社会科学公共選択論
誰の公園に予算がつくか——公共選択論から見た配分の政治
要旨
本稿は、公園の新設・改修予算がどのように配分されるのかを、公共選択論の枠組みで分析する試論である。公共選択論とは、政治の過程を経済学の方法で分析する学問領域であり、ジェームズ・M・ブキャナンとゴードン・タロックが1962年に著した『公共選択の理論』を出発点とする。その中心にある仮定は、政治家も官僚も有権者も、市場の中の消費者や企業と同じように自分にとって望ましい結果を選ぼうとする、というものである。この仮定は関係者を悪人と見なすものではない。誰もが真面目に行動しても、制度の形しだいで望ましくない配分が生じうる——その構造を取り出すことが目的である。
方法は文献の整理と概念の適用であり、実証分析は行わない。第2節で公共選択論の主要概念を整理したうえで、第3節では中位投票者定理を公園予算に当てはめ、公園が「量」だけでなく「立地」という多次元の問題であるために、単一の中位が成り立ちにくいことを示す。第4節ではオルソンの集合行為論に基づき、便益が近隣に集中し費用が市全体に拡散するという非対称を検討する。第5節はハーシュマンの離脱・発言・忠誠を手がかりに、要望を出す力の地域差を扱う。第6節では新設と維持の政治的可視性の差を、第7節ではニスカネンの官僚モデルとその修正を検討する。
第8節では、公共選択論への典型的な反論に応答しつつ、ブキャナンの立憲的政治経済学に沿って、個別の決定ではなく決定のルールを整えるという含意を導く。誘致距離や標準面積といった法令上の基準は、この意味で配分の恣意を制約するルールとして読み直せる。第9節では磐田市の公園データ(100園・種別・9地区の園数・面積・設備フラグ)に照らし、どの指標を選ぶかによって公平さの像が変わることを確認する。現地の踏査はこれからであり、本稿が述べうるのは公開データの形から読み取れる範囲にとどまる。
キーワード公共選択論中位投票者定理集合行為論レント・シーキング官僚制予算配分街区公園
1. はじめに——問題の所在
同じ市の中にありながら、真新しい複合遊具が据えられた公園と、遊具が撤去されたまま広場だけが残る公園とが、それほど離れていない場所に並んで存在することがある。利用する側から見れば、その差がどこから生まれたのかは分かりにくい。自治体の予算は毎年編成され、限られた総額をどの事業に割り振るかが決まるが、公園はその中で額としては小さく、優先順位の議論が表に出る機会も多くない。本稿が立てる問いは単純である。誰の公園に予算がつくのか。そして、その配分はどのような仕組みによって決まっているのか。
この問いに対する最も素朴な答えは、必要性の高いところから順に配分される、というものだろう。施設の老朽化の程度、利用の状況、地域の人口構成といった指標を並べ、優先順位をつけて配分する——行政計画の文書はおおむねこの形式で書かれており、それ自体は誠実な手続きである。しかしここには一つの前提が隠れている。すなわち、必要性を測る指標そのものが中立に選ばれ、測られた結果がそのまま予算に反映される、という前提である。公共選択論は、この前提を疑うところから出発する。
公共選択論(public choice theory)とは、政治の過程を経済学の方法で分析する学問領域である。ジェームズ・M・ブキャナンとゴードン・タロックが1962年に著した『公共選択の理論』を出発点とし、その後、財政学・政治学・行政学にまたがる分野として広がった。中心にある仮定は一つで、政治家も、官僚も、有権者も、市場の中の消費者や企業と同じように、自分にとって望ましい結果を選ぼうとする、というものである。従来の財政学が暗黙に置いていた、公共部門だけは全体の利益のために中立に振る舞うという想定を、分析の前提から外したところに、この分野の新しさがあった。
この仮定は、政治に関わる人々を悪人と見なすものではない。ここは繰り返し確認しておく必要がある。公共選択論が問題にするのは個人の徳ではなく、個々人がそれぞれ真面目に行動した結果として、全体としては望ましくない配分が生じてしまう構造である。誰も不正を働いていないのに、要望の届きやすい地域に予算が集まり、目に見えにくい維持管理が後回しになる——そうした帰結が制度の形からあらかじめ予測できるのであれば、直すべきは人ではなく制度の形だ、というのがこの分野の一貫した立場である。
本稿の方法は、文献の整理と概念の適用である。公共選択論の古典的な概念を紹介し、それを公園という具体的な財に当てはめて、どこまで説明できるか、どこから説明できないかを検討する。統計的な実証分析は行わない。特定の自治体の予算編成過程を調査したものでもなく、特定の地域・団体・関係者の判断を批評するものでもない。以下で述べるのは、地方自治体という制度の一般的な形から導かれる傾向であり、程度の差はあれ多くの市町村に当てはまりうる構造である。個別の事例を評価するには、その事例に即した資料と手続きが別に必要になる。
事例として参照するのは磐田市の公園である。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の100園を収録したデータベースであり、その基礎資料は市のオープンデータ「都市公園一覧」と、市の施設ガイドの公園ページである。ただし現地の踏査はこれからであり、遊具の実際の状態や利用の様子を確かめた記述をまだ持たない。本稿が磐田市について述べうるのは、公開されているデータの形そのものから読み取れることに限られる。データの形から読み取れることと、現地を歩かなければ分からないことを区別しておくのは、この種の分析では特に重要である。
1.1 本稿が扱わない範囲
あらかじめ範囲を限っておく。第一に、個別の予算額や事業費の推計は行わない。金額に関する記述は、法令や省庁の指針に明記のあるもの以外は用いない。第二に、過去の特定の決定について、それが妥当であったかどうかを論じない。第三に、公園の管理運営の担い手(直営・指定管理者・地域の愛護会など)については行政学の領域が、計画づくりへの住民参加の設計については政治学の領域が扱っており、本稿はそれらと重なる部分を最小限にとどめて、予算の配分という一点に絞る。
