社会科学労働経済学
公園に行く時間はどこから来るか——労働時間・通勤・時間配分の労働経済学
要旨
公園に行く時間はどこから来るか。公園をめぐる議論は、どこにどれだけの面積を配置するかという空間の問題として語られることが多い。しかし住民の側から見れば、公園に行くという行為はまず時間の配分である。一日は誰にとっても24時間であり、そのうち市場での労働、通勤、家事と育児、睡眠に充てられた残りが、公園に行ける時間の上限になる。本稿は、ゲーリー・ベッカーが1965年に提示した時間配分の理論を出発点に、公園利用を希少資源としての時間の配分問題として読み直す。方法は文献整理と概念分析であり、磐田市の公園データベース(ATAWI PARK)が収録する100園の事実を参照する。時間帯別の利用実態の測定は含まない。
主な論点は三つである。第一に、時間には市場賃金を手がかりとする影の価格があり、貨幣価格がゼロである公園ほど、その利用は時間費用によって選別されるという逆説である。第二に、公園利用の費用は往復の移動時間という固定費と滞在時間という変動費に分けられ、徒歩圏に公園があることは固定費を下げる装置として働くという点である。都市公園法施行令が街区公園について定める誘致距離250メートルという目安は、この固定費を制度の側から抑える設計と読むことができる。第三に、共働き・交替制勤務・単身赴任・自営といった働き方の違いが、公園に行ける時間帯を非対称に配分し、平日夕方の短時間利用と週末の長時間利用という二つの異なる需要を生むという点である。
結論として、公園の価値は面積や遊具の数だけで決まるのではなく、それを使うために支払う時間の量によっても決まり、近さは平日の利用を可能にする条件であると論じる。磐田市については、街区公園51園という徒歩圏の厚みと、竜洋海洋公園や福田公園のような大規模園、駐車場のある33園という設備の分布を、平日層と週末層という二層構造として読み直す。当サイトの踏査はこれからであり、出入口の位置、ベンチと日陰、トイレの有無といった滞在可能時間を左右する要素を、今後の記録項目として提案する。
キーワード時間配分理論機会費用影の価格家庭内生産移動時間誘致距離街区公園
1. はじめに——問題の所在
公園の議論は、たいてい空間の言葉で語られる。どこに、どれだけの面積を、どのような種別で配置するか。都市公園法とその施行令が定める誘致距離や標準面積も、緑の基本計画に載る一人当たり公園面積も、すべて空間の指標である。しかし住民の側に立てば、公園に行くという行為は空間の問題である以前に時間の問題である。近くに公園があっても、行く時間がなければ利用は生じない。逆に、少し遠くても時間に余裕があれば行ける。公園の利用は、空間の配置と時間の配分が交差したところにだけ現れる。
本稿の問いは単純である。公園に行く時間はどこから来るのか。一日は誰にとっても24時間しかない。そのうち睡眠に充てる時間があり、市場で働く時間があり、その職場との間を往復する通勤の時間があり、家事と育児に費やす時間がある。公園に行ける時間は、これらを差し引いた残余として現れる。残余が残るかどうか、残るとしてそれが何時何分から何分間かは、その人の働き方と住まいの位置によって決まる。つまり公園の利用は、労働経済学が長く扱ってきた「時間の配分」という主題の一部なのである。
1.1 なぜ労働経済学から公園を論じるのか
労働経済学は、賃金や雇用だけを扱う分野ではない。その中核には、人が持ち時間をどのように市場労働・家庭内の仕事・休息に振り分けるかという配分の理論がある。ライオネル・ロビンズが1932年に経済学を「目的と、代替的用途をもつ希少な手段との間の関係を研究する学問」として定義したとき、時間はまさにその希少な手段の代表であった。時間は貯めておくことができず、誰にも均等に与えられ、ある用途に使えば他の用途からは失われる。この性質は、貨幣よりもむしろ厳しい制約を生む。
公園はこの制約と正面からぶつかる施設である。多くの公園は入園料を取らない。貨幣の面では費用がほぼゼロである。だからこそ、利用するかどうかを分けるのは、ほとんど時間だけになる。有料の遊戯施設であれば「お金はかかるが短時間で満足が得られる」という選択がありうるが、公園はその逆で「お金はかからないが時間はかかる」。この非対称が、誰が公園を使えるかを静かに選り分けている。本稿はこの選別の構造を、労働経済学の道具で分解することを目的とする。
1.2 方法と資料の範囲
本稿の方法は、文献整理と概念分析である。時間配分理論の古典を整理し、その概念を公園という具体的な施設に当てはめ、どのような論点が見えてくるかを示す。統計による検証は行わない。生活時間に関する公的な統計としては総務省統計局の社会生活基本調査があり、労働時間については労働力調査などがあるが、本稿はそれらの個別の数値を引用せず、理論の枠組みが何を見えるようにするかに焦点を当てる。数値を挙げるのは、法令や省庁の指針に明記されているもの——たとえば都市公園法施行令の誘致距離や、労働基準法の労働時間の原則——に限る。
磐田市に関する事実は、当サイト(ATAWI PARK)が磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」と市の施設ガイドから整理した範囲に限る。当サイトは100園を収録するデータベースであるが、現地の踏査はこれからであり、園内の様子を見たうえで述べることはできない。したがって第8節の磐田市への示唆も、データに書かれた事実——種別、面積、地区、設備の有無——を時間費用の観点から読み直す作業にとどまる。運営は不動産・介護の事業を行う富士ヶ丘サービス株式会社であるが、本稿はその事業とは独立した学術的な整理として書かれている。
1.3 本稿の構成
第2節では、ベッカー、ミンサー、グロナウ、リンダーらの時間配分理論を整理し、公園を論じるための概念を用意する。第3節では時間の影の価格という考え方を導入し、貨幣価格がゼロの施設ほど時間で選別されるという逆説を論じる。第4節は移動時間を固定費として捉え、徒歩圏の意味を費用構造から説明する。第5節は公園での見守りを家庭内生産として扱い、準備と後始末を含めた総投入を考える。第6節は働き方の類型ごとに公園時間の開き方を比較し、第7節では平日夕方と週末という二つのピークの非対称を検討する。第8節は想定される反論に応答し、第9節で磐田市の公園への示唆をまとめ、第10節で結論と課題を述べる。
2. 先行研究と概念の整理——時間配分の理論
時間を経済学の対象として正面から扱う道を開いたのは、ゲーリー・ベッカーが1965年に発表した論文「A Theory of the Allocation of Time」である。それ以前の消費者理論は、所得の制約のもとで財をどう買うかを問うていた。ベッカーはここに時間の制約を並置し、家計を「財と時間を投入して満足の単位を生産する小さな工場」として捉え直した。食事は食材と調理時間の結合であり、娯楽は入場料と滞在時間の結合である。人が最終的に消費しているのは市場で買った財そのものではなく、財と時間を組み合わせて家庭で生産された何かである、という視点の転換であった。
