社会科学ジェンダー研究

公園の時間割とジェンダー——利用者構成が語る性別役割分業と公共空間

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:ジェンダー研究 公開・更新 2026-08-17 本文 約21,491字 読了目安 39分

要旨

同じ公園でも、平日の午前と休日の午後ではそこにいる人の顔ぶれが違う。本稿は、この「公園の時間割」を単なる生活リズムの反映としてではなく、誰が稼ぎ、誰がケアを担うかという性別役割分業が公共空間に描き出した地図として読み直すことを試みる。方法は文献整理と概念分析、および磐田市の公園データベース(ATAWI PARK)が収録する100園の事実への参照である。時間帯別の利用者構成についての実測は含まず、観察の枠組みを提示することを目的とする。

第一に、フェミニスト地理学が示してきた「空間はジェンダー化されている」という視点(マッシー、ハイデン、ヴァレンタイン)と時間地理学の制約概念(ハーグストランド)を手がかりに、平日昼・夕方・休日という三つの時間帯の利用者像を、選好ではなく制約の産物として読む。第二に、児童公園の制度史と家族の戦後体制を重ねることで、公園が暗黙のうちに「母の場所」として形づくられてきた経緯を検討し、公園での見守りが不可視のケア労働として供給されている構造を論じる。第三に、トイレ、授乳とおむつ替え、照明と見通しといった設計要素が、利用できる人と時間帯を選別している点をジェンダー配慮の観点から整理し、父親の育児参加が公園の風景に何をもたらし、何をまだ変えていないかを問う。

結論として、公園の時間割は性別役割分業の変化を映す観察可能な指標であり、平日の日中に父親が「珍しくなくなる」ことや、思春期の女子が公園から退かないことが、公共空間のジェンダー配慮の進み具合を測る手がかりになると論じる。磐田市については、街区公園51園という徒歩圏の厚み、トイレ有69園と車いす対応トイレ有34園、駐車場33園という設備の分布を時間割の観点から読み直し、今後の踏査で記録すべき項目を提案する。

キーワード性別役割分業フェミニスト地理学公園の時間割ケア労働父親の育児参加ジェンダー配慮の設計街区公園

1. はじめに——問題の所在

同じ公園でも、平日の午前と休日の午後では、そこにいる人の顔ぶれが違う。平日の日中には乳幼児を連れた母親と祖父母が目立ち、夕方には学齢期の子どもが群れ、休日には父親を含む家族連れが増える——こうした「公園の時間割」は、多くの人が経験的に知っている光景である。本稿は、この時間割を単なる生活リズムの反映としてではなく、性別役割分業(誰が稼ぎ、誰がケアを担うかについての社会的な取り決め)が公共空間に描き出した地図として読み直すことを試みる。

ジェンダー研究は、性別に結びつけられた役割や意味づけが「自然」ではなく社会的に作られていることを明らかにしてきた学問領域である。その一分野であるフェミニスト地理学は、空間もまた中立ではなく、性別による役割分担や権力関係を反映し、同時にそれを再生産していると論じてきた。都市公園はその格好の観察対象である。公園は誰にでも開かれた公共空間でありながら、実際に「いつ・誰が・どのように」使うかは、家庭内の分業や労働時間の配分によって強く規定されているからである。

ここで用語を確認しておく。「ジェンダー」とは、生物学的な性別(セックス)と区別して、社会的・文化的に構築された性別のあり方を指す語である。「性別役割分業」とは、男性が家庭の外で稼得労働を担い、女性が家庭内で家事・育児・介護といったケア労働を担うという役割の割り振りを指す。この分業は法律で定められたものではないが、労働時間の配分や家事育児時間の偏りとして繰り返し観察されてきたことが、総務省統計局の社会生活基本調査や内閣府の男女共同参画白書で示されてきた。本稿はその具体的な数値には立ち入らず、分業が「時間の使い方の差」として現れ、その差が公園という場所に「誰がいるか」の差として可視化されるという構造に注目する。

「時間割」という比喩を用いるのは、公園の利用が学校の時間割のように、外から与えられた枠に沿って組み立てられていることを強調するためである。人は好きなときに公園へ行くのではなく、稼得労働、学校、保育、家事の合間に残された時間に行く。その「残された時間」が誰にどれだけあるかは、性別によって系統的に異なってきた。時間割という語には、この外在的な枠と、その枠が個人の選択に見えてしまう構造の両方が含まれている。

本稿の問いは三つある。第一に、公園の時間帯ごとの利用者構成は、性別役割分業とどのように結びついているのか。第二に、公園の設計——トイレ、授乳やおむつ替えの場所、照明、見通し——は、ジェンダーの観点から見てどのような含意をもつのか。第三に、父親の育児参加の変化は公園の風景をどう変えつつあり、何がまだ変わっていないのか。これらの問いに答えるために、本稿は特定の統計値を断定的に示すのではなく、視点と論点を整理することを目的とする。

方法は文献整理と概念分析、そして事例参照である。ジェンダー研究とフェミニスト地理学の古典的な議論を手がかりに、都市公園という具体的な場所に概念を適用し、予想される反論を検討したうえで、磐田市の公園データベースである当サイト(ATAWI PARK)が収録する100園の事実に照らして示唆を導く。なお当サイトの現地踏査はこれからであり、時間帯別の利用者構成についての実測は本稿には含まれない。本稿はあくまで「観察の枠組み」を提示するものであり、磐田市の公園でどの時間帯に誰がいるかは、今後の踏査で確かめるべき経験的な問いとして残しておく。

時間帯平日の保護者休日の家族夕方
図1平日昼・夕方・休日で公園にいる人の顔ぶれが変わる。その「時間割」を性別役割分業の地図として読むのが本稿の出発点である。

本稿が想定する読者は、磐田市周辺で子育てをしている人、公園を管理し計画する行政の担当者、地域の関係者、そして学生である。子育て中の読者にとっては、自分がいつ公園に行けるか、行けないかという日常の実感を、社会の仕組みの中に位置づけ直す助けになればと考える。行政や地域の関係者にとっては、設計と運営の判断にジェンダーの視点を組み込むための論点整理として読んでいただきたい。ジェンダーの視点は、女性のためだけのものではない。父親が平日に公園へ行きにくいこと、男性トイレにおむつ替え台がないこと、祖母に見守りが集中することも、同じ視点から見えてくる問題である。

構成は次のとおりである。第2節で先行研究と主要概念を整理し、第3節で公園の時間割を三つの時間帯に分けて読む。第4節では公園が「母の場所」として形づくられた制度史を、第5節ではケアという見えない仕事の観点から公園での見守りを検討する。第6節は設計とジェンダー配慮、第7節は父親の育児参加を扱い、第8節で予想される反論に応答し、他の公共空間との比較を行う。第9節で磐田市の公園への示唆を述べ、第10節で結論と今後の課題をまとめる。

