芸術・文化・メディア絵本研究

絵本のなかの公園——描かれる遊び場と子どもの世界

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:絵本研究 公開・更新 2026-08-17 本文 約20,745字 読了目安 38分

要旨

本稿の目的は、絵本研究(ピクチャーブック・スタディーズ)の概念枠組みを用いて、公園や外遊びを描いた絵本が何を、どのように伝えてきたかを明らかにすることである。方法は文献整理と概念分析であり、絵と文字の相互作用、見開きという単位、視点の高さ、余白と時間の表現という四つの技法概念を軸に、公園という主題がどのように図像化されてきたかを検討する。特定の現代作品の内容紹介や引用は最小限にとどめ、著作権の存続が確実でない作家・作品への言及は避け、著作権が確実に切れた古典作品と、公的に確立した学術文献のみを名指しで扱う。

検討の結果、絵本のなかの公園は、しばしば実際の都市公園よりも広く、危険の少ない、季節がくっきりと描き分けられた場所として現れることが見えてくる。見開きという単位は公園の広がりを一望させ、子どもの目線に近い低い視点は遊具や樹木を実物以上に大きく見せる。余白は空や原っぱの開放感を担うと同時に、時間の経過や一日の終わりを示す装置としても働く。また、子どもだけで戸外を歩く物語は、絵本の古典的な型の一つであり続けてきたが、子どもの自立的な移動(independent mobility)に関する研究群が指摘する現実の変化とともに、その描かれ方も問い直しを迫られていることを、本稿は先行研究に基づいて示す。

最後に、磐田市の都市公園100園、なかでも国の標準で0.25ha・誘致距離250mとされる街区公園51園を素材に、絵本的な公園像と、地区ごとに面積も設備も異なる現実の公園との距離を考える。当サイト(ATAWI PARK)の現地踏査はこれからであり、本稿の示唆は今後の踏査によって確かめられるべき見通しとして提示する。

キーワード絵本研究見開き視点の高さ余白子どもの自立的な移動理想化された公園像磐田市

1. はじめに——問題の所在

絵本を開くと、そこにはしばしば公園らしき場所が描かれる。滑り台とブランコ、丸い砂場、木陰のベンチ、追いかけっこをする子どもたち。文章では「こうえんへ いきました」の一文で済まされる場面が、見開きいっぱいの絵になって広がる。読者である子どもは、そこに描かれた公園を、文字よりも先に、絵として受け取る。この絵がどのように作られているか——どこから見た角度で、どれだけの広さを、どんな季節として描くか——は、単なる背景の選択ではなく、公園という場所についての一つの理解のしかたを子どもに手渡す行為である。

本稿の問いは次の三つである。第一に、絵本という媒体の技法——絵と文字の相互作用、見開きという単位、視点の高さ、余白と時間の表現——を手がかりにすると、公園や外遊びを描いた絵本には、どのような表現の型が見えてくるか。第二に、その型はしばしば実際の都市公園よりも広く、危険の少ない、理想化された公園像を伝えているのではないか。第三に、子どもだけで戸外を歩く物語という絵本の古典的な型は、現実における子どもの自立的な移動の変化とともに、どのような緊張を抱えているか。

読みもの子ども原っぱ
図1絵本のなかの公園は、文字より先に絵として子どもに届く。その絵の作られ方を問うのが本稿の出発点である。

なぜ絵本研究という学問領域からこの問いを立てるのか。公園を論じる学問は多い。造園学は空間の設計を、社会学は人と人の関係を、発達心理学は遊びの効果を扱う。絵本研究(ピクチャーブック・スタディーズ)が固有に扱うのは、絵と文字という二つの異なる記号系が組み合わさって一つの物語を作るときに、何が語られ、何が語られずに絵にゆだねられるか、という表現の仕組みである。絵本のなかの公園を論じることは、公園そのものではなく、公園が「どう見せられているか」を論じることであり、これは公園の実態を扱う他の学問とは異なる角度の検討になる。

1.1 方法と扱う範囲

方法は文献整理と概念分析である。絵本研究の基礎文献として、ペリー・ノドルマンの『Words about Pictures』(1988)とマリア・ニコラエヴァ、キャロル・スコットの『How Picture Books Work』(2001)を主に参照し、そこで示される見開き・視点・余白といった概念を、公園や外遊びを描いた絵本という主題に当てはめる。本稿は特定の現代作品の詳細な内容紹介や引用を目的としない。著作権の存続が確実でない作家・作品については、名前を出しての内容紹介は避け、著作権が確実に切れている古典的な作品——たとえば1902年に刊行されたビアトリクス・ポターの『ピーターラビットのおはなし』のような、作者の没後70年を優に超えた作品——と、公的に確立した学術文献のみを、確認できる範囲で名指しして扱う。あわせて、江戸期の浮世絵に描かれた子どもの遊びの図像など、作者の没後年数に疑いのない歴史的な図像資料にも触れる。個別の作品の筋書きや台詞を再現することはせず、扱うのはあくまで表現の型——構図や視点の選び方という一般的な水準——である。

1.2 本稿の構成

第2節で絵本研究の基本概念を整理する。第3節で絵と文字の相互作用のなかで公園がどう語られるかを検討し、第4節で見開きという単位が遊び場の広がりをどう表現するかを論じる。第5節で視点の高さという技法を、第6節で余白と時間の表現を扱う。第7節で理想化された公園像という論点を反論も含めて検討し、第8節で子どもだけで外を歩く物語の変遷を、子どもの自立的な移動に関する研究群を参照しながら論じる。第9節で日本における子どもの遊びの図像史を絵本以前にさかのぼって比較し、第10節で磐田市の公園への示唆を、第11節で結論と今後の課題を示す。読者としては、磐田市周辺の子育て世代、絵本や図書館に関わる関係者、公園と子どもの文化に関心をもつ学生を想定し、専門用語は初出のたびに説明する。

2. 先行研究と概念の整理

絵本研究が学問として形をなしたのは20世紀後半のことである。ペリー・ノドルマンは『Words about Pictures』(1988)で、絵本を単なる「絵のついた子どもの本」としてではなく、絵と文字という二つの記号系が互いに補い、時にずれ、時に矛盾しながら一つの物語を作る、独自の表現形式として分析する枠組みを示した。ノドルマンが強調するのは、絵本の絵は文章の単なる挿絵(イラストレーション)ではなく、文章が語らないことを語り、文章が語ることを裏切ることさえある、という点である。この視点に立つと、公園を描いた絵は、「こうえんへ いきました」という一文の付け足しではなく、その公園がどんな場所かについての、文章とは別の情報源として読むことができる。

