人文学現象学

からだで測る公園——メルロ=ポンティの身体空間と場所の経験

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:現象学 公開・更新 2026-08-17 本文 約20,843字 読了目安 38分

要旨

公園は、行政の台帳のうえでは面積(平方メートル)と種別と座標で記述される。しかし、子どもを連れて公園へ行く人が経験しているのは平方メートルではない。門から遊具まで何歩あるか、ベンチに座ったまま子どもの姿を目で追えるか、帰り道が上り坂かどうか——広さも近さも、身体を通してはじめて量として現れる。本稿は、この「測量的に記述された空間」と「身体で生きられた空間」のずれを、現象学の語彙で記述することを目的とする。

方法は文献整理と概念分析である。メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(1945)の身体図式と習慣的身体、ハイデガーの住まうことと場所の議論、ボルノウ『人間と空間』(1963)の中心・方向・庇護性、バシュラール『空間の詩学』(1957)の親密な空間、そしてレルフやトゥアンの場所論を整理し、これらを公園という具体的な場に適用する。生態心理学のアフォーダンス論とは、三人称の環境記述か一人称の経験記述かという点で立場を分ける。

主な論点は四つである。第一に、身体図式——自分の身体の広がりを測らずに知っている暗黙の知——が、ベビーカーや抱っこという道具や関係を巻き込んで拡張し、その拡張が公園の入口や園路の経験を決めること。第二に、経験される広さが歩数・視線・囲まれ方によって構成され、面積とは別の秩序を持つこと。第三に、体験空間が等質でも等方でもなく、家という中心からの距離と方向、そして高さの価値づけを持つこと。第四に、慣れた場所と初めての場所が質的に別の空間であり、その差は設備の一覧では埋められないこと。

結論として、測量的空間と生きられた空間は競合する二つの真理ではなく、記述の別のレイヤーであると論じる。誘致距離二百五十メートルのような計画基準はもともと身体の歩行を測量へ翻訳したものであり、翻訳で失われた部分を現象学が言い直す。磐田市の公園百園への示唆として、面積では最小級の緑地が親密な空間として機能しうること、当サイトの踏査項目に歩数・見通し・囲まれ感・隅の有無を加えるべきことを述べる。踏査はこれからである。

キーワード身体図式生きられた空間体験空間場所の現象学測量的空間親密な空間

1. はじめに——問題の所在

公園を記録する言葉は、ほとんどが測るための言葉である。磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」には、公園の名称と種別と面積が平方メートルの単位で並ぶ。都市公園法の体系も、街区公園は標準面積〇・二五ヘクタール、近隣公園は二ヘクタール、地区公園は四ヘクタールという数値で種別を分ける。当サイト、ATAWI PARK の公園データベースもこの数値を土台にしている。数値は正確で、比較でき、集計できる。行政が百園を管理し、予算を配分し、点検の順番を決めるには、この言葉がなければ何も始まらない。

しかし、子どもの手を引いて公園の門をくぐる人が経験しているのは、平方メートルではない。門から遊具までが何歩あるか。荷物とベビーカーを持ったまま、その段差を越えられるか。ベンチに腰を下ろしたとき、子どもの背中が木立の向こうに消えないか。帰り道の坂は、行きより長く感じられるのではないか。これらはどれも空間についての問いだが、どれも面積の数値からは出てこない。同じ二千平方メートルでも、細長い緑地と正方形の広場では、歩く距離も見える範囲もまるで違う。

面積歩数見通しずれ
図1台帳が記録するのは面積である。しかし訪れる人が経験するのは歩数と見通しである。本稿はこの二つの空間のずれを主題にする。

1.1 本稿の問い

本稿の問いは次の三つである。第一に、測量的に記述された空間と、身体で生きられた空間とは、どこがどう違うのか。第二に、そのずれは、単なる主観のばらつき——人によって感じ方が違うという当たり前のこと——なのか、それとも構造を持った別の秩序なのか。第三に、もし後者であるなら、その秩序は公園の記述・設計・選び方にどう反映されうるのか。

この問いに答えるための道具として、本稿は現象学を用いる。現象学とは、二十世紀初頭にフッサールが始めた哲学の方法で、ごく簡単に言えば、世界を外側から観測された対象として説明するのではなく、それが経験のなかにどう現れているかを、一人称の立場から丁寧に記述しようとする態度である。フッサールが晩年に「生活世界」と呼んだのは、科学が測る前の、私たちがすでにそのなかで生きている世界のことであった。公園に即して言えば、面積の数値が与えられる前に、すでに広い/狭い、近い/遠い、明るい/こわいという質を帯びて現れている公園のことである。

1.2 方法と制約

方法は文献整理と概念分析である。取り上げるのは、メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(1945)の身体図式と習慣的身体、ハイデガーの住まうことをめぐる議論、ボルノウ『人間と空間』(1963)の体験空間論、バシュラール『空間の詩学』(1957)の親密な空間論、そしてこれらを地理学に受け渡したレルフ『場所の現象学』(1976)とトゥアン『空間の経験』(1977)である。いずれも広く読まれてきた古典であり、本稿はこれらの概念を公園という具体的な場に当てて読み直す。

制約もはじめに述べておく。当サイトの現地踏査はまだ始まっていない。二〇二六年八月の時点で、踏査済として記録された園は零園である。したがって本稿は、特定の公園を歩いて確かめた記述ではなく、市のオープンデータと施設ガイドに記された事実に、文献から得た概念を当てる作業に限られる。歩数や見通しといった経験の量は、これから当サイトが踏査で確かめるべき対象であり、本稿はむしろ、その踏査で何を見るべきかを準備するための議論である。

1.3 構成

第二節で現象学の空間論の系譜を整理し、隣接する諸立場との違いを定める。第三節で身体図式の概念を、第四節で歩数と視線による広さの構成を、第五節で中心と方向と高さの価値づけを、第六節で住まうことと親密な空間を扱う。第七節では慣れた場所と初めての場所の質的な差を論じ、第八節で「主観的すぎて計画に使えない」という予想される反論に応答する。第九節で磐田市の公園への示唆をまとめ、第十節で結論と今後の課題を述べる。

2. 先行研究と概念の整理——現象学は空間をどう扱ってきたか

本節では、現象学の空間論の流れを整理し、あわせて隣接する諸立場との違いを定める。系譜をたどるのは、権威づけのためではない。同じ「空間」という語が、論者によって別の意味で使われているため、後の節でどの概念を使っているのかを取り違えないようにするためである。

