人文学日本庭園史

作庭記から公園へ——日本庭園の系譜と公共化されなかった風景

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:日本庭園史 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,041字 読了目安 38分

要旨

本稿の目的は、日本庭園の系譜を平安時代後期の作庭書『作庭記』から江戸時代の回遊式大名庭園までたどり直し、それらの庭が徹底して私的あるいは宗教的な空間であったことを確認したうえで、明治以降にその一部が公園として公開されるとき、庭の作法と公園の使われ方のあいだにどのようなずれが生じたのかを明らかにすることである。方法は文献整理と概念分析であり、『作庭記』の石組と地形の思想、平等院鳳凰堂に代表される浄土式庭園、室町時代以降の枯山水、茶の湯とともに成立した露地、江戸時代の回遊式大名庭園という五つの段階を順に検討する。

検討を通じて、日本庭園には少なくとも三つの前提が共有されていたことが示される。第一に、庭には見るべき位置が定められていること。第二に、歩く順序が設計されていること。第三に、庭は所有者と招かれた客のものであり、入る資格が限られていたことである。近代の公園はこの三つをいずれも解除した。誰がどこから見てもよく、どの順に歩いてもよく、原則として誰でも入ってよい。大名庭園の一部が公園として開かれた過程は、この解除の過程でもあった。

ずれは視点・順路・時間・所有という四つの水準に整理できる。名勝として保存された庭園が入園料と開園時間と立入制限を伴う一方、都市公園法のもとの公園が原則として無料で開かれていることは、庭園の系譜と公園の系譜が今日も別々に走っていることを示している。最後に、磐田市の都市公園100園(街区公園51園・近隣公園14園・都市緑地10園ほか)のうち、歴史公園や風致公園、市の施設ガイドに築山や流れの記載がある園を手がかりに、庭の作法の断片が生活圏の公園にどう残りうるかを検討する。ただし当サイトの現地踏査は始まっていないため、園路の構成や見え方にかかわる論点はすべて今後の踏査課題として残す。

キーワード日本庭園史作庭記枯山水露地回遊式庭園大名庭園公共化

1. はじめに——問題の所在

日本の公園について語るとき、しばしば「日本には古くから庭園の伝統がある」という言い方がなされる。石を立て、水を引き、木を植え、季節の移ろいを景として組み立てる技術の蓄積は確かに長い。しかしその蓄積が、そのまま今日の公園につながっているかというと、事情はもう少し複雑である。庭園は原則として誰かの庭であった。所有者がいて、境界があり、入る資格が限られていた。これに対して公園は、少なくとも制度の建前としては、誰でも入ってよい場所である。技術は連続していても、空間の性格は断絶している。

1.1 庭と公園はつながっているか

この断絶は、明治以降に大名庭園の一部が公園として開放された過程を見ると、はっきりと形をとる。ある庭が公園になるということは、単に門を開けて人を入れるということではない。庭には、そこから見ることを前提に石や木が配された場所があり、その順に歩くことを前提に飛石や園路が敷かれていた。門を開けるとき、その前提は保証されなくなる。人はどこからでも見るし、どの順にも歩くし、見るためではなく休むために、あるいは走るために来る。庭の側から見れば、これは設計が意図しなかった使われ方が始まるということであった。

見る位置歩く順序入る資格
図1日本庭園が前提としてきた三つの条件。見る位置が定まり、歩く順序があり、入れる人が限られていた。公園はこの三つをいずれも解除した空間である。

本稿はこの局面を「公共化のずれ」と呼び、庭園史の側から検討する。問いは三つである。第一に、日本庭園は歴史的にどのような空間として設計されてきたのか。第二に、その庭が近代に公共のものとされるとき、何が引き継がれ、何が引き継がれなかったのか。第三に、その経験は、今日の生活圏にある小さな公園——磐田市でいえば街区公園51園のような、面積が数百から数千平方メートルの公園——を考えるうえで何を教えるのか。

1.2 方法と用語

方法は文献整理と概念分析である。現地の庭園を実測して論じるものではなく、作庭書と庭園史研究の記述を手がかりに、庭の設計思想の骨格を取り出し、それを公園という制度に照らす。用いる資料は三種類ある。第一に作庭書、すなわち庭の造り方を記した書物である。平安時代後期の『作庭記』、室町時代に成立したと考えられる『山水並野形図』、江戸時代の『築山庭造伝』がこれにあたる。第二に近代以降の庭園史研究であり、重森三玲の図鑑的な集成、森蘊の『作庭記』研究、白幡洋三郎の大名庭園論などを参照する。第三に公園制度の一次資料であり、明治6年の太政官布達第16号、大正8年の史蹟名勝天然紀念物保存法、昭和31年の都市公園法である。

用語を整理しておく。本稿で「庭園」とは、所有者または管理主体のために造られ、明確な境界をもち、鑑賞を目的の一部に含む屋外空間を指す。「公園」とは、制度上、公衆の利用に供されることを目的として設けられた屋外空間を指す。両者は排他的ではなく、名勝に指定された庭園が入園料を取って公開されている場合のように、一つの空間が両方の性格をあわせもつこともある。本稿が関心を向けるのは、まさにその重なりの部分で何が起きているかである。

註:本稿は造園技術の通史ではない。植栽・地形・水・園路・施設という造園学の要素論、および本多静六以降の近代公園設計については別稿にゆずる。また公園制度そのものの通史も別稿の主題である。本稿はあくまで庭園の側の設計思想に立ち、それが公共化される局面に焦点を絞る。

1.3 本稿の構成

第2節で庭園史研究の枠組みを整理し、本稿が用いる三つの軸——視点・順路・所有——を提示する。第3節から第6節までが庭園史の本論である。第3節は『作庭記』が示す石組と地形の思想、第4節は浄土式庭園と枯山水に共通する「定まった位置から見る庭」、第5節は露地に見られる「歩く順序が決まる庭」、第6節は回遊式大名庭園における縮景と饗宴を扱う。第7節では明治以降の公共化の過程を、上知・寄贈・名勝指定・開園という四つの経路に分けて検討する。第8節でずれの構造を四水準に整理し、想定される反論に応答する。第9節で磐田市の公園への示唆を述べ、第10節で結論と課題を示す。

あらかじめ結論の方向を述べておけば、本稿は「庭園の伝統を公園に取り戻すべきだ」とも「庭園と公園は無関係だ」とも言わない。庭園が長い時間をかけて洗練させたのは、限られた人が限られた条件で見ることを前提とした技術であり、その前提を外したときに何が残り何が失われるかを見極めることが、公園を考えるうえで有益だと考える。失われたものの一部は、失われてよかったのである。誰でも入れることは、庭の作法が保てなくなることと引き換えに得られた。その取引の内容を明らかにすることが本稿の課題である。