2. 先行研究と概念の整理

本節では、公園の時間割を読むために必要な概念を四つの系譜から取り出す。第一にジェンダー研究の基礎にある性別役割分業と公私二元論の議論、第二にフェミニスト地理学の「空間はジェンダー化されている」という視点、第三に時間地理学の制約概念、第四に家族社会学によるケア労働の分析である。いずれも広く知られた古典に限って参照し、著者と年を明示する。

2.1 性別役割分業と公私二元論

近代社会は、政治や労働市場からなる「公的領域」と、家庭という「私的領域」を切り分け、前者を男性に、後者を女性に割り当ててきた。ボーヴォワールは『第二の性』(1949)で「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と述べ、女性の役割が生物学的宿命ではなく社会的に形成されるものであることを示した。上野千鶴子『家父長制と資本制』(1990)は、家庭内の無償労働(家事・育児)が市場の外に置かれることで、稼得労働との非対称な関係が維持される仕組みを論じている。この枠組みで見ると、公園は「私的領域の延長」として使われる公共空間という、境界上の存在である。家庭のケアが家の外に出て行われる場所であるがゆえに、公園には私的領域の分業がそのまま持ち込まれる。

2.2 フェミニスト地理学——空間はジェンダー化されている

地理学の内部で、空間を性別中立なものとみなす前提を批判したのがフェミニスト地理学である。ドリーン・マッシーは『Space, Place and Gender』(1994)で、空間は社会関係の産物であり、場所は固定したアイデンティティをもつ容器ではなく、多様な関係が交差する結び目であると論じた。マッシーにとって、ある場所が「誰のものか」は、そこで交わされる関係の束によって絶えず作り直されている。公園に当てはめれば、公園の意味は設計図によって一度に決まるのではなく、どの時間帯に誰が来て何をするかの積み重ねによって作られる。

ドロレス・ハイデンは「非性差別的な都市はどのようなものか」(1980)と『家事大革命』(1981)で、アメリカの郊外住宅地が「働きに出る夫と家にいる妻」というモデルを前提に設計され、その空間配置が女性の役割を固定してきたことを歴史的に示した。ジル・ヴァレンタイン「女性の恐怖の地理」(1989)は、女性が特定の空間を特定の時間帯に避けるという行動を分析し、恐怖が空間の利用に時間的な境界線を引くことを明らかにした。近年ではレスリー・カーン『フェミニスト・シティ』(2020)が、母親として都市を歩く経験から、ベビーカー、トイレ、休む場所といった具体的な要素が誰を都市の主役として想定しているかを問い直している。

2.3 時間地理学と三つの制約

トルステン・ハーグストランドは「地域科学において人間はどこにいるのか」(1970)で、人の行動を時間と空間の経路として描く時間地理学を提唱し、人が行ける場所を限定する三つの制約を挙げた。睡眠や移動速度など身体に由来する「能力の制約」、他者や道具と同じ時と場所に居合わせる必要から生じる「結合の制約」、そして立入りや利用の可否を定める規則に由来する「権威の制約」である。公園に行けるかどうかは、この三つの制約の交点で決まる。稼得労働の時間帯に職場に「結合」されている人は、その時間に公園にはいられない。時間割はまず制約の産物である。

2.4 家族社会学とケア労働

アン・オークレー『家事の社会学』(1974)は家事を労働として分析する先駆となり、アーリー・ホックシールド『セカンド・シフト』(1989)は共働き世帯において女性が職場から帰った後に「第二の勤務」として家事育児を担う構造を描いた。同じくホックシールドの『管理される心』(1983)は、感情を整えることが労働として要求される「感情労働」の概念を示した。日本については、落合恵美子『21世紀家族へ』(1994)が、高度成長期に成立した「家族の戦後体制」——主婦化、少子化、人口学的な移行期世代の厚み——を整理している。公園での見守りは、この文脈で言えば家事でも感情労働でもある。

概念主な提唱者・年公園の時間割への含意
公私二元論・性別役割分業ボーヴォワール1949、上野1990公園は私的なケアが公共空間で行われる境界上の場所
空間のジェンダー化マッシー1994、ハイデン1980・1981公園の意味は利用の積み重ねと設計思想の両方で作られる
恐怖の地理ヴァレンタイン1989利用できる時間帯が性別によって縮む
時間地理学の制約ハーグストランド1970時間割は選好ではなく制約の産物
セカンド・シフト・感情労働ホックシールド1989・1983見守りは労働であり、多くは無償で不可視
家族の戦後体制落合1994児童公園が想定した「主婦が見守る子ども」の歴史性
古典の系譜空間の性別化時間の制約家庭の延長
図2四つの系譜——公私二元論、フェミニスト地理学、時間地理学、家族社会学——から、公園の時間割を読む道具を取り出す。

これらの概念は互いに補い合う。公私二元論は「なぜ女性が公園にいるのか」の制度的背景を、フェミニスト地理学は「その結果として空間がどう意味づけられるか」を、時間地理学は「誰がいつ来られるか」の機構を、家族社会学は「そこで何が労働として行われているか」を説明する。次節以降では、これらを順に公園の時間割に当てはめていく。

3. 公園の時間割——平日昼・夕方・休日をどう読むか

本節では、経験的に知られている公園の光景を平日の日中、夕方、休日の三つの時間帯に区分し、それぞれの利用者像がどのような制度と規範に支えられているかを読む。ここで述べる利用者像は「多くの人が見てきた典型」であって、統計的に確かめられた比率ではない。地域や季節、個々の公園によって当然ばらつきがあり、磐田市の公園について言えることは今後の踏査を待たねばならない。重要なのは、時間帯ごとの顔ぶれの違いを「そういうものだ」で済ませず、その背後にある仕組みを言葉にすることである。

3.1 平日の日中——稼得労働の時間帯に公園にいられる人

平日の午前から昼過ぎにかけて公園にいるのは、乳幼児とその保護者、そして祖父母世代が中心である。この時間帯は多くの職場で稼得労働が行われている時間帯であり、ハーグストランドの言う「結合の制約」によって職場に縛られている人は、ここにいることができない。したがって平日昼の公園にいる保護者は、育児休業中であるか、稼得労働に就いていないか、短時間や不規則な就労をしているかのいずれかである。誰がこの条件に当てはまりやすいかは、家庭内でどちらがケアを引き受けているかに直結する。平日昼の公園に母親が目立つという光景は、稼得労働とケア労働の割り振りが性別に偏っていることの、もっとも直接的な空間的表現である。

