生命・健康・心理・教育リスク認知

何を怖いと感じるか——リスク認知のバイアスと保護者の判断

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:リスク認知 公開・更新 2026-08-17 本文 約20,776字 読了目安 38分

要旨

本稿の目的は、保護者が公園で子どもを遊ばせる際にいだく不安の大きさが、実際に起こりやすい出来事の大きさとどの程度対応しているか、対応していないとすればそのずれはどのような心理的なしくみから生じるのかを、リスク認知研究の概念を用いて整理することである。方法は文献整理であり、心理学者ポール・スロヴィックらが1970年代後半から発展させたリスク認知の心理測定パラダイム(恐ろしさ因子・未知性因子)、エイモス・トヴェルスキーとダニエル・カーネマンによる利用可能性ヒューリスティックをはじめとするヒューリスティックとバイアスの研究、ロジャー・カスパーソンらのリスクの社会的増幅の枠組みを中心に検討する。本稿は、どこまでの危険を許容すべきかという規範的な問いではなく、保護者がどのような危険を強く感じ、どのような危険を見過ごしやすいかという認知の構造を記述する立場をとる。

検討の結果、次の点が導かれる。第一に、人は危険の大きさを、統計的な発生頻度だけでなく、制御できるか、破局的か、自発的に引き受けたものか、子どもに及ぶかといった性質(恐ろしさ因子)や、科学的に未解明か、影響が遅れて現れるかといった性質(未知性因子)によって評価しており、この二つの因子が高い出来事ほど、実際の頻度と切り離されたかたちで強く記憶され、思い出されやすくなる(利用可能性ヒューリスティック)。第二に、まれで劇的な出来事は報道や語りを通じて繰り返し想起されるために過大に見積もられやすく、日常的でありふれた出来事はひとつひとつが記憶に残りにくいために過小に見積もられやすいという非対称が生じる。第三に、個人の認知だけでなく、地域の口コミや情報の伝わり方そのものが、特定の場所や遊具に対する不安を実際の技術的評価から離れたかたちで強めたり弱めたりする(リスクの社会的増幅)。第四に、数値による比較は、それだけでは不安を十分に和らげない。

最後に、磐田市の都市公園100園を対象とするデータベースの立場から、地区・種別・面積・設備の有無という標準化された情報を示すことが、未知性因子を和らげる一つの手段になりうる一方、当サイトの現地踏査はまだ始まっておらず、見通しのよさや遊具の状態といった経験的な情報は今後の課題として残ることを述べる。医学的・安全上の判断は医療機関・管理者・関係機関に返し、恐怖をあおる表現は用いない。

キーワードリスク認知恐ろしさ因子未知性因子利用可能性ヒューリスティックリスクの社会的増幅磐田市

1. はじめに——問題の所在

公園に子どもを連れて行くとき、保護者の頭には複数の不安が同時に浮かぶ。見知らぬ大人に声をかけられること、遊具から落ちること、虫に刺されること、暑さで体調を崩すこと。これらは性質のまったく異なる出来事であるにもかかわらず、日常の場面では「公園は危ないかもしれない」というひとつの漠然とした感覚として経験されることが多い。しかし、これらの出来事が実際にどれくらいの頻度で起こりうるかと、保護者がどれくらい強くそれを恐れるかは、必ずしも一致しない。まれにしか起こらない出来事が強く恐れられ、ありふれた出来事が意識にのぼりにくいということが、日常的にしばしば起こる。

本稿が立てる問いは次のとおりである。保護者が公園でいだく不安の大きさは、実際に起こりやすい出来事の大きさとどの程度対応しているか。対応していないとすれば、そのずれはどのような心理的なしくみから生じるのか。この問いは、「公園のどこまでの危険を大人が取り除くべきか」という価値の問題とは区別される。価値の問題については、本シリーズの別稿が倫理学の観点から、危害原理とパターナリズム、リスクとハザードの区別を用いて検討している。本稿はそれとは異なり、保護者がどのような危険を強く感じ、どのような危険を見過ごしやすいかという、感じ方そのものの構造を記述することを目的とする心理学の主題を扱う。何を許容すべきかではなく、何がどう見えているかを扱う、という違いである。

方法は文献整理である。心理学におけるリスク認知研究、とりわけポール・スロヴィックらが1970年代後半から発展させた心理測定パラダイム、エイモス・トヴェルスキーとダニエル・カーネマンによるヒューリスティックとバイアスの研究プログラム、ロジャー・カスパーソンらによるリスクの社会的増幅の枠組みを中心的な手がかりとする。これらはいずれも、心理学・意思決定科学の分野で広く参照されてきた研究群であり、特定の事件や統計を対象とするものではなく、人がリスクをどう評価するかという認知の一般的なしくみを扱うものである。本稿はこれらの枠組みを、公園という具体的な場面に当てはめて検討する。

構成は次のとおりである。第2節で先行研究と基本概念を整理する。第3節から第7節では、恐ろしさ因子と未知性因子、利用可能性ヒューリスティック、確率の過小・過大評価、リスクの社会的増幅、数値による説明の限界を、それぞれ公園における不安の具体例に即して検討する。第8節では、以上の議論に対して予想される反論に応答し、恐怖表現を用いない実践的な判断の枠組みを提示する。第9節では磐田市の公園データベースの立場からこの議論の含意を述べ、第10節で結論と今後の課題をまとめる。なお、医学的・安全上の判断はすべて医療機関・遊具の管理者・関係機関に委ねるものとし、本稿はいかなる場合にも恐怖をあおる表現を用いない。

ここで、本稿が用いる「リスク認知」という語について、初出にあたり簡単に説明しておく。リスク認知とは、ある出来事がどれくらいの確率でどれくらいの被害をもたらすかについて、人が主観的にいだく評価や感じ方を指す心理学の用語である。これは、専門家が統計データや工学的な評価にもとづいて算出する客観的なリスクの推定値とは、必ずしも同じものではない。両者が一致することもあれば、大きく食い違うこともある。本稿は、この食い違いがどのような条件のもとで、どのような方向に生じやすいかを、公園という場面に即して検討するものである。

