人文学記号論
公園の記号を読む——看板・ピクトグラム・柵が語ること
要旨
本稿の目的は、公園という場所に置かれた記号——園名板、注意看板、対象年齢の表示、ピクトグラム、柵、段差、舗装の切り替え——が、何を意味し、そのうえで何を含意しているのかを、記号論の概念によって記述することである。公園の表示は、書く側からは「必要なことを知らせるもの」として設計されるが、読む側は必ずしも書かれたとおりに読まない。読まれ方の水準を分けて記述する道具を持たないかぎり、表示をめぐる議論は「必要か不要か」の二択にとどまる。本稿はその道具立てを整えることを課題とする。
方法は文献整理と概念分析である。フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』(1916)の、記号を表現面と内容面の結合として捉える枠組みと、価値は差異から生じるという考え方。チャールズ・サンダース・パースの、記号を図像・指標・象徴に分ける三分類。ロラン・バルト『神話作用』(1957)および「イメージの修辞学」(1964)の、明示的意味と共示(コノテーション)の区別。この三つの層を、公園にある具体的な記号に順に当てていく。事例として参照するのは、磐田市の都市公園100園を収録した当サイトのデータベースであり、市のオープンデータと市の施設ガイドに記載された事実のみを用いる。
検討の結果、次の見通しが得られた。第一に、公園の記号の多くは図像・指標・象徴の混成であり、とりわけ誰も書いていない指標——踏み跡、遊具の摩耗、砂の飛び散り——が、書かれた表示よりも正直に利用の実態を語る。第二に、禁止の表示が伝えるのは明示的な内容だけではなく、「ここは管理されている」「過去に何かがあった」という共示であり、この含意は書き手の意図とは独立に生じる。第三に、柵・段差・舗装の切り替えは言葉なしに境界を告げるが、その強さには段階があり、視覚に依存する境界は届かない読み手を残す。第四に、表示は増える方向にしか働きにくい仕組みの中にあり、増えるほど一枚あたりの注意は薄まる——記号の飽和である。
最後に、磐田市の公園100園を、種別・地区・面積とオープンデータの項目に照らして読み直し、市の施設ガイドの記載を表示のモダリティ(禁止・依頼・許可・案内)の例として位置づける。ただし当サイトの現地踏査はまだ始まっておらず、現地の看板の文言・枚数・状態にかかわる論点は、すべて今後の踏査課題として明示する。
キーワード記号論シニフィアンとシニフィエ図像・指標・象徴共示ピクトグラム記号の飽和磐田市
1. はじめに——問題の所在
公園に入るとき、私たちは驚くほど多くの記号を通過している。入口の脇には園名を記した板があり、その下に管理者の名と連絡先がある。遊具のそばには対象年齢を示す表示があり、子どもの絵と数字が並ぶ。柵には注意を促す札が結ばれ、広場の隅には利用のきまりを列挙した看板が立つ。舗装は途中で色と質感を変え、縁石が一段高くなり、植え込みが道路との間を仕切る。これらはすべて、何ごとかを伝えるために置かれている。つまりすべてが記号である。
にもかかわらず、公園の記号がどう読まれているかは、あまり検討されない。表示をめぐる議論はたいてい「その表示は必要か、不要か」という二択で進む。必要だと言う側は、危険や苦情という具体的な理由を挙げる。不要だと言う側は、景観の乱れや窮屈さを挙げる。どちらの主張も理由を持っているが、両者はしばしばすれ違う。すれ違いの原因のひとつは、記号が伝えるものを一つの層としてしか扱っていないことにある。表示は「書かれた内容」だけを伝えるのではない。書かれていないもの——その場所がどういう場所であるか、誰がここを見ているか、過去に何があったらしいか——を同時に伝えてしまう。
1.1 なぜ記号論から公園を読むのか
記号論とは、意味がどのようにして生じるかを扱う学問である。言語だけでなく、図、色、形、物の配置、身振りといった、意味を担うすべてのものを対象にする。記号論の特徴は、「この記号は何を意味するか」よりも「この記号はどうやって意味を持つに至るのか」を問う点にある。つまり答えではなく仕組みを扱う。公園の表示を前にして、記号論が提供できるのは「この看板は妥当か」という判断ではなく、「この看板は何をどのように伝えているか」という記述である。判断の前に記述を置くこと。それが本稿の立場である。
この記述が実務にとって無意味なわけではない。むしろ逆である。伝えたいことが伝わっていないのか、伝わったうえで守られていないのか、それとも伝えたつもりのない何かが伝わってしまっているのか。この三つは対処がまったく異なるが、記述の道具がなければ区別できない。区別できないまま「もう一枚増やす」という対処だけが積み重なると、表示は増え、読まれる割合は下がる。本稿が最終的に扱う「記号の飽和」という論点は、ここから生まれる。
1.2 本稿の問い
本稿は次の四つの問いを立てる。第一に、公園にある記号は、記号としてどのような種類に分けられるか。第二に、禁止や注意の表示は、書かれた内容のほかに何を含意しているか。第三に、柵や段差や舗装の切り替えのように、言葉を用いずに境界を告げる記号は、どのような文法で読まれているか。第四に、表示が増えると何が起こるか。四つはそれぞれ独立した問いだが、共通して「記号は書き手の意図を超えて働く」という一点に関わる。
手がかりとするのは三人の古典である。フェルディナン・ド・ソシュールは『一般言語学講義』(1916)で、記号を表現面と内容面の結びつきとして捉え、その結びつきが必然ではないこと、そして記号の値打ちは他の記号との差異から生じることを示した。チャールズ・サンダース・パースは、記号を対象との関係によって図像・指標・象徴の三つに分けた。ロラン・バルトは『神話作用』(1957)で、一次の意味の上に二次の意味が積み重なる仕組みを共示と呼び、その二次の意味が「自然なこと」として受け取られる過程を分析した。三人は公園を論じたわけではない。しかし三人の概念は、公園という身近な場所に当てたときに、それぞれ違う面を照らし出す。
1.3 方法・事例・本稿の構成
方法は文献整理と概念分析である。新たな実測データを提示するものではなく、古典的な概念を公園という対象に適用し、その概念が何を説明でき、どこで限界に達するかを検討する。事例として参照するのは、磐田市の都市公園100園を収録した当サイトのデータベースである。用いるのは、磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」に記載された園数・種別・面積・設備の有無と、市の施設ガイドに記載された文言に限る。当サイトの現地踏査はまだ始まっておらず、現地の看板が実際に何枚あり、どのような文言で、どのような状態にあるかは確認できていない。したがって現地の表示にかかわる論点は、すべて今後の踏査で確かめるべき課題として明示する。
