自然科学・環境都市生態学
都市の緑地ネットワークと生物多様性——パッチ・コリドー・マトリクスで読む公園
要旨
本稿の目的は、都市生態学の基本概念を用いて、都市公園を「人の施設」としてではなく「生き物の生息場所」として読み直すことである。方法は文献整理と概念分析であり、フォアマンらの景観生態学が示したパッチ(まとまった生息地)・コリドー(つなぐ帯状の緑)・マトリクス(それらを取り囲む基質)の三要素、マッカーサーとウィルソンの島の生物地理学、ミレニアム生態系評価の生態系サービス、そして都市の生物相を在来種・外来種・都市適応種に分けて見る視点を、都市公園という対象に当てはめる。
検討の結果、次の三点が示される。第一に、街区公園のような小さな公園は単独では「小さな島」にすぎないが、誘致距離250mという配置の密度そのものが、生き物にとっての飛び石(ステッピングストーン)の連なりを生みうること。第二に、公園の中では芝生・樹林・水辺という三つの生息環境が果たす役割が大きく異なり、面積よりも「環境の組み合わせ」が生き物の顔ぶれを決めること。第三に、公園の生物相は都市化に伴って似通っていく(生物相の均質化)傾向が知られており、公園は在来の生き物の避難所にも外来種の足がかりにもなりうる両義的な場所であること。
最後に、磐田市の都市公園100園を種別ごとに緑地ネットワークとして読み、風致公園3園・都市緑地10園・緑道2園・歴史公園1園・墓園1園を大きなパッチと帯状のコリドーの候補、街区公園51園を飛び石の候補として位置づける。ただし当サイトのデータには植生や生き物の情報が含まれておらず、現地踏査はこれからである。生き物の目で公園を見る作業は、今後の踏査と市民の観察記録に開かれた課題として残されている。
キーワード都市生態学景観生態学パッチ・コリドー・マトリクス島の生物地理学生態系サービス都市適応種磐田市
1. はじめに——問題の所在
公園を訪れる人の多くは、公園を「人のための施設」として見ている。滑り台があり、ベンチがあり、トイレがあり、駐車場があるかどうか。当サイト(ATAWI PARK)が扱う磐田市の都市公園100園のデータも、もとをたどれば市のオープンデータ「都市公園一覧」であり、そこに記されているのは名称・種別・面積と、トイレ・砂場・遊具の有無といった、人の利用のための項目である。しかし公園には、人が帰ったあとも住み続けている者たちがいる。木に営巣する鳥、芝生の下のミミズ、植え込みのカマキリ、水辺のトンボ、そして名前を知られることもない土壌の微生物である。公園を「生き物の生息場所」として見たとき、そこには人の目に映るのとはまったく別の地図が現れる。
その別の地図を描く学問が都市生態学である。都市生態学とは、都市という人工的な環境の中で、生き物がどのように分布し、暮らし、増減するかを扱う生態学の一分野であり、同時に、都市を人と生き物が共に暮らす一つの生態系として捉える見方でもある。日本では沼田眞が1987年の岩波新書『都市の生態学』で、都市を生態系として読み解く視点を広く紹介した。本稿はこの都市生態学の道具立てのうち、とりわけ景観生態学が示した「パッチ・コリドー・マトリクス」という三つの概念を軸に、都市公園が生き物にとってどんな場所であるかを論じる。
本稿の問いは三つある。第一に、都市の中に点在する公園を、景観生態学のいう「パッチ(まとまった生息地のかたまり)」「コリドー(生息地どうしをつなぐ帯状の緑)」「マトリクス(それらを取り囲む基質としての市街地)」という枠組みで読むと、公園という施設は生き物にとってどのような位置を占めるのか。第二に、公園の内側に目を向けたとき、芝生・樹林・水辺という異なる環境は生き物にとってそれぞれ何を提供しているのか。第三に、都市に暮らす生き物は在来種・外来種・都市適応種というまなざしで見るとどう見え、公園はそのどれにとっての場所なのか。これらを踏まえ、最後に磐田市の公園100園を種別ごとに一つのネットワークとして読み直す。
1.1 なぜ生態学から公園を論じるのか
公園を論じる学問は数多い。造園学は空間の設計を、公衆衛生学は身体活動を、社会学は人と人の関係を扱う。生態学が固有に問うのは、その場所に「人以外の誰が暮らしているか」であり、その暮らしが「周囲とどうつながっているか」である。この視点は、公園を一つずつ独立した施設として評価する見方——面積が広いか、遊具が新しいか——では見えないものを見せる。生き物にとっては、小さな公園の価値はその公園だけでは決まらず、隣の公園までの距離、間にある街路樹や庭、近くを流れる川によって大きく変わるからである。公園を「点」ではなく「網」として見ることが、生態学がこの主題に果たしうる貢献である。
もう一つの理由は、法制度の側がこの視点を求め始めていることにある。2008年の生物多様性基本法は、生物多様性の保全と持続可能な利用を国と自治体の責務として定め、環境省の生物多様性国家戦略2023-2030は、都市の緑地も含めて陸と海の30%以上を保全する「30by30」目標を掲げている。都市公園は都市公園法(1956年)に基づく施設であるが、同時に、この国家戦略のなかで都市の生物多様性を支える場所としても位置づけられつつある。人の利用と生き物の生息という二つの要請をどう両立させるかは、これからの公園管理の実務的な問いでもある。
1.2 方法と構成
方法は文献整理と概念分析である。フォアマンとゴドロンの『Landscape Ecology』(1986)およびフォアマン『Land Mosaics』(1995)、マッカーサーとウィルソンの『The Theory of Island Biogeography』(1967)、ミレニアム生態系評価(2005)、ブレア(1996)やマッキニー(2002)による都市の生物相の類型といった、都市生態学と景観生態学の基礎文献を参照し、その概念を都市公園という対象に当てはめる。本稿は独自の生物調査に基づくものではない。当サイトのデータには植生や生き物に関する項目がなく、現地踏査もこれから始まる段階である。したがって本稿で述べる公園の生き物の姿は、文献と一般的な知見にもとづく「見通し」であり、踏査で確かめるべき論点はその都度明示する。