2.1 生活世界という出発点

出発点はフッサールである。『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936)で彼が問題にしたのは、近代科学が世界を数学的に記述することに成功した結果、その記述の土台であったはずの日常的な経験の世界が忘れられてしまった、という事態であった。測られた空間は、測る前の空間のうえに建っている。地面が水平だと測定する前に、私たちはすでに立って歩いている。この「測る前の世界」をフッサールは生活世界と呼んだ。現象学の空間論はすべて、ここから枝分かれしていく。

ハイデガーは『存在と時間』(1927)で、人間の存在の仕方を「世界‐内‐存在」と名づけた。この「内」は、水がコップの内にあるような容器と中身の関係ではない。人は空間のなかに置かれた物体ではなく、道具や他者との連関のなかに住みついている、という意味である。ハイデガーはここで「遠さを取り去ること」(脱‐遠化)と「方向づけ」を空間の基本的なあり方として挙げた。手元にある物は近く、目の前に見えていても関わりのない物は遠い。距離は物差しではなく関心によって配分される。

生活世界一人称道具の連関住まうこと
図2現象学の空間論は、測られた空間の手前にある生活世界から出発する。距離は物差しではなく関心と身体によって配分される。

2.2 身体・体験空間・親密な空間

この流れをもっとも具体的な水準まで下ろしたのがメルロ=ポンティである。『知覚の現象学』(1945)は、空間を経験するのは意識ではなく身体だ、と主張した。身体は空間のなかにある一つの物ではなく、空間を開く働きそのものである。彼の言い方を借りれば、身体は空間に「住みつく」。この立場は第三節で詳しく扱う。

ボルノウ『人間と空間』(1963)は、メルロ=ポンティの洞察を、より記述的な仕方で展開した。ボルノウが「体験空間」と呼ぶものは、幾何学的空間と違って等質でも等方でもない。中心を持ち、方向によって質が異なり、そこには安心と不安の差がある。彼が鍵語とした「庇護性」——包まれ守られているという感じ——は、公園の小さな囲いや東屋を論じるときに直接に効いてくる概念である。

バシュラール『空間の詩学』(1957)は、別の角度から同じ問題に触れる。バシュラールが扱うのは家、屋根裏と地下室、引き出しや箱、貝殻、そして隅である。彼はこれらを「親密な空間」として論じ、そこでは小ささが狭さではなく濃さとして経験されることを示した。子どもがなぜ植え込みの陰や遊具の下に潜り込みたがるのかを考えるとき、この議論は避けて通れない。

2.3 場所論への受け渡しと、隣接する立場との区別

一九七〇年代になると、これらの概念は人文地理学へ受け渡される。レルフ『場所の現象学』(1976)は、人が場所に対して取る関わりの深さを、内側にいる感じと外側にいる感じの段階として記述し、どこにでもある均質な場所が増えていく事態を「没場所性」と名づけた。トゥアン『空間の経験』(1977)は、抽象的で自由な「空間」と、価値と経験が沈殿した「場所」を区別した。ノルベルグ=シュルツ『ゲニウス・ロキ』(1979)は、この場所論を建築の側から受け止めている。日本では和辻哲郎『風土』(1935)が、独立の流れとして風土と人間の関係を論じている。

混同を避けるために、三つの隣接する立場との違いを述べておく。第一に生態心理学のアフォーダンス論。これは環境が動物に提供する行為の可能性を、環境と動物の系として三人称的に記述する立場であり、本稿の一人称の記述とは方向が逆である。両者は補い合うが、同じではない。第二に認知地図の研究。リンチ『都市のイメージ』(1960)が扱った道・結節点・目印といったイメージの要素は、経験を頭のなかの表象へ整理したものであり、現象学が問うのは表象が作られる手前の段階である。第三に、公共空間の哲学。だれが公園に現れうるかという政治的な問いは重要だが、それは複数の他者のあいだの問題であり、本稿が主題にするのは身体と場所のあいだの問題である。

註:本稿で「空間」と言うときは、測量的・幾何学的に均質な広がりを指す。「場所」と言うときは、経験の積み重ねによって質を帯びた特定の一点を指す。ボルノウの「体験空間」、メルロ=ポンティの「生きられた空間」は後者に近いが、まだ名を持たない広がりも含む点で、場所より広い概念である。

3. 身体図式——測らずに知っている自分の広がり

本節は、メルロ=ポンティの身体図式という概念を取り上げ、それが公園という場でどう働くかを述べる。身体図式は、本稿の残りの議論すべての土台になる概念である。

3.1 身体図式とは何か

私たちは、目を閉じていても自分の手がどこにあるかを知っている。暗い部屋で電灯のひもを探り当てられる。歩きながらポケットの鍵を取り出せる。そのつど自分の腕の長さを測り、関節の角度を計算しているわけではない。にもかかわらず、自分の身体がどこまで広がり、どこまで届くかを、いわば身体そのものが知っている。この暗黙の知をメルロ=ポンティは身体図式と呼んだ。身体図式は、身体各部の位置についての知識の寄せ集めではなく、行為へ向けて一挙に構えられた全体である。

重要なのは、身体図式が空間の経験を先立って組織していることである。目の前のドアを「通れる」と感じるのは、幅を測ってから自分の肩幅と比べているからではない。身体図式がすでに自分の幅を含んでいるので、ドアの幅がそのまま「通れる/通れない」という質として現れる。同様に、段差は高さの数値としてではなく、「またげる」「よじ登る」「越えられない」という質として現れる。空間の量は、身体という尺度を通してはじめて質に翻訳される。

3.2 道具は身体図式へ組み込まれる

メルロ=ポンティが挙げた例のうち、よく知られているのが杖と帽子の例である。目の見えない人が杖を使いこなすようになると、杖はもはや手で握られた対象ではなくなり、杖の先端が触覚の届く縁になる。杖は身体の延長として身体図式へ組み込まれる。帽子に羽根飾りを付けた人が、低い戸口をくぐるときに無意識に頭を下げるのも同じことである。羽根の先までが、その人の身体の広がりとして組み込まれている。身体図式は解剖学的な身体の輪郭に固定されておらず、習熟によって伸び縮みする。

ベビーカーつないだ手入口の幅身体の広がり
図3ベビーカーや抱っこは道具として身体図式へ組み込まれる。入口の幅や段差は、拡張された身体の寸法として経験される。

3.3 公園に来る身体は、たいてい拡張されている

公園を訪れる人の身体は、しばしば単独ではない。ベビーカーを押す人にとって、ベビーカーの車輪の幅と全長は自分の身体の幅と長さである。だからその人には、車止めの間隔、砂利敷きの園路、園内の縁石が、単なる景観の要素ではなく身体の通行可能性として現れる。抱っこ紐で子を抱えた人にとっては、重心が前へ移り、足元が見えにくくなった身体が新しい身体図式になる。段差の一段が、単独のときとは別の意味を持つ。