構成は次のとおりである。第2節で記号論の基本概念を整理し、第3節で公園の記号を図像・指標・象徴の三分類で読む。第4節でバルトの共示概念により禁止表示の含意を扱い、第5節で言葉を使わない境界の記号を論じる。第6節では表示の言い方——禁止・注意・依頼・許可——の文法を検討し、第7節で記号の飽和という現象を分析する。第8節で想定される反論に応え、隣接する学問領域との比較を行う。第9節で磐田市の公園への示唆を述べ、第10節で結論と今後の課題を示す。各節はそれぞれ独立した論点をもち、その節だけを読んでも議論が完結するように書いてある。
註:本稿は特定の管理者や自治体の表示のあり方を批判するものではない。表示は事故や苦情への具体的な応答として積み重なってきたものであり、その一つひとつには理由がある。本稿が扱うのは、個々の判断の当否ではなく、記号が集まったときに生じる全体としての振る舞いである。
2. 先行研究と概念の整理——ソシュールとパース
記号論には、二つの源流がある。ひとつはスイスの言語学者ソシュールに始まる流れで、記号の体系としての側面を重んじる。もうひとつはアメリカの哲学者パースに始まる流れで、記号が解釈される過程を重んじる。両者は独立に成立し、用語も異なるが、公園の記号を読むにはどちらも必要である。本節では二つの枠組みを整理し、以降の節で使う道具を用意する。
2.1 ソシュール——結びつきの恣意性と差異
ソシュール『一般言語学講義』(1916)は、記号を二つの面の結合として捉えた。ひとつは知覚される側の面(音や形)、もうひとつはそれが指し示す概念の側の面である。前者をシニフィアン、後者をシニフィエと呼ぶ。ここで重要なのは、両者の結びつきに必然性がないという指摘である。ある概念がある音や形で表されるのは、その言語共同体がそう取り決めてきたからであって、音や形の性質から導かれるわけではない。これを恣意性という。
もうひとつの中心的な着想は、記号の値打ちが他の記号との差異から生じるというものである。ある記号は、それ自体が独立して意味を持つのではなく、隣にある別の記号と区別されることによって意味を持つ。公園の表示でいえば、赤い枠の札と青い枠の札が並んで初めて、赤は「してはいけない」を、青は「知らせ」を意味しはじめる。すべての札が同じ色・同じ大きさになれば、色による区別は意味を失う。第7節で扱う記号の飽和は、この差異の消失として理解できる。
ソシュールはまた、体系としての言語(ラング)と、個々の発話(パロール)を区別した。公園に置き換えれば、市域全体で共有される表示の書式・色・記号の体系がラングにあたり、ある公園のある一枚の看板がパロールにあたる。書式が統一されていれば、一枚の札は体系の中の位置によって読まれる。書式がばらばらであれば、読み手は毎回ゼロから解読しなければならない。表示の統一という実務上の課題は、記号論の言葉では体系の有無の問題である。
2.2 パース——図像・指標・象徴
パースは記号を、記号そのもの・記号が指す対象・記号が読み手のうちに生む解釈という三項の関係で捉えた。ソシュールが二項で考えたのに対し、パースは「読まれること」を最初から組み込んでいる。そのうえでパースは、記号と対象の関係のあり方によって、記号を三つに分けた。似ていることによって指す記号を図像(イコン)、実際のつながりによって指す記号を指標(インデックス)、取り決めによって指す記号を象徴(シンボル)という。
図像は、対象に似ているから読める記号である。滑り台の形を描いた絵は、滑り台に似ているから滑り台を指す。地図も、縮尺という関係で土地に似ている点で図像的である。図像の利点は、取り決めを知らない人にもある程度は伝わることであり、限界は、似せられないもの——時間、禁止、可能性——を表せないことである。
指標は、対象と実際につながっているから読める記号である。煙は火の指標であり、足跡は歩いた人の指標である。公園でいえば、芝生の上にできた土のすじは、そこを繰り返し歩いた人がいたことの指標である。指標の特徴は、誰かが伝えようとして作ったものではない点にある。にもかかわらず、あるいはそれゆえに、指標は嘘をつきにくい。第3節で述べるとおり、公園でもっとも正直な記号は、しばしば誰も書いていない指標である。
象徴は、取り決めによって読める記号である。文字も数字も、赤い斜線が禁止を表すことも、車いすの図が「車いすで利用できる」を表すことも、すべて取り決めに支えられている。象徴の利点は、似せられないものを表せることであり、限界は、取り決めを知らない人には届かないことである。ここで注意すべきは、私たちがふだん「絵だから直感的に分かる」と考えているピクトグラムの多くが、実際には象徴に近いという点である。案内用の図記号は国内では日本産業規格 JIS Z 8210 として整理されており、その意味は規格という取り決めに支えられている。
| 区分 | 対象との関係 | 公園での例 | 読むのに要るもの | 弱点 |
|---|---|---|---|---|
| 図像 | 似ている | 滑り台の絵、園内の見取図 | 見た経験 | 禁止・時間・可能性を表せない |
| 指標 | 実際につながっている | 踏み跡、遊具の摩耗、色あせ | 因果を推す力 | 書き手がいないため公式には扱われない |
| 象徴 | 取り決めによる | 文字、赤い斜線、車いすの図記号 | 規約の共有 | 取り決めを知らない人に届かない |
以上の三分類は互いに排他的ではない。パース自身が指摘したように、現実の記号はたいてい三つの性質を併せ持つ。対象年齢の表示を例にとれば、遊具の絵は図像的であり、年齢を示す数字は象徴的であり、表示板の色あせは設置からの時間の指標である。一枚の板が三つの層で同時に語っている。この重なりを見落とすと、「絵にしたのに伝わらない」「文字を大きくしたのに読まれない」といった食い違いの理由が見えなくなる。
3. 公園の記号を三分類で読む
前節で用意した三分類を、公園の具体物に当ててみる。ここでの目的は分類そのものではなく、分類を通じて「誰が書いたのか」「何を要求しているのか」が記号ごとに違うことを見えるようにすることである。公園にある記号は、管理者が意図して置いたものと、利用の結果として残ったものと、社会全体の取り決めに由来するものが混在している。この出自の違いが、読まれ方の違いを生む。
3.1 図像的な記号——絵は本当に分かりやすいか
遊具の絵、園内の見取図、水飲みの図、トイレの図。これらは対象に似ていることで読める図像的な記号である。図像は、文字が読めない年齢の子どもや、日本語を母語としない人にも届きやすい。この点は表示の設計上の大きな利点である。ただし、似せることには限界がある。第一に、抽象化の度合いが上がるほど図像性は薄れる。単純化された線画は、すでに「そう読むことになっている」という取り決めに支えられており、象徴に近づく。第二に、図像は否定を描けない。滑り台の絵は滑り台を指すが、「滑り台を使ってはいけない」は絵だけでは表せない。禁止を表すには、赤い斜線という象徴を重ねる必要がある。この点は第6節で詳しく扱う。