2. 先行研究と概念の整理——庭園史をどう読むか

日本庭園を歴史として叙述する試みは、近代の学問として組み立てられたものである。庭そのものは古代から造られてきたが、それらを様式に分け、年代順に並べ、比較して論じるという作業は、明治以降に美術史や造園学の方法が導入されてから本格化した。重森三玲が全国の庭園を実測し図面と写真で集成した仕事は、その代表である。実測という作業は、庭を「所有者の私的な楽しみ」から「比較可能な資料」へと変える。庭園史という学問の成立自体が、庭の公共化の一形態であったと言ってもよい。

2.1 作庭書という資料の性格

庭園史の資料のうち、作庭書はとくに扱いに注意を要する。作庭書とは庭の造り方を記した書物であり、平安時代後期の『作庭記』、室町時代に成立したと考えられる『山水並野形図』、江戸時代の『築山庭造伝』が知られる。これらは設計図でも施工記録でもなく、口伝や心得を文章にしたものである。したがって、そこに書かれたとおりに庭が造られたという保証はない。むしろ、書かれた内容は当時の作り手が何を良しとしていたかを示す規範の記録として読むべきである。

この性格は本稿にとってはむしろ好都合である。本稿の関心は個々の庭の実態よりも、庭がどのような約束のもとで造られていたかにあるからである。作庭書が繰り返し述べるのは、庭は自然の風景を写すものであること、石には据えるべき向きと場所があること、そして庭は主が見るためのものであることである。この三点は、時代と様式が変わっても大きくは変わらない。

作庭書口伝の記録様式の層
図2作庭書は設計図ではなく規範の記録である。何が良しとされたかを伝える資料として読むと、様式が変わっても続く前提が見えてくる。

2.2 様式区分とその限界

庭園史の教科書的な区分では、寝殿造に伴う池と中島の庭、阿弥陀信仰と結びついた浄土式庭園、水を用いずに山水を表す枯山水、茶の湯とともに成立した露地、そして江戸時代の回遊式庭園が順に並べられる。この区分は便利だが、二つの限界がある。第一に、様式は前のものを置き換えるのではなく積み重なる。枯山水が生まれた後も池のある庭は造られ続けた。第二に、様式区分は形の分類であって、使われ方の分類ではない。同じ池泉の庭でも、船を浮かべて遊ぶ庭と、堂から拝む庭では、空間としての性格がまったく異なる。

時代・型庭の中心にあるもの見る位置身体の動き主な担い手
平安・寝殿造系池・中島・遣水寝殿の南面/舟上座る・舟で巡る貴族
平安末〜鎌倉・浄土式池を隔てた仏堂堂に向かう岸辺拝する・立ち止まる貴族・寺院
室町〜・枯山水石組と白砂方丈などの室内座る(動かない)禅院
桃山〜・露地飛石・蹲踞・茶室露地の歩みの途中順に歩く茶人・武家・町衆
江戸・回遊式大名庭園園路と園路上の景園路上の複数の視点巡る・立ち止まる大名家

この表が示すのは、様式の違いが、形の違いであると同時に身体の置き方の違いだということである。座って見る庭と、歩いて見る庭と、舟で巡る庭では、設計者が制御しようとしている対象が違う。座って見る庭では視野の構図が制御され、歩いて見る庭では時間の順序が制御される。公園を考えるとき重要なのは後者である。公園において、人がどの順にどこを通るかを設計が制御しようとすれば、それはただちに管理と規制の問題になるからである。

2.3 本稿の三つの軸

以上を踏まえ、本稿は庭園と公園を比較するための軸を三つ立てる。第一は視点である。空間に、そこから見ることを前提とした特権的な位置があるか。第二は順路である。空間に、たどるべき順序があるか。第三は所有である。空間に入る資格が限定されているか、そして誰が費用と手入れを負担するか。日本庭園はこの三つすべてについて「ある・ある・限定されている」と答える空間であった。近代の公園はこの三つすべてを「ない・ない・限定されない」へと反転させた空間である。

  • 視点の軸——特権的な視点が設計されているか。庭では方丈の縁や園路の見せ場に設定され、公園では原則として設定されない。
  • 順路の軸——たどるべき順序があるか。露地と回遊式庭園では厳密に、公園では出入口の位置が結果的に動線を決める程度にとどまる。
  • 所有の軸——入る資格と負担の主体。庭は所有者と招客、公園は住民一般と税である。

この三軸は互いに独立ではない。入る資格が限られているからこそ、見る位置と歩く順序を指定できる。招かれた客は主の意図に従って動くことを受け入れるが、通りすがりの住民はそうではない。逆に言えば、公園において視点や順路を強く設計しようとする試みは、入る資格を限定できないという条件のもとで、規範や表示によって行動を誘導する試みにならざるをえない。第8節でこの問題に立ち返る。

3. 『作庭記』——石を立てるという思想

現存する日本最古の作庭書とされる『作庭記』は、平安時代後期に成立したと考えられ、伝統的に橘俊綱に帰されてきた。写本によっては『前栽秘抄』の名で伝わる。この書物が扱うのは、貴族の邸宅——寝殿造——に付属する庭、すなわち池と中島と遣水からなる南庭の造り方である。注目すべきは、この書が庭を造ることをしばしば「石を立てる」という言い方で表していることである。石の据え方が庭造りの中心であり、地形と水の扱いはそれと一体のものとして説かれる。

3.1 自然を思い浮かべて写す

『作庭記』の方法論として広く知られているのは、実在の山水の姿を思い浮かべ、その趣を庭に写すという考え方である。海の景、大河の景、山川の景、沼池の景、葦手の景といった類型が挙げられ、それぞれにふさわしい石の据え方と水の流し方が説かれる。ここで重要なのは、写す対象が目の前の自然ではなく、記憶され、共有された風景の類型だという点である。庭を見る者は、石と水の配置から、自分が知っている、あるいは和歌を通じて知っている風景を読み取る。庭は風景の再現であると同時に、風景についての知識を共有する者どうしの符牒でもあった。

この符牒性は、庭が誰に向けて造られていたかを示している。海の景を海と読むためには、その約束を知っている必要がある。知らない者にとって、それはただの石と水である。庭の意味が成立する範囲は、教養を共有する範囲と重なっていた。後の節で見る回遊式庭園の縮景も、この延長線上にある。

水の流れ築山石を据える
図3『作庭記』が扱うのは石と地形と水の三者である。石を立てることが庭を造ることと同義に語られ、水の流れと築山はそれと一体に設計された。

3.2 石の求めに従う

『作庭記』にはもう一つ、後世まで繰り返し引かれてきた原則がある。石を据えるときは、その石が求めるところに従え、という趣旨の教えである。石にはもともとの姿があり、据わりのよい向きがあり、他の石との関係で落ち着く位置がある。作り手はそれを見つけるのであって、任意の形を石に押しつけるのではない。この考え方は、素材の性質を読み取ってそれに従うという、日本の造形一般に見られる態度の、庭における表れである。

