社会科学多文化共生論
多言語の公園——外国につながる住民と公共空間の共同利用
要旨
本稿の目的は、多文化共生論の枠組みを用いて、公園という公共空間が国籍や母語の異なる住民によって共同で使われるための条件を明らかにすることである。多文化共生は、1990年代の地域現場の実践のなかで使われはじめ、2006年の総務省「多文化共生の推進に関する研究会報告書」および「地域における多文化共生推進プラン」を経て行政用語として定着した概念である。しかしその議論は、日本語教育・相談窓口・防災といった制度的な領域に厚く、公園のような日常の屋外空間を主題としたものは多くない。
方法は文献整理と概念分析である。第一に、同化主義・多文化主義・相互文化主義という三つのモデルを対比し、公共空間の共同利用がどの前提に立つかを整理する。第二に、公園で生じる困りごとを、言語障壁・情報アクセス・慣習の差異という三層に分解する。第三に、バーベキュー・球技・大人数の集まり・音量といった、しばしば「文化の違い」として語られる摩擦の典型を取り上げ、それを文化差の問題としてのみ説明することの誤りを示す。摩擦の多くは、ルールが書かれていない、書かれていても読めない、代わりの場所がない、就労形態によって利用時間が偏る、といった言語的・情報的・構造的な条件から生じており、そこに介入する余地があるからである。
検討の結果、共同利用を成り立たせる条件として、禁止の羅列ではなく「何ができるか」を含むルールの可視化、優先順位をつけた翻訳、やさしい日本語という三つの手段が有効であり、加えてルールを決める場に当事者が加わることが必要であるという見通しを得た。単に同じ場所に居合わせるだけで相互理解が進むとは限らないという、接触に関する古典的な議論もあわせて確認する。
最後に、磐田市の都市公園100園——うち街区公園51園、地区別では豊田28園・見付21園など——に照らし、徒歩圏の小さな公園こそが共同利用の主な舞台であること、掲示の言語や図記号の有無は当サイトの今後の踏査で確かめるべき項目であることを述べる。当サイトの現地踏査はまだ始まっておらず、本稿は文献と公開資料にもとづく見通しである。
キーワード多文化共生公共空間やさしい日本語言語景観ルールの可視化接触仮説磐田市
1. はじめに——問題の所在
公園は、誰にでも開かれた場所であるとされる。入場料はいらない。会員証も予約もいらない。都市公園法(昭和31年法律第79号)にもとづいて市町村が設け、管理する施設であり、住民登録の有無も国籍も問われない。この「誰にでも」という性質は、公園を語るときにほとんど無条件の前提として置かれてきた。
しかし、その前提を少しだけ疑ってみる価値がある。公園に入るのに資格はいらないが、公園を使いこなすには、いくつかの見えない条件が要る。入口の看板に何が書いてあるか読めること。ここで何をしてよく何をしてはいけないかを、どこかで知っていること。声をかけられたときにやりとりができること。そして、まわりの人が「ふつう」と思っている振る舞いの幅を、おおよそ共有していること。これらはすべて、言語と情報と慣習に関わる条件である。同じ言葉を話し、同じ地域で育った人どうしの間ではほとんど意識されないため、条件として見えない。
外国につながる住民——外国籍の人、日本国籍だが海外で育った人、家庭で日本語以外の言語を使う子どもなど——にとって、この見えない条件はしばしば見えるかたちで立ち現れる。看板の漢字が読めない。禁止事項の掲示が回覧板や学校のおたよりに載っていたことを知らない。「ここは球技禁止です」と言われても、なぜ禁止なのか、どこなら許されるのかが分からない。そして、そうした行き違いは、当事者にも周囲の住民にも、しばしば「文化の違い」という一語で説明されてしまう。
1.1 本稿の問い
本稿の問いは三つである。第一に、日本で「多文化共生」と呼ばれてきた政策概念は、公共空間の何を問題にしてきたのか。第二に、公園で観察される困りごとや摩擦は、どの層——言語・情報・慣習・構造——に由来するのか。第三に、国籍や母語の異なる住民が同じ公園を共に使うために、どのような条件を整えればよいのか。この三つ目の問いは、単に「多言語の看板を立てればよい」という答えでは終わらない。翻訳には対象言語の選択という問題があり、そもそも何を翻訳すべきかという問題があり、さらに、ルールそのものを誰が決めたのかという問題があるからである。
1.2 方法と、本稿が扱わないこと
方法は文献整理と概念分析である。総務省の多文化共生に関する報告書と推進プラン、日本語教育の推進に関する法律(2019)、出入国在留管理庁と文化庁による「在留支援のためのやさしい日本語ガイドライン」(2020)といった公的資料に加え、キムリッカの多文化的市民権論(1995)、オルポートの偏見研究(1954)、ハーバーマスの公共性論(1962)、ジェイコブズの都市論(1961)、オストロムの共有資源の統治に関する研究(1990)など、公共空間と集団間関係をめぐる古典を参照する。
本稿が扱わないことを、あらかじめ明記しておく。第一に、特定の国籍・民族の集団に、特定の振る舞いを結びつける記述はしない。そうした記述は、たとえ好意的な意図で書かれたとしても、集団全体への先入観を強める働きをするからである。第二に、磐田市に居住する外国籍住民の人数や国籍構成といった数値には立ち入らない。当サイトが根拠として示せる公開資料の範囲を超えるためであり、根拠のない数値を書かないことは本シリーズ全体の方針でもある。第三に、本稿は現地調査にもとづくものではない。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園を収録するデータベースであるが、現地踏査はまだ始まっておらず、掲示の言語や図記号の有無といった論点は、すべて今後の踏査で確かめるべき課題として提示するにとどめる。
註:本稿では、外国籍の住民、日本国籍を取得した人、国際結婚家庭の子ども、海外で長く育った人などを広く含む語として「外国につながる住民」を用いる。国籍という法的な区分と、言語や生活習慣という実際上の区分は一致しないため、後者を含みうる表現を選んだ。
1.3 本稿の構成
第2節で多文化共生という語の来歴と関連する研究群を整理する。第3節で同化主義・多文化主義・相互文化主義という三つのモデルを対比し、公共空間の共同利用がどのモデルに立つかを検討する。第4節から第6節で、言語障壁・情報アクセス・慣習の差異という三層を順に論じる。第7節で公園における摩擦の典型を取り上げ、それを文化差だけで説明することの誤りを示す。第8節でルールの可視化・翻訳・やさしい日本語という三つの手段と、当事者の参加という条件を論じる。第9節で想定される反論に応答し、他の場所との比較を行う。第10節で磐田市の公園への示唆を述べ、第11節で結論と今後の課題を示す。読者としては、磐田市周辺の子育て世代、行政や地域活動の関係者、公園や地域社会に関心をもつ学生を想定し、専門用語は初出のたびに説明する。
