芸術・文化・メディア写真論

公園を撮るということ——写真論・記録・写り込みの倫理

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:写真論 公開・更新 2026-08-17 本文 約20,645字 読了目安 38分

要旨

本稿の目的は、写真論の基本的な概念を手がかりに、公園という被写体を撮影し掲載するという行為が何を選び、何を隠しているのかを明らかにすることである。方法は文献整理と概念分析であり、スーザン・ソンタグ『写真論』(1977)、ロラン・バルト『明るい部屋』(1980)、ヴァルター・ベンヤミンの複製技術論(1935/36年執筆)という写真論の古典を中心に、公園の写真という具体的な場面へ概念を読み直す。

検討の結果、公園の写真は季節・時刻・視点という三つの軸において常に選択の産物であり、「そこにあるものをそのまま写した」記録ではなく、ある印象を生む解釈であることが確認された。また写真に人物が写り込むとき、とりわけ子どもが写り込むときには、肖像権・プライバシーへの配慮と、被写体本人がまだ十分に同意の主体となりにくいという発達上の事情の両方が絡み合うことを、最高裁判所の判例や子どもの権利条約という確実な典拠に照らして示した。

最後に、都市公園100園を紹介する磐田市の公園データベースという当サイトの性格に照らし、写真の掲載がどのような編集上の責任を伴うかを検討した。当サイトの現地踏査は始まったばかりであり、本稿で述べる撮影・掲載の方針は今後の踏査の中で具体的な場面ごとに検証されるべき仮説にとどまる。

キーワード写真論記録まなざしプンクトゥム肖像権複製技術磐田市

1. はじめに——問題の所在

ATAWI PARKは磐田市内の都市公園100園を紹介するにあたり、各ページに公園の写真を添えることを検討している。写真は文章だけでは伝わりにくい遊具の形状やベンチの配置、木陰の広がりを一目で伝える便利な手段である。しかし写真を「そこにあるものをそのまま写したもの」として素朴に扱ってよいかは、写真論という学問領域が一世紀近く問い続けてきた論点である。本稿は写真論の基本的な考え方を整理し、公園という被写体に即して撮影・掲載という行為が何を選び、何を隠しているのかを検討する。

問いは三つに分けられる。第一に、公園を撮った一枚の写真は何を「記録」しているのか、記録という言葉自体が写真の性格をどこまで言い当てているのかという問いである。第二に、写真に人物が写り込むとき、とりわけ子どもが写り込むとき、撮影と掲載はどのような配慮を要するかという問いである。第三に、これら二つの問いをふまえたとき、公園データベースを掲げる当サイトは写真の扱いについてどのような編集上の姿勢を持つべきかという問いである。

方法は文献整理と概念分析である。写真論の古典として広く参照されるスーザン・ソンタグ『写真論』(1977)、ロラン・バルト『明るい部屋』(1980)、ヴァルター・ベンヤミンの複製技術論(1935/36年執筆)を中心に据え、そこで提示された概念を公園の写真という具体的な場面に照らして読み直す。加えて、肖像権や子どもの権利にかかわる典拠についても、存在が確実なものに限って参照する。統計値や研究成果の数値については、法令や国の指針に明記のあるものを除き、断定を避けて「〜とされる」「〜という議論がある」という形で述べる。

1.1 構成

構成は次のとおりである。第2節で写真論の主要な概念を整理し、第3節から第6節で撮影という行為の選択性、見る者の経験、複製と記録の関係、まなざしの権力性を順に検討する。第7節と第8節で肖像権・プライバシーおよび子どもの写真に特有の論点を扱い、第9節で磐田市の公園という具体的な対象への示唆を述べ、第10節で結論と今後の課題を示す。各節はそれぞれ独立した論点を扱うため、必要な節だけを読んでも要旨がつかめるように書く。

なお本稿は写真の技術的な巧拙や撮影機材を論じるものではない。焦点は、公園という公共空間を撮るという行為が孕む選択性と、そこに人が写り込むことが招く倫理的な要請の二点にある。当サイトの運営主体は富士ヶ丘サービス株式会社であり、公園紹介は情報提供を目的とするが、本稿の考察はその枠を超えて写真論という学問の言葉で公園の写真を捉え直す試みである。踏査(現地調査)はこれからであり、本稿で述べる方針は今後の踏査の中で具体的な場面ごとに検証されるべき仮説として位置づけられる。

1.2 なぜ公園の写真をあえて理論から問うのか

公園の写真は一見、ごく日常的で理論的な考察を要しないもののように思える。遊具を撮り、広場を撮り、案内板を撮る。それだけのことに写真論という学問の言葉を持ち出すのは大げさに映るかもしれない。しかし、日常的で当たり前に見えるものほど、その選択性は意識されにくい。公園紹介という一見中立的な情報提供の営みの中にも、何を撮り何を撮らないかという判断は必ず含まれており、その判断を無自覚に行うことと、判断であると自覚したうえで行うこととの間には、掲載する側の責任の取り方において大きな違いがある。本稿があえて古典的な写真論を参照するのは、この自覚を言葉にして共有するためである。

写真論が扱ってきた対象は、報道写真や芸術写真、家族写真など多岐にわたるが、公園の写真はそのいずれとも異なる独自の位置を占める。報道写真のように事件性を伝えるものでも、芸術写真のように作家性を前面に出すものでもなく、家族写真のように私的な記念を目的とするものでもない。公園紹介の写真は、公共施設を案内するという実務的な目的を持ちながら、そこに写り込む人々や季節の表情によって、報道写真・家族写真的な性格をわずかに帯びる、いわば境界的な写真である。この境界的な性格こそが、本稿が肖像権や子どもの写真という論点まで踏み込んで検討する理由である。

本稿の限界にも触れておく。本稿は写真論の古典を通じた概念整理と、そこから導かれる編集方針の見通しを示すものであり、実際の撮影・掲載にあたって生じる個別の判断——ある特定の一枚を掲載してよいかどうかという判断——にまで答えを与えるものではない。個別の判断は、本稿が示す一般的な考え方を踏まえつつ、その都度の状況に応じて当サイトの運営の中で検討されるべき事柄である。

対象読者についても述べておく。本稿は磐田市周辺で子育てをする世代、行政の担当者、地域の関係者、そして公園や写真論に関心を持つ学生を主な読者として想定している。専門用語には初出でできるだけ平易な説明を添え、写真論を専攻していない読者でも公園の写真という身近な題材を通じて基本的な考え方を理解できるように努めた。同時に、肖像権や子どもの権利にかかわる部分については、断定を避けつつも実務上の判断の目安となる程度の具体性を保つよう心がけた。

