社会科学公共経済学

公園は公共財か——非競合性・非排除性・混雑と地方公共財の理論

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:公共経済学 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,592字 読了目安 39分

要旨

本稿の目的は、公共経済学の基本概念である「公共財」の定義を都市公園に当てはめ、公園がどのような意味で公共財であり、どのような意味で公共財ではないのかを明らかにすることである。ポール・サミュエルソンが1954年の論文で示した公共財の二条件——ある人の消費が他の人の消費を減らさない「非競合性」と、対価を払わない人を締め出せない「非排除性」——を出発点に、公園に固有の性質である混雑、遊具という一人ずつしか使えない設備、柵と入園料による排除の可能性、便益が近隣に偏る局地性を、順に検討する。

方法は文献整理と概念分析である。サミュエルソン、マスグレイブの価値財、ブキャナンのクラブ理論、ピグーとコースの外部性、オルソンの集合行為論、ティブーの「足による投票」、オーツの分権化定理、オストロムのコモンズ研究、そして「供給」と「生産」を区別する制度論を参照し、それぞれの概念が公園のどの側面を照らすかを整理する。あわせて、都市公園法・同法施行令が定める種別ごとの標準面積と誘致距離、2003年の指定管理者制度、2017年の公募設置管理制度(いわゆるPark-PFI)を、公共財供給の制度設計として位置づける。

検討の結果、都市公園は純粋公共財ではなく、「混雑を伴い、便益の範囲が地理的に限られ、排除しないことを制度として選んでいる地方公共財」であるという見通しが得られた。無料であることは偶然ではなく、利用者が一人増えても追加費用がほぼゼロであるという効率性の根拠と、子どもの遊びや住民の健康を社会が望ましいと考える価値財の根拠との、二重の理由に支えられている。一方で、受益が近隣に偏り負担が市全体に広がるという緊張、混雑と規模の緊張、公共部門が費用を持ちつつ生産を民間に委ねうるという供給と生産の分離、の三点は、公園政策が常に向き合う論点である。

最後に、磐田市の都市公園100園(街区公園51園・近隣公園14園・地区公園4園ほか)の種別ごとの園数と国の誘致距離の標準を、地方公共財の供給設計として読み直す。街区公園51園は最も純粋公共財に近い層であり、総合公園・運動公園は施設ごとにクラブ財的性格を帯びる。ただし当サイトの現地踏査は始まっていないため、料金・混雑・地域による維持管理の実態は今後の踏査課題として残す。

キーワード公共財非競合性非排除性混雑クラブ財地方公共財ティブー仮説Park-PFI

1. はじめに——問題の所在

公園には入場料がない。門があっても鍵はかかっておらず、住民でなくても、税金を納めていない子どもでも、いつでも入って遊ぶことができる。私たちはこれを当たり前のことだと感じているが、経済学の目で見ると、これはかなり特殊な財の供給のされ方である。パン屋のパンは代金を払った人だけが手にし、映画館は入場券を持たない人を締め出す。ところが公園は、対価を求めず、誰も締め出さず、しかも土地の取得・造成・遊具の設置・草刈り・トイレの清掃といった費用を、市町村が租税で賄い続けている。なぜ公園はそのように供給されるのか、そしてそれは望ましいのか。これが本稿の出発点となる問いである。

この問いを扱う学問領域が公共経済学である。公共経済学は、市場に任せておくと財やサービスが適切に供給されない場面(市場の失敗)を分析し、政府が何を、どの範囲で、どのように供給し、その費用を誰にどう負担させるべきかを考える。その中心概念の一つが「公共財」であり、ポール・サミュエルソンが1954年に示した定義以来、国防や灯台と並んで、公園はしばしば公共財の教科書的な例として挙げられてきた。しかし、教科書の例として挙げられることと、公園が厳密な意味で公共財であることとは別である。滑り台は一人ずつしか滑れないし、休日の広場は混雑する。柵をめぐらせて入園料をとる公園も、世界には存在する。公園はどこまで公共財なのか。

本稿が立てる問いは三つある。第一に、公園はサミュエルソンの意味での公共財、すなわち「非競合性」と「非排除性」を備えた財と言えるか。備えているとすれば、その性質は公園の規模や設備、時間帯によってどう変わるか。第二に、公園が無料であることは経済学的にどう正当化されるのか。受益者負担や有料化という選択肢は、理論上どこに位置づけられるのか。第三に、公園の便益が近隣に偏るという事実は、「地方公共財」の理論からどう読めるか。都市公園法が種別ごとに定める標準面積と誘致距離、そして近年の民間活力導入の制度(指定管理者制度、Park-PFI)は、公共財の供給設計としてどう理解できるか。

方法は文献整理と概念分析である。本稿は新しい調査データを提示するものではなく、公共経済学の古典的な概念——公共財、クラブ財、外部性、フリーライダー、価値財、地方公共財、足による投票、供給と生産の分離——を一つずつ公園に当てはめ、それぞれが公園のどの側面を照らし、どの側面を照らさないかを見極める。事例参照として、当サイト(ATAWI PARK)が整備している磐田市の都市公園100園のデータベース、すなわち市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドから読み取れる種別・面積・地区・設備のフラグを用いる。ただし当サイトの現地踏査は始まったばかりであり、料金の有無や混雑の程度、地域による維持管理の実態といった、踏査でしか分からない事柄は、すべて今後の課題として明示する。

三つの問い古典理論種別と園数磐田の地図
図1本稿の設計。公共財の定義に関する三つの問いを立て、公共経済学の古典理論で検討し、磐田市100園の種別・園数・地区データで具体化する。

本稿の構成は次のとおりである。第2節で公共財をめぐる先行研究と主要概念を整理し、財の四分類の表を示す。第3節では非競合性を取り上げ、公園に固有の「混雑」と、遊具という一人ずつしか使えない設備の性質を検討する。第4節では非排除性を取り上げ、公園が無料であることの経済学的意味と受益者負担の理論を扱う。第5節では外部性の概念を用いて、公園の便益が利用者以外にも及ぶこと、そしてその便益が距離とともに薄れることを論じ、維持管理をめぐるフリーライダー問題に触れる。第6節では地方公共財の理論とティブー仮説を紹介し、都市公園法の誘致距離を「便益の空間的範囲の設計」として読む。第7節では直営・指定管理・Park-PFIという供給方式を「供給と生産の分離」の観点から整理し、それぞれの理論的位置づけと限界を示す。第8節で磐田市の公園データに戻り、第9節で結論と今後の課題を述べる。

なお本稿の読者として、磐田市周辺の子育て世代、公園行政に関わる方、地域活動の担い手、そして経済学や都市政策を学ぶ学生を想定している。専門用語は初出のところで平易に説明し、数式は用いない。また、統計値や金額については、法令・省庁の指針に明記されているもの以外は示さず、「〜とされる」「〜という研究群がある」という表現にとどめる。公園を経済学の言葉で語ることは、公園を金銭に換算することではない。むしろ、なぜ公園を無料で開き続けることに合理性があるのか、その理由を言葉にする作業である。

