社会科学家族社会学

公園に集まる親たち——育児ネットワークの形成と孤立の家族社会学

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:家族社会学 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,359字 読了目安 39分

要旨

本稿は、都市公園を家族社会学の対象として捉え直し、育児期の親にとって公園がどのような社会関係の場になりうるかを、文献整理と概念分析によって検討するものである。核家族化と都市化が進んだ日本社会では、乳幼児を育てる親(とりわけ母親)が日中に大人と対面で言葉を交わす機会が乏しくなり、「育児の孤立」や「育児不安」が家族社会学の主要な論点になってきた。公園はそのなかで、家でも職場でも施設でもない場所として、名前を知らない相手とも会話が生まれる例外的な空間である。

本稿はまず、パーソンズの核家族孤立論、ボットの家族と社会網の研究、落合恵美子らによる日本の育児ネットワーク研究、グラノヴェッターの「弱い紐帯」論、パットナムのソーシャル・キャピタル論を整理し、公園を読み解くための概念装置を組み立てる。次に、1990年代に広まったとされる「公園デビュー」という語を手がかりに、この語が映し出した育児規範と孤立の構造を分析する。さらに、公園で生まれる関係が「弱い紐帯」としてどのような価値をもつか、祖父母の関与と三世代の育児、父親の公園利用の変化という三つの論点を検討し、公園が関係を生むという見方への反論(同質性・排除・比較のまなざし・オンライン代替)にも応答する。

結論として、公園は育児ネットワークを自動的に生み出す装置ではないが、「同じ時間帯に、同じ場所に、子どもという共通の関心をもって繰り返し居合わせる」という条件を、費用も手続きもなしに満たす稀な公共空間であり、その価値は関係が「弱く、ゆるく、いつでも抜けられる」点にこそあると論じる。磐田市の100園(街区公園51園を含む)と9地区の構成に照らし、徒歩圏の街区公園と拠点となる近隣・地区公園が育児ネットワークの中で果たしうる異なる役割を示し、当サイトの今後の踏査で確かめるべき観察項目を提示する。

キーワード育児ネットワーク公園デビュー弱い紐帯ソーシャル・キャピタル核家族祖父母父親の育児参加

1. はじめに——問題の所在

平日の午前中、街区公園の砂場のまわりに、よちよち歩きの子どもを連れた親が二人、三人と集まっている。名前は知らない。どこに住んでいるかも正確には知らない。しかし「何か月ですか」「もう歩くんですね」という短い会話が交わされ、次の週も同じ時間に顔を合わせる。この光景は、日本の都市部の公園で長く繰り返されてきたものであり、同時に、家族社会学が「育児の孤立」や「育児ネットワーク」という言葉で論じてきた問題の、もっとも日常的な現れでもある。

家族社会学とは、家族という集団の形・機能・関係が社会の変化とともにどう変わるかを研究する分野である。20世紀後半の日本では、三世代同居が減り、夫婦と未婚の子どもだけからなる核家族が標準的な世帯像になった。同時に、職住分離と郊外化が進み、父親は日中に不在、母親は乳幼児と二人で家にいる、という育児の形が広がった。この変化のなかで、育児を担う親が日中に大人と話す機会をどこで得るのか、困ったときに誰に頼れるのか、という問いが家族社会学の中心的な論点の一つになった。

本稿の問いは次のとおりである。核家族化と都市化が進んだ社会において、都市公園は育児期の親にとってどのような社会関係の場になりうるのか。公園はしばしば「子どもの遊び場」としてのみ語られるが、そこに子どもを連れてくるのは親であり、公園に滞在するあいだ、親もまた他の親と同じ空間を共有している。子どもの遊びを媒介にして、親のあいだに生まれる関係——本稿ではこれを「育児ネットワーク」の一部として捉える——は、家でも職場でも保育施設でもない場所で、費用も申込みもなしに成立する点で特異である。

ここで、本稿が用いる主な用語を確認しておく。育児ネットワークとは、育児を手伝ったり相談に乗ったりしてくれる相手の広がりを指し、配偶者・親族・近隣・友人・専門機関などが含まれる。弱い紐帯とは、家族や親友のような強い結びつきに対して、知人程度のゆるやかな結びつきを指す社会学の用語である。ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)とは、人と人のつながりと、そこから生まれる信頼や助け合いの規範を、社会にとっての資源として捉える概念である。また本稿でいう公園は、都市公園法(1956年)に基づいて市が設置・管理する都市公園を中心とし、街区公園・近隣公園・地区公園などの種別を含む。いずれも第2節で改めて整理する。

1.1 なぜ家族社会学から公園を論じるのか

公園を論じる学問は多い。造園学は空間の設計を、公衆衛生学は身体活動を、発達心理学は子どもの遊びを扱う。家族社会学が加えるのは、公園を「家族という単位が外部とつながる接点」として見る視点である。核家族は、内側の結びつきが強い一方で、外側との境界がはっきりしている。パーソンズが1950年代に指摘した「孤立した核家族」という像は、その後多くの修正を受けたが、乳幼児を抱えた家族が地域社会から見えにくくなるという指摘そのものは、今日の日本にも当てはまる部分がある。

公園はこの境界に穴を開ける場所である。家のなかでは家族だけで完結していた育児が、公園に出た瞬間に他人のまなざしと言葉のなかに置かれる。それは支えにもなり、負担にもなる。「公園デビュー」という語が1990年代前半に広まったとされるとき、この語には期待と緊張の両方が込められていた。家族社会学は、この両義性を正面から扱える数少ない立場にある。

もう一つ、家族社会学から公園を論じる理由がある。それは、公園が家族の「見えにくさ」を一時的に解除する場所だという点である。近代の家族はプライバシーを重んじ、家のなかで起きていることは外から見えない。育児の困難もまた、家のなかに閉じ込められやすい。公園は、その困難を抱えた家族が自発的に外へ出てくる場所であり、支援を必要とする家族と地域とが、制度を介さずに接触しうる数少ない接点である。この点で公園は、家族社会学が扱ってきた「家族と社会のあいだ」という問題領域のなかに、はっきりと位置づけられる。

核家族家のなか外への出口問い
図1核家族は内側の結びつきが強く外との境界がはっきりしている。公園はその境界に開いた出口であり、本稿はそこで何が起きるかを問う。

1.2 方法と構成

本稿の方法は文献整理と概念分析である。新しい調査データを提示するものではなく、家族社会学と社会ネットワーク論の古典的な概念を公園という場に当てはめ、何が見えるかを論じる。統計的な数値は、法令や省庁の指針に明記のあるもの以外は挙げず、研究の傾向は「〜とされる」「〜という研究群がある」という形で述べる。磐田市の公園に関する固有の事実は、市のオープンデータと施設ガイドに基づく当サイトのデータベース(100園)に記載のあるものに限る。現地踏査は始まったばかりであり、公園で実際に何が起きているかは今後の観察に委ねる。