2. 「多文化共生」という語の来歴と先行研究
「多文化共生」は、学問の内部で生まれた術語ではなく、地域の現場から立ち上がって行政に採り入れられた語である。1990年代、日本各地で外国籍住民の定住が進むなかで、自治体や国際交流協会、支援団体が、日本語教室・生活相談・災害時の情報提供といった実務を積み重ねた。そこで用いられた言葉が、2006年の総務省「多文化共生の推進に関する研究会報告書」と、同年の「地域における多文化共生推進プラン」によって、全国の自治体が参照する政策概念として位置づけられた。同プランは2020年に改訂されている。
この報告書における多文化共生の定義は、おおむね次のような趣旨で述べられている。国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的な違いを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員としてともに生きていくこと。ここで注目すべきは二点である。第一に、「対等な関係」という語が入っていること。支援する側とされる側という非対称を、定義の内側で戒めている。第二に、「地域社会の構成員」という語が入っていること。多文化共生は、外国人施策であると同時に、地域社会そのものの設計の問題として立てられている。
2.1 政策の展開
2006年以降の展開を簡単に押さえておく。2018年、外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議が「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」をまとめ、生活者としての外国人への支援を政府全体の課題として位置づけた。2019年には「日本語教育の推進に関する法律」が成立し、日本語教育の機会の確保が国と地方公共団体の責務として書き込まれた。2020年には出入国在留管理庁と文化庁が「在留支援のためのやさしい日本語ガイドライン」を公表し、行政が発する情報を平易な日本語で書き換えるための考え方と手順が示された。
これらの制度整備が主に対象としてきたのは、在留手続、就労、教育、医療、防災、相談窓口といった領域である。いずれも、制度への接続点が明確で、担当部署が特定できる領域だといえる。これに対して公園は、担当部署はあるものの(磐田市では都市整備課が管理課である)、そこで起きることの大半は制度への接続点をもたない。誰かが日常的に立ち寄り、遊び、休み、そして時に行き違う。多文化共生の議論が公園を主題としてこなかったのは、公園がこうした「制度の隙間」にあるからだと考えられる。
2.2 参照する研究群
本稿が参照する研究群は三つの系統に分かれる。第一は、多文化主義の政治理論である。ウィル・キムリッカ『多文化時代の市民権』(1995)は、自由主義の枠内で少数集団の権利をどう位置づけるかを論じ、個人の自由と集団の文化の関係を整理した。この議論は、公共空間において「誰の慣習を標準とするか」という問いに直接つながる。
第二は、集団間関係の社会心理学である。ゴードン・オルポート『偏見の心理』(1954)は、異なる集団の成員が接触すれば偏見が減るという素朴な期待に対し、接触が良い効果をもつには条件があると論じた。対等な地位、共通の目標、協力関係、そして制度的な支持である。単に同じ場所に居合わせるだけでは足りない、というこの指摘は、公園という「たまたま居合わせる場所」を考えるうえで重要な留保になる。
第三は、公共空間論そのものである。ハーバーマス『公共性の構造転換』(1962)は、公共性を議論の空間として捉えた。ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』(1961)は、歩道と公園における匿名の見守りと、その前提としての多様な用途の混在を論じた。ゴッフマン『集まりの構造』(1963)は、公共の場で人が互いに無関心を装いながら気配りをするという振る舞いの規則を記述した。ゴッフマンの言う「儀礼的無関心」——見知らぬ人を視野に入れつつ、じろじろ見ないという作法——は、まさに慣習として学習されるものであり、その作法が共有されていないときに何が起きるかは、本稿の第6節の主題である。
これらに加え、オルデンバーグの第三の場所論(1989)とオストロムの共有資源の統治に関する研究(1990)を、それぞれ第9節と第8節で用いる。前者は公園が家庭でも職場でもない場所としてもつ性質を、後者は利用者が自らルールを作り運用する条件を考えるための枠組みである。
3. 三つのモデル——同化・多文化主義・相互文化主義
国籍や母語の異なる住民が同じ社会で暮らすとき、その関係をどう構想するかについては、大きく三つのモデルが区別されてきた。同化主義、多文化主義、そして相互文化主義である。この三つは歴史的に順に現れた面もあるが、現在はいずれも生きた選択肢として並存している。公園という具体的な場所を論じる前に、この対比を押さえておきたい。どのモデルに立つかによって、看板に何を書くべきか、誰が誰に何を求めるべきかという実務上の答えが変わるからである。
3.1 同化主義
同化主義(アシミレーション)は、受け入れ側の社会の規範・言語・生活様式に、新しく来た人が合わせることを求める考え方である。この立場からすれば、公園の課題は単純である。日本の公園の使い方を覚えてもらえばよい。看板は日本語のままでよく、必要なのは日本語教育である。この立場の強みは、共通の基盤が明確になることにある。誰もが同じルールを読めるなら、調整のコストは小さい。
弱点は二つある。第一に、時間がかかること。言語の習得には年単位の時間が必要であり、その間、公園は使えないままなのかという問いに答えられない。第二に、非対称であること。合わせる負担が一方の側にのみ課され、受け入れ側は何も変えなくてよい。多文化共生の定義が「対等な関係」を書き込んだのは、この非対称を戒めるためであった。
3.2 多文化主義
多文化主義(マルチカルチュラリズム)は、集団ごとの文化的な差異を承認し、その維持を支える制度を設けようとする考え方である。キムリッカは、少数集団に固有の権利を認めることが、個人の自由と矛盾しないどころか、個人が自分の文化的な背景のなかで選択を行うための条件になりうると論じた。公園に引き直せば、多言語の掲示、母語による情報提供、特定の集団が集まりやすい時間帯や場所の確保といった措置が、この立場から導かれる。
弱点は、差異を強調しすぎると集団の境界が固定化されうる点にある。「あの人たちはああいう使い方をする」という説明は、承認のつもりであっても、個人の多様性を覆い隠す。同じ国から来た人どうしでも、年齢・職業・在住年数・家族構成によって公園の使い方はまるで違う。集団を単位に語ることには、この単純化の危険が常につきまとう。
