社会科学ケア労働論
公園にいる時間は休みか労働か——見えないケア労働と公共空間
要旨
公園で子どもを見守っている時間は、生活時間の記録の上ではしばしば余暇に分類される。しかし当事者の実感としては、その時間は必ずしも休息ではない。本稿は、この落差を出発点として、公園での見守りを労働として記述し直すことを試みる。方法は文献整理と概念分析であり、実測調査は含まない。用いる概念は、ホックシールドの感情労働、ダラ・コスタらに始まる再生産労働論、そしてケアの倫理と無償労働の可視化をめぐる議論である。
議論は三つの層で進む。第一に、見守りを注意の持続という仕事として記述する。中断できない注意、いつでも動ける姿勢の維持、危険の先読みという三つの成分に分解し、それらが同時進行するために休息が成立しにくい構造を示す。第二に、公園での見守りに含まれる感情の管理を検討する。子どもの感情を鎮める仕事、自分の苛立ちを表に出さない仕事、他の保護者や近隣との関係を保つ仕事の三つを区別し、これらが感情労働の概念でよく捉えられることを論じる。第三に、この労働の重さが環境条件によって大きく変わることを、ベンチ、日陰、見通し、トイレまでの距離、地面の材質という要素に即して分析する。
本稿の主張は、公園でのケアの負担は担い手の心構えの問題ではなく、空間の設計と設備の配置によって増減する構造的な量である、という点にある。ベンチが一つあるかどうか、日陰が正午にどこへ落ちるか、遊具からトイレまで何歩あるかが、同じ一時間の重さを変える。ケアの担い手の偏りには触れるが、それを特定の性別の責任として論じることはしない。磐田市については、街区公園51園を中心とする100園の構成、トイレ有69園・車いす対応トイレ有34園・駐車場33園という分布を、ケアの負担という軸から読み直し、今後の踏査で記録すべき項目を提案する。
キーワードケア労働感情労働再生産労働無償労働の可視化見守りベンチと日陰街区公園
1. はじめに——問題の所在
生活時間の記録をつけると、公園にいた一時間はたいてい余暇の欄に入る。買い物や洗濯や送迎とは違って、公園は遊びの場所であり、そこにいることは家事の一種として数えられにくいからである。ところが、その一時間を過ごした当人に「休めたか」と尋ねると、答えは分かれる。ベンチに腰かけて子どもの声を聞いていた時間を休息だったと言う人もいれば、砂場と滑り台のあいだを往復し、水筒とおむつの入った荷物を抱えたまま立ち続け、帰り道の抵抗にどう応じるかを考えていた時間を、およそ休みとは呼べないと言う人もいる。
本稿は、この落差を出発点とする。問いは単純である。公園にいる時間は休みなのか労働なのか。そしてもしそれが労働であるなら、その労働は何によって重くなり、何によって軽くなるのか。前半の問いはケア労働論の古典的な論点に接続し、後半の問いは公園という空間の設計と設備の配置に接続する。本稿の狙いは、この二つを一本の線でつなぐことにある。
1.1 なぜ「休みか労働か」を問うのか
この問いは、言葉遊びではない。ある活動を労働と呼ぶか余暇と呼ぶかによって、その活動をめぐって何が要求できるかが変わるからである。労働と呼べば、時間の長さ、負担の配分、休憩の確保、環境の改善が議題になる。余暇と呼べば、それらはすべて個人の楽しみ方の問題に還元される。ベンチが足りないという訴えは、労働の枠組みでは作業環境の不備だが、余暇の枠組みでは好みの問題として片づけられやすい。
同じことは介護にも当てはまる。家族が高齢の親と散歩に出る時間は、外出であり気晴らしでもあるが、同時に転倒への警戒と体調の観察が続く時間でもある。育児と介護は、担い手の身体が現場に拘束され、注意を切ることができず、しかも成果が数字に残らないという点で構造がよく似ている。近年ではこの二つが同じ時期に重なる状況を指して、ダブルケアという語で論じられることも増えた。公園という場所は、その両方が現れる数少ない公共空間である。
1.2 方法と限界
方法は文献整理と概念分析である。感情労働・再生産労働・ケアの倫理という三つの系譜から概念を借り、それを公園という場面に当てて記述の解像度を上げる。実測調査は行っていない。したがって本稿は、公園での見守りに何時間費やされているか、担い手の構成がどうなっているかといった量的な問いには答えない。具体的な比率や件数を挙げることはせず、構造として論じる。
限界はもう一つある。当サイト(ATAWI PARK)は磐田市の公園100園を収録するデータベースであるが、現地の踏査はこれから始まる段階にある。ベンチが何脚あるか、正午に日陰がどこへ落ちるか、遊具からトイレまで何歩あるかといった、本稿が重要と論じる項目は、現時点ではオープンデータにも市の施設ガイドにも記載がない。第10節では、その空白を埋めるために何を記録すべきかを提案の形で示す。
1.3 本稿の構成
第2節で概念を整理する。第3節で見守りを注意の持続という仕事として記述し、第4節でそこに含まれる感情の管理を、第5節で保護者どうしの関係を保つ労働を扱う。第6節と第7節が本稿の中心であり、ベンチ・日陰・見通し・距離・地面といった環境条件と、暑さや雨といった気象条件が、ケアの負担をどう増減させるかを分析する。第8節では逆に、公園が回復の場になりうる条件を検討する。第9節で予想される反論に応じ、第10節で磐田市への示唆を述べ、第11節で結論と課題をまとめる。
註:本稿でケアという語は、他者の生存と成長に必要な世話を、相手の状態に合わせて継続的に行う営みを指す。育児・介護・看病を含み、有償か無償かを問わない。
2. 先行研究と概念の整理
公園での見守りを労働として語るための道具は、二十世紀後半の社会科学が用意してきた。ここでは、本稿が繰り返し用いる四つの概念を、成立の順に整理する。いずれも広く知られた古典に由来するもので、専門用語としてではなく、公園の風景を見る際の目盛りとして使う。
2.1 再生産労働——人が明日も働けるようにする仕事
再生産労働とは、人間が明日も生きて働けるようにするために必要な、食事・洗濯・世話・看病・育児といった営みの総称である。マリアローザ・ダラ・コスタとセルマ・ジェームズ(1972)は、この営みが賃金の外側に置かれてきたこと自体が経済の仕組みの一部だと論じた。無償であるから価値がないのではなく、無償であることによって支払われずに済んでいる、という指摘である。上野千鶴子(1990)は日本の文脈でこの議論を受け、家父長制と資本制の接合という枠組みで無償労働の位置を論じた。
この視点を公園に持ち込むと、風景の読み方が変わる。滑り台の下に立ち続けている人は、余暇を消費しているのではなく、次の世代が育つために必要な作業をその場で行っている。シルヴィア・フェデリーチ(2004)が歴史的に跡づけたように、この作業が「自然な愛情の発露」として語られるほど、それが仕事であるという事実は見えにくくなる。