マリア・ニコラエヴァとキャロル・スコットは『How Picture Books Work』(2001)で、絵本を分析するための技法概念をさらに体系化した。とりわけ重要なのは、見開き(スプレッド)を絵本の基本単位とみなす視点、視点(パースペクティブ)の高さが読者の感情移入のしかたを左右するという指摘、そして余白(ホワイトスペース)が単なる空白ではなく意味を担う記号として機能するという議論である。本稿はこの三つの概念——見開き・視点・余白——に、時間の表現(季節や一日の経過をどう示すか)を加えた四つを軸に、公園や外遊びを描いた絵本を検討する。

2.1 見開き・視点・余白・時間——四つの技法概念

概念内容公園の描写における働き
見開き(スプレッド)本を開いたときに同時に目に入る左右のページの単位公園の広がりや全景を一望させる
視点の高さ描く対象をどの高さ・角度から見せるか子どもの目線に近い低い視点は遊具や樹木を大きく見せる
余白(ホワイトスペース)描かれていない空白の部分空や原っぱの開放感、静けさを担う
時間の表現季節・天候・時刻の移り変わりをどう示すか一日の終わりや季節の変化を色や光で示す

見開きという単位について補足する。絵本は一枚の絵として鑑賞されるものではなく、ページをめくるという時間の経過を伴うメディアである。ニコラエヴァとスコットは、この「ページをめくる」という行為そのものが、絵本の物語構造に組み込まれた演出であると指摘する。見開きが変わるごとに場面が変わり、あるいは同じ場所の別の瞬間が示される。公園を舞台にした絵本では、最初の見開きで公園の全景が示され、後続の見開きで個々の遊具や出来事に焦点が絞られていく、という構成がしばしば取られる。この「引いた絵から寄った絵へ」という展開は、読者に公園という場所全体の広がりを先に印象づけたうえで、そのなかの出来事に注意を向けさせる効果をもつ。

読みもの技法の枠組み整理
図2見開き・視点・余白・時間という四つの技法概念を軸に、公園を描いた絵本の表現の型を検討する。

2.2 絵本研究と他の学問の違い

絵本研究は、児童文学研究や美術史とも重なりを持つが、力点が異なる。児童文学研究が物語の主題や教育的な価値を扱うことが多いのに対し、絵本研究は絵と文字という二つの記号系の「相互作用」そのものを分析の対象とする。美術史が個々の画家や様式の展開を追うのに対し、絵本研究はページという物理的な制約——見開きの大きさ、ページをめくる順序——のなかで意味がどう構成されるかを問う。この違いは、公園という主題を扱う際にも表れる。美術史であれば「誰がどのように公園を描いたか」という作家史を追うことになるが、絵本研究では「公園という場所が、絵本という形式のなかでどのような型として繰り返し描かれてきたか」を問うことになる。本稿が後者の立場を取るのは、特定の作家や作品ではなく、表現の型そのものを論じるためである。

なお、遊びそのものを論じた古典として、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(1958)とヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938)を参照する。ホイジンガは遊びを、日常生活から区切られた、それ自体で完結する自由な活動として位置づけ、カイヨワはそれを競争・偶然・模擬・眩暈という四つの型に分類した。絵本のなかの公園の場面は、多くの場合、この意味での「遊び」そのものの描写であり、遊びの理論は、絵本が公園でどのような活動を選んで描くか(追いかけっこ、砂遊び、ブランコの揺れ)を考えるうえでの背景知識を与えてくれる。ただし本稿の主眼は遊びの分類そのものではなく、その遊びが絵という形式でどう見せられるかにあることを、あらためて確認しておく。

2.3 パラテクスト——表紙・扉・見返しという枠付け

絵本研究では、本文の見開きだけでなく、表紙・扉ページ・見返し(本文の前後にある、しばしば模様や小さな絵だけが置かれるページ)といった、物語の本体を取り囲む部分にも注意が向けられる。文学理論家ジェラール・ジュネットは『Seuils』(1987、邦訳『スイユ——テクストから書物へ』)で、本文を取り囲むこうした周辺的な部分を「パラテクスト(周辺テクスト)」と呼び、それが読者の読み方をあらかじめ方向づける働きを持つことを論じた。絵本において、表紙に公園らしき原っぱや遊具が描かれていれば、読者はページを開く前から、物語の舞台が公園であることを予期する。見返しに描かれる模様が、ブランコの鎖や葉っぱの形をかたどっていれば、それだけで公園という主題への期待が高められる。

このパラテクストの働きは、本稿がここまで論じてきた見開き・視点・余白といった本文中の技法とは異なる層にある。本文の絵がどう公園を描くかを検討する前に、読者はすでに表紙や扉のパラテクストを通じて、これから描かれる公園がどのような性格の場所か——楽しげな場所か、静かな場所か——を、ある程度予感している。絵本のなかの公園を理解するには、見開きの内部だけでなく、その手前にある表紙や扉の設計にも目を向ける必要があることを、ここで確認しておきたい。

3. 絵と文字の相互作用のなかの公園

絵本のなかで公園という場所は、たいてい文章のうえでは簡潔にしか語られない。「こうえんへ いきました」「すべりだいで あそびました」といった短い一文で場面が示され、公園がどれほどの広さで、どんな木があり、誰が近くにいるかは、文章には書かれない。この情報の空白を埋めるのが絵である。ノドルマンが指摘するように、絵本における絵は文章の従属物ではなく、文章が省略した情報を独自に補う、対等な語り手として機能する。公園を描いた絵本を読むという行為は、実のところ、文章を読む以上に、絵から公園という場所の性格を読み取る行為である。

3.1 文章が語らないことを絵が語る

具体的にどのような情報が絵にゆだねられるかを整理する。第一に、公園の規模である。文章は「こうえん」としか言わないが、絵は見開きいっぱいに広がる原っぱとして、あるいは建物の隙間の小さな一角として、その規模を具体的に示す。第二に、天候と季節である。文章に「はれた ひ」とあれば十分な情報でも、絵は空の青さ、木々の葉の色、子どもの服装によって、より具体的な季節感を伝える。第三に、他者の存在である。文章の主人公は一人か少数の子どもであることが多いが、絵の背景には、しばしば他の子どもや大人が描き込まれ、その公園が誰にでも開かれた公共の場所であることを、言葉によらず示している。

