生命・健康・心理・教育虐待予防・子ども家庭福祉
孤立を減らすということ——地域の目と支援につながる経路
要旨
本稿の目的は、子ども虐待の発生を個人の資質の問題としてではなく、孤立・貧困・不安定な生活条件の累積として捉える公衆衛生学的な予防の枠組みから、都市公園の位置づけを検討することである。方法は文献整理と概念分析であり、特定の事案や統計的な被害の推測は扱わない。
検討の中心は三つである。第一に、一次・二次・三次予防という段階のうち、公園がもっぱら関わりうるのは、特定の家庭を名指しせず孤立そのものを減らす一次予防の段階に限られること。第二に、公園における『地域の目』は、監視に転じれば孤立を深める逆説を持つこと。第三に、通告という制度は告発ではなく支援の入口として設計されており、判断と対応のすべては児童相談所・市町村・警察などの関係機関に属することである。
あわせて、公園に出かけられない家庭には議論が届かないこと、地域の見守りへの期待が公的投資の不足を覆い隠してはならないことなど、本稿の立場の限界も明示する。最後に磐田市の公園100園のデータから、種別・地区・設備の分布を確認し、当サイトの現地踏査がこれからであることを含めて、今後の課題を示す。
キーワード社会的孤立予防モデル地域の目通告制度要保護児童対策地域協議会磐田市
1. はじめに——問題の所在
なぜ子ども虐待という主題を、都市公園という日常的な空間から論じるのか。この問いが本稿の出発点である。虐待は長らく、特定の親の資質や心理的な問題として語られる傾向があった。しかし子ども家庭福祉の分野では近年、虐待を個人の逸脱としてではなく、孤立・貧困・不安定な就労・頼れる人間関係の乏しさといった生活条件が積み重なった結果として捉える見方が広く共有されるようになっている。本稿はこの見方に立ち、都市公園という誰もが無償で立ち寄れる場所が、孤立を減らし支援につながる経路の一つになりうるかどうかを、公的な枠組みと確実な文献に基づいて検討する。
本稿の問いは三つに整理できる。第一に、虐待の予防という課題を公衆衛生学の予防段階(一次予防・二次予防・三次予防)という枠組みに沿って捉えたとき、公園はどの段階にどのような形で関わりうるか。第二に、公園で交わされる立ち話や顔見知りの蓄積はしばしば『地域の目』と呼ばれるが、それは虐待の兆候を探す監視のまなざしとどう違うのか、あるいは違わないのか。第三に、虐待の疑いを伝える通告という制度は何を意味し、公園での何気ない気づきをその制度にどうつなげうるか、あるいはつなげるべきではないのか。
方法は文献整理と概念分析である。本稿は特定の家庭や個別の事案を取り上げない。扱うのは、児童福祉・子ども家庭福祉の分野で広く共有されている公的な枠組みと、地域社会学・都市計画学が公共空間について積み重ねてきた概念である。構成は次のとおりである。第2節で先行研究と基本概念を整理し、第3節から第7節にかけて一次予防としての開かれた場、二次予防と気づきの限界、地域の目論の射程、通告制度の仕組み、多機関連携のなかでの公園の位置づけを順に検討する。第8節で反論と留保を扱い、第9節で磐田市の公園に引きつけた示唆を述べ、第10節で結論と今後の課題を示す。
あらかじめ断っておきたいことがある。本稿は虐待の発生率や個別の事案について述べる意図を持たない。虐待をめぐる数値や具体的な事例は、扱い方を誤れば特定の家庭や地域への不当なまなざしを生みかねない。本稿が手がかりとするのは、公的機関が示す制度上の枠組みと、存在が確実に確認できる文献に限られる。虐待の有無についての判断、通告を受けたあとの対応は、児童相談所・市町村の窓口・警察など権限を持つ関係機関に属することであり、本稿はその判断に代わるものではない。
公園を切り口に選ぶ理由も述べておく。子育て支援の制度は、申請や登録、対象要件を伴うことが多く、支援を最も必要とする家庭ほど制度の入口にたどり着きにくいという逆説がしばしば指摘される。これに対して公園は、誰でも無償で、手続きなしに出入りできる数少ない公共空間である。この性質が孤立を減らすうえでどのような意味を持ちうるのか、そしてどこに限界があるのかを、本稿は次節以降で順に検討していく。
本稿が想定する読者は、磐田市周辺で子育てをする世代だけでなく、行政の担当者、地域で子育て支援に関わる人々、そして子ども家庭福祉を学ぶ学生である。虐待予防という主題は専門的な制度の話に閉じがちであるが、公園という誰もが知っている場所を切り口にすることで、専門外の読者にも制度の骨格を伝えられるのではないか、というのが本稿のもう一つのねらいである。
なぜ個人の資質を問う見方ではなく、社会的な条件を問う見方を選ぶのか、その理由も述べておきたい。個人の資質に原因を求める見方は、一見すると分かりやすいが、対応の道筋を『問題のある個人を見つけて正す』という方向に狭めてしまう。これに対して、孤立や生活条件の累積という見方は、対応の道筋を『社会の側が接点や支えをどう用意するか』という方向に開く。どちらの見方にも一理はあるが、本稿は後者の見方を選ぶことで、公園という日常的な公共空間を議論の俎上に載せることができると考える。この選択自体が、本稿の立場を規定していることを、あらかじめ明示しておく。
あわせて、本稿の限界も先に述べておく。本稿は文献整理と概念分析に基づく試論であり、磐田市における虐待予防の実態を調査した報告書ではない。当サイトが持つのは、磐田市の公園そのものに関するオープンデータと市の施設ガイドの記載であり、子ども家庭福祉の運用実態に関する独自の情報ではない。この限界を踏まえたうえで、本稿は公園という切り口から見える範囲に議論を留め、それを超える断定は避ける。
本稿を通じて一貫して守りたい姿勢がもう一つある。それは、抑制的な言葉づかいを保つということである。虐待という主題は、扇情的な言葉や断定的な物言いと結びつきやすい。しかし、そうした言葉づかいは、読者に不安や警戒を過剰にあおるだけで、実際の予防や支援には結びつきにくい。本稿は、事実に基づく淡々とした記述に徹し、判断や対応は関係機関に委ねるという立場を、最後まで崩さないことを、ここで改めて確認しておく。
2. 先行研究と概念の整理
