計画・工学機械学習

公園データに機械学習は使えるか——予測・分類・そして過信への警戒

富士ヶ丘サービス株式会社 大石浩之

学問領域:機械学習 公開・更新 2026-08-17 本文 約20,674字 読了目安 38分

要旨

近年、行政の保有するデータに機械学習を適用して施策の優先順位を決めるという提案を、さまざまな分野で目にするようになった。公園も例外ではなく、利用者数の予測、写真からの遊具の分類、市民の要望の自動整理、改修の優先度づけといった応用が語られる。本稿の目的は、機械学習という技術が何をしているのかを専門外の読者にも分かる言葉で整理したうえで、公園という対象にそれが本当に使えるのか、使えるとして何ができ、何ができないのかを検討することである。

方法は文献整理と概念分析である。アーサー・サミュエル(1959)による学習する機械の実験、ローゼンブラット(1958)のパーセプトロンとミンスキー・パパート(1969)による限界の指摘、ヴァプニク(1995)の統計的学習理論、ブライマン(2001)の「二つの文化」、ボックス(1976)の「すべてのモデルは間違っている」、パール(2018)の因果のはしご、オニール(2016)のアルゴリズム批判を手がかりに、教師あり学習と教師なし学習、訓練とテストの分割、過学習と正則化、特徴量、評価指標、相関と因果の区別という六つの論点を立てる。なお本稿は機械学習の計算そのものを実行しておらず、精度や誤差といった数値は一切示さない。

検討の結果として本稿が主張するのは、次の三点である。第一に、当サイト(ATAWI PARK)が収録する磐田市の都市公園100園という標本は、機械学習にとってあまりに小さい。人間が全件を目で見渡せる規模のデータでは、機械学習は不要であるだけでなく、過学習と説明不能を招く点で不適切ですらある。第二に、学習データの偏りは、予測を通じて政策判断の偏りとして再生産される経路をもつ。第三に、予測は相関の要約であって、介入の根拠にはならない。公園データについてまず取り組むべきは、記述統計と地図による可視化、そして現地の踏査によって欠けている変数そのものを作ることである。

キーワード機械学習過学習教師あり学習評価指標データの偏り相関と因果磐田市

1. はじめに——問題の所在

行政が保有するデータに機械学習を使えばよい、という提案を耳にする機会が増えた。道路の傷みを写真から自動で見つける、税の滞納を予測する、相談窓口の記録を自動で分類する——こうした話題は自治体の広報にも研究会の議事にも登場する。公園もその例外ではない。利用者数を予測して人員配置を決める、写真から遊具の種類や劣化を判定する、市民の要望を自動で分類する、改修や点検の優先順位を機械に決めさせる。いずれも、一見すると合理的で、しかも近代的に響く提案である。

本稿の問いは、その提案を頭から否定することでも無批判に受け入れることでもなく、次のように立てられる。公園という対象について、機械学習は何をしてくれるのか。そして、何をしてくれないのか。この問いに答えるには、まず機械学習という技術が実際には何をしているのかを、専門用語に頼らずに理解する必要がある。技術の中身を知らないまま、できることを過大に見積もるのも、逆に得体の知れないものとして遠ざけるのも、どちらも判断としては同じ質の誤りである。

この問いを立てる理由は三つある。第一に、公園に関するデータは、他の行政分野に比べて著しく乏しい。学校や図書館と違って公園には受付がなく、誰がいつ何人来たかという記録が原則として存在しない。機械学習は、学ぶための材料がなければ何も学べない。第二に、公園は生活の場であって実験場ではない。予測が外れたときに困るのは、そこで遊ぶ子どもとその家族である。第三に、公園データは、市町村の単位で見ればきわめて小さい。数十から数百という件数は、機械学習が力を発揮するとされる規模とは桁が違う。

データ問い見極め
図1本稿の問いは「機械学習で何ができるか」だけでなく「何ができないか」を同じ重さで問うことにある。技術の適用範囲を見極めるための整理を試みる。

1.1 方法と、本稿がしていないこと

方法は文献整理と概念分析である。機械学習の歴史のなかで、学習・汎化・過学習・評価という概念を確立した文献を手がかりに、公園という具体的な対象へ概念を当てはめていく。取り上げるのは、教科書に広く載る実在の確かな文献に限った。数式は用いず、言葉で説明する。専門用語は初出で説明する。

読者として想定するのは、磐田市周辺で子育てをしている人、公園の整備や管理に関わる行政や地域の関係者、そしてデータの扱いを学んでいる学生である。公園ガイドを名乗るサイトがなぜ機械学習を論じるのか、と思われるかもしれない。理由は単純で、当サイト自身が公園のデータを集めて公開する立場にあり、そのデータをどう使うべきか、どう使うべきでないかを自分に対して問う必要があるからである。データを持つ側が、自分の持つデータの限界を先に言葉にしておくことには意味がある。

註:本稿を書くにあたり、当サイトは機械学習の計算を一切実行していない。したがって、正解率・誤差・重要度といった数値は本稿には現れない。もし本稿がそうした数値を掲げれば、それは実行していない計算の結果を装うことになり、本稿がまさに批判しようとしている態度そのものになる。本稿が語るのは、計算の結果ではなく、計算の前提と限界についてである。

素材として参照するのは、当サイト(ATAWI PARK)が収録する磐田市の都市公園100園のデータである。内訳は磐田市オープンデータ「都市公園一覧」の94行と、市の施設ガイドのみに掲載されている6園であり、面積・種別・トイレや遊具の有無といった項目を含む。ただし当サイトの現地踏査はこれからであり、園内の実際の状態や利用の様子について当サイトが確かめた事実はまだない。この「材料がまだない」という状態こそ、本稿の議論にとって重要な出発点になる。

1.2 本稿の構成

第2節で機械学習の系譜と基礎概念を整理する。第3節で教師あり学習・教師なし学習の別と、訓練とテストの分割という手続きを説明する。第4節では過学習と正則化を扱い、「よく当たること」が必ずしも「よいモデル」を意味しないことを述べる。第5節では特徴量と評価指標、すなわち何を入力し何を「よい」とみなすかの問題を検討する。

第6節で公園分野に想定される四つの応用——利用者数の予測、写真からの遊具分類、要望テキストの分類、優先度づけ——を個別に検討する。第7節では、学習データの偏りが政策判断の偏りとして再生産される経路と説明可能性の問題を、第8節では相関と因果の区別を論じる。第9節で磐田市の公園データへの具体的な示唆を述べ、第10節で結論と今後の課題をまとめる。