この原則を現代の公園設計に照らすと、対照は鮮明である。今日の街区公園に置かれる遊具や施設の多くは、規格化された製品として選ばれる。安全基準を満たし、面積と予算に収まり、想定される利用者の年齢に合うものが、カタログの中から選定される。これは公平で効率的な方法であり、量的整備を短期間で進めるためには不可欠であった。しかし、その場所の地形や既存の樹木が「求めるところ」を読み取るという工程は、標準設計の中では省略されやすい。庭園史の側から公園に投げかけられる最初の問いは、この工程をどこまで残せるか、である。

3.3 禁忌の体系——庭が主の運命に関わるということ

『作庭記』には、してはならない石の据え方についての記述が少なからず含まれる。もともと横に寝ていた石を立ててはならない、立っていた石を寝かせてはならない、といった類である。これらは陰陽や方位の観念と結びついており、誤った据え方が家の禍を招くと考えられていた。水の流れる方向についても、屋敷の中でどちらからどちらへ流すべきかが説かれる。

この禁忌の体系が意味するのは、庭が単なる装飾ではなく、そこに住む者の運命に関わる装置とみなされていたということである。庭は主の家の一部であり、主の身体と生活の延長にあった。だからこそ、庭は他人が自由に手を入れてよいものではなかった。庭園が私的であるというとき、それは所有権の問題であるだけでなく、庭と主のあいだに取り結ばれたこの関係の問題でもある。

註:『作庭記』の原文には写本による異同があり、章段の順序や表現も一様ではない。本稿は個々の語句の解釈に立ち入らず、庭園史研究において広く共有されている大枠——自然の風景の類型を写すこと、石の性質に従うこと、方位と禁忌の体系をもつこと——のみを用いる。

以上の三点、すなわち風景の類型を写すこと、素材の求めに従うこと、庭が主の運命に関わることは、いずれも庭が特定の見る主体を前提にしていたことを示す。庭は誰のためのものでもない風景ではなく、この家の、この人のための風景であった。次節では、その前提が宗教的空間においてどのように徹底されたかを見る。

4. 浄土式庭園と枯山水——見る位置が定まる庭

平安時代の末から鎌倉時代にかけて、阿弥陀信仰の広まりとともに、池を隔てて仏堂を望む形式の庭が造られた。浄土式庭園と呼ばれるものである。京都府宇治の平等院では、藤原頼通が阿弥陀堂——後に鳳凰堂と呼ばれる建物——を営み、その前面に池が広がる。岩手県平泉の毛越寺には、池を中心とする広大な庭の遺構が伝わる。京都府木津川市の浄瑠璃寺では、池をはさんで九体の阿弥陀像を安置する堂と三重塔が向かい合う。いずれも、水を隔てて向こう岸を望むという構図を共有している。

4.1 池は何を隔てているか

浄土式庭園において、池は装飾でも実用の水源でもない。此岸と彼岸、すなわち現世と浄土を隔てる水として設けられている。参拝者は池のこちら側に立ち、水面越しに堂を拝む。堂の位置、池の広さ、岸の形は、この一点の体験のために調整されている。庭が景として完成するのは、堂を正面に見る岸辺に立ったときであり、それ以外の場所からの眺めは副次的である。ここでは、見るべき位置が信仰の構造そのものによって指定されている。

この形式の庭は、後の庭園に二つのものを残した。一つは、水面を隔てて何かを望むという構図である。もう一つは、庭に到達点があるという考え方である。庭のどこかに、そこから見ることが最も意味をもつ場所がある。その場所は宗教的な意味を失った後も、景の中心として設計され続けた。

4.2 枯山水——水のない水、入らない庭

室町時代以降、禅宗寺院の方丈——住持の居所にあたる建物——の前庭に、水を用いずに石と砂で山水を表す庭が造られるようになった。枯山水である。白砂に筋を掃いて水の流れを表し、立てた石で山や滝や島を表す。京都の龍安寺方丈庭園や大徳寺大仙院の書院庭園がよく知られる。これらの作庭の年代や作者については諸説があり、確定していない部分が大きい。

方丈の庭入らない座って見る
図4枯山水は視点の指定が最も徹底した庭である。室内の定まった位置から座って眺めることを前提とし、庭の内部に立ち入ることは想定されていない。

枯山水の特徴は、水を使わないことよりも、人が入らないことにある。庭は方丈の縁側から眺めるものであり、白砂の上を歩くことは想定されていない。見る位置は室内に固定され、視野は建物の柱と軒によって切り取られる。庭は事実上、開口部という額縁を通して見る一枚の構図として設計されている。日本庭園の系譜の中で、視点の指定がここまで徹底した形式は他にない。

この形式が可能だったのは、庭が寺院の内部にあり、そこに入る人が限られていたからである。誰でも入ってよい空間で、砂に掃いた筋を保つことはできない。枯山水の美しさは、立ち入りを制限する制度と、日々砂を掃き直す労力によって支えられている。維持の手間が意匠の一部になっているという点で、枯山水は公園の対極にある。公園において、毎朝掃き直さなければ成立しない意匠を採用することは、原則としてできない。

4.3 二つの形式に共通するもの

浄土式庭園と枯山水は、規模も時代も宗派も異なるが、庭を「使う場所」ではなく「見る場所」として設計している点で共通する。浄土式庭園では池のこちら側に立って向こう岸を拝み、枯山水では方丈に座って庭を眺める。いずれの場合も、身体は庭の外側に置かれる。庭の中に入って何かをすることは、庭の目的に含まれていない。

この「外から見る」構造は、庭を汚さず、傷めず、意匠を保つうえで合理的である。しかし公園に持ち込むと、たちまち矛盾が生じる。芝生に入らないでください、砂利に立ち入らないでください、という表示が増えるほど、公園は見る場所に近づき、使う場所から遠ざかる。子どもが遊ぶ場所としての公園を考えるとき、庭園史から学ぶべきなのは「外から見る」構造そのものではなく、その構造がどんな条件のもとで成り立っていたかである。条件とは、限られた人しか入らないこと、そして毎日手入れする人がいることであった。

次節では、庭に身体を入れることを前提とした形式、すなわち露地を検討する。ここで庭の設計対象は、視野の構図から時間の順序へと移る。

5. 露地と書院の庭——歩く順序が決まる庭

十六世紀、茶の湯の成立とともに、それまでの庭とは性格の異なる庭が現れた。露地である。露地とは茶室に至るまでの通路の庭を指し、千利休らによって作法とともに整えられた。ここで庭は、眺める対象であることをやめ、通り抜ける過程になる。客は門をくぐり、腰掛で待ち、中門を過ぎ、蹲踞で手と口を清め、茶室のにじり口から身を低くして席に入る。この一連の順序が庭の骨格であり、石や木はその順序を成り立たせるために配される。

