人文学近世史

火除地・広小路・寺社境内——近世日本の都市に空地があった理由

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:近世史 公開・更新 2026-08-17 本文 約20,654字 読了目安 38分

要旨

本稿の目的は、近世の日本の都市に公園という制度も語も存在しなかったにもかかわらず、人びとが集まり遊ぶ空地が確かに存在したのはなぜか、という問いに答えることである。方法は近世史・都市史の基本文献と、幕府の法令および同時代の記録の整理による文献研究であり、対象は明暦の大火(1657年)以後の江戸を中心に、全国の寺社境内地と五街道の宿駅を視野に入れる。

本稿は近世の空地を三つの系統に分けて検討する。第一は防火の系統である。明暦の大火の後、幕府は延焼を止めるために火除地を設け、橋詰や門前の道幅を広げて広小路とした。第二は信仰の系統である。寺社の境内地は年貢を免除された除地として広い土地を保ち、開帳・勧進相撲・富くじといった興行が参詣と結びついて行われた。第三は交通の系統である。五街道の宿駅、一里塚、並木、渡し場は、人と荷を継ぎ送るために設けられた線状の空地であった。いずれも遊びや憩いのためにあけられた土地ではない。しかし空地であるがゆえに人が集まり、仮設の床見世が並び、盛り場が生まれた。

ここから本稿が引き出す結論は二つである。第一に、近世の空地は別の目的の副産物であり、その使われ方は禁令と黙認のあいだで人びとが事後的に決めていた。第二に、明治6年(1873年)の太政官布達第16号が行ったのは、新たに土地をあけることではなく、既にあった境内地や遊観の地に公園という名を与えることであった。したがって、遊びと憩いのために土地をあらかじめあけておくという近代の発想は、決して自明ではない。最後に、磐田市の都市公園100園、とりわけ都市緑地や広場公園として登録された小さな空地と、歴史公園である遠江国分寺史跡公園を、この対比の中で読み直し、当サイトの今後の踏査課題を示す。

キーワード火除地広小路寺社境内地盛り場宿駅明暦の大火磐田市

1. はじめに——問題の所在

近世の日本の都市には、公園がなかった。これは制度の話であると同時に、言葉の話でもある。公園という語は明治になって西洋の概念を訳すために用いられるようになったものであり、江戸や大坂の町人が自分たちの町の空地をそう呼ぶことはなかった。にもかかわらず、近世の都市には人が集まり、腰を下ろし、見世物を眺め、子どもが走りまわる場所が確かに存在した。橋のたもとの広い道、寺社の境内、街道沿いの松並木の下。それらはどれも、遊びや憩いのために用意された土地ではない。しかし結果として、人びとはそこを使った。

本稿が近世史の側から公園を論じる理由は、この落差にある。現代の私たちは、住宅地に一定の割合で緑地や広場を配置することを、行政の当然の務めと考えている。都市公園法(1956年)は種別ごとの標準面積と誘致距離を定め、市町村は計画的に土地を確保する。だが、この「目的をあらかじめ定めずに土地をあけておく」という発想そのものは、歴史的に見れば新しい。近世の都市においては、土地は原則としてなんらかの用途と所有者を持っており、空地はほとんどつねに、防火・信仰・交通といった別の目的の副産物として生じていた。近代の公園の新しさは、この対比を通してはじめて見える。

1.1 本稿の問い

本稿の中心的な問いは三つである。第一に、近世の都市において空地はどのような目的のもとに生じたのか。第二に、その空地は誰が管理し、人びとは実際にどのように使っていたのか。とりわけ、公的な禁令と現実の利用のあいだにどのような関係があったのか。第三に、明治以後に成立した公園という制度は、これらの空地とどこで連続し、どこで断絶しているのか。この三つを順に検討することで、本稿は「公園はなぜ生まれたのか」という問いを、近代の側からではなく、近代の直前の側から照らし直すことを試みる。

1.2 方法と資料

方法は文献研究である。近世の法令・記録としては、幕府の触書を集成した『御触書寛保集成』、諸法令を編年で整理した『徳川禁令考』、宿駅の実態を書き上げた『東海道宿村大概帳』を参照する。同時代の記述としては、江戸の出来事を年ごとに記した斎藤月岑『武江年表』と、名所を絵と文で紹介した『江戸名所図会』(天保5〜7年=1834〜36年刊)を用いる。研究としては、内藤昌『江戸と江戸城』(1966)、陣内秀信『東京の空間人類学』(1985)、玉井哲雄『江戸——失われた都市空間を読む』(1986)、吉田伸之『成熟する江戸』(2002)、宿駅制度については児玉幸多『近世宿駅制度の研究』(1957)に依拠する。近代公園史との接続では、田中正大『日本の公園』(1974)、白幡洋三郎『近代都市公園史の研究』(1995)、小野良平『公園の誕生』(2003)を参照する。

文献研究近世境内・街道問いの転換
図1本稿の方法と射程。幕府の法令と同時代の記録、近世都市史の研究に依拠し、公園という制度の外側から都市の空地を見る。

年代と制度名は、法令や広く共有された事実に照らして確実なものに限る。近世史では、同じ出来事について記録どうしが食い違い、研究者の解釈も分かれることが珍しくない。本稿では、そうした論点については断定を避け、「〜とされる」という形で示す。また、個々の地域の郷土史については、確かな史料にあたっていない事柄を断定しない。これは磐田市について述べる第8節でも同じであり、そこで用いる事実は市のオープンデータと施設ガイドの記載に限られる。

1.3 用語について

本稿で用いる主な語を確認しておく。「火除地(ひよけち)」は、延焼を止めるために建物を建てさせずにあけておく土地を指す。同じ趣旨の土地は「明地(あきち)」とも呼ばれた。「広小路(ひろこうじ)」は、防火のために通常より幅を広くとった道路またはその一帯であり、橋詰や城門の外側などに設けられた。「境内地(けいだいち)」は寺社の敷地であり、そのうち年貢を免除された土地を「除地(じょち)」という。「盛り場」は、興行や商いが集まって賑わう一帯を指す一般的な呼び方で、法令用語ではない。「宿駅(しゅくえき)」は街道で人馬を継ぎ立てる公的な役目を負った町場で、宿場ともいう。

なお本稿では、これらをまとめて「空地」と呼ぶ場合がある。ただしそれは、何もない土地という意味ではなく、恒久的な建物が建っていない土地という限定的な意味である。近世の空地の多くは、地面としては空いていても、権利の上では誰かのものであり、使い方には制約がついていた。この点は、現代の公園が公物として管理され、条例で行為が規律されていることと、形は違うが問題の構造としては似ている。

