芸術・文化・メディア広告表象・記号論

「緑豊かな環境」という言葉——広告表象のなかの公園

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:広告表象・記号論 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,162字 読了目安 38分

要旨

本稿の目的は、住宅の分譲広告、自治体の移住・定住促進の広報、企業広告にくり返し現れる「緑豊かな環境」という言葉と、そこに添えられる公園や緑地の視覚表象を、広告表象研究および記号論の視点から検討することである。方法は文献整理と概念分析であり、フェルディナン・ド・ソシュールの記号論の基礎、ロラン・バルトの神話作用論とイメージの修辞学、ジュディス・ウィリアムソンの広告記号論、レイモンド・ウィリアムズの「魔術のシステム」論、アーヴィング・ゴッフマンのジェンダー広告論を手がかりに、広告のなかの公園がどのような記号として機能しているかを分析する。

検討の結果、広告における公園表象は、緑・子ども・家族という三つの要素をほぼ固定的に組み合わせ、そこに安心・成長・幸福な家庭生活という意味を接続する、反復性の高い図像であることが明らかになる。この反復は、単身者・高齢者・共働き世帯・障害のある人など画面に写りにくい人々を暗黙のうちに周辺化し、公園という公共の場を特定の家族像と結びつける効果をもつ。加えて、広告表象と公園に対する社会の期待とのあいだには循環的な関係があり、表象が期待をかたちづくり、期待がまた次の表象を求めるという構造が見出される。

最後に、磐田市の都市公園100園、とりわけ51園を占める街区公園を手がかりに、広告に表れる公園の像と、当サイトが今後の踏査で確かめるべき現実の公園の姿との隔たりを整理する。本稿は特定の広告作品を収集して評価する事例研究ではなく、広告表象研究の分野でくり返し指摘されてきた図像の型を公園という対象に即して理論的に整理するものであり、当サイトの運営にかかわる主張を行うものではない。

キーワード広告表象記号論神話作用ライフスタイル広告ジェンダー表象郊外の理想像磐田市

1. はじめに——問題の所在

住宅の分譲広告や自治体の移住・定住促進の冊子を開くと、街路樹の向こうに芝生の広場が見え、そこで親子が手をつなぎ、あるいは子どもがボールを追いかけている、という一枚の写真にしばしば出会う。添えられる言葉は「緑豊かな環境」「自然と触れ合える暮らし」「子育てしやすいまち」といった、驚くほど互いに似た表現である。この反復は偶然ではない。広告は限られた紙面と一瞬の視線のなかで、複雑な暮らしの価値を一枚の画像に圧縮しなければならず、そのために誰もが共有できる、あらかじめ意味の定まった記号——ここでは「緑のある公園」という記号——に頼る。

本稿の課題は、この「緑豊かな環境」という言葉と、それに添えられる公園の視覚表象を、広告表象研究および記号論の視点から検討することである。広告のなかの公園は、実在の特定の公園そのものではなく、緑・子ども・家族という要素の組み合わせによって、安心・成長・幸福な家庭生活といった意味を伝えるために選ばれ、編集され、反復される記号である。この記号がどのように作られ、何を伝え、同時に何を伝え損ねているのかを問うことは、公園という公共施設が社会のなかでどのようなイメージを担わされているかを問うことに等しい。

本稿の問いは次の三つである。第一に、広告における公園の視覚表象は、記号論的にどのような技法によって「安心」「豊かさ」といった意味を獲得するのか。第二に、緑と子どもと家族という組み合わせが反復されることで、誰が広告の画面に写り、誰が写らないのか。第三に、この反復的な表象は、公園という現実の場所に対する社会の期待をどのようにかたちづくり、その期待はどのように次の広告表象へ送り返されるのか。

広告写真家族像
図1住宅広告や自治体広報にくり返し現れる、緑と家族を組み合わせた一枚の構図。本稿はこの構図の技法と効果を検討する。

なぜ広告表象研究という視点から公園を論じるのか。造園学は緑地の設計を、社会学は公園に集う人間関係を、公衆衛生学は身体活動を論じる。広告表象研究と記号論が固有に扱うのは、公園という場所そのものではなく、公園が写真や言葉としてどう「見せられているか」、その見せ方がどのような約束事——記号論ではこれを「コード」と呼ぶ——にしたがっているか、という水準である。広告のなかの公園を読み解くことは、公園という施設について社会が何を当然だと思い込んでいるかを可視化する作業でもある。

1.1 方法と立場

方法は文献整理と概念分析である。フェルディナン・ド・ソシュールの記号論の基礎、ロラン・バルトの神話作用論とイメージの修辞学、ジュディス・ウィリアムソンの広告記号論、レイモンド・ウィリアムズの「魔術のシステム」論、アーヴィング・ゴッフマンのジェンダー広告論といった古典を参照し、それらの概念枠組みを住宅広告・自治体広報・企業広告における公園表象に当てはめる。本稿は特定の広告作品を収集して分析する事例研究ではなく、広告表象研究の分野でくり返し指摘されてきた図像の型を、公園という対象に即して理論的に整理するものである。個別の企業名・商品名・広告作品を名指しして評価することはしない。

あわせて、当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の都市公園100園のデータベースであるが、現地踏査はこれから始まる段階である点をあらかじめ断っておく。本稿で扱う公園像は、広告表象という「見せ方」についての理論的な検討であり、磐田市の個々の公園の実態を踏査によって確かめたものではない。踏査で確かめるべき論点は、その都度明示する。

1.2 本稿の構成

第2節で記号論と広告表象研究の基礎概念を整理する。第3節で公園がどのような記号操作によって意味を担わされるかを検討し、第4節で住宅広告における「緑豊かな環境」という言葉のはたらきを論じる。第5節で視覚的な常套句を図像のパターンとして分析し、第6節で広告の画面に写る家族像と写りにくい人々を検討する。第7節で「広告はただ美しい風景を写しているだけではないか」という反論に応答し、第8節で自治体広報と企業広告の語り口を比較する。第9節でバージャーとパッカードの議論を補助線として広告写真の訴求力そのものを検討し、第10節で磐田市の公園への示唆を述べ、第11節で結論と今後の課題を示す。読者としては磐田市周辺の子育て世代、行政・地域の関係者、公園や広告表現に関心をもつ学生を想定し、専門用語は初出のたびに説明する。

2. 先行研究と概念の整理——記号論と広告表象研究

記号論の出発点は、言語学者フェルディナン・ド・ソシュールが20世紀初頭に整理した「シニフィアン(意味するもの、記号表現)」と「シニフィエ(意味されるもの、記号内容)」の区別である。ソシュールによれば、ある音や文字(シニフィアン)と、それが指し示す概念(シニフィエ)との結びつきは、社会の約束事にすぎず、必然的なものではない。「公園」という文字や「こうえん」という音がなぜあの緑の広場を指すのか、それ自体に必然性はなく、日本語という体系のなかでそう決まっているにすぎない。この考え方は、のちに広告や写真といった視覚表現の分析にも応用されることになる。