構成は次のとおりである。第2節で景観生態学と島の生物地理学の基本概念を整理する。第3節でパッチとしての公園の面積と形状を、第4節でコリドーとマトリクスとしての公園のつながりを検討する。第5節で公園の内側の芝生・樹林・水辺という三つの生息環境を比較し、第6節で在来種・外来種・都市適応種という都市の生き物の見方を導入する。第7節で生態系サービスの概念と、それに対する反論——小さな公園に生態的価値はない、生き物のための管理は人の利用と衝突する——に応答する。第8節で磐田市の公園100園への示唆を述べ、第9節で結論と今後の課題を示す。専門用語は初出のたびに説明する。
2. 先行研究と概念の整理
都市生態学の道具立ては、いくつかの異なる系譜から集まってきた。一つは生態系という概念そのものであり、イギリスの植物生態学者アーサー・タンズリーが1935年に「生態系(ecosystem)」という語を提唱して以来、生き物とそれを取り巻く無機的環境をひとまとまりの系として扱う見方が定着した。もう一つは景観生態学の系譜であり、そして三つ目が島の生物地理学である。本節ではこの三つを順に整理し、あわせて生態系サービスと都市の生物相に関する近年の概念を導入する。
2.1 景観生態学——パッチ・コリドー・マトリクス
景観生態学とは、生き物の分布や移動を、個々の場所ではなく「景観」——森・畑・住宅地・道路・川がモザイクのように組み合わさった広がり——の構造から説明しようとする生態学である。アメリカの生態学者リチャード・フォアマンは、フランスのミシェル・ゴドロンとの共著『Landscape Ecology』(1986)と、単著『Land Mosaics』(1995)で、あらゆる景観は三つの要素で記述できると論じた。パッチは、周囲と異なるまとまった土地の区画で、生き物にとっては生息地のかたまりである。コリドーは、細長い帯状の区画で、生き物の移動路にも生息地にもなる。マトリクスは、景観の中で最も広い面積を占め、全体の背景として機能する基質である。都市においては、公園や社寺林がパッチ、河川や街路樹の並びがコリドー、住宅や道路の広がりがマトリクスにあたる。
| 要素 | 定義 | 都市での例 | 生き物にとっての意味 |
|---|---|---|---|
| パッチ | 周囲と異なる、まとまった区画 | 公園・社寺林・屋敷林・墓地 | 生息地。面積と形が種数を左右する |
| コリドー | 細長い帯状の区画 | 河川と堤防・水路・緑道・街路樹 | 移動路。分断されたパッチをつなぐ |
| マトリクス | 最も広く、背景となる基質 | 住宅地・商業地・道路網 | 通り抜けやすさ(透過性)が問われる |
| 飛び石 | 小さなパッチの連なり | 街区公園・庭・空き地 | コリドーの代わりに移動を助ける |
この枠組みが公園論に与える示唆は、公園の生態的価値が「その公園の中身」だけでは決まらないという点にある。同じ面積・同じ植栽の公園でも、川沿いにあるか、住宅地の真ん中に孤立しているか、隣の公園まで何百メートルかによって、そこに来られる生き物の顔ぶれは変わる。フォアマンはまた、小さなパッチが列をなしていれば、連続したコリドーがなくても生き物の移動を助ける「飛び石(ステッピングストーン)」として働くと論じた。都市の中に点在する小さな公園を評価するとき、この飛び石の概念はとりわけ重要になる。
2.2 島の生物地理学と保護区の設計
景観生態学よりも前に、生息地の「面積」と「孤立」が生き物の種数を決めるという考えを理論化したのが、ロバート・マッカーサーとエドワード・O・ウィルソンの島の生物地理学(1967)である。彼らは、海に浮かぶ島に何種の生き物がいるかは、島の面積(大きい島ほど絶滅しにくい)と、大陸からの距離(近い島ほど新しい種が入ってきやすい)とのつりあいで決まると論じた。この理論はやがて、海の島だけでなく、開発によって取り残された「陸の島」——森の断片や、市街地の中の公園——にも当てはめられるようになった。都市公園はまさに、市街地という海に浮かぶ島である。
この応用から生まれたのが、保護区の設計をめぐる論争である。ジャレド・ダイアモンドは1975年の論文で、島の生物地理学の知見にもとづき、保護区は大きいほうが、まとまっているほうが、互いに近いほうが、そして回廊でつながっているほうがよいという設計原則を示した。これに対して、同じ総面積なら一つの大きな保護区(Single Large)と複数の小さな保護区(Several Small)のどちらがよいかという、いわゆるSLOSS論争が起こった。小さな保護区が複数あれば環境の多様性を確保でき、一つの災害で全滅する危険も避けられるという反論である。この論争は決着というより「場合による」という理解に落ち着いたとされるが、都市公園にとっては重要な含意をもつ。都市には大きな公園を新設する余地が乏しく、実際に存在するのは多数の小さな公園だからである。
2.3 生態系サービスと都市の生物相
2000年代に入ると、生き物や生態系が人にもたらす恵みを生態系サービスとして整理する枠組みが広まった。国連の呼びかけで行われたミレニアム生態系評価(2005)は、生態系サービスを、食料や水などの供給サービス、気候や水の調整サービス、レクリエーションや景観などの文化的サービス、そしてそれらの土台となる土壌形成や栄養循環などの基盤サービスの四つに分類した。都市公園はこのうち調整サービスと文化的サービスの担い手として論じられることが多い。
同じころ、都市の生き物そのものを類型化する研究群も現れた。ロバート・ブレアは1996年、都市化の度合いが異なる場所での鳥の顔ぶれを比較し、都市化に強く反応して減る種、中程度の都市化で最も多くなる種、都市化が進むほど増える種がいることを示した。マイケル・マッキニーは2002年の論文でこれを整理し、都市を避ける種(アーバン・アボイダー)、都市に適応する種(アーバン・アダプター)、都市を利用しつくす種(アーバン・エクスプロイター)という三区分を広めた。あわせて、世界のどの都市でも同じような顔ぶれの生き物が増え、地域固有の種が減っていく「生物相の均質化」という現象が指摘されている。本稿ではこれらの概念を、以下の各節で公園という具体的な場所に当てはめていく。