構成は次のとおりである。第2節で先行研究と概念を整理し、第3節で「公園デビュー」という語の社会的意味を分析する。第4節で公園における「弱い紐帯」の構造と価値を論じ、第5節で祖父母の関与、第6節で父親の参加という二つの変化を扱う。第7節で公園が関係を生むという見方への反論に応答し、第8節で磐田市の公園への示唆を述べ、第9節で結論と今後の課題を示す。読者としては、磐田市周辺で子どもを育てている人、公園の管理や子育て支援に関わる行政・地域の関係者、そして家族や地域を学ぶ学生を想定している。

2. 先行研究と概念の整理

本節では、公園に集まる親たちの関係を読み解くために、家族社会学と社会ネットワーク論の五つの系譜を整理する。核家族の孤立をめぐる議論、家族と社会網の関係、日本の育児ネットワーク研究、弱い紐帯論、そしてソーシャル・キャピタル論である。いずれも公園を直接の対象にしたものではないが、組み合わせることで公園という場を分析する道具になる。

2.1 核家族の孤立と家族の社会網

パーソンズとベールズ(1955)は、産業社会において家族は生産や教育などの機能を外部の制度に移し、子どもの社会化と成人の情緒安定という二つの機能に特化した「孤立した核家族」になると論じた。この議論は、家族が親族や地域から切り離されていくという見立てとして広く受け止められた。これに対して、都市に住む核家族も親族と頻繁に行き来しているという反証が積み重ねられ、「孤立」は誇張であるとする修正が主流になった。しかし、日中に乳幼児と二人きりになる親の状況に限れば、地域とのつながりが細いという指摘は、なお検討に値する。

ボット(1957)は、ロンドンの家族を対象に、夫婦の役割分担が夫婦それぞれの社会網(ソーシャル・ネットワーク)の密度と関係することを示した。友人や親族が互いに知り合いである「密な網」をもつ夫婦は役割を分ける傾向が強く、知り合い同士がつながっていない「疎な網」をもつ夫婦は役割を共有する傾向が強い、という発見である。この研究の重要性は、家族を内側から見るのではなく、家族を取り巻く関係の形から見るという方法を切り開いた点にある。公園で親が出会う相手は、多くの場合、互いに知り合いではない。つまり公園は「疎な網」を広げる場所であり、ボットの枠組みでは、それが家族内部の役割にも影響しうることになる。

2.2 日本の育児ネットワーク研究

日本では1980年代以降、育児期の母親の孤立と不安が家族社会学と家庭教育学の重要な主題になった。牧野カツコ(1982)は乳幼児をもつ母親の「育児不安」を概念化し、その背景に、日中の話し相手の少なさや外出機会の乏しさがあることを指摘した。落合恵美子は、育児を手伝ってくれる相手の広がりを「育児ネットワーク」と呼び、親族・近隣・友人などがどのように組み合わさっているかを調べる研究を進めた。落合(2019)が「家族の戦後体制」と呼ぶ、専業主婦と核家族を標準とする体制のもとで、育児ネットワークが縮み、母親一人に育児が集中する構造が生まれたと整理される。

松田茂樹(2008)は、育児ネットワークが濃すぎても薄すぎても親の負担が高まりうるとして「中庸なネットワーク」の意義を論じた。密な親族網は支えになる一方で干渉や気兼ねを伴い、まったく網がない状態は孤立をもたらす。その中間、すなわち日常的な支えと適度な距離が両立する関係が、育児期の親にとって働きやすいという見立てである。この「中庸」という論点は、公園で生まれる関係を評価するうえで直接の手がかりになる。公園の関係は、親族ほど濃くなく、しかし無関係ではない。

あわせて、山田昌弘(1994)が論じた「家族の愛情のパラドックス」、大日向雅美(2000)が批判した「母性愛神話」も、公園に集まる親を理解する背景として重要である。育児は母親の愛情によって自然になしとげられるべきだという規範が強いほど、うまくいかないと感じたときに外に助けを求めにくくなり、孤立が深まる。公園はその規範から自由な場所ではないが、規範のなかで「同じように苦労している他人」に出会える場所ではある。

2.3 弱い紐帯とソーシャル・キャピタル

グラノヴェッター(1973)の「弱い紐帯の強さ」は、家族や親友のような強い結びつきよりも、知人程度の弱い結びつきのほうが、自分の集団の外にある新しい情報や機会をもたらしやすいと論じた。強い紐帯どうしは互いに知り合いであることが多く、同じ情報を共有しているのに対し、弱い紐帯は別の集団への「橋」になるからである。公園で交わされる立ち話は、この意味での弱い紐帯の典型である。

パットナム(2000)は、人と人のつながりと、そこから生まれる信頼や互酬性の規範を「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」と呼び、米国でそれが長期的に細ってきたことを『孤独なボウリング』で論じた。パットナムは社会関係資本を、同質な集団の内側を固める「結束型(bonding)」と、異なる集団のあいだをつなぐ「橋渡し型(bridging)」に分けた。コールマン(1988)は、社会関係資本が子どもの成長を支える資源になることを論じている。公園に集まる親の関係は、子育て中という点で同質でありながら、職業や出身地の異なる人が混じる点で橋渡しの側面ももつ。

概念提唱者(年)要点公園への適用
孤立した核家族パーソンズ(1955)産業社会で家族は機能を外部化し、外との境界が強まる日中に乳幼児と二人になる親の状況を説明する
家族と社会網ボット(1957)夫婦を取り巻く網の密度が家族内の役割と関係する公園は互いに知らない相手からなる疎な網を広げる
育児ネットワーク落合・松田ほか育児を支える相手の広がり。濃すぎず薄すぎない中庸が働きやすい公園の関係は親族より薄く無関係より濃い中間に位置する
弱い紐帯グラノヴェッター(1973)知人程度の関係が新しい情報と橋渡しをもたらす立ち話から園・医院・行事の情報が伝わる
ソーシャル・キャピタルパットナム(2000)つながりと信頼・互酬性。結束型と橋渡し型子育て中という同質性と背景の多様性が同居する
古典の系譜五つの概念分析の道具
図2核家族孤立論・家族と社会網・育児ネットワーク・弱い紐帯・ソーシャル・キャピタルの五つを重ねて、公園を読む道具にする。

以上の五つの系譜に共通するのは、家族を単独で見るのではなく、家族を取り巻く関係の形と量から家族の状態を理解しようとする姿勢である。本稿はこの姿勢を引き継ぎ、公園を「関係の形が観察できる場所」として扱う。次節ではまず、この観察がもっとも凝縮された形で社会に共有された言葉——「公園デビュー」——を取り上げる。