2.1 ベッカーの家計生産——時間集約的な活動と財集約的な活動
この枠組みの利点は、活動を「時間集約的か、財集約的か」という軸で並べられる点にある。時間集約的な活動とは、投入のうち時間の比重が大きいものである。散歩、公園での外遊び、立ち話、読書などがこれにあたる。財集約的な活動とは、貨幣の比重が大きく時間の比重が小さいもので、短時間で完結する有料の娯楽や、外部サービスの購入による家事の代替がこれにあたる。ベッカーの議論の要点は、この二つの相対的な費用が、賃金という時間の価格によって変わるということである。
公園での遊びは、この軸のうえで時間集約の極に位置する。入園料は不要で、持ち物も水筒と帽子程度で足りる。投入されるのはほぼ時間だけである。したがって、時間の価格が高い人ほど、公園という活動の相対的な費用は高くなる。ここから、公園は「安い施設」ではなく、支払い方の異なる施設である、という理解が導かれる。貨幣で払うか、時間で払うか。その違いが利用者の顔ぶれを変える。
2.2 ミンサーとグロナウ——第三の時間としての家庭内生産
ヤコブ・ミンサーは1962年の論文で、既婚女性の労働供給を分析する際に、時間を「市場労働」と「余暇」の二分法で扱うことの限界を指摘した。家庭には、余暇とは呼べない働きがある。炊事、洗濯、育児は、休息ではなく生産である。ルーベン・グロナウは1977年の論文でこの点を定式化し、時間を市場労働・家庭内生産・余暇の三つに分けた。二つを分ける基準は、その活動を他人に任せて同じ結果が得られるかどうかである。掃除は他人に頼める。散歩を他人に代わってもらっても、自分が歩いたことにはならない。
この三分法は、公園を論じるうえで決定的に重要である。親が子を連れて公園に行く時間は、余暇なのか家庭内生産なのか。子どもにとっては明らかに遊びであり余暇である。しかし付き添う親にとっては、見守りという他人に委託しうる働き——実際、保育や一時預かりという形で市場に存在する——であり、家庭内生産の性格を強く帯びる。同じ一時間が、同じ場所にいる二人にとって別の種類の時間になっている。この非対称は、後の節で繰り返し立ち返る論点である。
| 時間の種類 | 定義の目安 | 公園での例 | 代替可能性 |
|---|---|---|---|
| 市場労働 | 賃金を得るために使う時間 | 公園の管理・清掃の業務 | 雇用によって代替可能 |
| 家庭内生産 | 他人に任せても同じ結果が得られる家庭の働き | 子の見守り、持ち物の準備、帰宅後の片づけ | 一部は市場サービスで代替可能 |
| 余暇 | 本人が行うことに意味がある休息・活動 | 自身の散歩、ベンチでの休息、運動 | 代替できない |
註として付け加えれば、この三分法は輪郭のはっきりした区分ではない。子と一緒に走ることは見守りでもあり自身の運動でもあり、その場での立ち話は情報収集でもあり息抜きでもある。境界が曖昧であること自体が、公園という場所の特徴でもある。第5節では、この重なりを「一つの時間で複数の産出が得られる」という結合生産の概念で扱う。
2.3 リンダーの逆説とケインズの予測
ステファン・リンダーは1970年の著作『The Harried Leisure Class』で、豊かになるほど人は時間に追われるという逆説を論じた。生産性が上がって所得が増えると、一時間あたりで消費できる財の量も増える。しかし一日の長さは変わらない。結果として、増えた財を消費するために時間がますます足りなくなり、余暇そのものが慌ただしくなる。豊かさは自由な時間をもたらすはずだったのに、実際には時間の希少性を高めた、というのがリンダーの見立てである。
この逆説は、ジョン・メイナード・ケインズが1930年の小論「孫の世代の経済的可能性」で描いた将来像と対照をなす。ケインズは、技術の進歩によって100年後には週15時間ほどの労働で足りるようになり、人類は余暇をどう使うかという問題に直面するだろうと予測した。生産性の面ではケインズの予測はおおむね当たったが、労働時間の面では外れたと評されることが多い。ジュリエット・ショアや森岡孝二らが論じてきたように、豊かな社会でも長時間労働は消えなかった。公園に行く時間が足りないという実感は、この不一致の帰結の一つとして位置づけられる。
ダニエル・ハマーメッシュは2019年の著作で、時間の使い方を最も価値ある資源の配分として体系的に論じ、所得の高さと時間の余裕は必ずしも一致しないことを示した。所得が増えても時間が増えるとは限らないという知見は、公園の議論に一つの含意をもたらす。すなわち、施設を整えるだけでは利用は増えない。利用者の時間の制約が緩まなければ、整った施設は使われないまま残る可能性がある。ここに、公園整備を空間の政策としてだけでなく時間の政策として考える必要が生じる。
3. 時間の影の価格——無料の施設ほど時間で選別される
時間配分理論の中心にあるのは、時間には値段がついているという発想である。ここでいう値段とは、市場で取引される価格ではなく、その時間を別の用途に使っていたら得られたはずのものを指す。経済学はこれを機会費用と呼び、時間についての機会費用をとくに影の価格と呼ぶ。働けば賃金が得られる人にとって、一時間の余暇の影の価格は、少なくともその一時間で稼げたはずの賃金である。この考え方は、公園という無料の施設の性格を鋭く照らし出す。
3.1 貨幣価格ゼロという設計の裏面
都市公園は原則として誰でも無料で入れる。この点は公共財としての公園の長所であり、所得による排除を防ぐ仕組みでもある。しかし費用が消えたわけではない。利用者が支払うのは、往復の移動時間と滞在時間という時間の費用である。貨幣費用がゼロに固定されているため、利用の可否を決めるのは事実上、時間費用だけになる。ここに逆説が生じる。所得による排除を避けるために無料にした施設が、時間による排除を強く受けるのである。
この逆説は、公園と有料施設を比べると見えやすい。有料の屋内遊戯施設は、入場料という貨幣費用と引き換えに、天候に左右されない、短時間でも満足度が高い、見守りの負担が軽いといった時間の節約を売っている。つまり貨幣で時間を買う商品である。時間が極度に不足している世帯にとっては、貨幣費用が高くても時間費用の低い選択肢が合理的になりうる。無料であることは、時間の乏しい人に対しては必ずしも優しくない。
3.2 賃金が上がると余暇は増えるのか
