遊環構造
1. はじめに——問題の所在
近所の公園に立ってあたりを見回すと、そこには必ず何かの「かたち」がある。ゆるやかに盛り上がった芝生の丘、その縁に植えられた並木、砂場のわきの水飲み場、遊具のまわりを一周する舗装された園路、隅に置かれたベンチとその上に張り出す木陰。これらは偶然そこにあるのではなく、誰かが図面を引き、樹種を選び、土を盛り、水を引いた結果である。公園のこうした「かたち」を計画し設計する学問が造園学(ぞうえんがく)であり、英語では landscape architecture(ランドスケープ・アーキテクチャ)と呼ばれる。
造園学は建築学と土木工学の隣にありながら、それらとは扱うものが異なる。建築が屋根と壁で囲まれた空間を、土木が道路や橋や堤防といった構造物を扱うのに対し、造園は屋外の、しかも生き物である植物と、時間とともに変わる地形や水を素材にする。植えた木は育ち、芝生は季節で色を変え、池の水面は風で表情を変える。設計者は完成の瞬間ではなく、十年後、五十年後の姿を思い描いて線を引かなければならない。この「時間を設計する」という性格が、造園学を他の設計の学問から分ける最大の特徴である。
本稿の問いは次の三つである。第一に、日本の造園には、平安時代の作庭書『作庭記』に始まり江戸時代の大名庭園に至る長い庭園の伝統があるが、その伝統は明治以降の「公園」という新しい施設にどのように引き継がれ、あるいは断ち切られたのか。第二に、日本の近代公園設計を代表する人物である林学者本多静六(ほんだせいろく、1866〜1952)が、日比谷公園と明治神宮の森という二つの対照的な仕事に込めた設計思想は何であり、戦後の造園学はそれをどう展開したのか。第三に、造園学が扱う領域——植栽・地形・水・園路・施設——は、子どもの遊び場としての公園の設計とどこで接するのか。
註:本稿では「造園」を、庭園・公園・緑地など屋外の空間を計画・設計・管理する営みの総称として用いる。個々の草花や樹木を育てる技術は「園芸」と呼び分け、また都市全体の緑の配置を扱う「緑地計画」は造園学の一部門として扱う。近年は英語をそのまま「ランドスケープ」と呼ぶことも多いが、本稿では歴史的な用語として「造園」を用いる。
1.1 なぜ造園学から公園を論じるのか
公園を論じる学問は多い。社会学は公園で人と人の間に何が生まれるかを、公衆衛生学は公園が身体活動をどう促すかを、発達心理学は遊びが子どもの発達に何をもたらすかを扱う。造園学が固有に扱うのは、それらすべての土台になる「場所そのもののつくり」である。木陰があるかないか、芝生が広いか狭いか、園路が一周できるかどうか、水辺があるかどうか——こうした物理的な条件は、公園でどんな遊びが生まれ、誰が長く居られ、夏に涼しいか暑いかを大きく左右する。しかし利用者の側からは、これらの条件は「はじめからそうであった」ものに見え、設計の結果として意識されることは少ない。
造園学から公園を論じることには、もう一つの意味がある。日本の公園は、明治6年(1873年)の太政官布達によって上から制度として導入されたが、その設計の担い手たちは、西洋の公園を学びながら同時に日本庭園の伝統をどう扱うかに悩み続けた。日比谷公園の設計に本多静六が悩んだこと、明治神宮の森が「造園」の名において百年先の林相を計画したこと、戦後の都市公園が芝生広場と樹林と遊具の三点セットに収れんしていったこと——これらは一本の系譜であり、いま磐田市の街区公園に立つ一本のケヤキも、その系譜の末端にある。系譜を知ることは、公園を「与えられた施設」ではなく「選ばれてきたかたち」として見る眼を与える。
1.2 方法と立場・本稿の構成
方法は文献整理と概念分析である。『作庭記』、太政官布達、本多静六の自伝、明治神宮の林苑計画、田村剛『造園学概論』(1918)などの一次資料と、白幡洋三郎、小野良平、佐藤昌、進士五十八らによる公園史・庭園史の研究、そして建築家仙田満の遊環構造論を参照する。本稿は独自の実地調査に基づくものではない。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園のデータベースであるが、現地踏査はこれから始まる段階であり、本稿で述べる磐田市の公園の姿は、市のオープンデータと施設ガイドの記載にもとづく「見通し」である。踏査で確かめるべき論点は、その都度明示する。
構成は次のとおりである。第2節で造園学の領域と主要文献を整理し、五つの要素の枠組みを示す。第3節で日本庭園の伝統(『作庭記』・回遊式・借景)を、第4節で明治の公園制度と本多静六の日比谷公園を、第5節で明治神宮の森を検討する。第6節で戦後造園学の展開(都市公園法・植栽設計・芝生広場・樹種選定)を、第7節で造園学と子どもの遊び場設計の接点(仙田満の遊環構造)を論じる。第8節で磐田市の公園100園への示唆を述べ、第9節で結論と今後の課題を示す。読者としては磐田市周辺の子育て世代、行政や地域の関係者、造園や公園に関心をもつ学生を想定し、専門用語は初出のたびに説明する。
2. 先行研究と概念の整理——造園学の領域と五つの要素
「造園」という言葉は古くからあるように思われがちだが、学問の名称として定着したのは大正期である。英語の landscape architecture は、19世紀後半のアメリカで、ニューヨークのセントラルパーク(1858年設計競技)を設計したフレデリック・ロー・オルムステッドらが自らの職能を呼ぶために用いはじめたとされる。日本では、林学者の田村剛(たむらつよし)が1918年(大正7年)に『造園学概論』を著し、この語を学問の名として掲げた。続いて上原敬二(うえはらけいじ)が1924年(大正13年)に東京高等造園学校を創設し、1925年(大正14年)には日本造園学会が設立された。日本の造園学は、林学の一部門として出発し、公園と庭園と風景を扱う独立の学問へと育っていったのである。
造園学が扱う領域は広い。庭園・公園・街路樹・墓地・国立公園・都市の緑地計画・自然風景の保護までを含み、対象の規模は一坪の坪庭から数万ヘクタールの国立公園まで及ぶ。しかしその根本にある素材の種類は、規模にかかわらず驚くほど共通している。本稿ではそれを植栽・地形・水・園路・施設の五つの要素として整理する。この五分類は本稿の便宜のための整理であり、造園学の教科書によって呼び方や区切り方は異なるが、日本庭園の伝統から現代の街区公園までを一つの枠で見渡すのに適している。
