社会科学制度経済学

公園はコモンズか——オストロムの自治する共有資源と公園管理

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:制度経済学 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,112字 読了目安 38分

要旨

本稿の目的は、都市公園を「コモンズ(共有資源)」として捉え直し、行政が税で管理する公物でも、私人が料金で管理する私有財でもない、第三の統治のかたちが公園に成り立つかを検討することである。出発点は、ギャレット・ハーディンが1968年に示した「共有地の悲劇」——誰でも家畜を放てる牧草地では各人が頭数を増やすことが合理的であり、その積み重ねが牧草地を荒れさせるという寓話——と、その一般化に反証を加えたエリノア・オストロムの1990年の研究である。

方法は文献整理と概念分析である。まず共有資源(コモンプール資源)の二条件、すなわち一人が使えばその分だけ他の人の取り分が減る「控除性」と、対価を払わない人を締め出しにくい「排除の困難」を確認する。次に、オストロムが長続きしている共同管理の事例から取り出した八つの設計原理——境界の明確さ、現地条件との適合、集合的選択の取決め、監視、段階的制裁、紛争解決の場、自治を組織する権利の承認、入れ子構造——を整理し、それを都市公園に当てはめる。あわせて、都市公園法、地方自治法の指定管理者制度、各地の自治体にみられる公園愛護の仕組み、民法の入会権という日本の制度と照らし合わせる。

検討の結果、公園は全体としては純粋な共有資源ではないが、砂場の砂、ベンチの座席、広場の静けさ、遊具の順番といった「部分」においては明らかに控除性をもち、その部分にこそ自治の余地があるという見通しが得られた。八つの原理のうち、境界の明確さと日常的な監視は都市公園ではもともと弱く、集合的選択の取決めと入れ子構造は自治会・愛護会・行政という重なりとして既に存在する。自治は行政管理の代替ではなく、行政管理の内側に埋め込まれる補完物として理解するのが妥当だという結論を得た。

最後に、磐田市の都市公園100園を、街区公園51園という層の厚さと9地区への分布から、自治の単位という観点で読み直す。ただし当サイトの現地踏査は始まったばかりであり、清掃や見守りの実態、地域ごとの取決めの有無は確認できていない。制度分析の言葉は、踏査が何を見るべきかを準備するための道具として提示する。

キーワードコモンズ共有資源オストロム設計原理公園愛護自治制度経済学入会権

1. はじめに——問題の所在

「公園は誰のものか」という問いは、所有権を尋ねているようでいて、実際にはもっと日常的な事柄を含んでいる。誰が草を刈るのか。遊具が壊れたとき誰に伝えるのか。ボール遊びをしてよい場所と時間を誰が決めるのか。秋に落ちる葉を掃くのは誰か。登記簿が答えるのは最初の問いだけであり、残りには別の仕組みが答えている。制度経済学は、この「残りの仕組み」を正面から扱う学問である。ここでいう制度とは、人びとの行動を方向づける規則・慣行・約束事の束を指し、法律や条例のような公式のものだけでなく、順番を守る、ゴミを持ち帰る、通りかかった子に声をかけるといった非公式のものも含む。

制度経済学の出発点は、資源の性質そのものよりも、資源をめぐる人びとの関係と取決めを見るという姿勢にある。ジョン・R・コモンズが1934年の『制度経済学』で分析の単位に据えたのは、財ではなく人と人との「取引」であり、取引を成り立たせる集団の規則であった。ダグラス・ノースはのちに制度を社会におけるゲームのルールと定義し、同じ資源でもルールが違えば結果が違うことを繰り返し示した。この視点を公園に持ち込むと、面積や遊具の数と同じくらい、そこで働いている取決めが重要になる。同じ広さの広場が、ある町では毎朝掃かれ、別の町では荒れる。差を生むのは土地ではなく制度である、というのが本稿の前提である。

公園の管理をめぐる通念は、長らく二つの経路に整理されてきた。一つは行政が公物として所有し税で管理する経路であり、もう一つは私人が所有し料金で管理する経路である。この二分法を経済学の側から強く支えてきたのが、ギャレット・ハーディンが1968年に発表した「共有地の悲劇」という寓話である。誰でも家畜を放てる牧草地では、各人にとって一頭増やすことが合理的だが、その積み重ねが牧草地を荒れさせる。ハーディンはここから、共有のままでは資源は守れず、国家の管理か私有化のいずれかが必要だと論じた。公園を語る言葉が「行政がやるべきか、民間に任せるべきか」に収束しがちなのは、この寓話の影響と無関係ではない。

しかしエリノア・オストロムは1990年の『コモンズのガバナンス』で、この結論が普遍的ではないことを示した。スイスの山地放牧、日本の入会林野、スペインの灌漑用水組合、フィリピンの水利施設など、数百年にわたって荒廃せずに共同利用が続いてきた資源が現実に存在する。オストロムはこれらの成功例と失敗例を突き合わせ、長続きする共同管理に共通する条件を八つの設計原理として取り出した。国家でも市場でもない第三の経路が、無条件にではなく条件つきで成立する——これが彼女の主張であり、2009年のノーベル経済学賞の評価対象となった仕事である。

誰のものか共有の場手入れ
図1所有権が答えるのは「誰のものか」までである。誰が掃き、誰が見張り、誰が決めるかは別の仕組み——制度——が担っている。

1.1 本稿の問い

以上をふまえ、本稿は次の三つの問いを立てる。いずれも、公園を「行政サービスの受け手」としてではなく、「共同で使い、共同で傷め、共同で直しうる資源」として見たときに立ち上がる問いである。

  • 第一に、都市公園はそもそもコモンプール資源(共有資源)と呼べるのか。呼べるとすれば、公園のどの部分がそうなのか。
  • 第二に、オストロムの八つの設計原理は、農村の水路や山林ではなく、都市の街区公園にどこまで当てはまるのか。当てはまらないとすれば、それはなぜか。
  • 第三に、行政管理と私有に並ぶ第三の経路として、住民による自治は日本の公園制度のなかで成立しうるのか。成立するとして、それは行政管理の代替なのか補完なのか。

本稿の方法は文献整理と概念分析である。統計的な検証も、聞き取りも行っていない。参照するのは、ハーディンとオストロムを軸とする共有資源研究、コモンズ・ノース・ウィリアムソンに連なる制度経済学、オルソンの集合行為論、そして都市公園法・地方自治法・民法という日本の法制度である。これらの概念を突き合わせることで、公園の管理をめぐる議論に使える語彙を整えることが目的であり、特定の管理方式を推奨することは目的ではない。

