社会科学子どもの権利論
遊ぶ権利——子どもの権利条約第31条と公園整備の義務
要旨
本稿は、公園を「あるとありがたい施設」ではなく「子どもの権利を実現するための手段」として読み直す試みである。児童の権利に関する条約(1989年国連総会採択、日本は1994年批准)は、第31条で休息・余暇・遊び・レクリエーション・文化的生活および芸術への参加についての子どもの権利を認め、第12条で自己に影響を及ぼす事項について意見を表明する権利を保障している。日本では、こども基本法(令和4年法律第77号)がこの条約の精神にのっとることを明記し、意見の反映を国と地方公共団体の責務として置いた。遊びを権利として語ることは、遊び場の整備を行政の善意や余力の問題から、根拠と説明責任をともなう課題へと位置づけ直す作業にほかならない。
方法は、条約・法令・国連子どもの権利委員会の一般的意見といった公開文書の読解と、権利論・参加論の基本概念の整理である。第2節で権利概念の系譜と自由権・社会権の区別、ケイパビリティの考え方を整理し、第3節で第31条の四つの要素とその読み方を検討する。第4節では、人権が国家に課す尊重・保護・充足という三層の義務の枠組みを用いて、公園整備がどの層に位置するのかを分析する。第5節で遊び場の量・質・アクセス可能性という三側面を、第6節で意見表明権にもとづく参加手続の制度化と形骸化の危険を論じ、第7節で想定される反論に応答する。
検討の結果、第31条は具体的な施設の数量を直接命じる条文ではないが、遊びの機会を確保する方向で資源を用いるという方向性の義務を締約国に負わせており、その方向性は都市公園法や施行令の標準、こども基本法の基本理念と接続しうること、参加の手続は形式を整えるだけでは権利の実現にならないことを示す。磐田市については、当サイトATAWI PARKが収録する100園の種別・地区分布・設備の記載から、量・質・アクセス可能性の三側面がどのように現れうるかを検討する。個々の園で子どもがどう遊べているかは、今後の踏査で確かめるべき課題である。
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1. はじめに——問題の所在
公園の遊具が古くなって撤去されたまま補充されない、砂場が使えなくなっている、近くに公園がないので子どもを歩かせるには遠すぎる。こうした事柄は、日常の会話では「残念だが仕方がない」という語り方をされることが多い。予算には限りがあり、公園は道路や学校や福祉のあとに回る。そこには、遊び場は行政が余力のある範囲で整えてくれるもの、すなわち一種の恩恵であるという前提が潜んでいる。本稿が問いたいのは、その前提が本当に正しいのか、である。
国際法と日本の国内法は、少なくとも文言のうえでは別の前提に立っている。児童の権利に関する条約(1989年に国際連合総会で採択され、日本は1994年に批准した。以下、条約)は第31条で、休息および余暇についての子どもの権利と、年齢に適した遊びおよびレクリエーションの活動を行う権利、文化的な生活および芸術に自由に参加する権利を認めている。第12条は、自己に影響を及ぼすすべての事項について子どもが自由に意見を表明する権利を保障し、その意見が年齢および成熟度に従って相応に考慮されるべきことを定めている。そして2022年に成立したこども基本法(令和4年法律第77号)は、日本国憲法および条約の精神にのっとることを第1条で明記し、こども施策の策定・実施・評価にあたって当事者であるこどもの意見を反映させる措置を、国および地方公共団体の責務として置いた。
1.1 本稿の問い
権利として遊びを語ることには、実務的な意味がある。恩恵であれば、与えるかどうかは与える側の裁量であり、与えられなかったことについて説明を求める足場は弱い。権利であれば、実現されていない状態は正当化を要する状態になり、なぜ実現できていないのか、どのような順序で実現していくのかを説明する責任が生じる。本稿は、この転換がどこまで成り立つのかを検討する。具体的には次の三つを問う。第一に、第31条は国や自治体に何を義務づけているのか。数量的な整備義務まで含むのか、それとも方向性の義務にとどまるのか。第二に、遊び場を権利の観点から評価するとき、どのような側面を見ればよいのか。第三に、第12条とこども基本法が求める意見の反映は、どうすれば形だけのものにならずにすむのか。
1.2 方法と限界
方法は、公開された条約・法令・国連子どもの権利委員会の一般的意見の読解と、権利論および参加論の基本概念の整理である。一般的意見とは、条約の実施を監視する委員会が、条文の解釈と締約国への期待を示すために公表する文書であり、それ自体に法的拘束力はないが、条文をどう読むかの有力な手がかりとされる。本稿は法解釈の専門的な論争や個別の判例には立ち入らず、また特定の自治体の施策を評価することも目的としない。数量的な調査もおこなっておらず、遊び場の数と子どもの発達との関係について具体的な数値を主張することはしない。あくまで、既存の公開文書を手がかりに、公園を権利の言葉で語り直すとどのような見取り図が得られるかを示すことに徹する。
構成は次のとおりである。第2節で権利概念の系譜と関連する理論を整理し、第3節で第31条の構造を読む。第4節で人権が国家に課す義務の三層を用いて公園整備の位置を確かめ、第5節で遊び場の量・質・アクセス可能性という三つの側面を検討する。第6節で第12条にもとづく参加の制度化と形骸化を論じ、第7節で想定される反論に応答する。第8節で磐田市の公園に引きつけて考え、第9節で結論と今後の課題を述べる。なお当サイトATAWI PARKは磐田市の公園100園を収録するデータベースであり、現地の踏査はこれから始める段階にある。したがって本稿の磐田市についての記述は、公開データと市の施設ガイドの記載にもとづく検討にとどまる。
2. 先行研究と概念の整理——子どもの権利という考え方はどこから来たか
子どもを権利の主体とみなす考え方は、それほど古いものではない。長いあいだ子どもは、保護されるべき対象、あるいは大人になる途中の未完成な存在として扱われてきた。スウェーデンのエレン・ケイが『児童の世紀』(1900年)で二十世紀を子どもの世紀にすべきだと説いたとき、その主張は理念の宣言であって法の言葉ではなかった。ポーランドの医師で教育者のヤヌシュ・コルチャックは、著作のなかで子どもが今日を生きる存在であり、今のありようそのものが尊重されるべきだと繰り返し述べた。子どもは将来のための準備物ではないというこの視点は、のちの条約の思想的な源流の一つとされる。
