社会科学ゲーム理論
同じ広場を分け合う——調整ゲーム・混雑・ルールの生成
要旨
本稿の目的は、公園で日常的に起こる「同じ場所を複数の人がちがう目的で使う」という状況を、ゲーム理論の基本的な利得構造に置き換えて読み解くことである。球技をする小中学生と幼児を連れた保護者が同じ広場にいる場面、ブランコの順番を待つ場面、犬を散歩させる人と乳児を連れた人が同じ園路を歩く場面は、しばしば「マナーの問題」として語られる。しかし本稿は、これらを個々人の心がけの問題ではなく、選択肢と結果の組み合わせ——すなわち利得構造——のちがいとして整理したほうが、有効な手立てを選びやすいと考える。
方法は文献整理と概念分析であり、数式は用いない。ゲーム理論の分析に必要なのは利得の正確な数値ではなく、どの結果がどの結果より望ましいかという大小関係の順序だけである。本稿は、囚人のジレンマ、鹿狩り(協調ゲーム)、タカ=ハト、純粋調整ゲームという四つの基本形を言葉と表で説明し、公園の具体的な場面をそのいずれに近いかで診断する。あわせて、繰り返しゲームにおいて協力が成立しうることを述べたフォーク定理の直観、シェリングの焦点(フォーカルポイント)、オストロムが現場のルール生成について示した知見を参照する。
検討の結果、公園の困りごとの多くは囚人のジレンマではなく、タカ=ハト型あるいは調整型に近いという見通しが得られた。この区別は実務的な意味をもつ。囚人のジレンマであれば禁止と制裁が必要になるが、調整型であれば「どちらに揃えるか」を示すだけで解ける。禁止の看板を増やす前に、空間の分割・時間の分割・焦点の提示という順で手を打てる余地がある。また、損害の大きさが利用者の間で非対称であるとき、弱い側が先に退くという均衡が成立しやすく、それは苦情としても統計としても現れにくいことを指摘する。
最後に、磐田市の都市公園100園(街区公園51園・近隣公園14園・地区公園4園ほか)と9地区への分布に即して、規模と匿名性の関係、球技の受け皿の配置、ゾーンや掲示による分割の実例を検討する。ただし当サイトの現地踏査はまだ始まっておらず(2026年8月16日時点で踏査済0園)、看板の文言や混雑の時間帯といった実態は今後の踏査で確かめるべき課題として残す。
キーワード調整ゲーム囚人のジレンマタカ=ハト繰り返しゲームフォーカルポイントコモンズ順番待ち
1. はじめに——問題の所在
夕方の広場に、サッカーボールを蹴る小中学生の一団と、歩き始めたばかりの子どもを連れた保護者が居合わせる。どちらも公園の正当な利用者であり、どちらも悪意をもっていない。それでも保護者は子どもを抱き上げて隅へ移り、やがて帰り、球技をしていた側は「気を遣われた」ことに気づかないまま遊び続ける。あるいは逆に、保護者から声をかけられた側がボールを抱えて出ていき、行き場を失う。公園でしばしば起こるこの種の場面は、誰かが規則を破ったから起きたのではない。同じ空間を、両立しにくい二つの使い方が同時に求めたから起きている。
こうした場面はふつう「マナー」の言葉で語られる。譲り合いが足りない、思いやりが足りない、という説明である。この説明は間違いではないが、そこから出てくる手立ては限られている。心がけを呼びかけるか、禁止の看板を立てるか、そのどちらかになりやすい。しかし、同じ「困りごと」に見えても、その内側にある選択と結果の組み合わせは場面ごとに異なっており、その違いを見分けないまま同じ処方を当てると、効かないばかりか事態を悪くすることがある。ボール遊びを一律に禁じた結果、球技をする子どもの行き場が道路に移る、という事態はその一例である。
本稿が用いるゲーム理論とは、複数の主体が互いの選択に依存して結果が決まる状況を、「誰が」「どんな選択肢をもち」「どの組み合わせのときに誰がどれだけ望ましい結果を得るか」という形で書き表し、そこから何が起こりやすいかを読む考え方である。ここでいう望ましさの度合いを利得と呼ぶ。利得は金銭とは限らず、楽しさ、安心、疲れの少なさ、時間の節約など、その人にとっての価値の総体を指す。ゲーム理論はもともと経済学と数学の分野で発展したが、その中心にあるのは計算ではなく、「相手の出方を織り込んだうえで自分の出方を決める」という構造の記述である。
本稿の問いは三つである。第一に、公園で起こる利用の衝突は、どのような利得構造として整理できるか。第二に、その構造のちがいは、有効な手立てのちがいにどう対応するか。第三に、公園という場所に固有の条件——同じ人が繰り返し来ること、子どもが主要な利用者であること、無料で誰にでも開かれていること——は、その手立てをどう変えるか。この三つに答えることで、「マナーを呼びかける」と「禁止する」の間にある広い中間領域を見えるようにすることが、本稿のねらいである。
1.1 方法——数式を使わずに利得構造を読む
方法は文献整理と概念分析である。本稿では数式を用いない。これは平易さのための妥協ではなく、分析上の判断でもある。ゲーム理論の基本的な結論の多くは、利得の正確な数値ではなく、どの結果がどの結果より望ましいかという順序だけから導かれる。たとえば囚人のジレンマという構造は、「相手が協力しているときに自分だけ裏切ると最も得をする」「双方が裏切ると双方が協力したときより悪い」という二つの順序が成り立てば発生する。公園の場面で私たちが観察できるのも、まさにこの順序——誰が先に退くか、どちらの損害が大きいか——であって、数値ではない。したがって、順序だけを言葉と表で扱う本稿の方針は、扱える範囲を狭めるものではない。
同時に、この方針は分析の限界も定める。利得の順序が観察者の推測である以上、本稿の診断は仮説である。実際の利用者がどの結果をより望ましいと考えているかは、本来は当事者に尋ねるほかない。本稿は「こう考えると筋が通る」という読み方を提示するにとどめ、「こうである」と断定しない。特に、子どもの安全に関わる判断や、けがの手当てに関わる判断は、専門の機関や医療機関に委ねるべき事柄であり、利得構造の議論から導けるものではない。
1.2 本稿の構成と、書き手の立場
構成は次のとおりである。第2節でゲーム理論の古典と主要概念を整理し、第3節で四つの基本形を公園の場面に対応づける。第4節では広場の共有を、利得が非対称な場合として検討し、第5節で遊具の順番待ちを、慣習という薄い制度の問題として扱う。第6節は繰り返しと常連、第7節は看板・線・時間割による焦点の設計を論じる。第8節でこの見方への反論に応答し、第9節で磐田市の公園に即した示唆を述べ、第10節で結論と今後の課題をまとめる。
書き手の立場も明らかにしておく。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園を対象とするデータベースであり、運営は富士ヶ丘サービス株式会社である。ただし現地踏査はまだ始まっておらず、園ごとの看板の文言、広場と遊具の位置関係、混雑する時間帯といった、本稿の議論を検証するために必要な観察は今後の課題である。本稿で磐田市の公園に触れる箇所は、市のオープンデータと施設ガイドに記載のある事実に限り、そこから先は「今後の踏査で確かめる」と書く。