1.2 本稿の構成

第2節で共有地の悲劇からオストロムの反証に至る研究の流れと、制度経済学の主要概念を整理する。第3節で公園が共有資源の条件を満たすかを控除性と排除の困難という二つの軸で検討する。第4節から第6節にかけて八つの設計原理を三つのまとまりに分けて公園に当てはめ、第7節で「都市の公園に農村の自治は移植できない」という反論に応答する。第8節で行政管理・私有・自治という三つの経路を比較し、第9節で磐田市の公園に引きつけて考える。第10節が結論と課題である。

なお、当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の都市公園100園を扱うデータベースであり、現地踏査はこれから始まる段階にある。したがって本稿は、公園の実態を記述するものではなく、踏査が何を見るべきかを制度の言葉で準備する作業でもある。掃除の当番表がどこに貼られているか、遊具の不具合が誰に届くか、そうした一見些細な事柄が制度分析にとっては一次資料になる、という見通しを本稿は提示する。

2. 先行研究と概念の整理——悲劇の寓話から自治の設計へ

2.1 ハーディンの寓話と、その前提条件

ハーディンの1968年の論文は、経済学の論文というより思考実験である。誰でも家畜を放てる牧草地を想定し、そこに家畜を放つ牧夫の立場で損得を数える。家畜を一頭増やせば、その一頭から得られる利益はすべて自分のものになる。一方で草が減る損害は牧草地を使う全員に薄く広がるので、自分が負う分はごく一部にすぎない。したがって各人にとって増頭は常に得であり、全員が同じ計算をした結果、草は尽きる。ハーディンはこれを、各人の合理性が全体の破滅を招く構造として提示し、避けるには国家による管理か、私有化による囲い込みしかないと述べた。

この寓話の説得力は高いが、成り立つには強い前提が要る。牧夫たちが互いに顔を知らず、話し合わず、約束もせず、過去も未来も共有しないという前提である。実際には、同じ牧草地を毎年使う人びとは互いを知っており、来年も再来年も使い続ける。ハーディン自身も後年、自分が論じたのは管理のない共有地であって、共有地一般ではなかったと述べたことが知られている。つまり寓話が示したのは「共有だと必ず壊れる」ではなく、「取決めのない共有は壊れやすい」ということであった。この限定を回復することが、その後の研究の出発点になった。

同じ構造は、マンサー・オルソンが1965年の『集合行為論』で扱ったフリーライダー問題とも重なる。共通の利益がある集団でも、各人にとっては他人の努力にただ乗りするのが得であるため、放っておけば公共的な財は供給されない。オルソンは、集団が小さいこと、選択的な誘因(貢献した者だけが得るもの)があることを条件に挙げた。ハーディンが資源の消費側から、オルソンが供給側から、同じ「個人の合理性と全体の合理性のずれ」を描いたと整理できる。

悲劇の寓話牧草地反証の研究
図2共有地の悲劇は「取決めのない共有」の話であった。取決めのある共有が長続きする事例の集積が、その後の研究を生んだ。

2.2 オストロムの反証——現場の規則を読む

オストロムの仕事の特徴は、理論の反証を現場の記述で行った点にある。彼女と共同研究者たちは、灌漑用水、漁場、放牧地、森林など、世界各地の共同利用資源の事例を収集し、荒廃したものと数百年続いたものを比較した。日本の入会林野もその事例群に含まれる。入会とは、一定の村落の住民が慣行にもとづいて山林原野を共同で利用する権利であり、日本の民法は第263条と第294条で入会権を明文化して、その内容は各地方の慣習に従うとしている。国が細目を決めるのではなく、地域の慣行を法が受け止める構造である。

オストロムが取り出したのは、資源の物理的な性質ではなく、利用者が自分たちで作り、自分たちで守ってきた規則の共通形である。誰が使えるか、いつ、どれだけ使えるか、違反をどう見つけ、どう罰するか、もめたときどこで裁くか。彼女はこれらを八つの設計原理としてまとめた。重要なのは、原理が「こうすればうまくいく」という処方箋ではなく、「長続きしている事例に共通して見られた特徴」だという点である。原理を上から当てはめても自治は生まれない、という慎重さが彼女の議論には一貫している。

理論的な支えとしては、ロバート・アクセルロッドが1984年に示した繰り返しゲームの分析がある。同じ相手と何度も出会う状況では、裏切りが必ずしも得にならず、協力が安定しうる。牧夫たちが毎年同じ牧草地で顔を合わせるなら、ハーディンの一回限りの計算は成り立たない。オストロムの事例群が共通して満たしていたのは、まさにこの「繰り返し」と「顔の見える範囲」であった。

2.3 制度経済学の語彙——取引費用と社会的共通資本

自治が成立するかどうかを考えるとき、制度経済学が用意する重要な概念が取引費用である。オリバー・ウィリアムソンが1985年に体系化したこの概念は、取決めを作り、相手を探し、内容を交渉し、守られているかを確かめ、破られたときに対処するために要する手間と時間の総体を指す。自治は無償ではない。会合を開き、当番表を作り、苦情を聞くことには費用がかかる。行政による一括管理が選ばれるのは、多くの場合この取引費用が理由であって、自治が原理的に不可能だからではない。

もう一つ、日本の文脈で参照に値するのが宇沢弘文の社会的共通資本という概念である。宇沢は2000年の同名の著作で、大気や水や森林などの自然環境、道路や上下水道などの社会的インフラ、教育や医療などの制度資本を、市場の論理にも官僚的な裁量にも委ねず、専門的知見と職業的規律にもとづいて管理すべき資本として括った。公園はこの三分類のうち社会的インフラに属し、同時に樹林や水面という自然環境の性格ももつ。市場か行政かという二分法を退ける点で、宇沢の議論はオストロムの問題意識と接続する。

3. 公園は共有資源か——控除性と排除の困難を分けて見る

コモンプール資源(共有資源)は、二つの性質の組み合わせで定義される。第一が控除性で、一人が使えばその分だけ他の人の取り分が減ることをいう。第二が排除の困難で、対価を払わない人を締め出すのに費用がかかりすぎることをいう。財を「控除性があるか」「排除しやすいか」の二軸で分けると四つの型になり、共有資源はそのうち「控除性はあるが排除しにくい」区画に位置する。公共財との違いは控除性の有無であり、私的財との違いは排除の難易である。

排除しやすい排除しにくい
控除性がある(減る)私的財(食べ物・道具)共有資源(漁場・入会林・地下水)
控除性がない(減らない)クラブ財(有料の会員制施設)公共財(国防・街灯・眺め)