この「絵が文章を補う」という関係は、時に「絵が文章を裏切る」関係にもなりうる。たとえば文章が淡々と「こうえんで あそびました」と述べる一方で、絵のなかの子どもの表情や姿勢が、退屈や不安といった、文章では触れられない感情を示すことがある。ニコラエヴァとスコットは、こうした絵と文字の食い違いを「iconotext(アイコノテクスト)」——絵と文字が一体となって、どちらか一方だけでは成立しない意味を作り出す複合的なテクスト——という言葉で説明する。公園という一見単純な場所の描写であっても、絵と文字のあいだにこうした緊張関係が仕込まれていることは珍しくない。

絵と文字語られること読み取ること
図3文章が「こうえんへ いきました」としか語らなくても、絵は広さ・季節・他者の存在を語っている。

3.2 くり返しの文型と絵の変化

幼い子ども向けの絵本には、同じ文型のくり返しがよく用いられる。「ぶらんこに のりました」「すべりだいで あそびました」「すなばで あそびました」というように、構文をそろえたまま対象だけを入れ替える手法である。これは音読したときのリズムを整え、幼い読者が次に来る言葉を予測できるようにする、文章側の技法である。この文章のくり返しに対して、絵の側は、同じ構文のもとで少しずつ異なる場面——遊具の種類、時間の経過、集まってくる子どもの数——を描き分けることが多い。文字が反復によって安定を与え、絵が反復のなかに変化を差し込む、という役割分担は、絵本という形式が持つ基本的な構造の一つである。

この構造は、公園という場所の描かれ方にも影響する。くり返しの文型のもとでは、公園は一つの遊具から次の遊具へと移動していく、いくつもの「小さな遊び場」の集合として描かれやすい。これは、実際の都市公園、とりわけ面積の限られる街区公園の姿——ブランコと滑り台と砂場が一つの敷地に並ぶ、比較的密度の高い配置——と、意外に近い。絵本の構文が要請する「反復と変化」という形式が、結果として、実際の小さな公園によく見られる遊具の並びと似た構成を絵に生み出している、と見ることもできる。ただしこれは絵本の形式上の効果であって、絵本の作者が実際の公園を踏査して描いたことを意味するものではない。

4. 見開きという単位と遊び場の広がりの表現

絵本は一枚の絵ではなく、見開き——本を開いたときに同時に視界に入る左右二ページ——を基本単位として読まれるメディアである。読者はページをめくるたびに新しい見開きに出会い、その都度、場面全体を一度に受け取る。公園を舞台にした絵本の多くは、少なくとも一箇所、見開き全体を使って公園の全景を見せる場面を持つ。文字を最小限にとどめ、あるいは文字を置かず、絵だけで見開きいっぱいの公園を見せるこの手法は、読者に「ここがこれから物語の舞台になる場所だ」という空間の広がりを、瞬間的に印象づける効果を持つ。

4.1 パノラマ型の見開きと視線の誘導

見開き全体を使った公園の場面は、しばしばパノラマのような構図を取る。手前に遊具、中景に木々や広場、奥に空や街並みを配置し、視線が手前から奥へ、あるいは左から右へと自然に流れるよう構成される。この構図は、実際の公園を訪れたときの視界の動き——入口から見渡し、遊具の配置を確認し、木陰の位置を把握する、という一連の視線の動き——を、一枚の絵のなかに圧縮したものと考えることができる。読者は、実際に足を踏み入れる前に、絵という媒体を通じて、その公園の「見取り図」に近いものを与えられる。

このパノラマ型の見開きは、多くの場合、公園を実際よりも広く、整然とした場所として見せる効果を伴う。絵という表現は、都合の悪い要素——隣接する道路、駐車場、フェンスの外の建物——を省略し、緑と遊具だけで画面を構成することができる。ノドルマンが指摘するように、絵は文章以上に取捨選択の自由度が高く、何を描き、何を描かないかという選択そのものが、その場所についての一つの解釈になる。公園の絵から道路や建物が省かれるとき、それは公園を、周囲の都市から切り離された、独立した楽園のような場所として提示する選択でもある。

見開き広さ開放感
図4見開き全体を使ったパノラマ型の場面は、公園を実際より広く、周囲から切り離された場所として見せやすい。

4.2 ページめくりと物語の展開

見開きが変わることは、単に絵が切り替わることではなく、時間が進むことをも意味する。ニコラエヴァとスコットは、ページをめくるという読者自身の身体的な行為が、絵本の物語構造に組み込まれた演出であると論じる。公園を舞台にした絵本では、この「ページめくり=時間の経過」という構造を利用して、朝の到着から夕方の帰宅までを、数回の見開きで表現することが多い。最初の見開きで公園全体が示され、中盤の見開きで個々の遊びの場面が展開し、終盤の見開きで再び引いた視点に戻って、夕暮れの公園や、帰り道に向かう親子の後ろ姿が描かれる、という構成である。

この「引く・寄る・また引く」という見開きの往復は、公園という場所を、一つの完結した小さな世界として提示する効果を持つ。読者は、公園に入り、そこで何かを経験し、公園から出ていく、という一つのまとまった時間を、絵本を読み進めるという体験そのものを通じて追体験する。これは、実際の公園がもつ「入口から出口まで」という物理的な区切りとも重なる構造であり、絵本という形式が、公園という場所の性質——区切られていながら開かれている、という都市公園に特有の性格——をうまく表現しうる一因になっていると考えられる。もっとも、この点は絵本形式の一般的な傾向として述べるにとどめ、個々の作品の評価には立ち入らない。

4.3 綴じ目という物理的な制約

見開きには、印刷や製本に由来するもう一つの制約がある。左右のページの境目、すなわち綴じ目(ノド)である。本を開いたとき、綴じ目の部分はわずかに影ができ、絵柄が完全には見えにくくなる。このため絵本の絵作りでは、伝統的に、物語上とりわけ重要な人物や物——たとえば主人公の顔や、遊具の中心となる部分——を、綴じ目をまたいで配置することを避け、左右いずれかのページのなかにおさめる工夫がなされてきたとされる。公園の場面であれば、滑り台の全体を左のページに、それを見上げる子どもを右のページに置く、というように、綴じ目を挟んで視線が行き来する構成を取ることが多い。

この綴じ目という制約は、デジタル画面で読む絵本にはそのままの形では存在しない。しかし、公園という主題を絵本で描く際に、伝統的な紙の絵本の綴じ目を意識した構図——広い遊び場を左右のページに分割し、その境目を自然な視線の通り道として使う構図——が長く受け継がれてきたことは、絵本という媒体の物理的な性質が、公園の描かれ方そのものに影響を与えてきた一例として、指摘しておく価値がある。