2. 先行研究と概念の整理
ゲーム理論の出発点は、ジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンが1944年に刊行した『ゲームの理論と経済行動』である。この書物は、経済的な意思決定を、自然を相手にした最適化ではなく、自分と同じように考える相手を相手にした相互作用として定式化した点で画期的だった。相手も自分の出方を読んでいる、という条件が入ると、「最善の選択」は相手の選択を決めないかぎり定まらない。この循環をどう断ち切るかが、以後のゲーム理論の中心的な課題となる。
2.1 均衡という考え方——望ましさとは別のもの
この循環に一つの答えを与えたのが、ジョン・ナッシュが1950年に示した均衡の概念である。ナッシュ均衡とは、参加者それぞれの選択の組み合わせのうち、誰か一人が自分だけ選択を変えても得をしない状態を指す。言い換えれば、全員が「相手がそう出るなら自分はこう出るのが一番よい」と考えており、その予想が互いに裏切られない状態である。均衡は、その状態が安定して続きやすいことを意味するだけであって、参加者にとって望ましいことも、社会全体にとって効率的なことも意味しない。
この区別は本稿全体を通じて重要である。公園で長年続いている使われ方——たとえば、幼児連れが夕方の広場を避け、球技をする子どもが事実上その時間を占有している状態——は、それが誰にとっても最善だから続いているのではなく、単に誰も一人で変えられないから続いているのかもしれない。均衡であることは、正しさの証明ではない。安定して見える状態を、望ましい状態と取り違えないこと。これがゲーム理論的な見方から得られる第一の注意である。
2.2 ジレンマの系譜——共有地から現場のルールへ
全員にとって望ましくない均衡が生じうることを、資源利用の文脈で広く知らしめたのが、ギャレット・ハーディンが1968年に発表した「共有地の悲劇」である。誰でも使える牧草地に各自が羊を増やしていくと、増やした利益は自分のものになり、草地が痩せる損失は全員で分け合うため、各自にとって増やすことが合理的であり続け、結果として草地は荒れる。この構造は、公園ではゴミの持ち帰り、遊具の乱暴な使い方、路上駐車など、「自分一人くらいなら」が積み上がる場面に対応する。
ハーディンの議論は長く「規制か私有化か」という二択の根拠として引かれてきたが、エリノア・オストロムが1990年の『コモンズのガバナンス』で示したのは、第三の道が現実に多数存在するという事実だった。世界各地の漁場・灌漑・入会地の事例を調べたオストロムは、外部の権力にも私有化にもよらず、利用者自身が作り、自分たちで守り、必要に応じて変えていくルールが長く機能してきた条件を整理した。境界がはっきりしていること、ルールが現地の条件に合っていること、当事者がルール作りに関われること、違反への対応が段階的であること、争いを解決する場が身近にあることなどである。公園という小さな共有地を考えるうえで、この知見は禁止と放任の中間を照らす。
協力が成立する別の道筋を示したのが、ロバート・アクセルロッドが1984年にまとめた繰り返し囚人のジレンマの研究である。一回限りなら裏切りが均衡になる構造でも、同じ相手と何度も対戦するなら話は変わる。アクセルロッドが行ったコンピュータ上の対戦では、まず協力し、相手が裏切ったら同じだけ返し、相手が協力に戻れば自分も戻る、という単純な戦略が良い成績を収めた。彼はそこから、上品であること(自分から裏切らない)、報復すること、寛容であること、分かりやすいことという特徴を、うまくいく戦略の性質として挙げている。
2.3 調整の系譜——焦点とコンヴェンション
もう一つの系譜は、利害が対立していない、あるいは対立が小さいのに、揃わないと困るという問題を扱う。デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』(1739〜40)で、二人でボートを漕ぐとき、約束を交わさなくても櫂の調子は合っていく、という例を挙げ、こうして生まれる取り決めを人為的な慣習として論じた。この線をゲーム理論に接続したのがデイヴィッド・ルイスの『コンヴェンション』(1969)であり、慣習を、複数ある均衡のうち一つに人々の予想が集まった状態として捉え直した。
予想がどう集まるかについて、最も影響力のある洞察を与えたのがトーマス・シェリングである。『紛争の戦略』(1960)でシェリングは、連絡を取れない二人が同じ場所で落ち合わなければならないとき、人々の答えが特定の場所に集中することを指摘し、こうした目立つ解を焦点(フォーカルポイント)と呼んだ。焦点は論理からは導けず、その社会で共有された知識や、目に見える手がかりから生まれる。公園でいえば、看板、舗装の切り替わり、植栽の列、ゴールの向きといった物理的な手がかりが、しばしば焦点として働く。この点は第7節で改めて論じる。
最後に、生物学から来た視点も加えておく。ジョン・メイナード・スミスとジョージ・プライスは1973年、同種の個体どうしが資源をめぐって争う場面を、強く出る型と譲る型の混在として分析した。これがのちにタカ=ハトゲームと呼ばれる構造である。ここで重要なのは、動物が計算をしているとは想定されていない点である。うまくいく振る舞いが残り、うまくいかない振る舞いが減るという過程だけで、均衡に近い状態が生まれる。子どもが多数を占める公園を論じるうえで、意識的な計算を前提としないこの解釈は有用であり、第8節の反論への応答でも用いる。
3. 四つの基本形——公園の場面に置き換える
ゲーム理論の教科書に必ず登場する二人二択の基本形は、実際には数多くあるが、公園の場面を読むうえで有用なのは四つである。囚人のジレンマ、鹿狩り(協調ゲーム)、タカ=ハト、そして純粋調整ゲームである。この四つは、いずれも「協力するか/しないか」「譲るか/譲らないか」という似た選択肢をもつが、結果の望ましさの順序が異なり、そのために起こりやすい事態も、効く手立ても異なる。本節では、数式を使わずに四つの順序を言葉で述べ、公園の場面に対応づける。
3.1 「相手が何をしても」型と「相手次第」型
第一の分かれ目は、自分の最善手が相手の出方に依存するかどうかである。囚人のジレンマでは、相手が協力していようが裏切っていようが、自分にとっては裏切るほうが得になる。だから相手の出方を読む必要すらなく、双方が裏切る状態に落ち着く。しかもその状態は、双方が協力した場合より両者にとって悪い。ここでは「気づいていないから協力しない」のではない。分かっていてもそうなる、という点がこの構造の厄介さである。公園でこれに近いのは、ゴミを持ち帰るかどうか、砂場の道具を片づけるかどうか、といった場面である。自分一人が持ち帰らなくても公園はさほど汚れず、自分一人が持ち帰っても他の人が捨てれば汚れる。
