社会科学犯罪学
防犯環境設計(CPTED)と公園——見通し・領域性・活動支援・維持管理の四原則
要旨
本稿は、犯罪学のうち「場所」に着目する系譜——C・レイ・ジェフリーの防犯環境設計(CPTED、1971)、オスカー・ニューマンの守りやすい空間論(1972)、ウィルソンとケリングの割れ窓理論(1982)、コーエンとフェルソンの日常活動理論(1979)、クラークの状況的犯罪予防——を整理し、そこから導かれる自然監視・アクセス制御・領域性・活動支援・維持管理の諸原則が、公園という空間にどのように当てはまり、どこで当てはまらないかを検討するものである。
方法は文献整理と概念分析である。まず、犯罪を「人」の属性ではなく「機会」と「場所」の条件から説明する犯罪機会論の考え方を確認し、CPTEDの諸原則が公園の具体的な要素——植栽の高さ、照明、トイレの配置、出入口の数、園路の見通し、ベンチの向き、清掃と修繕——にどう翻訳されるかを論点別に述べる。次に、割れ窓理論とその批判、状況的犯罪予防における「転移」の問題を通じて、原則を機械的に適用することの限界を検討する。
主な論点は三つである。第一に、公園の安全は柵や監視の強さではなく、「見える」「入りにくいが出やすい」「だれかの場所だと分かる」「使われている」「手入れされている」という条件の重なりによって成り立つこと。第二に、防犯を突き詰めた設計——高い柵、伐採、監視カメラ、滞留を防ぐ家具——は、居心地と多様な利用を損ない、結果として「人の目」を減らして防犯効果を自ら掘り崩すというジレンマを抱えること。第三に、子どもの安全をめぐる「不審者」言説は、犯罪機会論の知見からも、道徳的パニック論の知見からも、慎重に扱う必要があること。
結論として、磐田市の公園100園の半数を占める街区公園(51園)は、住宅に囲まれた小さな空間であるがゆえに自然監視と領域性の原則がもっとも直接に働く場であり、同時に過度の防犯化がもっとも居心地を損ないやすい場でもあると考えられる。当サイトの踏査はこれからであり、各園の見通し・出入口・照明・トイレの位置は今後の現地調査で確かめる。本稿は、そのための観察の枠組みを犯罪学の側から提示するものである。
キーワード防犯環境設計CPTED自然監視領域性割れ窓理論犯罪機会論街区公園
1. はじめに——問題の所在
公園は「安全か」と問われるとき、多くの人が思い浮かべるのは、遊具の点検やケガの話であろう。しかし公園の安全にはもう一つの側面がある。だれかが悪意をもって公園を使うこと、あるいは公園が荒れて近寄りがたい場所になることに対して、公園という空間そのものがどれだけ強いか、という側面である。この問いを扱う学問が犯罪学、なかでも「場所」に着目する犯罪学の系譜である。本稿は、その系譜の中核をなす防犯環境設計(CPTED:Crime Prevention Through Environmental Design)の考え方を整理し、公園に当てはめて検討する。
犯罪学は長らく、犯罪を「どのような人が犯すのか」という人の側から説明してきた。貧困、生育環境、性格、集団の規範といった要因を探る研究は、犯罪の原因を理解するうえで欠かせない。しかし1970年代以降、犯罪を「どのような場所で、どのような機会があるときに起こるのか」という状況の側から説明し、その場所と機会を変えることで犯罪を減らそうとする流れが生まれた。これが犯罪機会論と呼ばれる考え方であり、CPTEDはその建築・都市計画への応用として位置づけられる。公園は、だれでも入れる、管理者が常駐しない、樹木や構造物で視線がさえぎられやすい、という性質をもつため、犯罪機会論が扱う典型的な場所の一つとされてきた。
1.1 本稿の問い
本稿の問いは三つある。第一に、CPTEDの諸原則——自然監視、アクセス制御、領域性、活動支援、維持管理——は、公園という空間の具体的にどの要素に対応するのか。植栽の高さ、照明、トイレの配置、出入口の数と位置、園路の線形、ベンチの向き、清掃の頻度といった要素を、原則ごとに読み解く。第二に、それらの原則を突き詰めたとき、公園は本当に「良い公園」になるのか。高い柵で囲み、樹木を切り、監視カメラを置き、長居できないベンチにすれば、たしかに犯罪の機会は減るかもしれないが、同時に人が寄りつかない場所になり、結果として「人の目」という最大の防犯資源を失うのではないか。この防犯化のジレンマを正面から扱う。第三に、子どもの安全をめぐって語られる「不審者」という言葉は、犯罪学の知見に照らしてどこまで妥当なのか。恐れが子どもの遊びの自由を狭めるとすれば、その恐れはどのように相対化されるべきか。
1.2 方法と立場
方法は文献整理と概念分析である。取り上げる文献は、犯罪学と都市計画の分野で広く参照される古典と、日本の公的な指針に限る。統計的な効果量や具体的な犯罪件数については、本稿は扱わない。犯罪の発生は地域・時代・記録の方法によって大きく変わるため、特定の数値を公園一般に当てはめることは誤解を招きやすいからである。「〜という研究群がある」「〜とされる」という言い方にとどめ、断定を避ける。また、子どもの安全に関する記述では、恐怖をあおる表現を避け、判断は保護者・学校・警察・自治体といった関係機関に委ねる立場をとる。
本稿の立場をあらかじめ述べておく。CPTEDは有用な枠組みであるが、それは「犯罪を減らす」という一つの目的に最適化された枠組みであって、公園がもつ多くの価値——遊び、休息、出会い、自然とのふれあい——のすべてを測る物差しではない。したがって本稿は、CPTEDの原則を「守るべき規範」としてではなく、「公園を見るときの一つのレンズ」として提示する。レンズを通して見えるものと、レンズが見落とすものの両方を書くことが、犯罪学の側から公園を論じる者の誠実さであると考える。
1.3 本稿の構成
第2節では、ジェイコブズ、ジェフリー、ニューマン、コーエンとフェルソン、クラーク、ウィルソンとケリングという系譜をたどり、CPTEDの原則がどのように形成されたかを整理する。第3節は自然監視、第4節はアクセス制御と領域性、第5節は活動支援と維持管理(割れ窓理論を含む)を、それぞれ公園の要素に即して検討する。第6節では防犯化のジレンマを、第7節では「不審者」言説への批判的視点を論じる。第8節では磐田市の公園100園のデータ(種別・園数・面積・設備)を手がかりに、本稿の枠組みが磐田市の公園にどう当てはまりうるかを述べる。ただし当サイトの踏査は始まったばかりであり、各園の見通しや照明の実態は今後の現地調査で確かめるべき事柄であることを、あらかじめ明記しておく。第9節で結論と今後の課題を述べる。
2. 先行研究と概念の整理——犯罪機会論の系譜
場所に着目する犯罪学は、一人の思想家によって始まったのではなく、1960年代から80年代にかけて、都市計画・建築・社会学・心理学の境界で複数の議論が重なり合って形をなした。本節では、その系譜を年代順にたどり、CPTEDの原則を構成する概念がどこから来たのかを整理する。
