人文学現代史

高度成長と公園——都市公園法(1956年)から Park-PFI(2017年)までの制度史

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:現代史 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,380字 読了目安 39分

要旨

本稿の目的は、戦後日本の公園制度を年表として整理し、今日の街区公園や緑地がどのような順序で組み上げられたのかを、現代史の視点から読むことである。対象は昭和31年(1956年)の都市公園法から現在までのおよそ70年であり、明治以降の通史そのものは扱わない。方法は、法令の名称と制定・改正の年、国の計画と指針という確実な事実の整理であって、独自の統計分析や実地調査には基づかない。

本論では、公園制度を量・質・担い手という三つの軸で読む。1956年の都市公園法は、戦中戦後に失われつつあった公園を守るための法として出発した。量的拡大の装置は二つあり、一つは昭和43年(1968年)の新都市計画法による開発許可制度、もう一つは昭和47年(1972年)の都市公園等整備緊急措置法にもとづく都市公園等整備五箇年計画である。1960年代後半からの公害と市民運動は、公園に「緑」という別の意味を重ねた。平成5年(1993年)の児童公園から街区公園への改称、平成6年(1994年)の緑の基本計画、平成15年(2003年)の指定管理者制度と社会資本整備重点計画法、平成29年(2017年)の都市公園法改正が、量から質へ、そして「つくる」から「使いこなす」へという重心の移動を示す節目となる。

以上から本稿が引き出す結論は、戦後の公園制度が「増やす」方向には複数の回路を備え、「減らす」方向には廃止の制限という強いブレーキを置いた、非対称な設計を持つというものである。人口減少局面でも公園の箇所数が減りにくいのは、失敗ではなく制度設計の帰結である。したがって今後の課題は公園を減らすことではなく、更新と再編、そして使い方の設計に置かれる。磐田市の100園については、種別の内訳と園名に残る団地・工業団地・農村公園の痕跡から、この年表のどの層に属するかを読み解いた。現地の踏査はこれからである。

キーワード都市公園法都市公園等整備緊急措置法五箇年計画Park-PFI制度史人口減少

1. はじめに——問題の所在

日本の市街地を歩けば、住宅地の一角に小さな公園があり、川沿いに細長い緑地があり、市の中心近くに体育館や球場を抱えた大きな公園がある。これらは自然に生えたものではない。いずれも法律・計画・補助金・基準という制度の産物であり、誰かがどこかの時点で「ここに公園を置く」と決めた結果である。しかし、その決定がいつ、どの制度のもとで行われたのかは、公園を使う側からはほとんど見えない。本稿は、戦後日本の公園制度を年表として並べ直し、今ある公園の姿がどのような順序で組み上げられてきたのかを読む試みである。

1.1 本稿が扱う範囲——1956年以降に限る

日本の公園制度の起点は明治6年(1873年)の太政官布達第16号にさかのぼる。その通史は当サイトの歴史学の論考が扱っているため、本稿はあえて範囲を狭め、都市公園法が制定された昭和31年(1956年)以降のおよそ70年に限る。理由は二つある。第一に、今日の公園の大半は戦後に、それも高度経済成長期以降につくられており、現在の課題——遊具や便所の老朽化、管理費の重さ、使われ方の変化——の直接の原因はこの70年の制度にあるからである。第二に、戦後の制度は法律の改正・計画の更新・基準の改訂という形で節目がはっきりしており、年表として並べたときに因果の順序が読み取りやすいからである。

本稿の学問領域は現代史である。現代史は、当事者がまだ生きており、制度がなお運用されている時代を対象とする。評価が定まらず、資料の公開も途上であり、書き手自身が対象の内側にいるという難しさを常に抱える。だからこそ現代史では、確実な年と名称をていねいに並べ、事実と解釈を分けて書く作業が要となる。本稿でも、法令名と制定年、国の計画と指針の名称という動かない部分をまず年表として固定し、その並びから何が読めるかという解釈は、解釈であると明示して述べる。

1.2 三つの問い

  • 第一の問い。戦後の公園は、どのような制度装置によって量的に増えたのか。増やす仕組みは一つだったのか、それとも性格の異なる複数の回路があったのか。
  • 第二の問い。量的な拡大から、質・安全・使い方へと制度の重心が移ったのはいつであり、その転換は何によって引き起こされたのか。
  • 第三の問い。人口が減少に転じた現在も、公園の箇所数や面積が減りにくいのはなぜか。それは制度のどのような性質から導かれる結果なのか。

これら三つは互いに独立していない。第三の問いへの答えは、第一と第二の答えの帰結として現れる。本稿の主張を先に述べておけば、戦後の公園制度は「増やす」方向に複数のアクセルを備え、「減らす」方向には廃止の制限という強いブレーキを置いた、非対称な設計を持っている。人口減少下でも公園の数が維持されるのは、この設計から論理的に導かれる結果であって、行政の怠慢でも計画の失敗でもない。そう読めるかどうかを、年表に即して検証するのが本稿の作業である。

1.3 方法と資料の限界

方法は文献研究である。用いる資料は、法令の名称と制定・改正の年、国の計画と指針の名称と年、そして磐田市のオープンデータと市の施設ガイドの記載に限る。個々の公園の成立経緯を示す一次史料、すなわち市議会の議事録、事業誌、開発の許可書類、公園台帳の原本にはあたっていない。したがって本稿が述べられるのは「制度の側から見た筋道」であって、磐田市の個々の公園がその筋道どおりに生まれたことを証明するものではない。統計の数値についても、法令や政令に明記された基準値のほかは扱わず、傾向については「〜とされる」と述べるにとどめる。

年表三つの問い文献
図1本稿の方法。確実な年と法令名を年表として固定し、そこから三つの問いを立てる。個々の公園の一次史料にはあたっていない。

1.4 本稿の構成

第2節では、制度史を読むための三つの軸——量・質・担い手——と、経路依存という概念を用意する。第3節は出発点としての都市公園法(1956年)、第4節は高度成長期に組み込まれた二つの量的拡大の装置、第5節は公害と市民運動という並行するもう一つの流れ、第6節は1990年代の転換、第7節は2000年代における担い手と財政の枠組みの変化、第8節は2010年代以降の更新と再編の時代を扱う。第9節で想定される反論に応え、第三の問いに答える。第10節で磐田市の100園に引きつけ、第11節で結論と今後の課題を述べる。

註:本稿では元号と西暦を併記する。制度の名称は制定当時のものを用い、後の改称がある場合は初出で示す。「公園」は文脈に応じて都市公園法上の都市公園と、それ以外の公園的な空間の双方を指すが、区別が必要な箇所では明示する。