鹿狩りは対照的である。ルソーが『人間不平等起源論』(1755)で挙げた寓話に由来するこの構造では、全員で大きな獲物を追えば最良の結果になるが、途中で誰かが目先の小さな獲物に逸れると、追い続けた側は何も得られない。つまり、相手が協力するなら自分も協力するのが最善、相手が離脱するなら自分も離脱するのが最善となる。ここでの問題は誘惑ではなく信頼である。誰もが望ましい結果を望んでいるのに、相手がそこへ来ると確信できないために、安全な低いほうへ揃ってしまう。地域の清掃活動、時間帯の住み分け、順番のルールを守り続けることなどが、この型に近い。
3.2 譲り合いと、揃えるだけの問題
タカ=ハトは、資源をめぐって強く出るか譲るかを選ぶ構造である。片方が強く出て片方が譲れば、強く出た側が資源を得て、譲った側は何も得られないが損害も負わない。双方が譲れば資源は分け合われる。そして双方が強く出ると、衝突が起こり、双方にとって最悪の結果になる。ここには均衡が二つある。自分が強く出て相手が譲る状態と、その逆である。どちらの均衡になるかは、力の差、失うものの大きさ、先に来ていたかどうかなど、ゲームの外側の条件で決まる。公園の広場をめぐる場面の多くは、この型に近い。
純粋調整ゲームは、利害の対立がまったくない場合である。二人が向かい合って歩いていて、互いに右へ避けるか左へ避けるかを選ぶ。どちらでもよいが、揃わなければぶつかる。ここには争いがなく、必要なのは合図だけである。公園でいえば、広場のどちら側を球技に使いどちら側を小さい子に空けるか、園路をどちら回りで歩くか、といった問題がこれにあたる。誰も相手を害したいとは思っておらず、単に、どちらに揃えるかが決まっていないだけである。
| 基本形 | 結果の順序(要点) | 公園での例 | 放っておくと | 効く手立て |
|---|---|---|---|---|
| 囚人のジレンマ | 相手の出方によらず非協力が得。双方非協力は双方協力より悪い | ゴミの持ち帰り、道具の片づけ | 全員が非協力に落ち着く | 監視・制裁、繰り返しと評判、持ち帰りやすい設え |
| 鹿狩り(協調) | 揃えば最良。相手が離脱すると協力した側だけ損 | 清掃や見守りの当番、時間帯の住み分け | 安全な低いほうへ揃う | 参加の見える化、少人数から始める、宣言 |
| タカ=ハト | 強く出た側が得。双方が強く出ると双方最悪 | 広場の占有、遊具の取り合い | 強い側が取り、弱い側が退く | 空間や時間の分割、先着や交代の基準 |
| 純粋調整 | 揃えばよく、揃わないと困る。利害の対立なし | 広場の東西の使い分け、園路の回り方 | そのつど迷い、ときどきぶつかる | 焦点の提示(看板・線・設計) |
3.3 誤診の危険——調整問題を禁止で解こうとすること
この四つを見分ける実務的な意味は、処方が異なることにある。囚人のジレンマ型の困りごとには、行動の利得そのものを変える手立て——制裁、あるいは協力の側を楽にする設え——が要る。鹿狩り型には、相手も来ると信じられる材料、すなわち参加の見える化や事前の宣言が効く。タカ=ハト型には、そもそも同じ資源を同時に奪い合わせない分割が効く。純粋調整型には、どちらでもよいのだから、どちらかを指し示すだけでよい。
実際の公園行政や地域の話し合いで起こりやすいのは、調整型やタカ=ハト型の問題を、囚人のジレンマ型と誤診することである。誤診すると、処方はほぼ必ず禁止になる。しかし、揃えるだけで解ける問題に禁止を当てると、揃える手間は省ける代わりに、一方の利用者が場所を失う。失った側の遊びは消えるのではなく、別の場所——たとえば道路や駐車場——へ移る。これは公園の中の困りごとを公園の外へ押し出しただけであり、市域全体で見れば改善とは言いにくい。第7節では、禁止に至る前に使える手立てを、焦点という概念から整理する。
註:本節の四つは、二人二択という最も単純な形での説明である。実際の公園には多数の利用者がおり、選択肢も連続的で、途中で相談もできる。本稿がこの単純化を用いるのは、現実を写し取るためではなく、困りごとの型を見分けるための物差しとして使うためである。
4. 広場の共有——利得が非対称なとき
本節では、球技をする小中学生と、乳幼児を連れた保護者が同じ広場に居合わせる場面を、タカ=ハト型に近い構造として検討する。ここで「強く出る」とは、自分の遊びを続けること、広場の中央を使い続けることを指し、「譲る」とは、隅へ移る、時間をずらす、その日は帰る、といった行動を指す。双方が強く出れば、ボールが小さい子に当たる、走り込んだ子が転ぶといった衝突が起こりうる。双方が譲れば、広場は半分ずつ使われ、どちらの遊びもやや窮屈になる。
4.1 損害の非対称と、先に退く側
この場面が単純なタカ=ハトと異なるのは、衝突が起きたときの損害が両者で大きく異なる点である。ボールが当たったときに受ける影響は、体格の小さい子どもほど大きいとされ、保護者はその可能性を強く見積もる。一方、球技をする側にとっての損害は、注意されること、気まずさ、遊びの中断である。同じ「双方が強く出た結果」でも、失うものの大きさが釣り合っていない。ゲーム理論では、こうした利得の非対称は均衡の選ばれ方を大きく左右する。
結果として何が起こるか。衝突を最も恐れる側、すなわち失うものが大きい側が、先に譲る。これは弱さや遠慮の問題ではなく、構造から予測される帰結である。乳幼児を連れた保護者は、広場が空くのを待つより、隅へ移るか、別の公園へ行くか、時間をずらすほうが確実だと判断する。そしてこの判断は、たいてい正しい。個々の場面では、譲る側にとってもそれが最善手だからである。問題は、その最善手の積み重ねが、公園の使われ方全体をどこへ動かすかにある。
アルバート・ハーシュマンは1970年の著作で、組織や制度に不満をもった人がとる反応を、離脱と発言に分けて論じた。離脱は黙って去ること、発言は声を上げて変えようとすることである。ハーシュマンの指摘のうち本稿にとって重要なのは、離脱が容易であるほど発言は起こりにくくなる、という点である。公園は無料で、近くに別の公園があることも多く、行かないという選択の費用が低い。そのため、使いにくさは苦情としてではなく、来なくなるという形で現れる。市に寄せられる声の少なさは、困りごとがないことの証明にはならない。
4.2 禁止という解と、その副作用
この状況への対応として最も採られやすいのが、球技の禁止である。看板に「ボール遊びはご遠慮ください」と書けば、少なくとも広場での衝突は減る。しかし、この処方には三つの副作用がある。第一に、球技をする側の利得を大きく下げるが、彼らの遊びたい気持ちは消えないため、行き場が公園の外——道路、駐車場、私有地の空き地——へ移る可能性がある。第二に、禁止は「どちらが正しい利用者か」という線を引いてしまい、両者が同じ公園を共有する将来の可能性を閉ざす。第三に、禁止は守られない場合に管理者の負担を生む。看板が守られない状態が続けば、他の掲示の効き目も落ちる。
重要なのは、禁止が常に誤りだというのではない点である。広場が狭く、どうやっても同時には成立しない場合、禁止は現実的な選択である。ただしその場合でも、市域の別の場所に球技のできる受け皿があるかどうかが、処方の妥当性を左右する。禁止は、その公園における問題を解くが、市全体で見れば需要を移動させるだけだからである。第9節では、磐田市においてサッカーゴールやバスケットゴール、多目的広場の記載がある園がどこにあるかを確認し、この受け皿の分布という論点に触れる。