2.2 感情労働——感情そのものが仕事になるとき
アーリー・R・ホックシールド(1983)は、客室乗務員などの職務を分析し、身体や頭脳だけでなく感情そのものが職務の対象になる働き方を感情労働と名づけた。要点は二つある。第一に、その場でどう感じ、どう振る舞うべきかを定める暗黙の規則が存在する。ホックシールドはこれを感情規則と呼んだ。第二に、その規則に合わせる方法には、内心はそのままに表情や声だけを整える表層演技と、内心の感情自体を作りかえようとする深層演技がある。後者のほうが消耗が大きいとされる。
ホックシールド(1989)はさらに、賃金労働を終えて帰宅したあとに待つ家庭内の仕事をセカンド・シフト(第二の勤務)と呼んだ。公園での時間は、しばしばこの第二の勤務の一部として現れる。公園が職場ではないからといって、そこで感情規則が働いていないわけではない。むしろ公共の場であるがゆえに、規則は他人の視線を通して強く作用する。
2.3 ケアの倫理と依存——ケアは関係の中でしか成り立たない
キャロル・ギリガン(1982)は、道徳をめぐる議論が権利と正義の言葉に偏ってきたことを批判し、関係と応答責任に基づく別の語り方を示した。ジョアン・トロント(1993)はこれを政治理論に接続し、ケアを関心を向ける・引き受ける・実際に世話する・受け取られるという段階の連なりとして描いた。エヴァ・フェダー・キテイ(1999)は、依存する者を世話する者もまた支えを必要とするという二次的依存の問題を提起した。
この系譜が本稿に与える示唆は明快である。ケアの負担を論じるとき、担い手の努力や愛情の量に焦点を当てるのは筋が悪い。問うべきは、その担い手を誰が、何が支えているかである。公園でいえば、ベンチも日陰も水道もないという状態は、二次的依存を支える仕組みが欠けている状態にほかならない。上野千鶴子(2011)が整理したように、ケアは当事者・担い手・制度の三者関係の中で成立する。
2.4 無償労働の可視化——第三者基準とシャドウ・ワーク
ある活動が労働かどうかを見分ける古典的な目安に、マーガレット・リード(1934)の第三者基準がある。その活動を他人に代わってもらっても目的が達せられるなら、それは労働である、という判定法である。散歩の楽しみは代わってもらえないが、子どもの見守りは代わってもらえる。この基準に照らせば、公園での見守りは労働の側に入る。イヴァン・イリイチ(1981)はこうした無償の付随作業をシャドウ・ワークと呼び、近代社会がそれに依存しながら数えてこなかったことを指摘した。
| 概念 | 提唱の系譜 | 公園で対応する場面 |
|---|---|---|
| 再生産労働 | ダラ・コスタら(1972) | 遊具の下に立ち続け、次の世代の育ちを支える時間 |
| 感情労働 | ホックシールド(1983) | 泣く子をなだめ、自分の苛立ちを表に出さずにいる時間 |
| ケアの倫理・二次的依存 | ギリガン(1982)/キテイ(1999) | 見守る人自身が座り、休み、支えられているか |
| シャドウ・ワーク/第三者基準 | イリイチ(1981)/リード(1934) | 代わってもらえるのに統計上は余暇に入る時間 |
国際的にも、無償のケア労働をどう数え、どう配分し直すかは政策課題として扱われるようになっている。ILO(2018)の報告は、無償ケア労働の認識・削減・再配分という枠組みを提示した。統計の面では、総務省統計局の社会生活基本調査が生活時間の把握を担っているが、公園での見守りのように余暇と労働の境界に位置する時間は、分類の設計次第で見え方が変わる。
3. 見守りという仕事——注意の持続を記述する
公園での見守りを労働として扱うには、まずその中身を分解しなければならない。外から見れば、それは「立っている」か「座っている」だけの時間である。動きが少なく、成果物が残らず、途中で会話もできる。だからこそ余暇に見える。しかし内側から見れば、そこでは複数の作業が同時に進んでいる。本節では、それを注意・待機・先読みという三つの成分に分けて記述する。
3.1 中断できない注意
第一の成分は注意である。ここでいう注意とは、視線を子どもの位置に置き続け、姿が視界から消えたら数秒以内に探し当てられる状態を保つことを指す。この作業の特徴は、成果が「何も起きなかったこと」としてしか現れない点にある。うまくいった見守りは記録に残らない。だから外部からは、注意を払っていた時間と、ぼんやりしていた時間の区別がつかない。
もう一つの特徴は、中断が許されないことである。事務作業なら数分の中断は取り返せるが、見守りの中断は取り返せない。滑り台の順番待ちで押し合いが起きる瞬間、水路の柵に近づく瞬間、駐車場の車が動き出す瞬間は予告なく訪れる。したがって見守りには、休憩を挟むという発想がそもそも組み込みにくい。読書やスマートフォンの操作は注意を分割する行為だが、注意を切る行為ではない。
3.2 待機——いつでも動ける姿勢の維持
第二の成分は待機である。見守る側は、子どもの位置から数歩以内に到達できる場所に身体を置き続ける。この距離は子どもの年齢と遊具の種類によって変わる。よちよち歩きの時期であれば手の届く範囲であり、就学前であれば数メートル、学齢期であれば公園の反対側からでも足りることがある。重要なのは、この距離が本人の意思ではなく、状況によって決まることである。
待機には姿勢の問題が伴う。すぐ動ける姿勢とは、荷物を置き、両手を空け、履物を整え、腰を浮かせておける姿勢である。ベンチが遊具から遠い位置にしかない公園では、この姿勢は成立しない。座れば距離が開き、距離を詰めれば立つしかない。第6節で論じるように、ベンチの位置は座れるかどうかの問題ではなく、待機と休息が両立するかどうかの問題である。
| 成分 | 内容 | 外から見えるか | 中断できるか |
|---|---|---|---|
| 注意 | 位置を把握し続ける | 見えない | できない |
| 待機 | 数歩以内に身体を置く | 「立っている」としか見えない | できない |
| 先読み | 次に起きうる事態を想定する | まったく見えない | できない |
| 応急対応 | 転倒・衝突・トラブルへの対処 | 見える | — |
3.3 先読み——危険と摩擦の予測
第三の成分は先読みである。見守る側は、目の前の光景から数十秒先を絶えず組み立てている。あの子が滑り台の上で立ち上がったらどうなるか、砂場のシャベルの取り合いはどこで止めるべきか、あと何分で機嫌が崩れるか、帰り道の横断歩道でどちらの手を引くか。この作業は完全に不可視である。同じベンチに座っていても、先読みをしている人としていない人では、消耗がまるで違う。