この問いは、子育て中の保護者だけに関わるものではない。公園を整備し管理する行政の担当者にとっても、住民からの意見や要望のなかには、統計的な発生頻度と主観的な不安の大きさとが混同されたまま語られるものが少なくないと考えられる。地域で見守り活動に関わる人々にとっても、何にどれだけの注意を割くべきかを考えるうえで、不安の感じ方そのものの構造を知っておくことは助けになりうる。本稿は、子育て世代だけでなく、行政・地域の関係者・公園やまちづくりを学ぶ学生など、公園に関わる幅広い読者を念頭に置いて書かれている。

なお、本稿は、公園に潜みうる個々の具体的な危険を網羅的に列挙し、それぞれへの対処法を示すことを目的とするものではない。転落や熱中症、虫刺され、道路の飛び出しといった個別の事柄への具体的な備えについては、当サイトの他の読みものが扱っている。本稿が扱うのは、そうした個別の事柄に接したときに、保護者の内側でどのような認知の過程が働き、なぜある危険は強く意識され、別の危険は意識されにくいのかという、共通の土台にあたる部分である。個別の対処法と、その土台にある認知の構造とは、補い合う関係にあると位置づけられる。

何を怖いと感じるか保護者子ども
図1保護者の不安の大きさと、出来事の起こりやすさは必ずしも一致しない。そのずれを心理学の概念で読み解く。

2. 先行研究と概念の整理

2.1 心理測定パラダイム——恐ろしさ因子と未知性因子

リスク認知研究の出発点のひとつは、バルーク・フィッシュホフ、サラ・リクテンシュタイン、ポール・スロヴィックらが1978年に発表した研究である。彼らは、原子力発電や自動車、外科手術、殺虫剤など多様な活動・技術について、専門家が算出する死亡確率などの統計的な推定値と、一般の人々が主観的に感じるリスクの大きさとを比較した。その結果、両者は必ずしも一致せず、人々の主観的なリスク評価は、統計的な発生確率だけでなく、いくつかの質的な性質によって左右されていることが示された。この研究の枠組みは心理測定パラダイムと呼ばれ、後にポール・スロヴィックが1987年の論文でさらに整理した。

心理測定パラダイムが特定した主要な性質は、大きく二つの因子にまとめられる。第一は恐ろしさ因子(dread factor)であり、制御できないこと、結果が破局的であること、本人の意思によらず引き受けさせられること(非自発性)、影響が子どもや将来世代にまで及ぶことなどが含まれる。第二は未知性因子(unknown factor)であり、科学的に十分解明されていないこと、影響が観察しにくいこと、影響が現れるまでに時間がかかること(遅延性)などが含まれる。この二つの因子の得点が高い対象ほど、実際の発生確率とは独立に、主観的なリスクは大きく見積もられる傾向があるとされる。

2.2 ヒューリスティックとバイアスの研究プログラム

もうひとつの重要な系譜は、エイモス・トヴェルスキーとダニエル・カーネマンが1970年代前半から進めたヒューリスティックとバイアスの研究プログラムである。彼らは1974年の論文で、人が不確実な状況のもとで判断を下す際、確率計算のような形式的な手続きではなく、いくつかの簡便な経験則(ヒューリスティック)に頼っていることを示した。その代表例が、1973年の論文で示された利用可能性ヒューリスティックであり、ある出来事の頻度や確率を、その出来事の具体例がどれだけ容易に思い浮かぶかによって判断する傾向を指す。これらのヒューリスティックは、多くの場面では効率的な判断を可能にする一方、特定の条件のもとでは体系的な偏り(バイアス)を生むとされる。ダニエル・カーネマンは2011年の著作(邦訳『ファスト&スロー』)で、この直感的で速い思考を「システム1」、意識的で遅い思考を「システム2」と呼び、両者の相互作用として人の判断を整理している。

心理測定パラダイムとヒューリスティックの研究は、独立に発展してきたが、相互に補い合う関係にある。恐ろしさ因子や未知性因子が高い出来事は、人の記憶に強く刻まれ、思い出されやすくなる。思い出されやすい出来事は、利用可能性ヒューリスティックによって、実際の頻度とは無関係に「よく起こること」として扱われやすくなる。つまり、質的な性質(恐ろしさ・未知性)が量的な判断(頻度・確率の見積もり)をゆがめる経路として、利用可能性ヒューリスティックが機能していると理解できる。本稿の以下の節では、この二つの枠組みを組み合わせて、保護者が公園で感じる不安の構造を検討していく。

2.3 専門家の評価と一般の評価のずれ

フィッシュホフらの1978年の研究がもうひとつ明らかにしたのは、専門家と一般の人々とでは、リスクという言葉で何を測っているかそのものが異なりうるという点である。専門家は、年間の死亡者数や事故件数といった、集計された統計的な指標をリスクの大きさとほぼ同一視する傾向がある。これに対して一般の人々は、平均的な被害の大きさだけでなく、被害が一度に集中して起こるか分散して起こるか、被害を受ける側が事前に選べたかどうか、次の世代にまで影響が及ぶかどうかといった、より多面的な性質を考慮に入れて評価する傾向があるとされる。このずれは、どちらが正しいかという問題ではなく、そもそも測ろうとしているものが異なっているために生じる、と理解するのが適切である。

付け加えておくと、心理測定パラダイムは、もともと原子力発電や化学物質、大規模な工業技術といった、専門的な技術評価の対象となる領域を主な題材として発展してきた研究群である。それが後年、自動車の運転や喫煙、医薬品、そして子どもの安全といった、より身近で日常的な領域にも応用されるようになった経緯がある。したがって、本稿がこの枠組みを公園という場に当てはめることは、この研究群の応用範囲を大きく踏み外すものではないが、公園に固有の実証研究にもとづくものでもない。この点は、本稿の限界として第10節でも改めて確認する。

因子含まれる性質公園に関わる例
恐ろしさ因子(dread)制御できない・破局的・非自発的・子どもに及ぶ見知らぬ大人による声かけ・重大な事故
未知性因子(unknown)科学的に未解明・観察しにくい・影響が遅れて現れる遊具の素材の劣化・見えにくい感染症のリスク