5. 視点の高さ——子どもの目線という技法

絵本の絵は、どの高さ、どの角度から対象を見るかによって、まったく異なる印象を読者に与える。大人の目線に近い高い位置から見下ろすように描かれた公園と、しゃがみ込んだ子どもの目線に近い低い位置から見上げるように描かれた公園とでは、同じ遊具でも大きさの感じ方が違う。ニコラエヴァとスコットが指摘するように、視点の高さは絵本における最も基本的な演出の一つであり、読者がどの登場人物に感情移入するかを左右する。公園を描いた絵本の多くが、子どもの目線に近い低い視点を選ぶのは、偶然ではなく、幼い読者を絵の中の子どもと同じ立場に置くための、意図的な技法である。

5.1 低い視点が遊具を大きく見せる

低い視点から見上げるように描かれた滑り台やジャングルジムは、実際の寸法以上に大きく、高く感じられる。これは遠近法の効果でもあるが、それ以上に、幼い子どもにとって遊具が実際に「大きく感じられる」という体験そのものを、絵が再現しているとも言える。人間工学の分野では、遊具の各部寸法は対象年齢ごとの身体寸法をもとに設計されるとされるが、絵本の視点操作は、この身体的な大きさの感覚を、設計図の数値とは別の仕方で——感情に訴える形で——読者に伝える。子どもの読者は、絵本のなかの低い視点を通じて、遊具が持つ迫力や、それに挑む高揚感を、まず絵から受け取る。

この低い視点の効果は、公園の広さの感じ方にも及ぶ。地面すれすれの高さから見上げると、頭上に広がる空は実際以上に大きく、木々は実際以上に高く感じられる。子どもの目線の高さは大人よりもずっと低い位置にあり、その高さから見た公園は、大人が見下ろして把握する公園とは、そもそも異なる空間として体験されている。絵本が繰り返しこの低い視点を選ぶことは、公園という場所を、大人の管理する施設としてではなく、子ども自身が主人公として経験する世界として描く、という絵本というジャンル全体の姿勢を反映していると考えられる。

子ども目線低い視点複合遊具
図5子どもの目線に近い低い視点は、遊具や木々を実物以上に大きく、迫力あるものとして見せる。

5.2 大人の不在、あるいは背景化

子どもの目線に視点を合わせる絵本では、大人はしばしば画面の端に小さく描かれるか、あるいは画面の外に置かれる。保護者が公園に同行していないという意味ではなく、視点の高さの選択として、大人の視界の広さや管理する立場が、絵の構図から意図的に後景化されているということである。この選択は、公園という場所を、大人の見守りのもとにある空間としてよりも、子ども自身が能動的に関わる世界として提示する効果を持つ。発達心理学や環境心理学の分野では、子どもが環境を探索し、自分で選び取る経験そのものが発達上の意味を持つとされる研究群があるが、絵本の視点操作は、この「子どもが主体である」という感覚を、理論的な説明を経ずに、絵という直感的な形で読者に手渡している。

もっとも、この視点の選択は、実際の公園における見守りの重要性を否定するものではない。医学的・安全上の判断は絵本の演出とは別の水準にあり、子どもをどの程度、どの年齢から見守りの目を離すかは、各家庭の状況や医療機関・関係機関の助言に基づいて判断されるべき事柄である。絵本が子どもの目線を選ぶのは、あくまで物語の視点としての選択であり、実際の公園利用における注意の必要性を絵本が代弁したり、免除したりするものではないことを、ここで確認しておく。

5.3 動きのある構図という技法の系譜

低い視点とあわせて、絵本の公園の場面を特徴づけるのが、静止した瞬間ではなく、動きの途中を切り取る構図である。ブランコが最も高く振れた瞬間、滑り台を滑り下りる途中、追いかけっこで体が傾いた瞬間——こうした動きの頂点を描くことで、絵は静止画でありながら、見る者に運動そのものの感覚を伝える。19世紀イギリスの挿絵画家ランドルフ・コールデコットは、こうした動きのある構図を絵本の挿絵に取り入れた先駆者の一人として知られ、彼の名を冠したコールデコット賞は、現在も英語圏で最も権威ある絵本の賞の一つとして続いている。コールデコットの挿絵に見られる、複数の登場人物がそれぞれ異なる動きの途中にある様子を一枚の絵に収める手法は、後の絵本における戸外の遊びの場面——複数の子どもがそれぞれ違う遊具で違う動きをしている公園の絵——の原型の一つと見ることができる。

動きの途中を描くという技法は、低い視点と組み合わさることで、いっそう強い効果を生む。低い位置から見上げた滑り台を、まさに滑り下りる子どもとともに描けば、読者は自分自身がその動きのただなかにいるかのような感覚を味わう。これは遠近法という古典的な絵画技法の応用であると同時に、幼い読者の身体感覚に直接訴えかける、絵本に特有の演出でもある。文章では「たのしかった」の一言で済まされる感情を、絵は身体の傾きや躍動感として、より直接的に伝えているのである。

6. 余白と時間の表現——季節・天候・一日の移ろい

絵本における余白(ホワイトスペース)は、単に絵が描かれていない空白の部分ではない。ニコラエヴァとスコットが論じるように、余白は読者に想像の余地を与え、静けさや広がりといった、輪郭を描かなくても伝わる感覚を担う、積極的な表現の要素である。公園を描いた絵本において、余白がもっとも大きな役割を果たすのは空の表現である。地面から続く緑の描写を最小限にとどめ、画面の上半分を淡い色や白のまま残すことで、絵は空の広さと、そこに満ちる光を、具体的な形を描かずに表現する。

6.1 四季の描き分けという型

公園や外遊びを描いた絵本には、四季をめぐる構成を取るものが多い。桜の咲く春、青々とした緑と強い日差しの夏、色づいた葉が舞う秋、雪の積もった、あるいは澄んだ空気の冬——それぞれの季節が、色彩とわずかな図像の変化によって描き分けられる。この四季の描き分けは、日本の絵本において特に重視される型であり、四季の移り変わりそのものが一つの物語の骨格として機能することも珍しくない。同じ場所である公園が、季節ごとに色を変えて繰り返し描かれることは、その場所が一過性の舞台ではなく、子どもの生活のなかで繰り返し訪れる、日常の一部であることを示す表現でもある。