構成は次のとおりである。第2節で公共選択論の主要概念を整理し、第3節で中位投票者定理を公園予算に当てはめてその限界を確認する。第4節では集中した便益と拡散した費用という非対称を、第5節では要望を出す力の格差を扱う。第6節で新設と維持の可視性の差、第7節で官僚組織と情報の非対称を検討し、第8節で典型的な反論に応答しつつ制度設計への含意を述べる。第9節で磐田市の公園データに照らして具体化し、第10節で結論と今後の課題を示す。
2. 先行研究と概念の整理
公共選択論の源流は、19世紀末のスウェーデンの経済学者クヌート・ヴィクセルが、課税と公共支出の決定は納税者の合意に基づくべきだと論じたところに遡るとされる。誰にどれだけ負担させ、その見返りに何を供給するかは、市場の価格のように自動的には決まらない。決めるのは政治の手続きであり、手続きの形が結果を左右する。この着眼を体系化したのが、ブキャナンとタロックの『公共選択の理論』(1962)である。同書の副題が示すとおり、そこで問われたのは個々の政策の中身ではなく、政策を決める規則そのものの選び方であった。
ブキャナンとタロックは、意思決定の規則を選ぶ際に二つの費用が相反することを示した。一つは外部費用、すなわち自分が同意していない決定によって被る不利益である。全員一致を要求すればこの費用はゼロになる。もう一つは意思決定費用、すなわち合意を取りつけるまでにかかる時間と労力であり、こちらは全員一致に近づくほど跳ね上がる。二つの合計を最小にする点として、多数決の必要割合が決まる。過半数という慣行は、この二つの費用の妥協点として理解できる、というのが同書の議論であった。
この枠組みが公園に対して持つ含意は明快である。ある公園の改修に反対する住民がいても、過半数の同意で決定は成立し、反対した住民も費用を負担する。それは民主的な手続きの当然の帰結だが、同時に、負担するが便益を受けない人が必ず生じることを意味する。公園のように便益が地理的に偏る施設では、この外部費用が特定の地域に繰り返し集中する可能性がある。同じ人が毎年、自分の使わない公園の費用を負担し続けるとすれば、手続きは正当でも結果は偏る。
2.1 分野を形づくった五つの概念
『公共選択の理論』の前後に、この分野の骨格をなす概念が相次いで提示された。アンソニー・ダウンズは『民主主義の経済理論』(1957)で、政党を得票の最大化を目指す主体としてモデル化し、あわせて合理的無関心という概念を示した。有権者が政策を詳しく調べるには費用がかかるが、自分の一票が結果を変える確率は極めて小さい。したがって、調べないことは怠慢ではなく合理的な選択になる。この非対称が、少数の熱心な関係者の影響力を相対的に高める。
マンサー・オルソンは『集合行為論』(1965)で、共通の利益を持つ集団が必ずしも行動を起こさないことを示した。得られる利益が集団全体に及ぶなら、各人は自分が動かなくても他人が動くのを待つほうが得になる。この論理は集団が大きいほど強く働くため、小さくて利害の集中した集団のほうが組織化しやすい。ウィリアム・A・ニスカネンは『官僚制と代議制』(1971)で、官僚組織を自らの予算の最大化を目指す主体としてモデル化し、事業の費用を正確に知るのは所管部局だけだという情報の非対称から、公共サービスが過大に供給される可能性を導いた。
残る二つを挙げる。ケネス・J・アローは『社会的選択と個人的評価』(1951)で、いくつかの穏当な条件をすべて満たしながら個人の選好を社会全体の順位に集計する方法は一般には存在しない、という定理を証明した。ゴードン・タロックは1967年の論文で、独占などの利益を得ようとする活動そのものに資源が費やされることを指摘し、後にレント・シーキングと呼ばれる問題を提起した。ここでいうレントとは、競争があれば得られないはずの超過的な利益を指す。
さらに、公共選択論と隣接しながら別の角度から政治を捉えたものとして、アルバート・O・ハーシュマンの『離脱・発言・忠誠』(1970)がある。組織や地域の質が下がったとき、人は去るか(離脱)、声を上げるか(発言)のいずれかで反応する。市場では離脱が主な反応だが、公共サービスでは離脱が難しく、発言が主な回路になる。この対比は第5節で公園に当てはめる。
| 概念 | 提唱者・年 | 公園予算に当てはめたときの含意 |
|---|---|---|
| 外部費用と意思決定費用 | ブキャナン=タロック(1962) | 多数決で決めれば、負担するが使わない住民が必ず生じる |
| 中位投票者・合理的無関心 | ダウンズ(1957) | 予算の総額は平均的な有権者の希望に寄り、細部は調べられない |
| 集合行為の論理 | オルソン(1965) | 少数で利害の集中した近隣住民のほうが組織化しやすい |
| 予算最大化官僚 | ニスカネン(1971) | 費用を知るのは所管課だけという情報の非対称が生じる |
| 社会的選択の不可能性 | アロー(1951) | 多様な希望を一つの正しい優先順位に集約する方法はない |
| レント・シーキング | タロック(1967) | 配分を得るための働きかけ自体にも社会的な費用がかかる |
| 離脱・発言・忠誠 | ハーシュマン(1970) | 公園には離脱がしにくく、発言できる人の偏りが反映されやすい |
以上の概念は、それぞれ別の問題意識から生まれたものであり、一つの整合的な理論体系をなしているわけではない。むしろ相互に緊張関係にある。たとえばニスカネンの予算最大化モデルは公共部門の過大供給を予測するが、オルソンの論理からは、便益が拡散する分野ではむしろ供給不足が生じると予測できる。公園はこの両方の力が働きうる分野である。以下では、どの概念がどの局面を説明するのかを一つずつ確かめていく。
3. 中位投票者定理は公園に当てはまるか
公共選択論で最もよく知られた命題の一つが中位投票者定理である。ある争点が一本の直線の上に並べられ(たとえば公園予算を少なくするか多くするか)、各人が自分の理想点から離れるほど不満が大きくなるという形の選好を持つとき、多数決の結果は、有権者を理想点の順に並べたときのちょうど真ん中に位置する人——中位投票者——の理想点に落ち着く。ダウンズはこの性質から、二大政党が互いに中央に寄っていく傾向を導いた。理論の見通しの良さは、この定理が今も繰り返し引かれる理由である。
この定理を公園予算に当てはめると、次の予測が得られる。市の公園費の総額は、市民の希望額を並べたときの真ん中の人が望む水準に近づく。公園を熱心に求める層がいくら声を上げても、また公園に関心のない層がいくら削減を求めても、極端な水準は多数決では通らない。予算の総額という一次元の争点に限れば、この予測はある程度の妥当性を持つと考えられる。総額は、多くの人がなんとなく妥当だと感じる範囲に収まりやすい。