1.4 本稿の構成

第2節では、近代公園史研究と近世都市史研究の双方における空地の扱いを整理し、本稿の分析枠組みとして「目的・管理・利用」の三層を提示する。第3節は防火の系統として火除地と広小路を、第4節はその代表例である両国広小路の盛り場化を扱う。第5節は信仰の系統として寺社境内地を、第6節は交通の系統として街道の宿駅・一里塚・並木・渡し場を扱う。第7節では、明治6年(1873年)の太政官布達第16号を境に、近世の空地と近代の公園の関係を断絶と連続の両面から論じる。第8節では磐田市の公園100園にこの見方を当てはめ、第9節で結論と今後の課題を述べる。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園のデータベースであり、現地踏査はこれからの段階にある。

2. 先行研究と概念の整理——空地をどう見るか

近世の空地は、二つの研究の系統のあいだに落ちてきた主題である。一方に、近代の公園制度の成立を追う公園史研究があり、他方に、江戸をはじめとする近世都市の空間構造を復元する都市史研究がある。前者にとって近世は「前史」であり、後者にとって公園は「近代の話」である。本節では両者の議論を整理したうえで、本稿が用いる分析の枠組みを示す。

2.1 公園史研究における前史の扱い

日本の公園史研究は、明治6年(1873年)の太政官布達第16号を出発点として叙述されることが多い。田中正大『日本の公園』(1974)、白幡洋三郎『近代都市公園史の研究』(1995)、小野良平『公園の誕生』(2003)といった基本文献は、いずれも公園が西洋の制度の移入であることを前提にしつつ、その移入が既存の場所の上に重ねられた点に注意を促している。布達が公園に指定すべき場所として挙げたのが、社寺の境内など人びとが群れ集まって遊観する場所であったという事実は、この重なりを端的に示している。つまり公園史研究は、近世の空地を、近代の制度が上書きした下地として位置づけてきた。

ただし、この位置づけには限界もある。下地として扱うかぎり、近世の空地は「まだ公園でないもの」として、欠如の側から記述されることになりやすい。近世の空地がそれ自体としてどのような論理で成立し、どのような秩序で使われていたのかは、公園史の枠組みの中では十分に展開されない。本稿は、この不足を近世都市史の側から補うことを企図する。

2.2 近世都市史研究からの視点

近世都市史の研究は、江戸という都市が武家地・町人地・寺社地という性格の異なる土地から構成されていたことを繰り返し指摘してきた。内藤昌『江戸と江戸城』(1966)は、城郭と城下町の設計としての江戸を描き、玉井哲雄『江戸——失われた都市空間を読む』(1986)は、絵図や町方の記録から都市の空間構成を読み解いた。陣内秀信『東京の空間人類学』(1985)は、水辺や坂、社寺の境内といった地形と場所の性格が近代以降の東京にも引き継がれていることを示し、吉田伸之『成熟する江戸』(2002)は、身分と職分の集まりとして都市社会を捉える見方を提示している。これらの研究に共通するのは、土地の性格が所有と支配のあり方によって決まり、その上で人びとの生活が展開したという理解である。

三つの層類型都市空間使われ方
図2本稿の分析枠組み。空地を、設けられた目的・管理する主体・実際の使われ方という三つの層に分けて読み解く。

2.3 分析枠組み——目的・管理・利用の三層

本稿は近世の空地を、次の三つの層に分けて記述する。第一に「目的」の層である。その土地は何のためにあけられたのか。防火のためか、信仰のためか、交通のためか。第二に「管理」の層である。誰がその土地を所有し、誰が使い方を規律していたのか。幕府の町奉行か、寺社奉行の管轄下にある寺社か、宿の問屋場か。第三に「利用」の層である。人びとは実際にそこで何をしていたのか。そして、その利用は管理者の意図とどれだけ一致していたのか。

この三層に分けることの利点は、近世の空地の特徴が「目的と利用のずれ」にあることを明示できる点にある。火除地は防火のために設けられたが、そこで行われたのは商いと見世物であった。境内地は参詣のための土地であるが、そこに集まった人の多くは遊興を目当てにしていた。街道は継立のための道であるが、並木の下は休息と立ち話の場になった。このずれは失敗ではない。むしろ、目的が一つに固定されていない土地こそが、人びとの自由な使い方を許したのである。

空地の種類設けられた目的管理・所有実際に見られた利用
火除地・明地延焼の遮断幕府(町奉行など)仮設の床見世、物置、子どもの遊び
広小路橋詰・門前の防火と通行幕府見世物、水茶屋、往来と滞留
寺社境内地(除地)参詣・信仰・祭礼寺社(寺社奉行の管轄)開帳、勧進相撲、富くじ、茶屋
宿駅・街道の空地人と荷の継立幕府(道中奉行)・宿休息、立ち話、市、旅人の滞留
河岸地荷の積み下ろし幕府・町荷置き、往来、夕涼み

表に示したとおり、近世の空地はいずれも、遊びや憩いを目的として設けられたものではない。この点を確認しておくことは重要である。というのも、近代以後の私たちは、公園を「遊びと憩いのための土地」として当然視するあまり、近世の空地をその原型として読み込みたくなるからである。本稿はその読み込みを避け、目的の違いをまず押さえたうえで、利用の層においてのみ現代の公園と重なりが生じることを示す。

2.4 西欧の広場との違い

比較のために、西欧の都市広場との違いを一点だけ確認しておく。西欧の都市には、市庁舎や聖堂の前に、市場や集会や儀礼のために設けられた広場が古くからあった。そこは建物に囲まれた明確な輪郭を持ち、都市の中心として意識的に設計された空間である。これに対し近世日本の都市には、そうした中心広場に相当する空間が乏しかったとしばしば指摘されてきた。人が集まる場は、中心ではなく縁——橋詰、門前、河岸——に生じ、輪郭も曖昧であった。

この違いは、日本の近代公園が西欧の公園制度を移入する際の受け皿の性格を左右した。移入されたのは広場ではなく、樹木と園路を備えた公園であり、それが接ぎ木された先は、境内地や名所といった縁の空間であった。日本の公園がしばしば市街地の中心から少し外れた場所にあり、建物に囲まれた輪郭を持たないのは、この経緯と無関係ではないと考えられる。

註:本稿で扱う近世の空地は、都市のものが中心である。村落における鎮守の森や辻、共同の草刈場(入会地)も人が集まる場であったが、所有と利用の論理が都市とは大きく異なるため、本稿では立ち入らない。