あらかじめ結論の一部を述べておく。本稿は、機械学習という技術そのものを否定しない。画像や言語のように、人間が数え上げられないほど大量で複雑なデータについて、機械学習は他の手段では届かない仕事をする。しかし、市町村の公園という対象は、少なくとも現時点ではその条件を満たしていない。技術を使わないという判断もまた、技術についての判断である。使わない理由を言葉にできることが、使うかどうかを冷静に決める力になる。

2. 先行研究と概念の整理——「学習する機械」の系譜

機械学習という言葉を広めたのは、IBM の技術者アーサー・サミュエルである。サミュエル(1959)は、チェッカーというボードゲームを指すプログラムが、自分自身との対戦を繰り返すうちに次第に強くなっていく実験を報告した。彼はこれを、明示的に手順を書き込まなくても計算機が経験から改善する仕組みとして説明した。ここには機械学習の核心が既に現れている。すなわち、人間が規則を書き下すのではなく、データの中から規則にあたるものを取り出すという発想である。

ただしその起源はもっと古い。確率を経験から更新するという考え方はベイズ(1763)に遡り、観測と誤差の関係を扱う最小二乗法は十九世紀初頭に確立した。フィッシャー(1936)は、複数の測定値から個体をいくつかの群に分類する判別分析を示した。これは今日の分類問題の直接の祖先である。つまり機械学習の多くの部分は、統計学が長い時間をかけて育ててきた道具の再発見と拡張である。新しいのは、計算機の速度と、扱えるデータ量である。

2.1 期待と冬——パーセプトロンの教訓

チューリング(1950)は、機械が思考しうるかという問いを、模倣ゲームという操作的な問いに置き換えた。その延長線上でローゼンブラット(1958)は、脳の神経細胞をごく単純化した数理モデルとしてパーセプトロンを提案する。入力に重みを掛けて足し合わせ、しきい値を超えるかどうかで出力を決める。誤りが出れば重みを少しずつ調整する。この単純な仕組みが図形を識別できたことは、当時大きな期待を呼んだ。

しかしミンスキー・パパート(1969)は、単層のパーセプトロンには原理的に解けない問題があることを数学的に示した。期待が過大であったことが明らかになり、研究資金は縮小した。いわゆる冬の時代である。この経緯は、本稿の主題にとって教訓的である。新しい技術は、できることの範囲が正確に測られる前に期待が先行し、期待が裏切られると今度は不当に軽んじられる。技術の適用範囲を冷静に見極める作業は、流行の最中にこそ必要になる。

期待限界の発見冬の時代
図2パーセプトロンをめぐる期待と冬の往復は、新技術の適用範囲が正確に測られる前に期待が先行しやすいことを示す歴史的な事例である。

2.2 二つの文化——説明するモデルと当てるモデル

現代の議論を整理するうえで有用なのが、ブライマン(2001)の「二つの文化」という区分である。彼は、データを扱う立場には二つの文化があるとした。一つは、データを生み出した仕組みを確率モデルとして書き下し、係数の意味を解釈しようとする文化。もう一つは、生み出した仕組みを問わず、入力から出力への対応をとにかく正確に当てることを目指す文化である。前者は説明を重んじ、後者は予測精度を重んじる。

この区分は優劣ではなく目的の違いである。ヴァプニク(1995)が定式化した統計的学習理論は、後者の文化に理論的な足場を与えた。学習とは、手元のデータに合わせることではなく、まだ見ていないデータに対しても当たること——汎化——を目指す営みであり、そのためには当てはめの自由度を制御しなければならない、というのがその中心的な主張である。ヘイスティらの教科書(2009)は、この考え方を体系的に整理している。

公園という対象に照らすと、この区分は実務的な意味をもつ。行政が施策を決めるとき、求められているのはたいてい「なぜそうなるのか」の説明であって、「よく当たる」ことそのものではない。行政手続法が処分に理由の提示を求めているのも、判断の筋道が言葉で示せることを前提としているからである。予測精度を最優先する文化の道具を、説明責任が求められる場面にそのまま持ち込むと、説明できない判断が生まれる。

観点説明を重んじる立場予測を重んじる立場
主な目的仕組みの理解・要因の解釈未知の事例を正確に当てる
モデルの形単純で係数に意味がある複雑でよい・中身は問わない
よさの基準適合度と解釈のもっともらしさ未知データでの誤りの少なさ
行政での使いどころ理由を示す必要がある判断大量処理の下ごしらえ
公園での例面積と設備の関係を記述する写真の分類を機械に下請けさせる

用語についても一言しておく。近年は人工知能という言葉が広く使われ、機械学習との区別が曖昧なまま議論されることが多い。人工知能は知的とみなされる働きを機械に行わせようとする分野全体の呼び名であり、機械学習はその中で、規則を人が書くのではなくデータから取り出す手法の総称である。さらにその一部が、多層の構造をもつモデルを用いる深層学習である。三つを同義に扱うと、深層学習の成果を根拠に、まったく条件の異なる場面での適用が正当化されてしまう。

さらに二つの警句を添えておきたい。ボックス(1976)は、すべてのモデルは間違っているが、なかには役に立つものがある、と述べた。モデルは現実の縮約であり、縮約である以上どこかで現実からずれている。問題は正しいかどうかではなく、どの目的にどこまで使えるかである。もう一つはキャンベル(1976)の指摘で、ある指標が社会的な意思決定に使われるほど、その指標は歪みやすくなり、測ろうとしていた事柄を歪めてしまう。予測を政策の物差しにする場面では、この二つを繰り返し思い出す必要がある。

3. 機械学習は何をしているのか——教師あり・教師なし・訓練とテスト

機械学習という言葉は魔法めいて聞こえるが、していることは案外そっけない。与えられた例をたくさん眺めて、入力と出力の対応をなるべくうまく再現する関数の形を、あらかじめ用意した候補の集合の中から選ぶ。それだけである。ここで「学習」と呼ばれているのは、人間の学習とは似て非なるもので、正確には調整である。誤りが小さくなる方向へ、内部の数値を少しずつ動かしていく。理解も納得も動機もそこにはない。

3.1 三つの学習の型

機械学習は大きく三つに分けられる。第一が教師あり学習で、入力と、それに対する正解——たとえば写真とその写真に写っている遊具の名前——の組を大量に与え、新しい入力に対して正解を言い当てる仕組みを作る。正解が数値なら回帰、いくつかの区分なら分類と呼ばれる。第二が教師なし学習で、正解は与えず、データの中に潜む似たもの同士のかたまりや、まとめて表現する軸を見つける。かたまりを見つける操作をクラスタリングという。

