社会科学政治学

公園づくりへの市民参加——ハートの「参加のはしご」とワークショップ民主主義の可能性と限界

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:政治学 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,678字 読了目安 39分

要旨

本稿は、公園の計画と運営への住民参加・子ども参加を政治学の視点から検討する。公園は身近な公共空間でありながら、その形や使い方を決める過程に利用者がどう関わるかは、しばしば「説明会を開いた」という事実だけで語られてきた。参加が本当に決定に届いているのか、それとも形式にとどまっているのかを見分ける物差しが必要である。

方法は文献整理と概念分析である。まずシェリー・アーンスタインの「市民参加のはしご」(1969)と、ロジャー・ハートの「子どもの参加のはしご」(1992・1997)を軸に、参加の段階を整理する。次に、参加の形式化(アリバイ参加)、声の大きい人による偏り、代表性の欠如という三つの病理を、集合行為論・参加格差研究・公共圏論の知見から検討する。さらに熟議民主主義の理論とワークショップ手法の可能性と限界を論じ、公園愛護会・アダプト制度・指定管理者・都市公園法の協議会制度など、日本の公園運営を支える参加の枠組みを政治学的に位置づける。

結論として、公園への参加は「はしごの上へ登ること」自体が目的ではなく、決定の質と正統性を高め、公園を長く使い続けるための関係を育てることに意味がある。小さな街区公園ほど参加の単位は小さく、子どもを含む多様な声を拾う工夫が要る。磐田市の100園(街区公園51園を含む)を対象に、種別・規模・地区ごとに参加の設計を変える必要を指摘し、踏査と制度の確認を今後の課題として示す。

キーワード市民参加参加のはしご子どもの参加熟議民主主義ワークショップ公園愛護会街区公園

1. はじめに——問題の所在

公園は、住民にとって最も身近な公共施設のひとつである。誰もが自由に入れ、料金を払わず、予約も要らない。しかし、その公園がどこに、どのような形で、どんな遊具や樹木を備えて造られるのか、造られたあと誰がどのように手入れをし、使い方のルールを決めるのか——こうした決定の過程に、当の利用者である住民や子どもがどれだけ関わっているかは、意外なほど問われてこなかった。公園は「与えられるもの」として受け取られ、行政は「説明会を開いた」「意見を募集した」という事実をもって手続きの正しさを示す。ここに本稿の問いがある。

政治学は、公的な決定が誰によって、どのような手続きで、誰の声を反映して行われるかを扱う学問である。その意味で、公園という小さな公共空間の決定過程は、民主主義の縮図といってよい。国政や市政の大きな争点と違い、公園の計画や運営は、一人ひとりの住民が「自分の意見が形になった」と実感できる稀な機会である。同時に、参加の場を設けても人が集まらない、集まっても一部の人の意見だけが通る、子どもの声はそもそも聞かれない、といった参加の難しさが凝縮して現れる場でもある。

本稿が用いる中心的な道具は、シェリー・アーンスタインが1969年に示した「市民参加のはしご」と、ロジャー・ハートが1992年と1997年に示した「子どもの参加のはしご」である。前者は、行政が「参加」と呼ぶものの中に、実は住民を操作したりなだめたりするだけの段階が含まれていることを暴き、参加を八段の梯子として並べた。後者は、その発想を子どもに広げ、大人が子どもを飾りとして使う段階から、子どもが自ら発案し大人と決定を分かち合う段階までを整理した。いずれも半世紀近く前の枠組みでありながら、公園づくりの現場を点検する物差しとしていまなお有効である。

参加の段階住民の声子どもの声届いているか
図1本稿の問い——公園づくりに住民や子どもの声はどの段階まで届いているのか。「はしご」を物差しに、形式だけの参加と実質のある参加を見分ける。

1.1 なぜ政治学から公園を論じるのか

公園を扱う学問は多い。造園学は空間の設計を、都市計画学は配置の体系を、行政学は管理運営の仕組みを、法学は都市公園法の条文を論じる。政治学がそこに加える視点は「権力と正統性」である。すなわち、公園に関する決定の力が誰の手にあり、その決定がなぜ受け入れられるべきなのか、という問いである。行政が単独で決めた公園と、住民が話し合って決めた公園とでは、たとえ出来上がりが同じでも、その後の使われ方や手入れへの関わり方が違ってくる可能性がある。決定過程の設計そのものが、公園の「持ち」を左右する。

また政治学は、参加の理想を語ると同時に、参加の失敗のパターンを蓄積してきた学問でもある。参加の場に来る人は誰か、来ない人は誰か。多数の沈黙する利用者と少数の声の大きい人の関係をどう考えるか。話し合いによって意見は本当に変わるのか。こうした問いは、公園のワークショップに関わったことのある人なら誰でも思い当たる現実であり、政治学の概念はそれを整理して名前を与える。

この問いをいま立てる背景には、制度の変化もある。2017年の都市公園法改正は、公園管理者が地域の関係者と管理運営を協議する協議会の仕組みを設け、民間事業者の参入を広げた。2022年に成立したこども基本法は、こども施策にこどもの意見を反映する措置を国と地方公共団体に求めた。公園は、この二つの流れが交差する場所である。制度が「参加」の器を用意したいま、その器に何を入れるかは、参加の理論を知っているかどうかで大きく変わる。

1.2 方法と構成

本稿の方法は文献整理と概念分析である。特定の公園で行われた参加の実践を調査したものではなく、政治学と関連分野の古典的な枠組みを公園という対象に当てはめ、その適用可能性と限界を検討する。磐田市の公園について述べる部分は、市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドに基づく事実の範囲にとどめ、現地の踏査はこれからである旨を明記する。

構成は次のとおりである。第2節で参加民主主義と熟議民主主義の先行研究を整理する。第3節でアーンスタインの梯子を、第4節でハートの梯子を、それぞれ公園に当てはめる。第5節では参加の三つの病理——形式化、声の大きい人、代表性——を検討する。第6節でワークショップと熟議の可能性と限界を論じ、第7節で公園愛護会・アダプト制度・指定管理者・協議会など日本の制度を参加の観点から位置づける。第8節で磐田市の100園への示唆を述べ、第9節で結論と今後の課題を示す。

註:本稿で「参加」というとき、選挙で代表を選ぶ間接的な関与ではなく、公園の計画・設計・運営という具体的な決定に住民や子どもが直接関わることを指す。「参画」という語も同じ意味で用いられることが多いが、本稿では引用箇所を除き「参加」に統一する。

2. 先行研究と概念の整理

市民参加を政治学がどう考えてきたかをたどると、大きく三つの流れが見える。第一に、参加そのものが人を市民として育てるという「参加民主主義」の系譜。第二に、参加の量よりも話し合いの質を問う「熟議民主主義」の系譜。第三に、参加を支える人間関係や信頼の蓄積に注目する「社会関係資本」と「コモンズ」の研究である。本節はこの三つを順に整理し、公園を論じるための語彙をそろえる。