3. 火除地と広小路——防火が生んだ空地

近世の都市に空地を生んだ最大の要因は、火事である。木と紙と土でできた密集した町並みは、ひとたび火がつけば町単位で焼けた。とりわけ明暦3年(1657年)正月の大火は、江戸の市街の大部分を焼き、江戸城の天守も失われた。天守はその後再建されなかった。この大火を境に、幕府は都市の作り方そのものを見直すことになる。本節では、その見直しの中心にあった火除地と広小路という装置を検討する。

3.1 明暦の大火と都市改造

大火の後に幕府がとった対策は、大きく三つに整理できる。第一に、市街の密度を下げるために、武家屋敷や寺社を城の周辺から外へ移したこと。第二に、延焼を止めるための空地、すなわち火除地を要所に設けたこと。第三に、隅田川に橋を架け、川向こうへの避難路と市街の拡張路を開いたことである。大火の際、川に阻まれて逃げ場を失った人が多かったことが、架橋の理由として語られてきた。両国橋の架橋は大火の直後のこととされ、これによって隅田川の東岸へ市街が広がっていく。

これらの対策に共通するのは、都市を「詰め込む」のではなく「ゆるめる」という発想である。近世の都市計画において、あける・広げる・散らすという操作が明確な政策として現れたのは、この時期が画期であった。ただし注意すべきは、ゆるめる目的があくまで防火と支配の安定であり、住民の快適さや健康ではなかったことである。近代の都市計画が公園緑地に期待した衛生や慰安の機能は、ここにはまだない。

3.2 広小路という装置

火除地のうち、道路の形をとったものが広小路である。橋のたもと、城門の外、町の境といった要所で道幅を大きくとり、そこに建物を建てさせない。火が来たときに火勢を弱め、人が逃げ込む場所ともなる。両国橋の西詰に開かれた両国広小路、上野の山の門前に広がる下谷広小路(上野広小路)は、その代表として知られる。広小路は単なる空地ではなく、道路としての通行機能と、防火のための遮断機能を兼ねる装置であった。

大火密集した町広小路幅をとる
図3広小路の考え方。密集した町並みに幅の広い道をとおし、建物を建てさせないことで火の道を断つ。空地は防火の手段であった。

防火の体制も、この時期に整えられていく。旗本を動員した定火消が置かれ、のちに享保期には町方の負担による町火消が組織される。いろは四十八組として知られる町火消の編成は、火消しの主力を武家から町人へ移す転換であった。当時の消火は、燃えているものを消すよりも、風下の家を壊して延焼を止める破壊消防が中心であったとされる。壊すことで空地をつくるという意味では、火消の作業もまた、瞬間的に火除地を生み出す行為であった。

3.3 明地の逆説——あけておくための土地が使われる

ここに近世の空地をめぐる最も興味深い逆説が生じる。火除地は、あけておくことにこそ意味がある土地である。ところが、都市の中心に生まれた広く平らな土地を、人びとが使わずに済ませるはずがなかった。荷を置き、干し物をし、子どもが遊び、やがて商人が仮の小屋を建てて商いを始める。幕府はこれを繰り返し禁じた。恒久的な建物は認めない。しかし、すぐに片づけられる仮設のものについては、事実上黙認される部分があったとされる。葭簀(よしず)張りの茶屋や、持ち運びできる床見世が広小路に並んだのは、この黙認の余地においてである。

幕府の触書が同じ趣旨の禁令を何度も繰り返していること自体が、禁令が守られていなかったことの証拠である、としばしば指摘されてきた。『御触書寛保集成』や『徳川禁令考』に見られる火除地・明地に関する規制の反復は、行政の意図と現実の利用のあいだの持続的な緊張を示している。この緊張は、現代の公園における禁止看板の増加とも構造が似ている。管理者が想定していない使われ方が生じ、それを規制し、なお使われ続けるという循環である。

3.4 空地は放っておけば埋まる

火除地の歴史をたどると、設けられた空地が時とともに侵食されていく過程が繰り返し現れる。都市の中心部の土地は価値が高く、あけておくことには常に経済的な圧力がかかる。仮設の床見世が並び、やがて建て替えが重なり、実質的に町並みに戻っていく。幕府はそのつど整理を命じ、あるいは新たな明地を別の場所に設けた。空地は一度つくれば維持されるものではなく、維持する意思が働き続けてはじめて残る。この点は、費用と用地の圧力にさらされる現代の公園にも、そのまま当てはまる。

重要なのは、この循環が空地を無価値にしなかったことである。むしろ、仮設であること、いつでも撤去されうることが、広小路の利用を軽やかで多様なものにした。恒久の建物が建たない以上、そこにどんな商いや芸能が現れるかは、季節や流行によって入れ替わる。用途が固定されない土地は、用途が入れ替わり続ける土地になった。次節で見る両国広小路の盛り場化は、この性質が最もよく現れた事例である。

4. 両国広小路——空地が場所になる過程

前節で述べた火除地の逆説を、最もよく体現したのが両国広小路である。隅田川に架けられた両国橋の西詰に開かれたこの空地は、防火のための明地でありながら、江戸を代表する盛り場となった。『江戸名所図会』や当時の絵図には、橋詰にひしめく小屋掛けと人の群れが描かれる。本節では、なぜこの場所が盛り場になったのかを、立地・仮設性・規制という三つの角度から検討する。

4.1 橋詰という立地

両国広小路の第一の条件は立地である。橋は川を渡る唯一の経路であるから、そこを通る人の流れは一点に集まる。橋の手前で人は必ず速度を落とし、待ち、連れを探し、荷を持ち替える。人の流れが滞留に変わる場所が橋詰であった。そこに、建物のない広い土地がある。滞留する人と、空いた床の組み合わせは、商いにとって理想的である。近代の都市論が駅前や交差点に注目するのと同じ原理が、近世の橋詰に働いていた。

さらに橋詰は、都市の境界でもあった。両国橋を渡った先の本所・深川は、大火後に開発が進んだ新しい市街であり、川のこちらとあちらでは町の性格が異なる。境界には、どちらにも属しきらない曖昧な性格が生じやすい。近世の盛り場が、橋詰・門前・河岸といった境界的な場所に生まれる傾向は、しばしば指摘されてきたところである。