3.1 立地が入ると一次元では済まなくなる
しかし、公園の予算配分は総額だけの問題ではない。実際に決まるのは、どの公園に、どんな施設を、いつ整備するかである。市内に多数の公園があるとき、争点は「公園費をいくらにするか」という一本の軸ではなく、「どの地区にいくら配るか」という多数の軸を持つ空間になる。多次元の空間では、中位投票者に相当する点は一般には存在しない。ある配分案に勝つ別の案が必ず見つかり、その案にもまた勝つ案がある——という循環が生じうる。これは18世紀にコンドルセが指摘した投票のパラドックスの一般化であり、アローの定理が示した集計の困難と同じ根を持つ。
この理論的な帰結は、実務の観察と符合する。地区ごとの公園整備の優先順位について、誰もが納得する唯一の正解が存在しないのは、関係者の努力不足ではなく、多数の人の多様な希望を一つの順位に集約する一般的な方法が存在しないからである。したがって現実の配分は、多数決そのものではなく、順序を安定させる別の仕組み——所管部局が提示する原案、複数年の計画、慣行としての地区間の均衡——によって決まる。どの仕組みを使うかが結果を左右するという点は、第8節で改めて扱う。
3.2 中位投票者は誰か——世代と時間の非対称
定理が仮に成り立つとしても、次の問題が残る。中位投票者は誰かという問題である。公園の遊具を日常的に使うのは乳幼児から小学生であり、その保護者が付き添う。しかし子どもには投票権がなく、その選好は保護者や関係者を通じて間接的にしか政治過程に入らない。この点で公園は、学校や保育と同じ性質を持つ。利用者と有権者がずれる財では、多数決の結果が利用者の希望と一致する保証はない。
さらに、保護者としての当事者期間が短いことも効いてくる。ある家庭が遊具に強い関心を持つのは、子どもが幼児から小学校低学年までの数年間である。その期間を過ぎれば関心は薄れ、次の世代の保護者に交代する。これは、公園を求める側が継続的な組織を維持しにくいことを意味する。オルソンの議論に照らせば、構成員が数年で入れ替わる集団は、長期の交渉や監視を続けることが構造的に難しい。一方、公園の近くに長く住み続ける人々の関心——騒音、ボール、落ち葉、防犯——は、より長い期間にわたって安定して存在する。
人口構成の変化も中位を動かす。高齢化が進めば、有権者を年齢順に並べたときの中位はより高い年齢に移る。それは公園が不要になることを意味しない。健康遊具、木陰のベンチ、歩きやすい園路といった、別の需要が中位に近づくということである。実際、磐田市のいくつかの公園には健康遊具が設置されており、市の施設ガイドの記載にも現れる。中位投票者定理は、予算が減る理由としてではなく、予算の中身が変わる理由として読むほうが、公園の場合には生産的である。
最後に、この定理が想定する投票の形と、現実の自治体の意思決定の形が違う点を確認しておく。住民は個々の公園について投票するわけではない。選ぶのは首長と議員であり、予算は一括して議会に提出される。多数の事業が束ねられているため、公園への配分だけを取り出して賛否を示すことはできない。この束ね方は、争点ごとの多数決では通らない項目を通す余地も、逆に必要な項目が埋もれる余地も生む。中位投票者定理は、こうした束ねの効果を捨象した理想化であり、公園予算への適用は限定的なものにとどめるべきである。
4. 集中した便益と拡散した費用
公共選択論が公共支出の偏りを説明するときに最もよく用いる図式が、便益の集中と費用の拡散である。ある事業の便益が少数の人に大きく集中し、その費用が多数の人に薄く広がるとき、便益を受ける側は行動を起こす強い誘因を持つのに対し、費用を負担する側は行動を起こす誘因をほとんど持たない。両者の力の差は、人数の差ではなく、一人当たりの利害の大きさの差から生じる。この非対称は、オルソンの集合行為の論理とダウンズの合理的無関心を組み合わせると、そのまま導かれる。
公園はこの図式が当てはまりやすい財である。街区公園の誘致距離は250mとされ、日常的に使うのはおおむねその範囲の住民である。ある街区公園に新しい遊具が入れば、便益は半径250mの範囲に濃く集中する。一方、費用は市の一般会計から支出されるから、市民全体に薄く分散する。市民一人当たりの負担は小さく、その額を確かめるために予算書を読む労力に見合わない。したがって、費用の側から反対の声が組織されることはまずない。近隣の住民にとっては切実な話であり、市全体にとっては気づかれない話である——この非対称が、配分の力学の出発点になる。
4.1 反対側の非対称——減らすときは逆になる
興味深いのは、この図式が符号を反転させても成り立つことである。老朽化した遊具を撤去する、あるいは小規模な公園を統合するといった縮小の決定では、損失が近隣に集中し、節約された費用は市全体に薄く広がる。つまり、増やすときも減らすときも、集中している側が組織化しやすい。増やす提案には近隣から賛成が集まり、減らす提案には近隣から反対が集まる。両者を合わせると、公共施設の総量は増える方向には動きやすく、減る方向には動きにくいという傾向が予測される。人口減少局面でストックの見直しが難しいと言われる背景の一つは、この構造にある。
この予測は、心理学でいう損失回避——同じ大きさなら利得より損失のほうが強く感じられる傾向——によって強められる。すでにある遊具がなくなることは、まだない遊具が設置されないことよりも、強い反応を引き起こしやすい。したがって、老朽化した遊具を撤去して同じ場所に別の遊具を置くという更新は比較的進めやすい一方、撤去して置き換えない、あるいは公園そのものを他の用途に転用するという判断は、はるかに大きな説明の負担を伴う。ここでも問題は誰かの身勝手ではなく、集中と拡散という配置そのものである。
4.2 レント・シーキングという語を公園に当てるべきか
タロックが1967年に提起したレント・シーキングの議論は、便益を得ようとする働きかけそのものが資源を消費する点を問題にした。政府から特別な利益を得られるなら、その利益の額に見合うまで、獲得のための努力が投じられる。それは何かを生産する活動ではないから、社会全体としては失われる。この概念は、業界団体の陳情や許認可をめぐる活動を分析するために発展してきた。