2.1 宣言から条約へ
国際的な文書としては、1924年に国際連盟が採択した児童の権利に関するジュネーブ宣言が最初期のものであり、1959年には国際連合が児童の権利に関する宣言を採択した。この1959年の宣言には、遊びおよびレクリエーションの機会に関する記述がすでに含まれている。日本国内では、1947年制定の児童福祉法と、1951年に制定された児童憲章が、子どもの健やかな育ちを社会全体の責任として掲げた。しかし宣言や憲章は理念を示す文書であり、締約国に具体的な義務を負わせる仕組みは持たなかった。それが条約という形をとり、報告と審査の手続をともなうようになったのが1989年である。
| 年 | 文書・出来事 | 遊び・余暇に関する位置づけ |
|---|---|---|
| 1900 | エレン・ケイ『児童の世紀』 | 子どもの固有性を説く理念の書 |
| 1924 | 児童の権利に関するジュネーブ宣言(国際連盟) | 子どもの保護を国際的に宣言 |
| 1948 | 世界人権宣言 | 第24条で休息および余暇の権利を万人に認める |
| 1951 | 児童憲章(日本) | 子どもを人として尊ぶ理念を国内で宣言 |
| 1959 | 児童の権利に関する宣言(国際連合) | 遊びおよびレクリエーションの機会に言及 |
| 1989 | 児童の権利に関する条約(国際連合総会採択) | 第31条で遊びを権利として明記 |
| 1994 | 日本が条約を批准 | 国内で条約が効力を持つ |
| 2013 | 子どもの権利委員会 一般的意見第17号 | 第31条の解釈と締約国への期待を整理 |
| 2022 | こども基本法(令和4年法律第77号) | 条約の精神にのっとることを明記 |
2.2 自由権と社会権、そして漸進的実現
権利論では、国家が邪魔をしないことによって実現する権利(自由権的な側面)と、国家が資源を投じて条件を整えることによって実現する権利(社会権的な側面)とを区別することが多い。遊ぶ権利は両方の性格をあわせ持つ。子どもが公園で遊ぶのを不当に排除しないことは前者にあたり、そもそも遊べる場所を確保することは後者にあたる。社会権的な側面については、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約、日本は1979年に批准)が、利用可能な資源を最大限に用いて漸進的に達成するという考え方を示している。条約も第4条で、経済的・社会的・文化的権利については自国における利用可能な手段の最大限の範囲内で措置を講ずる旨を定める。漸進的実現とは、すぐに完全な状態にできなくてもよいという免罪符ではなく、資源の許すかぎり前進させ、後退させないことを求める枠組みだと理解されている。
2.3 遊び論とケイパビリティ
遊びそのものについての古典としては、ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(1938年)とロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(1958年)がよく知られる。ホイジンガは、遊びが日常の生活から区切られた時間と空間のなかで、自発的に、それ自体を目的として営まれることを強調した。カイヨワは遊びを競争・偶然・模擬・眩暈という四つの型に整理した。いずれも、遊びは何かの役に立つから価値があるのではなく、それ自体に価値があるという理解を支える。この理解は権利論と接続する。マーサ・ヌスバウムは、人が人らしく生きるために必要な中心的なケイパビリティ(潜在能力、その人が実際に選びとれる生き方の幅)の一覧を示し、そこに笑うこと・遊ぶこと・レクリエーションを楽しむことを含めた。アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチが、資源をどれだけ持っているかではなく、その資源で何ができるようになるかを問うたことを踏まえれば、遊具の数を数えるだけでは足りず、その子がそこで実際に遊べるかを問うべきだという発想が導かれる。
2.4 日本における受容——批准のあとに何が起きたか
日本が条約を批准したのは1994年である。批准によって条約は国内で効力を持つが、それがただちに個々の行政実務を変えるわけではない。批准後しばらくのあいだ、条約は主に教育や福祉の理念を語る際に参照される文書であり、施設整備の根拠として持ち出されることは多くなかった。転機の一つは2016年の児童福祉法の改正である。この改正で、同法の第1条に、全て児童は児童の権利に関する条約の精神にのっとり適切に養育されること等を保障される権利を有する旨が書き込まれた。国内の基本的な法律の冒頭に条約の名が現れたことは、条約を理念から実務の言葉へ引き寄せる作業の一歩であった。
もう一つの転機が、2022年のこども基本法の成立と、2023年のこども家庭庁の発足である。こども基本法は条約の四つの一般原則、すなわち差別の禁止、子どもの最善の利益、生命・生存および発達に対する権利、意見を表明する権利に対応する内容を基本理念に取り込んだ。地方の段階では、これに先立って独自の条例を持つ自治体があった。とはいえ、条約の受容の歴史を見て気づくのは、遊びが議論の中心に置かれてきたとは言いにくいことである。虐待の防止、貧困への対応、教育の機会といった課題が優先される場面で、遊びは後回しにされやすい。一般的意見第17号が第31条をわざわざ主題としたのは、この傾向が国際的にも共通していたからだと考えられる。
3. 第31条の構造——休息・余暇・遊び・文化的生活
条約第31条は二つの項からなる。第1項は、締約国が、休息および余暇についての子どもの権利、その年齢に適した遊びおよびレクリエーションの活動を行う権利、ならびに文化的な生活および芸術に自由に参加する権利を認める、と述べる。第2項は、締約国が文化的および芸術的な生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進するものとし、文化的および芸術的な活動ならびにレクリエーションおよび余暇の活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する、と述べる。短い条文であるが、注意して読むと少なくとも四つの異なる事柄が並んでいることがわかる。休息、余暇、遊びおよびレクリエーション、文化的生活および芸術である。
3.1 四つの要素は同じものではない