もう一つ、本稿の各所で前提となる概念を挙げておく。メタ個体群である。アメリカの生態学者リチャード・レヴィンズが1969年に定式化したこの概念は、一つの種の個体群が、互いに行き来のある複数の局所個体群の集まりとして存続する、という見方を指す。個々の局所個体群は、小さければしばしば絶滅する。しかし他の局所個体群からの移入によって再定着が起これば、全体としての個体群は存続する。つまり、ある場所で生き物が「いなくなること」と「いなくなったままであること」は別の現象であり、後者を防ぐのがパッチどうしのつながりである。都市の小さな公園で虫や鳥が消えたり現れたりを繰り返すのは、このメタ個体群の動きの現れとして読むことができる。
3. パッチとしての公園——面積・形・縁
公園を生き物の生息地のかたまり、すなわちパッチとして見るとき、最初に問われるのは面積である。生態学には種数面積関係と呼ばれる古くからの経験則があり、調べる面積を広げるほど、そこで見つかる種の数は増えていく——ただし直線的にではなく、面積が大きくなるにつれ増え方はゆるやかになる——ことが、多くの生き物の群れで確かめられている。この関係を都市公園に当てはめれば、大きな公園ほど多くの種を抱えうるという、直感どおりの見通しが得られる。都市公園法の施行令が定める国の標準では、街区公園が0.25ha、近隣公園が2ha、地区公園が4ha、総合公園が10〜50haとされており、この階層はそのまま「島の大きさ」の階層でもある。
しかし面積の意味は生き物の種類によってまったく違う。0.25haの街区公園は、繁殖のために広い縄張りを必要とする猛禽類や中型の哺乳類にとってはあまりに小さいが、地面に暮らす昆虫やクモ、土壌動物にとっては十分に広い世界でありうる。生態学ではこれを「スケール依存性」と呼び、ある種にとってのパッチが、別の種にとってはマトリクスの一部にすぎない、ということが普通に起こる。都市公園の生態的価値を面積だけで測ることが早合点になるのは、この理由による。同じ小ささでも、誰にとっての小ささかを問わなければならない。
3.1 縁と内部——エッジ効果
面積とならんで重要なのが、パッチの縁(エッジ)と内部(コア)の区別である。パッチの縁の部分は、隣接するマトリクスの影響——光、風、乾燥、騒音、人や飼い犬の出入り、道路からの熱——を強く受ける。この影響をエッジ効果と呼ぶ。縁を好む生き物もいるが、森の奥のような安定した環境を必要とする生き物は、縁の影響が及ばない内部にしか暮らせない。ここで面積と形が効いてくる。同じ面積でも、細長い形のパッチはほとんどが縁になってしまい、内部がほとんど残らない。丸に近い形のパッチのほうが、面積あたりの内部を多く確保できる。
都市公園の多くは、周囲を道路と住宅に囲まれ、面積が小さく、四方から光と音が入る。すなわちほとんどの街区公園は「全体が縁」であり、内部をもたない。これは街区公園に価値がないという意味ではない。縁の環境を好む生き物——明るい草地を利用するチョウやバッタ、開けた場所で採餌する鳥——にとって、街区公園は適した場所になりうる。他方、暗く湿った林床を必要とする生き物にとって街区公園はほぼ利用できず、彼らにとっての「島」は、都市の中では風致公園や社寺林、大きな総合公園に限られることになる。パッチの縁と内部を分けて考えることは、「どの公園に、どんな生き物が来うるか」を見積もるための第一歩である。
3.2 大きい一つか、小さい多数か
第2節で触れたSLOSS論争を、都市公園に当てはめ直してみよう。合計面積が同じなら、一つの大きな公園と、多数の小さな公園のどちらが生き物にとってよいか。島の生物地理学の素直な答えは「大きい一つ」である。大きなパッチは内部をもち、個体数が多いので偶然の絶滅に強く、多様な環境を一つの中に含みうる。しかし小さな多数にも利点がある。第一に、離れた場所に散らばっていれば、それぞれが異なる環境——川沿い、台地の上、水田のそば——に接し、全体としては一つの大公園より多様な生き物を含む可能性がある。第二に、一つの公園で起きた出来事——大規模な改修、農薬散布、災害——が全体を巻き込まない。第三に、人の暮らしとの接点が多く、多くの人が日常的に生き物と出会える。
都市生態学の立場からの現実的な答えは、この二者択一を退けることである。都市には、大きな公園を新しく作る余地がほとんどない。すでにあるのは、少数の大きなパッチと多数の小さなパッチであり、問うべきは「どちらがよいか」ではなく「両者をどう組み合わせるか」である。大きなパッチが内部環境を必要とする生き物の拠点となり、小さなパッチがそこから周囲へ広がる生き物の飛び石となる。この「拠点と飛び石」の組み合わせこそ、次節で論じる緑地ネットワークの基本形である。街区公園の小ささは欠点ではなく、ネットワークの中での役割の違いとして読み直される。
フォアマン自身も『Land Mosaics』の中で、小さなパッチには小さなパッチ固有の役割があると整理している。大きなパッチの間に挟まって移動を中継すること、大きなパッチには収まらない種類の環境——たとえば大公園にはない日当たりのよい草地——を提供すること、そして景観の中に生き物との接点を細かく散りばめること。小さなパッチは大きなパッチの劣化版ではなく、機能の異なる別の部品である、というのが景観生態学の到達した見方である。この見方は、公園の統廃合や再整備を検討する場面で実務的な意味をもつ。利用の少ない小公園を廃止して大公園に集約するという判断は、人の利用の効率だけを見れば合理的でも、飛び石の列から石を一つ抜くことを意味するからである。
註:面積が大きな公園でも、その大部分がグラウンドや駐車場、建物で占められていれば、生き物にとってのパッチの面積はずっと小さい。生態学でいうパッチの面積は、登記上の敷地面積ではなく「生息地として機能する部分」の面積である。オープンデータの面積からこの点を読み取ることはできず、当サイトは今後の踏査で確かめる。
4. コリドーとマトリクス——公園をつなぐもの、隔てるもの
パッチとしての公園がどれほど良い環境でも、そこに生き物が来られなければ、また来た生き物が他の場所と行き来できなければ、その公園の生物相は次第に痩せていく。孤立した小さな個体群は、偶然の出来事——寒い冬、乾いた夏、たまたま雌ばかりが生まれた年——で消えやすく、いったん消えれば、外から補充されないかぎり戻らない。この「補充」を可能にするのがパッチどうしのつながり、すなわち連結性であり、連結性を担うのがコリドーとマトリクスである。本節では公園を「網」の結び目として見るために、この二つを検討する。
4.1 コリドー——川・水路・緑道・街路樹