撮影問い論考
図1公園を撮るという行為を、記録・写り込み・編集責任という三つの問いから写真論として検討する構成を示す。

2. 先行研究と概念の整理——写真論の三つの古典

写真論の出発点としてしばしば参照されるのが、スーザン・ソンタグの『写真論』(1977)である。ソンタグは、写真が撮ることを通じて世界を「収集」する行為であると論じた。カメラを構えるという振る舞いは、被写体を選び、切り取り、枠の外にあるものを排除する営みであり、写真が増えることは必ずしも世界の理解が深まることを意味しない、とソンタグは指摘する。この視点に立てば、公園の写真もまた、無数にありうる公園の姿の中からある一瞬・ある角度だけを「収集」したものにすぎない。

第二の古典は、ロラン・バルトの『明るい部屋』(1980)である。バルトは写真の中に二つの水準を区別した。一つは「ストゥディウム」で、文化的な知識や関心にもとづいて説明できる要素である。もう一つは「プンクトゥム」で、説明の理屈を超えて見る者を個人的に刺す、ごく細部の何かである。バルトのこの区別は、公園の写真を誰が見るかによって印象が大きく変わることの理論的な足場になる。詳しくは第4節で扱う。

第三の古典は、ヴァルター・ベンヤミンが1935年から36年にかけて執筆した「複製技術時代の芸術作品」である。ベンヤミンは、写真や映画のように複製が容易な技術が登場したことで、作品が本来もつ「いま・ここ」にしかない一回性(アウラ)が凋落する、と論じた。公園という場所は本来、その場に立たなければ得られない体験の集積であるが、写真として複製され配布された瞬間に、体験の一部が誰でもアクセス可能な画像へと変換される。この変換が何を得て何を失わせるのかは、公園の写真を考えるうえで避けて通れない論点である。

2.1 三つの古典の位置づけ

三者の関心は重なりながらも力点が異なる。ソンタグは撮る側の振る舞いと社会的な効果に、バルトは見る側の個人的な経験に、ベンヤミンは複製という技術的な条件に、それぞれ重心を置いている。本稿はこの三つの視点を順に公園の写真に当てはめ、撮る・見る・複製するという三つの局面から論を組み立てる。あわせて、ジョン・バージャーの『イメージ』(1972)やピエール・ブルデューの『写真論——その社会的効用』(1965)にも触れる。バージャーは「見る」という行為自体が中立ではなく社会的な条件づけを受けることを論じ、ブルデューは家族写真という具体例を通じて、写真の撮り方が社会的な慣習によって強く規定されることを示した。

論者・年中心となる概念公園の写真への示唆
ソンタグ(1977)収集としての撮影公園の写真も現実の一部を選び取る行為であり、網羅にはならない
バルト(1980)ストゥディウムとプンクトゥム説明できる関心と、見る者だけに刺さる細部の両方が働く
ベンヤミン(1935/36)複製技術とアウラの凋落その場でしか得られない体験が複製画像へと変換される
バージャー(1972)/ブルデュー(1965)見ることの社会的条件づけ撮り方・見え方は社会的な慣習や立場に規定される

註:本稿で扱う古典はいずれも実在が確実な著作であり、邦訳の書誌情報は references に記す。年代・訳者・出版社の記載に誤りがないよう努めたが、版によって刊行年が異なる場合がある。

2.2 写真論と近接する学問領域との関係

写真論は単独の学問領域として確立しているわけではなく、美学・社会学・記号論・法学など複数の領域にまたがる学際的な性格を持つ。本稿が写真論を独立した節として立てるのは、公園というありふれた被写体を撮影・掲載するという実務的な行為の中に、これらの学問領域が積み重ねてきた問いが凝縮されているからである。美的な観点からは「よい写真とは何か」が問われ、社会学的な観点からは「誰が誰を撮るか」という関係が問われ、記号論的な観点からは「写真は何を意味するか」が問われ、法学的な観点からは「撮影・公開は誰の権利とどう関わるか」が問われる。第7節・第8節で扱う肖像権や子どもの権利は、この学際性のうち法学・倫理学に近い部分にあたる。

写真論の古典が刊行された時代背景にも触れておく必要がある。ソンタグの『写真論』が刊行された1970年代は、写真が新聞・雑誌・家庭という広い範囲に浸透し、大量に生産・消費される時代であった。バルトの『明るい部屋』が刊行された1980年は、写真が個人的な喪失の経験と結びつけて論じられた時代であり、バルト自身が母の死後に遺された写真をめぐって思索を深めたことが知られている。ベンヤミンの複製技術論は1930年代、写真と並んで映画という新しい複製技術が社会に急速に広がりつつあった時代に書かれた。それぞれの古典は、その時代における複製技術の浸透度合いを背景にしており、現代のようにデジタルカメラやスマートフォンで誰もが日常的に撮影・共有できる時代とは前提条件が異なる。この違いを踏まえつつも、写真が選択の産物であること、見る者に応じて受け取られ方が変わること、複製が一回性の経験を変質させることという三つの基本的な洞察は、現代の公園の写真にもそのまま当てはめて考えることができる。

本稿がこれらの古典を選んだ基準についても述べておく。写真論には他にも数多くの論者がいるが、本稿では、実在と邦訳の書誌が確実に確認できること、公園という具体的な被写体に応用しやすい概念を提示していること、という二つの基準で古典を絞り込んだ。存在が確かでない議論や、数値を伴う実証研究のうち出典を確認できないものは、たとえ写真論としてよく知られた名前であっても本稿では扱わない。この方針は、実在が確実な文献のみを参照するという本稿全体の執筆方針に沿ったものである。

古典三つの視点年代
図2ソンタグ・バルト・ベンヤミンという写真論の三つの古典を、撮る・見る・複製するという局面ごとに整理する。

3. 撮影という選択——季節・時刻・視点が生む印象の違い

ソンタグが指摘したように、写真は世界の断片を選び取る行為である。公園の写真において、この選択がもっとも分かりやすく現れるのが季節・時刻・視点という三つの軸である。同じ公園であっても、桜の咲く時期に撮られた写真と、落葉が進んだ時期に撮られた写真とでは、受け手が抱く印象はまったく異なる。花や緑は「訪れたくなる場所」という印象を強めやすく、枯れ木や曇天は「寂しい場所」という印象を強めやすい。どちらも同じ公園の実際の姿でありながら、選ばれた季節によって伝わる意味が変わる。

