社会科学社会福祉学
地域福祉の受け皿としての公園——アウトリーチと居場所づくりの社会福祉学
要旨
本稿の目的は、社会福祉学、とりわけ地域福祉の枠組みから都市公園を捉え直し、公園が地域の支え合いのなかでどのような位置を占めうるかを整理することである。方法は文献整理と概念分析であり、住民主体・小地域福祉活動・地域包括ケアといった地域福祉の基本概念を確認したうえで、公園を制度の外側にある非制度的な資源——申込みも登録も対象要件も必要としない場——として位置づける。
検討から得られる見通しは三つである。第一に、公園は子育て期の孤立、高齢期の閉じこもり、若者の居場所のなさという性質の異なる課題に対して、同じ一つの場所で異なるかたちの接点を用意しうる。第二に、専門職が申請を待たずに出向くアウトリーチの拠点として公園を用いるには、時間と場所の定期性、匿名でいられること、つなぎ先が実在することという条件が要る。第三に、その場を「支援の場」と名づけた途端に、支援を最も必要とする人ほど来なくなるという逆説が生じうる。名づけないまま支えるという難題が、公園を福祉の資源として扱うときの中心にある。
同時に本稿は限界を明示する。公園は専門的な支援の代替物ではなく、生活課題の解決そのものを担うことはできない。最後に磐田市の都市公園100園を対象に、オープンデータと市施設ガイドの記載から、種別と地区ごとの分布、トイレや健康遊具といった滞在を支える設備の記載を読み、地域福祉の観点から見た論点を示す。ただし当サイトの現地踏査はこれからであり、ベンチの数や園路の状態など現地でしか分からない事項はすべて今後の課題として残る。
キーワード地域福祉社会的孤立アウトリーチ居場所インフォーマル資源地域包括ケア磐田市
1. はじめに——問題の所在
福祉について語るとき、話題はしばしば制度の話になる。どの窓口に申し込めばどの給付が受けられるのか、どの要件を満たせばどのサービスにつながるのか。それは当然のことであり、制度の設計と運用は社会福祉学の中心的な主題である。しかし人が暮らす時間の大半は、制度の外側にある。窓口が開いていない時間、要件を満たさない状態、申し込むほどではないと本人が考えている段階。その広い余白のなかで、人は誰にも会わずに一日を終えることもあれば、たまたま同じ場所に居合わせた人と数分だけ言葉を交わすこともある。
本稿が扱うのは、その余白に置かれた一つの場所——公園である。公園は福祉施設ではない。都市公園法に基づいて設置され、公園緑地の担当課が管理する都市施設であり、その目的は本来、都市の環境保全と住民のレクリエーションに置かれてきた。にもかかわらず、外に出た人がまず立ち寄る場所として、また誰かと誰かが偶然すれ違う場所として、公園は地域の支え合いに繰り返し関わってきた。この関わりを、偶然の産物として片づけるのではなく、社会福祉学の語彙で言い直すことが本稿の作業である。
1.1 なぜ社会福祉学から公園を論じるのか
社会福祉学は、支援を必要とする人と、支援を届ける仕組みとの間に生じるずれを扱ってきた学問である。制度が整備されても、その存在を知らない人、知っていても申し込まない人、申し込む力が残っていない人がいる。届かなさは制度の不備だけから生じるのではなく、当事者の側の事情、地域の関係の薄さ、支援を受けることへのためらいといった複数の要因が重なって生じる。この届かなさに向き合うとき、専門機関の窓口の外側にある日常の場が視野に入ってくる。
ここで用いる「地域福祉」という語について、あらかじめ説明しておきたい。地域福祉とは、施設のなかで完結する支援ではなく、住民が住み慣れた地域で生活を続けられるように、公的なサービスと住民同士の支え合いとを組み合わせて地域全体で支えていこうとする考え方と実践の総称である。日本では社会福祉法が地域福祉の推進を掲げ、住民が地域の生活課題を我が事として捉え、相互に人格と個性を尊重しながら参加する地域社会をつくることを目指す旨を定めている。この枠組みのなかでは、支援は専門機関だけが担うものではなくなる。
そうなると、専門機関ではない場所——集会所、店先、寺社の境内、そして公園——が、支え合いの舞台として改めて問われることになる。これらの場所は福祉の名を掲げていない。だからこそ、そこに来る人は自分を「支援を受ける側」として意識せずに済む。この、名を掲げないという性質が、福祉にとって不利な条件なのか、それとも決定的な資源なのか。本稿の関心はここにある。
1.2 本稿の問い
本稿は三つの問いを立てる。第一に、公園は地域福祉の資源としてどう位置づけられるのか。福祉サービスでも施設でもない場を、支援の体系のどこに置けばよいのかという位置づけの問題である。第二に、専門職が申請を待たずに出向くアウトリーチの拠点として公園を用いるとき、どのような条件が要るのか。単に人がいる場所に出かけていけばよいというものではないはずである。
第三に、公園を「支援の場」と名づけたとき、何が起きるのか。名づけは資源を可視化し、予算と人手を呼び込む。しかし同時に、そこへ行くことが「支援を必要としている」という表示になってしまう。支援を最も必要とする人ほど、その表示を避けて来なくなるという逆説が生じうる。この逆説をどう扱うかは、居場所づくりの実践に共通する難題であり、本稿の後半で正面から論じる。
1.3 方法と本稿の構成
方法は文献整理と概念分析である。地域福祉の古典的な議論と、公共空間をめぐる都市論の古典を突き合わせ、公園という場の性質を概念的に記述する。加えて、磐田市が公開する都市公園のオープンデータと市の施設ガイドの記載を参照し、議論を具体的な地域に引きつける。統計的な因果の主張は行わない。福祉の効果を数値で示すには設計された調査が必要であり、本稿の範囲を超えるからである。
当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園を収録するデータベースであるが、現地踏査はこれから始まる段階にあり、ベンチの数や園路の状態、日陰の広がりといった現地でしか分からない事項は把握できていない。したがって本稿の第10節で述べる磐田市への示唆は、公開情報から読み取れる範囲にとどまり、確認は今後の踏査に委ねられる。なお当サイトの運営は不動産と介護の事業を営む会社が行っているが、本稿はその事業とは切り離した学術的な整理として書かれている。
構成は次のとおりである。第2節で地域福祉の概念を整理し、第3節で公園を非制度的な資源として位置づける。第4節で子育て期・高齢期・若者という三つの孤立を並べ、第5節でアウトリーチの拠点となる条件を、第6節で名づけの逆説を論じる。第7節では滞在を支える物理的な条件を、第8節では公園に期待できないことを扱う。第9節で担い手と協働の問題を検討し、第10節で磐田市の公園に引きつけ、第11節で結論と課題を述べる。
2. 地域福祉という枠組み——先行研究と概念の整理