2.1 バルトの神話作用論

フランスの批評家ロラン・バルトは、1957年の『神話作用(Mythologies)』で、広告や大衆文化の画像がどのように「意味」を運ぶかを二段階で説明した。第一段階は「明示的意味(デノテーション)」であり、写真に写っているものをそのまま指す水準——たとえば「木と芝生とベンチ」——である。第二段階は「共示的意味(コノテーション)」であり、その写真が呼び起こす別の意味——たとえば「安らぎ」「健全な暮らし」——である。バルトはこの第二段階の意味づけが、あたかも自然でだれもが認める事実であるかのように振る舞う点を「神話」と呼び、そこに歴史的・社会的に作られた価値観が、生まれつきの真実であるかのように偽装されるしくみを見出した。

バルトはさらに1964年の論文「イメージの修辞学」で、ある食品会社のパスタ広告を素材に、一枚の広告写真が言語的メッセージ(商品名やキャッチコピー)・コード化された図像的メッセージ(買い物袋からのぞく食材が「イタリア風」を連想させるといった、社会的な約束事に頼る意味)・コード化されていない図像的メッセージ(写っているものをそのまま認識する水準)という三つの層から成ることを示した。この分析枠組みは、公園の写真にもそのまま応用できる。木漏れ日と芝生とベンチという「コード化されていない」水準の上に、「豊かな暮らし」「子育てにやさしいまち」という、社会的な約束事に頼った「コード化された」意味が重ねられているのである。

2.2 ウィリアムソンの広告記号論と「参照体系」

イギリスの研究者ジュディス・ウィリアムソンは、1978年の著書『広告の記号論』で、広告がどのように商品へ意味を移し替えるかを詳しく論じた。彼女によれば、広告は商品そのものの価値を語るのではなく、すでに意味の定まった別の何か——たとえば自然、成功した人物、幸福な家族——を商品と並べて配置し、その意味を商品へと「移転」させる。ウィリアムソンはこれを「参照体系」と呼んだ。住宅広告に置き換えれば、住宅そのものは壁と屋根の集合にすぎないが、そこに緑の公園という「参照体系」を並べることで、住宅は「豊かな暮らし」の意味を分けてもらうのである。ウィリアムソンはまた、広告が「あなたのための商品です」と語りかけることで、見る者を特定の立場——多くの場合、理想化された消費者——に位置づける効果にも注目した。

記号論の古典意味の層見る者への呼びかけ
図2ソシュールの記号論を土台に、バルトは意味の二段階を、ウィリアムソンは意味の移転を論じた。公園の写真もこの枠組みで読み解ける。

2.3 「魔術のシステム」としての広告——レイモンド・ウィリアムズ

文化研究者レイモンド・ウィリアムズは、1980年の論考「広告——魔術のシステム」で、近代の広告を、モノに社会的・魔術的な意味を付与する一種の儀式的なシステムとして描いた。ウィリアムズによれば、広告が石鹸や自動車に「若さ」「地位」「幸福」といった、モノ自体の機能とは無関係な意味を結びつけるやり方は、呪術や儀礼が物や場所に霊的な力を付与するやり方と構造的に似ている。この視点に立てば、住宅広告が「緑豊かな環境」という言葉で公園を呼び出すのも、公園という物理的な緑地に「幸福な家庭生活」という、緑地そのものの機能を超えた意味を付与する、一種の儀式的な操作として理解できる。

2.4 ジェンダーと写真の文法——ゴッフマン

社会学者アーヴィング・ゴッフマンは、1979年の『ジェンダー・アドバタイズメンツ』で、広告写真における人物の姿勢・視線・配置が、男女の役割についての社会的な思い込みを繰り返し表現していることを示した。彼が注目したのは、誰が中心に立ち誰が寄り添うか、誰が見つめ誰が見つめられるか、誰が動作の主体で誰が受け手かといった、写真のなかの身体の配置である。この視点は、公園の広告写真において、誰が子どもと遊び、誰がそれを見守る側に回るかという配置を読み解く手がかりになる。第6節でこの視点に立ち返る。

概念提唱者・年要点
シニフィアン/シニフィエソシュール(1916)記号の形と意味の結びつきは社会の約束事
デノテーション/コノテーションバルト(1957・1964)写っているものと、それが呼び起こす別の意味の二層
神話作用バルト(1957)社会的な価値観を生まれつきの自然に見せかける働き
参照体系ウィリアムソン(1978)すでに意味のある別の何かから商品へ意味を移す操作
魔術のシステムウィリアムズ(1980)モノに機能を超えた社会的意味を付与する儀式的な体系
写真の文法ゴッフマン(1979)姿勢・視線・配置に現れるジェンダーの思い込み

これらの概念に共通するのは、広告の画像を「現実をそのまま写したもの」としてではなく、「意味を作り出す装置」として読む姿勢である。次節以降、この姿勢を公園の広告表象に具体的に当てはめていく。

3. 記号としての公園——商品と意味をつなぐ技法

広告のなかで公園が使われるとき、そこには複数の技法が働いている。第一は「近接による意味の移転」である。住宅の外観写真の隣に緑豊かな公園の写真を並べるだけで、見る者は両者を無意識に結びつけ、住宅そのものに「緑豊かさ」の意味を感じ取る。住宅と公園のあいだに実際にどれだけの距離があるか、その公園がどのような設備をもつかは、この段階ではまだ問われない。並べて置くという編集上の操作そのものが、意味を運ぶのである。

3.1 換喩としての公園

修辞学の言葉を借りれば、この技法は「換喩(メトニミー)」に近い。換喩とは、あるものの一部や隣接するものによって全体を指し示す言い方であり、たとえば「永田町」という地名で日本の政治全体を指すような言い方である。広告における公園も、暮らし全体を代表する部分として選ばれている。実際には暮らしは通勤、買い物、家事、近隣づきあいなど無数の要素からなるが、そのすべてを一枚の写真に収めることはできない。そこで広告は、暮らしのなかでもっとも肯定的な感情を呼び起こしやすい要素——緑と子どもの笑顔——を選び、それによって暮らし全体を代表させる。公園はこうして、写っていない無数の要素の「代理人」として機能する。