| 要素 | 何を扱うか | 庭園での典型 | 都市公園での典型 |
|---|---|---|---|
| 植栽 | 樹木・草花・芝の選定と配置、成長の見込み | 松の仕立て・苔・紅葉 | 高木の並木・芝生広場・生垣 |
| 地形 | 土を盛り削って起伏をつくること(築山・法面) | 築山・枯山水の白砂 | 築山・すり鉢状の広場・のり面 |
| 水 | 池・流れ・滝・噴水・水飲み場 | 池泉・遣水・滝石組 | 噴水広場・流れ・じゃぶじゃぶ池・水道 |
| 園路 | 歩く道筋と、そこから何が見えるかの順序 | 回遊路・飛石・橋 | 周回園路・出入口・舗装 |
| 施設 | 人が使うための構造物・工作物 | 茶室・東屋・灯籠 | 遊具・ベンチ・トイレ・東屋・駐車場 |
表の五要素のうち、他の設計の学問と最も明確に区別されるのは植栽と地形である。植栽は生き物を素材にする点で、地形は「つくった瞬間から雨と草に変えられていく」点で、いずれも完成図どおりに固定できない。造園学の古典がしばしば「時間」を主題にするのは、このためである。第5節で見る明治神宮の森の計画は、その最も徹底した例であり、百年後の林相から逆算して植える木を決めた。逆に、施設——遊具やトイレ——は建築や機械の論理に近く、造園学の中では比較的新しい領域である。子どもの遊び場設計がしばしば「造園」より「遊具メーカーの仕事」に見えるのは、この要素が造園学の中心から遠いところにあるからだが、第7節で見るように、遊び場を植栽・地形・園路とともに一体として設計する視点こそが造園学の持ち味である。
2.1 公園史・庭園史の先行研究
日本の公園史については、佐藤昌『日本公園緑地発達史』(1977)が制度と事業の展開を網羅的にたどった基礎文献であり、白幡洋三郎『近代都市公園史の研究——欧化の系譜』(1995)は明治期の公園が西洋の公園をどのように受容し変形したかを「欧化」の観点から分析した。小野良平『公園の誕生』(2003)は、公園という新しい制度がどのように日本社会に受け入れられ、社寺の境内や名所と重なりながら定着していったかを描いている。これらの研究に共通するのは、日本の公園が単純な西洋の模倣ではなく、在来の名所・境内・庭園の空間経験の上に、西洋の公園像を重ね書きしたものだという見方である。
庭園史については、進士五十八『日本の庭園——造景の技とこころ』(2005)が、庭園を「造景」の技術として捉え直し、その技が現代の造園にどう生きているかを論じている。『作庭記』の校訂本や注釈は複数あり、石の立て方・水の引き方・樹木の植え方についての記述は、現代の造園学の教科書とも読み比べることができる。本稿はこれらの研究を出発点にしつつ、公園史と庭園史を分けて論じる従来の枠を越え、両者を「植栽・地形・水・園路・施設」の五要素で通して読むことを試みる。
2.2 遊び場設計についての先行研究
子どもの遊び場の設計については、建築家・環境デザイナーの仙田満(せんだみつる)による『こどものあそび環境』(1984)と『子どもとあそび——環境建築家の眼』(1992)が、日本における体系的な研究の代表である。仙田は子どもの遊びの観察から、遊びが活発になる空間には共通の構造があることを見いだし、これを「遊環構造(ゆうかんこうぞう)」と名づけた。国土交通省の「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」は、遊具の安全に関する行政の基準であり、遊具という「施設」の要素を扱う。本稿ではこれらを第7節で造園学の五要素と突き合わせ、遊び場設計が造園学の中でどこに位置するかを検討する。
以上の先行研究に対する本稿の位置づけを明らかにしておく。公園史研究は制度と事業の変遷を、庭園史研究は様式と技法の変遷を、遊び場研究は子どもの行動と空間の関係を、それぞれ主題としてきた。本稿はこれら三つの研究群のいずれにも新しい史料を加えるものではない。本稿が試みるのは、三つの研究群を五要素という一つの物差しで貫き、平安の作庭から現代の街区公園までを同じ枠で見渡すことによって、身近な公園の「かたち」がどの時代のどの判断に由来するかを読み解けるようにすることである。以下、第3節から第7節までは時代順に、第8節では磐田市の公園に即して、この物差しを当てていく。
3. 日本庭園の伝統——『作庭記』・回遊式・借景
日本の造園の伝統をさかのぼると、平安時代後期に成立した作庭書『作庭記』(さくていき)に行き着く。藤原頼通の子で当時の造園の第一人者とされた橘俊綱(たちばなのとしつな)に帰される書物で、寝殿造の邸宅に付属する庭園を念頭に、石の立て方、池と流れ(遣水)のつくり方、島と橋の配し方、樹木の植え方を、実務の心得として記している。冒頭に「石を立てん事、まづ大旨を心得べき也」とあるように、当時の作庭は「石を立てる」ことを中心に考えられており、石組が地形と水を決め、そこに植栽が添えられるという順序であった。
『作庭記』には、後世の造園に受け継がれた原理がいくつか記されている。一つは「生得(しょうとく)の山水」を思い浮かべ、実際の自然の山や川がどうなっているかを手本にせよという教えである。もう一つは「乞はんに従ふ」——石が「ここに立ててほしい」と乞うている場所に従って立てよ、という感覚的な表現で、素材の性質と場所の条件に設計者の意図を合わせよという意味に読まれてきた。さらに「国々の名所を思ひめぐらして」とあるように、各地の名勝の風景を庭に写し取ること(後の縮景の発想)もすでに見られる。地形と水を先に決め、素材と場所の条件に従い、遠くの風景を庭に取り込む——この三つは、千年後の公園設計を読むときにも役に立つ物差しである。
3.1 浄土式庭園から枯山水・露地へ
平安時代の末には、極楽浄土を地上に表す浄土式庭園が現れた。宇治の平等院鳳凰堂(1053年建立)や平泉の毛越寺(もうつうじ)庭園がその代表で、阿弥陀堂の前に大きな池を掘り、対岸から堂を望む構成をとる。ここでは池が主役であり、水面越しの眺めという「見る位置」があらかじめ設計されている。室町時代になると、禅宗寺院を中心に、水を使わずに白砂と石で山水を表す枯山水(かれさんすい)が発達した。京都の龍安寺石庭はその極致であり、夢窓疎石(むそうそせき、1275〜1351)が関わった西芳寺や天龍寺の庭は、池泉と石組を組み合わせて禅の思想を表そうとした。