影の価格の概念からは、賃金の変化が余暇に与える影響を二つに分けて考えることができる。第一は代替効果である。賃金が上がると、余暇一時間の犠牲——稼げたはずの額——が大きくなるため、余暇は相対的に高価になり、人は働く方に時間を振り向けやすくなる。第二は所得効果である。賃金が上がれば同じ労働時間でより豊かになるため、余暇を増やす余裕が生まれる。二つは逆向きに働くので、賃金が上がったときに余暇が増えるか減るかは、理論だけでは決まらない。
この不確定性は、公園政策にとって実務的な含意をもつ。地域の所得が上がれば公園を使う余裕が生まれる、とは限らない。むしろ賃金の高い層ほど時間集約的な活動を削り、貨幣で時間を買う方向に動くという可能性がある。逆に、賃金が低く労働時間が長い層では、そもそも残余の時間が短い。どちらの側でも公園時間が細るとすれば、公園の利用は所得の高低ではなく、時間の裁量——いつ働き、いつ終えられるか——の有無に左右されることになる。
3.3 賃金で測れない時間、留保賃金という考え方
影の価格を市場賃金と等しいとみなせるのは、追加的に働く選択が自由にできる場合に限られる。実際には、労働時間は雇用契約や勤務シフトによって離散的に決まっており、一時間だけ多く働く、少なく働くという調整は容易ではない。また、就業していない人には市場賃金が観測されない。この場合の時間の価格は、その人が働き始めるために最低限必要とする賃金——留保賃金——として概念化される。留保賃金は、家庭内での働きの価値や、子と過ごす時間の価値を反映して人ごとに異なる。
留保賃金の概念は、育児期の時間の価格が一時的に高くなることを説明する。乳幼児のいる世帯では、家庭内での時間の生産性——世話、寝かしつけ、食事の準備——が高いため、同じ一時間を市場労働に回す機会費用が大きい。この時期に公園に行く時間が捻出できるかどうかは、賃金の高低ではなく、家庭内の仕事の総量とその分担の仕方に依存する。ミンサーが既婚女性の労働供給を分析したときに直面した問題と、公園に行けるかどうかという問題は、同じ構造をしている。
さらに、子どもと過ごす時間には、市場賃金では測れない価値がある。人的資本の理論を築いたベッカーは、親が子に注ぐ時間を、将来の能力形成への投資として位置づけた。この見方に立てば、公園での一時間は消費であると同時に投資でもある。投資としての性格をもつ活動は、目先の機会費用が高くても行う理由がある。第8節で扱う反論のうち、時間を貨幣に還元することへの批判は、この投資の側面をどう評価するかという問題に接続する。
註:本節の「影の価格」「留保賃金」は、いずれも個人の意思決定を説明するための分析概念であり、ある人の時間の値打ちを社会的に評価するものではない。子育てや介護に費やす時間の価値を賃金で代表させることには限界があり、本稿もその限界のうえで議論を進める。
4. 移動時間という固定費——徒歩圏が下げているもの
公園を一度利用するのにかかる時間は、二つに分けられる。往復の移動にかかる時間と、公園にいる時間である。前者は滞在の長短にかかわらず必ず発生するため、費用の構造としては固定費にあたる。後者は使った分だけ増える変動費である。この単純な区別が、公園の近さがなぜそれほど重要なのかを説明する鍵になる。近い公園は、遊ぶ時間を長くしてくれるのではない。行くこと自体の敷居を下げるのである。
4.1 固定費が閾値をつくる
手元に30分の空きがあるとする。徒歩3分の公園なら往復6分で、24分を遊びに充てられる。徒歩15分の公園なら往復30分で、遊ぶ時間は残らない。車で15分の公園であれば、乗り降りと駐車の時間を加えて往復40分を超え、そもそも30分の窓には収まらない。同じ30分でも、公園までの距離によって「行ける/行けない」がはっきり分かれる。固定費は、利用できる最短の時間の窓に閾値を設けるのである。
この閾値の効果は、時間の窓が短いほど大きくなる。窓が3時間あれば、往復30分は全体の六分の一にすぎず、遠い公園も選択肢に入る。窓が30分しかなければ、往復6分と往復30分の差は決定的である。平日の夕方のように窓が細い時間帯ほど、公園の近さが利用を左右する。逆に休日のように窓が広い時間帯には、近さの効き目は薄れ、施設の内容や規模が選択の理由になる。同じ人が、時間帯によって別の基準で公園を選ぶ。
4.2 誘致距離250メートルを時間に翻訳する
都市公園法施行令は、街区公園について誘致距離250メートル、標準面積0.25ヘクタールという目安を示している。近隣公園は誘致距離500メートル・標準面積2ヘクタール、地区公園は1キロメートル・4ヘクタールである。これらは空間の基準として書かれているが、時間に翻訳すると別の意味が見えてくる。徒歩時間の表示に毎分80メートルを用いる商慣行にならえば、250メートルはおよそ3分強、往復で7分前後になる。500メートルなら往復およそ13分、1キロメートルなら往復25分である。
つまり誘致距離の階層は、往復の固定費を「10分未満」「15分前後」「25分前後」という三段階に切り分けた設計として読める。街区公園の250メートルという数字は、30分程度の細い窓でも遊ぶ時間が確保できる水準であり、日常の反復利用を成り立たせる閾値に対応している。地区公園の1キロメートルは、往復に25分を割ける、つまり少なくとも1時間以上の窓がある場合を前提とする。制度は空間の言葉で書かれているが、実際に配分しているのは住民の時間である。
ただし、この翻訳には条件がつく。歩く速度は、乳幼児を連れているかどうかで大きく変わる。ベビーカーを押し、途中で立ち止まり、寄り道をする移動は、単独の徒歩よりずっと遅い。子と手をつないで歩けば、250メートルが3分で済むとは限らない。したがって、誘致距離が想定する時間は成人単独の速度に近く、子育て世帯にとっての実効的な固定費はそれより大きい。徒歩圏の厚みが子育て世帯にとってとくに重要になるのは、この速度差のためである。
4.3 経路上に置くという発想——結合された移動
固定費を下げるもう一つの方法は、移動そのものを他の用事と共有することである。保育所や学校の送り迎え、買い物、通院といった移動の経路上に公園があれば、その公園に立ち寄るための追加の移動時間はほとんどゼロになる。交通の分野でトリップチェーン——複数の目的地を一つの外出でつなぐ行動——と呼ばれてきた現象であり、費用の面から見れば、移動という固定費を複数の目的で共有する結合生産にあたる。
この観点は、公園の立地評価に一つの基準を加える。住宅からの距離だけでなく、日常の移動線上にあるかどうかである。同じ300メートルでも、駅や保育所へ向かう道の途中にある公園と、家から反対方向にある公園とでは、実効的な固定費が違う。前者は「ついでに寄れる」公園であり、後者は「そのために出かける」公園である。前者の利用頻度が高くなるのは、選好の違いではなく費用構造の違いによる。