4.3 分割という解——空間・時間・向き
禁止の手前にある解が、分割である。分割とは、同時に成立しない二つの使い方を、別々の資源に割り当てることで、そもそも同じ資源をめぐるゲームにしないという発想である。分割には三つの軸がある。第一は空間で、広場の東西や、植栽・段差による区切りによって、球技の面と小さい子の面を分ける。第二は時間で、混みやすい時間帯とそうでない時間帯を利用者が自発的に選ぶ、あるいは掲示で目安を示す。第三は向きで、ゴールやバスケットゴールをどちらに向けて設置するかによって、ボールが飛ぶ方向はかなりの程度決まる。
分割の効果は、単に物理的に離すことにとどまらない。分割は、前節でみた純粋調整ゲームの構造を作り出す。広場が漠然と一つであれば、どちらが中央を使うかは対立を含んだ問題になるが、東西に分かれていれば、どちらがどちらを使うかは揃えるだけの問題になる。同じ利用者、同じ広さ、同じ時間帯であっても、資源の切り分け方によって、ゲームの型そのものが変わる。設計とは、こうしてゲームの型を選ぶ行為でもある。
4.4 犬の散歩と乳児——同じ構造の別の場面
利得の非対称が生む同型の場面として、犬を連れて園路を歩く人と、乳児をベビーカーに乗せた人が行き合う状況がある。犬を連れる側にとっては、日課の散歩であり、犬にとっても必要な運動である。乳児連れの側にとっては、犬の大きさや動きが読めないため、距離を取ることが確実な対処になる。ここでも先に退くのは、失うものが大きいと見積もる側である。飼い主が引き綱を短く持ち、ふんを持ち帰るといった基本的な配慮は、相手側の見積もりを下げ、双方が譲る側の均衡へ寄せる働きをもつ。
この場面が広場の球技と異なるのは、すれ違いが一瞬で終わることである。占有をめぐる長い対立にはならず、園路の幅、見通し、すれ違う速度といった条件で結果がほぼ決まる。したがって効く手立ても異なり、園路の幅を確保すること、角の見通しを妨げないこと、犬を連れて入れる範囲を示すことが中心になる。構造が同じでも、資源の性質——同時に長く占有する広場か、一瞬すれ違う園路か——が違えば、処方は変わる。型の診断と、資源の性質の確認は、両方が必要である。
5. 遊具の順番待ち——列という薄い制度
ブランコは一度に一人しか乗れず、滑り台は一人ずつ滑る。広場が多くの人を同時に受け入れられるのに対し、遊具はきわめて競合的である。それでも遊具は無料で誰にでも開かれているから、価格によって使う人を決めることはできない。代わりに働いているのが順番である。順番は、法令にも条例にも書かれておらず、看板に明記されていることも多くない。それでも、たいていの公園でおおむね機能している。本節では、この順番待ちという慣習を、複数の均衡の中から一つが選ばれた状態として読み解き、その安定性と脆さを検討する。
5.1 「先に来た人が先」という焦点
誰が先に使うかを決める基準は、理屈のうえでは複数ありうる。先に来た人、小さい子、遠くから来た人、長く待った人、じゃんけんで勝った人。どれも一貫した基準たりうるし、どれかに揃っていれば争いは起きない。つまりこれは第3節でみた純粋調整ゲームに近く、争点は「どれが正しいか」ではなく「どれに揃うか」である。そして現実には、先着順という基準が圧倒的に選ばれている。理由は、それが最も公正だからというより、最も分かりやすいからである。
シェリングの言う焦点は、まさにこの分かりやすさから生まれる。先着順は、誰の目にも同じように見え、判定に説明を要さず、当事者以外にも確認できる。小さい子を優先するという基準は、優しさとしては優れているが、どこまでが小さい子かの線引きが人によって違い、判定が争いの種になる。年齢の線を引くには、誰かがそれを宣言しなければならない。先着順は宣言なしで成立する。慣習が力をもつのは、その内容が最善だからではなく、内容を誰かが決めなくても共有できるからである。
5.2 交代の回数は誰が決めるか
先着順が決まっても、問題は半分しか解けていない。「先に来た人が先」は誰が使い始めるかを決めるだけで、いつ交代するかは決めない。ブランコを漕ぎ続ける子と、後ろで待つ子の間には、交代の時点をめぐる交渉が残る。ここには、先着順のような明白な焦点がない。十回数えたら交代する、という慣習がある地域もあるが、十という数に必然性はなく、地域や年代によって異なりうる。この曖昧さのために、順番待ちは、始まりでは安定し、終わりで不安定になる。
交渉の結果は、待つ側と使う側の利得の非対称にも左右される。使っている側にとって、あと少し漕ぎ続ける利益は小さくない。待つ側にとって、待ち時間は退屈と疲れという費用である。しかも待つ側は、いつ終わるか分からないという不確実性を負う。不確実な待ち時間は、同じ長さの確実な待ち時間より苦痛が大きいとされる。したがって、「あと十回で代わるね」という宣言は、単なる礼儀ではなく、待つ側の費用を実際に下げる働きをもつ。
シェリングはまた、自分の選択肢をあえて狭める宣言が、交渉において力をもちうることを論じた。「あと十回で代わる」と口に出した子は、その後で気が変わりにくくなる。周囲が聞いているからである。約束は自分を縛るが、その縛りが相手の予想を安定させ、結果として双方の摩擦を減らす。順番待ちにおける声かけは、この意味で、拘束としての約束が小さな規模で働いている例だと読める。
5.3 執行者としての保護者と、その難しさ
慣習は自然に守られるわけではない。守らない者が現れたとき、それを正す誰かが必要になる。公園では、その役をしばしば保護者が担う。自分の子が割り込んだときに止め、待たせ、順番を教える。ここで重要なのは、多くの場合、保護者が正すのは相手の子ではなく自分の子だという点である。各自が自分の側を正すという分担があるかぎり、執行の費用は分散され、対立にもなりにくい。
この分担が崩れるのは、保護者が近くにいない場合と、保護者どうしの基準が異なる場合である。前者では、年長の子が事実上の執行者になることがあり、それがうまく働く場合もあれば、力の差がそのまま順番の差になる場合もある。後者では、他人の子に注意することの気まずさが、執行を止める。注意する側は、その場の空気の悪化という費用を一人で負い、順番が守られる利益は全員に及ぶ。つまり執行そのものが、第3節でみた囚人のジレンマに近い構造をもつ。誰もが「誰かが言えばいいのに」と思う状態は、この構造の帰結である。
5.4 一度の割り込みが壊すもの
順番待ちの慣習が脆いのは、それが相互性に支えられているからである。人が並ぶのは、自分も並べば順番が回ってくると期待できるからであって、並ぶこと自体が楽しいからではない。誰か一人が割り込み、それが咎められないまま通ると、待っていた人にとって、並ぶ理由の一部が失われる。アクセルロッドの研究が示したのは、相手の行動に応じて自分の行動を変える戦略が有効だということだった。裏返せば、裏切りに反応がなければ、協力を続ける理由は弱まる。
