人文学記憶研究

場所は覚えている——集合的記憶・記憶の場・慰霊と公園

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:記憶研究 公開・更新 2026-08-17 本文 約20,877字 読了目安 38分

要旨

本稿の目的は、公園という空間を記憶研究(メモリー・スタディーズ)の枠組みで読み直し、公園がしばしば記念碑・慰霊碑・記念植樹の置かれる場所として選ばれる理由と、遊ぶ場所と悼む場所が同一の空間に重なることの意味を検討することである。方法は文献整理と概念分析であり、モーリス・アルヴァックスの集合的記憶と記憶の社会的枠組み、ピエール・ノラ編『記憶の場』の概念、ヤン・アスマンのコミュニケーション的記憶と文化的記憶の区別、ポール・コナトンの身体化された記憶、ケヴィン・リンチの都市のイメージといった古典的な概念を、公園という具体的な空間に適用する。

検討の結果、次の見通しが得られた。第一に、記憶は個人の脳の中だけにあるのではなく、集団の枠組みと物質的な支えを必要とするという前提に立てば、公園は公有であること・恒久性が制度的に担保されていること・日常の動線上にあり誰でも入れること・碑や樹木を置ける空地があることという四つの条件を同時に満たす、都市の中でも数少ない場所であり、記念の担体が置かれやすい構造的な理由がある。第二に、遊ぶ場所と悼む場所の重なりは、追悼の失敗ではなく、記憶を日常の生活時間に組み込む一つの形式として理解できる。第三に、記憶は忘却との関係でのみ成り立ち、記念碑は「見えなくなること」を宿命として抱えるため、碑を置くことと記憶が続くことは同じではない。

最後に、磐田市の都市公園100園に議論を接続する。市のオープンデータ「都市公園一覧」と施設ガイドの記載には碑や像を示す項目がなく、園内に何が置かれているかは公開情報からは分からない。他方で、かぶと塚公園・京見塚公園・一ノ谷公園・御殿遺跡公園・遠江国分寺史跡公園のように、園名そのものが土地の来歴を伝えている園があり、市内唯一の墓園として緑ヶ丘霊園が都市公園に数えられている。当サイトの現地踏査は100園中0園であり、碑の有無・銘文・建立年といった記憶の痕跡は、すべて今後の踏査と記録の課題として残る。

キーワード集合的記憶記憶の場記念碑文化的記憶忘却記念植樹史跡公園

1. はじめに——問題の所在

公園に入ると、遊具やベンチや水飲み場のほかに、文字の刻まれた石や金属の板が置かれていることがある。竣工の年を記した石、寄贈者の名を並べた銘板、植えられた木の根元に立つ小さな札、あるいは何かの出来事を伝える碑。これらは登るための道具ではなく、座るための設備でもない。使われるためではなく、読まれるために、そしてしばしば読まれないままそこに在り続けるために置かれている。本稿はこの、公園の中にありながら公園の機能とは別の論理で置かれているものを手がかりに、場所と記憶の関係を考える。

記憶研究(メモリー・スタディーズ)とは、個人の脳の働きとしての記憶ではなく、集団が共有し、世代を超えて受け渡される記憶を扱う学際的な領域である。心理学・社会学・歴史学・人類学・文学研究などにまたがり、記憶がどのように社会的に形づくられ、どのような媒体に支えられ、どのように変形し、また失われるのかを問う。出発点は一般に、1920年代のモーリス・アルヴァックスによる集合的記憶の議論に置かれ、1980年代のピエール・ノラ編『記憶の場』とヤン・アスマンの文化的記憶論によって一つの分野として輪郭を得たとされる。

1.1 本稿の三つの問い

公園を記憶研究の対象とすることには、はじめから奇妙なところがある。公園は現在のための施設である。都市公園法(昭和31年法律第79号)が定める都市公園は、住民の休息・遊戯・運動・観賞のための空間であり、制度上、記憶を保存する施設ではない。にもかかわらず、記念碑・慰霊碑・記念植樹・記念館といった、過去に向けられたものが公園に集まりやすいという事実がある。本稿はこの食い違いを出発点に、次の三つを問う。

  • 第一の問い:なぜ公園が、記念碑や記念植樹の置き場所としてしばしば選ばれるのか。土地の性格・制度・歴史のどこにその理由があるのか。
  • 第二の問い:遊ぶ場所と悼む場所が同じ空間に重なるとき、そこでは何が起きているのか。両立は追悼の失敗なのか、それとも別の記憶の形式なのか。
  • 第三の問い:記憶を場所に託すことは、忘却に対してどこまで有効なのか。碑を建てることと、記憶が受け継がれることは、どこまで同じ事柄なのか。

この三つは互いに独立ではない。第一の問いは公園という土地の条件を問うており、第二の問いはその土地の上で生じるふるまいを問うており、第三の問いは時間の中で起きる変化を問うている。空間・行為・時間という三つの層に分けて考えることで、「公園には碑がある」という素朴な観察を、いくつかの検討可能な論点へ分解することができる。

1.2 方法と本稿の限界

本稿の方法は文献整理と概念分析である。記憶研究の古典的な概念を整理し、それを公園という空間に当てて、何が説明でき、何が説明できないかを見る。実証的な調査、すなわち特定の公園に何が置かれ、誰がいつ建て、地域の人がそれをどう扱っているかを確かめる作業は本稿の範囲外である。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園を収録するデータベースであるが、現地踏査は始まったばかりで、踏査済みの園は0園である。したがって第8節で扱う磐田市の事例は、公開されている名称・種別・面積・地区・施設ガイドの記載から読める範囲にとどまる。

もう一つ、本稿があらかじめ引いておく線がある。戦争や災害の記憶をめぐっては、何をどう記憶するかについて社会の中に立場の違いがあり、記念のかたちそのものが議論の対象になることがある。本稿はそのいずれかの立場を採らない。記憶がどのような仕組みで場所に結びつくのかを記述し、概念を整理することに徹し、特定の出来事の評価や、記念のあるべき形を定めることはしない。読者が自分の判断を組み立てるための道具立てを示すのが本稿の役割である。

記念の場遊ぶ場重なる問い
図1公園は現在のための施設でありながら、過去に向けられたものを引き受けることがある。本稿はこの重なりを空間・行為・時間の三層に分けて検討する。

1.3 用語の整理と本稿の構成

用語をあらかじめ定めておく。本稿で「記念の担体」と呼ぶのは、記憶を支えるために置かれた物のことで、碑・像・銘板・記念樹・保存された遺構などを含む。「記念行為」と呼ぶのは、式典・清掃・献花・語り継ぎなど、担体をめぐって繰り返される人のふるまいを指す。この二つを分けるのは、物があっても行為が絶えれば記憶は続かず、逆に物がなくても行為が続く場合があるからである。記憶研究の多くの議論は、この物と行為の関係をどう見るかをめぐって組み立てられている。