この四分類に都市公園を置こうとすると、ただちに困難が生じる。公園は一つの財ではなく、性質の異なる要素の集合体だからである。芝生越しの風景や樹林の緑陰がもたらす涼しさは、見る人が増えても減らない公共財に近い。有料のテニスコートは会員制のクラブ財に近い。そして砂場の砂、ブランコの座席、木陰のベンチ、広場の静けさは、明らかに控除性をもつ。誰かが座っているベンチには座れず、誰かが乗っているブランコには乗れない。公園全体を一語で分類することはできず、要素ごとに分けて見る必要がある。

3.1 控除性——公園のどこが「減る」のか

公園において控除性をもつものを列挙すると、大きく三種類に分かれる。第一が同時に一人しか使えない物理的な設備、すなわち遊具とベンチである。第二が使うほど質が落ちる資源で、芝生の踏圧、砂場の砂の飛散と混入、園路の摩耗、樹木の根まわりの土壌の締め固まりが該当する。第三が静けさ・見通し・清潔さのような、他者の行動によって減る環境の質である。ボールが飛び交えば静けさは減り、ゴミが残れば清潔さは減る。

  • 同時使用が競合するもの——ブランコ、滑り台、ベンチ、駐車場の区画
  • 累積で劣化するもの——芝生、砂場の砂、園路の舗装、樹木の根まわりの土壌
  • 他者の行動で減るもの——静けさ、見通し、清潔さ、遊びやすい空き空間

第三の型は経済学では外部性として扱われることが多いが、共有資源として見ると別の読み方ができる。静けさや清潔さは、公園を使う人びとが共同で生産し、共同で消費している資源である。誰かが騒げば減り、誰かが拾えば増える。生産と消費の担い手が同じであるという点が、この種の資源の特徴であり、行政が外から供給できないものの正体でもある。清掃委託は落ちているゴミを取り除けるが、ゴミを落とさない状態そのものを供給することはできない。

柵はある門は開く一人ずつ
図3公園には柵も門もあるが、締め出さないことを制度として選んでいる。一方でブランコやベンチは明確に控除性をもつ。

3.2 排除の困難——「できない」ではなく「しない」

第二の条件である排除の困難については、公園には特殊な事情がある。多くの公園には外周に柵があり、出入口が限られている。技術的には門を閉め、料金を取ることが可能である。にもかかわらず排除しないのは、費用の問題というより制度の選択である。都市公園法は都市公園を住民が自由に利用できる公共施設として位置づけており、原則として入園料を取らない運用が続いてきた。すなわち公園の排除困難性は、物理的な不可能性ではなく、法と慣行が作り出した制度的な非排除性である。

この違いは自治の可能性に直結する。漁場や地下水の排除が難しいのは自然条件によるが、公園の非排除性は決定の産物であるから、決定を変えれば排除は可能になる。夜間の施錠、特定の時間帯の予約、団体利用の許可制は、いずれも部分的な排除である。オストロムの設計原理の第一が境界の明確化であることを思えば、公園は「境界を引こうと思えば引けるのに、あえて引いていない資源」だということになる。これは自治にとって好条件でもあり、悪条件でもある。境界を引く自由があるが、引かないことに価値があるからである。

制度的な非排除性は、二重の意味で選ばれている。第一に、締め出すための費用——料金所、係員、施錠と解錠——が、公園から得られる収入に見合わないという効率上の理由がある。第二に、子どもの遊び場や住民の休息の場は誰にでも開かれているべきだという価値判断がある。前者だけなら、収入の見込める大規模な公園は有料化されてよいことになるが、実際には日本の都市公園の大半は無料で開かれている。したがって公園の非排除性を支えているのは、費用の計算よりも価値判断のほうだと考えられる。共有資源論を公園に適用する際には、この点をあらかじめ確認しておく必要がある。

3.3 使われるほど価値が増す財——コモンズの喜劇

控除性の議論には反対方向の論点も添えておく必要がある。法学者キャロル・ローズは1986年の「コモンズの喜劇」で、道路・水路・広場のように、利用者が増えるほど一人当たりの価値が増す種類の公共的財産があると論じた。人が集まる広場は、集まること自体が価値を生む。誰もいない公園は、安全面でも楽しさの面でも、価値が下がることがある。悲劇の論理だけで公園を語ると、この方向の効果を見落とす。

したがって公園は、控除する部分と増殖する部分が同居する資源だと整理できる。砂場の砂や芝生は使うほど減るが、遊び相手や見守りの目や地域の顔なじみは使うほど増える。制度設計の課題は、減る部分に規則を用意しつつ、増える部分を規則で殺さないことにある。ボール遊びの全面禁止のような一律の規則が支持を失いやすいのは、控除する部分を守るために増殖する部分まで削ってしまうからだと理解できる。この緊張は、以下の各節で繰り返し現れる。

4. 設計原理(1)——境界・現地適合・集合的選択

オストロムが長続きしている共同管理から取り出した八つの設計原理は、次のように整理できる。以下の三つの節では、これを三つのまとまりに分け、公園に当てはめたときに何が見え、何が食い違うのかを検討する。原理は達成目標ではなく観察された共通点であるから、当てはまらない場合にはその理由を考えることに意味がある。

原理内容公園での対応物
1 境界の明確化資源の範囲と、使う資格のある者が定まっている園地の区画と、地域住民という漠然とした利用者層
2 現地条件との適合利用と負担の規則が土地・気候・生業に合っている利用時間や禁止事項の掲示、地区ごとの慣行
3 集合的選択の取決め規則の影響を受ける者が規則づくりに参加できる自治会・愛護会の話合い、市の意見聴取
4 監視資源と利用者の状態を見る者がおり、利用者に責任を負う日常の人の目、定期点検、通報
5 段階的制裁違反への罰が軽いものから段階的に重くなる声かけ、掲示、注意、利用制限
6 紛争解決の場低費用で早く使える調停の場がある自治会の会合、市の窓口
7 自治の承認自ら規則を作る権利を外部の権威が否定しない都市公園法にもとづく占用・行為の許可、協働の枠組
8 入れ子構造小さな単位が大きな単位に積み重なっている公園ごと・自治会・地区・市という重なり

4.1 第一原理——境界を引きにくい資源

第一原理は、資源の物理的な範囲と、その資源を使う資格のある者の範囲が、ともに明確であることを求める。前者は公園では容易である。園地の区域は都市公園法にもとづいて告示され、面積は数値で記録されている。オープンデータの一覧に面積が並ぶこと自体が、境界の明確さの証拠である。問題は後者である。街区公園の利用者は「おおむね誘致距離250メートルの範囲の住民」と想定されるが、これは計画上の想定であって、資格ではない。隣の学区から自転車で来る子を排除する根拠はどこにもない。