公園を福祉の資源として論じるには、まず地域福祉という枠組みそのものを確認しておく必要がある。地域福祉は、施設収容型の福祉に対する批判と反省のなかから育ってきた考え方であり、その歴史は日本国内にとどまらない。本節では、実践の起源、日本における理論化、制度としての現在という三つの層を順に押さえ、公園を論じるための語彙を用意する。
2.1 実践の起源——セツルメントという発想
地域を単位とした福祉実践の古典的な起源としてしばしば挙げられるのが、セツルメント運動である。1884年にロンドンの貧困地区に設けられたトインビー・ホール、1889年にシカゴでジェーン・アダムズらが開いたハル・ハウスは、その代表的な拠点として知られる。セツルメントの発想は明快であった。困っている人を施設に集めるのではなく、支援する側が地域のなかに住み込み、日常の隣人として関わるという方向である。
アダムズが1910年に刊行した回想録には、ハル・ハウスが講座や託児、集会の場を兼ねた複合的な拠点であったことが記されている。重要なのは、そこが「困窮者のための施設」としてではなく、地域の誰もが立ち寄れる場として運営された点である。誰もが来られる場所であることによって、来ること自体が困窮の表示にならない。この構造は、本稿が第6節で論じる名づけの逆説と直接につながっている。
日本でも大正から昭和初期にかけて隣保館などのかたちで同種の実践が展開し、戦後は民生委員法(昭和23年)による民生委員・児童委員の制度、社会福祉事業法(昭和26年、平成12年の改正で社会福祉法に改称)による社会福祉協議会の位置づけへと引き継がれていく。地域の身近な人が相談の入口になり、住民組織が支え合いの単位となるという構図は、この時期に骨格が定まったといってよい。
2.2 日本における理論化——住民主体と小地域福祉活動
日本の地域福祉論を代表する古典として、岡村重夫が1974年に刊行した『地域福祉論』が挙げられる。岡村は、人が社会生活を営むうえで満たされるべき基本的要求を整理し、それを充足する社会関係の側から福祉を捉える視座を示した。制度が用意するサービスを並べるのではなく、生活者が社会との間に取り結ぶ関係の総体を見るという発想であり、この視座に立つとき、公的なサービス以外の関係——近隣、仲間、たまたま居合わせた人——も福祉の射程に入ってくる。
実践の側では、「小地域福祉活動」という語が長く用いられてきた。自治会や町内会、あるいはそれより小さい班の単位で、見守り、声かけ、サロン、配食といった活動を組み立てる考え方である。この単位が重視される理由は単純で、支え合いは徒歩で行き来できる距離のなかでしか日常化しないからである。歩いて行ける範囲という条件は、公園の配置基準——街区公園の誘致距離250メートル、近隣公園の500メートル——と同じ地理的なスケールを扱っている。福祉の単位と公園の単位が重なるという事実は、本稿の議論の土台になる。
また、地域福祉の実践では「住民主体」という原則が繰り返し語られてきた。行政や専門職がサービスを供給し住民が受け取るという一方向の関係ではなく、住民自身が課題の発見と解決の担い手になるという考え方である。ただしこの原則は、行政の責任を住民に移し替える口実に転用されうる危うさも抱えており、この点は第9節で改めて検討する。
2.3 制度としての現在——包括ケアと重層的な支援
現在の制度は、分野ごとに分かれていた支援を地域という面で束ね直す方向に動いてきた。高齢分野では、住まい・医療・介護・予防・生活支援を日常生活圏域のなかで一体的に提供しようとする地域包括ケアシステムの構想が掲げられ、生活困窮の分野では生活困窮者自立支援法(平成25年法律第105号)が相談を入口とする支援を制度化した。さらに社会福祉法の改正により、高齢・障害・子ども・生活困窮といった分野の相談を分けずに受け止める重層的支援体制整備事業が設けられ、属性で切らない相談の受け皿がつくられつつある。
これらの制度に共通するのは、支援の入口を広げようとする志向である。しかし入口を広げても、そこまで歩いてくる人がいなければ支援は始まらない。制度の側が「断らない相談」を掲げるほど、断られる以前に相談へ向かわない人の存在が浮かび上がる。ここで、相談機関の外側にある日常の場が意味を持ってくる。専門職が出向く先として、あるいは住民が異変に気づく場として、日常の場は制度の入口の手前に位置している。
| 年 | 地域福祉に関わるおもな出来事 | 本稿との関わり |
|---|---|---|
| 1884 | ロンドンにトインビー・ホールが開設 | 地域に住み込む支援の原型 |
| 1889 | シカゴにハル・ハウスが開設 | 誰もが来られる拠点という設計 |
| 1948 | 民生委員法 | 身近な住民が相談の入口になる仕組み |
| 1951 | 社会福祉事業法(平成12年改正で社会福祉法) | 社会福祉協議会の位置づけ |
| 1956 | 都市公園法 | 公園が都市施設として制度化される |
| 1974 | 岡村重夫『地域福祉論』 | 社会関係の側から福祉を捉える視座 |
| 2015 | 生活困窮者自立支援法の施行 | 相談を入口とする支援の制度化 |
| 2021 | 重層的支援体制整備事業の施行 | 属性で切らない相談の受け皿 |
註:年は制定年または施行年であり、制度の内容は改正により変化している。本稿は制度史の詳細を論じるものではなく、地域を単位とする支援という発想が積み重なってきたことを確認するために年表を掲げた。
3. 非制度的資源としての公園——申込みのいらない場
社会福祉の実践では、支援に用いられる資源をフォーマル資源とインフォーマル資源に分けて捉えることが多い。フォーマル資源とは、法や制度に基づいて提供される公的なサービスや専門機関のことであり、インフォーマル資源とは、家族・親族・友人・近隣・ボランティアなど、制度によらない支え合いのことを指す。この二分法に照らしたとき、公園はどちらに属するのか。本節は、公園がこの分類に収まりきらない中間的な性質を持つことを示し、その性質こそが福祉的な意味を生むと論じる。
3.1 公の施設という制度的な土台
まず制度の側から確認すると、公園は明確に公的な存在である。都市公園法(昭和31年法律第79号)に基づいて設置され、地方自治法にいう「公の施設」——住民の福祉を増進する目的をもって住民の利用に供するために地方公共団体が設ける施設——として、住民が正当な理由なく利用を拒まれない建前の上に置かれている。用地は公有地であり、整備と維持管理には公費が投じられ、担当課が責任を負う。この点で公園は、近隣同士の善意で成り立つインフォーマル資源とは根本的に異なる。
ところが、利用の場面に目を移すと様相は一変する。公園を使うのに申込みは要らない。名前を告げる必要も、対象要件を満たす必要も、利用者として登録される必要もない。何時間いても、何もせずに帰っても、誰にも問われない。制度に支えられていながら、利用の局面では制度らしさがまったく現れない。この非対称性が、公園という場の特異な性質である。