安土桃山から江戸初期にかけては、茶の湯とともに露地(ろじ、茶庭)が生まれた。飛石(とびいし)を踏んで歩き、蹲踞(つくばい)で手を清め、腰掛で待ち、にじり口から茶室に入るという一連の動きが、そのまま庭の構成になっている。露地は「歩く順序」を庭の骨格にした点で画期的であり、次に見る回遊式庭園の直接の前提となった。造園学の五要素でいえば、浄土式庭園は水、枯山水は地形(白砂と石による起伏の抽象化)、露地は園路の要素を、それぞれ極限まで研ぎ澄ませた形式だと整理できる。
3.2 回遊式庭園——歩くことで景が展開する
江戸時代の大名庭園で完成された回遊式庭園(かいゆうしきていえん)は、中央に大きな池を置き、その周囲を巡る園路を歩くにつれて次々に景色が変わるように構成された庭である。桂離宮(17世紀)はその洗練の頂点とされ、水戸徳川家の小石川後楽園(1629年起工)、柳沢吉保の六義園(1702年完成)、加賀藩の兼六園、岡山藩の後楽園、高松藩の栗林公園などが各地に残る。園路の一歩ごとに、池の対岸の築山が見えたり隠れたり、橋を渡ると小さな滝が現れたりする。この「歩くことで景が展開する」という原理は、露地の「歩く順序」を大規模化したものであり、園路と地形と水を一体として設計する技術の到達点であった。
回遊式庭園にはもう一つ、縮景(しゅくけい)の技法が組み込まれている。小石川後楽園には中国の西湖堤や廬山を写した景があり、六義園は和歌に詠まれた紀州の名所を写している。訪れる人は園路をたどりながら、実際には行ったことのない名所を「見立て」で巡ることになる。この見立ての感覚——目の前の小さな丘を遠くの山に見立てる、池を海に見立てる——は、後に子どもの遊び場でも重要になる。築山を山に、砂場を海辺に見立てて遊ぶ子どもの想像力は、大名庭園の縮景の感覚と同じ土台に立っている。
3.3 借景——庭の外を庭にする
借景(しゃっけい)とは、庭の外にある山や森を庭の一部として取り込む技法である。語そのものは中国明代の造園書『園冶』(えんや、計成著、1631年)に見えるが、日本では京都の円通寺が比叡山を、修学院離宮が東山の山並みを借景としたことで知られる。借景の要点は、庭と外の風景の間に生垣や樹林で「額縁」をつくり、余計なものを隠して遠景だけを見せることにある。すなわち借景は「見せる」技術であると同時に「隠す」技術である。
借景の考え方は、現代の公園設計にも生きている。公園の周囲に高木の樹林帯を巡らせて周囲の建物を隠す、逆に、遠くの山や川が見える方向にだけ樹林を開けて見通しをつくる、といった操作は、いずれも借景の応用である。ただし借景は「借りている」ものが変われば成り立たなくなる。円通寺の借景は比叡山の手前に建物が建てば失われる。この脆さは、公園の周囲に高い建物が建てば公園内の眺めが変わるという現代の問題と地続きであり、造園が「敷地の外」までを設計の対象にせざるをえないことを示している。日本庭園の伝統は、このように、地形・水・園路・植栽を一体として扱い、時間と外部までを設計に含める思考として、明治の公園設計者たちの手元に残されていた。
4. 明治の公園制度と本多静六——日比谷公園の設計思想
日本に「公園」という制度が生まれたのは、明治6年(1873年)1月の太政官布達第16号によってである。布達は、古くから「群集遊観ノ場所」となってきた社寺の境内や名所を公園として定めるよう各府県に命じ、東京では上野・芝・浅草・深川・飛鳥山の五か所が最初に指定された。ここで重要なのは、公園という制度は新しいが、公園になった場所は古いということである。上野は寛永寺の境内、飛鳥山は江戸時代からの桜の名所であり、人びとはすでにそこに集まって花を見、弁当を広げていた。日本の最初期の公園は、設計されたのではなく「指定された」のであり、そこにあった庭園と境内と名所の空間が、そのまま公園の空間になった。
設計された公園、すなわち何もない土地に図面を引いてつくられた最初の本格的な公園が、明治36年(1903年)6月に開園した日比谷公園である。旧日比谷練兵場の跡地に、東京市が「西洋風の公園」をつくることを決め、複数の案が検討されたが、まとまらなかった。最終的に設計を引き受けたのが、当時東京帝国大学農科大学で林学を講じていた本多静六であった。本多は埼玉の農家に生まれ、東京山林学校(のち東京農林学校)を経てドイツのミュンヘン大学に留学し、帰国後は林学の教授として造林学を教えていた。彼は自伝『本多静六自伝 体験八十五年』の中で、公園設計の経験がないまま引き受けたこと、西洋の公園の図面を集めて研究したことを率直に記している。
4.1 洋風と在来の折衷
日比谷公園の設計思想を一言でいえば、洋風を基本としつつ在来の要素を残す折衷である。園の中心には幾何学的な花壇と噴水を置き、そのまわりに芝生と並木と広場を配し、音楽堂と洋食堂を備えた。これはヨーロッパの都市公園、とりわけドイツで本多が見た公園の構成を手本にしたものであり、「花壇と噴水と音楽堂のある公園」という日本人の公園像は、ここで初めてかたちになった。一方で、敷地の一角には旧江戸城の外堀の名残である心字池(しんじいけ)が残され、石組と松の和風の池として整えられた。洋風の花壇と和風の池が一つの公園に同居しているのは、妥協の産物というより、西洋の公園と日本の庭園のどちらも捨てないという判断の結果と読める。
この折衷は、造園学の五要素で見ると次のように整理できる。植栽は洋風の花壇と芝生を主とし、在来の松や桜を添える。地形は練兵場の平地をほぼそのまま活かし、大きな築山はつくらない。水は幾何学的な噴水(雲形池の鶴の噴水)と在来風の心字池の二本立て。園路は広い直線の主園路と、それをつなぐ曲線の小径の組合せ。施設は音楽堂・洋食堂・ベンチという西洋の「公衆」のための設備。日本庭園の伝統では、園路は歩くにつれて景が展開するために曲げられたが、日比谷公園の主園路は群衆が行き交うために広く真っ直ぐに引かれた。ここに、庭園と公園の決定的な違いがある。庭園は少数の人が景を味わう場所であり、公園は不特定多数の人が集まる場所である。園路の幅と形は、その違いを最も端的に表している。