以下の構成は次のとおりである。第2節で記憶研究の主要概念を整理する。第3節で記憶が物に定着する形式を分類する。第4節で、公園がなぜ記念の場所に選ばれるのかを、土地の条件と制度から説明する。第5節で遊ぶ場所と悼む場所の重なりを検討し、第6節で忘却との関係を扱う。第7節では本稿の見方への反論を三つ立てて応答し、学校・寺社・博物館との比較を行う。第8節で磐田市の公園に接続し、第9節で結論と今後の課題を述べる。

2. 先行研究と概念の整理——集合的記憶から記憶の場へ

本節では、以降の議論で用いる概念を整理する。記憶研究は分野をまたぐため用語が入り組んでいるが、公園を論じるうえで必要なのは、①記憶は社会的な枠組みに支えられているという前提、②記憶が定着する媒体の種類、③記憶が受け渡される時間の長さ、④記憶と場所の結びつき、という四つの論点である。以下、それぞれについて古典的な議論を確認する。

2.1 アルヴァックス——記憶の社会的枠組み

モーリス・アルヴァックス(1877–1945)は『記憶の社会的枠組み』(1925)と、没後に刊行された『集合的記憶』(1950)において、記憶は個人の内部で完結せず、集団が与える枠組みの中でしか成り立たないと論じた。人が過去の出来事を思い出すとき、実際には家族・職場・地域・宗教集団といった集団の中で共有されている言葉・日付・場所の枠を借りている。一人で思い出しているように見えるときも、その思い出は集団の枠に支えられている、というのがアルヴァックスの中心的な主張である。

この議論から二つの帰結が導かれる。第一に、集団が消えれば、その集団に支えられていた記憶も支えを失う。地域の子ども組や若者組が消え、その集団の行事が絶えれば、行事と結びついた場所の記憶も薄れる。第二に、記憶は集団の現在の関心に応じて再構成される。過去がそのまま保存されるのではなく、今の集団にとって意味のある形に組み直される。したがって「昔ここは○○だった」という語りは、過去の記録であると同時に、現在の集団のあり方を映す鏡でもある。

アルヴァックスはまた、記憶と場所の結びつきを重視した。集団は自らの記憶を、具体的な空間の配置に託す。空間は言葉よりも変化が遅く、集団が入れ替わっても残る。逆に空間が変わってしまうと、そこに託されていた記憶は行き場を失う。公園の改修で古い遊具が撤去されるとき、道具そのものの喪失以上のものが失われることがあるのは、この点に関わる。

集団の枠語り場所時間
図2アルヴァックスによれば記憶は集団の枠組みと空間に支えられる。枠組みが消えれば記憶も支えを失い、空間が変われば記憶は行き場を失う。

2.2 ノラ——記憶の場(リュー・ド・メモワール)

ピエール・ノラが編んだ『記憶の場』(1984–1992)は、フランスの国民意識を支えてきた記念日・記念碑・国旗・教科書・地名・人物といった多様な対象を、それぞれ「記憶の場」として論じた大部の共同研究である。ここでいう場は物理的な場所に限らず、日付や書物や象徴を含む。ノラの議論で本稿にとって重要なのは、記憶の場が生まれるのは記憶が生きて働いていた状態が失われたからだ、という逆説的な指摘である。

ノラの整理では、共同体の生活の中に埋め込まれ、意識せずに継承されていた記憶(生きられた記憶)と、それが失われた後に歴史として対象化され、記念によって呼び戻される記憶とが区別される。碑を建て、記念日を定め、資料を保存するという営みは、放っておいても伝わる状態がすでに終わったことの表れである。この見方に立てば、公園に碑が置かれるという出来事は、記憶が確保された印であると同時に、記憶が危うくなった印でもある。

2.3 アスマン——コミュニケーション的記憶と文化的記憶

ヤン・アスマンは『文化的記憶』(1992)において、集合的記憶を二つに分けた。一つはコミュニケーション的記憶で、日常の会話によって受け渡される記憶であり、体験した世代が生きているあいだ、おおむね三世代ほどの範囲で持続するとされる。もう一つは文化的記憶で、文字・儀礼・記念物・制度といった形式に固定され、専門の担い手によって管理される記憶である。前者から後者への移行が起きなければ、記憶は世代の交代とともに消える。

この区別は公園を考えるうえで有用である。「昔ここは田んぼだった」「この滑り台で遊んだ」という語りは、体験した人がいるあいだ会話の中で流通するコミュニケーション的記憶である。それが碑・銘板・地図・記録という形式に移されなければ、いずれ途切れる。公園の記憶を書きとめて公開するという当サイトのような営みは、アスマンの区別でいえば、コミュニケーション的記憶を文化的記憶の側へ移す作業に当たると位置づけられる。

会話の記憶固定の記憶移行
図3アスマンは会話で伝わる記憶と、文字や記念物に固定された記憶を区別した。前者から後者への移行がなければ記憶は世代交代とともに途切れる。

2.4 コナトン、リンチ、トゥアン——身体・都市・場所

ポール・コナトンは『社会はいかに記憶するか』(1989)で、社会の記憶は文書だけでなく、身体の所作や繰り返される儀礼によっても担われると論じた。歩き方、並び方、手の合わせ方、儀式の順序といった身体化された習慣は、意識されないまま反復され、そのことによって過去を現在に運ぶ。公園における朝の体操、清掃の当番、夏の行事の準備といった反復は、この意味での記憶の担い手になりうる。

ケヴィン・リンチは『都市のイメージ』(1960)で、人が都市を頭の中の像として把握するときの要素として、道・境界・地域・結節点・ランドマークを挙げた。公園はしばしば結節点でありランドマークであり、都市の像の骨格をなす。またリンチは『時間の中の都市』(1972)で、都市環境が時間の痕跡をどう示すか、何を残し何を変えるかを主題とした。イーフー・トゥアンは『空間の経験』(1977)で、抽象的な空間が経験によって意味を帯びた場所へ変わる過程を論じ、愛着の形成を場所の条件とした。これらは、記憶が場所に定着する仕組みを空間の側から説明する試みである。

概念提唱者と年要点公園への含意
記憶の社会的枠組みアルヴァックス(1925)記憶は集団の枠組みの中で成立する利用者集団が消えれば場所の記憶も薄れる
集合的記憶アルヴァックス(1950)記憶は現在の関心から再構成される同じ公園でも世代ごとに語りが異なる
記憶の場ノラ編(1984–1992)生きられた記憶の喪失が記念を生む碑の設置は確保であり同時に危機の印
文化的記憶アスマン(1992)会話の記憶と固定された記憶を区別語りを記録へ移さねば三世代で途切れる
身体化された記憶コナトン(1989)儀礼と所作が過去を運ぶ清掃・体操・行事の反復が記憶を担う
ランドマークリンチ(1960)都市の像は結節点と目印で構成される公園は地域の像の骨格をなす