3.3 相互文化主義
相互文化主義(インターカルチュラリズム)は、差異の承認にとどまらず、集団のあいだの実際の接触と対話を重視する。欧州評議会が進めるインターカルチュラル・シティの取り組みは、この立場に立つ都市政策の例として知られる。ここでの関心は、多様性を「管理する」ことよりも、多様性が日常的に交わる回路を都市の空間と制度のなかに用意することにある。
公園はこの立場ともっとも相性がよい。公園は契約も所属も必要とせず、退出が自由で、滞在時間が短くてよい場所である。深い相互理解を要求せずに、薄い接触を反復できる。ただし第2節で見たオルポートの留保を忘れてはならない。接触が良い効果をもつには条件がある。ただ居合わせるだけでは、既にある印象が強化されるだけということもありうる。
| モデル | 誰が合わせるか | 公園での現れ方 | 主な限界 |
|---|---|---|---|
| 同化主義 | 新しく来た側 | 日本語の掲示のみ、日本語教育で対応 | 負担が一方的、習得までの時間に無策 |
| 多文化主義 | 受け入れ側も制度を整える | 多言語掲示、母語での情報提供 | 集団の境界が固定化しやすい |
| 相互文化主義 | 双方が接触のなかで調整 | 共同の場づくり、ルールを一緒に決める | 接触が成果を生む条件が別に必要 |
本稿は相互文化主義に近い立場をとるが、他の二つを否定するものではない。共通の基盤としての日本語の重要性(同化主義が正しく捉えた点)と、情報を届けるための翻訳の必要(多文化主義が正しく捉えた点)は、いずれも実務上不可欠である。三つのモデルは択一の関係ではなく、場面ごとに配分を変えるべき要素と考えるのが実際的である。公園という場面では、接触の回数が多く、一回あたりの関わりが浅いという特性から、相互文化主義の比重を高めに置くのが合理的だ、というのが本稿の見立てである。
4. 第一層——言語障壁と公園の言語景観
公園における困りごとの第一層は言語である。ここでいう言語障壁とは、必要な情報が特定の言語でしか提示されておらず、その言語を十分に解さない人が情報から遮断される状態を指す。単に「日本語が分からない」という個人の属性の問題ではなく、情報の提示のされ方という環境の側の性質である点が重要である。段差が車いす利用者にとって障壁になるのと同じ意味で、単一言語の掲示は障壁になりうる。
4.1 公園の言語景観
都市の看板・標識・掲示が織りなす言語の風景を、言語学では言語景観と呼ぶ。駅や空港では多言語表示が進んだ一方、住宅地の小さな公園の言語景観は、いまも日本語単独であることが一般的だと考えられる。しかも公園の掲示に用いられる日本語は、日常会話の日本語とはかなり性質が異なる。「禁止」「遵守」「近隣住民」「迷惑行為」「原状回復」といった漢語が並び、文末は「〜しないでください」ではなく「〜はご遠慮ください」という婉曲表現になることが多い。
この婉曲表現は、日本語を学習中の人にとって難易度が高い。「ご遠慮ください」が禁止を意味することは、辞書的な語義からは導きにくいからである。同様に「〜しないようお願いします」「〜は控えてください」「〜にご配慮ください」といった表現も、字面と実際の強さが一致しない。掲示の書き手は、丁寧さを尽くしたつもりで、結果として意味の伝達を弱めていることになる。
4.2 声かけの非対称
掲示が読めない場合、次に働くのが口頭の伝達である。近隣の住民や他の利用者が「ここではボール遊びはできないんです」と声をかける。このやりとりは、双方が同じ言語を十分に扱えるときには、掲示よりもはるかに効果的である。理由を説明でき、例外を伝えられ、代わりの場所を教えられるからである。
しかし言語が共有されていないとき、この経路は逆に働きうる。注意する側は自分の意図が伝わったかどうか確認できず、注意された側は何を求められたか分からないまま、相手の表情と声の調子だけを受け取る。結果として、双方に「感じの悪いやりとり」だけが残る。次からは声をかけない、あるいは公園に行かない、という回避が選ばれやすくなる。回避は摩擦を減らすように見えて、実際には接触の機会そのものを削り、相互理解の余地を狭める。
4.3 子どもが通訳者になるということ
家庭で日本語以外の言語を使う世帯では、学校に通う子どもが親より早く日本語を身につけ、家族のために通訳の役割を担うことがある。この現象は言語仲介と呼ばれ、当事者にとって誇りにも負担にもなりうるという研究群がある。公園という場面でも、遊びに来た子どもが、親と近隣住民のあいだの通訳を求められる場面が生じうる。
ここには二つの問題がある。第一に、通訳の内容がしばしば苦情や注意であること。子どもが親への注意を訳すという構図は、親子関係にも子どもの心理にも負荷をかけうる。第二に、通訳ができる子どもがいない世帯——就学前の子どもしかいない世帯、子どものいない世帯——は、この経路からも漏れること。子どもに依存した伝達は、届く先が偏る。
4.4 多言語化の限界
では、掲示をすべて多言語にすればよいか。ここには実務上の限界がある。第一に、対象言語の選定である。地域に暮らす人の母語は一つや二つではなく、何語を選んでも漏れる人がいる。第二に、更新のコストである。掲示の内容が変わるたびに全言語を作り直す必要があり、翻訳されないまま古い版が残る危険がある。第三に、面積の問題である。小さな公園の看板に五言語を並べれば文字は小さくなり、結果としてどの言語でも読みにくくなる。
したがって多言語化は、翻訳すべき情報に優先順位をつけたうえで用いるべき手段である。何を最優先で訳すかという問いは、次節で扱う情報アクセスの問題と直結する。そして多言語化と並行して、日本語そのものを平易にするという道がある。これが第8節で論じるやさしい日本語である。
5. 第二層——情報アクセスと、ルールの所在
第二の層は情報アクセスである。言語障壁が「読めない」問題であるのに対し、情報アクセスは「そもそもどこに書いてあるのか分からない」問題である。この二つは重なるが同じではない。日本語を母語とする住民であっても、自分の近所の公園のルールがどこに掲示されているか、正確に答えられる人は多くないだろう。公園のルールは、一か所にまとまって存在していないからである。
5.1 ルールの四つの層
公園における「してよいこと・いけないこと」は、少なくとも四つの層に分かれて存在する。第一に法令。都市公園法とその施行令、および市の都市公園条例が、公園の設置管理と行為の制限を定める。第二に、管理者である市が個別の公園に出す掲示。第三に、自治会や町内会が地域の事情に応じて申し合わせた慣行。第四に、明文化されないまま利用者のあいだで共有されている了解である。