国土交通省の遊具の安全確保に関する指針は、遊具そのものの構造や配置、点検の考え方を定めている。しかし指針が想定する安全は、設備側の条件を整えるものであって、利用の場面で誰かが払う注意の量までは扱わない。設備が基準を満たしていても、見通しが悪ければ先読みの負荷は上がる。設計の質は、事故の確率だけでなく、見守る側が費やす認知的な労力によっても測られてよい。
3.4 なぜ「休み」に見えるのか
疲労の質にも触れておきたい。この作業の負荷は一定ではなく、予測できない形で上下する。十分間なにも起きない時間のあとに、数秒の対応が求められる。負荷の平均値は低くても、いつ跳ね上がるか分からない状態が続くこと自体が消耗を生む。待機とはまさにこの状態の維持であり、平均的な作業量から見積もると実感との差が開く。公園にいた一時間を「何もしていない時間」として振り返れないのは、この変動を身体が記憶しているからである。
以上の三成分は、いずれも身体の大きな動きを伴わない。労働を「動いていること」で測る通念のもとでは、動きの少ない仕事は仕事に見えない。加えて、この作業には開始と終了の合図がない。職場であれば勤務時間の始まりと終わりが定められるが、公園での見守りは家を出た時点から帰宅後まで連続しており、どこからどこまでが作業かを切り出せない。可視性の低さと境界の曖昧さ——この二つが、公園の一時間を余暇の欄に押し込む力である。
4. 感情労働としての公園——感情規則と二つの演技
前節で扱った注意・待機・先読みは、認知と身体の負荷であった。本節では、それとは別の層にある負荷、すなわち感情の管理を扱う。ホックシールド(1983)の感情労働という概念は、賃金の支払われる職務を対象に作られたが、その骨格——感情規則と、それに合わせるための演技——は、公園という場面にそのまま当てはまる。
4.1 公園に流れている感情規則
感情規則とは、その場でどう感じ、どう見せるべきかを定める暗黙の決まりである。公園には少なくとも三つの規則が働いている。第一に、子どもに対しては穏やかであるべきだという規則。第二に、他の利用者の前では平静であるべきだという規則。第三に、この時間を楽しんでいるように見えるべきだという規則である。三つめが最も厄介である。というのも、公園にいることは余暇と見なされているため、疲れた顔をしていることが説明を要する事態になるからである。
これらの規則は、誰かが明文で定めたものではない。だが違反したときの反応によって、規則の存在は確認できる。声を荒らげたときに向けられる視線、抱き上げて連れ帰るときに感じる居心地の悪さ、ベンチで目を閉じているときに覚える後ろめたさ。いずれも、規則が働いている証拠である。公共の場であることが、規則の強度を上げている。
4.2 表層演技と深層演技
規則に合わせる方法は二通りある。表層演技は、内心はそのままに、表情と声だけを整えることである。苛立っていても穏やかな声を出す。深層演技は、内心の感情そのものを作り変えようとすることである。「この子は疲れているだけだ」「今日は特別に暑いのだから仕方がない」と自分に言い聞かせ、苛立ちの根を取り除こうとする。ホックシールドは、深層演技のほうが持続可能に見えて、実は自分の感情の手ざわりを鈍らせる代償を伴うと論じた。
4.3 三重の感情作業
公園での感情労働は、職務としての感情労働より構造が複雑である。客室乗務員が管理するのは主として自分の感情の表出だが、見守る側が扱うのは三つある。第一に、子どもの感情を鎮める作業。順番を待てない、帰りたくない、転んで痛い、という感情を受け止め、収める。第二に、自分の感情を抑える作業。第三に、その両方が穏やかに進行しているように外から見えるようにする作業である。
この三つ目が、公園を家庭と決定的に隔てる。家の中であれば、子どもが泣き叫ぶ場面は家族の内側で処理できる。公園では同じ場面が公開の出来事になる。だから帰り際のぐずりは、単なる感情の処理ではなく、他人の前での処理という性格を帯びる。負荷が高いのは、子どもが泣いていること自体ではなく、泣いていることを人前で扱わねばならないことである。
| 場面 | 働く感情規則 | 取られやすい方策 | 消耗の質 |
|---|---|---|---|
| 順番待ちの摩擦 | 穏やかに仲裁すべき | 表層演技(声だけ整える) | その場では軽く、蓄積する |
| 帰りたくないと泣く | 人前で声を荒らげない | 深層演技(自分に言い聞かせる) | 重く、あとを引く |
| 他の子と衝突 | 先に謝るべき | 表層演技+関係の修復 | 対人的な緊張 |
| 自分の疲労 | 楽しんで見えるべき | 疲労の隠蔽 | 回復の機会を失う |
4.4 感情労働と環境条件の接点
感情の管理は心の問題であって設計の問題ではない、という反応がありうる。しかし両者は接している。暑さの中で立ち続けていれば、感情を整える余力は削られる。座る場所がなければ、苛立ちが立ち上がるまでの時間は短くなる。逆に、日陰のベンチから遊具全体が見渡せる公園では、注意の負荷が下がる分、感情に回せる余力が残る。感情労働の量は一定ではなく、身体的な条件によって増減する変数である。
註:感情労働という語は、感情を偽ることを意味しない。その場にふさわしい感情を作り出し、維持するために払われる労力を指す。労力である以上、それは有限であり、回復を必要とする。
5. 関係を保つ労働——他の保護者・近隣・年齢の異なる利用者
公園での見守りには、子どもに向けられる作業のほかに、周囲の人々に向けられる作業がある。他の保護者との距離の取り方、近隣住民への配慮、年齢の異なる利用者との場の分け合い。これらは目的が対人関係の維持にあるという点で、前節の感情労働と重なりつつ、別の負荷を構成する。本節ではこれを関係維持の労働として独立に扱う。
5.1 見知らぬ他者との共同作業
公園の遊具は共用である。順番の決め方、砂場の道具の貸し借り、ボールの飛ぶ方向。これらは明文の規則ではなく、その場にいる人々のあいだで即席に調整される。調整の担い手は、多くの場合、子どもではなく付き添う大人である。つまり見守る側は、初対面の相手と、規則のない場面で、短時間のうちに合意を作る作業を反復している。これは職務であれば交渉と呼ばれる作業である。
この作業を難しくしているのは、相手が誰かを選べないこと、やり直しがきかないこと、そして関係が継続する可能性があることの三点である。同じ時間帯に同じ公園へ通えば、相手とは繰り返し顔を合わせる。一度の摩擦が、以後その公園を使いにくくすることもある。ジェイコブズ(1961)が街路について述べた、深入りしない付き合いを積み重ねることで信頼が育つという構図は、公園にも当てはまるが、その積み重ねには手間がかかる。
5.2 謝罪の非対称と「迷惑をかけない」規範
関係維持の労働で最も消耗が大きいのは、謝罪の場面である。子ども同士の接触では、多くの場合まず大人が謝る。どちらに非があるかが定まる前に謝るのは、関係を保つための先行投資であり、責任の認定とは別の行為である。この先行投資が繰り返されると、公園に行くこと自体が身構える対象になっていく。