虐待を予防するという課題を体系的に捉えるうえで手がかりになるのが、公衆衛生学が用いてきた予防の段階という考え方である。H・R・リーヴェルとE・G・クラークは1965年の著作のなかで、予防を一次予防・二次予防・三次予防の三段階に分けて整理した。一次予防は問題が生じる前に、原因となる条件そのものを減らす働きかけを指す。二次予防は問題の兆候が現れ始めた段階での早期発見・早期対応を指す。三次予防は問題がすでに生じたあとの、悪化の防止と回復への支援を指す。この枠組みは感染症対策を出発点としながら、精神保健や虐待予防など、より広い領域に応用されてきた。
虐待を家庭という閉じた単位の問題ではなく、家庭を取り巻く複数の環境の相互作用として捉える視点も、本稿の基礎になる。ユリー・ブロンフェンブレンナーは1979年の著作で、子どもの発達を家庭・学校・地域・制度・社会全体という入れ子状の環境の相互作用として描く生態学的モデルを提示した。この見方に立てば、家庭内で起きることは家庭の外にある近隣関係や制度的な支えの厚みと無関係ではない。孤立した家庭ほど、外部からの目や手が届きにくく、負担が家庭の内側だけに蓄積しやすいという指摘は、この生態学的な発想と重なる。
この生態学的な視点を虐待の議論に結びつけた研究者の一人が、ジェームズ・ガーバリーノである。ガーバリーノは1995年の著作のなかで、子育てを取り巻く社会的な環境そのものが子どもにとって有害になりうるという議論を展開し、近隣における社会的なつながりの乏しさが、家庭の孤立と負担の蓄積に関わりうることを論じた。ここで強調されるのは、孤立が特定の個人の性格の問題ではなく、地域社会の構造の問題でもあるという視点である。
支援へのアクセスを妨げる要因として、社会学ではスティグマ、すなわち特定の属性に付与される負の烙印という概念が論じられてきた。アーヴィング・ゴフマンが1963年の著作で整理したこの概念は、支援を受けること自体が『問題のある家庭』というレッテルにつながりかねないという逆説を理解するうえで手がかりになる。子育て支援の制度設計において、対象を絞らない一次予防的な仕組みが重視される背景には、このスティグマを避けようとする発想がある。
| 段階 | 対象 | 目的 | 具体例 |
|---|---|---|---|
| 一次予防 | 地域社会全体・すべての子育て家庭 | 問題が生じる前に、孤立や負担そのものを減らす | 乳児家庭全戸訪問事業、子育て世代包括支援センター(こども家庭センター)、誰でも立ち寄れる地域の場 |
| 二次予防 | リスクが高まりつつある家庭 | 兆候を早期にとらえ、支援につなぐ | 特定妊婦への支援、要保護児童対策地域協議会による情報共有 |
| 三次予防 | 深刻な事態がすでに生じた家庭 | 保護・回復・再発防止を図る | 児童相談所による一時保護、児童福祉施設等における支援 |
日本の法制度もこの発想と無縁ではない。児童福祉法は児童の福祉を保障するための基本法であり、児童虐待の防止等に関する法律(児童虐待防止法)は、虐待の定義、何人にも課される通告の仕組み、関係機関の責務などを定める。2022年に制定されたこども基本法は、子どもの権利利益の擁護を国・地方公共団体の責務として位置づけた。これらの法律の背景には、1989年に国連総会で採択され、日本が1994年に批准した児童の権利に関する条約がある。同条約は子どもを保護の対象であると同時に、意見を表明し尊重される権利の主体として位置づけている。
2.1 個人モデルと社会モデルという対立軸
子ども家庭福祉の研究史をたどると、虐待の原因をどこに求めるかをめぐって、大きく二つの立場が併存してきたことが分かる。一つは、養育者の心理的な問題や病理に原因を求める個人モデルであり、もう一つは、貧困・孤立・住環境といった社会的な条件に原因を求める社会モデルである。この二つは対立するというより、補い合う関係にあると理解されることが多い。個人の要因と社会的な要因はしばしば絡み合っており、どちらか一方だけで虐待の発生を説明し尽くすことはできない、という理解が、現在の子ども家庭福祉の分野では広く共有されているとされる。本稿が社会モデルに軸足を置くのは、個人モデルを否定するためではなく、公園という社会的な資源の意味を論じるために、この軸足が必要だからである。
2.2 弱いつながりという視点
孤立を論じるうえでもう一つ手がかりになるのが、社会学者マーク・グラノヴェターが1973年の論文で示した、弱いつながりの強さという議論である。グラノヴェターは、家族や親友のような強いつながりだけでなく、顔見知り程度の緩やかなつながりが、情報の伝達や新しい機会への接続において独自の役割を果たすことを論じた。公園で交わされる立ち話は、まさにこの弱いつながりに相当する。深い信頼関係には至らなくとも、育児の悩みを共有できる相手がいる、支援窓口の存在を教えてくれる人がいるという緩やかなつながりの蓄積が、孤立を和らげるうえで意味を持ちうるという見立ては、この議論から導かれる。
本節で整理した概念は、いずれも虐待そのものを直接に説明する理論ではなく、虐待が生じやすい社会的な条件を理解するための道具立てである。この点を取り違えないことが重要である。予防段階の枠組みも、生態学的モデルも、弱いつながりの議論も、特定の家庭が虐待に至るかどうかを予測したり判定したりするためのものではなく、社会全体としてどのような条件を整えれば孤立や負担の蓄積を減らせるかを考えるための、いわば見取り図である。次節以降では、この見取り図を手がかりに、公園という具体的な場所を論じていく。
3. 一次予防としての「開かれた場」——孤立を減らすという発想
一次予防は、特定の家庭を『リスクが高い』と名指すことなく、地域社会全体に働きかける点に特徴がある。子育て世代包括支援センターや乳児家庭全戸訪問事業のように、対象を絞らず、すべての家庭に等しく接点を持とうとする制度は、この一次予防の考え方を体現している。名指しをしないという性質は、支援を受けることへの抵抗感やスティグマを避けるうえで重要である。支援が『問題のある家庭のためのもの』と受け取られてしまえば、支援を最も必要とする家庭ほど、その入口から遠ざかりかねないからである。
都市公園は、この一次予防の発想にきわめて近い性質を持つ公共空間である。申込みも登録も対象要件もなく、開園時間内であれば誰でも無償で出入りできる。地域社会学では、自宅でも職場でもない、気軽に立ち寄れる第三の場所が人と人との緩やかなつながりを支えるという議論が積み重ねられてきたが、公園はその代表例の一つに数えられる。子育て中の親にとって、公園は子どもを遊ばせる場であると同時に、他の親と顔を合わせ、立ち話を交わし、育児の悩みをふと漏らす場にもなりうる。この何気ないやり取りの蓄積こそが、孤立を防ぐ一次予防としての公園の意味である。