4.2 見世物と水茶屋

両国広小路に集まったのは、軽業や曲芸、細工物、珍しい動物や人形の見世物、講釈や物語りの小屋、そして水茶屋であった。いずれも大きな設備を必要とせず、小屋掛けで営むことができる。撤去を命じられればたたむことができ、人気が出れば規模を広げられる。夏には両国の川開きの花火があり、川辺に人が出た。これらは季節と流行に応じて入れ替わる、可変的な賑わいであった。

人の滞留床見世語りと芸名所化
図4橋詰の空地が盛り場になる仕組み。人の流れが滞留に変わる場所に、たためる商いと芸能が寄り集まり、やがて名所として知られていく。

注目すべきは、これらの賑わいが計画の産物ではなかったことである。幕府は両国広小路を盛り場にしようとしたのではなく、あくまで火除の明地として設けた。賑わいは、空地という条件と、橋詰という立地と、仮設営業の黙認という余地が組み合わさった結果、事後的に生じたものである。場所の性格は、設計ではなく積み重ねによって決まった。

4.3 取締りと再生の反復

もっとも、この賑わいは安定していたわけではない。火除地の本来の目的からすれば、小屋掛けが密集することは望ましくない。幕府はしばしば取締りを行い、小屋の撤去や営業の制限を命じた。とくに天保の改革(天保12年=1841年から)においては、風俗の引き締めの一環として、寄席や見世物、芝居に対する規制が強められたことが知られている。しかし、改革の勢いが弱まれば賑わいは戻る。禁じられ、たたまれ、また立つ。両国広小路の歴史は、この反復の歴史でもあった。

この反復から読み取れるのは、盛り場が施設ではなく状態であるという点である。建物が恒久的であれば、規制は建物ごと消し去るしかない。仮設であれば、規制は一時的に賑わいを止めるにすぎない。空地は、賑わいを何度でも受け入れられる器であった。逆に言えば、賑わいはその器を占有できなかった。占有できないことが、空地であり続けることを保証した。

費用の面から見ても、両者の違いは大きい。火除地はあけておくだけでよく、幕府が継続的に管理費を投じる性格の土地ではなかった。賑わいを支える設備は、そこで商う人びとが自前で持ち込み、自前で片づけた。現代の公園は逆に、遊具の点検、樹木の手入れ、便所の清掃といった継続的な費用を管理者が負担する。設備を備えることは利用のしやすさを生むと同時に、維持の義務を生む。空地から公園への移行は、自由の縮小であると同時に、責任の引き受けでもあった。

4.4 用途が決まっていないことの生産性

本節の含意を、現代の公園に引きつけて述べておきたい。現代の街区公園は、遊具・砂場・便所・広場といった施設によって、あらかじめ用途が具体化されている。用途が具体化されることには、誰にとっても使い方がわかりやすいという大きな利点がある。一方で、想定外の使い方は生まれにくくなる。近世の広小路は、用途が定まっていなかったからこそ、季節ごとに違う顔を見せた。

ただし、この対比を単純な優劣として読むべきではない。広小路の自由さは、規制の弱さと表裏一体であり、そこには安全や衛生の保障がなかった。現代の公園が施設と規則を備えているのは、利用者の安全と公平な利用を確保するためである。近世の空地から学べるのは、規則を減らせという主張ではなく、用途を決めすぎない余地を意識的に残すという設計の態度であろう。芝生の広場、何も置かれていない一角、季節ごとに使い方が変わる場所。そうした余地の価値を、近世の広小路は思い出させる。

5. 寺社境内地——信仰が抱えた空地

近世の都市で、まとまった広さの土地が長期にわたって空いていた場所を挙げるとすれば、第一に寺社の境内地である。本堂や社殿、鐘楼や塔といった建物はあるが、その周囲には参道と広場が確保され、木立が残される。境内は、防火のためにあけられた火除地とは違い、信仰の営みそのものが空間を必要としたために生まれた空地であった。本節では、この境内地の制度的性格と、そこで行われた興行と遊興を検討する。

5.1 除地としての境内

近世において、寺社の境内地の多くは年貢を免除された土地、すなわち除地であった。土地は年貢を負担する単位であるから、免除されるということは、経済的な収益を生まなくてもその状態を維持できるということを意味する。町人地であれば、土地はできるだけ細かく分割され、間口の狭い町屋が並び、路地の奥まで使われた。境内地はその圧力から相対的に自由であった。制度が空地を支えていたのである。

管理の面では、寺社は寺社奉行の管轄に属し、町奉行の支配する町人地とは別の系統に置かれた。境内での商いや興行についても、寺社側の許諾と寺社奉行の関与という、町方とは異なる筋道があった。この管轄の違いが、境内をある種の別空間にした。町の規制がそのままには及ばない場所であるという性格が、人と商いを引き寄せた面は小さくない。

5.2 開帳・勧進相撲・富くじ

境内で行われた興行のうち、代表的なものを三つ挙げる。第一に開帳である。ふだん公開しない秘仏や宝物を、期間を限って公開する。自分の寺で行うものを居開帳、他所へ出向いて行うものを出開帳といい、江戸では諸国の寺社の出開帳が盛んに行われた。第二に勧進相撲である。勧進とは寺社の造営や修復のために寄付を募ることであり、その名目で行われる相撲興行が、やがて定期の興行として定着していく。江戸では隅田川東岸の回向院が勧進相撲の場として知られた。第三に富くじ(富突)である。これも寺社の修復費用を集める手段として公認され、抽選の日には多くの人が境内に集まった。

境内地開帳の日信仰水茶屋
図5寺社境内地の性格。年貢を免除された土地が広い空間を保ち、日を限った興行と参詣と茶屋の商いが同じ場所で重なり合った。

これら三つに共通するのは、いずれも寺社の経済的な必要から出発している点である。建物の維持には費用がかかる。その費用を、参詣者を集めることで賄う。つまり境内の賑わいは、信仰の副産物であると同時に、信仰を支える手段でもあった。空地が興行を可能にし、興行が空地を維持する費用を生むという循環がここにある。現代の公園における収益施設の導入をめぐる議論と、遠く響き合う構造である。

5.3 参詣と遊興の不可分

近世の記録や絵図を見るかぎり、参詣と遊興は分けがたく結びついていた。『江戸名所図会』が描く社寺の境内には、参拝する人と並んで、茶屋で休む人、物を見る人、子どもを連れた家族が描かれる。参詣は信心の行為であると同時に、日常から離れて出かけるための正当な理由でもあった。門前には茶屋や土産物の店が並び、境内の内と外にまたがる賑わいの帯を形づくった。