この曖昧さは、共同管理にとっては明確な弱点である。オストロムの事例では、入会集団の構成員資格は世帯単位で厳格に定まり、加入と離脱に手続がある。誰が仲間かがはっきりしているから、負担の割当ても違反の摘発も成り立つ。公園では、負担する人(近隣の清掃参加者)と便益を受ける人(通りがかりの利用者を含む全員)が一致しない。この不一致は自治の動機を弱め、清掃の担い手が「なぜ自分たちだけが」と感じる原因になる。

ただし境界の曖昧さは、公園という制度の欠陥ではなく目的である点を見落としてはならない。誰でも入れることが公園の存在理由の一つであり、資格を厳格にすれば公園は公園でなくなる。したがって公園の自治は、第一原理を満たすことによってではなく、第一原理を満たさないまま成立させる工夫によって成り立たねばならない。後述する「利用者の境界ではなく責任者の境界を引く」という発想は、その一つである。

範囲地域の条件取決め
図4資源の範囲は図面で引けるが、利用者の資格は引けない。公園の自治は、この非対称を前提に組み立てる必要がある。

4.2 第二原理——規則は土地に合わせて作られる

第二原理は、利用の規則と負担の規則が、その土地の条件に適合していることを求める。灌漑では上流と下流で取水の順番と量が細かく定められ、放牧では季節ごとに使える区画が変わる。抽象的な公平ではなく、土地の癖に合わせた具体的な公平である。公園に置き換えると、同じ市内でも規則が違ってよい、ということになる。海に近い園と河川敷の園と住宅地の小公園では、風も日射も利用者層も異なるからである。

現実には、公園の規則は市域一律で示されることが多い。掲示板の禁止事項の文面が市内で同じであるのは、作成と周知の費用を下げるうえで合理的だが、第二原理から見ると弱い。たとえばボール遊びは、周囲が畑の園と、道路に面した小さな園と、フェンスのある広場とで、まったく異なる意味をもつ。一律の禁止は、守る必要のない場所にも規則を課し、逆に規則が必要な場所では守られない、という二重の非効率を生みうる。

4.3 第三原理——決める場に加われるか

第三原理は、規則の影響を受ける人びとの多くが、規則を変える手続に参加できることを求める。ここが自治と、単なる作業の下請けとを分ける分岐点である。清掃だけを住民が担い、規則は行政が一方的に決めるなら、それは労力の外部化であって自治ではない。オストロムの事例で共同管理が長続きしたのは、使う者が規則を作り替えられたからであり、規則が現場の変化に追随できたからである。

公園について言えば、参加の回路は制度上存在する。都市公園の設置や改修に際して意見を聴く機会、自治会を通じた要望、行為許可の申請といった経路がある。しかしこれらは多くの場合、規則を変える手続ではなく、要望を伝える手続である。要望が通るかどうかは行政の判断に委ねられ、住民の側に決定権はない。第三原理の観点からは、参加の有無ではなく、参加の効力が問われることになる。この点は第6節の第七原理と合わせて再び検討する。

5. 設計原理(2)——監視・段階的制裁・紛争解決

第四から第六の原理は、規則を紙の上から現実へ移す仕組みに関わる。どれほど適切な取決めがあっても、守られているかを誰も見ておらず、破っても何も起きず、もめても収める場がなければ、規則は空文になる。オストロムが強調したのは、これらの仕組みが外部の権力によってではなく、利用者自身によって、あるいは利用者に責任を負う者によって担われていた点である。

5.1 第四原理——監視は誰の目か

第四原理は、資源の状態と利用者の行動を監視する者が存在し、その者が利用者に対して責任を負うことを求める。入会林野では見回り役が集団から選ばれ、灌漑組合では水番が置かれた。彼らは外部の役人ではなく仲間であり、仲間の目に晒されているから恣意的にはふるまえない。監視が自前であることが、制裁の正統性を支えていた。

公園における監視は、性質の異なる二層に分かれる。一つは制度化された点検である。国土交通省の「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」は、遊具の日常的な点検と定期的な点検を管理者に求めており、専門的な技術にもとづく検査が行われる。もう一つは日常の人の目である。散歩する人、ベンチで休む人、犬を連れて通る人、子どもを見ている保護者。この層は誰にも雇われておらず、記録も残さないが、公園の状態を最も早く知る。

この二層は補い合うが、置き換えは効かない。専門的な点検は遊具の金属疲労を見つけられるが、毎日そこにいるわけではない。日常の目は毎日そこにあるが、破断寸前の溶接部を見分けることはできない。したがって公園の監視制度の要点は、日常の目が見つけた異変を、専門の点検へ確実に橋渡しする経路が用意されているかどうかにある。制度経済学の言葉では、これは情報の流れを設計する問題であり、通報の宛先が明示されているか、通報の手間が小さいか、通報の結果が本人に返るか、という三点に分解できる。

日常の目段階的に調停の場
図5見つける・伝える・収める。この三つが欠けると規則は紙のままになる。日常の目と専門の点検は補い合う関係にある。

5.2 第五原理——罰は軽いところから始める

第五原理は、規則違反への制裁が段階的であることを求める。最初の違反には軽い注意を、繰り返す者にはより重い処置を、という順序である。この原理は直感に反する面をもつ。抑止を強めたいなら初回から厳しくすべきだと考えられがちだが、オストロムの事例では逆であった。理由は二つある。第一に、違反の多くは悪意ではなく事情や無知に由来し、重い罰は誤りを正すより関係を壊す。第二に、重い罰は執行する側の心理的な負担が大きく、結果として執行されなくなる。

公園に当てはめると、段階の第一歩はほぼ常に「声かけ」である。順番を抜かした子に一声かける、ゴミを置いていく人に袋を差し出す、犬の紐を外している人に伝える。これらは制裁というより社会的な合図であり、費用がきわめて低い。次の段階が掲示、その次が管理者からの注意、さらに進めば都市公園法にもとづく行為の制限や利用の制限となる。制度としての公園には、この階段の下側——最も使われるはずの段——が制度化されておらず、個人の勇気に依存しているという特徴がある。

声かけが担い手にとって負担であることは軽視できない。見知らぬ相手に注意する行為には、逆上されるかもしれないという不安が伴い、近年はその不安が強まっているとされる。共同管理の理論から言えるのは、声かけの負担を個人に負わせたままでは第五原理は機能しないということである。掲示や当番の腕章のように、「私個人ではなく役割として言っている」と示せる装置が、この段の費用を下げる。

5.3 第六原理——もめごとを早く安く収める

第六原理は、利用者どうし、あるいは利用者と管理者の間の争いを、低い費用で迅速に扱う場があることを求める。公園で生じる争いは、多くの場合、権利の争いではなく用途の衝突である。球技をしたい中学生と、静かに休みたい高齢者。犬を連れて歩きたい人と、犬が苦手な子ども。早朝の掃除の音と、休みたい近隣の住民。どちらにも理があり、法的な決着になじまない。