2.1 ジェイコブズの「街路の目」——出発点としての観察
系譜の出発点にしばしば置かれるのが、ジェイン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』(1961)である。ジェイコブズは犯罪学者ではなく、都市計画の実務を批判するジャーナリストであった。彼女は、街路の安全を守るのは警察でも塀でもなく、街路に面して暮らし働く人びとの自然な視線——「街路の目(eyes on the street)」——と、絶え間ない通行者の存在であると論じた。公園についても、周囲に多様な用途があって時間帯の異なる利用者が絶えず送り込まれるときにだけ公園は安全で生き生きとした場所になり、そうでない公園は使われず、使われない公園は危険になると述べた。この観察は、後の理論家たちに「人の目」を防犯の資源として位置づける発想を与えた。
2.2 ジェフリーとニューマン——CPTEDの命名と守りやすい空間
CPTEDという語そのものは、犯罪学者C・レイ・ジェフリーが1971年の著書『Crime Prevention Through Environmental Design』で用いたものである。ジェフリーは、犯罪を人の性格や生い立ちからではなく、環境が人の行動に与える刺激と報酬から説明しようとし、環境を設計し直すことで犯罪行動そのものを起こりにくくできると論じた。彼の議論は心理学的で抽象度が高く、建築の実務にすぐ結びつくものではなかったが、「環境設計による犯罪予防」という枠組みの名を与えた点で画期的であった。
その翌年、建築家オスカー・ニューマンが『Defensible Space』(1972、邦題『まもりやすい住空間』)を刊行し、CPTEDに具体的な形を与えた。ニューマンは公営住宅団地の比較から、住民が「自分たちの場所」と感じて自然に見守る空間と、だれのものでもなく放置される空間との違いを説明し、領域性(territoriality)、自然監視(natural surveillance)、イメージ(image)、周辺環境(milieu)という四つの要素を挙げた。とくに、住戸の窓から見える範囲、共用部分の境界の明確さ、建物の見た目が周囲に与える印象が、住民の見守り行動を左右するという指摘は、その後の防犯設計の基礎となった。ニューマンの議論は住宅団地を対象としたものであるが、共用の屋外空間をだれが「自分の場所」と感じるかという問いは、そのまま公園に持ち込むことができる。
2.3 日常活動理論と状況的犯罪予防——理論の骨格
1979年、ローレンス・コーエンとマーカス・フェルソンは日常活動理論(routine activity theory)を提示した。犯罪は、動機をもつ行為者、格好の標的、そして有能な監視者の不在という三つの条件が同じ時間・同じ場所に重なったときに起こる、という単純な枠組みである。ここでいう監視者は警察官である必要はなく、通りがかりの人、窓辺の住民、公園で遊ぶ親子であってもよい。この理論の意義は、犯罪の説明から「動機をもつ人がなぜ生まれるか」という問いを一度切り離し、標的と監視者という、環境の設計によって変えられる要素に光を当てた点にある。
同じ時期、英国内務省の研究者であったロナルド・クラークは状況的犯罪予防(situational crime prevention)を体系化した。犯罪者を合理的に選択する行為者とみなし、犯行に要する努力を増やす、見つかる危険を高める、得られる利益を減らす、といった具体的な手法で機会を減らす考え方である。のちに挑発を減らす、言い訳を封じるという柱が加えられ、複数の技法群として整理された。状況的犯罪予防は「犯罪の転移(displacement)」——ある場所で防いだ犯罪が別の場所や別の手口に移るだけではないか——という批判を常に受けてきたが、この批判は本稿の第6節で扱う防犯化のジレンマにも直結する。
2.4 割れ窓理論とクロウの五原則
1982年、政治学者ジェイムズ・Q・ウィルソンと犯罪学者ジョージ・L・ケリングは、雑誌『アトランティック・マンスリー』に「Broken Windows」と題する論考を寄せた。一枚の割れた窓が放置されると、だれも気にかけていないという合図となり、次々に窓が割られ、やがて重い犯罪を招く——という割れ窓理論(broken windows theory)である。ここで焦点となるのは犯罪そのものではなく、落書き・ごみ・壊れた設備といった「無秩序(disorder)」の兆候であり、それを早く直すことが地域の安全感と実際の安全を支えるとされた。ケリングはのちにキャサリン・コールズとの共著(1996)でこの理論を展開し、日本でも邦訳を通じて広く知られるようになった。
こうした議論を実務向けに整理したのが、ティモシー・クロウの『Crime Prevention Through Environmental Design』(1991)である。クロウは自然監視・自然なアクセス制御・領域性の強化を三つの中核戦略として示し、これに維持管理と活動支援を加えて五つの原則とする整理が、以後の防犯設計の指針や自治体の手引きで広く用いられるようになった。日本では、警察庁が平成12年に「安全・安心まちづくり推進要綱」を定め、道路・公園・駐車場等の整備・管理における防犯上の留意事項を示している。また犯罪学者の小宮信夫は、犯罪機会論の考え方を「入りやすく見えにくい場所」という言葉で一般向けに説き、地域安全マップの取組を提唱した。以下の表は、本節で取り上げた系譜を年代順に整理したものである。
| 年 | 論者・文書 | 中心概念 | 公園への含意 |
|---|---|---|---|
| 1961 | ジェイコブズ | 街路の目、用途の混在 | 使われる公園が安全な公園 |
| 1971 | ジェフリー | CPTEDの命名 | 環境設計で犯罪行動を変えうる |
| 1972 | ニューマン | 領域性・自然監視・イメージ・周辺環境 | だれの場所か分かる屋外空間 |
| 1979 | コーエン&フェルソン | 日常活動理論(監視者の不在) | 居合わせる人が監視者になる |
| 1980年代 | クラーク | 状況的犯罪予防、転移 | 機会を減らす手法とその限界 |
| 1982 | ウィルソン&ケリング | 割れ窓理論(無秩序の兆候) | 壊れたものを早く直す |
| 1991 | クロウ | 五原則の整理 | 設計指針としてのCPTED |
| 2000 | 警察庁要綱 | 安全・安心まちづくり | 公園整備・管理の留意事項 |
この系譜から分かるのは、CPTEDが一枚岩の理論ではなく、観察・命名・設計原則・理論的骨格・秩序論という異なる層の積み重ねだということである。次節以降では、この積み重ねから抽出される原則を一つずつ取り上げ、公園という空間に翻訳していく。
3. 自然監視——見通し・植栽・照明・トイレの配置