第三が強化学習で、正解ではなく行動の結果としての報酬を手がかりに、よい行動の選び方を身につける。サミュエルのチェッカーはこれに近い。公園の分野で現実的に検討されうるのは、ほぼ最初の二つである。強化学習は、試行錯誤を大量に繰り返せる環境——ゲームや模擬環境——を前提とするが、現実の公園は試行錯誤の場にできない。ある配置を試して失敗しました、では済まないからである。

与えるものできること公園で考えうる例
教師あり学習入力と正解の組新しい入力の値や区分を当てる写真から遊具の種類を判定する
教師なし学習入力のみ似たもののかたまりや軸を見つける設備の組合せで公園を類型に分ける
強化学習行動と報酬報酬を高める行動の選び方現実の公園では前提が成り立ちにくい

ここで注意したいのは、教師あり学習には「正解」が要るという当たり前の事実である。正解は自然に存在するものではなく、誰かが一つひとつ付ける。写真に写る遊具の名前も、要望文が苦情なのか提案なのかの区別も、人間が判断して付けたラベルである。したがって教師あり学習は、人間の判断を大量に写し取り、それを高速で反復する装置だと言ってよい。ラベルを付けた人の基準が偏っていれば、その偏りごと反復される。

3-6正解づけ例の集まり当てる
図3教師あり学習は、人間が一つずつ付けた正解ラベルを大量に写し取って反復する装置である。ラベルの基準が偏れば、その偏りごと反復される。

また、モデルという語の意味にも注意がいる。日常語としてのモデルは模型や手本を指すが、ここでのモデルは、入力を受け取って出力を返す関数の形と、その内部の数値の組を指す。したがって、モデルが何かを理解しているとか、意図をもっているという言い方は比喩にすぎない。出力が流暢であるほど、この比喩は本気にされやすい。誰かがモデルの判断と言うとき、それが人の判断と同じ種類のものではないことを、その都度確かめる必要がある。

3.2 訓練・検証・テストの分割

機械学習の手続きで最も重要なのが、データの分割である。手元のデータを、モデルを調整するための訓練データ、調整の途中で設定を選ぶための検証データ、そして最後に一度だけ性能を測るためのテストデータに分ける。なぜ分けるのか。訓練に使ったデータで性能を測れば、答えを見ながら答案を採点するのと同じことになり、いくらでもよい成績が出せてしまうからである。

この分割は、機械学習が目指すものが「手元のデータへの当てはまり」ではなく「まだ見ていないデータへの当たり」であること——汎化——を、手続きとして体現している。逆に言えば、この分割を経ていない数値は、性能の証拠にならない。行政の場でモデルの性能が示されたとき、最初に確かめるべきは、その数値がどのデータで測られたのかである。訓練データ上の数値であれば、それは自己申告にすぎない。

分割にはもう一つ、見落とされやすい落とし穴がある。データ漏れ(リーク)と呼ばれる現象で、テストデータの情報が何らかの経路で訓練に混ざり込むと、性能が実力以上に見える。公園データでは、同じ公園の複数の写真を訓練とテストに散らしてしまう、という形で起こりやすい。同じ滑り台を別角度から撮った写真は独立した事例ではない。分割は、公園という単位で行わなければ意味をなさない。

なお、正解が一部にしか付いていない場合に、正解のないデータも併せて使う半教師あり学習や、データ自体から擬似的な問題を作って学ばせる自己教師あり学習といった手法もある。これらは正解づけの費用を下げる工夫として実務上重要だが、正解の必要をなくすわけではない。最終的にモデルが正しく働いているかを確かめる段階では、人間が付けた正解に照らすほかない。費用が下がるのは訓練の段階であって、検証の段階ではない。

さらに、時間の扱いも分割の質を左右する。将来を予測したいのであれば、過去のデータで訓練し、それより後のデータで検証しなければならない。時間を無視してランダムに分けると、未来の情報で過去を当てるという、現実にはありえない条件で性能を測ることになる。公園でいえば、改修後の状態を知ったうえで改修前の必要性を当てるようなもので、実務では何の役にも立たない数値が出る。

4. 過学習と正則化——「よく当たる」ことの落とし穴

機械学習を理解するうえで最も大切な概念を一つだけ挙げるとすれば、過学習である。過学習とは、モデルが手元のデータに合わせ込みすぎて、そのデータに固有のたまたまの凹凸まで覚えてしまい、新しいデータに対しては当たらなくなる現象をいう。試験勉強にたとえるなら、過去問の答えを丸暗記した状態である。同じ問題が出れば満点だが、少し形を変えられると解けない。

過学習が起きる条件は明快である。モデルの自由度——調整できる数値の多さ——に対して、学ぶ材料であるデータが少ないときに起きる。点が二つしかなければ、その二点をぴったり通る直線は無数に引ける。どれが正しいかを決める材料が足りないのだから、どれを選んでも「手元のデータには完璧に当たる」。この状態でモデルが示す精度は、実力ではなく、材料不足の反映である。

4.1 偏りと散らばりの綱引き

統計的学習理論は、この事情を偏り(バイアス)と散らばり(バリアンス)の綱引きとして説明する。モデルを単純にしすぎると、そもそも現実の形を捉えきれず、系統的にずれる。これが偏りである。反対にモデルを複雑にしすぎると、データが少し変わるだけで答えが大きく揺れる。これが散らばりである。どちらか一方をゼロにはできず、両者の和が最も小さくなるあたりに、ちょうどよい複雑さがある。

問題は、そのちょうどよさが、データ量によって動くことである。データが多ければ複雑なモデルを支えられるが、少なければ単純なモデルにとどめるほかない。深い層をもつモデルが目覚ましい成果を上げているのは、画像や言語のように事例が桁違いに多い領域である。事例が数十から数百という領域で同じ道具を使っても、支える材料がないので、綱引きは散らばりの側に振り切れる。

偏り複雑さ揺れ
図4モデルを複雑にするほど手元のデータには当たるが、新しいデータへの答えは揺れやすくなる。ちょうどよい複雑さはデータ量によって決まる。

4.2 正則化と交差検証——歯止めの技法

過学習への歯止めとして最もよく使われるのが正則化である。これは、モデルの当てはまりのよさだけを追わせず、複雑さそのものに罰点を課す仕組みをいう。当てはまりが同じくらいなら単純なほうを選べ、という指示をあらかじめ組み込むわけである。発想としては、必要のない仮定を増やすなというオッカムの剃刀に近い。単純であることを、美的な好みではなく、汎化のための実務的な要請として扱う点が特徴である。

