芸術・文化・メディアマンガ・アニメ表象
土管のある空き地はどこへ行ったか——マンガ・アニメの遊び場表象
要旨
本稿の目的は、戦後日本のマンガ・アニメに繰り返し現れる、空き地・土管・原っぱ・河川敷・公園という子どもの遊び場の舞台装置を、遊び論と表象研究の視点から検討することである。方法は文献整理と概念分析であり、個別の作品名・作者名を挙げてその内容を分析することはしない。ヨハン・ホイジンガとロジェ・カイヨワの遊び理論、フィリップ・アリエスと柳田國男による子ども観の歴史性の議論、青木淳の建築論における「原っぱ」概念、ジェイン・ジェイコブズの街路論、夏目房之介・大塚英志・東浩紀のマンガ・アニメ表現論、スーザン・ネイピアのアニメ研究、岡本健・増淵敏之のコンテンツツーリズム研究を手がかりに、繰り返し現れる遊び場の型を検討する。
検討の結果、空き地・土管・原っぱという舞台は、規定された用途をもたない「原っぱ」的な空間として、大人の目が届きにくい子ども固有の領域を表す型として機能してきたことが明らかになる。この型は、区画整理・宅地化・都市公園の整備という現実の都市の変化のなかで、実在する空き地や原っぱが減少していく過程と並行して、むしろ懐かしさを帯びた記号として反復されるようになった。また、アニメーションの背景美術は、すべり台・ブランコ・砂場という限られた形態の遊具に画面上の意味を凝縮させる傾向をもち、この記号化と、聖地巡礼と呼ばれる実在の場所探訪の実践とのあいだには、虚構の舞台と現実の場所を重ね合わせようとする独特の緊張関係が見出される。
最後に、磐田市の都市公園100園、なかでも街区公園51園と、竜洋地区に残る河川敷公園を手がかりに、マンガ・アニメが描いてきた遊び場の型と、当サイトが今後の踏査で確かめるべき現実の公園の姿との関係を整理する。本稿は特定の作品を取り上げて評価する批評ではなく、著作権・商標に配慮しながら、繰り返し現れる表現の型を理論的に整理するものであり、当サイトの運営にかかわる主張を行うものではない。
キーワード空き地の表象原っぱ論背景美術の記号化聖地巡礼子ども観の歴史性遊び場の舞台装置都市の変化
1. はじめに——問題の所在
戦後日本のマンガやアニメを見わたすと、子どもたちが大人の目の届かない場所で遊ぶ場面が繰り返し描かれてきたことに気づく。舞台になるのはたいてい、資材や土管が積まれたままの空き地、雑草の生い茂る原っぱ、川べりの土手や河川敷であり、そこに子どもたちだけの小さな社会が立ち上がる。この舞台立ては一作品に固有の発想というより、何十年にもわたって様々な作り手が選び続けてきた、いわば定型化した舞台装置である。ところが、今日の都市を歩いても、資材が積まれたままの空き地や、柵もなく自由に出入りできる原っぱに出会うことは少ない。本稿はこの落差——虚構のなかで反復される遊び場の型と、現実の都市から失われていった空間——を出発点とする。
この反復性の強さは、マンガ・アニメという媒体に固有の事情とも関係している。実写映像が物語の舞台を撮影するには、実在する場所を選ぶかセットを組む必要があり、コストと制約が大きい。これに対してマンガ・アニメは、線と色によって空間を描くため、用途未定で管理主体のあいまいな空間を、比較的少ない情報量で成立させやすい。空き地や原っぱが好んで選ばれてきた背景には、こうした媒体の技法的な自由度も関わっていると考えられる。本稿が主に念頭に置くのは、都市化が本格的に進んだ高度経済成長期以降から今日に至るまでの、およそ数十年にわたる期間である。特定の年代や作品に限定せず、この期間を通じて反復されてきた表現の型を対象とする。
本稿の課題は、空き地・土管・原っぱ・河川敷という舞台装置を、遊び論と表象研究の視点から検討することである。ここでいう表象研究とは、ある事物が絵や物語のなかでどのように「型」として描かれ、何を意味づけられているかを検討する研究領域を指す。あらかじめ断っておくと、本稿は特定の作品名・作者名を挙げてその内容を分析するものではない。著作権・商標への配慮から、個別の作品ではなく、多くの作り手が独立に選び取ってきた表現の型を対象とする。これは学術的にも妥当な方法である。特定の一作品の分析ではなく、複数の作品にまたがって反復される図像や物語の型を扱うことは、表象研究・記号論の標準的な手続きだからである。
本稿の問いは次の三つである。第一に、空き地・土管・原っぱ・河川敷という舞台は、どのような性質によって「大人の目が届かない、子ども固有の領域」を表す型として機能してきたのか。第二に、区画整理や宅地化が進み、現実の都市から空き地や原っぱが減っていくなかで、この舞台装置はどのように変化し、あるいはなぜ反復され続けているのか。第三に、アニメの背景美術が公園という場所をどのように記号化して描くか、そして聖地巡礼と呼ばれる実在の場所を訪ねる実践は、虚構の舞台と現実の場所のあいだにどのような関係を取り結ぶのか。
方法は文献整理と概念分析である。遊び理論の古典としてヨハン・ホイジンガとロジェ・カイヨワ、子ども観の歴史性についてフィリップ・アリエスと柳田國男、建築論における未規定な空間の議論として青木淳、都市の街路と監視の関係を論じたジェイン・ジェイコブズ、マンガ・アニメの表現論として夏目房之介・大塚英志・東浩紀、海外からの日本アニメ研究としてスーザン・ネイピア、そして実在の場所と虚構作品の関係を論じるコンテンツツーリズム研究として岡本健・増淵敏之を手がかりとする。これらの古典・研究群を、空き地・土管・原っぱ・河川敷・公園という対象に即して整理し直すことが、本稿の作業である。
なお、当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の都市公園100園を収録するデータベースであるが、現地踏査は始まったばかりの段階にある。本稿で扱う遊び場の表象は、虚構作品における舞台装置の型についての理論的な検討であり、磐田市の個々の公園の実態を踏査によって確かめたものではない。踏査で確かめるべき論点は、第9節で個別に示す。
本稿が対象とするのは、マンガという静止画による連続した物語表現と、アニメーションという動画による物語表現の双方である。両者は技法としては大きく異なるが、空き地・原っぱ・土管という舞台装置を扱う際の基本的な発想——用途未定の空間を子ども固有の領域として提示するという発想——は共通している。本稿では両者を厳密に区別せず、「マンガ・アニメ」という一つの表現群として扱い、必要な場合にのみ媒体ごとの技法的な違いに触れることとする。
1.1 本稿の構成