2.1 参加民主主義——参加は人を育てる

アレクシ・ド・トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』(1835・1840)で、地域の小さな自治体や自発的な結社に人々が関わることが、民主主義を支える習慣を育てると論じた。ジョン・スチュアート・ミルは『代議制統治論』(1861)で、地方の公務に携わる経験が市民の知性と公共心を鍛えると述べた。これらの古典を受けて、キャロル・ペイトマンは『参加と民主主義理論』(1970)で、参加には決定を正しくする働きだけでなく、参加者自身を教育し、有能感を高める働きがあると整理した。参加民主主義とは、この「教育的効果」を重んじる立場である。

公園に引きつければ、公園づくりへの参加は「良い公園を得るため」だけでなく、「参加した人が地域に関わる力を身につけるため」にも意味がある、ということになる。子どもがワークショップで遊具の配置を話し合った経験は、その公園を大切に使う態度につながるだけでなく、将来別の場面で意見を言う力の土台になる。ハートの「子どもの参加のはしご」が単なる手法論ではなく、市民性の育成論として書かれている背景には、この参加民主主義の伝統がある。

2.2 熟議民主主義——話し合いの質を問う

一方、1990年代以降に広がった熟議民主主義(討議民主主義)は、参加の量ではなく話し合いの質に焦点を移した。ユルゲン・ハーバーマスは『公共性の構造転換』(1962)で、18世紀のヨーロッパにおいて私人が集まり公共の事柄を理性的に議論する「公共圏」が生まれ、やがて大衆社会のなかで変質していく過程を描いた。のちの『事実性と妥当性』(1992)では、法の正統性は、影響を受ける人々が自由で対等な討議を通じて同意しうるかどうかにかかっていると論じた。ここで正統性の源は、多数決の票数ではなく、理由を交わし合う過程そのものに置かれる。

ジェイムズ・フィシュキンは、この理念を実験可能な形にした。無作為に選ばれた市民が資料を読み、専門家に質問し、小グループで討論したうえで意見を答える「討論型世論調査」である。彼の『人々の声が響き合うとき』(2009)は、討議を経ることで人々の意見が変わり、より情報に基づいたものになると主張する。日本でも篠原一が『市民の政治学』(2004)で討議デモクラシーを紹介し、無作為抽出による市民討議の意義を説いた。公園のワークショップは、こうした「ミニ・パブリックス(小さな公共圏)」の最も身近な実践形態のひとつと見ることができる。

参加が育てる理由を交わす信頼の蓄積
図2三つの系譜——参加が市民を育てる(参加民主主義)、話し合いの質が正統性を生む(熟議民主主義)、関係と信頼が協力を支える(社会関係資本・コモンズ)。

2.3 社会関係資本とコモンズ——参加を支える土台

第三の流れは、参加が成り立つ社会的な土台に目を向ける。ロバート・パットナムは『哲学する民主主義』(1993)でイタリアの州政府を比較し、市民的な結社や信頼の蓄積——社会関係資本——が豊かな地域ほど政府の働きも良いと論じ、『孤独なボウリング』(2000)ではアメリカでその蓄積が減っていることを警告した。公園は、社会関係資本が生まれる場であると同時に、それを必要とする場でもある。手入れの担い手や見守りの目は、地域のつながりなしには続かない。

エリノア・オストロムは『コモンズのガバナンス』(1990)で、共有資源を利用者自身が長く管理してきた事例を世界各地に見いだし、政府か市場かの二択ではなく、利用者による自治の可能性を示した。オストロムが整理した設計原理——境界の明確さ、地域条件に合ったルール、ルールづくりへの当事者の関与、監視、段階的な制裁、紛争解決の仕組み、自治への外部の承認など——は、公園の利用ルールや愛護会の運営を考える手がかりになる。とりわけ「影響を受ける人がルールづくりに関与できること」という原理は、本稿の主題そのものである。

他方、マンサー・オルソンの『集合行為論』(1965)は、参加への期待を冷やす古典である。公園のように誰もが利益を受ける財については、自分が手間をかけなくても他人が動いてくれるなら「ただ乗り」する方が合理的であり、大きな集団ほど自発的な協力は生まれにくい。参加の場に人が集まらないのは、住民が無関心だからではなく、この構造のせいでもある。オルソンの議論は、参加を「呼びかければ来るはず」と考えることの甘さを教える。

以上を要約すれば、公園への参加は、(一)参加者を育てる、(二)話し合いによって決定の正統性を高める、(三)地域の関係と自治の力を蓄える、という三つの意義をもち、同時に、(四)ただ乗りの構造という壁を抱えている。次節以降、この語彙を使って「はしご」を読み直す。

3. アーンスタインの「市民参加のはしご」を公園に当てはめる

シェリー・アーンスタインの論文「市民参加のはしご」は、1969年にアメリカ計画家協会誌に発表された。当時のアメリカでは、都市再開発や貧困対策の連邦事業において「住民参加」が要件とされていたが、その実態は行政が決めたことを住民に説明し、了承の形を整えるだけのものが多かった。アーンスタインはこれを批判し、参加とは権力の再配分であり、決定に影響を与える力を持たない人々が決定過程に組み込まれることだと定義した。権力の再配分を伴わない参加は、力のない側にとって空虚で苛立たしい過程にすぎない、というのが彼女の主張である。

彼女はその区別を、八段の梯子として図示した。下から順に、(一)操作、(二)セラピー——この二段は「非参加」であり、住民を教育したり治療したりする対象として扱う段階である。(三)情報提供、(四)意見聴取、(五)懐柔——この三段は「形式的参加」であり、住民は声を上げることはできるが、それが聞き入れられる保証はない。(六)パートナーシップ、(七)権限委任、(八)住民による管理——この三段が「住民の権力」であり、住民が交渉し、決定し、管理する力を実際に持つ段階である。

アーンスタインの名称区分公園に当てはめた例
8住民による管理住民の権力住民団体が公園の運営方針・予算配分まで担い、行政は支援に回る
7権限委任住民の権力利用ルールや軽微な改修の決定権を住民組織に委ね、行政は事後確認する
6パートナーシップ住民の権力計画委員会に住民代表と行政が対等に座り、交渉によって設計を決める
5懐柔形式的参加審議会に住民委員を数名加えるが、多数は行政側で結論は変わらない
4意見聴取形式的参加アンケートや説明会で意見を集めるが、反映の有無も理由も示されない
3情報提供形式的参加完成した計画図を掲示・配布し、一方向に知らせる
2セラピー非参加苦情を言う住民の「理解不足」を正す場として説明会を使う
1操作非参加住民の名前を借りた委員会で、行政の案に賛同する形を作る