もう一つが交差検証である。データを何等分かして、順番に一つを検証用に取り置き、残りで訓練する。これを繰り返して成績を平均する。データが少ないときに、限られた材料をやりくりして汎化性能を推し量る工夫である。ただしこれは材料不足を和らげる工夫であって、材料を増やす魔法ではない。分割を細かくしても、そこにない情報は出てこない。

さらに、次元の呪いと呼ばれる現象がある。特徴量——モデルに与える入力項目——の数が増えるほど、その組合せの空間は急速に広がり、同じ件数のデータは空間の中でまばらになる。項目を増やせば情報が増えるように思えるが、実際には、まばらな空間の中で無理に線を引く結果になり、偶然の一致を規則と取り違えやすくなる。項目を増やすことと材料を増やすことは、まったく別の話である。

実務的な含意を一つ挙げておく。誰かがモデルの精度を示したとき、確かめるべきことは三つある。第一に、その数値は訓練に使っていないデータで測られたか。第二に、比較の基準となる素朴な方法——たとえば、いつも同じ答えを返す、あるいは前年と同じ値を返す——と比べて、どれだけ上回っているか。第三に、事例の数はいくつか。事例が少なければ、成績そのものが大きく揺れるため、小数点以下の差は意味をなさない。

三つめは、少ないデータで交差検証を行うときにとくに効いてくる。分け方を変えるだけで成績が上下するなら、示された数値は一つの偶然にすぎない。誠実な報告は、単一の数値ではなく、分け方を何度も変えたときの散らばりを併記する。散らばりが大きいという報告は、性能が悪いという報告よりも有益である。どこまで信じてよいかが分かるからである。

ここまでの議論は、本稿が扱う磐田市の公園データにそのまま突き刺さる。当サイトが収録するのは100園であり、オープンデータから得られる項目は種別・面積・トイレ・車いす対応トイレ・砂場・遊具の有無といった十数個にとどまる。事例が100、項目が十数個という比率は、機械学習が力を発揮する条件からほど遠い。この規模で複雑なモデルを立てれば、得られるのは規則ではなく、この100園に固有の偶然の模様である。

5. 特徴量と評価指標——何を入力し、何を「よい」とするか

機械学習の性能を決めるのは、しばしばモデルの種類ではなく、何を入力するかである。モデルに与える入力項目を特徴量という。公園のデータでいえば、面積、種別、地区、トイレの有無、遊具の有無といった項目がそれにあたる。特徴量を工夫して作り直す作業——面積をそのまま使うか対数にするか、設備をいくつかまとめて「乳幼児向けの設備の数」という項目に作り替えるか——は、実務では中心的な仕事である。

ここで見落とされやすいのは、特徴量は「測れたもの」に限られるという制約である。公園について本当に知りたいのは、木陰が涼しいか、見通しがよいか、道路から飛び出しやすくないか、ベンチに座って子どもを見ていられるか、といった性質だろう。しかしこれらは、オープンデータの項目には現れない。現れないものは特徴量にできず、特徴量にできないものはモデルの判断に入らない。モデルは、測れた世界の中だけで世界を語る。

特徴量の設計には、既に価値判断が入り込んでいる。同じ公園の広さを表すにも、敷地面積をそのまま使うか、周辺人口で割った値を使うか、遊べる平場の広さを使うかで、モデルが見る世界は変わる。敷地面積を選べば、駐車場や競技施設の広い公園が大きく見える。平場の広さを選べば、小さくても開けた広場が評価される。どれが正しいということはなく、何を大切だと考えるかの表明である。技術的な前処理という顔をして、実は方針が決まっている。

5.1 欠測は偶然ではない

値が欠けていること——欠測——も、単なる不便ではなく、それ自体が情報を含む。磐田市のデータでいえば、法の対象外とされる6園は面積が不明であり、市の施設ガイドに個別ページがある園は77園で、残りには園内施設の記載がない。この欠け方は、くじ引きのようにばらばらに生じたものではない。制度上の位置づけや、管理の経緯や、記載の優先順位が反映されている。

欠測がランダムでない場合、欠測のある行を捨てるという素朴な処理は、標本の性格を静かに変えてしまう。記載の薄い園を捨てれば、残るのは記載の厚い園ばかりであり、そこから学ばれた規則は「よく記録されている公園」についての規則になる。欠測をどう扱うかは技術的な細部に見えて、実は何についての知識を作っているのかを決める、きわめて実質的な選択である。

測れた項目見えない性質欠測
図5モデルは測れた項目の世界だけで判断する。木陰の涼しさや見通しのよさのように記録されていない性質は、最初から判断に入らない。

5.2 「よい」の定義——評価指標をめぐって

モデルの良し悪しを測る物差しを評価指標という。分類の場合、最も素朴なのは正解率、すなわち全体のうち何件を当てたかである。しかしこの指標は、偏ったデータでは容易に人を欺く。仮に、点検で不具合が見つかる遊具が全体のごく一部だとしよう。そのとき「すべて異常なし」と答え続けるだけのモデルは、高い正解率を叩き出す。しかし見つけたいものは一つも見つけていない。

そのため、当てたいものに焦点を合わせた指標が使われる。異常と判定したもののうち本当に異常だった割合を適合率、本当に異常なもののうち拾えた割合を再現率という。両者は綱引きの関係にあり、疑わしきを拾えば再現率は上がるが適合率は下がる。どちらを重んじるかは技術ではなく方針の問題である。安全に関わる場面では、見逃しを減らすために空振りを許容する、という方針の選択がありうる。

重要なのは、この選択が価値判断だという点である。見逃しの重さと空振りの重さは、機械には決められない。国土交通省の遊具の安全確保に関する指針が求めているのは、点検の体制と手順を整えることであって、判定を自動化することではない。もし判定の一部を機械に任せるとしても、しきい値をどこに置くかという最も重い決定は、人間の側に残る。