なお、一日の移動時間の総量には一定の傾向があるという指摘が古くからある。ヤコブ・ザハヴィが1970年代に提示した交通時間予算の考え方は、人が一日に移動へ充てる時間はおおむね安定しており、速い交通手段が普及すると移動時間が減るのではなく、より遠くへ行くようになる、というものである。この見立てが正しいとすれば、公園までの移動時間を短くしても余暇の総量が増えるとは限らない。しかし、短くなった分が公園での滞在に振り向けられる可能性は残る。近さの効果は、時間を増やすことではなく、同じ時間の中身を組み替えることにある。
5. 家庭内生産としての公園時間——準備・見守り・後始末
公園で過ごす一時間は、公園にいる一時間だけでは終わらない。出かける前には、着替えさせ、帽子と水筒を用意し、日差しの強い時期には日焼け止めを塗り、おむつの替えを鞄に入れる。帰ってからは、手を洗わせ、汚れた服を洗濯し、砂を落とし、場合によっては昼寝の時間を調整する。乳幼児を連れた公園行きでは、これら前後の作業が遊ぶ時間と同程度、あるいはそれ以上を占めることがある。時間配分の観点からは、これらを含めた総投入で公園利用を評価しなければならない。
5.1 準備と後始末は固定費である
重要なのは、準備と後始末が滞在時間の長短にあまり依存しないという点である。20分遊ぶために必要な準備と、2時間遊ぶために必要な準備は、それほど変わらない。つまりこれらは移動時間と同じく固定費であり、滞在時間が短いほど総投入に占める割合が高くなる。「30分だけ公園に行く」という選択が実際には割に合いにくいのは、この構造のためである。短時間の利用を成り立たせるには、準備の軽さ——手ぶらでも困らない設備——が効いてくる。
この点から、水道、トイレ、日陰といった園内の設備は、快適さの問題であると同時に費用の問題である。水道があれば水筒を満たし直せる。トイレがあれば、出発前にすべてを済ませておく必要が薄れる。日陰があれば帽子の管理に神経を使わずに済む。設備は、家庭で行うべき準備の一部を公園側が肩代わりする仕組みであり、その分だけ利用の固定費を下げる。設備の充実は、単なる快適性の向上ではなく、利用可能な時間の窓を広げる作用をもつ。
5.2 一つの時間で複数のものを得る——結合生産としての公園
第2節で触れたグロナウの三分法に戻れば、親にとっての公園時間は家庭内生産(見守り)と余暇(休息・運動・交流)の両方の性格をもつ。経済学ではこのように、一つの投入から複数の産出が同時に得られることを結合生産と呼ぶ。公園はこの結合生産が起こりやすい場所である。子を遊ばせながら、自分もベンチで休む。歩く。近所の人と言葉を交わす。同じ一時間から、育児と休息と地域のつながりが同時に生まれる。
結合生産という視点は、公園の設計に具体的な含意をもたらす。ベンチの位置と数、日陰の量、見通しのよさ、健康器具の有無は、親の側の産出——休息と運動——を左右する。子どもの遊具だけが整い、大人の居場所がない公園では、親の時間は見守りという家庭内生産に純化する。純化すればするほど、その時間の負担感は増し、行く頻度は下がる。大人が座れることは、子どもが遊べることと同じくらい、利用時間を決める要因になりうる。
同時に、結合生産には限界もある。見守りの緊張度が高い年齢——歩き始めから3歳前後——では、親の注意は子に集中し、休息としての産出はほとんど得られない。この時期には、遊具の対象年齢表示や柵の有無、道路との距離といった要素が、親の注意の負荷を左右する。負荷が下がれば結合生産が成立し、負荷が高ければ純粋な労働時間になる。安全に関する設計は、事故を防ぐためだけでなく、親の時間の質を変えるという意味でも効いている。なお、安全の判断そのものは公園の管理者や関係機関に委ねられるべきものであり、本稿はその判断に立ち入らない。
5.3 誰が連れて行くか——世帯内の比較優位と規範
世帯に複数の大人がいる場合、公園に連れて行く役割は誰が担うのか。時間配分理論の標準的な答えは比較優位である。市場での稼得力が相対的に高い側は市場労働に、家庭内での生産性が相対的に高い側は家庭内生産に特化する方が、世帯全体の産出は大きくなる。ベッカーが1981年の著作で家族の分業を論じた際の基本的な論理はこれである。しかしこの説明は、なぜ特化の方向が特定の性別に偏るのかを、それ自体では説明しない。
現実の分担には、比較優位に加えて社会規範と制度が働いている。育児・介護休業法は、3歳に満たない子を養育する労働者について所定労働時間の短縮措置(原則1日6時間)を、小学校就学前の子について時間外労働の制限(1月24時間・1年150時間を超えない範囲)を定めている。こうした制度をどちらが使うかは、賃金差だけでは決まらない。誰が公園に子を連れて行くかという日常の風景は、比較優位と規範と制度の合成として現れる。この点は本シリーズのジェンダー研究の論文がより詳しく扱っている。
分担の観点からもう一点付け加えれば、公園時間は分割しにくいという性質がある。見守りは、途中で交代することはできても、二人で半分ずつ同時に行うことには意味が薄い。したがって公園行きは、世帯の中の誰か一人の時間をまとまった形で拘束する。この不可分性は、単身赴任や交替制勤務のように大人の在宅時間がずれる世帯で、とくに強い制約となって現れる。次節ではこの点を働き方の類型ごとに検討する。
6. 働き方の違いが公園時間をどう変えるか
公園に行ける時間の窓は、長さだけでなく「いつ開くか」によって性格が変わる。同じ90分でも、平日の午前10時に開く窓と、平日の午後6時に開く窓と、日曜の午後2時に開く窓では、行ける公園も、そこで会う人も、必要な設備も違う。窓の時刻を決める最大の要因は働き方である。本節では代表的な働き方の類型を並べ、それぞれの窓の開き方を比較する。ここで挙げる類型は説明のための整理であり、実際の世帯はこれらの組み合わせや中間形をとる。
6.1 労働時間の制度的な骨格
議論の前提として、日本の労働時間の骨格を確認しておく。労働基準法は、労働時間を原則として1日8時間・1週40時間以内と定める。2018年の働き方改革関連法による改正で、時間外労働には原則として月45時間・年360時間という上限が設けられた。育児・介護休業法は、3歳未満の子を養育する労働者について所定外労働の制限と短時間勤務の措置を、就学前の子について深夜業の制限を定めている。これらは、夕方の窓を制度の側から確保しようとする仕組みと読める。
ただし、法定の枠組みと実際の帰宅時刻の間には、通勤時間という項目が挟まる。通勤時間は労働時間には算入されないが、生活の側から見れば拘束された時間であり、公園に行ける残余を直接に削る。所定の労働時間が同じでも、片道15分の通勤と片道60分の通勤では、平日の夕方に残る時間が1時間半近く違う。ウィリアム・アロンゾが1964年に定式化したように、住まいの選択は住居費と通勤時間の交換として説明されるが、その交換の裏側では、公園に行ける時間も一緒に取引されている。
6.2 類型ごとの窓の開き方
