芸術・文化・メディア映画論
スクリーンのなかの公園——ロケーションとしての公共空間
要旨
本稿の目的は、映画研究における空間の扱い方——ロケーションとセットの選択、モンタージュによる空間の構成、リアリズムおよびネオレアリズモが街頭を撮ってきた系譜——を整理し、それを手がかりに、映画がなぜ公園をしばしば出会いと別れ、告白と決別の場として用いるのかを分析することである。方法は文献研究であり、個別作品の詳細な粗筋紹介や長い引用は行わず、監督名・題名・公開年という書誌的事実と、公園という場所が果たす機能の要約に議論を限定する。
本論はまず、映画理論の古典——アンドレ・バザンの写真的リアリズム論、ジークフリート・クラカウアーの物理的現実の贖いという概念、セルゲイ・エイゼンシュテインのモンタージュ論、ミシェル・フーコーのヘテロトピア論——を整理し、公園という実在の場所を撮ることと、断片的なショットを編集によって一つの空間へつなぐことの、それぞれの意味を検討する。
次に、私的な会話が公共の場所で行われるという設定が生む緊張と、ベンチという小道具が座ること・待つこと・見送ることを可能にする装置である点を論じる。さらに黒澤明『生きる』や本多猪四郎『ゴジラ』を手がかりに、日本映画が焼け跡・原っぱから公園へと移り変わる戦後の風景をどう描いてきたかを跡づけ、公園が選ばれる理由を経済性のみに還元する反論にも応答する。
以上から導かれるのは、公園が映画において特権的な語彙——誰のものでもなく、見られながら話す緊張と、立ち去りやすさを併せ持つ場所——として機能してきたという見立てである。最後に、磐田市の都市公園100園を「撮る場所」という視点から捉え直し、当サイトの今後の踏査で確かめるべき論点を示す。
キーワード映画論ロケーションモンタージュ公共空間ベンチネオレアリズモヘテロトピア
1. はじめに——問題の所在
映画のなかで人物が公園を訪れる場面は数えきれないほどある。恋人たちが初めて言葉を交わす場所として、友人と別れを告げる場所として、あるいは人生の終わりに近づいた者が最後の時間を過ごす場所として、公園はくり返しスクリーンに現れる。この反復は偶然ではないはずだが、映画研究において公園という場所そのものが正面から論じられることは多くない。本稿の目的は、映画理論が空間をどう扱ってきたかを整理し、それを手がかりに、映画がなぜ公園を出会いと別れ、告白と決別の場として選び続けるのかを分析することである。
手がかりとするのは三つの理論的な系譜である。第一に、実在の場所(ロケーション)で撮ることと、撮影所内に作られた場所(セット)で撮ることの違いを論じるリアリズム論。第二に、複数の断片的なショットを編集によってつなぎ、一つのまとまった空間として観客に提示するモンタージュ論。第三に、公園という場所が日常の制度や役割から人を一時的に解き放つ、特別な種類の場所であるという空間論である。これらを順に検討することで、公園という場所が映画にとって持つ機能を明らかにしたい。
1.1 三つの問い
本稿の問いは三つである。第一に、映画において公園の場面はなぜ実在の場所で撮られることが多いのか、あるいは撮影所のセットで再現される場合には何が変わるのか。第二に、複数のショットをつなぐ編集は、断片的な映像からどのようにして一つの「公園」という空間をつくり出すのか。第三に、告白や別れ話、秘密の相談といった私的な会話が、なぜしばしば公共の場所である公園で行われるのか、そこでベンチという設備は何を可能にしているのか。この三つの問いに沿って議論を進める。
1.2 用語について
本稿で用いる主要な用語をあらかじめ整理しておく。「ロケーション」とは、撮影所の外にある実在の場所で撮影を行うこと、またはその場所自体を指す。「セット」とは、撮影所の内外を問わず、物語のために人工的に作られた撮影用の空間を指す。「モンタージュ」とは、個々のショット(一続きに撮影された映像の単位)を編集によってつなぎ合わせ、単独のショットにはない意味や空間を作り出す手法を指す。これらはいずれも映画研究の基本的な語彙であるが、公園という具体的な場所に即して用いられることは少なく、本稿ではこの結びつきを試みる。
1.3 方法と対象としない事柄
方法は文献研究である。映画理論の古典と、公園が印象的に用いられていることが広く知られている作品を参照するが、個別作品の詳細な粗筋紹介や長い引用は行わない。作品について述べるのは、監督名・題名・公開年という書誌的な事実と、その作品において公園という場所がどのような機能を果たしているかという要約に限る。作品の興行成績や個々の評価、監督の伝記的な事情には立ち入らず、存在に確信のもてない研究や統計も用いない。
なお、公園という場所を学問的に論じる試みは、映画論に限らず、社会学や哲学、造園学など複数の分野からなされている。本稿はそのなかで映画論という一つの視点を提供するものであり、公園という対象を独占的に説明しようとするものではない。他の分野からの検討との異同については、本稿の範囲を超えるため深入りしないが、読者が関心に応じて他分野の議論とあわせて読むことを想定している。
1.4 本稿の構成
第2節では映画理論における空間論の系譜を整理する。第3節はロケーションとセットの選択、第4節はモンタージュによる空間の構成、第5節は公共の場所で私的な会話をするという設定が生む緊張、第6節はベンチという小道具、第7節は日本映画における広場と原っぱの系譜を扱う。第8節では公園が選ばれる理由を経済性に還元する反論に応答し、他の公共空間との比較を加える。第9節で磐田市の都市公園100園に照らして示唆を述べ、第10節で結論と今後の課題を示す。
1.5 本稿の位置づけ
本稿は、磐田市の都市公園100園を収録するATAWI PARKが公開する「公園学術論文」という一連の論考のうちの一本であり、映画論という一つの学問領域から公園という対象に接近する試みである。同じ対象を社会学、哲学、美学、デザイン史といった異なる領域から論じた論考が別に用意されており、本稿はそれらと並べて読まれることを想定している。したがって本稿は、公園という場所を映画論の観点だけで説明し尽くそうとするものではなく、複数の視点のうちの一つを提供するものとして位置づけられる。
2. 先行研究と概念の整理——映画理論における空間
映画理論において「空間」は、物語の背景ではなく、それ自体が論じるに値する対象として扱われてきた。本節では、後の議論で用いる四つの概念——写真的リアリズム、物理的現実の贖い、モンタージュ、ヘテロトピア(他なる空間)——を、それぞれの提唱者に沿って整理する。これらは分野も年代も異なる議論だが、いずれも「映画に映る場所は、単なる背景ではなく、それ自体が意味を持つ」という前提を共有している。