時刻についても同様のことが言える。朝の柔らかな光の中で撮られた写真と、日没近くの長い影が伸びる写真とでは、遊具や広場の見え方が大きく違って見える。晴天の日中に撮ることが多いのは、単に見やすいからだけでなく、「明るく安全そうな場所」という印象を作りやすいからでもある。逆に言えば、雨の日や薄暗い時間帯の公園の姿は、写真として選ばれにくいために伝わりにくい。当サイトが公園の写真を掲載する場合、晴天の写真だけに偏れば、利用者が実際に訪れる多様な条件——雨上がりの水たまり、夕方の混雑、冬の日照時間の短さ——についての情報が抜け落ちる可能性がある。

3.1 視点の高さと構図

視点の高さも印象を左右する。大人の目線から見下ろすように撮られた写真と、子どもの目線に近い低い位置から撮られた写真とでは、遊具の大きさや距離感が違って見える。子ども向けの施設を紹介する目的であれば、子どもの目線に近い構図の方が実際の利用感覚に近い情報を伝えられる可能性がある一方、大人の目線からの写真は公園全体の配置や広さを把握しやすいという利点がある。どちらか一方が「正しい」構図というわけではなく、伝えたい情報に応じて選択されるべきものである。

重要なのは、これらの選択が撮影者の意図の有無にかかわらず必然的に生じる、という点である。写真を撮るという行為は、選ばないという選択肢を持たない。レンズを向けた瞬間に、季節・時刻・視点のどれかは必ず選ばれている。したがって「ありのままを撮った」という言い方は、写真の性質を正確に言い当てていない。撮る側にできるのは、自分がどの季節・時刻・視点を選んでいるかを自覚し、必要であれば複数の条件下で撮り直す、あるいはその写真が公園の一面にすぎないことを言葉で補うことである。

この点は、当サイトが目指す公園データベースという性格とも関わる。100園を横並びで比較できることが当サイトの特徴の一つであるならば、撮影条件——季節・時刻・天候——をできるだけ揃えることが、公園どうしの比較を公平にするうえで望ましい。逆に条件を揃えられない場合には、撮影日時を明示するなど、写真が特定の一瞬を切り取ったものであることを利用者に伝える工夫が必要になる。この点は今後の踏査計画の中で具体的に検討すべき課題である。

3.2 天候という見過ごされやすい軸

季節・時刻・視点に加え、天候もまた撮影の選択性を強く左右する軸である。晴天は遊具や芝生の色を鮮やかに見せ、写真として「映える」条件になりやすい一方、曇天や雨天は同じ場所を落ち着いた印象、あるいは寂しい印象に見せやすい。公園紹介の写真が晴天の日にばかり撮られる傾向があるとすれば、それは天候による見え方の差を無意識に選び取っている結果であり、雨の日や曇りの日に公園を利用する人々の経験を写真から排除することにもつながりかねない。とりわけ磐田市のように梅雨や台風の時期がある地域では、雨天時の水はけや足元の状態は利用者にとって実用的な関心事であり、晴天の写真だけでは伝わらない情報である。

季節による見え方の違いは、遊具そのものの利用感覚にも影響する。夏場は日照や地面の温度が高くなりやすい時間帯があるとされ、冬場は日照時間が短く夕暮れが早いといった一般的な傾向がある。こうした季節差は、同じ遊具・同じ広場であっても、写真に写る様子だけでなく、実際にそこで過ごす体感を大きく変える。写真は温度や湿度、風の強さを直接には伝えられないため、季節ごとの体感差を補う説明は、写真とは別に文章で担う必要がある。この役割分担については第5節でさらに検討する。

撮影者が季節・時刻・視点・天候という複数の軸を意識的に選ぶことは、それ自体が一種の編集行為である。写真を一枚だけ掲載するのではなく、可能であれば複数の条件下で撮影した写真を組み合わせて掲載することも、選択の偏りを緩和する一つの方法になりうる。ただし撮影の手間や掲載できる分量には限りがあるため、すべての公園ですべての条件を網羅することは現実的ではない。当サイトとしては、少なくとも撮影日時を明示することを最低限の方針とし、条件をどこまで揃えるかは今後の踏査の中で実務的に検討していく必要がある。

季節時刻視点
図3季節・時刻・視点という三つの軸のどれを選ぶかによって、同じ公園の写真の印象が変わることを示す。

4. プンクトゥムと公園の写真——見る者の経験

第2節で触れたバルトの区別を、公園の写真に即してもう少し立ち入って検討する。バルトの言う「ストゥディウム」とは、その写真が何を写しているかを文化的・社会的な知識にもとづいて理解する水準である。公園の写真であれば、遊具の種類、広さ、トイレの有無といった情報がここに含まれる。これは撮影者が意図して伝えようとする情報であり、当サイトが公園紹介の写真に求める役割の多くはこのストゥディウムの水準にある。

これに対して「プンクトゥム」は、撮影者の意図とは無関係に、見る者の個人的な記憶や経験と結びついてその人だけを刺す細部である。たとえば、ある利用者にとってはブランコの錆の色が、かつて通った別の公園を思い出させるかもしれない。別の利用者にとっては、写真の隅に写り込んだベンチの傾き方が、祖父母と過ごした時間を想起させるかもしれない。こうした反応は撮影者が制御できるものではなく、見る者ごとに異なる。バルトはこの予測不可能性こそが写真を単なる情報伝達の道具以上のものにする、と論じた。

4.1 データベースの写真とプンクトゥム

公園データベースとしての当サイトが目指す写真は、基本的にはストゥディウムの水準——遊具の種類や配置、トイレの位置といった客観的な情報——を伝えることに主眼がある。プンクトゥムを狙って撮ることは、そもそも撮影者の意図でコントロールできる性質のものではないため、目標にはなりえない。しかし、写真を見る利用者の側にプンクトゥムが生じる可能性そのものを否定することもできない。ある家族にとっては、当サイトに掲載された何気ない一枚の写真が、その公園を訪れる決め手になるかもしれない。この意味で、写真は情報以上の何かを運ぶ媒体でもある。