手をつないで歩く親子は、さらに複雑な例である。つないだ手を介して、二つの身体はある程度まで一つの動きの単位になる。子が立ち止まれば親の腕が引かれ、親が急げば子の身体が引かれる。この結合した身体にとって、歩道の幅、すれ違う自転車、横断歩道の長さは、単独の大人が経験するものと同じではない。つないだ手は、杖と同じように身体図式の一部として働き、同時に杖と違って自分の意志で動く。この二重性が、子連れの移動を独特に難しくしている。

この観点から見ると、公園の入口の設計は、単なるバリアフリーの適合の問題を超えた意味を持つ。入口が拡張された身体を受け入れるかどうかは、その公園がどんな身体を訪問者として想定しているかの表明である。国土交通省の遊具安全指針が対象年齢の表示を求め、都市公園の整備において移動等円滑化の基準が定められているのは、制度の側からこの問題に触れているためである。ただし制度が扱えるのは寸法であり、拡張された身体図式が経験する通りにくさそのものは、寸法の適合だけでは尽くされない。

3.4 子どもの身体図式は、まだ工事中である

大人の身体図式は比較的安定しているが、子どもの身体図式は成長によって絶えず更新されている。昨日は届かなかった鉄棒に今日は手が届く。昨日はくぐれた隙間に今日は肩がつかえる。子どもは自分の現在の広がりを知るために、環境に身体を当ててみるほかない。遊具の上でくり返される、大人から見れば無意味な反復——同じ場所を何度も登り降りし、少しずつやり方を変える——は、更新中の身体図式を確かめる作業として読める。

ここから、遊具の高さについて一つの含意が出る。ある高さが子どもにとって何を意味するかは、その高さの絶対値ではなく、その子の身体図式との関係で決まる。同じ高さの台が、ある子には挑戦であり、別の子には通過点であり、もう一人にはまだ縁のない風景である。だから遊具の対象年齢表示は、危険を避けるための注意書きであると同時に、身体図式の目安の提示でもある。表示は判断の代わりにはならず、目の前の子の身体を見る大人の判断を助ける材料にとどまる。

4. 広さは歩数と視線で測られる——距離の現象学

前節で身体が空間の尺度であることを見た。本節は、その尺度によって「広さ」がどう構成されるかを検討する。結論を先に言えば、経験される広さは面積の関数ではなく、少なくとも三つの独立した要素——歩数、視線、囲まれ方——から成る。

4.1 歩数としての広さ

第一の要素は歩数である。より正確には、ある地点から別の地点へ身体を運ぶために要する労力である。園路が平坦か、砂利敷きか、上り坂か。荷物を持っているか。子が歩くのか抱かれるのか。これらによって、同じ物理的距離が別の距離として現れる。ハイデガーが「脱‐遠化」と呼んだのは、まさにこの、関わりのなかで距離が縮んだり伸びたりする働きであった。眼鏡は目の前にあるが、慣れた者には近すぎて意識されない。壁の向こうの遊具は、見えなくても子には近い。

歩数としての広さは、身体ごとに異なる分母を持つ。歩幅の小さい幼児にとっての百メートルは、大人の百メートルの何倍かの歩数である。そのうえ幼児は直線を歩かない。石を拾い、側溝を覗き、引き返す。だから幼児と歩く距離は、大人の徒歩時間へ機械的に換算できない。都市公園法施行令にもとづく国の目安で、街区公園の誘致距離が二百五十メートル、近隣公園が五百メートル、地区公園が一キロメートルとされているのは、まさに歩いて到達できる範囲という身体的な尺度を、計画のために数値へ翻訳したものである。翻訳の際、どの身体を基準にするかは自動的には決まらない。

歩数幼児の歩幅かかる時間同じ距離
図4同じ二百五十メートルでも、歩幅と寄り道の多さによって歩数と時間は大きく変わる。誘致距離は身体の歩行を数値へ翻訳した基準である。

4.2 視線としての広さ

第二の要素は視線である。公園にいる大人にとって、その公園の実効的な広さは、しばしば「目が届く範囲」と一致する。子が視野から消えれば、大人は移動して視野を回復しなければならない。すると広い公園は、子どもにとっては自由の量が増えることを意味し、同伴する大人にとっては見守りの労力が増えることを意味する。同じ面積の増加が、二人の身体にとって逆向きの意味を持つ。これが広さの二重性である。

視線の届き方は面積ではなく形と障害物で決まる。植栽の列、築山、東屋、トイレの棟が視線を切る。逆に、開けた芝生広場は面積の割に見通しがよい。したがって、公園の見通しは面積の数値からは推定できず、その場に立って初めて分かる。オープンデータが記録する面積・トイレ・砂場・遊具の有無というフラグには、見通しの項目がない。この欠落は、データの不備というより、測量的記述という言語の性質に由来する。

4.3 囲まれ方としての広さ

第三の要素は囲まれ方である。同じ面積でも、生垣や塀で四方を囲まれた空間と、道路に面して開かれた空間では、広さの経験がまるで違う。囲まれた空間は、実際より狭く、そして安心して感じられることが多い。ボルノウの言う庇護性がここに関わる。逆に、境界のはっきりしない空間は、面積が小さくても落ち着かない。落ち着かなさの理由は、どこまでが公園でどこからが道路かが身体に分からないことにある。子連れであれば、この不明瞭さはそのまま緊張になる。

囲まれ方は、公園と周囲の関係も規定する。道路に直接面した出入口は、園内から外への飛び出しの経路であると同時に、外から園内への視線の経路でもある。前者は同伴者の緊張を高め、後者は人目による見守りをもたらす。二つは同じ一つの開口部の別の側面であり、どちらか一方だけを選ぶことはできない。現象学ができるのは、この選べなさを曖昧にせず、両方の経験として言葉にすることである。

囲まれ方には時間的な側面もある。同じ公園でも、朝と夕方では影の落ち方が変わり、囲われ感の強い場所が移動する。木陰は季節によって位置と濃さを変え、落葉樹の下は夏と冬で別の空間になる。日差しの強い時期には、日陰の有無が実質的な利用可能面積を決めてしまうことすらある。面積が固定値であるのに対し、経験される広さは一日のうちでも変動する量である。

4.4 路面と天候は距離を伸縮させる

距離を伸縮させる要因として、路面と天候も無視できない。舗装された園路と、砂利敷きの園路と、雨あがりのぬかるんだ土では、同じ十メートルの労力がまるで違う。ベビーカーの車輪は砂利で急に重くなり、水たまりは経路そのものを書き換える。歩行が身体図式に組み込まれた自動的な運動であるのをやめ、一歩ごとに足元を確かめる意識的な作業に変わるとき、距離は目に見えて伸びる。