2. 先行研究と概念の整理

2.1 サミュエルソンの公共財と財の四分類

公共財の現代的な定義は、ポール・サミュエルソンが1954年に発表した短い論文「公共支出の純粋理論」に遡る。サミュエルソンはそこで、通常の私的財と対比して「集合的消費財」を定義した。それは、ある個人がその財を消費しても、他の個人が消費できる量が減らない財である。のちにこの性質は非競合性と呼ばれるようになった。同じ論文とその後の議論から、対価を払わない者をその財の消費から締め出すことが技術的に不可能か、著しく費用がかかるという第二の性質、非排除性が取り出され、この二つを満たす財が「純粋公共財」と呼ばれる。灯台の光は、船が一隻増えても他の船が受け取る光を減らさず(非競合)、料金を払わない船だけ光が見えないようにすることもできない(非排除)。国防や基礎研究の知識も同様である。

サミュエルソンが示したのは、こうした財は市場に任せると過少にしか供給されない、ということであった。誰も締め出せないなら、人は自分の払う分を少なくしてでも他人の負担で便益を受けようとする。これがのちにフリーライダー(ただ乗り)問題と呼ばれる現象である。だからこそ公共財は、租税で費用を集め、政府が供給することに合理性がある。この基本図式が、公園を「公共財」と呼ぶときの理論的な背景である。

ただし、二つの性質を「満たすか満たさないか」で財を切り分けると、財は四つの箱に分かれる。競合的で排除可能な通常の私的財、非競合的で非排除的な純粋公共財、そしてその中間にある二つの型である。ジェームズ・ブキャナンは1965年の論文「クラブの経済理論」で、排除は可能だが利用者がある程度まで増えても競合しない財、すなわち会員制のプールやゴルフ場のような「クラブ財」を分析した。逆に、排除は難しいが利用が競合する財、たとえば漁場や共同の牧草地は「共有資源(コモンズ)」と呼ばれ、ギャレット・ハーディンが1968年の論文「共有地の悲劇」で乱獲・過放牧の論理を示し、エリノア・オストロムが1990年の『コモンズのガバナンス』で、地域社会が自らルールをつくって共有資源を持続的に管理してきた事例を丹念に集めた。次の表はこの四分類をまとめたものである。

排除できる排除できない
利用が競合する私的財(パン、玩具、有料の遊園地)共有資源・コモンズ(漁場、共同牧草地、混雑した無料の広場)
利用が競合しないクラブ財(会員制プール、有料公園、混雑前の道路)純粋公共財(灯台、国防、空いている公園の景観)

この表を眺めると、公園がどの箱に入るかは一義的に決まらないことがすぐに分かる。空いている公園の景観や樹木の緑は純粋公共財に近い。しかし休日の混雑した広場は共有資源の性格を帯び、入園料をとる有料公園はクラブ財であり、遊具は一人ずつしか使えないという点では私的財の性質すら持つ。公園は四つの箱を横断する財なのである。本論の第3節と第4節は、この横断のあり方を、非競合性と非排除性のそれぞれについて詳しく検討する。

同時に使える誰も締め出さないただ乗り
図2公共財の二条件と帰結。非競合性(大勢が同時に使える)と非排除性(払わない人も締め出せない)が揃うと、フリーライダー問題が生じ、市場では過少供給になる。

2.2 費用負担の理論——ヴィクセル、リンダール、オルソン

公共財の費用を誰がどう負担するかという問いは、サミュエルソン以前から北欧の財政学者によって論じられていた。クヌート・ヴィクセルは1896年の著作で、公共支出とその財源は受益者の合意によって同時に決められるべきだとする「自発的交換」の考え方を示し、弟子のエリック・リンダールは1919年に、各人が公共財から受ける限界的な便益に応じて費用を分担する均衡(のちにリンダール均衡と呼ばれる)を定式化した。これは「便益に応じて負担する」という応益原則の理論的な原型であり、公園の受益者負担を考えるとき、第4節で立ち返ることになる。

一方、マンサー・オルソンは1965年の『集合行為論』で、共通の利益をもつ集団であっても、その規模が大きいほど、成員は自発的には公共財を供給しない、という逆説を示した。大集団では自分一人の貢献が結果に与える影響が小さく、貢献しなくても便益は受け取れるからである。逆に、小さな集団では互いの顔が見え、貢献の有無が観察できるため、自発的な供給が成り立ちやすい。この「小集団の優位」は、公園の清掃や見守りを地域の住民団体が担う場面を理解する上で示唆的であり、第5節で扱う。

2.3 外部性・価値財・地方公共財

本稿がもう三つ用いる概念を先に定義しておく。第一に外部性。アーサー・ピグーは1920年の『厚生経済学』で、ある経済主体の行動が市場を経由せずに他者の厚生に影響を与える現象を分析し、負の外部性(煙、騒音)には課税を、正の外部性には補助金を与えて是正する考え方を示した。ロナルド・コースは1960年の論文「社会的費用の問題」で、権利関係が明確で交渉費用が小さければ当事者間の交渉で外部性は解決されうると論じた。公園は緑や景観、防災空間として利用者以外にも便益を及ぼす一方、騒音や駐車といった負の影響も近隣に与える。

第二に価値財(メリット財)。リチャード・マスグレイブは1959年の『財政理論』で、個人の選好とは別に、社会がその消費を望ましいと判断して供給を後押しする財を価値財と呼んだ。義務教育や予防接種がその例であり、子どもの遊び場や運動の機会もこの文脈で語られることが多い。第三に地方公共財。チャールズ・ティブーは1956年の論文で、住民が自治体を選んで移り住むことで地方公共財への選好を表明する「足による投票」の仮説を提示し、ウォーレス・オーツは1972年の『地方分権の財政理論』で、便益の範囲が地域に限られる公共財は地方政府が供給する方が効率的だとする分権化定理を示した。公園は便益の範囲が地理的に限られる財の典型であり、第6節でこれらの理論に照らして誘致距離を読む。

3. 非競合性の検討——公園はどこまで「混まない」か

非競合性とは、ある人の利用が他の人の利用可能性を減らさないことである。公園にこの条件を当てはめると、答えは「利用者の数による」となる。芝生の広場に親子が一組いるとき、二組目が来ても一組目の楽しみはほとんど減らない。十組になっても、それぞれがボールを転がしたり弁当を広げたりする分には支障はない。しかし五十組、百組と増えれば、走り回る空間はなくなり、ボールは他人に当たり、木陰のベンチは奪い合いになる。ある人数までは非競合的で、その人数を超えると競合が始まる。この性質をもつ財を経済学では混雑財と呼び、競合が始まる利用者数を「混雑の閾値」と呼ぶ。