4.2 「首かけイチョウ」と樹木への態度
日比谷公園には、本多静六の設計思想を象徴するイチョウの大木が残っている。道路の拡幅で伐られることになっていた大イチョウを、本多が「自分の首を賭けても移植を成功させる」と請け合って公園に移したと伝えられ、「首かけイチョウ」と呼ばれている。この逸話が示すのは、林学者としての本多の、樹木を「植える」だけでなく「残す」「動かす」ことへの強い意志である。造園学において植栽は、新しく植えることと同時に、すでにそこにある大木をどう活かすかの判断を含む。公園の設計図に一本の既存木が描き込まれるかどうかで、その公園の五十年後の姿は大きく変わる。
本多はその後、全国各地の公園計画に関わり、後に「日本の公園の父」と呼ばれるようになる。彼の仕事の特徴は、洋風の設計を持ち込みながらも、樹木の扱いにおいては林学者としての長い時間の見方を貫いた点にある。日比谷公園はその出発点であり、次節で見る明治神宮の森は、その時間の見方を極限まで推し進めた到達点である。以下に、本稿で扱う近代以降の公園史の主な出来事を年表として整理しておく。
| 年 | 出来事 | 造園学から見た意味 |
|---|---|---|
| 1873(明治6) | 太政官布達第16号。社寺境内・名所を公園に指定 | 設計されず「指定された」公園の出発 |
| 1903(明治36) | 日比谷公園開園(本多静六らの設計) | 洋風の花壇・噴水・広い園路と在来の池の折衷 |
| 1918(大正7) | 田村剛『造園学概論』刊行 | 「造園学」の名称が学問として掲げられる |
| 1919(大正8) | (旧)都市計画法制定 | 公園が都市計画施設として位置づけられる |
| 1920(大正9) | 明治神宮鎮座。林苑計画(本多・本郷・上原) | 百年先の林相から逆算した植栽設計 |
| 1923〜(大正12〜) | 関東大震災後、東京に52の復興小公園(小学校併設) | 小規模・住区単位・子どもを主対象とする公園像 |
| 1924・1925 | 東京高等造園学校創設・日本造園学会設立 | 造園の教育と学会の制度化 |
| 1956(昭和31) | 都市公園法制定 | 種別・面積・誘致距離の標準による量的整備の枠組み |
| 1972(昭和47) | 都市公園等整備緊急措置法(五箇年計画) | 全国での公園整備の加速 |
| 1993(平成5) | 施行令改正。児童公園を街区公園に改称 | 子ども専用から全世代の身近な公園へ |
| 2017(平成29) | 都市公園法改正(公募設置管理制度など) | 民間活力の導入と管理の多様化 |
5. 明治神宮の森——百年先の林相を設計する
日比谷公園から十数年後、本多静六は日本の造園史の中で最も長い時間軸をもつ仕事に関わる。明治神宮の森である。明治天皇の崩御(1912年)ののち、東京・代々木の御料地に神宮を造営することが決まり、その境内林(林苑)の計画が本多静六・本郷高徳(ほんごうたかのり)・上原敬二らに委ねられた。当時の代々木は、かつての大名屋敷の跡地に畑や荒地が広がる土地で、鬱蒼とした森は存在しなかった。つまり明治神宮の森は、はじめから「森をつくる」計画として出発したのである。
この計画をめぐって、よく知られた対立があった。当時の政府の有力者であった大隈重信は、伊勢神宮や日光東照宮のような荘厳なスギ並木を望んだ。これに対して本多らは、東京の土壌と気候、そして当時すでに問題になっていた都市の煙害のもとではスギは長く健全に育たない、と反対したと伝えられる。林学者としての本多らの判断は、「どんな森にしたいか」より先に「この土地でどんな森が持続するか」を問うものであった。造園学の用語でいえば適地適木(てきちてきぼく)——その土地の条件に合った樹種を選ぶ——の原則であり、これが計画の出発点になった。
5.1 遷移を設計に組み込む
1921年(大正10年)にまとめられた「明治神宮御境内林苑計画」の骨子は、植生の遷移(せんい)を設計に組み込むという発想にある。遷移とは、裸地に草が生え、陽当たりを好む木(陽樹)が育ち、その木陰で日陰に耐える木(陰樹)が育って、やがて陰樹が主体の安定した林(極相林)に移り変わっていく、植物群落の時間的な変化のことである。本多らは、東京の低地における極相がカシ・シイ・クスノキなどの常緑広葉樹の林になると見通し、そこへ至る道筋を段階的に描いた。最初はマツを主体にした林とし、次にヒノキ・サワラ・スギ・モミなどの針葉樹が主となる時期を経て、やがて常緑広葉樹が優勢になり、最後に常緑広葉樹だけの極相林に至る、という四つの段階である。
この計画が造園史上画期的なのは、「完成した姿」を設計図に描くのではなく、「変わっていく過程」そのものを設計したことである。植えた直後の林は計画の最終形とはまったく違う姿をしており、設計者は自分が生きているうちに完成を見ることができない。それでも、遷移の法則を信頼して初期の樹種と配置を決め、あとは林そのものの力に委ねる。全国から寄せられた献木は約十万本にのぼるとされ、青年団の勤労奉仕によって植え付けられた。造園学が「時間を設計する学問」であるという本稿の見方は、この明治神宮の林苑計画に最も明瞭な根拠をもつ。
5.2 手を入れない管理という設計
林苑計画のもう一つの特徴は、管理の方針まで設計に含めたことである。落ち葉や枯れ枝は境内の外に持ち出さず、林の中に戻して土をつくる。下草を刈りすぎない。人の手を極力入れず、林が自ら遷移していくのを妨げない。これは、花壇の草花を季節ごとに植え替え、芝生を刈り込み、樹木を剪定して形を保つ日比谷公園型の管理とは正反対の方針である。造園学の五要素のうち植栽は、植える段階だけでなく、その後どう手を入れるか(あるいは入れないか)まで含めて初めて設計になる、ということをこの計画は示している。
この二つの管理方針は、植栽管理の二つの型として一般化できる。一つは、草花を植え替え、芝を刈り、木の形を整えて「人が決めた姿」を保ち続ける園芸的な管理であり、日比谷公園の花壇がその典型である。もう一つは、初期の条件だけを与えて「植物の側が決める姿」に移り変わるのを妨げない生態的な管理であり、明治神宮の森がその典型である。前者は毎年の手間と費用を要するが姿を安定させやすく、後者は手間は少ないが姿は変わり続ける。現代の街区公園の外周の高木は、剪定はするが植え替えはしないという点で、この二つの型の中間にあり、どちらの型に寄せるかは管理者の判断に委ねられている。