2.1 写真的リアリズムと物理的現実の贖い
アンドレ・バザンは、映画とは何かという一連の論考のなかで、写真および映画が現実をそのまま写し取る能力を持つことを重視し、編集による意味の操作よりも、実在するものをフレームのなかにそのまま捉えることに独自の価値を見出した。ジークフリート・クラカウアーもまた、映画の理論という著作において、映画は物理的な現実を「贖う」——つまり、日常の中で見過ごされている物や場所の存在をあらためて浮かび上がらせる——芸術であると論じた。この二人の議論に従えば、実在する公園を撮ることは、単に手近な背景を借りることではなく、その場所が持つ物理的な現実そのものを画面に取り込む行為として理解できる。
2.2 モンタージュという空間構成の技法
対照的な立場を代表するのがセルゲイ・エイゼンシュテインである。エイゼンシュテインは、個々のショットの内容よりも、ショットとショットを衝突させ、つなぎ合わせる編集(モンタージュ)こそが映画に固有の表現を生むと論じた。この立場に立てば、画面に映る「公園」は、一つの実在する場所をそのまま写したものというより、複数の断片的なショット——遠景、ベンチに座る人物の顔、足元、木の葉——を編集によって結びつけることで観客の頭の中に組み立てられる空間だということになる。アーウィン・パノフスキーもまた、映画に固有の性質として、静止した対象を動的に扱う編集の力を早くから指摘していた。
2.3 ヘテロトピアと空間の生産
ミシェル・フーコーは、社会のなかに存在しながら、日常の場所とは異なる規則で機能する場所を「ヘテロトピア(他なる空間)」と呼んだ。墓地や劇場、庭園などがその例として挙げられる。公園もまた、家庭や職場のような制度的な役割を持たず、誰のものでもないという意味で、この概念に近い性格を持つ場所だと考えられる。アンリ・ルフェーヴルは、空間の生産という著作のなかで、空間とは最初からそこにある物理的な地面ではなく、社会的な実践によって絶えず作り直されていくものだと論じた。映画のなかの公園を論じることは、この「空間は作られる」という見方を、スクリーンという特殊な条件のもとで検討することでもある。
2.4 物語空間という考え方
スティーヴン・ヒースは、物語空間という論考のなかで、古典的な劇映画における空間は、現実の地理をそのまま写したものではなく、登場人物の視線や動きを軸に、観客が物語を追いやすいように組み立てられた空間であると論じた。この考え方に従えば、映画に映る公園の広さや配置は、実際の公園の測量図とは独立に、その場面で誰が誰を見て、誰がどこへ向かって歩くのかという物語上の要請にあわせて選び取られ、時には強調されたり省略されたりする。本稿が後の節で「公園というロケーション」を論じる際にも、そこに映る空間が実際の地理をそのまま伝えるものではなく、物語のために選び取られた空間であるという前提を踏まえておく必要がある。
2.5 空間と場所という区別
地理学者のイーフー・トゥアンは、空間の経験という著作のなかで、抽象的で漠然とした広がりを指す「空間」と、そこに人が経験や愛着を積み重ねることで意味を帯びた「場所」とを区別した。この区別を映画に当てはめれば、ロケーション撮影された公園は、撮影が始まる前は単なる「空間」にすぎないが、そこで登場人物が出会い、語り合い、別れるという出来事が描かれることによって、観客の記憶のなかで固有の「場所」に変わっていく、と理解できる。本稿が後の節で扱う黒澤明『生きる』の公園や、本多猪四郎『ゴジラ』の日比谷公園は、この「空間から場所への転化」がとりわけ強く生じた例だといえる。
| 論者 | 概念 | 公園分析への示唆 |
|---|---|---|
| アンドレ・バザン | 写真的リアリズム | 実在の場所で撮ることの意味を問う |
| ジークフリート・クラカウアー | 物理的現実の贖い | 演出されていない偶然の要素を評価する |
| セルゲイ・エイゼンシュテイン | モンタージュ | 断片的なショットが一つの空間になる過程を説明する |
| ミシェル・フーコー | ヘテロトピア | 公園を日常の制度から隔てられた場所として見る |
| アンリ・ルフェーヴル | 空間の生産 | 空間を物理的な地面ではなく社会的な実践の産物として捉える |
以上の整理から、本稿は公園を映画のなかで論じる際の二つの軸を得る。一つは、実在の場所を撮ることの意味というリアリズムの軸であり、これは第3節で扱う。もう一つは、断片的なショットを編集によって一つの空間へつなぐという構成の軸であり、これは第4節で扱う。ヘテロトピアと空間の生産という概念は、第5節以降で公園という場所の性格そのものを論じる際の基礎になる。
註:本稿で扱う理論はいずれも欧米の映画研究から出発したものであり、日本映画を論じる際には、その適用の妥当性をそのつど検討する必要がある。第7節ではこの点に留意しつつ、日本映画の具体例を扱う。
3. ロケーションとセット——実在の場所を撮るということ
映画に映る公園は、実在する公園でロケーション撮影されたものと、撮影所の敷地内やスタジオに植栽や遊具を持ち込んで作られたセットとに大別できる。両者の違いは、単に制作上の都合にとどまらず、画面が観客に与える印象そのものに関わる。本節では、実在の場所を撮ることを重視したネオレアリズモの実践を手がかりに、公園というロケーションが持つ特性を検討する。
3.1 ネオレアリズモが街頭を選んだ理由
第二次世界大戦直後のイタリアで生まれたネオレアリズモは、撮影所ではなく実際の街頭で、職業俳優ではない人々を交えて撮ることを方法として選んだ。ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』やヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』は、戦後の荒廃した街並みをそのまま画面に収めることで、作り物ではない現実感を作品に与えた。脚本家として知られるチェーザレ・ザヴァッティーニは、映画についてのいくつかの考えのなかで、日常のありふれた出来事をありのままに描くことの重要性を説いている。この姿勢は、撮影所で作られた美しい庭園のセットよりも、実在する公園の雑然とした、あるいは季節や天候によって変化する姿を選ぶという実践につながっていく。
3.2 公園というロケーションの特性