この時間帯には、公園が「乳幼児と保護者の場所」として意味づけられ、遊具の使い方、声の大きさ、他の親との距離感といった暗黙のルールもその利用者像に合わせて形成される。マッシーの言葉を借りれば、公園の「場所らしさ」はこの時間帯の関係の束によって作られていく。その結果、時間帯の外から来る人——たとえば平日昼に一人で来た男性——は、同じ公共空間にいながら「場違い」と感じられることがある。これは後の第7節で扱う父親の問題につながる。

3.2 夕方——学齢期の子どもと「迎え」の時間

学校が終わる午後から日没までは、学齢期の子どもたちが保護者を伴わずに集まる時間帯である。ここでは子ども自身がジェンダー化された遊びの配置を作る。ボール遊びの中心を占める集団と、その周縁でおしゃべりや別の遊びをする集団に分かれるという観察は古くからあり、思春期に近づくにつれて女子が公園から退いていく傾向があるとされてきた。この観察は第6節で触れる海外の公園再設計の出発点にもなっている。

同じ夕方には、保育園や幼稚園の帰りに立ち寄る親子も現れる。ここで問うべきは「迎えに来るのは誰か」である。夕方の迎えとそのあとの公園への立ち寄りは、退勤時刻を早める必要のある側が引き受ける。どちらの親が短時間勤務や時間休を使うかは、家庭内の分業と職場の性別化された期待の両方に規定される。夕方の公園の顔ぶれもまた、分業の刻印なのである。日が短い季節には、この時間帯は照明と見通しの問題に直結する。

3.3 休日——父親の登場と「家族の時間」

土日や祝日には、家族単位での利用が増え、父親の姿が目立つようになる。休日は稼得労働の制約が緩む時間帯であり、平日には公園に来られなかった側が来られるようになる。ここで注意したいのは、休日に父親が公園にいることが、それだけでは分業の変化を意味しないという点である。父親が子どもを公園に連れ出している間、母親が家で家事を片づけているという「分業の再編」の可能性があるからである。休日の公園に父親がいることと、平日の公園に父親がいることは、意味が異なる。前者は分業の枠内で起こりうるが、後者は枠そのものの変化を示唆する。

註:本節の時間帯区分は、季節や天候によってずれる。夏季には暑さ指数の高い日中を避けて朝や夕方に利用が移るとされ、冬季には日没が早まることで夕方の時間帯そのものが短くなる。雨の日には屋外の公園から屋内の施設へ利用が移る。したがって時間割の観察は、一日の中だけでなく季節を跨いで行う必要があり、季節による変化がどの性別・年齢層に強く現れるかもまた、分業を読むための手がかりになる。

時間帯経験的に語られる主な利用者像背後にある制度・規範観察で確かめるべき問い
平日の日中乳幼児と保護者(母親が目立つ)、祖父母稼得労働の時間帯・育児休業・就労形態の性別差保護者の性別と同伴関係、滞在時間
夕方学齢期の子ども、園帰りの親子学校の時間割・退勤時刻・迎えの分担子どもの遊びの配置、迎えの保護者の性別
休日家族連れ、父親の同伴が増える休日の労働免除・家族の時間という規範父親のみの同伴か両親か、平日との差
平日の日中夕方休日子ども
図3三つの時間帯は、それぞれ異なる制度——稼得労働の時間帯、学校の時間割と迎えの分担、休日の規範——に支えられている。

時間地理学の枠組みで整理すると、公園の時間割は個人の好みの集計ではなく、稼得労働・学校・保育という他の制度の時間割の「余り」として決まっている。公園に行きたいかどうかではなく、公園に行ける時間が誰に残されているかが顔ぶれを決める。この見方は、行政や地域が公園の利用を促そうとするときに重要な含意をもつ。公園そのものを整備しても、時間の制約が変わらなければ利用者構成は変わらない。逆に言えば、公園の時間割が変わったとき、それは社会の分業が変わったことの証拠として読める。

4. 公園はなぜ「母の場所」になったか——児童公園とケアの空間化

前節で見た平日昼の光景は、偶然の産物ではない。本節では、日本の身近な公園が制度としてどのように設計され、その設計思想がどのような家族像を前提としていたかをたどる。ここでの主張は、公園に「女性用」と書かれたことは一度もないが、誘致距離と対象年齢という中立に見える設計基準が、家族の戦後体制と重なることで、公園を暗黙のうちに「母の場所」として形づくってきた、というものである。

4.1 児童公園という制度

都市公園法(昭和31年法律第79号)は1956年に制定され、その施行令で公園の種別と規模の標準が定められた。もっとも身近な種別はかつて「児童公園」と呼ばれ、主として児童の利用に供することを目的として、標準面積0.25ヘクタール、誘致距離250メートルを目安に住宅地の中に配置された。この種別は1993年の施行令改正で「街区公園」と改称され、対象は児童に限らず街区の住民全般とされた。しかし全国の街区公園の多くは児童公園として整備されたストックであり、遊具と砂場を中心とする構成にその出自が残っている。磐田市の場合も、100園のうち51園が街区公園である。

誘致距離250メートルという数字は、幼い子どもが歩いて行ける距離、言い換えれば家庭の生活圏の延長として公園を位置づけていることを意味する。ここには「幼い子どもは大人に見守られて遊ぶ」という前提があり、その大人が誰であるかは明示されていない。だが制度が整備された時代の家族像を重ねると、見守る大人として想定されていたのが誰かは自ずと浮かび上がる。

註:児童公園から街区公園への改称は、法制度が「子どもの遊び場」から「街区の住民全般の場」へと目的を広げたことを意味する。しかし改称によって既存の公園の遊具や配置が変わるわけではなく、利用者側の慣習も変わらない。制度の変化と空間の変化、そして利用の変化は、それぞれ異なる速さで進む。公園の時間割を読むときには、この三つの層の時間差を意識する必要がある。

4.2 家族の戦後体制と主婦化

落合恵美子は『21世紀家族へ』(1994)で、日本の高度成長期に「家族の戦後体制」が成立したと論じた。その特徴は、女性の主婦化、子ども数の少数化、そして人口学的な移行期に生まれた厚い世代が家族を形成したことである。夫が外で働き妻が家庭を守るという核家族が「標準」とみなされ、団地や郊外住宅地はこの家族像に合わせて建設された。児童公園はまさにこの時代に住宅地とセットで整備されていった。ハイデンがアメリカ郊外について示したのと同じ構図——住宅地の空間配置が「家にいる妻」を前提として設計され、その配置が女性の役割を固定する——が、日本の住宅地と児童公園にも見出せる。