ただし、この効果を過大に語ることには慎重でなければならない。公園に行けば孤立が解消される、という単純な因果関係を実証した確実な研究を本稿は把握していない。言えるのは、公園が孤立を減らしうる条件の一つを提供するということであり、それ以上でも以下でもない。天候、時間帯、送迎の負担、子どもの年齢や体調など、公園に足を運ぶこと自体を妨げる要因は数多い。公園は孤立への解決策ではなく、孤立を減らす経路の一つにすぎないという留保を、本稿はここで明確にしておく。
公園が一次予防の場として機能するかどうかは、その物理的な条件にも左右される。座って休める場所があるか、日陰があるか、トイレが使えるか、といった条件は、親が子どもを連れて長く滞在できるかどうかを左右する。国土交通省の遊具の安全確保に関する指針は遊具の安全性を主題とするものであるが、その背景には、公園が子どもと保護者が安心して長く過ごせる場であるべきだという前提がある。滞在を支える設備の有無は、公園が立ち話や顔見知りの蓄積を生む場になれるかどうかの、地味だが重要な条件である。
以上を踏まえると、公園を一次予防の場として位置づけることは、公園に特別な役割を新たに課すことを意味しない。むしろ、公園がもともと持っている『誰でも来てよい』という性質を、孤立を減らすという文脈から改めて見直すことにほかならない。次節では、この一次予防の先にある二次予防、すなわち兆候への気づきという、より難しい論点に移る。
公園が果たしうる一次予防の役割は、遊具や広場の充実度だけでは測れない。行き交う人の数、時間帯による混み具合、他の親子と自然に顔を合わせる機会があるかどうかといった、いわば公園の使われ方に関わる要素が大きい。この使われ方は、オープンデータや施設ガイドの記載だけからは分からず、現地での観察を要する。この点は第9節で改めて取り上げる。
3.1 誰にでも開かれているという性質の意味
誰にでも開かれているという性質は、当たり前のようでいて、実は多くの公共施設が完全には備えていない性質である。図書館や公民館は、開館時間や利用ルールが定められ、静けさや秩序が求められる場である。児童館は対象年齢が定められていることが多い。これに対して公園は、乳幼児から高齢者まで、あらゆる年齢の人が同じ空間を共有し、走り回る子どもの声も、立ち止まって話し込む大人の姿も、特段の許可なく受け入れられる場である。この受容の幅広さが、公園を一次予防の場として位置づける根拠の一つになる。
3.2 匿名性と顔見知りの両立
公園のもう一つの特徴は、匿名でいることと、顔見知りになることの両方が同時に成り立つ点にある。名前も素性も明かさないまま、ただ子どもを遊ばせるだけの利用も可能であるし、同じ時間帯に通ううちに自然と顔を覚え、挨拶を交わす関係に発展することもある。この選択の幅こそが、支援を制度として押しつけるのではなく、利用者自身のペースで関係を築くことを可能にする。名指しをしない一次予防という発想と、この匿名性と顔見知りの両立という公園の性質は、深いところで通じ合っている。
3.3 反復的な利用が生む蓄積
一次予防としての公園の意味は、一度きりの訪問よりも、反復的な利用のなかで蓄積されていく性質のものと考えられる。同じ曜日の同じ時間帯に、同じ顔ぶれが集まる、というありふれた反復のなかで、挨拶が言葉に変わり、言葉が立ち話に変わっていく。この蓄積には時間がかかり、即効性を期待できるものではない。しかし、時間をかけて緩やかに育つつながりであるからこそ、支援を急かされることへの抵抗感を持つ人にも受け入れられやすいという側面がある。一次予防を語るときには、この時間の緩やかさそのものを尊重する必要がある。
4. 二次予防と「気づき」の限界——ハイリスクの手前で
二次予防は、虐待が深刻化する前の段階で兆候をとらえ、支援に結びつけることを目的とする。制度としては、出産前後の生活状況から支援の必要性が高いと考えられる妊婦を指す『特定妊婦』という区分や、要保護児童対策地域協議会による情報共有の仕組みが、この二次予防にあたる。これらはいずれも、専門職が一定の基準や手続きに沿って行う、制度化された気づきの仕組みである。公園での日常的な観察とは、性格の異なる営みである。
公園で保護者と子どもの様子を目にすることと、虐待の兆候を見分けることのあいだには、大きな距離がある。子どもの表情がさえない、親の声が大きい、といった場面に居合わせたとしても、それが虐待を示す兆候なのか、単にその日たまたま機嫌が悪かっただけなのか、通りすがりの人間が判断することはできない。育児に伴う疲労やいらだちは、多くの家庭にありふれたものであり、それ自体を虐待の証拠と見なすことはできない。公園を虐待発見の場として過度に期待することは、誤った判断や、罪のない家庭への不当な疑いにつながりかねない。
公園が二次予防の段階で果たしうる役割は、見分けることではなく、つなぐことに限定して考えるのが妥当である。公園で顔見知りになった親同士が、子育て世代包括支援センターや保健センターの存在を教え合う、育児の大変さを言葉にできる相手が一人でもいる、という程度のことであっても、それは公的な相談窓口につながる小さな経路になりうる。専門職による制度化された気づきと、公園での何気ないつながりは、役割の異なる、しかし互いに補い合いうる二つの経路として位置づけるべきである。
ここで強調しておきたいのは、育児の困難さや子どもの体調・発達に関する判断は、本稿の扱う範囲を超えるということである。子どもの様子に気になる点があるときの医学的な判断は医療機関に、子育ての困りごとの相談は子育て世代包括支援センターや児童相談所など、権限と専門性を持つ関係機関に委ねられるべきであり、公園で居合わせた第三者が断定的な判断を下すべきものではない。本稿が示すのはあくまで、公園という場が持つ限定的な役割の輪郭である。
二次予防の段階で公園に期待できることは慎ましいものにとどまる。しかしその慎ましさこそが、公園を虐待発見の装置に仕立てようとする過度な期待から距離を置き、公園を息苦しい監視の場にしないための歯止めでもある。次節ではこの論点を、地域社会学における『地域の目』という議論に接続して検討する。