しかし、この語を公園の要望活動にそのまま当てるのは適切でない。第一に、近隣住民が公園の改善を求める活動は、営利のための働きかけではなく、生活の必要から出る意思表示である。第二に、住民の要望は行政にとって情報でもある。どの遊具が使いにくいか、どこが暗いかといった知識は、現地を使う人が最もよく持っている。要望を抑え込めば、その情報も失われる。第三に、要望する権利は民主主義の基本的な回路であり、それを費用としてのみ扱う見方は、分析の枠を政治の正当性の領域にまで広げすぎている。
したがって本稿は、レント・シーキングの概念から次の一点だけを取り出す。すなわち、要望を届ける力に差があるとき、配分は需要の大きさではなく、届ける力の分布を反映するようになる、という点である。要望そのものは正当であっても、要望の量を需要の代理指標として扱えば、力の分布がそのまま優先順位に転写される。この問題は、要望する側の動機とは無関係に生じる。次節では、この届ける力の差を正面から扱う。
4.3 票の取引——ブキャナン=タロックが描いた調整
便益が地域ごとに集中するとき、複数の地域の代表者の間には自然な取引の余地が生まれる。ある地区の公園整備に賛成する代わりに、別の地区の案件にも賛成してもらう——ブキャナンとタロックが票の取引(ログローリング)と呼んで分析したのは、この種の相互支援である。彼らはこれを腐敗としてではなく、単純多数決という規則が生む論理的な帰結として扱った。単純多数決は賛否の数しか数えず、その案件が各人にとってどれだけ重要かを表現できない。票の取引は、その表現できない強度を、別の案件を持ち出すことで間接的に伝える仕組みだと解釈できる。
この解釈に立てば、地区ごとに順番に整備が回っていくような慣行にも、一定の合理性が認められる。強く求めている地区の希望を通しつつ、他の地区にも将来の順番を保証することで、長い目で見た均衡が保たれるからである。ただし取引には副作用がある。第一に、どの案件も互いに支え合うため、全体の規模が必要以上に膨らみやすい。第二に、取引の席に着けるのは代表を持つ地域だけであり、代表を通じた発言が弱い地域は取引の外に置かれる。第三に、取引の内容は記録に残りにくく、事後の検証が難しい。第8節で規則による事前の枠を論じるのは、この検証しにくさを補うためである。
註:本節の議論は、公園という財の便益がどこまで及ぶかについて、誘致距離という制度上の目安を近似として用いている。実際の利用圏は、道路の形、川や線路といった障壁、坂の有無によって大きく変わりうる。到達しやすさを距離ではなく経路で測る議論は、時間地理学および交通工学の領域が扱う。
5. 発言の非対称——届く声と届かない声
ハーシュマンは『離脱・発言・忠誠』(1970)で、組織や地域の質が低下したときの反応を二つに分けた。一つは離脱、すなわちそこを去って別の選択肢に移ることであり、もう一つは発言、すなわちとどまったまま改善を求めることである。市場では離脱が主な反応になる。品質の落ちた商品は買わなければよい。しかし公共サービスでは離脱が難しく、発言が主要な回路になる。公園に不満があっても、その公園を使わないという選択は、代わりの公園が近くにない限り、公園を使わない生活を選ぶことと同義になってしまう。
公園における離脱には二つの形がある。一つは近隣の別の公園に移ることで、これは公園が密に配置された地域でのみ可能である。もう一つは居住地そのものを移すことで、地方公共財の理論ではティブー仮説として知られる、足による投票である。ただし住み替えには大きな費用がかかり、住宅を所有していれば一層動きにくい。結局、多くの住民にとって現実的な選択肢は発言だけであり、発言が機能するかどうかが公園の質を左右する。
5.1 発言にかかる費用は誰にとっても同じではない
ここで見落とされやすいのは、発言することにも費用がかかり、その費用が人によって大きく違うという点である。要望を届けるには、どこに言えばよいかを知り、平日の昼間に電話をかけるか窓口に行くか、書式に沿って文書を作り、必要なら自治会や関係団体の同意を取りつける必要がある。これらは、行政の手続きに慣れた人にとっては小さな手間だが、そうでない人にとっては高い壁になる。日本語での書面のやり取りに不安のある人、勤務時間に融通の利かない人、乳幼児を連れて外出しにくい人にとっては、費用はさらに上がる。
地域の側の条件も差を生む。自治会や町内会が長く機能している地域には、要望を集約して市に伝える経路がすでにある。組織の役員は行政の担当者と面識があり、どの時期にどの形で伝えれば予算の検討に乗るかを知っている。この経路が弱い地域では、同じ強さの不満があっても、それが行政の手元に届く量は少なくなる。オルソンの言葉で言えば、組織化の費用をすでに支払い終えた地域と、これから支払わなければならない地域の差である。
5.2 沈黙は満足を意味しない
以上から、実務でしばしば用いられる推論——要望の多い公園は需要が高く、要望のない公園は現状で足りている——には注意が必要になる。沈黙にはいくつもの理由がありうる。満足している場合もあれば、言っても変わらないと考えている場合、そもそも要望を出せることを知らない場合、当事者である期間が短くて動く前に子どもが育ってしまう場合もある。ハーシュマンの用語で言えば、忠誠が発言を支えることもあれば、諦めが発言を沈黙させることもある。沈黙の理由を区別しないまま需要の指標として使えば、静かな地域はいつまでも静かなままになる。
この偏りを補正する方法は、原理的には難しくない。要望という自発的な入力に頼るのをやめ、悉皆的なデータで需要と状態を測ればよい。公園の位置と面積、遊具の有無と設置年、周辺の年齢別人口、到達距離といった情報は、要望が来るかどうかとは無関係に、すべての公園について同じ基準で得られる。定期的な点検の記録も同様である。国土交通省の「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」は、点検を計画的に行い記録することを求めており、この記録は、声の有無によらず施設の状態を把握する土台になる。
もう一つの方法は、発言の費用そのものを下げることである。窓口の時間を広げる、書式を簡略にする、電子的な受付を用意する、といった手当ては、届く声の総量を増やすだけでなく、届く声の偏りを小さくする。声を集める仕組みの設計は政治学と行政学の領域だが、公共選択論の観点からは、それが単なる利便性の向上ではなく、配分の公平さに直接効く措置である点を強調しておきたい。入力の偏りは、どれほど公正に処理しても出力の偏りとして残るからである。