第一に、双方がフルタイムで働く共働き世帯である。平日は保育所や学校の送迎が一日の両端を固定し、公園に使えるのは迎えのあと夕食までの短い窓に限られる。この窓では、帰路の経路上にあるか、家から数分で着くかが決定的になる。第二に、一方が就業していないか短時間勤務の世帯である。平日の日中に窓が開くため、比較的長い滞在が可能だが、乳幼児の昼寝や食事の時刻に窓が細かく区切られる。
第三に、交替制勤務である。製造業の比重が高い地域では珍しくない働き方で、平日の日中に在宅している日が生じる。この場合、平日昼の公園という一般には空いている時間帯を使えるという利点がある一方、勤務明けの睡眠時間帯と重なると窓は閉じる。窓の位置が週ごとに動くため、習慣化しにくいという特徴もある。第四に、単身赴任である。平日の育児が一人に集中するため、公園行きの不可分性——第5節で述べた、誰か一人の時間をまとまって拘束するという性質——が最も強く効く。準備の重い遠出は難しく、近所の公園への依存が高まる。
第五に、自営業や農業である。時間の裁量は大きいが、繁忙期には裁量が消える。裁量が大きいことは窓を自由に置けることを意味し、天候や子の機嫌に合わせた柔軟な利用が可能になる。第六に、在宅勤務である。通勤時間という固定費が消えるため、朝夕に窓が生まれうる。ただし在宅勤務は勤務と家庭の境界を曖昧にし、休憩時間が家事に吸収されやすいという指摘もある。窓が生まれても、それが公園に向かうとは限らない。
| 働き方の類型 | 主に開く窓 | 窓の長さ | 効いてくる条件 |
|---|---|---|---|
| フルタイム共働き | 平日の迎え後から夕食まで/週末 | 平日は短い | 帰路の経路上か、徒歩数分か |
| 片働き・短時間勤務 | 平日の日中 | 長いが細切れ | 昼寝と食事の時刻、日陰と休憩 |
| 交替制勤務 | 勤務明けを除く平日の日中 | 週ごとに動く | 習慣化しにくさ、静かな時間帯 |
| 単身赴任 | 平日の夕方(大人一人) | 短く不可分 | 近さ、準備の軽さ、見通し |
| 自営・農業 | 裁量で置ける/繁忙期は消える | 季節で変動 | 天候対応、雨上がりの状態 |
| 在宅勤務 | 朝夕・昼の休憩 | 断続的 | 通勤時間の消失、境界の曖昧さ |
この表から読み取れるのは、平日に開く窓のほとんどが短く、近さと準備の軽さに強く依存しているという点である。逆に言えば、規模が大きく設備の整った公園は、週末や裁量のある働き方の世帯に偏って使われる。公園の種別ごとの役割分担は、都市計画の階層としてだけでなく、働き方の分布に対応した時間の階層としても理解できる。
6.3 通勤時間の短さは地方都市の資源である
大都市圏と比べたとき、地方都市の生活時間には一つの優位がある。通勤時間が相対的に短いことである。通勤が短ければ、同じ所定労働時間でも平日の夕方に残る時間が長い。この残余は、徒歩圏に公園があってはじめて公園時間に変換される。近さと通勤の短さは補完的であり、片方だけでは効果が限られる。通勤に片道1時間かかる地域でいくら公園が近くても夕方の窓は開かないし、通勤が短くても徒歩圏に公園がなければ移動の固定費が残余を食いつぶす。
この補完性は、地方都市の公園政策に一つの方向を示す。大規模な拠点公園を整えることは週末の需要に応えるが、平日の需要に応えるのは徒歩圏の小さな公園である。そして平日の需要こそが、通勤時間の短さという地域の条件を活かせる部分にあたる。第9節で磐田市のデータを読み直す際には、この二層の視点を軸にする。
7. 平日夕方と週末の非対称——二つのピークと施設の役割分担
働き方の分布から生じる窓の重なりは、公園の需要を時間帯に集中させる。平日は夕方に、週末は日中に山ができる。この二つの山は、単に混む時間帯が二つあるという話ではない。山の性質が異なり、求められる公園の性質も異なる。本節では、この非対称を需要と容量の関係として整理し、施設の役割分担にどう反映されるべきかを検討する。
7.1 二つの山の性質の違い
平日夕方の山は、短時間・近距離・少人数という特徴をもつ。滞在は数十分、移動は徒歩、来訪は親一人と子という組み合わせが多くなる。求められるのは、すぐ着けること、短時間でも遊びが成立すること、日没前に切り上げられることである。週末日中の山は、長時間・遠距離・家族単位という特徴をもつ。滞在は数時間、移動は自動車を含み、来訪は複数の大人と複数の子である。求められるのは、駐車できること、長時間いても飽きないこと、トイレと日陰と休憩の場所があることである。
この違いは、同じ公園が時間帯によって別の施設として機能することを意味する。徒歩圏の小さな公園は、平日夕方には貴重な資源だが、週末には家族の目的地としては物足りない。大規模な公園は、週末には人を集めるが、平日の夕方に片道20分かけて行く対象にはならない。どちらが優れているかという問題ではなく、二つの需要にそれぞれ対応する施設群が必要だということである。都市計画が種別の階層を設けてきたのは、まさにこの需要の階層に対応するためであったと読み直すことができる。
7.2 容量はピークで決まる
施設の容量は、平均的な需要ではなくピークの需要によって規定される。公共経済学ではこれをピークロードの問題として扱う。電力や交通と同じく、公園でも駐車場の台数、トイレの数、遊具の待ち行列は、最も混む時間帯を基準に不足が意識される。週末の午後に駐車場が満車になる公園でも、平日の同じ時刻には空いている。容量を週末のピークに合わせれば平日は過剰になり、平日に合わせれば週末に不足する。
この不一致に対して、料金による調整——混雑時に価格を上げる——は、無料を原則とする都市公園には基本的になじまない。代わりに用いられるのは、時間による調整である。開園時間の設定、イベントの時期の分散、複数の公園への需要の誘導などがそれにあたる。情報の提供もこの調整の一部である。どの公園がどの時間帯に空いているかが分かれば、利用者は自分の窓に合う公園を選べる。公園のデータベースが果たしうる役割の一つは、この時間による調整を支える情報の整理にある。
7.3 日没・季節・天候が窓を動かす
平日夕方の窓は、季節によって大きく伸縮する。夏至の前後には日没が遅く、夕食前の1時間以上を屋外で過ごせるが、冬至の前後には日没が早く、勤務を終えて帰宅する頃にはすでに暗い。同じ勤務時間、同じ通勤時間でも、公園に行ける時間は季節で数十分単位で変わる。照明の有無がこの季節差を緩和する要素になるが、照明は夜間の利用や近隣への影響という別の論点も伴うため、単純に増やせばよいというものではない。
夏には別の制約が加わる。日中の高温時に屋外活動を避けるという判断は広く共有されており、環境省と厚生労働省が示す暑さ指数(WBGT)の目安も、運動や外出の可否を考える手がかりとして用いられている。結果として夏の利用は朝早い時間帯と夕方以降に押し出され、夕方の窓の混雑がさらに強まる。日陰の量や水飲み場の位置は、この時期の実効的な滞在可能時間を左右する。暑さへの対応の判断は、個々の状況に応じて保護者や関係機関に委ねられるべきものであり、本稿は時間配分への影響を指摘するにとどめる。