二次予防をめぐるもう一つの論点として、支援する側とされる側の非対称性がある。特定妊婦への支援や協議会による情報共有は、支援を必要とする家庭の同意を必ずしも前提としない場合がある点で、一次予防とは性格を異にする。この非対称性があるからこそ、二次予防の実施は専門職と制度に厳格に限定されるべきであり、公園に居合わせた個人がこの領域に踏み込むことは避けるべきである。
4.1 通告義務を負う専門職と一般の住民の違い
法制度は、学校の教職員、児童福祉施設の職員、医師、保健師、弁護士など、日常的に子どもと接する職業にある人々に対して、虐待の早期発見に努める責務を課している。これらの専門職は、子どもの様子を継続的に観察できる立場にあり、発達や行動の変化に気づく専門的な知識も備えている。これに対して、公園にたまたま居合わせる一般の住民は、継続的な観察の機会も、専門的な判断の材料も持たない。同じ『気づき』という言葉を使っていても、専門職の気づきと、公園で居合わせた住民の気づきとでは、前提となる立場がまったく異なる。この違いを混同しないことが、二次予防を論じるうえでの出発点になる。
4.2 気になる場面への向き合い方
それでも、公園で気になる場面に居合わせることは起こりうる。そのとき本稿が示せるのは、断定的な評価を控え、必要であれば公的な相談窓口の存在を伝える、あるいは自分自身が通告するという選択肢がある、という程度の、控えめな指針にとどまる。相手を問い詰めたり、周囲に話を広めたりすることは、たとえ善意からであっても、家庭をさらに追い詰め、孤立を深めてしまう危険がある。気になる場面への向き合い方についても、判断の重さを個人が抱え込まず、制度の側に委ねるという姿勢が一貫して求められる。
5.「地域の目」論の射程と限界——ジェイコブズと監視のあいだ
都市計画・都市社会学の分野では、街路や公共空間に人の目が絶えず注がれていることが、犯罪や事故を抑制するという議論が知られている。ジェイン・ジェイコブズは1961年の著作のなかで、歩道に面した店先や窓からの何気ない視線の積み重ねが、街路の安全を支えているという『歩道の目』の議論を展開した。この議論は防犯を主題としたものであるが、地域における人と人とのゆるやかな相互監視、あるいは相互の気にかけ合いという、より広い含みを持つ概念として引用されてきた。
この『地域の目』という発想を子育ての文脈に当てはめると、公園で顔見知りになった大人たちが互いの子どもを気にかける、という緩やかな相互性が浮かび上がる。これは、特定の権限を持つ者が意図的に観察する監視とは異なる。むしろ、日常のなかで自然に生じる、意図せざる見守りに近い。この違いを本稿では『見守り』と『監視』という言葉で区別しておきたい。見守りは相互的でなだらかであり、監視は一方的で目的が定まっている。公園における地域の目の望ましいあり方は、前者に近いはずである。
しかし、この境界は容易に崩れうる。ひとり親であること、経済的に厳しい状況にあること、子どもの数が多いことなど、特定の属性を持つ家庭に対して、周囲の視線が気にかけるではなく詮索する方向に傾く危険は、常に存在する。地域の目が、支援につながる緩やかな見守りではなく、特定の家庭を名指しで問題視する監視のまなざしに転じてしまえば、その家庭はかえって公園から足が遠のき、孤立を深める結果になりかねない。地域の目論を無批判に称揚することには、この逆説がつきまとう。
見守りを監視に転じさせないためにできることは、多くはない。ただし、少なくとも本稿の立場から言えることが一つある。それは、公園で気になる場面に居合わせたとき、その場で個人を問い詰めたり、断定的な評価を下したりすることは避け、必要であれば公的な相談・通告の経路に淡々とつなぐという態度である。判断や介入は、次節で扱う通告制度と、それを受け止める関係機関に委ねる。地域の目の役割は、気づきを届けることまでであり、それ以上の判断を個人が引き受ける必要はないし、引き受けるべきでもない。
この見守りから通告への橋渡しをどう考えるかが、次節の主題である。通告という言葉には、告発や密告といった重い響きがつきまとう。しかし制度上、通告は本来、そうした重さを負わされるべきものではない。次節ではこの点を、法律の枠組みに即して整理する。
地域の目論をめぐる議論は、防犯という文脈で発展してきた経緯を持つことにも注意が要る。防犯環境設計と呼ばれる分野は、見通しの良さや人の目が自然に集まる設計によって犯罪を抑止するという発想を扱うが、そこでの観察の対象は主に見知らぬ侵入者であり、子育て家庭ではない。子育ての文脈に地域の目論を援用する際には、対象を犯罪者から子育て家庭へとすり替えてしまわないよう、この由来の違いを意識しておく必要がある。
5.1 監視社会論からの示唆
『見る』という行為が持つ権力性については、社会思想の分野でも論じられてきた。ミシェル・フーコーは1975年の著作のなかで、常に見られているかもしれないという意識そのものが人の振る舞いを規律づけるという、規律訓練型の権力のあり方を論じた。この議論を踏まえると、公園における地域の目もまた、意図せざるうちに、保護者に『見られている』という緊張を強いる装置になりうることが分かる。育児という、ただでさえ負担の大きい営みに、常時の視線という負荷まで重ねてしまえば、公園はかえって足を運びたくない場所になりかねない。地域の目論を語るときには、見る側の善意だけでなく、見られる側にどう受け止められるかという視点を欠かせない。
5.2 誰が見て、誰が見られるのか
地域の目という言葉は、あたかも対等な相互監視であるかのような響きを持つが、実際には、誰が見る側に回りやすく、誰が見られる側に置かれやすいかという非対称性が伴うことも多い。育児を主に担う立場にある人ほど公園に長く滞在し、結果として他の保護者の視線にさらされやすくなる、という構図は、ジェンダー研究の分野でも論点にされてきた。地域の目を無条件によいものとして語る前に、この非対称性そのものにも目を向けておく必要がある。
6. 通告制度の仕組みと意味——告発ではなく支援の入口
