人文学修辞学
「みどり」「ふれあい」「憩い」——公園をめぐる言葉の修辞学
要旨
本稿の目的は、公園について語られる言葉——計画・条例・広報・看板・案内文に繰り返し現れる語彙——を修辞学の対象として分析することである。修辞学は言葉が人をどう動かすかを扱う古代以来の学問であり、文の飾りの技術である以前に説得の技術である。本稿はアリストテレス『弁論術』のエトス・パトス・ロゴスという三つの説得手段、隠喩と換喩の区別、常套句(クリシェ)が反復によって意味を摩耗させる過程という三つの道具立てを用い、「みどり」「ふれあい」「憩い」「にぎわい」という語が何を語り、何を語らずに済ませているのかを検討する。
分析の結果、第一に、公園の言葉は情緒に訴えるパトスと語り手の信頼に訴えるエトスに偏りやすく、面積・誘致距離・設備の有無といったロゴスの言葉が後景に退きやすいことを示す。第二に、「みどり」は色の名で植生と環境の全体を指す換喩であり、「ふれあい」は身体的な接触の語を人間関係に転用した隠喩であって、いずれも名詞化によって主語——誰が誰と、どこで、いつ——を消す働きをもつことを論じる。第三に、「憩い」と「にぎわい」という互いに反する理想が同じ場所に並べて掲げられ、静けさを求める人と賑わいを求める人の利害の対立が語彙の水準で覆われることを指摘する。第四に、常套句の摩耗を新鮮な比喩・慣用・儀礼の三段階として整理し、名づけが期待をつくり期待が使われ方をつくる循環を、オースティンの遂行的発話の観点から述べる。
結論として本稿が提案するのは、公園の言葉から情緒語を追放することではなく、情緒語の手前に測れる言葉を置くこと——面積、種別、誘致距離、設備の有無、木陰のできる時間帯といった具体を先に述べ、そのうえで比喩を使うこと——である。磐田市の都市公園100園の名称と市の記載を素材に、この語彙の慣習が地方都市の記述にどう現れるかを確かめ、当サイト自身の書き方への自己適用を課題として残す。当サイトの踏査はこれからであり、園内の掲示の実際の文言の確認は今後の課題である。
キーワード修辞学常套句隠喩換喩エトス・パトス・ロゴス公園広報磐田市
1. はじめに——問題の所在
公園について書かれた文章を集めてみると、書き手も目的も媒体も違うのに、同じ語がくり返し現れることに気づく。「緑豊かな」「みどりあふれる」「ふれあいの場」「憩いの空間」「にぎわいの創出」「安全で安心な」。この語彙は、都市計画の文書にも、自治体の広報にも、園内の掲示にも、地域の便りにも、そして当サイトのような民間の読みものにも現れる。誰かが一度決めたわけでもないのに、公園を語ろうとすると、多くの人が同じ引き出しに手を伸ばす。
本稿は、この語彙の慣習を修辞学の対象として扱う。修辞学(rhetoric、レトリック)とは、言葉が人をどのように動かすかを体系的に扱う学問である。日本語で「レトリック」というと、飾り立てた言い回しや、内容の乏しさを覆う技巧という否定的な意味で使われることが多い。しかし古代ギリシア以来の修辞学は、まず第一に説得の技術であり、聞き手のいる場所で何をどう言えば納得が生まれるかを扱う実践的な学であった。アリストテレスは『弁論術』で、修辞学を「あらゆる事柄について説得の可能な方法を見出す能力」として定義している。
公園の言葉は、まさにこの意味で説得の言葉である。公園をつくる、直す、残す、閉じる、使い方を変える——そのどれもが公費と土地と近隣の同意を要する決定であり、決定には言葉による正当化がともなう。「憩いの場を確保する」という一句は、単なる描写ではなく、その決定を支える理由として働いている。だからこそ、その語彙がどんな理由づけを可能にし、どんな問いを立てにくくしているのかを検討する意味がある。
本稿の問いは四つである。第一に、公園について語られる言葉は、アリストテレスのいう三つの説得手段——語り手の信頼(エトス)、聞き手の感情(パトス)、事柄の筋道(ロゴス)——のどれに偏っているのか。第二に、「みどり」「ふれあい」といった語は、修辞学の分類でいえばどのような比喩なのか。隠喩なのか、換喩なのか、その違いは何をもたらすのか。第三に、常套句(クリシェ)はなぜ、どのように意味を摩耗させるのか。摩耗した言葉は無害な飾りなのか、それとも何かをしているのか。第四に、名づけが期待をつくり、その期待が実際の使われ方をつくるという循環は成り立つのか。
方法は文献の整理と語彙の分析である。理論的な枠組みには、アリストテレス『弁論術』を出発点に、隠喩と換喩を言語の二つの軸として捉えたヤコブソン、日本語のレトリックを体系的に読み直した佐藤信夫、比喩が思考の枠組みそのものであると論じたレイコフとジョンソン、既製の言い回しが思考を省略させると批判したオーウェル、日常の語りが自然な事実として通用してしまう仕組みを分析したバルトを用いる。素材は、公園という主題をめぐって広く流通している語彙と、磐田市の都市公園100園について当サイトが整理した名称・種別・面積・市の記載である。
はじめに、本稿が何を批判の対象としないかを明確にしておく。本稿は特定の自治体や特定の広報担当者の文章を批判しない。ここで取り上げる語彙は全国で広く共有されたものであり、誰か一人の選択の結果ではない。むしろ問題にすべきは、個人の判断を待たずに文章に入り込んでくる語彙の慣習そのものである。そしてこの慣習は行政の外にもある。民間の読みものも、地域の団体の便りも、当サイトも、同じ引き出しに手を伸ばしうる。第9節では、この分析を当サイト自身の書き方に折り返して適用する。
隣接する主題との関係も断っておきたい。公園の名前を扱う研究には、名前の内部構造や由来、読みと表記を対象とする地名学の系統がある。本稿はそれとは別の角度に立つ。名前がどこから来たかではなく、名前と説明文が読み手に対して何をしているか、どんな期待を生み、どんな問いを立てにくくしているかを問う。前者が言葉の来歴の学であるとすれば、本稿は言葉の働きの学である。
この問いは学問上の関心にとどまらない。保護者は、まだ行ったことのない公園を、名前と短い説明文から想像する。「ふれあい」とあれば人がいると思い、「みどり」とあれば木陰があると思う。その想像と現物との落差は、暑い日に幼い子を連れて歩いた末の失望となって返ってくる。行政にとっては、語彙の選び方は期待の管理であり、書きすぎれば苦情を招き、書かなすぎれば使われない。地域にとっては、公園を語る言葉は、その場所をどう使ってよいかについての暗黙の合意を形づくる。修辞学の道具立ては、この三者がばらばらに感じている違和感を、一つの枠組みで見通すことを可能にする。