3. 記憶の物質化——碑・銘板・記念樹・遺構

本節では、記憶がどのような物に託されるのかを分類する。前節で見たとおり、記憶は集団の枠組みに支えられ、また物質的な支えを必要とする。しかし「物に託す」といっても、その形式は一様ではない。石に文字を刻むことと、木を植えることと、建物の一部を残すことでは、耐久性も、要求される手入れも、伝わり方も異なる。形式の違いを整理しておくことは、第6節で扱う忘却の問題を考える前提になる。

3.1 五つの形式

記念の担体は、おおむね次の五つに分けられる。第一は碑・像の類で、石や金属に文字や形を刻み、単独で立つもの。第二は銘板・標柱で、建物や遊具や樹木に添えられ、それ自体は独立した造形を持たないもの。第三は記念樹・記念植栽で、生きているものに記憶を託す形式。第四は保存された遺構で、古墳・遺跡・建物の基礎・被災した構造物など、出来事そのものの残骸を現地に留める形式。第五は名づけで、場所や施設の名前に人名や出来事を残す、物を伴わない形式である。

この五つは耐久性の性格が大きく異なる。石碑は放置してもすぐには消えないが、文字は風化し、いずれ読めなくなる。銘板は小さく、改修や塗り直しの際に外されて戻らないことがある。記念樹は成長して姿を変え、寿命があり、倒木の危険が生じれば伐採の対象になる。遺構は最も強い証拠性を持つが、保存にかかる費用と法的な位置づけを必要とする。名づけは物を持たないぶん壊れないが、由来が忘れられて音だけが残ることがある。

碑・銘板記念樹遺構名づけ
図4記憶の担体は碑・銘板・記念樹・遺構・名づけの五形式に大別でき、耐久性と必要な手入れ、そして伝わり方がそれぞれ異なる。

3.2 リーグルの記念物価値——意図された記念と意図されない記念

アロイス・リーグルは『現代の記念物崇拝』(1903)で、記念物を、はじめから記念のために作られたものと、後から歴史的な価値を認められたものとに分けて論じた。前者は建てた人が特定の記憶を残そうと意図しており、後者は本来は実用のために作られたものが、時間の経過によって過去を示す証人になったものである。前者を意図された記念物、後者を意図されない記念物と呼ぶことができる。

この区別は公園の理解を助ける。公園に置かれる碑や銘板は意図された記念物であるが、公園そのもの、あるいは公園に残る古い遊具・築山・水路・樹木は、記念のために作られたのではないのに、時間が経つことで過去を示すものになる。子どもの数が多かった時代の広い砂場、材料や工法が今と異なる遊具、区画整理の名残をとどめる境界線。これらは誰も記念のつもりで作っていないが、後の世代にとっては当時を示す証人になる。リーグルはさらに、古びていること自体が価値になる場合を指摘しており、風化した石や古木が持つ独特の存在感の説明にもなっている。

3.3 記念樹という形式の特異性

五つの形式のうち、記念樹は特異な位置を占める。生きているために変化し、しかもその変化が肯定的に受け取られる。碑が欠けたり傾いたりすれば損傷とみなされるが、記念樹が大きくなることは記憶の成長として語られる。植樹は、記憶を固定するのではなく、記憶を育てるという時間の感覚を伴う形式である。柳田國男が『先祖の話』(1946)で論じたように、日本には特定の樹木や場所に先祖の存在を重ねる観念の系譜があり、樹木に記憶を託す形式はその系譜に接続しうる。

他方で、記念樹には管理上の困難がつきまとう。樹木は根を張り、枝を広げ、落葉し、老齢化すれば倒伏や落枝の可能性が高まる。管理者は安全の観点から剪定や伐採を判断せざるをえないことがあり、その判断は記念という意味づけと衝突する場合がある。樹木の状態の評価は樹木医などの専門的な診断に委ねられるべき事柄であり、本稿はその可否を論じない。ここで確認したいのは、生きているものに記憶を託した瞬間から、記憶の維持は生き物の世話という継続的な行為を必要とするようになる、という構造である。

3.4 名づけ——最も軽く、最も残りやすい形式

名づけは物を必要としないため、費用がかからず、破壊もされにくい。地名や施設名は、行政の台帳・地図・郵便物・日常の会話に埋め込まれて反復されるため、碑よりも長く残ることが多い。ただし名づけには決定的な弱点がある。名前は由来を説明しないという点である。「塚」「遺跡」「渡し」「水神」といった語が名に残っていても、その語が何を指していたかは、別の媒体で説明されないかぎり伝わらない。名前だけが残り、意味が抜け落ちた状態は、記憶が消えた状態とは異なるが、記憶が働いている状態とも異なる。

この点で、名づけと説明板は補い合う関係にある。名が場所を指し示し、説明がその名の由来を伝える。第4節で見るように、公園は説明板を置くだけの空地と、それを読む立ち止まりの時間を提供できる場所であり、名と説明を同じ場所で結びつけられる数少ない空間である。当サイトのように公園の名称と種別と面積を一覧で公開する営みも、名づけの形式を支える補助的な媒体として位置づけられる。

4. なぜ公園が選ばれるのか——記念の場所の四条件

本節は第一の問いに答える。記念の担体を置く場所として、なぜ公園がしばしば選ばれるのか。ここでは個々の事情ではなく、公園という土地の類型が構造的に備えている条件を整理する。結論を先に述べれば、公園は公有性・恒久性・可達性・余地という四つの条件を同時に満たす、都市の中でも数少ない土地である。

4.1 公有性——誰の私有物でもないこと

第一の条件は、公園が公の管理する土地であることである。記念の担体は、置かれた後に長い時間そこに在ることを前提としている。私有地に置けば、所有者が代わったとき、あるいは土地が売られて用途が変わったとき、担体の運命は新しい所有者の判断に委ねられる。公有地であれば、少なくとも個人の都合による処分は起こりにくい。都市公園法は、都市公園の廃止について制限を設けており、みだりに用途を変更できない仕組みを持つ。この制度的な安定性が、記憶を託す先としての信頼を支えている。

公有性には別の含意もある。公の土地に置かれた担体は、特定の私人ではなく地域全体に帰属するものとして扱われる。誰が世話をするのかが曖昧になるという弱点を伴う一方で、地域の誰もが関わりうるという開かれた性格を持つ。アルヴァックスの言う集団の枠組みに引きつければ、公園に置かれた担体は、家族や特定の団体ではなく、地域住民という緩やかな集団を担い手として想定していることになる。