背景には、公共の場で迷惑をかけてはならないという規範がある。この規範は秩序を支える一方で、声を出す・走る・散らかすという、子どもの遊びに不可分な行動を、そのつど謝罪の対象に変えてしまう。ホイジンガ(1938)が遊びを人間の文化の根に置いたのに対し、公共空間の運用は遊びを管理の対象として扱う。見守る側は、この二つの要請の板挟みに置かれる。
5.3 世代のあいだの調整——高齢の利用者・介護の同行
公園を使うのは子育て世帯だけではない。健康遊具を使う高齢の利用者、犬を連れた住民、休憩に立ち寄る通行人、ボール遊びをする学齢期の子どもが同じ場所を共有する。ここでも調整の負担は、付き添う立場の人に偏りやすい。子どもの動線が高齢の利用者の歩行と交差しないように位置取りを変える、ボールが飛ぶ方向を先回りして見る、といった作業が加わるからである。
祖父母世代が孫の付き添いをする場合、この構図はさらに複雑になる。付き添う側自身が転倒への配慮を要する場合、見守りと自己保全が同時に求められる。介護と育児が重なる状況では、公園への外出は二人分の体調管理を伴う移動になる。ベンチの高さ、手すりの有無、地面の平坦さといった条件は、このとき子どものためではなく付き添う側のために必要になる。国土交通省の都市公園の移動等円滑化整備ガイドラインが扱う園路や休憩施設の考え方は、育児の場面にも直結する。
5.4 関係維持の労働が偏る構造
ここまで述べた作業は、誰が担ってもよいはずのものである。しかし現実には、同じ世帯の中でも特定の人に集中しやすい。集中を生むのは個人の適性ではなく、時間の配置である。稼得労働の時間帯に公園に行ける人が固定されれば、その人が公園での関係の担い手になる。関係は蓄積するため、いったん担い手が決まると交代しにくい。誰と顔なじみか、どの相手にどこまで踏み込んでよいかという情報が、その人にしか蓄積されないからである。
この偏りを、特定の性別の責任として論じることは本稿の意図ではない。偏りは選好の結果ではなく、労働時間・通勤・保育の受け入れ条件・住まいと公園の距離といった諸条件の合成として生じる。育児・介護休業法をはじめとする制度の設計が変われば配置も変わりうる、という意味で、これは構造の問題である。第9節でこの点に関する反論に応じる。
6. ケアの負担を左右する環境条件——ベンチ・日陰・見通し・距離
ここまで、公園での見守りを注意・待機・先読み・感情の管理・関係の維持という五つの作業として記述してきた。本節と次節は本稿の中心にあたる。主張は次のとおりである。これらの作業の重さは、担い手の心構えや慣れによってではなく、公園の物理的な条件によって大きく変わる。座る場所があるか、日陰がどこに落ちるか、遊具全体が一望できるか、トイレまで何歩か。これらは快適さの飾りではなく、ケア労働の作業環境そのものである。
6.1 ベンチ——休息と待機を両立させる装置
ベンチの機能は「座れること」ではない。見守りの文脈におけるベンチの機能は、待機を維持したまま身体を休ませることである。この二つは本来両立しない。休むには身体を預けねばならず、待機には身体を浮かせておかねばならない。ベンチが遊具のすぐそばにあり、そこから遊具全体が見える場合にのみ、この矛盾が解ける。位置が悪ければ、ベンチは存在していても使えない設備になる。
したがって、ベンチの評価には少なくとも四つの指標が要る。遊具からの距離、遊具に対する向き、背もたれの有無、そして日射の当たり方である。背もたれのないベンチは、荷物を膝に載せたまま前傾で座ることになり、休息にならない。遊具に背を向けたベンチは、振り返り続けることになり、かえって首と注意を消耗させる。ヤン・ゲール(1971)やウィリアム・H・ホワイト(1980)が公共空間の観察から示したのは、座る場所の量ではなく質と位置が滞在を決めるという知見であった。
6.2 日陰——時間帯によって移動する資源
日陰は、ベンチと異なり位置が固定されない資源である。樹木の影は太陽の高度とともに移動し、正午前後に最も小さくなる。つまり、最も暑い時間帯に日陰は最も乏しい。屋根付きの休憩施設や東屋は影が動かないが、数が限られる。日陰の有無は、その公園に何時間いられるかを直接決める。日陰がなければ滞在は短く区切られ、短く区切られた滞在は準備と移動の割合を高め、結果として同じ遊び時間を得るための総労力を押し上げる。
重要なのは、日陰が見守る側にとって特に切実な資源だという点である。子どもは動き回るため、遊具の影や滑り台の下に自然に出入りする。見守る側は動かないため、日射を連続して受ける。同じ公園で同じ時間を過ごしても、受ける熱の総量は立場によって異なる。日陰のベンチが一つあるかどうかは、快適性の差ではなく、滞在可能時間の差である。
6.3 見通し——先読みの負荷を決める視覚条件
見通しとは、一つの位置から園内のどれだけが視野に入るかを指す。見通しがよい公園では、位置の把握は一度の視線で済む。見通しが悪い公園では、遮蔽物の裏側を確認するために移動が必要になり、注意は断続的に切り替わる。第3節で述べた先読みの負荷は、この視覚条件に強く依存する。植栽が育ちすぎた公園、遊具が分散配置された公園、高低差のある公園では、同じ子どもを見るためにより多くの労力が要る。
ただし見通しは多いほどよいわけではない。遮蔽物のまったくない広場は日射を遮らず、風も強く、落ち着いて座れる場所を欠く。ジェイコブズ(1961)が街路について論じた、人の目が自然に注がれる状態は、見通しと囲まれ感の均衡の上に成り立つ。ケアの負担という観点からは、囲まれた休息の場所から、開けた遊びの場所を見渡せる配置が最も負荷が低いと考えられる。
| 環境条件 | 負担が増える状態 | 負担が減る状態 | 影響を受ける作業 |
|---|---|---|---|
| ベンチ | 遊具から遠い/背を向く/背もたれなし | 遊具に面し、背もたれがあり、近い | 待機・休息 |
| 日陰 | 正午に影が落ちない | 屋根付き休憩施設や樹冠の影がベンチに掛かる | 滞在時間・体力 |
| 見通し | 遮蔽物が多く死角がある | 休息位置から遊具全体が見える | 注意・先読み |
| トイレまでの距離 | 遠い/園外に出る必要がある | 遊具から見える位置にある | 中断の回数 |
| 地面 | 段差が多く車輪が通らない | 平坦で舗装が連続する | 移動・付き添い |
| 水道 | なし | 手洗いと水分補給ができる | 衛生・暑さ対策 |
6.4 距離——トイレ・水道・出入口の配置
トイレまでの距離は、見守りの中断回数と直結する。トイレが遊具から見える位置にあれば、付き添いのあいだも他の子から視線を切らずに済む。園外に出る必要がある場合、その公園での滞在は事実上、トイレの間隔で区切られる。おむつ替えのできる台の有無も同様である。水道も同じ論理で読める。手洗いと水分補給がその場でできるかどうかが、荷物の量と、公園を出るまでの時間を決める。