実在の公園で撮ることには、いくつかの特性がある。第一に、光の変化である。太陽の位置や雲の動きによって刻々と変わる自然光は、照明を完全に制御できるスタジオでは再現しがたい。第二に、季節と植物の状態である。葉の色や枝ぶりは季節ごとに異なり、同じ脚本でも撮影時期によって画面の印象は変わる。第三に、通行人という統制しきれない要素である。実在の公園には、撮影とは無関係に散歩する人や遊ぶ子どもがいることがあり、その存在が図らずも画面に写り込むことがある。これらは制作側にとっては管理しにくい要素だが、同時に、作り物では出せない現実感の源にもなる。
3.3 セットで公園を作るときに得られるもの、失われるもの
一方でセットには、光や天候、通行人を完全に管理できるという利点がある。俳優の立ち位置やカメラの動線を細部まで作り込むことができ、雨や夜間のシーンも天候に左右されずに撮影できる。しかし、その代償として、実在する場所が持つ細部の情報量——舗装の傷み方や植栽の不揃いさ、遠くの生活音——は失われやすい。バザンやクラカウアーが重視した「実在への信頼」という観点から見れば、セットで作られた公園は、どれほど精巧であっても、実在の場所が持つ偶然性を完全には再現できない。公園という場所をロケーションで撮るかセットで作るかという選択は、単なる予算の問題ではなく、その映画がどのような種類の現実感を目指すのかという方針の表明でもある。
3.4 公共の場所で撮るということの含意
公園でのロケーション撮影は、私有地や撮影所の内部での撮影とは異なる条件を伴う。公園は誰でも立ち入ることができる公共の場所であるから、撮影のために場所を独占的に使うには、管理者への申請や、時間帯を限っての利用調整といった手続きが必要になる場合が多い。撮影隊が機材を持ち込み、一定時間その場所を占有すること自体が、その公園を日常的に利用する人々の行動と隣り合わせになる。この事情は、俳優や脚本には現れない、ロケーション撮影に固有の制約であり、公園という場所を選ぶことが、単に画面上の見た目だけでなく、撮影という行為そのものの性格にも影響することを示している。
3.5 季節を選べるという特性
実在の公園で撮ることのもう一つの特性は、撮影の時期そのものを演出の一部として選べることである。同じ場所であっても、新緑の季節、葉が色づく季節、葉を落とした季節では、画面に映る印象は大きく異なる。ネオレアリズモの作品が荒廃した街並みをそのまま画面に収めたように、公園を撮る場合にも、手入れの行き届いた盛りの季節を選ぶか、あるいは人けの少ない季節を選ぶかによって、同じ場所が異なる意味を帯びる。この選択は、セットでは人工的に作り込むほかない季節感を、実在の場所であればそのまま利用できるという、ロケーション撮影ならではの利点である。
3.6 探すという作業
実在の場所を使うという選択には、その場所を見つけ出すという、脚本の執筆や撮影そのものとは別の作業が伴う。数ある公園のなかから、脚本が求める広さ、樹木の配置、ベンチの位置、周囲からの見通しに合う一つの公園を選び出す作業は、一般にロケーション・スカウティングと呼ばれる。この作業は、地図や写真だけでは判断しきれない要素——実際の光の入り方や、周囲の建物との距離感、季節ごとの見え方——を、現地に足を運んで確かめることを必要とする。セットであれば作り手の思うままに設計できるのに対し、ロケーションでは既存の場所の制約のなかで最も条件に近い場所を探し出さなければならず、この違いもまた、両者の選択が単なる予算の問題にとどまらないことを示している。
4. モンタージュによる空間の構成——編集がつくる公園
実在の場所で撮影された映像であっても、観客がスクリーン上で目にする「公園」は、撮影された断片的なショットがそのまま提示されているわけではない。遠景、人物の顔の接写、足元、木の葉のゆれ——これらは別々のタイミングで、しばしば別の角度から撮られた別々のショットであり、それらを編集によってつなぎ合わせることで、初めて一つのまとまった空間として観客に理解される。本節では、この編集の働きを検討する。
4.1 クレショフ効果と空間の推論
映画理論には、同じ人物の表情のショットに、異なる対象のショットを続けて見せると、観客がその二つのショットのあいだに関係があると推論してしまうという現象が知られている。この現象はロシアの映画作家レフ・クレショフの実験にちなんで名づけられており、モンタージュ論の出発点の一つとされている。公園の場面においても、人物の表情のショットのあとに公園の遠景やベンチの空きを示すショットが続けば、観客はその人物がその公園にいる、あるいはその場所を意識していると自然に理解する。個々のショットは別々の場所や時間に撮られていたとしても、編集によって一つの空間、一つの時間として受け取られるのである。
4.2 確立ショットと切り返し
公園での会話の場面は、しばしば定型的な編集の手順で構成される。まず、公園全体やベンチの位置関係を示す遠景のショット(確立ショット)が示され、続いて向き合う、あるいは並んで座る二人の人物を交互に映す切り返しのショットが続く。確立ショットは観客に「ここがどのような場所か」という空間の見取り図を与え、それに続く切り返しのショットは、その見取り図のなかで会話がどう進んでいるかを追わせる。エイゼンシュテインが論じたように、個々のショットの意味は単独では定まらず、前後のショットとの関係のなかで初めて定まる。公園の場面における編集は、この原理をきわめて分かりやすい形で示している。
4.3 音が支える空間の広がり
映像の編集だけでなく、音の設計もまた公園という空間の印象を支えている。鳥の声、風で葉が揺れる音、遠くの往来の音といった環境音は、画面には映っていない空間の広がりを観客に想像させる。屋内の場面で用いられる反響の少ない音とは対照的に、公園の場面では風や葉音が加わることで、その場所が屋根のない開かれた空間であることが、視覚情報を補う形で伝えられる。会話の合間に生じる沈黙も、公園の場面ではこうした環境音によって埋められ、気まずさよりも間(ま)としての意味を帯びやすい。
4.4 モンタージュに頼らない選択——長回しという方法
すべての作品が細かい編集によって公園の空間を組み立てるわけではない。バザンは、ショットを細かく割って衝突させるモンタージュに対して、一つのショットを長く保ち、被写界深度を深くとって手前から奥までを同時にはっきり写す長回しという方法を高く評価した。長回しで撮られた公園の場面では、人物同士の位置関係や、周囲にいる通行人の動きが、編集によって選び取られることなく、一続きの時間のなかにそのまま提示される。この方法は、エイゼンシュテインの唱えたモンタージュとは対照的な立場でありながら、同じく「公園という空間をどう観客に手渡すか」という問いに対する、もう一つの解答である。