ただし、公園における割り込みの多くは、悪意ではなく理解の不足から生じる。年齢の低い子は、列という概念を学んでいる途中であり、順番を守れないこと自体が発達の一過程だともされる。したがって、割り込みへの対応は、大人どうしの間で行われる制裁とは別の物差しで考える必要がある。段階的な対応——まず気づかせ、次に言葉で示し、繰り返すなら距離を取る——は、オストロムが長く続く共同利用のルールに共通して見出した特徴でもある。いきなり強い制裁から入ると、関係のほうが先に壊れる。
6. 繰り返しと常連——協調はどのように成立するか
ここまで見てきた困りごとの多くは、一回限りの出会いを前提とすると、望ましくない結末に落ち着く。しかし公園は、多くの人にとって一回限りの場所ではない。同じ時間帯に同じ公園へ通えば、同じ顔ぶれに何度も会う。この「また会う」という条件が、利得構造を変えないまま、起こりやすい結果を大きく変える。本節では、繰り返しが協調を支える仕組みを数式を使わずに述べ、常連という存在の役割と、その裏側にある危うさを検討する。
6.1 フォーク定理の直観——将来の影
繰り返しゲームの理論には、フォーク定理と総称される一群の結果がある。誰が最初に述べたか特定しにくく、専門家の間で言い伝えのように共有されていたことから、民間伝承を意味する語が名前になった。その内容を数式を使わずに述べれば、次のようになる。同じ相手と何度も出会う見込みが十分に高く、将来の結果を現在と比べて極端に軽んじないならば、一回限りでは成立しない協力的な状態も、安定した均衡になりうる。裏切れば今日は得をするが、明日から相手が協力してくれなくなる。その損失が今日の得を上回るなら、裏切らないほうが自分にとっても得なのである。
この仕組みが働くためには、三つの条件が要る。第一に、また会う見込みがあること。第二に、相手が何をしたかが分かること。第三に、相手の行動に応じて自分の行動を変えられること。この三つは、公園における協調がどこで成り立ちやすく、どこで成り立ちにくいかを判断する物差しになる。三つのうちどれか一つでも欠ければ、協力の理由は急速に弱まる。
| 条件 | 満たされやすい場面 | 満たされにくい場面 | 設計・運用でできること |
|---|---|---|---|
| また会う見込み | 近所の街区公園、決まった時間帯の利用 | 広域から人が集まる大きな公園、休日の一時利用 | 地域の行事や見守りで顔を合わせる機会をつくる |
| 相手の行動が見える | 見通しのよい小さな広場、ベンチから遊具が見える配置 | 植栽で分断された配置、死角の多い園路 | 見通しの確保、ベンチの向き、樹木の下枝の管理 |
| 行動を変えられる | 声をかけられる関係、時間帯を選べる余地 | 匿名で、次いつ来るか分からない関係 | 掲示による共通の目安、管理者への連絡先の明示 |
6.2 常連という反復プレイヤー
この三条件を一身に体現しているのが、いわゆる常連である。毎日ほぼ同じ時間に同じベンチに座る高齢者、夕方に必ず来る犬の散歩の人、平日午前に集まる乳幼児連れのグループ。彼らは、その公園における反復プレイヤーであり、他の利用者にとっては「次も会う相手」である。常連が存在するだけで、その場のやりとりは一回限りのゲームから繰り返しゲームへ移る。常連が見ているという事実は、監視というより、行動が記憶されるという意味をもつ。
常連はまた、慣習の記憶装置でもある。ここでは何時ごろが混むか、どのあたりでボールを蹴るのが暗黙の了解か、水道はどこか、といった知識は、看板ではなく常連の中に蓄えられており、新しく来た人に口伝えで移る。ジェイン・ジェイコブズが1961年に「歩道のバレエ」と呼んだ、街路における無数の小さな調整も、この種の反復と蓄積の上に成り立っていた。公園の秩序の相当部分は、行政の規則ではなく、この非公式の層が担っている。
6.3 規模・匿名性と、繰り返しの成立しやすさ
繰り返しが成立するかどうかは、公園の規模と誘致範囲に強く依存する。都市公園法施行令と国の標準では、街区公園は面積0.25ha・誘致距離250m、近隣公園は2ha・500m、地区公園は4ha・1kmが目安とされる。誘致距離が短ければ、来る人はほぼ同じ地区の住民であり、同じ顔ぶれに会う確率は高い。誘致距離が長くなり、駐車場があり、市外からも人が来る規模になると、その日限りの利用者の割合が増える。同じ「公園」でも、繰り返しゲームとして機能する園と、一回限りのゲームに近い園があるのである。
この違いは、有効な手立ての違いに直結する。繰り返しが期待できる小さな公園では、掲示を増やすより、顔が合う機会と見通しを確保するほうが効きやすい。一回限りの利用者が多い大きな公園では、非公式の慣習に頼れないため、掲示・線引き・ゾーンといった明示的な焦点の設計が重要になる。禁止か放任かではなく、その園がどちらの性格をもつかによって、公式の仕組みと非公式の慣習の配分を変える、という考え方である。
6.4 協調の内側と外側——常連の縄張り化
繰り返しによる協調には、見落とせない裏面がある。協力の輪が安定するほど、その輪の外にいる人にとっての敷居は上がる。いつも同じ人たちが同じ場所を使っていれば、新しく越してきた家族は、その場所を使ってよいのかどうかを判断しかねる。誰も排除していないのに、事実上の縄張りが生まれる。ゲーム理論の言葉でいえば、協調的な均衡が成立していること自体が、新規参入者にとっての参入障壁になる。
この問題に対して、理論から直接に処方が出てくるわけではない。ただ、二点は指摘できる。第一に、内側の協調が強いことと、公園が誰にでも開かれていることは、自動的には両立しない。第二に、両立させるには、新しく来た人が輪の中へ入る手がかり——掲示された共通の目安、行事、あるいは単に空いているベンチ——が要る。オストロムが挙げた条件のうち、当事者がルールを変えられることという項目は、この文脈では、輪の外にいる人がルール形成に加われるかどうかという問いになる。第7節で扱う焦点の設計は、この意味でも、非公式の慣習を補う役割をもつ。
7. 看板・線・時間割——焦点の設計とルールの生成
第3節でみたように、公園の困りごとの相当部分は、複数ある均衡のどれに揃うかが決まっていないことから生じている。ならば必要なのは、揃うべき先を指し示すことである。シェリングが焦点と呼んだこの働きは、看板だけが担うものではない。舗装の切り替わり、植栽の列、段差、ゴールの向き、ベンチの配置といった物理的な手がかりも、同じ働きをする。本節では、公園でルールが生まれ、働き、あるいは働かなくなる過程を、焦点という概念から整理する。
7.1 看板の三つの働き
公園の看板は、しばしば「禁止」の同義語のように扱われるが、その働きは少なくとも三つに分けられる。第一は禁止で、ある行動の利得を下げることによって選択を変えさせる。第二は情報で、危険の所在、設備の使い方、対象年齢の目安などを伝え、利用者がよりよい判断をできるようにする。第三は焦点で、複数ありうる均衡のうち一つを指し示し、揃う先を作る。この三つは、必要とされる場面が異なる。
| 看板の働き | 有効な困りごとの型 | 文言の例(趣旨) | 効かない場合 |