2. 先行研究と概念の整理——制度史を読む三つの軸

年表をただ並べても、それは出来事の列にすぎない。制度史として読むには、何が変わったのかを測るものさしが要る。本節では、公園の制度を読むための三つの軸と、二つの概念を用意する。三つの軸とは量・質・担い手であり、二つの概念とは政策の道具立ての四層と、経路依存である。いずれも本稿が独自に発明したものではなく、公共政策や行政の研究で広く用いられている考え方を、公園という対象に合わせて言い直したものである。

2.1 政策の道具立て——法律・計画・補助金・基準の四層

公園に関する国の政策は、性格の異なる四つの層でできている。第一は法律であり、何が公園で、誰が管理し、何をしてよいかという枠を定める。第二は計画であり、どれだけ、いつまでに整備するかという目標を置く。第三は補助金であり、目標に向けて地方公共団体を財政的に誘導する。第四は基準・指針であり、安全や規模の中身を技術的に定める。この四層は改正の速度が異なる。法律は数年から数十年に一度しか変わらないが、指針はより短い周期で改訂される。年表を読むときは、どの層で何が起きたのかを見分ける必要がある。

四層の区別は、制度の効き方の違いにも対応する。法律は「してはならないこと」を定めて現状を固定する力が強く、計画と補助金は「新しくつくること」を促す力が強い。基準と指針は、既にあるものの質を後から底上げする。戦後の公園制度史は、この四層のどこにアクセルが置かれ、どこにブレーキが置かれたかの配置が、時代ごとに組み替えられていく過程として読むことができる。

2.2 三つの軸——量・質・担い手

第一の軸は量である。公園の箇所数、面積、住民一人当たり面積といった、どれだけあるかを示す側面を指す。第二の軸は質である。遊具の安全、便所やバリアフリーの水準、樹木や水辺の環境、景観との調和など、どのような公園かを示す側面である。第三の軸は担い手である。誰が公園をつくり、誰が日々の管理をし、誰が使い方を決めるのかという側面で、行政・民間事業者・地域住民の関係がここに現れる。

この三つを分けておくと、同じ年の出来事が異なる軸に属することが見えてくる。たとえば2003年には、指定管理者制度の導入(担い手の軸)と社会資本整備重点計画法の制定(量の軸の転換)が同じ年に起きている。両者は別の政策系列に属しながら、公園の現場では一つの変化として現れた。年表を三つの軸に分解して読むことは、そうした重なりを解きほぐすための手続きである。

四つの層三つの軸積み上がり
図2制度史を読む枠組み。法律・計画・補助金・基準の四層を、量・質・担い手の三つの軸で切り分けて年表を読む。

2.3 経路依存——いったんできたものは戻せない

経路依存とは、ある時点で選ばれた仕組みが、その後の選択肢を狭めていく性質を指す言葉である。公園はこの性質が特に強い。土地は動かせず、樹木は数十年かけて育ち、遊具は一度据えれば十年単位で使われ、地域の人の記憶は場所と結びつく。制度の側でも、いったん都市公園として設置されたものは、都市公園法の廃止の制限によって簡単には減らせない。つまり公園は、物理的にも制度的にも、過去の決定が現在を拘束する典型的な対象である。

経路依存はしばしば否定的に語られるが、公園にとっては保護の仕組みでもある。戦中戦後に公園が次々と他の用途に転用された経験を踏まえれば、簡単に減らせないという性質こそが1956年の立法が求めたものであった。本稿が第9節で扱う「人口が減っても公園が減らない」という現象は、この保護の仕組みが時代の変化のなかで別の顔を見せたものと理解できる。

2.4 本稿の時期区分

以上の枠組みにもとづき、本稿は戦後を四つの時期に区分する。制度整備期(1956〜1971年)、量的拡大期(1972〜1992年)、質と担い手の再編期(1993〜2016年)、そして更新と使いこなしの時期(2017年〜)である。区切りの年は、法律の制定や改正という動かない事実に置いた。次の表は、三つの軸から見た各期の特徴をまとめたものであり、以降の各節はこの表の各欄を順に展開していく。

時期量(つくる)質(安全・環境)担い手(管理)
制度整備期 1956〜1971年公園を守る法をつくり、種別と標準を定める施設の標準が施行令に示される公園管理者は地方公共団体
量的拡大期 1972〜1992年五箇年計画と開発許可という二つの回路で拡大公害対策と緑地保全が並行して進む管理の委託と地域の愛護活動が広がる
再編期 1993〜2016年量の目標が後退し、計画は成果重視へ遊具の安全指針・バリアフリー・防災機能指定管理者制度で民間と地域に開かれる
更新期 2017年〜新規整備より更新・再編が主題に維持修繕の基準が政令で明文化公募設置管理制度と協議会で民間・住民が加わる

註:時期区分は本稿の便宜的な整理であり、公認された区分ではない。実際には各期の特徴は前後の期にまたがって現れる。区分は年表を読むための足場と考えてほしい。

3. 出発点——都市公園法(1956年)は何のための法だったか

戦後の公園制度史は、都市公園法の制定から始まる。昭和31年(1956年)のこの法律は、今日まで公園制度の背骨であり続けている。ただし、その性格はしばしば誤解される。都市公園法は公園を「つくる」ための法ではなく、公園を「守る」ための法として出発した。この出発点の性格を押さえておかないと、なぜ1972年に別の法律が必要になったのか、なぜ現在も公園を減らすことが難しいのかが理解できない。本節では、立法の背景・法の骨格・施行令の標準という三点から、1956年という出発点の姿を確かめる。

3.1 立法の背景——公園が消えていった時代

戦時から戦後にかけて、日本の都市公園は次々と失われた。戦時中には食糧増産のために公園が耕地に転用され、空襲後は焼け跡の処理や仮設の住宅用地として使われた。戦後の復興期にも、学校・庁舎・住宅といった急を要する施設の用地として、公園やその予定地が転用されていった。都市計画としての公園用地は図面の上にあっても、それを守る法的な裏づけが弱かったのである。

戦災復興の都市計画は、当初は広い公園と緑地を含む大胆な構想を持っていたが、1949年には財政の制約から復興計画を縮小する方針が政府によって示され、公園の計画は多くの都市で削られた。こうして1950年代前半の日本の都市は、計画上の公園と実際の公園の落差を抱えたまま経済復興に入っていく。都市公園法は、この落差をこれ以上広げないための歯止めとして構想された。

3.2 法の骨格——制限の体系としての公園法

都市公園法の条文を眺めると、その多くが「してはならないこと」と「許可を要すること」で構成されていることに気づく。公園の中に置いてよい施設の種類を限り、管理者以外の者が施設を設けるときは許可を要するものとし、公園でないものを置く占用にも許可を要求する。そして最も重要な規定として、都市公園はみだりに廃止してはならないという保存の規定が置かれた。これは、行政自身が公園をやめる自由を法によって縛るという構えである。