註:ここでの分類は心理測定パラダイムにもとづく一般的な整理であり、磐田市内の特定の公園や事案を指すものではない。

統計的な頻度主観的な怖さ二つの因子
図2リスクの主観的な大きさは、統計的な頻度だけでなく、恐ろしさ因子と未知性因子という質的な性質によっても左右される。

3. 恐ろしさ因子と未知性因子——公園のどんな危険が過大視されるか

前節で整理した恐ろしさ因子と未知性因子の枠組みを、公園という具体的な場に当てはめて考えてみる。保護者が公園でいだく不安の対象には、性質の異なるものが混在している。見知らぬ大人による声かけや連れ去りへの不安は、結果が破局的であり、保護者や子どもの側で完全には制御できず、非自発的に引き受けさせられ、しかも子どもという弱い立場の者に及ぶという点で、恐ろしさ因子のほぼすべての条件を満たす。この種の出来事が実際にどの程度の頻度で起こるかとは別に、恐ろしさ因子の高さそのものが、主観的な不安の強さを押し上げる方向に働くと考えられる。

これに対して、遊具からの転落やすり傷、砂場での小さなけがといった出来事は、多くの保護者にとって既知であり、その場で対応でき、結果も多くの場合は軽微である。恐ろしさ因子の観点からは相対的に低く位置づけられる出来事だといえる。国土交通省の遊具の安全に関する指針が、遊具のリスクとハザードを区別し、転倒や打撲のような、子ども自身が挑戦の中で経験し学ぶことが想定される範囲の危険と、遊具の構造的な欠陥のように取り除くべき危険とを分けて論じているのも、この二つの性質の違いを踏まえた整理だと理解できる。恐ろしさ因子が低い出来事は、実際の発生頻度にかかわらず、保護者の意識にのぼりにくい傾向があるとされる。

未知性因子についても、公園に関わる不安のなかに具体例を見いだせる。熱中症は、体内で進行する体温調節の破綻という、外からは見えにくい過程を含み、症状が現れるまでに時間差があるという点で、未知性因子と関わりが深い。虫刺されについても、刺された直後には軽微に見えても、体質によってはアレルギー反応が遅れて現れることがあるとされ、この不確実性が未知性因子を高める方向に働きうる。これらに対する社会的な対応のひとつが、暑さ指数(WBGT)のように、目に見えにくい危険を数値として可視化し、未知性を減らそうとする取り組みだと位置づけられる。ただし、可視化された数値をどう受け止めるかについては、数値そのものの効果に限界があることを第7節で改めて検討する。

重要なのは、恐ろしさ因子と未知性因子がともに高い出来事と、ともに低い出来事とでは、保護者の警戒の向け方が大きく異なりうるという点である。まれで劇的な出来事に強く注意が向く一方、頻度は高くても一件ごとの結果が軽微な出来事には注意が向きにくいとすれば、限られた注意や労力の配分が、必ずしも実際の被害の総量に比例したものにならない可能性がある。この非対称そのものを問題視するかどうかは価値判断を含むが、少なくともそうした非対称が生じるしくみを理解しておくことは、保護者が自分自身の不安をふり返るうえで役立つと考えられる。

恐ろしさ因子と未知性因子のもうひとつの働きとして、慣れ親しみの効果が挙げられる。何度も通う近所の公園は、そこで起こりうる出来事の見当がつきやすく、恐ろしさ因子・未知性因子ともに低く感じられやすい。反対に、はじめて訪れる公園や、普段行き来しない地区の公園は、同じ種類の遊具や設備を備えていても、勝手が分からないぶん未知性因子が高く感じられ、結果として警戒が強まりやすいと考えられる。この効果は、公園そのものの客観的な安全性とは独立に生じるものであり、慣れた公園だから安全、慣れない公園だから危険、と単純に結びつけられるものではない点に注意が必要である。

なお、恐ろしさ因子・未知性因子への感受性は、子ども自身の側にも見られるが、その現れ方は保護者のものとは異なりうる。発達心理学の領域では、子どもが遊びのなかで自らの能力を試し、高さや速さへの感覚を段階的に調整していく過程が論じられており、子ども自身のリスクの捉え方は、保護者が外側から見て抱く不安とは別の論理で動いていると考えられる。この子ども自身のリスクとの向き合い方については、本シリーズの発達心理学を扱う別稿でより立ち入って検討されており、本稿は保護者の側の認知に焦点を絞ることで、両者を補い合う関係に位置づけている。

遊具の見た目の複雑さや高さも、恐ろしさ因子の感じられ方に関わりうる要素である。構造が入り組んでいたり、高さのある遊具は、工学的な安全性の評価とは別に、見た目の印象として制御しにくさを感じさせやすいと考えられる。逆に、単純な形状の遊具であっても、実際の使われ方によっては注意を要する場合があり、見た目の印象と工学的な安全性の評価とは必ずしも一致しない。遊具の安全性そのものの技術的な判断は、国土交通省の指針にもとづき遊具の管理者が行うものであり、本稿はその判断に立ち入るものではないが、見た目の印象がリスク認知に影響しうるという点は、心理学の観点から付け加えておくべき論点である。

遊具恐ろしさ因子感じ方
図3同じ「危険」でも、制御できるか、破局的か、子どもに及ぶかという性質によって、感じられる大きさは変わる。

4. 利用可能性ヒューリスティックと報道——まれな出来事の見えやすさ

利用可能性ヒューリスティックとは、ある出来事の頻度や確率を、その出来事の具体例がどれだけ容易に思い浮かぶかによって判断する傾向を指す。トヴェルスキーとカーネマンが1973年の論文で示したように、思い出しやすさは、実際の頻度だけでなく、その出来事がどれだけ最近経験されたか、どれだけ鮮明に描写されたか、どれだけ感情を強く伴うかによっても左右される。したがって、実際にはまれにしか起こらない出来事であっても、繰り返し語られ、鮮明に描写されるものであれば、頻繁に起こる出来事であるかのように感じられうる。

報道は、この利用可能性ヒューリスティックを強く働かせる条件を備えている。子どもが被害に遭う重大な事故や事件は、発生件数としてはまれであっても、その性質上ニュース価値が高く、詳細な描写とともに繰り返し取り上げられやすい。結果として、実際に起こる頻度とは切り離されたかたちで、そうした出来事が「よくあること」であるかのような印象を形成しうる。これに対して、公園での日常的な小さなけがは、ひとつひとつがニュースになることはほとんどなく、保護者自身の記憶のなかでも、他の無数の出来事に埋もれて思い出しにくい。頻度としては後者のほうがはるかに多いとしても、思い出しやすさの点では前者が優位に立ちやすい。