|---|---|---|---|
| 禁止 | 囚人のジレンマ型(自分だけ得をする行動) | ここでは硬いボールを使わない | 行き場が用意されていないとき、守られず形骸化する |
| 情報 | 判断の材料が足りない場合 | 対象年齢の目安、噴水の運転期間、点検の連絡先 | 読まれない位置にあるとき、文字が多すぎるとき |
| 焦点 | 調整型・タカ=ハト型(揃えば解ける) | 小さい子の遊び場はこちら、球技は広場のこちら側 | 分けた区画が狭すぎて、どちらの遊びも成立しないとき |
実務上の含意は明快である。調整型の困りごとに禁止の看板を当てると、揃える先を示さないまま片方を退場させることになる。逆に、囚人のジレンマ型の困りごとに焦点だけを示しても、各自にとって裏切りが得である構造は変わらないため、効きにくい。ゴミの持ち帰りが典型で、「持ち帰りましょう」という呼びかけよりも、持ち帰りやすい設えや、周囲の目が届く配置のほうが効くと考えられる。看板を増やす前に、その困りごとがどの型かを見分けること。これが本稿の中心的な主張の一つである。
7.2 物理的な線が作る焦点
文字による掲示には限界がある。読まなければ効かず、読める年齢でなければ効かず、多言語の利用者には届きにくい。これに対して、物理的な手がかりは読まずに伝わる。舗装が芝生からゴムチップに変われば、そこから先が小さい子の場所だと感じ取れる。低い植栽の列があれば、ボールはそこで止まり、走り込む勢いも落ちる。段差一つが、事実上の境界として働く。こうした手がかりの利点は、誰かが判定しなくても、その場で自明だという点にある。
設計が焦点を作るという見方は、遊具の配置にも及ぶ。ゴールをどちらに向けて置くかは、ボールが飛ぶ方向をほぼ決める。ベンチが遊具のほうを向いていれば、保護者の視線が遊具に集まり、第6節でみた「相手の行動が見える」という条件が満たされやすくなる。逆にベンチが園路を向いていれば、遊具の周りは見られない場所になる。設計者は、意図せずして、その公園で成立しやすい均衡を選んでいる。
7.3 時間による分割と、掲示による共有
空間の分割が難しい小さな公園では、時間が資源になる。同じ広場でも、平日の午前と夕方では利用者の構成が異なる。この住み分けは、多くの場合、誰かが決めたのではなく、各自が空いている時間を選んだ結果として生まれている。ただし、この自然な住み分けは、新しく来た人には見えない。どの時間が誰の時間になっているかを知るには、何度か通ってみるしかない。ここでも、非公式の慣習は内側の人にしか読めないという問題が現れる。
時間の共有を明示する例は、施設の運用にも見られる。磐田市の施設ガイドには、今之浦公園について「令和8年7月17日(金曜)から令和8年9月23日(祝日・水曜)まで、噴水を運転します」という記載があり、豊田香りの公園については、カスケード(滝)が5月から10月までの9時から17時に稼働する旨の記載がある。これらは安全や設備管理のための情報であるが、同時に、いつ何が使えるかという共通の知識を作る。共通の知識があることは、調整問題が解けるための前提条件である。
7.4 誰がルールを作るか——生成と改訂
焦点は、行政の掲示によっても、常連の慣習によっても、設計者の判断によっても作られる。オストロムが長続きする共同利用の条件として挙げたもののうち、公園に当てはめやすいのは次の点である。境界がはっきりしていること。ルールが現地の条件に合っていること。ルールの影響を受ける人がその改訂に関われること。違反への対応が段階的であること。争いを解決する場が身近にあること。逆にいえば、現地の条件を見ずに全園一律に貼られた掲示は、この条件のいくつかを満たさない。
最後に、焦点を増やすことの費用にも触れておく。掲示が増えれば増えるほど、一枚あたりの注意は薄まり、読まれなくなる。禁止の掲示ばかりが並ぶ公園は、来る前から緊張を強いる場所になり、その景観は公園が本来もつ、ほどけるような性格を損なう。焦点の設計とは、掲示を足す作業ではなく、最小限の手がかりで揃う先を伝える作業である。何を書かないかの判断が、何を書くかの判断と同じだけ重要になる。
8. 反論への応答——ゲーム理論で公園を語ることの限界
ここまでの議論には、いくつかのもっともな反論がありうる。公園を利得と均衡の言葉で語ることには、分析としての利点と同時に、失うものがある。本節では四つの反論を取り上げ、応答できる部分と、応答できない部分を分けて示す。応答できない部分を認めることは、この見方の適用範囲を定めることでもある。
8.1 「子どもは計算していない」という反論
最も自然な反論は、公園の主要な利用者である子どもが、相手の出方を読んで利得を比較するような計算をしていない、というものである。これは事実として正しい。四歳の子がブランコの前で行っているのは、費用と便益の比較ではなく、乗りたいという衝動と、待つように言われた記憶とのせめぎ合いである。しかし、ゲーム理論はもともと、意識的な計算を前提としない形でも用いられてきた。第2節でみたメイナード・スミスとプライスの分析は、動物の闘争を扱っており、そこでは誰も計算していない。うまくいく振る舞いが残り、うまくいかない振る舞いが減るという過程だけで、均衡に近い状態が生まれる。
公園に置き換えれば、こうなる。強く出て叱られた子は次に少し控え、譲って何も得られなかった子は次にもう少し粘る。この学習が繰り返されるうちに、その公園における振る舞いの分布は、ある安定した状態へ近づいていく。誰も計算していなくても、結果として計算したかのような分布が現れる。したがって、本稿の分析は「子どもが戦略的である」ことを主張しているのではなく、「学習と模倣の結果として現れる分布が、利得構造から予測できる」ことを主張している。
8.2 「利得は測れない」という反論
第二の反論は、利得を測れないのだから分析は空語だ、というものである。楽しさや安心を数値に置き換えることはできず、置き換えられたとしても、それを人と人の間で比べることはさらに難しい。この批判は重い。本稿が数式を使わない理由の一つも、ここにある。しかし第1節で述べたとおり、本稿の主張の大半は、どちらがどちらより望ましいかという順序だけに依存している。「乳児連れの保護者は、球技をする中学生よりも、衝突の結果を重く見積もる」という命題は、数値を必要としない。
とはいえ、その順序すら観察者の推測である点は変わらない。本稿の診断は、当事者に確かめられていない仮説であり、当事者に尋ねれば異なる順序が出てくるかもしれない。したがって、本稿の記述は「こう読むと筋が通る」という提案であって、実証ではない。この限界は、当サイトの現地踏査がまだ始まっていないという事情とも重なる。順序の推測を確かめる作業は、今後の課題として残る。
8.3 「人は自分の利得だけを見ていない」という反論
第三の反論は、人は自分の得だけでなく、公正さや他者の気持ちを考えて行動する、というものである。これも事実である。順番を譲るとき、多くの人は損得ではなく、そうすべきだと感じているから譲る。ゲーム理論の側からは、規範を守ることや他者の喜びを、利得の一部に含めればよいという応答が可能である。実際、多くの研究がその方向で進んできた。しかし、この応答には注意が要る。観察された行動を説明できるように利得を後から定義すれば、どんな行動も説明できてしまい、理論は反証できなくなる。