鎮座から百年を前にした時期に行われた境内の総合調査では、林が計画どおり常緑広葉樹を主体とする姿へ移行していることが報告されたとされる。百年前の設計者が見通した遷移が、おおむねそのとおりに進んだことになる。もちろん都市の中の孤立した林として、周囲の環境変化や外来種の侵入など、当初は想定されなかった課題もあると指摘されている。しかし「植えて、待つ」という設計が、実際に一世紀を経て森を生んだという事実は、造園学の可能性を示す最も説得力のある実例である。
5.3 街区公園の一本の木にとって何を意味するか
明治神宮の森の話は、身近な街区公園と無縁のように見えるかもしれない。しかし、公園の隅に植えられた一本のケヤキやクスノキも、植えられた時点では細い若木であり、ベンチに木陰を落とすまでには数十年を要する。いま子どもが夏の午後に涼んでいる木陰は、数十年前の設計者が「いつか木陰になる」と見越して植えた結果であり、逆にいま植えられる若木は、いまの子どもの子どもの世代のための木陰になる。造園学の時間感覚とは、このように、設計者が自分の目で見られない未来の利用者に向けて線を引くということである。街区公園の樹木がどの程度育っているか、木陰がベンチや砂場のどこに落ちているかは、当サイトが今後の踏査で確かめる項目であり、その観察はそれぞれの公園に刻まれた「植えられてからの時間」を読むことにほかならない。
6. 戦後造園学の展開——都市公園法・植栽設計・芝生広場・樹種選定
戦後の公園設計を方向づけたのは、昭和31年(1956年)に制定された都市公園法である。同法とその施行令は、都市公園を種別に分け、種別ごとに標準の面積と誘致距離(住民がどのくらいの距離から歩いて来ることを想定するか)を定めた。街区公園は標準0.25haで誘致距離250m、近隣公園は2haで500m、地区公園は4haで1km、総合公園は10〜50ha、運動公園は15〜75ha、風致公園・歴史公園・墓園などの特殊公園は規模の定めなし、都市緑地は0.1ha以上、といった具合である。この種別体系は、それまで一つひとつの公園を個別に設計していた造園を、「都市全体にどの規模の公園をどう配置するか」という体系の中に位置づけた。
この体系の前史として、大正12年(1923年)の関東大震災後に東京で整備された52の復興小公園がある。小学校に隣接して置かれた小規模な公園で、震災時の避難と平時の子どもの遊びを兼ね、後の児童公園(1993年の施行令改正で街区公園に改称)の原型となった。日比谷公園が「都市の中心に一つ」の大公園であったのに対し、復興小公園は「住区ごとに一つ」の小公園であり、公園の像はここで大きく転換した。戦後の都市公園法は、この二つの像——中心の大公園と、身近な小公園——を種別として一つの体系に束ねたものと読むことができる。
6.1 量的整備と標準設計
昭和47年(1972年)の都市公園等整備緊急措置法にもとづく五箇年計画以降、全国で公園整備が急速に進んだ。この時期の造園学の課題は、限られた予算と人員で多数の公園を一定の質で整備することであり、その答えが標準設計であった。街区公園(当時の児童公園)では、ブランコ・滑り台・砂場を基本とする遊具の組合せが広く採用されたとされ、そのまわりに芝生または土の広場、周囲に高木の植栽帯、隅にトイレと水飲み場、という構成が定型になった。この定型は全国どこでも一定の水準の公園を短期間に供給することを可能にしたが、同時に「どこも同じ公園」という批判も生んだ。
造園学の五要素で見ると、量的整備の時代は施設(遊具・トイレ)と植栽(広場と外周の高木)に力点があり、地形と水と園路の要素は後退した。平坦な敷地に遊具を置き、外周に木を植えるだけなら、築山を盛る費用も、流れを引く維持費も、園路の展開を考える手間もいらない。日本庭園の伝統が磨いてきた「歩くことで景が展開する」園路や「見立て」を誘う地形は、この時代の街区公園からはほとんど姿を消した。ただし近隣公園・地区公園以上の規模になると、築山や流れや周回園路が設けられることも多く、伝統の要素は規模の大きい公園に生き残ったといえる。
6.2 芝生広場という発明
戦後の公園を特徴づける要素の一つが芝生広場である。日本庭園の伝統には芝生広場に相当するものはほとんどなく、苔や白砂や刈り込まれた植え込みが地面を覆っていた。広い芝生の上に人が自由に座り寝転ぶという使い方は、イギリスの風景式庭園やアメリカの公園に由来し、日比谷公園にも取り入れられていたが、戦後に大きく広がった。芝生広場の造園学的な意味は、「何をしてもよい、何もしなくてもよい」空間を提供することにある。遊具は使い方が決まっているが、芝生はボールを蹴ることも、レジャーシートを広げることも、ただ寝転ぶこともできる。
ただし芝生は手のかかる植栽である。日本で公園に多く用いられるノシバ・コウライシバなどの日本芝は暖地型で、夏に緑が濃く冬は枯れて茶色になる。ケンタッキーブルーグラスなどの西洋芝は寒地型で冬も緑を保つが、日本の高温多湿の夏に弱いとされる。いずれも定期的な刈り込みと施肥を要し、人に踏まれ続ければ裸地になる。芝生広場を「維持し続けられるか」は、設計より管理の問題であり、第5節で見た明治神宮の「手を入れない」方針とは対極にある。芝生広場は設計者が最も多く描き、管理者が最も苦労する要素である。
| 日本芝(ノシバ・コウライシバ) | 西洋芝(寒地型) | |
|---|---|---|
| 季節の姿 | 夏に濃い緑、冬は枯れて茶色 | 冬も緑を保つ |
| 気候との相性 | 高温多湿の夏に強い | 夏の暑さに弱いとされる |
| 管理 | 刈り込み頻度は比較的少ない | 刈り込み・施肥・灌水の頻度が高い |
| 公園での使われ方 | 広場・のり面に多い | 競技場・一部の芝生広場 |
6.3 樹種選定——木陰と落ち葉と時間