CPTEDの原則のうち、公園にもっとも直接に関わるのが自然監視(natural surveillance)である。自然監視とは、警備員やカメラといった特別な装置によらず、その場所にいる人・周囲にいる人が、ふつうに過ごしているだけで互いの姿が目に入る状態を指す。日常活動理論の言葉でいえば、「有能な監視者」がわざわざ配置されなくても、そこに居合わせる人が自然に監視者の役割を果たす条件を整えることである。本節では、この条件を公園の四つの要素——見通し、植栽、照明、トイレの配置——に分けて検討する。
3.1 見通しの二重性——外から中へ、中から外へ
公園の見通しには二つの向きがある。一つは、周囲の道路や住宅から公園の中が見えること。もう一つは、公園の中にいる人から周囲や出入口が見えることである。前者は、通行人や住民が異変に気づく可能性を高め、後者は、公園にいる人が「だれかに見られている」「逃げ道がある」と感じることで安心を支える。ニューマンが住宅団地で重視した「窓からの視線」は、公園では「園を囲む家々の窓」「面する道路の歩行者」「隣接する店や施設」に置き換えられる。犯罪機会論の一般向け解説で用いられる「入りやすく見えにくい場所」という表現は、この二重の見通しが失われた状態を指している。
見通しを損なう要素は、樹木や生垣だけではない。公衆トイレの建物、倉庫、築山、遊具の背の高い部材、フェンスに張られた目隠しシート、駐車場に停められた車列も、視線をさえぎる。逆に、地形が少し高くなっている、園路が緩やかに曲がっていて全体を一望できない、といった造園上は魅力とされる要素も、見通しの観点では死角をつくる。設計者は、景観のための「隠す」と、防犯のための「見せる」とのあいだで判断を迫られる。ここで大切なのは、公園全体を一望できることを求めるのではなく、人が集まる場所(遊具・砂場・ベンチ)と人が孤立しやすい場所(トイレの裏、園の隅、園路の行き止まり)のどちらに死角があるかを見分けることである。
3.2 植栽——高さと密度の管理
植栽は公園の価値の中核でありながら、自然監視の観点ではもっとも頻繁に問題にされる要素である。防犯設計の手引きでは、低木は人の視線をさえぎらない高さに刈り込み、高木は枝下を高く保って幹のあいだから向こうが見えるようにする、という経験則がしばしば示される。この経験則の要点は、樹木を減らすことではなく、目の高さの帯を開けることにある。低木の生垣が胸の高さまで茂り、その上に高木の枝が垂れ下がれば、目の高さの帯は完全にふさがれる。逆に、足元の低い植栽と、頭上高くの樹冠だけであれば、緑の量を保ちながら見通しは確保される。
植栽の管理は一度きりの設計ではなく、継続的な作業である。植えた当初は見通しがよかった生垣も、数年で人の背丈を超える。剪定の頻度は予算と人手に左右され、管理の行き届かない公園ほど視線がふさがれ、ふさがれるほど利用者が減り、利用者が減るほど手入れの優先順位が下がる、という循環に陥りやすい。この循環は第5節で扱う維持管理の原則と直結する。なお、樹木の高さや剪定は樹木の健康や安全にも関わる事柄であり、防犯の観点だけで判断すべきではない。この点は本シリーズの樹木学の論考に譲る。
3.3 照明——明るさよりも落差
照明は、自然監視を夜間に延長する装置である。ただし防犯設計で重視されるのは、単純な明るさではなく、明るい場所と暗い場所の落差の小ささとされる。強い光源が一か所にあると、その周囲は相対的に濃い影となり、目が慣れた状態では影の中がかえって見えにくくなる。園路の全体を均一に照らし、出入口・トイレ・案内板の付近を少し明るくする、というのが一般的な考え方である。日本の安全・安心まちづくりの留意事項でも、公園の園路やトイレについて、人の行動を視認できる程度の照度を確保することが求められている。
一方で、公園を夜間に明るくすることは、夜間の滞留を促し、近隣の住民にとっては騒音や光害の懸念となりうる。また、そもそも夜間に利用を想定しない小さな街区公園にどこまで照明を整えるかは、防犯の観点だけでは決められない。照明は「夜も使う公園」と「夜は使わない公園」のどちらを目指すのかという、公園の性格づけの問題と切り離せない。この判断は自治体・住民・利用者のあいだで共有されるべきものであり、本稿は判断の材料を整理するにとどめる。
3.4 トイレの配置——見える位置、逃げ道のある構造
公園のトイレは、自然監視の観点でもっとも慎重に扱うべき要素である。壁で囲まれた小さな建物であり、利用者は一時的に周囲から見えなくなる。防犯設計の考え方では、トイレを園の隅や樹木の陰ではなく、園路や広場から出入口が見える位置に置くこと、出入口を通路に向けて開くこと、建物の裏に袋小路をつくらないこと、周囲の植栽を低く抑えることが挙げられる。また、多目的トイレは広い個室であるがゆえに、子どもだけで使わせるかどうかの判断が保護者に委ねられる場面が多い。この点は本稿が結論を出す事柄ではなく、保護者と施設管理者の判断に属する。
ここまでを整理すると、自然監視とは「見張る」ことではなく、「見えてしまう」状態を設計によってつくることである。ジェイコブズが強調したように、見えることは、見られる側にとっては安心でもある。この二重性が保たれるかぎり、自然監視は公園の居心地を損なわない。逆に、見通しを確保するために木を切り尽くし、明るさのために夜通し照らし、トイレの安全のために建物を撤去すれば、それは自然監視ではなく、公園の機能を削ることになる。次節では、この「見える」に続く条件——「入りにくく出やすい」「だれの場所か分かる」——を検討する。
4. アクセス制御と領域性——出入口・境界・「だれの場所か」
自然監視が「見える」ことの原則であるとすれば、アクセス制御(access control)は「入る・出る」ことの原則、領域性(territoriality)は「だれの場所か」の原則である。両者は密接に関係している。境界がはっきりしていれば、どこからが公園でどこまでが道路かが分かり、出入口が絞られていれば、だれがいつ入ってきたかが自然に目に入る。そして、その場所が「だれかの場所」だと感じられていれば、居合わせる人は異変に反応しやすくなる。本節では、公園という「だれでも入れる場所」において、この二つの原則がどのような形をとりうるかを検討する。
4.1 公園におけるアクセス制御の逆説
アクセス制御は、住宅や事務所では鍵・門・受付として実現される。しかし公園は、都市公園法のもとで市民に広く開かれることを本質とする施設であり、鍵をかけて人を選別することは原則としてできない。したがって公園におけるアクセス制御は、「入れなくする」ことではなく、「入るときに自然に見られる」「出入口が分かる」「車が入れない」といった、緩やかな形をとる。犯罪機会論が問題にするのは「入りやすく見えにくい」場所であるが、公園はそもそも入りやすくあるべき場所であるから、対策の重心は「見えにくさ」の側に置かれることになる。