第2節で遊び論と子ども観の歴史性という基礎概念を整理する。第3節で空き地・原っぱ・土管という舞台装置がどのような性質をもつ空間として描かれてきたかを検討し、第4節で「大人の目が届かない場所」という表象を監視と自由という観点から論じる。第5節で区画整理・宅地化が進むなかでこの舞台がどのように変化してきたかを、都市の側の事情とあわせて整理する。第6節でアニメーションの背景美術が公園をどのように記号化して描くかを検討し、第7節で聖地巡礼という実践を通じて虚構の舞台と現実の場所がどう結びつくかを論じる。第8節で「単なる背景ではないか」という反論に応答し、実写映像における描かれ方との比較を行う。第9節で磐田市の公園への示唆を、第10節で結論と今後の課題を述べる。読者としては磐田市周辺の子育て世代、行政・地域の関係者、マンガ・アニメ表現や公園に関心をもつ学生を想定し、専門用語は初出のたびに説明する。
2. 先行研究と概念の整理
遊びを人間の根源的な営みとして理論化した古典に、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938年)がある。ホイジンガは、遊びが日常生活から区切られた時間と空間——遊びの「圏域」——のなかで、独自の規則にしたがって営まれる自由な活動であると論じた。この議論を継承しつつ、遊びをより細かく分類したのがロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(1958年)である。カイヨワは遊びを、競争を軸とする「アゴン」、運や偶然に身を委ねる「アレア」、何かになりきる「ミミクリ」、めまいや身体感覚に訴える「イリンクス」の四類型に整理した。空き地や原っぱで展開する子どもの遊びの多くは、これらの類型が入り混じった、規則が固定されない自由な遊びとして捉えることができる。
| カイヨワの類型 | 内容 | 空き地・原っぱでの遊びの例 |
|---|---|---|
| アゴン(競争) | ルールのもとで能力を競う | 鬼ごっこ・かけっこ |
| アレア(偶然) | 運や偶然の結果に身を委ねる | じゃんけん・くじ引き遊び |
| ミミクリ(模倣) | 何か・誰かになりきる | ごっこ遊び・見立て遊び |
| イリンクス(眩暈) | 回転や高低差など身体感覚に訴える | 土管をくぐる・土手を転がる |
2.1 子ども観の歴史性
「子どもらしい遊び場」という発想そのものが、歴史を通じて一定不変だったわけではない。フィリップ・アリエスは『〈子供〉の誕生』(1960年)において、「子ども」を大人とは異なる固有の感性と保護を要する存在とみなす見方が、近代以降に徐々に形成されてきた歴史的な構築物であることを示した。日本においても、柳田國男は『こども風土記』(1942年)のなかで、地域の暮らしのなかにあった子どもの遊び場や遊びの言葉を丹念に記録し、子どもの世界が大人の社会と地続きでありながら独自の領域をもっていたことを描き出している。マンガ・アニメにおける空き地や原っぱの表象は、こうした「子ども固有の領域」という近代的な観念を前提として成立している型であるといえる。
建築批評の分野では、青木淳が『原っぱと遊園地』(2004年)のなかで、あらかじめ用途が決められた空間を「遊園地」、使い方が決められておらず利用者がその都度意味を与える空間を「原っぱ」と呼び分けた。この対比は、遊具が配置され利用の仕方がある程度定められた公園と、資材置き場や造成途中の土地がそのまま放置され、用途未定であるがゆえに何にでも見立てられる空き地との違いを理解するうえで有効である。マンガ・アニメが繰り返し描く空き地や原っぱは、青木のいう「原っぱ」的な性質——用途が定まっていないために、遊ぶ側が自由に意味を与えられる性質——をきわだった形で体現した空間だと整理できる。
遊び論のなかでもう一点確認しておきたいのは、遊びが行われる「圏域」が、日常生活から明確に区切られていなければならないというホイジンガの指摘である。空き地や原っぱは、住宅地や道路に囲まれながらも、雑草や資材によって視覚的・心理的に区切られた、独立した圏域として描かれやすい。この区切りの明瞭さが、遊びの圏域としての説得力を高めている。都市公園にも柵や生垣による区切りは存在するが、それはあらかじめ設計された境界であるのに対し、空き地や原っぱの境界は、自然に生い茂った草木や、放置された資材によって偶発的に形作られている点で性質が異なる。
2.2 監視と自由の空間論
都市計画・都市社会学の分野では、ジェイン・ジェイコブズが『アメリカ大都市の死と生』(1961年)のなかで、街路に住民の視線が常に注がれている状態——「ストリートに注がれる目」——が地域の安全を支えると論じた。この議論は、大人の目が行き届く空間の価値を説いたものである。マンガ・アニメが描く空き地や原っぱは、これとは逆に、大人の目が届きにくいことによって成立する子どもの自由な領域として表象される点で対照的である。この対照は本稿の第4節でさらに検討するが、ここでは、監視の有無という同じ論点が、安全と自由という異なる価値を両側から照らし出していることを確認しておきたい。
マンガ・アニメの表現そのものを対象とする研究群も本稿の土台になる。夏目房之介は『手塚治虫はどこにいる』(1992年)などの仕事を通じて、コマ割りや構図、背景の描き方といったマンガ固有の表現技法を分析する視点を切り開いた。大塚英志は『定本 物語消費論』(2001年、初出1989年)で、個別の作品の背後にある大きな世界観や設定——「大きな物語」——が断片として消費される仕組みを論じ、東浩紀は『動物化するポストモダン』(2001年)で、キャラクターや背景に用いられる要素が部品化され、データベースのように組み合わされて量産される傾向を指摘した。空き地や土管、すべり台や砂場といった舞台装置が繰り返し似た形で描かれる背景には、こうした要素の部品化・record化という表現産業の構造があると考えられる。
海外からの日本アニメ研究としては、スーザン・ネイピアが『Anime from Akira to Princess Mononoke』(2001年)において、日本のアニメーションが描く空間や身体の表象を比較文化的な視点から検討している。また、実在の場所と虚構作品との関係を扱うコンテンツツーリズム研究として、岡本健の『コンテンツツーリズム研究』(2015年)と増淵敏之の『物語を旅するひとびと』(2010年)があり、これらは第7節で聖地巡礼を論じる際の手がかりとなる。以上の先行研究を踏まえ、次節以降では空き地・原っぱ・土管という舞台装置そのものの性質から検討を進める。