3. 「公園デビュー」という語の社会学

「公園デビュー」という語は、1990年代前半に新聞・雑誌・テレビを通じて広まったとされる。乳児を連れた母親が初めて近所の公園に出かけ、そこにすでに集まっている親たちの輪に加わろうとする場面を、社交界への「デビュー」になぞらえた表現である。語そのものは軽い響きをもつが、この語が広く受け入れられたという事実は、当時の育児がどのような状態にあったかを映している。本節では、この語を家族社会学の資料として読み解く。

3.1 語が前提としているもの

「公園デビュー」という語が成り立つためには、いくつかの前提が必要である。第一に、公園に行くまで母親が地域の他の親とほとんど面識をもっていないこと。もし親族や近所づきあいを通じてすでに知り合いがいれば、公園に行くことは「デビュー」にはならない。第二に、公園にはすでに集まりができていて、そこに入るかどうかが問題になること。第三に、その集まりに入ることが、母親自身と子どもにとって重要だと感じられていること。この三つの前提はいずれも、前節で整理した核家族化・育児ネットワークの縮小・育児規範の強さに対応している。

つまり「公園デビュー」という語は、育児期の母親が地域から切り離された状態から出発すること、そして公園がその状態を抜け出す最初の(場合によっては唯一の)入口と見なされていたことを示している。デビューという言い方は華やかだが、その裏側には、公園に行くまで誰とも話していない日々があった。この語は、育児の孤立をユーモアで包みながら、同時にその孤立を社会に可視化した。

見落としてはならないのは、この語が「デビュー」する主体を暗黙のうちに母親に限定していたことである。父親が初めて子どもを公園に連れていくことを「公園デビュー」と呼ぶ用法は、少なくとも語が広まった当初にはほとんど見られなかった。つまりこの語は、日中に子どもと公園にいるのは母親であるという分業を前提にし、その前提を語の使用によって再生産していた。落合(2019)のいう「家族の戦後体制」——夫が稼ぎ、妻が家事育児を担う核家族を標準とする体制——が、公園という場の使われ方にまで及んでいたことを、この語は示している。ジェンダー研究の視点から言えば、「公園デビュー」は育児の性別分業を映す鏡でもあった。

3.2 期待と緊張の両義性

この語には、期待と緊張の両方が込められていた。期待とは、公園に行けば同じ月齢の子をもつ親に会え、情報を交換でき、子どもに遊び相手ができるという見通しである。緊張とは、輪に入れるかどうか、服装や子どもの様子を見られるのではないか、うまく話せなかったらどうするか、という不安である。「公園デビューに失敗する」という言い回しが一時期語られたことは、公園での関係づくりが試験のように受け止められていたことを物語る。

この緊張は、家族社会学の観点からは二つの背景をもつ。一つは、育児が母親個人の力量として評価されるという規範である。大日向(2000)が批判した母性愛神話のもとでは、子どもの様子や自分のふるまいが「母親としての出来」として他人の目に映ると感じられやすい。もう一つは、公園の集まりが小さな閉じた集団に見えるという構造である。すでにできあがった輪は、外から見ると入りにくく、内側から見ると排他的であるつもりはない、というずれが生じる。この構造は、パットナムのいう結束型のつながりが橋渡し型を妨げる場面として理解できる。

初めての公園できている輪見られる緊張会える期待
図3「公園デビュー」という語には、輪に入れる期待と見られる緊張の両方が込められている。その両義性が育児の孤立を可視化した。

3.3 語の変化が示すもの

その後、この語は使われ方を変えていった。当初の緊張感を伴う用法から、単に「初めて公園に行くこと」を指す中立的な用法へと重心が移ったとされる。この変化には、少なくとも三つの要因が考えられる。第一に、地域子育て支援拠点や子育てひろばなど、公園以外に親が集まれる場所が制度として整備されてきたこと。児童福祉法や子ども・子育て支援法のもとで、乳幼児と親が日中に過ごせる屋内の場が各地に設けられ、公園が「唯一の入口」ではなくなった。第二に、父親が公園に来ることが珍しくなくなり、公園の集まりの均質性が下がったこと。第三に、インターネットを通じて同じ月齢の子をもつ親どうしが先につながるようになり、公園が「初対面の場」でなくなる場合が増えたこと。

しかし、語の重心が移ったからといって、語が映していた構造が消えたわけではない。地域に知り合いのいないまま出産し、日中に大人と話す機会が乏しい状態は、転居の多い現代ではむしろ珍しくない。屋内の支援拠点は開所時間と場所が限られ、オンラインの関係は対面での支えにはなりにくい。公園は、いまでも「予約も申込みもなしに、いつでも、家の近くで、他の親に会えるかもしれない場所」であり続けている。「公園デビュー」という語が軽くなったのは、公園の役割が小さくなったからではなく、公園に行くことの心理的な敷居が下がったからだと解釈するほうが妥当である。

以上を踏まえると、「公園デビュー」という語は、育児の孤立と公園の役割を同時に示す社会学的な資料として読める。次節では、この入口を通って生まれる関係が、どのような性質をもち、なぜ価値があるのかを、弱い紐帯論の観点から論じる。

4. 公園における弱い紐帯——ゆるやかな関係の構造と価値

公園で生まれる親どうしの関係は、多くの場合、名前も住所も知らないまま続く。それは友人関係でも近所づきあいでもない、独特の位置にある。本節では、この関係を「弱い紐帯」として捉え、その構造がどのように成り立ち、なぜ育児期の親にとって価値をもつのかを論じる。

4.1 関係が生まれる三つの条件

社会学の観点から見ると、公園で関係が生まれるためには三つの条件がそろっている必要がある。第一は反復である。同じ人と一度だけ会っても関係にはならないが、同じ時間帯に同じ公園に通えば、顔を合わせる回数が増える。乳幼児の生活は昼寝と食事の時間に縛られるため、親の外出時間帯は自然と似通い、反復が起きやすい。第二は共通の関心である。子どもという、目の前にあって話題にしやすい共通項があるため、初対面でも会話の糸口に困らない。「何歳ですか」という一言は、社会学的には関係を開くための定型句として機能している。

第三は低い離脱コストである。公園の関係は、行かなくなればそれで終わる。会費も名簿もなく、断る手続きも要らない。この「いつでも抜けられる」性質は、関係が浅いことの裏返しであると同時に、関係に入る敷居を下げる働きをもつ。松田(2008)が論じた「中庸なネットワーク」の観点からは、公園の関係が干渉になりにくいのはこの離脱コストの低さゆえであり、それが育児期の親にとって使いやすい関係の形になっていると考えられる。