第三の限界は、図像が「何であるか」しか言わないことである。遊具の絵は遊具の存在を示すが、それが幼児向けなのか、どういう遊び方を想定しているのか、いま使える状態なのかは示さない。市の施設ガイドが園内施設を列挙するとき、そこに書かれるのは「ブランコ、滑り台、砂場、トイレ」といった名前であって、状態や適齢ではない。名前の列挙は、園を選ぶ手前の記号としては有効だが、現地で必要になる情報とは水準が異なる。
3.2 指標的な記号——誰も書いていないのに読める
公園でもっとも情報量の多い記号は、しばしば誰も置いていないものである。芝生を斜めに横切る土のすじは、多くの人が同じ経路を選んだことの指標である。都市デザインの分野では、こうした自然発生の経路をしばしば「望まれた線」と呼ぶ。ベンチの座面の一部だけが擦れていれば、そこが選ばれる席であることの指標である。滑り台の着地点だけ土がえぐれていれば、遊びの回数の指標である。砂場の砂が周囲に広がっていれば、使われている証拠でもあり、補充の時期の手がかりでもある。
指標的な記号には二つの重要な性質がある。ひとつは、書き手の意図がないため、建前と食い違うことがあるという点である。柵の一部が踏み分けられ、そこから外へ抜ける道ができているなら、その柵は物理的な障害としては働いておらず、境界の記号としてのみ働いている。もうひとつは、指標は時間を語るという点である。表示板の色あせ、金具のさび、結束バンドの劣化、貼り紙の反り。これらは「いつからここにあるか」を語る。更新されていない表示は、内容が正しくても、更新されていないという事実を同時に伝えてしまう。
ただし指標の読みは推論であり、誤りうる。芝生を横切る土のすじは、近道を選んだ人の跡かもしれないが、工事の仮囲いを避けた一時的な迂回の跡かもしれず、あるいは草刈りの機械が通った跡かもしれない。指標は原因と結びついているが、どの原因かは指標自体には書かれていない。したがって指標を根拠に何かを言うときは、複数の指標を突き合わせるか、季節や時期を変えて確かめる必要がある。書かれた表示が「意図は明確だが実効が不明」であるのに対し、指標は「実効は確かだが原因が不明」という、ちょうど裏返しの不確かさを持つ。両者を並べて読むことに意味があるのは、この不確かさの向きが違うからである。
指標を読むことは、記号論を実務に結びつける最短の道でもある。表示は書き手の意図の記録であるのに対し、指標は利用の記録である。両者を並べれば、意図と実態のずれが見える。ずれが小さければ表示は機能しており、ずれが大きければ、表示の内容か置き方か、あるいは前提とした利用像のどれかを見直す手がかりになる。当サイトが今後の踏査で記録すべきものの中心は、まさにこの指標である。
3.3 象徴的な記号——共有されてはじめて働く
文字による注意書き、数字による対象年齢、赤い色による警告、青い色による案内、緑色による安全。これらはいずれも取り決めに支えられた象徴である。象徴は強力で、似せられないもの——時間帯、対象者、可能・不可能、責任の所在——を表せる。しかし象徴の効力は共有の範囲を超えない。取り決めを知らない読み手にとって、象徴は模様と区別がつかない。
ここで見落とされやすいのは、公園の利用者には取り決めの共有が薄い読み手が構造的に多いという点である。文字を習得していない年齢の子ども、日本語の読み書きに慣れていない人、視覚に頼りにくい人、そして単に急いでいる人。表示の設計が象徴に寄りかかるほど、届く範囲は狭くなる。逆に図像に寄りかかれば、禁止や条件が表せない。実務が直面するのはこの二律背反であり、記号論はそれを解消はしないが、どちらの限界に当たっているのかを言い当てることはできる。
なお、色そのものも象徴である。日本では赤が禁止や危険、黄が注意、青や緑が案内や安全に対応づけられることが多いが、この対応は自然に決まったものではなく、規格や慣行によって支えられている。したがって、色を変えれば意味が変わるのではなく、色の対応関係を全域で守ってはじめて色は意味を持つ。ある公園では赤が禁止で、別の公園では赤が単なる装飾であれば、赤は情報を運ばなくなる。ソシュールの言う差異の体系が壊れるということである。
4. 共示——表示が言外に伝えるもの
看板には書かれていることと、書かれていないのに伝わることがある。ロラン・バルトは『神話作用』(1957)で、この二重性を明示的意味と共示という語で整理した。明示的意味とは、記号が第一の水準で指し示す内容である。共示(コノテーション)とは、その第一の水準の記号全体が、さらに第二の水準で別の内容を担う現象を指す。バルトの見立てでは、第二の水準の意味は、あたかも自然で当然のものであるかのように受け取られる。この「自然に見えてしまう」ところにバルトの批評の要点があった。
4.1 一枚の看板の二つの水準
公園の入口に「ボール遊びはご遠慮ください」と書かれた板があるとする。第一の水準では、この板はボール遊びを控えてほしいという要請を意味する。しかし読み手が受け取るのはそれだけではない。ここは誰かが管理している場所である、という了解。かつてボールをめぐって何かがあったらしい、という推測。この公園では自由に遊ばせると角が立つかもしれない、という気配。これらは板に書かれていない。にもかかわらず、書かれた内容とほとんど同時に伝わる。これが共示である。
重要なのは、共示が書き手の意図とは独立に生じるという点である。板を設置した人は、管理の厳しさを演出しようとしたわけではないだろう。個別の困りごとに対する具体的で控えめな応答として、一枚を掲げただけかもしれない。しかし記号は、置かれた瞬間から読み手の側の解釈に委ねられる。意図は共示を制御できない。この非対称は、表示をめぐる議論がしばしば噛み合わない理由でもある。書き手は第一の水準で語り、読み手は第二の水準で反応している。
4.2 文字が図の意味を固定する
バルトは「イメージの修辞学」(1964)で、画像の意味が本来は多義的であり、添えられた言葉がその読みを一つに絞る働きを持つと論じた。彼はこの働きを錨を下ろすことになぞらえた。公園の表示にも同じ関係が見られる。ボールの絵だけが描かれた板は、多義的である。ボール遊びができる場所という読みも、ボールに注意という読みも、ボール遊び禁止という読みも成り立つ。赤い斜線が加わって初めて否定が確定し、さらに文字が加わって、禁止なのか自粛の要請なのか、時間帯の限定があるのかが決まる。