3.2 入口の低さがもたらすもの
福祉の文脈で「敷居が低い」という言い方がなされるとき、そこには複数の意味が畳み込まれている。物理的な距離が近いこと、費用がかからないこと、手続きが簡単であること、そして——最も見落とされやすいが最も重い——そこへ行くことが自分の弱さの表明にならないこと。公園はこの四つをすべて満たす。歩いて行ける距離にあり、無料であり、手続きがなく、行っても何の表示にもならない。
とりわけ四つ目が重要である。相談窓口へ行くことは、自分に相談すべき事柄があると認めることを含む。地域のサロンに参加することは、自分がその対象層に属すると認めることを含む。公園に行くことは、何も認めない。ただ外に出ただけである。この「何も認めなくてよい」という性質は、支援を受けることへのためらいが強い人ほど価値を持つ。
同時に、公園は退出の自由も保障している。居心地が悪ければ黙って帰ってよい。断りも説明も要らない。人と関わる場のなかで、参加の意思表示も離脱の意思表示も要求されない場所は多くない。関係を結ぶ手前で、同じ空間にいるだけの状態が許容される。この段階の存在が、関係を築くことに困難を抱える人にとって足がかりになりうる。
3.3 フォーマルとインフォーマルの間
以上をまとめると、公園は「公的に用意されたインフォーマルな場」とでも呼ぶべき位置にある。器は制度が用意し、そのなかで起きることは制度が関与しない。この構造は、都市社会学の古典が繰り返し注目してきた性質でもある。ジェイコブズが1961年に街路について論じた議論も、オルデンバーグが1989年にカフェや酒場について論じた第三の場所の議論も、公式の組織に属さない人々が緩やかに顔を合わせる空間の価値を扱っていた。福祉の側からこれらを読み直すと、そこで論じられていたのは支援に先立つ関係の土壌である。
| 観点 | 相談機関・福祉サービス | 公園 |
|---|---|---|
| 利用の入口 | 申込み・相談・要件の確認 | 手続きなし。歩いて入るだけ |
| 対象の限定 | 年齢・状態・所得などで区切られる | 区切りがない |
| 記録 | 相談記録・利用記録が残る | 残らない |
| 費用 | 自己負担が生じる場合がある | 無料 |
| 退出 | 終了の手続き・説明を伴うことがある | 黙って帰れる |
| 担い手 | 専門職・有資格者 | 特定されない |
| 支援の射程 | 課題の解決まで踏み込む | 居合わせるところまで |
この対比表は、公園が相談機関より優れていると主張するものではない。むしろ両者は担える範囲がまったく異なる。相談機関は課題の解決まで踏み込めるが、そこへ行くという決断を要求する。公園は決断を要求しないが、課題の解決には踏み込めない。福祉の資源としての公園を論じるとは、この二つを対立させることではなく、順に並ぶものとして接続の仕方を考えることである。
4. 三つの孤立と公園——子育て期・高齢期・若者
社会的孤立という語は、しばしば一つの状態を指すかのように用いられる。しかし福祉の実践に照らすと、孤立の中身はライフステージによって大きく異なる。誰と切れているのか、何が失われているのか、どうすれば接点が戻るのか。この三点が異なれば、必要な手立ても異なる。本節では、公園が関わりうる代表的な三つの孤立を並べ、それぞれに公園が用意しうる接点と、用意できないものを区別する。
4.1 子育て期の孤立——時間はあるのに話す相手がいない
乳幼児を育てる時期の孤立は、時間の使い方の変化から生じることが多い。就労を中断すれば職場の関係が薄れ、子どもの生活リズムに合わせるほど従来の交友の時間帯とずれていく。転入してきた家庭であれば、そもそも地域に知り合いがいない。日中に大人と言葉を交わさないまま一日が終わるという状態は、この時期に固有のものである。
この孤立に対して公園が用意しうるのは、同じ時間帯に同じ場所へ来る人が繰り返し重なるという構造である。子どもの年齢が近ければ、遊具の順番を待つ間や砂場の脇で、短い言葉が交わされる可能性が生まれる。重要なのは、この接触が約束を伴わない点である。連絡先を交換しなくてもよく、次に会う保証もない。関係の深さを自分で調整できることは、対人関係に疲れている時期にはむしろ利点になる。
他方、公園にできないことも明確である。育児の不安そのものへの助言、健康や発達に関する判断、経済的な困難への対応。これらは保健・医療・福祉の専門機関が担う領域であり、公園の居合わせが代わりを務めることはできない。公園が担えるのは、専門機関へ行こうと思えるだけの余裕を保つこと、そして誰かが異変に気づく確率をわずかに上げることまでである。
4.2 高齢期の閉じこもり——外出の理由が減っていく
高齢期の孤立は、役割と外出の理由が段階的に失われることから生じることが多い。退職により通勤がなくなり、配偶者や友人との別れが重なり、運転をやめれば行動の範囲が徒歩圏へ縮む。外出の頻度が落ちると体力が落ち、体力が落ちるとさらに外出が減るという循環が生じうる。閉じこもりが心身の機能低下と関わるという指摘は、老年学や公衆衛生の分野で広く共有されている。
この孤立に対して公園が用意しうるのは、「行っても用事がない」ことが不自然でない目的地である。買い物には金銭が要り、施設の催しには参加の意思表示が要る。公園は、ただ歩いて座って帰るだけの往復を、目的のある外出として成立させる。健康遊具が置かれていれば、その使用がさらに外出の口実になる。口実の存在は、外出の習慣を保つうえで小さくない意味を持つ。
ただし、ここでも境界は引かれる。歩行が困難になった段階、認知機能の変化により道に迷う段階になれば、公園までの数百メートルが越えがたい距離に変わる。その段階の支援は、訪問・送迎・相談といった制度の側の仕組みが担うべきものである。公園に期待できるのは主に予防の段階であり、この限定を外すと議論は現実から離れる。
4.3 若者の居場所のなさ——いてよい場所が有料である
中高生や若い世代の孤立は、前の二つとやや性質が異なる。彼らに欠けているのは会話の相手というより、いてよい場所そのものである場合が多い。家にも学校にも職場にも居づらいとき、街のなかで無料で長時間いられる場所は限られる。飲食店には注文が要り、商業施設には滞在の目的が求められる。図書館は静粛が要求される。公園は、この条件のなかで数少ない選択肢になる。
一方で、若者の滞在は地域の側から苦情の対象になりやすい。夜間の騒音、遊具の想定外の使い方、たまり場化への懸念。実際に迷惑が生じているのか、若者が集まっているという事実だけが不安を呼んでいるのかは、慎重に区別されなければならない。区別しないまま排除に傾けば、最も居場所を必要とする層から順に場所が失われる。この摩擦の扱いは第8節で改めて論じる。
| ライフステージ | 孤立の中身 | 公園が用意しうる接点 | 公園が担えないこと |