本稿の構成は次のとおりである。第2節で修辞学の道具立てを整理する。第3節でエトス・パトス・ロゴスの配分を公園の文章に当てはめる。第4節で「みどり」を換喩として、第5節で「ふれあい」を隠喩として分析する。第6節で「憩い」と「にぎわい」という相反する理想の共存を扱う。第7節で常套句の摩耗の仕組みを三段階に整理し、常套句擁護論に応答する。第8節で名づけと期待と使われ方の循環を論じる。第9節で磐田市の公園への示唆を述べ、第10節で結論と今後の課題を示す。
2. 先行研究と概念の整理——修辞学の道具立て
本節では、以下の分析で用いる修辞学の概念を整理する。修辞学は二千年以上の蓄積をもつ学問であり、その全体を扱うことはできない。ここでは公園の言葉を読むために必要な三組の道具——説得の三手段と弁論の三種類、隠喩と換喩の区別、常套句と死んだ比喩の理論——に限って紹介する。専門用語は初出で説明し、以後は本稿の意味で用いる。
2.1 アリストテレス——三つの説得手段と三つの弁論
アリストテレス『弁論術』は、説得を成り立たせるものを三つに分ける。第一はエトス(ethos)で、語り手の人柄と信頼である。同じ内容でも、誠実で見識があると思われている人が言えば通り、そうでなければ通らない。第二はパトス(pathos)で、聞き手の側に起こる感情である。喜び、不安、期待、懐かしさといった心の動きが判断を左右する。第三はロゴス(logos)で、事柄そのものの筋道、すなわち根拠と推論である。数値、事例、因果の説明がこれにあたる。三つは対立するものではなく、実際の説得ではつねに混ざり合っている。
アリストテレスはさらに、弁論を三種類に分ける。議会的弁論は将来について何をなすべきかを論じ、有益か否かを争点とする。法廷的弁論は過去について何が起きたかを論じ、正か不正かを争点とする。演示的弁論(epideictic)は現在について、ある人や事物を称賛あるいは非難する。公園をめぐる言葉の多くは、この第三の演示的弁論に属する。式典の挨拶、広報の紹介記事、案内の看板、パンフレットの一文——これらは何かを決めるための議論ではなく、その場所のよさを言祝ぐ言葉である。演示的弁論では、誇張と美化がもともと許容されており、聞き手も細部の真偽を厳密には問わない。公園の言葉が情緒に傾きやすい理由の一半は、この文種の性格にある。
2.2 隠喩と換喩——ヤコブソンと佐藤信夫
比喩には多くの種類があるが、本稿では三つを区別する。隠喩(メタファー)は、似ているものどうしを重ねる比喩である。「胸に触れる話」のように、本来は身体の接触を言う語を心の動きに転用するのがこれにあたる。換喩(メトニミー)は、隣り合うもの、近接するもので置き換える比喩である。「鍋を食べる」「永田町が動く」のように、容器で中身を、場所で組織を指す。提喩(シネクドキ)は、部分で全体を、あるいは種で類を指す。「花見」の花が桜を指すのがこれである。
ヤコブソンは、この隠喩と換喩の対を、言語がもつ二つの働き——似たものを選ぶ働きと、隣り合うものをつなぐ働き——に対応させた。日本語のレトリック研究では、佐藤信夫が『レトリック感覚』(1978)と『レトリック認識』(1981)で、比喩を文の飾りではなく認識の方法として読み直している。名づけようのないものに名を与える発見的な働きが比喩にはある、というのが佐藤の中心的な主張である。レイコフとジョンソンは『レトリックと人生』(1980)で、比喩は言語表現の問題である以前に思考の枠組みであり、日常語の大部分が気づかれない比喩の上に成り立っていると論じた。
| 種類 | 置き換えの原理 | 公園の言葉での例 |
|---|---|---|
| 隠喩 | 似ているものを重ねる | ふれあい/心をはぐくむ/街の顔 |
| 換喩 | 隣り合うもので置き換える | みどり/芝生/ベンチ(=休息) |
| 提喩 | 部分で全体を、種で類を指す | 花(=桜)/遊具(=公園の機能全体) |
2.3 常套句・死んだ比喩・神話
第三の道具は、比喩の摩耗をめぐる議論である。新しく作られた比喩は、聞き手に一瞬の驚きと理解の飛躍をもたらす。しかし同じ比喩が何度も使われると、その飛躍は感じられなくなり、辞書に載る通常の語義に沈む。これを死んだ比喩(dead metaphor)と呼ぶ。「山のふもと」「机の脚」はかつて比喩であったが、いまは誰も身体を思い浮かべない。常套句(クリシェ)は、この摩耗がさらに進み、語の組み合わせごと既製品として流通するようになった状態を指す。
オーウェルは「政治と英語」(1946)で、既製の言い回しは書き手から考える手間を省き、そのぶん文章から具体を追い出すと論じた。既製の句を並べれば文はできあがるが、書き手自身が何を言っているのかを見ないまま文が進む。バルトは『神話作用』(1957)で、ある社会で当然とされる語り方が、歴史的につくられたものであることを忘れさせ、自然な事実であるかのように受け取られる仕組みを分析した。ケネス・バークは説得を「同一化」の過程として捉え、語彙の共有が集団の一体感をつくることに注目した。ペレルマンとオルブレヒツ=ティテカは、形式論理では扱えない価値をめぐる論証の型を整理し、聴衆に応じて説得が変わることを示した。
これらを合わせると、常套句をめぐる評価は一様ではないことがわかる。オーウェルの側から見れば常套句は思考の省略であり排すべきものだが、バークの側から見れば共有された語彙は集団の一体感をつくる装置であり、ペレルマンの側から見れば聴衆が受け入れやすい前提の貯蔵庫である。本稿は、この両義性を保ったまま公園の言葉を読む。常套句を一律に断罪するのではなく、それが何を可能にし、何を見えなくしているかを、語ごとに分けて検討する。
註:本稿でいう「公園の言葉」とは、特定の文書群ではなく、公園という主題をめぐって広く流通している語彙と言い回しの総体を指す。個別の文書の引用は、磐田市の施設ガイドの記載など、当サイトが出典を確認できたものに限る。
3. 説得の三つの支え——公園の文章におけるエトス・パトス・ロゴス
公園について書かれる文章は一種類ではない。都市計画の方針を示す文書、条例と規則の条文、広報紙の紹介記事、園内の掲示、地図やデータベースの項目、地域の団体の便り、そして民間の読みもの。それぞれ読み手も目的も違い、当然、説得の重心も違う。本節では、アリストテレスの三つの説得手段を物差しにして、この重心の置かれ方を見る。目的は優劣の判定ではなく、どの文章がどの支えに寄りかかっており、その寄りかかりが何を招くかを明らかにすることである。