そのうえで、出入口の位置と数は重要である。出入口が多すぎれば、園内の人がどこから人が入ってくるか把握できず、出入口が少なすぎれば、園内で不安を感じた人が逃げ道を失う。防犯設計では、主要な出入口を園路の見通し線上に置き、出入口の周囲を明るく開けておくことが推奨される。また、フェンスや車止めは、車両の進入を防ぐと同時に、境界を示す役割をもつ。ここで注意すべきは、フェンスの高さである。人が乗り越えられない高さの柵は、外部からの侵入を防ぐ一方で、園内から外へ助けを求める視線と声も遮る。防犯設計の多くは、腰の高さ程度の低い柵や植栽帯で境界を「示す」ことを推奨し、高い柵で「閉じる」ことには慎重である。
4.2 領域性——物理的境界と象徴的境界
ニューマンの領域性の議論で重要なのは、境界には物理的なものと象徴的なものがあるという区別である。物理的境界は壁・柵・門であり、象徴的境界は舗装の変化、低い植え込み、段差、門柱、看板、名前の表示である。象徴的境界は人の通行を物理的には妨げないが、「ここから先は別の場所だ」という合図を送る。合図を受け取った人は、自分がその場所にふさわしい振る舞いをしているかを意識し、周囲の人もまた、その場所での振る舞いを見る目をもつ。ニューマンは、住宅団地の共用部分にこうした象徴的境界を設けることで、住民の見守り行動が引き出されると論じた。公園に置き換えれば、園名を刻んだ標柱、入口の舗装の切り替え、花壇や生垣で縁取られた境界がこれにあたる。
| 区分 | 例 | 働き | 副作用 |
|---|---|---|---|
| 物理的境界 | 高い柵、施錠される門 | 侵入を物理的に防ぐ | 園内からの視線・声も遮る。閉鎖的な印象 |
| 象徴的境界 | 低い植え込み、舗装の変化、標柱、看板 | 「別の場所」であることを合図する | 手入れされないと合図が弱まる |
| 社会的領域性 | 愛護活動、花壇の世話、地域行事 | 「だれかの場所」だと示す | 担い手の高齢化・固定化で持続しにくい |
4.3 社会的領域性——手入れする人がいること
領域性は、設計だけでなく人の営みによっても生まれる。ある公園を近隣の人びとが定期的に清掃し、花壇に季節の花を植え、行事を開いているとすれば、その公園は制度上は市の施設であっても、感覚のうえでは「その地域の場所」になる。訪れた人は、手入れの跡から「ここはだれかが気にかけている場所だ」と読み取る。ニューマンのいうイメージ(image)とは、まさにこの読み取りのことである。日本の多くの自治体で公園愛護会と呼ばれる地域団体が公園の清掃や除草を担っているのは、行政コストの分担であると同時に、この社会的領域性を生み出す仕組みでもある。
ただし社会的領域性には二つの限界がある。第一に、担い手の持続性である。清掃や見守りを担う人びとが固定化し高齢化すれば、活動は細り、手入れの跡は薄れる。第二に、領域性が強くなりすぎると、「その地域の場所」が「その地域の人だけの場所」に転じ、よそから来た親子や、地域に知り合いのいない転入者を排除する空気を生む。領域性は「だれかの場所」であることを示す原則であって、「だれかだけの場所」にする原則ではない。この区別を見失うと、公園の公共性は損なわれる。この点は本シリーズの哲学の論考が扱う「だれでも入れることと、だれかのものであること」の緊張と重なる。
4.4 「入りにくく出やすい」の意味
以上を踏まえると、公園におけるアクセス制御と領域性の要点は、「入りにくく出やすい」という言い方に集約できる。ここでいう「入りにくい」とは物理的に入れないことではなく、入るときに自然に人の目に触れ、その場所のルールを意識せざるをえないこと。「出やすい」とは、園内のどこにいても出口が見え、閉じ込められる感覚がないことである。高い柵で囲った公園は「入りにくいが出にくい」場所になり、境界のない空き地のような公園は「入りやすく出やすい」が「だれの場所でもない」場所になる。防犯設計が目指すのは、その中間——低い境界と明確な出入口、名前と手入れの跡によって「だれかの場所」だと分かる、開かれた公園である。
5. 活動支援と維持管理——使われることが守ること、割れ窓理論の射程
見える、入りにくく出やすい、だれの場所か分かる——これらの条件が整っていても、だれも来ない公園は守られない。日常活動理論の「有能な監視者」は、そこに人がいてはじめて成り立つ。活動支援(activity support)とは、正当な利用を促し、多様な人が多様な時間帯に公園を使うように仕向ける原則であり、維持管理(maintenance)とは、その利用が続くように公園を手入れし、荒れの兆候を早く取り除く原則である。本節では、この二つを一組のものとして検討し、維持管理の理論的根拠とされる割れ窓理論の射程と限界を論じる。
5.1 活動支援——利用のリズムを設計する
活動支援の発想はジェイコブズに由来する。彼女は、公園が生きるためには周囲の用途が混在し、朝は通勤者、昼は親子や高齢者、夕方は学校帰りの子ども、夜は散歩する人、というように時間帯ごとに異なる人が送り込まれる必要があると述べた。公園の内側でできる活動支援は、この「利用のリズム」を受け止める設備を用意することである。幼児向けの遊具と学童向けの遊具を分けて置くこと、高齢者が使う健康遊具や日陰のベンチを設けること、球技ができる広場を用意すること、季節ごとの花や行事があること。それぞれは別の目的で設けられる設備であるが、防犯の観点から見れば、どれも「人を公園に呼び、滞在させる」装置である。
ここで注意すべきは、活動支援は「にぎわいをつくる」ことと同じではない、という点である。大きなイベントで一時的に人を集めても、平日の午前や夕方に人がいなければ、日常の監視者は不在のままである。むしろ、毎日決まった時間に散歩に来る人、週に何度か遊びに来る親子、といった小さく繰り返される利用こそが、公園の「見られている感」を持続させる。ベンチの向きを遊具や出入口に向けること、木陰と日なたの両方に座る場所を置くこと、といった細かな設計が、この繰り返しの利用を支える。活動支援は派手な仕掛けではなく、来やすさと居やすさの積み重ねである。
5.2 維持管理——割れ窓理論の要点
維持管理の理論的な根拠として引かれるのが、第2節で紹介した割れ窓理論である。ウィルソンとケリングの論考の要点は、犯罪そのものよりも「無秩序の兆候」に注目したことにある。割れた窓、落書き、散乱するごみ、壊れたまま放置された設備は、「ここはだれも気にかけていない」という合図を送る。合図を受け取った人びとは、その場所での軽い逸脱をためらわなくなり、逸脱が積み重なると、住民は外出を控え、街路から「目」が消え、より重い犯罪の機会が生まれる——という連鎖である。したがって、無秩序の兆候を早く取り除くことが、連鎖の最初の一歩を断つ手段になる。