この不可分性は、明治以後の公園の成立を考えるうえで決定的な意味を持つ。1873年の太政官布達が公園の候補として社寺の境内などを名指したのは、そこが宗教施設だからではなく、そこが人の群れ集まる遊観の場所だったからである。信仰の場が同時に遊びの場でもあったという近世の実態が、公園という近代の制度に、いわば器ごと引き継がれた。第7節ではこの点を詳しく論じる。

境内の賑わいは、その外側にも町をつくった。参詣者を目当てに、門前には旅籠・茶屋・土産物の店が並び、門前町と呼ばれる町場が形成される。境内という空地が人を集め、集まった人が周囲に町を育てるという関係である。空地が周囲の土地の価値を高めるという現象は、現代の都市経済学が公園の近接効果として論じるところでもあるが、近世の門前町はその古い形と見ることができる。空地は空いているだけで周囲に働きかけるのである。

5.4 境内の子ども

近世の子どもがどこで遊んでいたかを直接に語る史料は多くない。ただ、絵画資料や随筆の記述からうかがえるのは、道と広場と境内が、そのまま遊び場であったという姿である。境内は屋根のある建物と広い地面と木立を備え、人の目が絶えずあり、雨宿りもできる。祭礼の日には特別な賑わいがあり、日常の日には静かな地面が広がる。用途が固定されていないという点で、子どもにとっては使い勝手のよい場所であったと考えられる。

もっとも、これを現代の児童公園の前身と見るのは行きすぎである。境内は子どものために整備された場所ではなく、遊具もなければ年齢に応じた配慮もない。近代の公園が新しかったのは、子どもという特定の利用者を想定して土地と施設を用意した点にある。近世の空地は、誰のためでもなかったからこそ誰でも使えた。近代の公園は、誰かのために用意されたからこそ、その誰かにとって使いやすい。この違いは、優劣ではなく設計思想の質的な差である。

6. 街道の空地——宿駅・一里塚・並木・渡し

防火と信仰に続く第三の系統は、交通である。近世の街道は、人と荷を送り届けるための線状の施設であり、その運用のために沿道にはさまざまな空地が用意された。宿駅の広場、一里塚、並木の下、渡し場の河原。これらは都市の空地とは形が違うが、目的の副産物として人が集まる場になったという点では同じ論理を共有する。本節ではこれを検討する。

6.1 五街道と道中奉行

近世の主要な街道として、東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五街道が整備された。これらは幕府が直轄する道であり、道中奉行の管轄下に置かれた。街道の要点には宿駅が指定され、人馬を継ぎ立てる役目を負う。宿の運営を担ったのが問屋場であり、公用の通行に対して人足と馬を提供する義務があった。宿だけで足りない場合には周辺の村々が人馬を負担する助郷の仕組みが用いられた。街道は自由な通行路である以前に、公の連絡を確保するための制度であった。

宿駅の実態を記録した資料として、天保期に道中奉行が編ませた『東海道宿村大概帳』が知られる。宿ごとの町並みの長さ、家数、本陣・脇本陣・旅籠の数などが書き上げられており、街道の町場を制度の側から把握する基本史料となっている。こうした記録が作られたこと自体が、街道が管理の対象であったことを示している。

6.2 宿駅の空間

宿駅の中心には、大名や公家の宿泊にあてられる本陣と脇本陣、一般の旅人が泊まる旅籠、そして人馬の継立を差配する問屋場が置かれた。街道に沿って町並みが伸び、その前面には荷を降ろし、人馬が待ち、荷物を積み替えるための空間が必要になる。この空間は建物の前の道の一部であることが多く、明確に区画された広場ではないが、機能としては広場である。定期の市が立つ町場では、この前面の空間が市の場となった。

徒歩の旅一里塚並木渡し場
図6街道が生んだ線状の空地。距離の目印、日差しをさえぎる並木、川待ちの河原。移動のための設備が、休息と滞留の場になった。

6.3 一里塚と並木

一里塚は、街道の一里(約3.9キロメートル)ごとに道の両側に築かれた塚であり、慶長9年(1604年)に幕府の命によって整備が始まったとされる。塚の上には榎などの木が植えられた。目的は距離の目安を示すことと、駄賃の計算の基準を与えることであったが、結果として、木陰のある小さな高まりが街道に等間隔で並ぶことになった。旅人はそこで荷を下ろし、腰を下ろし、次の宿までの見当をつけた。距離標が休憩所を兼ねたのである。

街道の並木も同様である。並木は、夏の日差しをさえぎり、冬の風を弱め、道筋を明示するために植えられ、その維持は沿道の負担とされた。目的は通行の便であって景観や憩いではない。しかし木陰は人を休ませ、木は道の風景を作った。歌川広重が天保期に描いた東海道の風景画に松並木が繰り返し現れるのは、それが街道の視覚的な特徴として広く共有されていたことを示している。

6.4 渡しと川留め

近世の街道が現代の道路と最も異なる点の一つは、大きな川に橋が架かっていないことが多かったという事実である。渡船や徒渡しで川を越え、増水すれば川留めとなって足止めされた。渡し場の河原と、その手前の宿は、待つ人が滞留する場所であった。待つ時間が長ければ、そこには商いが生まれ、宿は賑わう。交通の不便が、結果として人の集まる場所を作った。

この「待つことが場所を作る」という構造は、前節までに見た橋詰の盛り場と同型である。人の流れが速く一様であれば場所は生まれない。流れが止まり、滞留し、待つ時間が生じるところに、人の集まる場所が形成される。近世の空地の多くが、橋詰・門前・渡し場・宿という「移動が中断される点」に生じているのは偶然ではない。

6.5 武家の空地——馬場と的場

交通と並んで、武家の務めもまた空地を必要とした。城下町には、馬を馴らし乗りこなすための馬場が設けられ、弓や鉄砲の稽古のための的場が置かれた。いずれも一定の直線距離と安全のための余地を要するため、市街のなかにまとまった細長い空地が生じる。これらは軍事的な備えのための施設であって、遊びのための土地ではない。しかし稽古のない日には空いており、周囲の人びとがそこを通り、子どもが入り込むこともあったと考えられる。近世の空地の多くが専用の施設でありながら共用の余地を含んでいたことの、もう一つの例である。

そして、この構造は現代の公園にも当てはまる。通り抜けるだけの公園には人が留まらないが、ベンチや木陰があり、待ち合わせに使える公園には人が滞留する。近世の空地が教えるのは、場所をつくるのは面積ではなく、そこで人の動きが止まる理由があるかどうかだ、ということである。