一方で、この法律は「毎年これだけの公園をつくらねばならない」という義務も、そのための財源も持っていない。設置に関する基準は「標準」として示されるにとどまり、達成しなくても直ちに違法とはならない。つまり1956年の制度は、ブレーキは強く、アクセルはほとんど備えていなかった。この片肺の状態が、後の五箇年計画という別の装置を呼び込むことになる。

守る廃止の制限基準の表示
図31956年の都市公園法の性格。公園を新たにつくる義務や財源ではなく、失わせないための制限を中心に組み立てられた法であった。

3.3 施行令の標準——児童公園という設計図

法律とともに定められた施行令は、公園の種別と規模の標準を示した。生活に最も近い層は当時「児童公園」と呼ばれ、標準面積0.25ヘクタール、誘致距離250メートルという目安が置かれた。その上に近隣公園(2ヘクタール・500メートル)、地区公園(4ヘクタール・1キロメートル)が積み上がり、さらに市域を対象とする総合公園や運動公園が置かれる。この階層は、住宅地から歩いて行ける小さな公園を最小単位として都市全体を覆う、という設計思想の表現である。

児童公園という名称は、この最小単位の公園が誰のためのものかを明示していた。子どもの遊び場である。施行令は児童公園に置くべき施設についても方向を示し、ぶらんこ・すべり台・砂場といった遊具と、便所や広場を組み合わせる標準的な姿が全国に共有された。今日、磐田市を含む各地の街区公園で、同じような遊具の顔ぶれに出会うのは、この標準が長く共有されてきた結果である。

3.4 1956年という出発点の意味

整理すれば、1956年の日本は、公園の設計図と保護の仕組みは手に入れたが、公園そのものはまだ乏しいという状態にあった。都市公園法は、これから始まる急激な都市化に対して、公園という土地の用途をあらかじめ確保しておくための法的な器であった。器はできた。中身を満たす仕組みは、この時点ではまだない。次節で見るように、その仕組みは十年余りの間をおいて、都市計画法の改正と、公園のための時限立法という二つの形で用意されることになる。

註:本節で挙げた種別と標準の数値は、都市公園法施行令および国土交通省の標準に示されているものである。制度の詳細な条文構造については、当サイトの行政法の論考が別に扱っている。

4. 高度成長と二つの装置——開発許可(1968年)と五箇年計画(1972年)

1956年の都市公園法が「守る」ための器であったとすれば、その器を満たす仕組みは、1960年代後半から1970年代初頭にかけて二つ用意された。一つは昭和43年(1968年)の新都市計画法による開発許可制度、もう一つは昭和47年(1972年)の都市公園等整備緊急措置法にもとづく都市公園等整備五箇年計画である。二つは目的も財源も異なる別々の政策として生まれたが、結果として日本の公園を量的に増やす二本の回路として働いた。本節はこの二つの装置の性格の違いを見る。

4.1 開発許可制度——開発について回る公園

1968年の新都市計画法は、市街化区域と市街化調整区域を区分し、一定規模以上の開発行為に許可を必要とする制度を導入した。同法の施行令は、その許可の基準の一つとして、開発区域が0.3ヘクタール以上の場合に、区域面積のおおむね3パーセント以上の公園・緑地・広場を設けることを求めた。宅地を売るためには公園をつくらねばならない、という関係が制度として結ばれたのである。

この回路の特徴は、公園をつくる主体が行政ではなく民間の開発事業者である点にある。工事の完了後、これらの公園用地は多くの場合、市町村に引き継がれて管理されることになる。市の側から見れば、自ら計画して用地を買った覚えのない公園が、宅地開発の完了とともに次々と手元に増えていく。住宅地の一角にある小さな公園の相当数は、この経路で生まれたと考えられる。なぜこの場所にこの大きさの公園があるのか、という問いの答えは、公園の計画ではなく周囲の宅地の履歴の側にあることが多い。

4.2 都市公園等整備緊急措置法——公園に予算の道筋をつける

もう一つの回路は財政の側から来た。昭和47年(1972年)の都市公園等整備緊急措置法は、国が五か年ごとの公園整備の目標を定め、それにもとづいて計画的に事業を進める仕組みを導入した。道路や下水道が既に採用していた、事業別の五箇年計画という方式が公園にも適用されたのである。緊急措置法という名称そのものが、当時の公園整備が緊急を要する遅れた分野と認識されていたことを示している。

この五箇年計画は以後、数次にわたって更新され、2003年に社会資本整備重点計画へ統合されるまで、公園整備予算の骨格であり続けた。特徴は、国が金額と目標を示し、補助を通じて地方公共団体の事業を誘導する点にある。開発許可の回路が民間の開発の速度に従うのに対し、五箇年計画の回路は国の財政計画の速度に従う。前者は住宅地の中に小さな公園を散らし、後者は運動公園や総合公園のような比較的大きな公園を市域に配置する力を持った。

宅地開発許可の基準五箇年計画
図4量的拡大の二つの回路。民間の開発に伴って生まれる公園と、国の五箇年計画と補助金によって整備される公園は、立地の論理が異なる。

4.3 なぜ1972年だったのか

1972年という年は、日本の都市政策にとって転回点であった。高度経済成長は最終盤に入り、大都市圏への人口集中と住宅地の外延的な拡大が続いていた。同じ年には、全国に工業と都市の機能を分散させる大規模な国土構想が政治の主題となり、公共投資への期待が高まっていた。他方で、次節で見るように公害への批判は既に社会の中心的な争点となっており、都市の環境を改善する象徴として公園と緑地が求められてもいた。

当時、日本の都市住民一人当たりの公園面積は欧米の主要都市に比べて著しく小さいとされ、それが公園整備を急ぐ根拠としてしばしば語られた。整備の遅れという認識、公共投資への追い風、環境改善への社会的要求という三つが重なった地点に、公園のための時限立法と五箇年計画が置かれたのである。

4.4 二つの回路が残したもの

  • 分布の論理が二重になった。計画に従って配置された公園と、開発に付随して生まれた公園が混在し、誘致距離の円だけでは説明できない分布ができあがった。
  • 規模の分化が進んだ。開発随伴型の公園は小さくなりがちで、財政主導型の公園は大きくなりがちである。両者の中間にあたる近隣公園の層は、都市によって厚さが大きく異なる。
  • 将来の管理負担が先送りされた。つくる段階の費用は開発事業者や国の補助が担うが、引き継いだ後の維持管理費は市町村が単独で負い続けることになる。