天候の描き分けも同様の働きを持つ。晴れの日の公園は明るい色調と長い影で、雨上がりの公園は水たまりの反射と、しっとりとした緑で、風の強い日の公園は舞い散る葉や傾いた木で、それぞれ描かれる。これらは気象学的な正確さを目指した描写ではなく、その日の空気感を読者に伝えるための、簡略化された記号である。暑さ指数(WBGT)や気温といった具体的な数値は絵本には現れず、代わりに、日差しの強さを示す濃い影や、汗をかいた子どもの表情といった、感覚に訴える表現が用いられる。暑さや寒さへの具体的な対応——水分補給や休憩のタイミング——は、絵本の演出とは別に、各家庭の判断や関係機関の情報にもとづくべき事柄である。

晴れの日雨の日紅葉の日雪の日
図6四季と天候の描き分けは、公園を一過性の舞台ではなく、繰り返し訪れる日常の場所として示す。

6.2 一日の終わりを示す色の変化

公園を舞台にした絵本の終盤には、しばしば夕暮れの場面が置かれる。空の色がオレンジや紫に変わり、遊んでいた子どもたちの影が長く伸び、遠くから「かえろう」と呼ぶ声が聞こえてくる——というような場面である。この夕暮れの表現は、単に一日の終わりを示すだけでなく、遊びという、日常から切り離された自由な時間(ホイジンガが遊びの本質とみなした特徴の一つ)が終わり、家庭という日常に戻っていく移行を示す、象徴的な装置として機能する。色彩の変化という視覚的な手段だけで、文章を用いずに「そろそろ終わり」という時間の感覚を伝えられる点に、絵本という形式の強みがある。

この時間の表現は、実際の公園体験とも呼応する。日没や夕方の薄暗さは、実際の公園利用においても、遊びを切り上げる自然な合図として機能するとされ、時間帯ごとの過ごし方の目安として言及されることがある。絵本が夕暮れを繰り返し描くのは、この生活実感に即した区切りを、物語の構造として取り込んでいるためだとも考えられる。ただし、絵本のなかの夕暮れが、常に穏やかで美しいものとして描かれることには注意が要る。実際の公園では、日没後の見通しの悪さや、帰り道の安全といった、絵本には現れない配慮すべき点があり、これらは絵本の詩的な表現とは別に、各家庭が個別に判断すべき事柄である。

7. 理想化された公園像——広さと安全の表象、その限界

ここまで見てきた見開き・視点・余白・時間という技法は、いずれも共通した一つの効果に収斂する。すなわち、絵本のなかの公園は、実際の都市公園よりも広く、緑が多く、危険の少ない場所として描かれやすい、という傾向である。パノラマ型の見開きは道路や建物を省き、低い視点は遊具や樹木を大きく見せ、余白は空の開放感を強調し、季節と天候の描き分けは公園を穏やかな日常の舞台として提示する。これらが積み重なった結果、絵本のなかの公園は、しばしば現実の一つの公園の姿というより、「公園というものの理想像」に近い場所として現れる。

7.1 何が省かれているか

この理想化は、何が描かれるかだけでなく、何が描かれないかによっても成り立っている。多くの絵本の公園の絵には、フェンスや柵、路上駐車の車、交通量の多い道路、公園に隣接する駐輪場や自動販売機といった、実際の都市公園にはしばしば存在する要素が描かれない。国土交通省の遊具の安全確保に関する指針は、遊具の配置や点検について具体的な基準を示しているが、絵本の絵にそうした管理の痕跡——点検済みを示す表示、注意書きの看板、補修の跡——が描かれることはまずない。絵本のなかの公園は、いわば「メンテナンスの見えない公園」であり、それが誰かの手によって整備され、点検され、維持されているという事実そのものが、画面の外に置かれている。

この省略は、絵本という形式の制約からも説明できる。見開きという限られた画面に、遊びの楽しさと、管理の痕跡を同時に描き込むことは、視覚的な情報量として難しく、また幼い読者にとって注意書きの看板や柵は、物語上の意味を持たない雑多な情報になりやすい。しかし、この省略の積み重ねが、結果として「公園とは危険のない、いつでも自由に遊べる場所である」という印象を、繰り返し読者に与えることには注意が要る。実際の公園利用における注意点——遊具の対象年齢表示、ボール遊びのできる場所とできない場所の区別、天候や気温に応じた判断——は、絵本の外側で、各家庭や関係機関が別途担うべき情報である。

柵は描かれない芝生の広がりいつも晴れ
図7絵本のなかの公園はフェンスや駐車場を省き、広さと晴天だけを強調しがちである。管理の痕跡は画面の外にある。

7.2 反論——理想化は問題なのか

この理想化を、絵本の欠陥として単純に批判することはできない。第一に、絵本は現実の記録ではなく、子どもの想像力と情緒に働きかけることを目的とした表現形式であり、あらゆる情報を漏れなく描くことを目指す媒体ではない。ホイジンガが論じたように、遊びは日常生活から区切られた、それ自体で完結する時間であり、絵本の公園がその区切られた自由な時間にふさわしい、理想化された舞台として描かれることには、遊びの本質に沿った合理性がある。第二に、幼い読者にとって、絵本の公園が過度に危険や制約に満ちた場所として描かれることは、外遊びそのものへの不安を先立たせ、遊びへの意欲を削ぐ可能性がある。理想化には、子どもを戸外の世界へいざなう、教育的とも言える機能がある。

他方で、この理想化が、大人の読み手——絵本を子どもに読み聞かせる保護者——にとって、実際の公園に対する期待値を無意識に引き上げてしまう可能性も否定できない。絵本の公園のように広く緑豊かで、フェンスも駐車場もない公園を、現実の街区公園に期待すれば、実際の公園を見たときの印象は、しばしば期待を下回るものになりうる。したがって理想化そのものを否定するのではなく、絵本の公園像が「実際の公園の代わり」ではなく「遊びという経験そのものの詩的な表現」であることを、読み聞かせる大人が意識しておくことが、両者のずれを穏やかに受け止める一つの態度になると考えられる。

8. 子どもだけで外を歩く物語の変遷

絵本の古典的な型の一つに、子どもが一人で、あるいは子どもたちだけで戸外を歩き、公園や遊び場にたどり着くという物語がある。家を出て、道を歩き、時に寄り道をし、目的の場所にたどり着く——この移動の過程そのものが、一つの小さな冒険として描かれる。この型の絵本において、公園は単なる背景ではなく、子どもが自分の足で到達する「目的地」としての意味を持つ。到達するまでの道のりが描かれることによって、公園という場所は、大人に連れて行かれる場所から、子ども自身が獲得する場所へと、性格を変える。