4.2 弱い紐帯が運ぶもの

グラノヴェッター(1973)の議論に従えば、弱い紐帯の価値は、それが自分の集団の外にある情報を運んでくる点にある。公園で交わされる立ち話には、その典型が見られる。近くの小児科の待ち時間、保育園の見学の時期、地域の子育てイベントの日程、離乳食の進め方、夜泣きへの対処。これらは、親族や旧来の友人が知らないことが多く、しかし同じ地域で同じ時期に子育てをしている人なら知っている情報である。転居してきた家族にとっては、公園の立ち話が地域の情報を得る主要な経路になることも珍しくないと考えられる。

運ばれるのは情報だけではない。「うちも同じです」という一言がもたらす安心感は、育児不安の研究が繰り返し指摘してきた「自分だけがうまくできていないのではないか」という感覚を和らげる。この機能は、専門家の助言とは異なる。専門家は正しい方法を教えるが、公園の親は「自分も同じところで困っている」ことを示す。家族社会学の言葉で言えば、前者は垂直的な支援であり、後者は水平的な支えである。孤立した育児において不足しやすいのは後者であるとされる。

この構図は、ブロンフェンブレンナー(1979)の生態学的システム論を用いるとさらに整理できる。ブロンフェンブレンナーは、子どもの発達を取り巻く環境を、子どもが直接関わる「マイクロシステム」(家庭・保育施設・遊び場など)、それらのあいだの関係である「メソシステム」、子どもは直接関わらないが影響を受ける「エクソシステム」(親の職場など)、社会全体の文化や制度である「マクロシステム」という入れ子として描いた。公園は子どもにとってのマイクロシステムの一つであると同時に、親どうしの立ち話を通じて、家庭と地域、家庭と医療機関、家庭と保育施設といったマイクロシステムどうしを結ぶメソシステムの結び目にもなる。弱い紐帯が運ぶ情報とは、この結び目を通って流れる情報にほかならない。

同じ時間に通う子どもが共通項短い立ち話地域の情報
図4反復・共通の関心・低い離脱コストの三条件がそろう公園では、短い立ち話が地域の情報と水平的な支えを運ぶ弱い紐帯になる。

4.3 弱いままであることの価値

ここで強調したいのは、公園の関係が「弱いまま」であることに価値がある、という点である。関係が深まって友人になることは望ましい結果の一つだが、それだけが成功ではない。名前も知らないまま、しかし顔を合わせれば会釈をし、子どもの成長を短く言い合う関係が、地域のなかに何本もあること自体が、育児期の親にとっての資源になる。ジェイコブズ(1961)が街路について論じた「顔見知りの積み重ねが公共の信頼を生む」という洞察は、公園にもそのまま当てはまる。

この見方は、ソーシャル・キャピタルの議論とも接続する。パットナム(2000)は、社会関係資本の減退を、団体加入や親しい友人の数だけでなく、見知らぬ人への一般的信頼の低下として捉えた。公園での弱い紐帯は、特定の誰かとの強い結びつきではなく、「この地域の親たちはだいたい信頼できる」という一般的信頼の土台になる。強い紐帯は数人としか結べないが、弱い紐帯は数十人と結べる。育児ネットワークの厚みは、後者の本数によって決まる部分が大きい。

同時に、弱い紐帯にはできないこともある。夜間の急病で子どもを預かってもらう、長期の入院中に上の子の送迎を頼む、といった支援は、名前も知らない相手には頼めない。この種の支援は強い紐帯——親族や親しい友人——か、制度的な支援に委ねるほかない。公園の関係の価値を過大に見積もらないためには、それが「日常の小さな支え」の層を担うものであり、「非常時の大きな支え」の層は別に必要だという区別を保つことが重要である。次節以降では、この大きな支えを担ってきた祖父母の関与と、公園の集まりの均質性を変えつつある父親の参加を、順に検討する。

5. 祖父母の関与と三世代の育児——公園がつなぐ世代

育児ネットワークの研究において、祖父母は常に最大の支え手として現れてきた。落合恵美子らの育児ネットワーク研究でも、育児を手伝う相手として真っ先に挙がるのは母方・父方の祖母であるとされる。核家族化は同居を減らしたが、祖父母の関与をなくしたわけではなく、「近居」——別の世帯として近くに住み、頻繁に行き来する形——が広く見られると整理されている。本節では、この祖父母の関与を公園という場に置き直し、三世代の育児と公園の関係を検討する。

5.1 祖父母が公園に来るとき

祖父母が孫を公園に連れてくる場面は、いくつかの類型に分けられる。第一は、親が就労している平日の日中に、保育の一部を祖父母が担う場合である。第二は、親の休息や用事のために一時的に孫を預かる場合である。第三は、親と祖父母がそろって公園に来る場合である。第一と第二の場合、公園に来ているのは祖父母と孫だけであり、祖父母は他の親たちの輪のなかで、世代の異なる存在として立つことになる。

この状況は、前節で論じた弱い紐帯の形成条件に照らすと、興味深い問題を含む。反復と共通の関心(孫という子ども)はそろっているが、同世代の親どうしの会話には入りにくい。育児の常識が世代によって異なることもあり、祖父母が公園で孤立を感じる場面もありうる。一方で、祖父母の側から見ると、公園は退職後の生活のなかで地域と接する場にもなる。老年学の視点からは、孫との外出が高齢者の外出機会と社会参加を支えるという見立てがあり、公園は育児ネットワークと高齢者の地域参加が交差する場所として捉えられる。

祖父母の関与には、日本の育児ネットワーク研究が繰り返し指摘してきた非対称性がある。育児の手伝いは、父方よりも母方の祖母に頼られる傾向が強いとされ、その背景には、母親にとって自分の親のほうが気兼ねなく頼めるという事情があると説明されてきた。この非対称性は公園にも持ち込まれる。孫を公園に連れてくる祖父母の多くが母方の祖母であるとすれば、公園に現れる「三世代」は、家族全体の縮図ではなく、母親を軸にした系譜の一部である。祖父の来園、父方の祖父母の来園がどの程度見られるかは、育児ネットワークが父方に広がっているかどうかを示す指標として、踏査の際に注目すべき点である。

5.2 近居・遠居と公園の位置

祖父母が近くに住んでいるかどうかは、公園の使われ方を変える。近居の場合、祖父母宅と親の家のあいだにある公園が、送り迎えや引き渡しの中継点になることがある。「おばあちゃんの家に行く途中の公園」は、子どもにとって二つの家をつなぐ場所であり、家族社会学的には、二つの世帯を一つの育児ネットワークとして結ぶ結節点である。この使い方は、公園が地図上でどこにあるかによって決まるため、都市計画の議論——街区公園の誘致距離250mという国の目安——とも接続する。

遠居の場合、祖父母が公園に来るのは帰省や訪問のときに限られる。このとき公園は、ふだんは会わない祖父母と孫が一緒に過ごす「行事の場」になる。連休や年末年始に、ふだんとは違う顔ぶれが公園に現れるのはこのためである。祖父母の側から見れば、孫の育つ地域を知る機会でもあり、「この子はいつもここで遊んでいるのか」という理解が、離れて暮らす家族のあいだの会話の材料になる。