この伸縮は、公園に着いてからの行動にも及ぶ。路面が濡れていれば、子どもは座らず、寝転ばず、砂場は使えず、遊びの種類が狭まる。市の施設ガイドが記す園内施設の一覧は、こうした天候による可用性の変動を含まない。同じ設備の一覧を持つ園でも、水はけの良し悪しによって雨あがりの使い勝手は大きく分かれる。水はけは面積にも設備にも現れない、しかし経験を左右する条件の代表例である。

4.5 面積の幅と経験の幅は比例しない

以上を踏まえると、面積の数値の幅と経験の幅が比例しないことが分かる。磐田市の公園のなかで最も小さい二之宮東第2緑地は十七平方メートル、最も大きい竜洋海洋公園は二十二万千七百二十二平方メートルであり、両者の面積比は一万倍を超える。しかし、この二つの場所の経験の差が一万倍だと言う人はいないだろう。十七平方メートルの緑地は、そこに立った人にとっては一つの場所として現れ、二十二万平方メートルの公園は、一度の訪問ではその一部しか経験されない。ある規模を超えると、公園は全体として経験される対象であることをやめ、内部を移動する環境になる。

この転換点は面積の数値のどこかに引かれるのではなく、身体が一望できるかどうか、歩いて一巡できるかどうかという条件によって引かれる。だから公園の規模を論じるときには、面積の階級区分とは別に、一望性と一巡可能性という二つの経験的な指標を立てる意味がある。第九節では、この視点から磐田市の公園を種別ごとに読み直す。

5. 中心・方向・高さ——ボルノウの体験空間

幾何学的な空間には特別な点がない。どの点も同格であり、どの方向も同じ性質を持つ。ボルノウ『人間と空間』(1963)が示したのは、人が生きる空間がこの性質を持たないということであった。体験空間は中心を持ち、方向によって質が異なり、上下に価値の差がある。本節はこの三つの非等質性を、公園に即して検討する。

5.1 中心としての家、往還の先端としての公園

ボルノウにとって、体験空間の中心は家である。家は単なる建物ではなく、そこから出発し、そこへ帰る点として、周囲のすべての距離を意味づける。家からの距離が近さと遠さを決め、家へ帰れるかどうかが安心と不安を分ける。幼い子どもにとって、この構造はとりわけ強い。子どもの世界はまず家であり、次に家から歩いて行ける範囲であり、その外はまだ地図のない領域である。

この見方に立つと、街区公園という制度上の種別が別の相貌を帯びる。街区公園は、国の目安では誘致距離二百五十メートル、標準面積〇・二五ヘクタールとされ、磐田市の公園百園のうち五十一園がこの種別である。二百五十メートルという数字は、行政の側から見れば配置の基準だが、子どもの側から見れば、家という中心から出た往還の先端がどこまで届くかの線である。街区公園とは、家から出た糸の先に結ばれた、最初の外部の点なのである。

往還であることは、公園が到達点であると同時に折り返し点であることを意味する。子どもが公園でどれだけ遊べるかは、遊具の数だけでなく、帰る余力がどれだけ残るかに左右される。公園の滞在時間の上限を決めているのは、しばしば公園の魅力ではなく、帰り道の長さである。この単純な事実は、面積や遊具のデータからは決して読み取れない。

家という中心往路公園帰る余力
図5体験空間は家を中心に組織される。公園は往還の先端であり、滞在時間の上限は遊具ではなく帰り道の長さが決めることが多い。

5.2 行きと帰りは同じ道ではない

第二の非等質性は方向である。同じ道でも、行きと帰りでは経験が異なる。行きは未知に向かう緊張と期待を含み、帰りは既知に向かう安堵と疲労を含む。子連れの場合、この非対称はさらに極端になる。公園へ向かう子どもは自分から歩き、公園から帰る子どもはしばしば抱かれる。同じ二百五十メートルが、往路では子の歩数で、復路では大人の腕の重さで測られる。

この非対称は、公園選びの実際の判断に影響する。近い公園は帰りやすいから選ばれる。遠い公園は、帰りの負担を見越して、時間と体力に余裕のある日にだけ選ばれる。行政の配置計画が用いる誘致距離は往路と復路を区別しないが、経験の側では往復は等価ではない。当サイトが今後、園ごとの周辺情報を記述する際にも、この非対称は考慮に値する。

5.3 高さは面積に現れない

第三の非等質性は上下である。幾何学的空間では上下は単なる座標軸の一つだが、体験空間では上と下は価値を帯びる。高い所は見晴らしと達成であり、低い所は隠れ場所と落ち着きである。子どもが築山や滑り台の頂上に登りたがるのは、そこが高いからであり、高い所から見下ろす経験そのものが目的である。少し高いところに立つだけで、それまで歩いてきた公園の全体が一望に収まる。歩いて経験していた空間が、視覚的な一つの像に変わる。

この経験は面積の数値には現れない。磐田市の施設ガイドの記載を見ると、園内施設に築山を挙げる園があり、福田ふるさと公園には築山とトイレ、竜洋川袋公園には築山とジャンボ滑り台、複合遊具の記載がある。また京見塚公園には京見塚古墳が園内施設として挙げられており、遠江国分寺史跡公園やかぶと塚公園のように、歴史的な高まりや地形と結びついた園もある。これらの園が持つ高さの経験は、面積の欄にも遊具の有無のフラグにも記録されない。

高さの経験には、当然ながら落下という反面がある。国土交通省の遊具安全指針は、遊具の設置面や配置について安全確保の考え方を示しており、高さは価値であると同時に管理の対象でもある。現象学の役割は、高さを危険としてのみ扱う見方と、高さを価値としてのみ扱う見方の両方を退け、子どもが登ろうとするその動機の内実を記述することにある。動機を記述できてはじめて、それを損なわない安全の設計が議論できる。

6. 住まうことと親密な空間——ハイデガーとバシュラール

前節までは、身体から見た空間の量的な側面——広さ、距離、高さ——を扱ってきた。本節は質的な側面、すなわち場所が場所として立ち上がる仕組みと、小さく囲われた空間の濃さを扱う。手がかりはハイデガーの住まうことの議論と、バシュラールの親密な空間論である。

6.1 場所が空間を与える——ハイデガーの橋

ハイデガーは一九五一年の講演「建てること、住むこと、考えること」で、建てることは住まうことに従属する、と論じた。人はまず住まう者であり、建てることはその住まいを可能にする働きにすぎない。そのうえで彼は橋の例を挙げる。橋は、あらかじめ存在していた二つの岸を後から結ぶのではない。橋が架かることによって、はじめて両岸が両岸として現れ、川の流れと周囲の土地が一つの風景として組織される。場所が先にあって空間が生じるのであり、空間のなかに場所が置かれるのではない。