5.1 飛石は歩き方を決める

露地の中心的な要素は飛石である。飛石は地面に点々と置かれた踏み石であり、客はその上をたどって歩く。飛石の間隔は歩幅を決め、大きさは足の置き方を決め、配列は歩く向きと立ち止まる位置を決める。石が離れていれば歩は慎重になり、視線は足元に落ちる。石がまとまって据えられていれば、そこで足を止めて周囲を見ることになる。つまり飛石は、歩く速度と視線の上下を制御する装置である。

江戸時代の茶書には、飛石の据え方をめぐって、渡ることを重んじる立場と景を重んじる立場が対比して伝えられている。渡りやすさを優先すれば石は近く大きくなり、景を優先すれば石は離れて不揃いになる。この対比が長く語り継がれてきたこと自体が、露地において歩きやすさが単なる機能ではなく、意匠上の選択肢だったことを示している。歩きにくさは、そこでは欠陥ではなく演出であった。

飛石蹲踞歩みの速度
図5露地は身体の順序を設計した庭である。飛石が歩幅と視線を決め、蹲踞での所作が席入りの前の切り替えを担う。歩きにくさは意図された演出であった。

5.2 所作の切り替えとしての庭

露地には、身体の状態を切り替える仕掛けが順に配置されている。腰掛で待つことは、来訪の勢いを鎮める。蹲踞で身をかがめて手と口を清めることは、日常の続きから茶席の時間への移行を身体で行う手続きである。にじり口をくぐるには、頭を下げ、身を縮めなければならない。これらは礼法であると同時に、空間による行動の指定である。江戸時代に成立した茶書『南方録』には、露地を俗塵を離れるための場として捉える記述が伝わる。庭は、外の世界の続きを断ち切るための装置とされた。

ここで注目したいのは、この指定が言葉によってではなく、物によって行われている点である。かがめと書いた札が立っているのではなく、かがまなければ水に手が届かない位置に手水鉢が据えられている。低い入口を通れば自然に頭が下がる。行動の誘導が空間の形に埋め込まれているという意味で、露地はきわめて洗練された環境設計である。

5.3 書院の庭——座る視点と歩く視点の併存

同じ時期、武家や寺院の書院に付属する庭も発達した。書院造の庭は、座敷から眺めることを前提とした構図をもちながら、庭内に園路や飛石を備え、歩いて回ることも可能な場合がある。京都の二条城二の丸庭園はその代表的な例として知られ、江戸初期の作事に小堀遠州が関わったと伝えられる。ここでは、座って見る庭という浄土式・枯山水以来の系譜と、歩いて巡る庭という露地以来の系譜が、一つの空間に同居している。

この同居は、次節で扱う回遊式大名庭園の直接の前提となる。座る視点と歩く視点をどう両立させるかという課題は、庭園設計の技術的な焦点となり、園路上の要所に見せ場を配置するという方法へと展開していく。

5.4 公園に置き直すと何が起きるか

露地の原理を公園に移すと、直ちに一つの逆転が生じる。庭において歩きにくさは演出であったが、公園において歩きにくさは障壁である。段差、不揃いの舗装、細く曲がった通路は、ベビーカーを押す人、車いすを使う人、足元の不安な高齢者にとって、体験の深まりではなく利用の妨げになる。露地が歩きにくさを許されたのは、そこを歩くのが招かれた客であり、歩けることが参加の条件として了解されていたからである。

したがって、公園の園路設計が露地から引き継げるのは、歩きにくさそのものではなく、順序によって体験が変わるという発想の部分だけである。出入口から遊具までのあいだに何が見えるか、どこで視界が開けるか、どこで立ち止まりたくなるか。これらは歩きやすさを損なわずに設計できる。歩行の困難によって速度を落とさせるのではなく、見えるものによって足を止めさせるという方向への読み替えが必要になる。

6. 回遊式大名庭園——歩かせる庭、もてなす庭

江戸時代、諸大名は江戸の屋敷と国元の城下に、それまでにない規模の庭を営んだ。池を中心に園路を巡らせ、歩くにつれて景が次々に展開する形式であり、回遊式庭園と呼ばれる。江戸の水戸徳川家の上屋敷に営まれた小石川後楽園、柳沢吉保が元禄期に造営した六義園、岡山藩主池田綱政が元禄期に造らせた岡山の後楽園、加賀前田家の兼六園、高松松平家の栗林公園、肥後細川家の水前寺成趣園などが、今日まで伝わる代表的な例である。

6.1 縮景——遠い名所を庭に呼び込む

回遊式庭園の大きな特徴は、各地の名所や中国の景勝を模した景を園内に配することである。和歌に詠まれた歌枕、東海道や近江の名所、あるいは中国の湖と堤といった題材が、池のかたちや橋や築山として写される。この手法は縮景と呼ばれ、『作庭記』以来の「風景の類型を写す」という考え方の、規模を拡大した延長にある。

縮景が成立するためには、見る者がその名所を知っている必要がある。歌枕を写した景は、その和歌を知る者にとってのみ景として働く。大名庭園は、和歌と漢籍と旅の知識を共有する階層のあいだで意味をもつ空間であった。庭の意味の共有範囲は、そのまま招かれる客の範囲であり、庭の内側にいる資格の範囲でもある。庭が閉じているのは、塀があるからだけではなく、そこで読み取られる意味が閉じているからでもあった。

縮景園内の茶屋饗応の場
図6回遊式大名庭園は遠くの名所を園内に写し、園路の要所に茶屋を置いて客をもてなした。歩かせる庭であると同時に、政治的な饗応の装置でもあった。

6.2 饗宴の装置としての庭

大名庭園を鑑賞のための施設としてのみ理解すると、その規模の説明がつかない。白幡洋三郎は、大名庭園を饗宴の場として捉える見方を提示している。将軍の御成を迎え、他家の当主を招き、藩の威信を示す。園路を案内して歩き、要所の茶屋で休み、料理を供し、季節の景を見せる。この一連の過程が接待であり、庭はその舞台装置であった。園内に舟を浮かべる池、田を作った一角、狩りのできる林があるのは、もてなしの演目を増やすためでもある。

この理解に立つと、回遊式庭園の園路が果たしていた役割が明確になる。園路は移動のための通路であると同時に、もてなしの時間を配分する仕組みである。どこで何分歩き、どこで立ち止まり、どこで座って何を見るか。順序と所要時間が設計されている。露地が一人ないし数人の客に対して行っていた身体の順序の設計を、大名庭園は数十人規模の饗宴に対して、はるかに大きなスケールで行った。