予測する値が数値である回帰の場合も事情は似ている。誤差の二乗の平均をとる指標は、大きく外した事例を重く見るため、極端な値をもつ事例に引きずられやすい。誤差の絶対値の平均をとる指標は、その影響を抑えるが、大外しを軽く扱う。磐田市の公園のように、最大が221,722㎡、最小が17㎡という四桁の開きをもつデータでは、どちらの物差しを選ぶかで結論が変わりうる。指標の選択は、分析の後ではなく前に、理由とともに決めておく必要がある。

さらに、評価指標が目標に転じたときの副作用に注意がいる。キャンベルが指摘したように、ある数値が意思決定に使われるほど、その数値を上げること自体が目的化し、測ろうとしていた事柄から離れていく。公園でいえば、予測モデルの成績を上げるために測りやすい項目ばかりを増やし、測りにくいが大切な性質——たとえば居心地や安心感——が議論の外に押し出される、という形で現れうる。

6. 公園分野で想定される四つの応用

ここまでの概念を踏まえて、公園の分野で語られやすい四つの応用を個別に検討する。いずれも技術的には不可能ではない。問われるのは、必要なデータが実際に存在するか、他の手段と比べて割に合うか、そして誤ったときに誰が困るかである。この三つを順に確かめると、応用ごとに評価がはっきり分かれる。

6.1 利用者数の予測

最も期待されやすいのが、いつどの公園にどれだけ人が来るかの予測である。しかしこの応用には、入口の時点で決定的な障害がある。学ぶための正解、すなわち過去の利用者数の記録が、多くの市町村には存在しない。公園には受付も改札もない。記録がなければ教師あり学習は成立しない。予測の前に、まず数える仕組みが要る。

数える手段を新たに設けるという選択肢はある。ただしそこには、公園という場所の性格に関わる問題が伴う。人の出入りを継続的に記録することは、子どもや保護者の行動を継続的に記録することでもある。個人情報保護法の枠組みにとどまるかどうかという法的な論点に加えて、公園が誰でもふらりと立ち寄れる場所であるという性格を損ないかねない。計測の必要と、見られていない自由との間には緊張がある。

6.2 写真からの遊具分類

画像から遊具の種類を判定する、あるいは塗装の剥がれや腐食の兆候を拾い出すという応用は、機械学習が最も得意とする分野に属する。実際、大量の画像を人手で分類する作業を軽くする道具としては筋がよい。ただし、正解ラベルを人手で付ける費用は残るし、判定はあくまで下ごしらえであって、遊具の安全性の判断そのものではない。指針が求める点検の体制を、画像判定が置き換えることはない。

撮影それ自体にも配慮がいる。公園の写真には遊んでいる子どもが写り込みやすく、学習データとして蓄積することは、その姿を蓄積することを意味する。当サイトが今後の踏査で写真を集める場合も、写り込みへの配慮は前提となる。技術の側の条件が整っていることと、集めてよいこととは別の問題である。

6.3 要望テキストの分類

市民から寄せられる意見や要望の文章を、内容ごとに自動で仕分けるという応用も現実的である。件数が多ければ、担当課の事務を確実に軽くする。ただし、ここで学ばれるのは「寄せられた声」の分布であって、「地域の必要」の分布ではない。声を上げる余裕のある人、書き方を知っている人、窓口の存在を知っている人に、データは偏る。仕分けの精度が上がっても、この偏りは補正されない。

加えて、寄せられた文章を仕分けることと、その内容を理解することは別である。仕分けは表現の似た文章を同じ箱に入れる操作であり、なぜそう書かれたのかという背景は箱の外に落ちる。同じ「遊具を増やしてほしい」という一文でも、近くに他の公園がないという事情から出た言葉と、既存の遊具が対象年齢に合わないという事情から出た言葉では、必要な対応が違う。仕分けの後に読む人が要る、という点は変わらない。

6.4 改修・点検の優先度づけ

四つのうち最も危ういのが、限られた予算をどの公園に配分するかを機械に順序づけさせる応用である。危うさは三重である。第一に、優先度の正解データが存在しない。過去の配分実績を正解として学べば、モデルは過去の配分の癖をそのまま将来へ延長する。第二に、順位という出力は、その根拠を問われる。第三に、順位づけの結果は住民の生活に直接影響し、しかも影響を受ける側が異議を申し立てる手がかりを持ちにくい。

応用必要な学習データ代わりになる手段主な危うさ
利用者数の予測過去の利用者数の記録時間帯別の目視観察・聞き取り記録が存在しない・計測が監視に近づく
写真からの遊具分類分類済みの大量の画像現地での確認と台帳整備写り込みへの配慮・安全判断の代替にならない
要望テキストの分類分類済みの意見文担当者による読み込みと集約声を上げた人だけの分布を学ぶ
改修の優先度づけ優先度の正解データ基準の明文化と公開過去の配分の癖を将来へ延長する
画像要望文優先度危うさ
図6四つの応用のうち、機械学習が向くのは画像や文章の下ごしらえまでである。配分の順位づけは、正解データがなく影響も大きい。

費用と持続性の観点も欠かせない。モデルは作って終わりではない。データの取り方が変われば、モデルの前提は静かに崩れる。遊具が更新され、写真の機材が変わり、要望の受付経路が窓口から電子申請へ移れば、以前のデータで学んだモデルの当たりは落ちる。これを性能の劣化という。劣化を検知して作り直す体制がないまま導入すれば、数年後には、誰も中身を知らない仕組みが判断に関与し続けることになる。

この四つを並べると、一つの傾向が見える。機械学習が向くのは、事例が大量にあり、正解が比較的はっきりしていて、誤っても人間が後から取り返せる仕事である。逆に、事例が少なく、正解が価値判断を含み、誤りが人の生活に直接及ぶ仕事には向かない。公園の分野でいえば、前者は画像や文章の下ごしらえであり、後者は配分と安全の判断である。この線引きを最初に引いておくことが、導入の議論を実りあるものにする。

7. 偏りの再生産と説明可能性

機械学習をめぐる批判のうち、行政の場で最も重く受け止めるべきなのは、データの偏りが判断の偏りとして再生産されるという指摘である。オニール(2016)は、採用・与信・治安といった領域で用いられる予測の仕組みが、既にある不利をむしろ固定してしまう構造を論じた。仕組みは公平を装いながら、過去の不利を将来の不利へと運ぶ。公園という穏やかな対象でも、この構造は同じ形で成り立ちうる。

7.1 偏りが回って戻ってくる経路

経路は循環している。まず、既に整備の進んだ地区では、利用も、記録も、要望も多く集まる。その記録で学んだモデルは、そこに需要があると判定する。判定にもとづいて資源が配分され、整備がさらに進む。整備が進めば利用と記録がさらに増える。こうして最初の偏りが、客観的な予測という装いをまとって強化される。悪意はどこにも要らない。手続きが正しく回るほど、偏りは滑らかに再生産される。