こうした衝突を扱う場として現実に働いているのは、自治会や町内会の会合、公園の利用に関する話合い、そして市の担当窓口である。制度経済学の観点から重要なのは、これらの場が「早く安く使えるか」である。争いの解決に長い時間と多くの手間がかかるなら、人は解決を諦め、公園から離れる。離脱は摩擦を減らすが、同時に利用者を減らし、日常の監視の目を減らし、公園の状態を悪化させる。紛争解決の場の不在は、静かに、しかし確実に資源を痩せさせる。

逆に言えば、用途の衝突を時間や場所で調整する取決め——たとえば時間帯による使い分けや、区画の分け方——は、紛争解決の費用を事前に下げる制度である。オストロムの事例が示すのは、争いを裁く手続よりも、争いが起きにくい割当てのほうが安価だという知恵であった。公園の設計と規則が果たすべき役割の一つは、ここにある。

6. 設計原理(3)——自治の承認と入れ子構造

残る二つの原理は、自治する集団とその外側との関係に関わる。第七原理は、利用者が自ら規則を作る権利を外部の権威が否定しないこと。第八原理は、小さな単位が大きな単位のなかに入れ子状に積み重なっていることを求める。都市公園は行政の公物であるから、この二つは公園の自治にとって最も重要な論点になる。

6.1 第七原理——自治は上から否定されないか

第七原理が指すのは、自治を国家が積極的に支援することではなく、自治を否定しないことである。オストロムが挙げた失敗例には、地域の慣行が国有化や中央集権的な規制によって無効にされ、その結果として現場の監視も制裁も崩れ、資源が荒廃したものが少なくない。国家が正しい規則を持ち込んだつもりで、実際には長年働いてきた規則を壊してしまう、という失敗である。この含意は保守的だが強い。自治にとって外部権威の最大の貢献は、承認して手を出さないことでありうる。

日本の公園制度は、この点でどう位置づけられるか。都市公園法は公園管理者を定め、公園における行為や施設の設置に許可を要する仕組みを置いている。地方自治法は2003年の改正で指定管理者制度を導入し、公の施設の管理を民間団体や地縁団体に委ねる道を開いた。2017年の都市公園法改正では、公募により民間事業者が公園施設を設置・管理する仕組み(公募設置管理制度)が加わった。いずれも、管理の担い手を行政の外へ広げる制度である。

ただし、これらはおおむね「委ねる」制度であって「認める」制度ではない。委ねる制度では、権限の源は行政にあり、住民や事業者は受託者として行為する。認める制度では、権限の源は現場の集団にあり、行政はそれを追認する。民法の入会権が、その内容を各地方の慣習に従うとしているのは後者の形である。公園の自治を考えるとき、この違いは決定的である。委任は撤回されうるが、慣習として承認された権利は容易には撤回されない。第七原理の厳密な意味では、日本の公園制度は自治を否定してはいないが、自治の源を現場に置いてもいない、と整理できる。

承認地縁の単位入れ子
図6外部権威の最大の貢献は、承認して手を出さないことでありうる。公園の単位・自治会・地区・市が入れ子状に重なる。

6.2 公園愛護の仕組みを制度分析の言葉で読む

各地の自治体には、地域の団体が身近な公園の清掃や草取り、花壇の世話などを担い、市がその活動を支援するという仕組みが置かれてきた。公園愛護会、公園愛護団体、里親制度など呼び名はさまざまであるが、構造は共通している。地縁団体が日常の手入れを引き受け、行政は用具や消耗品、あるいは活動に応じた交付金で支える。制度経済学の言葉で言えば、これは供給(費用を負担して用意すること)と生産(実際に手を動かすこと)の分離であり、生産の一部を近接した主体へ移す取決めである。

この仕組みが機能する理由は、距離にある。近隣の住民は公園の状態を毎日観察でき、異変に早く気づき、移動の費用がほぼゼロである。行政が同じ頻度で同じ情報を集めようとすれば、莫大な費用がかかる。逆に、遊具の構造検査や樹木の診断、修繕の発注は専門と予算を要し、住民には担えない。両者は代替ではなく分業であり、うまくいっている事例は分業の線がはっきりしている。

他方で、この仕組みには制度上の弱さも指摘できる。第一に、担い手が高齢化し、後継が続かないという持続性の問題。第二に、活動が清掃という生産面に限られ、規則を作り替える集合的選択には及ばないという第三原理の弱さ。第三に、公園ごとに担い手の有無が偏るため、手入れの質が地域差として現れるという公平性の問題である。自治は万能ではなく、行政管理が担うべき最低限の水準を前提にしてはじめて意味をもつ。

6.3 第八原理——入れ子構造と多中心的な統治

第八原理は、大きな資源系では、小さな自治単位が層をなして積み重なることを求める。灌漑では末端の水路組合が支線の組合に、支線が幹線の組合に組み込まれる。各層はそれぞれの範囲の問題を扱い、上位の層は下位の層で解けない問題だけを扱う。公園に置き換えれば、公園ごとの利用者や隣接住民、自治会、地区、市、県、国という層になる。ゴミと草は最小の層で、遊具の更新は市の層で、法令と技術基準は国の層で扱われる。

この考え方は、ヴィンセント・オストロムらが1961年に提示した多中心的な統治の議論とつながる。彼らは、大都市圏の行政が一つの中心に統合されるべきだという当時の通説に対し、規模の異なる複数の意思決定の中心が併存するほうが、住民の選好に応じた供給ができると論じた。単一の中心は規模の経済に強いが、現場の情報には弱い。複数の中心は重複と混乱を生むが、情報の取得と応答には強い。公園という、市域に多数分散し、一つひとつは小さく、状態が日々変わる資源は、後者の構造に向いた対象だと言える。

ただし入れ子構造は、層の間の連絡が保たれてはじめて機能する。下位の層で気づかれた異変が上位に届かず、上位で決まった方針が下位に伝わらなければ、層は単なる断絶になる。第5節で述べた通報の経路、第4節で述べた参加の効力は、いずれもこの連絡の問題であった。八つの原理が個別の処方箋ではなく一つの束として現れるのは、このためである。

7. 反論への応答——都市の公園に自治は移植できるか

ここまでの議論に対しては、当然の反論がある。オストロムが観察したのは、農山漁村の生業に直結した資源であり、住民が動かず、顔を知り、長期の関係をもつ社会であった。都市の街区公園はそのいずれの条件も満たさない。以下では四つの反論を取り上げ、それぞれに応答する。応答の目的は反論を退けることではなく、どの条件が本当に効いているのかを見極めることにある。