6.3 開かれた庭という例外——偕楽園

大名庭園のほとんどは閉じていたが、注目すべき例外がある。水戸藩主徳川斉昭が天保期に開いた偕楽園は、その名が示すとおり、藩主が民と偕に楽しむという趣旨を掲げ、日を限って領民に開放されたと伝えられる。この事実は二つの意味で重要である。第一に、江戸時代の日本において、庭を広く開くという発想が存在したこと。第二に、それが藩主の意思による恩恵として行われたのであって、人々の権利として行われたのではないことである。

開放の主体が施す側にある限り、それは公共の空間ではなく、開かれた私的空間にとどまる。開放は取り消すことができ、条件を付けることができ、対象を選ぶことができる。近代の公園制度が持ち込んだのは、開放を施しではなく制度にするという転換であった。この転換の意味は、偕楽園のような先例があったからこそ、かえって鮮明になる。

6.4 維持する人がいるということ

回遊式庭園を語るとき見落とされやすいのが、維持の体制である。これだけの規模の庭は、常駐する庭方——庭を手入れする専門の職人——なしには一年ももたない。松の手入れ、池の水管理、園路の清掃、季節ごとの植え替え。藩の財政がこれを支えていた。庭の質は、藩の余力の表現でもあった。

明治以降、この維持の体制が崩れることが、大名庭園の運命を大きく左右する。庭そのものは残っても、それを支える財源と人員が失われれば、庭は荒れる。次節で見る公共化の過程は、庭の所有権が移るだけの話ではなく、維持の負担が誰に移るかという話でもあった。そしてこの問いは、今日の公園管理にそのまま引き継がれている。

7. 庭が公園になるとき——公共化の四つの経路

明治維新は庭園にとって断絶であった。版籍奉還と廃藩置県により、大名家は江戸の屋敷を失った。広大な屋敷地は官庁用地、軍用地、鉄道用地、あるいは宅地として転用され、そこにあった庭の多くは埋められ、削られ、消えた。今日われわれが大名庭園として見ることのできる庭は、江戸にあった庭のごく一部にすぎない。庭園史の側から近代を見るとき、最初に確認すべきなのは、公共化された庭よりも公共化されずに失われた庭のほうがはるかに多かったという事実である。

7.1 第一の経路——官有化と転用、そして消滅

所有者を失った庭が最も多くたどったのは、公園になる道ではなく、別の用途に転用される道であった。庭は都市の一等地にあり、平坦に均せば大きな敷地が得られる。池は埋めれば土地になる。近代の都市が施設用地を必要としたとき、庭園は最も転用しやすい在庫であった。ここには、庭が私的な所有物であったことの帰結が現れている。所有者がいなくなれば、庭を守る根拠もなくなる。庭の価値を公共の側から主張する仕組みは、まだ存在していなかった。

7.2 第二の経路——公園制度への編入

明治6年、太政官布達第16号が出され、人々が群れ集まって遊観する場所を公園とする方針が示された。これが日本の公園制度の端緒である。ただし、この布達によって公園とされたものの多くは、社寺の境内や従来からの名所であり、大名庭園そのものではなかった。すでに人が集まっていた場所を追認するという性格が強く、私的な庭を開くという発想とは異なる。庭園が公園制度に編入されるのは、これより後の、個別の事情による場合が多い。

地方では、藩の庭が県などに引き継がれ、明治期に一般の観覧に供された例がいくつかある。金沢の兼六園、岡山の後楽園、高松の栗林公園などが知られる。江戸の庭のうち一部は皇室の御料地となり、後に東京市へ下賜または寄贈されて公開された。六義園や清澄庭園のように、明治以降に実業家の手に渡り、その後に東京市へ寄贈されて公開に至った庭もある。経路は一様ではないが、共通しているのは、庭が公開されるまでに所有者の変更を一度ならず経ていることである。

開園と閉園時間の制限立入の制限
図7庭園が公開されるとき、開園時間と立入制限と、多くの場合は入園料が伴った。門は開かれたが、いつでも誰でもという条件までは開かれなかった。

7.3 第三の経路——文化財としての保存

大正8年、史蹟名勝天然紀念物保存法が制定され、優れた庭園は名勝として指定される道が開かれた。この制度は昭和25年の文化財保護法に引き継がれる。名勝指定は庭園にとって強力な保護となった。指定を受けた庭は、現状を変更するのに手続きが必要になり、開発による消滅から守られる。多くの大名庭園が今日まで残ったのは、この制度の力による部分が大きい。

しかし保存という論理は、利用という論理と必ずしも一致しない。保存の目的は、庭を造られた当時の姿に近い状態で次の世代に引き渡すことである。そのためには、人の立ち入りを制御し、植栽を管理し、変更を抑制しなければならない。芝生に寝転ぶこと、ボールを使うこと、遊具を置くことは、保存の論理からは基本的に認めがたい。名勝として守られた庭は、守られた分だけ、使う場所からは遠ざかった。

時期できごと庭園にとっての意味
明治初年廃藩置県・屋敷地の官有化と転用所有者の消滅。多くの庭が埋め立て・転用で失われた
明治6年太政官布達第16号(公園制度の端緒)公園が制度として登場。ただし対象は主に社寺境内と名所
明治期藩の庭の県への引継ぎと一般公開庭が観覧の対象に。入園の管理と料金の発想が生まれる
大正8年史蹟名勝天然紀念物保存法庭園が保存の対象に。現状変更に手続きが必要となる
昭和25年文化財保護法名勝としての保護が確立。保存の論理が管理を規定する
昭和31年都市公園法公園が住民の利用のための施設として制度化される

7.4 第四の経路——二つの制度の重なり

昭和31年の都市公園法により、公園は住民の利用に供される施設として法的な位置づけを得た。ここで日本の緑地空間は、二つの制度に分かれることになる。保存を目的とする文化財の制度と、利用を目的とする都市公園の制度である。一つの庭園が両方の適用を受けることもあり、その場合、日常の管理では保存の要請が優先されやすい。

この二本立ての構造は、今日も続いている。名勝に指定された庭園を訪れれば、入園料を払い、開園時間の内に入り、園路を外れず、決められた場所で立ち止まる。街区公園を訪れれば、料金はなく、時間の制限も原則としてなく、どこを歩いてもよく、芝生に座ってよい。同じ「緑のある屋外空間」でありながら、体験は根本的に異なる。庭園は公開されたが、公共の場になったわけではない——これが本稿の見立てである。次節では、この差がどのような水準で生じているのかを整理する。