3.2 緑という色が担う意味

緑という色そのものも、記号として一定の意味を担わされてきた。植物学的には緑は葉緑素の色にすぎないが、社会的な約束事のなかでは「自然」「成長」「安全」「癒やし」といった意味と結びつけられてきた。都市の風景のなかで緑の面積が占める割合が視覚的に大きいほど、見る者は「豊かな環境」という印象を受けやすいとされる。広告はこの連想を利用し、実際の緑地の面積や質を厳密に示すことなく、写真の構図のなかで緑の占める割合を大きくすることによって、「緑豊かな環境」という言葉を視覚的に裏づける。ここで重要なのは、緑の「量」の印象と、公園の緑地としての「質」——樹種の多様さ、木陰の量、手入れの状態——とは、必ずしも一致しないという点である。

芝生安心という意味
図3緑という色そのものが「自然・安全・癒やし」という意味を担わされ、写真のなかの緑の面積が「豊かさ」の印象を作り出す。

3.3 子どもという記号——無垢と未来

公園の広告写真にほぼ欠かせない要素が、遊ぶ子どもの姿である。子どもは記号論的に「無垢」「純粋」「未来」といった意味を担わされやすい存在である。子どもが屈託なく走り回る姿は、その場所が安全で、心配なく過ごせる環境であることを、言葉による説明よりも直感的に伝える。ここでも「デノテーション(写っているもの)」と「コノテーション(呼び起こされる意味)」の区別が有効である。デノテーションの水準では単に「子どもが走っている」だけだが、コノテーションの水準では「この場所・この暮らしを選べば、子どもは健やかに育つ」という約束が読み取られる。この約束は広告のどこにも文章として書かれていないが、写真の構図そのものが暗黙のうちに伝えている。

3.4 反復による自然化

バルトの神話作用論が指摘するように、ある組み合わせが繰り返されると、それは次第に「そういうものだ」という自然な事実であるかのように受け取られていく。緑と子どもと家族という組み合わせが、住宅広告・自治体広報・企業広告を問わず何度も反復されることで、見る者は「公園とはこういうものだ」「良い暮らしとはこういう風景だ」という印象を、あらためて疑うことなく受け入れるようになる。この反復こそが、個々の広告一枚だけでは持ちえない強い効果を生む。

3.5 指示対象の不在——写っているのは「公園という観念」

記号論には「指示対象(レファラン)」という言葉がある。これは記号が実際に指し示している、現実世界のなかのモノそのものを指す。広告に写る公園の写真において興味深いのは、その写真が指し示す指示対象——つまり、写真に写っているまさにその特定の公園——が、見る者にとってしばしば重要ではないという点である。見る者が求めているのは「どこか特定の、あの公園」ではなく、「緑と子どもと家族が揃う、公園という観念」そのものである。実在する具体的な公園ではなく、いくつもの公園の記憶や想像を混ぜ合わせて作られた、いわば合成された「理想の公園」という観念が、写真という一枚の画像を通して立ち現れる。この意味で、広告のなかの公園は、現実の特定の場所からいったん切り離された、記号としての公園なのである。次節では、この技法が住宅広告のなかでどのように具体的に用いられるかを検討する。

4. ライフスタイル提案型広告と公園——住宅広告の語り口

広告研究では、商品の機能や価格を直接説明する広告と、商品を通じて得られる暮らし方そのものを描く広告とを区別することがある。後者は「ライフスタイル提案型広告」と呼ばれ、住宅の分譲広告や宅地の供給広告に典型的に見られる。壁の厚さや設備の仕様を淡々と説明するのではなく、朝の光、家族の笑顔、近所の公園での週末の過ごし方といった、暮らしの一場面を物語のように見せることで、見る者に「この暮らしを送りたい」という感情を先に喚起し、その感情の延長として住まいへの関心を導く。公園はこの物語のなかで、しばしば週末や放課後の一場面を担う舞台装置として登場する。

4.1 「緑豊かな環境」という言葉のはたらき

「緑豊かな環境」という言葉は、住宅広告や宅地の分譲パンフレットで長く使われてきた常套句である。この言葉の特徴は、具体的な事実をほとんど何も述べていない点にある。どの木が何本あるのか、その緑地までの距離はどれくらいか、といった検証可能な情報を含まず、読み手の想像のなかにある「理想の緑」のイメージを喚起するだけで役割を果たす。レイモンド・ウィリアムズの言う「魔術のシステム」に照らせば、この言葉は事実を伝える言語というより、聞く者の心のなかに好ましいイメージを呼び出す呪文に近いはたらきをしている。近くに小さな公園や緑地が一つあるだけでも、あるいは街路樹が並んでいるだけでも、「緑豊かな環境」という言葉は成立してしまう。

4.2 距離の圧縮——歩いて行けるという印象操作

住宅広告の写真やイラストにおいて、住まいと公園の距離感は、しばしば実際より近く感じられるように編集される。同じ紙面や同じ画面のなかに住まいと公園を並べて配置すること自体が、両者が近接しているという印象——記号論で言う近接によるコノテーション——を作り出す。都市公園法施行令が定める街区公園の誘致距離は250mであり、この数字自体は生活圏の目安として国の基準に明記された事実であるが、広告における「近さ」の演出は、この基準の有無にかかわらず、レイアウトの技法として独立に働く。見る者は写真の配置から距離を推測してしまいがちであり、実際の徒歩時間や経路の安全性は、写真からは読み取れない。

住まい暮らしの物語
図4住宅広告は仕様の説明ではなく暮らしの一場面を物語として見せる。公園はその物語の週末の舞台として登場する。

4.3 自治体の定住促進広報における公園

地方自治体が発行する移住・定住促進の冊子や広報にも、緑と子どもと家族を組み合わせた構図は繰り返し現れる。ここでの語りは、個々の住宅を売り込むのではなく、その地域全体の暮らしやすさを印象づけることに主眼が置かれる。「自然が近い」「子育てしやすい」という言葉は、企業の広告における「緑豊かな環境」と同じ技法——換喩と近接による意味の移転——を用いながら、対象が一戸の住まいから地域全体へと広がっている点が異なる。この違いについては第8節であらためて比較する。

4.4 反復の効果と受け手の学習

同じ構図が異なる事業者・異なる媒体で繰り返し使われることによって、見る者は次第に「緑のある写真=良い暮らし」という対応関係を、意識的に学習するのではなく、繰り返しの経験のなかで自然に身につけていく。この学習は個々の広告の説得力とは別の、広告というジャンル全体が積み重ねてきた慣習の効果である。したがって、ある一枚の広告写真だけを取り出して「誇張だ」と批判しても、この慣習そのものは揺るがない。