公園に置き換えると、割れた窓にあたるものは何か。錆びて塗装のはげた遊具、長期間「使用禁止」のテープが巻かれたままの器具、電球の切れた照明、落書きの残るトイレ、あふれたごみ箱、伸び放題の草である。とりわけ、故障した遊具に使用禁止のテープが長く貼られたままの状態は、利用者に「直す気がない」という合図として読まれやすい。国土交通省の遊具安全指針が求める日常点検・定期点検は、事故防止のための仕組みであるが、点検して直すという行為そのものが、公園が手入れされているというメッセージにもなる。安全のための点検と防犯のための維持管理は、この点で重なる。
5.3 割れ窓理論の限界——無秩序はだれが決めるのか
割れ窓理論は直観的で分かりやすいがゆえに、批判も多い。第一に、因果関係の問題である。無秩序の兆候と犯罪とが同じ地域で同時に見られるとしても、それは無秩序が犯罪を生むからではなく、両者がともに貧困や社会的つながりの弱さといった共通の背景から生じているだけではないか、という指摘がある。社会学者ロバート・サンプソンらの研究群は、住民が互いに信頼し、必要なときに介入する意思をもつ状態——「集合的効力感(collective efficacy)」——が、無秩序よりも犯罪の少なさをよく説明するとした。この見方に立てば、公園を守るのは清掃そのものではなく、清掃を通じて生まれる住民のつながりだということになる。
第二に、「無秩序」をだれが定義するのかという問題である。割れ窓理論は1990年代の米国で、軽微な違反を厳しく取り締まる警察政策(いわゆるゼロ・トレランス)の根拠として用いられ、その運用が特定の人びと——若者、路上生活者、少数派——を狙い撃ちにしているという批判を受けた。公園でいえば、夕方にたむろする中高生、ベンチで長時間過ごす人、大声で遊ぶ子どもたちは、ある人には「無秩序」に見え、別の人には「活動支援が実った姿」に見える。維持管理の原則を「気に入らない利用者を排除する」根拠に転用すれば、それは第4節で述べた「だれかだけの場所」への転落を招く。割れ窓理論から公園が学ぶべきは、壊れたものを早く直すという物理的な維持管理であって、人を選別する秩序維持ではない。
5.4 二つの原則の相互依存
活動支援と維持管理は互いに支え合う。使われる公園は手入れの優先順位が上がり、手入れされた公園はさらに使われる。逆に、使われない公園は手入れが後回しになり、手入れされない公園はさらに使われなくなる。この正負の循環は、本シリーズの都市社会学の論考が「利用密度と安心感の循環」として論じたものと同じ構造である。犯罪学の側から付け加えるとすれば、この循環のどちらに乗るかを決めるのは、大きな投資ではなく、小さな手入れと小さな利用の積み重ねだという点である。切れた電球を替える、テープを巻いた遊具を直すか撤去して次を置く、ベンチを遊具の見える向きに直す——こうした地味な作業が、公園の防犯の大半を占めている。
6. 防犯化のジレンマ——要塞化・排除的設計・監視カメラ
ここまで検討してきた諸原則は、いずれも「程度」の問題を含んでいる。見通しはよいほうがよいが、木を全部切ればよいわけではない。境界は分かるほうがよいが、高い塀で囲えばよいわけではない。維持管理は大切だが、気に入らない利用者を追い出すことではない。本節では、この「程度」を見誤ったときに何が起こるかを、防犯化のジレンマとして正面から論じる。ジレンマとは、防犯を強めるほど公園の価値が損なわれ、価値が損なわれるほど人が来なくなり、人が来なくなるほど防犯の基盤である「人の目」が失われる、という自己矛盾のことである。
6.1 要塞化——閉じることで失うもの
ニューマン自身が『まもりやすい住空間』で警告したのは、守りやすさを物理的な壁と鍵に還元してしまうことであった。彼が求めたのは、住民が自然に見守る空間であって、要塞のような団地ではない。公園でいえば、高いフェンス、施錠される門、夜間の閉鎖、目隠しの撤去と同時に行われる過剰な伐採は、要塞化の兆候である。要塞化された公園は、外から見れば「危険だから閉じているのだろう」という印象を与え、内から見れば「閉じ込められる」という不安を生む。犯罪機会論の言葉でいえば、「入りにくく出やすい」から「入りにくく出にくい」へ転じるのであり、これは監視者を減らし、閉じた空間の中での機会を増やしかねない。
状況的犯罪予防への古典的な批判である転移も、ここで思い出されるべきである。ある公園を閉じれば、その公園を使っていた人——好ましくない利用者だけでなく、ふつうの親子や散歩する人も——は別の場所へ移る。閉じた公園で防がれた問題が隣の公園や路地に移っただけであれば、地域全体の安全は変わらないどころか、開かれた公園の利用者を減らした分だけ悪化しうる。転移の議論には、対策の効果が周辺にも広がる「利益の拡散」もあるとされ、必ずしも悲観的な結論には至らないが、いずれにせよ一つの公園だけを見て防犯を語ることはできない。
6.2 排除的設計——長居させないための家具と看板
近年、都市の公共空間で問題視されるのが、特定の使い方を物理的に妨げる設計——寝転べないように仕切りを付けたベンチ、座れないように傾けた縁石、スケートボードを止める金具など——であり、日本では排除ベンチ、排除アートといった呼び方で議論されている。こうした設計は、路上生活者の滞留や若者のたむろを防ぐ目的で導入されるが、同時に、疲れた高齢者が横になれず、親子がベンチで弁当を広げられず、公園から「長く居る」理由を奪う。活動支援の原則から見れば、これは正当な利用をも抑え込む逆行である。
看板の増殖も同じ問題を抱える。ボール遊び禁止、大声禁止、花火禁止、犬の立入禁止、深夜の立入禁止——禁止事項を並べた看板は、それ自体が「ここは問題の多い場所だ」という合図になり、また、公園でできることを狭めることで利用を減らす。もちろん、住宅密集地の小さな公園でボール遊びを制限することには近隣への配慮という合理性がある。問題は、禁止が積み重なった結果、公園が「何もしてはいけない場所」になり、だれも来なくなることである。本シリーズの哲学の論考が「禁止看板の増殖と公共性の縮減」として論じる事柄は、犯罪学の側から見ても、活動支援の自己否定として説明できる。
6.3 監視カメラ——「人の目」の代替になるか
監視カメラは、自然監視が働かない場所を機械の目で補う装置として導入される。犯罪機会論の枠組みでは、カメラは「見つかる危険を高める」手法にあたり、駐車場や店舗など特定の場所では一定の効果があるとする研究群がある一方で、公園のような開かれた空間での効果は場所や運用によって大きく異なるとされる。ここで本稿が注目したいのは効果の有無よりも、カメラが公園の性格に与える影響である。カメラは、記録はするが介入はしない。異変が起きたとき、その場で声をかけ、助けを呼ぶのは、居合わせた人である。カメラが置かれたことで住民や利用者が「見守りは機械に任せた」と感じ、自分の目を向けなくなれば、それは自然監視の後退である。