ここで一つ確認しておきたいのは、これらの先行研究がそれぞれ異なる学問領域に属しながら、共通して「空間の意味は固定されたものではなく、使う側との関係のなかで作られる」という考え方を土台にしていることである。ホイジンガとカイヨワは遊ぶ主体の側から、アリエスと柳田は子どもという存在の側から、青木は建築という空間の側から、そしてジェイコブズは街路という都市の側から、それぞれ同じ論点に接近している。マンガ・アニメにおける空き地・原っぱの表象は、これらの異なる視点が交差する場所に位置しており、だからこそ複数の学問領域の概念を組み合わせて検討する意義がある。
もう一点、先行研究を整理するうえで注意しておくべきなのは、これらの古典の多くが、必ずしもマンガ・アニメという媒体を直接の対象として書かれたものではないという点である。ホイジンガ・カイヨワの遊び論は人間一般の営みを、アリエスの子ども論は近代ヨーロッパの家族史を、青木の建築論は現実の建築設計を、ジェイコブズの街路論は現実の都市計画を、それぞれ主な対象としている。本稿は、これらの議論をマンガ・アニメという特定の表現領域に応用する形で用いており、原著者たちがマンガ・アニメについて直接論じたわけではない点を、読者に誤解のないよう明記しておく。
3. 舞台装置としての空き地・原っぱ・土管
空き地・原っぱ・土管という舞台装置には、いくつかの共通する性質が見出せる。第一に、これらの空間は用途が定まっていない。公園のように、すべり台やブランコといった特定の行為を想定した設備が置かれているわけではなく、資材や土管、雑草の茂みといった、遊具ではないものがそのまま存在している。この用途未定の性質こそ、第2節で見た青木淳のいう「原っぱ」的な空間の核心である。子どもたちは、そこにある土管をくぐり抜ける遊び道具に見立てたり、積まれた資材を秘密基地の壁に見立てたりすることで、空間の意味を自分たちで作り直す。用途が決まっていないからこそ、想像力の入り込む余地が大きい。
第二に、これらの空間は所有や管理の主体があいまいに描かれることが多い。誰の土地であるか、誰が管理しているかが物語のなかで明示されないことによって、大人の制度——所有権や管理責任——から一時的に切り離された領域として機能する。これは、都市公園法にもとづいて自治体が管理する現実の公園とは対照的な性質である。都市公園は管理者が明確であり、禁止事項を示す看板や利用時間の定めがあることも珍しくないが、虚構のなかの空き地にはそうした管理の痕跡が乏しく描かれる傾向がある。この対照は、なぜ多くの作り手が公園ではなく空き地を選ぶのかを考えるうえで重要な手がかりになる。
第三に、これらの空間はしばしば「秘密基地」という主題と結びつけて描かれる。秘密基地とは、大人には知られていない、子どもだけが把握する場所や作りかけの構造物を指す物語上のモチーフであり、用途未定の空間であるからこそ、子どもたちが独自に手を加え、意味を上書きすることが可能になる。すでに用途の定まった都市公園の遊具に、子どもが勝手に新しい用途を付け加えることは難しいが、資材や廃材が置かれたままの空き地であれば、積み方や配置を変えるだけで、容易に「基地」としての体裁を整えることができる。秘密基地という主題は、空き地・原っぱの用途未定性を最も直接的に物語化した表現であるといえる。
3.1 反復される小道具としての土管
土管という小道具について、より立ち入って考えてみたい。円筒形の土管は、くぐる・のぼる・なかに座るといった複数の身体の使い方を許容する形態をもち、カイヨワの分類でいえば、めまいや高低差の感覚に訴える「イリンクス」的な遊びとも、なかに隠れる「ミミクリ」的な遊びとも結びつきやすい。加えて、土管は本来、下水道や区画整理の資材として一時的に置かれているものであり、工事の進行とともに撤去される運命にある。つまり土管のある空き地は、恒久的な施設ではなく、いずれ宅地や道路に姿を変える「移行期の風景」として描かれている点も見落とせない。この移行期性が、ノスタルジーを帯びた表象を生み出す一因になっていると考えられる。
原っぱと河川敷にも共通する性質がある。いずれも、芝生や舗装によって整えられた空間ではなく、雑草や裸地が広がる、いわば「手つかず」に見える空間である。河川敷は、治水のための堤防や高水敷という管理された土木構造物でありながら、日常の生活動線からやや離れているために、物語のなかでは管理の目が届きにくい場所として描かれやすい。以上のように、空き地・原っぱ・土管・河川敷は、用途未定・管理主体のあいまいさ・移行期性という性質を共有しながら、それぞれ異なる身体感覚と結びついた舞台装置として使い分けられてきたと整理できる。
季節や天候の描写も、これらの舞台装置の性質を補強する役割を果たす。夏草の生い茂る空き地、夕方になると長い影を落とす原っぱ、増水した後の河川敷といった描写は、その場所が自然の力にさらされた、管理の行き届かない空間であることを視覚的に強調する。都市公園であれば、季節の花壇や整備された芝生といった、人の手が加えられていることを示す描写がなされやすいのに対し、空き地や原っぱの描写では、むしろ人の手が及んでいないことを示す描写が選ばれる傾向がある。この対比は、舞台装置の性質を裏づける補助的な表現技法として位置づけられる。
空き地・原っぱ・土管・河川敷という四つの舞台装置は、互いに置き換え可能な同一のものではなく、それぞれ固有の空間的特徴をもっている点にも注意したい。空き地は住宅地の内部に点在する小さな余白であり、原っぱはより広がりをもった開放的な空間、河川敷は線状に伸びる細長い空間として描かれることが多い。この違いは、物語のなかでどのような集団の大きさや動きが描かれるかにも影響する。小規模な会話や二人だけの秘密の共有には空き地が、集団での遊びや競走には原っぱや河川敷が選ばれやすいというように、舞台装置の選択は、そこで描かれる行為の性質とも結びついている。
4. 大人の目が届かない場所という表象——監視と自由の空間論
空き地・原っぱ・土管が繰り返し選ばれる最大の理由は、そこが「大人の目が届かない場所」として描けることにある。物語のなかで子どもだけの会話や冒険を成立させるには、保護者や教師といった大人の視線が及ばない舞台が必要になる。空き地はその条件を満たす都合のよい装置であり、子どもたちはそこで、大人がいる場では言えないことを言い、大人がいる場ではできない挑戦をする。この「大人の目が届かない」という設定そのものが、物語を動かす仕掛けとして機能してきた。