休息とは、活動を止めて身体と心を回復させることであり、睡眠や静かに過ごす時間を含む。余暇とは、義務的な活動から解放された自由に使える時間そのものを指す。遊びは、その自由な時間のなかで子どもが自発的に選び、自分で方向を決めていく活動である。レクリエーションは、遊びを含みつつ、より広く楽しみのための活動を指す。文化的生活および芸術への参加は、地域の祭りや音楽、造形、物語の世界に加わることを指す。この四つは重なり合うが、同一ではない。実務上とくに重要なのは、余暇が確保されなければ遊びは成り立たないという順序である。遊び場をいくら整えても、子どもの一日が予定で埋まっていれば第31条は満たされない。逆に時間があっても、行ける場所がなければやはり満たされない。時間と場所の双方が要件である点は、公園を論じるうえで見落とされやすい。
3.2 一般的意見第17号が示した読み方
国連子どもの権利委員会は2013年に、第31条を主題とする一般的意見第17号を公表した。委員会がひとつの条文について独立した文書を出すこと自体が、その条文が十分に理解されてこなかったという認識の表れでもある。この文書は、第31条が条約のなかで最も認識の薄い権利の一つであると述べ、遊びが子どもの発達にとって周辺的なものではなく中心的なものであることを強調している。とくに重視されているのが、大人が用意した課題をこなす活動ではなく、子ども自身が始め、方向を決め、途中で変え、やめることもできる自由な遊びである。何をして遊ぶかを子どもが決められることが、遊びを遊びたらしめる。この点は、第2節で触れたホイジンガの自発性の議論と響き合う。
同文書はまた、第31条の実現を妨げる要因を列挙している。遊びの重要性が社会的に認識されていないこと、安全でない環境、子どもが公共空間を使うことへの抵抗、リスクと安全のバランスの取り方、自然に触れる機会の乏しさ、学業達成への圧力、過度に構造化され予定で埋められた生活、遊びや文化への投資の少なさ、電子メディアの比重の増大、遊びの商業化などである。ここで注目したいのは、これらの多くが施設の不足ではなく、社会の側の態度や時間の使い方に関わる要因だという点である。遊具を増やすことだけが第31条の実施ではない。
3.3 第31条は単独では読めない
条約の条文は互いに支え合っている。第2条は差別の禁止を定め、第3条は子どもに関する措置において子どもの最善の利益が第一次的に考慮されるべきことを定める。第6条は生命への権利と生存および発達の確保を、第23条は障害のある子どもが尊厳を持ち、自立を促進し、社会への積極的な参加を容易にする条件のもとで生活すべきことを述べる。第31条をこれらと合わせて読むと、単に遊び場が存在すればよいのではなく、どの子どもも排除されずに遊べるかが問われることになる。とりわけ一般的意見第17号は、女子、貧困のなかにある子ども、障害のある子ども、施設で暮らす子ども、少数者や先住民の子ども、紛争や災害の影響下にある子どもなど、第31条の実現がとくに困難になりやすい集団に注意を促している。差別の禁止と最善の利益を経由するからこそ、遊ぶ権利はインクルーシブな遊び場という具体的な課題に結びつく。
3.4 遊びそのものは供給できない——第31条に固有の難しさ
第31条には、他の権利にはない固有の難しさがある。遊びは自発的な活動であるから、国家が遊びを供給することはできない。教育を受ける権利であれば学校を設け教員を置くことが直接の実施になり、健康についての権利であれば医療の提供が直接の実施になる。ところが遊びは、大人が用意した通りに実行させた時点で遊びではなくなる。行政ができるのは、遊びが起こりうる条件、すなわち時間と場所と安心と仲間を整えることまでである。この間接性が、第31条を実務に落としにくくしている一因である。
この難しさは、遊びを催しとして企画することの限界も示している。イベントとしての遊びの場は、それ自体に価値があるとしても、参加できる子どもと日時が限られ、終われば消える。これに対し公園は、開いている時間に誰でも入れ、そこにあり続ける。条件を整えるという意味では、催しよりも空間のほうが第31条になじみやすい。もっとも、空間があれば遊びが起きるとも限らない。誰も来ない公園、遊び方のわからない公園、居心地の悪い公園は現実に存在する。条件を整えるとは物をつくることに尽きず、人がそこに集まり、居てよいと感じられる状態をつくることまでを含む。第5節で扱う質と社会的アクセスの論点は、この間接性から必然的に導かれる。
4. 権利は誰に何を義務づけるか——尊重・保護・充足の三層
ある人に権利があると言うとき、その主張が意味を持つのは、誰かに対応する義務があるからである。権利と義務が対をなすという理解は、アメリカの法学者ウェズリー・ホーフェルドが権利概念を分析的に整理した仕事(1913年ごろ)以来、法学の基本的な道具になっている。子どもに遊ぶ権利があるとして、では誰が何をしなければならないのか。この問いに答えないかぎり、権利という語は道徳的な励ましの言葉にとどまる。
4.1 三層の義務という枠組み
国際人権法の分野では、人権が国家に課す義務を三つの層に分けて考える枠組みが広く用いられている。第一は尊重する義務であり、国家自身が権利の享受を妨げないことを求める。第二は保護する義務であり、第三者による侵害から権利を守ることを求める。第三は充足する義務であり、権利が実際に享受できるよう条件を整えることを求める。この分け方は、社会権規約の解釈をめぐる議論のなかで整理され、条約の実施を論じる際にも用いられている。遊ぶ権利にあてはめると、それぞれ次のような内容になる。
| 義務の層 | 内容 | 遊ぶ権利における例 |
|---|---|---|
| 尊重する義務 | 国・自治体自身が権利の享受を妨げない | 既存の遊び場を正当な理由なく廃止しない。子どもの利用を過度に規制しない |
| 保護する義務 | 第三者による侵害から守る | 遊具の安全に関する基準を設け点検を求める。遊び場が他の用途に転用されるのを制御する |
| 充足する義務 | 享受できる条件を積極的に整える | 身近な範囲に遊び場を配置する。誰もが使える設備を整える。遊びの情報を届ける |
この三層は、公園行政の実務を整理する道具として使える。たとえば公園の統廃合は尊重する義務に、遊具の点検と安全基準は保護する義務に、新設や改修や情報提供は充足する義務に対応する。第4節の後段で見るように、三つの層は要求の強さが異なる。尊重する義務は資源をほとんど必要とせず、原則として直ちに果たすことが求められる。充足する義務は資源を要するため、漸進的な実現になじむ。したがって「予算がないから」という説明は、充足する義務については一定の説得力を持ちうるが、尊重する義務については通用しにくい。既にある遊び場を減らすことは、財政上の理由だけでは正当化しにくいのである。