この関係を逆から見ると、文字を減らして図だけにすることは、読みを開くことでもある。開かれた読みは自由を与えるが、同時に責任の所在も曖昧にする。図だけの表示は、守られなかったときに「そうは書いていない」と言える余地を残す。表示を簡潔にするという実務上の要請と、意味を確定させるという要請は、しばしば逆を向く。記号論は、この緊張がどこから来るのかを説明できる。
4.3 共示が積み重なると場所の像になる
共示は一枚ごとに小さいが、集まると場所そのものの像を作る。禁止の板が三枚並ぶ入口は、たとえ内容がそれぞれ妥当でも、「気をつけて振る舞うべき場所」という像を先に手渡す。逆に、遊びの案内や季節の告知が並ぶ入口は、「使ってよい場所」という像を渡す。同じ広さ、同じ遊具、同じ管理水準の公園でも、記号の構成によって場所の性格は変わる。バルトの言う神話とは、こうして作られた像が、いつのまにか自然な事実として通用するようになる過程を指す。
この観点は、公園を「使いにくい」と感じる感覚の言語化に役立つ。使いにくさは、多くの場合、個々の規則の厳しさではなく、記号の構成が発する全体の調子から来ている。だとすれば、対処は規則の緩和だけではない。掲示の構成——何を入口に置き、何を現地に置き、何を書かずに済ませるか——を組み替えることでも、場所の像は変わりうる。もっとも、これは概念からの推論であって、実際にそうなるかは検証を要する仮説である。
なお、共示は否定的なものばかりではない。手入れの行き届いた花壇、更新日の記された掲示、読みやすく整えられた案内板は、「ここは手をかけられている」という共示を伝える。ジェイン・ジェイコブズが『アメリカ大都市の死と生』(1961)で論じた、人の目のある通りの安心感も、記号の水準では、誰かが気にかけている痕跡が読み取れることに支えられている。共示を扱うということは、悪い含意を取り除くことだけではなく、良い含意をどう生むかを考えることでもある。
5. 言葉のない記号——柵・段差・舗装が語る境界
公園の記号は板の上だけにあるのではない。地面と縁と高さもまた記号である。舗装の色が変わるところ、縁石が一段上がるところ、植え込みが列をなすところ、柵が立つところ。これらは何も書いていないが、境界を告げている。しかもその告げ方は速い。文字を読むには視線を止めて数秒を要するが、地面の変化は歩きながら受け取られる。子どもや高齢者を含む多様な利用者にとって、この速さは決定的である。
5.1 物には二つの働きがある
柵には二つの働きがある。ひとつは物理的に通り抜けを妨げる働きであり、もうひとつは「ここから先は別の領域だ」と告げる記号としての働きである。両者は独立している。腰の高さの柵は、その気になれば容易に越えられるが、多くの人は越えない。物理的な拘束力ではなく、記号として読まれているからである。逆に、乗り越えにくい高さの柵でも、脇に踏み分けの跡があれば、そこは境界として機能していない。第3節で述べた指標が、記号の実効を教えてくれる例である。
ドナルド・A・ノーマンは『誰のためのデザイン?』(1988)で、物の形が使い方の手がかりを与えることを論じた。取っ手は握ることを、平らな板は押すことを示唆する。公園の要素も同様に、形によって振る舞いを示唆する。座面の高さの縁石は座ることを、幅の広い階段は腰かけることを、開けた芝生は走ることを示唆する。示唆は命令ではないが、命令より従われやすい。何も書かずに振る舞いを導けるなら、それは看板一枚を減らすことでもある。
5.2 境界の強さには段階がある
境界の記号は一様ではなく、強さの段階を持つ。もっとも弱いのは舗装の色や材質の切り替えであり、次に低い縁石、植栽、低い柵、高い柵、そして門と続く。強くなるほど、越えることの意味が重くなる。エドワード・T・ホール『かくれた次元』(1966)が距離の取り方に文化的な階層を見出したように、境界にも段階の文法がある。読み手はその段階を無意識に読み、振る舞いの調整量を決めている。
| 境界の記号 | 物理的な拘束 | 記号としての強さ | 主に伝えること |
|---|---|---|---|
| 舗装の切り替え・色の変化 | なし | 弱 | 領域が変わったという合図 |
| 縁石・わずかな段差 | ごく弱い | 弱〜中 | 速度を落とすべき変わり目 |
| 植栽・低木の列 | 弱い | 中 | 見通しを残した仕切り |
| 低い柵・車止め | 中 | 中〜強 | 車と人の分離、越えないという規範 |
| 高い柵・門扉 | 強 | 強 | 立ち入りの可否そのもの |
この段階を意識すると、表示と物の役割分担が整理できる。強い境界が必要な箇所に弱い記号しか置かれていなければ、不足を補うために注意書きが増える。逆に、弱い境界で足りる場所に強い柵を置けば、公園は閉じた印象になり、第4節で述べた共示の面で損をする。看板の枚数は、しばしば境界の設計の帰結である。表示を減らしたいなら、まず物の側の記号を見直すという順序があってよい。
5.3 入口という特別な記号
公園でもっとも重い記号は入口である。ケヴィン・リンチ『都市のイメージ』(1960)は、人が都市を理解するときの手がかりとして、道・縁・地区・結節点・目印という要素を挙げた。公園の入口は、この分類でいえば結節点であり目印でもある。入口が明確であれば、園内と園外の切り替えが利用者の身体に刻まれる。ここから先は公園である、という認識は、保護者にとっては注意の切り替え点になり、子どもにとっては遊びの開始点になる。
逆に、入口が判然としない公園では、切り替えが起こらない。歩道と園地が連続し、どこからが公園か分からない場合、園と道路の境目の意識は薄れる。これは安全に直結しうる論点だが、断定はできない。園の形状・接道・見通しは園ごとに異なり、当サイトの現地踏査も始まっていないためである。ここで言えるのは、入口の記号の明確さが記述可能な項目であり、踏査で確かめる価値があるということまでである。
5.4 視覚に依存する境界の限界
地面と縁による境界は速く伝わるが、視覚に依存する。見えにくい人にとって、舗装の色の変化は記号として働かない。したがって境界の記号は、視覚のほかに触覚と音でも重ねられていることが望ましい。段差の有無、材質の変化による足裏の感触、杖に伝わる質感の違い。これらは同じ内容を別の感覚で伝える重複であり、記号論の用語でいえば冗長性である。冗長性は無駄ではなく、届かない読み手を減らすための余裕である。第7節で扱う飽和が「無意味な重複」であるのに対し、こちらは「意味のある重複」であり、両者を区別することが設計上の要点になる。
6. 禁止・依頼・許可——表示の言い方の文法
表示は「何を言うか」だけでなく「どう言うか」を持つ。同じ内容でも、禁止として言うか、依頼として言うか、許可の裏返しとして言うかで、読み手が受け取るものは変わる。言語学ではこの「どう言うか」の層をモダリティと呼ぶ。ロマーン・ヤコブソン「言語学と詩学」(1960)は、言葉が情報の伝達だけでなく、聞き手への働きかけや、通じているかの確認といった複数の機能を同時に果たすことを整理した。公園の表示も同じである。一枚の板は、内容を伝えると同時に、書き手と読み手の関係を定義している。