また、カメラは公園を「見られる場所」から「記録される場所」に変える。ジェイコブズが重視した街路の目は、水平で相互的な視線——見る人も見られている——であったが、カメラの視線は一方向で非対称である。本シリーズの都市社会学の論考が扱うパノプティコン論は、この非対称な視線が人の振る舞いを萎縮させることを論じている。子どもがのびのびと遊び、親が気兼ねなく座っていられる公園にとって、この萎縮は小さくない代償である。カメラを置くか否かは自治体・住民が決めることであるが、少なくとも「置けば安全になる」という単純な図式は、犯罪学の知見に照らして支持しにくい。
6.4 安全と安心のずれ
防犯化のジレンマの根には、安全(実際に犯罪が起こりにくいこと)と安心(人びとが安全だと感じること)とのずれがある。フェンスやカメラや禁止看板は、安全を高めるかどうかにかかわらず、「対策をしている」という安心を関係者に与えやすい。しかし利用者にとっては、これらはしばしば「ここは危険な場所らしい」という不安の合図として働く。安心のための対策が不安を生み、不安が利用を減らし、利用の減少が安全を損なう。このねじれを避けるためにCPTEDの実務家が近年強調するのは、社会的なつながりや地域の文化を含めて考える、いわゆる第二世代CPTEDと呼ばれる考え方である。設計だけで安全をつくることはできず、人の営みと結びついてはじめて設計は機能する——第2節でみた系譜は、この認識に回帰しつつあるといえる。
7. 子どもの安全と「不審者」言説——犯罪機会論からの批判的視点
公園の防犯が語られるとき、もっとも強い感情を伴うのが子どもの安全である。そしてその文脈で繰り返し使われるのが「不審者」という言葉である。本節は、この言葉と、それを中心に組み立てられる語り——本稿では「不審者」言説と呼ぶ——を、犯罪機会論と、逸脱の社会学における道徳的パニック論の二つの側から検討する。あらかじめ述べておくが、本節は子どもへの犯罪が存在しないと述べるものではなく、その予防に反対するものでもない。問いは、「不審者」という枠組みが、子どもを守るうえで有効か、そして子どもの遊びと成長にどのような影響を与えるか、である。
7.1 「人」を見るか「場所」を見るか
犯罪機会論の立場から「不審者」言説に向けられる第一の批判は、それが「人」に着目する枠組みだという点である。不審者とは、行為ではなく外見や印象によって「怪しい」と判断された人を指す言葉であり、その判断は主観的で、しばしば服装・年齢・性別・人種といった属性への偏見を含む。犯罪機会論はこれに対して、犯行に及ぶ人を外見から見分けることはできず、見分けようとすること自体が誤った安心と誤った排除を生む、と論じる。小宮信夫が地域安全マップの取組で強調したのは、子どもに「怪しい人を探す」ことを教えるのではなく、「入りやすく見えにくい場所」を見分ける目を育てることであった。人ではなく場所を見る、という転換は、本稿の第3節・第4節で述べた原則をそのまま子どもの教育に応用したものである。
この転換には、実際的な利点がある。「不審者に気をつけなさい」という教えは、子どもに具体的な行動を与えない。だれが不審者かは分からず、分からないまま「知らない大人はみな怖い」という一般化に至りやすい。他方、「一人で見えにくい場所に入らない」「困ったら人のいる場所・明るい場所へ行く」「助けを求められる家や店を知っておく」という教えは、子どもが自分で判断し行動できる具体的な指針となる。日本で広く行われている子ども110番の家の取組は、後者の考え方に立った仕組みとして理解できる。
7.2 道徳的パニックと確率の感覚
第二の批判は、逸脱の社会学から来る。社会学者スタンリー・コーエンは『Folk Devils and Moral Panics』(1972)で、ある集団や現象が社会の価値への脅威として誇張して描かれ、メディアと当局と世論が互いに増幅し合って過剰な反応を生む過程を道徳的パニックと名づけた。子どもに対する重大な犯罪は、まれであるがゆえに、起きたときに大きく報じられる。人は、思い出しやすい出来事ほど起こりやすいと感じる傾向をもつとされ、繰り返し報じられる事件は、その頻度に関わらず「身近に迫る危険」として受け取られる。社会学者フランク・フューレディは『Paranoid Parenting』(2001)で、こうした恐れが親の養育態度を変え、子どもの自由な行動を狭めていると論じた。
この批判は、恐れが根拠を欠くと言うものではなく、恐れの大きさと危険の大きさとが釣り合わなくなる過程を問題にしている。公園に即していえば、「不審者が出るかもしれないから公園に一人で行かせない」という判断は、個々の家庭が置かれた事情によっては合理的でありうる。しかし地域全体でその判断が積み重なれば、公園から子どもが消え、子どもが消えた公園は「人の目」を失い、実際に安全でなくなる。恐れに基づく回避が、恐れの対象を現実にする——これは第6節で述べた防犯化のジレンマの、家庭版である。
7.3 子どもの行動範囲と「顔見知りの他人」
「不審者」言説がもたらすもう一つの帰結は、子どもが一人で動ける範囲の縮小である。英国のヒルマンらの研究(1990)は、子どもが親の付き添いなしに学校や遊び場へ行く自由——独立した移動——が、一世代のあいだに大きく縮んだことを示し、その背景に交通と「見知らぬ人」への恐れがあると論じた。以後、各国で同様の傾向を指摘する研究群がある。子どもの発達にとって、大人の目の届く範囲を少しずつ広げていくことに意味があるとする見方は、本シリーズの発達心理学・倫理学の論考が扱うところであるが、犯罪学の側から付け加えられるのは、子どもが街路や公園から消えることが、地域の自然監視をも弱めるという点である。
ジェイコブズが街路の目を支えるものとして挙げたのは、家族でも警察でもなく、「顔見知りの他人」——名前は知らないが顔は知っている、店主・近所の人・毎日すれ違う通行人——であった。「知らない大人と口をきいてはいけない」という教えは、この顔見知りの他人との関係を最初から断ち切ってしまう。子どもが困ったときに助けを求められる相手は、多くの場合、その場に居合わせた見知らぬ大人である。したがって、子どもの安全に資する教えは、「知らない人を避けよ」ではなく、「困ったら人のいる場所で、人に助けを求めよ」であり、大人の側に求められるのは、公園で見かけた子どもに関心を向け続けること——見張るのではなく、気にかけること——である。
7.4 制度的な見守りとの関係
日本では平成30年に登下校防犯プランがまとめられ、登下校時の見守りの空白地帯を地域ぐるみで埋める方向が示された。公園はしばしば通学路に面し、あるいは通学路の一部として使われる。見守り活動を担う地域の人びとにとって、公園の見通しや出入口の位置は、活動の効果を左右する条件である。本稿の枠組みからいえば、制度的な見守りは、自然監視の不足を人の配置で補うものであり、有用ではあるが、担い手の負担と持続性という限界をもつ。長い目で見れば、見守りの人を増やすことと並んで、公園そのものが「見えてしまう」空間になり、多様な人が日常的に使う場になることのほうが、持続する安全をつくる。ただし、個別の危険をどう判断し、どう対応するかは、学校・警察・自治体・保護者が状況に応じて決めるべき事柄であり、本稿はその判断に代わるものではない。