8. ずれの構造——鑑賞する庭と使う公園

前節までの検討をもとに、庭園の設計思想を公園に移すときに生じるずれを、四つの水準に整理する。視点、順路、時間、所有である。これらは互いに絡み合っているが、分けて論じることで、どこまでが移せてどこからが移せないのかが見えてくる。

視点順路時間所有
図8庭園の作法を公園に移すときに生じるずれは四つの水準にまとめられる。視点・順路・時間・所有のそれぞれで、前提が反転する。

8.1 視点のずれ——見るための眺望から、見られるための見通しへ

庭園は特権的な視点を設計する。方丈の縁、堂に向かう岸辺、園路の要所。そこに立ったときに景が完成するように、石も木も水も配される。公園にはこの前提がない。人は好きな場所から入り、好きな方向を向く。ベンチの向きや遊具の配置がある程度の傾向をつくることはあっても、視点を指定することはできない。

重要なのは、公園において視野の問題がなくなるわけではなく、性質が変わるという点である。公園で問われるのは、そこから何が美しく見えるかではなく、そこにいる人が外から見えるか、保護者から子どもが見えるか、である。庭の眺望は見るための設計であり、公園の見通しは見られるための設計である。同じく視線を扱いながら、目的が反転している。植栽の高さ、低木の刈り込み、死角の処理といった技術は共通するが、良し悪しの基準は入れ替わる。庭で好ましいとされる、視線を遮って奥を隠す手法は、公園では慎重な扱いを要する。

8.2 順路のずれ——順序の設計から、多目的性の確保へ

露地と回遊式庭園は、歩く順序を設計することで体験の質を高めた。公園ではこれができない。出入口が複数あり、通り抜けに使う人がおり、目的地が人ごとに違うからである。しかしこれは公園の欠陥ではない。順路が定まっていないことは、同じ空間を異なる人が異なる目的で同時に使えるという性質の裏返しである。朝は通勤の近道、昼は乳幼児と保護者、夕方は小学生、夜は帰宅路。順路の不在は多目的性の条件である。

とはいえ、公園に順序がまったくないわけではない。出入口から遊具までのあいだに何があるか、ベンチから砂場が見えるか、水道とトイレがどの位置にあるか。これらは実際の動きの順序を強く左右する。庭園から公園が引き継げるのは、順序を強制する技術ではなく、順序を意識して要素を配置するという態度である。

8.3 時間のずれ——一度の体験と、千回の反復

庭園は、多くの場合、特別な時間に訪れる場所である。饗宴の日、茶事の日、花の見頃、あるいは旅程の一日。設計はその一度の体験の質を最大化するように行われる。だから多少の歩きにくさも、手入れの手間も許容される。公園はこれと正反対である。生活圏の公園は、同じ人が何百回も訪れる場所である。設計に求められるのは、一度の感動ではなく、反復に耐えることである。

この違いは、評価の軸を大きく変える。反復に耐えるとは、飽きにくいこと、天候が変わっても使えること、季節ごとに違う顔があること、そして壊れにくく直しやすいことである。庭園の設計思想のうち、季節の移ろいを景に組み込むという部分は、この要求とよく合う。一方、一回性を高めるための演出——歩きにくい飛石、掃き直しを要する白砂、限られた視点からのみ成立する構図——は、反復の場には向かない。庭園から何を引き継ぐかを選ぶとき、この時間の軸が有効な篩になる。

8.4 所有のずれ——集中した負担と、分散した負担

庭園の質は、集中した負担によって支えられていた。大名家の財政と常駐する庭方、寺院の修行の一部としての作務。負担する主体がはっきりしており、その主体が質の水準を決めていた。公園の負担は分散している。自治体の予算、地域の愛護活動、利用者一人ひとりの持ち帰りやすさ。誰も全体に責任を負わないかわりに、誰も排除されない。

この分散は、公園の意匠が庭園ほど繊細になれない理由でもある。繊細な意匠は繊細な手入れを要求し、繊細な手入れは集中した負担を要求する。公園に求められるのは、手入れが行き届かない時期があっても崩れない設計である。これは質を下げるという意味ではなく、質の種類が違うということである。庭園の質が到達点の高さで測られるとすれば、公園の質は下限の安定で測られる。

鑑賞する庭使う公園
視点特権的な視点を設計する(見るため)見通しを確保する(見られるため)
順路順序を設計し、時間を配分する順路を定めず、多目的な同時利用を許す
時間特別な一度の体験の質を最大化する日常の反復に耐えることを求められる
所有所有者が集中して負担し、水準を決める税と地域に分散し、下限の安定が問われる
入る資格所有者と招かれた客に限られる原則として制限しない

この表を一言でまとめれば、庭園は到達点を設計する空間であり、公園は下限を設計する空間である、ということになる。庭園史を公園に生かそうとするとき、この違いを踏まえずに意匠だけを移すと、手入れの続かない造形と、使ってはいけない場所ばかりが増えることになりかねない。

9. 反論への応答

前節までの議論には、いくつかの当然の反論が予想される。ここで五つを取り上げ、応答することで、本稿の主張の範囲を明確にしておきたい。

9.1 「庭園と公園を切り離しすぎではないか」

第一の反論は、日本の公園には庭園の技術が実際に使われているのだから、断絶を強調するのは誇張だ、というものである。この指摘は正しい。築山を築き、流れをつくり、石を据え、季節の木を配するといった手法は、近代以降の公園設計にも受け継がれている。本稿が断絶しているというのは、技術ではなく前提のほうである。誰が入るか、どこから見るか、どの順に歩くか、誰が負担するか。これらの前提が変われば、同じ技術が違う意味をもつ。築山は庭では景の骨格だが、公園では子どもが駆け上がる遊び場になる。技術の連続と前提の断絶は両立する。

9.2 「庭園も実は開かれていたのではないか」

第二の反論は、寺社の庭は参詣者が見ることができたし、境内は縁日や開帳でにぎわっていたのだから、庭は閉じていたという前提が事実に反する、というものである。これも部分的には正しい。江戸の社寺境内が事実上の遊観の場として機能していたことは、公園制度の成立にとって決定的に重要であり、明治6年の布達がそれを追認する形をとったこともすでに述べた。

ただし、境内が開かれていたことと、庭の内部が開かれていたことは同じではない。参詣は時と作法を伴う訪問であり、そこで許されるのは決められた道を通ることと、決められた場所から拝み、眺めることである。方丈の庭に足を踏み入れてよいことにはならない。開かれた境内の中に閉じた庭がある、という入れ子の構造こそが、日本の緑地空間の特徴であった。