この四層は、明文性の度合いも、参照のしやすさも、変更の手続きもばらばらである。法令は公開されているが読みにくい。市の掲示は現地にあるが更新の履歴が見えない。自治会の申し合わせは回覧板や集会で共有され、そこに接続していない人には届かない。第四層に至っては、存在自体が言語化されない。外から来た住民が最初につまずくのは、多くの場合この第三層と第四層である。
5.2 情報の入口が限られるということ
地域情報の主要な入口が、自治会の回覧板、学校からのおたより、公民館の掲示板といった経路にあるとき、その経路に接続していない世帯には情報が届かない。集合住宅に短期間だけ住む世帯、自治会に加入していない世帯、就学前の子どもしかいない世帯、夜勤を含む勤務のために日中の集まりに参加できない世帯などが、これに当たる。これは国籍の問題ではなく、接続の問題である。日本語を母語とする転入世帯にも同じことが起きる。
この点は重要である。情報アクセスの課題を「外国人の課題」として切り出すと、対策は外国人向けの窓口や翻訳に限定されがちになる。しかし実際には、転入直後の世帯、単身の若年層、高齢の単身世帯など、多くの人が同じ構造の下にいる。情報の入口を増やすという対策は、外国につながる住民にとって不可欠であると同時に、地域全体にとっても効果をもつ。
5.3 情報を「場所に置く」
情報を届ける方法として、公園という場所そのものに情報を置くことの意義を確認しておきたい。回覧板やウェブサイトは、受け取る側が接続していることを前提とする。これに対し、公園の入口の掲示は、その場所を使おうとする人に対して、接続の有無にかかわらず届く。到達範囲は狭いが、必要な人にはほぼ確実に届くという性質をもつ。
ただし、現地掲示にも条件がある。第一に、入口が複数ある公園では、どの入口からも見える必要がある。第二に、掲示の高さと位置が、子どもや車いす利用者の視線に入る必要がある。第三に、内容が古びていないこと。期間限定の情報——たとえば、市の施設ガイドには今之浦公園について、噴水を令和8年7月17日から9月23日まで運転するという趣旨の案内が記載されている——のような情報は、掲示の更新が滞ると、かえって誤解の元になる。こうした期間限定の情報こそ、翻訳からも更新からも漏れやすい。
5.4 開かれたデータという経路
第三の経路として、機械可読な形式で公開されたデータがある。磐田市は「都市公園一覧」をオープンデータとして公開しており、CC BY 3.0(出典表示を条件とする利用許諾)のもとで再利用できる。データが再利用可能であることは、市が自ら多言語版を作らなくても、第三者が翻訳版や地図版を作れることを意味する。当サイトが磐田市の公園100園——オープンデータの94行に、市の施設ガイドにのみ掲載されている6園を加えた総数——を収録できているのも、この公開のおかげである。
もっとも、オープンデータに含まれるのは、名称・種別・面積・トイレや遊具の有無といった属性であり、ルールや慣行は含まれない。「何ができるか」を伝えるには、現地の掲示と、それを写し取って構造化する作業が要る。当サイトの踏査が今後担うべきなのは、まさにこの部分である。
6. 第三層——慣習の差異と「ふつう」の非対称
第三の層は慣習である。慣習とは、明文化されないまま共有されている振る舞いの期待を指す。公園でいえば、どの時間帯に何人くらいで来るのが自然か、どのくらいの音量が許されるか、飲食をしてよいか、ある区画をどのくらいの時間占有してよいか、遊具の順番をどう待つか、ごみをどうするか、といった事柄である。これらの多くは掲示されていない。掲示されていないのは、その地域の人にとって当たり前だからである。
6.1 「当たり前」は普遍ではない
ここで確認しておきたいのは、日本の公園の暗黙のルールもまた歴史のなかで形成されたものであり、普遍的な規範ではないということである。たとえば、公園でのボール遊びに制限が広がったのは比較的近年のことであり、住宅の近接や器物の破損、苦情への対応の積み重ねの結果として定着してきた経緯がある。花見の宴会が広く許容される一方で、日常的な屋外での飲食や調理には抑制的であるという配分も、日本の都市公園に固有のものである。海外の都市公園では、公共のバーベキュー設備が備えられ、大人数の集まりが前提とされている例が珍しくない。
つまり、公園の使い方をめぐる「ふつう」は、その土地の住宅事情・気候・法制度・苦情処理の歴史が折り重なった結果である。それを知らずに来た人が別の使い方をするのは、規範に違反しているというより、別の規範を持ってきているということである。この認識に立つことは、相手を免責することではない。摩擦が生じているならば調整は必要である。しかし、調整を求める前提として、こちらの規範も一つの選択の結果であると自覚することが、多文化共生の定義にいう「対等な関係」の内実になる。
6.2 差異は集団間だけにあるのではない
慣習の差異を国籍のあいだの差異としてのみ捉えるのは、事実に反する。世代のあいだにも大きな差がある。かつて路地や空き地で遊んだ世代と、遊び場が公園に集約された後の世代とでは、屋外の音や球技に対する許容度が違う。地域のあいだにも差がある。同じ磐田市内でも、住宅が密集する地区と、農地に隣接する地区とでは、音や人数に対する感じ方が異なりうる。家族の形によっても違う。乳児を昼寝させたい世帯にとっての適切な音量と、小学生が思い切り走りたい世帯にとってのそれは一致しない。
この点を押さえると、公園における調整の課題は「日本人と外国人のあいだの調整」ではなく、「多様な期待をもつ利用者のあいだの調整」という一般的な問題の一部として立ち現れる。外国につながる住民が関わる摩擦が目立ちやすいのは、言語の壁のために調整の交渉が成立しにくく、また外見や話し言葉によって「よそから来た人」として可視化されやすいからである。摩擦の量ではなく、摩擦の見えやすさが違う。
6.3 儀礼的無関心という技法
ゴッフマンが『集まりの構造』(1963)で記述した儀礼的無関心——公共の場で他者の存在を認めつつ、じろじろ見ることを避け、相手を放っておくという作法——は、都市の公共空間を成り立たせる基本的な技法である。この技法は、無関心そのものではない。相手を見ていること、必要があれば助けることを前提としたうえで、干渉しないという二重の構えである。ジェイコブズが歩道の見守りとして描いたものも、これに近い。
問題は、この技法の細部が文化によって異なることである。どのくらいの距離まで近づいてよいか、目が合ったときに挨拶をするか、子どもに話しかけてよいか、他人の子どもの危ない行動に介入してよいか。これらの答えは一様ではない。ある社会では他人の子どもへの声かけが当然の親切であり、別の社会では越境と受け取られる。公園は子どもがいる場所であるだけに、この差異が表面化しやすい。
| 摩擦の説明水準 | 問いの立て方 | 対応の方向 |
|---|---|---|
| 言語(第一層) | 掲示や声かけが理解できているか | やさしい日本語、図記号、優先順位をつけた翻訳 |