祖父母途中の公園二つの家
図5近居の祖父母と親の家のあいだにある公園は、二つの世帯を一つの育児ネットワークにつなぐ中継点になる。

5.3 祖父母の関与をめぐる緊張

祖父母の関与は支えであると同時に、緊張の源でもある。松田(2008)が「中庸なネットワーク」を論じたとき、念頭にあったのは、親族の密な支援が干渉や気兼ねに転じる場面である。育児の方法をめぐる世代間の違い——抱き方、離乳食、日焼け、暑さ対策——は、公園のような他人の目のある場所で表面化しやすい。「祖父母に預けたが、公園で薄着だった」「知らない親に注意された」といった小さな出来事が、世帯間の関係に影響することもある。

この緊張は、家族社会学の観点からは、育児の責任の所在が世帯をまたいで曖昧になることから生じる。核家族の内側では親が最終責任者だが、祖父母が関与すると、責任と裁量の線引きが必要になる。公園は、この線引きが試される場所の一つである。国土交通省の遊具安全指針が、遊具の利用にあたって保護者による見守りを前提としているように、公園での安全は付き添う大人の判断に委ねられる部分が大きい。誰が「保護者」として判断するのかは、三世代の育児では自明ではない。

以上を踏まえると、公園における祖父母の関与は、育児ネットワークの「強い紐帯」の側面を公園に持ち込むものと整理できる。前節で論じた親どうしの「弱い紐帯」が日常の小さな支えを担うのに対して、祖父母は保育の一部を担うという大きな支えを担い、その一部が公園で行われる。両者は競合するものではなく、層の異なる支えとして公園のなかで並存する。次節では、この構図をさらに変えつつあるもう一つの変化——父親の参加——を扱う。

6. 父親の参加の変化と公園——時間・場所・関係の再編

「公園デビュー」という語が広まった1990年代前半、公園に集まる親はほぼ母親であることが暗黙の前提だった。その後、父親が公園に子どもを連れてくる光景は珍しくなくなった。育児休業制度の整備、共働き世帯の増加、父親の育児参加をめぐる意識の変化がその背景にあるとされる。本節では、父親の公園利用が育児ネットワークの構造をどのように変えつつあるかを、時間・場所・関係の三つの側面から検討する。

6.1 時間——平日と週末の分断

父親の公園利用でまず目につくのは、時間帯の偏りである。就労している父親が子どもを公園に連れていくのは、多くの場合、週末や平日の夕方に限られる。一方、前節までに論じた母親どうしの弱い紐帯は、平日の午前中を中心に形成される。この結果、同じ公園でも、平日午前と週末では集まる顔ぶれがまったく異なるという状況が生じる。家族社会学的には、一つの公園のなかに、時間帯によって分かれた二つの「利用者共同体」が存在していることになる。

この分断は、父親が公園で他の親と関係を結びにくい一因になる。週末の公園は、平日よりも滞在者が入れ替わりやすく、反復が起きにくい。また、父親どうしは子どもの遊びに付き添うことに集中し、立ち話に至らない傾向があるという指摘がある。結果として、父親は公園を「子どもと遊ぶ場所」として利用しても、「他の親と出会う場所」としては利用しにくい。育児ネットワークが父親に広がりにくいのは、父親の意欲の問題というより、時間帯と場の構造の問題として捉えたほうが正確である。

時間の側面では、母親の側の変化も見逃せない。共働き世帯が増え、子どもが早い時期から保育施設に通うようになると、平日午前に公園にいる親は、育児休業中の親と、保育施設に通っていない未就園児の親に限られてくる。かつて「公園デビュー」の舞台だった平日午前の輪は、以前より小さく、また入れ替わりが速くなっていると考えられる。育児休業が明けて職場に戻れば、公園の関係は途切れやすい。この変化は、公園の弱い紐帯が育児期の一時期に集中して形成され、その後は保育施設の送迎や学校を通じた関係に引き継がれる、という育児ネットワークの時間的な推移を示している。父親の週末利用と母親の平日利用の分断は、この推移のなかで、育児休業中の父親が平日午前の輪に加わることによって部分的に埋められる可能性がある。

6.2 場所——どの公園を選ぶか

父親の公園利用は、行き先の選び方にも特徴があると考えられる。徒歩圏の街区公園を日常的に使う母親に対して、週末に時間のある父親は、車で少し離れた大きな公園——磐田市の分類で言えば近隣公園や地区公園、総合公園——を選ぶことが多いという見立てがある。大きな公園には複合遊具やローラー滑り台があり、子どもを長く遊ばせられる一方で、来園者は広い範囲から集まるため、近所の親と顔を合わせる可能性は低くなる。

この選び方は、公園を「地域のなかの場」としてではなく「目的地」として使う利用の仕方である。どちらが良いという問題ではないが、育児ネットワークの観点からは、目的地型の利用は弱い紐帯を生みにくい。父親が地域の親と知り合うためには、近所の小さな公園に繰り返し通うという、母親が平日にしてきた使い方が必要になる。育児休業を取得した父親が平日午前の公園に現れることは、この意味で、父親の育児ネットワークにとって大きな転機になりうる。

週末・夕方平日と別の時間車で大きな園へ目的地型の利用
図6父親の公園利用は週末・夕方に偏り、車で大きな公園へ向かう目的地型になりやすい。反復が起きにくく、弱い紐帯は生まれにくい。

6.3 関係——輪の均質性の変化

父親の存在は、公園の集まりの均質性を下げる。第3節で論じたように、「公園デビュー」の緊張は、集まりが同質的な閉じた輪に見えることから生じていた。父親が混じることで、その輪は「母親たちの輪」ではなく「親たちの集まり」に変わる。これはパットナムの区分で言えば、結束型のつながりに橋渡し型の要素が加わることを意味する。父親と母親が同じ公園で言葉を交わすことは、家族社会学的には、育児が「母親のもの」から「親のもの」へと語り直される過程の一部である。

ただし、この変化には反対の側面もある。父親が公園に来ることが増えても、母親の輪に父親が入りにくい、あるいは父親が入ることで母親どうしの会話が変わる、という状況は考えられる。ボット(1957)の枠組みで言えば、夫婦がそれぞれ別の網をもつか、共通の網をもつかによって、家族内の役割の分け方が変わる。公園で父親と母親が同じ人たちと知り合うことは、夫婦が共通の網をもつことにつながり、育児の分担が対称的になる方向に働くと予想できる。逆に、公園の関係が母親だけのものであり続ければ、育児ネットワークは母親に偏ったままになる。