モンタージュと長回しのどちらを選ぶかは、その映画が公園という場所をどのように扱いたいかという方針の違いを反映している。細かい編集を重ねる方法は、人物の表情の変化や視線の動きを強調し、会話の心理的な起伏を観客に追わせやすい。これに対して長回しは、人物だけでなく、その背後で移動する人々や揺れる木々をも同じ画面のなかに収め続けることで、公園という場所が持つ、人物の物語には還元されない広がりをそのまま提示する。本稿が後の節で扱う日本映画の例においても、この二つの方法のどちらが選ばれているかによって、公園という場所の描かれ方は大きく異なってくる。
4.5 カメラの高さという選択
公園の場面では、カメラをどの高さに置くかという選択も、空間の印象を大きく左右する。ベンチに座る人物と同じ高さにカメラを据えれば、観客はその人物の視線に近い位置から場面を眺めることになり、公園の広がりよりも人物同士の距離感が強調される。反対に、少し高い位置から見下ろすようにカメラを構えれば、ベンチや遊具の配置、周囲の樹木との位置関係といった、公園全体の見取り図がより明確に伝わる。子どもが遊ぶ場面で、あえて子どもの目線に近い低い位置にカメラを置くという選択も、同じ公園を大人の視点とは異なる広がりとして観客に見せる方法の一つである。こうしたカメラの高さの選択は、モンタージュや長回しといった編集上の方針と組み合わさって、公園という空間の見え方をさらに細かく調整する要因になっている。
5. なぜ公園で出会い、公園で別れるのか
本節では、本稿の中心的な問いに取り組む。なぜ映画は、告白や別れ話、秘密の相談といった私的な会話の場面を、しばしば公共の場所である公園で描くのか。家庭や職場、あるいは喫茶店のような屋内の場所ではなく、誰でも自由に出入りできる屋外の空間が選ばれることには、いくつかの理由が考えられる。
5.1 誰の場所でもない場所
家庭は誰かの家であり、職場は誰かの持ち場である。そこで交わされる会話には、その場所に付随する役割や力関係が影を落とす。これに対して公園は、フーコーの言うヘテロトピアに近く、特定の個人や組織に属さない、いわば誰のものでもない場所である。人物同士がその場所に対して対等な立場で向き合えることは、上司と部下、親と子、恋人同士のように普段は非対称な関係にある人物たちが、一時的にでも対等に言葉を交わす場面を成立させやすくする。
5.2 見られながら話すという緊張
公園は開かれた場所であるがゆえに、そこにいる二人は、遠くから見れば誰にでも見られうる。この「見られながら話す」という状況は、会話に独特の緊張を与える。密室での告白であれば、言葉の内容だけが問題になるが、公園での告白は、その言葉を口にしている姿そのものが、通りすがりの誰かの視界に入りうる。この緊張は、演じる人物にとっても、それを見る観客にとっても、会話の重みを増幅させる効果を持つ。同時に、誰も本気でその会話を気にとめていないという匿名性が、かえって二人だけの空間であるかのような錯覚を生むという逆説もある。
5.3 別れの場としての公園——立ち去りやすさ
公園が別れの場面に好まれるもう一つの理由は、そこが「立ち去りやすい」場所だという点にある。家や職場であれば、去るという行為は、その場所からの離脱という明確な意味を持ってしまう。しかし公園は、もともと誰もが自由に出入りする場所であるから、そこを立ち去ることは、特別な決断のようにも、ただの通過点を離れるだけのようにも見える。この曖昧さが、決別の場面に一種の余白を与える。人物は決定的な言葉を口にしながらも、公園という場所の性格によって、その言葉の重さをどこか和らげることができるのである。
5.4 関係性による意味の違い
公園という同じ場所であっても、そこに置かれる人物同士の関係によって、場面が帯びる意味は変わる。恋人同士の場面であれば、公園は二人だけの秘密めいた空間として機能しやすい。親と子の場面であれば、遊具やベンチという設備が、世話をする者とされる者という関係を可視化する背景になる。年老いた人物が一人で公園にたたずむ場面であれば、同じベンチや木立が、これまでの人生を振り返る静かな時間の器として機能する。公園という場所そのものの性格は変わらないが、誰がそこに座るかによって、画面が観客に伝える意味は大きく異なってくるのである。
5.5 沈黙が許される場所
屋内の会話では、言葉のない時間はしばしば気まずさとして観客に伝わる。しかし公園という場所では、鳥の声や風の音、遠くの子どもの声といった環境音が沈黙を埋めるため、言葉を発しない時間そのものが、気まずさではなく、考えを整理する間(ま)として受け取られやすい。この点は第4節で論じた音の設計とも重なる。私的な会話にとって、沈黙を気まずさに転じさせずに保っておける場所であることは、告白や決別のように、言葉を選ぶのに時間がかかる場面にとって重要な条件だと考えられる。
5.6 昼と夜とで変わる緊張の質
同じ公園であっても、昼の場面と夜の場面とでは、そこに描かれる緊張の質が異なる。昼の公園は、通行人の姿がはっきりと見え、日常の延長として描かれやすい。これに対して夜の公園は、周囲の人影が減り、街灯の明かりだけが頼りになることで、日中とは異なる緊張——秘密めいた雰囲気や、通常とは違う出来事が起こりうるという予感——を帯びやすくなる。この違いは、5.2節で論じた「見られながら話す」緊張の性格を変化させる。昼の場面では不特定多数に見られているという緊張であるのに対し、夜の場面ではむしろ誰にも見られていないことの心細さが前面に出やすい。どちらの時間帯を選ぶかは、その場面がどのような種類の緊張を必要としているかによって決まる。
5.7 子どもの不在という設定
公園は本来、子どもたちが遊ぶ場所として整備されていることが多いが、映画のなかで大人同士の私的な会話の場面として使われるとき、その公園にしばしば子どもの姿が見当たらないという設定が用いられる。夕方の遊具が空になった時間帯や、平日の人けの少ない時間帯が選ばれることで、本来にぎやかであるはずの場所が、一時的に静かな空間として提示される。この「本来の使われ方から外れた時間の公園」という設定もまた、公共の場所でありながら私的な会話を許すという、公園という場所の性格を支える一つの工夫だと考えられる。
6. ベンチという装置——座ること・待つこと・見送ること
公園を構成する設備のなかでも、ベンチは映画の場面づくりにおいて特に重要な役割を果たしてきた。ベンチは単なる休憩用の家具ではなく、そこに座る人物の状態や、場面の時間の流れそのものを規定する小道具として機能する。本節ではベンチが持つ機能を、座ること・待つこと・見送ることという三つの局面から検討する。
6.1 座ることの許可