天候による中止は、時間配分の観点では固定費の損失として現れる。準備を済ませてから雨になれば、準備に投じた時間は回収されない。雨上がりに使えるかどうかは表面の材質に依存し、土や砂の広場は乾くまで時間がかかる。この不確実性は、公園行きの期待費用を押し上げる。屋根付きの広場や、雨の直後でも使える舗装面の存在は、この期待費用を下げる装置として働く。
7.4 ピークの分散という発想
以上を踏まえると、公園の混雑を緩和する方法は容量を増やすことだけではない。窓の位置をずらせる働き方が広がれば、ピークは自然に分散する。時差出勤、フレックスタイム、在宅勤務は、労働政策の文脈で論じられる制度であるが、公園の利用という点から見れば需要の平準化装置でもある。逆に、全員が同じ時刻に勤務を終える社会では、公園の需要も同じ時刻に集中し、施設は短い時間だけ不足し、長い時間は空いたままになる。
この見方は、公園整備と労働政策が別々の領域ではないことを示す。公園を使える時間を増やす政策は、必ずしも公園を作る政策とは限らない。勤務時間の裁量を広げること、通勤時間を短くすること、送迎の負担を減らすことは、いずれも公園の利用可能時間を増やす。ハマーメッシュが時間を最も価値ある資源と呼んだ含意は、施設の政策と時間の政策を同じ机の上で考えるべきだという点にある。
8. 反論への応答——時間配分の枠組みはどこまで有効か
ここまでの議論は、公園の利用を時間という希少資源の配分として捉えてきた。この枠組みには、いくつかの当然の反論がありうる。本節では代表的な五つを取り上げ、応答を試みる。応答は反論を退けるためではなく、枠組みが有効な範囲とその外側を見きわめるために行う。
8.1 「時間がない」は本当に制約か、それとも選好か
第一の反論は、時間がないという言い方は優先順位の表現にすぎない、というものである。同じ勤務時間の人でも、公園に行く人と行かない人がいる。したがって問題は制約ではなく選好ではないか。この指摘には一定の理がある。時間の使い方は選択であり、選択には好みが反映される。しかし、選好と制約は完全には分離できないとしても、制度によって外から与えられる部分は明確に存在する。勤務の終了時刻、保育所の開所時間、学校の下校時刻は、個人の好みでは動かせない。
さらに、選好それ自体が制約によって形づくられるという論点がある。近くに公園がなく、行けば往復40分かかる環境で育った人は、公園に行くという選択肢を最初から検討しなくなる。経済学が内生的選好と呼ぶ現象である。この場合、「行きたくない」という表明は、制約の内面化として読むべきものになる。制約か選好かという二分法よりも、制約が選好をどう形づくるかを問う方が生産的である。
8.2 子どもと過ごす時間を賃金で測ってよいのか
第二の反論は、より根本的である。子どもと公園で過ごす時間の価値を、稼げたはずの賃金で測ることは、測るべきでないものを測ることではないか。この批判は正当である。機会費用という概念は、選択の説明のために作られた道具であって、価値の序列を定めるものではない。ある行為に高い機会費用がかかることは、その行為が贅沢だという意味ではないし、機会費用が低いことは、その行為が価値が低いという意味でもない。
応答としては、次の二点を挙げたい。第一に、影の価格は個人の選択を記述する変数であって、規範ではない。第二に、ベッカーの人的資本の議論が示すように、子に注ぐ時間は消費であると同時に将来への投資でもある。投資としての側面を含めれば、公園での時間は費用の面だけでなく便益の面でも評価されるべきものになる。ただしその便益は市場に現れないため、貨幣で測ることはできない。測れないものが存在するという事実を、枠組みの限界として明示しておくことが誠実な態度である。
8.3 労働時間が減れば公園時間は増えるのか
第三の反論は、時間ができても公園には行かない、というものである。ケインズが1930年に予測した週15時間労働は実現しなかったが、仮に労働時間が短くなっても、空いた時間が公園に向かう保証はない。リンダーが論じたように、豊かさは消費に必要な時間を増やし、余暇はますます慌ただしくなる。近年では、屋内で完結し、移動も準備も要らない娯楽が大量に供給されている。これらは公園と同じ時間を奪い合う競合財であり、しかも固定費が圧倒的に小さい。
この反論には反論しきれない部分がある。ただし、費用構造の議論は依然として有効である。競合する娯楽の固定費がほぼゼロである以上、公園の側の固定費を下げることは、相対的な選ばれやすさを左右する。ロバート・パットナムが2000年の著作で描いた地域参加の衰退も、時間の制約と代替的な過ごし方の増加という二つの要因を含んでいた。公園を選んでもらうためには、行くという決断そのものを軽くするしかない。近さと準備の軽さは、まさにその決断の重さを下げる要素である。
8.4 人は本当に合理的に時間を配分しているのか
第四の反論は、時間配分理論が前提とする合理的な計算を、疲れた人間は行っていない、というものである。仕事を終えた夕方に、往復時間と滞在時間を比べて最適な公園を選ぶ人はいない。実際に働いているのは、習慣とその日の余力である。この指摘は正しい。しかし、習慣が形成される過程には費用構造が効いている。近く、準備が軽く、失敗のリスクが小さい行動は反復されやすく、反復されればやがて計算を要しない習慣になる。
つまり合理性の仮定を緩めても、結論の方向は変わらない。むしろ、決定の負荷が高い状況では、固定費の低さの重要性は増す。疲れているときに選ばれるのは、考えなくても行ける場所である。この点で、公園までの経路の分かりやすさ、出入口の見つけやすさ、雨上がりでも使えるかどうかといった情報の入手しやすさは、時間費用と並ぶ実質的な障壁になる。
8.5 公園以外の代替物を無視していないか
第五の反論は、公園がなくても子は遊べる、というものである。庭、道路の隅、学校の校庭、商業施設の遊び場、児童館。これらはいずれも公園の代替物である。時間配分の観点から見ると、代替物の比較で効くのはやはり固定費である。庭は移動時間ゼロだが、面積と設備に限りがある。商業施設は雨天でも使えるが、貨幣費用がかかり、移動も長い。児童館は開館時間という制約をもつ。公園の位置は、この選択肢の集合の中で、固定費が低く貨幣費用がゼロで、しかし天候と時刻に左右されるという座標にある。
註:代替物の比較は、公園が優れていると主張するために行うのではない。世帯によって最適な選択は異なり、雨の日に屋内施設を選ぶことも、庭で済ませることも合理的である。本稿の関心は、選択肢の集合の中で公園が占める位置を、費用の構造から明確にすることにある。
9. 磐田市の公園への示唆——二層構造として読み直す