8.1 子どもの自立的な移動という研究の視点

この「子どもだけで歩く」という主題を検討するうえで参考になるのが、子どもの自立的な移動(independent mobility)に関する研究群である。地理学者ロジャー・ハートは『Children's Experience of Place』(1979)で、子どもが大人の付き添いなしに行動できる範囲——行動半径——が、子どもの環境認識や自己効力感の発達と結びついていることを、実地の調査にもとづいて論じた。また、メイヤー・ヒルマンらは『One False Move』(1990)で、イギリスにおける子どもの自立的な移動の範囲が、自動車交通量の増加などを背景に、世代を経て縮小してきたことを調査によって示したとされる。これらの研究は、子どもが一人で戸外を歩くという経験そのものが、時代とともに条件の変わる、決して当たり前ではない経験であることを教えてくれる。

この研究の視点を絵本に重ね合わせると、「子どもだけで歩いて公園に行く」という物語の型は、それが描かれた時代の、子どもの実際の行動範囲をそのまま反映したものというより、多くの場合、大人が「子どもにこうあってほしい」と願う理想、あるいは大人自身の子ども時代の記憶に根ざした、いくぶん懐古的な理想を反映したものである可能性が浮かび上がる。物語の型としての「一人歩き」は根強く残り続ける一方で、それを支えていた現実の条件——交通量の少なさ、近隣の見守りの目、歩いて行ける範囲に遊び場があること——は、地域や時代によって大きく異なってきたと考えられる。

一人で歩く手をつなぐ時代の変化
図8子どもだけで歩く物語という絵本の型は、子どもの自立的な移動をめぐる現実の変化のなかで描かれ続けてきた。

8.2 物語の型としての強さと、現実との緊張

それでもなお、この物語の型が絵本のなかで力強く残り続けてきたのは、それが子どもの成長そのものの比喩として機能するからだと考えられる。一人で歩く、寄り道をする、迷う、たどり着く、という一連の経験は、身体の移動であると同時に、子どもが自分自身の判断で世界に関わっていく過程の縮図でもある。カイヨワが遊びの型の一つとして挙げた「模擬」——現実には存在しない役割や状況を演じること——に近い形で、絵本の読者は、一人歩きの物語を通じて、まだ自分自身では経験していない自立を、あらかじめ疑似体験する。物語の型が現実の条件から独立して生き続けるのは、この疑似体験としての価値ゆえだろう。

ただし、この型を現実の子育てにそのまま当てはめることには慎重であるべきである。子どもが一人でどこまで歩いてよいか、どの年齢からどの範囲を一人で移動させるかは、地域の交通事情、見通しのよさ、近隣の見守りの体制など、個別の条件によって大きく異なり、安全にかかわる判断は、絵本の物語ではなく、各家庭の状況と、必要に応じて学校や地域、関係機関の助言にもとづいて行われるべきものである。絵本が一人歩きを美しく描くことと、実際にそれを許すかどうかの判断は、切り離して考える必要がある。

9. 日本における子どもの遊びの図像史との比較

子どもの外遊びを絵で描くという営みは、絵本というジャンルが成立するはるか以前から存在した。ここでは視野を広げ、絵本以前の日本の図像資料のなかに、子どもの遊びがどう描かれてきたかを、確実に著作権の切れた歴史的な作品に限って概観し、絵本のなかの公園像と比較する材料としたい。江戸期の浮世絵には、羽根つき、凧あげ、独楽回し、水辺での水遊びなど、子どもたちが戸外で遊ぶ姿を主題にした作品群がある。歌川国芳をはじめとする浮世絵師は、子どもの遊びを題材にした揃物(シリーズもの)を手がけたことで知られ、そこに描かれた子どもたちは、現代の絵本の公園の場面と同じように、群れて遊び、大人から一定の距離を置いた、子どもだけの世界として表現されている。

9.1 浮世絵の子ども遊び絵と絵本の共通点

浮世絵における子どもの遊び絵と、現代の絵本における公園の場面には、いくつかの共通する特徴が見出せる。第一に、背景の簡略化である。浮世絵の多くは、遊びに興じる子どもたちを画面の中心に置き、背景の建物や道具は最小限の筆致で示すにとどめる。これは絵本における余白の使い方——遊びそのものに視線を集中させ、周囲の情報を省く手法——と同じ方向の表現である。第二に、季節の記号化である。浮世絵は着物の柄や植物の描写によって季節を示すことが多く、これも絵本が色彩や植物によって季節を描き分ける手法と共通する。第三に、大人の背景化である。子どもの遊び絵の多くは大人の姿をほとんど描かず、子どもだけの世界として構図を組む点も、絵本における低い視点や大人の後景化と重なる。

無論、浮世絵と現代の絵本とでは、制作の目的も流通のしかたも大きく異なる。浮世絵の子ども遊び絵は、多くの場合、大人の鑑賞者に向けた商品であり、子ども自身が読み手として想定されていたわけではない。しかし、子どもの遊びという主題を、背景を切り詰め、季節を記号化し、大人を後景に退けて描くという表現の型そのものは、時代とメディアを越えて、ある程度の連続性をもって受け継がれてきたように見える。これは、子どもの遊びを描くという行為に内在する、ある種の普遍的な構図の要請なのかもしれない。

時代・区分主な媒体子どもの遊びの描かれ方の特徴
江戸期浮世絵(子ども遊び絵の揃物)背景を簡略化し、季節を着物や植物で記号化。大人はほとんど描かれない
19世紀後半の英国ケイト・グリーナウェイらの絵本挿絵庭や野原を舞台に、子どもたちの集団遊びを装飾的に描く
20世紀の絵本見開き構成をもつ絵本見開き・視点・余白を組み合わせ、公園や野原を理想化して描く
現代多様な媒体の絵本・読みもの四季と天候を描き分けつつ、多様な家族像・遊びの形を取り込む動きが広がる
歴史的な図像子どもの遊び時代の推移
図9浮世絵の子ども遊び絵から現代の絵本まで、背景を簡略化し季節を記号化する表現の型には連続性が見える。

9.2 英国の絵本挿絵における庭と野原

西洋に目を移すと、19世紀後半のイギリスで活動したケイト・グリーナウェイの絵本挿絵——1878年刊行の『Under the Window』などに代表される、庭や野原を舞台にした子どもたちの群像——や、同時代のランドルフ・コールデコットの絵本挿絵にも、戸外で遊ぶ子どもたちの姿が繰り返し描かれている。グリーナウェイの挿絵は、整えられた庭園や花咲く野原を背景に、子どもたちの遊びを装飾的な構図のなかに収める点に特徴があり、これは同時代のヴィクトリア朝社会が子ども期を「無垢で保護されるべき時期」とみなす見方の広がりと、しばしば結びつけて論じられる。グリーナウェイもコールデコットも没後すでに一世紀以上が経過しており、著作権の存続に疑いのない、確立した古典として扱うことができる。