この二つの水準を意識することは、写真の選び方に実務的な示唆を与える。情報伝達を優先するなら、遊具全体が写り込む引きの構図や、案内板が読み取れる構図が適している。一方で、見る者の個人的な経験に開かれた写真を排除する必要はない。むしろ、無機質な記録写真だけでなく、木陰やベンチのように利用者が時間を過ごす場面を想像させる要素を含む写真は、ストゥディウムとしての情報量を保ちながら、プンクトゥムが生じる余地も残す。

ただし、プンクトゥムが個人の記憶に根ざす以上、撮影者や編集者がそれを狙って演出することには限界がある。演出を強めすぎれば、かえって写真が「作られたもの」という印象を与え、公園データベースとしての信頼性を損ないかねない。当サイトとしては、正確な情報を伝えるストゥディウムの水準を土台としつつ、過度な演出を避けるという方針が妥当であると考えられる。

4.2 「ça a été(それはかつてあった)」という写真の性格

バルトは『明るい部屋』の中で、写真の本質を「ça a été(それはかつてあった)」というフランス語の一語に凝縮させた。絵画が想像上の光景を描けるのに対し、写真は必ず、レンズの前に実際に存在した何かを起点に成立する。この性質は、写真が事実に根ざしているという安心感を利用者に与える一方で、その「かつてあった」瞬間がいつのものかを写真自体は説明しない、という限界も伴う。公園の写真が「かつて、ある一瞬にこう見えた」ことを保証しても、「今もそう見える」ことまでは保証しない。遊具は経年で塗装が剥げ、樹木は成長し、案内板は更新される。撮影日時を明示することは、この「ça a été」の性質を利用者に正しく伝えるための、ささやかだが重要な工夫である。

見る者の経験という観点は、公園データベースの利用場面を考えるうえでも示唆的である。初めて磐田市に転居してきた家族が近隣の公園を写真で比較検討する場面では、写真はほぼストゥディウムの水準——遊具の種類や広さ、設備の有無——で参照されるだろう。一方、すでに慣れ親しんだ公園の写真を見返す場面では、そこにプンクトゥムが生じる余地がより大きくなる。同じ写真であっても、見る人の状況によって受け取られ方が変わるという事実は、写真の掲載方針を一律に決めることの難しさを示している。

この点をふまえると、当サイトが目指すべきなのは、プンクトゥムを人為的に作り出そうとすることではなく、ストゥディウムの水準における情報の正確さと網羅性を高めることによって、結果としてプンクトゥムが生じる余地を残すという間接的な方針である。遊具の種類やベンチの数を漏れなく伝えようとする実直な写真の積み重ねが、かえって見る者それぞれの記憶と静かに結びつく可能性を持つ、という逆説を本節の結論としたい。

まなざし個人の記憶写真
図4情報として理解される水準(ストゥディウム)と、見る者だけを刺す細部(プンクトゥム)の違いを図示する。

5. 複製技術時代のアウラと公園の記録

ベンヤミンが論じたアウラの凋落という考え方を、公園という場所に当てはめて考えてみる。ベンヤミンによれば、複製技術以前の芸術作品は、特定の場所と時間に固有の「いま・ここ」性、すなわちアウラをまとっていた。写真や映画のような複製技術は、作品を本来の文脈から切り離し、いつでもどこでも見られる画像へと変換する。この変換によって作品は広く流通するようになる一方、その場に立たなければ得られなかった一回性の経験は失われる。

公園は芸術作品ではないが、類似の構造を持つ。公園という場所での経験——風の匂い、遠くの子どもの声、木漏れ日の揺れ方——は、その場に居合わせなければ得られない一回性のものである。写真はこうした経験の一断面を切り取り、複製可能な画像に変換する。画像は誰でもどこでも見られるようになる一方、風の匂いや音、体感温度といった写真に写らない要素は伝わらない。この落差を自覚しないまま「写真を見れば分かる」と考えることは、公園という場所の理解を平板にしてしまう危うさを持つ。

5.1 記録という言葉の危うさ

「記録」という言葉は、あたかも対象をそのまま保存するかのような響きを持つ。しかし前節までに見たように、写真は撮影の時点で季節・時刻・視点を選び、見る者の側でストゥディウムとプンクトゥムという異なる水準の反応を引き起こし、さらに複製されることで元の場所の一回性を失う。これらを踏まえれば、写真を「公園の記録」と呼ぶこと自体が、ある種の単純化を含んでいると言わざるをえない。当サイトが写真を「記録」として掲載する際には、この単純化を自覚したうえで、写真だけに頼らない文章による補足を併用することが望ましい。

もっとも、ベンヤミンの議論は複製技術を一方的に否定するものではない。複製によって多くの人が同じ画像に触れられるようになることは、遠方に住む人や、体調や事情で現地を訪れにくい人にとって、その場所を知る手がかりを提供するという積極的な意味も持つ。磐田市外に住む人や、まだ小さな子どもを連れて初めての公園を選ぶ保護者にとって、複製された写真は現地に足を運ぶかどうかを判断する材料になりうる。公園データベースとしての当サイトの写真は、この積極的な意味を担う一方で、アウラの凋落という代償を伴うことも忘れてはならない。

複製技術によって画像が広く流通するようになった結果、同じ写真が意図しない文脈で使われる可能性も生じる。ある公園の写真が、当初の紹介目的とは異なる文脈で転用されることは、複製技術が持つ性質上、完全には防ぎきれない。この論点は次節でまなざしの権力性として、また第7節で肖像権・プライバシーの問題としてさらに検討する。

5.2 文章と写真の役割分担

アウラの凋落という論点から導かれる実務上の示唆は、写真だけに情報の伝達を任せない、という姿勢である。写真が伝えられるのは視覚的な情報に限られ、風の匂いや音、地面の感触、その場の混雑具合といった要素は写真には写らない。当サイトが公園ごとに文章による説明を併記しているのは、写真では届かない情報を言葉で補うためであり、この役割分担は本節の議論からも裏づけられる。写真と文章は競合する情報源ではなく、互いの限界を補い合う関係にあると位置づけるのが妥当である。

また、複製された画像が流通することの積極的な意味は、磐田市の公園という文脈でも具体的に考えられる。転居を検討している家庭や、休日に遠方から訪れることを検討している家庭にとって、現地に赴く前に写真で様子を確認できることは、移動の負担や時間の制約を考慮した合理的な情報収集の手段になる。ベンヤミンが論じたアウラの凋落は、単なる喪失としてではなく、アクセスしやすさの拡大という対になる価値とあわせて理解する必要がある。当サイトが写真を掲載する意義は、まさにこのアクセスしやすさの拡大にある。