児童虐待の防止等に関する法律は、虐待を受けたと思われる児童を発見した者に対して、速やかに市町村・都道府県の設置する福祉事務所・児童相談所のいずれかに通告することを、何人にも求めている。ここで重要なのは、『思われる』という文言である。通告のために確証や証拠は必要とされていない。疑いの段階で伝えることが制度上求められている行為であり、通告した本人が事実関係を確定させる必要はない。事実の調査と判断は、通告を受けた児童相談所等の専門職の役割である。
この通告の窓口の一つとして設けられているのが、児童相談所全国共通ダイヤル『189(いちはやく)』である。これは厚生労働省・こども家庭庁が案内する全国共通の電話番号であり、発信した地域を管轄する児童相談所につながる仕組みになっている。189は虐待の有無を決める窓口ではなく、疑いや心配ごとを伝え、専門職につなぐための入口である。育児の悩みの相談窓口としても案内されており、通告と相談の両方の性格を持つ経路として位置づけられている。
| よくある受けとめ方 | 制度が実際に前提としていること |
|---|---|
| 通告は虐待を決めつける告発である | 通告は疑いを伝える入口であり、事実の調査と判断は児童相談所等が行う |
| 確証がなければ通告してはいけない | 『そう思われる』という段階での通告が制度上求められている |
| 通告して勘違いだったら気まずい | 誠実になされた通告について、通告者が事後的に責任を問われることを前提とした仕組みにはなっていない、と案内されている |
| 通告した人が誰かは伝わってしまう | 通告を受けた側には、通告者を特定させる情報の取り扱いについて慎重な対応が求められている |
通告を告発や密告と同一視してしまうと、通告をためらう心理が生まれやすい。しかし制度が前提としているのは、通告を支援の入口として位置づけることである。通告を受けた児童相談所や市町村の窓口は、その情報をもとに家庭の状況を確認し、必要であれば見守りや支援のための資源につなぐ。深刻な事態が疑われる場合には、児童相談所が児童福祉法に基づき一時保護などの対応をとることもある。いずれにせよ、通告した個人が以後の対応を担うことはなく、判断と対応のすべては専門の機関に引き継がれる。
本稿はここまで、通告という制度の位置づけを、確実な法制度の枠組みに沿って述べてきた。個別の通告先の判断基準や、通告後にどのような対応がなされるかの詳細については、本稿の扱う範囲を超える。読者が具体的な状況に直面した場合には、児童相談所全国共通ダイヤル189、あるいは市町村の子育て世代包括支援センターなど、公的な窓口に直接相談することが、本稿の示すどの記述よりも確実な道筋であることを付言しておく。
通告するかどうかを迷う場面で、しばしば『自分の判断が間違っていたらどうしよう』という不安が先に立つ。しかし制度が求めているのは、通告者が正しい判断を下すことではなく、疑いや心配を伝えることそのものである。判断の重さを個人が背負う必要はないという理解が、通告をためらわせる心理的な障壁を下げるうえで重要である。
6.1 189と110・119との違い
189は、疑いや心配を児童相談所につなぐための窓口であり、目の前で命に関わる危険が生じているような緊急の場面を想定した窓口ではない。生命に関わる緊急性が高いと感じられる場面では、警察の110番や消防の119番への連絡が優先されると案内されている。189・110・119はそれぞれ役割が異なる窓口であり、状況の緊急性に応じて使い分けるべきものである。この使い分けを知っておくこと自体が、いざというときに迷わず行動するための備えになる。
6.2 通告と相談の連続性
通告と相談は、制度上は別の行為として整理されるが、実際に電話をかける人の心理としては、明確に切り分けられるものではないことが多い。『これは通告するほどのことなのか、それとも単に相談したいだけなのか』という迷いを抱えたまま連絡することも少なくないだろう。189や市町村の窓口は、こうした迷いを抱えた相談にも対応する窓口として案内されており、通告か相談かをあらかじめ厳密に見極めてから連絡する必要はない、という理解が広まることが望ましい。
本節を締めくくるにあたり、通告制度をめぐる本稿の立場を改めて要約しておく。通告は、疑いを一人で抱え込まずに専門機関に手渡す行為であり、それ以上でもそれ以下でもない。手渡した先で何をどう調べ、どう対応するかは、通告した個人の手を離れる。この理解が、公園という日常の場で生まれる小さな気づきと、児童福祉の制度とを、無理なくつなぐための土台になる。
7. 要保護児童対策地域協議会と多機関連携——公園は「センサー」たりうるか
通告を受けた後、あるいは通告に至らない程度の心配ごとを共有する仕組みとして、児童福祉法は市町村に要保護児童対策地域協議会の設置を求めている。この協議会には、児童相談所、市町村の福祉部局、保健センター、学校、保育所・幼稚園、医療機関、警察など、子どもや家庭に関わる複数の機関が参加し、支援が必要と考えられる家庭についての情報を共有し、役割を分担して対応にあたる仕組みになっている。虐待予防を、単一の機関の責任ではなく、複数の機関が連携して担う体制として制度化した点に、この協議会の特徴がある。
この多機関連携という発想のなかに、公園を位置づけることはできるだろうか。学校や保育所は、子どもと日常的に接する専門職がいる制度化された場である。これに対して公園は、専門職が常駐するわけではなく、居合わせるのは同じように子どもを連れた保護者や、通りがかりの住民である。公園を学校や保育所と同じ意味での協議会の構成員に位置づけることは適切ではない。しかし、公園で交わされる立ち話のなかで、子育て世代包括支援センターや保健センターの存在が伝わり、そこから協議会の情報網に接続していく、という間接的な経路は考えられる。
ここで注意すべきは、公園を虐待の『センサー』、つまり組織的な監視・情報収集の装置に仕立てようとする発想には慎重であるべきだという点である。公園に来る人々に、周囲の家庭を観察し、気になる点があれば通報するよう求めるような運用は、公園を息苦しい場に変え、かえって支援を必要とする家庭を公園から遠ざけてしまう。公園が果たしうるのは、あくまで日常のなかで自然に生じる緩やかなつながりであり、それを制度的な監視の役割に転用しようとした瞬間に、公園の持つ開かれた性質そのものが損なわれる。