ここまでの枠組みを、磐田市の公園に当てはめてみる。当サイト(ATAWI PARK)は、磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」94行と、市の施設ガイドにのみ掲載されている6園を合わせた100園を収録している。種別の内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、法対象外・その他6園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園である。この構成を、第7節で述べた平日層と週末層という二層の視点から読み直す。
9.1 街区公園51園という徒歩圏の厚み
100園のうち半数を超える51園が街区公園である。街区公園は都市公園法施行令の目安で誘致距離250メートル・標準面積0.25ヘクタールとされる種別であり、第4節の翻訳に従えば往復およそ7分前後の固定費に対応する。この層の厚みは、平日夕方の短い窓に応えるための資源である。勤務を終えて帰宅し、夕食までの30分から1時間という細い窓に収まる公園がどれだけ身近にあるか。その問いに対する磐田市の答えの半分は、この51園が担っている。
街区公園の具体例として、市の施設ガイドの記載を挙げれば、豊田本郷公園(豊田・1,999平方メートル)には複合遊具、スプリング遊具、砂場、バスケットゴール、多目的トイレがあるとされる。富士見公園(見付・3,202平方メートル)には滑り台、ブランコ、ジャングルジム、鉄棒、砂場、トイレがあるとされる。磐田ららシティ公園(豊田・4,097平方メートル)には幼児用滑り台、健康遊具、多目的トイレがあるとされる。いずれも数千平方メートル規模で、長時間の滞在よりも短時間の反復利用に向いた構成である。
他方、街区公園の中には規模の小さいものもある。見付本通広場公園は372平方メートルで、施設ガイドの記載は多目的トイレのみである。都市緑地に分類される園にはさらに小さいものがあり、二之宮東第2緑地は17平方メートル、豊田上新屋ポケットパークは156平方メートルである。これらは滞在の場というより、移動の経路上に置かれた休憩点として読むのが自然である。第4節で述べた結合された移動の観点からは、経路上の小さな緑地は「立ち寄りの固定費がほぼゼロの点」として機能しうる。
9.2 週末層——大規模園と駐車場33園
週末の長い窓に対応するのは、大規模な公園である。竜洋海洋公園(総合公園・竜洋)は221,722平方メートル、かぶと塚公園(総合公園・見付)は106,982平方メートル、つつじ公園(風致公園・見付)は61,937平方メートル、磐田スポーツ交流の里ゆめりあ(運動公園・向陽)は57,500平方メートル、兎山公園(地区公園・御厨)は56,193平方メートル、福田公園(総合公園・福田)は49,620平方メートル、中央公園(地区公園・中泉)は41,642平方メートル、安久路公園(地区公園・御厨)は32,001平方メートルである。
週末層の利用を成り立たせる条件のうち、時間費用の観点から重要なのが駐車場である。当サイトの整理では、市の施設ガイドに駐車場ありの記載がある、または当サイトが有と判定した園は33園である。自動車での来訪は、乗り降りと駐車の時間を含めて固定費が大きいが、その代わりに長い滞在を可能にする。逆に言えば、駐車場のない大規模園は、週末層の需要を受け止めきれない可能性がある。この点は、第7節で述べたピークロードの問題として、週末の午後に最も強く現れることになる。
9.3 トイレ69園という滞在時間の上限
オープンデータ94行の集計では、トイレ有が69園、車いす対応トイレ有が34園、砂場有が43園、遊具有が64園である。このうちトイレの有無は、時間配分の観点ではとくに重要な意味をもつ。乳幼児を連れた滞在では、トイレが近くにないことが滞在可能時間の上限を実質的に決めてしまう。トイレのない公園は、第5節で述べた準備の重さ——出発前にすべて済ませ、短時間で切り上げる計画を立てる——を家庭側に押し戻す。設備の有無は快適性の指標であると同時に、滞在時間の制約条件である。
設備の欠けている園がすぐに劣ると言いたいわけではない。たとえば、めがねばし公園(見付・690平方メートル)はブランコ、滑り台、砂場があるとされるが、トイレの記載はない。こうした園は、家から数分の距離にあって短時間だけ使う園として設計されているとも読める。近さと設備は代替的な関係にあり、近ければトイレのために一度帰ることができる。距離と設備を切り離して評価するのではなく、往復時間と滞在可能時間の組み合わせとして評価する必要がある。
9.4 地区ごとの偏在と時間費用
9地区の園数は、豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園である。園数の多い地区では徒歩圏に公園がある確率が高く、平日夕方の固定費が下がりやすい。園数の少ない地区では、同じ30分の窓で行ける公園が限られる。ただし園数は面積や人口を考慮していない指標であり、この数字だけで充足の度合いを論じることはできない。地区の広さや住宅の分布によって、園数が少なくても徒歩圏が確保されている場合もありうる。
時間費用の観点から本来必要なのは、園数ではなく、住宅から最寄りの公園までの実際の歩行距離の分布である。直線距離ではなく、道路をたどった距離、そして幹線道路を横断する必要があるかどうかまで含めた距離である。横断歩道での待ち時間や迂回は、往復の固定費を数分単位で押し上げる。この種の測定はオープンデータと地図情報から機械的に算出できる部分があり、当サイトの今後の課題の一つである。
9.5 踏査で記録すべき項目
当サイトの踏査は2026年8月時点でまだ始まっておらず、園内の様子を見たうえで述べられることはない。本稿の枠組みからは、今後の踏査で記録すべき項目として次のようなものが導かれる。いずれも、時間費用と滞在可能時間に直接影響する要素である。
- 出入口の数と位置——どの方向から来ると近いか。日常の移動線上にあるか
- 最寄りの生活道路から園内までの経路——横断が必要か、信号待ちが生じるか
- ベンチの数と日陰の位置——親の側の休息という結合生産が成立するか
- トイレと水道の位置および利用できる時間帯——滞在可能時間の上限を左右する
- 駐車場の台数と入りやすさ——週末層の需要をどこまで受け止められるか
- 雨上がりに使える面があるか——中止による固定費の損失をどれだけ避けられるか
- 夕方の見通しと明るさ——冬季の窓の短さをどこまで補えるか
これらの記録は、公園の優劣を判定するためのものではない。同じ公園でも、平日夕方に30分だけ使う人と、週末に3時間過ごす人では、必要な情報が違う。時間の窓に合わせて公園を選べるようにすることが、データベースとしての当サイトの役割である。なお、公園の管理は磐田市都市整備課(電話 0538-37-4806)が担っており、設備や利用に関する正確な情報は市の施設ガイドと担当課の案内によるべきである。