この構造を最初に理論化したのが、第2節で触れたブキャナンのクラブ理論である。ブキャナンは、会員が増えるほど一人当たりの費用負担は軽くなるが、同時に混雑による不快も増える、というトレードオフから、クラブの最適な会員数と最適な施設規模が同時に決まることを示した。公園に置き換えれば、公園の面積(施設規模)と、それを日常的に使う周辺人口(会員数)との間には、望ましい対応関係がある、ということになる。面積に比べて周辺人口が多すぎれば混雑し、少なすぎれば土地と維持費が遊休する。

3.1 種別ごとの標準面積を「混雑の設計」として読む

この視点に立つと、都市公園法施行令と国土交通省の標準が種別ごとに定める面積は、混雑の閾値をあらかじめ設計する仕組みとして読める。街区公園は0.25ha(2,500㎡)で誘致距離250m、近隣公園は2haで500m、地区公園は4haで1km、総合公園は10〜50ha、運動公園は15〜75haという標準は、「これくらいの範囲の住民が日常的に使うなら、これくらいの広さがあれば混雑しにくい」という、経験に基づく規模の目安である。誘致距離が二倍になれば対象となる面積はおよそ四倍になるので、対象人口も面積とともに増える。街区公園から近隣公園へと面積が八倍になるのは、対象人口の増加と、施設の多様化(トイレ・広場・多様な遊具)の両方に対応していると理解できる。

また同施行令は、市町村の区域内の都市公園について住民一人当たりの敷地面積の標準を10㎡以上、市街地については5㎡以上と定めている。これは公園ごとの混雑ではなく、市全体の供給量を人口で割った「一人当たり供給量」の目安であり、公共財の総量に関する基準である。混雑財の理論では、一人当たりの供給量が閾値を下回れば競合が常態化し、非競合性という公共財の性質が失われる。この標準は、公園が公共財であり続けるための最低限の量的条件を法令が示したもの、と位置づけることができる。

3.2 遊具という「一人ずつの設備」と時間による配分

混雑の議論を公園の中に持ち込むと、公園が均質な財ではないことが見えてくる。ブランコは一度に一人しか乗れず、滑り台は一人ずつ滑る。芝生や樹木の緑が高い非競合性をもつのに対して、遊具はきわめて競合的であり、その意味では私的財に近い。それでも遊具は無料で誰にでも開かれているから、私的財のように価格で配分することはできない。代わりに用いられているのが「順番」という非価格の配分である。子どもたちは列に並び、待ち、交代する。この順番待ちは、経済学の言葉では待ち時間という費用を支払って財を得る配分方式であり、価格をつけない財では一般的に見られる。

一人ずつ順番待ち時間
図3遊具は一度に一人しか使えない競合的な設備である。価格をつけない代わりに、順番と待ち時間が配分の仕組みとして働く。

順番待ちによる配分には、価格による配分にない特徴が二つある。第一に、所得によらず平等である。待てる者が使うのであって、払える者が使うのではない。第二に、待ち時間そのものは誰の収入にもならず、社会全体としては失われる。混雑した遊具の前で費やされる時間は、経済学的には「混雑費用」であり、公園の面積や遊具の数を増やすかどうかを判断するときの、目に見えない費用の一つである。ただし、子どもが順番を待ち、譲り、交代することは、発達や社会性の観点からは価値のある経験だともされる。経済学の効率だけで順番待ちを「無駄」と断ずることはできない点は、付記しておく。

もう一つ、混雑は空間だけでなく時間の関数でもある。同じ公園が、休日の午前中には混雑し、平日の昼下がりには空いている。混雑財の理論では、混雑する時間帯だけ料金を上げるピークロード価格が効率的だとされ、電力や交通ではそれが実際に使われている。しかし公園では、時間帯別の料金を課すことは排除費用(料金所や係員)の点で現実的でなく、また無料で開くという公園の性格とも合わない。結果として、公園の混雑は「時間帯を選ぶ」という利用者側の自主的な行動によって、ある程度まで自然に平準化されている。子育て世代が平日の午前中や夕方など、空いている時間帯を選んで公園に行くのは、この意味で理にかなった行動である。

混雑の反対、すなわち利用者がほとんどいない公園も、非競合性の観点から検討に値する。非競合的な財は、利用者が少なくても、一人当たりの便益が減るわけではない。空いている公園は、そこにいる一組の親子にとってはむしろ快適である。問題は費用の側にある。土地・遊具・清掃・点検といった費用のほとんどは利用者数にかかわらず発生する固定費であり、利用者が少なければ一人当たりの費用は高くなる。人口減少が進む地域で、この固定費をどこまで負担し続けるかという問いは、公共財の理論では「供給量の見直し」の問題であり、混雑と表裏をなす論点である。本稿では深入りせず、人口動態と維持管理財政を扱う別稿に委ねる。

4. 非排除性と「無料」の経済学

非排除性とは、対価を払わない人をその財の消費から締め出せないことである。灯台の光は本当に締め出せない。しかし公園は違う。敷地を柵で囲い、出入口を一箇所にして料金所を置けば、払わない人を締め出すことは技術的に可能である。実際、国営公園には入園料を徴収している園があるし、動物園や植物園、有料の庭園は多い。つまり公園の非排除性は、灯台のような技術的な必然ではなく、排除しないことを選んでいるという制度的な選択の結果である。ではなぜ、多くの都市公園は排除しないことを選んでいるのか。公共経済学はこれに二つの理由を与える。

第一の理由は効率性である。混雑していない公園に利用者が一人増えても、追加の費用はほとんど発生しない。経済学ではこれを「限界費用がゼロに近い」と言う。限界費用がゼロなら、効率的な価格もゼロである。もし入園料を課せば、その料金を払うほどの価値は感じないが、無料なら来て楽しんだであろう人々が締め出される。彼らが公園から得たはずの便益は失われ、その代わりに得られる費用の節約は(限界費用がゼロなのだから)ない。この失われた便益を経済学では「死荷重」と呼ぶ。加えて、料金所と係員という排除のための費用そのものがかかる。無料で開くほうが、社会全体としては効率的なのである。

この論理から、有料化が理にかなう条件も逆に導ける。混雑が常態化していて、料金によって利用者を減らすこと自体に価値がある場合。維持費がきわめて大きく、租税だけでは賄いにくい場合。そして排除の費用が便益に比べて小さい場合、すなわち出入口が限られ、料金徴収の仕組みが既にある場合である。大規模な有料庭園や特別な施設がこれに当たる。逆に、街なかに散在し、四方から出入りでき、維持費が相対的に小さい街区公園に料金所を置くことは、どの条件から見ても不合理である。街区公園が無料であることは、経済学的にもっとも説明しやすい事実の一つである。