第2節で触れたジェイン・ジェイコブズの街路論を、ここで裏返して考えてみる。ジェイコブズは、住民の視線が絶えず注がれる街路——「ストリートに注がれる目」——が犯罪を抑止し、地域の安全を支えると論じた。この考え方は、現実の都市公園の安全対策、たとえば見通しのよい植栽計画や死角の少ない配置にも通じる発想である。ところが、マンガ・アニメの空き地表象は、まさにこの「目」が及ばないことによって成立する自由を肯定的に描く。ここに、現実の都市計画が追求する安全と、虚構が魅力として提示する自由とのあいだの、根本的な緊張関係が見出される。
大人の目が届かないという設定は、大人が単に不在であることとは異なる。多くの物語では、保護者や教師といった大人の存在そのものは前提とされたうえで、その視線が特定の時間・特定の場所においてだけ及ばない、という限定的な自由として描かれる。子どもは学校が終わったあとの数時間、夕食までの時間といった、大人の管理する日課の隙間に空き地へ向かう。この「隙間の時間」という要素は、当サイトの読みものが扱う時間帯別の過ごし方という論点とも重なる部分があり、大人の目が届かない場所は、空間だけでなく時間の観点からも隙間として成立していることがわかる。
4.1 自由の代償という主題
大人の目が届かない場所は、無条件に肯定的なだけの空間として描かれるわけではない。多くの物語において、そうした場所はときに危険や失敗、悲しい別れの舞台にもなる。自由には代償や責任が伴うという主題は、空き地表象と分かちがたく結びついている。この点は、現実の子育てにおいて安全と自由をどう両立させるかという、保護者や地域社会が日々向き合う問いと重なる。ただし本稿は、こうした主題を特定の作品に即して評価するものではなく、多くの物語に共通する構造として指摘するにとどめる。安全に関する具体的な判断は、保護者や医療機関、地域の関係機関に委ねられるべき事柄である。
監視と自由のこの緊張関係は、現実の公園設計においても解消しきれない古くからの論点である。見通しをよくし死角を減らす設計は、防犯の観点からは望ましいとされる一方で、子どもが大人の目を意識せずに没頭して遊べる小さな囲われた空間——茂みの陰や築山の裏側など——を失わせる側面もある。マンガ・アニメの空き地表象は、この二律背反を極端な形で——管理をほとんど描かないという形で——提示することで、現実の公園がどこかで折り合いをつけている監視と自由のバランスを、逆説的に浮かび上がらせているとも解釈できる。この論点は第9節で磐田市の公園に即して再び取り上げる。
なお、大人の目が届かないことを肯定的に描く表象は、あくまで虚構における物語上の効果であり、現実の子育てにおける見守りの重要性を否定するものではない。年齢や発達の段階に応じて、どの程度の距離から見守るのが適切かは、保護者ひとりひとりの判断にゆだねられる事柄であり、本稿がその判断に代わる基準を示すものではない。虚構の表象を検討することと、現実の安全に関する助言を行うことは、目的も方法もまったく別の営みである点を、ここで改めて確認しておきたい。
監視と自由という対立軸は、年齢によっても意味合いが変わる。幼い子どもにとっては、保護者の目が届く範囲そのものが遊びの領域であることが多いのに対し、年齢が上がるにつれて、大人の目から離れた範囲で過ごす時間が徐々に増えていく。マンガ・アニメが空き地や原っぱを舞台に選ぶとき、多くの場合そこで描かれる子どもは、ある程度自分たちだけで行動できる年齢層として設定されている。この年齢という要素は、本稿がここまで扱ってきた空間の性質と並んで、大人の目が届かない場所という表象を成立させるもう一つの条件であるといえる。
5. 都市の変化と舞台の消失——空き地から公園へ
戦後日本の都市は、土地区画整理事業や宅地開発によって、その姿を大きく変えてきた。造成途中で放置されていた空き地や、農地と宅地のあいだに広がっていた原っぱは、道路や住宅が整備されるにつれて縮小し、代わりに用途があらかじめ定められた都市公園が、住民のための屋外空間として整備されるようになった。都市公園法(昭和31年法律第79号)にもとづく制度整備は、この流れを制度面から支えるものであった。マンガ・アニメが描き続けてきた空き地の舞台は、現実の都市においては、次第に稀少な風景になっていったといえる。
この変化を、青木淳の「原っぱと遊園地」という対比に即して整理すると次のようになる。用途未定の「原っぱ」的な空間が都市から減少し、用途があらかじめ決められた「遊園地」的な空間、すなわち遊具の配置された都市公園が増えていく、という大きな流れである。この流れ自体は、安全性の確保や誰もが利用しやすい環境の整備という点で意義のあるものであり、否定的に評価すべきものではない。しかし同時に、用途が定まっていないがゆえに子どもが自由に意味を与えられる空間が失われていく過程でもあった。マンガ・アニメにおける空き地表象の反復は、この失われゆく空間への意識——直接に語られることは少ないとしても——を映し出していると解釈できる。
| 段階 | 都市の空間の変化 | 遊び場としての性質 |
|---|---|---|
| 造成前・農地期 | 田畑・雑木林・水路が広がる | 用途未定・管理が及びにくい |
| 区画整理・造成期 | 資材置き場としての空き地が点在する | 移行期の風景・土管などが残る |
| 市街化・宅地化期 | 住宅・道路が整備され空き地が縮小する | 遊べる余白が減少する |
| 都市公園整備期 | 用途の定まった公園が計画的に配置される | 用途があらかじめ決められている |
5.1 都市公園という代替の舞台
空き地や原っぱが減少するにつれて、都市公園そのものが子どもの遊び場の表象として描かれる機会も増えていったと考えられる。ただし都市公園は、青木のいう「遊園地」的な性質、つまりすべり台やブランコといった遊具によって用途があらかじめ決められた空間である。そのため、公園を舞台にした場面では、空き地や原っぱを舞台にした場面とは異なる物語の運び方——たとえば、遊具そのものを使った遊びや、決められた時間・決められた場所での待ち合わせといった、管理された空間ならではの出来事——が選ばれやすくなる。舞台装置の違いは、そこで描かれる子ども像の違いにも通じている。