ただし、悉皆的なデータにも限界がある。データは測れるものしか測らない。ベンチの座り心地、木陰の涼しさ、見通しの良し悪し、近所の目が届くかどうかといった質は、台帳の項目にはならない。これらを知るには現地を歩くほかなく、その意味で、発言とデータは代替関係ではなく補完関係にある。要望は現地の質に関する情報を運び、データは要望の偏りを補正する。両方が必要だというのが、本節の結論である。
6. 新設は目立ち、維持は目立たない
公共選択論から公園予算を見るとき、地域間の配分と並んでもう一つ重要な軸がある。同じ地域の中でも、新しくつくることと、すでにあるものを保つことの間で、予算のつきやすさが違うのではないか、という軸である。この非対称は、便益の大きさではなく、成果の見えやすさから生じる。新設された遊具は、誰が見ても新しいと分かる。これに対して、定期点検を行い、緩んだ金具を締め、腐りかけた部材を交換するという維持の仕事は、何も起きないことを成果とする。何も起きなければ、誰もそれに気づかない。
政治学ではこれを成果の帰属の問題として扱う。ある決定が誰の働きによるものかを示せるとき、その決定は政治的な資源になる。新しい公園の開園はいつ・どこで・何が変わったかが明確で、写真にも残り、住民の記憶にも残る。一方、維持管理は日付も場所も特定しにくく、成果を名指しできない。同じ額を使うなら、見える成果に使いたいという傾向は、特定の人物の資質ではなく、可視性の差に対する自然な反応として理解できる。
6.1 時間の割引と選挙の周期
第二の要因は時間である。予防的な保全、すなわち壊れる前に手を入れる措置は、費用を今支払い、便益を将来受け取る。事後的な対応、すなわち壊れてから直す措置は、今の支出を抑える代わりに、将来より大きな費用を負う。ライフサイクル全体で見れば予防のほうが有利だとされるが、意思決定者の視野が短ければ、この比較は成り立たない。首長と議員の任期は四年であり、その間に便益が現れない支出は、選択の対象として弱くなる。
ここでも重要なのは、これが誰かの不誠実を意味しないという点である。任期の中で成果を問われる立場に置かれれば、任期内に効果の見える施策を選ぶのは合理的な行動である。問題は、その合理的な行動の積み重ねが、長期的には施設全体の老朽化として現れることにある。公共選択論の言葉で言えば、個人の合理性と集団の合理性の乖離であり、第2節で挙げた集合行為の論理と同じ構造をしている。
| 観点 | 新設・大規模改修 | 点検・小修繕などの維持 |
|---|---|---|
| 成果の見えやすさ | 開園や供用開始として明確に見える | 何も起きないことが成果で、見えにくい |
| 成果の帰属 | いつ・誰の働きかで整備されたかを示せる | 多数の職員と事業者の日常業務に分散する |
| 便益が現れる時期 | 完成した時点ですぐに現れる | 将来の故障を防ぐという形で後から現れる |
| 費用の負担のされ方 | 国庫補助や地方債など複数の財源が想定される | 多くが年々の一般財源で賄われるとされる |
| 支持の集まりやすさ | 近隣から賛成が集まりやすい | 支持も反対も組織されにくい |
| 先送りしたときの影響 | 整備が遅れるという形で目に見える | しばらくは何も起きず、後年にまとめて現れる |
6.2 撤去という決定の政治的な重さ
維持の問題は、老朽化が進んだ段階で撤去の判断として立ち現れる。遊具に劣化が見つかったとき、選択肢は補修・更新・撤去のいずれかである。補修と更新には費用が要り、撤去には費用があまりかからない。しかし前節までの議論に照らせば、撤去は近隣に集中した損失として認識され、しかも目に見える。使用禁止の表示が巻かれた遊具が置かれたままになる光景は、判断が難しい局面で時間が経過していることの表れとして読める。ここでは、費用の大小と政治的な難しさの順序が逆転している。
この逆転を制度で緩和しようとする試みが、計画に基づく管理である。公園施設の長寿命化に関する計画のように、点検の結果に基づいて更新の時期と方法をあらかじめ定めておけば、個別の局面ごとに一から判断する必要が減る。あらかじめ決められた事項は、予算編成の場では既定の経費として扱われやすい。これは、ブキャナンが強調した、個別の決定ではなく決定の規則を先に決めるという発想の実務的な現れである。第8節で改めて論じる。
最後に、この非対称が一方向にのみ働くと考えるべきではないことを付け加えておく。大きな災害や事故が起きれば、維持管理の重要性は一気に可視化され、点検と更新に資源が集中する。国土交通省が遊具の安全確保に関する指針を定め、改訂を重ねてきた背景には、そうした社会的な関心の高まりがある。可視性は固定された条件ではなく、制度と情報によって動かせる変数である——この点が、次節以降の議論の前提になる。
7. 官僚制モデルと情報の非対称
ここまでは住民と政治家の側から配分を見てきた。公共選択論のもう一つの柱は、行政組織そのものを分析の対象に据えることである。ニスカネンは『官僚制と代議制』(1971)で、所管部局を自らの予算規模の最大化を目指す主体としてモデル化した。部局の予算が大きければ、人員も権限も昇進の機会も増える。しかも、ある事業にどれだけの費用がかかるかを正確に知っているのは所管部局だけであり、予算を認める側はそれを検証しにくい。この情報の非対称のもとでは、公共サービスは効率的な水準を超えて供給されうる、というのがニスカネンの結論であった。
このモデルは強い予測を与えるが、そのままの形で日本の市町村に当てはめるには無理がある。第一に、地方自治体の予算編成では財政部局が総枠を管理し、各部局には要求の上限があらかじめ示されることが多い。予算を最大化しようとしても、それを許す構造ではない。第二に、財源の相当部分は国や県の制度に規定されており、部局の裁量で動かせる範囲は限られる。第三に、近年の自治体が置かれてきた状況はむしろ縮小の圧力であり、部局が守ろうとするのは拡大よりも現状であることが多い。
こうした批判を受けて提示された修正の一つが、パトリック・ダンレヴィが1991年に示した所管形成のモデルである。官僚が最大化したいのは予算の総額ではなく、自分たちの仕事の質——企画的で裁量のある業務——だと考える。この見方に立てば、部局は日常的な現場対応や苦情処理を外部に委ね、計画や制度設計に資源を寄せようとする傾向を持つ。指定管理者制度や民間活力の導入が広がる背景の一部は、この観点から説明できる。予算最大化と所管形成は、どちらが正しいというより、どの局面を説明するかが違う。