4.1 受益者負担と使用料——公園の中の「有料」

もっとも、公園が丸ごと無料であるわけではない。都市公園法は、公園管理者以外の者が公園施設を設けて管理すること(設置管理許可)や、公園の一部を占用すること(占用許可)を認めており、地方自治体はこれらに使用料・占用料を課すことができる。また運動公園のテニスコートや野球場、体育館、プールなどは、多くの自治体で使用料をとる施設として運営されている。これらは公園という非排除的な空間の内側に、排除可能で競合的な設備、すなわちクラブ財ないし私的財が入れ子になっている構造である。

この構造は理論的に整合的である。テニスコートは一面を同時に使えるのは一組であり、強く競合する。予約と使用料は、その競合を価格で配分する仕組みであり、待ち時間で配分するよりも、コートを本当に使いたい人に届きやすい。ヴィクセルとリンダールの応益原則、すなわち「便益を受ける者がその分の費用を負担する」という考え方も、こうした個別施設については比較的よく当てはまる。便益が特定の利用者に集中し、他の住民にはほとんど及ばないからである。逆に、公園の樹木や広場は便益が広く薄く及ぶので、応益原則を適用しようとしても、誰がどれだけ便益を受けているかを測ることができない。だから租税で賄う。有料と無料の線引きは、便益の集中度と競合の強さに沿って引かれている、と読むことができる。

磐田市の例で言えば、竜洋海洋公園(総合公園・竜洋地区・221,722㎡)の市施設ガイドには、体育館、艇庫、プール、野球場、テニスコート、レストハウス(入浴施設・休憩施設・地場産品直売所・バーベキューテラス)といった記載があり、無料で開かれた緑地と、施設ごとに管理される設備とが同居する構造をもつ園であることがうかがえる。ただし、それぞれの施設が有料かどうか、料金がいくらかは当サイトのデータには含まれておらず、本稿は言及しない。当サイトは今後の踏査と市の案内の確認で確かめる。

開かれた入口どの家族も誰でも無料
図4公園の非排除性は制度的な選択である。限界費用がほぼゼロなら無料が効率的であり、所得や属性によらず誰でも入れることは、価値財としての公園の根拠でもある。

4.2 価値財としての公園——無料の第二の根拠

無料であることの第二の根拠は、効率ではなく分配と価値に関わる。マスグレイブが定義した価値財とは、社会がその消費を望ましいと判断し、個人の支払意思とは無関係に供給を後押しする財である。子どもが体を動かして遊ぶこと、高齢者が散歩をすること、住民が緑に触れることは、それぞれ発達、健康、精神的な回復に資するとされ、社会がその機会を保障する価値があると広く考えられている。もし公園が有料なら、料金を負担しにくい世帯の子どもほど遊び場から遠ざかる。無料の公園は、所得や家庭環境によらず、すべての子どもに同じ遊び場を開くという分配上の機能を果たしている。

この二つの根拠は、互いに補い合う。効率性の根拠だけなら、混雑がひどい公園は有料化してもよいという結論になりうる。しかし価値財の根拠を加えれば、混雑していても、あるいは維持費がかさんでも、子どもの遊び場を無料で開き続けることには社会的な意味がある、という判断が支えられる。逆に、価値財の根拠だけを強調すると、なぜ他の望ましい財(たとえば書籍や楽器)は無料でないのかが説明できない。限界費用がほぼゼロで排除に費用がかかる、という公園に固有の性質があるからこそ、価値財としての後押しが「無料で開く」という形をとるのである。

最後に、一つの誤解を避けておきたい。無料とは「費用がかからない」ことではない。土地の取得、造成、遊具の設置と点検、樹木の剪定、トイレの清掃は、いずれも費用であり、それは市の一般財源、すなわち住民が広く納める税によって賄われている。公園の便益は近隣に偏り、費用は市全体で負担する。この受益と負担のずれは、公園が地方公共財であることから生じる本質的な緊張であり、次の第5節と第6節で、外部性と地方公共財の理論を通して検討する。

5. 外部性——公園の便益はだれに届くか

ここまでの議論は、公園を「利用する人」の便益に注目してきた。しかし公園の便益は、園内で遊ぶ人だけに届くのではない。公園の樹木は近隣に木陰と緑の景観を提供し、夏の熱を和らげるとされる。まとまった空地は災害時の避難や消防活動の空間になりうる。子どもの声や人の出入りは、通りに「目」をもたらし、近隣の安心感に関わるという議論もある。こうした、市場を経由せずに第三者に及ぶ影響を、第2節で述べたように外部性と呼ぶ。公園はきわめて多くの正の外部性をもつ財である。

外部性の存在は、公園を市場に任せられないもう一つの理由になる。仮に民間事業者が入園料をとる公園を運営したとしても、その事業者は入園者から得る収入しか考慮せず、近隣住民が受け取る景観や涼しさや防災の便益は収入にならない。したがって事業者が供給する公園の量は、社会全体にとって望ましい量より少なくなる。ピグーの処方に従えば、正の外部性をもつ財には補助金を与えて供給を増やすべきであり、公園の場合、その「補助金」が極限まで進んで、租税で丸ごと供給する形になっている、と理解することができる。

5.1 利用しない人の便益——オプション価値と存在価値

公園の便益をさらに広く捉える概念が、環境経済学で発達した「非利用価値」である。バートン・ワイスブロッドは1964年に、いま利用していなくても、将来利用できる可能性を保っておくことに人は価値を置く、という「オプション価値」の考え方を示した。ジョン・クルーティラは1967年の論文「保全再考」で、自然環境については、自分が訪れなくてもそれが存在すること自体に価値を認める「存在価値」があると論じた。これらは主に大自然の保全をめぐって議論されたが、都市公園にも当てはまる。子どもが成長して公園に行かなくなった世帯も、いずれ孫と行くかもしれないという意味でオプション価値をもち、また近所に緑があること自体を好むという意味で存在価値をもつ。

こうした便益は市場で取引されないので、その大きさを測るには工夫がいる。経済学では、公園まで出かける交通費と時間を「支払った代金」とみなして需要を推定するトラベルコスト法(1947年のハロルド・ホテリングの提案に始まり、マリオン・クローソンらが1950年代末に発展させた)、人々に仮想的な質問をして支払意思額を尋ねる仮想評価法(CVM)、そして公園に近い住宅の価格が遠い住宅より高ければその差額を公園の価値の反映とみなすヘドニック法(シャーウィン・ローゼンの1974年の論文が理論的基礎とされる)などが用いられてきた。これらの方法で公園の価値を推定した研究群は国内外に多数あるが、推定値は地域と方法に強く依存するため、本稿は具体的な数値を挙げない。