| 情報(第二層) | ルールがどこにあるか分かるか | 現地掲示の整備、入口の複数化、開かれたデータ |
| 慣習(第三層) | 何が当たり前とされているか | 暗黙の期待の言語化、双方向の説明 |
| 構造(第四の視点) | 代わりの場所や時間があるか | 施設の配置、利用時間、代替空間の用意 |
この表の第四行に置いた「構造」は、本節までに扱ってきた三層とは性質が異なる。言語・情報・慣習が当事者のあいだの認識のずれに関わるのに対し、構造は、そもそも選べる選択肢の幅に関わる。次節では、この構造の視点を軸に、公園における摩擦の典型例を読み直す。
7. 摩擦の典型を読み直す——文化差に帰す説明の誤り
公園をめぐって語られる摩擦には、いくつかの定型がある。屋外での調理や火の使用、球技、大人数での集まり、音楽や話し声の音量、路上への駐車。これらはしばしば「文化の違い」という一語で説明される。本節の主張は、この説明が誤りであるということではなく、この説明「のみ」で済ませることが誤りだということである。文化差は説明の一部を占めるが、多くの場合、より扱いやすい他の要因が背後にある。
7.1 四つの代替説明
第一に、ルールが存在しないか、存在しても現地に書かれていないという可能性。屋外での火の使用は、消防に関する規制や市の条例、公園ごとの掲示によって扱いが異なる。禁止されている公園と、そうでない公園がある。現地に何も書かれていなければ、許されていると解釈するのは、むしろ自然な読みである。
第二に、代わりの場所がないという可能性。集合住宅の一室に複数の同僚が集まれば手狭であり、近隣への音の配慮も難しい。公民館や集会所は、予約の手続き、使用料、日本語での申請書、団体登録の要件といった参入障壁を伴うことがある。屋外の公園が選ばれるのは、他に開いている場所がないからだということが少なくない。この場合、必要なのは注意ではなく、使える場所の提示である。
第三に、時間の制約という可能性。交替制勤務や夜勤を含む働き方では、家族や仲間が揃うのが夜間や休日に限られる。集まりが夜に寄るのは、好みではなく時間割の結果である。この点は、公園の照明の有無、夜間の利用に関する掲示、近隣住宅との距離といった、空間側の条件と組み合わせて考える必要がある。
第四に、人口構成という可能性。単身の若年層が多い地域では、屋外の集まりの規模と頻度が上がりやすい。これは国籍とは独立の効果であり、学生の多い地域でも同じことが起きる。年齢構成という変数を無視して国籍だけを見ると、相関を因果と取り違えることになる。
7.2 可視性のバイアス
同じ行為であっても、誰がしたかによって受け止め方が変わることがある。深夜に高校生の集団が騒いだ場合、それは「若い子たちが騒いでいる」と個別の出来事として処理されやすい。同じ行為が、見た目や話す言葉によって「外から来た人」と識別される集団によってなされた場合、それはしばしば集団の属性に帰属される。社会心理学では、個人の行動をその人の属する集団の性質に結びつけて説明する傾向が広く報告されており、少数派の側でこの傾向が強く働くことが知られている。
この非対称は、苦情の集計にも影響する。苦情として上がるかどうかが、行為そのものだけでなく、行為者が識別されやすいかどうかに左右されるならば、苦情の件数はそのまま実態を反映しない。行政や自治会が把握する情報は、この選別を経たあとのものである。データを読むときには、この点への注意が要る。
7.3 苦情の経路という問題
摩擦が起きたとき、それがどの経路をたどるかも重要である。経路は大きく三つある。当事者どうしの直接のやりとり、自治会など中間的な組織を介したやりとり、そして行政や警察への通報である。第一の経路は、うまくいけば関係を育てるが、言語が共有されていなければ成立しにくい。第三の経路は、確実に処理されるが、当事者のあいだには何も残らず、しばしば掲示の追加という形で決着する。
第三の経路のみが機能する状態が続くと、公園の掲示は禁止事項を増やしていく。禁止の追加は、苦情を申し立てた側にも、申し立てられた側にも、そして無関係な利用者にも作用する。ボール遊びの禁止は、外国につながる子どもにも、地元の子どもにも等しく及ぶ。摩擦の処理の仕方が、公園そのものの使い勝手を規定していく。
したがって、第二の経路——中間的な組織や、双方の言語を扱える人が介在する経路——を厚くすることに、実務上の価値がある。自治会、国際交流の団体、学校、企業の寮の管理者などが、この位置に立ちうる。誰がその役を担えるかは地域によって異なり、当サイトが磐田市について答えを出せる段階にはない。ただ、公園の摩擦を「掲示を増やすか、我慢するか」の二択にしないためには、この中間の経路が要るという構造は指摘しておきたい。
8. 設計としての対応——可視化・翻訳・やさしい日本語
前節までに、公園の摩擦が言語・情報・慣習・構造の四つの水準にまたがることを見た。本節では、そのうち介入しやすい部分について、具体的な手段を三つ検討する。ルールの可視化、優先順位をつけた翻訳、やさしい日本語である。そのうえで、これら三つを支える条件として、ルールを決める場への当事者の参加を論じる。
8.1 可視化——禁止ではなく「できること」を書く
公園の掲示は、禁止事項の列挙になりがちである。しかし、禁止の列挙には二つの欠点がある。第一に、書かれていない行為の扱いが分からないこと。禁止リストが長いほど、リストにない行為も禁止ではないかという萎縮が生まれる。第二に、代替の提示がないこと。ボール遊びを禁じる掲示は、どこでならボール遊びができるかを教えない。
これに対し、できることを書く方式——ここでは仮に肯定的な提示と呼ぶ——には、利点がある。「ここは小さい子が遊ぶ広場です。やわらかいボールなら使えます」という書き方は、禁止の範囲を示しながら、同時に使い方を提案する。多言語化する場合にも、肯定的な提示のほうが翻訳しやすい。禁止表現は婉曲になりやすく、翻訳で強度がぶれるからである。
図記号(ピクトグラム)の併用も可視化の手段である。日本では案内用図記号が日本産業規格として整備され、公共施設で広く使われている。図記号は言語に依存しないという利点をもつが、万能ではない。記号の解釈も学習によって成り立つからであり、見慣れない記号は意味を伝えない。図記号は、短い文と組み合わせてはじめて機能すると考えるべきである。
8.2 翻訳——何を先に訳すか
翻訳は、対象を絞ることで実行可能になる。優先順位を考えるうえでの基準は、誤解したときの損害の大きさと、当事者が自力で回避できるかどうかである。この基準からすれば、優先順位の高いものから順に、危険に関わる情報(水辺や高低差、遊具の対象年齢の表示、閉鎖中の設備)、次に法令や条例にもとづく制限(火の使用、車両の乗り入れ)、次に近隣との関係に関わる事項(音、時間帯)、最後に案内的な情報(設備の場所、開放時間)となるだろう。