|---|---|---|---|
| 子育て期 | 日中に大人と話さない | 同じ時間帯の重なり・約束のない会話 | 育児不安への助言・健康の判断 |
| 高齢期 | 外出の理由と役割が減る | 用事がなくても行ける目的地 | 歩けなくなった段階の支援 |
| 若い世代 | 無料で長くいられる場所がない | 滞在の目的を問われない空間 | 生活・進路・就労の相談 |
三つを並べると、公園が提供しているものの共通の核が見えてくる。それは相談でも助言でも交流の場でもなく、「そこにいてよい」という許可である。許可は制度から与えられるのではなく、その場所が誰のものでもないという性質から自動的に生じている。福祉の資源としての公園を論じるとき、この核をどれだけ損なわずに活用できるかが実践上の勝負どころになる。
5. アウトリーチの拠点になる条件
アウトリーチとは、支援を必要とする人からの申請や来所を待つのではなく、支援する側が出向いていく方法を指す。訪問による相談、街頭での声かけ、生活の場に入って行う支援などが含まれる。この方法が重視されてきたのは、申請主義の限界がはっきりしているからである。困難が深いほど申請の力は残っていない。そこで支援の側が動く。では、その出向く先として公園を選ぶことに意味はあるのか。あるとすれば、どのような条件が満たされたときか。本節はこの問いを扱う。
5.1 なぜ公園が出向く先になりうるのか
公園がアウトリーチの場として持つ利点は三つある。第一に、そこにいる人がすでに外へ出ているという事実である。家から一歩も出られない状態の人に届くには訪問が要るが、外へは出られるが相談へは行かない層——おそらく最も人数が多い層——には、屋外の場が接点になりうる。第二に、来訪の理由が問われないため、専門職と居合わせても本人の側に説明の負担が生じない。第三に、繰り返し同じ場所に現れる人がいるため、時間をかけて顔なじみになるという関係の積み上げが可能である。
他方で、公園には固有の難しさもある。誰がいるかは偶然に左右され、目的の相手に会える保証はない。屋外であるため天候と季節に強く影響される。会話は周囲に聞こえうるため、立ち入った話には向かない。これらを踏まえると、公園でのアウトリーチは「困難を抱えた特定の人を探し出す方法」としてよりも、「困難が深まる前の段階で顔を知っておく方法」として設計するのが現実的である。
5.2 条件の第一——定期性
屋外での関わりが成り立つ第一の条件は、時間と場所の定期性である。毎週この曜日のこの時間帯にこの公園にいる、という予測可能性がなければ、相手の側から近づくという選択が生じない。単発の巡回は、その日たまたま居合わせた人にしか届かず、しかも初対面の一度きりで終わる。関係が積み上がらない接触は、支援の入口としてはほとんど機能しない。
定期性は、支援の側の負担という点でも合理性を持つ。決まった時間に決まった場所へ行くという運用は、人員配置に組み込みやすく、担当者が交代しても引き継ぎやすい。逆に、担当者の熱意に依存した不定期の関わりは、その人が異動した時点で途切れる。関係が個人に属してしまうことは、地域福祉の実践がしばしば直面する弱点である。
5.3 条件の第二——用事を持たずにいられること
第二の条件は、専門職がその場で「用事」を持たない状態でいられることである。調査票を配る、名簿をつくる、参加者を募る。こうした目的を掲げて公園に立つと、そこにいる人は目的の対象として扱われる。対象として扱われた瞬間に、公園は誰のものでもない場所ではなくなり、来訪者は説明を求められる立場に置かれる。第3節で述べた入口の低さは、この一手で失われうる。
したがって、公園でのアウトリーチにおいて専門職に求められる基本の姿勢は、待つことと居ることである。話しかけられたら答える、困っている様子があれば声をかける、それ以外は何もしない。成果が測りにくく、事業として評価されにくいこの姿勢を組織として支えられるかどうかが、実際には最大の障壁になる。評価指標を接触件数に置くと、現場は件数を稼ぐ方向へ動き、居るだけの時間は削られていく。
5.4 条件の第三——つなぎ先が実在すること
第三の条件は、話を聞いた先につなぐことのできる仕組みが実在することである。屋外での会話から見えてくるのは、多くの場合、断片的な情報にすぎない。その断片を受け止めて具体的な支援に進めるには、相談機関、行政の窓口、医療機関、地域の団体といったつなぎ先が用意されていなければならない。つなぎ先のないアウトリーチは、困りごとを掘り起こしただけで終わり、話した側に落胆を残す。
この点で、属性で切らずに相談を受け止める体制の整備は、公園での関わりを支える後方の条件になる。屋外で出会う人が、高齢分野なのか子ども分野なのか生活困窮なのかは、その場では分からない。分野を判別してからでなければ受けられない体制のもとでは、判別できない段階の情報は行き場を失う。逆に、分野を問わずいったん受け止める窓口があれば、公園で拾った断片にも受け皿ができる。
5.5 情報の置き方——押しつけずに届ける
会話が生じなくても情報だけは届けたい、という場面は多い。その際に鍵になるのが、情報の置き方である。掲示板に貼られた案内は、誰にも見られずに読める。持ち帰れる紙片は、その場で反応を示さずに済む。声をかけられて手渡されるものは、受け取る/断るという反応を強いる。反応を強いない形式ほど、ためらいの強い人に届く。
- 定期性——曜日と時間帯を固定し、担当者が代わっても続く運用にする
- 非目的性——調査や勧誘を持ち込まず、居ることを業務として認める
- 接続——分野を問わずいったん受け止める窓口を後方に用意する
- 情報の形式——読むだけで済む掲示、黙って持ち帰れる紙片を優先する
- 守秘——屋外で聞いた話を、記録の要否も含めて慎重に扱う
- 代替——雨天や酷暑の時期に切り替えられる屋内の場をあらかじめ決めておく
6. 名づけの逆説——「支援の場」と呼んだ途端に来なくなる
居場所づくりの実践には、繰り返し報告されてきた一つの困難がある。よい場ができ、その価値が認められ、事業として位置づけられ、名前がつき、看板が掛かる。ところがその前後から、それまで来ていた人の一部が姿を見せなくなる。名づけは資源を可視化し、予算と人手を呼び込む。しかし同時に、そこへ行くことの意味を変えてしまう。本節では、この逆説の構造を社会学の概念を用いて分解し、実践がとりうる作法を検討する。
6.1 逆説の構造——場所が人を分類する
ゴフマンが1963年に論じたスティグマの議論は、ある属性が社会的な価値を損なう印として働き、その印を負う人が自らの情報をどう管理するかという問題を扱った。印は身体的な特徴に限らず、経歴や所属によっても与えられる。ここで重要なのは、印が人に貼られるだけでなく、場所を介して貼られる場合があることである。ある場所へ出入りしていることが、その人の状態を周囲に推測させるとき、場所は分類の装置として働く。