4.2 恩恵と義務はどこが違うのか
遊び場の整備を恩恵とみるか義務とみるかで、実務上の何が変わるのか。三点を挙げたい。第一に、説明の向きが変わる。恩恵であれば、整備したときに成果として説明される。義務であれば、整備できていない状態について、なぜできていないのかを説明する必要が生じる。第二に、優先順位の議論の土俵が変わる。恩恵であれば他の事業との比較は政策的な好みの問題になるが、義務であれば、利用可能な資源を最大限に用いたと言えるかどうかが問われる。第三に、後退への歯止めが生じる。漸進的実現の考え方には、いったん達成した水準を正当な理由なく引き下げてはならないという含意があるとされる。遊び場を減らす方向の判断には、代替の確保や合理的な理由の提示が求められることになる。
4.3 日本の国内法における位置
では日本の国内法は、遊びについてどこまで義務を書き込んでいるか。こども基本法は第1条で、日本国憲法および条約の精神にのっとり、こども施策を総合的に推進することを目的として掲げる。第3条の基本理念には、すべてのこどもが個人として尊重され基本的人権が保障されること、その健やかな成長および発達が図られること、年齢および発達の程度に応じて自己に直接関係する事項について意見を表明し多様な社会的活動に参画する機会が確保されること、その意見が尊重され最善の利益が優先して考慮されること、などが並ぶ。遊びという語が正面から掲げられているわけではないが、健やかな成長と発達、社会的活動への参画という理念のなかに遊びの機会を読み込むことは無理のない解釈である。他方で都市公園法および同施行令は、公園の配置と規模の標準を示すものの、それは市町村が条例で基準を定める際に参酌すべき目安であって、直ちに整備義務を生じさせる規定ではない。国内法のレベルでは、遊ぶ権利と公園整備を結ぶ線はまだ細い。この細さこそが、権利論から公園を論じる意義でもある。
4.4 義務を負うのは誰か——国・自治体・そして大人
条約が義務を負わせる相手は締約国、すなわち国である。しかし公園を設置し管理するのは主として市町村であり、実際に子どもの遊びの条件を左右するのは自治体の判断である。条約上の義務を国内でどう分担するかは各国の制度に委ねられており、日本では地方自治の枠組みのなかで自治体が担う部分が大きい。こども基本法が国だけでなく地方公共団体を名宛人としたのは、この実情に対応する設計である。したがって遊ぶ権利をめぐる議論は、国際法の一般論にとどまらず、市の公園行政、道路管理、学校、児童福祉といった複数の部署の判断が交わる地点で具体化する。
他方で、法的な義務を負うのは公権力であっても、遊びの条件を左右するのは公権力だけではない。近隣の住民が公園の使い方に注文をつけること、保護者が子どもの時間をどう配分するか、地域の大人が子どもの遊びをどう見るか。これらは法的な義務の対象ではないが、事実として第31条の実現を左右する。一般的意見第17号が、施設の不足だけでなく社会の側の態度を実現の障壁として挙げたのは、この層を視野に入れているからである。権利論を持ち出すことの効用は、行政を責める材料を得ることではなく、誰のどの判断が子どもの遊びの条件に影響しているのかを分解して見えるようにすることにある。責任の所在を明らかにするための道具として使うのであれば、権利の言葉は対立ではなく協働に資する。
5. 遊び場を権利から評価する——量・質・アクセス可能性の三側面
権利の実現状況を評価するとき、社会権の分野では、その財やサービスが十分にあるか、実際にたどりつけるか、内容が受け入れられるものか、多様な状況に適応しているか、といった複数の観点を組み合わせる手法が用いられてきた。教育を受ける権利の分析でよく知られるこの発想を遊び場に応用すると、量・質・アクセス可能性という三つの側面に整理できる。三つは互いに置き換えがきかない。数が多くても遠ければ意味がなく、近くても入りにくければ使われず、使えても遊べる内容がなければ第31条の言う遊びにはならない。
5.1 量——どれだけあれば足りるのか
量については、日本には既存の目安がある。都市公園法施行令は、主として街区内に居住する者の利用に供する都市公園について誘致距離250メートル・面積0.25ヘクタールを、近隣に居住する者の利用に供するものについて誘致距離500メートル・面積2ヘクタールを、徒歩圏に居住する者の利用に供するものについて誘致距離1キロメートル・面積4ヘクタールを標準とする。あわせて、市町村の区域内の住民一人当たりの都市公園の敷地面積の標準を10平方メートル以上、市街地については5平方メートル以上としている。誘致距離とは、その公園を日常的に使うと想定される範囲を距離で表した目安である。ただしこれらは2012年前後の制度改正以降、市町村が条例で基準を定める際に参酌すべき目安という位置づけになっており、達成されていないことが直ちに違法を意味するわけではない。
権利論の観点から重要なのは、平均値ではなく分布である。一人当たり面積の市全体の平均が目安を満たしていても、大きな運動公園が一つあるために平均が押し上げられているだけで、身近な街区公園が乏しい地区が残っていることはありうる。子どもが自力で歩いて行ける距離は限られており、遠くの大きな公園は保護者の送迎という条件がついてはじめて使える。送迎できる家庭とそうでない家庭のあいだで、遊びの機会に差が生まれる。差別の禁止を定める条約第2条を経由すると、量の評価は総量ではなく、地区ごと・年齢ごとの偏りの点検でなければならないことになる。
5.2 質——遊べる場所になっているか
質の側面は、面積や遊具の数では測れない。一般的意見第17号が重視する自由な遊びの観点からは、子どもが自分で遊び方を決められる余地があるかが問われる。使い方が一つに決まっている固定遊具ばかりの場所より、砂や水や草地や高低差のように使い方を子どもが発明できる要素があるほうが、遊びは豊かになりやすいとされる。年齢の幅も質の一部である。よちよち歩きの子と小学校高学年の子では必要な空間が異なり、同じ場所に混在すると双方が遊びにくくなる。また、遊びには必ず身体的な挑戦がともなう。国土交通省の遊具の安全確保に関する指針は、子どもが認識でき挑戦の対象となるリスクと、子どもが認識できず事故につながる危険であるハザードとを区別し、後者を除去する考え方を示している。危険を一律に取り除くのではなく、ハザードを除いてリスクは残すという設計思想は、遊びを権利として尊重する立場と整合的である。安全に関する個別の判断は、管理者と専門機関に委ねられるべき事柄である。