この非対称には、具体的な物語や描写が確率的な情報よりも強い印象を与えるという、より一般的な現象も関わっている。キャス・サンスティーンは2002年の著作で、強い感情を伴う具体的な結果のイメージが提示されると、その発生確率がどれほど小さくても、人はその確率の大小をあまり考慮しなくなる傾向があることを論じ、これを確率の無視(probability neglect)と呼んだ。ある出来事が「起こりうる」という事実そのものが強く意識されると、それが「めったに起こらない」という情報は、判断にあまり反映されなくなるということである。公園での不安についても、具体的な事故の描写に触れたあとでは、その発生確率についての情報を示されても、不安が大きく和らがないことがありうる。

以上を踏まえると、報道やSNSでの情報に触れること自体を避けるべきだという結論は導かれない。むしろ重要なのは、思い出しやすい出来事と、実際に頻度の高い出来事とが一致するとは限らないという構造を理解しておくことである。この理解は、次節で扱う確率の過小・過大評価の問題、および第6節で扱うリスクの社会的増幅の問題とも重なる。いずれも、個人の記憶や判断のしくみだけでなく、情報がどのように流通し、繰り返され、増幅されるかという社会的な過程が、リスク認知に影響を与えることを示している。

この生々しさの効果は、報道に限らず、写真や動画をともなう個人間の情報共有にも及ぶと考えられる。具体的な場面が視覚的に描写されるほど、その出来事は記憶に残りやすくなり、利用可能性ヒューリスティックを通じて頻度の判断に影響を与えやすくなる。これは諸刃の性質を持つ。安全に関する注意喚起において、具体的な場面を示すことは、注意を促すうえで効果的でありうる一方、同じしくみが、実際にはまれな出来事についての過大な不安を生み出す方向にも働きうるからである。情報を発信する側にも受け取る側にも、この両義性を踏まえた慎重さが求められる。

また、生々しさの効果は、伝聞や又聞きを重ねるごとに弱まるとは限らない。むしろ、伝わる過程で細部が強調されたり単純化されたりすることで、当初の出来事よりも印象的な形に変化することがある。この点は、個人の記憶のなかでの利用可能性ヒューリスティックと、次節以降で扱う社会的な情報の伝わり方の問題とが、独立した現象ではなく、連続した過程として捉えられるべきことを示している。ある出来事がどれだけ思い出されやすいかは、その出来事そのものの性質だけでなく、それがどのような経路をたどって自分のもとに届いたかにも左右される。

トヴェルスキーとカーネマンが1970年代に利用可能性ヒューリスティックを提示した当時と比べ、現在の情報環境は、個人が受け取る情報の量と速さの両面で大きく変化している。新聞やテレビといった従来の報道に加えて、個人間で直接やり取りされる情報が、より速く、より狭い範囲の受け手に向けて伝わるようになっている。この変化が、利用可能性ヒューリスティックの働き方そのものを変えるのか、それとも同じしくみがより頻繁に作動するようになっただけなのかは、本稿の範囲を超える論点であるが、情報の伝わり方の変化がリスク認知に与える影響については、今後さらに検討が必要な領域だと考えられる。

繰り返される情報思い出しやすさ過大な見積もり
図4まれでも繰り返し語られる出来事は思い出しやすくなり、実際の頻度とは無関係に「よくある」と感じられやすい。

5. 確率の過小評価・過大評価——日常のリスクと非日常のリスクの非対称

前節までの議論を、頻度の高い出来事と低い出来事という軸で改めて整理する。心理学のリスク認知研究では、確率がごく小さい出来事について、人はしばしばそれを過大に評価する一方、確率が中程度から高い、見慣れた出来事については、その確率を過小に評価する傾向があることが指摘されてきた。ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーが1979年に発表したプロスペクト理論は、人が客観的な確率をそのまま用いるのではなく、主観的にゆがめられた「決定加重」を通して確率を扱うことを数理的に定式化しており、低い確率が実際以上に重く扱われる傾向を説明する枠組みのひとつとされる。

公園での不安に当てはめると、繰り返し道路を横断すること、遊具から飛び降りたり登ったりすること、砂場で長時間座り込むことといった、日々くり返される行動に伴う小さな危険は、見慣れているがゆえに意識の外に置かれやすい。慣れは、危険そのものを消すわけではないが、注意の向け方を変化させる。これに対して、めったに経験しない出来事、たとえば見知らぬ人からの声かけといった出来事は、確率が低いにもかかわらず、いったん意識にのぼると、その低さが十分に割り引かれずに扱われやすい。結果として、日常的にくり返される行動への警戒が相対的に薄れ、非日常的な出来事への警戒が相対的に強まるという構図が生まれうる。

この非対称は、感情の働き方によっても補強される。ジョージ・ローウェンスタインらは2001年の論文「Risk as Feelings」で、人のリスクに関する判断が、確率や結果の大きさについての認知的な評価だけでなく、その場で生じる感情的な反応によっても直接左右されることを論じた。ポール・スロヴィックらも2004年の論文で、感情にもとづく速い判断(risk as feelings)と、分析にもとづく遅い判断(risk as analysis)という二つの経路を区別し、多くの場面で前者が優位に働くことを示している。恐ろしい出来事を想像したときに生じる不快な感情そのものが、その出来事の確率についての冷静な評価を妨げうるということである。

ここで確認しておきたいのは、こうした非対称は個人の判断力の欠如を意味するものではないという点である。ゲルト・ギーゲレンツァーが2002年の著作で論じるように、こうしたヒューリスティックの多くは、情報が不完全で時間が限られた現実の状況のもとでは、むしろ有効に機能してきた適応的なしくみだと考えられている。問題は、ヒューリスティックそのものではなく、現代の情報環境が、まれで劇的な出来事を選択的に増幅して伝える傾向を持つために、本来は適応的なしくみが、日常のリスク評価とはずれた結果を生みやすくなっているという点にある。