4.5 形容詞のむなしさ——「豊か」は何も測っていない

「緑豊かな環境」という表現の「豊か」という形容詞は、比較の基準を示さない点で独特である。何と比べて豊かなのか、豊かさをどう数えるのかは、この言葉のなかには含まれていない。ウィリアムズの言う「魔術のシステム」に立ち返れば、この空白こそが好都合なのだといえる。基準を示さないからこそ、読み手は自分なりの「豊か」のイメージを自由に思い描くことができ、その思い描いたイメージに広告写真の緑が寄り添う形で、言葉と写真が互いを補強し合う。逆に言えば、もし「豊か」という言葉に具体的な基準——たとえば緑地の面積や樹木の本数——が添えられれば、その基準を満たさない場合に言葉が成立しなくなるという制約が生まれる。基準を示さない形容詞は、広告の言葉として都合よく機能し続けてきたのである。次節では、この慣習がどのような視覚的なパターンとして具体的に反復されているかを、図像の型として整理する。

5. 視覚的常套句の分析——反復される構図の型

美術史や図像学(イコノグラフィー)では、ある主題が繰り返し描かれるとき、そこに一定の型——誰をどの位置に置き、何を光らせ、何を陰にするかという約束事——が形成されることが知られている。広告における公園の写真にも、こうした型が見て取れる。本節ではその型を、構図・光・人物配置の三つの観点から整理する。これは特定の広告作品を評価するためではなく、広告というジャンル全体に共通する視覚の癖を取り出すための作業である。

5.1 木漏れ日という光の演出

広告写真において、公園の場面はしばしば木漏れ日——木の葉のあいだから差し込む柔らかい光——とともに描かれる。強い日差しの直射でも曇天の平板な光でもなく、木漏れ日が選ばれるのは、それが「穏やかさ」「安らぎ」という共示的意味(コノテーション)を運びやすいためである。実際の公園において木陰がどの程度あり、その木陰が一日のどの時間帯にどこへ落ちるかは、樹種・樹高・方角によって大きく異なる問題であり、これは造園学や樹木学が扱う具体的な検討課題であるが、広告の写真はそうした個別の条件を捨象し、「木漏れ日のある公園」という抽象化された理想像だけを提示する。

5.2 芝生とベンチという舞台装置

芝生とベンチも、広告における公園の定番の構成要素である。土や砂利の地面より芝生が好まれるのは、それが手入れの行き届いた清潔さと、寝転がったり座り込んだりできる自由さを同時に示唆するためである。ベンチは、そこに座って子どもを見守る保護者、あるいは腰かけて休む祖父母の姿を想像させ、写真のなかに直接写っていない見守りの視線までも暗示する小道具として機能する。国土交通省の遊具の安全確保に関する指針でも、遊具の周囲に見守りのための空間や配置への配慮が述べられているが、広告におけるベンチの扱いは、そうした安全上の配慮とは別に、もっぱら「安心して座っていられる」という情緒的な印象を作るための記号として選ばれている。

視覚要素示すもの(デノテーション)呼び起こす意味(コノテーション)
木漏れ日木の葉を透かした光穏やかさ・安らぎ
芝生刈り込まれた草地清潔さ・自由に過ごせる余裕
ベンチ座るための設備見守り・休息・世代のつながり
走る子ども遊んでいる子どもの姿健やかな成長・安全な環境
木漏れ日ベンチ穏やかな光
図5木漏れ日・芝生・ベンチは、公園そのものの機能というより、穏やかさや見守りという意味を運ぶための視覚的な常套句として反復される。

5.3 季節の選択——常に「よい季節」だけが写る

広告に写る公園は、しばしば新緑や穏やかな陽気の季節に限られる。強い日差しの続く時期の暑さ、落ち葉の掃除、冬の枯れ木立、雨や強風の日といった、公園が一年を通じてもつ多様な姿は、広告にはほとんど登場しない。環境省が公表する暑さ指数(WBGT)のように、屋外での活動には季節や気象条件に応じた注意が必要だとされる場面があるが、広告のなかの公園は、そうした季節による変化や注意点を切り離した「永遠のよい季節」として描かれる。この点は、広告表象と実際の公園利用との隔たりを考えるうえで重要な手がかりになる。

5.4 型の反復が生む「見慣れた安心感」

これらの視覚的要素が異なる広告のあいだで繰り返されることで、見る者はその構図を見た瞬間に、細部を読み込む前から「これは良い暮らしを示す写真だ」と直感的に理解できるようになる。これは図像学における型の効果そのものであり、型に沿っているからこそ、広告は短い接触時間のなかでも意味を伝達できる。しかし同時に、型に沿わない要素——強い日差し、乾いた土、人のいない冬の公園——は、広告の画面から体系的に排除されることになる。

5.5 完成予想図・俯瞰図における公園

分譲地の広告では、写真だけでなく、開発区画全体を上空から見下ろした完成予想図が使われることがある。この種の図は、まだ樹木が植えられていない、あるいはまだ工事中の段階の土地に対して、将来そこに植えられる予定の樹木や緑地を描き込んだものであり、写真以上に大きな編集の自由度をもつ。図のなかの緑は、現実にはまだ存在しない未来の姿を、あたかもすでに完成しているかのように提示する。ここでもバージャーの言う「見る者の未来の姿を先取りして見せる」という広告写真の性質が、より徹底したかたちで表れている。完成予想図に描かれた緑がどの程度まで実現するかは、図そのものからは読み取れず、見る者は図と将来の現実との間にどの程度の隔たりがありうるかを、自ら想像して補う必要がある。次節では、この排除がどのような人物像において特に顕著に現れるかを検討する。

6. 誰が写り、誰が写らないか——ジェンダーと家族像

広告のなかの公園にほぼ確実に登場する人物像がある。母親らしき人物と子ども、あるいは両親と子どもという組み合わせである。アーヴィング・ゴッフマンが『ジェンダー・アドバタイズメンツ』で示したように、広告写真における人物の配置は、単なる偶然ではなく、社会に広く共有された役割の思い込みを反映し、また反復によってその思い込みを強化する。公園の広告写象では、しゃがんで子どもの目線に合わせる、手を差し伸べる、遊具のそばで見守るといった動作が、多くの場合、女性とされる人物に割り当てられ、男性とされる人物は、写るとしても後方に立つ、あるいは写らないことが多いとされる。この配置は、育児という営みを誰が担うものと社会が想定してきたかを、言葉ではなく身体の位置によって示している。

6.1 「幸福な家庭」という単一のひな型

ベティ・フリーダンは1963年の『新しい女性の創造』で、戦後アメリカの郊外の暮らしを描く広告や雑誌が、専業主婦として家庭に専念する女性像を「幸福の理想」として繰り返し提示し、それ以外の生き方の可能性を見えにくくした過程を批判的に描いた。この指摘を公園の広告表象に重ねると、緑の広場で子どもと遊ぶ母親という構図もまた、数ある家族のかたちのなかの一つを「標準」として示し、それ以外のかたちを暗黙のうちに「例外」の位置に置く効果をもつ可能性がある。ここで注意すべきは、この構図に写る母親や家族そのものが批判されるべきだということではない。批判の対象は、その構図だけが繰り返し「標準」として提示され、他のかたちがほとんど提示されないという、表象の偏りそのものである。