ベンチに座るという行為は、その人物がそこに留まってよいという、ささやかな許可を意味する。立ったままの会話は、いつでも切り上げられる一時的なやり取りに見えるが、腰を下ろした二人の会話は、ある程度の時間その場に留まる意志の表明として観客に受け取られる。チャールズ・チャップリンの『街の灯』では、公園のベンチに腰を下ろした人物同士の出会いが物語の重要な起点になっており、座るという単純な動作が、二人の関係の始まりを示す装置として用いられている。
6.2 待つ時間をつくる
ベンチはまた、待つという行為のための場所でもある。誰かを待つ人物がベンチに座っている場面は、その人物の心情——期待、不安、諦め——を、多くの台詞を用いずに示すことができる。時計を見る仕草や、隣の空いた席に視線を送る動作が加われば、待つ時間の長さや、待たれている相手の不在がいっそう強調される。ここでもベンチは、単なる背景ではなく、待つという時間そのものを可視化する装置として機能している。
6.3 並んで座る——向き合わない会話
ベンチのもう一つの特性は、対面ではなく横並びに座ることを人物に強いる点にある。テーブルを挟んで向き合う会話とは異なり、ベンチに並んで座る二人は、視線を正面から合わせずに言葉を交わすことができる。同じ方向を向いたまま話すこの姿勢は、直視しては言いにくい話題——別れ話や告白——を切り出す場面に適している。相手の表情を常に見なくてよいという物理的な条件が、心理的な言いやすさを生み出しているのであり、ベンチという設備の形状そのものが、そこで交わされる会話の質に影響を与えているといえる。
6.4 見送ることの装置
ベンチは、その場に留まる人物と、そこを去っていく人物とを同時に画面に収めることができる装置でもある。一人がベンチに座ったまま、もう一人が立ち上がって歩き去る構図は、二人の関係に生じた変化——別れ、あるいは片方だけが先に進むという非対称——を、言葉によらずに示すことができる。座ったまま見送る人物の姿は、その場に取り残されたという印象を観客に与えると同時に、去っていく人物を見つめ続けることができるという、ベンチという場所ならではの視点を提供する。この構図が繰り返し用いられてきたことは、ベンチが単なる休憩用の設備ではなく、人物同士の距離の変化を表現する装置として、映画のなかで積極的に活用されてきたことを示している。
6.5 他の座る場所との違い
公園には、ベンチ以外にも座ることのできる場所がある。階段や縁石、芝生の上、遊具の縁などである。これらとベンチとの違いは、ベンチが最初から座るために設計された設備であるという点にある。階段や縁石に座る人物は、本来そこに座ることを想定されていない場所を仮に利用しているという印象を与えやすく、その姿には落ち着きのなさや、一時的な滞在という含みが生じやすい。これに対してベンチに座る人物は、その場所に正当に留まっているという印象を観客に与える。同じ公園のなかでも、どこに座るかという選択は、その人物の心理状態や、その場面が持つ落ち着きの度合いを示す手がかりになりうる。
6.6 素材と老朽の度合いが語ること
ベンチの素材や状態もまた、画面に情報を加える。木製のベンチは、塗装がはげ、木目が見えるほど、その場所に積み重なった時間の長さを感じさせる。金属やコンクリート製のベンチは、より無機質で、公的な管理のもとにあることを印象づけやすい。塗り直されたばかりの真新しいベンチと、長年使い込まれて色あせたベンチとでは、そこに座る人物の心情に対して観客が抱く印象も変わってくる。ベンチという同じ機能を持つ設備であっても、その素材と老朽の度合いは、場面が必要とする時間の厚みを画面上で調整する、もう一つの手がかりになっている。
7. 日本映画のなかの広場と原っぱ——焼け跡から公園へ
ここまで論じてきたロケーションとセット、モンタージュ、公共空間の緊張という論点は、日本映画における公園・広場・原っぱの描かれ方を検討することで、さらに具体的な輪郭を持つ。本節では、戦後日本の風景の変化と重ね合わせながら、二つの作品を手がかりに論じる。
7.1 焼け跡から原っぱへ、原っぱから公園へ
第二次世界大戦後の日本の都市には、空襲によって建物が失われた焼け跡が広く残された。これらの土地は、やがて子どもたちが自由に遊ぶ原っぱとなり、都市の復興が進むにつれて、整備された公園へと姿を変えていった場所も少なくない。この移り変わりは、単なる土地利用の変化にとどまらず、管理されない空地が持っていた自由さと、公園という制度化された場所が持つ秩序との違いを浮かび上がらせる。日本映画が公園を描くとき、そこには多かれ少なかれ、この戦後という時代の記憶が重なっている。
7.2 黒澤明『生きる』——公園を作ることを主題にした映画
黒澤明の『生きる』は、余命わずかと知った市役所職員が、それまで書類仕事に埋もれさせていた市民からの陳情を実現しようと、荒れ地を子どものための公園に変える過程を描いた作品である。この映画において公園は単なる場面の背景ではなく、物語そのものの主題になっている。荒れ地が公園に変わるという出来事は、行政の仕組みのなかに埋もれていた一人の人間の意志が、具体的な場所として結実する過程として描かれており、公園という場所が持つ「誰かの意志によって作られた場所である」という側面を、他のどの作品よりも直接的に示している。
7.3 本多猪四郎『ゴジラ』——公園という場所の記憶
本多猪四郎の『ゴジラ』には、東京の日比谷公園を舞台にした場面が含まれており、そこでは母親が子どもたちに、まもなく亡き父のもとへ行くことになると語りかける。この場面は、怪獣映画という枠組みのなかにありながら、戦争による喪失の記憶を呼び起こすものとして、しばしば論じられてきた。ここでの公園は、日常のなかにありながら、非日常の出来事——避難や喪失——が入り込む場所として機能しており、フーコーの言うヘテロトピアという概念が、日本映画のなかで具体的にどのような形をとりうるかを示す例になっている。
| 時期・場所 | 土地の性格 | 映画における位置づけ |
|---|---|---|
| 戦時中の空襲跡 | 焼け跡 | 喪失と非日常の記憶が刻まれた場所 |
| 戦後復興期の空地 | 原っぱ | 管理されない自由な遊びの場所 |
| 都市整備後の公園 | 公園 | 秩序と誰かの意志によって作られた場所 |
以上の二作品は、公園を単なる背景としてではなく、それぞれ異なる仕方で戦後日本という時代の記憶と結びつけて描いている。『生きる』における公園は未来へ向けて作られる場所であり、『ゴジラ』における公園は過去の喪失が呼び戻される場所である。この対比は、公園という場所が持つ時間的な両義性——これから作られる場所であると同時に、過去の記憶が積み重なる場所でもあるという性格——を示している。