7. 近世の空地と近代の公園——断絶と連続

ここまで、防火・信仰・交通という三つの系統から近世の空地を見てきた。本節では、明治以後に成立した公園という制度が、これらとどのような関係にあるのかを整理する。結論を先に述べれば、両者の関係は単純な継承でも断絶でもない。場所としては連続し、考え方としては断絶している。

7.1 1873年の太政官布達——名前を与えるという行為

明治6年(1873年)1月の太政官布達第16号は、各府県に対し、古くから人びとが群れ集まって遊観してきた場所を選び、公園として差し出すよう求めたものであった。ここで注意すべきは、この布達が新たに土地を買い上げて造成せよと命じていない点である。求められたのは、既にそのように使われている場所を選び出し、公園という名を与えることであった。東京では、上野・浅草・芝・深川・飛鳥山が最初期の公園とされた。いずれも近世を通じて人の集まった場所である。

つまり、日本の公園制度は、無からの創出ではなく命名から始まった。近世に寺社の境内や名所として機能していた土地が、そのまま公園という新しい容器に移し替えられたのである。前節までに見た「目的の副産物としての空地」が、ここで初めて「遊観のための土地」として目的を与えられた。場所は同じで、位置づけが変わった。

布達飛鳥山緑地3-6名づけ
図71873年の布達が行ったのは造成ではなく命名であった。近世から人が集まっていた場所に、公園という新しい名と目的が与えられた。

7.2 飛鳥山という例外

近世においても、為政者が人びとの行楽のために土地を整えた例がなかったわけではない。享保期に徳川吉宗が飛鳥山に桜を植えさせ、庶民の花見の地としたことはよく知られる。隅田川堤の桜も同様に語られてきた。これらは、支配者が民の楽しみのために場を用意したという点で、近世の中では例外的である。

ただし、この例外を近代の公園の直接の先駆と見ることには慎重でありたい。飛鳥山の整備は、行楽の場を制度として保障するものではなく、また継続的な管理と財政の裏づけを伴う仕組みでもなかった。近代の公園制度の新しさは、桜を植えたことにではなく、公園を都市の設備として位置づけ、法と予算によって継続的に維持する仕組みを作ったことにある。飛鳥山が1873年に公園に指定されたという事実は、むしろ、近世に用意された行楽地さえも、近代においては制度に組み込み直す必要があったことを示している。

7.3 何が新しかったのか——目的なき緑地という発想

近代の公園がもたらした最大の転換は、土地の用途をあらかじめ「遊びと憩い」に指定するという発想である。近世の空地は、防火のため、参詣のため、継立のためにあけられていた。その用途に照らせば、人が集まって遊ぶことは、あくまで副次的な、時には邪魔な現象であった。近代の公園は、これを逆転させた。人が集まって過ごすこと自体を土地の目的にし、そのために面積を確保し、施設を置き、予算をつける。

観点近世の空地近代の公園
あけておく理由防火・信仰・交通という別の目的遊びと憩いそのもの
生じ方他の目的の副産物として計画によって意図的に確保
管理町奉行・寺社・宿など複数の系統法にもとづく公物として一元的に管理
利用の決まり方禁令と黙認のあいだで事後的に設置目的と条例で事前に
配置橋詰・門前・渡しなど地形と流れ次第誘致距離と標準面積による計画配置
備えられるもの特になし(仮設の床見世など)遊具・広場・便所・ベンチなど

表に整理したとおり、両者は多くの点で対照的である。とりわけ配置の論理の違いは大きい。近世の空地は、地形と人の流れが生んだ結果として、都市の中に不均等に分布した。近代の公園は、街区公園なら誘致距離250メートル・標準面積0.25ヘクタール、近隣公園なら500メートル・2ヘクタールというように、住民との距離を基準に計画的に配置される。前者は都市の履歴の地図であり、後者は行政の計画の地図である。

7.4 連続する部分——使われ方の水準では

とはいえ、断絶ばかりを強調するのも正確ではない。使われ方の水準では、近世と近代のあいだに明らかな連続がある。人は今も、待ち合わせのために公園に集まり、木陰で休み、季節の行事のためにそこを使う。祭礼の日に境内が別の顔を見せたように、地域の催しの日に公園は別の顔を見せる。用途が指定されていても、人はその指定を少しずつはみ出して使う。管理者の意図と利用者の実践のあいだのずれは、近世から現代まで一貫している。

7.5 盛り場は公園に引き継がれなかった

もう一つ確認しておきたいのは、近世の空地が担っていた機能のうち、公園に引き継がれなかった部分があることである。両国広小路に集まっていた見世物や芝居や商いは、近代においては劇場・映画館・商店街・遊園地といった専用の施設や街区へと分化していった。公園に残されたのは、樹木と園路と広場、すなわち静かに過ごす部分である。近代の公園は、近世の盛り場から賑わいの担い手を切り離した上で成立したと言ってよい。

この分化は、公園に落ち着きを与えた一方で、公園から人を集める力の一部を取り去った。今日、公園でのにぎやかな行為が近隣との調整を要する課題になりやすいのは、この歴史的な役割分担と無関係ではない。近年、飲食や物販の施設を公園に導入する制度上の工夫が各地で試みられているが、それは分化してしまった賑わいの一部を公園に呼び戻す試みとして読むこともできる。

したがって本稿の見立てはこうである。近代の公園は、近世の空地の後継者ではなく、その代替物である。近世の都市が副産物として抱えていた余地は、防火技術の進歩と土地の高度利用によって失われた。失われた余地を、制度によって意図的に取り戻したものが公園である。公園が制度に支えられていること、すなわち法と予算がなければ消えうることは、この成り立ちから理解できる。

8. 磐田市の公園への示唆——100園を空地の履歴として読む

本節では、前節までの見方を磐田市の公園に当てはめる。当サイトが収録する磐田市の公園は100園であり、内訳は市のオープンデータ「都市公園一覧」の94行と、市の施設ガイドのみに掲載された6園である。以下で述べる事実は、このオープンデータと施設ガイドの記載に限られる。個々の公園の成立の経緯や、その土地が近世にどのように使われていたかについては、当サイトは郷土史料にあたっておらず、断定を避ける。ここで示すのは、近世の空地と近代の公園という対比を手がかりに、100園をどう読み直せるかという方法である。