距離を測る単位についても一言しておきたい。設計図の上での距離と、ケアの現場での距離は同じではない。付き添う側にとっての距離は、そこへ行って戻るあいだに何が起こりうるかで測られる。遊具から十歩のトイレと三十歩のトイレの違いは、二十歩の差ではなく、視線を切っていられる秒数の差である。だから距離の評価は、メートルではなく、見えなくなる時間の長さに換算して考えるほうが実態に近い。
出入口の配置は、道路への飛び出しに対する先読みの負荷を左右する。出入口が遊具のすぐ横にあり、その先が車道に直結している場合、見守る側は遊びの見守りと出入口の監視を同時に行うことになる。柵の有無、出入口の位置と数、車道との関係は、設計図の上では小さな差だが、そこで払われる注意の量には大きな差を生む。
7. 気象・地面・持ち物——負担が跳ね上がる境目
前節で扱った条件は、公園の側にあらかじめ備わっているものだった。本節では、日によって変動する条件——気温と天候、地面の状態、そして持ち物の量——を扱う。これらは平常時にはほとんど意識されないが、ある閾値を越えた瞬間にケアの負担を跳ね上げる。負担は連続的に増えるのではなく、段階的に切り替わるという点が本節の論点である。
7.1 暑さ——滞在の可否を切り替える条件
夏季の公園利用を規定する最大の条件は暑さである。環境省が示す暑さ指数(WBGT)は、気温だけでなく湿度と輻射熱を合わせた指標であり、運動や外出の可否を判断する目安として用いられている。指数が高い日には、日陰の有無が滞在時間を決めるのではなく、外出そのものの可否を決める。判断はその日の体調と環境を見て行うものであり、最終的な判断は関係機関の情報と医療機関に委ねられる。
暑さがケア労働に及ぼす影響は二重である。第一に、体力の消耗が注意と感情の管理に回せる余力を削る。第二に、暑さ対策そのものが作業を増やす。帽子をかぶらせる、水分をとらせる、遊具の表面温度を確かめる、日陰へ誘導する。これらは涼しい日には存在しない作業である。つまり暑い日には、同じ滞在時間に対して作業量が増え、同時に処理能力が下がる。
7.2 雨とその後——地面の状態が作業を生む
雨そのものより、雨のあとの地面が作業を生む。土や砂利の広場は水を含んで泥になり、ゴムチップや舗装は乾きが早い。芝生はその中間にある。地面の材質が違えば、遊んだあとの衣服の扱いも、車輪付きの移動用具が通れるかどうかも変わる。帰宅後の洗濯という、公園を出てから発生する作業まで含めて考えれば、地面の材質は見えないところで労働量を決めている。
この点は、第2節で触れた第三者基準の適用範囲を広げてくれる。公園での見守りだけを切り出せば一時間だが、準備・移動・後片づけまで含めれば、その一時間は前後に長い尾を持つ。荷物を用意する時間、着替えを持つかどうかの判断、帰宅後の処理。ケア労働の総量を測るには、公園にいた時間だけを数えても足りない。
7.3 持ち物——身体に外付けされた負荷
公園へ向かう際の持ち物は、その公園に何がないかの裏返しである。水道がなければ水筒が要る。トイレにおむつ替えの台がなければ替えの一式を持つ。日陰がなければ帽子と日除けが要る。ベンチがなければ敷物が要る。つまり持ち物の量は、公園の設備水準を各家庭が自己負担で補った量に等しい。設備の不足は消えるのではなく、個人の荷物へと転嫁される。
この転嫁には二つの含意がある。第一に、負担は世帯によって不均等に現れる。荷物を運べる手段や体力に差があるからである。第二に、転嫁された負担は統計に現れない。公園の設備台帳には「トイレなし」と記録されるだけで、その代わりに各家庭が持ち歩いた荷物の重さは記録されない。フォルブル(2001)が見えない部分の経済と呼んだ領域が、ここにも顔を出す。
| 公園に無いもの | 代わりに個人が負担するもの | 生じる作業 |
|---|---|---|
| 水道 | 水筒・手拭き | 持参・補充・帰宅後の洗浄 |
| 日陰 | 帽子・日除け・時間帯の制限 | 着用の管理・滞在時間の短縮 |
| ベンチ | 敷物 | 敷く・畳む・持ち運ぶ |
| おむつ替えの台 | 替えの一式・移動先の確保 | 荷物の増加・中断 |
| 舗装された園路 | 移動手段の変更 | 抱えて運ぶ・遠回りする |
7.4 段階として捉える
本節の三つの条件に共通するのは、閾値の存在である。暑さ指数がある水準を越えれば外出は取りやめになり、雨が上がってからの経過時間がある線を越えれば地面は使える状態になり、荷物がある重さを越えれば徒歩ではなく別の移動手段が必要になる。負担は滑らかに増えるのではなく、段階が切り替わる。設備の改善が効くのは、この切り替えの線をまたぐときである。ベンチを一脚増やすことの効果は、快適さの微増ではなく、行ける公園と行けない公園の境界を動かすことにある。
8. 公園は回復の場になりうるか——レスパイトの条件
ここまで公園での時間を労働として記述してきた。しかしそれは、公園が休息をもたらさないという主張ではない。同じ場所が労働の現場にも回復の場にもなりうる。本節では、その分岐点がどこにあるかを検討する。鍵となるのは、注意を預けられるかどうかである。
8.1 注意回復という考え方
レイチェル・カプランとスティーヴン・カプラン(1989)は、意識的に集中を維持する注意は消耗し、その回復には自然環境に見られる穏やかな刺激が寄与するという枠組みを示した。木々の揺れ、水の音、鳥の動きといった刺激は、努力せずに惹きつけられるという性質を持つ。ロジャー・S・ウルリック(1984)が示した、窓から緑が見えることと回復の関係についての知見も、同じ方向を指している。
この枠組みを本稿の議論に重ねると、ある逆説が浮かぶ。公園は本来、注意を回復させる環境の条件を備えている。ところが見守りという作業は、まさにその注意を占有する。緑の中にいながら回復が起こらないのは、環境が悪いからではなく、注意が別の用途に固定されているからである。したがって、公園を回復の場に変える条件は、緑を増やすことよりも、注意を解放する余地を作ることにある。
8.2 注意を預ける三つの経路
注意を部分的にでも手放すには、少なくとも三つの経路がある。第一は空間による経路である。柵で囲まれた区画、遊具が一望できる配置、車道と隔てられた入口。これらは、視線を外しても取り返しがつく余白を作る。第二は他者による経路である。同じ場に居合わせる別の大人と互いにゆるく見合う関係が成立すれば、注意は分散する。ジェイコブズ(1961)が街路に見た自然な監視は、ここでは負担の分散として働く。