ここで注意したいのは、児童公園の設計者が女性を家庭に閉じ込めようと意図したわけではないという点である。ハイデンの分析でも、郊外の設計者はむしろ「主婦の便宜」を図ったつもりであった。しかし「誰の便宜を図るか」という想定そのものが役割分業を前提としていたために、便宜を図れば図るほど、その役割は自然なものとして定着した。中立に見える基準が特定の家族像と結びついて機能する——これがフェミニスト地理学の言う空間のジェンダー化の典型である。

4.3 「公園デビュー」という言葉

1990年代に広まったとされる「公園デビュー」という言葉は、この構造を端的に示している。この語は、乳幼児を連れた母親が近所の公園に初めて出向き、すでにそこにいる母親たちの輪に入るという場面を指して使われてきた。注目すべきは、この語がもっぱら母親について語られ、「父親の公園デビュー」とはほとんど言われないことである。公園は、子どもが遊びを始める場所である以上に、母親が地域の母親集団に加入する場所として意味づけられていた。加入には作法があり、輪に入れるかどうかの不安がつきまとう。公園デビューが語られるときの独特の緊張感は、公園が単なる遊び場ではなく、母親という役割が他の母親によって承認される社会的な場になっていたことを表している。

家庭の延長誘致距離250m砂場と遊具見守るケア
図4誘致距離と遊具中心の構成という中立に見える基準が、家族の戦後体制と重なって、公園を暗黙のうちに「母の場所」にした。

現在の街区公園は、法制度上はすべての住民を対象としており、健康遊具の設置や多目的トイレの整備など、高齢者や多様な利用者を意識した更新も進んでいる。磐田市の施設ガイドにも、健康遊具や多目的トイレを備えた街区公園が複数記載されている。しかし制度が変わっても、時間割の側は簡単には変わらない。平日昼の公園に乳幼児と母親が目立つ光景は、児童公園の時代から続く分業が今も残っていることの証拠であり、同時に、公園の意味が設計図だけでなく利用の積み重ねによって作られるというマッシーの指摘を裏づけている。次節では、その利用の中身、すなわち公園で行われている見守りという仕事に目を向ける。

5. 見えない仕事としてのケア——公園での見守りは労働である

公園で子どもを見守る大人は、外から見れば「遊びに付き合っている」ように見える。本節では、この見守りが家事や感情労働と同じくケア労働の一部であること、それが無償で供給され、しかも性別によって期待の重さが異なることを論じる。見守りが労働であると言い直すことは、公園にいる大人の負担を大げさに言い立てるためではない。誰がその労働を担っているかを見えるようにしなければ、時間割の偏りを是正する議論が始まらないからである。

5.1 見守りの中身

公園での見守りは、実際には複数の作業の束である。第一に、出かける前の準備——飲み物、着替え、日よけ、虫よけ、おやつ、救急用品などの持ち物をそろえ、天候と暑さを判断し、時間を計画する。第二に、滞在中の注意の持続——遊具の高さや他の子どもとの距離、道路への飛び出し、水分補給の頻度に気を配り続ける。第三に、他の子どもや大人との調停——順番待ちのもめごとを収め、他の保護者と挨拶を交わし、場の空気を読む。第四に、帰宅後の後始末——手洗い、着替え、洗濯、擦り傷の手当てである。これらは家事研究がオークレー以来「家事」として分析してきた作業と連続しており、ホックシールドが「感情労働」と呼んだ、自分と他者の感情を整える仕事も含んでいる。

見守りが労働として認識されにくいのは、それが「愛情の表現」として語られてきたためである。ケアを愛情の言葉で語ることは、ケアの価値を認める一面をもつが、同時にケアが時間と注意力を消費する仕事であることを覆い隠す。公園にいる大人が「休んでいる」ようにも「働いている」ようにも見えるという両義性は、ケア労働一般がもつ両義性そのものである。

5.2 期待の非対称——母親と父親で異なる規範

見守りに向けられる期待は、性別によって非対称である。母親には途切れない注意が期待され、目を離した瞬間に何かが起きれば「ちゃんと見ていなかった」と評価されやすい。一方、父親が公園に子どもを連れてくると、それだけで「えらい」「協力的だ」と評価される傾向があると、多くの論者が指摘してきた。同じ行為が、一方には義務として、他方には善意として受け取られる。この非対称は、母親には見守りの質が問われ、父親には見守りの有無が問われるという形で、期待の水準を分けている。

この非対称は母親同士の関係にも影を落とす。公園で形成される母親のネットワークは、情報や助け合いをもたらす資源である一方、互いの見守り方を評価し合う規範の圧力としても働く。「他の親からどう見られるか」という意識は、感情労働の負担を増やす。父親が公園で同じ圧力を受けにくいのは、父親が母親集団の規範の外側に置かれているからであり、それは自由であると同時に、輪に入れないという別の形の周縁化でもある。

5.3 公共の安全資源としての見守りと、その供給の偏り

ジェイコブズは『アメリカ大都市の死と生』(1961)で、街路の安全は警察ではなく、そこにいる人々の自然な目——「街路の目」——によって保たれると論じた。公園に見守る大人がいることは、この意味で公共の安全資源である。見守る大人がいる公園は、子どもだけでなく、そこを通る人にとっても安心な場所になる。しかしこの資源は、無償のケア労働として、主として女性によって供給されている。公園の安心が誰の労働の上に成り立っているかを問うことは、公共空間の運営費を誰が負担しているかを問うことと同じ構造をもつ。

見守りは祖父母世代、とりわけ祖母に委ねられることも多い。共働き世帯が増える中で、平日昼の公園に祖父母が目立つという光景は、ケア労働が世代を超えて女性の側に移転していることを示唆する。老年学や家族社会学が扱う「祖父母の育児参加」は、ジェンダーの観点からは、分業の解消ではなく分業の担い手の世代間移動として読むこともできる。

見守りの労働には、もう一つ見えにくい側面がある。それは時間の断片化である。公園にいる大人は、自分の時間をまとまった形で使うことができない。読みかけの本を開いても数分ごとに目を上げねばならず、電話一本を落ち着いてかけることも難しい。時間地理学の観点から言えば、公園にいる時間は「自由時間」の外形をもちながら、実際には子どもという他者に結合された拘束時間である。ケア労働の研究が「時間の貧困」と呼んできたこの状態——時間の総量ではなく、まとまった時間が確保できないこと——は、公園にいる大人の経験をよく説明する。見守りを担う人の負担を考えるとき、時間の長さだけでなく、その質にも目を向ける必要がある。