磐田市のデータにも、学習の材料としての偏りは明瞭に現れる。当サイトが用いる地区区分でいえば、豊田は28園、見付は21園、中泉は14園、御厨と竜洋がそれぞれ13園である一方、南部と向陽はそれぞれ2園、豊岡は3園、福田は4園である。この差は、市街地の広がりや開発の歴史を反映したものだが、機械にとっては単に「事例の多い地区」と「事例の少ない地区」の差として現れる。

事例が二つしかない地区について、モデルが意味のあることを言える見込みはない。それにもかかわらず、モデルは何かを出力する。出力は数値であり、数値は自信ありげに見える。事例の少なさが出力の不確かさとして表示されない限り、読み手はその数値を他の地区の数値と同じ重さで受け取ってしまう。少数の側の状況が、丁寧に扱われないまま処理されることになる。

事例の偏り地区差再生産
図7記録の多い地区ほど需要ありと判定され、資源が配分され、記録がさらに増える。偏りは客観的な予測の装いをまとって回り続ける。

この不確かさの表示は、技術的には難しくない。地区ごとの事例数を併記する、推定の幅を示す、事例が一定数に満たない区分については出力を控える——いずれも実装可能な配慮である。にもかかわらず省かれやすいのは、そうした表示が結果を歯切れの悪いものにするからである。歯切れのよさは、意思決定の場で好まれる。だからこそ、歯切れのよさが不確かさを覆い隠していないかを、受け取る側が問う必要がある。

7.2 説明できない判断の問題

第二の論点が説明可能性である。複雑なモデルの出力は、どの入力がどう効いてその結論に至ったのかを、人間の言葉で追いにくい。これをブラックボックス問題という。近年は寄与の大きい特徴量を推定して示す技法も広く使われるが、それらはあくまで説明の近似であり、モデルが本当にそう「考えた」ことの証明ではない。近似を説明と取り違えると、説明した気になるという最も厄介な状態が生じる。

行政の判断において、この点は制度の要請に触れる。行政手続法は、申請の拒否や不利益処分にあたって理由を示すことを求めている。理由の提示は、判断の筋道を相手が検証し、争う手がかりを得るための仕組みである。仮に配分や判定の実質をモデルが担い、担当者がその出力を説明できないなら、形式上は理由が書かれていても、検証も反論もできない理由が並ぶことになる。

この問題への現実的な対処は、技術の側で完全な説明を作ろうとするより、モデルを置く位置を変えることにある。すなわち、判断そのものを担わせるのではなく、人間が確かめるべき候補を絞る下ごしらえに限定する。最終的な判断は、人間が明文化された基準に照らして行い、その基準を公開する。基準が公開されていれば、住民は基準に対して意見を述べることができる。これは技術の制約というより、公共の意思決定の作法である。

第三の論点として、公園という場に固有の事情も加えておきたい。公園の利用者には子どもが多く含まれる。行動の記録が個人にたどり着かない形であっても、特定の時間に特定の場所へ子どもが集まるという情報は、それ自体が慎重な扱いを要する。個人情報保護法が定める個人情報にあたるかどうかという線引きの手前に、集めない・残さないという選択の余地がある。技術的に可能であることと、公共の場でそれを行うことの妥当性とは、別々に検討されなければならない。

これらの論点は、外部から点検できる仕組みがあってはじめて実効性をもつ。どのデータで学ばせ、どのように検証し、どの範囲に用いているのかが公表されていなければ、住民も議会も、偏りの有無を確かめようがない。官民データ活用推進基本法が掲げるデータ活用の推進は、公開と検証を伴ってはじめて公共的な意味をもつ。公開されない仕組みは、たとえ正確であっても、公共の判断の道具にはなりにくい。

ジェイコブズ(1961)が半世紀以上前に警告したのは、統計と図面の上でだけ都市を扱う専門家が、街路で実際に起きていることを見落とすという構図であった。機械学習は、その構図をさらに一段抽象化する。データに現れるものだけが存在し、現れないものは存在しないことになる。この危険を避ける方法は、技術の内部にはない。データの外側に出て、その場所を見ることでしか埋められない。

8. 相関と因果——予測は介入の根拠になるか

機械学習の出力を政策に用いるとき、最も頻繁に踏まれる地雷が、相関と因果の混同である。予測モデルが学ぶのは、入力と出力が一緒に動く傾向、すなわち相関である。相関は、何かを当てるためには十分に役立つ。しかし、何かを変えるための根拠にはならない。当てることと変えることは、論理の水準がまったく違う。

分かりやすい例で考えたい。仮に、遊具の種類が多い公園ほど利用が多いという関係がデータに見えたとする。ここから「遊具を増やせば利用が増える」と結論するのは早計である。利用の多い地区だから遊具が充実したのかもしれないし、住宅の密度という共通の原因が両方を押し上げているのかもしれない。二つの事柄を同時に動かす第三の要因を交絡という。交絡があるとき、相関の向きは因果の向きを教えない。

8.1 因果のはしご

パール(2018)は、この区別を三段のはしごとして整理した。第一段は関連であり、観察された事柄が一緒に動くかを問う。第二段は介入であり、こちらから手を加えたら何が起きるかを問う。第三段は反実仮想であり、もしあのとき別の選択をしていたらどうなっていたかを問う。予測モデルが扱うのは第一段だけである。政策の議論は、たいてい第二段か第三段を必要としている。

第二段以上に上がるには、データだけでは足りない。何が何に影響するかという前提——因果の構造についての人間の仮定——を明示し、その仮定のもとで計算する必要がある。あるいは、比較できる対象を用意して、手を加えた場合と加えなかった場合を比べる設計が要る。いずれにせよ、必要なのは大量のデータではなく、比較の設計である。設計のない大量データは、大量の相関を生むだけである。

関連介入もしも
図8予測モデルが扱うのは「一緒に動くか」の段までである。「手を加えたらどうなるか」を問うには、比較の設計と因果についての仮定が要る。

8.2 観察データに潜む選択の効果

公園データはすべて観察データである。誰かが実験のために条件を割り付けたのではなく、これまでの経緯の結果として今の状態がある。ここで働くのが選択の効果である。改修された公園は、改修が必要だと判断された公園である。つまり、改修という処置を受けた群は、もともと状態の悪かった群でありうる。両者を単純に比べれば、改修は効果がないどころか逆効果に見えることさえある。