5.3 アクセス可能性——たどりつけるか、入れるか
アクセス可能性は、少なくとも五つの層に分けて考えられる。第一に物理的なアクセスであり、そこまでの経路の安全と、園内の段差や舗装の状態が問われる。車いすやベビーカーで入れない遊び場は、障害のある子どもと乳幼児を事実上排除する。第二に時間的なアクセスであり、放課後や休日に使えるか、夏の暑い時間帯に日陰があるかといった条件が含まれる。第三に社会的なアクセスであり、そこにいてよいと感じられるかどうかである。禁止事項ばかりが並ぶ掲示や、特定の年齢層に占有された空間は、法的には誰でも入れても心理的な障壁になる。第四に情報のアクセスであり、どこにどのような公園があり、何ができるのかが知られていなければ、その公園は存在しないのと変わらない。第五に経済的なアクセスであり、公園が無料で使えることは、遊びの機会を家庭の経済状況から切り離す装置として働く。
| 側面 | 問い | 見るべき手がかり |
|---|---|---|
| 量 | 身近な範囲に遊び場があるか | 誘致距離、地区ごとの園数、一人当たり面積の分布 |
| 質 | そこで実際に遊べるか | 自由な遊びの余地、年齢の幅、ハザードの除去、日陰や休息の場 |
| 物理的アクセス | たどりつけるか、入れるか | 経路の安全、出入口の段差、園路の舗装、多目的トイレ |
| 時間的アクセス | 使いたい時に使えるか | 放課後・休日の利用、季節と時間帯の条件 |
| 社会的アクセス | いてよいと感じられるか | 掲示の書きぶり、年齢層の混在、見守る大人の存在 |
| 情報のアクセス | 知られているか | 公開されている情報の粒度、設備の記載、地図で探せるか |
5.4 三側面の外にある条件——時間
最後に、量・質・アクセス可能性のいずれにも収まりきらない条件として、時間を改めて取り上げたい。第3節で述べたとおり、第31条は余暇、すなわち義務的な活動から解放された自由に使える時間を、遊びと並べて明記している。ところが遊び場の評価は、空間の話に偏りやすい。公園の数を数え、面積を測り、設備を数えることはできるが、子どもの一日にどれだけの自由な時間が残っているかは、公園の側からは見えない。学校の時間、宿題、習い事、家庭の事情、送り迎えの都合。これらが積み重なると、歩いて数分の公園があっても、そこで過ごす時間が生まれないことがある。
この点は、遊び場の整備を担う部署と、子どもの時間に関わる部署とが別であるという行政の構造とも関わる。公園の整備は都市や土木の部署が、学校の時間は教育の部署が、放課後の居場所は福祉や子育ての部署が担うことが多い。第31条は、これらを横断して読まれるべき条文である。こども基本法が、こども施策を分野横断的に総合的に推進することを目的として掲げたのは、こうした分断への対応という側面を持つ。公園を権利から論じるとき、空間の議論と時間の議論を切り離さないことが、実務の設計としても重要になる。
6. 第12条と参加——聞く手続きの制度化と、形骸化という落とし穴
条約第12条は、自己の意見を形成する能力のある子どもが、自己に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保すべきこと、そしてその意見が子どもの年齢および成熟度に従って相応に考慮されるべきことを定める。公園の計画・改修・廃止は、そこで遊ぶ子どもに直接影響を及ぼす事項であるから、第12条の射程に入る。子どもの権利委員会は2009年の一般的意見第12号でこの条文を詳しく論じ、意見を聴かれる権利が、意見を述べる機会と、述べられた意見が適切に重んじられることの二つからなることを強調している。聞き置くだけでは足りず、どのように考慮したかが返されてはじめて権利は満たされる、という理解である。
6.1 日本における制度化
日本では、こども基本法が第11条で、国および地方公共団体がこども施策を策定し、実施し、評価するにあたって、その施策の対象となるこどもやこどもを養育する者その他の関係者の意見を反映させるために必要な措置を講ずるものとする、と定めた。基本理念を掲げるだけでなく、意見の反映という手続を法律の条文に置いた点が新しい。2023年12月に閣議決定されたこども大綱も、こどもや若者の意見を聴き、施策に反映していく方向を示している。自治体レベルでは、こども基本法の成立に先立って、川崎市が2000年に子どもの権利に関する条例を制定するなど、独自の条例で子どもの参加を制度化してきた例がある。公園の計画に子どもの声を取り入れるワークショップも、各地で試みられてきた。
国際的な枠組みとしては、国連児童基金(ユニセフ)が進めてきた子どもにやさしいまちづくりの取り組みが知られる。これは、条約の理念を自治体の単位で実現しようとするもので、子どもの意見を聞く仕組みや、子どもに関する予算と情報の可視化などを構成要素とする。日本でも国内向けの枠組みづくりが試みられてきた。ここで注意したいのは、こうした枠組みが認証や評価の形をとるとき、指標を満たすこと自体が目的化する危険をつねに抱える点である。参加の仕組みがあることと、参加が機能していることは別である。次項で見る参画のはしごは、まさにこの区別を可視化するために提案された道具であった。
6.2 参画のはしご——非参加と参加の境目
参加を論じる古典として、シェリー・アーンスタインが1969年に示した市民参加の梯子がある。アーンスタインは、参加と呼ばれている実践のなかに、実質的には市民が力を持たない段階が含まれていることを指摘し、参加の度合いを段階として並べた。ロジャー・ハートは、この発想を子どもに応用して参画のはしごを提示した(1992年の論考、1997年の著書として整理され、日本語訳が2000年に刊行されている)。ハートのはしごの下位の段階は、子どもを大人の目的のために利用する操作、意味を理解しないまま場に並べるお飾り、意見を言う場を形だけ設ける形式主義であり、これらは参加ではないとされる。上位の段階になるにつれ、子どもが目的を理解し、役割を選び、企画そのものに関わり、やがて子どもが始めた企画に大人が加わる関係へと進む。