注意の持続持ち物の準備調停と挨拶拘束される時間
図5見守りは準備・注意・調停・後始末からなる労働の束であり、多くは無償で、期待の重さは性別によって非対称である。

見守りを労働として名指すことには、実践的な意味がある。設計と運営の側が「見守る大人の負担を減らす」ことを目的として掲げれば、休める場所、日よけ、見通しのよさ、トイレの近さといった要素の優先順位が変わる。それは母親のためだけの整備ではなく、見守りを担うすべての人——父親、祖父母、保育者——のための整備であり、見守りの労働を分け合いやすくする条件を整えることでもある。次節では、その設計要素をジェンダー配慮の観点から一つずつ検討する。

6. 公園設計とジェンダー配慮——トイレ・授乳とおむつ替え・照明と見通し

設計は中立に見えて、誰がいつ公園を使えるかを選別している。本節では、トイレ、授乳とおむつ替えの場所、照明と見通しという三つの要素を取り上げ、それぞれが時間割にどう作用するかを検討する。ここでの視点は「女性のための特別な設備」を求めるものではなく、ケアを担う人と、時間帯によって不安を感じる人が、公園から締め出されない条件を整理するものである。

6.1 トイレ——公共空間への入口

トイレの有無と質は、公園に「行けるか」「どれだけ滞在できるか」を左右する。乳幼児を連れた大人にとって、トイレのない公園は短時間しか使えず、トイレがあっても子連れで入れる広さや、荷物とベビーカーを置ける余地がなければ使いにくい。女性用トイレの待ち時間が男性用より長くなりがちであるという「トイレの平等」をめぐる議論は、公共施設の設計論として海外でも長く続いてきた。公園ではさらに、おむつ替え台やベビーチェアが女性用トイレにしかない場合、父親がおむつ替えを担えないという問題が生じる。トイレの設計は、誰がケアを担えるかを物理的に決めてしまうのである。

日本ではバリアフリー法に基づく都市公園移動等円滑化基準と、国土交通省の「都市公園の移動等円滑化整備ガイドライン」が、園路や駐車場、便所などの整備の考え方を示している。車いす対応の多目的トイレは、本来は障害のある人や高齢者を主な対象として整備されてきたが、ベビーカーごと入れる広さや手すりが、乳幼児連れの利用にも役立つとされる。ただし多目的トイレの利用が集中すれば、本来の対象者が使えなくなるという別の問題も指摘されており、性別を問わず入れる子連れ用の個室や、男女双方のトイレへのおむつ替え台設置が望ましいという考え方が広がりつつある。

6.2 授乳とおむつ替え——ケアが可視化される場所

授乳やおむつ替えは、家庭の中では私的に行われるケアが、公園では人目のある場所で行われることになる行為である。授乳できる場所や、おむつを替えられる平らで清潔な面が公園にあるかどうかは、乳児を連れた大人の滞在時間を直接に決める。屋根のある休憩所やベンチの配置、背もたれと日よけの有無、水道の位置といった要素は、ケアを行いやすくする条件として一体的に考える必要がある。これらは「授乳室を作れ」という要求に還元されるものではない。ケアが行われることを前提として公園を設計するか、ケアを想定外の行為として扱うかという、設計思想の違いである。

6.3 照明と見通し——恐怖の地理と監視の両義性

ヴァレンタインが「女性の恐怖の地理」(1989)で示したのは、女性が暗い場所や見通しの悪い場所を特定の時間帯に避けることで、利用できる空間が時間とともに縮むという現象である。公園は植栽と構造物が視線をさえぎりやすく、日没後には利用者が減るため、この現象が起きやすい場所である。夕方の迎えの帰りに立ち寄る親子、部活動帰りの中高生、犬の散歩をする人にとって、照明と見通しは公園を「使える時間」を延ばすか縮めるかを決める要素である。

ただし、見通しをよくすることには両義性がある。ジェイコブズの「街路の目」が示すように、他者に見られていることは安心の源泉であるが、同時に「監視されている」感覚の源泉でもある。植栽を刈り込み、死角をなくし、照明を強くすれば、公園は明るく見通しがよくなるが、木陰や落ち着ける隅は失われる。犯罪学の環境設計(CPTED)の議論と、公園の居心地の議論との間には緊張がある。ジェンダー配慮の観点からは、見通しを一律に高めるのではなく、複数の出入口を設けて逃げ道を確保し、主要な園路と休憩所を明るくし、時間帯によって使い分けられる空間の多様さを残すことが望ましいとされる。

6.4 ジェンダー主流化と公園の再設計

1995年の第4回世界女性会議(北京)以降、あらゆる政策にジェンダーの視点を組み込む「ジェンダー主流化」という考え方が国際的に広まった。都市計画の分野では、オーストリアのウィーン市が1990年代から公園の利用観察をもとに再設計を行った事例が知られている。そこでは、思春期に近づく女子が公園から退いていくという観察を出発点に、ボール遊びの場が中央を独占しないよう空間を分節し、複数の出入口と見通しのよい園路、多様な活動に使える場所を配置したとされる。重要なのは、その手法が「誰がいつ、どこを使っているか」を観察することから始まった点である。時間割の観察は、設計を変えるための最初の一歩なのである。

トイレおむつ替え夕方以降の照明分かる表示
図6トイレ、おむつ替えの場所、照明と見通し、そして設備が分かる表示——設計要素は誰がいつ公園を使えるかを決めている。

設計要素の検討から見えてくるのは、ジェンダー配慮の設計とは、女性向けの設備を追加することではなく、ケアを担う人と、時間帯によって不安を感じる人を「標準的な利用者」の中に含め直すことだという点である。おむつ替え台を男性用トイレにも設けることは父親の育児を可能にし、照明と見通しの改善は夕方の利用者すべてに及ぶ。次節では、この設計の問題と表裏をなす父親の育児参加を取り上げる。

7. 父親の育児参加と公園——「休日の父」を超えて

公園の時間割にもっとも目に見える変化をもたらしうるのは、父親の育児参加である。本節では、制度の変化、父親が公園にいる時間帯の意味、父親が公園でどう見られるかという三つの側面から、父親と公園の関係を検討する。ここでの問いは「父親が公園に来るようになったか」ではなく、「父親が公園に来る時間帯は変わったか」である。

7.1 制度の変化——育児休業の男性への開放

日本の育児休業制度は、1991年に制定された育児休業法(現在の育児・介護休業法)によって男女双方に開かれた形で始まった。その後の改正で、両親がともに休業を取得する場合の期間延長や、子の出生直後の時期に父親が取得しやすい休業の枠組みが設けられ、厚生労働省は父親の育児参加を促す取組を続けてきた。制度上、父親が平日の日中に公園にいられる条件は、かつてに比べれば整えられている。しかし制度が使えることと、実際に使われることの間には距離がある。取得を妨げるのは、職場の期待、収入の減少、そして「育児は母親の仕事」という規範である。公園の平日昼の光景は、この距離を測る温度計のようなものである。