6.1 否定は絵で描けない
まず形式上の制約を確認しておく。図像は否定を表せない。ボールの絵はボールを指すが、「ボールを使わない」を指すことはできない。存在しない行為を似せることはできないからである。そこで否定は、赤い斜線や赤い枠といった象徴を重ねることで表される。つまり禁止の表示は必ず象徴を含む。この一点だけでも、「絵にすれば誰にでも伝わる」という素朴な期待は成り立たないことが分かる。禁止のピクトグラムを読むには、斜線が否定を意味するという取り決めの共有が要る。
同じ理由で、条件つきの内容も図では表しにくい。時間帯の限定、対象年齢の限定、天候による限定、期間の限定。これらはいずれも文字か数字に頼らざるをえない。したがって表示の情報量が増えるほど象徴の比重が上がり、届く読み手の範囲は狭まる。情報を厚くすることと、広く届けることは、記号の構造上、互いに引き合う関係にある。
6.2 モダリティの四つの型
公園の表示に見られる言い方は、おおむね四つに整理できる。禁止(してはいけない)、依頼(ご遠慮ください・お願いします)、注意(気をつけて)、そして許可と案内(できます・あります)である。四つは伝える内容が重なることがあっても、書き手と読み手の関係の定義が異なる。禁止は書き手を規則の主体として立て、依頼は書き手を要請する側に置き、注意は責任を読み手に渡し、許可と案内は読み手の選択肢を広げる。
| 言い方 | 書き手と読み手の関係 | 共示されやすいもの | 限界 |
|---|---|---|---|
| 禁止 | 規則の主体と、それに従う者 | 管理の存在、過去の出来事 | 理由が示されないと反発を招きやすい |
| 依頼 | 要請する側と、応じる側 | 配慮の期待、角を立てない姿勢 | 誰が言っているかが曖昧になりやすい |
| 注意 | 知らせる側と、判断する側 | 危険の存在、自己責任の含み | 何をすべきかが具体的に示されない |
| 許可・案内 | 情報を渡す側と、選ぶ側 | 使ってよい場所という像 | できないことの範囲が不明確になる |
日本語の公共表示に特徴的なのは、依頼の型が多いことである。「ご遠慮ください」という言い回しは、命じるのでも許すのでもなく、読み手の判断に委ねる形をとる。この形式は摩擦を減らす一方で、主語を消す。誰が誰に対して、どの根拠で言っているのかが表面から消えるのである。バルト『表徴の帝国』(1970)が日本の表現に見出した、中心を空にしたまま形式が働く感覚は、こうした表示にも通じるところがある。もっとも、これは表現の型についての観察であり、優劣の判定ではない。
6.3 肯定形で書くという選択
禁止で書けることの多くは、許可や案内の形でも書ける。ボール遊びの場所を限る内容は、「してはいけない場所」の指定としても、「できる場所」の指定としても表現できる。両者は論理的にはほぼ同じ範囲を切り取るが、共示は大きく異なる。前者は制約の像を、後者は使い方の像を先に渡す。実際、磐田市の施設ガイドの記載を見ると、否定形だけでなく肯定形の記述も少なくない。兎山公園や竜洋豊岡公園の欄には「ローラースケート場(スケートボード利用可)」とあり、安久路公園の欄には「複合遊具(インクルーシブエリアあり)」「ブランコ(インクルーシブアイテムあり)」とある。いずれも、できることを述べる形である。
肯定形が常に望ましいというわけではない。危険の回避に関わる内容は、曖昧さを残さないことが優先されるべきであり、そこでは明確な否定形が適することもある。要点は、どちらかに統一することではなく、内容の性質に応じて型を選び、選び方に一貫した方針を持つことである。方針が共有されていれば、読み手は型そのものから内容の重さを推し量れる。ソシュールの言う体系が働くとは、こういうことである。
型と並んで、表示が置かれる高さと位置も文法の一部である。大人の目線の高さに掲げられた板は、子どもの視野には入りにくい。遊具の対象年齢の情報が入口の掲示板にまとめられていれば、遊具の前で判断する人には届かない。逆に、園全体に関わることを個々の遊具のそばに貼れば、同じ内容が何度も繰り返されて第7節で述べる飽和を招く。誰が、どこで、何を判断するのかを想定し、その判断の場所に必要な記号を置くこと。位置の設計は、文言の設計と同じだけの重みを持つ。
なお、対象年齢の表示は、禁止でも依頼でもなく、情報提供の型に属する。国土交通省の遊具の安全確保に関する指針は、遊具の利用対象年齢等の情報を利用者に伝えることを求めている。ここで伝えられるのは「使ってはいけない」ではなく「この遊具はこの年齢層を想定して作られている」という設計の前提である。読み手はその前提を踏まえて自分で判断する。判断を委ねる型の表示は、委ねられる側が前提を理解できて初めて働く。だからこそ、この種の表示は文言だけでなく、置かれる位置と大きさが問われる。
7. 記号の飽和——表示が増えるほど読まれなくなる
本節は本稿の中心的な論点を扱う。表示は、増えるほど一枚あたりの働きを失う。この現象を本稿では記号の飽和と呼ぶ。飽和は個々の表示の質の問題ではない。むしろ、一枚一枚が妥当であるほど飽和は進みやすい。妥当な理由があるからこそ増え、増えたものは減らしにくいからである。ウンベルト・エーコ『記号論』(1968)が論じたように、記号は情報を運ぶ一方で、量が増えれば互いの背景となり、ノイズに転じる。
7.1 飽和はどのように起こるか
飽和の過程は、いくつかの段階に分けて記述できる。第一に、注意の分散である。人が一つの場面で読める記号の量には限りがあり、板が増えれば一枚に向けられる時間は減る。第二に、差異の消失である。第2節で述べたとおり、記号の値打ちは他の記号との差から生じる。すべての板が同じ赤い枠であれば、赤は重要度を示さなくなる。危険の警告と、ゴミ持ち帰りの依頼と、駐車の案内が同じ形式で並べば、読み手は優先順位を読み取れない。
第三に、慣れである。同じ刺激が繰り返されると反応が下がることは、心理学の分野で広く知られている。毎日通る道の看板は、やがて風景の一部になる。第四に、内部矛盾である。設置時期の異なる表示が並ぶと、内容が食い違うことがある。矛盾に出会った読み手は、どちらかを選ぶのではなく、両方の信頼度を下げる。第五に、景観としての負荷である。表示が多い場所は、それ自体が雑然とした印象を与え、第4節で述べた共示の水準で、手入れの薄さや窮屈さを伝えてしまうことがある。
7.2 なぜ表示は増える方向にしか動かないのか