8.1 面積の幅が示すもの

磐田市の公園を面積で並べると、最も広い竜洋海洋公園(総合公園・竜洋地区、221,722平方メートル)から、最も狭い二之宮東第2緑地(都市緑地・中泉地区、17平方メートル)まで、およそ一万倍の幅がある。この幅は、公園という一つの言葉が、性格の異なる複数の種類の土地をまとめて指していることを示している。近世の空地についても事情は似ていた。両国広小路のような広大な明地から、辻の小さな空きまで、規模はまちまちであり、規模ごとに使われ方が違った。

とりわけ小さな土地の扱いは示唆的である。磐田市には都市緑地が10園、広場公園が2園あり、豊田上新屋ポケットパーク(都市緑地・豊田地区、156平方メートル)、豊田第1緑地(都市緑地・豊田地区、254平方メートル)、磐田ららシティ西ポケットパーク(広場公園・豊田地区、362平方メートル)のように、街区公園の国の標準である0.25ヘクタール(2,500平方メートル)を大きく下回る園が含まれる。これらは遊具を並べる場所というより、市街地の中に残された小さな余地に位置づけを与えたものと見るのが自然である。近世の明地が果たしていた「詰め込まれた町並みに息をつかせる」役割を、現代の制度の言葉で言い直したものと読むこともできよう。

磐田市9地区100園遺跡と公園
図8磐田市の100園を空地の履歴として読む視点。面積の幅、地区ごとの分布、名称に残る地名や施設名を手がかりにする。

8.2 史跡・古墳と一体の公園——命名によって引き継がれた場所

第7節で述べたとおり、日本の公園制度は既存の場所に名を与えることから始まった。磐田市の公園にも、その系譜に連なると読める園がある。中泉地区の遠江国分寺史跡公園(歴史公園、21,600平方メートル)は市内で唯一の歴史公園であり、市の施設ガイドに園内施設の記載はない。中泉地区の京見塚公園(街区公園、10,231平方メートル)は施設ガイドが園内施設として京見塚古墳を挙げ、見付地区の一ノ谷公園(街区公園、2,458平方メートル)は一ノ谷遺跡を挙げている。中泉地区には御殿遺跡公園(街区公園、827平方メートル)という名の園もある。

これらの園に共通するのは、遺跡や古墳という「動かせないもの」が土地の上にあることによって、宅地としての高度利用から外れ、結果として空地が保たれてきたと考えられる点である。近世の境内地が年貢の免除によって空地であり続けたのと、仕組みは違うが働きは似ている。土地を空けておく理由が、遊びや憩い以外のところにある。その理由が失われないかぎり、空地は続く。ただし、それぞれの遺跡や古墳と公園の関係の詳細、そして近世におけるその土地の姿は、当サイトの今後の踏査と資料の確認を待つ課題である。

8.3 名称に残る語——広場・渡し・本通

公園の名称は、その土地の履歴を推測する手がかりになることがある。見付地区には見付本通広場公園(街区公園、372平方メートル)があり、市の施設ガイドには駐車場ありとトイレ(多目的トイレ)の記載がある。豊田地区には豊田池田の渡し公園(近隣公園、7,738平方メートル)があり、施設ガイドには駐車場有りと回転遊具、トイレの記載がある。前者の名には広場と本通、後者の名には渡しという語が含まれる。本稿が第4節と第6節で論じた「町の本通りの空地」と「川を渡る場所の滞留」という主題に、名称の上では通じている。

ただし、名称が由来をそのまま保証するわけではない。地名や施設名は後から付けられることも、意味が変わることもある。当サイトはこれらの名称の由来を郷土史料で確かめておらず、近世の地名や交通と結びつけて論じることは差し控える。名称は仮説を立てるための入口であって、結論ではない。これらの由来をたどることは、当サイトが今後、市の資料や地域の歴史に詳しい方の助言を得ながら進めるべき作業である。

8.4 用途が与えられた空地——設備の集計から

近代の公園の特徴は、土地に用途と設備が与えられることであった。磐田市のオープンデータ94行の集計では、トイレ有が69園、車いす対応トイレ有が34園、砂場有が43園、遊具有が64園である。市の施設ガイドや当サイトの判定によって駐車場ありとされる園は33園である。すなわち、収録した公園の多くが、便所や遊具といった具体的な設備を備えている。これは近世の空地には見られなかった性格であり、公園が「誰かのために用意された土地」であることの物的な表れである。

同時に、設備の記載がない園も一定数ある。権現緑地(都市緑地・見付地区、3,264平方メートル)や豊田加茂ポケットパーク(都市緑地・豊田地区、736平方メートル)のように、市の施設ガイドに個別ページがなく、オープンデータの設備フラグも立っていない園である。こうした園は、近世の明地に近い性格、すなわち用途を細かく定めない空地としての性格を保っている可能性がある。ただし、実際にどのような場所であるかは現地を見なければわからない。当サイトの踏査済の園は2026年8月時点で0園であり、この点はこれから確かめる。

8.5 種別の内訳と計画配置の論理

オープンデータによる磐田市の都市公園の種別は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園であり、これに都市公園法の対象外・その他の6園が加わる。過半を占める街区公園51園は、住民との距離を基準に配置される種別であり、第7節で述べた近代の計画配置の論理を最もよく体現している。近世の空地が地形と人の流れによって不均等に分布したのとは、成り立ちが根本的に異なる。

一方で、風致公園3園、歴史公園1園、墓園1園、緑道2園といった種別は、計画配置の論理だけでは説明しきれない。これらは、そこにある樹林や史跡や墓地や水路といった既存の要素に、公園という制度上の位置づけを与えたものと考えられる。1873年の布達が命名から始まったように、これらの種別もまた、土地の側にある理由を制度が受け止めた結果である。磐田市の100園は、計画によって配置された層と、既にあったものに名を与えた層とを、あわせ持っている。

8.6 地区ごとの分布と、これから確かめたいこと

地区別の園数は、見付21園、中泉14園、御厨13園、豊田28園、南部2園、向陽2園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園である。市街地の形成の時期も密度も地区ごとに異なる以上、公園の分布と性格にも違いがあると考えられるが、その検討には各園の成立年と周辺の土地利用の履歴が必要であり、本稿の範囲を超える。本稿の枠組みから当サイトが今後の踏査で確かめたい点は三つある。第一に、遺跡や古墳と一体の園において、史跡の保存と遊び場としての利用がどのように両立しているか。第二に、都市緑地やポケットパークのような小さな空地が、実際に地域の人にどう使われているか。第三に、用途の指定が薄い園に、近世の空地に見られたような自由な使われ方が生じているかどうかである。