5.2 便益は距離とともに薄れる——資本化と局地性

外部性には空間的な広がりがある。木陰と景観の便益は、公園に接する住宅にもっとも強く及び、一街区、二街区と離れるにつれて薄れる。避難空間としての便益も、歩いて行ける範囲に限られる。すなわち公園の外部性は、遠くまで一様に及ぶのではなく、距離とともに減衰する局地的な外部性である。この局地性は、次節で扱う地方公共財の議論の核心であるが、ここでは一つの帰結だけを指摘しておく。局地的な便益は、その場所の土地や住宅の価格に反映される。経済学ではこれを「資本化」と呼ぶ。公園の近くに住むことの価値が住宅価格に上乗せされるなら、公園の便益の一部は、その近隣の土地所有者に帰着している。ヘドニック法はまさにこの資本化を利用した測定法である。詳しくは不動産経済学の別稿に譲る。

近隣の家緑と木陰距離で薄れる便益
図5公園の便益は利用者だけでなく近隣にも及ぶ正の外部性であり、距離とともに薄れる。近くに住むことの価値は土地の価格に反映される(資本化)。

外部性は正のものばかりではない。公園はボールの飛び出し、夜間の話し声、休日の路上駐車、落ち葉、虫といった負の外部性も近隣に与える。これらは公園の設置と運営に伴う「社会的費用」であり、ピグーの図式では課税や規制、コースの図式では当事者間の交渉やルールづくりによって内部化される。公園にボール遊びの制限やペットの案内、駐車場以外への駐車を控える旨の掲示があるのは、負の外部性を規制によって抑える行政的な対応である。磐田市の今之浦公園の市施設ガイドには、備考として「駐車場以外の場所への駐車はご遠慮ください」とあり、駐車という負の外部性への典型的な対応が読み取れる。

5.3 フリーライダーと維持管理の担い手

便益が局地的であることは、もう一つ、公園の維持管理をめぐって重要な帰結をもつ。第2節で見たオルソンの集合行為論によれば、大集団は公共財を自発的に供給しにくいが、小集団では互いの貢献が見えるので供給が成り立ちやすい。公園の便益を強く受けるのは近隣の限られた住民であり、彼らは小集団である。だから、公園の草取りや清掃、見守りといった維持管理の一部を、近隣住民が自発的に担う仕組みが各地で見られる。多くの自治体に存在する公園愛護会のような組織は、オルソン的に言えば「便益の局地性が小集団を作り、小集団が集合行為の問題を克服する」事例である。オストロムが『コモンズのガバナンス』で示した、共有資源を持続的に管理してきた地域社会の設計原理——境界の明確さ、ルールを利用者自身が決めること、監視、段階的な制裁——も、この文脈で参照される。

ただし、住民による維持管理には限界と緊張もある。担い手の高齢化、共働き世帯の増加、転入者と旧来住民の温度差は、小集団の結束を弱める。また、住民が費用を負担しているのに、公園を利用するのは通りすがりの人や隣の地区の家族でもある、という状況は、それ自体がフリーライダー問題の再現である。公共経済学の観点からは、維持管理を住民の善意にどこまで委ね、どこから市の予算で担うかは、便益の局地性の程度と、集合行為の持続可能性とを見比べて決めるべき設計問題である。磐田市の各公園で地域による維持管理がどの程度行われているかは、当サイトのデータには含まれておらず、今後の踏査と聞き取りの課題である。

6. 地方公共財とティブー仮説——誘致距離を読む

国防や基礎研究の便益は国全体に及ぶが、公園の便益は歩いて行ける範囲に集中する。便益の及ぶ範囲が地理的に限られる公共財を、公共経済学では地方公共財と呼ぶ。地方公共財の理論が問うのは、こうした財を「誰が」「どの範囲を単位として」供給すべきか、である。ウォーレス・オーツが1972年に示した分権化定理は、その答えの基本形を与える。すなわち、便益の範囲が地域に限られ、地域ごとに住民の選好が異なる公共財については、中央政府が全国一律に供給するよりも、それぞれの地方政府が地域の選好に合わせて供給する方が、住民の厚生は高くなる。公園の設置と管理が原則として市町村の仕事であることは、この定理と整合的である。

分権化定理の前提には、地域によって望ましい公園の量や質が異なる、という認識がある。子育て世帯の多い新興住宅地と、高齢化の進んだ旧市街とでは、求められる公園は違うだろう。だとすれば、公園を全国一律の基準だけで供給するのではなく、地域の実情を知る市町村が判断する余地を残すことに合理性がある。都市公園法の種別と標準面積・誘致距離は「国の目安」であって、市町村がそれに縛られる義務的基準ではない、という法の建付けも、この観点から理解できる。

6.1 ティブーの「足による投票」とその限界

地方公共財の理論をもう一段進めたのが、チャールズ・ティブーが1956年に発表した「地方支出の純粋理論」である。サミュエルソンは、公共財に対する人々の真の選好は明らかにならない(誰もが自分の便益を過少申告してただ乗りしようとする)ため、公共財の最適な供給量を市場のような仕組みで決めることはできない、と論じていた。ティブーはこれに対し、地方公共財に限っては、人々が「引っ越す」ことで選好を表明できると反論した。多数の自治体がそれぞれ異なる公共サービスと税の組合せを提示し、住民は自分の好みに合う自治体を選んで移り住む。買い物で商品を選ぶように自治体を選ぶ——これが「足による投票」である。この仮説が成り立てば、地方公共財は各自治体で住民の選好に合った量だけ供給されることになる。

ティブー仮説は魅力的だが、前提が強いことも早くから指摘されてきた。移動に費用がかからないこと、選べる自治体が十分に多いこと、住民が各自治体のサービスと税を正確に知っていること、通勤の制約がないこと、そして公共財の便益が自治体の境界の外に漏れないこと、などである。現実にはどれも完全には成り立たない。とりわけ日本の文脈では、市町村の数と規模、住宅取得や転居の費用、勤務先との距離を考えると、公園の量や質を理由に自治体を移る、という行動は限定的だと考えるのが自然である。ティブー仮説は、公園政策を説明する理論としてそのまま用いるより、「便益の範囲」と「住民の選択」という二つの視点を与えてくれる道具として用いるのがよい。

6.2 誘致距離という設計変数——「内側の足による投票」

ティブーの視点を自治体の内側に持ち込むと、公園に関しては、より現実的な「足による投票」が見えてくる。人は市を選ぶより先に、市の中で住む場所を選ぶ。そのとき、近くに公園があるか、その公園がどんな公園かは、子育て世帯にとって住む場所の選択の一要素になりうる。同じ市の中で公園の近さが違えば、住民は住む場所を選ぶことで公園への選好を表明していることになる。これは第5節で述べた資本化と表裏であり、公園の便益が近隣の土地に反映されるからこそ、その土地を選ぶ人は便益に対する対価を(土地の価格を通じて)払っている、とも言える。