このはしごが有用なのは、参加の実践を批判するためではなく、自分たちの手続がどの段階にあるかを点検する物差しになるからである。公園の計画に子どもを呼んだという事実だけでは、はしごのどこにいるかはわからない。決定の余地がどれだけ残された段階で呼ばれたのか、どの範囲について意見を言えるのかが説明されたのか、出された意見がどう扱われたのかが返されたのか。これらを確かめてはじめて、参加と呼べるかどうかが判断できる。
6.3 形骸化の四つの典型
参加の手続が形だけのものになるとき、そこにはいくつかの典型がある。第一は、既に固まった案への同意を集めるだけの聞き取りである。設計が確定し発注も見えている段階で意見を求めても、反映の余地はない。第二は、参加する子どもの偏りである。募集に応じられるのは、時間と移動手段と発言への自信がある子どもに傾きやすい。その結果、最も遊び場を必要としている子どもの声が抜け落ちる可能性がある。第三は、返答の欠如である。意見がどう検討され、どれが採用されどれが採用されなかったのか、その理由が返されなければ、次に意見を言う気持ちは失われる。第四は、一回性である。一度きりの催しで意見を集めて終わりにすると、完成後に使いにくさが判明しても直す回路がない。
- 決定の余地が残る早い段階で聞き、どこまでが変えられるのかを最初に伝える
- 呼びかけに応じた子どもだけでなく、その公園を実際に使っている子どもに現場で聞く
- 採用したこと、採用しなかったこととその理由を、子どもにわかる言葉で返す
- 完成後にも使い勝手を聞き、直せる仕組みを残しておく
6.4 言葉にならない意見をどう聞くか
第12条は意見を形成する能力のある子どもを対象とするが、これは年齢による線引きを認める趣旨ではないと解されている。乳幼児や、話し言葉での表現が難しい子どもの意見をどう聴くかは、参加論の難所である。一般的意見第12号は、意見表明が言葉に限られないことを示唆しており、遊び方や表情、どこに行きどこを避けるかといった行動もまた意見の表れとして受け止める必要がある。公園はこの点で有利な題材である。どの遊具に子どもが集まりどこが使われていないかは、観察によってある程度わかる。もっとも、観察は解釈をともなうため、大人が読み取った内容をそのまま子どもの意見と呼ぶことには慎重さが要る。観察して得た仮説を、言葉で確かめられる年齢の子どもや保護者に返して検証する往復が必要になる。
7. 想定される反論への応答
遊びを権利として語る議論には、いくつかの典型的な反論が向けられる。ここでは五つを取り上げ、それぞれに応答する。反論はいずれも根拠のないものではなく、むしろ現場の実感に根ざしている。権利論が実務に届くためには、これらを退けるのではなく、権利の枠組みの内側で位置づけ直す必要がある。
7.1 権利という語を使いすぎではないか
第一の反論は、何でも権利と呼べば権利という語の重みが失われる、というものである。しかし遊ぶ権利は、論者が新たに発明した権利ではない。1989年に採択され日本が批准した条約の条文に明記された権利であり、締約国は報告と審査の手続を通じてその実施を問われる立場にある。問題は権利の数が増えすぎたことではなく、既に約束されている権利の実施が進んでいないことのほうにある。一般的意見第17号が第31条を最も認識の薄い権利の一つと述べたのは、この意味においてである。したがってこの反論は、権利の使いすぎではなく、権利の使い分け、すなわちどの層の義務が問題になっているかを明確にすべきだという要請として受け止めるのが生産的である。
7.2 財源には限りがある
第二の反論は財政である。これは正面から受け止めるべき現実である。ただし三点を区別したい。第一に、第4節で見たとおり、尊重する義務は資源をほとんど必要としない。既存の遊び場を減らさないこと、子どもの利用を過度に制約しないことは、予算の問題ではなく判断の問題である。第二に、充足する義務についても、漸進的実現の枠組みは資源の量そのものではなく、利用可能な資源を最大限に用いたかを問う。したがって説明すべきは「金がない」ことではなく、限られた資源をどのような優先順位で配分し、その順位をどう根拠づけたかである。第三に、質とアクセス可能性の改善には、比較的小さな費用でできる事柄が含まれる。掲示の文言を、禁止の列挙から使い方の案内へ書き換えること、日陰と腰かけられる場所を確保すること、どの公園に何があるかの情報を整えて届けること。これらは大規模な改修を待たずに着手できる領域である。
7.3 近隣の生活の静けさはどうなるのか
第三の反論は、公園の周辺に住む人びとの生活の平穏である。子どもの声、ボールの音、早朝や夜間の利用は、隣接する住まいにとって無視できない事柄であり、これも尊重されるべき利益である。権利論は、子どもの権利がつねに他のすべてに優先すると主張するものではない。異なる利益が衝突するとき問われるのは、制約の目的が正当か、その目的のために選ばれた手段が必要最小限か、である。この観点からすると、ボール遊びの全面禁止のような一律の制約は、検討の余地がある。時間帯を区切る、場所を分ける、球種を限る、防球のしつらえを設けるといった、より制約の少ない手段が尽くされたかを確かめてから、全面禁止に至るのが筋である。掲示に禁止事項だけが並ぶ公園は、法的には子どもを排除していなくても、社会的アクセスの面で排除しているのと近い効果を生む。
7.4 安全を優先すべきではないか
第四の反論は安全である。事故が起きたときの責任を思えば、管理者が慎重になるのは自然である。ここで手がかりになるのが、第5節で触れたリスクとハザードの区別である。国土交通省の遊具の安全確保に関する指針は、子どもが自ら認識し挑戦の対象とするリスクと、子どもには認識できず事故につながるハザードとを分け、ハザードを取り除くという考え方を示している。この枠組みは、危険をすべて除くことが安全の最善だという前提を退ける。挑戦の要素をすべて取り除いた遊び場は、子どもにとって退屈であるだけでなく、身体を使って加減を学ぶ機会を減らすとも指摘されている。もっとも、個々の遊具について何がハザードにあたるかの判断は専門的な点検を要する事柄であり、管理者と専門機関に委ねられるべきである。権利論が言えるのは、撤去した遊具をそのままにしないこと、安全確保を理由に遊びの機会そのものを縮小する判断には説明が要ること、この二点である。
7.5 遊びは家庭や学校の領分ではないか