7.1 反論一——都市には匿名性があり、住民は移動する

第一の反論は、繰り返しの関係が成立しないという指摘である。アクセルロッドの分析が示したように、協力が安定するには同じ相手と再び出会う見込みが要る。都市では隣人の顔を知らず、数年で転出入がある。共有地の悲劇が想定する一回限りの計算に、都市はむしろ近い。

これに対する応答は二つある。一つは、公園の利用者層には移動しにくい層が含まれるという事実である。乳幼児を連れて日々近所の公園に通う保護者、犬を連れて毎朝同じ道を歩く人、健康器具を使う高齢者は、時間帯まで含めて反復性が高い。彼らのあいだには、名前を知らないままの顔なじみという弱い関係が成立しうる。もう一つは、繰り返しの相手は人ではなく場所でもよいという点である。同じ場所に戻ってくる見込みがあれば、そこを荒らさない誘因は働く。制度が支えるべきは人間関係の濃さではなく、戻ってくる見込みのほうかもしれない。

時間がない転出入限界
図7都市の匿名性と移動性は自治の条件を弱める。ただし乳幼児期の保護者や高齢者には、時間帯まで含めた反復性がある。

7.2 反論二——生計がかかっていない

第二の反論はより重い。オストロムの事例で人びとが厳格な規則を受け入れたのは、その資源が生計の基盤だったからである。水が来なければ稲は枯れ、山が荒れれば薪も肥料もない。公園はそうではない。荒れても誰も飢えない。依存度が低ければ、規則を守る費用を払う理由も乏しい。

この指摘は正しく、公園の自治が農村の共同管理ほど強固になりえない根拠になる。ただし、依存度は一律ではない。自家用車を持たない世帯、乳幼児を連れて遠出しにくい時期の家庭、身体機能の維持のために歩く高齢者にとって、徒歩圏の公園の代替は乏しい。誘致距離という計画上の概念は、この依存度の分布を空間に置き換えたものと読める。依存度の高い層が薄く広く分布していることが、公園の自治を弱くも、しかし完全には消えなくもしている、というのが本稿の見立てである。

7.3 反論三——負担が一部に偏り、時間とともに崩れる

第三の反論は持続性に関わる。清掃や草取りを担うのは特定の世帯や年齢層に偏りがちであり、担い手が引退すれば仕組みは止まる。便益は誰にでも及ぶのに負担は一部が負うという不均衡は、第4節で述べた境界の曖昧さの帰結でもある。オルソンの集合行為論が示したとおり、集団が大きく匿名的になるほど、ただ乗りは合理的になる。

応答としては、負担の総量を下げる設計と、貢献を見えるようにする設計の二方向がありうる。前者は、落葉の多い樹種の配置、草の伸びにくい地被、清掃しやすい舗装といった、物理的な条件による負担の削減である。制度で人を頑張らせる前に、頑張る必要を減らすという発想であり、取引費用の削減にあたる。後者は、誰がいつ手入れをしたかが利用者に見える形にすることで、オルソンのいう選択的な誘因——貢献した者が受け取る承認——を弱いながらも働かせる工夫である。どちらも自治を確実にはしないが、崩れる速度を遅らせる。

7.4 反論四——自治は排除を生まないか

第四の反論は方向が逆で、自治がうまくいきすぎる場合の危険を指す。共同管理は仲間の範囲を定めることで成立するから、範囲の外にいる者を締め出す力をもつ。手入れをしている集団が、公園の使い方について事実上の決定権を握れば、そこに馴染まない利用者——騒がしい年頃の子ども、地域外の家族、言葉の通じにくい住民、路上生活者——が居づらくなる可能性がある。入会が村の構成員に限られた権利であったことを思えば、この危険は理論的な想像ではない。

この反論は、公園の自治に決定的な限界線を引く。すなわち、公園における自治は、誰を入れるかを決める権限を含んではならない。決めてよいのは、手入れの方法、清掃の分担、時間や場所の使い分けといった運用であり、利用資格ではない。都市公園法が公園を住民の自由な利用に供する施設として位置づけていることは、この限界線を外から支える装置として働く。第七原理が求めた外部権威の承認は、公園については、自治を認めることと同時に自治の範囲を画すことでもある。

以上の四つの応答をまとめると、公園の自治は、農村型の強い共同管理の縮小版としてではなく、限定された範囲で作動する弱い共同管理として構想するのが妥当だということになる。弱いとは劣るという意味ではない。担う範囲を運用に絞り、負担の総量を物理的に下げ、外部の行政管理が最低水準を保証する。この組み合わせを次節で三つの経路の比較として整理する。

8. 三つの経路の比較——行政管理・私有・自治

ハーディンが示した二つの経路に、オストロムの第三の経路を加えて比較する。比較の軸は、費用がどこにかかるか、現場の変化にどれだけ早く応じられるか、地域による差がどう生じるか、担い手が続くか、の四点である。制度経済学の見方では、どの経路が優れているかは資源の性質と情報の分布によって変わり、常に最善の経路というものはない。

行政管理(公物)私有・事業者管理住民自治(共同管理)
費用の出どころ税による一括負担料金・付帯事業の収益現物の労力と時間
現場への応答の速さ遅い(手続と予算年度に縛られる)収益に直結する範囲では速い速い(距離が近く即断できる)
地域差小さい(一律に配分される)採算の見込める場所に偏る大きい(担い手の有無で変わる)
持続性高い(組織が続く限り続く)契約期間に依存する低い(担い手の世代交代に弱い)
情報の強み技術的・法的な情報需要と採算の情報日々の状態の情報
弱点現場の細部が見えにくい採算の取れない園を扱えない範囲が狭く、公平性を保てない

8.1 三つを排他的な選択肢と見ない

表を一覧すると、三つの経路の強みと弱みがほぼ相補的であることがわかる。行政管理は公平と持続に強く、現場の情報に弱い。私有・事業者管理は採算の取れる場所で質を上げられるが、採算の取れない場所を扱えない。自治は日々の状態の把握に圧倒的に強く、公平と持続に弱い。したがって、いずれか一つを選ぶという問いの立て方自体が誤りであり、資源のどの側面をどの経路に割り当てるかが実際の設計課題になる。

この割当てを判断する道具が、ウィリアムソンの取引費用の議論である。ある業務を組織の内側で行うか、外部との契約で行うかは、その業務が定型的かどうか、成果を測れるかどうか、特定の相手にしか頼めない性質(資産特殊性)をもつかどうかで決まる。遊具の構造点検は定型的で成果が測りやすく、契約になじむ。落ち葉の清掃も契約になじむが、いつ落ち葉が積もったかを知る情報は現地にしかない。花壇の世話は成果を測りにくく、担い手の愛着に依存する度合いが高い。この差が、業務ごとの適した経路を分ける。