都市における最も強力なコリドーは川である。川とその堤防、河川敷は、市街地を横切って連続する帯状の緑であり、水生生物にとっては生息地そのもの、鳥や昆虫にとっては移動の道筋、哺乳類にとっては人目を避けて移動できる通路になる。川に沿って公園が並んでいれば、それらの公園は川というコリドーで互いにつながっていることになる。川ほど強力ではないが、農業用水路、緑道(都市公園法上の種別の一つで、細長い帯状の公園)、街路樹の並び、鉄道沿いの法面なども、それぞれの生き物にとってのコリドーとして働きうる。
ここで注意すべきは、コリドーは「よい生き物」だけを運ぶわけではない、という点である。川沿いに広がる帰化植物、水路を伝って分布を広げる外来の魚や両生類、街路樹の並びを伝って移動する病害虫——コリドーは、つなぐという機能において中立であり、在来種の再定着を助けると同時に、外来種や病害の拡散路にもなる。景観生態学の教科書がコリドーの「導管」機能と「フィルター」機能を並べて論じるのはこのためである。都市の緑地ネットワークを計画する際に、つながりを増やすことが常に善であるとは限らず、何をつなぎ、何を通さないかを考える必要がある。
4.2 マトリクス——市街地の「通り抜けやすさ」
コリドーがなくても、生き物はマトリクスを通り抜けて移動できることがある。それがどれだけ容易かを、景観生態学ではマトリクスの透過性と呼ぶ。同じ住宅地でも、庭木の多い古い住宅地と、駐車場と舗装が広がる新しい住宅地では、透過性は大きく異なる。個人の庭、生垣、屋敷林、寺社の境内、学校の校庭の縁、空き地、水田——これらは公園でも保護区でもないが、生き物にとっては市街地を渡るための小さな足場である。都市の生物多様性を支えているのは、実は指定された緑地よりも、こうした無数の民有地の緑であるという指摘は、都市生態学の中で繰り返しなされてきた。
逆に、透過性を下げる最大の要因は道路である。幅の広い幹線道路は、飛べない生き物にとってはほとんど越えられない壁になる。両生類や小型哺乳類の道路上での死は、生態学では「ロードキル」として広く知られている。また道路は物理的な障壁であるだけでなく、騒音・光・熱・排気によってその両側に帯状のエッジ効果をもたらす。公園が幹線道路に接している場合、その公園のパッチとしての価値は、道路側の縁で削られていると考えるべきである。
4.3 飛び石としての街区公園
以上を踏まえると、街区公園の生態的な位置づけが見えてくる。街区公園は単独では小さな島であり、内部環境をもたず、種数も限られる。しかし都市公園法施行令の標準では、街区公園は誘致距離250m——住まいからおおむね250m以内に一つ——を目安に配置される。この配置密度は、もともと歩いて行ける公園を確保するために定められたものだが、生き物の側から見れば、数百メートル間隔で緑のパッチが並んでいることを意味する。数百メートルという距離は、多くの飛翔性昆虫や小鳥にとって越えられる距離であり、街区公園の連なりは、コリドーのない住宅地の中に「飛び石の列」を作っていることになる。
この見方は、街区公園の評価軸を変える。ある街区公園の生態的価値は、その公園に何本の木があるかだけでなく、隣の公園まで何メートルか、間に川や社寺林があるか、幹線道路で分断されていないか、で決まる。飛び石は、一つ抜けると列全体の機能が落ちる。逆に、抜けている場所に小さな緑を一つ足すだけで、それまで届かなかった生き物が届くようになることもある。街区公園を「点」で見ず「列」で見ること——これが景観生態学が公園計画に与える最も実用的な示唆である。なお、都市緑地法にもとづいて市町村が定める「緑の基本計画」は、まさにこの網としての緑地の配置を扱う計画であり、生態系ネットワーク(エコロジカル・ネットワーク)の形成は環境省と国土交通省が共に掲げてきた方針である。
最後に、連結性には空間だけでなく時間の次元があることを付け加えておく。花の蜜を食べる昆虫にとって、飛び石の列が機能するためには、それぞれの公園に「同じ季節に」花が咲いていなければならない。春だけ花のある公園と秋だけ花のある公園が並んでいても、夏に蜜を求める昆虫にとって、その列は途切れている。生態学ではこれを資源の時間的な連続性の問題として扱う。公園の植栽が特定の季節の見栄えに集中している場合——春の桜と初夏のツツジに偏るのは日本の公園の典型である——、空間的にはつながっている列が、季節によっては機能していない可能性がある。つながりを空間の地図だけでなく、季節の暦の上でも確かめること。これも公園を網として読む作業の一部である。
5. 公園の内側——芝生・樹林・水辺という三つの生息環境
前二節では公園を外から、すなわち面積とつながりの点で見てきた。本節では公園の内側に入る。同じ面積の公園でも、その中がすべて芝生なのか、樹林があるのか、水辺があるのかで、暮らせる生き物の顔ぶれは根本的に変わる。生態学では、一つの場所の中に異なる環境が組み合わさっていることを生息環境の異質性と呼び、異質性が高いほど多くの種が共存できるという見方が広く受け入れられている。公園の内側を、芝生・樹林・水辺という三つの典型的な環境に分けて、それぞれが誰に何を提供しているかを整理する。
5.1 芝生——開けた地面の意味
芝生は多くの公園で最も広い面積を占める。人にとって芝生は、走り回れて、レジャーシートを広げられて、見通しがきく、公園らしさの中心である。生き物にとっての芝生は、それとはかなり異なる。定期的に刈り込まれた芝生は、背丈のそろった一種類か数種類の草だけからなる、構造の単純な環境であり、花も実もほとんどつけない。地上の昆虫の隠れ場所や、種子を食べる生き物の食物は乏しい。他方、芝生の下の土には、ミミズをはじめとする土壌動物が暮らし、それを食べに地面を歩く鳥——ムクドリやハクセキレイのように開けた地面で採餌する鳥——が集まる。芝生は「豊かではないが、特定の生き物にとっては欠かせない開けた場所」として位置づけられる。
芝生の生態的な価値を大きく左右するのは、刈り方である。すみずみまで短く刈られた芝生と、縁や木の根元に刈り残しがある芝生では、そこに来る昆虫の数がまるで違うとされる。刈り残された草地には花が咲き、チョウやハナバチが訪れ、バッタが隠れる。人の利用に支障のない場所で刈る頻度を落とすという管理は、費用を増やさずに公園の生き物を増やす方法として、都市生態学の側から繰り返し提案されてきた。もちろん、刈り残しは見た目の「手入れの悪さ」と受け取られやすく、また草丈が高い場所は小さな子どもの見通しを悪くする。ここには人の利用と生き物の要請の、小さいが典型的な衝突がある。