第三の点は、本稿の後半で繰り返し現れる論点である。量的拡大の時代の制度は、つくる瞬間に手厚く、つくった後には薄い。この時間差が、四十年後の更新期に一斉に表面化することになる。

5. 公害・市民運動と「緑」——量的拡大と並走したもう一つの流れ

前節で見た二つの装置は、公園を量的に増やす制度であった。しかし1960年代後半から1970年代にかけての日本では、それとは別の流れが同時に進んでいた。公害への批判から生まれた環境行政の成立と、市民の側から「緑」を求める運動である。この流れは公園制度の外側で始まり、やがて公園に別の意味——遊び場であるだけでなく、都市の環境を支える緑としての意味——を重ねていった。本節はこの並走するもう一つの流れを追う。

5.1 環境行政の成立——1967年から1972年へ

昭和42年(1967年)に公害対策基本法が制定され、昭和45年(1970年)の臨時国会では公害に関する多数の法律が一度に成立した。この国会は公害国会と呼ばれる。翌昭和46年(1971年)には環境庁が発足し、公害と自然環境の問題を担当する国の組織が初めて独立した。さらに昭和47年(1972年)には自然環境保全法が制定され、都市の外の自然を守る枠組みも整えられた。都市公園等整備緊急措置法が制定されたのは、まさにこの一連の動きのただ中である。

重要なのは、これらが公園の法律ではないという点である。環境行政は大気・水質・自然地の保全から出発し、都市公園の制度とは別の系譜を持つ。しかし社会の受け止め方の水準では、両者は「緑を増やす」という一つの期待に束ねられた。公園整備が緊急を要する事業として支持を得た背景には、公害の時代に人々が都市の環境そのものへ向けた不信と要求があったと考えられる。

5.2 都市緑地保全法(1973年)——公園の外側の緑を制度に取り込む

昭和48年(1973年)、都市緑地保全法が制定された。この法律は、公園として整備された土地だけでなく、市街地に残る樹林地や社寺林、屋敷林といった既存の緑を保全する仕組みを用意した。公園制度が「新たにつくる緑」を扱うのに対し、緑地保全は「既にある緑を失わせない」ことを扱う。二つは補い合う関係にある。同法は2004年に都市緑地法と改称され、現在に至っている。

この法律の登場によって、行政が扱う緑の対象は公園の柵の外まで広がった。街区公園の樹木も、河川沿いの緑地も、住宅地に残る屋敷林も、都市の緑という一つの資源として一緒に語られるようになる。磐田市のオープンデータに都市緑地という種別が並んでいるのも、この系譜の延長にある。

公害緑の保全市民の声
図5量的拡大と並走したもう一つの流れ。公害への批判から生まれた環境行政と市民運動が、公園に緑としての意味を重ねていった。

5.3 市民の側から——質を問う回路の出現

1970年代には、緑地の開発に反対する住民運動や、身近な樹林を守る市民の取り組みが各地で見られるようになった。行政に対して量の充実を求める声と、既にある環境の質を守れという声が、同時に上がった時代である。公園についても、地域の住民が清掃や花壇の世話、遊具の見守りを担う組織が広がり、行政だけが管理主体ではないという実態が形づくられていったとされる。

1979年に東京都世田谷区で常設の冒険遊び場が始まったのは、公園の量ではなく中身に向けられた批判が、市民の側から具体的な形をとった早い例である。全国に均一な遊具が並ぶ児童公園に対して、子どもが自分で遊びをつくれる場所を求めるという主張は、後の質の議論を先取りしていた。制度が量を追っていた時代に、その外側で質を問う回路が既に動き始めていたことは、年表の上で見落とされやすい点である。

5.4 オイルショック後も続いた量の慣性

1973年の石油危機は高度経済成長の終わりを告げ、公共投資のあり方にも見直しを迫った。しかし公園の五箇年計画は、その後も更新され続けた。整備の遅れという認識が共有されている限り、量的目標を掲げる根拠は失われなかったからである。ここに制度の慣性が現れる。経済の局面が変わっても、いったん動き出した計画と補助の仕組みは、目標の水準を下げる形では容易に止まらない。この慣性は1990年代まで持ち越され、次節で見る転換をいっそう緩やかなものにした。

6. 1990年代の転換——「誰のための公園か」が書き換えられる

1990年代は、戦後の公園制度が方向を変えた十年である。ただしその変化は、新しい大きな法律が現れる形ではなく、政令の名称変更、計画制度の追加、そして震災という出来事の重なりとして起きた。地味であるがゆえに見落とされやすいこの十年を、本節では四つの節目——1993年の改称、1994年の緑の基本計画、1995年の震災、そして1990年代後半の安全問題——から読む。

6.1 1993年——児童公園から街区公園へ

平成5年(1993年)、都市公園法施行令の改正により、種別名の児童公園は街区公園に改められた。標準面積0.25ヘクタール、誘致距離250メートルという数値は変わらない。変わったのは、その公園が誰のためにあるのかという定義である。子どものための公園から、街区に住むすべての人のための公園へ。高齢化が進み、子どもの数が減り始めた時期に、制度は利用者像を書き換えたのである。

この改正にはもう一つの側面がある。児童公園に置くべき施設を列挙していた規定が削除され、何を置くかは各自治体の判断に委ねられた。裁量の拡大であると同時に、よりどころの喪失でもある。標準があった時代には、標準どおりに整備すれば説明がついた。標準がなくなれば、この公園に何を置くのかを地域ごとに考え、説明しなければならない。1993年の改称は、その責任を国から自治体と地域へ移す出発点でもあった。

6.2 1994年——緑の基本計画という枠組み

翌平成6年(1994年)、都市緑地保全法の改正によって、市町村が緑地の保全と緑化の推進に関する基本計画、いわゆる緑の基本計画を定められるようになった。これは公園と緑地を一体で考える計画の枠組みであり、国が目標量を示して補助で誘導する五箇年計画とは性格が異なる。どこに、どのような緑を、どのような順序で、という配置と質の判断を市町村が自ら書くことが期待された。

量の目標を国が持ち、配置と質の計画を市町村が持つという二層構造が、ここで整った。制度の重心が国から自治体へ、量から配置へ移っていく流れの、最初の制度的な現れと見ることができる。

児童公園みんなの公園読み替え
図61993年の改称の意味。規模の基準は変えず、公園が誰のためにあるかという定義だけを書き換えた点に、この改正の性格が表れている。

6.3 1995年——震災と、公園の防災機能の再発見

平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災は、都市公園の意味に新たな層を加えた。公園がひらけた空地であることは、平時には物足りなさとして語られることもある。しかし震災時には、その空地が一時的な避難の場所となり、延焼を遮る空間となり、応急の活動や物資の集積の拠点となった。公園は遊び場でも緑地でもあると同時に、都市の安全のための備えでもあるという認識が、以後の計画と整備に定着していく。