この「内側の足による投票」を制度の側から見ると、都市公園法の誘致距離は、地方公共財の便益の空間的範囲を設計する変数として立ち現れる。街区公園の誘致距離250mとは、「この公園の便益は半径250m程度の住民に届くように配置する」という宣言であり、近隣公園の500m、地区公園の1kmはより広い範囲を想定している。誘致距離が短い種別ほど数を多く、面積を小さく配置し、誘致距離が長い種別ほど数を少なく、面積を大きく配置する。この入れ子構造は、便益の範囲が異なる複数の地方公共財を、一つの市の中で重ね合わせて供給する設計である。ブキャナンのクラブ理論の言葉を借りれば、街区公園は「小さなクラブ」を多数、地区公園は「大きなクラブ」を少数、という規模の異なるクラブを空間的に配置する仕組みだと言ってもよい。

歩いて行く誘致距離配置車で行く
図6誘致距離は地方公共財の便益範囲を設計する変数である。街区公園は歩いて行く小さな圏域を多数、地区公園以上は車も使う大きな圏域を少数、重ねて配置する。

ここで、誘致距離が「目安」であることの意味を確認しておく。誘致距離は、住民が日常的にその公園を使う範囲の想定であって、範囲外の人の利用を排除するものではない。実際には、車で少し離れた大きな公園に出かける家族も多く、遠方の公園の誘致圏が互いに重なり合う。この重なりは、非排除性ゆえに当然生じることであり、また利用者が公園を「選ぶ」ことで公園間に一種の競争が働くという、ティブー的な効果をもたらしてもいる。設備の整った公園に人が集まり、そうでない公園が空くという現象は、住民の選好が示されている、と読むこともできる。ただし、その結果として生じる駐車の集中や混雑は、第5節で述べた負の外部性であり、誘致圏の重なりには費用も伴う。

最後に、ティブー仮説に対する分配上の批判に触れておく。もし住民が公共サービスと税の組合せで住む場所を選ぶなら、同じ好みと同じ所得の人々が集まる「選別」が進み、地域間の格差が固定される、という懸念である。公園に即して言えば、公園が充実した地区の住宅価格が上がり、そこに住めるのは所得の高い世帯に限られる、という展開である。この批判に対する一つの応答は、公園を市内に均等に配置することである。誘致距離に基づく計画的な配置は、公園という価値財を所得によらず全域に行き渡らせる、分配上の意味をもつ。第4節で述べた「無料」と、本節の「均等配置」は、公園を選別の道具にしないための二つの柱である。

7. 供給の制度設計——直営・指定管理・Park-PFI

公共財を政府が供給する、と言うとき、そこには二つの異なる意味が混ざっている。一つは、費用を租税で賄い、何をどれだけ供給するかを決めるという意味での供給(provision)。もう一つは、実際に土地を造成し、遊具を据え、草を刈り、トイレを清掃するという意味での生産(production)である。ヴィンセント・オストロム、チャールズ・ティブー、ロバート・ウォレンは1961年の論文で、この二つを区別すべきだと論じた。公共財であることは、供給を公共部門が担うべき理由にはなるが、生産まで公共部門の職員が行わなければならない理由にはならない。生産は民間企業や住民団体に委ねてもよく、どちらが効率的かは財の性質と契約の書きやすさによる。

この区別を公園に当てはめると、日本の公園制度の変遷は「生産の担い手を広げてきた歴史」として整理できる。都市公園法は1956年に制定され、公園の設置と管理は原則として地方公共団体が行うと定めた。同法はしかし早くから、管理者以外の者が公園施設を設けて管理する「設置管理許可」の仕組みを持っていた。2003年の地方自治法改正で、公の施設の管理を法人その他の団体に委ねる指定管理者制度が導入され、公園の管理運営を民間事業者や外郭団体に包括的に委ねる道が広がった。そして2017年の都市公園法改正で、公募により事業者を選び、飲食店や売店などの収益施設の設置と、その周辺の園路や広場の整備とを一体で行わせる公募設置管理制度、いわゆるPark-PFIが創設された。次の表はこれらを供給と生産の観点から対比したものである。

方式根拠費用の流れ公共財理論での位置づけ
直営都市公園法(地方公共団体の設置・管理)市の一般財源で供給も生産も行う純粋な公共供給・公共生産
業務委託・指定管理者制度地方自治法(2003年改正)市が費用を持ち、生産を民間・団体に委ねる公共供給・民間生産(供給と生産の分離)
設置管理許可都市公園法事業者が施設を設け、市に使用料等を納める非排除的な空間の中に排除可能な設備を入れ子にする
公募設置管理制度(Park-PFI)都市公園法(2017年改正)収益施設の収益の一部で周辺の公園整備を行う正の外部性の内部化・部分的なクラブ財化

7.1 Park-PFIの理論的位置づけ——外部性の内部化

Park-PFIを公共経済学の言葉で読み解くと、その核心は「外部性の内部化」にある。公園にカフェや売店を置けば、公園の来園者という集客の便益がその店に流れ込む。これは公園が店に与える正の外部性である。従来の設置管理許可では、事業者はこの便益を受け取り、市には使用料を納めるだけであった。Park-PFIは、事業者に対し、収益施設の収益の一部で周辺の園路・広場・トイレなどの公園施設を整備することを求める。すなわち、公園が生み出した外部性の一部を、事業者を経由して公園に還流させる仕組みである。事業者側には、許可期間の延長や建蔽率の特例といった誘因が与えられ、長期の投資を回収しやすくなっている。

この設計は、公園を「利用者から料金をとる」有料化とは異なる。園内の緑地や広場は無料のまま、飲食や物販という排除可能で競合的な部分だけを市場に委ね、その収益で無料部分の質を高める。第4節で述べた「無料の空間の中に有料の設備を入れ子にする」構造を、意図的に拡張したものと言える。うまく機能すれば、公園の維持管理費が市の一般財源だけに依存する度合いを下げ、非排除性を保ったまま公園の質を上げることができる。人口減少下で公園の固定費をどう賄うかという第3節末尾の問いに対して、一つの答えを与えようとする制度である。

収益施設無料の緑地両立行政の監督
図7Park-PFIは収益施設の収益を公園整備に還流させて外部性を内部化する。無料の緑地と収益施設の両立には、規模の適合と行政の監督が条件となる。

7.2 反論と条件——商業化・規模・監督費用

Park-PFIには理論的にも実務的にも批判がある。第一に商業化の懸念である。収益施設が公園の主役になれば、実質的に「店の客」でない人が居づらくなり、非排除性が事実上損なわれる。カフェの席が公園のベンチを置き換えるなら、無料で座れる場所は減る。理論上は無料部分が保たれていても、空間の雰囲気と実際の利用者層が変われば、価値財としての公園の機能、すなわち所得によらず誰でも使えるという性質が弱まる。この批判は、Park-PFIの設計において無料で使える空間の量と質をどう担保するかが本質的な条件であることを示している。