8. 磐田市の公園への示唆
本節では、ここまでの枠組みを磐田市の公園に当てはめ、何が言え、何がまだ言えないかを整理する。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園のデータベースであり、その内訳は磐田市オープンデータ「都市公園一覧」の94行に、市の施設ガイドのみに掲載の6園を加えたものである。オープンデータには種別・面積・トイレや遊具の有無が、施設ガイドには園内施設の記載があるが、本稿が論じてきた見通し・植栽の高さ・照明・出入口の位置・トイレの向きといった要素は、いずれのデータにも含まれていない。当サイトの踏査はこれからであり、以下は「データから推測できること」と「踏査で確かめるべきこと」を分けて述べる。
8.1 街区公園51園——自然監視と領域性がもっとも働く場
磐田市の100園のうち、街区公園は51園と半数を占める。国の目安では街区公園は標準面積0.25ha・誘致距離250mであり、住宅地の中に歩いて行ける距離で置かれる小さな公園である。本稿の枠組みからいえば、街区公園は周囲を住宅に囲まれるがゆえに、ニューマンのいう「窓からの視線」がもっとも直接に働き、同時に、面積が小さいために園全体を一望しやすく、死角が生まれにくい。市のデータでは、只来下公園(見付・458㎡)や久保公園(中泉・556㎡)、めがねばし公園(見付・690㎡)のように、遊具はあるがトイレのない小さな街区公園が複数あり、これらは構造物による死角が少ない一方で、周囲の住宅がどれだけ園に窓を向けているかが安全感を左右すると推測される。
反対に、街区公園としては大きい京見塚公園(中泉・10,231㎡)は市の施設ガイドに「京見塚古墳」の記載があり、古墳という地形の起伏が視線をさえぎる可能性がある。ただし起伏は同時に公園の魅力であり、第3節で述べたとおり、人が集まる場所と孤立しやすい場所のどちらに死角があるかを見分けることが要点であって、起伏そのものを問題視すべきではない。いずれの園についても、周囲の住宅の向き、出入口の数と位置、生垣の高さは、踏査で確かめる事柄である。
8.2 トイレの位置——69園の配置を確かめる
オープンデータ94行のうち、トイレ有は69園、車いす対応トイレ有は34園である。第3節で論じたとおり、トイレは自然監視の観点でもっとも慎重に扱うべき要素であり、園路や広場から出入口が見える位置にあるか、建物の裏に袋小路がないか、周囲の植栽が低く保たれているかが問われる。市の施設ガイドで園内施設が「トイレ」のみと記載される園——たとえば塔之壇公園(見付・近隣公園・6,300㎡)、中原公園(御厨・街区公園・2,802㎡)、谷口公園(御厨・街区公園・3,299㎡)——では、遊具による日常的な滞在者が少ないと推測されるぶん、トイレ周辺の見通しが安全感に占める比重は大きいと考えられる。ただし、これらの園の実際の利用のされ方や植栽の状態は、データからは分からない。
見付本通広場公園(見付・街区公園・372㎡)は、市の施設ガイドで駐車場ありとされ、園内施設はトイレ(多目的トイレ)である。面積が小さく、トイレを備えたこの園は、本稿の枠組みでは「立ち寄る人の多い場所に置かれた、見通しのきく小さな公園」となりうるが、それが実際にそうであるかは、周囲の道路との関係を踏査で確かめてはじめて言える。
8.3 大規模公園——ゾーンごとの死角と活動支援
竜洋海洋公園(竜洋・総合公園・221,722㎡)、かぶと塚公園(見付・総合公園・106,982㎡)、つつじ公園(見付・風致公園・61,937㎡)のような大規模公園では、園全体の見通しを確保することは現実的でなく、問題はゾーンごとの性格に移る。市の施設ガイドによれば、竜洋海洋公園には体育館・プール・野球場・テニスコート・レストハウスといった施設があり、これらは利用のリズムを生む活動支援の装置として働くと考えられる。一方で、施設と施設のあいだの園路や、樹林の内側は、時間帯によって人が絶える可能性がある。今之浦公園(見付・近隣公園・13,675㎡)は、市の施設ガイドで今ノ浦川の東側の「遊びと賑わいのゾーン」と西側の「憩いとふれあいゾーン」に分けて記載されており、川を挟んで性格の異なる二つのゾーンが、時間帯ごとにどのように使われるかは、活動支援の原則を検討する好例となりうる。
8.4 都市緑地・ポケットパーク——「だれの場所か」が問われる小空間
都市緑地は10園、広場公園は2園あり、その多くは数百㎡以下の小さな空間である。二之宮東第2緑地(中泉)は17㎡、豊田上新屋ポケットパーク(豊田)は156㎡、豊田第1緑地(豊田)は254㎡である。これらは遊具もトイレもなく、市の施設ガイドに個別ページのないものが多い。第4節の領域性の議論からいえば、こうした小空間は「だれの場所でもない」隙間になりやすく、手入れの跡があるかどうか——草が刈られているか、ごみが放置されていないか——が、その場所の性格をほぼ決めると考えられる。割れ窓理論の物理的な側面がもっとも純粋に現れるのは、むしろこうした小さな緑地であろう。
8.5 地区ごとの偏りと、踏査で確かめる項目
9地区の園数は、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。園数の多い地区では、一つの公園が閉鎖的になっても代わりの公園が近くにあるため、第6節で述べた転移の影響が分散しやすい。園数の少ない地区では、一つの公園の性格が地域の子どもの遊び場全体を左右しうる。この点は本シリーズの都市地理学の論考が扱う空間的な偏りの議論と重なる。当サイトが今後の踏査で確かめる項目を、本稿の枠組みに沿って挙げておく。
- 見通し:園の外の道路から園内の遊具・ベンチが見えるか。園内から出入口が見えるか。
- 植栽:生垣や低木が目の高さの帯をふさいでいないか。高木の枝下は開いているか。
- 照明:園路・出入口・トイレ付近に照明があるか。明暗の落差が大きい場所はないか。
- トイレ:出入口が園路や広場に向いているか。建物の裏に袋小路がないか。
- 出入口と境界:出入口の数と位置。柵の高さは腰の高さ程度か、乗り越えられない高さか。
- 領域性:園名の表示、花壇や清掃の跡、地域の活動の掲示があるか。
- 維持管理:使用禁止テープが長期間貼られた遊具、切れた照明、落書き、ごみの放置がないか。
- 活動支援:ベンチは遊具や出入口に向いているか。木陰と日なたの両方に座る場所があるか。
これらは公園の管理者である磐田市都市整備課(電話 0538-37-4806)が日常の管理で扱う事柄と重なる部分が多く、当サイトの踏査は市の管理を代替するものではなく、利用者の側から見た観察を積み重ねるものである。踏査の結果は各園のページに反映していく。