飽和の背後には、非対称な仕組みがある。表示が増える契機ははっきりしている。困りごとが起き、相談が寄せられ、応答として一枚が掲げられる。増設は「何かをした」という具体的な形をとり、説明もしやすい。他方、減らす契機は乏しい。誰かが困っていないことは表面化しにくく、撤去は「なぜ外したのか」を説明する必要を生む。増設は理由の提示が容易で、撤去は理由の提示が難しい。この非対称が続くかぎり、総量は単調に増える。
この構造は誰かの怠慢によるものではない。むしろ、一つひとつの判断が誠実であるほど、増設は正当化される。飽和は、個人の判断の集積が個人の意図しない結果を生む、社会科学でよく知られた型の問題である。したがって対処も、個々の判断を責める形ではありえない。総量を見る視点と、減らすことにも説明を与えられる枠組みが要る。
7.3 飽和をゆるめる方向
記号論の観点から言えることは限られているが、少なくとも次の方向が導かれる。いずれも概念からの推論であり、効果は実地で検証されるべき仮説である。
- 階層をつくる:危険にかかわる警告、規則、案内、季節の告知を、色・形・大きさで明確に分ける。差異が保たれれば、重要なものは読まれやすくなる。
- 位置で分ける:園全体に関わることは入口に集約し、その場でしか意味を持たないことだけを現地に置く。同じ内容を複数箇所に貼らない。
- 期限を書く:期間限定の告知には掲示の始期と終期を記す。終わったものが残っていると、表示全体の信頼度が下がる。
- 更新の日付を残す:いつ点検され、いつ書き替えられたかが分かれば、色あせという指標が伝える放置の印象を打ち消せる。
- 肯定形を使えるところは使う:できることを述べる表示は、同じ内容でも場所の像を変える。
- 物の記号で置き換える:境界や動線は、柵・段差・舗装で伝えられる場合がある。物で伝えられた分だけ、板は不要になる。
ここで注意すべき逆説がある。読まれない表示も、共示だけは伝え続けるという点である。文字が読まれなくても、板が並んでいるという事実は「管理されている場所」という含意を送り続ける。したがって表示の増加は、伝達の面では失敗しながら、雰囲気の面では作用し続ける。減らすことに慎重であるべき理由も、この点にある。表示は伝達の道具であると同時に、場所の性格を作る要素でもあり、両方を同時に見なければ判断を誤る。
註:本節の議論は表示の総量に関する一般的な傾向を述べたものであり、特定の自治体や公園の掲示状況を評価したものではない。実際にどの園に何枚の表示があり、どのような構成になっているかは、当サイトの踏査でこれから記録していく事項である。
8. 想定される反論と、隣接領域との比較
記号論から公園を論じることには、当然いくつかの疑問が向けられる。本節では主要な反論を三つ取り上げて応答し、そのうえで隣接する学問領域と比較して、記号論の固有の役割を確認する。反論への応答は、論を守るためではなく、この道具立てで何ができて何ができないかを見定めるために行う。
8.1 反論1——読み方は人それぞれではないか
もっとも多い疑問は、記号の解釈が読み手次第であり、どうとでも言えるのではないか、というものである。この指摘は部分的に正しい。共示の水準は読み手の経験に左右され、同じ看板から受け取る印象は人によって異なる。しかし、解釈が完全に自由なわけではない。第一に、象徴的な記号は規約に支えられており、規約の範囲は共同体で共有されている。赤い斜線を「推奨」と読む人はまずいない。第二に、指標的な記号は物理的な痕跡に支えられており、踏み跡の有無や摩耗の程度は複数の観察者が同じように確認できる。
したがって記号論の記述は、恣意的な感想とは区別できる。区別を保つには、観察の単位をあらかじめ定めておけばよい。表示の枚数、設置の位置、言い方の型、色と枠の形式、記載された日付、劣化の程度、同一内容の重複の有無。これらはいずれも他者が確認できる事実である。共示のような主観に近い層についても、どの事実からその読みを導いたのかを併記すれば、検討の対象になる。本稿が今後の踏査に求めるのは、この種の記録である。
8.2 反論2——安全のための表示は減らせない
第二の反論は実務からのものである。安全に関わる表示は、法令や指針に基づいて設置されており、記号論の都合で減らせるものではない。この指摘はそのとおりである。本稿は表示の削減を主張していない。論点は総量ではなく構成である。危険にかかわる情報こそ、飽和によって埋もれることの損失が大きい。国土交通省の遊具の安全確保に関する指針が求める情報提供が、他の掲示に紛れて読まれないとすれば、それは表示が多いことの問題であって、安全表示が不要だということではない。むしろ安全表示を守るために、それ以外の掲示の構成を見直すという順序がありうる。
同様に、掲示には周知という目的のほかに、周知を行った事実を残すという機能もある。この二つは重なるが同じではない。前者は届いたかどうかで測られ、後者は掲示したかどうかで測られる。両者を混同すると、届かなくても掲示さえすればよいという運用に傾きうるし、逆に、記録として必要な掲示まで削る議論にもなりかねない。記号論は、この二つの機能を分けて考えるための語彙を提供する。どちらを優先すべきかの判断は、法制度と管理の実務の領域に属する。
関連して、記号論は西洋で組み立てられた理論であり、日本の公共表示にそのまま当てはめてよいのか、という疑問もありうる。これに対しては、理論のうち移せる部分と移せない部分を分けて考えるべきである。記号が表現面と内容面の結びつきであること、その結びつきが取り決めによること、値打ちが差異から生じることは、言語や文化を問わない一般的な枠組みである。他方、どの色が何を意味するか、どの言い回しが丁寧とされるかといった規約の中身は、共同体ごとに異なる。したがって枠組みは借りられるが、体系の記述は地域ごとにやり直す必要がある。バルト自身が『表徴の帝国』(1970)で日本の記号を論じたときも、彼が行ったのは自国の体系を当てはめることではなく、差異を通じて記述することであった。
8.3 反論3——記号を論じても現実は変わらない
第三の反論は、意味の分析は現実の課題の解決に寄与しないというものである。これに対しては、記号の分析が介入の費用に関わることを指摘したい。公園の課題への対応は、遊具の更新や地形の改変のように費用の大きいものから、掲示の位置を変えるという費用の小さいものまで幅がある。どの水準で解決できる課題かを見誤ると、大きな費用が投じられたのに効果が出ない、あるいは小さな手当てで済むことが放置される。記号の層で説明できる課題を切り分けることは、そのまま資源配分の判断材料になる。
8.4 隣接領域との比較