統計学の古典的な逆説として知られるシンプソンのパラドックスも、同じ根から生じる。全体で見たときの傾向と、群ごとに分けて見たときの傾向が逆転する現象である。公園でいえば、市全体では設備の充実と利用が正の関係に見えても、地区ごとに分けると関係が消えたり反転したりすることがありうる。どの単位で集計するかによって結論が変わるのだから、単位の選び方は分析の前提として明示されなければならない。

予測が現実を作り変えてしまうという事情もある。ある公園の利用が伸びると予測され、その予測にもとづいて設備が整えられれば、実際に利用は伸びる。予測は的中したように見えるが、的中させたのは予測にもとづく行動である。これを自己成就という。逆に、利用が伸びないと予測された公園は手当てを受けず、利用はさらに細る。この場合も予測は当たる。当たったことが、予測の正しさの証拠にならない場面があるのである。

では、観察データしかない状況で因果に近づく道はあるのか。実務的には、制度や事情の変化を利用した比較が手がかりになる。ある年に改修が行われた公園と、条件が似ていて改修が行われなかった公園を、改修の前後で同じ物差しで比べる。あるいは、整備の順序が予算の都合で決まった場合には、その順序を偶然に近いものとみなして比較する。いずれも完全ではないが、比較の相手を明示する点で、単なる相関の提示より一歩進んでいる。

ハフ(1954)が半世紀以上前に列挙した数字の使い方の落とし穴は、機械学習の時代にも古びていない。むしろ、計算が複雑になり、途中経過を人間が追えなくなった分だけ、落とし穴は見えにくくなっている。相関から因果へ飛び越えるとき、その飛躍は数式の中ではなく、結果を読む人間の頭の中で起こる。技術が高度になっても、飛躍を止めるのは読み手の側の規律である。

したがって、公園について何かを変えようとするなら、必要なのは予測の精度を上げることではない。何を変えたら何が起きると考えているのか、その因果の見取り図を言葉で書き、比べるべき対象を決め、変える前と後で同じ物差しを当てる。この地味な設計こそが、政策を検証可能にする。予測はその設計の代わりにはならず、せいぜい、どこを見に行くかの目星をつける道具にとどまる。

9. 磐田市の公園への示唆——100園という標本で何ができるか

ここまでの整理を、当サイトが扱う磐田市の公園データに具体的に当てはめる。収録は100園で、内訳は磐田市オープンデータ「都市公園一覧」の94行と、市の施設ガイドのみに掲載されている6園である。種別は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、法の対象外とされるもの6園、地区公園4園、総合公園・運動公園・風致公園がそれぞれ3園、広場公園と緑道がそれぞれ2園、墓園と歴史公園がそれぞれ1園という構成になっている。

オープンデータ94行の中でのフラグ集計では、トイレ有が69園、車いす対応トイレ有が34園、砂場有が43園、遊具有が64園である。駐車場は、市の施設ガイドの記載などから当サイトが有と判定したものが33園ある。面積は、最大の竜洋海洋公園が221,722㎡、最小の二之宮東第2緑地が17㎡で、四桁の開きがある。管理は磐田市都市整備課が担っている。

9.1 なぜこの規模では機械学習が不要か

この数字の並びを見れば、第4節で述べた条件がそのまま当てはまることが分かる。事例は100、項目は十数個。しかも種別の内訳を見れば、総合公園は3園、歴史公園と墓園は1園ずつであり、種別を説明変数に含めた瞬間に、ほとんどの区分が数例しか持たないことになる。この状態で学習を行えば、モデルが取り出すのは一般的な傾向ではなく、その数例に固有の偶然である。

そしてより本質的なのは、100件というのが人間に扱える量だという事実である。一覧表にすれば数ページ、地図に落とせば一枚に収まる。並べ替え、絞り込み、地区ごとに数える——こうした操作で、データが語れることはほぼ言い尽くせる。機械学習が価値をもつのは、人間が全件を見渡せない量のデータを相手にするときである。全件を見渡せるなら、見渡したほうが速く、正確で、しかも説明できる。

  • 種別・地区・面積で並べ替え、絞り込んで一覧する
  • 地区ごとの園数と設備の有無を単純に数え上げる
  • 面積の分布を中央値と分位で見て、平均に引きずられない
  • 地図に落として、空白地帯と重複地帯を目で確かめる
  • 記載の欠けている項目を、欠けたまま欠測として明示する
一覧地図目で見る
図9100園は人間が全件を見渡せる量である。並べ替え・数え上げ・地図化で語れることを尽くすほうが、速く正確で、しかも説明できる。

むしろ、この規模だからこそ価値をもつ作業がある。例外を見つけることである。面積が17㎡の緑地と221,722㎡の総合公園を同じ表の中に並べ、なぜこれらが同じ「公園」という語で括られているのかを問う。トイレの記載がある園とない園、遊具の記載がある園とない園を突き合わせ、記載の粗密そのものを観察する。平均や予測は例外をならしてしまうが、例外は制度や運用の継ぎ目を示す標識になる。

9.2 正解データが存在しないという事実

もう一つ、決定的な事情がある。当サイトの現地踏査は始まったばかりで、踏査済とした園はまだない。したがって、園内の実際の状態や、子ども連れにとっての使いやすさについて、当サイトが確かめた事実はまだ一つもない。教師あり学習に必要な正解ラベルが存在しない、というのはこういう状態を指す。学習の前に、まず教師が要る。教師を作る作業が、今後の踏査である。

この順序を逆にしないことが重要である。データが足りないから機械学習で補う、という発想は魅力的に聞こえるが、実際には成り立たない。機械学習は情報を増幅する装置ではなく、既にあるデータの中の規則性を取り出す装置だからである。存在しない情報は、どんな計算を通しても現れない。現れたように見えるなら、それはモデルが埋めた推測であって、確かめられた事実ではない。

近隣の市町村のデータと束ねれば事例数を増やせる、という発想はありうる。しかし、市町村ごとに項目の定義も記載の粒度も異なるため、単純に積み上げれば、定義の違いを規則と取り違えることになる。ある市が広場と記す施設を別の市が緑地と記していれば、束ねた表の上では両者の差が実体のある差に見えてしまう。数を増やす前に、揃えるべき定義を揃える作業が要る。この作業は地味だが、機械学習より先に来る。