3.1 公園づくりの各局面と梯子の段

この梯子を公園に当てはめると、いくつかの発見がある。第一に、日本の公園づくりで一般的な手続き——計画案の縦覧、意見募集、説明会——は、多くが(三)情報提供と(四)意見聴取に位置する。これらは違法でも無意味でもないが、アーンスタインの区分では「形式的参加」にとどまる。意見を集めても、どの意見がなぜ採用され、なぜ採用されなかったかが示されなければ、住民は自分の声が届いたかどうかを知る手段を持たない。反映の有無と理由を返すこと(フィードバック)が、(四)を(六)に近づける鍵になる。

第二に、公園づくりには「計画・設計」の局面と「運営・維持管理」の局面があり、適した段が異なる。新設や大規模改修の設計では、専門知識や法令上の制約が多く、住民が全てを決めることは現実的でない。ここでは(六)パートナーシップ、すなわち住民代表と行政・設計者が交渉のテーブルに着き、譲れない条件を互いに示し合う形が目標になる。他方、日常の運営——清掃の頻度、花壇の中身、イベントの可否——では、(七)権限委任に近い形が可能であり、後述する公園愛護会やアダプト制度はこの段に対応しうる。

第三に、梯子の下二段——(一)操作と(二)セラピー——は、日本の公園づくりでは無縁に思えるかもしれないが、形を変えて現れることがある。たとえば、公園の樹木の伐採や遊具の撤去に反対する住民に対し、説明会が「安全上やむを得ないことを理解してもらう場」としてのみ設計されるとき、住民は決定の相手ではなく、理解が足りない対象として扱われている。安全基準の説明は必要であるが、それが住民の異議を「知識不足」に還元してしまうなら、アーンスタインのいうセラピーに近い。異議の中に、別の選択肢——伐採ではなく剪定、撤去ではなく更新——を求める声が含まれていないかを聴き取る姿勢が、下二段と上の段を分ける。

八段の梯子知らせる聞く決める力
図3アーンスタインの梯子——「知らせる」「聞く」は形式的参加、「決める力を分かち合う」ことで初めて住民の権力の段に届く。

3.2 梯子への批判と、それでも使う理由

アーンスタインの梯子には、発表当時から批判もある。まず、梯子という比喩は「上ほど良い」という印象を与えるが、すべての決定を住民管理にすることが望ましいとは限らない。公園の安全基準や構造計算は専門家が責任を持つべき領域であり、住民の多数決で決めるべきではない。次に、梯子は行政と住民を二つの塊として描くが、住民の内部には利害の対立がある。ボール遊びをしたい子どもと静けさを求める隣接住民は、同じ「住民」でも求めるものが違う。住民に権限を委ねることは、住民の中の誰に委ねるかという新たな問題を生む。アーンスタイン自身も、この図式が現実を単純化していることを認めていた。

さらに、梯子は「参加の深さ」だけを測り、「参加の広さ」を測らない。数人の住民が権限委任を受けても、残りの多数が何も知らなければ、それは民主的といえるだろうか。この点は第5節の代表性の議論につながる。また、参加の目的が問われていないという批判もある。参加は決定を良くするためか、正統性を得るためか、住民を育てるためか、行政の負担を減らすためか。目的が違えば、適した段も違う。

それでも本稿がこの梯子を用いるのは、「参加」という言葉の中身を問い直す力が今も衰えていないからである。公園づくりに関する報告書や広報に「住民参加により」と書かれているとき、それは何段目の参加だったのか。説明会に何人来たかではなく、住民の意見によって計画のどこが変わったのかを問う習慣を、この梯子は与えてくれる。次節では、この問いを大人だけでなく子どもにまで広げたハートの梯子を検討する。

4. ハートの「子どもの参加のはしご」と公園

公園の主要な利用者は子どもである。しかし公園づくりの参加の場に子どもが座ることは少なく、座っていても「かわいらしい意見」として扱われて終わることが多い。ロジャー・ハートは、ユニセフの研究所から刊行した『子どもの参加——形式主義から市民性へ』(1992)で、アーンスタインの梯子を子どもに応用し、大人が子どもの参加と呼んでいるものの多くが実は形式にすぎないことを示した。1997年の『子どもの参画』では、世界各地の環境教育やまちづくりの実践をもとに、その理論と方法を体系化している。

ハートの梯子も八段である。下から、(一)操り、(二)お飾り、(三)形式的参加——これらは「非参加」であり、子どもが大人の目的のために利用されている段階である。(四)仕事は割り当てられるが内容を知らされている、(五)意見を求められ内容を知らされている、(六)大人が発案し子どもと決定を分かち合う、(七)子どもが発案し子どもが指揮する、(八)子どもが発案し大人と決定を分かち合う。ハートは、最上段を(七)ではなく(八)に置いた点に注意を促している。子どもだけで完結するより、子どもが自ら始めた活動に大人が対等な相手として加わる方が、子どもの力を最も高めると考えたからである。

ハートの名称区分公園に当てはめた例
8子どもが発案し、大人と決定を共有参加子どもたちが遊び場の不満から改善案を出し、行政や設計者と一緒に案を練り上げる
7子どもが発案し、子どもが指揮参加子どもが自分たちで公園の清掃日や遊びのルールを決めて実行する
6大人が発案し、子どもと決定を共有参加行政が始めた改修ワークショップで、子どもの案が実際に設計に反映される
5意見を求められ、内容を知らされる参加子どもへの聞き取りが行われ、結果がどう使われたか子どもに返される
4役割を割り当てられ、内容を知らされる参加植樹式に参加するが、なぜその木か、誰が決めたかを説明されている
3形式的参加非参加式典で子どもが意見を述べるが、原稿は大人が書き、決定には無関係
2お飾り非参加子どもの絵を掲示して「子どもの声を聞いた」とするが、内容は問われない
1操り非参加大人の主張を子どもに言わせ、子どもの声として使う

4.1 なぜ子どもの参加が公園で特に問題になるのか

子どもの参加が公園で特に重要なのは、単に子どもが利用者だからではない。第一に、子どもは公園を大人と違う仕方で見ている。大人が「安全な遊具」「見通しの良い植栽」と考えるものと、子どもが「面白い」「隠れられる」と感じるものは一致しないことがある。子どもの視点を欠いた公園は、大人には整って見えても子どもには使われない可能性がある。第二に、子どもは選挙権を持たず、税も納めず、通常の政治参加の回路の外にいる。公園は、子どもが自分に関わる公共の決定に関われるほとんど唯一の場面かもしれない。ここでの経験は、ペイトマンのいう参加の教育的効果を、最も早い時期に働かせる機会になる。