6.2 写りにくい人々

広告の公園の写真に写りにくい人々として、次のような例が挙げられる。子どものいない単身者や夫婦、一人で公園を訪れる高齢者、共働きで平日の日中は公園を利用できない世帯、ひとり親の家庭、車いすを利用する人や介助を必要とする人、外国にルーツをもつ家族などである。これらの人々が公園を利用していないわけではない。むしろ、街区公園のような徒歩圏の小さな公園は、年齢や家族構成を問わず誰もが立ち寄れる公共の場所として設計されている。にもかかわらず、広告が選び取る一枚の構図には、これらの人々が写る機会が体系的に少ない。これは広告表象特有の「選択と排除」の結果であり、公園という場所そのものの排他性を意味するものではない。

  • 単身者・子どものいない夫婦——「家族の物語」の主人公として想定されにくい
  • 一人で過ごす高齢者——「見守る祖父母」としては描かれても、単独の利用者としては描かれにくい
  • 共働きで平日日中に利用しにくい世帯——広告の撮影時間帯そのものが平日の日中に偏りやすい
  • 車いすを利用する人・介助を必要とする人——インクルーシブな遊具の紹介以外では登場しにくい
  • ひとり親の家庭・多様な家族のかたち——「両親そろった家族」が既定の構図になりやすい
標準の家族像写りにくい人単独の高齢者
図6広告の公園写真は特定の家族像を反復し、単身者・高齢者・車いす利用者などを画面の外に置きやすい。公園そのものが排他的なのではない。

6.3 年齢という別の軸——写る子どもの年齢層の偏り

ジェンダーや家族構成に加えて、写る子どもの年齢層にも一定の偏りが見られるとされる。広告に登場しやすいのは、よちよち歩きの幼児から、就学前後の年齢の子どもまでであり、走り回る、はしゃぐ、笑うといった動作を撮りやすい年齢層である。乳児期の赤ちゃんは抱っこや見守りの対象として登場することはあっても、公園で自ら遊ぶ主体としては描かれにくい。逆に、小学校高学年以降の子どもや、思春期にさしかかる年代の子どもは、公園の広告写真に登場する頻度が下がる傾向があるとされる。これは、公園という場所が「小さな子どもを連れて行く場所」という年齢的なイメージに結びつけられ、より年長の子どもが公園で過ごす時間——一人で、あるいは友人同士で訪れる時間——が、広告の構図のなかでは想定されにくいことを示している。

6.4 表象の偏りが生む二次的な効果

表象の偏りは、単に「誰かが写っていない」という一枚の写真の問題にとどまらない。ある構図が繰り返し「標準」として提示されると、見る者はその構図に自分自身を重ねられるかどうかによって、その場所を「自分のための場所」と感じるかどうかを左右されうる。写真のなかに自分と似た立場の人物を見出しにくい人にとって、公園という場所自体への心理的な距離感が生まれる可能性は否定できない。ただし、この心理的な効果の大きさや実際の利用行動への影響については、確立した定量的な知見を本稿は把握しておらず、一つの論点として提示するにとどめる。表象と実際の利用の関係は、次節でさらに検討する。

7. 反論への応答——「ただの美しい写真ではないか」

ここまでの議論に対しては、次のような反論が想定される。すなわち、広告の写真は単に美しい季節の一場面を選んで見せているだけであり、それ以上の社会的な意味づけを読み込むのは深読みにすぎない、という反論である。この反論には一定の妥当性がある。広告の制作者が、意図的にある家族像を「標準」として押しつけようとしているとは限らない。むしろ多くの場合、制作者は単に「見栄えのする一枚」を経験的に選んでいるにすぎず、その選択の背後にある反復のパターンを意識していないことも多いだろう。本節ではこの反論に応答する。

7.1 意図と効果は別の問題である

広告表象研究の立場からの第一の応答は、作り手の意図と、できあがった画像がもたらす効果とは別の問題だという点である。バルトの神話作用論が指摘したのは、まさにこの点であった。神話は誰かが意図的に企てる陰謀ではなく、無数の選択が積み重なった結果、あたかも自然な事実であるかのように定着していく過程である。したがって、一人ひとりの制作者に「特定の家族像を標準化しようとした」意図があったかどうかを問うことにはあまり意味がない。問うべきは、個々の意図とは独立に、業界全体の慣習として、どのような構図が繰り返し選ばれ、どのような構図が繰り返し選ばれずにきたか、という結果のパターンである。

7.2 デノテーションとコノテーションは切り離せない

第二の応答は、「ただ美しい写真を撮っているだけ」という主張自体が、デノテーション(写っているものをそのまま指す水準)とコノテーション(呼び起こされる意味)を切り離せるという前提に立っているが、バルトが示したように、実際にはこの二つは分離できないという点である。木漏れ日と芝生とベンチを選ぶという構図の選択そのものが、すでに「穏やかさ」「安らぎ」という意味づけを含んでいる。「ありのままの美しさを写しただけ」という言い方は、その構図がなぜ「美しい」と感じられるのかという、コノテーションの水準への問いを素通りしてしまっている。美しさの基準そのものが、すでに社会的に形成された価値観の産物なのである。

反論写真の選択見る側の解釈
図7「ただ美しいだけ」という反論は、構図の選択自体がすでに意味づけを含むという点、また作り手の意図と受け手への効果は別だという点で相対化できる。

7.3 批判の射程を限定する

同時に、この応答には限界も認めておく必要がある。広告表象の分析は、ある構図が何を強調し何を後景化しているかを明らかにするものであり、広告そのものを不当だと断罪するものではない。限られた紙面や画面のなかで暮らしの魅力を伝えようとする広告という営みそのものは、成立の当初から選択と圧縮を前提としており、あらゆる立場・あらゆる季節・あらゆる家族のかたちを一枚の写真に収めることは、そもそも不可能である。本稿が指摘したいのは、個々の広告の是非ではなく、業界全体として積み重なってきた選択のパターンが、公園という公共の場所についての社会的な想像力を、知らず知らずのうちに狭めている可能性があるという点である。