4.2 恒久性——変わりにくいことが期待されている土地

第二の条件は、変化の速度が遅いことである。都市の中で、建物は建て替えられ、店は入れ替わり、道路は拡幅される。それに対して公園は、いったん設けられれば長く同じ場所に同じ姿で在ることが期待されている。もちろん公園も改修され、遊具は更新され、区域の見直しもあるが、街区の他の要素と比べれば変化は緩やかである。リンチが『時間の中の都市』(1972)で問うたのは、まさに都市環境のどの部分が時間の痕跡を保持するかであった。公園は、都市の中で時間の痕跡を保持しやすい部分の一つである。

公有地変わらなさ通り道空地
図5公園が記念の場所に選ばれるのは、公有性・恒久性・可達性・余地という四つの条件を同時に満たす土地だからである。

4.3 可達性——日常の動線の上にあること

第三の条件は、誰でも入れて、日常の移動の途中に位置していることである。都市公園法施行令および国の標準では、街区公園は誘致距離250m・標準面積0.25ha、近隣公園は500m・2ha、地区公園は1km・4haを目安としている。この配置基準は、公園が住民の徒歩圏に散らばることを意図している。記念の担体を、博物館や資料館のように「行こうと決めて行く場所」ではなく、「通りがかりに目に入る場所」に置けることは、記憶研究の観点からは大きな意味を持つ。

アスマンの区別に照らせば、専用の施設に収められた記憶は文化的記憶の側に強く寄る。管理は行き届くが、日常の会話からは遠ざかる。これに対し、通学路や買い物の道すがらにある担体は、意図せず目に入り、子どもに問われ、答えるという偶然の会話を生む余地を持つ。記憶が会話の中で生き延びるためには、この偶然性が必要である。公園の可達性は、記念を日常の時間の中に置き直す装置として働きうる。

4.4 余地——空いている場所があること

第四の条件は、単純だが決定的である。碑を置くにも木を植えるにも、空いた地面が要る。都市の中で、建物にも道路にも駐車場にも充てられていない土地はごく限られる。公園は、その用途からして空地を含んでいる。しかも、園路の脇・広場の縁・入口の近くといった、動線を妨げずに物を置ける位置を複数持っている。この余地の存在が、記念の担体の受け皿として公園を選ばせる直接の理由になる。

ただし余地は無限ではない。担体が増えれば、遊びや運動に使える面積は減り、除草や点検の手間は増える。国土交通省の「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」が求めるのは遊具の安全管理であるが、園内に置かれた工作物は種類を問わず、劣化や転倒の可能性に関する日常的な目視が必要になる。記念の担体を置くという判断は、将来にわたる管理の負担を引き受けるという判断でもある。この点は第6節で改めて扱う。

4.5 歴史的経緯——境内と名所を引き継いだ土地

四条件に加えて、歴史的な経緯も無視できない。日本の近代公園は、明治6年(1873)の太政官布達第16号によって、社寺の境内や名所旧跡を公園に指定するところから始まった。小野良平『公園の誕生』(2003)や丸山宏『近代日本公園史の研究』(1994)が明らかにしてきたように、最初期の公園の多くは、それ以前から人が集まり、祈り、記念してきた場所そのものであった。つまり公園は、記念の機能を後から付け加えられたのではなく、記念の場所を出発点として制度化された面を持つ。

その後、設計によって新たに作られる公園が主流になり、街区公園のように住宅地の中に均等に配置される類型が生まれた。それでも、公園に碑や記念樹を置くという慣行は続いた。慣行が続く理由は、四条件という現在の合理性と、境内以来の系譜という歴史の慣性の両方から説明できる。どちらか一方だけでは、住宅地の中の小さな街区公園にまで記念の担体が現れる理由を十分に説明できない。

5. 遊ぶ場所と悼む場所——重なりをどう理解するか

本節は第二の問いを扱う。子どもが走り回り、笑い声の絶えない場所に、静かに手を合わせるための担体が置かれている。この重なりは、しばしば違和感とともに語られる。追悼の場にふさわしくない、あるいは遊ぶ子どもに気を遣わせる、という感覚である。本節はこの違和感を否定も肯定もせず、そこで何が起きているのかを記述する。

5.1 二つの時間が同じ場所に流れる

重なりの正体は、性格の異なる二つの時間が同じ空間を共有していることにある。遊びの時間は現在に閉じている。ホイジンガ以来しばしば指摘されるように、遊びは日常から区切られた今この瞬間の中で完結し、過去を参照しない。これに対して記念の時間は過去に開いている。担体の前に立つとき、人は今ここではない出来事へ意識を向ける。二つの時間はどちらも正当であり、互いに他方を必要としない。だから同じ場所にあっても混ざらず、並存する。

今の時間過去の時間並存
図6遊びの時間は現在に閉じ、記念の時間は過去に開く。二つは混ざらないまま同じ場所に並存し、そのことが重なりの違和感を生む。

並存は、どちらかがどちらかを妨げるとは限らない。子どもが碑の周りを走ることは、碑の意味を損なうわけではない。逆に、碑があることによって遊びが制約されるわけでもない。両者が衝突するのは、特定の日時に儀礼が行われるときなど、場所の使い方が排他的になる場面に限られる。日常の大半の時間において、二つは互いに気づかないまま同居している。

5.2 重なりを積極的に評価する見方

重なりを追悼の失敗とみなさない見方も成り立つ。第4節で述べたように、記憶が会話の中で生き延びるには偶然の遭遇が要る。専用の施設に囲い込まれた記憶は、訪れる意思のある人にしか届かない。公園に置かれた担体は、遊びに来た子どもの視野に否応なく入る。子どもが「これなに」と問い、大人が答える。その短い応答が、アスマンのいうコミュニケーション的記憶を次の世代へ渡す最小の単位になりうる。

また、生きている場所に記憶を置くことには、意味の面での効果も指摘できる。人の出入りが絶えた場所に置かれた担体は、荒れるにまかせられやすい。子どもの声のする場所に置かれた担体は、少なくとも人の目が届き、周囲が手入れされる。ジェイコブズが街路について論じた見守りの効果は、担体の保全にも及ぶ。悼むことと遊ぶことの重なりは、記憶の側から見れば、担体を生きた場所に留めておくための条件でもある。

5.3 重なりが難しさを生む場面

一方で、重なりが困難を生む場面も確かに存在する。第一に、儀礼の日と日常の利用が衝突する場合。式典が行われる時間帯に、通常どおり遊具が使われることをめぐって調整が必要になる。第二に、担体の周囲での遊びが、担体そのものを傷めうる場合。第三に、遺族や関係者にとって、その場所が特別な意味を持ち、日常的な賑わいが受け入れがたく感じられる場合である。これらはいずれも、当事者の感じ方に関わる事柄であり、一般論で解決できる問題ではない。

本稿の立場は、こうした場面での判断を当事者と管理者に返すことである。どの範囲を静かな場所とし、どの時間帯を儀礼のために確保するかは、地域の合意と管理者の運用に属する。記憶研究が提供できるのは、なぜ衝突が起きるのかの説明——二つの時間の性格が異なること——であって、どう調整すべきかの答えではない。