国際的な枠組みも子どもの参加を後押ししている。児童の権利に関する条約(1989年採択、日本は1994年批准)は、第12条で、自己の意見を形成する能力のある子どもが、自分に影響を及ぼすすべての事柄について自由に意見を表明する権利と、その意見が年齢と成熟度に応じて正当に考慮される権利を定めている。第31条は休息・余暇・遊びの権利を定める。遊び場としての公園は、この二つの条文が交わる場所である。日本でも、こども基本法(2022年成立)が、こども施策の策定・実施・評価にあたってこども等の意見を反映するための措置を国と地方公共団体に求めており、公園を含む身近な施策で子どもの意見をどう聴くかが、法律上の課題として位置づけられた。

子どもの視点描く・書く設計に反映結果を返す
図4ハートの梯子で「参加」に届く条件——子どもの視点を集め、設計に反映し、どう使われたかを子ども自身に返すこと。お飾りで終わらせない。

4.2 発達段階と参加の形——梯子は登るための尺度ではない

ハートは、すべての子どもが常に最上段で参加すべきだと言ったわけではない。年齢や関心、場面によって、参加の適した形は異なる。幼児にとっては、大人が用意した選択肢から選ぶこと、遊びながら好みを示すこと自体が意味のある参加である。学齢期の子どもは、地図に印をつける、模型を作る、順位をつけるといった方法で、より構造化された意見表明ができる。大切なのは、どの段であっても、子どもが「何のために意見を求められ、それがどう使われるか」を知らされていることである。ハート自身も後年、梯子が上を目指す尺度として読まれすぎたことを振り返り、状況に応じた選択の道具として使うよう求めている。

公園づくりの実務で子どもの参加を取り入れる際に起こりやすい失敗は、(二)お飾りと(三)形式的参加への転落である。子どもの描いた絵を集めて掲示し、「子どもの夢がつまった公園」と広報するが、絵の中身は設計に反映されない。あるいは、開園式で子ども代表が大人の書いた作文を読む。これらは子どもの参加の外形を整えるだけで、子どもに「自分の声は使われるふりをされるだけだ」という学習をさせてしまう。それは参加の教育的効果の逆であり、政治的な無力感を早期に植えつけることになりかねない。

したがって、子どもの参加を設計する側に求められるのは、段を上げること以上に、正直さである。何を決められて何を決められないかを最初に示し、出された意見を分類し、採用したものと採用できなかったものを理由とともに返す。この往復があって初めて、ハートのいう(五)以上の段が成立する。子どもの参加は「かわいい企画」ではなく、大人の参加と同じ厳密さで扱われるべき民主主義の手続きなのである。

5. 参加の三つの病理——形式化・声の大きい人・代表性

参加の場を設ければ民主的になる、というほど話は単純ではない。政治学は参加が失敗する典型的な型を蓄積してきた。本節では、公園づくりの現場で最もよく現れる三つの病理——参加の形式化(アリバイ参加)、声の大きい人による偏り、代表性の欠如——を取り上げ、それぞれについて政治学の概念がどのような診断と処方を与えるかを検討する。三つは別々の問題に見えて、根は互いに絡み合っている。

5.1 形式化——「参加した」という事実だけが残る

第一の病理は、参加が手続きの要件を満たすための儀式になることである。計画の大枠が固まったあとに説明会が開かれ、住民の意見は「参考にする」と記録され、計画は変わらない。アーンスタインの梯子でいえば(三)情報提供や(四)意見聴取が「参加」の名で呼ばれる状態であり、日本語では「アリバイ参加」と呼ばれることもある。この病理が厄介なのは、行政側に悪意がなくても生じる点である。予算と工期が先に決まり、設計者に発注が済んでから住民に問えば、変えられる余地は最初から小さい。参加の時期が遅すぎるのである。

処方は二つある。ひとつは参加の時期を前倒しし、「何を造るか」が決まる前に「この場所に何が必要か」を問うこと。もうひとつは、意見への応答を義務づけることである。出された意見をどう扱ったかを、採用・不採用の理由とともに公表する。行政手続の分野で意見公募(パブリックコメント)に結果の公示と考慮結果の説明が求められているのは、この応答の原理を制度化したものと理解できる。公園のワークショップでも、応答のない参加は形式化への滑り台である。

5.2 声の大きい人——発言の偏りと沈黙する多数

第二の病理は、参加の場に来る人、来て発言する人が偏ることである。シドニー・ヴァーバらの『声と平等』(1995)は、アメリカの大規模調査から、政治参加には時間・資金・技能という資源が必要であり、これらを多く持つ人ほど参加しやすいことを示した。参加は自由に開かれているように見えて、実際には資源の分布に沿って偏る。公園に当てはめれば、平日昼間の会議に来られるのは時間の融通がきく人であり、乳幼児を抱えた親、夜勤の人、日本語での発言に慣れない住民、そして子ども自身は、しばしば席にいない。

そのうえ、来た人の中でも発言は偏る。会議に慣れた人、地域の役職を持つ人、以前から要望を持っている人が長く話し、初めて来た人は黙る。アイリス・マリオン・ヤングは『包摂と民主主義』(2000)で、これを「内的排除」と呼んだ。席に着くことは許されても、その場で通用する話し方——論理的で簡潔な意見表明——ができなければ、事実上排除されるという意味である。ヤングは、挨拶や物語や感情のこもった語りも正当なコミュニケーションとして扱うべきだと論じた。子どもの参加を考えるとき、この指摘は重い。子どもの「ここが怖い」「あそこで遊びたい」という語りは、大人の会議の作法に合わないというだけで切り捨てられてはならない。

聞かれる声時間の制約来られない親届かない
図5声の偏り——参加の場に来られる人は時間や慣れという資源を持つ人に偏り、乳幼児連れの親や子ども自身の声は届きにくい。

声の大きい人の問題は、その人が悪いという話ではない。熱心に通い、意見を言う人は、参加の場を支えている貴重な存在でもある。問題は、その声が「住民の声」として代表されてしまう構造にある。アルバート・ハーシュマンの『離脱・発言・忠誠』(1970)の枠組みでいえば、公園に不満のある人は「発言」するか「離脱」する——別の公園へ行く、行かなくなる——かを選ぶ。離脱を選んだ人の声は場に現れない。子育て世帯が「この公園は使いにくい」と感じて足を運ばなくなれば、その公園について発言するのは残った人だけになり、公園はますますその人たちの好みに近づいていく。

5.3 代表性——「誰の声か」を問う

第三の病理は、参加の場に集まった人々が、その公園に関わる人々全体をどれだけ代表しているか、という問題である。数十人が集まっても、それが利用者の縮図でなければ、そこで決まったことの正統性は揺らぐ。ナンシー・フレイザーは、ハーバーマスの公共圏論を批判して、公共圏は一つではなく、主流の公共圏から排除された人々が自分たちの言葉で語り合う「対抗的な公共圏」が複数あると論じた(1990)。公園に引きつければ、公民館の会議室で開かれる説明会と、砂場のわきで交わされる親同士の立ち話は、別の公共圏である。後者の声を前者に届ける回路がなければ、代表性は保てない。