9. 結論と今後の課題
本稿は、犯罪学のうち場所に着目する系譜——ジェイコブズの観察、ジェフリーの命名、ニューマンの設計原則、日常活動理論と状況的犯罪予防の骨格、割れ窓理論の秩序論——を整理し、そこから抽出される自然監視・アクセス制御・領域性・活動支援・維持管理の原則を、公園という空間に翻訳してきた。ここで得られた結論を三つにまとめる。
9.1 三つの結論
第一に、公園の安全は、柵や監視の強さではなく、複数の条件の重なりによって成り立つ。「見える」(自然監視)、「入りにくく出やすい」(アクセス制御)、「だれの場所か分かる」(領域性)、「使われている」(活動支援)、「手入れされている」(維持管理)。これらは互いに支え合い、どれか一つを突出させても他が欠ければ機能しない。とりわけ、植栽の高さ・照明の落差・トイレの位置・出入口の見え方といった具体的な要素は、いずれも「人の目」が自然に働く条件を整えるためのものであって、目的そのものではない。
第二に、防犯を突き詰めた設計は、公園の価値を損ない、結果として防犯の基盤を掘り崩す。高い柵、伐採、監視カメラ、長居させない家具、禁止看板の増殖は、居心地と多様な利用を減らし、人の目を減らす。安全のための対策が不安の合図として読まれ、不安が利用を減らし、利用の減少が安全を損なう——この防犯化のジレンマは、CPTEDの原則を「程度」の感覚なしに適用したときに必ず現れる。CPTEDは公園を見る一つのレンズであって、公園の価値をすべて測る物差しではない。
第三に、子どもの安全をめぐる「不審者」言説は、犯罪機会論からも道徳的パニック論からも慎重に扱うべきである。人ではなく場所を見ること、恐れの大きさと危険の大きさを釣り合わせること、「知らない人を避けよ」ではなく「困ったら人のいる場所で助けを求めよ」と教えること、そして大人の側が子どもを見張るのではなく気にかけ続けること。子どもが公園から消えることは、子どもの成長の機会を狭めるだけでなく、公園の自然監視をも弱める。
9.2 磐田市の公園について言えること
磐田市の公園100園の半数を占める街区公園51園は、住宅に囲まれた小さな空間であるがゆえに、自然監視と領域性の原則がもっとも直接に働き、同時に、過度の防犯化がもっとも居心地を損ないやすい場でもある。トイレ有69園については、トイレの位置と周囲の見通しが安全感を大きく左右すると考えられ、大規模公園ではゾーンごとの性格と時間帯ごとの利用のリズムが、都市緑地や広場公園の小空間では手入れの跡の有無が、それぞれ問われる。ただし、これらはいずれもデータからの推測であり、当サイトの踏査はこれからである。本稿が果たしたのは、踏査で何を見るべきかという観察の枠組みを、犯罪学の側から用意することにとどまる。
9.3 今後の課題
今後の課題を四つ挙げる。第一に、踏査による検証である。第8節末尾に挙げた項目を各園で観察し、記録することで、本稿の枠組みが磐田市の公園にどこまで当てはまるかを確かめる。観察は季節と時間帯によって異なる結果を与えるため、一度の訪問で結論を出さず、繰り返し記録することが望ましい。第二に、他分野との統合である。植栽の管理は樹木の健康や日陰の確保と、照明は生活環境や生態系と、ベンチや看板は公共性や利用者の多様性と関わる。防犯の観点だけで最適化された公園は、他の観点から見れば損なわれた公園でありうる。本シリーズの樹木学・都市気候学・哲学・倫理学の論考との突き合わせが必要である。
第三に、地域の担い手との対話である。本稿が繰り返し述べたとおり、公園の安全は設計だけではつくれず、清掃や見守りを担う人びと、日常的に公園を使う親子や高齢者の営みと結びついてはじめて設計は機能する。当サイトは利用者の側から観察を積み重ねる立場にあり、市の管理や地域の活動を代替するものではない。第四に、子どもの声を聞くことである。「不審者」言説の検討で述べたように、子どもの安全を語る大人の言葉は、子どもの経験と一致するとは限らない。子どもがどの公園を、どの時間帯に、どのような理由で選び、避けているのかは、大人の観察だけでは分からない。この点は、本稿の枠組みが最終的に問われる場所である。
最後に、本稿の限界を述べておく。本稿は文献整理と概念分析にとどまり、統計的な効果の検証は行っていない。引用した理論はいずれも欧米の都市を対象に形成されたものであり、日本の地方都市の街区公園への翻訳には、住宅の形式、道路の構造、地域組織のあり方といった条件の違いを踏まえた読み替えが必要である。その読み替えの妥当性は、磐田市の公園を実際に観察することによってのみ確かめられる。
参考文献
- C・レイ・ジェフリー(1971)『Crime Prevention Through Environmental Design』(Sage Publications)
- オスカー・ニューマン(1972)『まもりやすい住空間——都市設計による犯罪防止』(湯川利和・湯川聰子訳、鹿島出版会、1976)
- ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
- ジェイムズ・Q・ウィルソン、ジョージ・L・ケリング(1982)「Broken Windows」(The Atlantic Monthly、1982年3月号)
- ジョージ・L・ケリング、キャサリン・M・コールズ(1996)『割れ窓理論による犯罪防止——コミュニティの安全をどう確保するか』(小宮信夫監訳、文化書房博文社、2004)
- ローレンス・E・コーエン、マーカス・フェルソン(1979)「Social Change and Crime Rate Trends: A Routine Activity Approach」(American Sociological Review 44)
- ロナルド・V・クラーク編(1992)『Situational Crime Prevention: Successful Case Studies』(Harrow and Heston)
- ティモシー・D・クロウ(1991)『Crime Prevention Through Environmental Design』(Butterworth-Heinemann)
- スタンリー・コーエン(1972)『Folk Devils and Moral Panics』(MacGibbon and Kee)
- フランク・フューレディ(2001)『Paranoid Parenting』(Allen Lane)
- 小宮信夫(2005)『犯罪は「この場所」で起こる』(光文社新書)
- 警察庁「安全・安心まちづくり推進要綱」(平成12年)
- 登下校防犯プラン(登下校時の子供の安全確保に関する関係閣僚会議、平成30年6月)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。