以上から、父親の公園利用は、単に公園に来る大人の性別が変わることではなく、公園における時間の使い方・場所の選び方・関係の結び方を再編する変化として理解できる。この変化はまだ途上にあり、その帰結を断定することはできない。しかし、公園が育児ネットワークの場として機能し続けるためには、平日午前の母親の輪だけでなく、週末の父親、平日日中の祖父母、それぞれが関係を結べる条件を整えることが課題になる。次節では、ここまでの議論に対する反論を取り上げ、公園が関係を生むという見方の限界を確認する。

7. 反論への応答——公園はほんとうに関係を生むのか

ここまで、公園が育児期の親にとって弱い紐帯を生む場所であると論じてきた。しかし、この見方には有力な反論がある。本節では四つの反論——同質性、排除、比較のまなざし、オンライン代替——を取り上げ、それぞれに応答することで、公園が関係を生むという主張の射程を明確にする。

7.1 反論1:公園の関係は同質的で閉じている

第一の反論は、公園に集まる親は年齢・生活時間・居住地が近い同質的な集団であり、そこで生まれるのはパットナムのいう結束型のつながりにすぎず、橋渡しにはならない、というものである。確かに、平日午前の街区公園に集まるのは、乳幼児をもち日中に在宅している親という限られた層である。しかし、同質性は一つの軸だけで測れるものではない。子どもの年齢が近くても、親の出身地・職業・家族構成は多様であり、転居してきた家族と地元育ちの家族が同じ砂場を囲むこともある。子育て中という一点で結ばれながら、他の点では異なる人が混じるという構造は、弱い紐帯論が想定する「橋」の条件を部分的に満たしている。

ただし、この応答には留保が要る。同質性がもっとも強く働くのは、集まる人の属性ではなく時間帯である。第6節で見たように、平日午前と週末では公園にいる大人の層がほぼ入れ替わるため、公園全体としては多様でも、ある時間帯の輪だけを見れば同質的である。橋渡しが実際に起きるかどうかは、異なる時間帯の利用者が重なる場面——たとえば平日夕方や、育児休業中の父親が午前に来る場面——がどの程度あるかに依存する。この点は、公園の設計よりも利用者の生活時間の問題であり、公園だけで解決できるものではない。

7.2 反論2:公園は排除の場にもなる

第二の反論は、公園の集まりが新参者を排除する場になりうる、というものである。「公園デビュー」の緊張が示すように、すでにできあがった輪は外から入りにくい。特に、輪の内側の親が互いに知り合いになるほど、内側の密度が上がり、外側との境界が硬くなる。ボットの用語で言えば、疎な網が密な網に変わるにつれて、新しい人が入る余地が減る。この反論は正当であり、公園が常に開かれた場であるとは言えない。

応答としては、公園の関係の「低い離脱コスト」が排除の効果を緩和すると考えられる。会員制の集まりと違い、公園の輪に入れなくても、別の時間帯に来る、別の公園に行く、輪から離れた場所で子どもを遊ばせる、といった選択肢が残る。また、輪が固定化するのは特定の時間帯・特定の遊具の周辺であり、公園全体が閉じるわけではない。とはいえ、輪に入れなかった経験が「公園に行くこと自体」を遠ざける効果をもつことは否定できず、この点は公園の物理的な設計——輪から離れて座れるベンチ、複数の遊び場所——にも関わる問題である。

排除比較のまなざしオンライン代替それでも残る価値
図7同質性・排除・比較のまなざし・オンライン代替という反論はいずれも正当だが、対面で偶然に出会える公園の価値を消すものではない。

7.3 反論3:公園は比較と評価のまなざしにさらされる場である

第三の反論は、公園で他の親子に会うことは、支えになるよりも比較と自己評価の材料になり、育児不安をむしろ高める、というものである。同じ月齢の子どもが歩いている、言葉が出ている、遊具に登れる、といった違いが目に入り、自分の子どもの発達や自分の育児を疑う契機になる。母性愛神話が強いほど、この比較は「母親としての出来」の評価として受け止められやすい。この反論もまた正当である。

応答は二つある。一つは、比較のまなざしは公園に固有のものではなく、健診の待合室でも保育施設の送迎でもオンラインの投稿でも生じる、ということである。むしろ公園では、比較の対象が目の前におり、その親と直接言葉を交わせるため、「うちも最初は歩かなかった」という一言で比較が相対化される機会がある。もう一つは、比較の負担を軽くする条件——子どもの発達の個人差についての知識、専門家に相談できる経路——が整っているかどうかは、公園の外の制度に依存する、ということである。子どもの発達に不安を感じたときの判断は、公園の立ち話ではなく、医療機関や市の相談窓口に委ねられるべきであり、公園の関係はその窓口の情報を伝える経路として機能するのが望ましい。

7.4 反論4:オンラインの関係が公園を代替する

第四の反論は、同じ月齢の子をもつ親どうしがオンラインでつながれる時代に、公園で偶然の出会いを待つ必要はない、というものである。確かに、オンラインの関係は場所と時間の制約がなく、匿名性が高いため、深夜の授乳中でも情報と共感を得られる。第3節で述べたように、これが「公園デビュー」の敷居を下げた一因でもある。しかし、オンラインの関係には対面の関係にできることの一部が欠けている。子どもどうしが実際に同じ場所で遊ぶこと、相手の子どもの様子を自分の目で見ること、地域に固有の情報——この医院は待ち時間が長い、あの道は横断が難しい——を得ること、そして、困っているときに近くにいる誰かに一声かけられること。これらは、地理的に近い相手との対面の関係にしか備わっていない。

反論論点応答の要点残る課題
同質性結束型で橋渡しにならない子育て中という一点で結ばれ他は多様。部分的に橋になる時間帯による層の偏り
排除できあがった輪に入れない離脱コストが低く別の時間帯・別の園へ移れる輪から離れて座れる設計
比較のまなざし育児不安をむしろ高める直接の会話で比較が相対化される。判断は専門機関へ発達の個人差についての知識
オンライン代替対面の必要がない地域固有の情報と物理的な近さは対面にしかないオンラインと対面の接続

以上の四つの反論は、いずれも公園が自動的に関係を生む装置ではないことを示している。公園が育児ネットワークの場として働くかどうかは、集まる人の構成、時間帯、公園の設計、そして公園の外にある制度と情報の整備に依存する。本稿の主張は、公園が万能であるということではなく、「対面で、偶然に、繰り返し、費用なしに、地域の親と出会える」という条件をそろえた場所が公園のほかにほとんどないという事実に基づいている。次節では、この条件が磐田市の公園でどのように満たされうるかを検討する。

8. 磐田市の公園への示唆

本節では、ここまでの議論を磐田市の公園に当てはめ、育児ネットワークの場としての公園について具体的な示唆を述べる。用いる事実は、磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドに基づく当サイトのデータベース(100園)に記載のあるものに限る。当サイトの現地踏査はまだ始まっておらず、以下は文献と公開データからの推論であり、実際に各公園でどのような集まりが生まれているかは今後の観察に委ねる。