植栽設計の中心は樹種選定である。公園に植えられる高木には、ケヤキ・クスノキ・イチョウ・ソメイヨシノ・シラカシ・スダジイなどがよく用いられる。選定の観点は多い。夏に木陰をつくり冬に葉を落として日差しを通す落葉高木は広場の縁に向き、常緑高木は目隠しや防風に向く。花を楽しむ桜は春の公園の主役だが、落葉の量が多く、寿命や病害への配慮も要る。花粉の問題、根が舗装を持ち上げる問題、台風での倒木の危険も選定の段階で考慮される。近年は、その土地に本来生育する郷土種を選ぶ考え方や、鳥や昆虫のえさとなる実のなる木を織り交ぜる考え方も広まっている。
樹種選定において造園学が一貫して重視してきたのは、第5節で見た「時間」の観点である。植えたときの大きさではなく、三十年後の樹冠の広がりを想像して間隔を決め、隣り合う木が競合しないように配し、成長後にベンチや砂場のどこに木陰が落ちるかを見込む。戦後の量的整備の中でこの見通しが十分でなかった公園では、育ちすぎた木が遊具に覆いかぶさったり、逆に木陰がまったくない広場が生まれたりした。木の健康を診る樹木医の制度が広がったのも、戦後に一斉に植えられた公園樹木が老いる時期を迎えたことと無関係ではない。植えることと同じだけ、育てること・更新することが、戦後造園学の後半の主題になったのである。
7. 造園学と子どもの遊び場設計の接点——仙田満の遊環構造
ここまで見てきた造園学の系譜の中で、子どもの遊び場は長く周辺的な位置にあった。日本庭園は大人が景を味わう場所であり、日比谷公園は「公衆」のための施設であり、戦後の児童公園はたしかに子どもを対象にしたが、その設計はしばしば「遊具を置くこと」に還元された。造園学の五要素でいえば、遊び場は施設の要素としてだけ扱われ、植栽・地形・水・園路との一体性は問われにくかった。この状況に対して、遊び場を空間の構造として捉え直したのが、建築家・環境デザイナーの仙田満による遊環構造の研究である。
仙田は『こどものあそび環境』(1984)などで、子どもの遊びを実際に観察し、遊びが活発になり長く続く空間には共通の構造があることを見いだした。彼はまず、子どもの遊び場をおおむね六つの型——自然のある場所、広い空き地、道、雑然として何でもできる場所、隠れ家になる場所、そして遊具のある場所——に分け、遊具のある場所は遊びの舞台の一つにすぎないことを示した。そのうえで、遊びが最も盛り上がる空間の構造を遊環構造(ゆうかんこうぞう)と名づけ、その条件を整理した。
7.1 遊環構造の条件
仙田の示した遊環構造の条件は、おおむね次の七つに整理される。第一に、ぐるりと一周できる循環の道筋があること。第二に、その循環路が安全で、かつ変化に富んでいること。第三に、その中に象徴となる高い場所や大きな木など、シンボル性のある空間があること。第四に、循環の中に「めまい」——滑る、回る、揺れる、飛び降りるといった身体感覚の揺さぶり——を体験できる部分があること。第五に、循環路に近道(ショートカット)があること。第六に、循環路に広場が取りついていること。第七に、全体が多孔質(ポーラス)で、隠れたり抜けたりできる穴や隙間に富んでいること。仙田は、これらが揃った空間では子どもの遊びが自然に「回り出す」ことを、多くの遊び場の観察から示した。
この七条件を造園学の五要素に照らすと、遊び場設計が造園学の本流と深くつながっていることが見えてくる。循環と近道は園路の設計そのものであり、変化に富む循環路は地形の起伏と植栽の疎密によってつくられる。シンボル性のある空間は大木や築山という植栽・地形の要素であり、広場は芝生広場に、多孔質は茂みやトンネルという植栽・施設の組合せに対応する。めまいの体験だけが遊具という施設に強く依存するが、それすら築山の斜面を転げ落ちることや、流れの石を跳び渡ることで代替できる。すなわち遊環構造とは、造園学の五要素をすべて動員して「子どもの遊びが循環する構造」をつくることであり、遊具を置くだけの遊び場設計とは根本的に異なる発想である。
7.2 回遊式庭園と遊環構造——同じ原理
ここで第3節を思い出したい。回遊式庭園の原理は「池のまわりを巡る園路を歩くにつれて景が次々に変わる」ことであり、露地の原理は「歩く順序が庭の骨格になる」ことであった。仙田の遊環構造の第一・第二条件——循環と変化——は、これとまったく同じ原理を子どもの遊び場に見いだしたものである。大名庭園を歩く大人は、築山の陰から現れる池の景に「おっ」と思い、子どもは築山の裏に回り込んで「見つけた」と叫ぶ。縮景の見立て(丘を山に、池を海に)は、子どもの「ごっこ」の見立てと同じ想像力の働きである。日本庭園の伝統と子どもの遊び場設計は、造園学の中で遠く離れた領域のように見えて、循環・変化・見立てという同じ原理で結ばれている。
この対応は、遊び場設計に具体的な示唆を与える。遊具を平地に並べるのではなく、築山を盛ってその斜面に滑り台を埋め込み、築山のまわりに周回できる園路をつけ、園路の途中に茂みや大木を配して見え隠れをつくり、園路が広場に取りつくようにする——これは仙田の七条件を満たすと同時に、回遊式庭園の構成法そのものである。造園学が遊び場設計に貢献できるのは、まさにこの点、遊具という施設を地形・植栽・園路の中に埋め込む技術においてである。
7.3 安全との関係——施設の要素と指針
遊び場設計において、遊具という施設の要素には安全の観点からの基準がある。国土交通省の「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」は、遊具の設計・製造・設置・維持管理・利用の各段階で安全を確保するための考え方を示し、子どもの成長に必要な挑戦の要素(リスク)と、子どもには予測できず遊びの価値と関係のない危険(ハザード)を区別することを基本に置いている。この区別は、遊環構造の「めまい」や「高いところ」の要素を、危険だからと排除するのではなく、ハザードを取り除いたうえで残す、という設計態度と整合する。
ただし本稿は造園学の立場から遊び場の空間構造を論じるものであり、個別の遊具の安全性や、けがの予防について判断を述べるものではない。遊具の安全は指針にもとづく点検と管理に委ねられ、けがの手当ての判断は医療機関に委ねられる。造園学が言えるのは、遊具を含む遊び場全体を、園路・地形・植栽と一体の「遊環」として設計することで、遊具そのものに集中する負荷を分散させ、遊びの選択肢を広げられる、ということまでである。遊具の点検・安全の詳細は当サイトの読みもの(点検・対象年齢表示・リスクとハザード)に譲る。