当サイトが今できることは、はっきりしている。オープンデータと市の施設ガイドの記載を、出典を明示したまま整理して見やすく提示すること。記載がない項目については、ないと書くこと。そして踏査を進め、確かめたことを確かめた範囲で記録していくこと。当サイトを運営するのは不動産・介護の事業を行う地域の企業であるが、公園のデータについては、市の公表資料に依拠する範囲を明示する姿勢を保つ。

将来、踏査が全園に及び、季節や時間帯を変えた記録が何年か積み上がり、写真が体系的に集まったとき、機械学習が役に立つ場面は出てくるだろう。たとえば写真の整理や、記述文の分類といった下ごしらえである。その段になっても、本稿が述べた原則——分割の作法、欠測の扱い、偏りの点検、判断を人間に残すこと——は変わらない。むしろデータが増えたときこそ、原則は効いてくる。

10. 結論と今後の課題

本稿は、公園データに機械学習は使えるかという問いを立て、機械学習の基本概念を整理したうえで、公園という対象への適用可能性を検討してきた。得られた結論は三つに集約できる。第一に、市町村の公園という対象は、少なくとも現時点では機械学習が力を発揮する条件を満たしていない。第二に、データの偏りは予測を通じて政策判断の偏りとして再生産される。第三に、予測は相関の要約であり、介入の根拠にはならない。

第一の点について補足する。機械学習が向くのは、事例が桁違いに多く、正解が比較的はっきりしており、誤っても取り返しがつく仕事である。磐田市の収録は100園、項目は十数個であり、しかも当サイトの踏査はこれからで正解ラベルが存在しない。この条件では、複雑なモデルは規則ではなく偶然の模様を覚える。技術を使わないという判断は、ここでは怠慢ではなく、条件に照らした妥当な判断である。

10.1 使わないという判断を支える三つの問い

実務の場面で導入の可否を判断するとき、次の三つを順に問えばよい。第一に、学ぶための正解データは実際に存在するか。存在しないなら、まずそれを作る作業が先である。第二に、同じ目的を単純な集計や地図で達成できないか。達成できるなら、そちらのほうが速く、安く、説明できる。第三に、誤ったときに困るのは誰か。困るのが住民であり、当人が異議を述べる手がかりを持ちにくいなら、判断を機械に委ねるべきではない。

正解はあるか単純で足りるか誰が困るか
図10導入の可否は三つの問いで大半が判断できる。正解データの有無、単純な手段で足りるか、誤ったときに困るのは誰かである。

この三つの問いは、機械学習を敵視するためのものではない。むしろ、条件が整った場面で自信をもって使うための手順である。条件を言葉にできていれば、条件が変わったときに判断を改められる。逆に、雰囲気で導入し、雰囲気で見送るなら、どちらの場合も理由が残らず、次に活かせない。

第二と第三の結論についても、実務への含意は具体的である。偏りの再生産を防ぐには、モデルの中身をいじるより先に、事例の少ない対象がどう扱われているかを目で確かめる工程を残しておくのが確実である。相関と因果の混同を防ぐには、予測の出力を結論としてではなく、現地を見に行く順番の目安として扱えばよい。いずれも技術的な処方ではなく、手順の設計である。

10.2 今後の課題

今後の課題は三つある。第一に、当サイトにとっての課題として、踏査によって記録項目そのものを増やすことである。木陰の有無、見通し、道路との関係、休める場所の有無といった、現在のオープンデータには現れない性質を、確かめられた範囲で記録していく。データ分析の質を決めるのは分析手法ではなく、記録の設計である。

第二に、公園に関する測りにくい価値をどう扱うかという理論的な課題である。居心地のよさ、顔見知りができること、季節の移ろいを感じられること——これらは指標化しにくく、指標化しにくいものは意思決定の場で軽んじられやすい。測れないものを測れるようにする努力と、測れないままでも大切だと言い続ける態度は、両方とも必要である。どちらか一方に寄れば、公園の議論は貧しくなる。

第三に、行政が予測の仕組みを用いる場合の制度的な課題である。どの範囲で用いたのか、どのデータで学ばせたのか、どのように検証したのかを公表し、住民が問える形にしておくこと。判断の実質を機械が担っているのに理由の提示だけが形式的に整う、という事態を避けることである。これは技術の問題ではなく、公共の意思決定をどう組み立てるかという問題である。

教育的な含意も添えておきたい。公園は、身近で、規模が小さく、誰でも見に行ける題材である。データを開いて眺め、地図に落とし、記載の欠けに気づき、確かめに行く——この一連の作業は、データを扱う姿勢を学ぶ入口として、抽象的な演習用データよりはるかに優れている。機械学習を学ぶ学生にとっても、まず学ぶべきは手法ではなく、データがどう作られたかを問う習慣であろう。その習慣は、身近な題材でこそ身につく。

最後に、本稿の限界を述べる。本稿は機械学習の計算を実行しておらず、概念の整理と適用可能性の検討にとどまる。したがって、実際に磐田市のデータで何らかのモデルを組んだらどうなるかについて、本稿は何も報告していない。また、扱ったのは公園という限られた対象であり、他の行政分野には別の条件が当てはまる。本稿が提供できるのは、技術を使うかどうかを自分の言葉で考えるための足場までである。その足場の上でどう判断するかは、データではなく、そこに暮らす人びとの側にある。

参考文献

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  5. アーサー・L・サミュエル(1959)「Some Studies in Machine Learning Using the Game of Checkers」IBM Journal of Research and Development, 3(3)
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  11. トレヴァー・ヘイスティ、ロバート・ティブシラニ、ジェローム・フリードマン(2009)『The Elements of Statistical Learning』第2版(Springer)
  12. キャシー・オニール(2016)『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』(久保尚子訳、インターシフト、2018)
  13. ジュディア・パール、ダナ・マッケンジー(2018)『因果推論の科学——「なぜ?」の問いにどう答えるか』(夏目大訳、文藝春秋、2022)
  14. ダレル・ハフ(1954)『統計でウソをつく法』(高木秀玄訳、講談社ブルーバックス、1968)
  15. ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
  16. 官民データ活用推進基本法(平成28年法律第103号)
  17. 行政手続法(平成5年法律第88号)第8条・第14条(処分の理由の提示)
  18. 個人情報保護法(平成15年法律第57号)
  19. 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令(昭和31年政令第290号)(国土交通省 都市公園のページ)
  20. 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
  21. 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
  22. 磐田市 施設ガイド(公園)

本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。

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