7.2 「休日の父」と「平日の父」

第3節で述べたとおり、休日の公園に父親がいることと、平日の公園に父親がいることは意味が異なる。休日の父親は、稼得労働が休みの時間帯に子どもと過ごしており、これは性別役割分業の枠内で十分に起こりうる。むしろ「休日は父親が子どもを外に連れ出し、その間に母親が家事を進める」という配置は、分業を再編しながら維持する形にもなりうる。これに対して、平日の日中に父親が公園にいることは、稼得労働の時間帯をケアに充てているという意味で、分業の枠そのものが動いていることを示す。

したがって、公園の時間割をジェンダーの指標として使うなら、注目すべきは休日の父親の数ではなく、平日昼の父親が「珍しくなくなる」かどうかである。珍しくなくなるとは、平日昼に父親が公園にいても、他の利用者が特別な意味を読み取らなくなることを指す。「育休中ですか」「今日はお休みですか」と尋ねられなくなったとき、公園はもはや母の場所ではなくなっている。この変化は数字で表すこともできるが、それ以上に、公園にいる人々の相互の意味づけの変化として現れる。マッシーの言う、関係の束としての場所の変化である。

7.3 父親は公園でどう見られるか

父親が公園で経験する視線には、二つの相反する種類があると論じられてきた。一つは過剰な評価である。子どもを連れているだけで「えらい」と言われることは、一見すると好意的だが、父親の育児が「例外的な善行」として扱われていることを意味し、母親の育児が当然視されていることの裏返しである。もう一つは警戒である。子どもの遊び場に一人でいる男性は、子どもの父親であっても、見知らぬ男性として警戒の目を向けられることがある。この警戒は、公園が母親と子どもの場所であるという前提と、男性を潜在的な脅威とみなす規範の両方から生じている。過剰な評価と警戒は正反対に見えるが、どちらも「男性は本来ここにいない存在だ」という同じ前提から出ている。

この二つの視線は、父親が公園にいることの心理的な費用を高め、結果として父親を休日の「家族連れ」という安全な枠の中に押しとどめる働きをする。母親と一緒であれば警戒されにくく、休日であれば「家族の時間」として自然に見える。平日昼に父親が一人で子どもを連れて公園に来ることは、この二つの視線を正面から受けることになる。ジェンダー規範は女性を家庭に結びつけるだけでなく、男性をケアの場から遠ざける方向にも働くのである。

7.4 設計と運営が父親の参加に果たす役割

父親の育児参加を公園の側から支えるとすれば、それは第6節で述べた設計要素と直結する。男性用トイレにおむつ替え台がなければ、父親は乳児を連れて長く滞在できない。授乳やおむつ替えの場所が「母親向け」を思わせる表示や色で示されていれば、父親はそこを使いにくい。運営面では、公園を舞台にした子育て支援の催しが平日昼に母親を対象として行われる場合、父親は参加しにくい。設計と運営の細部が「標準的な保護者」として誰を想定しているかは、父親の参加の可否に直接に影響する。

父親の抱っこ休日か平日かどう見られるか時間割の変化
図7父親が公園にいる時間帯、向けられる視線、使える設備——三つが変わるとき、公園の時間割は分業の変化を映し出す。

父親の育児参加は、家族社会学の主題であると同時に、公共空間のジェンダー研究の主題でもある。父親が公園にいることを「手伝い」ではなく「分担」として当たり前にするには、家庭内の交渉だけでなく、公園という場所の意味づけと設備が変わる必要がある。逆に、公園の時間割が変わらないなら、制度や言説の変化がまだ日常の空間には届いていないと判断できる。時間割は、分業の変化を測るための、身近で観察可能な指標なのである。

8. 反論への応答と他の公共空間との比較

公園の時間割をジェンダーの観点から読むという本稿の立場には、いくつかの反論が予想される。本節ではそれらに順に応答し、あわせて図書館や子育て支援施設といった他の公共空間と公園を比較することで、公園という場所の特性を明らかにする。反論に応答することは、本稿の主張を弱めるためではなく、主張の射程を正確にするためである。

8.1 「自然な性差だから」という反論

第一の反論は、母親が平日昼の公園にいるのは、女性が育児に向いているという自然な性差の結果であり、社会構造とは無関係だというものである。これに対しては、ボーヴォワール以来のジェンダー研究の基本的な応答が当てはまる。妊娠・出産・授乳といった身体に関わる部分を除けば、公園での見守り、遊びの相手、おむつ替えといったケアの大部分は性別によらず行える。加えて、時間割そのものが歴史的に変化していることが反証となる。祖父母世代の父親と現在の父親とでは、公園にいる頻度も時間帯も異なるとされる。自然な性差が原因であれば、時間割は世代を超えて変わらないはずである。変化しているという事実は、時間割が社会的に作られていることを示している。

8.2 「もう十分に平等だ」という反論

第二の反論は、男女共同参画社会基本法(1999年)をはじめとする法制度が整い、育児休業も男性に開かれた現在、ジェンダーの問題はすでに解決済みだというものである。これに対しては、法制度上の平等と日常の実践との間に距離があること、そしてその距離を測る指標として公園の時間割が有効であることを指摘したい。法律は「休業を取れる」ことを保障するが、「取っても職場や周囲から特別視されない」ことまでは保障しない。平日昼の公園に父親がいることが今も「珍しい」と感じられるなら、それは法制度が日常の空間にまだ十分には届いていない証拠である。逆に言えば、公園の時間割が変わっていくことは、平等が制度から実践へと移行していることの、身近で観察可能なしるしになる。

8.3 「設計は中立だ」という反論

第三の反論は、公園の設計は誰にでも開かれており、性別を意識した設計はかえって差別的だというものである。これに対しては、ハイデンやカーンが示してきたとおり、「標準的な利用者」の想定はすでに性別化されていると応答できる。キャロライン・クリアド=ペレス『存在しない女たち』(2019)は、都市計画から製品設計まで、標準とされる利用者像が男性を基準に置かれてきたために、女性のニーズがデータの空白として現れることを多くの領域で示した。おむつ替え台が女性用トイレにしかない公園は、性別を意識していないのではなく、ケアを担うのは女性だという想定を無意識に組み込んでいる。中立を装う設計は、既存の分業を追認する。ジェンダー配慮の設計とは、想定を明示し、誰が排除されているかを点検することであり、特別扱いではない。