5.4 子どもに何をどう伝えるか

重なりに関連して、しばしば問われるのが、子どもへの説明である。碑の前で「これなに」と問われたとき、どこまで、どのように答えるか。ここでも本稿は一般的な答えを持たない。ただし、記憶研究の知見から言えることが二つある。第一に、子どもに伝わるのは説明の内容よりも、大人がその場所でどうふるまうかであるという点である。コナトンが論じたように、社会の記憶は身体の所作を通じて伝わる。立ち止まる、声を落とす、掃除をするといったふるまいは、言葉より先に伝わる。

第二に、記憶の受け渡しは一度で完結しない。ある年齢では名前だけを知り、別の年齢で由来を知り、さらに後になって自分なりの意味を見出す、という段階を踏む。したがって、最初の応答ですべてを説明する必要はない。恐れを与える語り方を避け、問われたことに答え、続きは後の機会に委ねるという構えが取りうる。何をどこまで話すかは家庭の判断であり、地域や学校の取り組みと重なる部分については、関係する機関の方針に従うのが適当である。

伝える側受け取る側問いと答え段階
図7記憶の受け渡しは一度では完結せず、年齢に応じて段階的に進む。大人のふるまいが言葉より先に伝わるという点が指摘されている。

6. 忘却との関係——碑を建てることは記憶が続くことではない

本節は第三の問いを扱う。記憶は忘却との関係でのみ成り立つ。すべてが記憶されるなら記憶という語は意味を持たず、何かが失われうるからこそ、留めようとする営みが生まれる。記念の担体は忘却への対抗として置かれるが、担体を置いたことが、記憶が続くことを保証するわけではない。本節では、担体が置かれた後にどのような形で記憶が薄れるのかを、四つの経路に分けて記述する。断定を避け、一般に指摘されている構造の整理にとどめる。

6.1 第一の経路——物理的な劣化

最も分かりやすい経路は、担体そのものの劣化である。石碑の刻字は風雨で浅くなり、金属の銘板は腐食し、塗装は剥げ、記念樹は老齢化する。読めなくなった碑は、そこに何かが記されていたことだけを伝え、内容を伝えない。修復には費用と技術が要るが、記念の担体は多くの場合、建立時にのみ費用が集められ、維持のための財源を持たない。時間が経つほど、当初の関係者は減り、費用を負担する主体が曖昧になる。

劣化は安全の問題にもなる。傾いた石造物、腐朽した木製の標柱、枝の枯れた大木は、公園の利用者にとって注意を要する対象になりうる。管理者は限られた予算の中で、遊具・照明・トイレ・樹木・工作物の点検を行う。国土交通省の指針が遊具について定める点検の考え方——日常的な目視、定期的な詳細点検、記録の保存——は、記念の担体の管理を考えるうえでも参考になる枠組みである。ただし個別の判断は管理者と専門家に属する。

点検風化予算判断
図8記念の担体は建立時に費用が集まっても維持の財源を持たないことが多く、劣化と点検の負担は時間とともに管理者へ移っていく。

6.2 第二の経路——文脈の喪失

碑が健在でも、記憶が薄れることがある。刻まれた文字は読めるのに、それが何を指しているか分からないという状態である。碑文はしばしば簡潔で、当時の関係者にとって自明だった背景を書かない。年号と人名と短い語句だけが残り、なぜそれが記念されたのかは説明されない。第3節で述べた名づけの弱点と同じ構造が、碑にも現れる。担体は指し示すことはできても、説明することは苦手である。

文脈の喪失は、担体が独立して存在するときに起こりやすい。周囲に説明板がなく、記録が地域の文書に残らず、語る人がいなくなれば、碑は意味の分からない石になる。ノラの指摘を裏返せば、記憶の場が作られたのは生きられた記憶が失われたからであるが、その記憶の場自体もまた、支える語りを欠けば同じ道をたどる。担体は記憶の終着点ではなく、語りと記録に支えられて初めて機能する結節点である。

6.3 第三の経路——景観への埋没

第三の経路は、担体が景観の一部になり、見えなくなることである。毎日通る場所にある物は、意識に上らなくなる。記念のために置かれたものが、日常の背景に溶け込み、そこにあることは知っているが見ていない、という状態に至る。この現象は記念碑をめぐる議論でしばしば取り上げられてきた論点であり、目立たせれば解決するという単純な問題ではない。目立ちすぎる担体は日常の使い勝手を損ない、目立たない担体は見えなくなる。

この経路への対応として指摘されてきたのが、繰り返される行為の役割である。年に一度の清掃、決まった日の献花、学校の行事としての訪問といった反復は、埋没した担体を一時的に前景へ引き戻す。コナトンの身体化された記憶の議論は、ここに接続する。物は放っておけば背景に沈むが、行為は反復されるかぎり記憶を更新する。担体の維持よりも、担体をめぐる行事の維持のほうが、記憶の持続にとって重要でありうる。

6.4 第四の経路——場所そのものの改変

第四に、公園そのものが変わる場合がある。改修で園路の配置が変わり、担体が移設される。区域が見直され、担体が別の場所へ移る。移設は破壊ではないが、記憶研究の観点からは小さくない出来事である。アルヴァックスが強調したのは、集団の記憶が空間の配置に託されるという点であった。担体が本来の位置から離れれば、なぜそこにあったのかという情報が失われる。出来事の起きた場所に立っているという証拠性は、移設によって失われる種類の価値である。

以上の四経路は、記念の担体を置くという判断が、その時点で完結しないことを示している。記憶を場所に託すことは、その場所を管理し続けるという約束を含む。この約束は、建立の関係者から、次の世代の住民と行政へと、明示されないまま引き継がれていく。担体が増えるほど約束も増え、更新期に一斉に負担が現れる。人口の構成が変わり、財政の制約が強まる局面では、この構造が課題として表面化しうる。

記録引き継ぎ反復
図9忘却は劣化・文脈の喪失・埋没・改変という四つの経路で進む。記録と引き継ぎ、そして反復される行為がそれぞれの経路への支えになる。
忘却の経路何が失われるか支えになりうるもの
物理的な劣化担体そのもの・刻字の可読性点検と記録、修繕の財源の確保
文脈の喪失碑が指し示す出来事の意味説明板、地域の文書、語りの記録
景観への埋没担体への注意そのもの清掃・献花・訪問など反復される行為
場所の改変その場所に立つという証拠性移設の経緯を含む記録の保存

7. 反論への応答と、他の記憶の装置との比較

ここまでの議論には、いくつかの当然の反論が予想される。本節では三つの反論を立てて応答し、そのうえで公園を、学校・寺社・博物館・デジタル記録という他の記憶の装置と比較する。比較の目的は優劣をつけることではなく、公園に何ができて何ができないのかを、輪郭のはっきりした形で示すことである。