この危険を避けるには、利得の定義を先に置き、そこから予測を導き、外れたら定義のほうを疑う、という順序を守るしかない。本稿でいえば、「損害を重く見積もる側が先に退く」という予測は、観察によって外れうる。もし磐田市の公園で、乳児連れの保護者が退かず、球技をする側が場所を移す事例が多く見られるなら、本稿の推測した順序は誤っているか、別の要因——たとえば地域の関係の深さ——が効いていることになる。予測が外れうる形で書くこと自体が、この反論への実質的な応答である。
8.4 「遊びを利得で語るな」という反論
第四の、そして最も深い反論は、遊びをゲームの言葉で語ること自体が、遊びの本質を損なうというものである。ヨハン・ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』(1938)で、遊びを、日常の外にあり、自発的で、それ自体を目的とする活動として描いた。ロジェ・カイヨワは『遊びと人間』(1958)で、遊びを競争・偶然・模擬・眩暈に分類しつつ、遊びが非生産的であることをその条件に数えた。何かのために遊ぶのではないからこそ遊びなのだ、という主張である。利得の最大化という枠組みは、この点で遊びと相容れない。
この反論に対する応答は、本稿が扱っている対象を限定することである。本稿が分析したのは、遊びそのものではなく、遊ぶ場所をどう分け合うかという、遊びの外側の層である。滑り台を滑る楽しさは利得計算の外にあるが、滑り台の前で誰が先に滑るかは、複数の人の選択が絡み合う問題であり、その意味で調整の対象になる。遊びの中心を外側から語らないこと、外側の調整を遊びの中心と取り違えないこと。この二つの節度を守るかぎりで、本稿の枠組みは有効だと考える。
最後に、第五の反論として、公園の困りごとの多くは調整の失敗ではなく、単に量が足りないことによる、という指摘があるだろう。広場が二つあれば分割は不要で、遊具が十分にあれば順番待ちは短い。この指摘は正しく、調整の議論は量の議論を代替しない。ただし逆もまた真である。量を増やせない条件のもとでは、同じ量をどう分けるかという問いが残る。両者は競合せず、順序の問題である。まず量を確かめ、増やせない部分について分け方を考える。この順序を逆にしないことが重要である。
9. 磐田市の公園への示唆
当サイトが収録する磐田市の公園は100園である。内訳は、市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドによれば、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、および法の対象外とされるものが6園である。本節では、この構成を、これまで論じてきた利得構造と焦点の観点から読み直す。ただし現地踏査は始まっておらず(2026年8月16日時点で踏査済0園)、以下は分布と記載事項から導ける範囲の見通しにとどまる。
9.1 街区公園51園——繰り返しが成立しやすい層
全体の半数を占める街区公園51園は、国の標準では面積0.25ha・誘致距離250mを目安とする種別である。誘致距離250mという範囲は、徒歩数分の圏内であり、そこに来る人はほぼ同じ地区の住民になる。第6節の三条件に照らせば、また会う見込みという条件を最もよく満たすのがこの層である。加えて、街区公園は面積が小さいため見通しがよく、相手の行動が見えるという条件も満たしやすい。つまり磐田市の公園の半数は、繰り返しゲームとして機能しうる条件を、構造上もっている。
この層に対しては、掲示を増やすことよりも、顔が合う機会と見通しを保つことのほうが効きやすいと考えられる。他方で、第6節でみた裏面——常連の輪が固まり、新しく来た人が入りにくくなること——も、この層でこそ起こりやすい。転入してきた家族が最初に訪れるのは、たいてい家に最も近い街区公園である。その一回目に、使ってよいと感じられるかどうかは、その後の利用を左右する。ベンチの数、空いている面の有無、掲示の口調といった要素が、参入の敷居を上下させている可能性がある。
9.2 面積の幅と、同時に成立する遊びの数
磐田市の公園の面積には大きな幅がある。最大は竜洋海洋公園の221,722㎡(総合公園・竜洋)で、かぶと塚公園106,982㎡、つつじ公園61,937㎡、磐田スポーツ交流の里ゆめりあ57,500㎡、兎山公園56,193㎡と続く。一方で、二之宮東第2緑地は17㎡、豊田上新屋ポケットパークは156㎡、見付本通広場公園は372㎡、只来下公園は458㎡である。この幅は、単に広い狭いの差ではなく、同時に成立する遊びの数の差である。
同時に成立する遊びが二つ以上ある広さなら、第4節でみた分割という解が使える。しかし、成立する遊びが一つしかない広さでは、分割はできず、同じ資源をめぐるタカ=ハト型の構造が残る。そこでは、時間による住み分けか、別の公園への移動しか選択肢がない。小さな緑地やポケットパークが担うのは、そもそも競合が起きにくい使い方——腰を下ろす、通り抜ける、木陰に入る——であり、そこに広場的な機能を期待すると、構造上無理が生じる。園の規模に応じて、期待する機能を分けて考える必要がある。
9.3 球技の受け皿はどこにあるか
第4節で、球技の禁止は市域全体で見れば需要を移動させるにすぎない、と述べた。では磐田市において、球技を受け止めうる場所はどこに記載されているか。市の施設ガイドの園内施設欄には、サッカーゴールの記載がある園として水堀公園(近隣公園・見付)、豊田富里農村公園(近隣公園・豊田)、竜洋十束公園(近隣公園・竜洋)、安久路公園(地区公園・御厨)が挙がる。バスケットゴールの記載がある園としては、豊田原新田公園、豊田東原梅ノ木公園、豊田本郷公園、豊田ラブリバー公園、兎山公園、竜洋十束公園、豊田富里農村公園などがある。多目的広場や多目的グラウンドの記載があるのは、水堀公園、中央公園、竜洋十束公園、竜洋豊岡公園である。
この分布から二点を指摘できる。第一に、球技の設備をもつ園は近隣公園以上の規模に偏っており、街区公園51園の多くには記載がない。第二に、地区ごとの偏りがある。9地区の園数は、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。球技の受け皿となりうる園が近い地区と、そうでない地区では、街区公園における球技をめぐる緊張の強さが異なりうる。どの地区の子がどこへ行けるのかという問いは、地図の上で検討できる論点である。
9.4 分割の実例と、多様な利用者
空間による分割の実例として、市の施設ガイドの記載から読み取れるのが今之浦公園(近隣公園・見付)である。園内施設欄は、今ノ浦川東側の「遊びと賑わいのゾーン」に屋根付広場、複合遊具、ふわふわ遊具、噴水広場、芝生広場、3歳未満児遊具を、西側の「憩いとふれあいゾーン」に健康遊具、じゃぶじゃぶスポット、流れ、芝生広場を挙げている。ゾーンに名前が与えられ、川で物理的に隔てられ、3歳未満児の遊具が明示されているという構成は、第7節でみた焦点の設計そのものである。誰がどこを使うかが、掲示を読む前に分かる。