3.1 ロゴスの言葉——測れることを言う
ロゴスとは事柄の筋道であり、公園についていえば、測れることを測れる形で述べる言葉である。面積が何平方メートルか。都市公園法上の種別は何か。誘致距離の目安はどれだけか。トイレはあるか、車いす対応か、砂場はあるか、駐車場はあるか。国の標準では、街区公園は面積0.25ヘクタール・誘致距離250メートル、近隣公園は2ヘクタール・500メートル、地区公園は4ヘクタール・1キロメートルを目安とする。これらは検証できる言葉であり、読み手が自分の条件に照らして判断できる。
ロゴスの言葉は退屈である。「街区公園、2,458平方メートル、トイレ有、砂場有」という記述には情感がない。しかしこの退屈さこそが、読み手に判断を委ねる姿勢のあらわれでもある。書き手はここで結論を与えていない。よい公園だとも、行くべきだとも言っていない。行くかどうかは読み手が決める。修辞学の用語でいえば、ロゴスに重心を置いた文章は、聞き手の理性を尊重する文章である。
3.2 パトスの言葉——情に訴える
パトスの言葉は、読み手のなかに感情を呼び起こす。「子どもたちの笑顔があふれる」「四季の移ろいを感じられる」「心やすらぐひととき」。これらは事実の記述としては検証しがたい。笑顔があふれるかどうかは日にもよるし、人にもよる。しかし検証できないからといって無意味ではない。パトスの言葉は、その場所に行ったときにどんな気持ちになりうるかを予告し、行く動機を与える。ロゴスだけの記述では、人は動かない。
問題は配分である。パトスの言葉だけが並ぶと、読み手は具体を掴めないまま気分だけを渡される。「緑豊かで憩いに満ちた空間」という一文からは、木陰があるかどうかも、トイレがあるかどうかも、歩いて何分かも分からない。幼い子を連れて出かける保護者にとって必要なのは、まさにその分からない部分である。パトスの過剰は、書き手の熱意の表現であると同時に、読み手が判断するための材料の欠落でもある。
3.3 エトスの言葉——語り手の位置を示す
エトスは語り手の信頼である。行政の文書では、これは制度上の権威としてあらかじめ与えられている。市が「公園です」と言えばそれは公園であり、読み手は疑わない。したがって行政の文章では、エトスは明示的に主張されるよりも、文体の端々に現れる。「〜に努めてまいります」「市民の皆様とともに」といった言い回しは、内容を伝える以上に、語り手が誠実で協働的であることを示す働きをもつ。
民間の書き手にはこの制度的な後ろ盾がないため、エトスは自分で築かねばならない。その築き方は二つある。一つは、知っていることと知らないことを分けて書くことである。「これは公表資料に基づく」「これは未確認である」と述べることは、情報量を減らすように見えて、書かれた部分の信頼を高める。もう一つは、自分の立場を隠さないことである。誰が、どんな目的で、どんな資料をもとに書いているかを示すことが、読み手の警戒を解く。
| 重心 | 典型的な言い回し | 強み | 偏ったときに起きること |
|---|---|---|---|
| ロゴス | 面積・種別・誘致距離・設備の有無 | 読み手が自分で判断できる | 読まれない・伝わらない |
| パトス | 憩い・ふれあい・笑顔・やすらぎ | 行く動機をつくる | 具体が消え、期待との落差が生まれる |
| エトス | 皆様とともに・努めてまいります | 受け入れの下地をつくる | 内容のない儀礼文になる |
三つの支えは、どれか一つで足りるものではない。ロゴスだけの記述は読まれず、パトスだけの記述は落胆を生み、エトスだけの記述は儀礼に堕する。修辞学が古くから説いてきたのは、この配分を場面に応じて設計することであった。公園の言葉について本稿が問題にするのは、パトスとエトスに寄りかかった書き方が慣習として定着し、ロゴスの言葉を置く場所が文章から失われがちなことである。次節以降では、その慣習の中核をなす個々の語を取り上げる。
4. 「みどり」の修辞——色の名が制度になるまで
公園をめぐる語彙のなかで、最も広く使われ、最も疑われない語が「みどり」である。緑地、緑道、緑化、緑陰、みどりの基本計画、みどりの日。この語は日常語であると同時に、制度の用語でもある。都市公園法上の種別には都市緑地があり、緑道がある。磐田市の都市公園100園でいえば、都市緑地が10園、緑道が2園を占める。本節では、この語がどのような比喩であり、何を語り、何を語らずに済ませているのかを検討する。
4.1 換喩としての緑——色で全体を指す
「みどり」は本来、色の名である。しかし公園の文脈でこの語が指しているのは色ではない。指されているのは、樹木と草地からなる植生であり、さらにその向こうにある環境の質、生きものの生息、都市のなかの自然といった観念の全体である。色という目に見える性質で、植生という物質を指し、さらに環境という抽象を指す。これは典型的な換喩の連鎖である。隣り合うもの、結びついているもので置き換えることによって、長い説明を一語に畳み込んでいる。
換喩は便利である。「都市における植生の量と質、およびそれが住民の生活環境にもたらす効用」と毎回書く代わりに、「みどり」と書けば済む。制度の用語としてこの語が採用されたのも、この畳み込みの効率のためであろう。しかし畳み込まれたものは、開かないかぎり見えない。「みどり」という一語で語られるとき、そこにある木が何本で、樹種は何で、高さはどれだけで、夏の午後に日陰をつくるかどうかは、すべて畳のなかに残されたままである。
4.2 「みどり」が語らないこと
同じ「みどり」という語で呼ばれるものの幅は、実際にはきわめて広い。磐田市の都市緑地には、面積17平方メートルの二之宮東第2緑地から、3,264平方メートルの権現緑地まで、二桁以上の開きがある。緑道に分類される竜洋南部緑地公園は20,907平方メートル、竜洋西堀緑地公園は25,264平方メートルである。同じ制度上の名で呼ばれながら、そこでできることは全く違う。数十平方メートルの緑地は通りの角の植え込みに近く、二万平方メートルの緑道は歩いて移動する空間である。