7.1 反論1——記憶は人の中にあり、場所は関係ない

第一の反論はこうである。記憶は人が持つものであって、石や木が覚えているわけではない。場所に意味を見出すのは人の側であり、「場所は覚えている」という言い方は比喩にすぎない、と。この指摘自体は正しい。本稿の表題も比喩である。しかし比喩であることは、場所が無関係であることを意味しない。

行為記録場所
図10記憶は人が担うが、人だけでは世代を越えない。場所と物と記録が支えとなり、行為が反復されることで記憶は受け渡される。

アルヴァックスの議論が示したのは、人の記憶がそもそも外部の支えを必要とするという点であった。日付、地名、写真、道具、そして場所。これらの支えがあるからこそ、人は思い出すことができ、他人と記憶を突き合わせることができる。場所は、複数の人が同じものを指し示せる共通の参照点であり、しかも人よりも長く残る。記憶が人の中にあるという事実と、その記憶が場所に支えられているという事実は両立する。反論は、支えの側を軽く見積もっている。

7.2 反論2——記念碑は誰も見ていない

第二の反論は、経験に即したものである。公園の隅の碑を立ち止まって読む人はほとんどいない。ならば碑は記憶に寄与しておらず、置くこと自体が形式にすぎない、と。第6節第3項で述べた景観への埋没の指摘と重なる、強い反論である。

これに対しては二つの応答が可能である。第一に、担体の働きは日常的な注視だけで測れない。ふだんは背景であっても、行事のとき、あるいは誰かに問われたとき、担体は参照点として呼び出される。使用頻度の低さは無用さと同義ではない。第二に、担体が働くのは即時ではなく、長い時間差を置いてであることが多い。子どもの頃に見た石が、大人になってから意味を持ち始めるということが起こりうる。担体の効果を測る時間の尺度は、日や年ではなく世代である。

ただし、この応答は担体の設置を無条件に正当化するものではない。担体が増え、点検の負担が増し、園内の空間が圧迫されるとき、どこまで置くかという判断は必要になる。記憶研究は、置いた担体がどう働くかを説明できるが、置くべきかどうかを決めることはできない。それは地域の合意に属する判断である。

7.3 反論3——記憶の選択には偏りがある

第三の反論は、より原理的である。何を記念するかは選択であり、選択には力関係が反映される。ある出来事は碑になり、別の出来事は記録されない。ホブズボウムとレンジャーが『創られた伝統』(1983)で示したように、古くからの伝統に見える慣行の少なくない部分は、近代になって意図的に形づくられたものであった。アンダーソンが『想像の共同体』(1983)で論じたように、共同体の一体感もまた、媒体を通じて形成される。したがって記念の場は中立ではない、と。

本稿はこの指摘を受け入れる。記念に選択が伴うことは、記憶研究の基本的な前提の一つである。ただし本稿は、そこから特定の評価へは進まない。どの記憶が正しく、どの記念が不当かを判定することは、本稿の目的ではないし、この主題を扱ううえで慎重であるべき領域である。本稿がなしうるのは、選択が働いているという構造を可視化し、記録されなかったものがあるという可能性を開いておくことである。当サイトが公園の情報を記録する場合も、何を記録し何を記録しないかという選択が働くという自覚が要る。

選択見えないもの記録の範囲
図11何を記念するかには選択が働く。記録されなかったものがあるという可能性を開いておくことが、記憶を扱う側の最低限の作法である。

7.4 他の記憶の装置との比較

最後に比較を行う。学校は、教育課程を通じて記憶を体系的に伝えるが、対象は在学する世代に限られ、伝える内容は制度的に定められる。寺社は、年中行事と儀礼によって長期にわたり記憶を担うが、信仰の枠組みを共有しない人には届きにくい。博物館・資料館は、資料の保存と解説において最も精度が高いが、訪問の意思を持つ人にしか開かれない。デジタル記録は、複製と検索に強く距離の制約を受けないが、媒体と運営主体の持続性が保証されない。

これらと比べたときの公園の特徴は、精度でも体系性でもなく、偶然性と近さにある。誰でも入れて、通りがかりに目に入り、世代の異なる人が同じ場所に居合わせる。その代わり、解説の精度は低く、担体は限られた情報しか載せられず、管理は行き届きにくい。したがって公園は、単独では記憶の装置として不十分であり、記録や語りと組み合わされたときに機能すると考えるのが妥当である。

装置強み弱み届く範囲
公園偶然の遭遇・世代の混在・近さ解説の精度が低い・埋没しやすい近隣の不特定多数
学校体系的に伝える・反復がある在学期間に限られるその世代の児童生徒
寺社年中行事による長期の持続枠組みを共有しない人に届きにくい氏子・檀家・参拝者
博物館・資料館資料の保存と解説の精度訪問の意思を要する関心を持つ来館者
デジタル記録複製・検索・距離の制約がない媒体と運営の持続性が不確か接続できる人すべて

8. 磐田市の公園への示唆——記録に現れないものをどう扱うか

本節では、ここまでの議論を磐田市の公園に接続する。当サイトが整理した磐田市の都市公園は100園である(磐田市オープンデータ「都市公園一覧」の94行に、市の施設ガイドのみに掲載の6園を加えたもの)。種別の内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、法対象外6園である。地区別では見付21園、中泉14園、御厨13園、豊田28園、南部2園、向陽2園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園となる。

8.1 公開データには記念の担体の欄がない

記憶研究の観点から最初に確認すべきなのは、公開されている情報の構造である。磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」が公園ごとに記録しているのは、名称・種別・面積・所在に加えて、トイレ・車いす対応トイレ・砂場・遊具の有無という四つのフラグである。市の施設ガイドの個別ページ(当サイトが突合できたのは77園)には、駐車場・園内施設・備考の記載がある。いずれにも、碑・像・銘板・記念樹といった記念の担体を示す項目は存在しない。

したがって、磐田市の公園に記念の担体が置かれているかどうかは、公開情報からは分からない。分からないということを、本稿は不足としてではなく、事実として記録しておきたい。行政のデータは施設の管理と利用の案内という目的のために設計されており、その目的からすれば、遊具やトイレの有無が項目になり、碑が項目にならないのは自然である。しかし記憶研究の関心からは、まさにその項目にならない部分に、園ごとの来歴が沈んでいる可能性がある。

当サイトの現地踏査は100園中0園であり(2026年8月16日時点)、園内に何が置かれているかを確かめる作業はこれからである。第7節第3項で述べたとおり、何を記録し何を記録しないかという選択は、記録する側に常に働く。当サイトが今後の踏査で記録項目を設計するとき、この節で述べた五つの形式——碑・銘板・記念樹・遺構・名づけ——を、意識的に項目として立てるかどうかが一つの分岐点になる。

4項目施設一覧碑は不明配慮
図12市のオープンデータと施設ガイドには記念の担体を示す項目がない。碑の有無は公開情報からは分からず、踏査済みは100園中0園である。