7.4 子どもという媒介
この二作品には、もう一つの共通点がある。どちらも子どもという存在を、公園という場所と結びつけて描いている点である。『生きる』における公園は、そもそも子どものために作られる場所として物語のなかに位置づけられており、主人公の行動の目的そのものが子どもたちの遊び場を確保することにある。『ゴジラ』の日比谷公園の場面もまた、母親と子どもたちという組み合わせのなかで描かれる。公園がしばしば子どもという存在と結びつけて語られるのは、子どもが遊具や広場を必要とする実際上の理由に加えて、子どもという存在自体が、まだ定まらない未来を象徴しやすいという物語上の理由もあると考えられる。
7.5 「公園」と「原っぱ」という言葉の境界
日本語において「公園」と「原っぱ」は、しばしば近い場所を指しながらも、異なる語感を持つ言葉である。「公園」は行政によって整備され、名前を与えられ、境界が定められた場所を指すのに対し、「原っぱ」は管理の外にある、境界の曖昧な空地を指すことが多い。第7.1節で見た焼け跡から原っぱ、原っぱから公園へという移り変わりは、土地の状態そのものの変化であると同時に、その土地を呼ぶ言葉の変化でもある。映画がある場面を「公園」的に描くか「原っぱ」的に描くかという選択は、画面に映る植栽や遊具の有無だけでなく、その場所が持つ制度からの距離感をどう表現するかという選択でもある。
7.6 遊具という象徴
『生きる』の結末近くに置かれた、雪の降るなかブランコに揺られる主人公の姿は、日本映画史のなかでもよく知られた場面である。ここでのブランコは、単なる遊具の一つではなく、主人公が成し遂げた仕事——荒れ地を子どものための公園に変えるという仕事——そのものを象徴する存在として画面に置かれている。遊具は公園を構成する要素のなかでも、それが使われている、あるいは使われうる状態にあること自体が、その公園が完成した、あるいは機能している場所であることを示す指標になる。ブランコや滑り台といった遊具が象徴として用いられるとき、それは単なる背景の一部ではなく、公園という場所の完成度そのものを示す装置として機能しているのである。
8. 反論と比較——公園は特権的な場所か
ここまで、公園が映画において出会いと別れの場所として繰り返し選ばれることには、それなりの理由があると論じてきた。しかし、この見立てに対しては当然の反論が想定される。すなわち、公園が選ばれるのは、それが単に撮影しやすく費用のかからない場所だからにすぎず、そこに意味を読み込みすぎているのではないか、という反論である。本節ではこの反論を検討し、あわせて公園以外の公共空間との比較を通じて、公園という場所の位置づけを相対化する。
8.1 経済性という反論とその応答
たしかに、公園は許可を得やすく、既存の景観をそのまま使えるという点で、撮影の手間や費用を抑えられる場所である。この経済性は無視できない要因である。しかし、経済性による説明と、本稿が論じてきた意味論的な機能とは、互いに排除し合うものではない。ある場所が撮影しやすいという理由でくり返し選ばれるうちに、その場所は特定の場面——出会いや別れ——と結びついた慣習的な意味を蓄積していく。経済的な理由から始まった選択が、反復を通じて記号的な意味を獲得していくという過程は、ジャンル映画における舞台設定の定着一般に見られる現象であり、公園に限った特殊な事情ではない。
8.2 他の公共空間との比較
公園以外にも、駅のプラットフォーム、橋、河岸といった公共空間が、出会いと別れの場面に用いられることは少なくない。これらの場所と公園を比べると、いくつかの違いが見えてくる。駅は出発と到着という移動の目的そのものに結びついた場所であり、そこでの別れは物理的な移動と重なって描かれやすい。橋は一方から他方へ渡るという行為そのものが、状況の転換を象徴しやすい。これに対して公園は、移動や通過を目的としない、留まるための場所である点で異なっている。公園での会話は、どこかへ向かう途中の出来事としてではなく、その場所に留まること自体が目的である会話として描かれやすい。
| 場所 | 主な性格 | 描かれやすい場面 |
|---|---|---|
| 公園 | 留まるための場所 | 腰を据えた会話、告白、決別 |
| 駅 | 移動の目的地・出発点 | 到着と出発、時間に追われる別れ |
| 橋 | 一方から他方へ渡る通路 | 状況の転換、決意の場面 |
| 河岸 | 水辺に沿った細長い空間 | 並んで歩きながらの会話 |
8.3 近代都市空間への懐疑という視点
ミケランジェロ・アントニオーニの『太陽はひとりぼっち』は、人物の姿が画面から消えたあとも、彼らが行き来していたはずの街路や広場を映し続ける結末で知られており、近代的な都市空間が人物の感情から切り離された、よそよそしいものとして描かれる。ジャック・タチの『プレイタイム』もまた、ガラスと鉄でできた近代的な建築空間のなかで人物が迷子になる姿を通じて、機能的すぎる都市空間への懐疑を示した。これらの作品を踏まえると、公園がしばしば人物にとって居心地の良い、あるいは少なくとも人間的な出会いを許す場所として描かれるのに対し、整備されすぎた近代的な公共空間は、かえって人と人とを疎遠にする場所として描かれうることが分かる。公園という場所の温かみは、自明のものではなく、こうした対比のなかで初めて際立つのである。
8.4 記号としての定着というもう一つの説明
8.1節で述べた「経済性から記号性へ」という過程を、もう少し詳しく見ておきたい。ある場所が特定の場面と結びつけられる映画をくり返し目にしてきた観客は、次に別の映画で公園という場所が画面に映った時点で、そこにどのような種類の場面が起こりうるかをあらかじめ予期するようになる。この予期は、作り手にとっては便利な道具になる。公園という場所を映すだけで、これから私的な会話が始まるらしいという情報を、台詞や説明なしに観客に伝えることができるからである。この意味で、公園という場所は、経済的な理由で選ばれ続けるうちに、それ自体が一種の記号として機能するようになったと考えられる。
8.5 反論と本稿の立場のまとめ
以上を踏まえると、公園が映画において特権的な場所であるという本稿の見立ては、公園という場所に生まれつき特別な性質が備わっているという主張ではない。むしろ、実在の場所としての特性(第3節)、編集によって空間が構成される過程(第4節)、公共の場所で私的な会話をする緊張(第5節)、ベンチという設備の機能(第6節)、そして経済的な理由からくり返し選ばれることで蓄積された記号的な意味(本節)が、幾重にも重なり合った結果として、公園が出会いと別れの場所という位置づけを獲得してきたという立場である。