非対称にはもうひとつの側面がある。心理学ではこれとは別に、楽観バイアスと呼ばれる現象が指摘されてきた。ネイル・ワインスタインが1980年の論文で示したように、人は一般に、好ましくない出来事が自分自身に起こる確率を、他人に起こる確率よりも低く見積もる傾向がある。この傾向を公園での不安に当てはめると、まれで劇的な出来事については強い不安をいだく一方、自分の子どもが日常的にありふれたけがをする確率については、他の子どもに比べて低いはずだという楽観が働き、結果として備えが手薄になる、という組み合わせが生じうる。恐ろしさ因子への敏感さと、日常的な出来事への楽観とが、同時に成り立つことがあるという点は、リスク認知の非対称を考えるうえで見落とされやすい論点である。

この楽観バイアスと、第4節で述べた利用可能性ヒューリスティックとは、一見すると矛盾するようにも見える。しかし両者は、対象とする出来事の種類が異なると考えれば整合的に理解できる。強い感情や具体的な描写をともなう、めったに起こらない出来事については利用可能性が優位に働き不安が強まる一方、日々くり返される、感情的な負荷の小さい出来事については、自分だけは大丈夫だろうという楽観が働きやすい。結果として、保護者の注意は、日常的にくり返される小さな危険への地道な備えよりも、まれで劇的な出来事への警戒に偏りやすくなる可能性がある。

慣れの効果も、この非対称に関わっている。同じ公園に何度も通ううちに、はじめは意識されていた小さな危険が、次第に意識の外に置かれていくことは自然な過程である。反対に、引っ越しなどではじめて訪れる公園では、実際の危険の大きさが変わらなくても、勝手が分からないぶん警戒が強まりやすい。磐田市に転入してきた家庭が、はじめて地域の公園を訪れる場面を考えると、慣れ親しんだ公園に対する評価と、はじめて訪れる公園に対する評価との間には、客観的な条件が同じであっても、心理的な差が生じうると考えられる。この差は時間の経過とともに小さくなっていくとされるが、その過程そのものについての実証的な検討は本稿の範囲を超える。

見慣れた危険日々の遊び頻度データ
図5毎日くり返される小さな危険は見慣れているがゆえに意識されにくく、まれな出来事は逆に重く扱われやすい。

6. リスクの社会的増幅——口コミと情報の伝わり方

ここまでは、個人の認知のなかで生じる非対称を中心に検討してきた。しかし、リスク認知は個人のなかだけで完結する過程ではない。ロジャー・カスパーソンらは1988年の論文で、リスクの社会的増幅(social amplification of risk)という枠組みを提示した。この枠組みでは、ある出来事に関する情報は、メディア、地域の人間関係、専門機関、行政などの複数の「増幅局」を経由して社会のなかを伝わっていく過程で、内容そのものが変化していないにもかかわらず、人々が受け取る意味や重大さの印象が強められたり、逆に弱められたりするとされる。技術的な評価としては小さいリスクが、社会的な過程を経て大きな不安として広がることもあれば、その逆に、実際には注意を要する事柄が、周囲で話題にならないために軽視されたままになることもありうる。

地域の子育てにおいても、この増幅の過程は日常的に働いていると考えられる。ある公園や遊具について、誰かが経験した出来事や見聞きした話が、保護者どうしの会話や地域の情報共有の場を通じて伝わるとき、伝わる過程で強調される部分と省かれる部分が生じうる。ひとつの出来事が繰り返し話題にのぼることで、その公園や遊具に対する印象が、実際の頻度や深刻さとは独立に強く形づくられていくことがある。これは、特定の場所や対象が、実質的な根拠の変化なしに「危ない」という評判を帯びる過程であり、いったん形成された評判は、個々の事実によって容易には修正されにくいとされる。

反対の方向の増幅も起こりうる。周囲の誰もある危険を話題にしなければ、実際には注意を要する事柄であっても、意識にのぼりにくくなる。たとえば、暑さや紫外線のように、目に見えず、その場ですぐには結果が現れない危険は、周囲で話題にならなければ、日々の習慣のなかで見過ごされやすい。社会的増幅の枠組みは、リスクが強調される方向だけでなく、リスクが弱められる方向、すなわち減衰(attenuation)の過程も扱っており、両者は表裏の関係にあると整理されている。

この枠組みから導かれる実践的な含意は、個々の保護者の判断力を云々することではなく、情報がどのような経路をたどって伝わるかという構造そのものに目を向けることの重要性である。特定の出来事の伝わり方が、実際の頻度や深刻さと乖離した印象を作り出しうるとすれば、標準化された情報を継続的に、誰もが同じ形で参照できるかたちで提供することが、増幅や減衰による偏りを和らげる一つの手がかりになると考えられる。この点は、第9節で磐田市の公園データベースの役割を検討する際に改めて取り上げる。

増幅の過程には、集団のなかでの意見の同調も関わっていると考えられる。ある不安が集団のなかで一度表明されると、他の成員がそれに同調しやすくなり、結果として集団全体の不安が、個々の成員が独立に判断した場合よりも強い方向にまとまっていくことがある。地域の子育てに関する話し合いの場やオンライン上のやり取りにおいても、同様の力学が働きうる。これは特定の集まりや媒体を問題視するものではなく、人が集団のなかで意見を形成する際に一般的に見られる傾向として理解されるべきものである。

こうした増幅・減衰の過程に対して、行政や公的な機関が提供する情報は、一定の役割を果たしうると考えられる。特定の個人の経験や伝聞に依拠した情報とは異なり、統一された基準にもとづいて収集・公開される情報は、地域や場所によらず同じ形式で参照できるという性質を持つ。磐田市がオープンデータとして公開する都市公園一覧のような取り組みは、口コミによる増幅・減衰とは別の経路で、公園に関する基本的な事実を確認できる手段を提供するものであり、リスクの社会的増幅の影響を緩和する一助となりうる。ただし、こうした公的データそのものも、更新の頻度や網羅する範囲に限りがあることには留意が必要である。

リスクの社会的増幅の枠組みは、不安を強める方向の増幅だけを扱うものではない。同じしくみを通じて、有益な情報が広く共有されることもある。ある公園の日陰の多さやベンチの配置、トイレの利用しやすさといった、過ごしやすさに関わる情報が、保護者どうしの会話を通じて伝わり、その公園への肯定的な評価が広がっていくことも、増幅の一形態として理解できる。増幅という言葉は、否定的な方向にだけ働くものではなく、地域のなかで有用な情報が共有され、蓄積されていく過程としても働きうるものである。