河川敷は、空き地と都市公園のあいだに位置する、やや特殊な舞台であるといえる。堤防や高水敷は自治体や河川管理者によって管理された土木構造物でありながら、日常的な生活動線から離れているために、都市公園ほど管理の目が行き届いているとは描かれにくい。磐田市には竜洋地区に河川敷を利用した公園が実在しており、この点は第9節で改めて取り上げる。次節では、都市公園がマンガ・アニメの背景美術のなかで、具体的にどのように描き分けられ、記号化されているかを検討する。
都市の変化を描く際に見落とせないのは、変化そのものが物語の主題として取り上げられる場合があることである。かつて遊んだ空き地が更地になり、やがて住宅や道路に姿を変えていく過程を目にした登場人物が、時の流れや成長を実感する、という場面は、空き地・原っぱの表象がもつもう一つの機能を示している。すなわち、これらの舞台装置は、単に子どもの自由な遊び場としてだけでなく、都市そのものの変化を体感させる装置としても用いられてきたのである。この機能は、都市公園という恒久的な施設が舞台である場合には生まれにくい、空き地・原っぱに固有のものだといえる。
6. 背景美術の記号化——すべり台・ブランコ・砂場という定型
アニメーションにおいて公園が描かれる場面では、すべり台・ブランコ・砂場という限られた種類の遊具が、繰り返し組み合わせで登場する傾向がある。これは偶然ではなく、限られた作画・撮影の労力のなかで「公園である」という情報を観客に一瞬で伝えるための、効率的な記号操作であると考えられる。第2節で触れた東浩紀の「動物化するポストモダン」(2001年)は、キャラクターや背景の要素が部品化され、データベースのように組み合わされて量産される傾向を指摘したが、公園の背景美術における遊具の定型化も、この部品化の一例として位置づけることができる。すべり台・ブランコ・砂場という三点セットは、いわば「公園」を表す最小限の記号なのである。
夏目房之介がマンガ表現論のなかで示したように、マンガやアニメの背景は、物語の舞台を説明する情報としての機能と、コマや画面のなかでキャラクターを引き立てる構図としての機能を同時に担っている。公園の背景が簡略化・定型化されるのは、背景そのものを精密に描き込むことよりも、キャラクターの動きや感情を伝えることが優先されるためでもある。この意味で、背景美術における公園の記号化は、手を抜いているのではなく、むしろ限られた要素で最大の情報を伝えようとする、様式化された技法として理解すべきである。
遊具そのものの形態にも、簡略化の傾向が見られる。すべり台は緩やかな斜面と手すりという最小限の線で示され、ブランコは二本の支柱と座面、鎖という単純な図形の組み合わせで表される。細部の素材感や色の劣化、設置年代による形の違いといった、現実の遊具が個々にもつ差異は、多くの場合、背景美術のなかでは捨象される。この簡略化は、アニメーションという動きを中心とする表現媒体において、静止した背景に過剰な情報量を割かないという、技法上の合理性にもとづいている。個々の遊具の差異よりも、画面が「公園である」と一目で伝わることの方が、物語の進行にとって優先されるためである。
6.1 記号化がもたらす画一的な公園像
この記号化には副作用もある。すべり台・ブランコ・砂場という組み合わせが繰り返されることで、視聴者・読者のなかに「公園とはこのような遊具の集合である」という画一的なイメージが形成されやすくなる。しかし現実の公園は、第9節で見るように、健康遊具や複合遊具、あるいは遊具をほとんどもたない広場や緑地など、多様な姿をもっている。磐田市の都市公園100園のなかにも、遊具を主とする街区公園がある一方、遊具のない都市緑地や、運動施設を中心とする運動公園も含まれている。背景美術の定型は、こうした公園の多様性を単純化して伝える働きをもつ点で、便利であると同時に、現実の公園の姿から一定の距離をもった表象であることを踏まえておく必要がある。
また、遊具の記号化と並んで、公園に集う人物像も定型化されやすい。子どもと保護者、あるいは高齢者がベンチに座る姿といった組み合わせが繰り返し描かれることで、公園は「誰にでも開かれた場所」であると同時に、「特定の人物像が繰り返し結びつけられる場所」として表象されてきた側面もある。この論点は、広告表象における公園像の検討とも重なる部分があるが、本稿ではこれ以上立ち入らず、背景美術における遊具の記号化という論点に絞って検討を続ける。次節では、こうして記号化された虚構の舞台と、実在する場所とを結びつけようとする実践、聖地巡礼について検討する。
背景美術における記号化は、空き地・原っぱの表象とも興味深い対照をなす。第3節で見たように、空き地や原っぱは用途未定であるがゆえに、資材の積み方や雑草の茂り方といった細部が、かえって具体的に描き込まれることがある。これに対して都市公園は、あらかじめ用途が決まった空間であるために、細部を省いても「公園である」という情報が十分に伝わり、簡略化がより進みやすい。用途が定まっているかどうかという、第3節で示した性質の違いが、背景美術における描き込みの密度の違いにも反映されている点は、本稿の議論全体を貫く一つの筋道として指摘しておきたい。
色彩の使い方にも記号化の傾向が表れる。公園の場面では、空の青、芝生や樹木の緑、遊具の原色といった、明快で彩度の高い色が選ばれることが多く、これは公園を安心できる、開放的な場所として印象づける効果をもつ。これに対して空き地や原っぱの場面では、枯れ草の褐色や土の色、夕方の薄暗い色調が選ばれることがあり、同じ屋外の空間でありながら、色彩によって異なる情緒が与えられている。こうした色彩の使い分けは、遊具の形態の記号化と並んで、背景美術が場所の性格を短時間で伝えるために用いる、もう一つの技法である。
7. 聖地巡礼と実在の場所——虚構空間と現実の公園の重なりと隔たり
マンガ・アニメの舞台となった、あるいは舞台のモデルとされる実在の場所を訪ねる実践は、聖地巡礼と呼ばれ、観光研究の一領域として蓄積されてきた。岡本健は『コンテンツツーリズム研究』(2015年)のなかで、こうした実践を、虚構作品を介して地域への関心が喚起され、実際の訪問行動につながる現象として体系的に整理している。増淵敏之も『物語を旅するひとびと』(2010年)で、物語と土地の結びつきが観光や地域振興とどう関わるかを論じた。これらの研究に共通するのは、虚構の舞台と現実の場所とのあいだに、単純な一致でも無関係でもない、独特の重なりと隔たりの関係があるという視点である。