反論応答範囲の限定
図9本稿は庭園への復古も、庭園と公園の無関係も主張しない。技術は連続し、前提は断絶するという二重の理解が、議論の範囲を定める。

9.3 「公園にも視点と順路の設計はある」

第三の反論は、公園の設計者も見え方や動線を意図しているのだから、視点と順路が設計されないというのは言い過ぎだ、というものである。ここでは意図と強制を区別する必要がある。設計者が動線を想定することと、その動線を利用者に守らせることは別のことである。庭では、招かれた客が主の意図に従って動くことが作法として成立していた。公園では、利用者に順序を守らせようとすれば、それは表示と規制の問題になる。

誘導と強制の境目は、公園の設計における実務的な論点でもある。花壇の縁石で歩く場所を示すのは誘導であり、柵で立入を禁じるのは強制である。前者は選択の余地を残し、後者は残さない。庭園の設計技術のうち、公園に移しやすいのは前者、すなわち物の配置によってそれとなく促す部分である。露地の飛石が言葉を使わずに歩き方を伝えたように、公園でも、ベンチの向きや園路の幅や木陰の位置が、規則を増やさずに使い方を伝えることができる。

9.4 「公園でも庭の作法を守らせるべきではないか」

第四の反論は、子どもに静かに見る作法や、植物を傷めない態度を教えるためにこそ、庭園の規範を公園に持ち込むべきだ、というものである。植物や生きものへの接し方を伝えることの意義は否定しない。しかし、それを公園の基本的な性格として据えることには慎重でありたい。生活圏の公園は、体を動かし、声を出し、汚れて帰るための場所でもある。そこに鑑賞の作法を全面的に適用すれば、子どもは自分がその場所の主な想定利用者ではないと感じることになる。

むしろ有益なのは、場所ごとに作法が違うと伝えることである。名勝の庭では園路を外れず静かに歩く。街区公園では走ってよいが、ごみは持ち帰り、花壇には入らない。この使い分けを学ぶことは、公共の空間で振る舞う力そのものである。庭園史は、作法が空間の性格に由来することを示してくれる点で、この学びの教材になりうる。

9.5 「懐古趣味ではないか」

第五の反論は、庭園史を持ち出すこと自体が過去の理想化ではないか、というものである。本稿の立場は逆である。歴史をたどるのは、失われたものを取り戻すためではなく、何が失われてよかったのかを見極めるためである。入る資格の限定、見る位置の指定、歩く順序の強制。これらは庭の美を成り立たせていた条件であると同時に、限られた人だけがその美に触れられるという条件でもあった。近代の公園がそれらを解除したのは、後退ではなく前進である。その前進の代償として何が難しくなったのかを正確に知ることが、これからの公園を考える出発点になる。

10. 磐田市の公園への示唆

本節では、これまでの議論を磐田市の公園に照らす。当サイトが収録する磐田市の公園は100園で、その内訳は街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、法の対象外とされるもの6園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園である。地区別では豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園となっている。

10.1 磐田の公園はほぼすべてが「使う公園」の系譜にある

まず確認すべきは、この100園の中に、名勝として保存される庭園がそのまま公園になったという類型が見当たらないことである。種別の一覧に庭園という区分はなく、入園料と開園時間を伴って公開される鑑賞のための庭も見当たらない。つまり磐田市の公園は、第7節で述べた二本立ての構造のうち、保存の系譜ではなく利用の系譜のほうに、ほぼ全体が属している。

この事実は、磐田市の公園を考えるうえで前提として押さえておく価値がある。庭園史から何かを学ぶとしても、それは大名庭園を維持する話ではなく、庭の技法のどの部分が、無料で開かれ、順路がなく、日常的に反復して使われる空間に移せるかという話になる。第8節の四つの軸でいえば、視点・順路・時間・所有のいずれにおいても、磐田市の公園は公園の側の条件に立っている。

10.2 庭の語彙は断片として残っている

とはいえ、市の施設ガイドの記載を読むと、庭園に由来する要素の名がいくつも現れる。築山は竜洋川袋公園と福田ふるさと公園の記載に見える。流れは安久路公園と今之浦公園の記載にあり、今之浦公園には噴水広場とじゃぶじゃぶスポットの記載もある。豊田香りの公園にはカスケード(滝)の記載があり、五月から十月までの日中に稼働するとされる。豊田熊野記念公園には熊野の長藤の記載がある。

築山流れ花木
図10庭園の語彙は磐田市の公園にも断片として残る。ただし築山は景の骨格ではなく遊びの起伏として、流れは眺めではなく水にふれる場として働いている。

注目すべきは、これらの要素の役割が庭園とは反転していることである。庭における築山は、景に奥行きを与え、視線を導くための地形であった。竜洋川袋公園の記載では、築山はジャンボ滑り台と並記されており、登り、滑るための起伏として機能していると読める。庭における流れは、遣水の伝統に連なる眺めの要素であったが、今之浦公園のじゃぶじゃぶスポットの記載が示すのは、水に入って遊ぶ場である。同じ語が、見るための要素から、使うための要素へと意味を変えている。庭園の技法は移されたが、その目的は移されなかった。

10.3 保存と利用が一つの園に同居する例

第7節で述べた保存の論理と利用の論理の二本立ては、磐田市では別の形で現れる。中泉の遠江国分寺史跡公園は種別が歴史公園で、面積は21,600平方メートル、市の施設ガイドには園内施設の記載がない。一方、中泉の京見塚公園は街区公園でありながら、施設ガイドの園内施設に京見塚古墳とブランコ・鉄棒・砂場・トイレが並記されている。見付の一ノ谷公園も街区公園で、一ノ谷遺跡と滑り台・砂場・トイレが並記されている。

つまり磐田市では、保存すべき対象と日常の遊び場が、一つの園の中に並んで存在している例がある。これは名勝庭園における保存優先の管理とは異なる形の共存である。ここで問題になるのは、庭園の場合と同じく、どこまでが入ってよい場所で、どこからが触れずにおく場所かという線引きが、利用者に伝わっているかどうかである。柵と表示によって強制するのか、地形や植栽の配置によってそれとなく示すのか。第9節で述べた誘導と強制の区別が、具体的な設計課題としてここに現れる。

10.4 小さな公園と、小さな庭の技法

磐田市の公園には、都市緑地や広場公園として、きわめて小さなものが含まれる。中泉の二之宮東第2緑地は17平方メートル、豊田上新屋ポケットパークは156平方メートル、豊田第1緑地は254平方メートル、豊田森下ポケットパークは286平方メートルである。街区公園でも、見付の見付本通広場公園は372平方メートル、只来下公園は458平方メートルと小さい。

面積だけを見れば、これらは枯山水の方丈庭園や露地とそれほど変わらない規模である。庭園史が蓄積してきたのは、まさにこの規模で空間を成立させる技法であった。限られた面積で奥行きを感じさせること、視線の抜ける方向をつくること、周囲の樹木や建物を景に取り込むこと。ただし、庭の技法をそのまま持ち込めるわけではないことは、これまで論じてきたとおりである。小さな公園に必要なのは、座って眺めるための構図であるより先に、日陰があること、腰かける場所があること、外から中が見えることである。