機械翻訳の利用可能性についても触れておく。近年、携帯端末での機械翻訳は身近になり、掲示を撮影して訳すことも容易になった。ただし、機械翻訳は前後の文脈のない短い掲示を苦手とし、婉曲表現や省略の多い日本語では誤りが生じやすい。裏を返せば、掲示の日本語を平易で明示的に書くことは、機械翻訳の精度を上げることでもある。翻訳の準備は、原文の側から始まる。
8.3 やさしい日本語
やさしい日本語とは、日本語を母語としない人にも伝わるように、語彙と文構造を調整した日本語を指す。出入国在留管理庁と文化庁が2020年に公表した「在留支援のためのやさしい日本語ガイドライン」は、行政が発する情報を書き換えるための考え方を示している。原則としてよく挙げられるのは、一文を短くすること、一つの文に一つの内容だけを入れること、二重否定や婉曲表現を避けること、難しい語を日常の語に言い換えること、必要に応じてふりがなを付けること、文節の区切りを分かち書きなどで示すことである。
やさしい日本語の利点は、対象言語を選ばずに済むことにある。日本語を学習中の人であれば、母語が何であっても届く可能性がある。さらに重要なのは、その効果が日本語を母語とする人にも及ぶことである。読み書きに困難のある人、知的障害のある人、聴覚に障害があり日本語の書き言葉に慣れていない人、そして幼い子ども。平易な日本語は、これらの人にも読める。多言語化が特定の集団への対応であるのに対し、やさしい日本語はより広い設計思想に接続する。
8.4 誰がルールを決めるか——オストロムの設計原理
手段をどれだけ整えても、ルールの内容そのものが一方の側だけで決められているなら、対等な関係は成り立たない。エリノア・オストロムは、漁場・牧草地・灌漑用水といった共有資源が、私有化にも国家管理にもよらず、利用者自身の取り決めによって長く維持されてきた事例を分析し、そこに共通する設計原理を抽出した(1990)。挙げられているのは、利用の境界が明確であること、規則が現地の条件に合っていること、規則に影響を受ける人が規則の変更に参加できること、監視が行われること、違反への制裁が段階的であること、安価な紛争解決の場があること、自治の権限が外部から否定されないことなどである。
この原理を公園に当てはめると、示唆は明確である。第一に、規則に影響を受ける人——その公園を使う人すべて——が規則の見直しに関われること。ワークショップや懇談の場が日本語のみで運営されるなら、この条件は満たされない。第二に、制裁が段階的であること。最初の行き違いに対していきなり全面禁止の掲示を出すのは、この原理に反する。第三に、安価な紛争解決の場があること。前節で述べた中間的な経路が、これに当たる。
オストロムの研究は農漁業の共有資源を対象としたものであり、都市公園にそのまま適用できるわけではない。公園は利用者の入れ替わりが激しく、境界のなかにいる人を特定できないという点で、伝統的なコモンズとは条件が異なる。それでも、規則の正統性を、規則の内容ではなく規則の作られ方に求めるという発想は、公共空間の共同利用を考えるうえで有効である。
9. 反論への応答と、他の場所との比較
本節では、ここまでの議論に対して当然に予想される反論を四つ取り上げ、順に応答する。そのうえで、学校・職場・商業施設・宗教施設といった他の場所と公園を比較し、公園という場所の固有の位置を確認する。
9.1 反論1——理想論より、まずルールを守らせるべきだ
第一の反論はこうである。共生や対話は結構だが、現に迷惑が生じているのだから、まずルールを守ってもらうことが先ではないか。この反論には正当な部分がある。実害が生じているとき、その解消は待てない。しかし、順序の問題として見れば、遵守は伝達を前提とする。伝わっていないルールは守られない。したがって「守らせる」ための第一歩が伝達の設計であるという本稿の主張は、この反論と対立しない。むしろ、遵守を実効的にするための手段として、可視化と平易化を位置づけることができる。
ただし、伝達を尽くしてなお繰り返される行為に対して何をするかという問題は残る。ここには段階的な対応——注意、掲示の追加、管理者による指導、法令にもとづく措置——の設計が必要であり、オストロムの言う段階的制裁の考え方が対応する。本稿はその具体的な設計にまで踏み込む用意をもたないが、伝達の不備を放置したまま制裁を強めることの非効率は指摘しておきたい。
9.2 反論2——多言語化はコストに見合わない
第二の反論は費用の問題である。翻訳には費用がかかり、公園の掲示の全面的な多言語化は現実的でない。この指摘は正しい。だからこそ本稿は、第8節で優先順位をつけた翻訳と、やさしい日本語の併用を提案した。やさしい日本語への書き換えは、既存の掲示を作り直す機会——更新や再設置の時期——に合わせて行えば、追加費用を抑えられる。
加えて、費用の議論には便益の側も入れる必要がある。平易な掲示は、日本語を母語とする高齢者、読み書きに困難のある人、そして子どもにも読める。掲示を読める人が増えることは、掲示の目的そのものを達成することである。費用対効果を「外国人向けの追加投資」として計算すると過小評価になり、「掲示の到達率を上げる投資」として計算すれば評価は変わる。
9.3 反論3——公園は放っておいても混ざる場所だ
第三の反論は楽観論である。公園は誰でも入れる場所なのだから、放っておいても自然に交流が生まれる。設計など要らない、という主張である。しかし第2節で見たオルポートの議論は、この楽観に留保を付ける。接触が偏見の低減につながるには、対等な地位、共通の目標、協力の関係、制度的な支持といった条件が要る。条件を欠いた接触は、既存の印象を強めることもありうる。
公園はこの条件を部分的にしか満たさない。対等な地位は比較的満たされる。入場に資格がなく、誰も所有していないからである。制度的な支持も、管理者が公平な運用を行う限りにおいて満たされる。しかし共通の目標と協力の関係は、自然には生まれない。同じ砂場で別々の家族が遊んでいるだけでは、協力は生じない。共通の目標が生まれるのは、清掃活動、防災訓練、遊具の点検の立ち会い、地域の行事といった、何らかの共同作業が置かれたときである。公園は接触の条件の一部を無償で提供するが、残りは設計の問題として残る。
9.4 反論4——「共生」という語自体が非対称である
第四の反論は、概念そのものへの批判である。共生を語るのはたいてい多数派の側であり、共生の条件を定めるのも多数派である。「認め合う」という語のもとで、実際には少数派に適応が求められているのではないか。この批判は重い。第3節で見たように、同化主義との境界は実務のうえで曖昧になりやすい。
本稿はこの批判を受け止めたうえで、それでも語を使う。理由は二つある。第一に、この語が行政の文書と地域の実践において既に共有された参照点になっており、代替語を立てることの実務上の利得が小さいこと。第二に、総務省の報告書における定義が「対等な関係」を条件として書き込んでいるため、語の内部から非対称を批判する余地が確保されていること。用語を捨てるより、定義に立ち返って運用を点検するほうが有効だと考える。