第五の反論は、遊びは私的な領域の事柄であり、公共が関与すべきではないというものである。しかしこの立場をとると、遊びの機会は家庭が持つ資源に左右されることになる。庭のある住まい、送迎できる車、習い事や有料施設に使える費用、付き添える時間。これらを持つ家庭とそうでない家庭のあいだで、子どもの遊びの機会に差が生じる。無料で誰でも入れる公園は、その差をならす装置として働く。条約第2条の差別の禁止を経由すれば、遊びを私的領域に委ねきることは、結果として子どもの間に不平等をつくることになる。第六に付け加えれば、子どもの意見は未熟だという反論もありうるが、第12条は意見をそのまま実現せよとは述べておらず、年齢および成熟度に従って相応に考慮せよと述べている。考慮の重みづけは大人の側の責任であり、聞かない理由にはならない。
8. 磐田市の公園への示唆
ここまでの枠組みを、磐田市の公園に引きつけて考えてみたい。当サイトATAWI PARKは、磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」(94行、クリエイティブ・コモンズ表示ライセンスにもとづき出典を磐田市として利用)と、市の施設ガイド(公園)の記載を突き合わせ、あわせて100園を収録している。うち施設ガイドに個別ページがあるものは77園である。ただし現地の踏査はまだ始まっておらず、2026年8月時点で踏査済の園はない。したがって以下は、公開されている記載から読めることと読めないことを整理する作業であり、個々の園の評価ではない。
8.1 量——種別の内訳と地区の偏り
収録100園の種別内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、および法の対象外とされるもの6園である。半数を超える51園が街区公園であることは、第5節で見た誘致距離250メートル・面積0.25ヘクタールを標準とする、最も身近な種別が量の中心を占めていることを意味する。子どもが自力で歩いて行ける遊び場という観点から見れば、これは望ましい構成である。他方で面積の幅は大きい。総合公園である竜洋海洋公園は221,722平方メートルであるのに対し、都市緑地の二之宮東第2緑地は17平方メートル、街区公園の見付本通広場公園は372平方メートルである。市全体の一人当たり面積という指標を計算すれば、大規模な公園がその値を大きく左右することになる。平均ではなく分布を見るべきだという第5節の指摘が、ここで具体的な意味を持つ。
地区別の園数は、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。九つの地区のあいだで園数には大きな開きがある。ただしこの数字だけで遊び場の充足を論じることはできない。地区の面積も、そこに住む子どもの数も、地区ごとに異なるからである。園数の少ない地区に大きな公園があれば、量としては足りていることもありうるし、逆に園数が多くても市街化の程度によっては身近さが確保されていないこともありうる。権利の観点から必要なのは、園数の順位づけではなく、子どもが徒歩でたどりつける範囲に遊び場があるかを地区ごとに確かめる作業である。当サイトは今後の踏査で、経路の状況を含めてこの点を確かめていく。
8.2 質とアクセス可能性——記載から読めること
オープンデータの設備フラグでは、94行のうちトイレ有が69園、車いす対応トイレ有が34園、砂場有が43園、遊具有が64園と集計される。また駐車場については、市の施設ガイドの記載や当サイトの判定を合わせて33園としている。ここから読めるのは、トイレのある公園に対して車いす対応のトイレがある公園は半数ほどにとどまるという構成である。この差は、第5節で挙げた物理的アクセスの論点に直結する。車いすを使う子ども、あるいは車いすを使う保護者にとって、トイレの有無は滞在できる時間の長さを左右する。もっとも、フラグの有無は設備の存在を示すだけであり、通路の幅、段差、おむつ替えのしつらえといった実際の使いやすさまでは表さない。ここは記載から読めない部分であり、踏査で確かめるべき課題である。
インクルーシブという語が市の施設ガイドの記載に現れる例として、御厨地区の安久路公園(地区公園、32,001平方メートル)がある。園内施設として、複合遊具(インクルーシブエリアあり)、ブランコ(インクルーシブアイテムあり)、幼児用遊具、クロッキング遊具、砂場、サッカーゴール、多目的トイレ、流れが挙げられている。障害者の権利に関する条約は第30条第5項でレクリエーション・余暇・スポーツ活動への参加を扱い、条約第23条は障害のある子どもが社会に積極的に参加できる条件を求めている。障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律も、合理的配慮の提供を求める方向で改正が重ねられてきた。特定の遊具を設けることがそのまま権利の実現になるわけではないが、誰と一緒に遊べるかという問いを設計に持ち込んだ事例として位置づけられる。
年齢の幅という質の論点については、見付地区の今之浦公園(近隣公園、13,675平方メートル)の記載が参考になる。市の施設ガイドには、今ノ浦川の東側に屋根付広場、複合遊具、ふわふわ遊具、噴水広場、芝生広場、3歳未満児遊具があり、西側に健康遊具、じゃぶじゃぶスポット、流れ、芝生広場があるとされている。3歳未満の子ども向けの遊具が明示されていること、屋根付きの広場があること、健康遊具が同じ公園内にあることは、乳幼児から高齢者までが同じ場所に居合わせる構成を示唆する。第31条の休息という要素と、社会的アクセスの論点の双方に関わる特徴である。ただし実際にどの世代がどの時間帯に使っているかは、記載からはわからない。
8.3 情報と参加——公開データは権利の実現条件でもある
第5節で情報のアクセスを権利の実現条件の一つに挙げた。この観点から見ると、磐田市が都市公園一覧をオープンデータとして公開していること、施設ガイドに個別の園のページを置いていることは、それ自体が遊ぶ権利の実現に関わる取り組みである。どこにどのような公園があり、何があるのかがわからなければ、保護者は初めての公園に子どもを連れて行きにくい。当サイトが両者を突き合わせて100園のデータベースを整えているのも、この情報のアクセスを補う位置づけにある。なお当サイトの運営は不動産・介護を事業とする民間会社であり、公的な調査機関ではない。だからこそ、公開データの出典を明示し、記載から読めることと読めないことを分けて書く姿勢が求められる。