代表性を高める工夫として、政治学が近年注目してきたのが無作為抽出(くじ引き)である。フィシュキンの討論型世論調査や、各地で試みられている市民会議は、住民基本台帳などから無作為に選ばれた人に参加を依頼することで、自発的な参加に伴う偏りを避けようとする。公園の規模でこれをそのまま行うのは負担が大きいが、発想は応用できる。参加の場を一つに絞らず、公園の中で聞き取りを行う、園庭や学校を通じて子どもに聞く、時間帯を変えて複数回開く、といった手法は、いずれも「来られる人」ではなく「関わる人」に近づこうとする試みである。

三つの病理は、結局のところ「誰の、どの声が、決定にどう届いたか」を問い続けることでしか防げない。参加の場を設けた側には、集まった顔ぶれを見て、来ていない人は誰かを数える責任がある。参加者名簿の人数ではなく、欠けている属性——年齢層、子育て中かどうか、居住の距離、障害の有無——を点検することが、参加の質の指標になる。ただし、これらすべてを一つの場で解決することはできない。次節では、その限界を認めたうえで、ワークショップと熟議に何ができるかを考える。

6. ワークショップと熟議民主主義——可能性と限界

公園づくりへの参加の手法として、日本で最も広く使われてきたのが「ワークショップ」である。ワークショップとは、参加者が講義を聞くのではなく、地図に印をつけ、模型を動かし、小グループで話し合いながら、共同で案を作っていく作業型の集まりを指す。その源流のひとつは、1960〜70年代にアメリカの造園家ローレンス・ハルプリンが行った、住民が街を歩き、体験を持ち寄って計画を練る「テイク・パート」の手法にあるとされる。日本では1980年代以降、公園や広場の設計に取り入れられ、木下勇の『ワークショップ』(2007)などで方法論が整理されてきた。本節はこの手法を、熟議民主主義の理論に照らして評価する。

6.1 ワークショップに期待されること

熟議民主主義の理論がワークショップに期待するのは、大きく四つである。第一に「選好の変容」。人は最初から固まった意見を持って場に来るのではなく、他人の事情を聞き、情報を得ることで意見を変えうる。ボール遊びに反対していた隣接住民が、子どもの遊び場が乏しい事情を知って条件付きで認める、といった変化である。第二に「情報の共有」。予算や法令の制約、遊具の安全基準といった前提が共有されることで、実現不可能な要望と可能な工夫が仕分けられる。第三に「正統性の付与」。話し合いを経て決まったことは、行政が一方的に決めたことより受け入れられやすい。第四に「関係の形成」。参加者同士、参加者と行政職員の間に顔の見える関係ができ、開園後の運営に引き継がれる。

これらは、第2節で見た参加民主主義の教育的効果と、熟議民主主義の正統性論とを、小さな規模で同時に実現しようとするものである。特に公園は、争点が具体的で目に見え、参加者が結果を実際に使うという点で、熟議の教科書的な条件を備えている。抽象的な政策より、「ここにベンチを置くか、木を植えるか」の方が、誰にとっても発言しやすく、話し合いの成果を確かめやすい。

6.2 限界——四つの落とし穴

しかし、ワークショップには理論と実践の双方から限界が指摘されている。第一に「進行役の力」である。ワークショップは中立に見えて、議題の立て方、選択肢の並べ方、時間配分、まとめ方のすべてに進行役(ファシリテーター)の判断が入る。進行役が行政や設計者の側にいれば、参加者の意見は結局その枠内に収められる。これはアーンスタインの梯子でいう(五)懐柔に滑り落ちる経路である。進行の記録を残し、誰がどの選択肢を出したかを明らかにすることが、この落とし穴への最低限の備えになる。

第二に「集団の偏り」である。話し合いは意見を穏当にするとは限らない。似た意見の人が集まって話すと、意見はむしろ極端な方向へ動くことがあると論じる研究群があり、法学者キャス・サンスティーンはこれを「集団極性化」と呼んだ。公園に関心の強い人ばかりが集まった場では、多数の穏やかな利用者の感覚から離れた結論が出る可能性がある。第三に「同調圧力と合意の演出」である。限られた時間で結論を出そうとすると、少数意見は「まとめ」の段階で消えやすい。付箋を貼って多数決で並べる方法は手軽だが、票の数と意見の重みは別である。ヤングのいう内的排除は、ワークショップの中でも起こる。

少人数の場時間の制約重みの偏り決定との断絶
図6ワークショップの落とし穴——少人数・短時間の場で出た結論が、進行役の枠や声の偏りに影響され、しかも正式な決定と結びついていないことがある。

第四に、最も根本的な「決定との断絶」である。ワークショップの多くは、法律上の決定権を持たない。結論は「提案」として行政に渡され、採用するかどうかは行政の裁量に委ねられる。フィシュキン自身、討論型世論調査の結果は「勧告的な力」を持つにとどまると認めている。日本では2012年に国のエネルギー政策をめぐって討論型世論調査が実施されたが、その結果が政策決定にどう反映されたかをめぐっては議論が残った。公園の規模でも同じことが起こる。丁寧に話し合った案が、予算の審査や別の部署の判断で形を変えて戻ってきたとき、参加者は「話し合いは何だったのか」と感じる。

この断絶を小さくする工夫として、政治学の議論から二つの原則を引き出せる。ひとつは「事前の約束」である。ワークショップを始める前に、行政がその結果をどう扱うか——そのまま採用するのか、案の一つとして検討するのか、採用しない場合は理由を文書で返すのか——を明示しておく。約束の内容がどれほど控えめでも、事前に示されていれば参加者は落胆の理由を理解でき、示されていなければ不信だけが残る。もうひとつは「決定者の同席」である。参加者の意見を聞く担当者と、予算や設計を最終的に決める担当者が別であるなら、後者が場に来て直接聞くことで、伝言の過程で意見が薄まることを防げる。いずれも費用のかかる工夫ではなく、参加の場をどう位置づけるかという設計の問題である。

6.3 三つの価値の緊張と、公園規模での使い分け

フィシュキンは、民主主義が同時に求める三つの価値——政治的平等(皆の声が等しく数えられる)、熟議(十分な情報と話し合い)、大衆参加(多くの人が関わる)——を、すべて同時に最大化することはできないと論じた。多くの人を集めれば深い話し合いは難しく、深く話し合おうとすれば人数は絞られ、無作為に選べば自発的な参加者は排除される。この緊張は公園づくりにも当てはまる。全住民アンケートは平等と参加の広さを満たすが熟議を欠き、少人数のワークショップは熟議を満たすが平等と広さを欠く。