第二に規模の問題である。収益施設が成り立ち、その収益で公園整備を賄えるだけの来園者が見込めるのは、都市の中心部や広域から人が集まる大規模な公園に限られる。住宅地の中に散在する街区公園や小さな都市緑地は、来園者が近隣に限られ、収益施設を支えるほどの集客はない。Park-PFIは大規模公園向けの道具であり、公園全体の維持管理費の問題を解決する万能薬ではない。市の公園の大部分を占める小規模な公園には、依然として一般財源と、第5節で述べた住民による維持管理という、従来からの二本の柱が残る。

第三に、供給と生産を分けることには、それ自体の費用がある。市は事業者を公募し、審査し、契約を結び、履行を監督し、契約期間の終了時に施設をどうするかを決めなければならない。これらの取引費用は、直営なら生じない。契約に書ききれない事態——収益施設が不振になった場合、事業者が撤退した場合、公園の性格が変わってしまった場合——にどう対処するかも、あらかじめ考えておく必要がある。供給と生産の分離は、契約と監督の能力を行政に要求する。公共経済学の観点からは、直営か民間かという二者択一ではなく、財の性質(排除可能か、競合的か、便益はどこまで及ぶか)と契約の書きやすさに応じて、公園ごと、設備ごとに最も適した生産の担い手を選ぶことが、この節の結論である。

8. 磐田市の公園への示唆

ここまでの理論を、磐田市の公園データに当てはめてみる。当サイトが整備している磐田市の公園データベースには100園が収録されている。内訳は、市のオープンデータ「都市公園一覧」に載る94園に、市の施設ガイドのみに掲載されている6園(都市公園法の対象外・その他)を加えたものである。都市公園法の種別で見ると、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、法対象外・その他6園である。管理は市の都市整備課(電話 0538-37-4806)が所管している。

8.1 種別ごとの園数を公共財の「層」として読む

この内訳を、第3節から第6節で整理した理論に照らすと、磐田市の公園は公共財としての性格の異なる幾つかの層から成っていることが分かる。もっとも純粋公共財に近いのは、半数を占める街区公園51園である。国の目安で0.25ha・誘致距離250mというこの種別は、歩いて行ける範囲の住民が日常的に使う小さな公園であり、料金所を置くことは考えられず(排除費用が便益に比べて大きい)、便益は近隣に集中し(局地的な地方公共財)、混雑の閾値は低いが利用者も近隣に限られる。ブキャナン的に言えば「小さなクラブ」を51個、市域に散りばめた層である。

近隣公園14園と地区公園4園は、より広い範囲を対象とする中間の層である。国の目安では近隣公園が2ha・500m、地区公園が4ha・1kmであり、面積が大きい分、混雑の閾値も高く、トイレや広場、多様な遊具が揃いやすい。便益の範囲は街区公園より広く、車で来る利用者も含む。第6節で述べた誘致圏の重なりが実際に生じるのはこの層からであり、駐車という負の外部性の管理が課題になり始めるのもこの層である。当サイトのデータでは、駐車場について市施設ガイドに記載があるか当サイトで有と判定した園は33園であり、その多くはこの層以上に属する。

総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園は、市全域あるいは市外からも人を集める最上位の層であり、公共財理論の観点からもっとも複雑な性格をもつ。竜洋海洋公園(221,722㎡)やかぶと塚公園(106,982㎡)、磐田スポーツ交流の里ゆめりあ(57,500㎡)といった大規模な園は、市施設ガイドの記載によれば、体育館・野球場・テニスコート・プールといった競合的で排除可能な設備を多く含む。第4節で述べた「無料の空間の中に有料の設備が入れ子になる構造」が典型的に現れるのはこの層であり、また第7節で述べたPark-PFIのような供給と生産の分離を検討する余地があるとすれば、来園者の規模から見て、この層に限られるだろう。

種別磐田市の園数国の目安(面積・誘致距離)公共財としての読み
街区公園51園0.25ha・250m最も純粋公共財に近い。小さなクラブを多数配置。無料が最も合理的
近隣公園・地区公園14園・4園2ha・500m/4ha・1km中間層。混雑閾値が高く便益範囲が広い。駐車の外部性が課題に
総合公園・運動公園・風致公園3園・3園・3園10〜50ha/15〜75ha/定めなし無料の緑地と有料設備の入れ子。供給と生産の分離を検討しうる層
都市緑地・広場公園・緑道・墓園・歴史公園10園・2園・2園・1園・1園都市緑地0.1ha〜ほか非利用価値(景観・存在価値)の供給が中心。利用者は少なくても便益はある
法対象外・その他6園施設ガイド掲載のみ。位置づけは今後の確認課題

8.2 極小の緑地と地区ごとの偏り

都市緑地10園の中には、二之宮東第2緑地(中泉地区・17㎡)や豊田上新屋ポケットパーク(豊田地区・156㎡)のような、遊ぶ空間としてはごく小さな区画がある。これらは混雑財としては閾値がほとんどないに等しく、「利用する」という意味での便益はわずかである。しかし第5節で述べた非利用価値の観点からは、街角に緑があること自体の景観価値・存在価値を供給しており、公共財理論はこれらを無意味とはしない。維持費が小さいこと、排除する理由がまったくないことを考えれば、極小の緑地は「費用の小さい純粋公共財」として整合的に位置づけられる。同様に、遠江国分寺史跡公園(歴史公園・21,600㎡)のような園は、遊具はなくとも、歴史的景観という非利用価値の供給という点で公共財である。

地区別に見ると、当サイトが用いる9地区の園数は、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。園数の偏りは、地区の人口や市街地の広がり、住宅地の開発時期などと関係すると考えられるが、当サイトはまだその分析を行っていない。公共財理論の観点からは、園数の多寡そのものよりも、誘致距離で見て公園の便益が行き渡っていない住宅地があるかどうかが問題であり、それは園数を面積や人口分布と重ね合わせて初めて言えることである。第6節末尾で述べた「均等配置」が分配上の意味をもつとすれば、それを検証する作業は、当サイトの今後の課題である。

100園面積の幅誘致距離オープンデータ
図8磐田市の100園は、種別ごとに公共財としての性格が異なる層から成る。園数・面積・誘致距離を重ねて読むことで、公共財供給の設計として見えてくる。

8.3 当サイトのデータで言えること・言えないこと

本稿の枠組みで問いを立てると、磐田市の公園について「言えること」と「まだ言えないこと」の境界がはっきりする。言えるのは、種別・面積・地区・オープンデータのフラグ(トイレ有69園、車いす対応トイレ有34園、砂場有43園、遊具有64園、いずれもオープンデータ94行の中での集計)から読み取れる、供給の設計と層構造である。まだ言えないのは、各園の混雑の実態、有料の設備の有無と料金、地域による維持管理の有無、誘致圏の重なりの実際、Park-PFIのような制度の妥当性である。これらは、現地に足を運び、市の案内を確かめ、関係者に聞くことでしか分からない。