この議論は公園にそのまま当てはまる。公園は、住宅地のなかに残った空き地に事後的に与えられた名前ではない。公園が公園として設けられることで、その周囲の家々は「公園の近く」という関係を持ちはじめ、通学路は「公園の前を通る道」になり、交差点は「公園の角」として呼ばれるようになる。公園は、周囲の土地に意味を配分する結節点として働く。市の施設ガイドや当サイトが記録するのは公園そのものだが、公園が実際に生み出しているのは、公園を含む周囲一帯の秩序である。

住まうことの議論には、もう一つの含意がある。ハイデガーによれば、住まうとは、物を大切に世話しながらそのそばに滞在することである。この意味では、公園を掃除する自治会、花壇に水をやる人、遊具の不具合を市へ知らせる人は、公園に住まっている。逆に、行政の管理という関係だけでは住まうことは成立しない。管理は住まうことの必要条件だが十分条件ではない、というのがこの議論から引き出せる示唆である。

東屋木陰腰かける縁包まれる感じ
図6囲われた小さな空間は、面積の小ささにもかかわらず濃い経験を生む。バシュラールの言う親密な空間は、公園では隅と陰に宿る。

6.2 親密な空間——バシュラールの隅

バシュラール『空間の詩学』(1957)は、家、屋根裏、地下室、引き出し、箱、貝殻、そして隅を順に論じていく。彼が繰り返し示すのは、これらの空間において小ささが欠乏ではなく濃さとして経験される、ということである。狭い隅に身を寄せるとき、人はその狭さによって守られている。バシュラールにとって隅は、世界から一時的に身を引き、想像力が働き出す場所である。

公園における親密な空間は、たいてい設計図に名前を持たない場所にある。植え込みの陰、大きな木の根元、遊具の下の空間、階段の裏、ベンチと生垣のあいだ。子どもがこうした場所を見つけ出し、そこに座り込み、しばしば長い時間を過ごすのは、行為の可能性としての面白さだけでなく、包まれることの質を求めてのことだと考えられる。ままごとや秘密基地の遊びが、開けた広場ではなく縁と陰で始まりやすいのはこのためである。

施設ガイドに記載される園内施設の一覧は、遊具の名前で公園を記述する。しかし親密な空間はそこに現れない。東屋や休憩施設のように名を持つものもあるが、多くは名を持たず、設計者が意図せず生じた余りの空間である。今之浦公園の記載にある屋根付広場のような施設は、名を持つ形での庇護の空間だが、それ以外の陰や隅は、踏査によって記述されるほかない。

6.3 名づけと場所の個体性

住まうことと親密さのあいだをつなぐのが、名づけである。ノルベルグ=シュルツ『ゲニウス・ロキ』(1979)は、場所が固有の性格を帯びることを地霊という古い語で言い表した。素朴に聞こえるが、指しているのは神秘ではなく、地形と植生と光と人の使い方が積み重なって、その場所を他と取り替えのきかないものにする働きである。公園の名は、この個体性の最初の結晶である。地名を負う園、施設の名を負う園、由来のはっきりしない愛称を負う園では、名づけの働き方が違う。

興味深いのは、公式の名とは別に、利用者が使う呼び名が生まれることである。滑り台のある公園、犬のいる公園、大きい木の公園——子どもは、その公園でいちばん強く経験された要素で場所に名を与える。この呼び名は、施設ガイドにも台帳にも載らないが、その子の体験空間のなかでは公式名より確かな座標を持つ。場所の個体性が何から生じているかを知りたければ、公式の名ではなくこの呼び名を聞くのが早い。

6.4 見通しと隠れ場所の緊張

ここで正面から述べておくべき緊張がある。第四節で見たとおり、同伴する大人にとっての公園の実効的な広さは見通しの届く範囲である。ところが、いま述べた親密な空間は、見通しを切ることによって成り立つ。子どもが求める隠れ場所と、大人が求める見通しは、同じ植栽をめぐって逆を向く。防犯環境設計の議論が見通しの確保を重視するのも同じ方向である。

この緊張は、どちらかを消去しては解けない。すべてを見通しよくすれば、子どもは包まれる経験を失う。隠れ場所を増やせば、大人の見守りの負荷は増え、園によっては別の懸念も生じる。現象学が提供できるのは解ではなく、問題の正確な形である。すなわち、隠れ場所の価値は「安全のための犠牲」として片づけられるべき残余ではなく、それ自体が公園の経験の一部だということ。そのうえで、大人の視線が届く高さと、子どもの身体が包まれる高さは必ずしも同じではない——腰高の植栽や、下から見通せる樹冠の下は、この二つを同時に満たしうる——という設計上の余地を指摘できる。

7. 慣れた場所と初めての場所——習慣的身体と場所への定着

設備の一覧が同じ二つの公園があるとする。ブランコ、滑り台、砂場、トイレ。データのうえでは区別がつかない。しかし、片方は毎週通っている公園で、もう片方は今日はじめて来た公園である。この二つは、経験としてはまったく別の場所である。本節はこの質的な差を、メルロ=ポンティの習慣的身体とレルフの場所論から記述する。

7.1 習慣的身体——環境が身体図式へ沈殿する

メルロ=ポンティは、その場その場で働く現勢的な身体とは別に、過去の経験が沈殿した習慣的身体を区別した。住み慣れた家で、人は暗闇でも廊下を歩き、手を伸ばして電灯のスイッチに触れられる。それは家の間取りを記憶して頭のなかで参照しているからではなく、家の形が身体の動きそのものに折りたたまれているからである。習慣とは、環境の一部が身体図式へ組み込まれた状態にほかならない。

通い慣れた公園でも同じことが起きる。門から砂場までの経路は考えずに歩ける。どのベンチに座れば子の姿が見えるか、どの時間帯にどこへ日が差すか、水道はどこか、いちばん近いトイレはどちらかを、身体が知っている。この知は、公園の設備の一覧としては書き出せる部分もあるが、大部分は暗黙のまま働く。慣れた公園で大人が楽なのは、設備が優れているからではなく、環境の処理に注意を割かなくてよいからである。

7.2 初めての場所では、注意が環境に奪われる

初めての公園では、この沈殿がない。だからすべてを現在の注意で処理しなければならない。出入口はいくつあるか。道路との境はどうなっているか。子が走り出したらどちらへ向かうか。トイレはどこか。他の利用者は誰か。注意の資源には限りがあるから、環境の処理に多くを使えば、子の様子を見る余裕はその分だけ減る。初めての公園で大人が疲れるのは、身体を余分に動かしたからではなく、注意を余分に使ったからである。