ベッカーが同じ1963年に示したラベリングの視点は、これを別の角度から照らす。ある行為や状態が逸脱と見なされるのは、その行為に内在する性質によってではなく、周囲がそう名づけることによってである。名づけは記述ではなく作用である。「子育てに悩む親の集まり」という名は、集まる人の状態を記述しているのではなく、そこに来る人を悩む親として定義する。定義された途端、悩んでいると見られたくない人は来られなくなる。
この二つを重ねると、逆説の構造がはっきりする。支援の場という名は、そこに来る人を「支援を必要とする人」として括る。括られたくない人ほど、その場を避ける。ところが、括られたくないという感情が強い人は、多くの場合、支援を受けることへのためらいが強い人であり、つまり最も届きにくい層である。名づけは、届けたい相手に対してだけ選択的に効きにくくなるという性質を持つ。
6.2 選別と普遍——福祉が長く抱えてきた論点
この問題は居場所づくりに固有のものではなく、社会福祉の設計をめぐる古典的な論点の一形態である。支援の対象を必要度の高い層に絞る選別主義は、限られた資源を効率よく配分できる一方、対象になること自体に印がつきまとう。対象を限定しない普遍主義は、印を生じさせにくい一方、資源が薄く広がり、最も困っている人への手当てが弱くなる。どちらにも理があり、実践は常にその間で調整されてきた。
公園を福祉の資源として見るとき、その位置は普遍主義の極にある。誰も対象として指定されていないため、印がつかない。その代わり、そこにいる誰かが困難を抱えていても、支援は自動的には始まらない。つまり公園は、届きにくさを解消する代わりに、効き目の弱さを引き受けている。この交換関係を理解しないまま、公園に選別主義の効率を期待すると、名づけによって普遍性を壊し、結局どちらの利点も失うことになる。
6.3 名づけずに支える作法
では実践はどうすればよいのか。第一の作法は、場の名前を対象で切らないことである。「高齢者サロン」「ひとり親のつどい」といった名は、対象を明示することで届く相手を絞る効果と、絞られた相手に印を与える効果を同時に持つ。「誰でも」「みんなの」といった名は曖昧で伝わりにくい代わりに、印を生じさせない。どちらを選ぶかは、その場が何を優先するかの表明になる。
第二の作法は、役割を固定しないことである。支援する人と支援される人が固定された関係で並ぶと、そこに来ることは自分の側の役割を受け入れることになる。用意を手伝う、荷物を運ぶ、子どもを見ているといった小さな役割が誰にでも開かれていれば、来訪者は支援される側としてだけ立たずに済む。地域福祉が住民主体を掲げてきた理由の一つは、この非対称の固定を避ける点にある。
第三の作法は、混ざっていることである。ある層だけが集まる場は、その層であることの表示になる。子どもも高齢者も、犬を連れた人も、休憩している通行人も混在している場では、誰がどの理由でそこにいるのかを外から読み取れない。読み取れないことが、来訪者を守る。公園がもともと持っているこの混在性は、意図してつくることが難しく、失うことは容易である。
第四の作法は、名づけを場所ではなく活動に対して行うことである。公園そのものに支援の名を与えるのではなく、そこで行われる特定の時間帯の活動に名をつける。活動が終われば公園は元の公園に戻る。この可逆性があれば、活動に参加しない人の来訪を妨げない。行政が事業として位置づける場合も、対象を公園という場所ではなく事業の時間に限定することで、場の性質を保ちやすくなる。
7. 滞在を支える条件——ベンチ・日陰・トイレという福祉の下部構造
前節までの議論は、公園という場の社会的な性質を扱ってきた。しかし居場所の成否は、しばしばもっと素朴な条件で決まる。座れるか、日陰があるか、用を足せるか、水が飲めるか。これらは福祉の議論では設備の話として脇に置かれがちであるが、実際にはその場に何分いられるかを規定し、何分いられるかが人と人が居合わせる確率を規定する。本節では、滞在を支える物理的な条件を、地域福祉の下部構造として扱う。
7.1 滞在時間が関係の前提になる
人と人の間に関係が生まれるには、同じ場所に一定の時間、同時にいる必要がある。通り過ぎるだけの人同士の間には、会釈以上のことは起こりにくい。逆に、それぞれが座って三十分いれば、天気の話が交わされる余地が生じる。関係は意志だけで生まれるものではなく、滞在時間という物理的な条件の上に確率的に生じる。この確率を上げる設備が、ベンチであり、日陰であり、トイレである。
この観点に立つと、設備の意味は変わる。ベンチは休憩のためだけの器具ではなく、その公園における滞在の上限時間を決める装置である。座る場所がなければ、人は用が済み次第帰る。とりわけ立ち続けることが負担になる人——妊娠中の人、高齢の人、痛みを抱える人——にとって、ベンチの有無は滞在できるかどうかの分岐点になる。座れないことは、その人をその場から静かに排除することに等しい。
7.2 トイレという最も大きな制約
滞在を規定する条件のなかで、影響が最も大きいものの一つがトイレである。おむつ替えを要する乳児を連れた保護者、頻尿の傾向がある高齢者、外出時のトイレに不安がある人にとって、園内にトイレがあるかどうか、そこが車いすやおむつ替えに対応しているかどうかは、その公園を選ぶかどうかそのものを左右する。トイレのない公園は、体力と体調に余裕のある人だけが使える公園になる。
多目的トイレの意味は、車いす利用者に限られない。ベビーカーごと入れること、介助者と一緒に入れること、おむつ交換台が使えること。これらは異なる利用者の異なる必要を、一つの設備が同時に満たしている。一つの設備が複数の層の外出を支えるという構図は、施設整備の優先順位を考えるうえで重要である。設備は利用者ごとに用意されるのではなく、条件の重なりのなかで効く。
7.3 日陰・水・屋根——季節に対する備え
屋外の場は季節に左右される。夏の高温は滞在の可否を直接に決め、冬の風は高齢者の外出を抑える。日陰をつくる樹木、屋根のある休憩所、水飲み場の有無は、その公園が一年のうち何か月使えるかを決めている。とくに暑さについては、環境省が公表する暑さ指数の目安などが参考にされているが、どこまで活動してよいかは個々の体調に依存するため、判断は医療機関をはじめとする関係機関の助言に委ねられるべきものである。
季節の制約は、居場所づくりの運用設計にも影響する。屋外だけを拠点にした活動は、真夏と真冬に途切れる。途切れれば関係も途切れる。したがって、公園を拠点とする実践には、季節に応じて切り替えられる屋内の場が対で必要になる。公園と集会所、公園と公共施設のロビーといった組み合わせを、あらかじめ用意しておくかどうかが、活動の継続性を分ける。
7.4 排除的な設計をめぐって