7.4 報道写真との対比から見えるもの

広告写真の性質は、報道写真と対比するといっそう明確になる。報道写真は、雨の日の避難の様子や、災害後の片づけの様子など、好ましくない場面も含めて記録することが役割の一部とされる。これに対して広告写真は、好ましい場面だけを選び取ることがジャンルとして許容されている、あるいはむしろ期待されている表現形式である。この違いを踏まえれば、「広告の公園写真がよい季節しか写さない」ことそれ自体は、広告というジャンルの約束事の範囲内であり、ジャンルの性質を無視して報道写真と同じ基準で評価することは適切でない。問題は、広告というジャンルの性質を理解したうえで、それでもなお、広告が積み重なることで社会の想像力にどのような偏りをもたらしうるか、という一段上の水準にある。

7.5 表象批判の目的

広告表象研究における批判の目的は、特定の広告を糾弾することではなく、当たり前だと思われてきた構図を意識化し、別の構図もありうることを見えるようにすることにある。緑と子どもと家族という組み合わせが唯一の「良い暮らし」の姿ではなく、無数にありうる組み合わせのなかの一つにすぎないと気づくことができれば、公園という場所についての想像力もまた広がりうる。この点を踏まえたうえで、次節では自治体広報と企業広告という、性質の異なる二つの語り口を比較する。

8. 自治体広報と企業広告の比較——定住促進というもう一つの語り

ここまで住宅広告を中心に検討してきたが、公園を用いた表象は、地方自治体の移住・定住促進の広報や、地域振興を目的とする広報にも広く見られる。両者は緑と子どもと家族という同じ視覚的要素を用いながら、語りの構造には違いがある。本節ではこの違いを整理する。

8.1 対象の違い——一戸の住まいか、地域全体か

企業の広告における公園の表象は、最終的に特定の住宅や宅地という、購入・入居の対象へと見る者を導くことを目的とする。公園はその住まいの近さを演出する要素として、住まいという主役を引き立てる脇役の位置に置かれる。これに対して自治体の定住促進広報における公園の表象は、特定の住まいではなく、地域社会全体、あるいは「この土地で暮らすこと」そのものへと見る者を導く。公園は脇役ではなく、その地域の暮らしやすさを代表する主役級の要素として扱われることが多い。同じ緑の広場の写真でも、それが何への入口として配置されているかによって、記号としての役割は異なる。

8.2 語り口の違い——個人の物語か、統計的な安心か

企業広告は、特定の一組の家族の一日を物語として描く傾向が強く、見る者にその物語への感情移入を促す。これに対して自治体広報は、個人の物語に加えて、公園の数や緑地の広さといった、地域全体の指標を言葉として添える傾向がある。ただし、こうした指標を用いる場合でも、具体的な数値は根拠を示せるものに限られるべきであり、確認できない数字を印象操作のために用いることは避けなければならない。国土交通省の指針や都市公園法施行令に明記された誘致距離や標準面積のような、公的に確認できる基準に基づく記述と、単なる印象を強めるための修飾語とは、区別して読む必要がある。

観点企業広告(住宅・宅地)自治体の定住促進広報
対象特定の住まい・分譲地地域全体・暮らし方
公園の役割住まいを引き立てる脇役地域を代表する主役級の要素
語りの単位一組の家族の物語個人の物語と地域指標の併用
想定される行動購入・入居の検討移住・定住の検討
自治体広報地域の語り住まいの語り
図8企業広告は住まいを引き立てる脇役として公園を配置し、自治体広報は地域全体を代表する要素として公園を配置する。

8.3 共通する技法と共通する限界

対象や語りの単位は異なっても、緑と子どもと家族を組み合わせ、季節を穏やかな時期に限定し、木漏れ日とベンチを配置するという視覚的な技法そのものは、企業広告と自治体広報のあいだで驚くほど共通している。これは、両者が同じ広告というジャンルの慣習を共有しているためであり、送り手の立場が異なっても、受け手に届く記号のかたちは似通ったものになる。したがって、第6節で検討した「写りにくい人々」の問題は、企業広告に限らず、自治体の広報においても等しく検討されるべき論点である。

8.4 写らないもう一つの理由——子どものプライバシーへの配慮

広告表象に特定の家族像が繰り返される一方で、近年は子どもの写真の扱いそのものに慎重さが求められるようになっている。SNSの普及とともに、他人の子どもをむやみに撮影・掲載しないという配慮が広く意識されるようになり、公園によっては、他の利用者への配慮から撮影を控えるよう求める案内が置かれることもある。広告に登場する子どもの写真は、モデルとしての契約や保護者の同意のもとで撮影されたものであり、この点は、実際に公園を訪れた際に他の利用者の子どもを写さないという配慮とは、性質の異なる話である。しかし、広告のなかで無邪気に走り回る子どもの姿を見慣れているぶん、実際の公園でカメラを向けることへの配慮の必要性が見えにくくなる、という逆説が生じうる可能性はある。広告表象と、実際の公園での振る舞いの規範とは、区別して理解される必要がある。

8.5 広報という語りの公共性

自治体広報は税を財源とし、地域住民全体に向けて発信されるという点で、企業広告とは異なる公共性を帯びている。それゆえ、自治体の広報においては、特定の家族像だけを標準として繰り返すことの影響を、企業広告以上に慎重に考える余地がある。もっとも、本稿はどの自治体のどの広報物が望ましいかを個別に評価する立場にはなく、あくまで広告表象一般に共通する技法と、その技法が公共的な発信において帯びうる意味を、理論的に指摘するにとどめる。

9. 写真論からの補助線——バージャーとパッカードが示すもの

ここまで記号論を軸に検討してきたが、広告表象研究にはもう二つ、公園の表象を考えるうえで有効な古典がある。美術批評家ジョン・バージャーの『イメージ——視覚とコミュニケーション』(1972)と、ジャーナリストのヴァンス・パッカードによる『かくれた説得者たち』(1957)である。両者は記号論の専門用語こそ用いないが、広告という表現がなぜ強い訴求力をもつのかを、それぞれ異なる角度から論じている。

9.1 バージャーの「グラマー」論

バージャーは、広告写真——彼は「パブリシティ」と呼ぶ——の核心を「グラマー」という感情にあると論じた。グラマーとは、単なる魅力ではなく、「これを手に入れれば、写真のなかの人物のように他人から羨ましがられる自分になれる」という未来の自分への期待、いわば「羨望される自分」を先取りして想像する感情である。バージャーによれば、広告写真に写る人物は、見る者自身の未来の姿として提示され、見る者はその写真に写る幸福を「まだ手にしていないが、手に入れれば手にできるもの」として眺める。この枠組みを公園の広告写真に当てはめると、緑の広場で笑う家族は、見る者にとっての「まだ実現していない、しかし手が届くかもしれない自分たちの姿」として機能していることになる。広告のなかの公園は、今そこにある場所というより、見る者の想像上の未来に置かれた場所なのである。