三つの型割当て情報
図8行政管理・事業者管理・住民自治は排他的な選択肢ではない。業務ごとに、情報のありかに応じて割り当てる問題である。

8.2 供給と生産を分けて考える

公共サービスの研究では、費用を負担して用意する「供給」と、実際に手を動かす「生産」を分けて考える整理が定着している。公園について言えば、供給の主体が市であることは変わらなくても、生産の主体は市の職員でも、委託を受けた事業者でも、地域の団体でもありうる。指定管理者制度も、公募により民間が公園施設を設置・管理する仕組みも、地域団体による日常の手入れも、いずれも生産の主体を動かす制度であって、供給の責任を移す制度ではない。

この区別は、責任の所在を明確にする点で実務的な意味をもつ。手入れを地域が担っているからといって、遊具の安全確保の責任が地域に移るわけではない。国土交通省の指針が求める点検は公園管理者の責務であり、住民の清掃活動がそれを代替することはない。自治を語るときに最も避けるべき混同は、労力の分担と責任の移転を同一視することである。

8.3 第三の経路が担いうる範囲

以上から、住民自治が担いうる範囲を積極的に定義するとすれば、次の三つに集約できる。第一に、日々の状態の把握と通報である。異変に最も早く気づく位置にいるのは近隣の利用者であり、この情報は他の経路では安く得られない。第二に、低リスクで定型的な手入れである。ゴミ拾い、草取り、花壇の水やりのように、失敗しても危険が小さく、技能の要求が低い作業が該当する。第三に、時間や場所の使い分けに関する現場の取決めである。

逆に、担わせるべきでない範囲も明確にできる。遊具や樹木の安全に関する判断、修繕の可否、利用資格の決定、費用の恒常的な負担である。前二者は専門と権限を要し、後二者は第7節で見た排除の危険と負担の偏りに直結する。第三の経路は、この線引きを曖昧にしたまま拡張すると、責任の空白か、閉鎖的な支配のいずれかに転ぶ。オストロムの原理が境界と承認をともに重視したのは、この両側の失敗を避けるためであったと読める。

9. 磐田市の公園への示唆

ここまでの概念を、磐田市の公園に引きつけて考える。当サイトが収録する磐田市の公園は100園であり、その内訳は、磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」94行と、市の施設ガイドにのみ掲載されている6園から成る。種別ごとの園数は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、そして法の対象外とされるものが6園である。管理を所管するのは磐田市の都市整備課である。

9.1 街区公園51園という層の厚さ

100園のうち半数を超える51園が街区公園であることは、共同管理という観点から見ると重要な事実である。街区公園は国の標準で0.25ヘクタール、誘致距離250メートルとされる、最も小さく最も数の多い層である。小さいということは、清掃や草取りの一回あたりの労力が小さいということであり、第7節で述べた負担の総量が抑えられるということでもある。数が多いということは、担い手の有無による差が園ごとに現れやすいということでもある。すなわち街区公園51園は、自治が最も成立しやすく、同時に地域差が最も出やすい層である。

対照的に、面積の大きい園——竜洋海洋公園の221,722平方メートル、かぶと塚公園の106,982平方メートル、つつじ公園の61,937平方メートルなど——は、体育館、球場、テニスコート、プールといった施設を抱え、専門的な運営と設備投資を要する。これらは第8節の表でいえば行政管理と事業者管理の領域であり、住民自治が主たる担い手になる想定は現実的でない。同じ「公園」という語で括られていても、制度上の適地はまったく異なる。

100園面積差地域の単位
図9街区公園51園は自治が成立しやすく地域差も出やすい層である。面積の大きい総合公園や運動公園とは制度上の適地が異なる。

9.2 都市緑地・ポケットパークという最小単位

入れ子構造の最下層にあたるのが、都市緑地10園と、名称にポケットパークを含む7園である。面積の小さい園としては、二之宮東第2緑地の17平方メートル、豊田上新屋ポケットパークの156平方メートル、豊田第1緑地の254平方メートル、豊田森下ポケットパークの286平方メートル、二之宮東第1緑地の299平方メートル、県営磐田団地第2緑地の314平方メートル、磐田ららシティ西ポケットパークの362平方メートル、見付本通広場公園の372平方メートルが挙げられる。

この規模は、行政が定期的に人員を派遣して管理するには単位が小さすぎ、逆に近隣の数世帯が手をかけるには適した大きさである。共同管理の理論から言えば、境界が視覚的に明確で、利用者と隣接住民がほぼ一致し、労力が小さいという三点で、第一原理と第七原理の条件を最もよく満たす層である。他方で、これほど小さい空間は、特定の世帯の私的な延長として囲い込まれる危険も抱える。第7節で示した限界線——自治は運用を決めてよいが利用資格を決めてはならない——が、最も試されるのがこの層だと考えられる。

9.3 地区という中間の層

磐田市の公園は9つの地区に分かれて分布している。園数は、見付21園、中泉14園、御厨13園、豊田28園、南部2園、向陽2園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園である。豊田の28園と見付の21園に対し、南部と向陽は2園ずつであり、分布は大きく偏っている。この偏りは、市街地の成り立ちや宅地開発の経緯を反映していると考えられるが、当サイトはその経緯を確かめていない。

入れ子構造の観点からは、地区は公園単位と市全体のあいだに位置する中間の層である。園数の多い地区では、複数の公園を束ねて役割を分担する——たとえば球技のできる園と静かに過ごす園を地区内で使い分ける——という調整が理屈のうえでは可能になる。園数の少ない地区では、その一園が担う機能が集中するため、用途の衝突が起きたときに逃げ場が少ない。第5節で述べた紛争解決の費用は、地区ごとに異なる形で現れると予想される。

9.4 名称に残る共同管理の痕跡と、踏査の課題

興味深いのは、園の名称に共同性を思わせる語が残っている点である。磐田市には名称に「農村公園」を含む園が5園ある。豊田海老塚農村公園、豊田富里農村公園、豊田中野戸農村公園、豊田森本農村公園、浜部農村公園である。農村公園という呼称は、集落の共同の場という由来を名称のうえで示している。当サイトはこれらの園の成立経緯も現在の管理形態も確認しておらず、名称から実態を推測することはできない。しかし、制度の履歴が名称に残るという現象自体は、制度経済学が経路依存性と呼ぶ論点に接続する。

最後に、本稿の限界を明示しておく。当サイトの現地踏査は始まっておらず、磐田市の各公園について、清掃や草取りの担い手がいるか、当番の掲示があるか、通報の宛先が示されているか、時間帯による使い分けの取決めがあるかは、いずれも確認できていない。オープンデータから読み取れるのは、トイレのある園が69園、車いす対応トイレのある園が34園、砂場のある園が43園、遊具のある園が64園、駐車場があると判定できる園が33園という設備の分布までである。制度の実態は、設備の一覧には現れない。