8. 磐田市の公園への示唆
以上の通史的整理を、磐田市の公園に当てはめてみる。当サイト(ATAWI PARK)が収録する磐田市の公園は100園で、市のオープンデータ「都市公園一覧」の94園に、市の施設ガイドのみに掲載の6園を加えたものである。種別の内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、法対象外・その他6園である。地区別には豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園と分布している。ここでは、本稿が示した「伝統・近代・戦後」の三つの層と、造園学の五要素という二つの物差しで、この100園を読み直す。ただし当サイトの現地踏査は始まっておらず、以下はオープンデータと施設ガイドの記載にもとづく見通しである。
8.1 三つの層で読む——「指定された」場所・近代の要素・戦後の定型
第4節で見たように、日本の最初期の公園は設計されたのではなく、社寺の境内や名所や史跡が公園として「指定された」ものであった。磐田市の100園の中にも、この層に属する公園がある。中泉の遠江国分寺史跡公園(歴史公園・21,600㎡)は、市で唯一の歴史公園であり、史跡そのものが公園の骨格をなす。中泉の京見塚公園(街区公園・10,231㎡)は市の施設ガイドに「京見塚古墳」の記載があり、見付の一ノ谷公園(街区公園・2,458㎡)には「一ノ谷遺跡」の記載がある。豊田の豊田熊野記念公園(街区公園・1,898㎡)には「熊野の長藤」の記載があり、名木そのものが公園の中心にある。これらは、地形(古墳の盛り上がり)や既存の植栽(藤)を「残す」ことから出発した公園であり、本多静六が首かけイチョウに示した「残す」設計の系譜にある。
同じく規模の定めのない特殊公園である風致公園は、見付のつつじ公園(61,937㎡)、竜洋の竜洋昆虫自然観察公園(29,119㎡)、いわたエコパーク(23,973㎡)の3園である。風致公園は自然の風致(景観のおもむき)を活かすことを目的とする種別であり、造園学の五要素でいえば、既存の地形と植栽を主役にし、施設は控えめにする設計が想定される。第5節の明治神宮の森が示した「植えて待つ」「手を入れすぎない」植栽の思想は、この種別と最も相性がよい。ただし、これらの公園の樹林が実際にどのような林相をなしているかは、当サイトが今後の踏査で確かめる課題である。
近代公園の層——花壇・噴水・広場・流れといった日比谷公園型の要素——は、近隣公園以上の規模の公園に見いだせる。見付の今之浦公園(近隣公園・13,675㎡)は、市の施設ガイドに「遊びと賑わいのゾーン」として屋根付広場・複合遊具・噴水広場・芝生広場が、「憩いとふれあいゾーン」として健康遊具・じゃぶじゃぶスポット・流れ・芝生広場が記載され、噴水は令和8年7月17日から9月23日まで運転するとある。豊田の豊田香りの公園(近隣公園・10,200㎡)にはカスケード(滝)が記載され、5月から10月までの9時から17時に稼働するとある。御厨の安久路公園(地区公園・32,001㎡)にも「流れ」の記載がある。噴水と流れという「水」の要素、芝生広場という「植栽」の要素、ゾーンに分けた「園路」の構成は、まさに日比谷公園以来の近代公園の像である。
そして戦後の定型の層は、100園の半分を占める街区公園51園に最もよく表れている。オープンデータ94園のうち遊具有は64園、砂場有は43園、トイレ有は69園であり、街区公園の多くは施設ガイドに「ブランコ、滑り台、鉄棒、砂場、トイレ」といった記載をもつ。見付の富士見公園(3,202㎡)や御厨の城之崎公園(3,438㎡)の「ブランコ、滑り台、鉄棒、砂場、トイレ」という記載は、第6節で見た標準設計の構成そのものである。標準0.25ha(2,500㎡)に近い面積の街区公園が多い一方、見付の只来下公園(458㎡)や中泉の久保公園(556㎡)のように標準の四分の一に満たない園も、中泉の京見塚公園(10,231㎡)のように標準の四倍を超える園もあり、街区公園という一つの種別の中に大きな幅がある。
8.2 五要素で読む——地形と水はどこにあるか
造園学の五要素のうち、戦後の街区公園から後退したのは地形・水・園路の要素であった。磐田市の施設ガイドの記載から、この三要素の手がかりを拾うことができる。地形については「築山」の記載が竜洋の竜洋川袋公園(街区公園・2,366㎡)と福田の福田ふるさと公園(街区公園・1,750㎡)にある。竜洋川袋公園には築山とともに「ジャンボ滑り台」「複合遊具(滑り台、リングジム、吊り橋チェーン等)」の記載があり、もし築山と滑り台が一体になっているなら、第7節で述べた「築山の斜面に滑り台を埋め込む」という遊環構造の構成に近い。ただしそれは記載からの推測にすぎず、実際の地形と遊具の関係は踏査で確かめるべき事柄である。
水については、前述の今之浦公園の噴水広場・じゃぶじゃぶスポット・流れ、豊田香りの公園のカスケード、安久路公園の流れのほか、竜洋の竜洋海洋公園(総合公園・221,722㎡)にはプールの記載がある。一方で街区公園51園に、施設ガイド上で池や流れの記載をもつ園は見当たらない。水は維持管理の負担が大きい要素であり、近隣公園以上の規模に集中するのは、戦後の造園の全国的な傾向と一致している。芝生広場については、今之浦公園と、福田のはまぼう公園(法対象外)に「芝生広場」の記載がある。園路の周回性や見え隠れといった構成は、施設ガイドの記載からは読み取れず、これも踏査を待つ。
8.3 街区公園51園と遊環構造——踏査で確かめること
本稿の造園学的な整理から、当サイトの今後の踏査で確かめるべき項目を、五要素に沿って挙げておく。植栽については、外周の高木の樹種と大きさ、木陰がベンチ・砂場・遊具のどこに落ちているか、芝生か土か。地形については、築山や起伏があるか、平坦か。水については、水飲み場・手洗いの位置と、流れや噴水の稼働状況。園路については、ぐるりと一周できるか、近道があるか、茂みや築山による見え隠れがあるか。施設については、遊具の構成と配置、ベンチ・東屋・トイレの位置。これらは、それぞれの公園が三つの層のどこに属し、遊環構造の条件をどの程度満たしているかを判断する材料になる。