設備は滞在を支えるだけでなく、滞在を妨げるためにも用いられうる。横になれないよう仕切りを入れたベンチ、腰を掛けにくい形状の縁、長居を防ぐための照明や音響の工夫。こうした設計は、迷惑行為への対処として導入されることが多いが、結果として、そこに長くいる必要のある人から順に場所を奪う。都市空間の研究では、こうした手法が排除の設計として批判されてきた。
ここで注意すべきは、対立の構図が「排除する側」と「排除される側」の間にあるとは限らないことである。近隣の住民が抱く不安も現実であり、管理する側が抱える責任も現実である。問題は、不安への対処が、その場所を必要とする別の誰かへの影響を検討しないまま実行されうる点にある。設計を変更する前に、誰の滞在が短くなるのかを一度問うこと。この手順を踏むだけでも、意図しない排除はかなり減らせる。
- ベンチ——座れるかどうかが滞在時間の上限を決める
- 背もたれ・ひじ掛け——立ち座りの負担を左右し、利用できる層を広げる
- 日陰と屋根——一年のうち使える期間を決める
- トイレ——多目的の対応が、乳児連れ・介助・車いすの外出を同時に支える
- 水飲み場——夏の滞在と、飲み物を用意できない場合の備えになる
- 園路の平坦さ——ベビーカー・車いす・杖での到達可能性を左右する
8. 反論と限界——公園に何を期待しないか
ここまでの議論は、公園を地域福祉の資源として積極的に評価してきた。しかし一つの場所に期待を集めすぎることは、その場所が担えない役割まで押しつけ、評価そのものを誤らせる。本節では、本稿の主張に向けられうる四つの反論を取り上げ、それぞれに応答しながら、主張の射程を絞り込む。反論に答えることは主張を弱めることではなく、主張が成り立つ条件を明示することである。
8.1 来られる人にしか届かない
第一の反論は届く範囲に関わる。公園が孤立に効くとしても、その恩恵を受けるのは自力で外へ出られる人だけではないか。家から出られない人、外出そのものが困難な人にとって、公園は存在しないに等しい。公園をよく使う人が元気に見えたとしても、それは公園が人を元気にしたのではなく、元気な人が公園に来ているだけかもしれない。原因と結果を取り違える危険は、この種の議論に常につきまとう。
本稿はこの反論を退けない。むしろここから二つの限定を引き出す。第一に、公園に期待できるのは主として予防と維持の段階であり、外へ出られなくなった段階の支援は訪問と送迎という制度の側の仕組みが担う。第二に、それでも環境の改善には固有の意味がある。効果が最も現れるのは、確実に来られる人でも、まったく来られない人でもなく、その境目にいる人——座れるなら行ける、トイレがあるなら行ける、日陰があるなら夏でも行けるという条件つきの人——である。この層を勘定に入れない評価は、環境の効果を過小に見積もる。
8.2 公園は安上がりな代替物として使われかねない
第二の反論は、より政治的な性質を持つ。公園に福祉的な役割を期待する議論は、専門的なサービスを縮減する口実に転用されうる、というものである。公園があるから通いの場は減らしてよい、ベンチを増やしたのだから相談の窓口は統合してよい。こうした論法は、善意の議論の後ろに容易に忍び込む。無料で使える場所は、他の費用を削る根拠として持ち出されやすい。
この危険は現実的であり、本稿は明確に線を引く。公園は専門的な支援の代替物ではない。第3節の対比表が示したとおり、公園が担えるのは居合わせるところまでであり、課題の解決には踏み込めない。両者は互いを置き換える関係ではなく、順に並ぶ関係にある。手前の日常が厚ければ支援の開始が遅くなることはありうるが、支援そのものが不要になるわけではない。
加えて、公園の維持管理そのものが継続的な費用と人手を要する事業であることも忘れてはならない。樹木の剪定、トイレの清掃、遊具の点検、除草、ベンチの補修。無料で使える施設は、ただで維持される施設ではない。公園を地域福祉の基盤として位置づけることは、その維持に資源を配分する判断と一体でなければ、言葉だけの評価に終わる。
8.3 住民同士の摩擦を公園が生む
第三の反論は、公園が支え合いの場である前に、しばしば苦情の発生源であるという事実に関わる。ボールの音、子どもの声、夜間の滞在、犬の扱い、喫煙、駐車。公園をめぐる摩擦は各地で報告されており、利用のルールが年々細かくなっていく傾向もある。支え合いを語る前に、まず衝突をどう扱うのかという問いは正当である。
この反論に対する本稿の応答は二段階である。第一に、摩擦の存在は場が使われている証拠でもある。誰も来ない公園に苦情は生じない。第二に、しかし摩擦の調整には手間がかかり、その手間を誰が負うのかが決まっていない場合が多い。管理する部署は苦情の受け手にはなるが、住民同士の関係を調整する役割までは担いにくい。ここに、地域福祉の側——自治会、民生委員、社会福祉協議会といった主体——が関わる余地がある。禁止の掲示を増やすことは調整の代わりにはならず、掲示が増えるほど場の敷居は静かに上がっていく。
8.4 見守りの責任を誰が負うのか
第四の反論は責任の所在に関わる。公園に見守りの機能を期待するとき、そこで何かが起きた場合の責任は誰にあるのか。居合わせた人に通報や介助の義務があるのか。専門職が定期的に立っていた場合、見落としは過失になるのか。この問いを曖昧にしたまま期待だけを語ることは、現場に不安を残す。
本稿の立場は、公園における関わりを義務ではなく可能性として位置づけることである。居合わせた人に期待されるのは、気づいたときに声をかけうるという可能性であって、見守りの責務ではない。専門職が関わる場合も、その活動の範囲と限界を、実施する側と地域の双方があらかじめ共有しておくことが望ましい。曖昧な期待は、担い手を疲弊させ、結果として活動そのものを短命にする。
9. 担い手と協働——住民主体をどう支えるか
地域福祉の実践は、誰がそれを担うのかという問題から逃れられない。公園を居場所として活かす取り組みも、掲げるだけなら容易だが、続けるには人が要る。本節では、担い手をめぐる三つの問題——住民主体という原則の危うさ、担い手の細り、行政と専門職の役割——を順に検討し、協働の設計として何を決めておくべきかを整理する。
9.1 住民主体という原則の両義性
住民主体は地域福祉の原則であり、支援される側と支援する側の固定を避けるという意味で、第6節で述べた名づけの逆説への有効な処方でもある。地域の課題を最もよく知るのはそこに暮らす人であり、日常的な気づきは制度の外側でしか生じない。この意味で住民主体は、単なる理念ではなく実務上の必要から導かれる原則である。
しかし同じ原則は、公的な責任を住民に転嫁する論法にも使われうる。地域でできることは地域で、という言い方は、支え合いの奨励にもなれば、公的な役割の縮小の正当化にもなる。両者を分ける基準は単純である。住民が担う活動に対して、公的な側が場所・費用・情報・専門的な後方支援を用意しているかどうか。用意なしに期待だけが向けられているなら、それは主体化ではなく押しつけである。
9.2 担い手が細っていくという構造的な問題