7.1 公園という所管の特殊な形
公園を所管する部局には、他の分野と異なる特徴がある。第一に、施設の数が多く、地理的に分散している。磐田市の場合、当サイトが収録した公園は100園に及び、それが市内の9地区にまたがって分布している。一つ一つの規模は小さくても、点検し、清掃し、樹木を管理し、苦情に応じる対象としての件数は多い。第二に、一件当たりの事業費が小さい。大規模な建築物であれば一件の判断で大きな額が動くが、公園では小さな判断が多数積み上がる。
この形は、予算過程において公園を不利にしやすい。件数が多いために、個々の案件を詳しく説明する余裕が生まれにくい。一件当たりの額が小さいために、削減しても目に見える影響が短期的には現れにくい。結果として、公園費は総額の調整弁として使われやすい分野だと指摘されることがある。ニスカネンのモデルが想定する予算最大化に成功する所管とは、むしろ逆の位置にあると言ってよい。ここでも、悪意ではなく所管の形が結果を左右している。
7.2 情報の非対称は住民との間にもある
ニスカネンが論じた情報の非対称は、行政と議会の間のものであった。しかし公園については、行政と住民の間の非対称のほうが実際的な意味を持つ。ある遊具がいつ設置され、直近の点検でどう判定され、更新の予定がいつなのかは、専門的な記録の中にある。住民が見ているのは結果としての遊具の姿だけである。この差があるかぎり、住民の要望は状態の情報を欠いたまま出され、行政の判断は住民の関心を欠いたまま下されることになりやすい。
非対称を減らす手立ては、原理的には開示である。公園の一覧、面積、種別、設備の有無といった基礎情報は、オープンデータとして機械可読の形で公開できる。磐田市の「都市公園一覧」はその例であり、当サイトのデータベースもこれを基礎資料としている。さらに踏み込めば、点検の結果や更新の計画も、様式を整えれば公表できる情報である。開示は、住民が要望を出す際の精度を上げるだけでなく、ダウンズが指摘した合理的無関心の費用そのものを下げる。調べる労力が小さくなれば、調べる人は増える。
ただし開示にも限界と副作用がある。第一に、公開された指標は、それを良く見せる方向に行動を歪めることがある。件数や金額だけが評価されれば、数えやすい仕事が優先されうる。第二に、専門的な判定を文脈なしに公表すれば、誤解を生む可能性がある。第三に、記録を整え公開する作業自体に人手と費用がかかる。したがって開示は万能薬ではなく、何を、どの粒度で、どのような説明とともに出すかという設計の問題である。この設計論は情報学の領域が扱う。
8. 反論への応答と、規則による設計
ここまでの議論には、いくつかの典型的な反論が向けられる。順に応答することで、公共選択論を公園に適用する際の射程を確かめておきたい。第一の反論は、人間を利己的だと決めつけているというものである。公園の仕事に携わる人々の多くは、地域を良くしたいという動機で働いている。それを自己利益の追求と呼ぶのは、現実の描写として粗すぎるのではないか。
これに対する応答は次のとおりである。公共選択論が置くのは人間観ではなく分析上の仮定である。仮に全員が善意で行動したとしても、情報が偏り、便益と費用の分布が非対称であれば、望ましくない配分は生じる。逆に言えば、善意を前提にしなくても機能する制度こそが頑健な制度だ、という設計上の指針が導かれる。悪しき統治者を想定して統治の仕組みを設計せよという発想は政治思想の古典に繰り返し現れるが、公共選択論はそれを財政の領域に持ち込んだものだと理解できる。したがって、関係者の誠実さを疑うことと、この分析を用いることは別のことである。
第二の反論は、実務はすでに客観的な指標に基づいて配分している、というものである。老朽度、利用状況、地区ごとの整備水準といった指標が用いられているなら、政治的な力学の入り込む余地は小さいのではないか。これに対しては、指標の選択そのものが配分を決めている、と応答したい。第9節で見るように、公園の充足を園数で測るか、面積で測るか、人口一人当たりで測るか、到達距離で測るかによって、どの地域が足りていないかの像は変わる。指標は中立な観測装置ではなく、優先順位の一部である。
ただしこの応答は、指標を使うべきでないという主張ではない。むしろ逆である。指標があれば、なぜその配分になったのかを事後に検証でき、別の指標との比較もできる。指標がなければ検証の手がかりすら残らない。重要なのは、指標を唯一の正解として提示するのではなく、複数の指標を併記し、それぞれがどの側面を捉えているかを明示することである。
8.1 立憲的政治経済学——決定の前に規則を決める
ブキャナンが晩年まで一貫して主張したのは、政治の分析を二つの段階に分けるという方法であった。一つは、日々の決定が行われる通常の段階である。もう一つは、その決定を行うための規則を選ぶ段階、すなわち立憲の段階である。前者では各人の利害がはっきりしているため、合意は難しい。しかし後者では、規則が将来どのように自分に作用するかが不確実であるため、より公平な規則が選ばれやすい。自分がどの地区に住むことになるか分からない状態で配分の規則を選ぶなら、どの地区にも受け入れられる規則を選ぶだろう——この論法は、ロールズが『正義論』(1971)で用いた無知のヴェールと発想を共有している。
この枠組みを公園に当てはめると、法令が定める基準の意味が見え直してくる。都市公園法施行令と国の標準は、街区公園は0.25ha・誘致距離250m、近隣公園は2ha・500m、地区公園は4ha・1kmといった規模と配置の目安を種別ごとに定め、あわせて住民一人当たりの敷地面積の標準を10㎡以上、市街地では5㎡以上としている。これらは個別の公園について誰かが得をするように作られたものではなく、どの地域にも一律に当てはまる枠である。個別の配分を毎回ゼロから議論せずに済ませ、裁量の余地を狭めるという点で、これらは立憲の段階に属する規則として働いている。
同じ性質は、自治体が定める計画にも認められる。公園施設の長寿命化に関する計画や、公共施設全体の管理に関する方針は、個別の年の判断に先立って、点検の周期、更新の考え方、優先順位の付け方をあらかじめ定める。第6節で見た可視性の非対称は、この事前の取り決めによってある程度中和される。計画に位置づけられた事業は、目立たなくても既定の経費として扱われるからである。逆に言えば、計画に位置づけられていない事項は、毎年の可視性の競争にさらされ続ける。