10. 結論と今後の課題
本稿は、公園に行く時間はどこから来るのかという問いを立て、労働経済学の時間配分理論を手がかりに答えを探ってきた。得られた見取り図は次のようにまとめられる。公園の利用は、一日24時間から労働・通勤・家事育児・睡眠を差し引いた残余のうえに成り立つ。残余の長さと時刻は働き方によって決まり、その残余が実際に公園時間へ変換されるかどうかは、往復の移動時間と準備・後始末という固定費の大きさによって決まる。近さとは、この固定費を下げる装置である。
10.1 三つの結論
第一に、貨幣価格がゼロであることは、費用がないことを意味しない。公園の利用者は時間で支払っており、そのため利用は時間の余裕によって選別される。所得による排除を避けるための無料原則が、時間による選別を生むという逆説がここにある。この逆説を緩和する方法は、施設を無料にすることではなく、時間費用そのものを下げること——近くにあること、準備が軽いこと、経路上にあること——にある。
第二に、平日と週末では公園に求められるものが異なり、両者は代替できない。平日夕方の短い窓に応えるのは徒歩圏の小さな公園であり、週末の長い窓に応えるのは駐車場と設備を備えた大規模な公園である。都市計画の種別の階層は、この時間の階層に対応する仕組みとして読み直すことができる。どちらか一方だけを充実させても、公園の利用は片側に偏る。
第三に、公園を使える時間を増やす政策は、公園を作る政策とは限らない。勤務時間の裁量、通勤時間の長さ、送迎の負担、育児期の勤務時間短縮の制度は、いずれも公園に行ける窓の長さと時刻を左右する。逆に、施設だけを整えても利用者の時間の制約が変わらなければ、整った施設は使われないまま残る。公園整備と労働・保育の制度は、同じ時間という資源をめぐって連動している。
10.2 本稿の限界
本稿は文献整理と概念分析にとどまり、実証を行っていない。磐田市の世帯がどの時間帯にどの公園を使っているかについて、本稿は何も測っていない。提示したのは仮説であって、事実の記述ではない。また、時間配分理論そのものにも限界がある。第8節で述べたとおり、この枠組みは選択の説明には有効だが、子と過ごす時間の価値を測ることはできない。測れない便益が存在するという前提のうえで、費用の側だけを分析している点は、あらかじめ断っておくべき制約である。
さらに、本稿の類型化は説明のための単純化である。現実の世帯は、複数の働き方を組み合わせ、季節や子の年齢によって配分を変える。祖父母や地域の支援が入る世帯では、時間の制約は本稿が描いたものと大きく異なる。単身の親、きょうだいの多い世帯、障害のある子と暮らす世帯では、移動と準備の固定費の性質そのものが違ってくる。類型からこぼれる部分にこそ、公園政策が向き合うべき課題が残っている。
10.3 今後の課題
第一の課題は、距離の実測である。オープンデータと地図情報を組み合わせれば、住宅地から最寄りの公園までの道路距離、幹線道路の横断の有無、経路の勾配を機械的に算出できる。これは踏査を待たずに進められる作業であり、誘致距離250メートルという制度上の目安が、磐田市の地形と道路網のもとで実際に何分に相当するかを検証する足がかりになる。
第二の課題は、滞在可能時間を左右する要素の記録である。トイレ、水道、日陰、ベンチ、雨上がりの状態は、いずれも滞在の上限を決める。これらは踏査によってしか確かめられない。第9節に挙げた項目を、100園について同じ基準で記録していくことが、当サイトの次の段階の仕事になる。記録が揃えば、利用者は自分の持ち時間に合う公園を選べるようになる。
第三の課題は、生活時間の統計との接続である。総務省統計局の社会生活基本調査は、生活時間の配分を継続的に把握してきた統計であり、地域別・世帯類型別の分析が可能な範囲がある。本稿が概念として提示した「窓の長さと時刻」を、こうした統計と突き合わせて検討することは、次の論考の課題としたい。時間の側の記述と、空間の側の記述を同じ表に載せることができれば、公園の議論はより実際的なものになるはずである。
最後に一つ。公園に行く時間がどこから来るのかという問いは、結局のところ、その社会が何に時間を使っているのかという問いに帰着する。ケインズが1930年に思い描いた、余暇の使い方こそが問題になる社会は、まだ訪れていない。それでも、家から数分の場所に、無料で入れて、子が走り回れる土地があるという事実は、時間の乏しい生活の中で確保されている数少ない余地である。その余地をどう保つかは、公園の設計の問題であると同時に、働き方の問題でもある。
参考文献
- ゲーリー・S・ベッカー(1965)「A Theory of the Allocation of Time」(The Economic Journal, vol.75, no.299)
- ゲーリー・S・ベッカー(1981)『A Treatise on the Family』(Harvard University Press)
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- ジョン・メイナード・ケインズ(1930)「孫の世代の経済的可能性」(『ケインズ 説得論集』山岡洋一訳、日本経済新聞出版社、2010 所収)
- ソースティン・ヴェブレン(1899)『有閑階級の理論』(高哲男訳、ちくま学芸文庫、1998)
- ジュリエット・B・ショア(1991)『働きすぎのアメリカ人——予期せぬ余暇の減少』(森岡孝二ほか訳、窓社、1993)
- 森岡孝二(2005)『働きすぎの時代』(岩波新書)
- ウィリアム・アロンゾ(1964)『Location and Land Use』(Harvard University Press)
- ヤコブ・ザハヴィ(1979)『The UMOT Project』(U.S. Department of Transportation)
- ロバート・D・パットナム(2000)『孤独なボウリング——米国コミュニティの崩壊と再生』(柴内康文訳、柏書房、2006)
- 労働基準法(昭和22年法律第49号)
- 働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律(平成30年法律第71号)
- 育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律(育児・介護休業法、平成3年法律第76号)
- 総務省統計局「社会生活基本調査」(生活時間に関する統計)
- 総務省統計局「労働力調査」
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。