「みどり」が語らないことは、面積の幅だけではない。第一に、季節がない。落葉樹の「みどり」は冬にはなくなる。第二に、高さがない。地被の草も、頭上に枝を広げる高木も、同じ語で呼ばれる。子どもを連れる保護者にとって、この二つの差は決定的である。夏の午後、必要なのは緑ではなく、頭の上にある日陰だからである。第三に、手入れがない。緑は放置すれば茂り、茂れば見通しが悪くなり、落ち葉は隣家へ飛び、剪定には費用がかかる。緑という語は、この維持の労力と費用を語のなかに含まない。
4.3 修飾語の空虚——「豊かな」「あふれる」
「みどり」はしばしば程度を示す修飾語をともなって現れる。緑豊かな、みどりあふれる、緑に囲まれた。これらの修飾語は、量を述べているように見えて、比較の基準をもたない。何と比べて豊かなのか。市の平均か、周辺の市街地か、書き手の記憶にある別の場所か。基準が示されないため、この種の修飾語は反証できない。反証できない主張は、修辞学の観点からいえば、論証ではなく感情の喚起である。
ここで注意すべきは、こうした修飾語が嘘だと言っているのではないことである。書き手はおそらく正直に、その場所を緑が多いと感じている。問題は、感じたことを述べる語が、あたかも測ったことを述べる語のように置かれることにある。「緑豊かな公園」は「面積5,016平方メートルの街区公園」と同じ位置に並べて書かれ、読み手は両者を同じ種類の情報として受け取る。反証できない語と検証できる語が同じ文の中で並ぶとき、前者は後者の信頼を借りる。
4.4 ひらがな表記の柔化
「緑」と「みどり」の書き分けにも修辞的な効果がある。漢字の「緑」は制度と計画の語であり、緑地・緑道・緑被率といった専門語に連なる。ひらがなの「みどり」は、やわらかく、子どもにも読め、親しみの調子をもつ。同じ音でありながら、表記の選択が読み手の身構え方を変える。ひらがな表記は、行政の文章が硬さを和らげようとするときに選ばれ、そのぶん専門的な内容の伝達からは遠ざかる。
この節の結論は単純である。「みどり」は悪い語ではなく、有用な換喩である。ただしそれは畳まれた語であり、畳まれたものを開く語——樹種、樹高、木陰の位置と時間、剪定と落ち葉の扱い——を、どこかで併せて示す必要がある。読み手が求めているのは緑という観念ではなく、七月の午後二時にベビーカーを止められる日陰である。
5. 「ふれあい」の修辞——接触の隠喩と、消える主語
「ふれあい」は、公園を語る言葉のなかでもとりわけ広く使われる。ふれあいの場、ふれあい広場、世代間のふれあい、自然とのふれあい。前節の「みどり」が換喩であったのに対し、この語は隠喩である。本節では、この隠喩がどのように働き、どのような文法的な仕掛けを備えているかを検討する。
5.1 身体の語を関係に転用する
「触れる」はもともと身体の動作である。手が物に接触する。「触れ合う」は、二つのものが互いに接触することを言う。この語が人間関係に転用されるとき、比喩が起きている。人と人が心を通わせることは、物理的な接触ではない。しかし接触という具体的な経験の型を借りることで、抽象的な関係が想像しやすくなる。レイコフとジョンソンが指摘したように、抽象を身体経験の型で捉えるのは人間の言語に普遍的な傾向である。
この隠喩には固有の含みがある。接触は、双方向であり、対等であり、瞬間的であり、そして基本的に快いものとして想定されている。ぶつかる、押しのける、避けるといった接触は「ふれあい」とは呼ばれない。つまりこの語は、人と人の関わりのうち、摩擦のない部分だけを切り出して名づけている。公共空間で実際に起きる関わりには、順番の取り合い、音量をめぐる不満、犬をめぐる遠慮、ボール遊びの可否といった摩擦が含まれるが、それらは「ふれあい」の語のもとでは主題化されない。
5.2 名詞化と、消える主語
「ふれあい」の修辞的な特徴は、比喩そのものよりも、それが名詞の形をとることにある。「触れ合う」という動詞は主語を要求する。誰が誰と触れ合うのかを言わなければ文が成り立たない。ところが名詞化された「ふれあい」は、主語なしで文に置ける。「ふれあいの場を創出する」という一句には、行為者も相手もいない。あるのは、ふれあいという出来事の名だけである。
この名詞化は、行政の文章に広く見られる書き方の一種である。「にぎわいの創出」「安全の確保」「憩いの提供」——いずれも動詞を名詞に変えることで、誰が何をするのかを明示せずに目標を掲げることを可能にする。責任の所在をぼかすためにこの書き方が選ばれているとまでは言えない。むしろ、複数の主体が関わり、誰か一人の行為には帰せられない事柄を述べるための便法である。しかし結果として、読み手は「その場ができれば、ふれあいは自然に起こる」という含意を受け取ることになる。
実際には、人と人の関わりは場があれば自然に起こるわけではない。誰がそこにいるのか、いつ来るのか、話しかけてよい雰囲気があるのか、初対面の人に子どもを見られることを歓迎する空気があるのか。これらは施設の整備とは別の水準の問題である。「ふれあいの場」という語は、場所という物理的な条件と、関わりという社会的な結果とを、一語のなかで直結させてしまう。修辞学の用語でいえば、これは論証の飛躍を語彙の内部に埋め込むことである。
5.3 類語との比較——交流・絆・共生
「ふれあい」の性格は、近い意味をもつ語と並べるとよりはっきりする。「交流」は主体が明示されやすく、団体や世代など、交わる単位を伴って使われる。「絆」は継続する結びつきを言い、一回の接触では足りない。「共生」は、異なる立場の者が同じ場所で並び立つことを言い、対立の存在を前提にしている。これらと比べると、「ふれあい」は最も接触の時間が短く、最も対立を含まず、最も参加の条件が緩い語である。
この緩さは弱点であると同時に長所でもある。公園という場所で実際に起きる関わりの多くは、たしかに短く、浅く、名も知らないままである。同じ砂場に居合わせた親どうしが短く言葉を交わし、それきりになる。この種の関わりを「交流」や「絆」と呼ぶのは大げさであり、「ふれあい」の語はその軽さをよく捉えている。語の問題は、この軽い関わりを指す語が、政策目標という重い位置に置かれるときに生じる。
5.4 反論——情緒語にも機能がある
ここまでの分析に対しては、次の反論がありうる。情緒語は、多様な立場の人が同じ方向を向くために必要である。厳密に定義された語は、定義から外れる人を排除する。「ふれあい」のように輪郭のゆるい語だからこそ、高齢者も子育て世代も、それぞれ自分の望むものをそこに読み込むことができ、合意が成り立つ。ペレルマンの用語でいえば、こうした語は多様な聴衆に同時に働きかける普遍的な価値の言葉である。