こうした19世紀の絵本挿絵の系譜と、20世紀以降の絵本、そして本稿がここまで検討してきた見開き・視点・余白の技法とを重ねてみると、子どもの遊びを庭や公園という戸外の場に置いて描くという主題そのものが、19世紀の挿絵文化から現代の絵本に至るまで、形式の洗練を重ねながら受け継がれてきたことが見えてくる。時代や地域が変わっても、子どもの遊びを描く絵は、背景を簡略化し、季節を記号化し、子どもだけの世界を演出するという、共通した構図の型に繰り返し立ち返ってきたのである。

9.3 絵双六という、もう一つの遊びの図像

日本の図像史のなかには、絵本とは異なる形式でありながら、子どもの遊びや季節の行事を描いた資料として、絵双六(すごろく)がある。マス目を進みながら遊ぶこの紙の遊具には、江戸期から明治期にかけて、季節ごとの行事や子どもの遊びを主題にしたものが数多く作られたとされ、各マスに小さな挿絵を配して、正月の遊びから夏の水辺の遊び、秋の月見までを、一枚の紙の上に並べて見せる構成を持つものがある。この構成は、本稿が第4節で論じた「見開きの連なりによって時間の経過を示す」という絵本の構造と、ある共通点を持つ。すなわち、複数の場面を空間的に並べることで、時間の流れや季節の移ろいを一望させるという発想であり、絵双六はこれを一枚の紙の上に、絵本は複数の見開きの連なりのなかに、それぞれ実現していると見ることができる。

絵双六と絵本のもう一つの共通点は、遊びそのものを主題にしながら、その主題を扱うメディア自体もまた「遊び道具」であるという二重性である。絵双六はさいころを振って遊ぶための道具でありながら、そこに描かれた絵は子どもの遊びの記録でもある。絵本もまた、読むこと自体が一つの遊び的な体験でありながら、そこに描かれた公園は、読者がこれから経験するかもしれない遊びの予告でもある。遊びを描く媒体そのものが遊びの性格を帯びるという、この入れ子構造は、子どもの文化を考えるうえで興味深い論点であるが、本稿の主題からは離れるため、指摘するにとどめる。

10. 磐田市の公園への示唆

ここまで述べてきた絵本研究の視点を、磐田市の公園に重ねてみたい。当サイト(ATAWI PARK)が収録する磐田市の都市公園は100園であり、磐田市オープンデータ「都市公園一覧」に記載のある94園に、市の施設ガイドのみに掲載のある6園を加えた数である。種別では街区公園が51園ともっとも多く、次いで近隣公園14園、都市緑地10園、法対象外(その他)6園、地区公園4園、総合公園・運動公園・風致公園が各3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園と続く。絵本のなかで描かれる「公園」の多くは、この分類でいえば街区公園に近い、小さく身近な遊び場であると考えられる。都市公園法施行令と国土交通省の標準では、街区公園は面積0.25ha・誘致距離250mが目安とされ、磐田市の街区公園51園の多くもこの規模に近いと見込まれる。

10.1 絵本の広さと磐田市の公園の広さ

絵本のなかの公園は、見開きいっぱいに広がる原っぱとして描かれやすいことを本稿は論じてきた。これに対し、磐田市が収録する公園の面積には大きな幅がある。もっとも広い竜洋海洋公園(竜洋・総合公園)は221,722平方メートルに達する一方、もっとも狭い二之宮東第2緑地(中泉・都市緑地)はわずか17平方メートルであり、街区公園のなかでも見付本通広場公園(見付・街区公園)は372平方メートルにとどまる。絵本の見開きが描く「一望できる広がり」は、こうした小さな公園の実際の姿とは、しばしば大きく異なる。絵本を読んだ子どもが思い描く公園像と、実際に歩いて行ける近所の公園の広さとの間には、ある程度の落差が生じうることを、大人はあらかじめ理解しておいてよいだろう。

他方で、磐田市の公園のなかにも、絵本の理想化された公園像に近い広さと開放感をもつ園がある。たとえば御厨地区の中央公園に類する地区公園規模の園や、見付地区の今之浦公園(近隣公園、13,675平方メートル)は、市の施設ガイドによれば屋根付広場、噴水広場、芝生広場といった、絵本的な「広々とした遊び場」のイメージに重なる施設を備えるとされる。もっとも、この対応関係は当サイトが施設ガイドの記載から読み取った見通しにすぎず、実際に見開きいっぱいの原っぱのような開放感があるかどうかは、当サイトの現地踏査によってはじめて確かめられる事柄である。

9地区面積の幅身近な公園
図10磐田市の公園は面積が17平方メートルから20万平方メートル超まで幅があり、絵本の理想化された広さとは一様に重ならない。

10.2 見開き構成と歩いて行ける近さ

本稿第4節で論じた「見開きという単位が公園の広がりを一望させる」という効果は、磐田市の9地区にわたる公園の分布とも関わりを持つ。磐田市は見付・中泉・御厨・豊田・南部・向陽・竜洋・福田・豊岡の9地区に分かれ、公園数は豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部・向陽が各2園と、地区ごとに大きな差がある。子どもが歩いて行ける範囲にどれだけの公園があるかは、絵本の一人歩きの物語(本稿第8節)にとって現実の下地となる条件であり、公園数の少ない地区では、街区公園の250mという誘致距離の標準があっても、実際に歩いて行ける先の選択肢は限られると見込まれる。この点も、当サイトの現地踏査と、各地区の道路事情の把握を経て、あらためて検討すべき課題として残る。

また、本稿第9節で触れた歴史的な図像との連続性という論点は、磐田市の公園のなかにも接点を見出せる。中泉地区の京見塚公園は、市の施設ガイドによれば京見塚古墳を園内に含むとされ、公園という現代の施設のなかに、より古い時代の記憶が組み込まれた場所である。絵本が子どもの遊びを描くとき、しばしばその場所固有の歴史には触れず、普遍化された「公園」として描くのに対し、実際の公園は、古墳のように、その土地固有の歴史を背負っていることがある。絵本の理想化された普遍的な公園像と、地域固有の歴史を持つ実際の公園との違いは、絵本を読んだあとに、身近な公園を訪れる意味の一つを示していると言えるだろう。