5.2 樹林——縦の構造と時間の蓄積
樹林の生態的価値は、まず「縦の構造」にある。高木の樹冠、その下の亜高木、低木の茂み、地表の草本と落葉——この階層構造の一つひとつが、異なる生き物の住まいであり食卓である。樹冠で虫を探す鳥、低木の茂みで営巣する鳥、落葉の下で暮らす甲虫やダンゴムシ、幹の樹皮に隠れる昆虫。芝生が二次元の環境だとすれば、樹林は三次元の環境であり、面積あたりに含みうる生き物の量がまったく違う。ただし多くの公園の樹木は、独立して植えられ、下枝が払われ、根元は芝生か土で、階層構造をもたない「並木」の状態にある。これは樹林というより「木の生えた芝生」であり、生態的には芝生に近い。
樹林のもう一つの価値は「時間の蓄積」である。古い木には、樹洞(幹にできた空洞)、枯れ枝、樹皮の裂け目、根元に積もった落葉といった、若い木にはない資源がある。樹洞はシジュウカラのような小鳥やコウモリの住まいとなり、枯れ枝は昆虫の産卵場所となる。この資源は、公園の管理では「危険」や「不潔」として取り除かれやすいものでもある。倒木の危険をもつ枯れ枝を残せという主張は無責任であり、公園の樹木の安全管理は当然に必要である。しかし、落葉を残す区画を設ける、危険のない範囲で古木を保つ、といった配慮の余地は小さくない。樹林の生態的価値は一朝一夕には作れず、いったん失えば数十年戻らない。公園の樹木は、単なる緑陰の装置ではなく、時間の蓄積そのものである。
5.3 水辺——小さくても質の違う環境
水辺は、公園の中で最も面積が小さく、最も質の異なる環境である。水があるだけで、トンボやアメンボ、カエルといった、陸だけの公園にはまったく来られない生き物の入口が開く。ただし公園の水辺には大きな幅がある。石とコンクリートで縁取られ、塩素処理された循環水が流れる「じゃぶじゃぶ池」や噴水は、人の水遊びのための施設であり、生き物にとっての水辺としてはほとんど機能しない。逆に、岸に草が生え、水底に泥があり、水深に変化のある池や流れは、小さくても多くの水生の生き物を支えうる。同じ「水辺あり」でも、この差は決定的である。
水辺には、人の利用との調整が最も難しい側面もある。止まった浅い水は蚊の発生源となりうるし、水辺は幼い子どもにとって目を離せない場所でもある。生き物のための水辺と人のための水辺は、同じ公園の中で分けて設けるのが現実的であり、実際、多くの公園では修景池と親水施設が別々に整備されている。市の施設ガイドに「流れ」「カスケード」「じゃぶじゃぶスポット」といった記載がある園について、それが生き物にとっての水辺として機能しているかどうかは、記載からは判断できない。当サイトは今後の踏査で確かめる。
| 環境 | 人にとっての意味 | 生き物にとっての意味 | 管理で左右される点 |
|---|---|---|---|
| 芝生 | 走る・座る・見通し | 開けた採餌場。土壌動物の住まい | 刈る頻度と刈り残し |
| 樹林 | 木陰・景観・季節感 | 縦の階層と樹洞・落葉。時間の蓄積 | 下枝・落葉・古木の扱い |
| 水辺 | 水遊び・涼しさ | 水生生物の入口。岸と底の質が決め手 | 護岸・水質・止水の管理 |
三つの環境に加えて、花壇と植え込みにも触れておく。花壇の草花は、面積こそ小さいが、蜜と花粉というはっきりした資源を提供する。チョウやハナバチにとって、花壇は公園の中で最も密度の高い食卓でありうる。ただしその価値は花の種類に依存する。園芸品種の中には、見た目は華やかでも蜜や花粉をほとんど出さないものや、花の形が複雑で在来の昆虫が利用できないものがある。植え込み——低木を列状に刈り込んだもの——は、小鳥の隠れ場所や営巣場所として、単独の高木とは別の役割をもつ。要するに、公園の緑は「緑被率」という一つの数字に還元できない。何が、どの高さに、どの季節にあるか。その組み合わせの豊かさが、生き物にとっての公園の豊かさである。
6. 都市の生き物——在来種・外来種・都市適応種というまなざし
公園に暮らす生き物を「多いか少ないか」で見るだけでは、都市の生態系の実像は捉えられない。同じ「鳥が多い公園」でも、そこにいるのがドバトとカラスばかりなのか、季節ごとに顔ぶれの変わる小鳥がいるのかで、意味はまるで違う。第2節で紹介したブレアとマッキニーの三区分——都市を避ける種、都市に適応する種、都市を利用しつくす種——は、公園の生き物を「誰がいるか」で見るための道具である。本節ではこの三区分に、在来種と外来種という区別を重ね合わせ、公園がどの生き物にとっての場所なのかを考える。
6.1 三つの類型を公園に当てはめる
都市を利用しつくす種(アーバン・エクスプロイター)は、都市化が進むほど増える生き物である。人の食べ残しや建物のすきまを利用でき、人を恐れず、繁殖力が高い。ドバト、ハシブトガラス、ゴキブリ、ネズミなどがしばしば例に挙げられる。彼らにとって公園は、都市という豊かな環境の一部にすぎず、公園がなくても困らない。都市に適応する種(アーバン・アダプター)は、中程度の都市化——庭や公園や街路樹が残る住宅地——で最も多くなる生き物である。シジュウカラ、ヒヨドリ、メジロといった身近な小鳥、アゲハやモンシロチョウ、多くの野草がここに含まれる。彼らにとって公園は、都市の中で暮らし続けるための拠点であり、公園の質がそのまま彼らの暮らしの質になる。
都市を避ける種(アーバン・アボイダー)は、都市化に敏感で、少しの開発でも姿を消す生き物である。森の奥で繁殖する鳥、清流に暮らす水生昆虫、特定の食草にしか産卵しないチョウなどが典型である。彼らにとって、ほとんどの都市公園は生息地たりえない。例外は、開発以前の植生や地形を残した大きな公園——都市公園法の種別でいえば風致公園や、丘や谷を含む総合公園——である。この整理から見えるのは、都市公園が主に「都市に適応する種」のための場所だという事実である。公園を増やし、質を高めることが最も直接に助けるのは、都市を避ける種でも利用しつくす種でもなく、その中間にいる、私たちが「身近な生き物」と呼ぶ顔ぶれなのである。
6.2 在来種と外来種——公園の両義性