利用者の多様性が増すと、調整すべき組み合わせも増える。安久路公園(地区公園・御厨)は、施設ガイドの記載によれば、複合遊具にインクルーシブエリアがあり、ブランコにインクルーシブアイテムがある。多様な子が同じ遊具を使うことは、望ましいことであると同時に、順番や使い方をめぐる調整の場面を増やす。兎山公園(地区公園・御厨)にはローラースケート場(スケートボード利用可)の記載があり、速度の異なる遊びを面で分ける例として読める。速さの違う遊びを同じ面に置かないことは、分割の最も基本的な原則である。
9.5 今後の踏査で確かめること
本稿の議論は、園ごとの実態を見ないままの推論である。当サイトの踏査は始まったばかりであり、以下は、本稿の見立てを確かめるために今後の踏査で観察したい項目である。いずれも、その場で見て記録できる事柄に限っている。
- 広場と幼児向け遊具の距離、および両者の間に段差・植栽・舗装の変化があるか
- サッカーゴールやバスケットゴールの向きと、ボールが飛びやすい方向の先に何があるか
- 掲示の文言が、禁止型か、情報型か、場所を分ける焦点型か
- ベンチの数と向き(遊具のほうを向いているか、園路を向いているか)
- 見通しを妨げる植栽の位置と、死角になりやすい区画の有無
- 混みやすい時間帯と、その時間の利用者の構成(複数回の訪問が必要)
註:公園の設備・掲示に関する要望や、遊具の不具合の連絡先は、磐田市 都市整備課(電話 0538-37-4806)である。安全に関わる判断や、けがへの対応は、関係機関・医療機関に委ねられるべき事柄であり、本稿の枠組みから導けるものではない。
10. 結論と今後の課題
本稿は、公園で起こる利用の衝突を、心がけの問題としてではなく、利得構造の問題として読み直すことを試みた。得られた見通しは三つである。第一に、公園の困りごとの多くは囚人のジレンマではなく、タカ=ハト型あるいは調整型に近い。第二に、この型のちがいは、有効な手立てのちがいに対応しており、調整型の問題を禁止で解こうとすると、需要を公園の外へ押し出すだけになりやすい。第三に、衝突時に失うものの大きさが利用者の間で非対称であるとき、失うものが大きい側が先に退く均衡が成立し、その退出は苦情としても記録としても現れにくい。
第三の点は、実務上とくに見落とされやすい。苦情がないことは、問題がないことを意味しない。無料で、近くに代わりの場所があり、行かないという選択の費用が低い公園では、不満は声ではなく不在として現れる。したがって、公園の使われ方を評価する際には、実際に来ている人の満足度だけでなく、来なくなった人がいるかどうかを問う視点が要る。これは統計として捉えにくく、踏査においても、その場にいない人を数えることはできない。この難しさ自体が、公園という無料で開かれた場所の性格から来ている。
10.1 実務への含意——診断の順序
以上から、公園の困りごとに向き合う際の順序を、次のように整理できる。まず量を確かめる。同時に成立する遊びが二つ以上あるだけの広さがあるか。次に型を見分ける。それは各自にとって裏切りが得な構造か、揃えば解ける構造か、強く出た側が取る構造か。そのうえで手立てを選ぶ。揃えば解けるなら焦点を示し、資源が競合するなら空間・時間・向きで分け、それでも成立しないときにはじめて禁止を検討する。そして禁止を選ぶときは、退場させる側の行き場が市域のどこにあるかを同時に確かめる。
この順序は、当たり前のことを述べているように見えるかもしれない。しかし実際には、順序が逆になりやすい。困りごとが報告されると、最も早く実行でき、最も費用の低い手立て——掲示を一枚増やすこと——が先に選ばれる。掲示は、量の不足も、型の誤診も、行き場の欠如も、いったんは見えなくする。本稿がゲーム理論の言葉を借りたのは、この見えなくなる部分を、言葉として取り出しておくためである。
10.2 限界と今後の課題
本稿の限界は明白である。第一に、利得の順序はすべて観察者の推測であり、当事者に確かめられていない。第二に、当サイトの現地踏査は始まっておらず、園ごとの掲示・配置・混雑といった、議論を裏づけるべき事実がまだ手元にない。第三に、二人二択の基本形は単純化であり、実際の公園では利用者が多数おり、途中で相談も交渉もでき、年齢や関係の深さもさまざまである。本稿は、この単純化を現実の写しとしてではなく、型を見分けるための物差しとして用いた。
今後の課題は三つある。第一は、第9節に挙げた観察項目に沿って踏査を進め、掲示の型と配置の実態を園ごとに記録することである。第二は、時間帯による利用者構成の変化を、複数回の訪問によって把握することである。第三は、本稿の見立てが外れる事例を探すことである。乳幼児連れが退かずに済んでいる園があるとすれば、そこには本稿が捉え損ねている条件——広さ、配置、地域の関係、あるいは掲示の工夫——があるはずであり、そちらのほうが実務にとって有用な知見になる。
最後に、本稿の枠組みが照らさないものについて改めて述べておきたい。滑り台を滑る子の楽しさ、砂場に座り込んで過ごす時間、ベンチで交わされる短い会話。これらは利得や均衡の言葉では書き表せず、書き表す必要もない。公園の価値の中心はそこにあり、本稿が扱ったのはその周りの、場所をどう分け合うかという層にすぎない。分け合い方が整うことの意味は、それ自体が目的だからではなく、中心にあるものが妨げられずに済むからである。この順序を取り違えないことを、結びに代えて記しておく。
参考文献
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- ジャン=ジャック・ルソー(1755)『人間不平等起源論』(本田喜代治・平岡昇訳、岩波文庫、1933ほか)
- デイヴィッド・K・ルイス(1969)『コンヴェンション——哲学的研究(Convention: A Philosophical Study)』Harvard University Press
- アルバート・O・ハーシュマン(1970)『離脱・発言・忠誠——企業・組織・国家における衰退への反応』(矢野修一訳、ミネルヴァ書房、2005)
- ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
- ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中央公論社、1963/中公文庫、1973)
- ロジェ・カイヨワ(1958)『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社学術文庫、1990)
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・同法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。