口コミ情報の伝わり方増幅・減衰
図6リスクの印象は、事実そのものだけでなく、情報が地域の中でどう伝わるかによっても強められたり弱められたりする。

7. 数値で安心させることの限界——リスク・リテラシーの視点

保護者の不安に対して、しばしば試みられる対応のひとつが、統計的な数値を示して安心してもらおうとするやり方である。たとえば、ある危険の発生確率が別の日常的な危険の発生確率より小さいことを示せば、不安は和らぐはずだという発想である。しかし、ここまで見てきた恐ろしさ因子・未知性因子や、感情に基づく速い判断の優位性を踏まえると、こうした数値による説明だけでは、不安は十分には和らがないことが多いと考えられる。数値そのものの大小よりも、制御できるか、見慣れているか、自分の意思で引き受けたものかといった質的な性質のほうが、主観的な安心・不安に強く関わっているためである。

ゲルト・ギーゲレンツァーは、人が確率や統計をどう理解し、誤解するかを扱う研究のなかで、専門家が提示する数値と、一般の人々がその数値を実際にどう解釈するかとの間には、しばしば大きな溝があることを論じている。同じ確率であっても、それがどのような基準集団に対する割合として示されるか、パーセントで示されるか実数で示されるかによって、受け取られ方が変わりうる。さらに、ある危険についてわずかでも「起こりうる」という情報が示されると、その確率の小ささにかかわらず、心理的には「ゼロではない」という事実そのものが強く意識され、数値の大小が判断にあまり反映されなくなることがあるとされる。

日本国内の研究者による整理としては、中谷内一也が2006年の著作『リスクのモノサシ』で、専門家によるリスク評価と、一般の人々によるリスク認知との間のずれを、日本社会の文脈に即して論じている。そこでは、専門家が重視する発生確率や被害規模といった技術的な指標と、一般の人々が重視する制御可能性や公平性、信頼といった社会的な指標とが、しばしば異なる基準で評価を導いていることが指摘される。数値を一方的に示すだけの説明が効果を持ちにくいのは、こうした基準のずれを埋めないまま、技術的な指標だけを提示しているためだと理解できる。

以上を踏まえると、不安を和らげるための情報提供のあり方についても示唆が得られる。単に「確率は低い」と数値で伝えるだけでなく、その危険がどのようなしくみで生じ、どのような対応によって備えられるのか、誰が管理し、何かあったときにどのような手順が取られるのかといった、制御可能性や理解可能性に関わる情報を合わせて示すことが、数値だけを示すよりも有効でありうる。これは、次節で扱う恐怖表現を避けた実践的な判断の枠組みとも関わる論点である。

数値の示し方そのものにも工夫の余地があるとされる。ギーゲレンツァーは、確率をパーセントで示すよりも、自然な頻度、たとえば「100人のうち何人」というかたちで示したほうが、人は直感的に理解しやすいと論じている。「発生確率は1パーセントである」という表現と、「1000人のうち10人に起こる」という表現は数学的には同じ内容を指すが、後者のほうが具体的な人数として想像しやすく、誤解を招きにくいとされる。加えて、ある危険についての情報を、その危険が「起こる」確率としてだけでなく、「起こらない」確率としても併記することは、プロスペクト理論が示す損失回避の傾向、すなわち同じ内容でも損失として提示されたほうが重く受け止められやすいという傾向を踏まえた工夫のひとつになりうる。

もっとも、こうした提示方法の工夫は、不安を完全に取り除くための手段ではなく、あくまで理解を助けるための補助的な手段として位置づけられるべきである。第2節から第6節で見てきたように、恐ろしさ因子・未知性因子への感受性や、感情にもとづく速い判断は、人の認知にとって根深いものであり、数値の見せ方を工夫しただけで解消されるとは限らない。数値による説明と、次節で述べる恐怖表現を用いない実践的な判断の枠組みとを組み合わせることが、より現実的な向き合い方だと考えられる。

中谷内一也の議論を踏まえると、数値による説明と、具体的な状況の説明とを組み合わせることが、単独の数値提示よりも有効でありうると考えられる。たとえば、ある危険についての確率を示すだけでなく、その危険がどのような条件で生じやすく、どのような兆候があれば注意すべきか、誰が普段その場所を見ているかといった、文脈に関する情報を合わせて示すことで、受け手は数値を自分の状況に結びつけて理解しやすくなる。数値と物語、統計と具体例は、対立するものではなく、互いを補うかたちで用いられるべきものだといえる。加えて、誰がその情報を伝えるかという点も、受け手の納得のしやすさに関わるとされる。日頃から地域の実情をよく知る立場の者が伝える情報は、同じ内容であっても、遠い存在からの一方的な数値提示よりも受け入れられやすい傾向があるといわれ、これは中谷内一也が指摘する信頼という社会的な指標の重要性とも重なる論点である。

数値の提示納得できる説明残る不安
図7確率の数値を示すだけでは不安は十分に和らがない。制御可能性や理解可能性に関わる情報が合わせて必要とされる。

8. 反論と限界——恐怖表現を避けた判断の枠組み

8.1 想定される反論

本稿の議論に対しては、少なくとも二つの反論が想定される。第一は、保護者の不安を「バイアス」や「非対称」として説明することが、保護者の判断力を軽んじ、あるいはその不安を根拠のないものとして退けているのではないか、という反論である。しかし、これは本稿の立場ではない。ギーゲレンツァーが強調するように、ヒューリスティックの多くは、情報が不完全な現実の状況のもとで有効に機能してきた適応的なしくみであり、恐ろしさ因子への敏感さや、まれな出来事への警戒それ自体は、進化的にも社会的にも根拠のある反応だと考えられている。本稿が示そうとしているのは、これらのしくみが誤りだということではなく、現代の情報環境のもとでは、実際の頻度分布とずれた結果を生みやすい条件がそろっているということである。