この反論には理がある。合意の形成において、輪郭のゆるい語は摩擦を減らす。問題は、その先である。合意が成立し、実際に整備の内容を決める段階になっても同じ語のままであれば、各人が読み込んだ別々の期待は調整されないまま持ち越される。完成した場所は、誰かの期待には応え、誰かの期待は裏切る。そのとき「話が違う」という不満が生じるが、もとの語がゆるかったために、何が違うのかを議論する言葉がない。情緒語は、合意の入口では有用で、設計の現場では危うい。使い分けの問題であって、追放の問題ではない。
6. 「憩い」と「にぎわい」——相反する理想の同居
公園を語る言葉には、しばしば「憩い」と「にぎわい」が並んで現れる。憩いの空間であり、同時ににぎわいの拠点である、と。落ち着いて休むことと、多くの人が集まって活気があることは、同じ時間・同じ場所では両立しにくい。にもかかわらず、この二語は矛盾として意識されないまま併記される。本節では、この同居がどのような修辞によって可能になっているのか、そして何が隠されるのかを検討する。
6.1 二語の来歴と含み
「憩い」は休息を言う語である。動くことをやめ、体を預け、時間の流れを緩める。含意されるのは静けさ、日陰、腰かける場所、そして人の少なさである。「にぎわい」は人の多さと活気を言う。含意されるのは声、動き、出店や催し、そして経済的な循環である。近年の都市政策の語彙では、にぎわいはしばしば地域経済や中心市街地の活性化と結びつけて語られ、憩いは福祉や健康の文脈で語られる傾向がある。
二語の対立は、感覚の水準ではっきりしている。音、人口密度、滞在時間、想定される来訪者の年齢層。憩いを求める人にとって、にぎわいは妨害である。にぎわいを求める人にとって、憩いだけの静かな場所は寂れて見える。この対立は好みの違いではなく、同じ資源——面積、時間、音の環境——をめぐる配分の問題である。
6.2 併記を可能にする修辞——ゾーニングと時間割
対立する二つの理想を同じ場所に掲げるとき、実務が用いる解決は二つある。第一は空間の分割、すなわちゾーニングである。園内を区域に分け、一方をにぎわいの区域、他方を憩いの区域とする。第二は時間の分割である。催しの日と平常の日を分け、朝と昼と夕方で主たる利用者が入れ替わることを前提とする。どちらも現実的な解決であり、修辞の問題ではなく設計の問題として対立を扱っている。
磐田市の施設ガイドには、今之浦公園について「遊びと賑わいのゾーン」「憩いとふれあいゾーン」という記載がある。これは、本稿がここまで扱ってきた四つの語——遊び・にぎわい・憩い・ふれあい——が、実際の記述のなかで空間の分割と結びつけて用いられている例である。本稿の関心は、この個別の表現の当否ではなく、こうした語の組み合わせが全国的に共有された型として流通していることにある。語が空間の区分に結びつけられているとき、併記は矛盾ではなく設計の記述になる。
問題が残るのは、こうした結びつきがないまま二語が併記される場合である。区域も時間も示されずに「憩いとにぎわいを兼ね備えた」と書かれるとき、その文は矛盾を解決したのではなく、矛盾を語彙の水準で覆ったにすぎない。修辞学の観点からいえば、これは対立する価値をともに肯定することで、どちらの支持者からも反対されない表現をつくる技法である。反対されないことと、合意が成立していることは別である。
6.3 演示的弁論としての公園紹介
第2節で述べたように、公園を紹介する文章の多くは演示的弁論——称賛の言葉——に属する。称賛の言葉には固有の作法があり、対象の欠点を挙げないこと、対立を持ち出さないこと、聞き手の誰も傷つけないことが求められる。「憩いとにぎわい」の併記は、この作法に忠実な表現である。どちらかを選べば、選ばれなかった側の利用者を落胆させる。両方を掲げれば、誰も落胆しない。
したがってこの併記は、書き手の思考の怠慢というより、文種の要請の結果と見るべきである。称賛の場で優先順位を語ることは、作法に反する。しかし公園の紹介文は、称賛の言葉であると同時に、実用の情報でもある。読み手は、静かに過ごせる場所を探しているのか、子どもを思い切り走らせたいのかによって、必要とする情報が違う。称賛の作法と実用の要請が同じ文章に同居していることが、この語彙の慣習が続く一因である。
6.4 静けさは書かれにくい
もう一つ指摘しておきたいのは、対立する二語のうち、静けさの側が言葉にされにくいことである。にぎわいは、催し、来場者、出店といった具体で描写できる。そこにあるものを数えればよい。これに対し静けさは、ないものによって成り立つ。車の音がしないこと、放送がないこと、人が少ないこと。ないものを描写するには、比喩か否定形に頼るしかなく、称賛の言葉としては弱い。
この非対称は、記述の水準にとどまらない可能性がある。語れるものは計画に載り、計画に載るものは整備される。語りにくいものは、意図的に排除されなくとも、優先順位の下位に沈む。静けさを求める利用者——昼寝の必要な乳児を連れた保護者、人の多い場所が苦手な人、休息のために立ち寄る高齢者——は、自分の求めるものを表す語を公共の語彙のなかに見つけにくい。修辞の問題は、ここで配分の問題に接続する。
7. 常套句はなぜ摩耗するか——三つの段階と、擁護論への応答
ここまで個々の語を検討してきたが、本節では語の一生に目を移す。比喩は生まれ、使われ、やがて力を失う。この過程を三段階に整理し、摩耗した語が読み手のなかでどう扱われるかを述べたうえで、常套句を擁護する立場に応答する。
7.1 摩耗の三段階
第一段階は発見である。ある比喩が初めて使われるとき、聞き手は二つの離れたものが重ねられる驚きを経験する。人の交わりを接触になぞらえる、環境を色で呼ぶ。この段階では、比喩は認識の道具として働き、それまで名づけられなかったものに輪郭を与える。佐藤信夫が比喩を認識の方法と捉えたのは、この局面である。
第二段階は慣用である。同じ比喩がくり返されると、驚きは薄れ、語は通常の意味の一つとして辞書に定着する。読み手はもう二つのものの重なりを意識しない。この段階の語は死んだ比喩と呼ばれるが、死んだからといって役に立たないわけではない。むしろ意識されずに使えるからこそ、伝達の効率は上がる。「机の脚」は誰にでも通じる。
第三段階は儀礼である。語が単独ではなく、決まった組み合わせのまま流通するようになる。「憩いの場」「ふれあいの創出」「みどり豊かな」。この段階では、語は内容を伝えるためではなく、しかるべき文章であることを示すために置かれる。挨拶が内容ではなく形式によって機能するのと同じである。読み手は内容を受け取るのではなく、これは公式の文章であるという合図を受け取る。