したがって、公園づくりで問うべきは「ワークショップをやるかどうか」ではなく、「どの価値をどの局面で優先し、欠けた価値を別の手法でどう補うか」である。大規模な総合公園や地区公園の再整備なら、無作為に近い形で選ばれた市民の討議と、広いアンケート、子ども向けの現地聞き取りを組み合わせる意味がある。一方、数百から数千平方メートルの街区公園では、大がかりな会議より、公園の中で行う短時間の聞き取りや、近隣の園・学校を通じた子どもの意見集め、そして開園後の運営に住民が関わる回路の方が現実的である。熟議は理想であるが、規模と局面に応じて軽くも重くも設計できる道具として扱うべきである。次節では、開園後の運営に住民が関わる日本の制度を検討する。

7. 参加から協働へ——愛護会・アダプト制度・指定管理者・協議会の政治学的位置づけ

公園への参加は、計画の段階で終わるものではない。むしろ日本の公園において住民が最も長く、最も深く関わってきたのは、開園後の維持管理の局面である。本節では、公園愛護会、アダプト制度、公園ボランティア、指定管理者制度、都市公園法の協議会制度と公募設置管理制度(いわゆるPark-PFI)を取り上げ、それぞれをアーンスタインの梯子とオストロムの自治論に照らして位置づける。あわせて、「協働」という言葉が参加の理念と行政の負担軽減のどちらに近いのかという、政治学が避けて通れない問いを検討する。

7.1 五つの仕組みの概観

公園愛護会は、自治会や近隣住民が組織を作り、身近な公園の清掃・除草・軽微な点検などを担う仕組みで、多くの自治体が報奨金や用具の支給とともに制度化している。高度経済成長期に街区公園が急増した時期から広がったとされ、日本の公園運営を最も長く支えてきた住民参加の形である。アダプト制度は、1985年にアメリカのテキサス州で始まった「アダプト・ア・ハイウェイ」に由来し、企業や団体、住民グループが道路や公園の一区画を「養子縁組」のように引き受け、清掃・美化を担い、行政がその名を表示するなどの支援を行う。日本でも1990年代後半以降、各地の自治体に広がったとされる。

指定管理者制度は、2003年の地方自治法改正(第244条の2)で導入され、公の施設の管理を、議会の議決を経て地方公共団体が指定した法人その他の団体に行わせる仕組みである。大規模な公園では、民間企業やNPO、地域団体が指定管理者となり、施設の運営やイベントを担うことがある。さらに、2017年の都市公園法改正では、公園管理者が地域の関係者と公園の管理運営について協議する「協議会」を組織できる規定(第17条の2)と、飲食店などの収益施設の設置と周辺整備を民間事業者に公募で委ねる公募設置管理制度が創設された。国土交通省の検討会は、これに先立つ2016年の最終報告で、都市公園を多様な主体との連携により柔軟に管理運営していく方向を打ち出している。

仕組み主な担い手根拠・由来梯子上の位置(目安)政治学的な論点
公園愛護会自治会・近隣住民各自治体の要綱・報奨金運営面で(六)〜(七)に近づきうるが、決定権は行政に残ることが多い担い手の高齢化、加入の任意性、ただ乗り
アダプト制度企業・団体・住民グループ1985年テキサス州に由来、日本では1990年代後半以降区画の美化に限定した(六)パートナーシップ対象の選好(目立つ場所に偏る)、名称表示の是非
公園ボランティア個人・NPO自治体・指定管理者の募集活動内容次第で(四)〜(六)継続性、保険・安全の責任分担
指定管理者企業・NPO・地域団体地方自治法第244条の2(2003年)管理者としては高いが、住民一般の参加とは別公共性と収益性、住民の声の回路
協議会・公募設置管理行政・事業者・地域団体都市公園法第17条の2ほか(2017年改正)構成次第で(五)〜(六)誰が「地域の関係者」か、収益と公共性の均衡

7.2 「協働」は参加か、負担の移転か

これらの仕組みは、しばしば「協働」の名で語られる。協働とは、行政と住民・民間が対等な立場で公共の目的を分担する関係を指す理念であり、参加民主主義の延長にある言葉である。しかし政治学は、この言葉の裏面にも目を向けてきた。財政の制約が強まるなかで、行政が担いきれなくなった仕事を住民に引き受けてもらう方便として「協働」が使われるなら、それは参加の深化ではなく負担の移転である。愛護会が清掃を担っても、その公園の遊具を更新するかどうか、木を伐るかどうかの決定に愛護会の意見が反映されないなら、アーンスタインの区分ではパートナーシップとはいえない。労働の分担と決定の分担は別のことである。

オルソンの集合行為論は、ここでも警告を発する。公園の手入れの利益は近隣の全員が受けるが、労働を担うのは愛護会に加わった一部の人である。加わらない人が利益だけ受ける構造は、担い手の疲弊と減少を招く。多くの自治体で愛護会の担い手の高齢化や後継者不足が課題とされているのは、個人の善意の問題ではなく、この構造が長期には持たないことの現れと読める。報奨金や表彰は、オルソンのいう「選択的誘因」——参加した人だけが得られる見返り——として一定の意味を持つが、それだけで構造を覆すのは難しい。

手入れの分担使う場決定の分担続ける気持ち
図7協働の条件——手入れを分担するだけでなく、公園をどうするかの決定も分かち合うこと。決定に関われる実感が、活動を続ける気持ちを支える。

7.3 オストロムの設計原理から見た愛護会

他方、オストロムの研究は、共有資源の自治が長続きした事例に共通する条件を示すことで、愛護会のような仕組みが機能する道筋も教えてくれる。第一に、対象の境界が明確であること——どの公園の、どの範囲を誰が受け持つかがはっきりしている。第二に、ルールが地域の条件に合っていること——一律の作業回数ではなく、公園の広さや樹木の量に応じた分担。第三に、ルールづくりに当事者が関われること——作業内容や頻度を行政が一方的に決めるのではなく、愛護会と協議して決める。第四に、監視と段階的な制裁、そして紛争解決の場があること——ごみの不法投棄やルール違反に対して、愛護会と行政が連携して対応できる回路。第五に、自治への外部の承認——行政が愛護会の判断を尊重し、権限を認めること。

この五つを満たす愛護会は、単なる清掃の下請けではなく、街区公園という小さなコモンズの自治組織になりうる。逆に、境界が曖昧で、ルールが一律で、当事者の関与がなく、承認もないなら、活動は義務感だけで続けられ、やがて途切れる。2017年改正で設けられた協議会は、大規模公園を主に想定した制度と見られるが、「影響を受ける人々がルールづくりに関わる場を制度として置く」という点で、オストロムの第三原理を法律の側から支えるものと理解できる。この発想を街区公園の規模まで下ろすことができるかが、次節で磐田市を例に考える課題である。