以上を踏まえると、公園と多機関連携の関係は、公園を制度の構成員として組み込むことではなく、公園での緩やかなつながりが、制度につながる複数の経路のうちの一つとして、控えめに存在すること、と表現するのが適切である。判断や対応の中心は、あくまで児童相談所・市町村・学校・医療機関などの専門機関にあり、公園はその外側にある、無数にある日常の接点の一つにすぎない。
次節では視点を変え、ここまで述べてきた公園の役割そのものに対する反論と留保を検討する。公園に過大な期待を寄せることの弊害を、あらためて正面から取り上げたい。
要保護児童対策地域協議会という名称は硬い印象を与えるが、その実質は、学校や保健センター、医療機関などが個別にばらばらに把握していた情報を、一定の枠組みのもとで共有し、支援の重複や漏れを防ぐための仕組みである。公園はこの協議会の外側にある、いわば制度の手前にある日常の場であり、その位置づけの違いを本稿は繰り返し強調しておきたい。
7.1 協議会の重層的な構成
要保護児童対策地域協議会は、しばしば重層的な構成を持つと説明される。関係機関の代表者が集まり全体の方針を確認する会議、実務を担当する職員が定期的に情報を交換する会議、個別の家庭について具体的な支援方針を検討する会議というように、扱う内容と参加者の範囲が異なる複数の会議体が組み合わされる、という説明が一般になされている。この重層的な構成そのものが、虐待予防を一つの窓口や一人の担当者に負わせるのではなく、複数の目と複数の専門性で支える体制を目指していることの表れであるとされる。
7.2 民生委員・児童委員という媒介
地域社会と公的な福祉制度とを媒介する存在として、民生委員法に基づく民生委員・児童委員がある。民生委員・児童委員は、地域住民の身近な相談相手であると同時に、必要に応じて行政や児童相談所につなぐ役割も担う、制度と地域のあいだに位置する存在である。公園で生まれる緩やかなつながりが、こうした地域に根ざした媒介者を介して、要保護児童対策地域協議会のような制度的な仕組みに接続していくという経路は、公園そのものが直接に制度の一員となるよりも、無理のない位置づけだと考えられる。
7.3 情報共有と個人情報保護のあいだ
多機関連携を論じるときに避けて通れないのが、情報共有と個人情報保護のあいだの緊張関係である。要保護児童対策地域協議会に参加する機関は、支援のために必要な範囲で情報を共有する一方、その情報を目的外に用いたり、必要以上に広く伝えたりしないことが求められる。この緊張関係を制度としてどう調整するかは、専門的な検討を要する論点であり、本稿がここで詳細に立ち入ることはできない。ただ、公園での何気ないやり取りがこうした制度的な情報共有の枠組みとは別の次元にあることを踏まえれば、公園での気づきを安易に『情報』として扱い、本人の知らないところで蓄積・共有していくような運用には、慎重であるべきだという指摘だけはしておきたい。
8. 反論と留保——公園がすべてを解決するわけではない
本稿がここまで述べてきた議論に対しては、いくつかの反論が想定される。第一の反論は、孤立が深刻な家庭ほど、そもそも公園に出かけてこない、というものである。これは的を射た指摘である。移動手段がない、近隣との関係を避けたい、子どもを連れて外出すること自体が負担である、といった事情を抱える家庭にとって、公園は必ずしも開かれた場ではない。公園が孤立を減らす経路になりうるのは、公園まで足を運べる家庭に限られるという限界を、本稿は率直に認める。
第二の反論は、公園や地域の見守りに期待を寄せることが、本来行政が担うべき福祉的な投資や専門職の配置の不足を、地域住民の善意で埋め合わせる口実に使われかねない、というものである。この懸念も重要である。公園での立ち話が孤立を和らげることと、専門的な相談体制・経済的な支援・保健医療へのアクセスが十分に整備されていることは、代替関係ではなく補完関係にある。公園における緩やかなつながりを強調することが、制度的な支援の縮小を正当化する理由になってはならない。
第三の反論は、公園という資源そのものが、地域や家庭の状況によって偏在しているというものである。近隣に公園があるかどうか、駐車場や屋根付きの休憩スペースがあるかどうかは、住んでいる場所によって異なる。公園を孤立予防の手がかりとして語るとき、この地理的な偏りを見落とせば、公園に恵まれた地域の家庭だけが接点を得られるという不均衡を追認することになりかねない。この点は次節で磐田市の公園の分布に即して具体的に検討する。
これらの反論を踏まえてなお、本稿が公園について論じる意味は失われないと考える。公園がすべての孤立を解消するわけではないという限界を認めたうえで、それでも公園が持つ、無償で手続きなしに立ち寄れるという性質は、他の多くの制度が持ち合わせていない独自の価値である。反論が示すのは、公園を過大評価してはならないということであり、公園に意味がないということではない。両者を混同しないことが重要である。
以上の留保を踏まえたうえで、次節では視点を磐田市の公園に移す。磐田市が公開する公園のデータと市の施設ガイドの記載から、この地域における公園の分布と設備を確認し、ここまでの議論がどこまで具体的に当てはまりうるかを検討する。
公園への過度な期待を戒めるもう一つの理由は、公園を訪れる人々自身への配慮である。地域の見守りという美名のもとで、公園に来る保護者が互いを観察し合う空気が強まれば、公園そのものが息苦しい場所に変わってしまう。孤立を減らすはずの場が、かえって人を遠ざける場になるという逆説を避けるためにも、公園に期待する役割は慎ましいものにとどめておくべきである。
8.1 都市化と匿名性という背景
反論をさらに掘り下げると、都市における匿名性そのものをどう評価するかという、より大きな論点に行き着く。都市社会学では、都市化が進むにつれて人間関係が匿名的で希薄になる傾向がしばしば指摘されてきた。この匿名性は、監視や詮索から個人を守るという意味では肯定的に評価しうる一方で、孤立を深める土壌にもなりうるという両面性を持つ。公園における緩やかなつながりは、この匿名性を否定するのではなく、匿名でいる自由を保ちながら、望めば顔見知りにもなれるという選択の幅を用意する試みとして理解するのが妥当である。都市化そのものを押しとどめることは本稿の射程を超えるが、その中で公園がどのような緩衝材になりうるかは、なお論じる価値がある。
8.2 過大評価と無視のあいだ