8.4 「男性も排除されている」という反論

第四の反論は、公園が母の場所であるなら、排除されているのはむしろ男性ではないか、というものである。この点について本稿は反論としてではなく、主張の一部として受け止める。第7節で述べたとおり、父親が公園で受ける過剰な評価と警戒は、男性をケアの場から遠ざけるジェンダー規範の働きである。ジェンダー研究は女性の不利益だけを扱う学問ではなく、性別に結びつけられた役割の割り振りが、すべての人の選択肢をどう狭めているかを扱う。公園を母の場所から「ケアを担う人の場所」へ開いていくことは、女性の負担を分け合うことと、男性がケアの場にいられるようになることの両方を意味する。

8.5 他の公共空間との比較——なぜ公園なのか

最後に、なぜ図書館や子育て支援センター、商業施設の遊び場ではなく、公園を観察対象とするのかを述べておく。公園の特徴は、無料で、予約や登録が不要で、屋外にあり、開園時間の制約が緩いことである。子育て支援施設は利用者が乳幼児の保護者にあらかじめ限定され、商業施設の遊び場は買い物という別の目的と結びつく。これに対して公園は、あらゆる年齢と目的の人が同じ空間を共有し、しかもその共有が外から見える。時間割の可視性が高いのである。ハーグストランドの制約概念で言えば、公園は権威の制約がもっとも小さい公共空間であり、だからこそ、残る制約——稼得労働と学校の時間割、家庭内の分業——が時間割にそのまま現れる。公園は、社会の分業を映す鏡としてもっとも歪みの少ない場所なのである。

四つの反論検討退けるもの受け入れるもの
図8「自然な性差」「もう平等」「設計は中立」は退け、「男性も排除されている」は主張の一部として受け入れる。

以上の応答から、本稿の主張の射程は次のように定まる。公園の時間割は、性別の本質ではなく社会的な分業を映しており、法制度と実践の距離を測る指標として使え、設計の点検を促し、女性と男性双方の選択肢を広げる方向を指し示す。そして公園は、その観察にもっとも適した公共空間である。次節では、この枠組みを磐田市の公園に当てはめる。

9. 磐田市の公園への示唆

本節では、これまでの枠組みを磐田市の公園に当てはめ、当サイト(ATAWI PARK)が収録する100園の事実——磐田市オープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドに基づく——から読み取れることと、今後の踏査で確かめるべきことを整理する。あらかじめ述べておくと、当サイトの現地踏査はこれからであり、時間帯別の利用者構成、おむつ替え台の有無、照明の状況といった本稿の論点に直結する項目は、いずれも現地調査待ちである。ここで示せるのは、公開データから読める「構造」までである。

9.1 街区公園51園——徒歩圏の厚みと平日昼の行動半径

磐田市の100園のうち、街区公園は51園、近隣公園は14園、都市緑地は10園である。街区公園は誘致距離250メートルを目安とする、もっとも家庭に近い種別であり、乳幼児を連れて徒歩や自転車で行ける範囲にある。第4節で述べたとおり、この種別は児童公園として整備されたストックを引き継いでおり、平日昼の乳幼児と保護者の利用がもっとも起きやすい種別である。したがって、磐田市で公園の時間割を観察するなら、街区公園51園が第一の対象になる。地区別に見ると、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園と、園数の分布には大きな差がある。ただし、園数の多寡が人口や子育て世帯の分布と一致するとは限らないことには注意が必要である。徒歩圏に公園があるかどうかは、平日昼にケアを担う人の行動半径を直接に決める条件であり、地区ごとの差はそのまま時間割の地区差につながりうる。

9.2 トイレ・車いす対応トイレ・駐車場の分布を時間割から読む

オープンデータの94行の中で、トイレ有は69園、車いす対応トイレ有は34園である。第6節で論じたとおり、トイレの有無は滞在時間を、車いす対応(多目的)トイレの有無はベビーカーごと入れるかどうかを左右する。市の施設ガイドには、たとえばさわやか広場(中泉・街区公園)や中泉グリーンパーク(中泉・街区公園)、経塚公園(見付・街区公園)に「トイレ(多目的トイレ)」の記載がある。しかし、おむつ替え台がどのトイレにあるか、男性用トイレにもあるかは公開データからは分からない。これは今後の踏査でもっとも優先して記録すべき項目の一つである。

駐車場については、市の施設ガイドの記載または当サイトの判定で「有」とされる園が33園ある。駐車場の有無は、休日に家族で車で訪れる利用と、平日に徒歩で訪れる利用の分岐点になる。駐車場のある大きな公園は休日の家族利用が中心になりやすく、駐車場のない街区公園は平日昼の徒歩利用が中心になりやすい、と仮説を立てることができる。この仮説も踏査で確かめるべきものである。

9.3 個別の園から見える設計思想

市の施設ガイドの記載から、いくつかの園には本稿の論点に関わる設計思想が読み取れる。今之浦公園(見付・近隣公園・13,675平方メートル)については、施設ガイドに「屋根付広場」「3歳未満児遊具」「じゃぶじゃぶスポット」「健康遊具」とあり、乳幼児連れの利用と、それを見守る大人の休憩、さらに高齢者の利用までを一つの園に重ねる設計思想がうかがえる。屋根のある広場は、第6節で述べたケアを行いやすくする条件の一つである。安久路公園(御厨・地区公園・32,001平方メートル)には「複合遊具(インクルーシブエリアあり)」「ブランコ(インクルーシブアイテムあり)」の記載があり、多様な利用者を標準に含める考え方が遊具の側から示されている。

兎山公園(御厨・地区公園)と竜洋豊岡公園(竜洋・近隣公園)には「ローラースケート場(スケートボード利用可)」の記載がある。これは学齢期から思春期の利用を想定した空間であり、第6節で触れた「思春期の女子が公園から退く」という観察を磐田市で確かめる場として興味深い。夕方の時間帯に、こうした空間を誰が使っているかは、時間割のジェンダー分析にとって重要な観察点になる。

公開データから読める事実ジェンダーの観点からの読み今後の踏査で確かめること
街区公園51園、地区別の園数に差平日昼のケアを担う人の徒歩圏の厚みが地区で異なりうる時間帯別の利用者の性別・年齢層・同伴関係
トイレ有69園、車いす対応トイレ有34園滞在時間とベビーカー利用の可否を左右するおむつ替え台の場所、男性用トイレへの設置
駐車場有33園休日の車利用と平日の徒歩利用の分岐点駐車場の有無と時間帯別の利用者像の関係
屋根付広場・3歳未満児遊具・インクルーシブ遊具の記載ケアを標準に含める設計思想の表れ見守る大人が休める場所、日よけ、水道の位置
ローラースケート場の記載(2園)思春期の利用を想定した空間夕方の利用者の性別構成