アウラの凋落という考え方は、写真の更新頻度という実務上の課題にもつながる。複製された画像は撮影された時点で固定され、その後の公園の変化——遊具の更新、樹木の生長、季節の移り変わり——を自動的には反映しない。ある時点で撮影された写真がいつまでも「現在の姿」として掲載され続ければ、複製技術が持つ固定化の性質が、かえって利用者に古い情報を与え続ける結果になりかねない。写真には撮影時期を明示し、必要に応じて定期的に更新するという運用上の姿勢が、アウラの凋落を前提としたうえでの誠実な対応であると言える。

その場の経験季節の推移複製された画像
図5その場でしか得られない一回性の経験が、複製された画像に変換されることで何を得て何を失うかを示す。

6. まなざしの権力——誰が撮り、誰が撮られるか

写真論には、撮る側と撮られる側の関係を対等なものとは見ない系譜がある。ジョン・バージャーは『イメージ』(1972)において、「見る」という行為が中立的な知覚ではなく、社会的な立場や権力関係によって条件づけられることを論じた。誰が誰をどのように撮るかという問いは、単なる技術の問題ではなく、撮る側と撮られる側のどちらが主導権を持つかという関係の問題でもある。公園という公共空間においても、この非対称性は無視できない。

公園でカメラを構える人は、多くの場合、被写体である遊具や広場、そしてそこに居合わせる人々よりも一時的に優位な立場に立つ。何を画面に収め、何を外すかを決めるのは撮る側であり、写り込む側はその決定に関与できないことが多い。公園を紹介する目的で撮影する場合であっても、この非対称性そのものは消えない。むしろ「公共の場だから自由に撮ってよい」という前提を無批判に置くことは、この非対称性を見えにくくする危うさを持つ。

6.1 公共空間であることと自由に撮れることは別である

都市公園法にもとづく公園は、誰もが利用できる公共の空間である。しかし「誰もが利用できる」ことと「誰もが自由に撮影し、撮った画像を自由に公開してよい」こととは、論理的に同じ事柄ではない。利用の自由は、その場に居合わせた他の利用者の権利や利益を損なわない範囲で認められるものであり、撮影・公開の自由についても同様の限定がかかりうる。この区別は、後述する肖像権やプライバシーの議論の前提となる。

ブルデューの『写真論——その社会的効用』(1965)は、家族写真という日常的な撮影行為が、実は社会階層や家庭内の慣習によって強く規定されていることを示した研究として知られる。誰が撮影者になり、誰が被写体になるかという役割分担、どのような場面を撮るべきとされるかという慣習は、個人が自由に選んでいるようでいて、実は社会的な型に沿っている場合が多い。公園の写真についても、「子どもが遊具で遊ぶ様子」を撮るという型は広く共有されているが、その型自体が、誰の視点から公園が「よい場所」とされるかという価値観を反映している可能性がある。

当サイトが公園を紹介する写真を撮る立場に立つとき、この非対称性を自覚することが求められる。撮影者は情報提供者であると同時に、公園の一部を選び取り、そこに居合わせる人々の姿を画面に収めるかどうかを決める立場にある。次節では、この非対称性が具体的に肖像権・プライバシーという法的・倫理的な論点とどう結びつくかを検討する。

6.2 「防犯のためのまなざし」との違い

公園をめぐるまなざしの議論としては、犯罪学の分野で論じられる見通しの良さ(防犯上の視認性)も知られており、地域の目が行き届くことが安全につながるという考え方が広く共有されている。しかし、防犯上のまなざしと、写真を撮って掲載するというまなざしとは、性質が異なる。防犯上のまなざしは、その場に居合わせることで自然に生じる相互監視のようなものであり、記録として固定され広く配布されるわけではない。これに対して撮影・掲載というまなざしは、ある瞬間を切り取って固定し、公園の外の不特定多数に向けて配布する行為であり、写り込む側の与り知らないところで画像が拡散する可能性を伴う。この違いを踏まえずに「見守りのためだから撮ってよい」という理屈を撮影・掲載にそのまま適用することはできない。

まなざしの非対称性は、撮影者が善意で公園紹介を行っている場合であっても解消されない点に注意が必要である。善意であることと、被写体となる人々の権利や利益に配慮していることとは別の事柄であり、善意を理由に配慮を省略してよいことにはならない。この認識は、次節以降で検討する具体的な配慮の内容を裏づける土台となる。

まなざしの非対称性という論点は、撮影者と被写体だけでなく、撮影者と編集者・掲載者が分かれる場合にはさらに一段階増える。撮影した写真をそのまま掲載するか、部分的に切り取るか、どのような文脈の文章とともに並べるかを決めるのは、多くの場合、撮影者本人ではなく編集にあたる側である。当サイトのように複数の担当者が撮影・編集・掲載に関わる場合には、撮影時点での配慮だけでなく、掲載を判断する段階でも同様の非対称性への注意が求められる。撮影者が現場で行った判断を、編集者が離れた場所で追認するだけでは、現場の状況を十分に踏まえた判断にならない可能性がある。

視線配慮居合わせる人々
図6撮る側と撮られる側の非対称性が、公共空間である公園でも消えないことを示す。

7. 人物の写り込みと肖像・プライバシーへの配慮

前節で確認した撮る側と撮られる側の非対称性は、日本の法制度においても一つの権利として認められてきた。最高裁判所大法廷は昭和44年(1969年)12月24日の判決、いわゆる京都府学連事件において、何人も承諾なしにみだりに自分の容ぼう等を撮影されない自由を有することを、憲法第13条が保障する個人の自由の一内容として認めた。この判決は刑事事件を扱ったものであり、私的な写真の掲載に直接適用される規定ではないが、「みだりに撮影されない自由」という考え方は、その後の肖像権をめぐる議論の重要な出発点として広く知られている。

公園の写真を撮影・掲載する場面にこの考え方を当てはめると、次のような整理ができる。遊具や広場全体を写した写真の中に、たまたま他の利用者が写り込むことは避けがたい。しかし、特定の個人の容ぼうが判別できる形で写り、かつ本人の承諾を得ていない場合には、「みだりに撮影されない自由」との緊張関係が生じうる。この緊張は、撮影の目的が公園紹介という公共性を持つとしても、当然には解消されない。撮影者・掲載者の側には、写り込みを最小限にする工夫や、判別できる形での掲載を避けるといった配慮が求められる。