本稿の立場を一言でまとめるなら、公園を過大評価することと、公園の意味を無視することの、両極を避けるということになる。公園さえあれば虐待が防げるという主張は明らかな過大評価であり、逆に、公園のような日常的な場は虐待予防に何の関係もないという主張は、一次予防という段階の意味を見落とした無視である。本稿が繰り返し『慎ましい』という言葉を用いてきたのは、この両極のあいだにある、控えめだが確かな位置を言い当てようとしてのことである。
反論への応答を通じて明らかになるのは、公園を論じることが、公園以外の制度や投資の重要性を否定することとは無関係だということである。むしろ本稿は、公園という一次予防の側面を丁寧に位置づけることによって、二次予防・三次予防を担う専門機関や制度の役割の重さを、裏側から浮かび上がらせようとしている。公園にできることとできないことの境界を明確にすることは、専門機関が担うべき役割を軽んじることではなく、その役割の重要性を確認する作業でもある。
9. 磐田市の公園への示唆
当サイトが対象とする磐田市の都市公園は100園である。このうち94園は磐田市が公開するオープンデータ『都市公園一覧』に記載があり、残り6園は市の施設ガイドにのみ掲載がある。種別で見ると、街区公園が51園ともっとも多く、近隣公園が14園、都市緑地が10園、地区公園が4園、総合公園と運動公園と風致公園がそれぞれ3園、広場公園と緑道がそれぞれ2園、墓園と歴史公園が1園ずつとなっている(法対象外の6園を除く)。都市公園法施行令の目安では、街区公園は誘致距離250m、近隣公園は500mとされており、日常の生活圏に近い距離に置かれることが想定された種別である。
9地区への分布にも偏りがある。園数は豊田地区が28園ともっとも多く、見付地区21園、中泉地区14園、御厨地区・竜洋地区がそれぞれ13園、福田地区4園、豊岡地区3園、南部地区・向陽地区がそれぞれ2園である。この分布そのものが、地域ごとに公園という接点の密度が異なることを示している。第8節で述べた公園の地理的な偏在という論点は、磐田市についても他人事ではない。とりわけ南部・向陽・豊岡といった園数の少ない地区では、街区公園のような徒歩圏の公園に日常的にアクセスできる家庭の範囲が、他地区より狭い可能性がある。
滞在を支える設備の記載にも目を向けておく。オープンデータに記載のある94園のうち、トイレがあるとされるのは69園、車いす対応トイレがあるとされるのは34園、砂場があるとされるのは43園、遊具があるとされるのは64園である。市の施設ガイドから駐車場の記載があると当サイトが判定した公園は33園にとどまる。こうした設備の有無は、親子が長く滞在し、立ち話を交わす時間の余裕を持てるかどうかに関わる、地味だが見落とせない条件である。
個別の公園にも触れておく。御厨地区の安久路公園(地区公園、32,001㎡)は市の施設ガイドに、複合遊具にインクルーシブエリアがあること、ブランコにインクルーシブアイテムがあることが記載されており、多様な子どもが同じ場に居合わせる条件を備えている。見付地区の今之浦公園(近隣公園、13,675㎡)は、屋根付き広場や3歳未満児向けの遊具、芝生広場など、乳幼児連れの家庭が長く滞在しやすい設えが記載されている。中泉地区の中央公園(地区公園、41,642㎡)は多目的グラウンドやトイレなど、地区の拠点となりうる規模を持つ。これらはいずれも市の施設ガイドの記載に基づく事実であり、当サイトが現地で確かめた評価ではない。
当サイトの現地踏査は本稿執筆時点でまだ始まっていない。ベンチが何脚あるか、日陰がどの程度あるか、親同士が言葉を交わしやすい配置になっているかといった、オープンデータや施設ガイドの記載だけでは分からない事項は、すべて今後の踏査による確認を要する課題として残る。また、要保護児童対策地域協議会をはじめとする子ども家庭福祉の実際の運用体制についても、本稿は磐田市に固有の情報を持ち合わせていない。当サイトは公園100園のデータベースとしての性格を持つが、子ども家庭福祉の相談・通告の窓口そのものではなく、その役割を担うものでもない。具体的な心配ごとがある場合は、児童相談所全国共通ダイヤル189や磐田市の子育て世代包括支援センターなど、公的な窓口に相談することが確実な道筋である。
当サイトATAWI PARKは、磐田市の都市公園100園のデータベースであり、運営は富士ヶ丘サービス株式会社である。同社は不動産業と介護事業を営む企業であるが、本稿を含む学術論文のシリーズは、特定のサービスへの案内を目的とするものではなく、公園という公共空間を多角的な学問領域から検討する試みである。この立場を踏まえたうえで、次節では本稿全体の結論を述べる。
9.1 市の施設ガイドに見る個別の記載
市の施設ガイドに個別ページを持つ公園は、当サイトが突合できた範囲で77園である。個別ページには、駐車場の有無や園内施設の記載があり、たとえば見付地区の経塚公園(街区公園、3,155㎡)にはブランコと多目的トイレの記載があり、御厨地区の兎山公園(地区公園、56,193㎡)には複数の遊具や広い敷地の記載がある。こうした記載は、公園ごとに滞在のしやすさが異なることを示唆する。ただし、記載の有無や詳しさは公園によって差があり、記載が乏しいことが、その公園に価値がないことを意味するわけではない。この点も、現地踏査を経て確かめるべき課題である。
9.2 データベースとしての当サイトの位置づけ
当サイトが提供できるのは、公園の種別・面積・地区・設備といった、いわば外形的な情報である。ある公園が実際に孤立を減らす場として機能しているかどうかは、そこに集う人々の関係のあり方に左右されるものであり、データベースの記載だけからは判断できない。当サイトの役割は、磐田市内の公園を横断的に見渡せる情報基盤を用意することにとどまり、個々の公園が果たす社会的な機能を評価したり保証したりすることではない。この限界を明確にしたうえで、次節で本稿全体を締めくくる。
磐田市に限らず、公園の分布や設備のデータは、行政が地域ごとの子育て支援の厚みを検討する際の、一つの参考情報にもなりうる。街区公園が徒歩圏に多く配置されている地区では、日常的な接点が生まれやすい条件が整っている一方、公園の少ない地区では、公民館や子育て支援センターなど、公園以外の場が同じ役割を補う必要があるかもしれない。こうした地区ごとの条件の違いを具体的に検討することも、当サイトが持つデータの一つの活用可能性として、ここに記しておきたい。