子どもの側でも同じことが起きるが、現れ方は違う。見知らぬ公園で子どもがすぐには遊び出さず、大人の脚のそばから動かないことがある。これは臆病さの表れというより、環境がまだ背景に退いていない状態と考えられる。回数を重ねて環境が背景へ退くと、はじめて遊びが前景に出てくる。いわゆる公園デビューが一度きりの出来事ではなく、反復の過程として語られるのは、この構造に対応している。

はじめて回数を重ねる落ち着き背景に退く
図7初めての場所では注意が環境に奪われる。反復によって環境が身体図式へ沈殿すると、環境は背景に退き、遊びと会話が前景に出る。

7.3 内側にいることと外側にいること

レルフ『場所の現象学』(1976)は、人が場所に対して取る関わりを、内側にいる感じと外側にいる感じの度合いとして記述した。ある場所の内側にいるとは、そこが自分の場所として現れていることであり、外側にいるとは、そこが眺められる対象にとどまっていることである。同じ公園が、住民には内側の場所であり、通りすがりの人には外側の対象である。この差は所有や権利の差ではなく、経験の質の差である。

レルフはまた、どこにでもあり、どこでも同じであるような場所が増えていく事態を没場所性と呼んだ。同じ規格の遊具、同じ舗装、同じ看板で構成された公園は、管理と安全の点では合理的だが、場所として個体性を持ちにくい。ただし、この指摘は規格化への単純な批判として受け取るべきではない。安全基準の共有には十分な理由があるし、個体性は遊具の形以外——地形、樹木、隣接する景色、歴史的な由来——からも生じる。

観点初めての場所慣れた場所
注意の向き先出入口・境界・他者・設備の探索子どもの様子・会話
時間の感じ方長く感じられ、疲れやすい短く感じられ、滞在が延びやすい
身体の構え縮こまり、経路を選びながら動く考えずに動ける(習慣的身体)
情報の役割事前の記述が大きく助けになる記述はほとんど不要になる
レルフの語彙外側にいる感じが強い内側にいる感じが強い

ここから、慣れが一度きりの達成ではないことも見えてくる。季節が変わると、同じ公園は別の姿を見せる。落葉して見通しが開け、日陰の位置が変わり、砂場の砂は湿り、水飲み場の水は冷たくなる。習慣的身体に沈殿していた環境の一部が更新を迫られ、慣れは部分的に組み直される。年に何度か、慣れた公園がわずかに初めての場所に戻る——この周期性は、公園が同じ場所でありながら飽きられにくい理由の一つでもある。

7.4 記述は初回のためにある

この節の議論は、公園を紹介する記述の役割を限定する。設備の一覧、出入口の位置、日陰の有無、駐車の可否といった情報が最も役に立つのは、初めて訪れる人に対してである。二回目以降、その情報は急速に不要になる。慣れは記述で代替できず、記述は慣れを早めるための足場にすぎない。だから公園の記述の目標は、網羅性でも詳細さでもなく、初回の注意の負荷をどれだけ減らせるかに置かれるべきである。

この目標からすると、記述すべき項目は、設備の名前よりもむしろ空間の構造に寄る。入口はいくつあり、どこにあるか。園内から道路がどう見えるか。腰を下ろせる場所から遊具のどこまでが見えるか。園路は平坦か。これらは踏査によってしか得られない情報であり、当サイトが今後の踏査で確かめるべき項目である。第九節では、この観点から具体的な項目案を示す。

8. 反論への応答——「主観的すぎて計画に使えない」か

ここまでの議論には、当然の反論が予想される。本節では三つの反論を取り上げ、それぞれに応答することで、本稿の主張の射程を確定する。反論に答えることは、主張を守るためではなく、主張が及ばない範囲を明示するために必要である。

8.1 第一の反論——経験は人によって違う

第一の反論はこうである。歩数も見通しも囲まれ感も、人によって違う。身体の大きさ、体力、性格、その日の気分によって変わる。そのような主観的な量は、百園を等しく扱わなければならない行政の計画にも、多くの読者に向けた記述にも使えない。

この反論には、二段階で応答する。第一に、現象学が記述するのは個人の感想ではなく、経験の構造である。誰の身体でも、届く範囲は身体図式によって決まる。誰にとっても、慣れた場所では注意の負荷が下がる。誰にとっても、行きと帰りは同じではない。値は人によって違うが、値を生み出す仕組みは共有されている。物理学が個々の落下速度ではなく落下の法則を扱うのと、構図としては同じである。

第二に、行政の計画基準はもともとこの構造の上に建てられている。街区公園の誘致距離二百五十メートルという目安は、身体が無理なく歩ける範囲という経験的な概念を、配置計画のために数値へ翻訳したものである。近隣公園の五百メートル、地区公園の一キロメートルも同様である。基準は経験の代理変数であって、経験の否定ではない。だから経験の側から基準を検討することは、基準を壊すことではなく、その翻訳が何を落としたかを点検することである。

測る言葉生きる経験つり合い別のレイヤー
図8測量的空間と生きられた空間は競合する二つの真理ではなく、記述の別のレイヤーである。基準は経験を数値へ翻訳した代理変数にすぎない。

8.2 第二の反論——現象学は検証できない

第二の反論は、方法についてのものである。現象学の記述は、真偽を確かめる手続きを持たない。読んで納得できるかどうかで判定される議論は、文学であって学問ではない。

これに対しては、現象学の役割を仮説の生成に位置づけることで応答できる。何を測るべきかを決める段階は、測定そのものによっては決められない。公園の広さを測るとき、面積を測るのか、園路の総延長を測るのか、入口から遊具までの距離を測るのか、ベンチからの可視範囲を測るのか。この選択は、何が経験にとって意味を持つかについての判断を含む。現象学の記述は、その判断のための語彙を用意する。実際、環境心理学の回復環境の研究、時間地理学の制約の分析、人間工学の寸法の研究は、いずれも経験の記述から出発して測定可能な変数へ降りてきた領域である。

また、現象学の記述には検証の手続きがまったくないわけではない。記述が正しいかどうかは、同じ状況を経験した他者がその記述に自分の経験を見出せるかどうかで、ある程度まで確かめられる。これは統計的な検定とは別種の吟味だが、恣意の歯止めとしては働く。本稿の記述もこの吟味に開かれている。

8.3 第三の反論——では面積は無意味なのか

第三の反論は逆向きである。経験が大事だと言うなら、面積の数値は捨ててよいのか。捨てるべきでない。面積は、管理の範囲、除草や剪定の作業量、点検の対象、用地の取得と処分、予算の配分の根拠として不可欠である。都市公園法とその施行令が種別ごとの標準を定めているのは、公園を一定の水準で全市に配置するための仕組みであって、その仕組みなしには、経験の質を議論する対象そのものが存在しない。