| 段階 | 語の状態 | 読み手の反応 | 公園の言葉での例 |
|---|---|---|---|
| 発見 | 二つのものが重なる驚きがある | 立ち止まって考える | 比喩が新しく作られた時点 |
| 慣用 | 通常の語義に定着した死んだ比喩 | 意識せずに理解する | みどり/ふれあい |
| 儀礼 | 決まった組み合わせで流通する | 読み飛ばし、形式だけ受け取る | 憩いの場/にぎわいの創出 |
7.2 免疫——読み飛ばしの経済
第三段階の語に対して、読み手は免疫を獲得する。目にした瞬間に、そこには新しい情報がないと判断し、視線を先へ送る。これは怠慢ではなく、限られた注意を配分するための合理的な行動である。広報紙を開いた保護者が「憩いの空間」の一句を飛ばして、開園時間と駐車場の有無を探すのは、正しい読み方である。
しかし免疫には副作用がある。第一に、書き手の側が読み飛ばされていることに気づきにくい。掲載された文字数と、伝わった情報量が乖離する。第二に、常套句のあいだに挟まれた重要な情報も、一緒に読み飛ばされる危険がある。第三に、免疫は語の単位ではなく文章の型に対して働くため、同じ型を用いる別の書き手の文章も、まとめて信用を失う。慣習的な語彙を使うことのコストは、書き手個人ではなく、その語彙を共有する全員が負担する。
7.3 オーウェルの警告と、その限界
オーウェルは「政治と英語」(1946)で、既製の言い回しが思考を代行してしまうと論じた。書き手は言いたいことを考える前に、手近な句を並べ、句がつながることで文ができあがる。その結果、文章は文法的に正しく、意味は曖昧になる。彼の処方は具体に戻ることであった。抽象語の代わりに、目に見えるもの、数えられるものを書く。
この警告は有効だが、限界もある。第一に、行政の文章には、個別の事情を捨象して一般に通用する形で書かねばならないという要請がある。具体に戻ることは、しばしば公平さの放棄になる。第二に、あらゆる場面で新鮮な表現を求めることは、書き手に過大な負担を課す。年に何十本もの紹介文を書く現場で、毎回新しい比喩を発明することはできない。第三に、新奇な表現は読み手の負担を増やし、行政文書に求められる読みやすさと衝突する。
7.4 擁護論への応答
常套句を擁護する立場は、以上を踏まえて次のように言うだろう。共有された語彙は、書き手の負担を減らし、読み手の理解を早め、集団の一体感をつくる。バークの言うように、説得は同一化の過程であり、同じ語を使うこと自体が仲間であることの表明になる。輪郭のゆるい語は、多様な立場の人を同じ文章の読み手として迎え入れる。
本稿はこの擁護論を全面的には否定しない。否定するのは、常套句だけで文章が完結してしまう状態である。提案は単純で、常套句を残したうえで、その隣に必ず一つ、検証できる語を置くことである。「憩いの空間」と書くなら、その隣に、腰かける場所がいくつあるか、日陰が何時ごろどこにできるかを書く。「みどり豊かな」と書くなら、その隣に樹種か樹高か面積を書く。常套句は入口として働き、検証できる語は判断の材料として働く。両者は競合しない。
この提案は、修辞学の古典的な教えに沿ってもいる。アリストテレスもキケロも、説得を情に訴えることと同一視しなかった。彼らが求めたのは、事柄の筋道と、聞き手の感情と、語り手の信頼の三つを、場面に応じて組み立てることであった。常套句への批判は、比喩の追放ではなく、配分の回復として理解されるべきである。
8. 名づけが期待をつくり、期待が使われ方をつくる
ここまでは語の側から論じてきた。本節では視点を変え、名づけという行為が場所に何をするのかを問う。名前は場所に貼られた札にすぎないのか。それとも、名前は場所の使われ方そのものに関与するのか。修辞学が扱ってきた説得の理論と、言語行為の理論を接続して、この循環を検討する。
8.1 名づけは記述ではなく行為である
オースティンは『言語と行為』(1962)で、言葉には事実を記述する働きだけでなく、言うことによって何かを行う働きがあることを示した。「これを○○と名づける」という発話は、名づけの事実を報告しているのではなく、名づけを実行している。命名は遂行的な発話の典型例である。公園の名も同様であり、名づけられた瞬間に、その場所は市の台帳と地図とデータベースに載り、指し示すことのできる対象になる。
遂行的な発話が有効に働くには、条件が要る。適切な立場の者が、適切な手続きで、適切な場面で発話しなければならない。公園の命名にはこの条件が備わっている。だからこそ、名前は単なる呼び方ではなく、制度的な事実になる。そして制度的な事実になった名前は、その後の文書、看板、地図、案内、口頭のやりとりに繰り返し引用され、引用されるたびに強化される。
8.2 名前が予告するもの
名前には、その場所で何が起こりうるかの予告が含まれる。「運動公園」と名づけられた場所では体を動かすことが、「史跡公園」では歴史に触れることが、「わんぱく広場」では子どもが騒ぐことが、それぞれ期待される。この予告は、施設の実態に基づく記述であることもあれば、施設に先立つ願いであることもある。いずれにせよ、名前を読んだ人は、行く前にその場所の使い方をおおよそ想定する。
予告は、来訪者の選別としても働く。静かに過ごしたい人は「にぎわい」を掲げる場所を避け、子どもを走らせたい人は「憩い」だけを掲げる場所を選ばない。名前は、誰が来るかを緩やかに決める。来る人が決まれば、そこで実際に起きることも決まる。にぎやかな名の場所はにぎやかになり、静かな名の場所は静かになる。予告は自己成就する傾向をもつ。
8.3 計画の言葉と現場の言葉の落差
ここで注目したいのは、公園をめぐる言葉が二つの層に分かれていることである。第一の層は計画と広報の言葉であり、「にぎわい」「ふれあい」「憩い」といった肯定的な名詞が並ぶ。第二の層は現場の掲示の言葉であり、こちらには禁止と注意の表現が並ぶ。ボール遊びについての注意、駐車についての注意、ごみの持ち帰りについての注意、犬の扱いについての注意。
この二層の落差は、しばしば利用者の困惑を生む。招く言葉で呼ばれて訪れた場所で、断る言葉に迎えられる。どちらの言葉も嘘ではない。招く言葉は場所の目的を述べており、断る言葉は近隣との折り合いや事故の防止という現実の要請を述べている。問題は、両者が別々の書き手によって、別々の文体で、別々の媒体に書かれるために、一人の利用者の頭のなかで整合しないことである。