9.2 パッカードと動機調査——なぜその構図が選ばれるのか

パッカードは1957年の『かくれた説得者たち』で、当時のアメリカの広告産業が、消費者自身も意識していない欲求や不安——たとえば孤独への不安、地位への欲求、家族への愛着——を心理学的な調査によって探り出し、それに訴えかける広告を作っていた実態を報告した。パッカードの報告は特定の時代・特定の業界慣行についての記述であり、そのまま現代のあらゆる広告に当てはまるものではない。しかし、広告における構図の選択が、単なる美的な好みではなく、見る者の感情や欲求に照らして経験的に磨き上げられてきた技術であるという指摘は、公園の広告表象を考えるうえでも示唆的である。緑と子どもと家族という組み合わせが繰り返し選ばれてきたのは、それが偶然に美しいからではなく、多くの見る者の感情に訴えかける組み合わせとして、広告制作の歴史のなかで経験的に選び抜かれてきた結果だと理解できる。

未来の自分羨望という感情選び抜かれた構図
図9バージャーは広告写真が見る者の未来の姿を先取りして見せると論じ、パッカードは構図の選択が経験的に磨かれた技術であることを示した。

9.3 二つの視点を公園表象に接続する

バージャーとパッカードの視点を重ねると、公園の広告表象は次のように理解できる。緑と子どもと家族という構図は、見る者の「こうありたい」という未来像への欲求に訴えかける形で選び抜かれ、その構図が繰り返し成功を収めてきたために、業界全体の慣習として定着した。この理解は、第2節で整理したバルトの神話作用論やウィリアムソンの参照体系論とも矛盾しない。むしろ、記号論が「意味がどう作られるか」という構造を説明するのに対し、バージャーとパッカードは「なぜその構造が見る者に強く働きかけるのか」という感情面の理由を補う。両者を合わせて読むことで、公園という記号がなぜこれほど広告に繰り返し用いられてきたのかを、より立体的に理解できる。

ただし、パッカードの報告する動機調査という手法自体は、消費者の心理を操作の対象として扱う側面をもち、その是非は広告倫理の観点から議論されてきた論点である。本稿はこの倫理的な当否を判定する立場にはなく、あくまで広告表象がなぜ効果的に働くかを理解するための補助線として、パッカードの報告を参照するにとどめる。

9.4 補助線を踏まえた本稿の位置づけ

バージャーとパッカードの議論を導入したことで、本稿の立場をあらためて確認しておきたい。本稿は、広告のなかの公園表象を、送り手の悪意や消費者の愚かさに帰着させる立場を取らない。むしろ、広告という表現形式が、限られた紙面と一瞬の視線のなかで暮らしの魅力を伝えるという課題に対し、記号論的な技法と心理的な訴求力を組み合わせて経験的に磨き上げてきた、一つの技術体系として広告表象を理解する立場である。そのうえで、この技術体系が結果として何を反復し、何を後景化してきたかを問うことが、本稿の一貫した課題である。次節では、これらの理論的検討を踏まえ、磐田市の公園に即して表象と現実の隔たりを具体的に考える。

10. 磐田市の公園への示唆——表象と現実の隔たりを測る手がかり

以上の検討を、磐田市の公園に即して具体的に考えてみたい。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の都市公園100園を収録するデータベースであり、市のオープンデータ「都市公園一覧」と市施設ガイドを突合して整理している。ここまで論じてきた「緑豊かな環境」という広告の言葉に対し、磐田市の公園の実際の構成を並べてみると、広告表象がいかに多様な現実を単一の像へと圧縮しているかが見えてくる。

10.1 「公園」という言葉が指す幅の広さ

磐田市の都市公園100園は、都市公園法上の種別で見ると、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、および法対象外の6園に分かれる。街区公園の国の目安は面積0.25ha・誘致距離250mであるのに対し、総合公園は10〜50haとされ、両者の規模の差は数十倍から数百倍にのぼる。面積で見ても、もっとも広い竜洋海洋公園(総合公園・竜洋)が221,722㎡であるのに対し、もっとも小さい二之宮東第2緑地(都市緑地・中泉)は17㎡であり、同じ「公園」という言葉で括られる場所の幅は極めて広い。広告における「緑豊かな公園」という一枚の像は、この幅広い現実のなかから、写真映えする一部の姿だけを取り出したものにすぎない。

10.2 広告の理想像に近い園、遠い園

当サイトのデータのなかには、広告に描かれる理想像に比較的近い設備をもつ園もある。たとえば今之浦公園(近隣公園・見付)は、市施設ガイドの記載によれば屋根付広場・複合遊具・ふわふわ遊具・噴水広場・芝生広場・3歳未満児遊具・健康遊具・じゃぶじゃぶスポットなどを備え、広告写真が好んで描く「芝生」「水遊び」「小さな子ども向けの遊具」といった要素をあわせもつ。中央公園(地区公園・中泉)も41,642㎡の敷地に多目的グラウンド、ブランコ、滑り台、ジャングルジム、鉄棒、砂場、トイレを備え、駐車場の記載もある。一方で、谷口公園(街区公園・御厨)のように、市施設ガイドの記載がトイレのみで駐車場の記載がない園、あるいは市施設ガイドに個別ページ自体がない園も少なくない。広告的な「絵になる公園」と、日常の徒歩圏にある実際の公園の多くとのあいだには、設備の面ですでに隔たりがある。

公園100園9地区種別と規模の幅
図10磐田市の都市公園100園は、街区公園51園から総合公園まで規模も設備も幅広い。広告の一枚の像はこの幅の一部を切り取ったものにすぎない。

10.3 インクルーシブな設計と「写りにくい人々」

第6節で検討した「写りにくい人々」という論点は、磐田市の公園データにも手がかりがある。安久路公園(地区公園・御厨)は、市施設ガイドの記載によればインクルーシブエリアのある複合遊具、インクルーシブアイテムのあるブランコを備えており、車いす対応トイレの記載もある。当サイトのデータ全体では、車いす対応トイレの記載がある園は100園中34園、トイレの記載がある園は69園である。こうした設備は、広告の定番の構図——歩く子どもと見守る保護者——には収まりにくい利用者にとっての基盤であり、広告表象が写しにくいものこそ、実際の公園整備においては重要な論点でありうる。ただし、これらの設備が実際にどう使われているか、当サイトはまだ踏査によって確かめていない。