本稿の主張は、測量的空間を生きられた空間で置き換えることではない。二つは競合する記述ではなく、別のレイヤーである。面積の欄と歩数の欄は矛盾せず、どちらか一方を書けば他方が不要になるという関係にもない。むしろ、両方が並んでいるときにはじめて、どちらか一方では見えなかったことが見える。面積が小さいのに滞在が長い園、面積が大きいのに使われる範囲が狭い園——こうした対比は、二つのレイヤーを重ねてはじめて記述できる。

観点測量的空間生きられた空間
主な単位平方メートル・メートル・座標歩数・見える範囲・かかる時間
記述する人測る者(第三者の視点)そこにいる者(一人称の視点)
変わり方改修しない限り変わらない身体・同伴者・天候・慣れで変わる
得意なこと比較・集計・配分・管理選択の理由・使われ方の説明
苦手なこと使われ方の説明百園の一律の比較
公園での例面積・種別・誘致距離入口から遊具までの歩数・囲まれ感

註:本節の三つの反論への応答は、現象学が計画の代わりを務めうると主張するものではない。現象学ができるのは、基準が翻訳の際に落としたものを言葉に戻し、測るべき変数の候補を提示することまでである。配分の決定そのものは、政治と財政の領域に属する。

9. 磐田市の公園への示唆

本節では、ここまでの概念を磐田市の公園に当てる。当サイトが収録するのは百園で、その内訳は市のオープンデータ「都市公園一覧」九十四行と、市の施設ガイドにのみ掲載されている六園である。種別では街区公園五十一、近隣公園十四、都市緑地十、法対象外・その他六、地区公園四、総合公園三、運動公園三、風致公園三、広場公園二、緑道二、墓園一、歴史公園一となっている。あらかじめ断っておくと、当サイトの現地踏査はまだ始まっておらず、踏査済として記録された園は零園である。以下は、踏査の前に立てておくべき見取り図である。

9.1 一望できる園と、内部を移動する園

第四節で述べた一望性と一巡可能性の観点から種別を読み直すと、磐田市の百園はおおよそ三つの層に分かれる。第一の層は、立った位置から園の全体が視野に入り、身体が動かなくても空間が把握される園である。街区公園五十一園と都市緑地十園の多くはこの層に属すると見込まれる。第二の層は、一望はできないが歩いて一巡できる園で、近隣公園十四園や地区公園四園の規模が近い。第三の層は、一度の訪問では一部しか経験されない園であり、竜洋海洋公園二十二万千七百二十二平方メートル、かぶと塚公園十万六千九百八十二平方メートル、つつじ公園六万千九百三十七平方メートルといった規模の園がこれに当たる。

この三層は、面積の階級区分とほぼ重なるが、意味は違う。第一の層では、公園そのものが一つの対象として経験され、同伴者の見守りは視線で完結する。第三の層では、公園は環境になり、どこへ行くかという選択が発生し、見守りは移動をともなう。地区公園に分類される兎山公園五万六千百九十三平方メートルや安久路公園三万二千一平方メートルは、種別としては地区公園だが、経験の層としては第三の層に近い可能性がある。層の境界がどこに引かれるかは、地形と植栽と園路の配置によって決まるため、踏査で確かめるほかない。

百園面積の幅一望できるか一巡できるか
図9磐田市の百園は、一望できる園、歩いて一巡できる園、内部を移動する園の三層に分かれる。層の境界は面積では決まらない。

9.2 最小の緑地を、面積の下端としてではなく読む

面積で見れば、磐田市の公園の下端は極端に小さい。二之宮東第2緑地は十七平方メートル、豊田上新屋ポケットパークは百五十六平方メートル、豊田第1緑地は二百五十四平方メートル、豊田森下ポケットパークは二百八十六平方メートル、二之宮東第1緑地は二百九十九平方メートル、県営磐田団地第2緑地は三百十四平方メートル、磐田ららシティ西ポケットパークは三百六十二平方メートルである。街区公園の国の標準面積〇・二五ヘクタール、すなわち二千五百平方メートルと比べれば、いずれも一桁から二桁小さい。

しかし第六節の議論に従えば、これらの空間は「足りない公園」としてだけ読まれるべきではない。バシュラールの言うように、小ささはそれ自体が濃さでありうる。数百平方メートルの緑地は、遊び場としての設備を欠く代わりに、一望性が完全で、囲まれ感が強く、家からの距離が近いという条件を満たしうる。ベビーカーで少し出て、ひと息ついて帰るには、この規模で十分であることがある。これらの緑地が実際にどう使われているかは、当サイトが今後の踏査で確かめるべき事柄である。

9.3 地区ごとの中心からの距離

第五節で述べた中心と往還の構造は、地区ごとの園数の偏りと結びつく。当サイトの九地区分類では、豊田二十八園、見付二十一園、中泉十四園、御厨十三園、竜洋十三園、福田四園、豊岡三園、南部二園、向陽二園である。園数の少ない地区では、家という中心から往還の先端までの距離が長くなりやすい。往路と復路が等価でないという第五節の指摘を踏まえれば、この距離は単純に二倍の負担ではなく、復路により重くのしかかる。

ただし、園数の少なさがただちに不足を意味するわけではない。地区の面積、住宅の密度、他の遊び場の有無によって必要は変わる。また南部のクリーンセンター公園や浜部農村公園、豊岡の獅子ヶ鼻公園のように、法の種別の外にある園が地区の遊び場を担っている場合もある。数の比較だけで議論を閉じないこと、これは統計を扱う際の一般的な戒めであると同時に、生きられた空間の視点からの要請でもある。

9.4 踏査で確かめる項目の提案

以上を踏まえ、当サイトが今後の踏査で記録すべき項目として、次の五つを提案する。いずれも面積とフラグでは代替できず、かつ観察で確かめられるものである。

  • 入口から主な遊具までの距離感——歩数のおおよその目安と、園路の路面(舗装・土・砂利)、途中の段差の有無
  • 腰を下ろせる場所からの見通し——ベンチや東屋から遊具のどこまでが視野に入るか、視線を切る植栽や構造物はどこか
  • 囲まれ方——道路との境界がどう作られているか、出入口はいくつあり、園内から外がどう見えるか
  • 高さの要素——築山、斜面、階段状の地形、登れる遊具の頂上から何が見えるか
  • 隅と陰——名前を持たない小さな囲われた場所が園内のどこにあるか、そこが日陰になる時間帯はいつか