地域の活動を支えてきた層——自治会の役員、民生委員・児童委員、地区の福祉活動を担う住民、清掃や花壇の手入れを続けてきた人々——の高齢化と後継難は、各地で共通して語られる課題である。就労のかたちが変わり、同じ地域に長く住み続ける人が減れば、地域の役職を引き受ける余力は細る。この傾向を前提としない計画は、机上の想定にとどまる。
この制約のもとで現実的なのは、担い手の総量を増やそうとするより、一人あたりの負担を小さく設計することである。毎週の当番ではなく月に一度、二時間ではなく三十分、責任者ではなく交代制。参加の単位が小さいほど、就労している世代や子育て中の世代も関わりうる。公園という舞台は、この点で扱いやすい。清掃、点検の目視、季節の花の手入れ、居合わせて挨拶をするといった行為は、いずれも小さな単位に分けられる。
また、担い手を福祉の関係者に限らないことも重要である。犬の散歩で毎朝同じ時間に公園を通る人、ジョギングの途中で立ち寄る人、通学路として通る中高生。これらの人々は自らを担い手とは考えていないが、その存在は場の目として働く。ジェイコブズが街路について論じた見守りの構造は、意図しない担い手が場を成り立たせるという指摘であった。制度化されない関わりを、制度化しないまま尊重する姿勢が要る。
9.3 行政と専門職の役割——後方に立つ
住民主体を掲げる場合、行政と専門職の役割は前面ではなく後方に置かれる。具体的には、場所の確保と維持、活動に必要な備品や保険の手当て、関係する部署間の調整、そして相談が生じたときの受け皿である。とくに部署間の調整は、公園を福祉の文脈で扱う際に避けて通れない。公園を管理する部署と、福祉を担当する部署と、地域づくりを担当する部署は、通常それぞれ別に置かれている。
この分断は、現場では具体的な形で現れる。ベンチを増やしたいという福祉側の希望は公園側の予算で判断され、公園での活動の可否は管理上の基準で決まり、活動の担い手を探す作業は地域づくりの側が抱える。三者の会話がなければ、どの側も善意でありながら話が進まない。逆にいえば、公園を地域福祉の資源として活かす取り組みの実質は、多くの場合、部署間の情報共有という地味な作業に集約される。
専門職の側にも役割の切り替えが求められる。第5節で述べたとおり、公園における専門職は、支援を提供する主体としてより、居合わせて必要なときにつなぐ存在として振る舞うほうが場の性質を壊しにくい。その振る舞いを組織として評価できるかどうか——件数では測れない時間を業務として認められるかどうか——が、実際の可否を分ける。
9.4 協働の前に決めておくこと
- 誰が決めるのか——活動の内容と中止の判断を、どの主体が行うかを先に決める
- どこまで担うのか——見守りの範囲と、専門機関へ渡す線引きを共有する
- 続けられる単位か——一人あたりの負担を月単位・時間単位で具体化する
- 抜けたときにどうするか——担当者の交代・不在に備えた引き継ぎの形を決める
- 苦情が来たらどこが受けるのか——受付と調整の窓口をあらかじめ定める
- やめ方を決めておく——終了の条件を最初に決め、続けること自体を目的化しない
最後の項目は軽視されやすいが重要である。地域の活動は、始めるより終えるほうが難しい。終了の条件を最初に決めておかなければ、担い手が疲弊しても止められず、無理を重ねた末に関係ごと崩れる。やめてよいという合意があることが、かえって長く続く条件になる。
10. 磐田市の公園への示唆
本節では、ここまでの概念的な整理を磐田市の公園に引きつける。用いるのは、市が公開する都市公園のオープンデータ(都市公園一覧)と、市の施設ガイド(公園)の記載である。当サイトはこの二つを突き合わせて100園を収録している。内訳は、オープンデータに載る94園と、施設ガイドにのみ個別ページのある6園である。以下の記述は公開情報から読み取れる範囲にとどまり、現地でしか分からない事項は含まない。
10.1 数と分布——身近な公園が基盤である
種別ごとの数を見ると、街区公園が51園で最も多く、近隣公園14園、都市緑地10園がこれに続く。地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、そして法の対象外として扱われる園が6園ある。国の標準では街区公園の誘致距離は250メートル、近隣公園は500メートル、地区公園は1キロメートルとされる。第2節で述べた小地域福祉活動の単位——歩いて行き来できる距離——と、街区公園の250メートルという想定はほぼ重なる。磐田市の公園の基盤は、大規模な公園ではなく、この半数を占める街区公園にある。
地区別の分布は一様ではない。豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園に対し、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。この差は人口や市街化の度合い、宅地開発の経緯を反映したものであり、そのまま福祉的な不足を意味するわけではない。ただし、公園を徒歩圏の資源として捉えるなら、園数の少ない地区では一つひとつの公園が担う役割が相対的に重くなる。どの地区でどの公園が事実上の中心になっているかは、公開情報だけでは判断できない。
10.2 滞在を支える設備の記載
第7節で滞在の条件として挙げた項目のうち、公開データから確認できるのはトイレの有無である。オープンデータ94園のうち、トイレ有は69園、車いす対応トイレ有は34園とされる。あわせて、砂場有43園、遊具有64園、駐車場は市の施設ガイドの記載などから33園と整理されている。トイレのある園が七割前後にのぼる一方、車いす対応のトイレは三分の一程度にとどまる。この差は、外出時のトイレに不安を抱える人にとって、行ける公園と行きにくい公園の線引きにそのまま重なりうる。
個別の記載を見ると、面積の小さい園でも設備が整えられている例がある。見付の見付本通広場公園は372平方メートルと市内でも小さい部類だが、施設ガイドの園内施設にはトイレ(多目的トイレ)とある。逆に、面積が広くても施設ガイドに園内施設の記載がない園もある。面積と、そこにいられるかどうかは別の指標である。第7節の議論に照らせば、滞在の可否を左右するのは広さより設備であり、小さな公園にトイレとベンチがあることの意味は小さくない。
高齢期の外出を支える設備として本稿が注目してきた健康遊具についても、施設ガイドに記載のある園がいくつかある。中泉の北川瀬公園と中泉グリーンパーク、御厨の二子塚公園、豊田の磐田ららシティ公園・豊田原新田公園・豊田東原梅ノ木公園、見付の今之浦公園などである。南部のクリーンセンター公園には健康器具の記載がある。これらの園は、用事がなくても行ける目的地としての条件を、設備の面から部分的に備えていることになる。
10.3 誰でも使えるという設計の手がかり