第三は子どもの発達による経路である。年齢が上がり、危険の判断が自分でできるようになるにつれ、必要な注意の水準は下がる。ただしこの経路は時間がかかり、しかも一直線ではない。新しい遊具、初めての公園、体調の変化によって、必要な注意は簡単に元に戻る。空間と他者という前二者が制御可能な要因であるのに対し、第三の経路は待つしかない。
8.3 レスパイトとしての公園
介護の分野には、担い手が一時的に役割から離れる時間を確保する仕組みをレスパイトと呼ぶ考え方がある。育児の場面でも同じ発想は成り立つ。公園がレスパイトになりうるのは、家の中では途切れない要求が、公園では遊具と他の子どもによって部分的に引き受けられるからである。子どもの関心が遊具に向いているあいだ、見守る側は要求への応答から一時的に解放される。
この解放が実際に休息へ転化するかどうかは、前節までに挙げた条件で決まる。座る場所があり、日陰があり、そこから遊具が見えるなら、要求からの解放は休息になる。座れず、日射を受け続け、死角を確認するために歩き回るなら、要求から解放されても身体は休まらない。公園がレスパイトの場になるかどうかは、公園の意図ではなく設備の配置の問題である。
8.4 「楽しさ」と労働は両立する
労働として記述することが、その時間の価値を下げるわけではない。ホイジンガ(1938)が示したように、遊びは真剣な営みであり、真剣であることは楽しさと矛盾しない。同様に、公園での時間が労働であることは、それが喜びを含むことと矛盾しない。むしろ両立を認めるほうが記述としては正確である。楽しかったから労働ではない、という推論を退けること——それが本稿の主張の要である。
両立を認めることには、実務上の効用もある。労働としてのみ語れば、公園は負担の場となり、行かないことが合理的な選択になりかねない。喜びとしてのみ語れば、環境の不備は語れなくなる。両方を同時に述べる記述——楽しい時間であり、かつ作業環境の改善を要する時間である——が、公園を語る言葉として最も実用に堪える。ヴェブレン(1899)が有閑階級の分析で示したように、何を余暇と呼ぶかには社会的な位置づけが織り込まれている。呼び名を選び直すこと自体が、一つの実践である。
註:レスパイトは、担い手が役割から離れる時間を制度的に確保する考え方を指す。本稿では、公園がその機能を部分的に果たしうる可能性を検討しているのであって、制度上のサービスを指してはいない。
9. 反論への応答
公園での見守りを労働と呼ぶ本稿の立場には、いくつかの反論が予想される。本節ではそれらを五つに整理し、順に応じる。反論はいずれも一定の説得力を持つものであり、退けるのではなく、どこまで妥当でどこから妥当でないかを見極めることを目的とする。
9.1 「好きでやっていることを労働と呼ぶのは大げさだ」
この反論は、動機と性質を混同している。賃金労働にも好きで従事している職務は多いが、そのことは労働時間や作業環境の議論を無効にしない。第2節で見たリード(1934)の第三者基準は、まさにこの混同を避けるために作られた。動機ではなく、代替可能かどうかで判定する。楽しんでいるかどうかは、その活動が労働であるかどうかとは独立の変数である。
さらに言えば、この反論は改善の芽を摘む働きをする。好きでやっているのだから環境は問題ではない、という推論が成り立てば、ベンチも日陰もトイレも要求できなくなる。ケアの担い手が支えを必要とするというキテイ(1999)の指摘は、まさにこの推論を断ち切るために提示されたものである。
9.2 「統計では余暇に分類されている」
生活時間に関する統計では、公園で子どもと過ごす時間は活動の性格に応じて分類される。分類は集計のための約束事であって、活動の本質を定めるものではない。むしろ本稿の立場からすれば、分類の設計そのものが検討対象である。何を労働に数え、何を余暇に数えるかは、社会がどの営みに価値を認めるかの表明でもある。ILO(2018)が無償ケア労働の認識を最初の課題に置いたのは、この理由による。
9.3 「設備を整えても使い方は人それぞれだ」
この反論には認めるべき部分がある。ベンチがあっても座らない人はいるし、日陰があっても日向を選ぶ人はいる。設備は行動を決定しない。しかし設備は選択肢の集合を決める。座らないことを選べるのは、座れる場合だけである。ベンチのない公園では、立ち続ける以外の選択肢が存在しない。設計の役割は行動を強制することではなく、選択肢を用意することにある。
ゲール(1971)やホワイト(1980)が公共空間の観察から導いたのも同じ結論であった。人が滞在するかどうかは、意欲の問題ではなく、滞在を可能にする物理的条件があるかどうかで大きく変わる。使い方が人それぞれであることは、条件整備が不要であることを意味しない。
9.4 「特定の性別の問題に還元されるのではないか」
本稿は、ケアの担い手に偏りがあることを構造として述べたが、それを特定の性別の責任として論じてはいない。偏りが生じる要因は、稼得労働の時間配置、通勤の距離、保育や学校の運営時間、住まいと公園の位置関係、そして制度の設計にある。これらはいずれも個人の選択の外側にある。育児・介護休業法をはじめとする制度が変われば配置も変わりうるという事実自体が、これが構造の問題であることを示している。
また、本稿が論じてきた環境条件——ベンチ、日陰、見通し、距離——は、誰が担い手であっても等しく効く。この点で、環境条件に焦点を当てる本稿の方針には実践的な利点がある。担い手の属性をめぐる議論に立ち入らずとも、負担の総量を下げる方策を具体的に語れるからである。
9.5 「公園より保育や在宅支援のほうが重要ではないか」
優先順位の議論としては妥当である。制度的な支援の厚みが担い手の負担を左右する度合いは、公園の設備よりはるかに大きい。ただし公園には、制度が届きにくい時間帯と場面を埋める性質がある。予約も申請も不要で、思い立った時刻に使え、費用がかからない。都市公園法が定める公共施設としての性格が、この敷居の低さを支えている。制度的支援と公園の整備は代替関係ではなく、補完関係にある。
9.6 「見守りを労働と呼べば、遊びが管理される」
最後の反論は原理的なものである。ケアを労働の言葉で語ると、効率や成果という尺度が持ち込まれ、遊びと世話に固有のゆるやかさが失われる、という懸念である。この懸念は正当である。実際、ケアを時間と手順に分解して管理する試みが、当事者にとって窮屈な結果を生んだ例は少なくない。トロント(1993)がケアを段階の連なりとして描いたのは、分解して管理するためではなく、どの段階で支えが欠けているかを見るためであった。
本稿が労働という言葉を使うのも同じ理由による。目的は成果を測ることではなく、環境の不備を語れるようにすることである。ベンチがないことを不満ではなく作業環境の問題として述べるために、労働という語が要る。逆に言えば、その用途を離れて、見守りの質を数値で評価する方向にこの語を使うことは、本稿の意図するところではない。