7.1 個人情報保護の考え方との関係

肖像権に近接する論点として、個人情報保護の考え方がある。個人情報保護法制のもとでは、特定の個人を識別できる情報の取り扱いに一定の配慮が求められるという考え方が広く共有されている。人物の容ぼうが判別できる写真は、この考え方に照らしても慎重な扱いを要する情報にあたりうる。もっとも、具体的にどの程度の解像度や写り方であれば「識別できる」とみなされるかは、個別の事情によって判断が分かれるため、本稿では一般論以上の断定を避ける。判断が必要な具体的な場面については、法律専門家や関係機関の見解を確認すべきである。

実務上の対応としては、次のような方向性が考えられる。第一に、可能な限り人物の容ぼうが判別できない構図——遠景、後ろ姿、逆光など——を選ぶこと。第二に、判別できる形で写った場合には、本人(未成年であれば保護者)の意向を確認し、確認できない場合は掲載を見送ること。第三に、公園紹介の目的上どうしても人物を含む写真が必要な場合には、モデルとして協力を依頼するなど、撮影の性格を明確にすることである。これらはいずれも一般的な配慮の方向性であり、当サイトとして最終的にどの手法を採るかは、今後の踏査計画の中で個別に検討する必要がある。

なお、公園という場所の性格上、写り込みそのものを完全にゼロにすることは現実的ではない。重要なのは「写り込みは避けられない」という前提を認めたうえで、判別可能性を下げる工夫と、判別可能な場合の掲載可否の判断基準を、撮影者・編集者があらかじめ持っておくことである。この判断基準を持たないまま撮影・掲載を進めることは、まなざしの非対称性を無自覚に行使することにほかならない。

7.2 公共性と私事性のあいだ

肖像権をめぐる議論では、公共の関心事にかかわる場面ほど本人の同意なしの撮影・公開が許容されやすく、私的な場面ほど本人の意向が重んじられる、という一般的な傾向がしばしば指摘される。この考え方を単純に当てはめれば、公園という公共空間での行動は「公共の場面」として扱われやすいようにも見える。しかし、公園で子どもを遊ばせる、ベンチで休む、といった行為は、公共の場所で行われていても、その人にとってはきわめて私的な時間である場合が多い。場所が公共であることと、そこでの行為が私事性を帯びることとは両立しうるのであり、「公共の場だから公共の関心事である」という短絡は避けなければならない。

また、掲載する媒体の性格も配慮の程度に関わる。当サイトのように不特定多数がいつでも閲覧でき、検索エンジンを通じて長期間にわたり参照されうる媒体に写真を掲載することは、その場限りで消える会話や、限られた相手にしか見せない私的なアルバムとは性質が異なる。半永久的に参照可能な形で人物の容ぼうを公開することの重みを踏まえれば、判別可能な人物写真の掲載は、他の配慮を尽くしてもなお最後の手段として位置づけるべきである。

承諾を得る手続きについても具体的に考えておく必要がある。撮影の場で口頭により承諾を得たとしても、後日その撮影内容がどのように掲載されるかまで正確に伝わっているとは限らない。掲載後に本人や保護者から削除の要望があった場合に速やかに応じる体制を整えておくことも、承諾を得る手続きと同じくらい重要な配慮である。承諾は一度得れば終わりというものではなく、掲載後も継続的に本人の意向を尊重する姿勢の一部として位置づけるべきものである。

配慮承諾判別可能性
図7人物が判別できる形で写り込む場合には、承諾の確認や掲載可否の判断基準があらかじめ必要になることを示す。

8. 子どもが写る写真に特有の論点

公園という場所の性格上、写真に写り込む人物の多くは子どもとその保護者である。子どもが写る写真には、前節で述べた肖像権・プライバシーの一般的な配慮に加えて、いくつかの特有の論点がある。第一に、子どもは自分の写真がどのように使われるかを十分に理解し、自ら同意する主体としてはまだ限定的な存在であるという発達上の事情である。写真の公開に同意できるのは基本的に保護者であり、子ども本人の意思とは独立に判断が下される場面が多い。

この点について、児童の権利に関する条約(1989年国連総会採択、1994年日本批准)は、子どもの意見をその発達に応じて尊重すべきこと、また子どものプライバシーが恣意的に干渉されないことを定めている。条約は写真撮影を直接に規定するものではないが、子どもを一人の権利主体として扱い、その意見と私生活の双方に配慮すべきだという考え方は、公園で子どもを撮影・掲載する場面にも当てはめて考えることができる。

8.1 「かわいらしさ」という視線の危うさ

子どもが遊ぶ様子を撮った写真は、しばしば「かわいらしい」「微笑ましい」という好意的な文脈で受け止められる。しかし、この好意的な受け止め方があるからこそ、撮影・掲載する側の配慮が緩みやすいという逆説がある。「良い写真だから問題ない」という判断は、写真に写る子ども本人がどう感じるか、保護者がどう考えるかとは別の基準である。バージャーが論じたように、見るという行為は常に社会的な条件づけを受けており、「かわいらしい」という評価そのものが、撮る側の視点を無批判に正当化する働きを持ちうることに注意が必要である。

実務上の論点を整理すると、法的観点・発達的観点・編集上の観点という三つの軸で考えることができる。法的観点では、肖像権や個人情報保護の考え方に照らし、本人・保護者の意向を尊重すべきとされる。発達的観点では、子どもが写真の公開に同意する主体としてまだ限定的であることを踏まえ、児童の権利に関する条約の趣旨に照らして慎重に扱う必要がある。編集上の観点では、顔が判別できる形での掲載を避け、後ろ姿や遠景を選ぶ、あるいは遊具そのものに焦点を当てるといった工夫が考えられる。

観点配慮の方向本稿の立場
法的観点肖像権・個人情報保護の考え方本人・保護者の意向を尊重すべきとされる
発達的観点子どもは同意の主体として発達途上にある児童の権利条約の趣旨に照らして慎重に扱う
編集上の観点顔の判別を避ける構図の工夫遠景・後ろ姿・遊具中心の構図を優先する