本稿がここまで検討してきた空き地・原っぱ・土管という舞台装置は、多くの場合、特定の実在の場所をそのまま写し取ったものではなく、複数の記憶や印象を合成した、いわば「どこにでもありそうな」空間として描かれる。これに対して、都市公園のように固有の名称と場所をもつ施設が舞台のモデルとされる場合には、聖地巡礼という形で、虚構の舞台と現実の場所を重ね合わせようとする訪問行動が生じやすい。この違いは、舞台装置の性質——用途未定で匿名的な空き地・原っぱと、固有名をもつ管理された公園——が、虚構と現実の関係の結ばれ方そのものを左右することを示している。
地理学の分野で用いられる位置情報という概念も、聖地巡礼を理解するうえで手がかりになる。虚構の舞台のモデルとなった場所を特定し、地図上の座標として共有する行為は、物語という時間的な体験を、地図という空間的な情報へ変換する作業だといえる。この変換によって、虚構作品の受け手は、物語を読む・見るという行為から、実際にその場所へ向かうという行為へと、経験の質を移し替えることができる。聖地巡礼が単なる話題づくりにとどまらず、観光研究の対象として蓄積されてきたのは、この経験の質の移し替えが、地域への関心や訪問行動という、実際に観察可能な現象を生み出すためである。
7.1 訪問にともなう配慮
聖地巡礼としての公園訪問が広がる場合、訪問者には現実の公園を利用する他の住民、とりわけ子どもや保護者への配慮が求められる。写真撮影に際して他の利用者が映り込むことへの配慮や、私有地・近隣住宅への立ち入りを避けることは、聖地巡礼に限らず、公園という公共空間を訪れるすべての人に共通する基本的なマナーである。当サイトの読みものにも撮影マナーに関する項目があり、本稿の関心とも重なる。虚構の舞台を求めて訪れる場合であっても、公園がまずもって地域の子どもたちの日常の遊び場であるという事実は変わらない。
聖地巡礼という現象は、虚構空間と現実の場所の隔たりを埋めようとする試みであると同時に、その隔たりが完全には埋まらないことを常に示してもいる。訪問者が現地で目にするのは、記号化され簡略化された背景美術の公園ではなく、雑草の伸び方や利用者の年齢構成、設置されている遊具の種類まで含めた、個別の歴史をもつ具体的な場所である。この隔たりを自覚したうえで実在の場所を訪れることは、虚構の物語を楽しむこととは別の、その土地固有の姿を学ぶ機会にもなりうる。次節では、ここまでの議論に対して想定される反論に応答し、実写映像における描かれ方との比較を行う。
空き地・原っぱのように匿名的に描かれる舞台は、聖地巡礼の対象になりにくいという整理は、裏を返せば、都市公園という固有名をもつ公共施設が、虚構と現実を結びつける役割を担いやすい存在であることを意味する。この点は、磐田市のように多くの都市公園を抱える自治体にとっても示唆的である。ある公園が虚構作品の舞台のモデルとして注目を集めるかどうかは偶然性の大きい事柄であり、当サイトが積極的に働きかけるべき事柄でもないが、公園が地域の外から関心を向けられる可能性そのものは、公園という施設のもつ性質の一つとして留意しておく価値がある。
聖地巡礼という語そのものは、宗教的な巡礼という語をなぞった比喩的な表現であるが、この比喩は偶然ではない。巡礼が、信仰の対象となる物語や人物にゆかりのある場所を実際に訪れ、そこで物語との結びつきを確かめる行為であるのと同じように、聖地巡礼もまた、虚構の物語との結びつきを実在の場所で確かめようとする行為だからである。ただし、宗教的な巡礼が長い伝統と共同体的な意味づけを伴うのに対し、マンガ・アニメの聖地巡礼は個人の関心にもとづく、比較的新しい実践である。この違いを踏まえたうえで、比喩としての「聖地」という語が、なぜこれほど広く定着したのかという問いも、コンテンツツーリズム研究の今後の課題として残されている。
8. 反論への応答と比較——「単なる背景」という見方、実写作品との対比
ここまでの議論に対しては、「空き地や土管は物語の背景にすぎず、そこまで意味を読み込む必要はないのではないか」という反論が想定される。たしかに、作り手の側が毎回、用途未定の空間の象徴性を意識して舞台を選んでいるとは限らない。多くの場合、それは作画上の都合や、物語の展開上の便宜から選ばれているだけかもしれない。しかし表象研究の立場からは、作り手の意図の有無にかかわらず、同じ型が繰り返し選ばれ、受け手のあいだで「見慣れた光景」として共有されていくこと自体が、検討に値する現象である。ある表現が個々の作品の意図を超えて反復されるとき、そこには時代や社会が共有する感覚——本稿の場合は、大人の目が届かない子ども固有の領域への郷愁——が映し出されていると考えることができる。
第二の反論として、「空き地の表象は過去のノスタルジーにすぎず、今日の子どもの遊びの実態とは無関係ではないか」という見方もありうる。この指摘には一定の妥当性がある。今日の子どもの遊びは、屋内でのデジタルメディアの利用や、習い事を含む予定の管理された時間のなかに位置づけられることが多く、空き地で自由に過ごす時間は、現実にはかつてより限られていると考えられる。しかし、だからこそ空き地の表象は、失われつつある、あるいはすでに失われた経験として、懐かしさとともに反復されているとも解釈できる。表象の反復は、現実の変化を映す鏡としても機能する。
第三の反論として、「空き地の表象を論じることは、都市公園という現実の施設を軽視することにつながるのではないか」という懸念もありうる。しかし本稿の立場はその逆である。虚構における空き地の表象と、現実の都市公園という施設との違いを明確にすることは、両者を混同せずに、それぞれの価値を正しく評価するために必要な作業である。都市公園は、用途未定の空き地にはない安全性やアクセスのしやすさ、多様な人々に開かれた公共性を備えており、これらは虚構における自由な空き地の表象とは異なる、現実の制度としての意義である。本稿は空き地の表象を懐かしむことを目的とするのではなく、その表象と現実の施設との違いを整理することを目的としている。
8.1 実写映像における描かれ方との比較
アニメーションと実写映像を比較すると、遊び場の描かれ方には違いが見られる。実写映像では、撮影可能な実在の場所——多くの場合は都市公園や河川敷、あるいはロケ地として提供された私有地——が用いられるため、背景は簡略化された記号ではなく、具体的な質感をもった実在の風景として画面に映り込む。これに対してアニメーションは、第6節で見たように、限られた要素へと簡略化・記号化する自由度が高い。この違いは、どちらが優れているかという評価の問題ではなく、媒体の技法的な特性の違いとして理解すべきである。実写は場所の具体性を、アニメーションは型としての普遍性を、それぞれ得意とする傾向があるといえる。