公園の表示は、複数の学問が別々の角度から扱ってきた対象である。法学は、表示の根拠となる規則の妥当性と、掲示が持つ法的な意味を扱う。都市計画学とデザイン史は、案内用図記号の標準化の歴史や、公共サインの体系設計を扱う。国内の案内用図記号が日本産業規格 JIS Z 8210 として整理されてきた経緯は、記号の規約性が制度によって作られることを示す好例である。言語学は、園名や表示の言葉づかいを分析する。犯罪学の分野では、オスカー・ニューマン『まもりやすい住空間』(1972)以来、領域の区分を目に見える形で示すことが管理の意識に関わるとされてきたが、これは境界の記号の議論とほぼ同じ対象を、別の関心から扱ったものである。
これらと比べたとき、記号論の固有性は、対象の種類を問わずに「意味の生じ方」を一貫した枠で扱える点にある。板も柵も踏み跡も、同じ枠の中で比較できる。法学は板を扱えるが踏み跡を扱わない。デザイン史は図記号を扱うが摩耗の痕跡を扱わない。記号論はそのどちらも記号として並べ、書き手のあるものとないもの、規約に支えられたものと痕跡に支えられたものを、同じ土俵で比べる。公園という、設計されたものと使われた結果が混ざり合う場所には、この横断性が向いている。
他方で、記号論の限界も明らかである。記号論は、ある記号がどのように意味を持つかを記述できるが、その意味が実際に行動を変えたかどうかは測れない。効果の測定には別の方法——観察調査、聞き取り、比較実験——が要る。本稿の主張はすべて、記述と概念的な推論の範囲にとどまるものであり、効果に関する断定は含まない。
9. 磐田市の公園への示唆
ここまでの概念を、磐田市の公園に当ててみる。当サイトが収録するのは100園である。内訳は、磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」に基づく94園と、市の施設ガイドにのみ掲載されている6園である。種別は街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、法の対象外とされるもの6園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園となっている。ここで確認しておきたいのは、この種別そのものが記号の体系だという点である。街区公園という語は、面積と誘致距離の目安を伴う都市公園法上の区分であり、名前を読むだけで規模の見当がつく。分類名は、公園を選ぶ人にとって最初に読まれる記号である。
9.1 種別によって、置かれる記号の種類が変わる
種別の違いは、そこに必要な記号の違いでもある。過半を占める街区公園51園は、住まいのすぐ近くにある小さな園であり、必要な記号は主として遊具まわりの情報と、道路との境界の記号である。総合公園3園や運動公園3園のように大きな園では、施設の位置を示す案内と、利用時間や利用単位に関する情報が中心になる。都市緑地10園や緑道2園では、そもそも園名すら現地で読み取りにくい可能性があり、そこが公園であること自体が記号として立っていないという状態がありうる。同じ「表示を整える」という課題でも、種別ごとに問われる中身は異なる。
面積の幅も、記号の設計に関わる。当サイトの集計では、もっとも広い竜洋海洋公園は221,722平方メートル、もっとも狭い二之宮東第2緑地は17平方メートルであり、見付本通広場公園は372平方メートルである。広い園では、入口に一枚を集約するという方針だけでは足りず、園内の分岐点ごとの案内が要る。狭い園では、一枚の板が視野の大部分を占めることになり、掲示の量がそのまま場所の印象を決める。飽和の閾値は面積によって違う、と言い換えてもよい。
9.2 市の施設ガイドの記載を、言い方の型で読む
現地の看板の文言は当サイトではまだ確認できていないが、市の施設ガイドの記載は公開されており、そこに第6節で整理した言い方の型が現れている。今之浦公園の欄には「駐車場以外の場所への駐車はご遠慮ください。」とあり、クリーンセンター公園の欄には「リサイクルステーション、磐田温水プールの駐車場の利用はご遠慮ください。」とある。いずれも依頼の型であり、命令ではなく応じることを求める形をとっている。一方、兎山公園の欄には「ローラースケート場(スケートボード利用可)」とあり、安久路公園の欄には「複合遊具(インクルーシブエリアあり)」とある。これらは許可と案内の型で、できることを述べている。
条件と期間を示す記載もある。豊田香りの公園の欄には「カスケード(滝)※5月から10月までの9時~17時に稼働」とあり、季節と時刻という二重の条件が一行に畳み込まれている。今之浦公園の欄には「噴水についてのお知らせ」として運転の期間が明記されている。竜洋海洋公園の欄の野球場については「※軟式野球専用」「※公式戦用ではありません。」という限定の注記がある。これらは、第6節で述べた「図では表せない条件」を文字が担っている例であり、同時に、期限のある情報は期限が切れた後の扱いが問われるという、第7節の論点にもつながる。
駐車場の記載も記号として読める。豊田高見丘公園の欄には「3台」と数量が記され、福田第1公園の欄には「なし」と記されている。数量の明示は、行くかどうかの判断を利用者に委ねる情報提供の型である。当サイトの集計では、駐車場があると判定できた園は33園である。行く前に読まれる記号がどこまで整っているかは、現地の看板とは別に評価されるべき事柄であり、この点は次項で述べる。
9.3 現地に行く前に読まれる記号——公開データという層
公園の記号は現地にだけあるのではない。オープンデータの項目もまた記号である。当サイトが集計したところ、オープンデータの94行のうち、トイレ有は69園、車いす対応トイレ有は34園、砂場有は43園、遊具有は64園である。この「有・無」という二値の表記は、極端に圧縮された記号であり、便利であると同時に多くを落とす。トイレ有とだけ書かれていても、和式か洋式か、おむつ替えの台があるかは分からない。記号の粒度と、読み手の必要の粒度がずれている状態である。
情報の網の粗密もある。当サイトが突合できた範囲では、市の施設ガイドに個別のページがあるのは77園であり、残りの園については、行く前に読める記号が名称・種別・面積・位置にほぼ限られる。現地では違いがないかもしれない園どうしが、事前に読める情報の量では大きく異なる。これは公園そのものの差ではなく、記号の分布の差である。当サイトのようなデータベースが担いうる役割のひとつは、この分布の偏りを埋めることにある。なお、当サイトを運営するのは富士ヶ丘サービス株式会社であり、公園の管理者ではない。園の管理は磐田市の都市整備課(電話 0538-37-4806)が担っている。
9.4 踏査で記録すべき記号の項目
当サイトの現地踏査は、2026年8月16日の時点で踏査済0園であり、これから始まる段階にある。本稿の議論を検証可能なものにするために、踏査では次の項目を記号の記録として残すことを提案する。いずれも観察者が変わっても確認できる事実に限ってある。
- 入口の識別性:園名の表示があるか、どこからが園地か歩いて分かるか。