註:磐田市の公園の管理は市の都市整備課が担っている。当サイト(ATAWI PARK)は市のオープンデータ(CC BY 3.0・出典:磐田市)と市の施設ガイドの記載をもとに100園を整理したもので、運営は富士ヶ丘サービス株式会社である。本節の記述はいずれも公開資料にもとづくものであり、現地の状況を保証するものではない。

9. 結論と今後の課題

本稿は、近世の日本の都市に公園という制度が存在しなかったにもかかわらず、人が集まり遊ぶ空地が存在したのはなぜか、という問いから出発した。検討の結果として得られた答えは明快である。近世の空地は、遊びや憩いのためにあけられたのではなく、防火・信仰・交通という別の目的のために生じ、その副産物として人びとに使われたからである。

9.1 本稿の要約

第3節で見たように、明暦の大火(1657年)を契機として江戸に設けられた火除地と広小路は、延焼を止めるための装置であった。第4節で見た両国広小路の盛り場化は、橋詰という立地と、仮設営業の黙認という余地の組み合わせが生んだ事後的な結果であり、幕府の計画ではなかった。第5節の寺社境内地は、年貢を免除された除地として空間を保ち、開帳・勧進相撲・富くじが参詣と結びついて行われる場となった。第6節の街道においては、宿駅・一里塚・並木・渡し場という交通のための設備が、人の移動が止まる点をつくり、そこに滞留と賑わいが生まれた。

第7節では、この三系統と近代の公園制度の関係を、断絶と連続の両面から論じた。明治6年(1873年)の太政官布達第16号が行ったのは造成ではなく命名であり、場所としては近世の遊観の地がそのまま公園になった。一方、考え方としては大きな転換があった。土地の用途をあらかじめ遊びと憩いに定め、計画によって配置し、法と予算で維持するという発想は、近世には存在しなかったものである。

残る問い三つの系統踏査項目見直しの視点
図9本稿の結論と課題。空地は副産物であったという理解を土台に、磐田市の公園を踏査で確かめる項目へつなぐ。

9.2 本稿が導く二つの含意

第一の含意は、公園の脆さについてである。近世の空地は、防火や信仰という強い理由によって支えられていた。理由が失われれば空地も失われる。現代の公園を支えているのは、法と計画と予算である。これらは近世の理由に比べて意図的であり、そのぶん、意図が弱まれば揺らぎやすい。公園が当たり前にそこにあるという感覚は、制度が働いている限りでの当たり前である。維持管理の財源や、公園の再編をめぐる議論が各地で生じているのは、この構造の反映と読める。

第二の含意は、用途を決めすぎないことの価値についてである。近世の空地の豊かさは、そこで何が起きるかが決まっていなかったことに由来する。現代の公園は、安全と公平のために用途と規則を必要とするが、そのすべての面積を細かく用途で埋めなければならないわけではない。何も置かれていない一角、季節によって使い方の変わる広場、名前のついていない木陰。そうした余地を意識的に残すことは、歴史から引き出せる実践的な提案である。

第三に、読み方についての含意がある。ある公園がなぜそこにあるのかを考えるとき、私たちはつい、誰かが公園をつくろうと決めたからだと考える。しかし本稿が示したのは、土地が空いている理由は多くの場合それ以外にある、ということであった。川があった、崖があった、遺跡があった、道が曲がっていた。近世の空地に働いていたこの論理は、現代の都市にも残っている。公園を読むことは、その土地が宅地にならなかった理由を読むことでもある。

9.3 本稿の限界

本稿には三つの限界がある。第一に、近世の空地に関する記述は江戸を中心としており、大坂・京都や地方の城下町・在郷町については十分に扱えていない。都市の性格が異なれば空地の生じ方も異なるはずであり、比較は今後の課題である。第二に、史料の性格上、記録に残るのは興行や取締りといった目立つ出来事であり、日常的な使われ方、とりわけ子どもや女性の利用については史料の制約が大きい。第三に、磐田市に即した近世の検討ができていない。第8節で述べたとおり、当サイトは地域の郷土史料にあたっておらず、地名や園名の由来を論じるには至っていない。

9.4 今後の課題

以上を踏まえ、今後の課題を三点挙げる。第一に、磐田市の各公園について、市の資料や地域の歴史を扱う資料にあたり、その土地がいつからどのように使われてきたかを可能な範囲で確かめること。第二に、当サイトの踏査を進め、遺跡や古墳と一体の園、小さな都市緑地やポケットパーク、設備の記載がない園について、現地の姿と公開資料の記載を照らし合わせること。第三に、本稿が提示した「目的・管理・利用」の三層という枠組みを、現代の公園の運用にも適用し、設置目的と実際の使われ方のずれを記述する方法を整えることである。

近世の人びとは、公園という言葉を持たないまま、都市の余地を上手に使っていた。その使い方は制度に守られていなかったがゆえに自由であり、同時に不安定であった。私たちが受け継いだ公園は、その自由を制度の側から保障しようとした試みである。保障されたものは失われにくいが、意識されなくなれば細っていく。磐田市の100園を一つずつ確かめていく作業は、この保障がいまどのように働いているかを地域の水準で見届ける作業でもある。本稿はその出発点として、公園以前の空地の姿を記述した。

参考文献

  1. 斎藤月岑『武江年表』(嘉永2年=1849年正編刊。東洋文庫版ほか)
  2. 斎藤幸雄・幸孝・幸成『江戸名所図会』(天保5〜7年=1834〜36年刊、長谷川雪旦画)
  3. 道中奉行『東海道宿村大概帳』(天保期の宿駅調査記録)
  4. 石井良助編『徳川禁令考』(創文社)
  5. 高柳眞三・石井良助編『御触書寛保集成』(岩波書店)
  6. 児玉幸多(1957)『近世宿駅制度の研究』(吉川弘文館)
  7. 内藤昌(1966)『江戸と江戸城』(SD選書、鹿島出版会)
  8. 陣内秀信(1985)『東京の空間人類学』(筑摩書房)
  9. 玉井哲雄(1986)『江戸——失われた都市空間を読む』(平凡社)
  10. 吉田伸之(2002)『成熟する江戸』(日本の歴史17、講談社)
  11. 白幡洋三郎(1995)『近代都市公園史の研究——欧化の系譜』(思文閣出版)
  12. 小野良平(2003)『公園の誕生』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館)
  13. 田中正大(1974)『日本の公園』(SD選書、鹿島出版会)
  14. 太政官布達第16号(明治6年1月15日)「府県ニ於テ公園ヲ設ケシム」
  15. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  16. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  17. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

← 人文学 の論文一覧 公園学術論文 トップ 読みもの(公園ガイド)