この類型に、もう一つの軸を重ねる。外来種とは、人の活動によって本来の分布域の外に持ち込まれた生き物であり、日本では2004年の外来生物法が、生態系や人の暮らしに被害を及ぼすおそれのあるものを特定外来生物として指定し、飼育や運搬を規制している。公園でよく話題になる例としては、道端に広がったセイヨウタンポポ、池のアメリカザリガニやアカミミガメ(いずれも2023年に条件付特定外来生物に指定された)が挙げられる。公園はこれらの外来種にとって、都市に足がかりを得るための恰好の場所になりうる。人が持ち込み、人が放し、人が管理する場所だからである。
同時に、公園は在来種にとっての避難所にもなりうる。周囲が舗装と建物で埋まった市街地の中で、在来の樹木が残り、在来の野草が咲き、在来のハナバチが訪れる場所は、公園と社寺林と、わずかな空き地に限られる。つまり公園は、外来種の足がかりにも在来種の避難所にもなる両義的な場所であり、そのどちらに傾くかは、植栽に何を選ぶか、池に何を放さないか、草地をどう管理するかという、日々の選択に左右される。生物多様性国家戦略が都市の緑地に期待するのは後者の役割であり、公園の植栽に地域の在来種を用いること、外来種の持ち込みを防ぐことは、その具体的な手段として挙げられている。
6.3 生物相の均質化と「経験の絶滅」
マッキニーが指摘した生物相の均質化は、この両義性の帰結として理解できる。世界中の都市で同じ都市利用種と同じ外来種が増え、地域固有の在来種が減っていけば、どの都市の公園に行っても同じ鳥、同じ草、同じ虫しかいないことになる。これは種数の減少とは別の問題である。ある公園の種数が変わらなくても、その顔ぶれが他の都市の公園と同じになっていれば、地域の生態系としての固有性は失われている。都市公園の生物多様性を評価するときに、種の「数」だけでなく「顔ぶれ」を見なければならないのは、この理由による。
均質化には、人の側の帰結もある。アメリカの博物学者ロバート・パイルは『The Thunder Tree』(1993)で、子どもが身近な自然と出会う機会が失われていくことを「経験の絶滅」と呼んだ。ウィルソンが『バイオフィリア』(1984)で論じたように、人が生き物に関心を向ける傾向が生まれつきのものだとしても、その関心は出会いによってしか育たない。多くの子どもにとって、公園は生き物と初めて出会う場所である。そこにいる生き物がどこでも同じ数種類に限られていくことは、生態系の問題であると同時に、次の世代が生き物にどんな関心をもつかという、文化の問題でもある。公園の生き物の顔ぶれは、その地域の子どもの「自然の原風景」を作っている。
この観点からすると、公園で生き物の名前を知る手がかり——樹名板、生き物の看板、観察会——は、単なる教育サービスではなく、均質化への小さな抵抗である。名前を知らない生き物は「いても見えない」。ドバトとキジバトの区別がつけば、公園の鳥は一種類ではなく二種類になり、セイヨウタンポポと在来のタンポポの見分けを知れば、春の芝生は一様な黄色ではなくなる。見える種類が増えることは、その人にとっての公園の生物多様性が増えることと、実践的にはほとんど同じである。都市生態学が「経験の絶滅」を問題にするのは、生き物の側の絶滅と、人の側の無関心が、互いを加速させるからである。
7. 生態系サービス論と二つの反論への応答
ここまで、公園を生き物の側から読む概念を積み上げてきた。しかし公園は人の施設であり、生き物のための議論は、人にとっての意味に接続されなければ公園の計画や管理を動かさない。その接続を担うのが生態系サービスの枠組みである。第2節で述べたとおり、ミレニアム生態系評価(2005)は生態系の恵みを供給・調整・文化・基盤の四つに分類した。都市公園に当てはめれば、樹木による夏の気温の緩和や雨水の一時的な貯留は調整サービス、遊び・休息・季節の景観・生き物との出会いは文化的サービス、土壌の形成や花粉の媒介はそれらを支える基盤サービスにあたる。公園の緑は「あれば気持ちがよいもの」ではなく、都市の暮らしを支える機能の束として記述できる。
この枠組みの効用は、緑の価値を、費用をかけて維持する理由として言語化できる点にある。公園の樹木の剪定や芝生の管理には毎年の費用がかかるが、その緑が果たしている調整サービス——木陰による暑さの緩和、雨水の浸透——は、別の手段で代替しようとすればやはり費用がかかる。緑を「維持費のかかる装飾」としてではなく「機能を提供する基盤(グリーンインフラ)」として位置づける考え方は、国土交通省の政策にも取り入れられてきた。ただし本稿は、生態系サービスの金銭換算の具体的な数値には立ち入らない。換算の方法は研究途上であり、確度の高い数値を挙げられる段階にないからである。
7.1 反論一——「小さな公園に生態的価値はない」
第一の反論はこうである。0.25haの街区公園に来る生き物は、どこにでもいるスズメとドバトと数種の昆虫だけであり、希少な生き物は来ない。生物多様性の保全を言うなら、限られた費用は大きな自然地の保全に回すべきで、小さな公園に生態的価値を語るのは誇張である——。この反論には正当な核がある。実際、都市を避ける種にとって街区公園はほぼ無価値であり、希少種の保全という基準で測れば、街区公園の得点は低い。
しかし、この反論は三つの点を見落としている。第一に、第4節で論じた飛び石の機能である。小さな公園の価値は、その公園の中の種数ではなく、ネットワーク全体の連結性への寄与で測られるべきであり、単独の評価はそもそも測り方を誤っている。第二に、都市に適応する種——身近な小鳥や昆虫——にとって、街区公園の連なりは実際の生息基盤であり、「どこにでもいる」生き物がどこにでもいられるのは、どこにでも公園があるからである。第三に、文化的サービスの分配である。希少種のいる大きな自然地は、多くの市民にとって年に数回行く場所だが、街区公園は毎日行ける場所である。子どもが初めてアリの行列を眺め、初めてセミの抜け殻を拾うのは、たいてい家の近くの小さな公園である。第6節で述べた「経験の絶滅」を防ぐ最前線は、希少種のいる奥山ではなく、ありふれた生き物のいる街区公園なのである。
7.2 反論二——「生き物のための管理は人の利用と衝突する」
第二の反論は管理の現場からのものである。草を刈り残せば「手入れされていない」と苦情が来る。茂みを残せば見通しが悪くなり、防犯上の不安が語られる。池を作れば蚊が湧き、転落の心配が生じる。落葉を残せば滑る。ハチが来る花を植えれば刺される心配が語られる。公園は第一に人の、とりわけ子どもの安全な利用の場であり、生き物への配慮はそれと衝突する——。この反論も、現場の実感としては重い。公園の管理者は限られた費用の中で、苦情と安全要求に日々応えている。