パットナムの社会関係資本論を重ねれば、愛護会や公園ボランティアは、公園を維持する労働力であると同時に、地域の信頼と互酬性の関係を生み出す装置でもある。作業のあとに交わす短い会話、子どもを連れてきた親と年配の会員の顔見知りの関係——これらは公園の手入れの副産物ではなく、参加民主主義が本来目指してきた成果である。協働の政治学的な評価は、何時間の労働が提供されたかではなく、そこでどれだけの決定が分かち合われ、どれだけの関係が育ったかによって行われるべきである。

8. 磐田市の公園への示唆

ここまでの議論を、磐田市の公園に引きつけて考える。本節で用いる磐田市固有の事実は、市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドに基づくものに限る。当サイト(ATAWI PARK)は市内100園を収録するデータベースであり、現地の踏査はこれからである。したがって本節は、個々の公園で参加がどう行われているかを述べるものではなく、公園の種別・規模・地区の分布という公開情報から、参加の設計について何が言えるかを整理するものである。

8.1 100園の内訳が示す「参加の単位」

オープンデータによれば、磐田市の都市公園は街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園であり、これに法対象外の6園を加えた100園を当サイトは収録している。半数を超える51園が街区公園であることは、参加の設計を考えるうえで決定的に重要である。国の標準では街区公園は面積0.25ヘクタール、誘致距離250メートルを目安とする。つまり街区公園の「利用圏」は、徒歩数分の範囲に住む人々であり、参加の単位は自治会の一区画か、それより小さい。

この規模では、第6節で論じたような大がかりなワークショップや無作為抽出の市民会議は現実的でない。むしろ、公園の中で行う短時間の聞き取り、近隣の園や小学校を通じた子どもの意見集め、開園後の手入れに関わる住民の小さな集まりといった、軽い参加の回路を数多く持つことが適している。アーンスタインの梯子でいえば、街区公園では計画段階の(六)パートナーシップより、運営段階の(七)権限委任に近い形——利用ルールや花壇の中身、清掃の頻度を住民が決める——の方が、住民の実感に届きやすい。ただし、その前提として、磐田市に公園愛護会やアダプト制度に相当する仕組みがあるかどうか、あるとすればどの公園が対象かを、当サイトはまだ確認していない。これは今後の調査課題である。

他方、竜洋海洋公園(総合公園、221,722平方メートル)、かぶと塚公園(総合公園、106,982平方メートル)、兎山公園(地区公園、56,193平方メートル)、中央公園(地区公園、41,642平方メートル)、安久路公園(地区公園、32,001平方メートル)のような大規模園は、利用圏が市全域や複数地区に及ぶ。ここでは、都市公園法の協議会のような制度的な場、幅広い層を集めるアンケート、子ども向けの現地聞き取りを組み合わせる意味がある。100園を一律の参加手法で扱うのではなく、街区公園・近隣公園・地区公園以上という規模の階層ごとに、参加の重さを変えることが第一の示唆である。

100園の内訳徒歩圏の単位規模で変える利用者の顔ぶれ
図8磐田市への示唆——街区公園51園を含む100園を、規模と地区ごとに異なる参加の単位として捉え、利用者の顔ぶれに合わせて手法を変える。

8.2 地区ごとの偏りと代表性

当サイトが用いる9地区の分類で見ると、園数は豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。園数の多い地区では、公園ごとの参加の場を個別に持つことは行政にとって負担が大きく、複数の街区公園をまとめて考える地区単位の場が必要になるだろう。逆に園数の少ない地区では、一つの公園が担う役割が相対的に大きく、その公園の計画や運営への参加は、地区全体の関心事になりうる。第5節で論じた代表性の問題は、地区によって現れ方が違う。参加の場を設ける側は、地区ごとの園数と種別を踏まえて、「誰を集めるか」を設計する必要がある。

オープンデータのフラグ集計では、94行のうちトイレ有が69園、遊具有が64園、砂場有が43園、車いす対応トイレ有が34園である。また市の施設ガイドに個別ページがある園は77園で、当サイトが駐車場ありと判定した園は33園である。こうした設備の有無は、参加の場でしばしば最初に出る要望——トイレが欲しい、遊具を新しくしてほしい——の背景をなす。ただし本稿の関心からいえば、これらの数字は「何があるか」を示すだけで、「誰がそれを決めたか」「利用者はどう関わったか」を示さない。設備の一覧が公開されていること自体は、アーンスタインの梯子の(三)情報提供に当たる第一歩であり、そこから(四)(五)へ進むためには、意見を出す回路と応答の仕組みが要る。

規模の下端にも目を向けておきたい。オープンデータには、二之宮東第2緑地(都市緑地、中泉、17平方メートル)、豊田上新屋ポケットパーク(都市緑地、豊田、156平方メートル)、見付本通広場公園(街区公園、見付、372平方メートル)のような、ごく小さな園が含まれている。これらについて参加の場を個別に設けることは考えにくいが、逆にいえば、隣接する数軒の住民の手入れや見守りがそのまま「運営」になりうる規模でもある。オストロムの設計原理でいう境界の明確さは、この規模では自然に満たされる。参加の制度を大きく作るのではなく、既にある関わりを行政が承認し、必要な用具や連絡先を示すだけで、(七)権限委任に近い状態が生まれる可能性がある。ただしこれも、踏査で実態を確かめてからの話である。

8.3 二つの園から考える——ゾーニングとインクルーシブ

市の施設ガイドの記載から、参加の観点で示唆的な例を二つ挙げる。ひとつは今之浦公園(近隣公園、見付、13,675平方メートル)である。市の施設ガイドには、今ノ浦川の東側に「遊びと賑わいのゾーン」として屋根付広場、複合遊具、噴水広場、3歳未満児遊具などが、西側に「憩いとふれあいゾーン」として健康遊具、じゃぶじゃぶスポット、芝生広場などがあると記されている。賑わいと憩いを場所で分けるゾーニングは、第5節で触れた「遊びたい子ども」と「静けさを求める人」の利害対立を空間的に調整する手法である。政治学的に問うべきは、この区分けが誰の意見をどう聴いて決められたか、そして開園後にゾーンの使い方をめぐる調整の場があるかである。当サイトはこれを今後の踏査と市への確認で確かめたい。

もうひとつは安久路公園(地区公園、御厨、32,001平方メートル)である。市の施設ガイドには「複合遊具(インクルーシブエリアあり)」「ブランコ(インクルーシブアイテムあり)」と記されている。インクルーシブとは、障害の有無にかかわらず一緒に遊べることを目指す考え方であり、ハートの梯子の観点からは、「誰の声を聴いて設計したか」が最も問われる領域である。障害のある子どもとその家族は、第5節で見た「参加の場に来にくい人々」の典型であり、その声が設計にどう反映されたかは、参加の質を測る試金石になる。当サイトは、この園の設備の詳細と利用者の声を、今後の踏査で丁寧に確かめたい。