加えて、公園の設備改善は比較的小さな投資で効果が現れる領域でもある。ベンチの位置を変える、樹木の剪定で日陰の落ち方を調整する、園路の段差をなくす。これらは新たな施設の建設に比べれば規模が小さい。財政的な制約が強い局面ほど、この種の低費用の改善は検討に値する。
10. 磐田市の公園への示唆
本節では、これまでの議論を磐田市の公園に当てる。当サイト(ATAWI PARK)が収録するのは100園であり、その内訳は磐田市のオープンデータ「都市公園一覧」94行と、市の施設ガイドにのみ掲載されている6園である。運営は不動産と介護を事業とする富士ヶ丘サービス株式会社であり、介護の現場で扱われるケアの負担という主題が、公園という対象に接続している。現地の踏査はこれからであり、以下は踏査の設計に向けた提案として述べる。
10.1 街区公園51園という構成が意味するもの
種別の内訳は、街区公園51園、近隣公園14園、都市緑地10園、法対象外その他6園、地区公園4園、総合公園3園、運動公園3園、風致公園3園、広場公園2園、緑道2園、墓園1園、歴史公園1園である。半数が街区公園であることは、ケア労働の観点から重い意味を持つ。都市公園法施行令に基づく国の標準では、街区公園は面積0.25ha、誘致距離250mを目安とする。つまり多くの利用は徒歩圏で完結する。
徒歩圏で完結することは、移動の負担が小さい一方で、その公園に何がないかを他所で補いにくいことも意味する。車で別の公園へ移動できるなら、日陰やトイレの不足は選択によって回避できる。徒歩圏の一園しか使えない場合、その一園の条件がそのまま日々のケアの条件になる。街区公園が半数を占める構成では、個々の小規模な公園の設備水準が、負担の分布を直接左右する。
10.2 設備の分布——トイレ・砂場・遊具・駐車場
オープンデータ94行の集計では、トイレ有69園、車いす対応トイレ有34園、砂場有43園、遊具有64園である。駐車場は市の施設ガイドの記載などから33園と判定されている。トイレの有無は、第6節で述べたとおり見守りの中断回数に直結し、車いす対応トイレの有無は、付き添う側に配慮を要する場合や、おむつ替えの場所として機能しうる点で、育児と介護の双方に関わる。
ここで注意すべきは、これらのフラグが「有るか無いか」しか語らないことである。トイレが有る69園のうち、そのトイレが遊具から見える位置にあるのは何園か。車いす対応トイレにおむつ替えの台があるのは何園か。データはそこまでは答えない。本稿の枠組みが示すのは、負担を左右するのは有無ではなく位置と質だという点である。踏査が埋めるべき空白はここにある。
10.3 個別の園から読める設計の考え方
市の施設ガイドの記載からは、いくつかの園の設計思想が読み取れる。今之浦公園(見付・近隣公園・13,675㎡)については、屋根付広場、複合遊具、ふわふわ遊具、噴水広場、芝生広場、3歳未満児遊具からなる遊びと賑わいのゾーンと、健康遊具、じゃぶじゃぶスポット、流れ、芝生広場からなる憩いとふれあいゾーンという二つのゾーンの記載がある。屋根付広場の存在は、日陰が固定される資源として本稿の議論に直接対応する。
安久路公園(御厨・地区公園・32,001㎡)には、インクルーシブエリアのある複合遊具、インクルーシブアイテムのあるブランコという記載がある。誰もが使える遊具の整備は、子どもの側の条件であると同時に、付き添う側の負担にも関わる。豊田香りの公園(豊田・近隣公園・10,200㎡)は、多目的トイレとカスケードの記載があり、カスケードは5月から10月までの9時から17時に稼働するとされる。稼働期間が定まっている設備は、季節による利用計画に影響する。
小規模な園にも目を向けたい。中泉グリーンパーク(中泉・街区公園・4,519㎡)は幼児用滑り台、スプリング遊具、健康遊具、多目的トイレという構成で、幼児と高齢の利用者が同じ園を使う想定が読み取れる。第5節で述べた世代間の調整という主題は、こうした園でこそ現実の課題になる。地区別の分布では豊田28園、見付21園、中泉14園、御厨13園、竜洋13園、福田4園、豊岡3園、南部2園、向陽2園となっており、地区によって選べる園の数には差がある。
10.4 踏査で記録すべき項目の提案
以上を踏まえ、今後の踏査で記録すべき項目を提案する。いずれも既存のオープンデータには含まれておらず、現地でしか確認できない。ここに挙げる項目は、快適性の評価というより、ケア労働の作業環境を記述するための最小限の目録である。
- ベンチ:脚数、遊具からのおおよその距離、遊具に面しているか、背もたれの有無
- 日陰:屋根付きの休憩施設や東屋の有無、正午前後に日陰が落ちる位置
- 見通し:主要な休息位置から園内の何割が見えるか、死角の位置
- トイレ:遊具から見えるか、おむつ替えの台があるか、洋式か
- 水道:手洗いと水分補給に使える状態か、高さは子どもが届くか
- 出入口:位置と数、車道との関係、柵の有無
- 地面:主要な動線の材質と段差、雨のあとの乾きやすさ
- 移動:車輪付きの移動用具で園路を通れるか、段差の有無
これらの項目は、いずれも短時間の観察で記録できる。写真と簡単な計測で足りるものが大半であり、季節と時刻を変えて再訪すれば、日陰の移動という時間的な条件も記述できる。管理を担う磐田市都市整備課が持つ情報と突き合わせれば、記述の精度はさらに上がる。当サイトはこれらを今後の踏査で確かめる。
11. 結論と今後の課題
本稿は、公園で子どもを見守る時間を休みと呼ぶことの含意を問い直してきた。結論は三点にまとめられる。
第一に、公園での見守りは労働として記述できる。注意の持続、いつでも動ける待機、危険と摩擦の先読み、子どもと自分の感情の管理、居合わせる他者との関係の維持。これら五つの作業が同時に進行しており、いずれも中断が難しく、成果が「何も起きなかったこと」としてしか現れない。可視性が低く境界が曖昧であることが、この時間を余暇の欄に押し込んできた。リード(1934)の第三者基準を当てれば、この時間は労働の側に位置づけられる。
第二に、その労働の重さは環境条件によって大きく変わる。ベンチが遊具に面して日陰にあるか、休息位置から園内が見渡せるか、トイレが遊具から見える距離にあるか、園路に段差がないか。これらは快適さの装飾ではなく、作業環境そのものである。設備が欠ければ、その分は各家庭の持ち物と滞在時間の制限へ転嫁される。転嫁された負担は台帳に記録されないため、公園の評価から抜け落ちやすい。
第三に、同じ公園が回復の場にもなりうる。注意を部分的に預けられる条件——囲われた区画、見渡せる配置、居合わせる他者との緩やかな関係——が整えば、要求からの一時的な解放は休息へ転化する。公園を労働の現場として記述することと、休息の場として期待することは矛盾しない。分岐点は担い手の心構えではなく、空間の条件にある。
11.1 実践的な含意