8.2 規則で解けない部分をどうするか
とはいえ、規則がすべてを決められるわけではない。基準は最低限の枠であり、その内側でどの公園を先にするかという判断は残る。また、基準を満たしているかどうかだけを見れば、基準に現れない質——遊具の種類の偏り、日陰の有無、車いすで入れるかどうか——は視野から落ちる。ここで必要になるのが、第5節で述べた発言の回路と、第7節で述べた開示である。規則が裁量の幅を狭め、開示が判断の材料を共有し、発言が現地の質の情報を運ぶ。三つは代替ではなく、それぞれが別の欠落を埋めている。
最後に、第三の反論に触れておく。公共選択論は結局のところ何も提案しない、という批判である。構造の分析から具体的な配分案は出てこない。この批判は当たっている。本稿も、どの公園を優先すべきかという問いには答えない。答えられるのは、どのような手続きで決めれば、決め方そのものが偏りにくいか、という問いに限られる。それは小さな貢献に見えるかもしれないが、個別の配分は毎年変わるのに対し、決め方は長く残る。
9. 磐田市の公園への示唆
ここまでの概念を、磐田市の公園に照らしてみたい。あらかじめ断っておくが、以下は市の予算編成を評価するものではなく、公開されているデータの形から、どのような問いが立てられるかを示すものである。当サイトが収録している公園は100園で、その内訳は市のオープンデータ「都市公園一覧」の94行と、市の施設ガイドにのみ掲載されている6園からなる。踏査済みの園はまだなく、遊具の実際の状態や利用の様子について当サイトが述べられることはない。
まず種別の構成を見る。街区公園が51園と最も多く、以下、近隣公園14園、都市緑地10園、法対象外など6園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園である。半数が街区公園であるという構成は、日常的に歩いて行く小さな公園が公園ストックの主体であることを意味する。第4節で述べた便益の集中は、誘致距離250mの街区公園において最も強く働く。つまり、園数の上で多数を占める種別ほど、便益と費用の非対称が大きいということになる。
| 種別 | 磐田市の園数 | 国の標準(規模・誘致距離) |
|---|---|---|
| 街区公園 | 51園 | 0.25ha・250m |
| 近隣公園 | 14園 | 2ha・500m |
| 都市緑地 | 10園 | 0.1ha以上 |
| 法対象外・その他 | 6園 | 定めなし |
| 地区公園 | 4園 | 4ha・1km |
| 総合公園 | 3園 | 10〜50ha |
| 運動公園 | 3園 | 15〜75ha |
| 風致公園・歴史公園・墓園 | 5園 | 特殊公園・規模の定めなし |
| 広場公園・緑道 | 4園 | 定めなし |
9.1 どの指標で測るかによって像が変わる
第8節で述べた、指標の選択が優先順位の一部になるという論点は、磐田市のデータでそのまま確かめられる。地区ごとの園数は、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。園数だけを見れば地区差は大きい。しかし面積で見れば像は変わる。竜洋には総合公園である竜洋海洋公園が221,722㎡の規模で存在し、地区の合計面積を大きく押し上げる。福田には福田公園(49,620㎡)が、向陽には磐田スポーツ交流の里ゆめりあ(57,500㎡)がある。園数の少ない地区が大きな公園を持っていることは珍しくない。
面積の分布そのものも極端である。最大の竜洋海洋公園が221,722㎡であるのに対し、最小の二之宮東第2緑地は17㎡である。この幅の中で平均を取ることに、実用的な意味はほとんどない。合計面積を人口で割った一人当たりの面積も、大規模な公園が一つあるかないかで大きく変動する。第8節で触れた一人当たり10㎡(市街地5㎡)という標準は市全体の水準を示す指標であって、身近な公園の足りているかどうかを示すものではない。日常の使いやすさを測るには、家から歩いてどれだけで着くかという到達距離のほうが適している。
ただし、地区ごとの園数の差を配分の偏りの証拠として読むことはできない。園数は、その地区の人口、市街化の進み方、住宅開発の時期、そして市町村合併を含む行政区域の変遷を反映した結果である。開発にあわせて設置された公園と、農村部の集落に置かれた公園とでは、成り立ちも役割も異なる。データが示しているのは差の存在であって、差の理由ではない。理由を明らかにするには、それぞれの公園の整備年次と当時の計画を追う必要があり、それは歴史的な資料に基づく別の作業になる。
9.2 設備のフラグと情報の可視性
オープンデータの94行について設備の有無を集計すると、トイレ有が69園、車いす対応トイレ有が34園、砂場有が43園、遊具有が64園である。トイレのある園に対して車いす対応のトイレがある園が半数に満たないという差は、第6節で述べたストックの時間差として読める可能性がある。バリアフリーに関する基準が整えられたのは比較的近年であり、それ以前に整備された施設は、更新の機会が来るまで従前の仕様のまま残る。ここでも、これは当サイトが立てた仮説であって、確かめるには各園の整備・改修の時期を追う必要がある。
もう一つ、本稿の観点から興味深いのは、情報そのものの偏りである。市の施設ガイドに個別のページがある園は77園で、残りは名称・種別・面積といった基礎情報しか得られない。権現緑地、城山球場、いわたエコパーク、竜洋南部緑地公園などがこれに当たる。個別ページの有無は、その公園の価値の差ではなく、掲載の運用や施設の性格の違いによるものだろう。しかし結果として、情報の得やすさには差が生じる。第5節・第7節で論じたとおり、情報が少ない対象は、要望の対象にも検討の対象にもなりにくい。可視性の差が、関心の差を通じて配分に反映されうる、という構造は、ここにも小さな形で現れている。
当サイトにできることは限られている。公園の管理は市の都市整備課が担っており、当サイトは公開データを整理して読みやすくするだけの立場にある。それでも、100園を同じ様式で並べ、種別・面積・地区・設備を横断して比較できる形にすること自体が、第5節で述べた悉皆的な把握の一歩にはなる。今後の踏査によって、データには現れない現地の質——日陰、見通し、園路の歩きやすさ——を記録していくことが、当サイトの次の課題である。運営は不動産と介護の事業を営む富士ヶ丘サービス株式会社だが、本稿の内容はその事業とは独立している。