第6節で論じた「混ざっていること」の観点から注目されるのは、御厨の安久路公園である。地区公園で面積は32,001平方メートル、施設ガイドの園内施設には複合遊具(インクルーシブエリアあり)、ブランコ(インクルーシブアイテムあり)、幼児用遊具、砂場、トイレ(多目的トイレ)、流れなどが挙げられている。障害の有無で場所を分けるのではなく、同じ遊び場のなかに使える形を用意するという発想は、対象を名指しせずに支えるという本稿の議論と方向を同じくする。
見付の今之浦公園の記載も、混在という観点から読める。施設ガイドには、遊びと賑わいのゾーンとして屋根付広場、複合遊具、ふわふわ遊具、噴水広場、芝生広場、3歳未満児遊具が、憩いとふれあいのゾーンとして健康遊具、じゃぶじゃぶスポット、流れ、芝生広場が挙げられている。年齢の異なる利用者が同じ園内に別々の居場所を持ちつつ視界を共有する構成であり、世代がすれ違う場としての条件を備えている。中泉の中央公園も、多目的グラウンドと遊具と多目的トイレを併せ持つ地区公園として、同種の役割を担いうる位置にある。
10.4 踏査がこれから確かめること
以上はすべて公開情報の読解であり、当サイトの現地踏査はまだ始まっていない。第7節で滞在の条件として挙げた項目のうち、公開データから分からないものは多い。ベンチの数と配置、背もたれの有無、日陰の広がりと時間帯による変化、園路の段差と舗装、トイレの実際の使い勝手、掲示の内容と量。これらは現地で見なければ判断できず、今後の踏査で一園ずつ確かめるほかない。
また、地域福祉の観点からは、設備以上に運用の実態が問われる。どの公園がどの時間帯に使われているか、地域のどの団体が関わっているか、苦情や要望がどこへ寄せられているか。これらは踏査でも十分には分からず、市の担当課や地域の関係者との対話を要する。市の公園を管理するのは都市整備課(電話 0538-37-4806)であり、施設に関する記載や利用の可否については市の情報が一次の根拠となる。本稿の示唆は、その確認に先立つ仮説の提示にとどまる。
11. 結論と今後の課題
本稿は、社会福祉学、とりわけ地域福祉の枠組みから公園を捉え直し、その位置づけ、条件、限界を検討してきた。結論を三点に整理する。
第一に、公園は「公的に用意されたインフォーマルな場」という中間的な位置にある。器は都市公園法と公の施設の制度が用意し、利用の局面では申込みも要件も記録も要求しない。この非対称が入口の低さを生み、支援を受けることへのためらいが強い人ほど、その低さの恩恵を受ける。ただし公園が担えるのは居合わせるところまでであり、課題の解決には踏み込めない。相談機関と公園は競合ではなく、順に並ぶ関係にある。
第二に、公園を専門職のアウトリーチの拠点とするには条件が要る。時間と場所の定期性、用事を持たずに居られること、分野を問わず受け止めるつなぎ先が後方に実在すること、そして反応を強いない形式で情報を置くこと。この四つが欠ければ、公園に出向くことは単発の接触に終わり、関係の積み上げは生じない。件数では測れない時間を業務として認められるかどうかが、実務上の分かれ目になる。
第三に、公園を福祉の資源として扱う実践は、名づけの逆説に正面から向き合わなければならない。「支援の場」という名は資源を可視化し予算を呼び込む一方で、そこへ行くこと自体を状態の表示に変え、届けたい相手ほど遠ざける。対象で切らない名、固定されない役割、混ざっている状態、そして場所ではなく活動に名づけるという可逆性。これらは曖昧さの推奨ではなく、届きにくさに対する設計上の応答である。
限界も明示しておく。本稿は文献整理と概念分析であり、実証的な検証を伴わない。公園の利用が孤立の軽減にどの程度寄与するかという問いには、本稿は答えていない。答えるには設計された調査が必要であり、その設計自体が、第6節で論じた名づけの問題を再び呼び込む——調査の対象として括ることが、括られた側の行動を変えるからである。この再帰的な難しさは、地域福祉の研究に共通する課題でもある。
今後の課題は三つの層に分かれる。第一は現地の層である。当サイトの踏査はこれから始まる段階にあり、ベンチの数と配置、日陰の広がり、園路の状態、トイレの様式、掲示の内容といった滞在の条件を、100園について一つずつ記述していく作業が残されている。設備の有無だけでなく、そこに何分いられるかという観点から記述を組み立てることが、本稿の議論を実地に接続する道になる。
第二は運用の層である。どの公園がどの時間帯に誰に使われているか、どの地域団体が関わっているか、摩擦がどこで生じているか。これらは公開データからも踏査からも十分には見えず、市の担当課や地域の関係者との継続的な対話を要する。とくに、公園を管理する部署と福祉を担当する部署と地域づくりを担当する部署の間で情報がどう共有されているかは、実務の成否を左右する論点として残る。
第三は概念の層である。本稿は公園を非制度的資源として位置づけたが、同じ位置には店先、寺社の境内、集会所、図書館のロビーといった他の場も並ぶ。これらを一括して扱うのか、性質の違いによって区別するのか。区別するとすれば何が指標になるのか。地域の資源を面として捉える作業は、公園一つを論じるだけでは完結しない。本稿はその作業の一部として位置づけられる。
最後に、本稿が繰り返し述べてきたことを一文にまとめておきたい。公園が福祉にとって価値を持つのは、そこが福祉の場ではないからである。この一見矛盾した性質を壊さずに活かすという課題は、制度を設計する側にも、地域で活動する側にも、そして公園を記述しようとする当サイトにも、同じ重さでかかっている。
参考文献
- 岡村重夫(1974)『地域福祉論』(光生館)
- 社会福祉法(昭和26年法律第45号。昭和26年制定の社会福祉事業法を平成12年改正により改称)
- 民生委員法(昭和23年法律第198号)
- 生活困窮者自立支援法(平成25年法律第105号)
- 地方自治法(昭和22年法律第67号)——公の施設に関する規定
- 厚生労働省「地域包括ケアシステム」(高齢者の保健・福祉に関する施策の説明)
- 厚生労働省「地域共生社会」の実現に向けた施策(重層的支援体制整備事業を含む)
- ジェーン・アダムズ(1910)『Twenty Years at Hull-House』(The Macmillan Company)
- アーヴィング・ゴフマン(1963)『スティグマの社会学』(石黒毅訳、せりか書房)
- ハワード・S・ベッカー(1963)『アウトサイダーズ』(村上直之訳、新泉社)
- ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
- レイ・オルデンバーグ(1989)『サードプレイス』(忠平美幸訳、みすず書房、2013)
- 世界保健機関(WHO)(2007)「Global Age-friendly Cities: A Guide」
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。