9.5 他の場所との比較
最後に、公園という場所の位置を比較のなかで確認しておく。学校は制度的な接続点をもち、通訳や日本語指導の仕組みが整備されつつあるが、対象は就学年齢の子どもとその保護者に限られる。職場も接続点は明確だが、企業ごとに対応の差が大きく、そこに属さない人には及ばない。商業施設は誰でも入れるが、滞在には消費が伴い、滞在時間の主導権は施設側にある。宗教施設は強い共同性をもつが、信仰による境界がある。
これらに対して公園は、所属も契約も消費も要求せず、滞在の長さを利用者が決められ、退出が自由である。オルデンバーグが第三の場所の条件として挙げた「低い敷居」を、公園はきわめてよく満たす。この特性は、深い相互理解には向かないが、浅い接触を何度も繰り返すことには向いている。挨拶を交わす、子どもどうしが一緒に遊ぶ、遊具の順番を譲る。こうした小さな接触の累積が、地域における関係の基層をなすとすれば、公園の役割は、交流事業のような濃い接触の場とは別の意味で大きい。
10. 磐田市の公園への示唆
ここまでの議論を、磐田市の公園に引き寄せて具体化する。あらかじめ断っておくと、本稿は磐田市に暮らす外国につながる住民の人数や国籍構成を示す資料を当サイトの根拠として持たないため、それらの数値には一切立ち入らない。磐田市を含む静岡県西部が製造業の事業所の集まる地域として知られていること、したがってさまざまな国や地域につながる住民が暮らしていることを前提として、公園の側の条件だけを検討する。
10.1 主な舞台は小さな公園である
当サイトが収録する磐田市の都市公園は100園である。内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、法の対象外またはその他が6園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園となっている。数のうえで圧倒的に多いのは街区公園であり、これは国の標準で面積0.25ha・誘致距離250mとされる、住区の中の小さな公園である。
この構成は、多文化共生の観点から二つのことを意味する。第一に、日常的な共同利用の主な舞台は、大規模な公園ではなく徒歩圏の小さな公園だということ。歩いて数分の距離に多様な住民が同じ場所を使う状況が、市内の各所で成立している。第二に、その小さな公園こそが、掲示の整備からもっとも遠いということである。大規模な公園には管理事務所や大きな案内板が置かれやすいが、面積の小さい公園には簡素な看板が一枚あるかどうかという場合が多いと考えられる。翻訳やピクトグラムの整備を大規模な公園から始めると、日常の摩擦が起きる場所には届かない。
10.2 地区による偏り
地区別の園数は、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。公園の数は住宅の集積と開発の履歴を反映しており、同じ市内でも公園の密度は一様でない。公園が少ない地区では、一つの公園に多様な利用が集中し、時間帯や使い方をめぐる調整の必要が高まる。逆に公園が多い地区では、使い分けの余地が生まれる。第7節で述べた「代わりの場所があるか」という構造の視点は、地区ごとの園数と直結する。
また、大規模な園はごく少数である。面積で見れば、竜洋海洋公園が221,722平方メートル、かぶと塚公園が106,982平方メートル、つつじ公園が61,937平方メートル、磐田スポーツ交流の里ゆめりあが57,500平方メートル、兎山公園が56,193平方メートル、福田公園が49,620平方メートルと続く。一方で、二之宮東第2緑地の17平方メートル、豊田上新屋ポケットパークの156平方メートルのように、極端に小さい園もある。広い園は駐車場を備えて広域から人を集めるため、大人数の集まりや多様な使い方が可視化されやすい。第7節で述べた可視性のバイアスは、こうした園でとくに働きやすいと考えられる。
10.3 情報の非対称は日本語話者にも及ぶ
当サイトが市の施設ガイドと突合できた、個別のページをもつ園は77園である。裏を返せば、残りの園については、名称・種別・面積・設備の有無といったオープンデータの情報しかない。園内に何があるかを事前に知る手立てが乏しい園が、市内に相当数あるということである。この情報の薄さは、言語にかかわらずすべての利用者に及ぶ。多文化共生の課題としての情報アクセスは、外国につながる住民に固有の課題ではなく、地域の情報基盤そのものの課題の一部として現れている。
設備の有無についても、オープンデータの94行の集計では、トイレ有が69園、車いす対応トイレ有が34園、砂場有が43園、遊具有が64園、駐車場があるとされる園が33園である。トイレの有無や車いす対応の有無は、乳幼児連れや高齢者、障害のある人にとって行き先を決める条件になる。こうした情報が事前に分かることの価値は、日本語で情報を探しにくい人にとってさらに大きい。
10.4 包摂の設計はすでに一部にある
包摂を意識した設計は、市内にすでに現れている。市の施設ガイドには、安久路公園(御厨・地区公園・32,001平方メートル)について、複合遊具にインクルーシブエリアがあること、ブランコにインクルーシブアイテムがあることが記されている。障害の有無にかかわらず一緒に遊べるようにするという発想は、言語の違いを越えて使えるようにするという発想と、根の部分でつながっている。どちらも、利用者を標準的な一種類に想定しないという設計思想に立つ。
期間限定の情報の扱いにも留意したい。市の施設ガイドには、今之浦公園(見付・近隣公園・13,675平方メートル)について、噴水の運転期間に関する案内と、駐車場以外の場所への駐車を控えるよう求める記載がある。こうした期間や条件のついた情報は、更新の頻度が高いぶん、翻訳からも掲示の差し替えからも漏れやすい。第5節で述べたとおり、期間限定の情報こそ現地で分かるようにすることの価値が高い。
10.5 踏査で確かめること
当サイトの現地踏査は、2026年8月の時点でまだ始まっていない。したがって、市内の公園の掲示が何語で書かれているか、図記号が使われているか、禁止事項がいくつ並んでいるかは、本稿の段階では確かめられていない。今後の踏査で記録すべき項目を、多文化共生の観点から次のように整理しておく。
| 踏査で見る項目 | 着目点 | 本稿との対応 |
|---|---|---|
| 掲示の言語 | 日本語のみか、他の言語やふりがながあるか | 第4節(言語障壁) |
| 図記号の有無 | 文字なしでも意味が取れるか | 第8節(可視化) |
| 掲示の位置と数 | 出入口ごとにあるか、視線の高さに合うか | 第5節(情報アクセス) |