この認識の変化は、公園を評価する物差しを増やした。面積と箇所数という量の指標に加えて、どこに、どのような広さと設備で配置されているかという防災の観点が加わる。避難場所としての指定、かまどとして使える設備、井戸や貯水槽といった要素が公園に持ち込まれるのは、この流れの延長である。

6.4 1990年代後半——安全という主題の浮上

1990年代後半には、遊具に関する事故が社会的な関心を集めるようになった。1970年代までに大量に設置された遊具が二十年から三十年を経て老朽化していたこと、遊具の構造そのものに危険が潜む型があったこと、そして子どもの事故に対する社会の見方が変わったことが重なった結果である。この関心は、後述する2002年の国の指針へとつながっていく。

ここで注意しておきたいのは、安全への関心が量的拡大の時代の遺産と表裏だという点である。短期間に大量の遊具が同じ設計で設置されれば、老朽化も同じ時期に、同じ型で一斉に訪れる。1990年代後半の安全問題は、1970年代の量的拡大が二十数年遅れて送り届けた請求書であった。

6.5 転換が緩やかにしか進まなかった理由

1993年に定義が変わっても、既にある公園の遊具や配置が翌日から変わるわけではない。制度の転換は、その後に更新される部分から順に、少しずつ現場に反映されていく。今日の街区公園に、児童公園時代の遊具と、後から置かれた健康器具やベンチが同居しているのは、この読み替えが三十年を経てなお進行中であることを示している。制度史の年表と現場の風景の間には、常に数十年の時差がある。

7. 2000年代——担い手と財政の枠組みが入れ替わる

2000年代の公園制度は、公園そのものの法律よりも、その外側の制度改革によって大きく動いた。行政改革と財政制度の見直しが、公園の管理を誰が担うのか、公園整備の予算をどの枠組みで決めるのかを組み替えたのである。本節では、担い手の開放、五箇年計画の終了、指針による質の担保、そして景観という新しい軸という四つの動きを取り上げる。この十年で、1972年に始まった量の時代は制度の上では静かに幕を閉じる。

7.1 担い手の開放——PFI法(1999年)と指定管理者制度(2003年)

平成11年(1999年)に制定されたPFI法は、公共施設の整備と運営に民間の資金と経営の手法を用いる枠組みを定めた。続く平成15年(2003年)の地方自治法改正では、公の施設の管理を民間の法人や団体に代行させる指定管理者制度が導入された。それまで管理の委託先は公共的な団体に限られていたが、この改正によって株式会社を含む幅広い主体が管理者となりうることになった。都市公園は、この制度が広く適用された代表的な施設である。

担い手の開放は、公園に対する期待の質も変えた。管理を委ねるからには、何をもって良い管理とするかを契約と評価の言葉で定めなければならない。清掃の回数、点検の頻度、苦情への対応、利用者の満足といった項目が指標として書き出される。公園が「行政が持っているもの」から「成果を測られる事業」へと位置づけを変えていく過程が、ここから始まる。

7.2 2003年——五箇年計画の終わり

同じ2003年、社会資本整備重点計画法が制定された。道路・下水道・港湾・公園といった分野ごとに別々に立てられていた事業別の五箇年計画は、この法律のもとで一本の重点計画に統合された。1972年の都市公園等整備緊急措置法に始まる公園固有の五箇年計画は、ここで役割を終えることになる。

この統合が持つ意味は大きい。第一に、公園だけを対象とする量的目標が国の計画から姿を消した。第二に、計画の指標が、何ヘクタール整備したかという事業量から、その結果として何が実現したかという成果の側へ重心を移した。第三に、分野間で予算配分を比較する枠組みが強まった。公園は他の社会資本と同じ土俵で、その効果を説明することを求められるようになったのである。年表の上で、量的拡大の時代の制度的な終点をどこかに置くとすれば、この2003年が最も適切である。

担い手の開放計画の統合指針
図72000年代の三つの動き。管理を担う主体が広がり、公園固有の五箇年計画が統合され、質は法律より指針によって担保されるようになった。

7.3 指針による質の担保——2002年の遊具の指針

平成14年(2002年)、国土交通省は都市公園における遊具の安全確保に関する指針を策定した。前節で見た1990年代後半の安全への関心が、国の文書として形をとったものである。この指針は、その後も改訂が重ねられ、令和6年(2024年)6月には改訂第3版が示されている。あわせて、遊具の製造や設置に携わる事業者の団体である日本公園施設業協会も、遊具の安全に関する規準を定めている。

ここで注目すべきは、質の担保が法律の改正ではなく指針という形をとった点である。指針は法律ほどの強制力を持たない代わりに、技術の進展や事故の経験を踏まえて短い周期で改訂できる。安全のように知見が更新され続ける領域では、この柔らかい規律のほうが実効的でありうる。ただし、指針を実際に運用するのは各自治体であり、点検の頻度や更新の速さは自治体の体制と財政に左右される。柔らかい規律は、担い手の力量の差をそのまま結果の差として現す。

7.4 景観という新しい軸——2004年の景観緑三法

平成16年(2004年)には景観法が制定され、これとあわせて都市緑地保全法の改正等が行われた。三つの法律が同時に整えられたことから、これらは景観緑三法と呼ばれる。都市緑地保全法はこのとき都市緑地法と改称された。公園と緑地は、緑の量としてだけでなく、まちの見え方を構成する要素として位置づけられることになる。同じ2004年の都市公園法改正では立体都市公園制度が創設され、建築物の上部などを都市公園とする道も開かれた。

さらに平成18年(2006年)のバリアフリー法によって、都市公園の園路や便所などにも移動等円滑化の基準が及ぶことになった。安全・景観・バリアフリーという三つの質の軸が、2000年代のうちに出そろったことになる。量の目標が制度から退いた場所に、質の基準が順に入り込んだ十年であったと整理できる。

8. 2010年代以降——更新と再編、そして2017年改正

2010年代に入ると、公園制度の主題は明確に変わる。新しくつくることではなく、既にあるものをどう保ち、どう組み替え、どう使うかである。背景にあるのは、高度成長期に整備された施設が一斉に更新期を迎えたこと、人口が減少に転じたこと、そして自治体財政の余裕が乏しくなったことである。本節では、老いるストックへの対応、都市そのものの縮小への対応、そして平成29年(2017年)の都市公園法改正という三つの層で、この時代を整理する。