応答は二つある。第一に、衝突は全面的ではなく、場所の区分(ゾーニング)で相当程度回避できる。公園のすべてを刈り残す必要はなく、遊具のまわりと広場は短く刈り、フェンス際や樹木の根元だけ刈り残す。すべての池を自然の岸にする必要はなく、親水施設と修景池を分ける。人がよく使う場所とあまり使わない場所は公園の中でも分かれており、生き物への配慮は後者に集中させればよい。第二に、衝突の一部は、情報によって和らぐ。刈り残しが意図的な管理であることを示す小さな看板一つで、「手入れの悪さ」は「生き物のための場所」に変わる。見通しと茂みの問題のように、安全上の要請が優先されるべき場面は当然あり、その判断は管理者と地域に委ねられる。しかし「人の利用か生き物か」という二者択一は、多くの場合、設計と伝え方の工夫で「どの場所で、どちらを」という配分の問題に変換できる。
さらに言えば、生き物への配慮は管理の負担を増やすばかりではない。刈る回数を減らすことは、そのまま管理費用の削減でもある。落葉をすべて集めて運び出す代わりに、植え込みの根元に寄せて土に返すことは、作業と処分の手間を減らす。生き物のための管理と費用を抑える管理は、部分的に同じ方向を向いている。都市生態学の知見が公園管理に入り込む現実的な経路は、理念としての生物多様性よりも、この「手を抜くことが豊かさになる場所を見つける」という実務の言葉なのかもしれない。どこで手をかけ、どこで手を引くか。その配分を意識的に設計することが、人と生き物の双方に開かれた公園管理の要点である。
註:ハチや毛虫など、公園の生き物には人に害を及ぼしうるものも含まれる。刺傷などへの対応は本稿の範囲外であり、判断は医療機関・関係機関の案内に従ってほしい。生き物への配慮を論じることは、危険な生き物への対処を軽んじることを意味しない。
8. 磐田市の公園への示唆——100園をネットワークとして読む
本節では、前節までの概念を磐田市の公園に当てはめる。用いる事実は、当サイトが整理した磐田市オープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドの記載に限られる。あらかじめ強調しておくべきは、このデータには植生・生き物に関する項目が一切ないことである。したがって本節で述べるのは、種別・面積・地区という限られた情報から描ける「ネットワークの見取り図」であり、実際にどの公園にどんな生き物がいるかは、これから始まる踏査と観察で確かめるほかない。
8.1 種別を生態的な役割に読み替える
磐田市の都市公園100園の種別の内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、そして法対象外6園である。これを景観生態学の語彙に読み替えてみる。まず、大きなパッチの候補は総合公園と地区公園である。竜洋海洋公園(221,722㎡)、かぶと塚公園(106,982㎡)、兎山公園(56,193㎡)、中央公園(41,642㎡)、安久路公園(32,001㎡)といった数万㎡級の公園は、面積の点では内部環境をもちうる規模である。ただし第3節の註で述べたとおり、運動施設や建物が面積の多くを占めていれば、生き物にとってのパッチはずっと小さい。かぶと塚公園の施設ガイドには体育館・陸上競技場・弓道場・グラウンドが並び、福田公園(49,620㎡)には野球場・多目的広場・テニスコートが並ぶ。これらは人の施設としての充実を示す一方、生息地としての面積はデータからは読めない。
質の点で注目すべきは風致公園3園である。風致公園は「風致の享受」——自然の趣を楽しむこと——を目的とする種別であり、開発以前の植生や地形を比較的よく残すことが期待できる。磐田市では、つつじ公園(61,937㎡・見付)、竜洋昆虫自然観察公園(29,119㎡・竜洋)、いわたエコパーク(23,973㎡・竜洋)がこれにあたる。とりわけ竜洋昆虫自然観察公園は、名称そのものが昆虫の観察を掲げる全国的にも珍しい公園であり、都市を避ける種を含む生物相の拠点パッチとして機能している可能性が最も高い。歴史公園の遠江国分寺史跡公園(21,600㎡)と墓園の緑ヶ丘霊園(17,802㎡)も、開発を免れてきた緑として、生態的には風致公園に準じる位置づけを与えうる。
8.2 コリドーの候補——天竜川と緑道
磐田市のコリドーの第一候補は、市の西縁を流れる天竜川である。オープンデータの園名からも、豊田天竜川わんぱく広場、豊田ラブリバー公園、天竜川ラブリバー公園と、天竜川沿いに公園が並んでいることが読み取れる。川という強力なコリドーに接するこれらの公園は、川を移動する生き物の立ち寄り先として、内陸の同規模の公園とは異なる顔ぶれをもつ可能性がある。種別としての緑道は竜洋南部緑地公園(20,907㎡)と竜洋西堀緑地公園(25,264㎡)の2園で、いずれも竜洋地区にあり、竜洋西堀河川敷公園(34,490㎡)と合わせ、竜洋地区には帯状の緑がまとまって存在する。竜洋地区は13園を数え、竜洋海洋公園・竜洋昆虫自然観察公園・いわたエコパークという大きなパッチも集中しており、市内で最も生態的ネットワークの密度が高い地区であると見込まれる。
8.3 飛び石の分布——地区ごとの粗密
飛び石の候補である街区公園51園と都市緑地10園の分布を地区別に見ると、粗密が大きい。9地区の園数は、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。豊田地区は28園と最多で、その中には二之宮東第2緑地(17㎡)や豊田上新屋ポケットパーク(156㎡)のような極小の緑地から近隣公園までが含まれ、細かな飛び石が密に並ぶ形になっている。一方、福田・豊岡・南部・向陽の各地区は園数が一桁である。ただしこれは市街地の範囲と人口分布を反映したものであり、これらの地区には都市公園以外の緑——水田、河川敷、海岸林、社寺林——が広がっている可能性が高い。第4節で述べたとおり、生き物のネットワークを支えるのは都市公園だけではなく、マトリクスの透過性を含めた全体である。都市公園の粗密を、そのまま緑の粗密と読んではならない。