以上を踏まえ、当サイトが公園紹介の写真に子どもを含める場合には、遊具や広場そのものを主役とし、子どもの姿は判別できない形で背景的に含むにとどめる、という方針が一つの妥当な選択肢になると考えられる。どうしても子どもを主題とした写真が必要な場合には、撮影の目的と掲載範囲をあらかじめ保護者に説明し、明確な同意を得る手続きを踏むべきである。これらの手続きの具体的な設計は、法律専門家の助言も踏まえながら今後の踏査計画の中で定めていく課題である。

8.2 家族写真との違い

ブルデューが分析した家族写真は、家族という限られた関係の中で撮影・共有され、鑑賞される範囲もその家族や親族に限られることが多い私的な写真であった。これに対し、公園紹介という目的で撮影される子どもの写真は、たとえ写る子どもが被写体として家族写真と似た構図であっても、掲載される媒体は不特定多数に開かれた公共的な媒体である点で決定的に異なる。家族写真として許容される撮影・保存の慣習を、公共的な媒体への掲載にそのまま当てはめることはできない。この違いを意識せずに「子どもが遊ぶ微笑ましい写真」を安易に掲載することは、私的な写真の感覚を公共的な文脈に持ち込む誤りにつながりかねない。

さらに、写真に写るのが自分の子どもか他人の子どもかによっても、配慮の主体と手続きは異なる。保護者が自分の子どもの写真を家庭内で保存・共有する場合と、当サイトのような第三者が公園という場で出会った子どもを撮影・掲載する場合とでは、同意を取得する相手も手続きの重みも同じではない。当サイトが撮影する場合には、原則として第三者の子どもを主題とした撮影は行わず、遊具や施設の紹介を主目的としたうえで、やむをえず人物が写り込む場合には前節・本節で述べた配慮を徹底する、という整理が現実的である。

最後に、子ども自身の視点についても触れておきたい。児童の権利に関する条約が子どもの意見をその発達に応じて尊重すべきとしていることに照らせば、写真に写ることについて子ども本人がどう感じるかは、年齢が上がるにつれて考慮すべき比重が増す事柄である。幼い子どもについては保護者の判断が中心にならざるをえないとしても、ある程度の年齢に達した子どもについては、撮影の場でできる範囲で本人の意向を確認することが望ましい場合もある。年齢に応じてこの比重をどう調整するかは、発達心理学など他の学問領域の知見も踏まえて検討すべき課題であり、本稿は写真論の立場からその必要性を指摘するにとどめる。

子ども配慮保護者の同意
図8子どもが写る写真には、肖像権への配慮に加え、発達上の事情と保護者の同意という論点が重なることを示す。

9. 磐田市の公園への示唆——当サイトが負う編集上の責任

ここまでの議論を、磐田市の公園という具体的な対象に照らして整理する。ATAWI PARKは磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(94件)に市の施設ガイドのみに掲載される6園を加えた100園を収録する公園データベースであり、種別としては街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、その他(法対象外)6園という構成を持つ。これらは見付・中泉・御厨・豊田・南部・向陽・竜洋・福田・豊岡という9地区に分布しており、地区ごとの園数には大きな偏りがある。100園という規模を横並びで紹介する以上、写真の撮り方に一定の統一性を持たせることが、公園どうしの公平な比較にとって望ましい。

第3節で述べた季節・時刻・視点の選択という論点は、100園を扱う当サイトにとって特に重い意味を持つ。もし一部の公園だけ花の季節に撮影され、他の公園が枯れ木の季節に撮影されるならば、その差は公園そのものの魅力の差ではなく、撮影条件の差にすぎない。かぶと塚公園や竜洋海洋公園のような総合公園と、豊田上新屋ポケットパーク(156㎡)のような小規模な都市緑地とでは、そもそも写せる範囲や構図の自由度が異なるため、完全に条件を揃えることは難しい。しかし、撮影日時を記録し、可能な範囲で条件を揃える努力をすることは、当サイトが公平なデータベースであろうとするうえで欠かせない編集上の責任である。

9.1 写り込みへの配慮と磐田市の公園の実情

第6節から第8節で検討した人物の写り込みへの配慮は、磐田市の公園の実情に照らすといっそう具体的な課題になる。市の施設ガイドの記載によれば、経塚公園や中原公園、谷口公園のようにトイレのみが主な施設として記載される小規模な街区公園から、安久路公園のようにインクルーシブエリアを含む複合遊具や噴水的な設備を備える地区公園まで、公園の性格には幅がある。利用者が多く集まりやすい公園ほど、撮影時に人物が写り込む可能性は高くなると考えられ、そうした公園こそ、遠景や後ろ姿を選ぶといった配慮がより重要になる。

また、今之浦公園のように噴水の稼働時期が定められている例や、豊田香りの公園のように季節限定でカスケード(滝)が稼働する例のように、市の施設ガイドには稼働時期が明記された設備もある。こうした設備を写真で紹介する場合、稼働時期外に撮影された写真だけを掲載すると、稼働していない状態が通常の姿であるかのような誤った印象を与えかねない。写真が「ある一瞬の選択」であるという第3節の議論は、このような具体的な場面で編集上の判断として現れる。

当サイトの現地踏査は、2026年8月時点でまだ始まったばかりであり、本稿執筆時点で踏査済みの公園は0園である。したがって本稿で述べた撮影・掲載の方針は、実際に100園を歩いて確かめる中で、公園ごとの利用状況や設備の稼働状況に応じて具体化されるべき仮説にとどまる。当サイトはこの点を利用者に対して率直に示し、写真が整い次第、順次掲載していくという姿勢を取ることが、公園データベースとしての誠実さにつながると考えられる。運営主体である富士ヶ丘サービス株式会社の事業内容にかかわらず、この編集上の責任は写真を扱うあらゆる主体に共通して求められるものである。

9.2 面積の違いが撮影に投げかける課題

磐田市の公園は面積の幅が非常に大きい。オープンデータによれば、竜洋海洋公園は221,722平方メートルに及ぶ一方、二之宮東第2緑地はわずか17平方メートルであり、国の標準では街区公園がおおむね0.25ヘクタール・誘致距離250mを目安とされるのに対し、都市緑地には0.1ヘクタール以上という目安が示されている。これほど規模の異なる公園を同じ構図の考え方で撮影しようとすること自体に無理がある。広大な総合公園では全体を一枚の写真に収めることが難しく、複数の写真を組み合わせて紹介する必要が生じる一方、小規模な緑地では逆に「引き」の構図が取りにくく、近接した構図にならざるをえない。写真の枚数や構図の自由度が公園の規模によって左右されるという事実そのものも、利用者に伝えるべき情報の一つである。