註:本節で用いた園数・面積・種別・地区・設備の数値は、磐田市のオープンデータおよび市の施設ガイドの記載にもとづく。管理の実態、清掃や見守りの担い手、地域ごとの取決めについては当サイトは確認していない。今後の踏査で観察する項目として、掲示物の内容、通報先の表示、当番表の有無を挙げておく。

10. 結論と今後の課題

本稿は、都市公園を制度経済学の共有資源論の枠組みで読み直し、行政管理でも私有でもない第三の統治が成立するかを検討した。第1節で立てた三つの問いに、順に答えておく。

第一の問い——公園は共有資源かについては、全体としては違うが部分としてはそうである、という答えになる。芝生越しの風景や緑陰は控除性が低く公共財に近い。有料の施設はクラブ財に近い。しかし砂場の砂、ベンチの座席、遊具の順番、広場の静けさと清潔さは、明確に控除性をもつ。しかも公園の排除困難性は物理的な不可能性ではなく、締め出さないという制度の選択の産物である。公園は「境界を引けるのに引かない資源」であり、この点で自然発生的な共有資源とは性格が異なる。

第二の問い——八つの設計原理の適用可能性については、原理ごとに大きな差がある。境界の明確化(第一原理)は、利用者の資格を定めないという公園の存在理由と正面から衝突する。監視(第四原理)は、日常の人の目という強い層と専門的な点検という層に分かれ、両者をつなぐ経路の設計が要になる。段階的制裁(第五原理)は、最初の段である声かけが制度化されておらず個人の負担に委ねられている。他方、集合的選択の取決め(第三原理)と入れ子構造(第八原理)は、自治会・地区・市という重なりとして既に存在しており、問われるのは有無ではなく効力である。

整理残る課題見通し
図10八つの原理は公園に一様に当てはまるわけではない。当てはまらない箇所こそ、公園という制度の性格を示している。

第三の問い——第三の経路の成立可能性については、限定つきで成立する、というのが本稿の結論である。ただしそれは行政管理の代替ではなく、行政管理の内側に埋め込まれる補完物としてである。担いうるのは、日々の状態の把握と通報、低リスクで定型的な手入れ、時間や場所の使い分けに関する現場の取決めの三つに限られる。安全に関する判断、修繕の可否、費用の恒常的な負担、そして誰を入れるかという利用資格の決定は、第三の経路が担ってはならない領域である。

10.1 三つの実務的な含意

以上から、公園の管理を考える際の実務的な含意を三つ挙げる。第一に、自治を求める前に負担の総量を下げること。落葉や雑草の量を左右する植栽や地被の選び方は、清掃の労力を直接に決める。制度で人を動かすより、動く必要を減らすほうが安価であることは、取引費用の視点から導かれる。

第二に、通報の経路を安く短くすること。日常の目が最も早く異変を見つけるという事実は、公園という資源の最大の情報上の強みである。この情報が専門的な点検と修繕へ届かなければ、強みは失われる。宛先が現地に示されているか、伝える手間が小さいか、伝えた結果が本人に返るか。この三点は、制度の設計として検証可能である。

第三に、自治の範囲を明示すること。何を決めてよく、何を決めてはならないかが曖昧なままの協働は、責任の空白か閉鎖的な支配のいずれかに転びやすい。範囲を狭く明示することは自治を弱めるのではなく、自治を安全に持続させる条件である。オストロムが外部権威による承認を原理に含めたのは、承認が同時に範囲の画定でもあるからだと読める。

10.2 今後の課題

本稿の限界は明確である。第一に、文献整理と概念分析にとどまり、実証を欠く。第二に、日本の公園における共同管理の実態について、制度の一般的な形は述べたが、磐田市における具体的な運用は確認していない。第三に、費用の議論を概念的な取引費用にとどめ、財政の数量的な検討には踏み込んでいない。財政面の検討は維持管理の財政を扱う別稿に委ねる。

今後の課題として、当サイトの踏査で観察すべき項目を挙げておく。掲示板に何が書かれているか(禁止事項のみか、連絡先や活動の記録もあるか)。通報の宛先が現地に示されているか。清掃活動の痕跡——集積されたゴミ袋、手入れされた花壇、刈り込みの新しさ——があるか。時間帯による使い分けを示す表示があるか。これらはいずれも、制度の存在を外側から推定するための手がかりである。

最後に、本稿の視座を一文で言い直しておく。公園の状態を決めているのは面積でも遊具の数でもなく、そこで働いている取決めである。取決めは目に見えないが、掲示物や当番表や通報先といった痕跡として現地に残る。公園を歩くとき、遊具を見るのと同じだけの注意をこれらの痕跡に向けること——制度経済学が公園ガイドに提供できるのは、おそらくこの一点である。当サイトの踏査が進めば、本稿の枠組みは検証すべき仮説の一覧として使えるようになる。

参考文献

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  2. エリノア・オストロム(1990)『コモンズのガバナンス(Governing the Commons)』(Cambridge University Press)
  3. ジョン・R・コモンズ(1934)『制度経済学(Institutional Economics)』
  4. ダグラス・C・ノース(1990)『制度・制度変化・経済成果』(竹下公視訳、晶文社、1994)
  5. オリバー・E・ウィリアムソン(1985)『資本主義の経済制度(The Economic Institutions of Capitalism)』
  6. マンサー・オルソン(1965)『集合行為論——公共財と集団理論』(依田博・森脇俊雅訳、ミネルヴァ書房、1983)
  7. ロバート・アクセルロッド(1984)『つきあい方の科学——バクテリアから国際関係まで』(松田裕之訳)
  8. キャロル・M・ローズ(1986)「コモンズの喜劇(The Comedy of the Commons)」University of Chicago Law Review, 53
  9. ポール・A・サミュエルソン(1954)「公共支出の純粋理論(The Pure Theory of Public Expenditure)」The Review of Economics and Statistics, 36(4)
  10. ジェームズ・M・ブキャナン(1965)「クラブの経済理論(An Economic Theory of Clubs)」Economica, 32(125)
  11. ヴィンセント・オストロム、チャールズ・ティブー、ロバート・ウォレン(1961)「大都市圏における政府の組織(The Organization of Government in Metropolitan Areas)」American Political Science Review, 55(4)
  12. 宇沢弘文(2000)『社会的共通資本』(岩波新書)
  13. 民法(明治29年法律第89号)第263条・第294条(入会権)
  14. 地方自治法(昭和22年法律第67号)第244条の2(公の施設の指定管理者)
  15. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  16. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  17. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  18. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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