10. 結論と今後の課題
本稿は、誰の公園に予算がつくのかという問いを、公共選択論の枠組みで検討してきた。得られた見取り図は、五つの非対称として要約できる。第一に、多数決による決定は理論上は中位投票者の希望に近づくが、公園のように立地という多次元の争点を含む財では、唯一の正しい優先順位は存在しない。第二に、公園の便益は誘致距離の内側に集中し、費用は市全体に拡散するため、要望は起きやすく、費用の側からの反対は起きにくい。第三に、要望を届ける力には地域差と個人差があり、沈黙は満足を意味しない。
第四に、新しくつくることは成果が見えて帰属も明確であるのに対し、点検や小修繕は何も起きないことが成果であるため、可視性の点で不利に置かれやすい。第五に、施設の状態と費用に関する情報は所管部局に集中し、住民との間に非対称が残る。これら五つは互いに独立ではなく、便益の集中が要望を生み、要望の偏りが可視性の偏りを強め、情報の非対称がその全体を検証しにくくする、という形で連鎖している。
重要なのは、この見取り図のどこにも、悪意を持った当事者が現れないことである。近隣の住民は自分の生活のために要望を出し、議員と首長は任期の中で成果を出そうとし、職員は限られた予算の中で優先順位をつける。それぞれの行動は理にかなっている。にもかかわらず全体としては偏りが生じるなら、問題は個人ではなく配置にある。公共選択論が最終的に導く含意は、誰かを責めることではなく、配置を変えることである。
その具体的な方向として、本稿は三つを挙げた。個別の決定に先立って規則と計画を定めること、施設の状態と判断の根拠を開示すること、発言の費用を下げて入力の偏りを小さくすることである。誘致距離や標準面積といった法令上の目安、公園施設の計画的な管理、オープンデータの公開は、いずれもこの三つのいずれかに対応する既存の仕組みである。新しい制度を発明する必要は必ずしもなく、すでにある仕組みが何のために働いているのかを、配分の公平さという観点から読み直すことに意味がある。
10.1 本稿の限界
本稿には明確な限界がある。第一に、概念の適用にとどまり、実証を欠く。ここで述べた傾向が実際にどの程度観測されるのかは、予算書、事業の実施記録、要望の受付記録といった資料を通時的に分析しなければ確かめられない。第二に、日本の市町村における公園予算の決定過程に関する研究の蓄積を、本稿は十分に参照していない。海外で発展した理論をそのまま持ち込むことには、制度の違いを見落とす危険が伴う。第三に、配分の公平さをどう定義するかという規範的な問題に、本稿は踏み込んでいない。何が公平かを決めずに、決め方だけを論じているという批判は成り立つ。
第四の限界として、本稿が扱わなかった重要な回路がある。公園は市の予算だけで成り立っているのではない。地域の愛護会による日常的な手入れ、企業や団体による協力、利用者自身の配慮といった、金銭に換算されない資源が公園を支えている。これらは予算配分の分析からは見えにくいが、実際の公園の状態を大きく左右する。オルソンの集合行為の論理は、こうした自発的な協力がなぜ成り立つのかという問いにも向けられてきたが、本稿ではその方向に踏み込む余裕がなかった。
10.2 今後の課題
- 到達距離による充足の把握——園数や面積ではなく、住宅地から歩いて何分で公園に着くかを地図上で測り、指標の違いが像をどう変えるかを比較する
- 整備年次の復元——各公園がいつ整備され、いつ改修されたかを公開資料から追い、設備の差が時間差によるものかどうかを検証する
- 沈黙の測定——要望が出ていない地域の需要を、無作為の調査や利用の観察によってどう推し量るか、方法そのものを検討する
- 踏査による質の記録——日陰、見通し、園路の歩きやすさ、遊具の対象年齢の表示など、台帳に現れない質を同じ様式で記録していく
- 参加と予算の接続——住民参加の場で出された意見が、実際にどの段階で予算に反映されうるのかを、制度の流れに沿って整理する
最後に、本稿を貫く姿勢を一言で述べておきたい。公園の配分をめぐる問題は、誰かが得をして誰かが損をしているという構図で語られがちである。しかし本稿が示したかったのは、そうした構図が成り立たない場合でも偏りは生じるということ、そして偏りの原因が制度の形にあるなら、それは制度の形を変えることで直せるということである。当サイトが100園のデータを整え、これからの踏査で現地の質を記録していく作業も、その小さな一部として位置づけられる。
参考文献
- ジェームズ・M・ブキャナン、ゴードン・タロック(1962)『公共選択の理論——合意の経済論理』(宇田川璋仁監訳、東洋経済新報社、1979)
- アンソニー・ダウンズ(1957)『民主主義の経済理論』(古田精司監訳、成文堂、1980)
- マンサー・オルソン(1965)『集合行為論——公共財と集団理論』(依田博・森脇俊雅訳、ミネルヴァ書房、1983)
- ウィリアム・A・ニスカネン(1971)『官僚制と代議制』(原題 Bureaucracy and Representative Government)
- ケネス・J・アロー(1951)『社会的選択と個人的評価』
- ゴードン・タロック(1967)「関税・独占・窃盗の厚生費用」(論文)
- アルバート・O・ハーシュマン(1970)『離脱・発言・忠誠——企業・組織・国家における衰退への反応』(矢野修一訳、ミネルヴァ書房、2005)
- パトリック・ダンレヴィ(1991)『民主主義・官僚制・公共選択』(原題 Democracy, Bureaucracy and Public Choice)
- ジョン・ロールズ(1971)『正義論』(川本隆史・福間聡・神島裕子訳、紀伊國屋書店、2010)
- 都市公園法(1956年法律第79号)および都市公園法施行令
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- 国土交通省 都市局「都市公園」
- 磐田市「都市公園一覧」(オープンデータ・CC BY 3.0、出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。