8.1 一斉に訪れる更新期

1970年代から1980年代にかけて大量に整備された遊具・便所・園路・照明は、三十年から四十年を経て、同じ時期に更新の必要を迎える。量的拡大が短期間に集中したことの当然の帰結である。しかも更新の費用には、五箇年計画の時代のような分かりやすい国の枠組みが必ずしも用意されていない。つくるための制度は手厚く、保つための制度は薄いという第4節で述べた非対称が、ここで現実の負担として姿を現す。

この時期の対応は、計画をつくることから始まった。2012年には国が公園施設の長寿命化計画の策定指針を示し、2013年には政府全体としてインフラの長寿命化に関する基本計画が定められた。2014年には総務省が各自治体に公共施設等総合管理計画の策定を求め、公園を含むすべての公共施設を一つの台帳の上で見渡し、更新の見通しと総量の方針を立てることが求められた。公園が、単独の施設ではなく公共施設群の一部として扱われるようになったのがこの時期である。

8.2 縮小する都市への対応——立地適正化計画

2014年には都市再生特別措置法の改正により、立地適正化計画の制度が創設された。人口が減る中で、居住や都市機能を一定の区域に緩やかに誘導し、生活サービスと交通を維持しようという考え方である。都市の骨格そのものを描き直す枠組みが用意されたことで、公園についても、どこを重点的に維持し、どこを別の形に組み替えるかという再編の議論が可能になった。

もっとも、公園の再編は容易ではない。第2節で述べた経路依存が強く働くうえ、都市公園法の廃止の制限が減らす方向に強いブレーキをかけているからである。制度は都市の縮小を語る言葉を得たが、公園を減らす手続きは依然として重い。この落差が、次節で扱う第三の問いの土台となる。

点検長寿命化計画更新の見通し
図82010年代の主題。一斉に訪れる更新期に対し、点検と長寿命化の計画によって施設を保つ枠組みが整えられた。

8.3 2017年の都市公園法改正

平成29年(2017年)の都市公園法改正は、この時代の要請に対する制度の応答である。柱は三つある。第一は公募設置管理制度、いわゆるPark-PFIであり、民間事業者が飲食店などの収益施設を設置し、その収益を公園の広場や園路の整備に還元する仕組みである。設置管理許可の期間や建ぺい率について特例が置かれ、民間が長期の投資を行いやすくされた。第二は協議会であり、公園の管理運営について地域の関係者が話し合う場を制度として位置づけた。第三は、保育所などの社会福祉施設を公園に置くことを占用の特例として認めた点である。

あわせて、この改正では都市公園の維持修繕に関する基準が政令で定められることになった。点検し、修繕し、記録するという当たり前の作業が、法の体系の中に位置づけられたのである。つくることを促す規定が中心だった時代から見れば、これは小さいが決定的な変化である。

8.4 2017年改正の歴史的な位置

年表の上に置けば、2017年改正の位置は明瞭である。1956年に日本は公園を「守る」法を得た。1968年と1972年に「つくる」二つの回路を得た。1993年から2006年にかけて「質を測る」物差しを得た。そして2017年に、あるものを「保ち、使いこなす」ための道具立てを得た。守る・つくる・測る・使うという四つの動詞が、七十年をかけて順に制度の中心に置かれてきたことになる。

同時に、この改正は新しい論点も持ち込んだ。収益施設が公園に入ることは、誰でも無料で入れるという公園の基本的な性格とどう両立するのか。協議会に参加できる人と参加しない人の間で、公園の使い方をめぐる声の大きさに差が生じないか。これらは制度史の枠内では答えの出ない問いであり、当サイトの行政法や公共経済学の論考が別の角度から扱っている。

出来事本稿の三つの軸での位置づけ
1956年(昭和31)都市公園法。種別と標準、廃止の制限守る枠組みの成立
1968年(昭和43)新都市計画法。開発許可制度量・開発随伴型の回路
1972年(昭和47)都市公園等整備緊急措置法と五箇年計画量・財政主導型の回路
1973年(昭和48)都市緑地保全法質・公園の外側の緑へ
1993年(平成5)施行令改正。児童公園から街区公園へ質・誰のための公園かの読み替え
1994年(平成6)緑の基本計画の制度化担い手・市町村が計画の主体に
1995年(平成7)阪神・淡路大震災質・防災機能の再発見
1999年(平成11)PFI法担い手・民間の資金と手法
2002年(平成14)遊具の安全確保に関する指針質・指針による担保
2003年(平成15)指定管理者制度、社会資本整備重点計画法担い手の開放と量的目標の統合
2004年(平成16)景観緑三法、立体都市公園制度質・景観という軸の追加
2006年(平成18)バリアフリー法質・移動等円滑化の基準
2012〜2014年長寿命化と公共施設等総合管理計画、立地適正化計画更新と再編の枠組み
2017年(平成29)都市公園法改正。公募設置管理制度・維持修繕基準・協議会使いこなしと保つ制度

9. 反論への応答——なぜ人口が減っても公園は減らないのか

ここまでの年表に対しては、いくつかの反論が想定される。制度史は後知恵ではないか、法改正は本当に現場を変えたのか、という二つがその代表である。本節ではこれらに応じたうえで、第1節で立てた第三の問い——人口が減少に転じた現在も公園の箇所数や面積が減りにくいのはなぜか——に、制度の非対称性という答えを与える。

9.1 反論1——制度史は後知恵にすぎないのではないか

起きたことを順に並べ、後からもっともらしい筋を通すだけならば、それは歴史の説明ではなく物語にすぎない。この批判は正当である。応答は二つある。第一に、本稿は年と法令名という動かない事実だけを年表に置き、そこから読み取った筋は解釈であると明示している。第二に、制度史の価値は予言ではなく、選択肢の来歴を示すことにある。現在の担当者が直面している選択肢の幅は、過去のどの決定によって狭められたのか。それを示せれば、後知恵であっても実用的である。

9.2 反論2——法改正は現場を変えたのか

1993年に種別の名称が変わっても、街区公園の遊具は変わらなかった。2017年に公募設置管理制度ができても、大多数の街区公園には民間事業者は来ない。制度史は法令の側の物語であって、現場の変化を説明していないのではないか。この反論も部分的に正しい。制度の改正が現場に届くのは、その施設が更新される時点であり、そこには数十年の時差がある。

しかし、制度は現場を直接変えなくとも、何を当然とみなすかを変える。児童公園という名称が消えたことで、街区公園に高齢者向けの健康器具を置くことは説明を要しない選択になった。維持修繕の基準が政令に置かれたことで、点検の記録は担当者の熱意ではなく職務になった。制度が変えるのは施設ではなく、施設をめぐる判断の前提である。時差はその前提が現場に浸透するまでの時間だと理解すればよい。