修辞学の観点からいえば、これは聴衆の設定の違いである。計画の言葉は、その場所の整備を支持してもらうべき広い聴衆に向けて書かれている。掲示の言葉は、すでにその場所にいる利用者と、近隣の住民という狭い聴衆に向けて書かれている。聴衆が違えば説得の重心も違う。ただし、利用者にとって二つの聴衆は同じ自分である。落差を埋めるには、招く言葉のなかに条件を、断る言葉のなかに理由を、それぞれ一言添えることが有効であろう。
8.4 循環——使われ方は次の言葉に戻る
循環はここで閉じる。名づけが期待をつくり、期待が来訪者を選び、来訪者の行動がその場所の実際の姿をつくる。そして実際の姿は、次の計画や紹介文において「この公園は○○の場として親しまれている」という記述の根拠になる。記述は名づけを追認し、追認された名は次の期待をつくる。三巡もすれば、名前は場所の性格を言い当てた正しい記述に見えるようになる。バルトが分析したのは、まさにこうして歴史的な選択が自然な事実に見えるようになる過程であった。
この循環に気づくことには実用的な意味がある。ある公園が特定の使われ方に固定されているとき、その原因は施設の配置だけでなく、名前と紹介文が長年くり返してきた予告にもありうる。逆に、使われ方を変えたいと考えるなら、施設の改修と同時に、その場所を語る言葉を変えることが有効かもしれない。ただし、言葉だけを変えて実体が伴わなければ、それは第7節でいう儀礼の語を一つ増やすだけに終わる。
註:ここでいう循環は決定論ではない。名前に反した使われ方は日常的に起きており、住民が正式名称とは別の呼び名を用いることも多い。名づけは使われ方を決めるのではなく、初期条件を与えるにすぎない。
9. 磐田市の公園への示唆
ここまでの議論を、当サイトが扱う磐田市の都市公園100園に照らして具体化する。ここで用いるのは、磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」(94行)と市の施設ガイド(個別ページのある77園)をもとに当サイトが整理した名称・種別・面積・地区・設備の記載である。当サイトの現地踏査はまだ始まっておらず、踏査済の園は0園である。したがって以下は、公開されている記述だけを材料とした分析であり、園内の掲示の実際の文言や、住民が使う呼び名については、今後の踏査で確かめる課題として残る。
9.1 名前の語彙は、思いのほか抑制されている
100園の名称を見渡してまず気づくのは、情緒に訴える語を含む名が少数であることである。多くは地名や旧町名を冠した指示的な名であり、名前そのものは場所を特定する働きに徹している。これに対し、情緒語や愛称的な語を含む名は、おおぞら公園、さわやか広場、豊田香りの公園、豊田天竜川わんぱく広場、豊田ラブリバー公園、竜洋すみれ遊園地、中泉グリーンパーク、磐田スポーツ交流の里ゆめりあ、はまぼう公園といった、数えられる程度にとどまる。
この抑制は、修辞学の観点からは注目に値する。前節までに論じた語彙の慣習は、名前そのものよりも、名前に添えられる説明文と計画の文書に強く現れる。名前は指示に徹し、情緒は説明文が担う——この分業は、公園の言葉の全国的な傾向を考えるうえでの一つの手がかりになる。名づけの水準では抑制されていても、記述の水準では同じ語彙が働きうるからである。
9.2 測れる言葉はすでに用意されている
第3節で述べたロゴスの言葉は、磐田市の場合、すでに公開データのなかにある。種別でいえば、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、および法の対象外とされる6園という内訳が分かる。地区でいえば、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園という分布が分かる。面積でいえば、竜洋海洋公園の221,722平方メートルから、二之宮東第2緑地の17平方メートルまでの幅が分かる。
設備についても同様である。オープンデータの94行のなかでは、トイレ有が69園、車いす対応トイレ有が34園、砂場有が43園、遊具有が64園と集計できる。駐車場については、市の施設ガイドの記載などから33園と判定している。これらはいずれも検証できる言葉であり、読み手が自分の条件——子どもの年齢、移動手段、滞在できる時間——に照らして判断するための材料になる。情緒語を足す前に、この材料を先に置くことができる。
9.3 期間と時刻を書くという方法
測れる言葉の効用を示す例として、市の施設ガイドの記載に見られる期間の明示が挙げられる。豊田香りの公園については、カスケード(滝)が5月から10月までの9時から17時に稼働する旨が記されている。今之浦公園については、噴水の運転期間が日付で示されている。これらは「水と親しめる」という情緒的な記述とは性格が異なる。行ってみたら動いていなかった、という落胆を未然に防ぐのは、比喩ではなく期間と時刻である。
同じ考え方は、本稿が繰り返し取り上げてきた「みどり」にも適用できる。緑が豊かかどうかではなく、夏の午後に日陰ができる場所があるかどうか。「憩い」があるかどうかではなく、腰かけられる場所がいくつあり、屋根のある場所があるかどうか。「ふれあい」があるかどうかではなく、同じ年ごろの子どもがいる時間帯はいつか。いずれも観察すれば書ける事柄であり、当サイトが今後の踏査で記録すべき項目でもある。
9.4 自己適用——当サイトの言葉づかいへ
本稿の批判は、当サイト自身にも向けられる。ATAWI PARK は磐田市の公園100園を扱うデータベースであり、運営は富士ヶ丘サービス株式会社(不動産・介護事業)である。踏査がまだ始まっていない現時点で、園ごとの様子について情緒的な記述を書くことはできない。書けるのは、公開データに由来する事実と、そこから言える範囲の一般的な説明にとどまる。この制約は不自由であるが、第3節でいうエトス——語り手の信頼——の観点からは、むしろ守るべき制約である。
したがって当サイトが自らに課すべき方針は、次の三つに整理できる。第一に、情緒語を用いるときは、その隣に必ず検証できる語を置くこと。第二に、公開データによる記述と、踏査で確かめた記述と、一般論としての説明とを、読み手に区別できる形で示すこと。第三に、まだ確かめていないことを、確かめたかのように書かないこと。公園の管理は市の都市整備課が担っており、施設の状況は変わりうる。当サイトの記述は、その時点の公開資料に基づくものであることを明示する必要がある。