第二の反論は、心理学的な説明だけでは、実際にどの危険を避け、どの危険を受け入れるべきかという実践的な問いに答えられないのではないか、というものである。この点は正しい指摘である。本稿は、どの程度の危険であれば取り除くべきかという規範的な判断には踏み込まない。遊具の安全性の技術的な判断は遊具の管理者や国土交通省の指針に、健康や医学に関わる判断は医療機関に、それぞれ委ねられるべきものであり、本稿がそれらに代わって「これは安全」「これは危険」と断定することはない。本稿が提供できるのは、不安の感じ方の構造を理解したうえで、恐怖に駆られるのでも、数値だけで安心しようとするのでもない、第三の向き合い方を考える手がかりである。

8.2 避ける・備える・受け入れるという枠組み

以上を踏まえ、恐怖表現を用いずに実践的な判断を組み立てるための枠組みとして、避ける・備える・受け入れるという三つの対応を区別することを提案する。避けるとは、恐ろしさ因子・未知性因子がともに高く、かつ管理者や専門機関が明確に注意を促している事柄について、その指示に従って回避的な行動をとることを指す。備えるとは、発生しうることが分かっており、対応の方法も知られている事柄について、事前の準備によって影響を小さくすることを指す。日焼け止めや水分補給、服装の工夫、見守りの位置取りなどがこれにあたる。受け入れるとは、転倒やすり傷のように、子どもが自分で試し、失敗し、そこから学ぶという発達上の価値を持つとされる範囲の出来事について、過度に取り除こうとせず、起こりうるものとして向き合うことを指す。

この三分類は、恐ろしさ因子・未知性因子の高低を手がかりとしつつも、それだけで機械的に決まるものではない。同じ出来事でも、状況や子どもの年齢、その場の環境によって、避けるべきか、備えれば足りるか、受け入れてよい範囲かは変わりうる。したがって、この枠組みは固定的な判定基準ではなく、保護者が自分自身の不安を言語化し、何にどう対応するかを整理するための思考の道具として位置づけられる。個別の状況における具体的な判断は、状況をよく知る保護者自身と、必要に応じて関係機関との相談によってなされるべきものである。

この三分類のあてはめは、子どもの年齢や発達の段階によっても変わりうる。歩き始めたばかりの時期には、備える・避けるの比重が大きくなりやすく、就学前後になると、それまで避けるべきとされていた事柄の一部が、見守りのもとで受け入れる範囲に移っていくと考えられる。この移行の具体的な目安については、遊具ごとの対象年齢表示や、発達段階に応じた見守りのあり方を扱う当サイトの他の読みものが参考になる。本稿はあくまで、不安の感じ方の構造と、それを整理するための一般的な枠組みを示すものであり、年齢ごとの具体的な目安を定めるものではない。

対応意味公園に関わる例
避ける(avoid)管理者・専門機関の注意に従い回避する使用禁止テープが張られた遊具に近づかない
備える(prepare)起こりうる事柄に事前の準備で備える日焼け止め・水分補給・見守りの位置取り
受け入れる(accept)発達上の価値を持つ範囲の出来事と向き合う遊びのなかでの転倒やすり傷

付け加えておくと、「受け入れる」という区分は、安全のための取り組みを不要とすることを意味しない。国の指針にもとづく遊具の点検や、管理者による日常的な保守は、受け入れる範囲とされる出来事の背後でも継続的に行われているものであり、保護者の目に見えにくいところで、大きな破局につながりかねない危険をあらかじめ取り除く役割を担っている。受け入れるという対応は、そうした基盤の上に成り立つものであって、点検や保守の必要性を否定するものではない点を確認しておきたい。

三つの対応備えて臨む断定はしない
図8避ける・備える・受け入れるという三分類は固定の判定基準ではなく、不安を整理するための思考の道具である。

9. 磐田市の公園への示唆

以上の議論を、磐田市の都市公園を対象とする当サイトのデータベースに照らして考える。当サイトは磐田市の都市公園100園(磐田市オープンデータ「都市公園一覧」94園に、市の施設ガイドのみに掲載される6園を加えたもの)を対象としており、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園、法対象外の公園6園という構成になっている。第9地区に分かれた磐田市内で、園数の多い豊田地区(28園)、見付地区(21園)から、南部・向陽の各2園まで、地域による偏りもある。こうした種別・地区・面積・設備の有無といった情報は、磐田市オープンデータおよび市の施設ガイドにもとづき、当サイトが標準化されたかたちで示しているものである。

第6節で検討したリスクの社会的増幅の観点から見ると、こうした標準化された情報を、特定の公園に限らずすべての園について同じ形式で示すことには一定の意味があると考えられる。ある公園についての口コミや断片的な情報だけに頼ると、その公園の印象が、実際の状況とは無関係に強められたり弱められたりしやすい。それに対して、地区・種別・面積・トイレや砂場や遊具の有無といった基本情報を誰もが同じ形式で参照できる状態にしておくことは、未知性因子——その場所についてよく分からないという感覚——を和らげる方向に働きうる。たとえば、地区公園である安久路公園にはインクルーシブ遊具を含む複合遊具の記載があり、地区公園である兎山公園にはターザンロープやザイルクライムなど多様な遊具の記載があることを、当サイトは市の施設ガイドの記載として示すことができる。こうした具体的な情報は、漠然とした不安を、対象がはっきりした見通しに置き換える一助になりうる。

同時に、当サイトが現時点で示せることには明確な限界がある。当サイトの現地踏査(実際に歩いて確かめる調査)は2026年8月16日時点でまだ0園であり、遊具の設置状況や施設の有無といった記載は、磐田市オープンデータおよび市の施設ガイドに記載された情報にとどまる。見通しのよさ、遊具の実際の状態、日陰の量、地面の状態といった、現地でなければ確かめられない情報は、当サイトにはまだ反映されていない。これらは第3節で述べた未知性因子と直接関わる領域であり、標準化された基本情報を示すだけでは埋められない部分が残ることを、当サイトは正直に認めておく必要がある。踏査が進むにつれて、こうした経験的な情報が段階的に加わっていくことが今後の課題となる。

また、竜洋海洋公園のような水辺の施設を含む総合公園では、プールや親水プールといった水に関わる設備の記載があり、水に関する不安は恐ろしさ因子・未知性因子のいずれの点でも高くなりやすい対象である。こうした施設についても、当サイトが示せるのは市の施設ガイドに記載された設備の情報までであり、水深や監視の体制といった安全に直接関わる事柄については、施設の管理者・関係機関の案内を確認することが必要になる。当サイトの役割は、断定的な安全の保証ではなく、判断の前提となる基本情報を、地区や種別を問わず同じ形式で整理して示すことにあると位置づけられる。