もう一つの比較の軸として、ドキュメンタリーや報道写真における公園の描かれ方がある。これらは、特定の日時・特定の場所での出来事を記録することを目的とするため、遊具の種類や利用者の様子がそのまま画面に定着する。虚構作品の記号化された公園像と、記録映像の具体的な公園像を並べて考えることで、私たちが「公園」という言葉から思い浮かべるイメージが、実際にはいくつもの異なる情報源——虚構の記号、記録の具体像、そして自分自身の体験——の混合であることが見えてくる。次節では、この整理を踏まえて、磐田市の公園への示唆を検討する。
実写映像における公園の描かれ方には、もう一つ留意すべき点がある。実在の場所を撮影する以上、そこに写り込む利用者や周辺の住宅、駐車の状況といった要素まで含めて画面に定着してしまう。これはアニメーションの記号化された背景美術にはない制約であり、実写作品の制作にあたって、撮影許可や周辺への配慮がアニメーション以上に求められる理由でもある。この違いは、虚構作品が現実の場所とどう関わるかという問題が、媒体によって異なる形であらわれることを示しており、第7節で述べた聖地巡礼における訪問マナーの重要性とも通じている。
以上の反論への応答と比較を通じて確認できるのは、マンガ・アニメにおける空き地・原っぱの表象を検討することが、現実の公園や都市の価値を貶めるものではなく、むしろ虚構と現実それぞれの特性を明確にする作業だということである。虚構は型としての普遍性によって、多くの受け手が共有できる感覚を生み出す一方、現実の公園や地域はそれぞれ固有の歴史と条件をもつ。この両者を混同せず、しかし互いに参照し合う関係として捉えることが、本稿全体を通じて目指してきた立場である。
9. 磐田市の公園への示唆
以上の検討を、磐田市の公園に即して具体的に考えてみたい。当サイト(ATAWI PARK)が収録する磐田市の都市公園は100園であり、このうち都市公園法上の種別で最も多いのは街区公園の51園である。街区公園は、国の目安で誘致距離250m・標準面積0.25haとされる、身近な生活圏に配置される公園であり、遊具が配置された、青木淳のいう「遊園地」的な性質をもつ空間の典型といえる。本稿が検討してきた空き地・原っぱのような用途未定の空間とは対照的に、磐田市の街区公園の多くは、市の施設ガイドにブランコ・滑り台・砂場・鉄棒といった具体的な遊具が明記されており、あらかじめ用途の定められた空間として整備されていることがわかる。
一方で、磐田市には河川敷を活かした公園も実在する。竜洋地区の竜洋西堀河川敷公園は地区公園に分類され、面積は34,490㎡と広く、市の施設ガイドにはトイレの設置が記されている。第5節で述べたように、河川敷は堤防や高水敷という管理された土木構造物でありながら、日常の生活動線から離れているために、物語のなかでは管理の目が届きにくい場所として描かれやすい舞台である。竜洋西堀河川敷公園が実際にどのような開放感や見通しをもつ場所であるかは、当サイトが今後の踏査で確かめるべき論点であり、本稿の時点では虚構における河川敷表象との比較を仮説として示すにとどめる。
| 都市公園法上の種別 | 磐田市の園数 | 本稿の論点との関わり |
|---|---|---|
| 街区公園 | 51園 | 遊具のある「遊園地」的空間の典型 |
| 近隣公園 | 14園 | 街区公園よりやや広い生活圏の公園 |
| 都市緑地 | 10園 | 面積の小さい園も含み、都市の余白に近い |
| 地区公園(河川敷含む) | 4園 | 竜洋西堀河川敷公園など、河川敷型を含む |
9.1 都市緑地という余白
磐田市の都市公園には、都市緑地に分類される10園も含まれる。これらは面積が小さいものが多く、市のオープンデータによれば、中泉地区の二之宮東第2緑地は17㎡、豊田地区の豊田上新屋ポケットパークは156㎡というように、街区公園と比べて格段に小さい。こうした小規模な緑地は、遊具の配置された「遊園地」的な公園というより、市街地に点在する小さな余白に近い性質をもつと考えられる。ただし、これらは自治体によって整備・管理された都市緑地であり、本稿が検討してきた、管理主体があいまいなまま放置された空き地とは制度上まったく異なる。この違いを踏まえたうえで、都市の「余白」がどのような形で今日の磐田市に残っているかを考える手がかりとして、都市緑地の存在を位置づけておきたい。
磐田市は9つの地区に分かれ、それぞれ見付21園、中泉14園、御厨13園、豊田28園、南部2園、向陽2園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園という園数の内訳をもつ。豊田地区の28園という多さは、市街地の広がりとともに公園整備が進められてきたことを示唆するが、その一つひとつがどのような空間的性質——見通しのよさ、遊具の種類、周囲の住宅地との関係——をもつかは、現時点では市のオープンデータと施設ガイドの記載からしかわからない。磐田市 都市整備課(電話0538-37-4806)が管理するこれらの公園について、当サイトは今後、本稿で整理した「用途未定の空間」と「用途の定まった空間」という視点も参照しながら、踏査を進めていく必要がある。踏査済みの公園は本稿執筆時点で0園であり、親目線での具体的な使い勝手に関する記述は、現地調査を経てから改めて記す。
磐田市オープンデータの集計によれば、遊具が設置されていることが確認できる公園は64園、砂場が確認できる公園は43園にのぼる。これらは、第6節で検討した「すべり台・ブランコ・砂場」という背景美術の定型が、磐田市の公園の少なからぬ部分と重なりうることを示す一方で、遊具や砂場の記載がない公園も一定数存在することを意味する。市の施設ガイドに園内施設として「記載なし」とだけ示されている公園、たとえば中泉地区の御殿遺跡公園や、遺跡・史跡としての性格をもつ中泉地区の遠江国分寺史跡公園のような例は、遊具を中心とした虚構の公園像とは異なる性格をもつ公園が、磐田市には実在することを示している。
第4節で論じた監視と自由の緊張関係についても、磐田市の公園に即して考えることができる。市の施設ガイドの記載からは、駐車場の有無や園内施設の種類はわかるものの、見通しのよさや死角の有無といった、監視と自由のバランスに関わる空間の質までは読み取れない。中央公園のように多目的グラウンドと複数の遊具を備えた地区公園が、実際にどの程度の見通しと開放感をもつ場所であるかは、オープンデータや施設ガイドの記載だけでは判断できず、現地を訪れて確かめるほかない。この点も、当サイトの踏査によって今後明らかにしていくべき論点の一つである。