最後に一つ、記述の空白について触れておきたい。100園のうち、市の施設ガイドに個別ページがある園は77園であり、残りは名称・種別・面積といった台帳上の情報しか分からない。園内施設の欄に記載のない園もある。こうした園について、言葉が少ないことを補うために情緒語を足すのは、本稿の立場からは避けるべき対応である。記述が少ないことは、その場所の価値が低いことを意味しない。空白は空白として示し、踏査によって埋めるのが筋である。
10. 結論と今後の課題
本稿は、公園について語られる言葉を修辞学の対象として取り上げ、アリストテレスの三つの説得手段、隠喩と換喩の区別、常套句の摩耗という三組の道具立てによって分析した。得られた結論を四点にまとめる。
第一に、公園を語る文章は演示的弁論——称賛の言葉——としての性格を強くもち、そのためパトス(情緒)とエトス(語り手の信頼)に重心が置かれやすい。面積・種別・誘致距離・設備の有無といったロゴス(事柄の筋道)の言葉は、退屈であるがゆえに後景に退く。しかし読み手が判断のために必要とするのは、まさにその退屈な言葉である。
第二に、「みどり」は色の名で植生を、植生で環境を指す換喩であり、長い説明を一語に畳み込む。「ふれあい」は身体的な接触を人間関係に転用した隠喩であり、名詞化によって誰が誰と関わるのかという主語を消す。どちらも有用な語であるが、畳み込まれたものを開く語を併記しなければ、読み手は具体を掴めない。
第三に、「憩い」と「にぎわい」は同じ資源をめぐって競合する理想であり、両者の併記は、空間や時間の分割と結びつかないかぎり、対立を解決したのではなく語彙の水準で覆ったにすぎない。とりわけ静けさは、ないものによって成り立つために言葉にしにくく、語りにくいものが計画に載りにくいという非対称が生じる。
第四に、比喩は発見・慣用・儀礼の三段階を経て摩耗し、儀礼の段階に達した語は内容ではなく、しかるべき文章であるという合図を伝えるにとどまる。読み手はこれに免疫を獲得し、読み飛ばす。そのコストは書き手個人ではなく、同じ語彙を共有する全員が負う。そして名づけは遂行的な行為として期待をつくり、期待は来訪者を選び、使われ方は次の記述に戻ってくる。
以上を踏まえた本稿の提案は一つである。情緒語を追放するのではなく、情緒語の隣に必ず一つ、検証できる語を置くこと。憩いと書くなら腰かける場所の数を、みどりと書くなら日陰のできる時間帯を、ふれあいと書くなら人が集まる時間帯を添えること。修辞学の古典が説いてきたのは、感情の排除ではなく、三つの説得手段の配分の設計であった。本稿の主張は、その古典的な教えの、公園という主題への適用にすぎない。
10.1 本稿の限界
本稿にはいくつかの限界がある。第一に、分析の対象としたのは広く流通している語彙の慣習であり、特定の文書群を体系的に収集して頻度を数えたわけではない。語の出現頻度についての量的な裏づけは本稿にはなく、その点で本稿の記述は仮説の提示にとどまる。第二に、園内の掲示や看板の実際の文言を確認していない。第8節で論じた計画の言葉と現場の言葉の落差は、掲示を集めて初めて実証できる主題である。
第三に、読み手の側の受け取り方を調べていない。常套句が読み飛ばされるという本稿の推論は、修辞学の理論からの演繹であって、読者調査に基づくものではない。実際には、常套句をそのまま肯定的に受け取る読み手も、情緒語があることで安心する読み手もいるだろう。第四に、日本語以外の言語における公園の語彙との比較を行っていない。換喩としての緑が日本語に固有の現象なのか、より広く見られるのかは、本稿の範囲を超える。
10.2 今後の課題
今後の課題は三つある。第一に、当サイトの踏査を通じて、園内の掲示の文言を記録することである。禁止と注意の表現がどのような語で書かれ、理由が添えられているかどうかは、第8節の主題を実証的に扱うための基礎資料になる。第二に、住民が実際に用いる呼び名を記録することである。正式名称と呼び名の差は、名づけの循環がどこまで及んでいるかを測る指標になりうる。
第三に、当サイト自身の記述を、本稿の基準で点検する仕組みをつくることである。情緒語の隣に検証できる語があるか。公開データによる記述と踏査による記述が区別されているか。確かめていないことを確かめたように書いていないか。この点検は一度で終わるものではなく、記事が増えるたびに繰り返す必要がある。修辞への批評は、他者の文章に向けられるときよりも、自分の文章に向けられるときに難しく、そして有用である。
公園は、木と土と遊具と人からできている。同時にそれは、名前と説明文と掲示と会話からもできている。物としての公園を整備する努力に比べて、言葉としての公園を整える努力は、これまで十分に払われてこなかったように思われる。本稿がささやかに示したかったのは、言葉を整えることが、比喩を新しくする文学的な仕事ではなく、読み手が自分で判断できるようにする実務的な仕事だということである。
参考文献
- アリストテレス『弁論術』(戸塚七郎訳、岩波文庫、1992)
- キケロ『弁論家について』(大西英文訳、岩波文庫、2005)
- クインティリアヌス『弁論家の教育』(森谷宇一ほか訳、京都大学学術出版会、2005〜2016)
- 佐藤信夫(1978)『レトリック感覚』(講談社。講談社学術文庫版 1992)
- 佐藤信夫(1981)『レトリック認識』(講談社。講談社学術文庫版 1992)
- ロマン・ヤコブソン(1956)「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」(『一般言語学』川本茂雄監修、みすず書房、1973 所収)
- ジョージ・レイコフ/マーク・ジョンソン(1980)『レトリックと人生』(渡部昇一・楠瀬淳三・下谷和幸訳、大修館書店、1986)
- ジョージ・オーウェル(1946)「政治と英語」(『オーウェル評論集』所収)
- ロラン・バルト(1957)『神話作用』(篠沢秀夫訳、現代思潮社、1967)
- ケネス・バーク(1950)『動機の修辞学(A Rhetoric of Motives)』
- カイム・ペレルマン/リュシー・オルブレヒツ=ティテカ(1958)『新しい修辞学——論証論考』
- J・L・オースティン(1962)『言語と行為』(坂本百大訳、大修館書店、1978)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。