これらの項目には、フラグのように有無で答えられないものが含まれる。しかし、答えを一言の記述で残すことはできる。市のオープンデータが記録するトイレ六十九園、車いす対応トイレ三十四園、砂場四十三園、遊具六十四園という九十四行の集計は、公園を比較可能にする土台として不可欠だが、そこに歩数と見通しの一言が加われば、初めて訪れる人の注意の負荷は目に見えて下がる。第七節で述べたとおり、記述の目標はそこにある。なお、公園の管理は市の都市整備課が担っており、遊具の不具合など現地の状況に関わる事柄は市へ知らせることが筋である。当サイトを運営する富士ヶ丘サービス株式会社は不動産と介護の事業者であり、公園の管理者ではない。

10. 結論と今後の課題

本稿は、公園の広さと近さが面積や距離の数値としてではなく、身体を通してはじめて経験される、という単純な観察から出発した。そして、その経験が気まぐれな主観ではなく構造を持つことを、現象学の古典を手がかりに示そうとした。以下に得られた論点をまとめ、残された課題を述べる。

10.1 得られた論点

第一に、身体図式——測らずに知っている自分の広がり——が空間の量を質へ翻訳している。この図式はベビーカーや抱っこやつないだ手によって拡張され、公園を訪れる身体はたいてい単独ではない。入口の幅も段差も、この拡張された身体の寸法として現れる。子どもの身体図式は成長によって更新され続けるため、同じ遊具が日ごとに別の課題として現れる。

第二に、経験される広さは歩数・視線・囲まれ方という三つの要素から構成され、面積の関数ではない。視線としての広さは、子どもにとっての自由の量であると同時に、同伴者にとっての見守りの負荷である。この二重性のため、広さの増加は誰にとっても同じ意味を持たない。ある規模を超えると、公園は一望される対象であることをやめ、内部を移動する環境に変わる。

第三に、体験空間は等質でも等方でもない。家という中心を持ち、往路と復路が非対称であり、上下に価値の差がある。街区公園の誘致距離二百五十メートルは、この中心からの往還の届く範囲を計画のために数値化したものであり、滞在時間の上限を決めるのは遊具の魅力ではなく帰り道の長さであることが多い。高さの経験は、面積の欄にも設備のフラグにも現れない。

記述する踏査項目積み重ね残る課題
図10本稿の結論は、測量と経験の二つのレイヤーを並べて記録することにある。踏査の項目は、面積では代替できないものから選ばれる。

第四に、住まうことの議論から、公園が周囲の土地に意味を配分する結節点であることが導かれ、バシュラールの親密な空間論から、名を持たない隅と陰が公園の経験の一部であることが導かれた。この価値は、見通しの確保という要請と正面から緊張する。緊張は解消できないが、問題の形を正確にすることで、設計上の余地——大人の視線が届く高さと子どもが包まれる高さの差——を指摘できる。

第五に、慣れた場所と初めての場所は、設備が同じでも別の場所である。習慣的身体が形成されると環境は背景へ退き、注意は子どもへ向けられる。ここから、公園の記述の目標が網羅性ではなく初回の注意の負荷の軽減にあるという、実務的な帰結が出る。慣れは記述で代替できないが、慣れるまでの足場は記述で作れる。

10.2 本稿の限界

限界を三つ挙げる。第一に、本稿は文献の概念を公園に当てる作業に終始しており、磐田市の個々の園についての記述はオープンデータと市の施設ガイドの記載に依存している。歩数も見通しも囲まれ感も、本稿は一件も確かめていない。当サイトの踏査済の園は零園であり、本稿の主張はすべて踏査によって検証あるいは修正されるべき仮説である。

第二に、本稿が想定した身体は、幼い子どもとその同伴者に偏っている。高齢者の身体、車いすを使う人の身体、視覚や聴覚に障害のある人の身体は、それぞれ別の身体図式を持ち、別の空間を生きている。市のオープンデータでは車いす対応トイレのある園は三十四園と数えられているが、設備の有無は経路の経験を尽くさない。身体の多様性に応じた記述は本稿の範囲を超える。

第三に、本稿は場所の質を扱いながら、それが誰にどう配分されているかという問題には踏み込んでいない。同じ公園が、居住年数や言語や家族の形によって、内側の場所にも外側の対象にもなる。この問題は社会学や政治学の主題であり、現象学は経験の構造を提供するにとどまる。

10.3 今後の課題

今後の課題は三つある。第一に、第九節で提案した五項目——入口から遊具までの距離感、腰を下ろせる場所からの見通し、囲まれ方、高さの要素、隅と陰——を踏査の記録様式へ落とし込み、百園に対して一貫した形で記述することである。項目は少なく、判断の余地が小さく、写真がなくても言葉で伝わるものでなければならない。

第二に、これらの記述を、既存の測量的なデータと同じ画面に並べる方法を考えることである。面積の隣に歩数の目安が置かれ、遊具の一覧の隣に見通しの一言が置かれるとき、はじめて二つのレイヤーが読者のなかで重なる。どちらか一方に置き換えるのではなく、並置すること。これが本稿の実践的な提案である。

第三に、隣接する分野との接続である。歩数と時間の制約は時間地理学が、注意の回復は環境心理学が、遊具の寸法は人間工学が、行為の可能性は生態心理学が、それぞれ測定可能な形で扱っている。現象学の記述はこれらと競合するものではなく、何を測るべきかを選ぶ段階を担う。公園という一つの場所をめぐって、測る言葉と生きる言葉が互いを補うこと——それが、この論文群が目指しうる姿である。

参考文献

  1. モーリス・メルロ=ポンティ(1945)『知覚の現象学』(邦訳 みすず書房ほか)
  2. マルティン・ハイデガー(1927)『存在と時間』(邦訳 岩波書店ほか)
  3. マルティン・ハイデガー(1951)「建てること、住むこと、考えること」(講演。邦訳は『講演と論文』などに収録)
  4. オットー・フリードリッヒ・ボルノウ(1963)『人間と空間』(邦訳 せりか書房)
  5. ガストン・バシュラール(1957)『空間の詩学』(邦訳 ちくま学芸文庫ほか)
  6. エドムント・フッサール(1936)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(邦訳あり)
  7. エドワード・レルフ(1976)『場所の現象学』(邦訳 筑摩書房)
  8. イーフー・トゥアン(1977)『空間の経験』(邦訳 筑摩書房)
  9. ケヴィン・リンチ(1960)『都市のイメージ』(邦訳 岩波書店)
  10. クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ(1979)『ゲニウス・ロキ』(邦訳あり)
  11. 和辻哲郎(1935)『風土——人間学的考察』(岩波書店)
  12. 都市公園法(昭和31年法律第79号)および都市公園法施行令
  13. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  14. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(出典:磐田市、CC BY 3.0)
  15. 磐田市「施設ガイド(公園)」

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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