- 表示の枚数と位置:入口に集約されているか、園内に分散しているか、同じ内容の重複はあるか。
- 言い方の型:禁止・依頼・注意・許可のどれか。理由が併記されているか。
- 図と文字の組み合わせ:ピクトグラムの有無、否定を示す形式、文字の大きさ。
- 時間の記号:設置年月や更新日、期間限定の掲示の始期と終期の記載。
- 劣化の指標:色あせ、破損、固定具のさび、貼り紙の反り。
- 境界の種類:舗装の切り替え、縁石、植栽、柵、門の別と、迂回の踏み跡の有無。
- 対象年齢等の情報提供の位置:遊具ごとに置かれているか、まとめて掲示されているか。
註:本節で引用した文言は、いずれも磐田市の施設ガイドの記載であり、現地の看板の文言と同一であるとはかぎらない。両者の異同そのものが、今後の踏査で確かめるべき論点である。
10. 結論と今後の課題
本稿は、公園にある看板・ピクトグラム・柵・段差・舗装を記号として捉え、記号論の概念によってその働きを記述してきた。得られた見通しは四つである。第一に、公園の記号は図像・指標・象徴の混成であり、なかでも誰も書いていない指標——踏み跡、摩耗、色あせ——が、書かれた表示より正直に利用の実態と時間を語る。第二に、表示は書かれた内容とともに「ここは管理されている」という含意を伝え、この共示は書き手の意図から独立に生じる。第三に、柵や段差は言葉なしに境界を告げるが、その強さには段階があり、視覚に依存する記号は届かない読み手を残す。第四に、表示は増える方向にしか動きにくい仕組みの中にあり、増えるほど差異が失われ、読まれる割合は下がる。
10.1 記述を判断の手前に置くということ
本稿が一貫して取ってきた立場は、判断の前に記述を置くというものである。表示が必要か不要かという問いは、答えの出にくい問いである。それは、伝えたいことが伝わっていないのか、伝わったうえで守られていないのか、伝えるつもりのないものが伝わっているのかを区別しないまま議論するからである。三つを分けて記述できれば、対処の方向は自ずと異なる。第一の場合は伝え方の設計が、第二の場合は規則の内容や物の側の設計が、第三の場合は掲示の構成が問われる。記号論はこの切り分けの語彙を提供する。
同時に、記号論の限界も明確である。記号論は、記号がどのように意味を持つかを記述できるが、それが人の行動をどれだけ変えたかは測れない。効果の測定には別の方法が必要であり、本稿の主張はすべて記述と概念的推論の水準にとどまる。この限界を明示しておくことは、記号論の分析が実務の判断を代行するかのように読まれることを防ぐうえで重要である。判断は、法制度・安全・管理の実務を担う人びとの領分にある。
10.2 今後の課題
第一の課題は、記録の蓄積である。第9節に挙げた項目に沿って、園ごとの記号を実地で記録することが、本稿の議論を検証可能なものにする最短の道である。当サイトの踏査はこれから始まる段階であり、記録が積み上がれば、種別ごと・地区ごとの傾向を比較できるようになる。豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園という地区ごとの分布は、比較の単位としても使える。
第二の課題は、時間軸の記録である。記号の飽和は、ある一時点の枚数ではなく、増減の推移として現れる。同じ園を年を隔てて記録すれば、増設と撤去の非対称が実際に観察されるかどうかを確かめられる。設置年月や更新日が現地に記されていれば、一度の踏査からでも部分的に時間を読める。時間の記号をどれだけ読み取れるかは、記録の設計にかかっている。
第三の課題は、読み手の側の調査である。本稿は記号の構造を論じたが、実際にどう読まれているかは、読み手に聞かなければ分からない。文字を習得していない年齢の子ども、日本語の読み書きに慣れていない人、視覚や聴覚に頼りにくい人、高齢の人。それぞれにとって、どの記号が届き、どの記号が届いていないのか。届かない読み手を減らすには、同じ内容を別の感覚で重ねる冗長性が要るが、その冗長性と、飽和をもたらす無意味な重複をどう区別するかは、実地の検討を要する問いである。
10.3 記号を読むということ
最後に、本稿の底にある見方を述べておきたい。公園の記号は、その公園に何があったかの記録でもある。一枚の注意書きの背後には、誰かが困った出来事があり、それに応じた人がいる。柵の位置には、かつての事故か、隣接する土地との交渉の跡があるかもしれない。踏み跡には、設計者が想定しなかった歩き方をした人びとの積み重ねがある。記号を読むとは、その場所の来歴を読むことにほかならない。
だとすれば、記号を整理するという作業も、単なる見た目の問題ではない。何を残し、何を書き替え、何を物の形に置き換えるかを決めることは、その場所が何を大切にしてきたかを選び直すことでもある。磐田市の100園には、それぞれ違う記号の構成があるはずである。当サイトはこれからその一つひとつを歩いて記録していく。本稿が示した枠組みが、その記録を読む助けになれば幸いである。
参考文献
- フェルディナン・ド・ソシュール(1916)『一般言語学講義』(小林英夫訳、岩波書店、改版1972)
- チャールズ・サンダース・パース『パース著作集2 記号学』(内田種臣編訳、勁草書房、1986)
- ロラン・バルト(1957)『神話作用』(篠沢秀夫訳、現代思潮社、1967)
- ロラン・バルト(1964)「イメージの修辞学」(『映像の修辞学』蓮實重彦・杉本紀子訳、ちくま学芸文庫、2005 所収)
- ロラン・バルト(1970)『表徴の帝国』(宗左近訳、ちくま学芸文庫、1996)
- ウンベルト・エーコ(1968)『記号論』(池上嘉彦訳、岩波書店、1980)
- ロマーン・ヤコブソン(1960)「言語学と詩学」(『一般言語学』川本茂雄監修、みすず書房、1973 所収)
- 池上嘉彦(1984)『記号論への招待』(岩波新書)
- ケヴィン・リンチ(1960)『都市のイメージ』(丹下健三・富田玲子訳、岩波書店、1968)
- ドナルド・A・ノーマン(1988)『誰のためのデザイン?——認知科学者のデザイン原論』(野島久雄訳、新曜社、1990)
- エドワード・T・ホール(1966)『かくれた次元』(日高敏隆・佐藤信行訳、みすず書房、1970)
- アーヴィング・ゴッフマン(1959)『行為と演技——日常生活における自己呈示』(石黒毅訳、誠信書房、1974)
- ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
- オスカー・ニューマン(1972)『まもりやすい住空間——都市設計による犯罪防止』(湯川利和・湯川聰子訳、鹿島出版会、1976)
- 日本産業規格 JIS Z 8210「案内用図記号」
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。