当サイト(ATAWI PARK)は、磐田市の公園100園のデータベースとして始まったばかりであり、現地踏査はこれからである。本稿の理論的な整理は、踏査で何を見るべきかを定める役割を果たす。すなわち、公園ごとに、無料で使える空間がどれだけあり、競合的な設備がどれだけあり、どの時間帯にどれだけ混み、便益が近隣のどこまで届き、誰が維持管理を担っているか。これらを記録していくことが、公共財としての磐田市の公園を、理論から事実へと引き寄せる作業になる。運営する富士ヶ丘サービス株式会社は不動産・介護の事業者であるが、本稿は特定の地区や公園の優劣を論じるものではなく、公園を無料で開き続けることの意味を経済学の言葉で確かめる試みである。

9. 結論と今後の課題

本稿の問いは「公園は公共財か」であった。検討の結果として得られた答えは、公園は純粋公共財ではないが、公共財の理論なしには理解できない財である、というものである。より正確に言えば、都市公園は混雑を伴い、便益の範囲が地理的に限られ、排除しないことを制度として選んでいる地方公共財である。非競合性は利用者数と時間帯に依存し(混雑財)、園内の遊具や運動施設は強く競合する。非排除性は技術的な必然ではなく、限界費用がほぼゼロであるという効率性の根拠と、子どもの遊びや住民の健康を社会が望ましいとみなす価値財の根拠との二重の理由から、制度として選ばれている。便益は近隣に集中し、距離とともに薄れ、その一部は土地の価格に資本化される。

この答えから、公園政策が常に向き合う三つの緊張が導かれる。第一に、受益の局地性と負担の広域性の緊張である。公園の便益は近隣に偏り、費用は市全体の税で賄われる。この緊張は、均等配置と無料開放によって公園を市全域に行き渡らせることで和らげられ、また便益の局地性を逆手にとった住民による維持管理によって部分的に補われる。第二に、混雑と規模の緊張である。面積が大きければ混雑の閾値は上がるが固定費も増え、利用者が少なければ一人当たりの費用は高くなる。種別ごとの標準面積と誘致距離は、この緊張を空間的に設計する道具である。第三に、供給と生産の緊張である。公共財であることは公共部門が費用を持つ理由にはなるが、生産まで公共部門が担う理由にはならず、指定管理やPark-PFIはこの分離を制度化したものである。ただし分離には契約と監督の費用が伴い、規模の小さい公園には向かない。

本稿の枠組みは、磐田市の公園100園に一つの読み方を与える。街区公園51園はもっとも純粋公共財に近い層であり、無料で開くことの合理性がもっとも明快な層である。近隣公園14園と地区公園4園は便益範囲の広い中間層であり、総合公園・運動公園・風致公園の各3園は無料の緑地と競合的な設備が入れ子になる最上位の層である。都市緑地10園をはじめとする小さな区画は、利用よりも景観や存在の価値を供給する費用の小さい公共財である。この層構造は、種別・面積・誘致距離というオープンデータと国の目安だけから読み取れるものであり、踏査を経ていない現時点で言えることの限界でもある。

残る課題踏査で記録これから
図9理論の整理は踏査の設計図である。混雑・料金・維持管理の担い手・便益の届く範囲を、当サイトはこれからの踏査で一園ずつ記録していく。

今後の課題は四つある。第一に、現地踏査による事実の確認である。各園の混雑の程度と時間帯、有料設備の有無、地域による維持管理の実態、駐車の状況は、本稿の理論を検証する上で不可欠であり、当サイトはこれからの踏査で一園ずつ記録する。第二に、園数と面積を人口分布や地区の広がりと重ね合わせ、誘致距離で見て公園の便益が届いていない住宅地があるかを検討することである。これは第6節で述べた均等配置の分配上の意味を、磐田市について確かめる作業である。第三に、公園の便益の測定である。トラベルコスト法や仮想評価法、ヘドニック法を磐田市の公園に適用することは本稿の範囲を超えるが、そうした研究がなされれば、公園の維持費と便益とを同じ土俵で比べることが可能になる。第四に、隣接する学問領域との接続である。維持管理の財政は財政学、便益の資本化は不動産経済学、住民参加は政治学、公園法制は法学の別稿がそれぞれ扱う。

最後に、本稿の立場を確認しておく。公園を経済学の言葉で語ることは、公園の価値を金銭に還元することではない。むしろ逆である。なぜ市場に任せると公園は供給されないのか、なぜ無料で開くことに合理性があるのか、なぜ便益が近隣に偏るのに費用を市全体で負担するのか——これらの問いに答えることは、公園を無料で開き続けることを、感覚ではなく理由によって支える作業である。子どもが順番を待ってブランコに乗り、高齢者がベンチで休み、通りすがりの人が木陰を横切る。その一つ一つが、公共財の理論が説明しようとしてきた「誰も締め出さず、大勢が同時に使い、それでも成り立つ」財の姿である。磐田市の100園がそれぞれどのようにこの姿を実現しているかを確かめることが、当サイトのこれからの仕事である。

参考文献

  1. ポール・A・サミュエルソン(1954)「公共支出の純粋理論(The Pure Theory of Public Expenditure)」The Review of Economics and Statistics, 36(4)
  2. リチャード・A・マスグレイブ(1959)『財政理論——公共経済の研究』(木下和夫監修、大阪大学財政研究会訳、有斐閣、1961〜62)
  3. ジェームズ・M・ブキャナン(1965)「クラブの経済理論(An Economic Theory of Clubs)」Economica, 32(125)
  4. チャールズ・M・ティブー(1956)「地方支出の純粋理論(A Pure Theory of Local Expenditures)」Journal of Political Economy, 64(5)
  5. ウォーレス・E・オーツ(1972)『地方分権の財政理論(Fiscal Federalism)』(米原淳七郎ほか訳、第一法規、1997)
  6. アーサー・C・ピグー(1920)『厚生経済学』(気賀健三ほか訳、東洋経済新報社、1953〜55)
  7. ロナルド・H・コース(1960)「社会的費用の問題(The Problem of Social Cost)」Journal of Law and Economics, 3
  8. マンサー・オルソン(1965)『集合行為論——公共財と集団理論』(依田博・森脇俊雅訳、ミネルヴァ書房、1983)
  9. ギャレット・ハーディン(1968)「共有地の悲劇(The Tragedy of the Commons)」Science, 162
  10. エリノア・オストロム(1990)『コモンズのガバナンス(Governing the Commons)』(Cambridge University Press)
  11. ヴィンセント・オストロム、チャールズ・ティブー、ロバート・ウォレン(1961)「大都市圏における政府の組織(The Organization of Government in Metropolitan Areas)」American Political Science Review, 55(4)
  12. ジョセフ・E・スティグリッツ(1986)『公共経済学』(藪下史郎訳、東洋経済新報社、上下、1996・2004)
  13. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  14. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  15. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

← 社会科学 の論文一覧 公園学術論文 トップ 読みもの(公園ガイド)