10.3 設備の有無というデータと絵本の複合遊具

絵本の低い視点が大きく見せがちな複合遊具(滑り台やジャングルジム、ネットクライムなどを組み合わせた遊具)は、磐田市の公園のすべてに一様に存在するわけではない。当サイトが磐田市オープンデータをもとに集計したところでは、収録94園のうち遊具ありのフラグが立つ園は64園、砂場ありは43園であり、トイレありは69園、車いす対応トイレありは34園にとどまる。駐車場についても、市の施設ガイドに「有り」等の記載がある、または当サイトが有と判定した園は33園にすぎない。絵本のなかの公園がほぼ例外なく何らかの遊具を備えた場所として描かれるのに対し、磐田市の公園の一部——都市緑地に多く見られる、面積の小さい園——は、遊具を持たない、緑地としての性格の強い場所である。

この差は、絵本の理想化を批判する材料としてではなく、絵本と現実の公園との「役割の違い」を確認する材料として受け止めたい。絵本のなかの公園は、遊具を介した遊びの物語を語るための舞台として選ばれ、構成されている。一方、磐田市の公園のうち遊具を持たない緑地や広場公園は、遊具遊びとは異なる目的——散歩、休憩、地域の集まりの場——を担っていると考えられる。絵本が描く「遊具のある公園」だけを公園の代表像として思い描くのではなく、遊具のない緑地もまた公園の一部であることを、磐田市のデータは示している。この点も、当サイトの現地踏査を通じて、それぞれの場所の実際の使われ方とあわせて確かめていくべき論点である。

11. 結論と今後の課題

本稿は、絵本研究の概念枠組み——絵と文字の相互作用、見開きという単位、視点の高さ、余白と時間の表現——を手がかりに、公園や外遊びを描いた絵本が何を、どのように伝えてきたかを検討してきた。第一の問いである表現の型については、絵本のなかの公園が、見開き全体を使ったパノラマ型の構図、子どもの目線に近い低い視点、空の開放感を担う余白、季節と天候の丹念な描き分けという、いくつかの反復される技法によって作られていることを示した。第二の問いである理想化については、これらの技法が積み重なった結果、絵本の公園がしばしば実際の都市公園よりも広く、管理の痕跡の見えない、危険の少ない場所として現れること、しかしこの理想化は絵本という表現形式の性質に根ざした、一概に否定できない特徴であることを論じた。第三の問いである子どもだけで歩く物語については、ロジャー・ハートやヒルマンらの子どもの自立的な移動に関する研究群を参照しながら、この物語の型が、現実の行動範囲の変化とは独立に、子どもの成長そのものの比喩として絵本のなかで力強く残り続けてきた可能性を示した。

11.1 本稿の限界

本稿にはいくつかの限界がある。第一に、著作権への配慮から、現代の具体的な作品を詳細に取り上げることを避け、著作権が確実に切れた古典的な作品と、確立した学術文献のみを扱った。このため、現代の絵本が実際にどこまで理想化を離れ、フェンスや駐車場、多様な家族像や多様な遊び方を取り込みつつあるかという、現在進行形の変化については、本稿は具体的に論じることができていない。この点は、著作権に配慮しつつ、より広い作品群を対象とした量的な分析——たとえば図書館の分類や書誌情報を用いた傾向の把握——によって、今後補われるべき課題である。第二に、本稿はあくまで文献整理と概念分析にとどまり、実際に子どもが絵本の公園像をどう受け止め、実際の公園体験とどう照らし合わせているかという、読者研究や発達心理学的な検証は行っていない。第三に、磐田市の公園への示唆は、オープンデータと市の施設ガイドの記載にもとづく見通しであり、当サイトの現地踏査が始まっていない現時点では、絵本的な広さや開放感が実際の公園にどこまで当てはまるかを、確かめることができていない。

11.2 今後の課題

今後の課題として、三つの方向を挙げておきたい。第一に、当サイトの現地踏査が進むにつれて、磐田市の公園、とりわけ街区公園51園について、見通しの良さ、木陰の量、遊具の配置といった、絵本的な公園像と対比しうる具体的な情報を蓄積し、絵本の理想化と実際の公園との距離を、より具体的に検討し直すことができるはずである。第二に、絵本以外の児童文化——紙芝居、テレビアニメ、近年では動画や電子書籍——における公園の描かれ方との比較も、興味深い研究の方向になりうる。異なるメディアが、それぞれの技法的な制約のなかで、公園という主題をどう扱い分けるかを比較することは、絵本という形式固有の特徴を、より際立たせることにつながるだろう。第三に、子どもの自立的な移動をめぐる研究群が示す現実の変化と、絵本のなかで反復される一人歩きの物語との間の緊張を、日本の地方都市という文脈——公共交通の少なさ、自動車への依存、地域による見守りの体制の違い——に即して、より掘り下げて検討することも、残された課題である。

最後に、絵本のなかの公園を論じることの意味を、あらためて確認しておきたい。絵本は現実の公園の記録ではなく、遊びという経験を凝縮し、理想化して伝える表現形式である。この理想化を批判するのではなく、それがどのような技法によって成り立っているかを理解することは、絵本を読み聞かせる大人が、絵本の世界と、子どもが実際に足を運ぶ近所の公園との間の橋渡しを、より自覚的に行う助けになる。磐田市の公園100園は、絵本のなかの理想化された公園とまったく同じではないが、それぞれの面積や設備、地区固有の歴史を背負った、現実の遊び場である。絵本が育む公園への期待と、実際の公園がもつ固有の姿とを、両方大切にしながら見ていくことが、本稿の検討から導かれる、ささやかな結論である。

絵本の型今後の問い実際の公園
図11絵本の理想化を理解したうえで、実際の公園の固有の姿を見ていくことが、今後の踏査を含めた課題として残る。

参考文献

  1. ペリー・ノドルマン(1988)『Words about Pictures: The Narrative Art of Children's Picture Books』(University of Georgia Press)
  2. マリア・ニコラエヴァ/キャロル・スコット(2001)『How Picture Books Work』(Garland Publishing)
  3. ロジェ・カイヨワ(1958)『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社学術文庫、1990)
  4. ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中公文庫、1973)
  5. ロジャー・ハート(1979)『Children's Experience of Place』(Irvington Publishers)
  6. メイヤー・ヒルマン、ジョン・アダムズ、ジョン・ホワイトレッグ(1990)『One False Move: A Study of Children's Independent Mobility』(Policy Studies Institute)
  7. ビアトリクス・ポター(1902)『ピーターラビットのおはなし』(石井桃子訳、福音館書店、1971)
  8. ケイト・グリーナウェイ(1878)『Under the Window』(George Routledge and Sons)
  9. ジェラール・ジュネット(1987)『スイユ——テクストから書物へ』(和泉涼一訳、水声社、2001)
  10. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  11. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  12. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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