| 禁止表現の書き方 | ご遠慮くださいなど婉曲か、明示的か | 第4節・第8節 |
| できることの記載 | 使える遊び方や代替の場所が書かれているか | 第8節(肯定的な提示) |
| 掲示の更新状態 | 期間限定の情報が古びていないか | 第5節・第10節 |
なお、公園の管理は磐田市の都市整備課(電話 0538-37-4806)が担っている。掲示の内容や更新について確認が必要な事項は、当サイトが独自に判断せず、この窓口や市の公表資料に確認を返すのが筋である。当サイト(ATAWI PARK)は不動産・介護事業を営む富士ヶ丘サービス株式会社が運営する公園データベースであり、行政の代弁者ではない。できることは、公開されたデータと現地で見える情報を、誰にでも参照しやすい形に整えることに限られる。
11. 結論と今後の課題
本稿は、多文化共生論の枠組みを用いて、公園という公共空間が国籍や母語の異なる住民によって共に使われるための条件を検討してきた。得られた結論は三つである。
第一に、公園における困りごとは、言語障壁・情報アクセス・慣習の差異という三層に分解できる。読めない(言語)、どこにあるか分からない(情報)、何が当たり前か知らない(慣習)という三つは、しばしば混同されるが、対応の手段が異なる。翻訳は第一層に効き、掲示の位置と経路の設計は第二層に効き、暗黙の期待を言葉にする作業は第三層に効く。どの層の問題かを見分けることが、対応の出発点になる。
第二に、公園で起きる摩擦を文化の違いだけで説明することは誤りである。屋外での火の使用、球技、大人数の集まり、夜間の音といった典型例の背後には、掲示の不在、代わりの場所の欠如、交替制勤務による時間の制約、地域の年齢構成といった、文化とは別の要因が働いている。これらの要因は、文化差と違って直接に手を入れられる。文化差という説明が有害なのは、それが誤りだからというより、そこで思考が止まり、手を入れられる部分が見えなくなるからである。
第三に、共同利用を支える手段として、禁止の羅列ではなく「ここで何ができるか」を含むルールの可視化、危険と法令に関わる情報を優先する翻訳、そして対象言語を選ばないやさしい日本語の三つが有効である。加えて、これらを支える条件として、ルールを決める場に当事者が加わることが必要になる。オストロムが共有資源の研究から取り出した設計原理——規則の影響を受ける人が規則の変更に参加できること、制裁が段階的であること、安価な紛争解決の場があること——は、公園にも読み替えられる。ただ同じ場所に居合わせるだけで理解が進むとは限らないという、接触に関する古典的な留保も、あわせて確認した。
11.1 本稿の限界
本稿には明確な限界がある。第一に、文献と公開資料にもとづく概念的な検討であり、現地の観察を伴わない。磐田市の公園の掲示が実際にどう書かれているかを、本稿は確かめていない。第二に、当事者の声を含まない。外国につながる住民が公園に何を感じ、何に困り、何を望んでいるかは、本来は当事者から聞き取るべき事柄であり、本稿はそれを代弁していない。第三に、数量的な裏づけをもたない。摩擦の頻度、苦情の件数、掲示の言語別の分布といった数値は、本稿の射程の外にある。
11.2 今後の課題
今後の課題を四つ挙げる。第一に、当サイトの踏査における掲示の記録である。第10節の表に整理した項目——掲示の言語、図記号の有無、掲示の位置と数、禁止表現の書き方、できることの記載、更新の状態——を、踏査の記録項目に組み込むことができる。100園すべてを一度に扱う必要はなく、街区公園51園のうち住宅の密集する地区の園から始めるのが現実的である。
第二に、公園情報のやさしい日本語版の検討である。当サイトが扱う情報のうち、所在地・種別・面積・トイレや遊具の有無といった事実の記述は、平易な日本語に書き換える余地が大きい。これは外国につながる住民のためであると同時に、幼い子どもや読み書きに困難のある人にとっても意味がある。
第三に、当事者を含む聞き取りの設計である。実施するとすれば、聞き取りの言語、依頼の経路、内容の扱いについて、あらかじめ慎重な設計が要る。困りごとを聞くという行為自体が、相手を「困っている人」の位置に置いてしまう危険をもつからである。何に困っているかだけでなく、公園をどう使っているか、どこがよいと感じているかを同じ重さで聞く設計が望ましい。
第四に、他の領域の議論との接続である。障害のある人の包摂を論じる議論、ジェンダーの視点から公園の時間を論じる議論、法制度の側から都市公園の制限を論じる議論は、いずれも本稿と重なる論点をもつ。標準的な利用者を一種類に想定しないという設計思想を共有する以上、これらの議論を横断して読むことに意味がある。多文化共生は、外国につながる住民に限った主題ではなく、公共空間を誰のために設計するのかという一般的な問いの、一つの入口である。
参考文献
- 総務省「多文化共生の推進に関する研究会報告書——地域における多文化共生の推進に向けて」(2006)
- 総務省「地域における多文化共生推進プラン」(2006策定・2020改訂)
- 外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」(2018、以後改訂)
- 日本語教育の推進に関する法律(令和元年法律第48号、2019)
- 出入国在留管理庁・文化庁「在留支援のためのやさしい日本語ガイドライン」(2020)
- ウィル・キムリッカ(1995)『多文化時代の市民権——マイノリティの権利と自由主義』(角田猛之ほか監訳、晃洋書房、1998)
- ゴードン・W・オルポート(1954)『偏見の心理』(原谷達夫・野村昭訳、培風館、1961)
- ユルゲン・ハーバーマス(1962)『公共性の構造転換』(細谷貞雄・山田正行訳、未來社、第2版1994)
- ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
- レイ・オルデンバーグ(1989)『サードプレイス——コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』(忠平美幸訳、みすず書房、2013)
- エリノア・オストロム(1990)『コモンズのガバナンス——人びとの協働と制度の進化』(原田禎夫ほか訳、晃洋書房、2022)
- アーヴィング・ゴッフマン(1963)『集まりの構造——新しい日常行動論を求めて』(丸木恵祐・本名信行訳、誠信書房、1980)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(国土交通省 都市公園のページ)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
- 磐田市(公式サイト)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。