8.1 街区公園51園——徒歩圏の「反復」の場

磐田市の100園のうち、半数を超える51園が街区公園である。街区公園は都市公園法施行令上、標準面積0.25ヘクタール、誘致距離250メートルを目安とする、もっとも住まいに近い種別である。第4節で論じた弱い紐帯の第一条件「反復」は、歩いてすぐ行ける公園でこそ満たされやすい。ベビーカーや抱っこで日常的に通える距離にある街区公園は、平日午前の親どうしの関係が生まれる主要な舞台であると予想できる。

ただし街区公園の規模はさまざまである。データベースには、只来下公園(見付・458平方メートル)のようにブランコ・滑り台・ジャングルジム・シーソーがそろった小さな園もあれば、京見塚公園(中泉・10,231平方メートル)のように古墳を含む広い園もある。オープンデータのフラグ集計では、94行のうちトイレ有が69園、砂場有が43園、遊具有が64園である。砂場は乳幼児が長く滞在しやすい設備であり、親が「腰を落ち着ける」場所になるため、砂場のある街区公園は立ち話が生まれやすいと考えられる。トイレの有無は、乳幼児連れの滞在時間を左右する。これらのフラグは、育児ネットワークの観点から公園を読むときの一次的な手がかりになる。

8.2 近隣公園・地区公園——「目的地」と「拠点」の二面性

近隣公園は14園、地区公園は4園である。近隣公園は標準面積2ヘクタール・誘致距離500メートル、地区公園は4ヘクタール・1キロメートルが国の目安であり、街区公園より広い範囲から人が集まる。第6節で論じたとおり、この規模の公園は週末に父親が車で向かう「目的地」になりやすく、来園者が広い範囲から集まるため、近所の親と反復して会う可能性は街区公園より低い。一方で、設備が充実している園は平日にも乳幼児連れを引き寄せ、地域の子育て世代が集まる「拠点」になりうる。

市の施設ガイドには、今之浦公園(見付・近隣公園・13,675平方メートル)に「屋根付広場、複合遊具、ふわふわ遊具、噴水広場、芝生広場、3歳未満児遊具」と、乳幼児向けの遊具と天候に左右されにくい屋根付きの場所があると記されている。安久路公園(御厨・地区公園・32,001平方メートル)には「複合遊具(インクルーシブエリアあり)」「幼児用遊具」「流れ」があるとされ、豊田加茂公園(豊田・近隣公園・6,362平方メートル)には「複合遊具(幼児用滑り台、トンネル等)」と砂場があるとされる。いずれも駐車場有りと記載されている。こうした園は、街区公園の輪に入れなかった親が別の場を求めるときの受け皿になり、また祖父母が孫を連れてくる先にもなりうる。第7節で述べた「別の公園に行く」という選択肢は、拠点となる公園が地区ごとにあることで現実的になる。

9地区100園徒歩の街区公園車で行く拠点二層の集まり
図8磐田市の100園は徒歩圏の街区公園51園と、車でも向かう近隣・地区公園などの拠点からなる。育児ネットワークは二層で考える。

8.3 9地区の偏りと「公園デビュー」の条件

当サイトは磐田市を9地区に分けて公園を整理している。園数は豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。園数が多い地区では、歩いて行ける範囲に複数の公園があり、輪に入れなかったときの「別の公園」が近くにある。園数の少ない地区では、公園の選択肢が限られ、一つの公園に集まる顔ぶれが固定しやすいと予想できる。前者では弱い紐帯が広く薄く広がり、後者では少数の関係が濃くなりやすい、という違いが生じうる。松田(2008)の「中庸」の観点からは、どちらにも利点と難点があり、地区ごとに育児ネットワークの形が異なりうることを示唆する。

転居してきた家族にとって、「公園デビュー」の条件は地区によって異なる。豊田地区のように園数が多く、街区公園に加えて豊田加茂公園・豊田ラブリバー公園などの近隣公園がある地区では、平日の徒歩圏の園と週末の拠点の園を使い分けやすい。園数の少ない地区では、公園以外の子育て支援の場——市の子育て支援施設や地域の集まり——との組合せが、育児ネットワークの形成にとってより重要になると考えられる。当サイトは公園のデータベースであり、公園以外の支援の場については市の情報を参照されたい。公園の管理に関する問合せ先は、市の都市整備課(電話0538-37-4806)である。

種別(磐田市の園数)国の目安育児ネットワーク上の想定される役割踏査で確かめること
街区公園(51園)0.25ha・誘致距離250m徒歩圏の反復の場。平日午前の親どうしの弱い紐帯砂場・ベンチの位置、平日午前の滞在者
近隣公園(14園)2ha・500m地区の拠点。乳幼児向け設備がある園は平日も集まる設備の充実度、時間帯ごとの顔ぶれ
地区公園(4園)・総合公園(3園)4ha・1km/10〜50ha週末の目的地。父親・祖父母の来園、広域からの来園駐車場からの動線、輪の有無
都市緑地(10園)ほか0.1ha〜(緑地)通り道・散歩の中継点。滞在は短い立ち止まれる場所の有無

8.4 踏査で確かめるべきこと

本稿の議論から、当サイトの今後の踏査で確かめるべき観察項目が導かれる。第一に、親が腰を落ち着けられる場所——ベンチ、砂場のふち、木陰——がどこにあり、遊具からどの距離にあるか。第二に、輪から離れて座れる場所があるか。第三に、平日午前・平日夕方・週末で滞在者の構成がどう変わるか。第四に、祖父母と孫だけの来園がどの程度見られるか。第五に、屋根付きの場所やトイレの有無が滞在時間にどう関わるか。これらは家族社会学の概念を公園の物理的な条件に翻訳したものであり、踏査の際に記録すべき項目として当サイトのデータベースに組み込むことができる。

行政と地域の関係者に対しては、次の点を示唆として述べておきたい。育児ネットワークの観点から公園を評価するとき、遊具の数や面積だけでなく、「親が居合わせる」条件——遊具を見渡せる位置のベンチ、砂場のまわりの座れる縁、日差しと雨をしのげる屋根——が重要になる。今之浦公園の「屋根付広場」のような設備は、天候に左右されず滞在できる点で、反復の条件を支える。また、公園に市の子育て支援や相談窓口の情報が掲示されていれば、第7節で述べたように、公園の立ち話が専門機関への経路として働きやすくなる。これらは大きな投資を要するものではなく、既存の公園の使われ方を家族社会学の目で見直すことから始められる。

9. 結論と今後の課題

本稿は、核家族化と都市化が進んだ社会において、都市公園が育児期の親にとってどのような社会関係の場になりうるかを、家族社会学と社会ネットワーク論の概念を用いて検討してきた。結論は次の三点に要約できる。