10. 結論と今後の課題
本稿は、戦後日本のマンガ・アニメに繰り返し現れる空き地・土管・原っぱ・河川敷という遊び場の舞台装置を、遊び論と表象研究の視点から検討してきた。第一の問い——なぜこれらの空間が「大人の目が届かない、子ども固有の領域」を表す型として機能してきたのか——については、用途未定であること、管理主体があいまいであること、そして宅地化の過程で失われていく移行期の風景であることという、三つの性質が重なり合うことで、その表象が成立してきたことを整理した。第二の問い——都市の変化のなかでこの舞台がどう変化してきたか——については、青木淳のいう「原っぱ」から「遊園地」への移行という枠組みを手がかりに、用途未定の空間が都市公園に置き換えられていく過程と、その置き換えが完了してもなお空き地の表象が反復され続ける、ノスタルジーを帯びた記号としての性質を確認した。
第三の問い——背景美術における記号化と、聖地巡礼という実践の関係——については、すべり台・ブランコ・砂場という限られた組み合わせに公園を凝縮する記号化の技法と、その記号化された虚構の舞台を実在の場所に重ね合わせようとする聖地巡礼という実践とのあいだに、単純な一致でも無関係でもない、独特の緊張関係があることを示した。虚構の舞台は現実の場所そのものではなく、複数の記憶や印象を合成した型であるがゆえに、実在の場所を訪れることは、その隔たりを自覚する経験にもなりうる。
磐田市の公園への示唆としては、街区公園51園に代表される、用途があらかじめ定められた「遊園地」的な公園が磐田市の公園の主流をなす一方で、竜洋西堀河川敷公園のような河川敷型の公園や、面積の小さな都市緑地が、本稿の検討してきた「余白」的な性質と部分的に響き合う可能性を示した。ただし、これらの公園が実際にどのような見通しや利用のされ方をもつかは、当サイトの現地踏査を経て初めて確かめられることであり、本稿の段階では仮説の域を出ない。
第8節で検討した反論と比較も、本稿の結論に関わる重要な論点である。空き地の表象を「単なる背景」とみなす見方に対しては、作り手の意図の有無にかかわらず、同じ型が反復され共有されること自体が検討に値する現象であると応答した。また、実写映像・記録映像との比較を通じて、私たちが抱く「公園」のイメージが、虚構の記号・記録の具体像・自分自身の体験という複数の情報源の混合であることを確認した。この認識は、マンガ・アニメの表象を過大にも過小にも評価せず、一つの情報源として相対化して受け止める視点につながる。
10.1 今後の課題
今後の課題は大きく三つある。第一に、本稿は文献整理と概念分析にとどまったため、実際にマンガ・アニメの読者・視聴者が空き地や公園の描写をどのように受け止めているかという、受容の側の実証的な検討は行っていない。第二に、本稿は個別の作品名を挙げなかったが、著作権・商標に配慮しながら作品の類型を分類する、より体系的な整理の方法については、なお検討の余地がある。第三に、磐田市の公園については、街区公園・地区公園・都市緑地のそれぞれについて、実際の見通しや管理の状態、利用者の年齢構成を現地踏査によって確かめ、本稿で示した理論的な枠組みが磐田市の公園の実態とどこまで重なり、どこで異なるのかを検証する必要がある。これらの課題については、当サイトの今後の踏査と関連する読みものの拡充を通じて、引き続き取り組んでいきたい。
最後に、本稿全体を貫く視点をあらためて確認しておきたい。空き地・土管・原っぱ・河川敷という舞台装置は、用途未定であること、管理主体があいまいであること、移行期の風景であることという性質によって、大人の目が届かない子ども固有の領域として機能してきた。この型は、現実の都市からそうした空間が失われていく過程と並行して、むしろ懐かしさを帯びた記号として反復され、背景美術の記号化と聖地巡礼という実践を通じて、実在の場所とのあいだに独特の緊張関係を結んできた。磐田市の公園を含む現実の都市公園は、この虚構の型とは異なる、用途があらかじめ定められた公共の施設であり、当サイトは今後の踏査を通じて、その現実の姿を一つひとつ確かめていく。
参考文献
- ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス(Homo Ludens)』(里見元一郎訳、講談社学術文庫、2018)
- ロジェ・カイヨワ(1958)『遊びと人間(Les jeux et les hommes)』(多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社学術文庫、1990)
- フィリップ・アリエス(1960)『〈子供〉の誕生——アンシァン・レジーム期の子供と家族生活(L'Enfant et la Vie familiale sous l'Ancien Régime)』(杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980)
- 柳田國男(1942)『こども風土記』(朝日新聞連載、のち角川ソフィア文庫等に所収)
- 青木淳(2004)『原っぱと遊園地——建築にとってその場の質とは何か』(王国社)
- ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生(The Death and Life of Great American Cities)』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
- 夏目房之介(1992)『手塚治虫はどこにいる』(筑摩書房)
- 大塚英志(2001)『定本 物語消費論』(角川文庫)
- 東浩紀(2001)『動物化するポストモダン——オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)
- スーザン・ネイピア(2001)『Anime from Akira to Princess Mononoke: Experiencing Contemporary Japanese Animation』(Palgrave)
- 岡本健(2015)『コンテンツツーリズム研究——アニメ聖地巡礼・観光・地域活性化』(福村出版)
- 増淵敏之(2010)『物語を旅するひとびと——コンテンツツーリズムとは何か』(彩流社)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。