参加の観点からは、公園という題材の身近さが利点になる。市の公園を所管するのは都市整備課であり、個別の公園の改修や遊具の更新は、その公園を使う子どもにとって直接の関心事である。第6節で述べた形骸化の四つの典型を避けるとすれば、決定の余地が残る早い段階で聞くこと、募集に応じた子どもだけでなくその公園を使っている子どもに現場で聞くこと、採否とその理由を返すこと、完成後にも聞いて直せるようにしておくことが要点になる。当サイトの踏査は、行政の手続とは別の民間の記録にすぎないが、どの遊具が使われているか、どこに日陰があるか、経路のどこで道路を横断するかといった観察を積み重ね、公開データでは見えない部分を補うことはできる。踏査はこれからであり、本稿の枠組みはその際の観察の視点としても用いる。
9. 結論と今後の課題
本稿は、公園を子どもの権利の実現手段として読み直すことを試みた。得られた結論は三点である。第一に、条約第31条は、公園を何か所つくれといった数量的な命令を含む条文ではない。しかしそれは、何も義務づけていないという意味ではない。第4節で整理した三層の枠組みでいえば、既にある遊び場を正当な理由なく失わせないという尊重の義務、遊具の安全を確保する仕組みを設けるという保護の義務、そして利用可能な資源を最大限に用いて遊びの機会を広げていくという充足の義務が、条文と関連条項から導かれる。とりわけ尊重の義務は資源をほとんど要さないため、財政を理由に免れにくい。遊びを権利として語ることの実務的な効果は、この層の区別を持ち込む点にある。
第二に、遊び場の評価は量・質・アクセス可能性の三側面に分けるべきであり、そのどれか一つで代替することはできない。量については総量ではなく分布が問われ、質については自由な遊びの余地と年齢の幅、リスクとハザードの区別が問われる。アクセス可能性は物理的な条件に尽きず、時間、社会的な居心地、情報、費用の各層を含む。掲示の書きぶりや情報の整え方といった、比較的小さな費用で着手できる領域が、この三側面のなかに確かに存在する。
第三に、第12条とこども基本法が求める意見の反映は、聞く場を設けるだけでは達成されない。参画のはしごの下位の段階が示すように、形だけの参加はむしろ子どもの信頼を損ないうる。いつ聞くか、誰に聞くか、どう返すか、その後どうするか。この四点を設計してはじめて、参加は権利の実現につながる。言葉で表現しにくい年齢や状況にある子どもの意見をどう受け止めるかは、なお開かれた課題である。
9.1 本稿の限界
本稿には明確な限界がある。第一に、公開文書の読解にもとづく概念整理であり、実証的な調査を含まない。遊び場の整備状況と子どもの遊びの実態との関係について、本稿は数量的な主張をしていない。第二に、法解釈としての精密さを欠く。条約の国内的な効力、条例と法律の関係、行政の裁量の統制といった論点は、行政法の枠組みで別途検討されるべきである。第三に、磐田市についての記述は公開データと市の施設ガイドの記載にもとづくものであり、現地の確認を経ていない。園内の段差や経路の状況、掲示の実際の書きぶり、どの時間帯に誰が使っているかは、記載からは読み取れない。
9.2 今後の課題
今後の課題を三つ挙げる。第一に、踏査の設計である。本稿の三側面を観察の枠組みとして用い、園ごとに、自由な遊びの余地となる要素があるか、年齢の幅に応える構成になっているか、出入口と経路にどのような条件があるか、掲示が禁止の列挙になっていないかを記録していくことが考えられる。第二に、地区ごとの検討である。九つの地区の園数の差が、子どもが歩いてたどりつける範囲の差にどう対応しているのかは、地図の上で確かめる必要がある。第三に、参加の記録である。公園の計画や改修に子どもの声が反映された事例を、手続の段階に注意して記録していくことは、形骸化を避けるための共有財になる。遊びは、子どもが今日を生きていることのあらわれである。その時間と場所をどう確保するかは、将来への投資である以前に、今この社会が子どもをどう扱っているかの問題である。本稿が、磐田市の公園を見るときの一つの視点になれば幸いである。
参考文献
- 児童の権利に関する条約(1989年国連総会採択、日本国 平成6年条約第2号)
- 国連子どもの権利委員会 一般的意見第17号(2013年)休息、余暇、遊び、レクリエーションの活動、文化的生活および芸術に対する子どもの権利(第31条)
- 国連子どもの権利委員会 一般的意見第12号(2009年)意見を聴かれる子どもの権利
- 国連子どもの権利委員会 一般的意見第14号(2013年)子どもの最善の利益が第一次的に考慮される権利
- こども基本法(令和4年法律第77号)
- こども大綱(令和5年12月22日閣議決定)
- 児童憲章(昭和26年5月5日制定)
- 児童福祉法(昭和22年法律第164号)
- 経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約、1966年採択、日本国 昭和54年条約第6号)
- 障害者の権利に関する条約(2006年国連総会採択、日本国 平成26年条約第1号)
- 障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(平成25年法律第65号)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- ロジェ・ハート(1997)『子どもの参画——コミュニティづくりと身近な環境ケアへの参画のための理論と実際』(木下勇ほか監修、萌文社、2000)
- シェリー・アーンスタイン(1969)「市民参加の梯子」
- ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中央公論社)
- ロジェ・カイヨワ(1958)『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社)
- マーサ・ヌスバウム(2000)『女性と人間開発——潜在能力アプローチ』(池本幸生ほか訳、岩波書店、2005)
- アマルティア・セン(1992)『不平等の再検討——潜在能力と自由』(池本幸生ほか訳、岩波書店、1999)
- ヤヌシュ・コルチャック(1929)『子どもの権利の尊重』(サンドラ・ジョウゼフ編『コルチャック先生のいのちの言葉』ほか邦訳あり)
- エレン・ケイ(1900)『児童の世紀』(小野寺信・小野寺百合子訳、冨山房)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典 磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。