第一に、公園は育児ネットワークを自動的に生み出す装置ではないが、「同じ時間帯に、同じ場所に、子どもという共通の関心をもって、繰り返し居合わせる」という関係形成の条件を、費用も手続きもなしに満たす稀な公共空間である。この条件をそろえた場所は、家でも職場でも施設でもなく、公園のほかにはほとんどない。「公園デビュー」という語が1990年代前半に広まったとされることは、公園がこの役割を担っていたことの社会的な証言として読める。

第二に、公園で生まれる関係の価値は、それが「弱く、ゆるく、いつでも抜けられる」点にこそある。グラノヴェッターの弱い紐帯論とパットナムのソーシャル・キャピタル論に照らせば、公園の立ち話は地域の情報を運び、「自分だけではない」という水平的な支えを与え、見知らぬ人への一般的信頼の土台になる。この関係は、夜間の急病や長期の不在に対応する強い紐帯や制度的支援を代替するものではない。松田(2008)の「中庸なネットワーク」の観点からは、公園の関係は、親族ほど濃くなく無関係ほど薄くない中間の層を担うものとして位置づけられる。

第三に、公園に集まる大人の構成は変化しつつある。祖父母の関与は保育の一部を担う強い紐帯を公園に持ち込み、父親の参加は集まりの均質性を下げ、時間帯と場所の使い方を再編する。これらの変化は、公園が「母親の輪」から「親たちの集まり」へ、さらには「三世代の交差点」へと性格を変えつつあることを示している。ただし、この変化の帰結はまだ定まっておらず、時間帯による分断が固定化する可能性もある。

踏査の記録観察項目関係の育ち
図9結論は概念分析にとどまる。今後の踏査で、座れる場所・時間帯ごとの顔ぶれ・祖父母の来園を記録し、関係の育つ条件を確かめる。

9.1 本稿の限界

本稿にはいくつかの限界がある。まず、本稿は文献整理と概念分析にとどまり、公園で実際に何が起きているかを観察したデータをもたない。公園で関係が生まれる条件として挙げた反復・共通の関心・低い離脱コストは理論的な導出であり、磐田市の公園でそれがどの程度当てはまるかは、当サイトの今後の踏査によって確かめる必要がある。次に、本稿が依拠した育児ネットワーク研究の多くは、母親を対象にした調査に基づいており、父親や祖父母の公園利用に関する知見は限られている。第5節・第6節の議論は、既存の枠組みからの推論であることを断っておく。

また、本稿は公園に集まる親を「子育て世代」として一括して論じたが、実際にはひとり親、外国にルーツをもつ家族、障害のある子どもを育てる家族など、公園の輪に入りにくい事情をもつ家族がいる。第7節で扱った排除の問題は、これらの家族にとってより切実である。安久路公園の施設ガイドに「インクルーシブエリアあり」と記されているように、設備の面での配慮は始まっているが、関係の面での包摂については、別途の検討が必要である。

さらに、本稿は磐田市という一つの地方都市を念頭に置いて書かれている。育児ネットワーク研究の多くは大都市圏の調査に基づいており、車の利用が日常的で、親族が近くに住む割合が相対的に高いとされる地方都市では、公園の位置づけが異なる可能性がある。徒歩圏の街区公園よりも車で行く大きな公園が日常の行き先になっているとすれば、第4節で論じた「反復」の条件は、街区公園ではなく拠点となる公園で満たされているかもしれない。この点も、大都市圏の知見をそのまま当てはめるのではなく、磐田市の公園での観察によって確かめるべき事柄である。なお、当サイト ATAWI PARK は磐田市の公園100園のデータベースであり、運営は不動産・介護事業を営む富士ヶ丘サービス株式会社が行っている。本稿は同社の事業とは独立した学術的な整理として書かれている。

9.2 今後の課題

今後の課題は三つある。第一は、踏査による観察である。第8節で挙げた観察項目——座れる場所の位置、輪から離れられる場所、時間帯ごとの滞在者の構成、祖父母と孫だけの来園、屋根とトイレの有無——を、当サイトのデータベースの項目として整備し、100園について順次記録していく。第二は、他分野との接続である。公園の物理的な設計が関係の形成にどう関わるかは都市設計学・環境心理学の、時間帯による利用の分断は時間地理学の、祖父母の来園は老年学の主題であり、本稿の議論はこれらの領域と組み合わせることで具体化する。第三は、公園と公園以外の子育て支援の場——地域子育て支援拠点、健診、保育施設の送迎——との関係を、育児ネットワーク全体のなかで位置づけることである。公園はネットワークの一部であり、全体を見なければその役割は正しく評価できない。

最後に、本稿の実践的な含意を一言で述べておく。公園を育児ネットワークの場として考えるとき、重要なのは大きな遊具や広い芝生ではなく、親が腰を落ち着けて他の親と居合わせられる場所と時間である。それは、砂場のふちであり、遊具の見えるベンチであり、平日午前の一時間である。磐田市の街区公園51園がその条件をどの程度そろえているかを確かめることが、当サイトの次の仕事になる。

参考文献

  1. タルコット・パーソンズ/ロバート・F・ベールズ(1955)『家族——核家族と子どもの社会化』(橋爪貞雄ほか訳、黎明書房)
  2. エリザベス・ボット(1957)『家族と社会網』(野沢慎司監訳、ミネルヴァ書房、2006)
  3. マーク・グラノヴェッター(1973)「弱い紐帯の強さ」(野沢慎司編・監訳『リーディングス ネットワーク論』勁草書房、2006 所収)
  4. ロバート・D・パットナム(2000)『孤独なボウリング——米国コミュニティの崩壊と再生』(柴内康文訳、柏書房、2006)
  5. ジェイムズ・S・コールマン(1988)「人的資本の形成における社会関係資本」(野沢慎司編・監訳『リーディングス ネットワーク論』勁草書房、2006 所収)
  6. 落合恵美子(2019)『21世紀家族へ——家族の戦後体制の見かた・超えかた 第4版』有斐閣
  7. 牧野カツコ(1982)「乳幼児をもつ母親の生活と〈育児不安〉」『家庭教育研究所紀要』第3号
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  9. 山田昌弘(1994)『近代家族のゆくえ——家族と愛情のパラドックス』新曜社
  10. 大日向雅美(2000)『母性愛神話の罠』日本評論社
  11. レイ・オルデンバーグ(1989)『サードプレイス——コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』(忠平美幸訳、みすず書房、2013)
  12. ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
  13. ユリー・ブロンフェンブレンナー(1979)『人間発達の生態学』(磯貝芳郎・福富護訳、川島書店、1996)
  14. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令
  15. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  16. 磐田市「都市公園一覧」(オープンデータ、CC BY 3.0)
  17. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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