10.4 地区ごとの偏りという、広告には現れない事実

磐田市は見付・中泉・御厨・豊田・南部・向陽・竜洋・福田・豊岡の9地区に分かれ、園数は豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園と、地区によって大きく異なる。広告表象は特定の一枚の写真を提示するにとどまり、こうした地区ごとの分布の違いを示すことはない。ある地域に住む人にとって「歩いて行ける公園」がどれだけの選択肢をもつかは、広告の一枚の理想像とは別に、居住地の地区によって現実には大きく異なりうるという点は、広告表象を読むうえで踏まえておくべき事実である。

10.5 踏査によって確かめるべきこと

当サイトの現地踏査は2026年8月時点でまだ始まっておらず、木陰の実際の量、芝生の手入れの状態、ベンチの配置、季節ごとの利用の様子といった、広告表象が理想化して描く要素の実際の姿は、いずれも今後の踏査で確かめるべき課題として残されている。本節で述べた内容は、あくまで市のオープンデータと施設ガイドという文献上の情報に基づく整理であり、広告の理想像と磐田市の公園の実際の姿とのあいだにどの程度の隔たりがあるかを最終的に判断するには、この踏査を待つ必要がある。

11. 結論と今後の課題

本稿は、住宅広告・自治体の定住促進広報・企業広告にくり返し現れる「緑豊かな環境」という言葉と、それに添えられる公園の視覚表象を、記号論と広告表象研究の視点から検討してきた。ソシュールの記号論の基礎に立ち、バルトの神話作用論とイメージの修辞学、ウィリアムソンの参照体系論、ウィリアムズの魔術のシステム論、ゴッフマンのジェンダー広告論、そしてバージャーの広告のグラマー論とパッカードの動機調査論という七つの古典的な枠組みを手がかりに、公園という記号がどのように意味を担わされ、反復され、誰かを画面の中心に置き、誰かを画面の外に置いてきたかを整理した。

11.1 明らかになったこと

第一に、公園の広告表象は、緑・子ども・家族という要素を近接によって組み合わせ、換喩的に暮らし全体を代表させる技法によって成り立っていることを確認した。第二に、木漏れ日・芝生・ベンチという視覚的常套句が、図像学的な型として反復され、季節も「常によい季節」に限定されることで、実際の公園がもつ多様な姿——暑さ、落ち葉、冬枯れ、雨や風の日——を体系的に見えにくくしていることを示した。第三に、この反復的な表象が、特定の家族像を暗黙の標準として提示し、単身者・高齢者・共働き世帯・障害のある人などを画面の外に置きやすいという偏りをもつことを、ゴッフマンとフリーダンの議論を手がかりに検討した。第四に、企業広告と自治体広報が、対象と語りの単位を異にしながらも、共通の視覚的技法を用いていることを比較によって示した。

11.2 表象と現実の循環

本稿を通じて浮かび上がるのは、広告表象と公園に対する社会の期待とのあいだの循環的な関係である。広告が緑と子どもと家族という組み合わせを繰り返し提示することで、見る者のなかに「良い公園とはこういうものだ」という期待が形成される。その期待は、公園の整備や利用のあり方に影響を与えうると同時に、次の広告がふたたび同じ組み合わせを選ぶ根拠にもなる。この循環のどこかを断ち切ることは容易ではないが、少なくとも、この循環が存在すること自体を意識化することは、広告を批判的に読む力の第一歩になるだろう。

理論の整理今後の課題表象の層
図11五つの古典的な枠組みから公園の広告表象を層として読み解いてきた。表象と現実の隔たりを測る作業はここから始まる。

11.3 今後の課題

本稿には限界がある。第一に、本稿は特定の広告作品を実際に収集して分析する事例研究ではなく、広告表象研究の分野で指摘されてきた図像の型を理論的に整理したものにとどまる。個別の住宅広告や自治体広報を対象とした実証的な内容分析は、今後の課題として残る。第二に、表象が実際の公園利用行動にどの程度影響するかという、認知や行動レベルでの検証は、本稿の文献整理と概念分析という方法の範囲を超えており、心理学や行動科学の知見を借りた今後の検討が必要である。第三に、磐田市の公園について本稿が述べた内容は、市のオープンデータと施設ガイドという文献情報にもとづくものであり、木陰の量、芝生の状態、実際の利用の様子といった、広告表象と対比すべき現実の姿は、当サイトの今後の踏査によって確かめられるべきものである。

最後に、本稿の意図をあらためて確認しておきたい。本稿は特定の広告や事業者を批判することを目的とするものではなく、また当サイトの運営にかかわる主張を行うものでもない。目的はあくまで、公園という公共の場所が、言葉と写真によってどのように意味づけられ、その意味づけが誰の姿を映し、誰の姿を映さずにきたかを、記号論という道具立てを用いて可視化することにある。この可視化が、磐田市をはじめとする地域の公園を、広告の一枚の理想像としてではなく、多様な人が多様な時間に訪れる、幅の広い現実の場所として見直すための一助となることを期待したい。

本稿で整理した記号論と広告表象研究の枠組みは、公園という対象に限らず、住まいや地域そのものの語られ方一般にも広く応用しうるものである。緑と子どもと家族という組み合わせがなぜこれほど強く反復されてきたのかを理解することは、その組み合わせを否定することではなく、その組み合わせが唯一の正解ではないことに気づき、公園という場所についての語り方の選択肢を広げていく作業の出発点である。当サイトが今後の踏査を積み重ねるなかで、広告の理想像には収まりきらない、磐田市の公園の具体的な姿がどのように記述されていくのか、その記述のあり方自体が、本稿で論じた表象の問題への一つの応答になりうるだろう。

参考文献

  1. フェルディナン・ド・ソシュール(1916)『一般言語学講義(Cours de linguistique générale)』(バイイ、セシュエ編)
  2. ロラン・バルト(1957)『神話作用(Mythologies)』(Éditions du Seuil)
  3. ロラン・バルト(1964)「イメージの修辞学(Rhétorique de l'image)」(雑誌『コミュニカシオン(Communications)』4号)
  4. ジュディス・ウィリアムソン(1978)『広告の記号論(Decoding Advertisements: Ideology and Meaning in Advertising)』(Marion Boyars)
  5. レイモンド・ウィリアムズ(1980)「広告——魔術のシステム(Advertising: The Magic System)」(『Problems in Materialism and Culture』所収、Verso)
  6. ジョン・バージャー(1972)『イメージ——視覚とコミュニケーション(Ways of Seeing)』(BBC and Penguin Books)
  7. ヴァンス・パッカード(1957)『かくれた説得者たち(The Hidden Persuaders)』(David McKay Company)
  8. アーヴィング・ゴッフマン(1979)『ジェンダー・アドバタイズメンツ(Gender Advertisements)』(Harvard University Press)
  9. ベティ・フリーダン(1963)『新しい女性の創造(The Feminine Mystique)』(W. W. Norton & Company)
  10. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
  11. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  12. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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