8.2 名づけに残る来歴——意図されない記念物としての園名

公開情報の中で、記憶の痕跡を最も多く含んでいるのは園名である。第3節で述べたように、名づけは物を持たない記憶の形式であり、費用がかからず、行政の台帳と日常の会話に埋め込まれて反復されるため長く残る。磐田市の園名には、土地の来歴を示唆する語が繰り返し現れる。「塚」を含む園として、かぶと塚公園(総合公園・見付・106,982㎡)、京見塚公園(街区公園・中泉・10,231㎡)、二子塚公園(近隣公園・御厨・10,000㎡)、経塚公園(街区公園・見付・3,155㎡)がある。

「遺跡」「史跡」を含む園としては、一ノ谷公園(街区公園・見付・2,458㎡)、御殿遺跡公園(街区公園・中泉・827㎡)、そして市内で唯一の歴史公園である遠江国分寺史跡公園(中泉・21,600㎡)がある。市の施設ガイドの園内施設欄には、一ノ谷公園について「一ノ谷遺跡」、京見塚公園について「京見塚古墳」との記載がある。これらは、リーグルのいう意図されない記念物——記念のために作られたのではないが、時間の経過によって過去を示す証人になったもの——が、公園という制度に取り込まれている例として読める。遺構の保存には文化財保護法などの枠組みが関わるが、その適用関係は本稿の範囲を超える。

御殿遺跡公園と遠江国分寺史跡公園は、いずれも施設ガイドの園内施設欄が「記載なし」であり、遊具の記録もない。面積は827㎡と21,600㎡と大きく異なるが、遊ぶための設備を持たないという点で共通する。名前が土地の来歴を指し示し、園内には遊具がなく、広さだけがある。これは、公園という制度の中に、遊びの場としてではなく、場所そのものを保つための空間が含まれていることを示している。ただし現地の状況は踏査で確かめる必要がある。

8.3 記念の名を持つ園と、生きている担体

園名に「記念」の語を含むのは、豊田熊野記念公園(街区公園・豊田・1,898㎡)である。市の施設ガイドの園内施設欄には「熊野の長藤」と、複合遊具(滑り台・木製アスレチック遊具)、トイレ(多目的トイレ)が挙げられている。ここで注目したいのは、記載の筆頭に樹木が置かれていることである。第3節第3項で述べたように、樹木に記憶を託す形式は、固定ではなく成長という時間の感覚を伴い、その代わりに継続的な世話を必要とする。園の名と施設欄の記載は、この園において樹木が中心的な位置を占めていることを示している。

同時にこの園には遊具とトイレがあり、遊ぶ場所としての機能も備えている。第5節で論じた重なり——記念の対象と日常の利用が同じ区画に並存する構図——が、公開情報の水準ですでに読み取れる例である。もっとも、園内で人がどうふるまっているか、樹木がどのように扱われているかは、記載からは分からない。ここも踏査と聞き取りの課題である。

8.4 墓園が都市公園に数えられること

磐田市の100園には、墓園が1園含まれる。緑ヶ丘霊園(見付・17,802㎡)である。都市公園法の体系において、墓園は風致公園・歴史公園などと並ぶ特殊公園に位置づけられ、規模の定めを持たない。オープンデータでは、この園にトイレ・車いす対応トイレ・遊具の記録があり、市の施設ガイドには個別ページがない。制度の上では、悼むための場所が、休息と遊戯のための都市公園の一覧に並んでいる。

この事実は、本稿の第二の問いに制度の側から一つの答えを与えている。遊ぶ場所と悼む場所の重なりは、個々の公園に碑が置かれるという偶発的な出来事にとどまらず、都市公園という制度そのものが最初から抱えている構造である。日本の近代公園が社寺の境内や名所旧跡から出発したという第4節第5項の経緯を踏まえれば、これは驚くべきことではない。ただし、実際にその場所がどう使われ、どのような配慮が求められるかは、当事者と地域の判断に属する事柄であり、本稿は立ち入らない。

塚・遺跡史跡公園記念樹種別
図13磐田市の園名には塚・遺跡・史跡・記念の語が残り、種別には歴史公園と墓園が各1園含まれる。名前と種別は来歴を示す手がかりになる。

8.5 地区による分布の偏りと、記憶の分布

地区別の園数は一様ではない。豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園に対し、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。この偏りは、市街化の経緯・住宅開発の時期・合併の経緯などを反映していると考えられるが、本稿はその要因を特定しない。記憶研究の観点から述べうるのは、公園の数の偏りが、そのまま記念の担体を置ける場所の偏りになるという点である。公園の少ない地区では、記憶を託す先が公園以外——神社、寺、学校、集会所、私有地——に求められることになる。

また、園名に「農村公園」を含む園が豊田地区と南部地区に見られ、「ポケットパーク」「緑地」を含む小規模な園が豊田地区と中泉地区に多い。名前の型が地区ごとに異なることは、公園が整備された時期と経緯が地区ごとに異なることを示唆する。地区の歴史については、姉妹サイト「磐田物語」の地区ページに詳しい記述があり、本稿はそちらに委ねる。

8.6 今後の踏査で記録すべき項目

以上を踏まえ、当サイトが今後の踏査で記憶研究の観点から記録すべき項目を挙げておく。いずれも公開データには現れず、現地に立つことでしか分からない事柄である。記録にあたっては、私的な追悼の場や個人が特定される情報への配慮が必要であり、撮影や公開の可否は現地の掲示と管理者の方針に従う。

  • 碑・像・銘板・標柱があるか。ある場合、その位置(入口付近か、広場の縁か、園路の脇か)と向き。
  • 刻まれた文字が読めるか。建立年・建立主体の記載があるか。読めない箇所があるか。
  • 説明板があるか。碑と説明板が同じ場所にあるか、離れているか。
  • 記念樹・記念植栽を示す札があるか。樹種と樹勢の概況(詳細な診断は専門家に委ねる)。
  • 保存された遺構があるか。柵や表示によって区画されているか。
  • 地元での呼び名が正式名称と異なるか。掲示物から地域の行事の痕跡が読み取れるか。

公園の維持管理は市の都市整備課が担っている。担体の有無や状態について正確な情報が必要な場合は、当サイトの記述ではなく、市の窓口へ確認するのが確実である。当サイトの役割は、公開データと踏査によって分かる範囲を整理し、分からない部分を分からないと明示することにある。

9. 結論と今後の課題

本稿は、公園という空間を記憶研究の枠組みで読み直し、三つの問いを立てて検討した。以下に得られた見通しをまとめ、残された課題を示す。

9.1 三つの問いへの答え

第一の問い——なぜ公園が記念の場所として選ばれるのか——に対しては、公有性・恒久性・可達性・余地という四条件による説明を示した。公園は、個人の都合で処分されにくく、変化の速度が遅く、誰でも日常の動線上で立ち寄ることができ、物を置く空地を持つ。都市の中でこの四つを同時に満たす土地は多くない。加えて、日本の近代公園が社寺の境内や名所旧跡を出発点として制度化されたという歴史の慣性が、慣行を支えている。四条件は現在の合理性を、歴史的経緯は慣行の由来を説明しており、両者を合わせて初めて、住宅地の小さな街区公園にまで記念の担体が現れる理由が説明できる。