17㎡の緑地に生態的な意味はあるのかと問う人もいるだろう。単独では、ほとんどない。しかし第7節で論じたとおり、飛び石の価値は単独では測れない。極小の緑地も、列の中の一つとしては、飛翔性の昆虫が羽を休める足場になりうる。磐田市の場合、街区公園51園と都市緑地10園、広場公園2園を合わせた63の小さなパッチが市街地にどう散らばっているかが、ネットワークの目の細かさを決める。その検証には各園の位置情報にもとづく距離の分析が必要であり、当サイトの今後の課題である。
8.4 踏査への課題
本節の読みはすべて、種別と面積からの推測である。踏査で確かめるべきことを挙げておく。第一に、各園の緑の実質——樹木の本数と大きさ、芝生と舗装の割合、刈り込みの状態。第二に、水辺の質——市の施設ガイドに記載のある安久路公園や今之浦公園の「流れ」、豊田香りの公園の「カスケード」が、生き物の使える水辺かどうか。第三に、風致公園3園の植生と生き物の顔ぶれ。これらは専門調査でなくとも、季節ごとに歩いて、見た生き物を記録するだけで最初の一歩になる。市民の観察記録が集まれば、それ自体が磐田の公園の生物相の初めての目録になる。当サイトはその受け皿となることを目指したい。
9. 結論と今後の課題
本稿は、都市生態学と景観生態学の基本概念——パッチ・コリドー・マトリクス、島の生物地理学、エッジ効果、連結性、生態系サービス、都市の生物相の三類型——を整理し、都市公園を「生き物の生息場所」として読み直す枠組みを示した。得られた結論は三つにまとめられる。
- 公園の生態的価値は、その公園単独では決まらない。面積と形(縁と内部の割合)に加え、隣のパッチまでの距離、コリドーの有無、マトリクスの透過性が、そこに来られる生き物の顔ぶれを決める。とりわけ誘致距離250mを目安に配置される街区公園の連なりは、住宅地の中の飛び石の列として読み直せる。
- 公園の内側では、芝生・樹林・水辺という環境の組み合わせ(異質性)が面積以上に効く。そしてそれぞれの生態的な質は、刈り方・落葉や古木の扱い・岸の作りといった日々の管理に左右される。人の利用との衝突は実在するが、その多くは場所の区分と情報の提供によって配分の問題に変換できる。
- 公園は、在来種の避難所にも外来種の足がかりにもなる両義的な場所であり、都市化とともに生物相が似通っていく均質化の圧力の中にある。公園が最も直接に支えるのは「都市に適応する種」——身近な小鳥や昆虫——であり、同時に、子どもが生き物と出会う文化的サービスの最前線でもある。
磐田市の都市公園100園に当てはめれば、風致公園3園(つつじ公園・竜洋昆虫自然観察公園・いわたエコパーク)と数万㎡級の総合・地区公園が拠点パッチの候補、天竜川と竜洋地区の緑道がコリドーの候補、街区公園51園と都市緑地10園が飛び石の候補となる。ただしこの読みは種別と面積からの見取り図にすぎず、各園の緑の実質は今後の踏査に委ねられている。
9.1 今後の課題
課題は三つある。第一に、位置情報にもとづくネットワーク分析である。本稿は園数と種別から粗い見取り図を描いたにとどまり、各園の間の実距離、天竜川や今之浦川との位置関係、幹線道路による分断を地図の上で確かめる作業が残っている。第二に、踏査による各園の環境の記録である。樹木・芝生・水辺の実態を、統一した項目で少しずつ記録していくことが、種別と面積だけのデータに厚みを与える。第三に、市民の観察記録との接続である。生き物の記録は一人の調査者が網羅できるものではなく、公園を日常的に使う人々——散歩の途中に鳥を見る人、子どもとセミの抜け殻を数える人——の目が集まって初めて、100園の生物相の輪郭が見えてくる。
最後に、本稿の限界を確認しておく。本稿は文献にもとづく概念の整理であり、磐田市の公園の生き物について新しい事実を一つも報告していない。しかし、事実を集める前に「何をどう見るか」の枠組みを持つことには意味がある。パッチとコリドーという眼鏡をかけて公園の一覧を眺め直すだけで、17㎡の緑地と22万㎡の総合公園が同じ一つの網の目としてつながって見えてくる。滑り台の順番を待つ子どもの足元で、アリは列を作り、頭上の木ではシジュウカラが虫を探している。公園の一覧表は、人の施設の目録であると同時に、まだ書かれていない生き物の目録の下書きでもある。その空欄を埋めていく作業を、今後の踏査の楽しみとして残し、本稿を閉じる。
参考文献
- リチャード・T・T・フォアマン、ミシェル・ゴドロン(1986)『Landscape Ecology』(John Wiley & Sons)
- リチャード・T・T・フォアマン(1995)『Land Mosaics: The Ecology of Landscapes and Regions』(Cambridge University Press)
- ロバート・H・マッカーサー、エドワード・O・ウィルソン(1967)『The Theory of Island Biogeography』(Princeton University Press)
- ジャレド・M・ダイアモンド(1975)「The island dilemma: lessons of modern biogeographic studies for the design of natural reserves」Biological Conservation, 7
- 沼田眞(1987)『都市の生態学』(岩波新書)
- ロバート・B・ブレア(1996)「Land use and avian species diversity along an urban gradient」Ecological Applications, 6
- マイケル・L・マッキニー(2002)「Urbanization, biodiversity, and conservation」BioScience, 52
- エドワード・O・ウィルソン(1984)『バイオフィリア——人間と生物の絆』(狩野秀之訳、平凡社ライブラリー、2008)
- ミレニアム生態系評価(2005)『Ecosystems and Human Well-being: Synthesis』(Island Press)
- 環境省「生物多様性国家戦略2023-2030」(令和5年3月閣議決定)
- 生物多様性基本法(平成20年法律第58号)・都市緑地法(昭和48年法律第72号)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。