設備の有無についても、当サイトはオープンデータ94園の集計にもとづく情報を示すことができる。トイレの記載がある園は69園、車いす対応トイレの記載がある園は34園、砂場の記載がある園は43園、遊具の記載がある園は64園であり、駐車場については市の施設ガイドの記載などから33園で確認できる。こうした設備の有無を園ごとに確認できることは、初めて訪れる公園についても、行く前にある程度の見通しを持てるようにする効果があると考えられる。管理課は磐田市都市整備課であり、施設の状態や個別の疑問については、当サイトの示す基本情報とあわせて、管理課に問い合わせることができる。

第2節で確認した未知性因子の観点からは、磐田市内の9地区で公園の数に偏りがあることも、示唆を持ちうる論点である。豊田地区(28園)や見付地区(21園)のように公園数の多い地区に住む家庭は、身近な範囲で複数の公園を選び、慣れ親しんでいく機会が相対的に多いと考えられる一方、南部地区や向陽地区のように公園数が2園にとどまる地区に住む家庭では、選べる範囲が限られ、慣れない公園を訪れる機会が相対的に増えることも考えられる。これは公園そのものの安全性の違いを意味するものではないが、地区による公園数の差が、未知性因子を介して住民のリスク認知に間接的な影響を及ぼしうるという可能性を示すものであり、公園の配置を検討するうえでの一つの視点になりうる。当サイトが100園すべてについて同一の形式で情報を示すことは、地区ごとの公園数の差そのものを埋めるものではないが、少なくとも情報へのアクセスにおける差を小さくする方向には働きうる。

公園100園地区・種別の情報踏査はこれから
図9標準化された基本情報の提供は未知性因子を和らげうるが、現地踏査を経た経験的な情報は今後の課題として残る。

10. 結論と今後の課題

本稿は、保護者が公園でいだく不安の大きさが、実際に起こりやすい出来事の大きさと必ずしも一致しないという出発点から、心理学のリスク認知研究を手がかりに、そのずれが生じるしくみを整理してきた。心理測定パラダイムの恐ろしさ因子・未知性因子は、統計的な発生確率とは独立に主観的なリスクの大きさを左右する質的な性質を示し、利用可能性ヒューリスティックは、こうした性質の高い出来事が思い出されやすくなることで、頻度の判断そのものをゆがめる経路を示した。プロスペクト理論や感情にもとづく判断の研究は、確率がごく小さい出来事が過大に、日常的な出来事が過小に扱われやすいという非対称を説明し、リスクの社会的増幅の枠組みは、この非対称が個人の内部だけでなく、地域や情報の伝わり方を通じても強められたり弱められたりすることを示した。

これらの知見から導かれる実践的な含意は、単純ではない。数値による説明だけでは不安は十分に和らがず、かといって不安をそのまま放置することが望ましいわけでもない。本稿が提案したのは、避ける・備える・受け入れるという三分類を、恐怖表現を用いずに状況を整理するための思考の道具として用いることである。この枠組みは、何が「正しい」対応かを一律に決めるものではなく、保護者が自分自身の不安の性質を見きわめ、管理者や医療機関、関係機関の案内と照らし合わせながら判断するための出発点として位置づけられる。

本稿にはいくつかの限界がある。第一に、本稿で扱った心理学の知見の多くは、日本国内の公園という文脈に固有の実証研究ではなく、一般的なリスク認知研究にもとづくものであり、磐田市の保護者が実際にどのような不安をどの程度いだいているかについての独自の調査は行っていない。第二に、恐ろしさ因子・未知性因子と公園の具体的な出来事との対応づけは、本稿による理論的な整理であって、実証的に検証されたものではない。第三に、避ける・備える・受け入れるという三分類は、本稿が提案する思考の枠組みであり、確立された学術的な分類として提示しているものではない。これらの点は、今後の課題として明示しておく。

今後の課題としては、次の三点が挙げられる。第一に、当サイトの現地踏査が進むにつれて、見通しのよさや遊具の状態といった、未知性因子に直接関わる経験的な情報を、当サイトのデータベースにどう反映していくかを検討する必要がある。第二に、本稿は倫理学の観点から危害原理やリスキープレイを論じる別稿、疫学の観点から傷害の発生を論じる別稿、発達心理学の観点から遊びの価値を論じる別稿と接続しうる主題を扱っており、それらとの関係をより体系的に整理することが考えられる。第三に、保護者の不安の伝わり方そのもの、すなわち地域の情報共有の場がリスク認知にどう関わっているかについては、本稿では概念的な検討にとどまっており、実証的な検討は今後の課題として残される。

公園という身近な場所をめぐる不安は、個々の保護者の性格や判断力の問題としてではなく、多くの人に共通する認知のしくみと、情報が伝わる社会的な過程との組み合わせとして理解できる部分が大きい。この理解が、保護者自身が自分の不安をふり返る手がかりになるだけでなく、公園を整備し管理する行政の担当者が住民の声を受け止める際の視点として、また地域で子どもの育つ環境を考える人々や、まちづくりを学ぶ学生が公園という場を捉え直す視点として、何らかの役立ち方をすることを本稿は期待している。

最後に確認しておくと、心理学の知見だけで公園をめぐる不安のすべてが説明し尽くされるわけではない。個々の家庭の事情、地域の歴史、子ども自身の気質など、本稿が扱わなかった要因も、保護者の不安の形成には関わっているはずである。本稿は、そうした多様な要因のなかから、リスク認知という一つの心理学的な切り口に絞って論じたものであり、他の学問領域からの検討と組み合わされることで、より立体的な理解に近づいていくと考えられる。恐怖に急かされるのでも、数値だけで安心しようとするのでもなく、自分がいだく不安がどのようなしくみで生じているかを知ったうえで公園に向き合うこと。それが、本稿がリスク認知の心理学から導き出す、ささやかだが実践的な結論である。

参考文献

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  15. 中谷内一也(2006)『リスクのモノサシ——安全・安心生活はありうるか』(NHKブックス)
  16. 消費者庁「子どもの事故防止」
  17. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  18. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  19. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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