非対称限界見通し
図9増やす回路が複数あり、減らす回路が重い。この非対称が、人口減少下でも公園の総量が減りにくい理由である。

9.3 第三の問いへの答え——増やす回路と減らす回路の非対称

公園が増える経路は複数ある。宅地開発に伴って設けられ市に引き継がれる公園、区画整理や公共事業に伴って生まれる緑地、寄附や用途の変更によって公園として位置づけられる土地。いずれも、市の公園計画とは別の事情から動き出す。人口が減っている自治体でも、市街地の縁で宅地開発が行われれば、その分だけ小さな公園が加わる。増やす側のアクセルは、人口の増減とは独立に踏まれるのである。

他方、減らす経路は一本しかなく、しかも重い。都市公園法は、公園管理者がみだりに都市公園を廃止してはならないと定めている。廃止が認められるのは、代わりの公園が確保される場合など限られた場面である。加えて、都市計画に定められた公園であれば都市計画の変更手続が必要となり、地域の合意も欠かせない。廃止の手続に要する労力は、公園一つを維持する費用よりもしばしば大きい。

この非対称は制度の欠陥ではない。第3節で見たとおり、戦後の日本は公園が次々と失われる経験から出発し、それを繰り返さないためにブレーキを強くした。人口減少下で公園の総量が減らないのは、その設計が意図どおりに働いている姿である。問題は、意図が働き続ける一方で、前提となる人口と財政の条件が変わったことにある。

9.4 指標の意味が変わる

この非対称は、公園政策を測る指標の意味も変えてしまった。住民一人当たりの公園面積は、面積が一定でも人口が減れば自動的に上昇する。かつて整備の遅れを示した指標が、今では努力の結果を示さない。量の指標で公園政策を語る時代が終わったのは、目標が達成されたからではなく、指標が事態を写さなくなったからである。今後の評価は、使われ方、安全の水準、維持の持続性といった別の物差しに移らざるをえない。

9.5 本稿の限界

  • 本稿は統計値を扱っていない。全国や磐田市の公園数・面積の推移を数量的に確かめる作業は、別の分析に委ねられる。
  • 制度は全国一律でも、運用は自治体ごとに大きく異なる。年表は共通の枠組みを示すだけで、地域ごとの実態を説明するものではない。
  • 子どもが遊ぶ場所は都市公園に限らない。学校の校庭、河川敷、寺社の境内、民有の空地といった公園以外の空間の変化は、本稿の年表には現れない。

10. 磐田市の公園への示唆——100園を年表の層として読む

ここまで整理した年表を、磐田市の公園に当てはめてみる。当サイトが収録する公園は100園である。内訳は、磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」の94行に、市の施設ガイドにのみ掲載されている6園を加えたものである。これらを一つずつ見ていくと、これまでの節で見た制度の層が、種別と園名と面積の形で残っていることがわかる。ただし、個々の公園がいつ、どの制度で生まれたのかを示す資料には本稿はあたっていない。以下は年表からの推論であり、確かめるのはこれからの作業である。

10.1 種別の内訳を層として読む

種別(オープンデータの記載)園数年表のどの層に対応すると考えられるか
街区公園51園1956年の児童公園から1993年の街区公園へと続く生活圏の層
近隣公園14園誘致距離500mの中間階層。量的拡大期の整備が想定される層
都市緑地10園1973年以降の緑地保全と、開発に伴う小さな緑地の層
(法対象外・その他)6園都市公園法の外側にある農村公園・工業団地の公園などの層
地区公園4園1km圏を対象とする比較的大きな公園の層
総合公園3園市域規模の広域施設の層
運動公園3園体育施設を中心とする層
風致公園3園自然の地形や樹林を生かす特殊公園の層
広場公園2園近年の宅地開発に伴う小広場の層
緑道2園線的に緑をつなぐ層
墓園1園特殊公園の層
歴史公園1園史跡と一体の層

街区公園51園という数は、100園の半数を超える。第3節と第6節で追った、児童公園から街区公園へという生活圏の小公園の系譜が、磐田市の公園の主体をなしていることになる。他方で、都市緑地10園と法対象外6園、広場公園2園、緑道2園を合わせると20園になる。すなわち五分の一は、街区・近隣・地区・総合という都市公園法の階層に素直には収まらない層である。年表が単線ではなかったことが、種別の内訳にそのまま表れている。

10.2 園名に残る制度の痕跡

園名は、その公園がどの回路で生まれたかの手がかりになる。第4節で見た開発随伴型の回路を思わせるのは、磐田ららシティ公園(豊田・街区公園・4,097㎡)と磐田ららシティ西ポケットパーク(広場公園・362㎡)・同東ポケットパーク(広場公園・827㎡)、県営磐田団地第1緑地(御厨・都市緑地・980㎡)と同第2緑地(314㎡)、豊田上新屋ポケットパーク(都市緑地・156㎡)や豊田森下ポケットパーク(同・286㎡)といった一群である。いずれも住宅地や団地の名を冠し、面積は小さい。新平山工業団地1号公園(豊岡)は、工業団地の造成に伴う公園と考えられる。

これとは別の系列に見えるのが、豊田富里農村公園(近隣公園・13,382㎡)、豊田海老塚農村公園、豊田中野戸農村公園、豊田森本農村公園、そして法対象外である浜部農村公園(南部)などの農村公園である。名称から推すかぎり、これらは都市公園の五箇年計画とは異なる政策の系列で整備され、後に市の公園として一括して管理されるようになったものと考えられる。都市公園法の年表だけでは説明が届かない層がここにある。

園名地区100園
図10磐田市の100園を年表の層として読む。種別・園名・面積は、その公園がどの制度の回路で生まれたかの手がかりになる。

10.3 量的拡大期の広域施設と、地区ごとの偏り

面積の大きい園を見ると、竜洋海洋公園(総合公園・竜洋)が221,722㎡、かぶと塚公園(総合公園・見付)が106,982㎡、磐田スポーツ交流の里ゆめりあ(運動公園・向陽)が57,500㎡、福田公園(総合公園・福田)が49,620㎡、城山球場(運動公園・見付)が41,081㎡である。体育館・競技場・球場を伴うこれらの施設は、第4節で見た財政主導型の回路が得意とした規模である。園名に竜洋・福田・豊田といった地域の名が冠されている園が多いことも、市域が広がってきた歴史を園名が映していると読める。

地区別の園数は、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。最も多い豊田は、ポケットパークや農村公園を多く抱える地区でもある。地区ごとの園数の差は、人口だけでなく、宅地開発の時期と規模、そして旧町村域ごとの整備の履歴を反映していると考えられる。この推論を確かめるには、各園の設置年と経緯にあたる必要がある。