本稿の枠組みは、公園の評価軸を一つ増やすことを提案する。従来の評価は、面積、遊具の種類、トイレの有無といった設備の目録に基づいてきた。ここに、見守る側の作業環境という軸を加える。同じ遊具構成でも、ベンチの位置と日陰の落ち方が違えば、そこで払われる労力は異なる。この軸は、改修の優先順位を考える際に有用である。新設ではなく既存の園の小さな調整によって効果が出る領域だからである。
もう一つの含意は、記述の方法に関わる。公園を紹介する情報は、通常、子どもが何をして遊べるかを中心に組み立てられる。そこに、付き添う側が座れるか、日陰があるか、トイレまで何歩かという情報を並置することは、単なる利便情報の追加ではない。ケアが労働であることを情報の形で認めるという意味を持つ。
11.2 今後の課題
第一の課題は実証である。本稿は概念分析にとどまり、実測を含まない。ベンチの位置と滞在時間の関係、日陰の有無と訪問頻度の関係は、踏査と記録の蓄積によって初めて検証できる。第10節に挙げた項目を100園について記録することが、その最初の一歩になる。
第二の課題は、育児以外のケアへの拡張である。本稿は主に乳幼児と学齢期の子どもの見守りを扱ったが、高齢の家族との外出、障害のある家族との外出、複数のケアが重なる状況では、必要な条件が異なる。手すりの有無、休憩の間隔、園路の勾配、静かに過ごせる場所の確保といった条件は、本稿が扱った四条件と重なりつつ、独自の要素を含む。国土交通省の都市公園の移動等円滑化整備ガイドラインが示す考え方との照合が必要である。
第三の課題は、負担の分布を地区の単位で捉えることである。徒歩圏に選べる公園がいくつあるかは、地区によって異なる。選択肢が一つしかない地区では、その一園の条件が住民のケアの条件を規定する。地区別の園数と設備の分布を重ねれば、改善の優先度を地理的に示すことができる。統計の裏づけを伴う議論は、踏査の進展を待って改めて行いたい。
最後に、本稿の主張を一文で述べておく。公園にいる時間が休みか労働かという問いに、一般的な答えはない。答えを決めるのは、その公園にベンチがあるか、そのベンチが日陰にあるか、そこから子どもが見えるかという、きわめて具体的な条件である。ケアの負担を語ることは、抽象的な理念を語ることではなく、座る場所と影の落ち方を数えることから始まる。
参考文献
- アーリー・R・ホックシールド(1983)『管理される心——感情が商品になるとき』(石川准・室伏亜希訳、世界思想社、2000)
- アーリー・R・ホックシールド(1989)『セカンド・シフト——第二の勤務 アメリカ共働き革命のいま』(田中和子訳、朝日新聞社、1990)
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- シルヴィア・フェデリーチ(2004)『キャリバンと魔女——資本主義に抗する女たちの身体』(小田原琳・後藤あゆみ訳、以文社、2017)
- アン・オークレー(1974)『家事の社会学』(佐藤和枝・渡辺潤訳、松籟社、1980)
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- ナンシー・フォルブル(2001)『The Invisible Heart: Economics and Family Values』(The New Press)
- ジョアン・トロント(1993)『Moral Boundaries: A Political Argument for an Ethic of Care』(Routledge)
- キャロル・ギリガン(1982)『もうひとつの声——男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』(岩男寿美子監訳、川島書店、1986)
- エヴァ・フェダー・キテイ(1999)『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』(岡野八代・牟田和恵訳、白澤社、2010)
- イヴァン・イリイチ(1981)『シャドウ・ワーク——生活のあり方を問う』(玉野井芳郎・栗原彬訳、岩波書店、1982)
- ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中央公論社、1973)
- ソースティン・ヴェブレン(1899)『有閑階級の理論』(高哲男訳、ちくま学芸文庫、1998)
- レイチェル・カプラン/スティーヴン・カプラン(1989)『The Experience of Nature: A Psychological Perspective』(Cambridge University Press)
- ロジャー・S・ウルリック(1984)「View through a Window May Influence Recovery from Surgery」(Science, vol.224)
- ジェイン・ジェイコブズ(1961)『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会、2010)
- ヤン・ゲール(1971)『建物のあいだのアクティビティ』(北原理雄訳、鹿島出版会、2011)
- ウィリアム・H・ホワイト(1980)『The Social Life of Small Urban Spaces』(The Conservation Foundation)
- ILO(2018)『Care Work and Care Jobs for the Future of Decent Work』(International Labour Office)
- 都市公園法(昭和31年法律第79号)・都市公園法施行令
- 国土交通省「都市公園における遊具の安全確保に関する指針(改訂第3版)」(令和6年6月)
- 国土交通省「都市公園の移動等円滑化整備ガイドライン」(バリアフリー法に基づく都市公園移動等円滑化基準の解説)
- 環境省「熱中症予防情報サイト」(暑さ指数 WBGT)
- 育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律(育児・介護休業法、平成3年法律第76号)
- 総務省統計局「社会生活基本調査」(生活時間に関する統計)
- 内閣府男女共同参画局「男女共同参画白書」(各年版)
- 磐田市オープンデータ「都市公園一覧」(CC BY 3.0・出典:磐田市)
- 磐田市 施設ガイド(公園)
本稿は ATAWI PARK 編集部による総説的な論考であり、学会誌等の査読を経た学術論文ではありません。引用は広く知られた著作・公的資料に限り、磐田市固有の事実は当サイトのデータベースと磐田市の公開情報にもとづきます。個々の公園の設備・状態は現地でご確認ください。医療・安全に関する判断は医療機関・関係機関の指示を優先してください。