10. 結論と今後の課題
本稿は、子ども虐待の予防という主題を、公衆衛生学の予防段階という枠組みに沿って整理し、都市公園がどの段階にどのような形で関わりうるかを検討してきた。結論として言えるのは、公園は一次予防、すなわち特定の家庭を名指しすることなく孤立そのものを減らすという段階において、慎ましいながらも固有の意味を持ちうるということである。一方で、二次予防にあたる兆候の見分けや、三次予防にあたる保護・回復の局面において、公園や居合わせた第三者が担いうる役割はごくわずかであり、その判断と対応は児童相談所・市町村・警察など、権限を持つ関係機関に属する。
『地域の目』という発想は、見守りと監視の境界を意識しないまま称揚すれば、かえって特定の家庭を公園から遠ざける逆説を生みうる。通告という制度は、告発ではなく支援の入口として設計されており、確証を必要とせず、判断のすべてを専門機関に委ねる仕組みになっている。この理解が広まること自体が、通告への心理的な抵抗を減らし、結果として支援につながる経路を太くする可能性がある。要保護児童対策地域協議会に代表される多機関連携のなかに、公園を正式な構成員として組み込む必要はなく、むしろそうした発想は避けるべきであるというのが、本稿の立場である。
同時に、公園に出かけられない家庭には本稿の議論は届かないこと、地域の見守りへの期待が公的な福祉投資の不足を覆い隠す口実に使われてはならないこと、公園という資源そのものが地域ごとに偏在していることは、繰り返し確認しておくべき限界である。本稿はこれらの限界を踏まえたうえで、それでもなお公園が持つ、無償で手続きなしに立ち寄れるという性質に、限定的だが確かな意味を見いだそうとするものである。
今後の課題は大きく三つある。第一に、当サイトが今後実施する現地踏査を通じて、磐田市の公園がどの程度、滞在と立ち話を支える条件を備えているかを、ベンチや日陰、動線といった具体的な観点から確認することである。第二に、子育て世代包括支援センターや要保護児童対策地域協議会など、磐田市における子ども家庭福祉の実際の体制について、当サイトが独自に確認できる公的な情報の範囲で整理することである。第三に、本稿が抑制的に扱った地域の目と監視の境界という論点を、犯罪学における防犯環境設計などの隣接領域の議論と突き合わせ、より精緻に検討することである。
註:最後に改めて確認しておく。虐待の有無についての判断、通告後の対応、個別の家庭への支援は、すべて児童相談所・市町村・警察・医療機関など、権限と専門性を持つ関係機関に属する。本稿はその判断に代わるものではなく、公園という日常的な場所が、支援へとつながる数ある経路の一つでありうることを、抑制的に示したにすぎない。
公園学術論文シリーズの他の論文もあわせて参照されたい。孤立や見守りという論点は、社会福祉学や地域社会学、犯罪学など、本稿が扱いきれなかった隣接領域からも論じることができる。本稿はその一つの視点を示したにすぎず、虐待予防という主題の全体像を提示するものではない。
10.1 本稿の要旨
- 虐待予防を一次・二次・三次予防の段階で整理すると、公園が関わりうるのは主に一次予防であり、名指しをしない孤立の低減という限定的な役割にとどまる。
- 『地域の目』は見守りと監視の境界を持ち、境界を越えれば特定の家庭を公園から遠ざける逆説を生みうる。
- 通告は告発ではなく支援の入口であり、確証を必要とせず、判断は児童相談所等の専門機関に委ねられる。
- 要保護児童対策地域協議会に代表される多機関連携の構成員として公園を組み込む発想は避けるべきである。
- 公園に出かけられない家庭には届かないこと、公的投資の不足を覆い隠す口実にしてはならないことは、本稿の立場の明確な限界である。
最後に、本稿を読んだ読者に伝えたいことを一つだけ述べておく。公園で気になる場面に居合わせても、断定的な判断を自分一人で下す必要はない。迷ったときに頼るべき先は、児童相談所全国共通ダイヤル189をはじめとする公的な窓口であり、そこに委ねることは、責任を放棄することではなく、制度を正しく機能させるための、もっとも確実な一歩である。
本稿はここで筆をおくが、公園という場所についての問いはここで終わらない。孤立を減らすということは、特別な仕組みを新たに作ることだけを意味しない。すでにある日常の場所を、どのような目で見つめ直すかという、地味で息の長い作業でもある。都市公園という、磐田市に100園が存在する、ごくありふれた公共空間を、その作業の手がかりの一つとして見つめ直すことに、本稿はささやかな意義を見いだしている。
参考文献
- H・R・リーヴェル、E・G・クラーク(1965)『Preventive Medicine for the Doctor in His Community』(McGraw-Hill)
- ユリー・ブロンフェンブレンナー(1979)『The Ecology of Human Development』(Harvard University Press)
- ジェームズ・ガーバリーノ(1995)『Raising Children in a Socially Toxic Environment』(Jossey-Bass)
- アーヴィング・ゴフマン(1963)『スティグマの社会学』(石黒毅訳、せりか書房)
- マーク・グラノヴェター(1973)『The Strength of Weak Ties』(American Journal of Sociology 掲載論文)
- ミシェル・フーコー(1975)『監獄の誕生』(田村俶訳、新潮社)
- ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
- 児童の権利に関する条約(1989年国連総会採択、日本1994年批准)
- 児童福祉法(昭和22年法律第164号)
- 児童虐待の防止等に関する法律(平成12年法律第82号)
- こども基本法(令和4年法律第77号)
- 母子保健法(昭和40年法律第141号)
- 民生委員法(昭和23年法律第198号)
- 厚生労働省・こども家庭庁 児童相談所全国共通ダイヤル「189(いちはやく)」の案内
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。