また、市の施設ガイドの記載を見ると、トイレや車いす対応トイレ、砂場、遊具といった設備の有無は公園ごとに異なり、駐車場の記載がある公園とない公園も混在している。写真がこれらの設備を写し込めるかどうかは、設備の有無そのものよりも撮影時の構図の選び方に左右される。当サイトとしては、設備の有無という客観的な情報は文章・データとして正確に示し、写真はその場の雰囲気や全体像を補う位置づけとする、という役割分担を第5節で述べた文章と写真の関係の具体例として採用するのが妥当である。

9.3 歴史的な場所を含む公園という論点

磐田市の公園には、遠江国分寺史跡公園や京見塚公園(京見塚古墳を含む)のように、史跡・古墳を含む公園も含まれる。市の施設ガイドの記載によれば、遠江国分寺史跡公園は園内施設の記載がなく、京見塚公園は京見塚古墳のほかブランコや鉄棒、砂場、トイレを備える。こうした史跡を含む公園を撮影する場合、遊具や広場とは異なる配慮が生じうる。史跡そのものを主題とした写真は、公園紹介という文脈と、史跡の保存・紹介という文脈の両方にまたがるため、どちらの文脈を優先するかによって構図の選び方が変わりうる。この論点は歴史学や考古学の観点からの検討を要する部分もあり、本稿では写真論の観点から、史跡を撮る場合にも季節・時刻・視点の選択性が働くことを指摘するにとどめ、詳細は他の学問領域からの論考に委ねる。

9地区100園撮影方針
図9磐田市9地区・100園という規模を横並びで紹介するために、撮影条件の統一と写り込みへの配慮が必要になることを示す。

10. 結論と今後の課題

本稿は、ソンタグ・バルト・ベンヤミンという写真論の三つの古典を手がかりに、公園を撮影し掲載するという行為を検討した。第一に、撮影は季節・時刻・視点という軸において常に選択の産物であり、「ありのままの記録」という言い方は写真の性質を正確には言い当てていないことを確認した。第二に、写真はストゥディウムとプンクトゥムという二つの水準で受け取られ、複製技術によってその場でしか得られない一回性の経験が画像へと変換されることで、得るものと失うものの両方があることを示した。第三に、撮る側と撮られる側には非対称な力関係があり、公共空間であることは自由な撮影・公開を無条件に正当化しないことを論じた。

これらを踏まえ、人物、とりわけ子どもの写り込みについては、最高裁判所の判例が示す「みだりに撮影されない自由」という考え方、個人情報保護の一般的な考え方、そして児童の権利に関する条約が示す子どもの意見とプライバシーへの配慮を踏まえ、判別可能性を下げる構図の工夫と、判別可能な場合の同意確認という二段構えの対応が妥当であると結論づけた。これは公園という被写体に限らず、公共空間を撮影するあらゆる場面に応用できる考え方である。

10.1 磐田市の公園データベースとしての課題

磐田市の都市公園100園を紹介する当サイトにとって、本稿の議論は抽象的な理論にとどまらない実務上の課題を提示する。撮影条件をできるだけ統一して公園どうしの比較を公平にすること、稼働時期が限られる設備を紹介する際には撮影時点を明示すること、人物が写り込みやすい公園ほど遠景・後ろ姿を優先すること、子どもを主題とする写真が必要な場合には保護者の明確な同意を得る手続きを整えること——これらはいずれも、現地踏査がまだ始まっていない現時点では具体化しきれていない課題である。

今後の課題は大きく三つに整理できる。第一に、100園を横並びで撮影する際の標準的な手順——撮影条件、構図の基本方針、人物写り込み時の対応——を、法律専門家の助言も踏まえながら具体的な運用ルールとして定めることである。第二に、写真だけでは伝わらない情報(音、匂い、混雑の体感など)を文章でどう補うかを検討し、写真と文章の役割分担を明確にすることである。第三に、実際に100園を歩く踏査の中で、本稿が示した仮説——撮影条件の統一が比較の公平性を高める、判別可能性を下げる構図が写り込みへの配慮になる、といった仮説——を具体的な場面ごとに検証し、必要であれば見直すことである。

10.2 写真論という視座の意義

本稿が写真論という一見迂遠に見える学問領域を経由したのは、公園紹介という実務的な営みを支える基礎を明確にするためであった。撮影条件を揃える、人物の写り込みに配慮する、子どもの写真には特有の慎重さをもって臨む、といった個々の実務上の指針は、写真論の言葉を借りずとも常識的な配慮として導き出せるかもしれない。しかし、なぜそうした配慮が必要なのかを、ソンタグの収集としての撮影、バルトのストゥディウムとプンクトゥム、ベンヤミンのアウラの凋落、バージャーやブルデューが示した見ることの社会的条件づけ、そして肖像権や子どもの権利という法的・倫理的な典拠に照らして言語化しておくことは、個別の判断に迷ったときに立ち返るべき原則を持つことにつながる。

写真論の古典が繰り返し論じてきたように、写真は世界をそのまま写す透明な窓ではなく、撮る者・見る者・複製の技術的条件によって形づくられる一つの解釈である。この認識を欠いたまま公園の写真を並べることは、100園という規模を持つデータベースの信頼性を損ないかねない。本稿で整理した論点が、当サイトの今後の踏査と写真掲載の具体的な方針づくりに資することを期待して、結びとしたい。

記録運用ルール今後の課題
図10写真論の論点を踏まえ、撮影条件の統一・写り込みへの配慮・文章による補足という今後の課題を整理する。

参考文献

  1. スーザン・ソンタグ(1977)『写真論』(近藤耕人訳、晶文社、1979)
  2. ロラン・バルト(1980)『明るい部屋——写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房、1997)
  3. ヴァルター・ベンヤミン(1935/36執筆)「複製技術時代の芸術作品」(浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション1』ちくま学芸文庫、1995所収)
  4. ジョン・バージャー(1972)『イメージ——視覚とメディア』(伊藤俊治訳、ちくま学芸文庫、2013)
  5. ピエール・ブルデュー(1965)『写真論——その社会的効用』(山下雅之訳、法政大学出版局、1990)
  6. 最高裁判所大法廷判決(昭和44年12月24日、いわゆる京都府学連事件)
  7. 児童の権利に関する条約(1989年国連総会採択、1994年日本批准)
  8. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  9. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  10. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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