8.6 ほぼ同時代に生まれた二つの制度
最後に、視点を変えた比較を加えておきたい。都市公園という制度と、映画という技術は、どちらも19世紀後半から20世紀初頭にかけての都市化と技術革新のなかで形をなしていった、ほぼ同時代の産物である。日本における公園という語と制度は明治6年(1873年)の太政官布達第16号にさかのぼり、都市公園法は昭和31年(1956年)に制定された。映画もまた、同じ時期に技術として確立し、都市の娯楽として広まっていった。両者がほぼ同時代に生まれた都市の装置であるという事実は、映画が公園という場所を、自分自身と同じ時代の産物として、いわば身近な題材として繰り返し取り上げてきたことの、一つの背景として理解できるかもしれない。
9. 磐田市の公園への示唆
ここまでの議論を、磐田市の公園に照らして具体的に考えてみたい。当サイト(ATAWI PARK)は、磐田市の都市公園100園を収録したデータベースであり、この100園は磐田市オープンデータ「都市公園一覧」94園と、市の施設ガイドのみに掲載のある6園とを合わせたものである。以下では、本稿が論じてきたロケーションとしての公園という視点から、この100園という集合をどう眺めることができるかを述べる。ただし現地踏査はまだ始まっておらず、以下はあくまで公開されている面積・種別・施設情報から導かれる見立てにとどまることをあらかじめ断っておく。
9.1 磐田市の公園100園を「撮る場所」として見る
磐田市の公園100園は、都市公園法の種別でみると、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、法対象外6園、地区公園4園、総合公園・運動公園・風致公園が各3園、広場公園・緑道が各2園、墓園と歴史公園が各1園という構成である。街区公園は誘致距離250m・標準面積0.25haという国の目安が示すとおり、住宅地の徒歩圏に置かれた小さな公園であり、その多くはベンチ一つ、遊具ひとそろいという簡素な構成を持つ。こうした小さな街区公園は、本稿第6節で論じたベンチをめぐる場面——短い立ち話や、待ち合わせの場面——に近い規模感を持つ場所だと考えられる。
9.2 広場的な公園、原っぱ的な公園
本稿第7節で扱った、原っぱ的な自由さと公園的な秩序という対比は、磐田市の公園にも当てはめて考えることができる。見付地区の見付本通広場公園は、面積372平方メートルという小規模な街区公園でありながら「広場」という名を持ち、市の施設ガイドにはトイレ(多目的トイレ)の記載がある。この規模感は、第5節で論じた「見られながら話す」緊張が生じるにはやや狭いかもしれないが、通りすがりの人物が交差する場面には向くだろう。
対照的に、御厨地区の兎山公園(地区公園・56,193平方メートル)や竜洋地区の竜洋海洋公園(総合公園・221,722平方メートル)のように広い面積を持つ公園は、複数の人物が同時に画面に入る、あるいは遠景から人物を捉えるような場面に適した空間的な余裕を持つ。中泉地区の中央公園(地区公園・41,642平方メートル)は多目的グラウンドを含み、第4節で論じた確立ショットに使えるような、見通しのよい開けた画面を作りやすいと考えられる。また今之浦公園(近隣公園・見付・13,675平方メートル)は、市の施設ガイドに屋根付広場や噴水広場、芝生広場といった記載があり、複数の性格の異なる空間が一つの公園のなかに併存している点で興味深い。
9.2.1 9地区に散らばる公園という条件
磐田市の公園100園は、見付・中泉・御厨・豊田・南部・向陽・竜洋・福田・豊岡という9地区に分かれて分布しており、地区ごとの園数には偏りがある。もっとも園数が多いのは豊田地区の28園、次いで見付地区の21園であり、南部・向陽の両地区はそれぞれ2園にとどまる。この偏りは、市街地に近い地区ほど小さな街区公園が数多く配置され、郊外や沿岸部の地区には規模の大きい公園が少数配置されるという傾向の裏返しでもある。一つの作品のなかで複数の公園を使い分ける場合、この地区ごとの性格の違いは、画面に映る雰囲気を変える手がかりになりうるだろう。
9.3 記憶を重ねられる場所としての歴史公園
第7節では、『生きる』と『ゴジラ』を手がかりに、公園が未来へ向けて作られる場所であると同時に、過去の記憶が積み重なる場所でもあるという両義性を論じた。この観点から見ると、中泉地区の遠江国分寺史跡公園(歴史公園・21,600平方メートル)や、同じく中泉地区の京見塚古墳を含む京見塚公園のように、古代の遺跡と現在の公園という機能が重なり合う場所は、時間の層を画面に取り込みやすい場所だと考えられる。ただし、こうした場所をどのような画角で撮れば時間の重なりが効果的に伝わるかは、平面図や写真だけでは判断しきれず、実際に現地に立って光や周囲の建物との関係を確かめる必要がある。
9.4 当サイトの限界——踏査はこれから
本節で述べてきたことは、磐田市オープンデータや市の施設ガイドに記載された面積・種別・施設情報にもとづく見立てであり、実際にその場所に立って光の入り方や周囲からの見通し、ベンチの向きといった、本稿が論じてきた映画的な要素を確かめたものではない。当サイトの現地踏査は2026年8月16日時点でまだ一件も行われておらず、親目線での使い勝手や雰囲気に関する記述はすべて今後の課題として残されている。公園の利用や撮影にあたって許可や手続きが必要な場合は、磐田市都市整備課など関係機関に確認することが必要であり、当サイトは今後の踏査を通じて、こうした場所の具体的な姿を確かめていく。
9.5 施設の記載に見る視覚的な多様性
市の施設ガイドの記載を見るだけでも、磐田市の公園には視覚的に多様な要素があることがうかがえる。御厨地区の京見塚公園には京見塚古墳が、御厨地区の兎山公園にはローラースケート場が、竜洋地区の竜洋海洋公園には入浴施設や地場産品直売所を備えたレストハウスが、それぞれ記載されている。こうした施設の違いは、単に利用者にとっての機能の違いにとどまらず、画面に映る要素の違いでもある。古墳という古代の造形物、ローラースケート場という現代的な舗装面、レストハウスという建築物は、それぞれ異なる時代性や質感を画面にもたらしうる。ただし、こうした施設が実際にどのような見え方をするかは、市の記載からだけでは判断できず、当サイトの今後の踏査で確かめるべき事柄である。
註:本節で挙げた個々の公園の面積・施設は、磐田市オープンデータおよび市の施設ガイドの記載にもとづく。噴水の稼働期間など季節や年によって変わりうる情報は、利用にあたって市の最新の発表を確認することが望ましい。
10. 結論と今後の課題