9.4 踏査への提案——時間割を記録する

以上を踏まえ、当サイトの今後の踏査に対して、次の記録項目を提案する。第一に、訪問した曜日と時間帯を必ず記録し、そのとき園内にいた人の大まかな構成——乳幼児連れ、学齢期の子どものみ、高齢者、性別の見当——を、個人が特定されない形で書き留めること。撮影は行わず、人数の見当と組み合わせだけを記す。第二に、トイレについて、多目的トイレの有無に加えて、おむつ替え台の場所と男性用トイレへの設置の有無を記録すること。第三に、屋根のある休憩所やベンチの配置、日よけ、水道の位置を、見守る大人の負担という観点から記すこと。第四に、日没後の照明と主要な園路の見通しを、可能な範囲で記録すること。これらは既存の踏査項目に加える形で実施でき、積み重ねれば磐田市の公園の時間割を経験的に描く材料になる。なお、公園の設備や管理に関する正式な情報は、市の都市整備課(電話 0538-37-4806)が管理窓口である。

100園のデータ9地区の差多目的トイレ34園踏査はこれから
図9公開データからは街区公園の厚み、トイレと駐車場の分布、設計思想の一端が読める。時間割そのものは今後の踏査で確かめる。

最後に、行政と地域の関係者への示唆を一言でまとめておく。公園の整備と運営にジェンダーの視点を組み込むとは、女性向けの設備を追加することではなく、「この公園は誰がいつ使うと想定しているか」を明示し、想定から漏れている人——平日昼の父親、夕方の思春期の女子、見守りを担う祖父母——を標準に含め直すことである。その第一歩は、時間割を観察し記録することであり、それは大がかりな予算を必要としない。

10. 結論と今後の課題

本稿は、公園の時間割——平日昼・夕方・休日で利用者の顔ぶれが変わる現象——を、性別役割分業が公共空間に描いた地図として読むことを試みた。得られた結論は三つにまとめられる。

第一に、公園の時間割は選好ではなく制約の産物である。ハーグストランドの制約概念で見れば、公園に行ける時間は稼得労働・学校・保育という他の制度の時間割の余りとして決まり、その余りが誰に残されているかは家庭内の分業に規定される。平日昼の公園に母親と祖父母が目立つ光景は、分業のもっとも直接的な空間的表現である。第二に、公園は明示的に性別化されたことは一度もないが、誘致距離と対象年齢という中立に見える基準が家族の戦後体制と重なることで、暗黙のうちに「母の場所」として形づくられた。そこで行われている見守りは無償のケア労働であり、期待の重さは性別によって非対称である。第三に、トイレ、授乳とおむつ替え、照明と見通しといった設計要素は、誰がいつ公園を使えるかを選別しており、ジェンダー配慮の設計とは女性向けの設備の追加ではなく、ケアを担う人と時間帯によって不安を感じる人を「標準的な利用者」に含め直すことである。

これらから導かれる実践的な含意は、公園の時間割が、法制度上の平等が日常の実践に届いているかを測る、身近で観察可能な指標になるということである。平日の日中に父親が「珍しくなくなる」こと、思春期の女子が公園から退かないこと、見守る大人が休める場所があること——これらは統計を待たずに、公園を歩けば見えてくる。磐田市については、街区公園51園という徒歩圏の厚み、トイレ有69園と車いす対応トイレ有34園、駐車場有33園という設備の分布、そして今之浦公園や安久路公園に見られるケアを標準に含める設計思想の一端を、公開データから読み取ることができた。しかし時間割そのものは、今後の踏査によって初めて描かれる。

10.1 今後の課題

今後の課題は四つある。第一に、実測である。本稿は観察の枠組みを示したにとどまり、磐田市の公園でどの時間帯に誰がいるかは記録されていない。第9節で提案した記録項目を踏査に組み込み、曜日と時間帯を変えて同じ園を複数回訪れることで、時間割を経験的に描く必要がある。その際、個人が特定されない記録方法と、撮影を行わないという配慮を徹底しなければならない。第二に、利用者自身の声である。時間割の観察は外からの記録であり、なぜその時間にしか来られないのか、どの設備が足りないと感じているのかは、公園を使う人に尋ねなければ分からない。

第三に、交差性の視点である。キンバリー・クレンショー(1989)が提起した「交差性」——性別と人種、階級、障害などが重なり合って不利益を生む構造——の視点から見れば、公園の時間割は性別だけで決まるのではない。ひとり親世帯、外国にルーツをもつ世帯、障害のある子どもや保護者、不規則な就労時間で働く人にとって、公園に行ける時間と行きにくさは、それぞれ異なる形で現れる。ジェンダーの視点は、こうした重なりを見落とさないための入口として位置づけられるべきである。第四に、設計と運営の点検の道具化である。本稿で整理した設計要素を、公園ごとに点検できる簡便な項目に落とし込み、行政や地域が更新や改修の際に参照できる形にすることが望まれる。

本稿の限界も記しておく。参照した文献は欧米のフェミニスト地理学と日本の家族社会学の古典に偏っており、日本の公園を対象とした時間帯別利用の実証研究を十分に取り込めていない。また、公園の時間割は都市の規模、住宅地の形成年代、公共交通の有無によって大きく異なると考えられ、本稿の枠組みが磐田市のような地方都市にそのまま当てはまるかどうかは、踏査によって検証されるべき仮説にとどまる。本稿が提示したのは答えではなく、公園を見るときの問いの立て方である。

時間帯を記録短い滞在も記す誰がいるか点検の項目化
図10今後の課題は、時間帯別の観察と記録、利用者の声、交差性の視点、そして設計点検の道具化である。

公園は、誰にでも開かれた場所であるがゆえに、社会の分業をもっとも歪みなく映す鏡である。その鏡に何が映っているかを言葉にすることが、ジェンダー研究が公園に対してできる最初の貢献である。そして映っている像が変わっていくとき、それは公園が変わったのではなく、私たちの時間の使い方が変わったことを意味する。当サイトは、磐田市の公園100園の踏査を通じて、その像を記録し続けたいと考えている。

参考文献

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  2. ドリーン・マッシー(2005)『空間のために』(森正人・伊澤高志訳、月曜社、2014)
  3. ドロレス・ハイデン(1980)「What Would a Non-Sexist City Be Like?」(Signs, vol.5, no.3, Supplement)
  4. ドロレス・ハイデン(1981)『家事大革命——アメリカの住宅、近隣、都市におけるフェミニスト・デザインの歴史』(野口美智子ほか訳、勁草書房、1985)
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  6. レスリー・カーン(2020)『フェミニスト・シティ』(東辻賢治郎訳、晶文社、2022)
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  14. シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1949)『第二の性』(『第二の性』を原文で読み直す会訳、新潮社、1997)
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  25. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  26. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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