最後に、行政との回路について一言しておく。磐田市の公園の管理課は都市整備課(電話 0538-37-4806)である。市の施設ガイドに個別ページのある77園には、駐車場や園内施設の記載があるが、意見をどこに伝えられるかという情報は、公園ごとの参加を考えるうえで欠かせない。当サイトは、公園の設備情報とあわせて、市への問い合わせ先を各園のページに示すことで、(三)情報提供の段を少しでも(四)意見聴取に近づける手助けができると考えている。ただし、当サイトの運営者は民間の一企業(富士ヶ丘サービス株式会社)であり、決定の当事者ではない。参加の回路を制度として作るのは、あくまで市と市民の役割である。

9. 結論と今後の課題

本稿は、公園の計画と運営への住民参加・子ども参加を、政治学の概念を用いて検討した。アーンスタインの「市民参加のはしご」は、行政が参加と呼ぶものの多くが情報提供や意見聴取という形式的な段にとどまることを見分ける物差しであり、ハートの「子どもの参加のはしご」は、その物差しを公園の主要な利用者である子どもにまで広げた。両者に共通するのは、参加とは決定に影響を与える力の分かち合いであり、外形ではなく実質で測られるべきだという主張である。

そのうえで本稿は、参加が失敗する三つの型——形式化、声の大きい人による偏り、代表性の欠如——を、参加格差研究、集合行為論、公共圏論、離脱と発言の理論から診断した。これらは互いに絡み合っており、一つの参加の場で全てを解決することはできない。ワークショップと熟議の理論は、選好の変容・情報の共有・正統性・関係の形成という可能性を持つ一方、進行役の力、集団の偏り、同調圧力、決定との断絶という限界を抱える。フィシュキンが指摘した政治的平等・熟議・大衆参加の間の緊張は、公園の規模でも消えない。

日本の公園を支えてきた愛護会・アダプト制度・公園ボランティア・指定管理者・協議会は、労働の分担という点では長い実績を持つが、決定の分担という点では公園ごとに大きな差がある。「協働」が参加の深化なのか負担の移転なのかは、手入れの分担と決定の分担が一致しているかどうかで判定できる。オストロムの設計原理——境界、地域に合ったルール、当事者の関与、監視と制裁、外部の承認——は、街区公園という小さなコモンズを住民が長く支えるための条件を具体的に示している。

何段目か誰が欠けているか続く仕組みか確かめること
図9結論と課題——参加は何段目か、誰が欠けているか、続く仕組みか。三つの問いを持って、磐田市の100園を踏査と制度の確認で確かめていく。

9.1 三つの問い

以上から、公園への参加を評価し設計するための三つの問いを結論として示す。第一に「その参加は何段目か」。説明会の回数や参加者数ではなく、住民や子どもの意見によって計画や運営のどこが変わったか、変わらなかった理由は返されたかを問う。第二に「誰が欠けているか」。集まった人ではなく来ていない人——乳幼児を抱えた親、時間の融通がきかない人、障害のある子どもとその家族、そして子ども自身——を数え、別の回路で声を拾う。第三に「続く仕組みか」。一度きりの参加ではなく、開園後の運営に住民が関わり続けられる回路があるか、その回路で決定が分かち合われているかを問う。

この三つの問いは、参加を「はしごの上へ登ること」自体を目的とする発想から自由にしてくれる。街区公園では軽い参加を数多く、大規模公園では制度的な場を重く、というように、規模と局面に応じて参加の設計を変えることが、政治学の知見から導かれる実践的な結論である。参加の目的は、決定の質と正統性を高め、公園を長く使い続けるための関係を育てることにある。

9.2 磐田市における今後の課題

磐田市の公園について本稿が述べたことは、オープンデータと市の施設ガイドに基づく範囲にとどまる。今後の課題は三つある。第一に、市に公園愛護会やアダプト制度、公園ボランティアに相当する仕組みがあるかどうか、あるとすれば対象の園と活動内容を確認すること。第二に、近年整備や改修が行われた園について、計画段階でどのような参加の場が設けられたか、子どもの意見がどう聴かれたかを、公開資料と市への確認で調べること。第三に、踏査を通じて、公園に実際にいる人々——親、子ども、高齢者——が、その公園について意見を伝える回路を知っているか、使ったことがあるかを聞くことである。

本稿の限界も明記しておく。本稿は文献整理と概念分析にとどまり、特定の公園での参加の実践を観察したものではない。引いた古典の多くは欧米の経験に基づいており、日本の自治会や愛護会という文脈での妥当性は、実証的に確かめられる必要がある。また、参加のコスト——行政職員の時間、住民の負担——を本稿は十分に扱えなかった。参加は無償ではなく、参加を求めること自体が資源を持つ人を優遇する側面がある。この点は財政学や行政学の論考と合わせて検討されるべき課題である。

それでも、公園という小さな場での参加を丁寧に設計することは、大きな政治への近道ではないにせよ、民主主義の手触りを日常の中で確かめる稀な機会である。子どもが自分の意見で公園の一角が変わったことを覚えているなら、その記憶は、参加民主主義が二百年近く語ってきた「参加は人を育てる」という命題の、最も小さく確かな証拠になる。当サイトは、磐田市の100園を一つずつ確かめながら、その回路がどこにあり、どこに欠けているかを記録していきたい。

参考文献

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  9. エリノア・オストロム(1990)Governing the Commons: The Evolution of Institutions for Collective Action, Cambridge University Press
  10. アルバート・O・ハーシュマン(1970)『離脱・発言・忠誠——企業・組織・国家における衰退への反応』(矢野修一訳、ミネルヴァ書房、2005)
  11. Sidney Verba, Kay Lehman Schlozman, Henry E. Brady(1995)Voice and Equality: Civic Voluntarism in American Politics, Harvard University Press
  12. ロバート・D・パットナム(2000)『孤独なボウリング——米国コミュニティの崩壊と再生』(柴内康文訳、柏書房、2006)
  13. Nancy Fraser(1990)「Rethinking the Public Sphere」Social Text, No.25/26
  14. Iris Marion Young(2000)Inclusion and Democracy, Oxford University Press
  15. 木下勇(2007)『ワークショップ——住民主体のまちづくりへの方法論』学芸出版社
  16. 児童の権利に関する条約(1989年国連総会採択、日本は1994年批准)第12条・第31条
  17. こども基本法(令和4年法律第77号)
  18. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(平成29年改正による協議会・公募設置管理制度を含む)
  19. 地方自治法(昭和22年法律第67号)第244条の2(指定管理者制度、平成15年改正)
  20. 国土交通省 都市公園(都市局公園緑地・景観課)
  21. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  22. 磐田市「都市公園一覧」オープンデータ(CC BY 3.0)
  23. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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