本稿は、映画研究における空間の扱い方——ロケーションとセットの選択、モンタージュによる空間の構成、リアリズムおよびネオレアリズモが街頭を撮ってきた系譜——を整理し、それを手がかりに、映画がなぜ公園を出会いと別れ、告白と決別の場として選び続けるのかを検討してきた。ここで、冒頭に立てた三つの問いに立ち返って結論を確認する。
10.1 三つの問いへの答え
第一の問い、公園の場面がなぜ実在の場所で撮られることが多いのかについては、光や季節、通行人といった統制しきれない要素が、作り物にはない現実感を画面に与えるためだと考えられる。ネオレアリズモの実践は、この現実感を積極的に重視する立場であった。第二の問い、編集がどのようにして断片的な映像から一つの「公園」をつくり出すのかについては、クレショフ効果や確立ショットと切り返しの技法が、別々の時間・場所で撮られたショットを一つの空間として観客に受け取らせる仕組みを持つことを確認した。第三の問い、私的な会話がなぜ公共の場所で行われるのかについては、公園が誰のものでもない対等な場所であること、見られながら話すという緊張を生むこと、そして立ち去りやすいという性格を併せ持つことが理由として挙げられる。
10.2 公園という場所の両義性
第7節で論じた日本映画の例は、公園が持つもう一つの重要な性格を明らかにした。すなわち、公園は誰かの意志によってこれから作られる場所であると同時に、過去の出来事の記憶が積み重なる場所でもあるという両義性である。黒澤明『生きる』における公園が前者を、本多猪四郎『ゴジラ』における公園が後者を代表する例として挙げられる。この両義性こそが、公園という場所を映画にとって特権的な語彙たらしめている要因の一つだと考えられる。第8節で検討したように、公園が選ばれる背景には撮影上の経済性もあるが、それは本稿が論じてきた記号的な機能を否定するものではなく、両者は反復を通じて重なり合っていくものである。
10.3 今後の課題
本稿には残された課題が多い。第一に、本稿は文献研究にとどまり、具体的な作品の個々のショットを画面比率やカメラの高さといった技術的な観点から分析するには至っていない。第二に、公園以外の公共空間——駅、橋、河岸、あるいは商店街のアーケード——との比較は第8節で簡単に触れたにとどまり、より体系的な検討が必要である。第三に、磐田市の公園を「撮る場所」として見立てた第9節の議論は、あくまで公開されている面積・種別情報にもとづくものであり、当サイトの今後の現地踏査によって、光の入り方や周囲からの見通しといった、本稿が理論的に論じてきた要素を具体的に確かめていく必要がある。映画のなかの公園という主題は、本稿で論じた文献上の整理を土台としながら、なお多くの検討の余地を残している。
10.4 他の分野との接点
本稿が論じてきた「誰のものでもない場所」「見られながら話す緊張」という論点は、社会学が論じる第三の場所や、都市社会学が論じる街路の見守りの視点、哲学が論じる公共空間の議論とも重なる部分が大きい。本稿は映画という一つの領域からこの論点に接近したが、同じ磐田市の公園100園を対象に、社会学・哲学・美学・デザイン史といった異なる分野から書かれた他の論考とあわせて読むことで、公園という場所の性格はより多面的に理解できるはずである。分野を横断した比較は、本稿の範囲を超える今後の課題として残しておきたい。
最後に確認しておけば、本稿が示したのは、公園という場所が映画にとって特別な意味を持ちうるという一つの見方であり、すべての公園がそのように描かれるべきだという規範を示すものではない。磐田市の公園100園もまた、それぞれの面積や種別、地区に応じて多様な性格を持っており、その多様性を実際に確かめる作業は、当サイトの今後の踏査に委ねられている。
10.5 むすび
映画のなかの公園は、一見するとありふれた背景の一つにすぎない。しかし本稿で見てきたように、そこには実在の場所を撮ることの意味、断片的なショットを一つの空間へつなぐ編集の技法、そして公共の場所で私的な会話をするという設定が生む緊張が、幾重にも折り重なっている。この折り重なりに目を向けることは、公園という場所を、単に映画の背景としてではなく、それ自体が意味を持つ対象として見直す一つの方法である。本稿がその見直しの手がかりの一つになれば幸いである。
参考文献
- アーウィン・パノフスキー(1934年初出/1947年改稿)『Style and Medium in the Motion Pictures』(Critique誌)
- アンドレ・バザン(1958〜1962)『映画とは何か』(Éditions du Cerf、邦訳あり)
- ジークフリート・クラカウアー(1960)『Theory of Film: The Redemption of Physical Reality』(Oxford University Press)
- セルゲイ・エイゼンシュテイン(1949)『Film Form: Essays in Film Theory』(Jay Leyda編・訳、Harcourt, Brace)
- チェーザレ・ザヴァッティーニ(1953)『Some Ideas on the Cinema』(Sight and Sound誌)
- スティーヴン・ヒース(1976)『Narrative Space』(Screen誌)
- ミシェル・フーコー(1967年講演/1984年発表)『Des espaces autres』(Architecture, Mouvement, Continuité誌)
- アンリ・ルフェーヴル(1974)『La production de l'espace』(Anthropos)
- イーフー・トゥアン(1977)『Space and Place: The Perspective of Experience』(University of Minnesota Press、邦題『空間の経験』)
- デヴィッド・ボードウェル、クリスティン・トンプソン『Film Art: An Introduction』(初版1979年)
- チャールズ・チャップリン(監督・1931)『街の灯』
- ヴィットリオ・デ・シーカ(監督・1948)『自転車泥棒』
- ロベルト・ロッセリーニ(監督・1945)『無防備都市』
- 黒澤明(監督・1952)『生きる』(東宝)
- 本多猪四郎(監督・1954)『ゴジラ』(東宝)
- ミケランジェロ・アントニオーニ(監督・1962)『太陽はひとりぼっち』
- ジャック・タチ(監督・1967)『プレイタイム』
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。