最後に、100園を管理するのは磐田市都市整備課(電話0538-37-4806)であり、植栽の更新や施設の改修に関する事実はそこに問い合わせるのが確実である。当サイトは、市のオープンデータと施設ガイドを出発点に、踏査によって五要素の実態を一園ずつ記録していく。造園学の眼で街区公園を見るとは、そこにある一本の木、一つの盛り土、一周できる小径を、誰かが選び、植え、盛り、引いた結果として読むことであり、その読みは踏査によって初めて具体性を得る。
9. 結論と今後の課題
本稿は、日本の造園の伝統と近代以降の公園設計の系譜を、造園学の五要素——植栽・地形・水・園路・施設——を物差しとして通史的に整理し、磐田市の公園100園をその系譜の上に位置づけることを試みた。冒頭に掲げた三つの問いに、次のように答えることができる。
第一の問い——庭園の伝統は公園にどう引き継がれたか——については、明治の公園が「設計された」のではなく境内や名所を「指定した」ことから出発したため、初期の公園には庭園と名所の空間がそのまま持ち込まれたこと、日比谷公園では洋風の花壇・噴水・広い園路と在来の池が折衷されたこと、しかし戦後の街区公園の量的整備の中では、庭園の伝統が磨いた地形・水・園路の要素は後退し、規模の大きい公園にのみ生き残ったことを示した。伝統は断ち切られたのではなく、公園の規模と種別によって濃淡をつけて引き継がれたのである。
第二の問い——本多静六の設計思想と戦後造園学の展開——については、日比谷公園(洋風と在来の折衷、既存木を残す態度)と明治神宮の森(適地適木・遷移を組み込んだ植栽・手を入れない管理)という二つの仕事が、造園学の「時間を設計する」性格を最も明瞭に示していること、そして戦後の造園学が都市公園法の種別体系のもとで芝生広場と樹林と遊具の定型を全国に供給し、その後半では植えた木を育て更新することを主題にするに至ったことを示した。
第三の問い——造園学と子どもの遊び場設計の接点——については、仙田満の遊環構造論の七条件が造園学の五要素とほぼ一対一に対応し、とりわけ循環と変化と見立てという原理において回遊式庭園と同じ土台に立っていることを示した。遊び場設計は遊具という施設を置くことではなく、地形・植栽・園路の中に遊具を埋め込んで「遊びが循環する構造」をつくることであり、そこにこそ造園学が貢献できる領域がある。
以上を通じて本稿が提示したのは、「伝統・近代・戦後」の三つの層と「五要素」という二つの物差しである。前者は、目の前の公園がどの時代の設計思想を主に受け継いでいるかを見分ける物差しであり、後者は、その公園に何があって何がないかを漏れなく点検する物差しである。磐田市の100園に当てはめると、史跡や名木を残す層は歴史公園と一部の街区公園に、噴水・流れ・芝生広場の近代公園の層は近隣公園以上の規模に、遊具を中心とする戦後の定型の層は街区公園51園に、それぞれ濃く表れているという見通しが得られた。この二つの物差しは、当サイトの読みものや他の論文が公園を論じる際の共通の足場としても使えるはずである。
9.1 本稿の限界
本稿にはいくつかの限界がある。第一に、本稿は文献整理と概念分析にとどまり、独自の実地調査を含まない。磐田市の公園について述べたことはすべて、市のオープンデータと施設ガイドの記載にもとづく見通しであり、植栽の実態・地形・園路の構成・木陰の分布は今後の踏査で確かめなければならない。第二に、五要素という枠組みは本稿の便宜のための整理であり、造園学の中には別の分類や、五要素をまたぐ概念(景観・生態系・管理運営など)が数多くある。第三に、本稿は造園学の立場から空間の構造を論じたものであり、遊具の安全やけがの予防、暑さ対策といった論点については、関係する指針と機関の判断に委ね、踏み込んでいない。
9.2 今後の課題
今後の課題は三つある。第一に、当サイトの踏査において、造園学の五要素に沿った観察項目——高木の樹種と大きさ、木陰の位置、築山や起伏の有無、水飲み場と流れの状況、周回できる園路の有無、遊具と植栽の位置関係——を一園ずつ記録し、100園を三つの層と遊環構造の観点から比較できるデータを蓄積することである。第二に、街区公園の量的整備の中で後退した地形・水・園路の要素を、小さな面積の中でどのように取り戻せるかを、竜洋川袋公園の築山のような市内の実例に即して検討することである。第三に、公園の樹木が「植えられてからの時間」を読み取り、木陰の現状と将来を見通す視点を、子育て世代の読者と共有することである。
造園学は、公園を「与えられた施設」ではなく「選ばれてきたかたち」として見る眼を与える。近所の公園の一本のケヤキは、『作庭記』が説いた「生得の山水」を手本にする態度と、本多静六が首かけイチョウに示した「残す」意志と、明治神宮の森が示した「植えて待つ」時間の見方と、戦後の造園が全国に供給した定型の、いずれの系譜にも連なっている。その系譜を知ることは、いま公園で遊ぶ子どもたちの次の世代のために、何を植え、何を盛り、どんな小径を引くかを考える出発点になる。当サイトの踏査は、その出発点に立つための、一園ずつの記録である。
参考文献
- 『作庭記』(平安時代後期。橘俊綱に帰される作庭書。田中正大校注『作庭記』などの校訂本がある)
- 太政官布達第16号(明治6年1月15日)——公園制度の端緒となった布達
- 本多静六(1952)『本多静六自伝 体験八十五年』(実業之日本社、復刊2006)
- 本多静六・本郷高徳・上原敬二ほか(1921)「明治神宮御境内林苑計画」(明治神宮造営局)
- 田村剛(1918)『造園学概論』(成美堂書店)
- 白幡洋三郎(1995)『近代都市公園史の研究——欧化の系譜』(思文閣出版)
- 小野良平(2003)『公園の誕生』(吉川弘文館)
- 佐藤昌(1977)『日本公園緑地発達史』(都市計画研究所)
- 進士五十八(2005)『日本の庭園——造景の技とこころ』(中公新書)
- 仙田満(1984)『こどものあそび環境』(筑摩書房)
- 仙田満(1992)『子どもとあそび——環境建築家の眼』(岩波新書)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。