第二の問い——遊ぶ場所と悼む場所の重なり——については、性格の異なる二つの時間が同じ空間に並存している状態として記述した。遊びの時間は現在に閉じ、記念の時間は過去に開く。両者は混ざらないまま同居し、排他的な使い方が求められる場面でのみ衝突する。この重なりを追悼の失敗と見る立場もありうるが、記憶が会話の中で生き延びるには偶然の遭遇が要るという観点からは、日常の場に記憶を置き直す形式として理解することもできる。どちらの評価を採るかは、当事者と地域の判断に属する。

第三の問い——場所に託すことは忘却に対してどこまで有効か——については、担体を置いた後に記憶が薄れる四つの経路を示した。物理的な劣化、文脈の喪失、景観への埋没、場所そのものの改変である。碑を建てることと記憶が続くことは同じではなく、担体は記憶の終着点ではない。むしろ、記録と語りと反復される行為に支えられて初めて機能する結節点である。とりわけ、担体の維持よりも担体をめぐる行事の維持のほうが、記憶の持続にとって重要でありうるという点は、実務的な含意を持つ。

三つの問い四条件四経路
図14公園が選ばれる理由は四条件と歴史の慣性から、重なりは二つの時間の並存から、忘却は四つの経路から説明できるというのが本稿の見通しである。

9.2 本稿の限界

本稿には三つの限界がある。第一に、方法が文献整理と概念分析にとどまり、実証を欠く。特定の公園にどのような担体が置かれ、それが地域でどう扱われているかを確かめていない。第二に、参照した概念の多くが欧州の文脈で形成されたものであり、日本の地域社会における記憶の担われ方——講、氏子組織、寺檀関係、自治会の年中行事など——との対応関係を十分に検討していない。柳田國男に一度触れたにとどまり、民俗学の蓄積との接合は課題として残る。

第三に、記憶の選択に伴う力関係の問題について、構造の指摘にとどめ、具体的な評価に踏み込まなかった。これは本稿が意識的に選んだ姿勢であり、戦争や災害の記憶をめぐる評価は本稿の役割ではないと考えたためであるが、その結果として議論が抽象にとどまった面は否めない。読者がこの主題を深めるにあたっては、専門の研究と、地域の当事者による記録に当たることを勧める。

9.3 今後の課題——踏査と記録の設計

今後の課題は三つに整理できる。第一に、踏査による確認である。磐田市の100園のうち踏査済みは0園であり、第8節第6項に挙げた項目——碑・銘板の有無と位置、刻字の可読性、説明板の有無、記念樹の札、遺構の区画、地元での呼び名——は、現地に立たなければ分からない。踏査を進めるにあたっては、私的な追悼の場への配慮と、個人が特定される情報の扱いについて、あらかじめ方針を定めておく必要がある。

第二に、記録項目の設計である。当サイトは磐田市のオープンデータと市の施設ガイドの記載を突合してデータベースを作っているが、そこには記念の担体を示す項目がない。踏査で新たに記録項目を立てるとき、何を項目にし、何を自由記述に委ねるかという設計が、後の世代に何が伝わるかを左右する。項目にしなかったものは検索できず、検索できないものは次第に参照されなくなる。記録の設計は、それ自体が記憶の選択である。

第三に、聞き取りの方法である。第2節で見たアスマンの区別に照らせば、体験した世代が語れるコミュニケーション的記憶は、およそ三世代の範囲で失われる。「昔ここは何だった」「この遊具で遊んだ」という語りを記録に移す作業には時間の制約がある。聞き取りには、話者の同意、匿名化、記憶の再構成性という前提の扱いなど、方法上の慎重さが求められる。当サイトがこの作業に取り組む場合は、方法をあらかじめ定め、公開の範囲を話者と確認する手順を整えることになる。

最後に、本稿の表題に戻る。場所は覚えていない。覚えているのは人であり、場所はその手がかりを長く保持するにすぎない。しかし、人よりも長く残り、複数の人が同じものを指し示せる参照点であるという性質は、記憶の受け渡しにとって代えがたい。磐田市に100園ある公園は、遊びと運動と休息のための施設であると同時に、地域の来歴を保持しうる場所の集合でもある。そのどれだけが実際に記憶を保持しているかは、これからの踏査と記録によって明らかになる。

踏査記録書きとめ共有
図15覚えているのは人であり、場所は手がかりを保持する。磐田市100園に何が残っているかは、今後の踏査と記録によって確かめられる。

参考文献

  1. モーリス・アルヴァックス(1925)『記憶の社会的枠組み』(鈴木智之訳、青弓社、2018)
  2. モーリス・アルヴァックス(1950)『集合的記憶』(小関藤一郎訳、行路社、1989)
  3. ピエール・ノラ編(1984–1992)『記憶の場——フランス国民意識の文化=社会史』(谷川稔監訳、岩波書店、2002–2003)
  4. ヤン・アスマン(1992)『文化的記憶——文字・想起・政治的アイデンティティ』(安川晴基訳、水声社、2019)
  5. ポール・コナトン(1989)『社会はいかに記憶するか——個人と社会の関係』(芦刈美紀子訳、新曜社、2011)
  6. エリック・ホブズボウム/テレンス・レンジャー編(1983)『創られた伝統』(前川啓治ほか訳、紀伊國屋書店、1992)
  7. ベネディクト・アンダーソン(1983)『想像の共同体——ナショナリズムの起源と流行』(白石隆・白石さや訳、書籍工房早山、2007)
  8. アロイス・リーグル(1903)『現代の記念物崇拝——その特質と起源』
  9. ケヴィン・リンチ(1960)『都市のイメージ』(丹下健三・富田玲子訳、岩波書店、1968)
  10. ケヴィン・リンチ(1972)『時間の中の都市』(原題 What Time Is This Place?)
  11. イーフー・トゥアン(1977)『空間の経験——身体から都市へ』(山本浩訳、筑摩書房、1988/ちくま学芸文庫、1993)
  12. 柳田國男(1946)『先祖の話』(筑摩書房。角川ソフィア文庫)
  13. ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中公文庫、1973)
  14. ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
  15. 小野良平(2003)『公園の誕生』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)
  16. 丸山宏(1994)『近代日本公園史の研究』(思文閣出版)
  17. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  18. 文化財保護法(昭和25年法律第214号)
  19. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  20. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  21. 磐田市 施設ガイド(公園)
  22. 磐田物語(地区ページ・地域史)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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