10.5 踏査で確かめたいこと

当サイトの現地踏査は始まったばかりで、2026年8月時点で踏査済の園はない。本節の記述はすべて、磐田市のオープンデータと市の施設ガイドの記載にもとづく机上の整理である。庭園史の観点から、今後の踏査で確かめたい点を挙げておく。

  • 築山の記載がある園で、その起伏が景として働いているのか、遊びの起伏として働いているのか、両方なのか。
  • 流れやカスケードの記載がある園で、水辺に近づける範囲がどのように示されているか(柵によるのか、地形によるのか)。
  • 古墳や遺跡と遊具が同居する園で、保存の範囲と遊びの範囲の境目が、利用者にどう伝わっているか。
  • 小さな緑地やポケットパークで、周囲の樹木や街並みが景として取り込まれているか、それとも背を向けているか。
  • 園路の分岐や出入口の位置が、実際にどの順序の移動を生んでいるか。

註:本節の園名・面積・種別・地区の数値は、磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドの記載にもとづく。市の施設ガイドに個別ページがあるのは77園で、記載のない園については園内施設の情報が得られない。園の管理に関する問い合わせ先は磐田市 都市整備課(電話 0538-37-4806)である。

11. 結論と今後の課題

本稿は、『作庭記』から回遊式大名庭園までの日本庭園の系譜をたどり、それらの庭が見る位置・歩く順序・入る資格の三つを限定することで成り立っていたことを確認したうえで、明治以降に庭が公開される過程で何が引き継がれ、何が引き継がれなかったのかを検討した。

11.1 三つの問いへの答え

第一の問い——日本庭園はどのような空間として設計されてきたか——に対する答えは、限定によって質を高める空間である、というものである。『作庭記』は風景の類型を写し、石の求めに従うことを説き、方位と禁忌の体系によって庭を主の生活に結びつけた。浄土式庭園と枯山水は、見る位置を礼拝と座の構造によって指定し、庭の内部に立ち入らないことを前提とした。露地は歩く順序と所作を物の配置によって指定し、回遊式大名庭園はその原理を饗宴の規模へ拡大した。いずれも、誰がどう振る舞うかがあらかじめ定まっているという条件のもとで成立している。

第二の問い——公共化のとき何が起きたか——に対する答えは、技術は引き継がれ、前提は引き継がれなかった、というものである。明治初年に多くの庭が転用によって失われ、残った庭のうち一部が公開され、大正から昭和にかけて名勝として保存される道が用意された。保存の制度は庭を守ったが、守ることによって使う場所からは遠ざけた。一方、昭和31年の都市公園法が定めた公園は、無料で、時間の制限なく、順路もなく開かれた空間である。庭園は公開されたが、公共の場になったわけではない。

庭園の系譜四つの水準踏査の課題
図11本稿の要約。庭園の系譜を視点・順路・時間・所有の四水準で公園と比較し、磐田市の公園については今後の踏査課題として具体化した。

第三の問い——その経験は今日の公園に何を教えるか——に対する答えは、庭園から移せるのは到達点を高める技術ではなく、下限を安定させる態度である、というものである。素材と場所の性質を読み取ること、季節の移ろいを空間に組み込むこと、規則ではなく物の配置によって振る舞いを促すこと。これらは手入れの水準が変動しても働き続ける。逆に、限られた視点からのみ成立する構図や、日々の手入れを前提とする意匠は、生活圏の公園には向かない。

11.2 本稿の限界

本稿には三つの限界がある。第一に、文献整理と概念分析にとどまり、個々の庭園の実測や現地の観察にもとづいていない。作庭書の解釈には写本による異同や研究上の議論があり、本稿は広く共有されている大枠のみを用いた。第二に、庭園の年代や作者について確定していない事項が少なくないため、具体例の記述を意図的に抑えた。第三に、磐田市の公園についての記述は、オープンデータと市の施設ガイドの記載にもとづく机上の整理であり、当サイトの現地踏査は2026年8月時点で始まっていない。園路の実際の構成、樹木の高さと視線の関係、水辺への近づき方については、確かめられていない。

11.3 今後の課題

今後の課題を三つ挙げる。第一に、磐田市の公園100園について踏査を進め、第10節に挙げた確認事項——築山の働き、水辺の示し方、保存と遊びの境目、小さな緑地の景の取り込み、園路と出入口が生む順序——を園ごとに記録することである。庭園史の枠組みは、踏査の観察項目を組み立てる道具として使える。

第二に、誘導と強制の区別を、具体的な設計要素の水準で整理することである。柵と表示に頼らずに、地形と植栽とベンチの向きによって使い方を伝える方法は、露地の飛石が言葉を使わずに歩き方を伝えた技術と地続きである。この対応関係を、実際の公園の要素に即して検討したい。

第三に、庭園の系譜と公園の系譜が別々に走っているという本稿の見立てを、他の地域と比較して検証することである。名勝庭園を市街地に抱える都市では、保存の論理と利用の論理がより直接に衝突しているはずであり、その調整の実例は、磐田市のように保存の系譜をほとんど持たない都市にとっても参考になる。庭園史は過去の様式の分類にとどまらず、公共の空間をどう設計し、どう分かち合うかという問いに、長い時間の目盛りを与えてくれる学問である。

参考文献

  1. 『作庭記』(平安時代後期の作庭書。橘俊綱に帰される。写本により『前栽秘抄』の名でも伝わる)
  2. 『山水並野形図』(室町時代に成立したと考えられる作庭書)
  3. 北村援琴『築山庭造伝』(江戸中期)および籬島軒秋里『築山庭造伝後編』(江戸後期)
  4. 『南方録』(江戸時代に成立した茶書。南坊宗啓に帰されるが成立事情に議論がある)
  5. 重森三玲(1936-1939)『日本庭園史図鑑』(有光社)
  6. 重森三玲・重森完途『日本庭園史大系』(社会思想社)
  7. 森蘊(1986)『「作庭記」の世界——平安朝の庭園美』(日本放送出版協会)
  8. 白幡洋三郎(1997)『大名庭園——江戸の饗宴』(講談社選書メチエ)
  9. 進士五十八(2005)『日本の庭園——造景の技とこころ』(中公新書)
  10. 小野良平(2003)『公園の誕生』(吉川弘文館)
  11. 太政官布達第16号(明治6年1月15日)——公園制度の端緒となった布達
  12. 史蹟名勝天然紀念物保存法(大正8年法律第44号)/文化財保護法(昭和25年法律第214号)
  13. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  14. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  15. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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