10.4 更新期の姿と、新しい層

オープンデータ94行の集計では、トイレのある園は69園、車いす対応トイレのある園は34園、砂場のある園は43園、遊具のある園は64園である。トイレのある園のうち車いす対応のものはおよそ半数であり、2006年以降のバリアフリーの層が、既存のストック全体にはまだ行き渡っていないことがうかがえる。ブランコ・滑り台・砂場という組み合わせが多くの街区公園に残っているのは、児童公園時代の標準が今も現役であることの現れである。

一方、新しい層も見える。市の施設ガイドには、安久路公園(御厨・地区公園・32,001㎡)について複合遊具に「インクルーシブエリアあり」、ブランコに「インクルーシブアイテムあり」とある。今之浦公園(見付・近隣公園・13,675㎡)については、複合遊具・ふわふわ遊具・噴水広場・3歳未満児遊具・健康遊具・じゃぶじゃぶスポットといった記載が並ぶ。誰のための公園かを問い直し、使い方を設計するという第6節以降の潮流が、具体的な施設として現れている例と読める。

10.5 踏査はこれから

当サイトの踏査は始まったばかりで、現地で確かめた園はまだない。本節の推論を確かめるために、今後の踏査では、園内の銘板や設置年の表示、遊具の更新の跡、点検の表示、周囲の宅地の様子といった、年表と現場を結ぶ手がかりを記録していきたい。公園の管理は市の都市整備課(電話0538-37-4806)が担っている。制度の年表と、目の前の公園の姿を突き合わせる作業は、ここから先の課題である。

11. 結論と今後の課題

本稿は、昭和31年(1956年)の都市公園法から平成29年(2017年)の同法改正までを年表として整理し、戦後日本の公園制度を量・質・担い手という三つの軸で読んできた。最後に、第1節で立てた三つの問いに答え、本稿の限界と今後の課題を述べる。

11.1 三つの問いへの答え

  • 第一の問いへの答え。戦後の公園を量的に増やしたのは、性格の異なる二つの回路であった。1968年の新都市計画法にもとづく開発許可制度という開発随伴型の回路と、1972年の都市公園等整備緊急措置法にもとづく五箇年計画という財政主導型の回路である。前者は住宅地に小さな公園を散らし、後者は市域規模の大きな公園を配置した。
  • 第二の問いへの答え。重心の移動は一つの出来事ではなく、1993年の街区公園への改称、1994年の緑の基本計画、1995年の震災、2002年の遊具の指針、2003年の指定管理者制度と社会資本整備重点計画法、2004年の景観緑三法という一連の節目として起きた。量的目標が国の計画から退いた制度上の分岐点を一つ選ぶなら、それは2003年である。
  • 第三の問いへの答え。人口が減っても公園が減りにくいのは、増やす回路が複数あり人口とは独立に働く一方、減らす回路が廃止の制限という強いブレーキを備えているという非対称による。これは制度の失敗ではなく、公園が失われ続けた戦後初期の経験から選ばれた設計の帰結である。

11.2 年表が示す順序の意味

四つの動詞の順序——守る・つくる・測る・使う——には必然性がある。守る枠がなければ、つくったものは失われる。つくった量がなければ、質を測る対象がない。質の物差しがなければ、使い方を任せる相手を評価できない。戦後七十年の制度史は、この順序を一段ずつ登ってきた過程として読める。そして現在の局面は、四つ目の段の上で、一つ目の段に置いたブレーキと向き合っている状態にある。

四つの段時差これから
図11守る・つくる・測る・使うという四つの段。制度は順に積み上がったが、現場に届くまでには数十年の時差がある。

11.3 本稿が磐田市について言えたことと、言えなかったこと

言えたことは、100園の種別の内訳と園名の傾向が、本稿の年表の層とよく対応して見えるということである。街区公園51園という主体、都市緑地や広場公園や法対象外を含む二割ほどの周辺的な層、そして竜洋海洋公園やかぶと塚公園のような広域施設。これらは制度史の各層が地域に残した堆積として読める。言えなかったことは、個々の公園の設置年と経緯である。ある公園が開発に伴って生まれたのか、市が計画して用地を取得したのかは、本稿の資料からは判定できない。

11.4 今後の課題

  • 一次資料にあたること。市の公園台帳、都市計画の決定の記録、開発許可の履歴を確かめれば、園ごとにどの回路で生まれたかを跡づけられる可能性がある。
  • 踏査で現場と年表を突き合わせること。銘板や設置年の表示、遊具の更新の跡、点検の記録の掲示といった手がかりを、当サイトの踏査で一園ずつ記録していく。
  • 更新期の実際を追うこと。長寿命化と総合管理の計画が、身近な公園の遊具や便所にどう反映されるかは、これから十年の観察対象である。
  • 他の学問領域の論考と接続すること。制度史が扱えない使われ方や体験の側面は、社会学・公共経済学・行政法などの視点から補われる必要がある。

公園は、決めた人がいなくなった後も残る。1972年に予算をつけた人も、1993年に名称を書き換えた人も、今日その公園で遊ぶ子どもの顔を知らない。制度史を書くことは、その見えない決定の連なりを、いま公園を使う人と、これから管理する人の手元に返す作業である。磐田市の100園について、本稿はその見取り図を示したにすぎない。中身を埋めるのは、これからの踏査と記録である。

参考文献

  1. 都市公園法(昭和31年法律第79号、1956年)
  2. 都市公園法施行令(1956年制定。1993年改正で児童公園を街区公園に改称)
  3. 都市計画法(昭和43年、1968年。開発許可制度と同法施行令の公園等の設置基準)
  4. 都市公園等整備緊急措置法(昭和47年、1972年)と都市公園等整備五箇年計画
  5. 都市緑地保全法(1973年制定、2004年に都市緑地法と改称)
  6. 景観法(2004年。都市緑地法改正等とあわせて景観緑三法と称される)
  7. 地方自治法(2003年改正。指定管理者制度の導入)
  8. 社会資本整備重点計画法(2003年。事業別の五箇年計画を一本化)
  9. 民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律(PFI法、1999年)
  10. 都市公園法改正(平成29年、2017年。公募設置管理制度・維持修繕基準・協議会)
  11. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  12. 国土交通省 都市局 公園緑地・景観課(都市公園に関する制度の解説)
  13. 国土交通省「公園施設長寿命化計画策定指針(案)」(2012年)
  14. 総務省「公共施設等総合管理計画の策定にあたっての指針」(2014年)
  15. 一般社団法人日本公園施設業協会(遊具の安全に関する規準の策定団体)
  16. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(出典:磐田市、CC BY 3.0)
  17. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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